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「お」


2002年鑑賞作品

王様の漢方漢方道
2002年 104分 日本=中国 カラー
監督:ニュウ・ポ 脚本:ニュウ・ポ/江戸木純
撮影:津田豊滋 音楽:徐志芳
出演:チュウ・シュイ(朱旭)/渡辺篤史/ノーマン・リーダス/沢本忠雄/中山一朗/出川紗織/中村正志/藤田佳子/ゾン・ピン(宗平)/ハースカオワ(哈斯高娃)/ソン・ホワユー(宋華字)


2002/11/6/水 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
邦題のセンスが凄く秀逸だなあと思ったのと、そこから感じるイメージに斬新さを感じて足を運んだのだけど、どことなく肩透かしを食らった感じ。思ったよりも凡庸というか……。この現代アートの世界では有名人であるらしい監督のことをその方面に疎い私はまったく知らないのだけど、アーティストが映画を作るのは難しいのかなあ。現代アートの人なのに、凡庸さを感じてしまうっていうのは……。構成に今ひとつ引き込まれるものがなくって、見せるというより並べてるという感じかなあ。しかもどことなく教科書っぽいくだりがあるというか……農薬を批判するところとか、気持ちは判るんだけど。人をその上映時間中ひきつけておかなきゃいけない映画と、自分の表現をひたすらその中に込めるアートではやっぱり違うのかな。ビデオアートもやっている人らしいけど、短編か中篇の方があってるんじゃないんかしらん。

こっちとしては、漢方のどこかマニアック的な楽しさを見せてもらえるんじゃないかな、とそう勝手に期待しちゃったのだ。それは多分にチラシで見た印象……色とりどり、カラフルな漢方の材料がズラリ並ぶあの感じが実にコレクター気質、マニア気質をくすぐるって感じだったんだもん。でも実際は、大自然でのヒーリングムービーと言った方が正しい趣。いや、それならそれでもちろんいいんだけど。確かに万里の長城は言語に絶する圧倒的な情景だし……でも大自然でヒーリング……うーん、ありがち?しかもこの劇場、ミニシアターだからスクリーンがあんまり大きくないのだ。したがって、万里の長城の雄大さも、多分狙ったよりもインパクトを与えることは出来ないと思う。ましてビデオになったりしたら、ねえ。当たり前だけど実際の方がはるかにはるかに凄いわけで、それを映画で伝えるというのは、それこそテクニックがなけりゃなかなか難しいのだ。あ、でも同じミニシアター上映で、やっぱり万里の長城が出てきた「クレイジー・イングリッシュ」は実にその雄大さを感じたんだっけ。やっぱりこれはテクニックなのかしらね。その風景を使って何を乗せてくるか、そういうノリとか。

このご時世で会社経営が上手くいかなくなった在中国の日本人会社社長、市川が、名漢方医、李先生との出会いから一発逆転のビジネスを考え出す。心や体に病を抱えた人たちを、万里の長城の奥深く、大自然の懐に抱かれた李先生の診療所に迎え、漢方によって時間をかけてゆっくり体や心を癒す、という漢方旅行団である。試験的ともいえるこの第一回には、市川から借金の取立てを行う目的でついてきたヤクザや、やはり市川に金を貸している製紙会社社長、大山以下男女4人と、市川の秘書の女性と市川を含め計6人が参加。最初の治療は、いかにもゲテモノ料理である薬膳が並ぶ(蛇はまだしも、ウシガエルをつるんとむいた蒸し物はカンベン……)中から何を食べるかによってその人の病気を診断する、看菜(カンツァイ)という診察。ここで末期がんだという大山が健康なはずと診断してしまう李先生。果たして李先生は本当に名医なのか……?

私が(勝手に)期待していた漢方のコレクター的な楽しみは、この最初の看菜のシーンだけでほぼ終わってしまった感じ。さそりのから揚げだの、蛇の蒸し物だの、すっぽんの姿煮だの、ウサギだキジだひょうたんだと次々出てくるこの珍妙な料理の数々(ただ一つ、果物の蜜煮だけはおいしそうだった)は確かにちょっとサディスティックな楽しみを味わえるのだけれど、どうせなら料理シーンから見せてもらえばもっと面白かった?(それこそサディスティックだわね)。末期がんと告白する大山が実はそう思い込んでいただけで、それを李先生が最初から見抜いた、というしょっぱなから、ここは体ではなく心を治すところ(いいとこ痩身術か美容術、インポを治すぐらいで)というまさしく“ヒーリング・ムービー”で、判る、判るんだけど、あれれ?とちょっと肩がガクッときてしまうのは、私は一体何を期待していたのやら?うう、だってさあ、それじゃ、それこそ最近あまたある“癒し”に他ならないんだもん。つまんないー。

でもまあ、体より心を治す方が大切だっていうのは、そりゃ判る。でもここで“治される”人たちの造形は、今ひとつ切迫感に欠ける、と思っちゃうのだ。ヤクザの中村はコメディリリーフだからまあいいとして、特に性同一性障害の青年、菊地に関しては、何かまるでただの女装癖のオカマちゃんみたいな描き方で、かなり不服。だってこの問題って最近ことに深刻なのに、こんな風に偏見めいた外見から入っちゃっていいわけ?と思っちゃう。だって本当に性同一性障害に悩んでいる人が、私、女の子よ、なんて言い方したり、これみよがしなピンクの服ピラピラ着て、挑発気味にニッコリしたりするかなあ?それとどうも判んないのは、母親が女の子として育てた、という市川の説明であり、それゆえ女の子っぽく育ってしまった彼を治してくれという親たちの意向で菊地はここに来ているわけだけど、性同一性障害ってもともとの、生まれつき抱えている問題の筈じゃないの?育てられ方とか、そういう後天性のものは、根源的、本質的な部分にまでは影響しないはずだよねえ?なんかこのへんも誤解を与えそうで、っていうか、監督自身がその問題をどうとらえているのかもちょっと理解に苦しむというか……。

だって、大山社長は結局がんじゃなかったわけだし、ヤクザの中村は無事インポも治りヤクザまで治り(笑)、痩身と美容にいそしんだ美人モデル、和田さんは美しさだけではなくここで恋人(だよね?)までゲットし、ついでに市川の秘書、小泉さんは不妊治療薬をもらってのちのち双子に恵まれて、みんなバンバンザイだったのに、この菊地の結末だけがどうにも曖昧で……。まあ、彼は自分の世界を見つけたというか、一人フラフラしている間に出会った京劇のグループの練習に誘われ、次のシーンではあでやかな姿を見せるんだから、いいのかなあ。その後を解説するラストクレジットでも、そっち方面に進んだってな説明だし。でも、でもさ、自分の中の性の不一致に悩む人って、そういう問題じゃないんじゃないのかなって気がするんだけど……そこまで漢方に望むなってことなの?

しかし、この菊地がフラフラと歩いていきなり見つけるさびれた遊園地、というのが、実に不思議で。万里の長城を訪れる観光客を当て込んで作られたものの、誰も見向きせず(そりゃ、万里の長城に来て遊園地で遊びたいと思う人はいないだろうなあ……)打ち捨てられた遊園地、だそうだけど、だーれにも使われていない、しかもデザインといい何といい実にアナクロなその遊園地で一人楽しげに遊んじゃう菊地はなーんか、寂しいというか、それこそ心の闇を感じてしまう。この遊園地の情景自体が、非現実的なのよね。何でここにあるの?って感じ(実際にあるんだから、余計に奇妙な感覚を覚える)が。まさかここで彼は癒されているわけじゃないよね?そういう表現のつもりだとしたら、違うと思うけど。どうもこの監督さんの意図は判んないけどさあ。

そうそう、ヤクザの中村さんが、コメディリリーフを担っているわけだ。コワいコワい取立て屋さんなんだけど、これが李先生にインポを治され、太極拳のワザで見事に倒されちゃうと、もうアッサリ心酔しちゃっていきなり土下座で「弟子にしてください!」んで、李先生が教えた呼吸法、これを三千回やったら弟子にしてあげますよ、といったら、これまたアッサリクリアして「三千回やりましたよ!」とニッコニコして報告に来るんだからもう笑っちゃう。そして果てには漢方を学んで日本のドラッグ中毒患者たちを治す、という夢を持ち「漢方こそ男の仕事よ」(いい台詞だなー(笑))とヤクザから足を洗うことを決心する。それを聞いた市川が「漢方はヤクザも治せるんだ」とつぶやくのが実におかしいのよね。

中村が李先生に対決を挑むシーンで、李先生は弟子のノーマンと太極拳の舞を行っている。白い中国服の李先生と、黒い中国服のノーマン(役者の名前と役名がおんなじだ)。そして優雅な動き。実に画になる。このノーマンが予想外になかなか良く、いかにもな西洋系の薄く白いいでたちが、漢方のストイックな世界に不思議と溶け込み、寡黙な修道僧のような美しささえ感じるのだ。太極拳の動きとか、ツボや鍼を扱う手つきもサマになってるんだよねー。しかしこの男、美人の和田さんに最初っからあっさり(あっさりばかりね)陥落しているらしく、いきなり「あなたは美しい」なんだから何なんだよって感じ。んで彼らが帰る時、ノーマンも一緒に帰っちゃう。おいおい、李先生のもとで修行してたんじゃなかったんかよ!やはり和田さんとそういう関係になったらしいことがラストのクレジットで暗示され……まあ、いいけどさ。でもそんなに盛り上がったようには見えなかったけど。というか、ノーマンの方の気持ちは示されてたけど、和田さんは?うーん。だってさあ、やっぱり贈られた真珠は食べちゃダメよう。いっくら美容にいいからって。あんた全然判ってなかったでしょー?

な、何かさあ、いつのまにか通訳が必要なくなっちゃってるのとかも妙に気になるのよね(笑)。いや、いつのまにかっていうか、市川が「私が通訳させていただきます」とか言ってるそばからロクに通訳してないし。李先生は日本語も結構判ってるみたいだけど、ノーマンの喋る英語も判ってるの?その辺もどうも判然としないし。ま、でも李先生の人柄は言葉なんか必要ないって言いたい感じかなあ、というのは伝わるし、実際そうだとは思うけどね。大山社長が結局がんじゃなかったと李先生に報告する時……双方お互いの言いたいことが言わなくったって良く判ってて、抱き合うだけでOKだったんだもん。そう考えればうらやましいのかなあ。しかしそうした言葉を越えたコミュニケーションを描いていながら、音楽が結構バンバン割り込んでくるし、しかもこの音楽、いかにも中国ヒーリングって感じで、微妙にうっとうしさを感じるのよね。

経歴聞くとそれぞれに結構凄い人ばっかり出てて、それで映画は初出演とか、あるいは久しぶりとか多いんだけど、その割には……という感じだったのもちょっと残念だったなあ。それぞれの道で蓄積されたものを、インパクトとして監督が引き出せなかった感じがしちゃって。監督って、やっぱり難しいよ。アーティストってことは、今までは基本的に一人で表現してきたんだと思うから、ちょっと限界を感じてしまう。ま、李先生の朱旭はやっぱり素晴らしいんだけど……この人は、ホント漫画に描けちゃうぐらいに普遍的な中国のいい翁顔してて、全くもって得がたい役者よね。こういう顔やたたずまいって、作ろうと思って出来るものじゃないもの。こういう人の前では、若さなんて何の意味も持たないんじゃないかって気さえしてしまう。

大山社長、色々感激したのは判るけど、借用書破り捨てるってのはあまりにロマンチスト過ぎるんじゃないの?いくら貸してたか知らないけど……って、私の方があまりにヤボ過ぎるんだろうなあ。でもこの場面に最も象徴されることだけど、色々甘すぎるんだもん。映画の観客は、世界で最もワガママで贅沢なんだから。ホンモノしか欲しがらないんだから★★☆☆☆


狼やくざ 殺しは俺がやる
1972年 88分 日本 カラー
監督:鷹森立一 脚本:神波史男
撮影:中島芳男 音楽:津島利章
出演:千葉真一 葉山良二 真山知子 左とん平 佐藤允

2002/4/22/月 劇場(新宿昭和館)
何か、全然資料が出てこないのは、なぜかしらん……。某映画資料本には、彼、千葉真一のフィルモグラフィにすら入れられてないぞお?うーむ、確かにスタッフ陣はあまり聞いたことない人たちだけど……。ビデオとかのソフトになってないからなのかなあ。だとしたら、これは貴重モノということで、昭和館ラストランのプログラムに入れられたとか?

ところで。以前千葉真一の映画を観た時にもおんなじことを思ったような気もするんだけど、関根勤氏がやっている千葉真一のモノマネって、似てるのね(笑)。いや、ご本人はさあ、ニテネーとか、それこそが面白いみたいなご謙遜を言っていたから、似てないんだとばかり思ってたんだけど、ことこの当時、映画でアクションスターを張っていたころの千葉ちゃんのシャベリには、もう笑っちゃうぐらい、似てるの。ハアーッとは言わないけどね(笑)。ところで、千葉真一は存在感はもんのすごあるんだけど、演技力は壊滅状態だったということを、知ってしまった(笑)。以前他の作品を観た時は何で気づかなかったんだろう……あまり台詞がなかったのかしらん(なんて失礼な!)。最近はいざしらず、この当時の千葉氏ときたら、台詞はあの調子に、まるでモールス信号のごとく波長変わらず、棒読みも超越しているのは、ある意味スゴい。相手になる葉山良二や佐藤充が、実に教科書どおりにちゃんと演技をしているので、凄く目立っちゃう。あ、目立っちゃうからいいのかも。確かに、すっごい耳につくんだもん、彼の喋りって。

父親を殺され、妹をどこかに飛ばされた男(役名忘却。てっきり資料があると思って、油断してた。役名、ことごとく判らず)が、復讐の鬼と化して、どんどこ人を殺してく。えらいハデな、ゴルゴ13が持ってるような銃を持ち(あ、そういえば千葉真一ってゴルゴ13やってるんだもんねえ!)黒マントに身を包み、彼の標的とはならない人の前にはわざわざキザったらしく姿をあらわして、俺に任せろ、みたいなこと言って(笑)。最終の敵を同じくする男が、彼が自分で敵を独り占めにするのにイカって、彼の両手をつぶしにかかるんだけど、そんな手でもお手製の自動銃を作っちゃったりして、全然、ヘコたれないの。ここんとこはある意味、スゴい!って思っちゃったね。だって、両手をつぶされてて、ほとんどドラえもん状態なのに、何であんな工作銃が作れるんだよ!妙に上手く出来てたぞ、あれ……。

ナサケなく逃げ惑う敵をなぶる様に撃ち続ける。その男が、自分が彼の妹を強姦したこと、今ごろはどこかの秘密クラブにいるということを告白し、よし、そこまで言ったんなら助けてやろう、と彼は言うんだけど、その男が安心して立ち上がり、背中を向けると、今度は正確に照準を合わせて彼をズドン!ガードレールにボロ雑巾のように倒れこみ、死んでいる男と、それを見つめ「俺も最後の死に様はこんなもんだな」とつぶやく、これは彼を狙っている葉山良二(役名忘却)が画面の手前におり、千葉ちゃんは画面の奥手に、ゆっくりとその黒マントを揺らしながら去って行く。確かに画になるんだけど……何かいつまでたってもその姿が小さくならないのは、ギャグじゃないよねえ?

彼にはもうひとつなすべきことがある。それは、妹の行方を捜すこと。それまでは、彼を挙げて手柄にしようとしている手練手管の刑事たちの手にかかるわけにはいかない(この刑事達との攻防もなかなか見せてくれる。警察の悪徳さは、昔から映画では常識だったのよね)。あの男は死に際、妹は秘密クラブにいるといった。彼を愛している娼婦(だよね?)が、行かせたくはないんだけど、葉山良二から渡されたその秘密クラブの地図を彼に渡す。この女と彼とのシーンは、うーん、さすが千葉ちゃん、結構ガツガツやってくれて、その激しさにプロであるはずの女もネを上げるほど。普段、昭和館で高倉健とか観てると、こういうシーンってあんまり遭遇することがないから、おお、とか思って凝視しちゃう(笑)。しかし、この女が、彼と寝たとたん、いきなり女房気取りで、私、目玉焼きしか出来ないのお、とか言って、オーガンジー風の透けたミニスカートで台所に立ってたりするのには、カンベンしてよ、とか思いたくなっちゃうよね。あーあ。女って、こういう映画では、とことん、バカよね、って。

ついに見つけ出した妹は、女たちが扇情的に絡み合う秘密クラブで、ドラッグにやられているのか、彼を見ても兄だと判らないくらいだった。そんな彼女を連れ出す彼。どんなに呼びかけても、頬を叩いても、彼が兄だと判らず、私を抱いてよ、と言うばかりの彼女。でも、……それは芝居だったんだよね。そして、それが芝居だったことを、彼も判っていたんだよね。彼は、妹をあんな世界から引き離すことが先決、と、妹を渋谷の東急プラザの前に放り出す。フラフラの彼女は歩道橋を渡り、茫然自失の様でまだ赤信号の横断歩道に踊り出て、危うく車にはねられそうになり、救急車で運ばれる。それを見届け、彼は「俺にはこんなことしかしてやれないんだ」と悔しげに言い、彼女の方は、やっと彼の前の芝居から解放され「お兄ちゃん……」とつぶやく。彼女は、あんな世界に身を落としてしまった自分を大好きなお兄ちゃんに見られて、恥ずかしくて恥ずかしくて仕様がなかったんだろうな……。この妹、回想シーンでレイプの場面とかあって、かなり激しい。それでなくても本作は、アクションのみならず、セックスシーンも、そして女の子たちのオッパイもみんな総じてなかなかに激しい。やはり千葉ちゃんの映画ならでは?

千葉真一の資料を調べていたら、彼ってもともと東京オリンピックを目指していたんだってね!何の競技をやってたのかなあ?★★★☆☆


オーシャンズ11OCEAN’S ELEVEN
2000年 108分 アメリカ カラー
監督:スティーブン・ソダーバーグ 脚本:テッド・グリフィン
撮影:ピーター・アンドリューズ 音楽:デイビッド・ホルムズ
出演:ジョージ・クルーニー/バーニー・マック/ブラッド・ピット/エリオット・グールド/ケイシー・アフレック/スコット・カーン/エディー・ジェイミソン/シャオポー・クィン/カール・ライナー/レノックス・ルイス/ウラジミール・クリシュコ/マット・デイモン/アンディ・ガルシア/ジュリア・ロバーツ/ドン・チードル

2002/3/5/火 劇場(丸の内プラゼール)
本当言うと、ここのところアメリカ映画を観る気がどうしてもしなくって、この作品も観るのが随分と遅れてしまった。あの同時多発テロから、確かにあの事件は凄惨なものだったけれど、それに対するアメリカの対応が、どうしてもどうしてもどうしても、私には納得のいかないものだったから。そうすると私もあまりに単純なのだけど、アメリカの全てがイヤになって、アメリカ映画にも食指が動かなくなって、ついつい避けがちになってしまった。でも、ある時、どなたかが、「オーシャンズ11」がヒットしているのは、最近のドンパチ、爆発ばかりのハリウッド映画にようやく飽きた観客を満足させる内容だから、と言っているのを聞いて、これまた単純な私は観る気になった。それに「エリン・ブロコビッチ」は素晴らしかったし、「トラフィック」などを観るにつけても、スティーヴン・ソダーバーグ監督なら、理路整然とした大人のエンタメを作ってくれているんじゃないかと思ったのだ。

という予想は、嬉しいことにピタリと当たってくれた。こういう題材のハリウッド映画で、これほど、思わずひそやかに、などという言葉を使いたくなるほどに静かに、知的に展開される作品は本当に稀なのではなかろうか。もちろん詰めるところは詰め、スリルはきっちりと味あわせるものの、そのスリルというのはあくまで筋立ての上でのスリルであって、画面いっぱいの爆発シーンでイカせるようなヤボなことはしないのである。そう、私はハリウッドの爆発シーンを見るたびに、何だか性的衝動の発散の暗喩(というよりそれを無意識に表現している)のように思い、ヤボだねえ、と嘆息したくなることが往々にしてあったのだが、本作にはそれが、本当に、全く、ない。驚くほどにない。もしかしたら、不自然なほどなのではないかと思われるほどに、ない。例えばビルを破壊するシーンなどが出てくるのだけど、それはテレビの画面と、そのテレビを見ている人物のホテルの窓の外にこれまた“ひそやかに”あらわれるだけなのである。この禁欲的なまでの確信犯ぶりに、監督の深い思慮を見た気がした。

実際、こんな台詞も使われている。カジノの大金を盗む計画を立てている、その中で電気系統をぶった切る必要がある場面が出てくる。メンバーの一人が言う。「ヒロシマではなく、やる方法がある」アメリカ人がこの台詞にどういうイメージを重ねるのかわからないし、こちらが思うほど、ソダーバーグ監督、あるいは脚本家が意味に重きを置いているわけではないのかもしれないけれど、日本人の私としては、この台詞にとても重い重い意味を置きたいのである。そして爆発シーンを極力押さえ、展開で見せるといういわば当たり前の王道を思い出させてくれたソダーバーグ監督に、今聞こえてくる、ブッシュ大統領を中心とした頑ななアメリカではない、知的で洗練された、ニュートラルな強堅さを感じて、(勝手に)嬉しくなるのである。

オリジナルである、「オーシャンと11人の仲間」は未見。フランク・シナトラだの、ディーン・マーチンだのといった強力なクレジットで、現代のソダーバーグ監督が前述のような意志を感じさせるつくり方をした作品とどう違うのか、ぜひ見比べてみたいところである。オールスターキャスト、という点では、少なくとも現時点で押しも押されもせぬ豪華スターが集った。まるで仲間のような顔をして宣材写真に映っているジュリア・ロバーツは実はこの“仲間”ではない(ジョージ・クルーニー演じるオーシャンの元妻)というのにはちょっとだけカクンとしたが、そのジュリア側にいる、つまりこれまた仲間ではない、いわゆる敵方であるカジノのオーナー、アンディ・ガルシアが、何だか知らない間に若々しさゆえの色気が渋くおさまり、無表情に近いような抑えた表情の中に微妙な怒りや衝動をたたえている、という繊細な演技をしていて、それが、若い時とは違うほのかな色っぽさをたたえていて、チームの豪華なメンメンよりもずっと印象的だった。正直、タイトルロールのジョージ・クルーニーも、ジュリアと対比する男性スター側の華、ブラッド・ピットにしても、“スター”という枠、それぞれのネームバリューのキャラクターの中で存在している感じで、彼らが出ている、という以上の楽しみを感じさせるものではなかったから。ソダーバーグ監督のリードによって、リラックスして演技に楽しんでいるという感じはあったが。その点、若手のマット・デイモンなぞは、その異形の風貌と青臭さがいまだ新鮮味を失わず、緊張感のある演技が好感が持てた。

本番に入るまでに入念なテストを繰り返し、その間に(若手を育てるための、偽証の)離反があったりしてドキドキさせつつ、実際の盗みの場面でも冷静なテンションは落ちない。画面を分割したりする、どこかアメリカンクラシックなサスペンスのテレビドラマを感じさせるような趣で、それがまたシャレている。温故知新、なんて言葉があったわよね、などと思いながら、後から考えれば、随分と古典的な、つまりは特に目新しくもないどんでん返し(防犯カメラにあらかじめ作ったビデオテープを流して敵を欺く)というのにも、素直に溜飲を下げられる、と言ったら、ちょっと甘すぎるだろうか?でも、多分この映画の主眼は意外な結末とか、そういう点にあるのではなくて、やはりこうした原点に立ち返った、スマートな映画の面白さにあるのではないかと思うのだ。

作戦会議が開かれるパーティーでチームの皆が集う、その場面からかすかに聞こえているドビュッシーの「月の光」。前述したように、ハリウッド式のアクションエンタメの形式をとっていないので、ドッジャーン!というような音楽は聞こえてこない。この「月の光」はラストにオーケストラバージョンで“祭りの後”の余韻を感じさせ、作戦会議の時の、きちんとクラシックなピアノの、かすかなかすかな「月の光」に気づけると、ことさらに感慨深いものがある。オールスター映画だから、どちらの場面でもそれぞれのキャストの顔を惜しみなくアップで撮るが、こうした粋なお膳立てがあるから、そうしたアップも立派な映像表現となって、それそれのスターのファンを喜ばすだけではない、心地よい安堵感をもたらしてくれる。

再び刑務所入りとなってしまったオーシャンを迎えに行くブラッド・ピット演じるラスティーがオーシャンを待っている時に食べているのが、私にはどうしてもトラ焼き(ドラ焼きではなく)に見えたんだけど……いくらなんでも、気のせいよね!?たださあ、ちょこっと日本の描写が見え隠れしていたものだから、もしかして、なんて……。でもトラ焼きだなんて、マサカね!?

帰りのエレベーターの中でカップルの女の子の方が「何か、あんまり面白くなかったよね」と相手の男の子に言っており、男の子が絶句している風だったのが、妙に興味深かった。女の子の方は、ドッカーン式ハリウッド映画こそが映画だと思っているに違いなく、男の子の方はそうではなかったんだろうな、と。うーん、これからのワカモノに期待していいのかどうか、ビミョウなところ?このカップルがその後、どのような会話を交わし、もしかしたらケンカとかしてないかなー、などと気になって仕方ないのだが……。★★★★☆


オー・ブラザー!O BROTHER,WHERE ART THOU?
2000年 108分 アメリカ カラー
監督:ジョエル・コーエン 脚本:イーサン・コーエン/ジョエル・コーエン
撮影:ロジャー・ディーキンス 音楽:T=ボーン・バーネット
出演:ジョージ・クルーニー/ジョン・タトゥーロ/ティム・ブレイク・ネルソン/ホリー・ハンター/ジョン・グッドマン

2002/1/22/火 劇場(シネセゾン渋谷)
やたらと観るのが遅れたのは、公開のずいぶんと前から予告編をさんざん見せられてて、もう観たような気分になっちゃってたから?あれも良し悪しね。予告編はおろかろくな宣伝もなしにいきなり始まるような穴ウメ的な作品よりはいいと思うけど。ところでこれはなんでもホメロスの大叙事詩、「オデュッセイア」を1930年代のアメリカに舞台を移したとかで、し、しかし私は「オデュッセイア」、そのタイトルとユリシーズというヒーローの名前ぐらいしか知らないという……うう、情けない。ちなみにアメリカのこの時代はニューディール政策が重要なキーポイントだということだが、日本史はおろか、世界史もとんとダメだった私にとって、これまた弱い部分。情けないなんてもんではない……。まあ、いいのさ。世界中の人が全てそういうことを踏まえてみるわけじゃないんだから、と居直る私?

このユリシーズ・エヴェレットを演じるのは、泥棒ひげのジョージ・クルーニー。囚人として強制労働させられている。クラーク・ゲーブルを彷彿とさせる(というあたりはやはり意識的らしい)伊達男は、なるほどゲーブルもどこか伊達男すぎてちょいとからかいたくなるような可笑しなところがあるよなあ、なんて思う。ダッパダンというポマードを常に愛用し、他のメーカーじゃダメ、そのヘアスタイルを崩さないためにヘアネットをかぶって寝る、というあたりまで徹底していて……ちっとも伊達じゃないっつの。このエヴェレットに半ば騙されて、共に逃走してきた囚人仲間が二人。一人はエヴェレットがやたらと仕切るのがカンに触っているこちらもリーダー志望のピート(ジョン・タトゥーロ)。そしてなりゆきでついてきたような雰囲気の、おっとりとした雰囲気のデルマー(ティム・ブレイク・ネルソン)。荒原を走る貨車にかなりブザマな体で乗り損ねた彼らは、ノンビリと手動トロッコを運転している盲目の老人に頼んで乗せてもらう。その老人曰く、
「お前たちは宝物を求め、遠くて長い冒険をするだろう。数限りない障害に遭う。だが最後には宝が見つかるだろう。しかしそれはお前たちの求めた宝物とは違うのだ」

なるほど、違うはずである。これはずいぶんと後になって発覚することではあるけれど、エヴェレットが彼らに吹聴していた、もうすぐダムの底に沈んでしまう強盗して奪った120万ドルの金などあるわけない。そんな勇ましい強盗犯ではなく、ケチなニセ弁護士に扮したのがバレて詐欺罪でつかまったんであって、今回の脱獄は自分を待ち続けてくれていたはずの妻の再婚を阻止するためだったんだから。それとは知らず、彼と鎖につながれたばっかりに脱獄に付き合わされることになった二人は、山分けする金で歩む第二の人生を夢見ている。しかし珍妙な、そして恐ろしい“数限りない障害”が三人を襲う!修道者たちの美しいコーラスに惹かれて突然デルマー、そしてピートが洗礼に目覚め、神に罪を許してもらったと思い込んで油断して危うく捕まりそうになり、伝説の銀行強盗、やたらと気分に波のある“ベビーフェイス”ネルソンに行きあってムチャクチャな強盗を手伝うことになり、水浴びをする美女三人にクラリと騙されてピートは危うくカエルになり!?、人生の教訓を教えてくれるはずだった男に殴り倒されて有り金を奪われる。そのトラブルとの出会い方は、枯れ山を静々と行く修道者たちといい、風にお札を飛ばしながら砂塵を上げて車をぶっ飛ばし、ついでに警官にライフルをぶっ放すネルソンといい、天使のような歌声で三人をおびき寄せ、ミューズのごとき美しさでからみついて騙す美女三人といい、そしてクライマックスの一つでもある、トミーを救い出す悪魔の集会のごときモブ・シーンといい、奇妙さと詩的な美しさで実に不思議な味わい。まるで夢の中の出来事のようなんである。

そうそうそう、このトミーとの出会いが、三人の運命を決定づけたんだな。ヒッチハイクをしていたトミーが“悪魔に魂を売ってギターの名人にしてもらった”というのもスゴいが、そのトミーから歌うだけでカネがもらえる、と聞きつけた三人+トミーの四人はラジオ局になだれ込み、“ズブ濡れボーイズ”(洗礼したデルマーとピートをからかってエヴェレットがつけた名前だッ!)と称してレコードを吹き込む。悪魔に魂を売ったトミーの演奏も素晴らしかったが、三人の歌声、エヴェレットのリードとピート&デルマーのコーラスの素晴らしいこと!(まあ、吹き替えらしいけどね……でも吹き替えはひょっとしたらジョージ・クルーニーだけかなあ?)まんまとギャラをせしめた彼らは、その後の旅の間に自分たちの曲が大ヒットし、すっかり人気者になっていることなど思いも寄らない。

ってあたりは、思わず「バンディッツ」を思い出しちゃったよなあ。ブルース・ウィリスの出てるやつじゃなくて、ドイツ映画の方。あちらは女だったけど、やっぱり脱獄した囚人で、四人で、ラジオならぬテレビで顔を売り、海賊版のCDがバカ売れしているという展開だったもんね。ずいぶんと、似てない?偶然かなあ。んで、この知らない間に人気者になったことが全ての運命を変えて行く。やっと妻のもとにたどりついたエヴェレットは、その再婚相手に(ヨワそうな奴なのに)コテンパンにやられてしまう。そいつは革新派の知事候補の腹心。現職の保守派知事はこの選挙戦で押されぎみなんである。しかしこの革新派の知事候補は、トミーを血祭りに揚げようとした張本人。庶民派をうたう一方で、えっらい差別主義者なんである。エヴェレットの妻を連れ出す計画を立てた4人が彼女が参加しているパーティーに忍び込みカクレミノに歌いだすと、あの“ズブ濡れボーイズ”だということで、民衆は大騒ぎ!しかしそこにトミーの姿を見つけた対立候補は彼らは私たちを脅かすニグロだとがなりたて、四人を排除しようとするが、この人気者の素晴らしい歌声に酔いしれている民衆が聞き入れるはずもなく、彼はブーイングの中、強制退場!このチャンスを逃す手はないと、現職知事のパピーはステージに上がって彼らと共に歌い踊る!彼らの弱みを握って自分に協力するように、やや脅し気味にこっそり耳打ちし、それと引き換えに彼らの恩赦を約束する。運命の大逆転!ところが……。

まあ、最初っから、「早くしないとお宝がダムの底に沈んでしまう」と言っていたし、予告編でも最も印象的な場面だったので、くる、くると思っていたダムの水が流れ込んでくるシーン!せっかく恩赦を受けたハズ、が三人プラスアルファをひっ捕えることのみに情熱を注いでいるような警察官(保安官というべきかなあ)の執拗な追撃によってついに……ああ、それというのも、エヴェレットの妻が、彼の恩赦でコロッとヨリを戻したのはいいけれど(しっかし、このあたりがオンナの変わり身の早さやね(笑))、あの男が用意した結婚指輪じゃヤだと、あなたがくれたあの指輪じゃなきゃイヤッ!てなもんで、わーざわざ家まで取りにきたら、その家はどこへやら、そこには哀しき歌を口ずさみながら彼らの墓穴を掘っているご老人たちと、かのしつっこい警察官!彼らの頭上にはくくりひもが下がってきて、ああもう、絶体絶命。そこに!どどどどどーん、と流れ込んでくる激流ッ!判っちゃいたけど、あービックリ!

死にもの狂いで水面にブハッ!とばかりに頭を出したエヴェレットは、他の三人もあらめでたや、ご無事なのを発見。おまけにトミーが必死にくらいついているのは、エヴェレットの妻が指輪が入っている、と言っていたふた付きの机だ。めでたく指輪もゲットし、再三の命拾いの彼ら。しかしエヴェレットの妻は、この指輪じゃない、ってまたダダこねるんだけどね。そしてそのダダこねてる妻をなだめながら教会へと急ぐエヴェレットと、彼らの後ろからひっついて一列に並んでいる娘っ子たち。そしてその彼らが行過ぎたあとには、かなたまで続く線路にまたあのトロッコ老人がゆっくりゆっくり手こぎで進んでいく!キレイに戻って行くラストシーンによっしゃ!って感じ。

かなり手を加えたであろう、かわいた色の映像。特に、かわいた黄色が印象的にノスタルジックをかきたてる。私は良く判らないけど、古きよき時代のアメリカンミュージック、っていうんだろうなあ、ズブ濡れボーイズの歌はもちろん、街頭で芸達者な市民たちが自慢のノドとコーラス、そして楽器を聞かせる、みんな上手いこと!いい意味でのいなか臭さがホント、いいよね。

ジョージ・クルーニーは主人公だからまあおいといて?主役級は今回が初めてであろう、デルマー役のティム・ブレイク・ネルソンが、いつも食い気味のジョン・タトゥーロより良かったなあ、好み。囚人なんかになったのはきっと何かの間違いで、トロくてマヌケだけど、心優しく、ウブでさ。あー、よかよか。★★★☆☆


落穂拾いLES GLANEURS ET LA GLANEUSE
2000年 82分 フランス カラー
監督:アニエス・ヴァルダ 脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:アニエス・ヴァルダ/ディディエ・ルジュ/ステファーヌ・クロズ/バルカル・ソテレ/ディディエ・ドゥサン 音楽:ジョアンナ・ブルズドヴィチュ
出演:アニエス・ヴァルダ

2002/3/14/木 劇場(岩波ホール)
タイトルを最初に観た時には、名画からくるイメージで優雅な感じ?しかしその中身はしっかりとした社会風刺が出来ていると同時にとてもチャーミングである、という非常に個性的な映画であった。チャーミング、というのは監督のアニエス・ヴァルダ監督からかもし出される空気だろう。彼女はこのドキュメンタリーに小型のデジタルカメラを携行し、自らも積極的に撮る一方、外側に据えられたカメラにも、そして自分の持っているデジタルカメラにも嬉々として自分の姿を割り込ませる。もう御年70を越える彼女は、しわの寄った自分の手を映してその老醜ぶりを口では嘆いたりするものの、実は自分をもまた対象物として純粋に面白がっているというあたりは、生まれながらの映画作家といえる。その姿勢がドキュメンタリーというジャンルで花開く。公平な視点、などといううがった言い方よりも、面白がる、興味津々、といった彼女の姿勢、その姿がまずこちらの心を捉えるのだ。

始まりはミレーの落穂拾い。あの有名な数人の農婦達が腰をかがめて落穂を拾っている絵画と、もう一つ、一人の婦人が落穂を肩に乗せて正面を向いている絵画。そして映画の中盤、全くの偶然、映画の奇跡で、蚤の市でこの二つが融合された複製画が見つかる。そしてもう一つ、アニエスが見たくて見たくてたまらなかった「嵐の中の落穂拾い」の名画がラストに登場して見事に締めくくってくれる。美術館にしまいこまれたその名画が、若い二人の女性学芸員によって無造作に日光の下にさらされる一種の無邪気さに息をのみつつ、アニエスとともに観客もまた、その絵画にこれまでの映画の道のりを辿る。でも確かに絵はこんな風に日光の下で見られるのが幸福なのかもしれない……そもそも。

現代に落穂拾いは存在するのか?こんな視点で出発したアニエスの旅。現代のように農耕技術が発達してしまうと、刈り残しを拾う、という行為自体成り立たなくなるのも事実なのだが(機械の故障や不調でそれが生じたりする皮肉もある)、その一方で、あまりにも時代が豊かになりすぎたために、生まれる弊害……規格外の作物が大量に捨てられてしまう、という事態も招く。“あまりにも時代が豊かになりすぎた”というのは、階層を生み出した、ということも言え、昔以上に食べられない人たちがたくさんいる。そうした人たちがこの捨てられる情報を耳ざとくキャッチし、拾いに行く。捨てられているのは、形や大きさが不ぞろいなだけで、市場に出るものと何ら変わらないもの。大きすぎるのもダメだというので、びっくりするほどりっぱに育ったジャガイモなどがゴロゴロ捨てられている。それはトン規模に及ぶ。その膨大な、あまりに膨大な“ゴミとなる食べ物”に絶句する。

それを拾う人たちがいる、というこうした始まりで、現代の“拾う人”=ホームレスとか失業者とか、そうした偏見がすでにして吹っ飛んでしまう。確かにそこで拾っている人たちはそうしたカテゴリーに属している人たちなのだが、こと食べていくこと=生きていくこと、ということに関して、彼らの方がよほど真っ当な手段を取っているではないか、と思ってしまうのである。彼らが拾った後も、まだまだまだまだ捨てられた作物は大量に残っている。当然のことながら、いつ、どこに廃棄しますよ、などということを喧伝するわけではないからだ。

拾う、だけではなく、摘む、こともこの“落穂拾い”のカテゴリーに入ってくる。果物の畑で、規定量が決められているために発生する摘み残しが出てくるからである。捨てられた果物園にブドウがなったまま放置されている、なんていうケースも出てくる。摘み残しを摘む場合も、放置されたブドウを摘む場合も、摘む権利、などという議論が生じてくる。摘み残しているとはいえ、他人の所有物を取るわけだから。それに対して厳格に取り締まるワインの名産地もあれば、許可する上に取ったものを売ってもいい、というところまである。

この“摘み残し”のエピソードには若き2つ星の名コックも登場する。彼は自ら“落穂拾い”の人となり、自分の求める食材を摘みに行く。例えば木になったまま摘まれずに放置され、充分に熟れた果物など、果物の最も理想的な状態なのだ。そんなことは確かに当たり前に感じもするのだが、でも実際、市場に出ている果物は早めに摘まれ、貯蔵している間に熟れさせる、というのが一般的である。つまり、豊かな時代になったように見えて、私たちは食べ物を本来の、もっとも美味しい状態で食べていないのだ。

思わず、豆腐、を思い出してしまった。生産技術が発達して、豆腐自体は昔より美味しくなった。でも旨味を全部ぎゅうぎゅうに搾り出す技術が発達したために、おからは美味しくなくなってしまった。本当にのこりかすでしかなくなってしまった、というのである。どっちが豊か?ということを考えるのはとても難しい。確かに人間はこうやって、少しでも前進しようと努力して、こうした豊かな現在を築いた。でも、そのために失ったものもある。それはその豊かさと引き換えにしても仕方のないものなのだろうか、本当に?豆腐もおからも美味しく食べたいというのは、机上の理想であって現実ではないのだ。

この“拾う人”たち、そしてそれを擁護する論を展開する弁護士までいて、皆とても生き生きしている。生きてるって感じがする。見ているだけだと、ただの貧しい人、なんていう偏見めいた目になってしまうのが、アニエスがその人たちに興味を持って近付き、話を聞いてみると、驚くほどの哲学や論を持っていたりする。ラストに登場する市場のセリあとを物色する常連の一人である青年なんて、本当にビックリする。市場でゴミとなる運命の野菜たちを食べながら拾っている彼は、実は博士課程まで出ているインテリで、アニエスが話しかけてみると野菜の栄養素なんかをスラスラ口にしたりする。インテリなんだけど、職業はというと駅の新聞売りであり、さらにその一方で住んでいるアパートメントでアフリカから来た外国人たちに言葉を教えていたりする。オドロキの連続である。彼の行動にはその全てにキチンとした理由があり、思想があり、それは“拾わない”私たち、何の疑問も持たずに規格内の食べ物を買って食べている私たち、あるいは矛盾の現代に対する痛烈な批判である。だって、彼らの方がよほど“生きて”いるではないか。果たして、私たちは……生きている?

嵐の後、大潮の後、うち上げられるカキ。養殖場から何キロ離れれば取っていいのか、というせめぎあいの可笑しさ。拾ってきた(他人から見れば)ガラクタおもちゃ、特に人形を使ってキッチュでキュートな門を作り上げたおじいちゃんに、シカタナイワネとニコニコ笑っている妻であるおばあちゃん。そんな中でもやはりアニエス自身が一番チャーミングだ。いわば、彼女のチャーミングさが類友的にチャーミングな人や事柄を寄せてくるのだ。旅の途中、走りすぎるトレーラーをカメラのフレームの中で自分の手でつかもうとするアニエス、ハート型のじゃがいもに狂喜していっぱいもらってくるアニエス(そのじゃがいもはラストで芽を出しまくってすっかりしなびてる(笑))、そしてゴミ捨て場からもらってきた針のない時計に「私らしい」と飾るのも……。時間を刻む映画の中で、針のない時計がラストを飾るというのもいかにもアニエスらしいシャレっけを感じる。

何かね、こんな風に映画の感想文を書くのも、落穂拾い、って感じだなあ、って思ってしまった。一から作り上げる、作る才能がある、んじゃなくって、先に何かがあるというのが前提で、あとからくっついてまわって生き長らえている、みたいな。そういう自分に負い目じゃないけど……少なくともちょっとしたコンプレックスを感じていたのは事実だから、そりゃまあ全然そんなこととは関係ない話ではあるんだけど、何だかちょっと嬉しかった。“落穂拾い”な私にも生きていく余地はあるかなあ、なんて思ってしまって。

これが岩波ホールにかかる、というのは彼女が東京国際映画祭の女性映画週間に出品&出席したからなのね。彼女が東京から帰って、そのお土産をひもとく場面でそのことに気づく。ジェラール・フィリップのプログラムだとか、相撲の写真とか、招き猫だのなんだののお土産品とかが可愛くて。うん、こんなところにも、アニエスの可愛さが出ているんだよね。★★★★☆


鬼が来た!鬼子來了/DEVILS ON THE DOORSTEPS
2000年 140分 中国 モノクロ(一部カラー)
監督:チアン・ウェン(姜文) 脚本:チアン・ウェン(姜文)/ユン・フェンウェイ(尤風偉)/シー・チエンチュアン(史建全)/シュー・ピン(述平)
撮影:クー・チャンウエイ 音楽:ツイ・チエン(崔健)/リウ・シン(劉星)/リー・ハイイン(李海鷹)
出演:チアン・ウェン(姜文)/香川照之/チアン・ホンポー(姜鴻波)/ユエン・ティン(袁丁)/ツォン・チーチュン(叢志軍)/澤田謙也/宮路佳具/長野克弘/デビッド・ウー(呉大維)

2002/5/10/金 劇場(新宿武蔵野館)
学校にいる頃、すなわち10代の頃は、戦争被害者である日本人ばかりを教えられてきた。そして大人になってみると、戦争加害者である日本人ばかりを知ることになる。何も知らずに生かされていた赤ちゃんの時代を経て、ようやく少年期になった。全てに対して恥ずかしくてたまらず、しかし知ることに貪欲で、勇気を持って知ることが出来る年頃。早く、早く知らなければ。相手に語る気力があるうちに。憎まれていたっていいから。ずっとずっとチャンスを逃し続けていた、今が最後のチャンスなのだ。

日本人が侵略し続けてきたアジア各国では、私たちの知らない間に、数々の、戦時中の悪辣な日本人を描いた映画が作られていたことだろう。何といっても私たちは知らなかったのだから、そこに描かれている日本人がヘンだとか間違っているとか、言うことは出来ないのだ。言う権利すらない。そして日本人が、一般的認識としてようやく戦争における加害者であるということを認め出した昨今、ただただ謝る日本と、ただただ非難する各国という図式で、それはあまりに一方通行で、何だか全然お互いに気持ちが通じ合っていないように思えていた。それが、こうした映画が日本人の知らないところで作られ続けていることとひどく似ているような気がしていた。でも、そうは思っていても、そう言ってしまうのも怖かった。あんなひどいことしたくせに何言ってんのと、言われるのが怖かった。でも知りたかったのだ。どんな思いをさせ続けてきたのかを。

中国では上映禁止となってしまったというこの映画を、姜文監督が日本人役は日本人キャストを使って、作った。日本での取材や資料集めも積極的に行った上で、作ったという。この映画に参加することになる、主演の一翼を担う香川照之をはじめ、日本人キャストたちは、事前に脚本を読み込み、凄まじい軍事訓練を受け、悲壮な決意でこの映画にのぞんだ。嬉しかった。戦時中、日本人が侵略した物語を描いた映画に、初めて日本が関わったことが。ヘンな言い方だけど、敵視され、カヤの外に置かれていたのが、仲間に加えてもらったみたいで、嬉しかった。しかも、その映画は、悲劇であると同時に、それ以上の喜劇でもあった。ブラックユーモア、そんな言葉でひとくくりに出来ないぐらいに、時代や人間の愛すべき、そして憎むべき、真実の可笑しさがあふれていた。一生懸命にいい方向に向かわせようとしているのに、その制御が利かなくなるのは、ほんの、小さな摩擦に過ぎないということを、勇気を持って描きあげていた。言葉もなかった。

第2次世界大戦が終わりに近付く頃、日本海軍の砲塔が建つ中国の小さな村でのお話。居丈高な日本兵たちに、村人たちはひたすら耐え忍んで暮らしている。しかし、抑圧されているばかりではない。恋愛も楽しんでいるし、子供たちはムジャキに兵隊さんにおこぼれをもらって、元気に走り回っている。村人同士の結束も固い。そんなある日の夜更け、愛人、ユィアル(彼女の夫が戦死したということなんだろうか?)とヨロシくやっているマーのもとに、ナゾの男が麻袋を2つ置いていく。その中には日本兵とその通訳の中国人が。約束の期日にその男は引取りに来ず、二人の処置を巡って、村は大揺れに揺れる。言葉の通じなさが、逆に心を通じ合わせ、奇妙な信頼関係が生まれる。そして……。

日本兵、花屋を演じるのは、近年の活躍の決定打となる香川照之。彼の生と死の狭間の軍人としての切迫さは、しかしいつでもそれが真剣であればあるほど、喜劇を呼ぶ。しかし、その喜劇に笑いながらも、やはりその鬼気迫る様にぴんと背筋を伸ばされる思いがする。もともとはこの村人たちと同じ百姓の出。ノンビリとした農作業が似合っていた青年だったのだろう。でもこの時代に生まれ、軍人として訓練を受け、こんなザマになっても死ぬことも出来ない。挙句の果てには相手を激怒させようと教えてもらった中国語が友好の言葉に変えられる間抜けさである。しかし、それが最終的には彼の気持ちと合致してしまう。命がおしくてワザと違う言葉を教えた通訳だったけれども、結局は花屋のパーソナリティがそれを引き寄せたのかもしれない。でも個人のパーソナリティがいつまでも通用するほど、時代というもの、そして人間というものは甘くなかった。

彼は村人たちを怒らせようとして叫ぶ。「お兄さん、お姉さん、新年おめでとう!あなたはおじいさん、私はあなたの息子です!」相手が怒らないでキョトンとしているのを見ると、バカにしたようにとか、怒ったようにとか、さまざまにバリエーションを変えて何度も叫ぶ。香川照之の演者としての力量を見せつけられる。そして彼が真剣であればあるほど、可笑しくてたまらない場面なのだが、後になって……本当に後になって、ラストクレジットが流れる頃にふと思い出すと、それまでは涙は出ず、むしろそのコミカルさに笑い転げる方が多かったのに、突然、カッと熱いものを感じて声を上げて泣きたくなる。真剣であればあるほど、というのが……彼はそれをののしりの言葉と信じていたんだけど、友愛の言葉であったのが、友愛の意味をきちんと真剣にさせたのか……ねじれているのに、あまりにまっすぐで。これ以上なく、まっすぐに届いていて。

彼に中国語を教える通訳のトン。彼を演じているのが、テレビディレクターであり、役者経験がないというのが驚きの、香川照之の演技のすさまじさに拮抗する名演。語学に通じているインテリである彼と、百姓出身の花屋とはお互いにどうもウマが合わない。花屋のためにとトンがやることが、花屋には鼻につくし、トンにとってはただ無謀なだけの花屋がどうしても相容れない。しかし、お互い一人では生き残れない絶対条件である相棒同士は、ゆっくりと相手あっての自分だということを自覚してゆく。まさしくかけあい漫才の可笑しさなのだが、互いに命をかけた“かけあい”は、命のかけ方が逆方向なので(花屋はとにかく生きているのが恥で、今すぐにでも死にたいのだ)、その真剣が増すほどに、お互いにズレにズレまくるのが本当に可笑しい。でも真逆だから、奇妙に似た部分があって、激しくやりあうことで判り合っていく。トンは日本語が出来るから、二人はコミュニケーションは取れるわけだけれど、トンは通訳として花屋をあざむくわけで、彼ら二人が判りあうのは、言葉が通じることによる意志の疎通ではないのだ。それは意味を違えて伝えられた村人たちと花屋との関係でも同じ。……何と深いのか。

結局半年養われ続けることになる二人。その間には花屋が日本軍と何とか接触を図ろうとしたり、村人の間で不満が噴出して、殺し屋を雇って二人を殺そうとしたりなんてこともある。しかしそのどれもが、コミカルさたっぷりに失敗に終わる。ことに、剣の達人のリウ老人がもったいぶって登場するのに、本人は鮮やかに斬ったつもりが全然斬れてない、という場面は、どよどよ見物する村人たちが右往左往する中、命拾いした花屋がピョンピョン飛び跳ねるというオチになって、大爆笑!村人を手前に配して、標的の花屋を奥に配置する遠近感と、そのどよどよぶりが実に躍動感にあふれていて、観ていてワクワクする、実に映画的な名シーン!

このことすらも、花屋は皆がこの殺し屋から自分を救ってくれたと思い込んで、村人たちに感謝してしまう。そして、自分が日本軍に掛け合って、自分を引き渡す代わりに礼を出させるようにする、と提案する。リウ老人のくだりは、この場面が出色の喜劇味を出すだけに、ラストに重い余韻を引きずり驚くことになる。リウ老人はかつて、西太后の寵臣を斬首し、その鮮やかさにより、殺された寵臣たちの子々孫々から感謝されたという逸話の持ち主。斬られた首は転がり、三度まばたきをして斬ったリウ老人を見つめ、笑顔を浮かべたのだという。それがラストに、しかもそれまでのモノクロから突然カラーとなって再現されることになるのだ。斬る相手と斬られる相手は……。

戻った花屋は生き恥をさらしたことで罵倒されるものの、村人たちと交わした念書を見た隊長、酒塚が「日本人は約束を重んじる」と、6台もの穀物を村人に礼として提供することになる。陸海軍と村人全員が集い、奇跡のように楽しい宴が繰り広げられる。侵略する側とされる側が、歌いあい、酒を注ぎあい、肩を叩きあい……。思わず、ああこれこそが友愛の輪だと早合点しそうになる。しかし穀物を提供し、この宴をもった酒塚隊長は、決して単純に和解をのんだわけではなかった。酒塚は花屋にくだんの覚えた中国語を言わせ、腐敗分子だと断じ、彼を撃ち殺す者を募る。凍りつく一座。酒塚は尚も言う。マーはどこに行ったのか。花屋たちを預けた男を呼びに行ったのだろう?武器を持って来るんだろう?と。マーはその頃、ユィアルとともに小船を湖に浮かべ、幸せな一時を過ごしていたのだ。一人の酔った村の男が、酒塚に馴れ馴れしい調子で話しかける。花屋を返したんだからいいじゃないか、怖がってるのか?楽しくやろうじゃないか、と。困惑しながら通訳し続けるトン。直立不動で冷や汗を流している花屋が、その様子をじっと見ている。彼はその直前まで、自分をかくまってくれた村人たちと、酒を酌み交わせる幸せをかみしめていたはずだった。なのに……彼の中で何が切れたのか。日本人としての誇りか、それとも軍人としての?あるいは、そんな単純なことでは説明のつかない、ささいな摩擦のようなものだったのではないか。

血相を変えた花屋がその男を斬りつけたことで、和やかだった宴は地獄へと一変する。殺しあう、火をつけあう。血と業火。まさに地獄絵。なぜこうなってしまうのか……。口は悪いけど気はいいオバチャンも、ユィアルの小さな息子も、愛すべきキャラの歯抜け老人も、みんなみんな、殺されてしまう。狂ったように動き回るカメラが、しかしどこか不気味な冷静さで、血の惨劇をそのカメラ=目に焼き付けて行く。酒塚の命令で演奏され続ける軍艦マーチ。冒頭からずっと流れてはいるけれど……この場面で特に、その陽気で残酷なメロディに心底戦慄する。宴の行われている広場を覆い尽くす火の海に、呆然と立ち尽くすマーとユィアル。

その直後に来る終戦。日本軍に代わって我がもの顔で走り回る連合軍のヤンキーたち。かつての侵略者である日本人も、今は昔日の感である。ほそぼそと路上で物を売って暮らすマー。あの通訳、トンが捕えられた。中国の若きリーダーは、同胞であっても人道的に反したものは罰せられるべき、と皆の注視の中、彼を処刑する。拍手喝采に喜ぶ群衆。……自分たちの民族の矛盾や残酷さも、姜文監督は躊躇なく描いてしまう。恐らくここらあたりがひっかかって、中国では上映禁止になったんだろうが……。でもこういうのって、日本は勿論、あの時代は、世界中であったんだろう。つまり、人間のそうした残酷な醜い部分を、普遍的なものとして、冷たく注視しているのだ。それが凄い。ある意味怖い人だ……姜文監督は。

タバコを売っていたマーに、二人の日本人兵が買いに来る。それはかつて、マーたち村人を馬鹿にしくさっていた、しかし単純バカといった感じの二人の男。日本人兵の立場は今やかつてのものではないのに、この単純バカな二人は、いまだ大きな態度でマーに話しかけ、相変わらず相手を見下す嘲笑を浮かべる。しかし、別にこんなことで腹を立てることなんかない。ちょっとムッとするかもしれないけど、せいぜいそんなもののはずなのに……そう、あの時の、激昂したあの時の花屋にすごく良く似ているのだ。こんなことで、こんなささいなことで、マーの心に小さな摩擦が生じて、凶行に出てしまうのが。マーは日本軍施設に入り込み、逃げ惑うこの二人の男を追う。斬りつける。次々出てくる軍人たちも、マーの迫力に気おされて、なかなか彼を捕えることが出来ない。次々と傷を負う軍人たち。

本当に、奇妙なほどに似ている。花屋とマーがキレる様が。戦いなんて、こんなもんだと。結局ごくささいな気持ちのすれ違い、それから生じる摩擦、そんなもの。でも“そんなもの”がこうまでも制御できなくなるもの。人間の気持ちの弱さが、あっという間に争いと憎しみを生む様を目の前でつぶさに見せられ、戦慄する。勿論、これはこうした切迫した時代背景が生んだ心理でもあるに違いない。でも基本は、そう大して違わないのではないか……私たちが内包している、争いや憎しみの種は。でもこんなささいなものだからこそ、お互いを信頼し、話し合い、愛し合おうとすればきっと解決できるはずだという希望も持てる。激しい争いに、深い憎しみに、深度を増す前に。

マーは捕えられる。中国側は、連合軍受け売りの、妙にインテリめいた正論をかざして、友愛を壊したマーを処刑することに決める。確かにこの“正論”は平和を守る“正論”なのだろう。しかし得々と論じる中国人リーダーの方が、これから処刑されるマーよりもよほど愚かに感じるのはなぜなんだろう。原因を断つこと、悪を断つこと、悪人を断つこと……結局はそんな単純な図式が、決して“正論”などではないことが見えてしまうからか。でもこの“正論”はいまだ世界にハバをきかしている。この時、この中国人リーダーの左右に、言葉も判らずエラソーに鎮座しているのはそうした論を作った西洋人。この論、現在アメリカが振りかざす“正論”そのままなんだから。エラソーなところまで、そのまんまである。

マーを処刑することになるのは、酒塚隊長が皮肉たっぷりにご指名する、花屋。銃ではなく、サムライの魂である日本刀を用いる。水で清め、的であるマーのうなじにとん、とん、と当てる。花屋とマーの無言のこの“コミュニケーション”は、得々と論じられる“正論”よりも、よほど濃密で、ぴんと張り詰めた聖性さすらあり、たじろいでしまう。何かを伝えようと思ったのか、マーが花屋を振り返る。度を失った花屋が振り下ろした刀は鮮烈にきらめき、マーの首を撃ち落す。視界が回る。ごろん、ごろんと……ああ、首を落とされたマーの視界だ……その時から、押し込められるようなモノクロだった世界が、毒々しいほどのカラーに染まる。マーの視界が二度、三度と真っ赤な画面の帳で閉ざされる。“三度まばたきをし”カメラはマーの視界から外へ出て、ゆっくりと口角を引き上げる“笑顔”のマーの首をとらえる。……これ以上の、これ以上の“友愛”がある?コミカルだったリウ老人の逸話が、重く、辛辣に、しかし本当に不思議なんだけど、確実に幸せな気持ちを連れてくる。あるいはこのシーンこそが、中国での上映禁止に作用したのかもしれない。斬る者と斬られる者の……斬られる者が、誰に斬られたかったかの……。本当に、全然関係ないのに、唐突に思い出した「座頭市物語」。対決したくないのに、斬りあうことになった座頭市と平手造酒、斬られる平手造酒が「死ぬ時は、貴公に斬られたかった……」と幸せそうに死んでいくシーンを。

ふと、花屋とトンを預けていった“私”が一体誰だったのか、だなんて考える。何だかそれは、人間じゃないような気もしてくる。花屋とマーを引き合わせた、そして一つの村を巻き込んだ、この出会いが。時代の中で争いがどうしても避けられないものなのだとしたら、せめて、わずか数組の人間同士の間だけでも、こんな感情を、熱く流れる感情を行き渡らせたいと。それが死んでしまう人間でも、未来につながっていく感情になる可能性があるなら。まばたきして笑顔を見せたマーの首を、誰か見ただろうか。殺された寵臣の子孫のように、誰かが語り継ぐだろうか。判らない。死んでしまったマーの感情を、誰かが拾い上げることなんて、まさしく奇跡なのかもしれない。だけど、相手に届かない一方通行の感情、与えられるままに作られたウソの気持ちを投げ合うより、わずかでも、どんなに少なくても、真実の気持ちを残したい……未来につなげるために。

日本軍に抑圧される時勢の中で、大らかに愛をささやき、セックスをし、豊満なヌードも披露するマーとユィアルの関係もまた、未来への豊かな希望。寝ているマーの顔を覗き込むユィアルという、二人のくるくるとした瞳が印象的な、逆さに顔をアップにしたショットが、この異様なテンションの悲喜劇の中で可愛らしく、穏やかで優しい印象を残した。★★★★☆


溺れる人
2000年 82分 日本 カラー
監督:一尾直樹 脚本:一尾直樹
撮影:山崎のりあき 音楽:南野梓 エモーショナル・アワ
出演:片岡礼子 塚本晋也 火田詮子 上馬場健弘 海上宏美

2002/6/6/木 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
溺れる、ということを媒介の記号として、夫婦間の愛とその喪失を観念的に描いた作品、といったらいいのだろうか。私はこの観念的というのが、あまり得意ではない。それを描くために使われる、記号としての現象や言葉に上手くハマれればいいのだけれど、大抵の場合、それは難しいからだ。妻は浴槽で溺れる。なぜ浴槽などで溺れるのか。夫は溺れた妻をじっと見つめ、ソファに横たえさせても見つめ続け、救急車を呼んだり何だりといった一般的な行動をとらない。なぜなのか。結局ここでそんな風になぜ、と言ってしまえば、たちまちこういうタイプの作品の前では固まってしまう。しかしどうも難しい。

目覚め、普通どおりの生活に戻る妻は、しかしあの時やはり死んでしまったらしい。あたりに漂い始める死臭。しかし、妻は確かに生きて動いている。体温は驚くほど冷たいけれども、確かに動いて生活している。しかし妻自身も自分が自分でないようだと言うし、何よりも妻の死を目撃した夫はどうしてもそこにいる妻が生きている妻だとは思えない。友達を呼んで相談したりしてはみるものの、それは考えすぎたという。しかし夫は執拗にその考えを主張し続ける。つまりは彼は事実がどうかというよりも、妻の死が願望として彼の中にあるのだ。そのことに彼自身が気づいた時、観念としての妻の死は、別れという現実としての夫婦の死に結びつく。……本当に妻が死んでいたかどうか、私にはやはり判らない。

冒頭、映し出されるのは、画面いっぱいの瞳のアップ。画面いっぱいの銀色の蛇口、そこから滴り落ちる水。目覚め、眠りゆく、つまりは生きている輝き、その命が終焉した時に下ろされる帳、双方の象徴としての瞳。生命の源と、のみ込まれた時の死のイメージ、双方を内包する水。最初っから随分と示唆的で、何となく身構えてしまう。それは確かに画になるのだけど。画になるといえば、そこから続く、冷めた乳白色の湯の中に、沈んだ妻の髪の色がゆらめいているのも、それを呆然と覗き込む夫という図も、とても画になる。正直、私は予告編でのこの“画”につられて観たいと思ったのだから。

最初に映し出されていたのは、妻の瞳。そして蛇口とその水が差し挟まれ、その次に映されるのは目覚めた夫の瞳。多分、妻の瞳の方は、死にゆくものの瞳。そして夫の方は、彼が勃起を感じて目を覚ましたことで明らかなように、旺盛な生の瞳。不埒な気分を抱えながら風呂に入っている妻を呼びに行く彼の姿は微かな笑いを起こさせるが、その時妻は死んでいる。しかし夫はその死んでいる妻の美しさにうたれてしまう。今までで一番美しい妻。もうどこにも行かない、この完璧な美のまま、自分だけのものだと。勃っていたはずの彼から、以降はそんな性の生々しさは一切感じることはない。

そんな風に微かな笑いをもたらす場面はそこここにある。“妻が生きている”ことに不条理ないらだちを覚える夫が、自分の好物の、しかし妻は苦手なお刺身を夕食に出したことに激昂し、それをフライパンで焼かせてしまったり、家中の匂いが取れないことに神経質になって、芳香剤を無数に置きまくったり、唐突にパワーアップした掃除機が登場したり。あるいは友達を実験台にして検証する、なんてことも、結構笑える展開かもしれない。しかしその微かな笑いは彼らの観念的で神経質な会話の中に飲み込まれてしまう。もったいない、と思うのは、どんな映画の中にも落としどころとしての、気持ちを休憩させるための、あるいはよりテーマを際立たせるための笑いの要素をついつい求めてしまう私自身のクセなのかもしれないが。

夫も妻も、そして他の数人の登場人物が絡んでくる場面でも、その会話しているシーンに、話を向けている相手、つまり切り返しのショットがなかなか来ない。来ない、訳じゃなくて、なかなか来ない。こちらの予想よりずっと遅れて、相手のカットが現われる。その間、カメラに向かって喋っている話者は、まるで相手もなく、あるいはその人にしか見えていない相手に向かって喋っているようでひどく不気味である。遅れて現われる切り返しショットは思わずホッとさせるものの、その感覚も一瞬で、その聞いている相手、返事を返す相手が本当に現実にいるのだろうかという、説明のつかないおかしな錯覚にとらわれる。

皆が皆、ただひたすら独り言を言っているのかもしれないと想像してしまう不気味さ。夫や妻のみならず、その妻の母親が彼女を心配して訪ねてくる場面でも、母親が話し掛けている娘が本当に存在しているのかと思うほどに、母親の喋る場面が長々と続き、彼女だけに見えているかのようにやっと、ようやく妻のショットに切り替わる。あるいは不自然なまでの静かさ。生活の騒音のなさ。そこにあるのに最後まで鳴らされないピアノ、つけられないテレビ。夫と妻の場面では食事の時、丸テーブルに向かい合わせてただ黙々と食べているし、友達が訪問した場面では夫と彼は確かにテレビを見ているはずなのに、なぜかその音は聞こえてこない。響くのは静謐さと、そのメロディアスさがどこか歯車の合わない引っ掻いたような感覚を起こさせるバイオリン。

舞台はひたすらこのマンションの一室だけで、風を入れるためにあるベランダも狭くて、二人がそこで会話したりするとギュウギュウになって、どこか滑稽な感覚をもたらす。一昔前ぐらいに観たアラン・リックマンとマデリーン・ストウの二人劇、「クローゼット・ランド」なんていう映画を思い出してしまった……一室に閉じ込められた男と女、ついには幻想の世界にまで世界が展開してしまう。二人の関係も物語の筋もまるで違うけれども、その観念の世界への翼は妙に共通している感じがする。

夫は仕事に出かけているはずなのに、その外での匂いはまるでしないし、妻も買い物ぐらいにしか出ないようで、二人の空気はもっぱらこの一室だけで醸成されている。その世界を広げたいという無意識の欲望が幻惑の世界を生み出した感じもする。二人の溝は深まり、ついには離婚という結論を出す。もう部屋もすっかり片付け、別れの準備は万端整ったにもかかわらず、夫は妻にやり直さないかと語りかける。全面的に自分が悪かった。時期をおいてみてもいいから、やり直そう、君を永久に失うなんて、耐えられない、と。普通のメロドラマならこれ以上の殺し文句はない訳だが、彼女の視線はもはや彼をとらえていない。私は確かにあの時死んでいたの……それに気づかなかっただけなの、と。そんなはずない、死んだ人間が生き返るはずない、と食い下がる夫に、妻が言う。だって、あなたが蘇れ、と言ったから。

ぐい、と唐突に引くカメラ。二片の影となって佇む二人。低い声で放たれたこの妻の一言が、なぜこんなに怖いのかと思うぐらい……ゾッとした。恐ろしかった。へたへたとへたり込む夫。風を受けるように目を閉じ、こころもち天を仰ぐ妻。二人の関係はもはや修復しない。確かにお互いを愛しているのかもしれないけれども、その愛は決定的に違う方向を向き、交叉することがない。“死んでしまった妻”は、その後も一人で生き続け、母の死を看取り、喪服姿で辿りつく見知らぬ場所は、どこか子供の頃を思い出させる、懐かしく、優しい、そしてあの“死んでしまった”時に見た夢の場所に良く似ている。あの時彼女は、“死んでも夢を見られるのなら、死んでしまうのも悪くはない”と言った。そうして彼女は歩き続ける……どこに向かって?

「ハッシュ!」の時とはまるで違う、現実感のない女を演じる片岡礼子と、「とらばいゆ」から続いて、妻に翻弄される夫の戸惑い顔が板についてる塚本晋也。この二人の顔合わせにはとても興味をひかれた。★★★☆☆


ON AIR/オン エアー
2001年 113分 日本 カラー
監督:牛山真一 脚本:牛山真一/関口準
撮影:村瀬清/迫信博 音楽:安川午朗
出演:鶴見辰吾 杉田かおる 石原良純 四方堂亘 田中要次 鈴木晋介 矢代朝子 楊原京子 渡辺裕之 船越英一郎

2002/3/26/火 劇場(中野武蔵野ホール)
いやー、なんつーか、久しぶりに……思いっきり、全く、入れない映画だった。何も★☆☆☆☆にするまではやりすぎかなとか、設定とか展開とかは割と面白いような気はしないでもない……うー、でもでもやっぱり、やっぱりダメだ!解説者のように場面を止めてしゃべりまくる船越英一郎の演技の、そしてそのウィンクに重ねられる擬音のワザとらしさクサさに身悶え状態。劇場内が寒いのに連動するかのように、サムい(ほんと、冷え冷えと寒かった。中野武蔵野ホールは時々こういうことがあるんだ……)。そう言えば本作の上映を記念して鶴見辰吾第一回プロデュース作品であるという“日本のブラットパック映画”である作品が上映されるらしいんだけど、その予告編で感じたようなこの何ともいえぬ古臭さが本作にまで続いている、というか……。この牛山監督は劇場用映画は久しぶりだというんだけど、その頃の感覚のまま撮っているんじゃないのお?と疑ってしまう時代錯誤な空気で……。それこそ、80年代によくあったような、カルいノリのラブコメディドラマみたいな、それをさらにゴテゴテに飾り立ててより陳腐になってしまったという印象。アルバムを見て若い自分に恥ずかしくなるような、あんな感覚なのだ。

確かに、「金八先生」の名コンビである鶴見辰吾と杉田かおるのコンビ復活はかなり興味をそそられるものがある。しかも、彼らは中学時代からの仲だという設定にされているのだから、その感慨はなおのこと。長年の腐れ縁?ある彼らが見せる親友、戦友とも言えるような丁々発止のかけあいは、なるほど期待しただけの価値はあるかもしれない。でも、それだけだ。面白い部分といえば、それだけ。杉田かおる演じるシナリオライターが、今風のアクセントでドラマ、と平坦に言う演出家に反発し、頭にアクセントをつけたドラマ、と言って、「北の国から」や「ふぞろいの林檎たち」の記憶を楽しげに披露する場面もカタルシスはややアリ、といったところ。正直、わざわざ映画にしてまで言うことでもないような気がするというか……こういう議論って、テレビドラマを振り返るとかの、スペシャル番組とかで聞きそうな感じだし。

番組のプロデューサー、制作会社のプロデューサー&アシスタント・プロデューサー、シナリオライター、演出家、新人アイドルの所属するプロダクションの女社長、脇役専門の劇団役者、そして解説者となってしゃべりまくる、こんな業界にはもぐりこんでいそうな、何やっているんだかわかんないような訳知り顔の男。彼らによる、室内劇である。視聴率が低迷するドラマの打ち切りが決まって、突然の最終回を上手くまとめなければいけなくなり、打ち合わせが始まる。そうすると意外な枝葉が広がって……という内容。説明シーンとして入れられるテレビドラマのシーンも含めて、全くの室内劇。この説明シーンがあるからこそ、舞台劇という趣とは多少違う部分も見せるが、やはり室内劇で壮絶に面白くなかった村橋明郎監督の「しあわせになろうね」なんぞを思い出してしまう(そういやあ、この監督の名前もその後聞かないな……丸の内シャンゼリゼなんていう大劇場でかかったのに)。でも、あれは役者陣が本作よりひとランク上という感じで、その存在感、上手さで面白く見せていたのが、本作はその辺もちょっと微妙なのもキツい。

ほっんとに今現在、全部の日本映画に出てるんじゃないかと疑ってしまう田中要次(実際、この日2本観てるんだけど、2本ともに出てるんだもん)は、ここ1、2年でぐんぐん前に出てきて、こんな風にメインキャストの一人を張るようになった。コワモテの割には純情で、新人アイドルに熱を上げちゃうAP役。うん、カワイイ。鶴見辰吾&杉田かおるは、ここはやはりベテランの余裕でソツなくこなすが、そこから踏み出す面白さがない。鶴見辰吾は他の俊英監督たちの作品ではそれぞれにかなり強い印象を残しているのに、本作ではそれが感じられない。やはり演出のせいか?船越英一郎のクサさは先述したとおりで、ほとんど虫唾が走ると(ヒドいなー、私も……)いうぐらいの作りこみようなのだが、これも監督の演出のせいかもしれない。クサさの点では石原良純もご同様。「太陽にほえろ!」の話が出たとき、他人とは思えない……などと言うのにはそのクサさもあいまって、ヤボな感覚すら覚えてしまった。ところでこの打ち切りになるドラマは都知事が主人公というんだから、現在の都知事の息子である彼がキャスティングされ、最終回の打ち合わせでは彼が都知事役を嬉々として買って出る、と言うのはちょっとだけ、面白かった。

最初は、40代前半の東京都知事と30代後半の市民運動家の女性による大人のラブコメディの設定だったはずが、テレビ局やアイドル事務所やスポンサーの思惑で、都知事とハタチのキャバクラ嬢の話にさせられてしまう。なるほど、ありそうな話である。確かに最初の設定だったならば、大人の面白いドラマが作れそうな感じで、私なぞもちょいと興味を覚えそうなものだが、キャバクラ嬢とは……そう告げられたプロデューサー&シナリオライターのボーゼンとした表情にも納得の、何という無粋な企画!まだ尻の青いアイドル女優に鼻の下を伸ばして、その設定を思いついたくせに、いざ打ち切りが決まると他人のせいにするテレビ局プロデューサーはホントにサイテーだが、テレビ界など確かにいかにもこんなことがありそうな感じである(だから、信用できない)。このアイドル女優、アヤカを演じる女の子がまた、ダンスレッスンの場面からそのユルさに力が抜け、バカっぽい発音の喋りも実ぅーに、ハマり役である(ホメてるつもり)。彼女に人生をかけている女社長が、打ち合わせで使う写真を出してくるんだけど、ライティングで真っ白な顔になったショットは、グラビア写真にいかにもありがちで、意図的かどうか知らないけど、結構シニカル。

ドラマ内の都知事役として出てくるのが渡辺裕之。杉田かおる演じるシナリオライターが、彼の出演が決まった時、役のイメージにピッタリ、とホレこんだだけあって、彼一人はワンランク上の存在感という感じである。そのチープな設定にもったいないぐらいのイイ男ぶりをふりまくのよねー、うんうん。彼の登場シーンを使って、台詞のさしかえなどのドラマの裏技を披露したりするのはちょっと興味深い。こうした部分をもっと見たかった気がする。でもそれじゃ、映画じゃなくて、それこそテレビ番組だわなあ。

アイドル女優の突然の結婚宣言に、その相手は自分だと次々に名乗り出てくるアワレなオジサンたち。案の定、それは彼女に手玉にとられただけで(というつもりはないのかもしれないけど、テレビ局のプロデューサー氏なんてプレゼントに100万ぐらい使っちゃったってんだからねえ)彼女の相手は、今をときめくサッカーのスター選手。それなら彼女の話題は一層盛り上がると、意気揚揚と去る敏腕女社長を尻目にオジサンたちは意気消沈。せめてドラマの中だけにでも夢を託したいと、都知事とキャバクラ嬢のハッピーエンドと決まり、最初にその案を出したシナリオライターは限られた時間の執筆に熱をこめる。ラストだけは閉じ込められていたスタジオを後にし、夫である制作会社のプロデューサーと彼女が夜の街に出て行くすがすがしさだが、「好きだ、って言ったら許してあげる」と言う彼女に答えて、見つめあい「好きだよ」と期待にこたえる彼、という図は、うーむ、そりゃあ、あまりにも用意されてるって感じじゃない?このシークエンスを入れたかったんだろうけど……何か不自然だしさあ。

そしてこのラストシーンに至るまで、今度は警官の格好をして二人とすれ違い、またしても背中に悪寒の走るウィンクを擬音つきで観客に送る船越英一郎に、カンベンしてって感じ、だよなあ。彼の役名、監督の名前をもじってるんだよね……監督自身の分身、監督の代弁者、なのかなあ。うううう、だとしたら更にヤなんだけど!

そんでもってラストクレジットのあと(このラストクレジットは名前と役者が同時に出る方式で、これ私好きなんだよね。それにこの時のみんなの表情は和気あいあいムードでなかなかいい)、この映画の企画を鶴見&杉田の二人に話すプロデューサーとして船越英一郎がまた出てくる。「10代の時から共演している二人にぜひ」と請われて、苦笑まじりに「何かちょっと……ねえ」みたいに顔を見合わせる二人が凄く自然でイイ感じ。しかも杉田かおるが「ちょっと、そういう(内幕ものの)企画、反則なんじゃないの。だから視聴率取れないんだよ」みたいな、実に彼女らしいシンラツなことを言うのが笑えるんだよね。実はこの最終ラストのおまけシーンでもう一つ★を献上したいぐらいだったんだけどね。でもやっぱり、ヤメた(笑)。★☆☆☆☆


女賭博師 みだれ壺
1968年  分 日本 カラー
監督:田中重雄 脚本:高岩肇
撮影:中川芳久 音楽:鏑木創
出演:江波杏子 安田道代 浪花千栄子 長谷川待子 川津祐介 寺島達夫 柳永二郎 京唄子 鳳啓助 三波伸介 伊東四朗 戸塚睦夫 長門勇 小松方正 早川雄三 夏木章 亀石征一郎 北城寿太郎 水原浩一 伊東光一 谷謙一 中田勉 豪健司 三夏伸

2002/4/4/木 劇場(新宿昭和館)
この、女賭博師シリーズ、作品的にはこれといったものがなかった、とモノの本には書いてあったが、なかなかどうして。私はあやうく?★★★★★をつけそうになったぐらい、本作にはノッた。ヒロイン、昇り竜のお銀の目標であり、憧れであり、尊敬であり、ライバルである、長門勇扮する友蔵が(っていうの……まちがっていないよね?というのも、キャスト表がどうしても見つけられなくて、誰がどの役、って確信が持てないんだよー!)実に素晴らしいんである。加えて、お銀である江波杏子と彼との間に醸し出される色つや、これまた素晴らしいんである。彼と彼女の間には、何もない。どこも、何ひとつ触れるでもないし、そうした言葉も何一つない。彼と彼女の間に交わされるのは、尊敬し、尊重し合う賭博師同士としての、会話だけであり、彼と対決したいと望む彼女に対して彼は、自分は暮れに行われる、組同士が浅草の出店一年間の利権の独占を争う博打争いしかやらないと決めているとそれを拒む。彼の表情は穏やかに笑んでいるし、言葉づかいもやわらかいのだが、そこを何とか、などと言い出せない断固とした空気がある。それは確かに、賭博の話をしているのに違いないのだけれど、まるで欲望を自制しているかのようなストイックさが漂う。

私はこの長門勇という人を、初めて観たか、あるいは彼と認識して観たのは初めてか、なのだが、その苗字と風貌がちょっと似ているような気がして、あら、長門裕之の係累か知らん、などと思ってしまったが……。和服がしっくりなじむ小熊体型といい、人好きのする風貌の中にプライドの光りが見え隠れするあたりといい、実に、実に個人的にタイプである。殆どひとめ惚れに近い状態で彼に心奪われ、登場するたびにドキドキしっぱなし!(しつこいようだが、友蔵が長門勇じゃなかったら大笑いなのだが……)

女賭博師といえば、どうしても緋牡丹博徒の藤純子を思い出さずにいられないし、彼女のしなやかでたおやかで、しかし凛とした美しさに勝てる女優などいないのだが、江波杏子の女賭博師は藤純子とはまた全く違い、女であることを捨て去る覚悟が出来ている、というストイックさ(この辺が友蔵と共通するのよね!)が漂う、ぴんと細い針金が張り巡らされているようなシャープな美しさで、その口調もぴん、と通る声音。藤純子は確かに美しいし、カッコ良いのだけれど、やはりあまりにしなやかに美しすぎて、女としての部分を多分に感じさせた(もちろんそれがいいんだけど)のだが、江波杏子の場合、あくまでプロとしての賭博師の女のカッコよさの方が勝る美しさ。それが前提にあってこその女としての色っぽさであり、彼女は確かに友蔵に対して賭博師として以上のものを感じていて、心の底では自分でもそれに自覚的なんだけど、それを認めたがらない、というか、認めたらプロとして自分は失格だ、という強烈な戒めが彼女の中にあって。でもその強い思いがあるからこそ、彼女は一年間、賭博師としての特訓に邁進できたのだし、そして、友蔵に勝つことも出来た。果たして、友蔵に勝つことが、彼女の本当の達成だったのかは……。

その一年間の厳しい邁進は、いわば友蔵への思い。勝ったのは、それだけ友蔵への思いが深かったから。賭博師には避けようのない逆恨みのせいで、友蔵は賭博師の大事な要素である耳に損傷を負ってしまい、一度は暮れの利権争いの勝負には出ない覚悟を決める。友蔵を破ることだけを目標にしてきたお銀には痛手だが、彼女に自分に果たせなかった重い思い(シャレじゃありやせん)を託してくれた賭博師のイノキチ(友蔵に敗北したことで転落の一途を辿ったのだ。それにしても、字の見当がつかん)が自分をかばって死んだこともあって、大門組の堂前として勝負の場に現れる。しかし、こないと思っていた友蔵が現れた!女の武器まで使ってお銀に勝つために友蔵の後釜に座った尼さんのかっこした女賭博師さんには気の毒だけど、友蔵が現れたとたんに、みるみる顔が薔薇色に上気するお銀=江波杏子の美しさよ!冷たい美貌、という感じで今ひとつのめりこめなかった彼女だけど、ここで一気にホレたね!でもここは勝負の場なんだよ。彼女は彼を倒すためにここに来てるんだよ。うー、切な過ぎる!

自分の無念を晴らしてくれるお銀の身を守るため、彼女の行く先々で間一髪、危ないところを助けてくれるイノキチは、殆ど、どころか完全にストーカーだよねえ。結局彼女の命の恩人になったからいいようなものの……って、死なれちゃあ、ますます彼女は彼のあまりにも重すぎる思いをもんのすごいプレッシャーでもって引き受けなければならないわけで……うっわ、これってキッツイわあ!でもね、自分の思いだけじゃなくて、彼の思いもまたあったればこそ、友蔵とあれだけアツい戦いが出来たわけよ。ケガを押してあらわれてきた友蔵は、耳のハンデがあるにもかかわらず、その実力で次々と敵を倒してゆく。そしてトリのお銀との対決になる。その前に敗れ去ったお富士さんは、お銀に彼の弱点が耳にあることをこっそり教えるのだが、彼女はその弱点をつかない。……というのは、勝負の後に友蔵が彼女に言う台詞で初めて判るのだが。とまれ、彼と彼女の対決は、ここに至るまでも折々使われてはいたんだけれども、双方の顔がお互いのアップにオーヴァーラップしあう、という実に熱っぽいもので、勝負以上のお互いの思いがジンジンと感じられちゃって、うっわあー!ってぐらい、イロっぽいの!本当に、ゾクゾクしたあー。

そして、お銀が勝つんだけど、この後にもうひと盛り上がりがある。今年も利権を独占できると思っていた山川組の親分が大門の親分を亡き者にしようとお銀と二人でいるところに襲いかかる!その危機に現われ。山川の親分を鮮やかに斬って二人を助けるのが我らが友蔵なのッ!友蔵はお銀に、賭博師としてのトップの座を来年も再来年も守り続けるんだ、と言い残し、二人の間には確かに熱い思いがあるのに、何もせず、何も言わず、友蔵は去って行く。お銀はその思いを口にしたい、そして追いかけたい衝動が隠しきれないのだけれど、でも、追いかけない。もしかしたら、いや絶対、二人はもう会えないのだ。友蔵の背中にはもう賭博師を引退する、というぐらいの覚悟が見えたのだもの。うー、切ないよう!そしてラストカットはまたあのクールな顔のお銀に戻ってお約束のキメ台詞「入ります!」を壺をかまえて言うんだもん……。やっぱり一人で生きて行くんだなあ。友蔵にしても、男の孤独の色気は、男が女のものになったら消えてしまうものだから、やはりこれしかないんだよね。

お銀への憧れをライバル意識という意地に隠して、ミニスカートだのホットパンツだのといったいでたちでその健康的な美脚を披露しながら賭博師をしている和子の、まだまだ少女の純情さを残しているところが可愛かったなあ。母親が実は本当の母ではなく、その母がかつて女賭博師としてならしていたころ、彼女が負かした賭博師の男が自分の責任の決着をつけた(つまり、自殺した)あとに残されたのが和子で、それを知った和子は少女らしい潔癖さで母親をも憎悪の対象にするのだけれど、それもまた同じ対決の場で母親とともに友蔵にあっさりと負けてしまい、母親の胸で泣き声を上げるウブさ……。お銀が彼女をヤさぐれどもの手から救い、賭博師の道から足をあらって欲しいと願ったのも、和子にはこの厳しい女賭博師の道が向いていないと、超プロフェッショナルの賭博師であるお銀には判ったのだろう。お富士さんの肝っ玉おふくろさん、といった感じが実にいい。憧れちゃうなあ。あんなふうに年を取れたらって。

お富士さんの切り盛りする呑み屋の従業員で、歌ばかり歌っている女の子や、イロっぽい女賭博師の股の間ばかり気にしている助平三人組のてんぷくトリオなどのゲストも楽しい。伊東四朗は昔っから、まんまの声ね!★★★★☆


おんなの細道 濡れた海峡
1980年 71分 日本 カラー
監督:武田一成 脚本:田中陽造
撮影:前田米造 音楽:寺島尚彦
出演:桐谷夏子 山口美也子 小川恵 三上寛 草薙幸二郎 石橋蓮司 田山涼成 大平忠行

2002/5/23/木 ビデオ(井田祥子氏提供)
タイトルは“おんな”だけど、主人公は男。いや、彼はおんなのそれぞれの人生を照射する狂言回しだから、やっぱり主人公はおんなたちなのかな。その狂言回しは三上寛。三上寛ッ!なっつかしいなあ。青森の郷土スターの一人である彼、青森にいた中学時代、よく見聞きしてたんだよね。ラジオも聞いてたし。そのヤボったい風貌とヤボったい喋りは一般世間の人がイメージする青森そのもので(でも実際は青森って端正な顔の美形が多いんだよー、びっくりするぐらい。ホントに!)そのショボさが愛し懐かし。冒頭、彼は一人の女とともに汽車に乗って彼女のダンナに会いにやってくる……って、ここはどこ?街の風景はそれこそ青森っぽい。冬の空のどんよりとした感じとか、雪の積もり方とか、つららの感じとか。でも後からのセリフによると三上寛扮する主人公の男(めんどくさいから三上寛で統一)は東京から来たらしいし、でもこの彼女はこの北の地のストリップ小屋の踊り子さんで、なんでまた彼と出会ったのかなあ?……なんてことまで考えるのはヤボかしらん。ここまで来ちゃったんだからなあ、と気合のないつぶやきで、行き当たりばったりにおんなの道行きについて行く三上寛。

でもそのダンナはヤクザなコワイ人で(そのなまりはやっぱり青森っぽいなあ)、しかもその彼女、シマコは死んでしまった兄貴から譲り受けた義理のある女房であり、彼を容易に許すようには見えない。逃げて、逃げて!と叫ぶ彼女に言われるままに、彼は走り出す。彼女は雪の上を引きずられながら、あんた、あんたー!と叫び続ける……このショットはかなりスゴいんだけど、シマコさん、画面の口と声が合ってないよう。

行くあてもなく北の街のバスに乗る。自殺志願者らしき少女との出会い。見殺しにしちゃったのかなあ、とつぶやく三上寛。やたらと自問自答する彼は、「北の国から」の純君みたいに、父さん……と呼びかけながら一人ごちる。彼の父親は牧師だったということ、ぽろぽろ、ぽろぽろ、という口癖はパウロ、パウロなのだと後に語られる。いつでも許しを請う癖がついてしまったような彼だけど、真剣に人生の選択をして罪を犯したわけでもないのだから、許しを請う権利などまだまだないのだ。彼はとある一杯飲み屋に入る。ろくなつまみもない寂れたその飲み屋。おかみさんのキツい北国なまり。腹へったなあ、腹へったなあ、とつぶやき続ける彼に引き戸をがらがらと開けて手だけ出し、干したニシンをほおってくれる男。すみませーん……と鼻の下をのばし加減にしながらその引き戸の向こうを覗き込む三上寛(思わずこのぬおーとした顔に吹き出しちゃった)の目に映るのは、男の腕に囲われて、まるで飼われているように布団の中から顔をのぞかせている一人の女。その疲れた二つの目。その夜彼はこの二人の一晩中のセックスの声に悩まされることになる。

この男は石橋蓮司。ギリギリ30代とおぼしき時だけど、ふ、ふけてる……。しかもこのワルそうな顔!この女との別れを決意しているのか、執拗に執拗に執拗にいじめるように彼女を抱き続ける。うー、石橋蓮司、熟練工だよ。三上寛も頑張ってるけど(?)石橋氏ってば、どんなに激しく暴れ回るセックスの動きしてても、全然ブレずにカメラのフレームに収まってくるんだもん。スゴいわ、さすが。事後、自分の指に絡んだ女の髪(うっわ……)を石油ストーブで焼く彼。やめてよ、あたしが焼かれてるみたいじゃないとささやく彼女。彼の細い目にストーブの炎が反射して白銀のようにギラリと光り、女をねめつけるかのように見下ろしている。

この男は漁師。彼女に会うために九州から北の地まで、ムリな出稼ぎをしに来ている。彼の船がつく宮古に行くの、といってバスに乗る彼女とともに、これまた行き当たりばったり的に同じバスに乗る三上寛は道行きを共にする。昨晩激しく彼女をイジめた男によって、全身くたくたになった彼女を抱く三上寛。痛がりながらも彼を求める彼女の上で、やっぱりやめとこうかな、やっぱりヤバいかな……と再三繰り返しながら、ま、いいかあ……と腰を動かしちゃう三上寛。お、おまえなー、イイカゲンだなあ、まったく。そのイイカゲンさが全くもっておっかしいんだけど。

しかし。帰ってこないと思っていた男が帰ってくる。二人仲良く“さみしい”うどんを食べていた時。さぞかしシュラバになるかと思いきや、男は確かに帰ってこないつもりだった自分に対して罪の意識があるらしく、怒ることができない。うう、イイ奴……。男は三上寛と共に飲みだす。あの女、良かったか、と尋ねる男に気を遣って、良くなかったですと答える三上寛に男は激昂する。彼女にホレてるんじゃないですか……、まったく。三上寛が心配するほどのこともなく、二人はあっさり絡み合ってよりを戻す。おたっしゃで……そうつぶやいて、彼は今度こそシマコを取り戻しに行く決意を固める。

その途上で再び出会うバスの少女。生きてたんだ……と思わず言う彼に、死にそこねちゃったの、と屈託なく言う彼女。お礼をしたいの、私が今生きていることに、あなたにも責任があるのよ、と彼女は言い、次のシーンではホテルでセックスしている!?なんでこんなことになっちまうのかねえ、とつぶやく三上寛。ホント、なんでかねえ……とつぶやく私。まあ、人生のうちで一度はモテる時がくるっていうし(私はまだだなあ……くるのかなあ)いいんじゃないですか。まったくそれこそ肥えたニシンみたいな指して……(あ、それとも、うどんのような指かしらん)。しかも彼女に子種を提供してしまい、ウロタえる彼。パンツいっちょで逆立ちし、子宮に精子を落とし込もうと試みる彼女。「ビッグ・リボウスキ」のヘンなヨガ体操を思い出しちゃう。こういう試みって洋の東西問わずなんだあ。彼女はゆくゆく目が見えなくなる難病に犯されているのだという。ヤケになって死のうと思ったけど、おなかに赤ちゃんがいたらそんなわけにもいかないでしょ、と言う。うろたえまくってゴロゴロ転がる三上寛に対して、彼女は凛としている。はかなくもけなげ、そして強い。女には、かなわんよ。

ついに、シマコのもとに向かう彼。まったく、寄り道しすぎだぞ、お前……。コソコソと客席に入り込み、男と舞台でホンバン中のシマコをじっと見つめる。シマコはあれ以来すっかりヤク中状態で、この時もカンペキにラリッている。じっと、じーっと見つめる彼。「シマコ、俺とやろう、俺とやろう!」と呼びかける彼に、ハッとなる彼女。ピンクの照明が彼女の白い肌を染めて妖しくも美しい。彼女を追って舞台裏に駆け込むと、かの社長と対峙する。手下に包丁を突きつけられ、息をのむ三上寛。と、その時シマコがおどり出てくる。「この人に何かしたら、これ全部飲むからね!」と片手に山盛りに盛られた錠剤。ひるむ社長をよそに、二人は手に手を取って出て行く。アイツから引き離したらシマコはダメになる、俺の元には帰らない、そう思って手出しが出来ず、一人ぐるぐる悩む社長は、義理じゃなくて本当にシマコのことが好きだったんだね。何かちょっとジンとくるなあ。おそらく社長に許されてこの街を出ていく二人、冒頭のように雪の上で足を滑らせて。そうそう、青森では長靴は必須よ。

退廃的で耽美な美しさのストリッパー、シマコといい、陰のある明るさがいじらしいバスの少女といい、果ては飲み屋のどっしりとしたおかみさんに至るまで、女たちが総じて魅力的。重い湿度の寒さが骨身にしみる冬の北国の、立ち枯れた草木と重い雪、人生の節目を象徴する川に渡された中途半端な大きさの古ぼけた橋を渡る二人で終わるラストクレジットに、郷愁をそそるワルツの音楽も耳に残る。★★★☆☆


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