home!

「い」


2007年鑑賞作品

硫黄島からの手紙LETTERS FROM IWO JIMA
2006年 141分 アメリカ=日本 カラー
監督:クリント・イーストウッド 脚本:アイリス・ヤマシタ
撮影:トム・スターン 音楽: クリント・イーストウッド
出演:渡辺謙 二宮和也 伊原剛志 加瀬亮 裕木奈江 中村獅童


2007/1/31/水 劇場(渋谷ピカデリー)
タイトルが日本語で出るのにはビックリした。英語のタイトルが出ない。え?これってどういうこと?向こうでもそうなの?それとも合作だから日本での公開ではそうしてるのか、あるいは、日本に敬意を表してということなんだろうか。
最初からそう確信してはいたけど、やはり二部作といえども監督にとってはこっちがメインだったんだと改めて思う。今思えばあの第一部は、この第二部を際立たせるために存在していたんではないかとさえ思う。
実際、賞レースに登場するのは、こっちが圧倒的だし。日本映画じゃないんだけど、なんとなく溜飲が下がる気持ち。こんなことで溜飲が下がってもしょうがないんだけど、役者のレベルだってこっちが上のように思うもん。

第一部は、どこかドキュメンタリーチックな趣だった。勿論それもまた演出ではあるんだけど、生き残った者たちが遠い過去の戦争を振り返る、そんなノスタルジックな雰囲気さえあった。
でも、この第二部には、生き残った者などいない。すべてがあの時の、あの時間を描写している。この硫黄島に来る前の回想は描かれても、この戦争が終わった先の時間は描かれない。だからフィクショナルというまではいかないけど、よりドラマチックに感じる。
でも、語り部としてのキャラの西郷(二宮君)は、あの様子では生還したんじゃないかとも思う。彼はみごもった妻とそのおなかの子供に、生きて帰って来ると約束したのだし。
でもさすがに、その再会を見せるほど甘い描写はしないけれども。
本作は冒頭だけ、ちょこっとドキュ風が入っている。あれから何十年もたって、硫黄島から掘り出された無数の手紙。出されることのなかった膨大な思いが、土の中から掘り出される様子から始まる。
この手紙、遺族が読むことが出来るほどに、発見は間に合ったんだろうか……。

熱くて、硫黄臭くて、汗と砂まみれになって、彼らは塹壕を掘っている。仲間内では文句や軽口を叩くものの、上官の前では起き上がりこぼしの人形みたいにスチャッと姿勢を正す。その繰り返しはなんだかユーモラスにも思える。
そう、最初のうちは、判っているはずの彼らの決意も巧みに隠されている。ただ……そのモノクロにも近いような映像が暗くのしかかってくるけれど。
そんな中、新しい司令官がやってくる。この映画はこの人の存在があってこそ作られてる。栗林中将。アメリカ留学の経験を持つ親米派で、それだけにこんな状況下で周囲から疎まれることもあり、劇中でも保守的な部下から反旗を翻されて苦労する。

ケン・ワタナベはもうそりゃあ、圧倒的な存在感。でも穏やかで、にこやか。西郷達に体罰を下している上官をおっとりと制し、塹壕堀を中止させるんである。「彼らを見たまえ、まるで月から帰ってきたみたいだ」と軽くジョークを飛ばし、「貴重な兵隊だ」という言い方をする。西郷はニヤリと笑って、「あの栗林っていうのは大した上官だぜ。少なくとも俺たちは今、穴掘りから解放されている」
なんかやっぱりどことなく、アメリカ風だよね、こういう会話の感じとか、皮肉を言ったりするのも。日本の作る戦争映画ではちょっと考えられない、というか、日本人の交わす会話としても若干の違和感が残るような気もする。いや、それとも、「あの頃の日本人」を、ただ悲惨なだけのイメージでとらえすぎなのだろうか。

栗林は、塹壕などという当たり前の方法では、この島が守りきれないことが判っていた。いや何をどうしたって、あまりにも兵力の差がありすぎ、しかも本土防衛のために硫黄島の自分たちが見捨てられたことも明らかになってくる。でもここは、本土に乗り込まれる前の重要な地点。硫黄島を守らなければ、自分たちの家族がいる本土を守れない。
十中八九全滅を覚悟していたけど、自分が死ぬこともイメージしていたけど、出来るだけ長く抵抗するシュミレーションを栗林は立てる。それは水も食料もなくなる過酷なものになるのは判っていた。
本土を守るために。本土は自分たちを見捨てているのに。本土の防衛に使うからと、応援を一切拒否してきたのに。 だって、本土には愛する家族がいるんだもの。

戦争に臨む若者たちの、一見楽しげな仲間の様子は、アメリカも日本も同じように見えなくもない。でも愛する我が国のため、がいまだにノーテンキに通用するかの国の楽観主義は、こんなちっぽけな島で死ぬはずがないと思っており、一方この国は、もう最初から死にに来ているのが判っている。それはわざわざ上官に言われなくても判っている。判っているから、わざわざ言われたくない。

記録フィルムに残された「天皇陛下バンザイ」は、ちょっと信じられないほど笑顔だったりする。だって、特攻隊に手を振るその顔さえ笑顔なんて、ありえないもの。
でもやっぱり本当はこんな風に、色を失った顔をして、フラフラとその手を天にかざしていたんだろう。考えているのは、天皇陛下のことじゃなくて、もう二度とは会えない愛する家族のこと。
それを振り切るためには、天皇陛下という大義で支えてもらうしかない。本当に天皇陛下のために死ぬんだと、思い込むぐらいにならなければ、振り切れない。それを、今こうしてようやく再現しているように見える。

色味の少ないモノクロのような画は、第一部よりそれを顕著に感じる。炎だけがやけに赤々としている。第一部では硫黄島での戦闘と、英雄として迎えられるアメリカ本土とが等分に描かれた。彼らを迎える熱狂があまりに華やかだから、戦場の様子が対照的により暗く、悲惨に感じられると思ったけど、本作を見てしまうとその印象もまた、覆せざるをえない。
ただ暗く、悲惨で、残酷で、未来がなくて。過去の回想も、ただ暗く、悲惨で、残酷で、未来がない。比較だ対照だなんて言っている余裕などない。だって第一部の彼らは、生き延びたのだもの。たとえその人生が空しいものであったとしたって。
だから、ほんの少し華やかな部分が見える栗林のアメリカ留学時代の回想は、少し水を差すような気は、ほんのちょっとだけ、したんだけど。

アメリカと日本がもし戦争になったら、あなたはどっちにつくのかとある夫人に聞かれた栗林は、日本人として祖国のためにつくします、と答える。夫人はビックリしたような顔をする。側にいる夫人のご主人は真の軍人の答えだ、と讃えるのだけど、夫人は、でもあなたに銃を向けるということなのよ、と言い、栗林は「そんなことは絶対にしません」と笑う。
この時、栗林はそれが本当になると、予測していただろうか。いや、していたかもしれない。聡明な、真の軍人なのだもの。
沢山のアメリカ人の友人を持ち、名誉ある地位を称えられ、お互いの友情の証しに美しい銀の拳銃が渡された時、まさかそれがアメリカとの戦争に持っていかれるとは、この中の誰が予想しただろう。

でも、栗林はこの拳銃をいつも大切に腰にさしていたけど、それを抜き出すことは決してなかった、ような気がする。
それが抜き出されるのは一度だけ、最後の最後、倒れた栗山から、アメリカ兵が「こりゃいいぜ」てな雰囲気で抜き取るのだ……。

語り部となる西郷は、戦争にとられる前、パン職人だった。戦況が進むにつれて、パンは全て軍に持っていかれてしまった。最後に作ったハムサンドも。そして最後の最後には、道具も全て兵器にするために持っていかれてしまった。
もう、帰っても、パンが焼けない。自分はただの、本当にただのパン屋なのに。
パンというのが、庶民的ではありつつも、やっぱり西洋のものだっていうね、思いがあるから、西郷の立場って微妙だよね。
それは、栗林の、アメリカ留学の経験とも重なる。つまり、二人ともこの撃ちてし止まむの大和の国では、異端児だった。西郷はパン職人である自分を誇りに思っていただろうし、栗林は文明の発展目覚ましいアメリカに日本もいつかこうなるんだと、そのために自分は尽力するんだと思っていただろう。
でもここでは、そんな考えをもらすことなど許されない。

二宮君は「青の炎」の頃から絶賛されてたし、今回もオスカーにノミネートされるんじゃないかとかもっぱらの評判だったけど、私はどうも彼の演技はダメなんだよね。生理的にダメっつーか。
なんていうか……ちょっとベタついた感じが、受けつけないというか。これはホントに生理的なもんだと思うから大きく主張は出来ないんだけど。
ところでまさか、本当にジャニーズの方針で辞退を申し入れたからノミネートされなかったってわけじゃないよね?そんなバカな理由を受け入れるわけもないと思うが……。
しかしさ、賞っていうのは、競うとかじゃなくて、その人が素晴らしい!と思って、それを伝えたい、あなたは私たちに感銘を与えたんだ!っていう意味だと私は思ってるからさ、それを“辞退”って、「おめーなんかに褒めてもらったって意味ねーよ」って言ってるみたいで、すんごい感じ悪いよなー。まあ彼に責任があるわけじゃないけど……。

しかし、いくらなんでも彼と裕木奈江が夫婦というのはムリありすぎだけど……。しかも姉さん女房とかじゃなくて、フツーに夫婦の設定っぽいんだよね。まあ確かに彼女はベビーフェイスだけど、だからって彼と夫婦に見えるのだろうか……。二宮君は別に特に大人っぽいって訳じゃないしさあ、年相応の若者だよね?正直言って細君持ちにさえ見えない。
彼女が彼の胸で泣くとか、彼が彼女の大きくなってきたお腹に耳をあてるとかいうシーンは私、かなり見てられなかった……。

私としては、やっぱり加瀬亮が贔屓なんだな。
憲兵隊をたった数日でクビになり、この未来のない島に送られてきた寡黙な青年、清水。
上官の命令どおりに犬を始末できなくて、憲兵隊から最前線に送り込まれてしまった不器用な青年。
誰とも打ち解けられなくて、スパイじゃないかと疑われたりして、それを否定することさえ出来なくて……。
でも、他の皆と同じように千人針を腹にまくのだ。黙って、ひとりで……。
清水が来る前に、西郷は気の合った仲間を赤痢で失っているのだよね。
その場面を赤裸々に示すわけではない。清水が赴任してきて寝床をどこにするか、ということになった時、そこにいた男は死んだんだという話になるだけで。
そうか、彼は死んでしまったのかと、その時になって初めて知る。常にお腹をグルグル言わしてたその描写はまた、どこかユーモラスでさえあったのに。

この島の敵はアメリカ兵だけではなく、そうした劣悪な環境もだった。皆の排泄物を顔をしかめながら外に捨てに行くシーンもちょっと可笑しみがあるけど、その時西郷は、島の周りの海を埋め尽くす膨大な敵艦に呆然とする。まさに、第一部でもまず目を奪われたシーンである。

ついに米軍が上陸してくる。必死に迎え撃つ日本軍、無数の穴の中を届かない無線が彼らを混乱に陥れる。この作戦に反対だった一部の部下が反乱を起こしたことで作戦は崩れ、あまたの兵士が戦うことさえ出来ずに死んでいってしまう。
栗林は、とにかく死ぬなと繰り返していた。どんな状況になっても自決は許さない。10人の敵を倒すまでは死ぬことは許さない。生きて、生き抜いて、国のために戦えと。
それは一見、とてもまっとうな戦術のように見えて、しかしややこしい美意識を持った日本人にとって、それは時として受け入れがたいものともなるのだ。
「お願いですから、自決を許可してください」と何度も無線で訴えてくる部隊に、「認めない。絶対に死ぬな。これは命令だ」と繰り返す。それは命令を言っているという感じではなく、そう……力点は「絶対に死ぬな」のところに置かれている。
ムリだと判っているのに、この戦況を生き抜いて、皆で本土に帰ろうと言っているように思える……。

西郷と清水のいた部隊は追いつめられ、上官はここで潔く自決すべきだと命令し、仲間達は震えながら手榴弾のピンを次々に抜いた。
西郷は、生き残った者は他の部隊に合流せよという栗林の無線を聞いていたから、必死になって上官を説得しようとするのだけれど、上官は耳を貸さず、彼もまた爆死する。
返り血を浴びて呆然とする西郷。そして清水もピンを抜けないままでいた。
いわば彼らは、腰抜けの弱虫。潔く自決も出来ない恥さらしってことなんだろう。
でも西郷は、「ここで死ぬのと、生き残って戦い続けるのと、どっちが天皇陛下のためになる!」と清水を説き伏せる。
目の前には、無残に腸を撒き散らした仲間たちの自決死体……。
死ぬことへの恐怖に怯えていた清水は、最初こそ精一杯強がって西郷に銃を向けたのだけど、ついには彼に説き伏せられる形で他の部隊への合流を目指すことになる。でも、ひょっとしたらその自分の弱さをずっと負い目に感じていたのかもしれない。

伊藤率いる部隊に合流した時、この男がまたなんたって中村獅童が演じているぐらいだから思い込みが激しいっつーか、かなりクレイジーで、「逃げ出してきたのか、この腰抜け!」と西郷は首に刀を当てられ、危うくそのまま殺されそうになるんだけど、ここでもまた栗林中将によって助けられるんである。
命令を出したのは私だ、と。
「自分が中将に助けてもらったのは二度目です」西郷は栗林と二人きりになった機会にそう打ち明ける。
「そうか。あの時の」栗林はニッコリと笑う。西郷がパン職人だった話をしたりして、本来ならば接点のないはずの二人が、不思議に打ち解ける。
この不思議な縁が、西郷に「三度目」をもたらすことになる。もう、ギリギリ、ダメだって状況になって、栗林は西郷にある頼みをする。「二度あることは三度だ」そう笑顔を見せて。

清水とは、別れが待っていた。
清水は死への恐怖、に真正面から向きあっていた。この時代、そういう思想はただの腰抜けとしか言われなかっただろうけれど、一瞬目をつぶってピンを抜いてしまう方が、ひょっとしたら楽な腰抜けの選択だったかもしれないのだ。
自分の気持ちの全てを、このギリギリの状況で出会った親友、西郷に、清水は全て打ち明けることが出来る。
そして、一緒に投降してくれないかと、震えながら言う。
西郷はそれに頷き、タイミングを見計らって彼を送り出したけど、本当に後から行くつもりだったのかな……。

捕虜となった清水は、一足先に捕虜になっていたかつての同僚と再会する。
「ここではメシが食えるらしいぜ」「メシか、いいな」夢見るように、どこか力なく笑いあう二人。
でも、捕虜を監視しているのがメンドくさくなった米兵は、「いい考えがあるぜ」とカルーく言い、二人を撃ち殺してしまうのだ。
本当にショッキングな場面で、実際、決死の思いで捕虜になっても、こんな風にやすやすと殺されてしまう命なのかもしれない。それが確かに現実だったんだろうとは思う。でもね、これは日本側がテーマの話で、だからこんなシーンを用意したようにも思えるんだ。
だってね、情報を取りたいという名目で、傷つけた米兵を運び込んで手当てする場面が出てくるじゃない。なんか、ちょっと浪花節的で、彼が大切に持っている母親の手紙が、「俺のおふくろの手紙と一緒だ」なんて言ったりして、ホントいかにもなんだよね。それと対比させる意味で、カルーく捕虜を殺させたようにも思えてさ……。
確かに第一部で日本兵は正体の見えない、ただただ無気味な存在としてしか描かれていなかったけど、これが第二部で明らかにされるんだな、って思ってたから……。ちょっとだけ、浅慮な対比のように思えたの。

この米兵に「私はダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードと友達だ」と話し掛けるのがバロン西と呼ばれていた西竹中佐。ロサンゼルスオリンピックの乗馬で金メダルをとった彼は、当時アメリカでも非常に人気があったという。“男前”と評判で、ここでも兵士たちから一目置かれている彼を演じているのは伊原剛志。そーか、伊原剛志が“男前”か。そーか……いいけど。
彼は栗林の一番の理解者であり、馬を愛する者同士でもある。保守的な側近たちから白い目で見られている栗山を何かと気にかける。
彼に関しては、わざわざこの島に取り寄せた愛馬が、米兵の最初の攻撃で命を落としてしまうシーンと、両目を負傷し、指揮が出来なくなった彼が部隊を先に行かせて自決するシーンが印象に残る。
後者に関しては、ここはさすが日本人の美意識を理解してくれてるなと思った。それに、その場面を映したりもしない。銃の音だけが、外に出た兵士たちの耳に聞こえる。何が起こったのかは理解したけれど、西の気持ちを汲んで引き返したりはしない。歯を食いしばって、彼らは先へと進むのだ。
そしてその報告が栗林に届いた時、もう彼の選択は決まっていた。

「死ぬ覚悟は出来ているはずなのに、家族のことを思い出すと、その決心が鈍る」栗林は西郷にそう語っていた。
それは西郷が、妻とまだ顔も見ていない生まれたばかりの娘を残してきた話に対して、彼の気持ちを思うように言った台詞だったけど、勿論自分に向けて発せられた言葉でもあった。
栗林が書いている我が子へあてた手紙は、なぜだか今ここでの報告ではない。かつて、希望に満ちていたアメリカにいた頃の思い出だ。
それは、そんな手紙を書いていたかつてを思い出しているのか、それとも子供にウソをついて書いているのか。しかも、届くあてもない手紙を……。
いや、自分にウソをついているということなのかもしれない。今、確実に死に向かっている戦場にいるのではなく、希望に満ちた国からたくさんのものを祖国に持ち帰る帰途にいるのだと。
そして、その膨大な手紙を埋めるよう、西郷に指示する。ここにお前一人だけが残って、埋めるんだ、と。
これが、「二度あることは三度ある」だ。
西郷一人だけを残し、部隊は最後の攻撃へと出かける。
栗林の顔はもう、イッちゃってて、確実に死ににいくつもりだというのが判る……。

作業を終えた西郷は外に出る。もう、生き残っている日本兵は誰もいない。
と、思ったら、砂山の向こうに倒れている影が見える。
西郷は転がるように駆け寄る。「栗林中将!」
「ここはまだ、大日本帝国か」息も絶え絶えに問う栗林。「そうです」「頼みがある……」
そうか、ここは……ここは日本なんだよね。
こんなこと言いたくないけど、日本で死ねたことはこの状況の中でかすかな、救いだったのかもしれないんだよね。
止めを刺すための銃声がとどろく。西郷は声も出さずに涙を流す。
そこに米兵がやってくる。栗林の腰にさされた、一度も抜かれることのなかったあの美しい銃を、米兵がいともカンタンに取り出し、ひゅう、とばかりに自分の腰にさすのを見て、西郷は逆上する。暴れ回る。声にならない叫びをあげて……。
そして、米兵の負傷兵と共に、彼は海岸へと運ばれた。

「靖国で会おう!」って台詞がね、そこここに出てくるのが、うう……って感じなのよね。
なんか……なんとも言いようがない。
「天皇陛下バンザイ!」と共に、フツーに言われていた価値観だということなんだろうか。
確かに「天皇陛下バンザイ!」は、今までの日本の戦争映画でも聞いた覚えがあるんだけど、「靖国で会おう!」はちょっとショックだった。何がショックだって言われると、上手く説明できないんだけど……。

たった61年前。昔々と思ってたけど、年をとるほどに、時間の感覚が短くなる。例えば、いまや芸術&エンタメとして確立した映画は100年ちょっと。むかーしからあるように思ってたその映画が生まれて、40年しか経たずに起こったことだなんて。
あの戦争を外国からの目で捉える時、日本にはアジア各国の憎しみがいつもいつも向けられていた。それは仕方のないことだった。ちゃんとそれを見据えなければいけなかった。しかし今回は全く様相が異なる。しかもハリウッド映画として全世界に発信される。
アジア各国は、この映画をどう受け止めるのだろうか……。★★★☆☆


無花果の顔
2006年 94分 日本 カラー
監督:桃井かおり 脚本:桃井かおり
撮影:釘宮慎治 音楽:KAZ UTSUNOMIYA
出演:桃井かおり 山田花子 石倉三郎 高橋克実 岩松了 光石研 渡辺真起子 HIROUKI

2007/1/8/月・祝 劇場(銀座シネパトス)
なんか正直、よく判んない。うーん、桃井さん、やりたいこと一から十までやっているって感じはするんだけど。少々困惑してユーザーレビューを渡り歩いてみたら、やはり皆、同じよーに困惑している感じ。
ストーリーだけ読んじゃうとね、普通というか……ある意味ちゃんとドラマが流れているのよ。ホント、解説読んでみると、凄くフツーのメロドラマ。この映画を実際に観て、こんなあらすじにまとめるのか……プロは凄いな。
ああこういう話……だったな、と思うんだけど、これが観ているとよく判らない。というか、中盤までは何がどう行われているのか追いついていけなくて焦りさえ感じる。
だから、観ている時は、これはひょっとしたらもの凄く深い映画なのかも、よく判んないって思うのは、それを汲み取れない言い訳かもしれないなどとも思ったのだけど、観終わって考えてみると、シンプルな話がただ単に判りづらくなっちゃっている感じがするなあ、と開き直って思っちゃうんだよなあ。

特に前半。会話がよく聞き取れない。自然さを大事にしているのかもしれないけど、特に監督自身の、あの桃井節が聞こえなくて聞こえなくて、もー、焦った。
構図や色にこだわりまくるのも、話そのものを理解しにくくした遠因だったかもしれない。見た途端、オシャレで、凄く個性的に見えるから、これはブッ飛んだアヴァンギャルドな話なのかもしれない、などと思っちゃうの。何たって桃井かおりだし、とか思って。
これが監督第一作だから、どういうものを出してくるか想像もつかないから、そして何たって桃井かおりだから観客は色々と身構えちゃうのよね。

カメラが魅力的な角度で撮れるように、凄く個性的に作られた家の構造なの。改めて考えると、ちょっとおかしな造りかもしれないと思わせるような。
極端に強調された遠近法で玄関から長く長く続く廊下は、その奥に走って行く人物が豆粒になってしまうほど。縁側からは台所までが広々と見渡せ、あまりにも見渡せ過ぎて、台所が50メートルも遠くにあるように見える。台所から続く居間、その間を、家族に食べさせるために、お母さんはとにかく忙しく動き回るのだ。
台所から居間に長く長く引かれたオレンジ色のガス線、赤い冷蔵庫、お母さんの原色ファッション等々、パレットに全ての色をしぼり出したようなカラフルな画面、しかしぼやけた色味で夢のように構成される。何か、出始めのウォン・カーウァイを思い出す。
美術に御大、木村威夫を持ってきたのは、もちろんこの一見しただけでまず画が目に焼きつくという効果を狙ったんだろうと思うけど……内容のカラーと合ってないからそんな具合にコンランしちゃうんだよな。

家の中はとにかくこんな具合に、ツクリモノみたいにアヴァンギャルドなカラフル。でも外に出るとその色は失われる。それが意図的にやっているのかどうか……ギャップというほどの差異ではないから、統一性がないように感じられるの。
それに、ちょっと懲りすぎな感じがするんだよな。家だけでなく、父親が住むウイークリーマンションも画の効果をネラって奥行きや角度がかなりヘンなことになってる。もう、ひん曲がりまくってる。それは玉子が奥の奥まで転がっていくためだけに、そんな描写のためだけにって感じ。そんな、ネライだけを感じて、その面白さを楽しむ気持ちが失われてしまう。
しかも、ここに娘が訪ねてきた場面、窓から落としたピーナツがカメラに激突して巨大化し、ピクサーのアニメよろしくアリさんのCGアニメに突入するのには唖然とした。だって、全然、関係ないじゃん!やりたいことをやるのにも、限度ってもんがあるんでないかい……。意味も面白味もあったもんじゃないよー。

でね、彼らは結局どういう関係?って頭が?マークだらけになりながら観てる訳。
最初から実の親子ではないというのは、なぜかこちらに感じさせるものがあった。どうやら子供たちは知らなかったみたいなんだけど(解説ではね)、知らなかった、という設定が、ええ?っと思うほど、わざとらしかった。
判ってたんでしょーって思っちゃうわざとらしさを、美術のわざとらしさも後押ししてた。もうその前提が見えている監督の意識が、描写に移ってしまっていたの?それはマズいなー。

どうわざとらしいかっていうとね……なんか家族ごっこをやっているような感じなのよ。そこが家なハズなのに、母親以外の、父親も娘も息子も、夕食もそこそこに「帰る」わけ。「もう帰るの?」なんて母親はどこか悲しそうにあたふたとする。この、「帰る」という言葉が、とにかく、何度も何度も象徴的に繰り返されてた。
子供たちはそれぞれ独立しているから、つまりそれぞれの住まいに帰るという意味だったんだろうけど、それにしては、夕食の時だけわざわざ実家に集まるというのもヘンな気がした。そんな、わざとらしさ。

だからね、最初、このお母さんのために、擬似親子として集まっているのかとか思ったの。母親が父親とかみ合わない会話を、しかし楽しげにしているのも、そんな感じがした。
父親はね、ひたすら塩辛が甘いだの、じゃがいもは大きめに切らなきゃほっくりしないだのと、妙にマッチョな飲食のこだわりを披露するのね。それを母親は、「やだもう、お父さん」と笑い飛ばす。会話がかみ合ってないのに、かみ合ってるかのように、楽しそうにしている二人、特に母親は、理想的な夫婦を殊更に演出しているようにも見えた。

でも一応、この二人はちゃんと夫婦……だったんだよね?なんて戸惑いを更に助長するのは、後半にこんなシーンがあるから。
仕事でずっと家を空けていた夫から突然かかってきた電話に、「ビックリした。別れようって言うのかと思った」と彼女、「それを言うなら結婚しようだろ」なんてやりとりがあったから、あれ?二人はやっぱりちゃんと夫婦じゃないの?と思っちゃう。まあ、冗談だったんだろうけど……。
でもちゃんと夫婦なんだよね?彼女の弟はお義兄さん、と呼んでたし……。でも、どことなくぎこちないの。一体どうなってんの?
娘がやたら証拠写真みたいに家族の写真を撮りまくってるのも、そんな思いを加速させるのよね。
でもこの時点では、子供たちは何も知らない。普通の家族だとしか思ってない。彼らの関係が明かされるのはずっとずっと後。それまで、内容の判りにくさに、悩みまくる。

結局、子供たちはこの親の実子ではなく、養子だったってことなんだけど……あ、あの戸籍謄本、よく見えなかった。養子は娘の方だけだっけ?それとも両方だっけ?どういう事情だったかなんてのも、明かされないんだよな。
で、それを娘が知るのは突然の父親の死によって。遺影に使う写真を探していると、その中から出てきたのだ。なんかね、そこでもね、驚いたって感じがなかったんだよね。いつも見慣れているものを、今見直しているって感じだった。

父親の突然の死は、過労だったのだろうか。彼は手抜き工事が許せなくて、近くのウィークリーマンションに住み込んで、深夜に現場に潜り込み、こっそりと直す日々を続けていた。
でも、彼は現場からハズされている雰囲気がなかった?だって、「自分の現場だ」という建築現場の大工たちは彼のことを知らなかったし、彼の知らない間にいつの間にか普請が変わってるしさ。
この辺も正直、よく事態が飲み込めないのよ。最初は彼が、自分は大工だといつわっているプータローなのかと思ったぐらい。そして、こっそり工事のやり直しをするのも、全くの妄想的思い込みなのかと思ったぐらい。
だから、彼の葬儀にちゃんと仲間たちが集まって、ビックリしたの。いや、私もちょっと深読みしすぎだけどさあ……でもそれぐらい、彼らの人物設定が判りづらかったもんだから。

娘がどういう仕事をしているかっていうのも、至極判りづらいのよね。出勤しても「あなた誰?」と言われる始末だし。
どうやら彼女はライターで、殆んどの仕事を自宅でこなしているから、ってことらしいんだけど、このあたりも父親と似ている気がする。ああ、そうか。そんな現代の人間関係の希薄さを示しているのかしらん、って観ている時には全然思い当たらないんだけど。

ああ、そうそう、父親がウィークリーマンションに住んでいる時に、隣の建物に住んでいる女との接触もよく判らんのだよね。あれはまさに桃井かおり的、謎な展開。
いつもスリップ姿で窓に腰掛けているんだけれど、思わず目を伏せる父親の視線をカメラにしているから、彼女の顔は全然見えてこない。
彼女は窓越しにひらりと入ってきて、なぜか冷蔵庫に豆腐を入れたりする(おすそ分けか?)。お風呂を勝手に使ったのか、バスルームから窓まで濡れた足跡が点々としている(???誘惑しているのか?)。
父親は往来で彼女の後ろ姿を見かけ、後を追ってみるとコンビニの店員をやってた。レジで曖昧な笑顔で向かい合うシーンは、……うーむ、その後の×××な展開を暗示している訳じゃ、ないよね?なんか無愛想な顔の女性で、それに気後れした笑顔のようにも見えるし……あー、判んない。

で、そうそう、突然死んじゃうお父さん。ウィークリーマンションに泊まり込んでた日々から、ようやく帰ってきたばかりだった。泥だらけの作業着のまま食卓に座り込み、朝からご満悦でビール飲んでた。「お父さんが帰って来るとうるさくていいわ」と母親も嬉しそうだった。
死んじゃったお父さんを無造作に床に寝かせたまま、お通夜に出前の寿司を電話で頼んでいる母は、やけにハイテンションで楽しそうでさえある。何が起こっているのかまだ理解できていない痛々しさというよりも、桃井かおり的楽しさを感じるのはどーなのかしら。
でもその一方で、遺影をなかなか探し出せない娘に理不尽に当たり散らす。確かに情緒は不安定になっているんだけれど。
で、その時に娘は、自分が養女の戸籍に入っていることを知るのね。そうか、この時に知ったのか。前から知ってたって感じだったけど……。

父親の通夜の席に仲間たちが集まった時も、母親の妙なテンションは収まらなかった。喪服にもならずに、父親の好きだったコロッケを黙々と作り続けた。それは集まった皆のため、あるいは死んでしまった父親に供えるためというよりも、本当に父親に食べさせるためみたいだった。
そして荼毘に付す時、母親は止めさせる。「どうしてそんなすぐに焼いちゃうの。生き返ったらどうするの!」娘がとりなしても、「私は認めないからね」とその場を去ってしまう。
ここでも極端な遠近法、とおーくの出口に豆粒になる母親が、せかせかとタクシーに乗り込むまでをカメラが追う。

夕食にはコロッケをてんこもりにする。「お父さん、遅いわね……コロッケ、とっといてあげよう」子供たちはツッコむことも出来ずに、ただ黙々と食べる。
でも一方で、「お父さんのタバコ、もったいないから吸っちゃおうと思って。あんたも手伝って」なんて言って、お勝手でタバコをふかしたりもする。
判ってるんだよね、死んじゃったこと……矛盾しまくりが、哀しい。ここらあたりから、ようやく内容が飲み込めてきて、そんな感情も湧いてくる。二人して夜の闇の中、タバコをふかす。母親はヤンキーしゃがみして、娘はぼーっと立ったまま。宵闇の中、タバコをふかす。

勝手にやった補修工事の末の死は、過労死の労災を認められなかった。しかも父親は保険にも入っていなかった。「お父さん、そういうの嫌いだから」でもそれってさ……やっぱり、血のつながっていない親子だからっていう気分があったんじゃないの。財産残すことないみたいな。
母親が一番、家族の形にこだわってたよね。で、家族全員、そのことを判ってた。お母さんが心配するから……みたいなのが共通認識だった。息子はかなりドライだったけど。

なもんで、生活はすぐにキュウキュウになってしまう。電気も止められ、ついには水道も出なくなった。
やむなく母親は、娘の住居に身を寄せる。東京タワーの見えるマンション。「あんた、こういうのが好きだったのね」オシャレにコーディネートされたスッキリとした部屋は、時代から取り残されたようなごちゃごちゃとした実家とは対照的。薪でお風呂焚いてたぐらいだもんね。
でも一方で、その実家は家族のあり方同様、カキワリのような不自然さがあったのだけれど……。

ここでの娘は、実家での彼女と全然違う。ずーっとパソコンに向かってて、クールである。食事が出来たと声をかけられても、実家でのようにちゃぶ台に集まって食べたりしない。パソコンに向かったまま食べて、仕事の電話にテキパキと応対する。
一方、完全なる主婦のように見えた母親も、居酒屋で働き始める。
「私語厳禁」「ただ飲みましょう、ただ食べましょう」やだ、こんな飲み屋……。
しかしそこのマスターにプロポーズされるんである。仕事と同じ調子で「結婚してください」と言われ、仕事と同じ調子で「はい、判りました」と答える母親。
なんせ私語厳禁だから、黙って聞いているしか出来ない客たち。うーむ。

そしてなぜか娘は妊娠!?一体これは何だったんだ。
なんかね、男と会っている様子は描写されるんだけど、これがまたどーにもアヴァンギャルド。
電話がかかってくる。「水でも飲ませてくんない」まずこの台詞がワケ判らん。私の聞き間違いか?
パジャマにコートをはおったまま慌てて出て行くなんて、熱愛にも見えかねないが、解説では、「なんとなく交際していた男」となってる。そうなのか?
それまでもこうして会っていたという示唆なのか、坂の途中に彼女が立ち尽くし、そこをまた違うカッコをした彼女がすり抜けていくという……あまり凝らないでほしいんだよなー、ワケわかんなくなっちゃうんだもん。

そして母親が再婚し、その戸籍には今までのように養女としての彼女の名前はなくなる。「結婚するとひとつの新しい家族になるのよ」ぼんやりとそれを眺める娘。
母親が新しい生活に慣れ始めると、突然娘は出産する。何の前触れもなく。
“娘は愛されて育ったのに、愛し方を知らないまま子供を産む“などと解説されているが、どーなのだろーか。愛されて育った、と言い切るほど暖かな描写ではなかったし、愛し方を知らない、と言い切れるほど彼女自身が描かれるわけでもなかった。
だから、唐突な感じしかしないのだ。彼女が特に考えることもなく、さらっと子育てしているように見えて、そこに決意や苦悩を感じることもない。

ただ、母親は……ちょっとおかしくなっちゃう。
なんか、時間の感覚とか、誰が誰の子供とか、ごちゃごちゃになっていく。赤ちゃんが自分の産んだ娘のように錯覚したり、反対に赤ちゃんのベッドに丸まって寝入ってしまったり。
もともと実の娘ではない養女の産んだ赤ちゃんに、娘の名前をこうしようとか言うの、なんか、痛々しい。桃井さんは一人力強く生きている人で、そんな女独特の弱さを感じたことなどなかったのに、やっぱりそういう気分が心の奥底にあるのだろうか。
嬉しいような、ショックなような……。やっぱり憧れだからさ、桃井さんは、女にとって。カッコいいから。

高橋克実演じる新しいお父さんが、その諦めも含めて男のカッコよさを見せる。
「僕はお母さんの思い出は判らないから」そう自嘲気味に言うも、義理の娘である彼女に対して「たまには家に帰っておいで」と笑顔を見せ、ベビーベッドで窮屈そうに丸まっている母親に、「お母さん、ほら帰るよ」と声をかける。
このお父さんのあり方はちょっと素敵だったかも。

タイトルである無花果は、実家の庭に生えている木。娘はその実がなったのを見たことがない。
死んでしまったお父さんは、彼女が小さい頃、お前が寝ている間に食べちゃったよ、なんて言ってた。好物だった。
それを娘はずっとウソだと思ってた。この木に実などならないのだと。
でも、そのお父さんが死んで、新しいお父さんになって、その彼が新しく娘になった彼女に言った。
「無花果を食べにおいで。今年は実がなるようになったって、お母さん喜んでるから」

ラストクレジット。もう死んだはずの最初の父親と二番目の父親が一緒にいる時点でおかしいのに、娘が幼い頃に戻ると途端に新しい父親を追い出す。
「この子が小さい時にあなたがいるとおかしいでしょ」いや、この二人が一緒にいる時点でおかしいんだけど……。
まあ、こういう遊びも桃井さんはやりたかったんだろうな。
実際、全てにおいて、まさしく桃井かおりって感じはした。面白そうなこと全部やるのよ!みたいな。★★☆☆☆


いのちの食べかたUNSER TAGLICH BROT
2005年 92分 ドイツ=オーストリア カラー
監督:ニコラウス・ゲイハルター 脚本:ウォルフガング・ビダーホーファー/ニコラウス・ゲイハルター
撮影:ニコラウス・ゲイハルター 音楽:
出演:

2007/12/4/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
これを黒豚シュウマイを食べながら書いてちゃだめでしょーが(爆)。でも、ほんっと、そういうことだと思うのよね。劇中、食に携わる方々が淡々と食事するシーンが何度も出てくるでしょ。ホント、何度も何度も。それはああ、こういうことなんだなあ、ってたった今、湯気をあげてるシュウマイを目の前にしてホントに実感した。
やっぱりね、結びつかないのよ、実感が沸かないのだ。自分たちが殺すための生き物を生まれさせ、ただ死ぬためだけのために育てているのが。
そう、食べるため、という意識さえそこにはない。殺すため。だってここで“食品”となっていく生き物たちが、そのベルトコンベアの延長で自分の前に出てくるわけじゃないって感覚がぬぐえない。いや、もちろんそうやって私たちの目の前にある食べ物は、まさにベルトコンベアの延長線上にあるわけだけど、でも、やっぱりなんだかダイレクトに結びつかないのだ。

食に関するドキュメンタリー、それは、ある程度予測できる映像ではあった。それがどんどん後半に向けて加速して、最後にはすっかり身体を硬直させて観ることになったとしても、である。
工場製品のように規格に当てはめられてベルトコンベアーで流れてきたり、鉤針で吊り下げられてきたりする生き物たちは、それが生きているものが本来全て持っている……人間はそれがなければ時には死ぬほどの苦しさを味わう……個性というものを、あっさりと捨てさせられている。

この映画がそうした“ある程度予測できる映像”をベースとしながらも特異性を放っているとしたら、やはりそれは、この不気味なまでの静けさにあると思われる。
いや、音は常にしている。うるさいくらいに。まず冒頭、豚の半身がぶら下がっている床を洗浄している音から始まって、大量のヒヨコがカートやベルトコンベアで選別されてひしめきあって始終ピヨピヨ鳴いてるし、それが育った鶏は当然コケコケうるさいし。
ああ、うるさいなんて思っちゃう時点でもう、ダメだ。

でも、音のうるささのメインは、機械音。ほとんどの場面で機械音がしている。食肉解体工場の動作音は勿論、広大なヒマワリ畑に水だか薬だかを散布しているヘリコプターの音、キュウリやトマトやリンゴを収穫するために、畑の列をゆっくりと動いてゆくカート。
オリーブの木の幹をガシリとつかみ、ブルブルと揺らして実を落とす場面には、何をするのか想像もつかなかったからドギモを抜かれたし、想像もつかないほどに地下まで潜っていって、お伽噺のような場所で塩の採掘をするブルドーザーの凄まじい音も、こんな場所があるなんて信じられない光景にアゼンと口を開けっ放しだったから、音のことなんて、後から気づいたくらい。
当たり前だけどそこで作業している人たちは、なんてことなく何気なく会話し、滞りなく仕事を終了しているのだ。

最も耳にこびりついて離れないのは、去勢されているんだか、何かの予防注射をされているんだか、生まれたばかりの子豚がガッチリと抑えられて股の何かを切られている時の、キーという叫び声。前足は固い針金のように真っ直ぐに伸び、何をしているのか判らないのに、とても正視できない……とか言いながら見ているんだけど。
そして勿論、その仕事をこなしている女性は、ごくごく淡々と、子豚をつまみ出しては施術する流れが、まるで滞らないのだ。
そうなの、だからそれを黒豚シュウマイを食べながら書いてるんだけど(爆爆)。うう、だから、これが結びつかないってことが大問題で。
こうしたイキモノをイキモノじゃなくする映像のショッキングさよりも、それを、それこそをこの映画は指摘していると思うんだよね。だってほんっとうに、静かなんだもの。

最初のうちは、作業している人たちも全くもって寡黙で、彼らの言葉はまるで聞こえてこない。だからそういうことを意図したドキュなんだと思っていると、段々彼らの声が聞こえてくる。
しかしそれはこちらが予期していたような、こういう仕事についていることのインタビューとか……テレビ番組でありがちな、命が命でなくなることの危機感とかを演出側の押し付け的な意図であぶりだすものではなく、あくまでなんてことない会話に過ぎないのだ、多分。多分、というのは、結局最後まで字幕は一切つけられないから(!!)

ちょっと、驚いた。いや、最初のうちはホントに会話自体がなかったからそういうもんかと思ったけど、それでもこの状況を説明するなにがしかさえなかったから戸惑った。
だって映像だけでは、何がそこで行われているのかさえ判断しかねるものも、たくさんあったんだもの。
それは、いかに自分の頭で理解しようとせず怠けているかを、思い知らされることでもあった。他人からの解説にしたり顔で納得して、それが本当に判ったことになるのか。ストイックなまでに説明を排した演出側の意図に、最後には感服することになる。
少ないとはいえ、会話にも字幕を施さなかったのは、それが内容には関係しないってことだったのかもしれないとはいえ、ひょっとしたら制作側の要請だったのかもしれないと思えてくる。だって日本の配給側の配慮でそれは出来ちゃうものね。

本当に、そこで何が行われているのか、判らないことも多いのだ。思えば広大なヒマワリ畑に何を散布しているのかっていうのだって、あくまで“恐らく”水か農薬なんだろうと思われるぐらいで。
しかもこのヒマワリ畑、その場面は夏の盛りであろう、地平線まで咲き誇っているし、見事だな、と思うのよ。でも次のシーン、刈り取られる場面では、一様に茶色く立ち枯れてて、それをガリガリガリ!とゴツい農耕車で刈り取っていくのが……まるで干からびた死体の山を取り込んでいくみたいで、ひどく気味が悪いのだ。
こんなに立ち枯れてから収穫?するのかっていうのも判らないままだし……ヒマワリ油なのかなとか予想はするけれど、その収穫や生産過程を、本当に知らないんだということを痛感させられる。

予測出来る映像が、予測出来るのに、次第にその範疇を超えていくのは……それが圧倒的な規模を持っているからだよね。例えば頭だけを出してコケコケ言いながら、卵をひたすら産む鶏、ごつい鉤に吊るされてさばかれていく豚の列、それらは小規模ならば見たことがあるし、見たことがないにしても、そういう感じなんだろうな、と予測できるものである。
でも、あくまで“小規模ならば”“そういう感じなんだろう”という範疇で、本作は、それを最初こそ小出しにしながら、次第に圧倒的規模で見せていく。

やっぱり、日本人の感覚は甘いんだな、と痛感させられる。確かに“小規模”“そういう感じ”のものならば、日本にだってあるだろうし、ニュース映像で見たこともある。でもそれらは、一様に小規模な家族形態で行なわれており、多かれ少なかれ彼らは、最終的には商品になる生き物に対して愛情を注いでいるように見えた……いや違う、私たちが、そういう風に見たがっている映像ばかりを、今までは見せられていただけなんだ。
結局肉に関しては特に、その消費は大量輸入されているものなんだもの。こっちこそが真実。一体いつまで、日本人は浪花節にごまかすつもりなのか。あるいは逆に、日本の畜産農家に、浪花節を押しつけるつもりなのか。

それを実に象徴的に示しているのが、子牛の出産シーン。出産、と言っていいのかどうかさえ、躊躇してしまう。だって、彼らは雌牛のわき腹をざっくりと切り裂き、そこからぐったりとした子牛を取り出すのだもの。
うう、でもあれで帝王切開なんだって。思いっきり横っ腹だけど、あれで帝王切開なのか……この牛の種類では結構普通だというけれど、映画中では解説されないから、出産のために殺しているんじゃないかとさえ見えてしまって、ショック。
取り出す二人の男は、お互い何の言葉も交わさない。ただ取り出して、中の羊水をジャバジャバ外に出して、横っ腹に大きな裂傷を残した雌牛がただ、取り残されるだけなんだもの。

何人もが一晩中かかって付き添って、難産に付き添う、みたいな、北の国から的なヒューマンを頭に思い浮かべていると、このシーンは本当にショック。というか、そんなモンを頭に思い浮かべていること自体が、なんと古いっつーか、甘かったのかと……。
この種の牛は子牛が大きく成長してしまうから通常分娩が困難、という説明は、つまり畜産としての都合上、という理由が当然大きく関わっているに違いなく、そんなことに費やしている時間も労力も、ムダだというわけなのだ。
それにショックを受けるなんてこと自体が、不遜なことなんだろう。だってこの雌牛に何ひとつ関わっていない、なんか泣ける映画を探して感動しようなんて思っている気持ちをホントに、ガツンとやられてしまって……。

ピーマンみたいな一年草は、いくら温室の中でも季節が来ると立ち枯れてしまう。まだ実がなってる、赤い実もなってる。のに、あらかた終わって枝葉が枯れてしまっているものを、まず根本からザクザクと切るところからヒヤっとする。
というのは、それが土から生えているのではなく、立方体のスポンジに生えていることを、いや、生やされていることを、初めて知るからだ。それ自体、植物にとって屈辱に思えるのに(不思議に感情移入してる)それを次々に、根元から切り裂かれることに、まるでのど笛を切られるような痛みを覚える。
大量虐殺。そんな言葉が頭に浮かぶ。ヘンなの。だって一年草で、もう一年で一旦死ぬことは決まってる。実際もう、枯れて、死にかけているのに。
でも、なんだかひどく痛く感じたんだよね。不思議なんだけど。そしてもうすっかり命を経たれた植物は、ざざざざざ、と寄せられて、ゴミになるのだ。

トマトの収穫も印象的。トマトは子供の頃、家の庭にいっぱいなってたし、知ってる筈なのに、あんな風にブドウみたいにたくさん鈴なりになっているのを、ひと房ずつって感じでもいだ記憶はなかった。つまり大きな実を作るためにゴメンね、って間引きして育てていたから。
でもここではそんなメンドくさいことはしない。とりあえず赤い実が大半を占めている房をざっくり刈ってカートに積んでゆく。恐らくその中の青い身は処分してしまうか、あるいは出荷するまでの間に赤くなるのを待つのだろう。バナナみたいに。

農作業には、判らない場面が数多い。郊外の、無数のビニールかぶせた場所での作業。ホント、何やってんだか判んなかった。これはホワイトアスパラガス。地中のアスパラを掘り出す。
ここでは唯一機械音がしない。全部丁寧な手作業。作業員はバスで延々移動し、地中の中からアスパラを掘り出すのだ。でもホント、事務的作業って感じで、製品の組み立てみたいな感じで、農作業という感じがしない。
山や丘に果てしなく続くオリーブ畑に圧倒される。キアロスタミの映画を思い出したけど、しかしもっと幾何学的。かぎ針編みの敷き物が覆い被さっているようで、奇妙な美しさ。
リンゴの選別プールも、妙に美しい。まるで競泳用のプールみたいにコースが区切られた中に、リンゴがひしめいて流れてくる。こんな画は、見たことがなかった。

人工授精をする牛の精液を採取するために、ムリヤリバックから雌牛におおいかぶせるシーンも鮮烈。でも挿入はさせない。直前で取り押さえて、ゴムをかぶせる。拷問……。
いや、拷問なのは、ネタにされるために、バック状態でずーっと待機させられてる雌の方か。でもそれは、どっちの意味で拷問?などと思ってしまうのはオバチャンか……。
まさにスン止め。ガラスに顔向けている雌牛を見ながら、研究者が試験管に入れたり、パソコンで何かをはじき出したり。延々、スン止めの雄がかわるがわるガラスの向こうにやってくる。……なんか、滑稽なような、残酷なような、ひどく印象的な場面だ。

そう当然、セックスの喜びなんぞ、味わわせる訳ないのだ。食うために生かしてるんだから。豚が人工授精の果てに仔豚を生み、お乳を与えるのも、横たわったまま押さえつけられて、そんな母豚たちがこれまたやけに幾何学的デザインのもとに据えられてて、そこに仔豚たちをテキトーに入れてお乳吸いたいコは吸いなさい、みたいな放置状態にはボーゼンとする。
母体が拷問のごとく完全に拘束されているのにもショックだけど、それに元気よく吸い付いている仔豚ばかりではなく、いくつかのブロックでは仔豚が乳房に吸い付く元気もなく、死んでるんだか生きてるんだかって状態でグッタリとしているんだもの。母豚の乳はまさにパンパンに張っている。ああ、痛そうだ……辛そうだ。それを愛情を持ってわが仔豚たちに上げられないなんて。
こんなことも知らず、その豚さんの肉を、今私は、シュウマイで食ってるんだ……それを、このスクリーンの豚の肉じゃないと思ってしまったら、ダメなんだ。それをまさに、この作品は極限にシニカルに言っているんだ。

豚が集められて、工場に運ばれる。画面の手前では、彼らはまだ生きている。何も知らずにベルトコンベアーに乗せられてる。でも、ホース状のもので、何かを施されている。それが何かが判らない。そして同じ画面の中でカーブしたあちら側ではもう、彼らはすっかり力を失い、つまり死んでしまって、前足ひとつで吊るされているのだ。
そのまま様々な工程にどんどん送られる。腹を割かれて内蔵が取り出され、その内蔵が更に分別される。ある程度ナカミがなくなった状態でバキュームで中をきれいにし、二つの前足をパチンとはさみで切り落としていく。

その一連の流れに従事する人間たちはまさにプロフェッショナルで、寸分の狂いもなく仕事をしていく。そこには命に対する冷たさなどといった甘っちょろい考えさえなく、ただ彼らは仕事をしているのだ。
前足をハサミで切り落とすのは若い女の子で、彼女がまるで狂いのない音楽のリズムのような中でそれをこなしているのには、ショックを覚えた。なぜそれにショックを覚えるのか、それ自体が、自分の甘さと、生かされている意味をまるで判っていないことに直面させられる。それは後に出てくる、鶏の頭を落とした後をさらにキレイに切りそろえる女の子の、美しいと感じるぐらいのよどみない流れにも感じる。彼らがしているヘッドフォンは気を紛らわせるためと思ったが、いや、騒音対策、なのか、鳴き声を聴かないための。

そう、困ったことに、美しいのだ。それは……前半には特にそう感じていた。そう感じたことを、後半になってやや後悔した。甘かったと思った。
でもいわば、人間の、この地球を掌握したかのような思い上がりを全て冷たく見通しているような、ひたすら冷徹な視点と、完璧なまでのシンメトリカルな美しさは、否定できない。
シンメトリカル、それは人間が見い出した幾何学的な、人工的な美しさに見えながら、実はこの世界に最初から存在している神の領域であり、生命を規格にしてしまった人間に対しての神様の冷たい目線のようにも、あるいは少なくともここに関わっている人たちは、そうした人間の傲慢さを判っているんだという自覚のようにも思える。
それは本当に、全く真逆ではあるんだけど……でも敢えてこのドキュに、それに従事する人間を、ハッキリと見える形で登場させた、意識的に全面に押し出したのは……つまり食べられるために、いや、食べられるかどうかも判らないために死に行くイキモノと対比させて押し出したのは、そういう意味じゃないかと思うんだ。

私も食の現場の一端にいるから、やっぱり見逃せないものがあるわけよね。市場に来て一番ビックリしたのは、魚や、貝さえも、血の気が多いということ。カンパチの血を抜くために、後頭部をバッサリ切って水を満たしたバケツにつけると、血そのものだけで出来ているようにバケツいっぱいドロドロ血になる。
そして赤貝の血の気の多さにもビックリした。血だらけで店頭に置かれてる。魚や貝が血を流すっていう感覚がなかったのだ。

甘い?いや、でも結構そうでしょう。肉もそうだけど魚だって血抜きされて売られてるし。で、ブタや牛や鳥が血を流すことはイメージできても、魚介類が、まあ多少血は出るんだろうとは思っても、でもサンマやイワシであんなに出血したことないし、やっぱりあんまりイメージできないと思うんだな。
そう思って以来、河岸って死体だらけだな……などと思って、だから本作のサケの加工シーンも、ダイナミックで見応えはあったけど、ああ、魚って確かに処理する時にこんな風に口があがっ、て開くなあ、と思って。
でも、それをこんな風にひたすらな流れ作業で見せられるとやっぱり圧巻。あそこでは、私がギモンに思っていた神経抜きも行なわれているんだろうか……(だって、もう死んでしまった魚の神経抜いたって、しょうがないと思わない?)

でもやっぱりメインは、豚さん、牛さんなんである。前半で、どこの時点で豚さんは死んでしまうんだろうと思ってて……ベルトコンベアで運ばれていく途中で何か見えない部分があって、そこを抜けるともうグタリとして後ろ足で吊られている、という状態だったから。
でもそんなことを思ってしまう、つまり興味を持ってしまうという人間の残酷さをこそ引き出すための演出なのであって……悪趣味って言うか、してやられたっていうか。
いや、そうだ、結局人間はそんな残酷が見たいんだ。この映画を観るのだって、それで食べ物に感謝するというより、残酷が見たいんだ。それを見透かされたみたいで、冷や汗が出る。

で、そう、その見えない部分は、後半に示されるのだ。ガコンガコンと運ばれてきて、頭が抑えられる。そこで判ってしまうコと判らないコとがいる。つまり、抑えられることにだけ本能的に抵抗するコと、何かを感じとっている恐怖を見せるコと。
そうか、ここで、人間のエサになるために(流れによってはそれにさえならないかもしれない)、それまで押さえつけられていた個性が、示されるのだ。なんという皮肉なのだ。そこにはもうガンを持って冷静に待ち構えている人間がいて、“人道的に”即死させられるというのに……。
これは、見ておかなければならないんだ。こうやって死んでしまった牛さんの先に、ボロ切れみたいにセコく薄切りにされた吉野家の牛丼があったりするんだ。ガンを撃ち込まれた途端、ガクリとあごを上げ、舌をだらりと出した牛さんの……。

すいません、私アホなので、途中から豚さんと牛さんがゴッチャになったけど……うう、ホント、さんをつけずにはいられなくなるなあ。
そう、そして鶏さんももちろん壮絶だったのだ。私ね、ホントアホだったと思う。いや、観てる時から、こんなこと思うのアホだと思ったけど。生まれたばかりのヒヨコを選別する場面、ピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨ、もうひっきりなしに鳴く無数のふわっふわの黄色いヒヨコたちの愛らしさに、ああ、触りたい、この中でヒヨコ浴したい、などと思ってしまったんだもの。
うう、でもそれこそがきっとネライだったんだろう。確かにこのヒヨコたち、この時点でヒドイ目にあってはいる。高速マシンに容赦なく運ばれて、肉眼で確認できないスピードで、振り分けされている。
“ガケ”だと判らないままに落とされて振り分けられるヒヨコに、それがカワイイと思ってしまう自分に心底イヤ気が刺す。そんなアホな人間に食べられるために、彼らは振り分けられているんだよ。

んでもって、肉食になるべく成長した鶏さんたちは、恐るべき広大なハウスの中でひしめき合っている。本当に、隙間がない。奥が見えないほどに広大なハウスに、白い毛糸玉が敷きつめられているみたいである。
途中、このひしめき合う鶏たちの中を練り歩く作業員の描写があって、彼らは手にバケツを持ってはいるけど、エサをやるでもなく、何をやっているのか判らなかったのよね。あれはひょっとして、動かないままの鳥たちを運動させるためか、あるいは、その中で死んでいる鳥を回収するためだったのか(実際、一羽手に持ってるし)。
で、無事育った彼らは、巨大な掃除機のようなものに次々に巻き取られて、工場へと運ばれる。この無数の毛糸玉を“収穫”するには、それが一番合理的なのだ。吸い込まれる直前まで、このひしめき合った中で心地よさそうに羽根をふくらませている鶏さんが……。

最後の最後の最後に、それはいわゆる“予想できる映像”だったのにドギモを抜かれたのは、切り裂かれた牛のノドからジャバジャバと滝のようにあふれ出る大量の血液である。
それまでの過程で、ガクガクと殺される場面でさすがに(って判ったような言い方、ヤだけど)身体が硬直してしまったけど、どんどん“加工”されて、そう、いわば私たちが見慣れた色形になっていくと、落ち着いてくるんだけど、あの大出血場面にはオドロキとギモンが湧き上がる。
え?だって、血管って体中に張り巡らされている筈なのに、まるで蛇口をひねったようになぜあそこからだけジャバジャバ出てくるの?
つーかつまり、私がそういう根本的な死のすさまじさを判っていないってことだろうな。

でね、どんどん“加工”されて、見慣れた形になっていくとね、ふと気づいたのだ。何年か前、人体の解体標本展を見た時のこと。
似てるなあ……と思ってしまったことにうろたえたんだけど、それは多分、死んで、体温を失って、脂が固まったことによる、あの独特の黄色化した、蝋っぽい感じが共通してたんだ。
つまり、命の痕跡を失っていくほどに、私たち人間はそれを無機質な、ひとつの興味の対象として受け取ってしまうんだ。
無数のヒヨコ、無数の仔豚。そしてそれが長じて殺される無数の豚、牛……。
どうしたってそこに、生まれ変わってしまった自分を、感じてしまう。
一生分の叫びを発したって、次の瞬間にはベルトコンベアに乗せられて、頭を落とされ、皮をはがれ、前足をパチンと切り落とされ、内蔵を分別され、お尻からズバリと半身にされているんだ……。

ラストは工場中を念入りに掃除する場面で終わる。泡の吹き出るホースで執拗と思えるぐらいに洗浄していく。
いや、執拗なわけない。だってそこらじゅうに生き血が飛び散っているのだ。粘着質の、べっとりとした、さっきまで細胞が生きていた、まさに生き血が。
その場面は、罪滅ぼしのようにも、逆に罪を隠蔽しているようにも思える。冒頭のシーンと見事に呼応して、様々な解釈を促がすシーン。
監督が、『「なんでもかんでも機械で出来る」という感覚や、そういった機械を発明しようという精神、それを後押しする組織、それは、とても怖い感覚で、無神経でもある。そこでは、植物や動物も製品同様に扱われ、産業として機能させていくことが、重要になっている』と語っている一方で、“自分たちの仕事や製品、又は、作業手順や安全性に誇りを持っており、この作品に参加したいと言ってくれ”た企業を撮影対象にしたのは、なんかサギのような……気もしたりして。
でも、そう。他の仕事と同じ。誇りあるとか、そんなんじゃない。ただ彼らはプロとして仕事してる。それだけなのだ。

セレブやら大物芸能人やら、あるいはそれに憧れるべく仕向けられるテレビ番組で出される高級料理も、スン止めの哀しき雄牛たちの成果から生まれた霜降りだったりするのか……。
気取って食べているセレブ達が、ホントにアホに思えてくる。ドレスアップして夜景を見ながら?そんなことが、いかにバカバカしいか、身にしみて判る。

これは学校での教材に最適じゃないかしらん。ショックを受けるかもしれないけど、受けさせるべきだと思うもの。今の子供たちには、トラウマが少なすぎる。★★★★☆


インビジブル・ウェーブINVISIBLE WAVES
2006年 118分 タイ=オランダ=香港=韓国 カラー
監督:ペンエーグ・ラッタナルアーン 脚本:プラープダー・ユン
撮影:クリストファー・ドイル 音楽: フアラムポーン・リッディム
出演:浅野忠信/カン・ヘジョン/エリック・ツァン/光石研/マリア・コルデーロ/トゥーン・ヒランヤサップ/久我朋乃

2007/6/20/水 劇場(シネマート新宿)
劇場が凍死するかと思うぐらい寒くて寒くて……。でもだからこそ、この悪夢にとり込まれずにすんだのかもしれないと思う。震えながら、彼は、そしてこの物語は、忠誠心とは、生きている意味とは、命の存在とは、そして愛とは何なんだろうと、どこか冷めた頭で考え続けることが出来たから。でも、こんなにクールにそれらの意味の虚しさを感じたことはなかったけれども。

なんか最初、すこぶる判りづらい。これは夢なんだろうかと思う。冒頭は時間軸がモザイクになっている。というのは、後から判る仕組みになっている。浅野忠信が銃を向けているのは彼のボスであり、それは“一度死んだ”彼が、復讐のために向けている銃口なのだ。
ここはいわばクライマックス直前の場面であり、そこまでの物語を語る前にすっ飛ばして、この場面が冒頭に置かれているんである。そこからは普通の時間の流れに沿って描かれていくから、あのシーンが、あの言葉が一体何だったのか、混乱しながら見進めることになる。その台詞とは、「プロポーズするのか」「ああ、今夜」というやりとり。それが、浅野忠信が顔の見えない男に銃口を向けながら交わされるのだ。

そのプロポーズする相手が誰なのか、いやそもそも、この銃を向けられているのは誰なのか、更にもっと根本的なこと、浅野忠信はどういう立場の人間なのか。名前さえもこの時点では判らない。根本的なことがなかなか見えてこない。
それは勿論、確信犯的にやっていることだということは推測はついているんだけれど、観ている間中これが不安でたまらない。観終わってしまえば、それが魅力だったようにも思うのだけれど。
このシーン、手前の男も顔が見えないし、正面を向いている浅野忠信も、だらりと下げられた華奢な左手しか最初、見えないんだよね。このだらりとした左手が妙に怖いと思うのはなぜなんだろう。カメラが引くと、その右手には銃が握られているのに、左手の方が怖いのだ。なんか妙にどす黒く見えるのが、死体の手のようで。もうここで、彼には命などないみたいで。

キョウジは香港のレストランに勤めていた。そのオーナーである彼のボスの妻と不倫関係に陥った。ボスから彼女を殺すように命じられ、それを遂行した。「今日はもう閉店だ。バケーションを楽しんでこい」というボスの台詞は、計画を遂行した彼への次の指令。そしてキョウジはボスに命じられるまま、船でタイのプーケットへと向かう。ほとぼりを冷ますための旅。
しかし、船上で出会った赤ちゃん連れの女ノイや、プーケットで強盗にあった彼を助けてくれるアロハシャツ姿の男などが、この旅がそんな単純なものではないことをじわじわと感じさせてくる。その強盗も、船上で昔の同級生だとなれなれしく声をかけてきた男も、何もかもが、仕組まれたことだったのだ。ボスが張り巡らした狭い世界から、キョウジは最後の最後まで這い出ることが出来ない。

思えばこの“確信犯”は、この監督が浅野忠信と最初にタッグを組んだ作品でもそうだったように思う。その不思議な静けさに惹かれて、そしてそれが浅野忠信に本当によく似合っていたから、このコンビがまた実現したと聞いて、足を運んだ。
数多くの監督に引っ張りだこの浅野忠信だけど、ひょっとしたらこの海を越えた監督とのコンビが最も強力かもしれないと思う。
浅野忠信が何者なのか、それは彼自身が内包している“自然体なのにミステリアス”な存在感とリンクし、このキャラクターに夢のような浮遊感を与えている。
まるで劇中の彼自身、今の事態が判っていないようにさえ見える。実際、彼は殺人なんてことをしでかして、プーケットに来てどうなるのか、しかも強盗に襲われて頼る人の連絡先もカネも何もかもなくなって、どうなってしまうのか。そんな危機的状況だというのに彼は自分から能動的に何かを起こす風もなく、ただひたすら夢のようにさまよっているのだ。

いや、プーケットについてからなら、まだ物語が転がり出すし、彼の事情も少しずつ判ってくるからいいんだけど、それがまるで判らない序盤、殺人、ナゾの中国人とのやりとり、プーケットへの船旅というシークエンスは全くもって???の連続なのだ。
というより、キョウジがレストランに勤め、そして不倫に興じ、殺人を犯すこの地が香港であるということさえ、観ている時には判然としない。だから後にボスの愛人であることが判明する、プーケットへの船上で出会った女ノイが「香港に住むから……」という台詞を言った時に、ピンとくることが出来ないのだ。いや、もっと舞台はフクザツなのだった。解説読んで初めて判る。キョウジはマカオに住んでいて、香港のレストランに毎日船で通勤しているんだと。そんなの、観てる時には全然判らない。
ホント、序盤は確実に確信犯な不明瞭に満ちているんだよね。

特にこの船の旅は、本当に摩訶不思議である。最初キョウジは豪華客室に迷い込み、まあ彼は、こんな大変な仕事をこなしたんだから、当然それぐらいの待遇はあってしかるべきだと思ったんだろう。
しかし用意されていたのはドリフかっていうような狭くて粗末な一室。一応リッパなバーもある船なのに、彼の客室のお粗末さがまるでギャグみたいで、この不思議な雰囲気に戸惑う中でも何度も吹き出してしまうんである。
何度やってもシャワーと流しの切り替えがうまくいかずに、コックをひねる度にシャワーの水を浴びてしまうし、しかも流しの方の水道の勢いときたら、あっという間にその受け口があふれてしまうぐらいなんである。備え付けのベッドは抑えていなければすぐに弾きあがってしまうし、ドライヤーを使おうとスイッチを入れたとたんにヒューズが飛んでしまう有り様。
それにリアクションするキョウジがなんたってあの浅野忠信なもんだから、ほんっとに素のリアクションかと見まごうリアルに間の抜けた演技をするんで、本当に可笑しい。後から思えば、というか、もうこの時点で彼が殺人を犯して逃げるための船旅だと判っているのに、だからこそその奇妙な脱力加減が可笑しく、そして夢のようなのだ。

でも、彼がこの客室に閉じ込められるあたりから、どうも異様な雰囲気が漂い始める。部屋の中にいるのに、ドアが開かないなんてありえないのだ。受付に助けを求めても、部屋の中にいるのですかと何度も聞かれ、キョウジが何度説明しても、部屋の外ならカギがなければ入れませんよとトンチンカンに返されるばかり。

キョウジは隣の部屋からあえぎ声が聞こえてくるのに気付き壁を叩いて助けを求めると、やっとスタッフがやってきてくれる。この時助けを呼んでくれた初老の男が「ドアには気をつけて」とニコリとキョウジに微笑んで、相手の若い女の子を押し込んで部屋に戻ったのも、その台詞といい、やっぱりなんだか意味深なんである。
これも、そして学生時代の友達だと言い張る男も、後にキョウジを陥れることになるアロハ男の差し金だったんじゃないかなあ。でもその時点ではアロハ男はちらりと画面の隅を横切るぐらいだから、全ての出来事が本当に夢のように流れていく。
この人違い男との邂逅もエレベーターでなんだけどね、エレベーターっていうのもね……。キョウジが廊下をさまよっている時、背後の無人のエレベーターが音もなく閉まるシーンがあって、なんだかそれが、「シャイニング」の血があふれ出てくるエレベーターを思い出しちゃって……なんか、この船でのシーンがホラー映画みたいに妙に怖いのは、そんなことを勝手に思い出しちゃうせいだろうか。

だから、この船上で出会うノイという女も、まるで夢の中の出来事のようなのだ。ニドという名の小さな赤ちゃんを抱えてこの船に乗り込んでいる彼女は、皆が避難訓練をしている間ノンビリとプールで泳いでいるような、しかも赤ちゃんを置き去りにして平気な、実に現実離れした女なんである。
夫はいないのかと尋ねるキョウジに、ここにはいない、恋人は忙しいの、と彼女は答える。夫ではなく、恋人だと言う。この時点で彼女もまた、ただならぬ事情を抱えていることを察しなければいけなかったのかもしれない。
でもカン・ヘジョンがこの浮き世離れしたセクシーな女を流れるように演じているので、そのことをうっかり失念してしまう。やはり彼女は純愛映画より、こういうファム・ファタルの方が似合う。でもやっぱり口の上のうぶ毛のような影が気になるのだけれど。

しかし最終的にノイがボスの愛人だと判っても、なぜ彼女がこのプーケットに来ていたのかは、最後まで判然としないのだ。どこでボスと知り合って、そして何をしでかしてほとぼりを冷ますためにプーケットに来てるのか、何ひとつ。
しかし例えキョウジと同じ条件だとしても、彼女は船上でも優雅に泳いでいるぐらいだし、プーケットでも豪華なマンションに住んでいる。やはりキョウジとは明らかに待遇が違う。キョウジは当然、彼女が自分とつながりがあるなんて思いもせず、彼女の連絡先を聞き、プーケットで再会した時にもダンスなどに興じ、「お前は本当に問題を起こすよな」と、アロハ男の注意を引いてしまうこととなるのだ。

ダンスといえば、船上でもキョウジはノイにダンスに誘われていた。でもそれは、本当にダンス、だったのだろうか。「踊りましょう」と誘われたキョウジは「ニドは?」と聞く。「一緒に」と返すノイ。しかしダンスしているシーンなぞなく、次のカットでは階段下の妙に狭い空間で二人まったりとしていて、先に部屋に帰るというノイに、俺はしばらくここにいるよ、とキョウジはけだるそうに返すのだ。
あれはダンス=セックスと考えるべき……だよな、と思う。そうでなければ、キョウジがノイの連絡先を知ろうとまではしなかったと思うし。
ということは、何も知らない顔をしておいて、やはりノイは全てを知ってキョウジにカマをかけていたということなのか。

そう、偶然なんかではない、必然。ノイがこの船に乗り込んでいたのも、そしてキョウジからは見えないけれども、怪しげなアロハシャツ姿の男がキョウジを監視していたのも。
このアロハシャツの男は光石研。この人と浅野忠信、そしてこの不可思議な雰囲気、なんか青山監督の難解デビュー映画「Helpless」を思い出してしまう。
思えばその時、私は光石研を初めて観た(というか認識した)んじゃないかと思う。それ以降、彼の演技の懐の深さには毎度驚かされるんである。一見普通の、本当に普通の男。しかも彼は“忠誠心”という、これ以上はないほどのマトモな言葉を信念にしながらも、どうしてそれをそこまで信奉するのか、だからこそ何だか、キ印な気さえ起こさせる奇妙な男なんである。
彼はプーケットで強盗に襲われ無一文になってしまったキョウジを救う男、という設定で現われるけれど、キョウジがノイの電話番号をメモしたお札を持っていたことで明らかになるように、コイツこそがキョウジの部屋に強盗に押し入った男(あるいはそれを指示した男)であることは明らかなんである。いや、というよりも、ボスの命令でずっとキョウジを見張っていたか、あるいは、ボスへの忠誠心がありあまるあまり、先走ってしまった男なのか。

このあたりの関係性は、本当に判然としないのだ。大体、キョウジとボスの言い分は食い違う。キョウジはボスから妻を殺せと命じられたと言う。しかしボスは、お前は俺の妻と何年も不倫状態だったじゃないかと言う。
この事態を収拾するには妻を殺すしかなかった、というのも不自然な結論だけれど、ボスがノイと恐らくずっと愛人状態で、この度めでたく赤ちゃんまでもうけたんだから、妻が亡き者になった方が得策だったことは明らかなんだけど、そういうこととは全く別個に、キョウジはボスの妻と許されない関係になってしまったということなんだろうか。そしてボスにとってそれが好都合であったとしても、やはり所有物を奪われた悔しさがあったのだろうか。

しかし、この妻を演じる女が誰だよって感じなんだけど、ひどくワザとらしい演技をする女優なんだよね。流暢に日本語を喋るから日本人女優だとは思うけど、知らない。浅野忠信がスーパーナチュラルな演技をするから、この女の舞台調のわざとらしさが気になって仕方がない。
それを言うと、船の中でキョウジを“人違い”する男もまた、ひっどくワザとらしい。ま、彼の場合は、いかにもキョウジを戸惑わせるために登場したという感じだったからOKなのかなと思うけど、この妻のワザとらしさは、もう見ていられない。それともそれもこれも含めて、現実味を失わせるための“確信犯”なのだろうか。

この船の中でキョウジを“大阪で学校が同じだった”と主張する男が、船の中の現実感を更に失わせることになるんである。エレベーターで一緒になった男に執拗にそう言われ、しかし彼に覚えのないキョウジは、人違いですよ、とタメ口の彼にひたすらですます調で返し、自分の中に入ってこないように牽制しているのが判る。
ここ、かなりアドリヴが入っているんじゃないかと思うのは、浅野忠信が、「いやいやいやいや」を多用するのが、いかにも彼っぽいからなんだよね。それに対してこの役者が「いやいやじゃなくてさ」と再三返すのも、やけにリアルだし。

だけど、この場面でキョウジが「名前と顔が似てるだけの人違いですよ」と繰り返すのが、凄く奇妙なんだよね。確かにキョウジは見覚えがないんだろう。そりゃそうだ、だって彼は多分、アロハ男が送り込んだ男だろうと思われるから。でもこの男がキョウジのフルネームと大阪にいたということを知っている上に、顔に見覚えがあるんだから、自分は覚えてなくてもどこかの知りあいのなのかなと思うのが普通なんじゃないだろうか。
“名前と顔が似てるだけの人違い”って、ありえるんだろうか。それってドッペルゲンガー以上に怖い気がするんだけど、そんなことはちっとも頭にのぼらず、信念が揺らいでいないようなキョウジが、逆に怖い気がするのだ。

そしてプーケット。アロハ男はボスへの忠誠心に篤い男。その同志感からキョウジを助けてくれるかと思いきや、忠誠心が篤いばっかりに、キョウジを消す方に彼は傾く。
港に連れて行って、袋に押し込めて殺そうとする。キョウジはそうはさせじと必死に逃げる。しかしその抵抗も空しく、日も傾きかけたプーケットの人気のない海辺で、シルエットだけになったアロハ男はシルエットのキョウジを打ち抜く。もんどりうって海に落ちるキョウジ。海に向かって何発も銃弾を撃ちこむアロハ男。

アロハ男は、「忠誠心だよ。それさえあれば、あんな懐の深い男はいない」とキョウジに言っていた。それは、ある意味忠告であったように思う。キョウジがボスへの忠誠心など持ち合わせていないことを見抜いていたから。
アロハ男=光石研には一応リザードという役名はついているんだけど、作品中でその名前を耳にした記憶がない。自己紹介の時に言っていただろうか。なんだかそれも、その皮肉を如実に示しているように思う。忠誠心によってこの世に存在することを許されているなら、名前など必要ないのだ。その男を信じていればいい。
でもそれが、忠誠心を持てないこと死ぬことよりもどんなに虚しいかを、まさにそれが理由で死に行くキョウジは勿論、アロハ男も充分に判っているはず。

キョウジは、死ななかった。香港に戻ってきて、復讐に向かう。
それがあの、時間軸をすっ飛ばして示された、冒頭の場面。それが繰り返される。
でも結局、キョウジは彼を殺すことが出来なかった。ボスはノイと赤ちゃんのためにディナーを作っていた。そしてノイにプロポーズするために指輪を用意していた。キョウジは彼に銃口を向けながら、彼の作りかけのスープを絶品に仕立て上げた。ギャグになりそうなのに、不思議にならないこの場面。
後にアロハ男(この時はスーツ男だけど)に「どうして殺さなかったんだ?」と聞かれたキョウジはこう答える。「殺す気でしたよ。でも、幸せそうだったから。生きるべき人間はどっちなんだろうって考えちゃって。亡霊のような俺なのか……」

その、スーツ男となった彼と再会する場面、これもまた、現実感のない路面電車の中で、まるで古い友人に出会ったかのように和やかに話す二人。電車は石段の途中で止まる。彼に殺されると判っているのに、まるで長年の友人にでも会ったかのように、一緒に電車を降り、港に向かう。
プーケットでの、追い、追われる、ギャング映画さながらの場面とはまるで違う。別れを惜しむかのように、穏やかに距離をとって向かい合う二人。
この場面、二人が同じフレームに収まることはないんだよね。
キョウジに銃を向けるスーツ男、それをまるで楽しみに待っているかのように佇むキョウジ。
そしてスーツ男の拳銃が火を噴くと、それを受けるキョウジは描かれず、ただ激しい水音だけがこだまする。

思えば、キョウジがボスの妻を殺すシーンでも、強盗に襲われるシーンでも、その密室の中で見切れて、一切その状況が見えなかった。
だから、なんだか最後まで、夢のようだった。
新聞に死亡記事まで出て、一度死んだはずのキョウジが生き返るんだもの、なんかどうしても現実味がなくって……。そんな彼を送り出し、迎え入れる下宿のマリアも、彼女はハッキリ部外者なのに、まるで何もかも判っているみたいで、キョウジをホントに心配して日本料理を作ってくれたりしてさ、一体どこまでが真実なのか、ホントに判らないんだもの。

ところでアロハ男=スーツ男=光石研は、カラオケ好きという設定でね、「たどり着いたらいつも雨降り」をひたすら熱唱するのよ。このインターナショナルな映画で、吉田拓郎の曲が響き渡るとは!しかもキョウジが殺されるべく港へ連れて行かれる場面、その事情を知りたいキョウジの台詞が聞こえないというかなりメーワクな形で、しかもしかも、光石研ったら超調子っ外れな熱唱なんだもん!
この一点だけで、なんだか凄く強烈に印象づけられてしまうというのも、ズルイ気がするけど……。★★★☆☆


インベージョンTHE INVASION
2007年 99分 アメリカ カラー
監督:オリバー・ヒルシュビーゲル 脚本:デヴィット・カイガニック
撮影:ライナー・クラウスマン 音楽:ジョン・オットマン
出演:二コール・キッドマン/ダニエル・クレイグ/ジェレミー・ノーサム/ジェフリー・ライト/ジャクソン・ボンド

2007/10/20/土 劇場(有楽町丸の内TOEIA)
うーむ、久々に映画を初日なんぞに観てしまった。そうかそうか、初日に行くと、出口にぴあ調査隊などがいるのね。しかし、ぴあの出口調査を読むといつも思うんだけど、その映画が良かったと思う人しか立ち止まってコメントなんぞ残さないと思うんだけどなあ。そうでもない?だって全ての映画の観客の平均点が80点以上だなんてありえないでしょ。
なんて話は全然関係ないんだけど……で、この手の映画って久しぶりに観た気がする。だって、ニコールが出てるんだもおん。彼女の硬質な美貌を見られるだけで、充分観る価値があるってもんである。
「es[エス]」の監督がハリウッドに迎えられた作品。ふーむ、彼はこれからハリウッドで撮っていくのだろうか。

それにしても、まず、私の選択肢に昇らないSFアクション。SFアクションと言っていいのか?それともこれはサスペンスアクションか?でもとりあえず、SFは入ってるよねえ……未知の生命体に侵入される話なんだもん。
と、くくってしまえば、画的には新しく見えても、その昔から伝統的に続いてきたジャンルなのだと気付くんである。と思ったら、これが「ボディ・スナッチャー」などと数えて同じ原作の四度目の映画化だというんだから頷ける。いわゆる宇宙侵略モノを、細胞レベル、病原菌、突然変異などでとらえると、何となく現代的でリアリスティックになる。
映画化されるたびに、いつも、その時点の社会を皮肉に映し出す結果になっているという。
一度目は、赤狩りへの皮肉。二度目、ベトナム戦争、ウォーターゲイトへの皮肉。
そして今回は、壊れゆく世界全体への皮肉。人間が、人間でなくなる世界。それはまさに最後の最後の、タイムリミットに思える。

冒頭、中盤位の展開が先に示される。眠っちゃいけない。そのためにクスリを大量に飲み、糖分の多いペットボトル飲料をガブ飲みするキャロル。この時点では、何が起こっているのか判らない。
物語は、スペースシャトルの空中爆発から始まる。なんだか見たような映像。それだけに、妙にリアリスティック。シャトルの破片がアメリカ中に散乱する。大気圏外で付着したらしい未知の生命体への感染が、予想もつかないスピードで全世界へ広がっていく。

ニコール演じるキャロルは、ワシントンで精神科医を開業しているバツイチ。極めて優秀な彼女は、トップ高官とのつながりもある。同僚の医師だったベンとは親友以上の感情を持っていながらも、イイ雰囲気になる場面もあったのに、「ごめんなさい。でも、大切な親友を失いたくないの」と、それ以上には行けずにいた。一人息子を何より大事に思っているせいもあった。
そんな彼女の周囲に、じわじわと異変が起こってくる。
外見上は全く変わらない人間。しかし、何か様子が違う。飼い犬などの動物は、その異変にいち早く気付き、動揺し、吠える。それを制するためなのか、眉ひとつ動かさずペットを殺す夫に怯えて、キャロルのクリニックに駆け込んでくる中年女性、ウエンディ。元からそこの患者だったから、キャロルは彼女の病状が違う方向に進んだぐらいに思って、クスリを処方して帰した。しかし、今までとは違う、異様な何かを感じてもいた。

キャロルの周囲でも、明らかに何かが起こってくる。別れたダンナが突然息子に会いたいと言いだした。もともと勝手なオトコだったからただ拒否したけれど、親の権利を盾にされると、抗いきれなかった。しかし息子を送り届けたダンナは、なんだかおかしい。長い間会っていなかったせいなのかとも思ったけれど、どこかおかしいのだ。
その時キャロルは知らなかったけれど、この元ダンナ、シャトル墜落の現場に最初に到着した高官の一人だった。つまり、真っ先に感染した。まだその恐ろしさを誰も判っていなかった時に。

キャロルはネットで検索してみる。夫、別人……驚異的なヒット数。ウエンディだけではなかったのだ。何かが起こっている。それも世界中で。あらゆる先進国で感染病指定が次々にされているのに、なぜかアメリカだけがただの流感だと処理されていた。後に明らかになるけれど、アメリカこそが全ての元凶だったのに。いやだからこそ、トップまでもが汚染され、情報も支配されていたのだ。
キャロルは街の中でも、その異変を肌で感じ始める。妙にまっすぐこっちを見ている路上の人々、国勢調査だと言って深夜に訪ねてきた男は、冷たい目で見据えながら強引に中に入ろうとした(こ、コワイ……)。
様子がおかしい子供から採取したスライム状の組織には、強靭な生命体が宿っていた。それが人に侵入し、その人がレム睡眠に入ると、急速に固まり始める未知の細胞。“同化した人間”に接触したら、眠ってしまったらもうアウトなのだ。

道路の真ん中で、助けて!と車を止めようとしている女性を、運転席から目撃するキャロル。その女性は、そのまま跳ね飛ばされた。
即座に警官が到着するけれど、この警官たちもおかしいのだ。目撃者のキャロルを、証言すると言っているのに、冷たい表情で追い払う。
確実に何かが起こっている、確信に変わってゆく。その光景は後に、キャロル自身によって繰り返されることになるのだ。同化人間たちから逃げてきた彼女が、どんなに必死にすがっても、彼女を乗せてくれる車はない……。

私、最初から最後まで、これってまんまゾンビだよな……と思って観てた。ゾンビは死体が動いている状態。つまり腐敗しかかっていたり、血みどろだったり、青ざめていたり、するんだけど、本作ではとりあえずフツーの人間の状態。
でも無表情で、まっすぐ前を向いて、無機質にカッキリと歩いている様は、まさにゾンビそのもの。お行儀の良いゾンビとでも?観てる間中私は、こりゃゾンビだよな……と心の中でつぶやき続けていたんであった。

でもそこには、大いなる皮肉が含まれているんである。確かにこれはゾンビだ。生ける屍である。彼らは一様に、全ての人が平等に扱われる社会の素晴らしさを口にする。それは一見、確かに正しいように聞こえる。争いのない世界、全ての人が平等の社会。
しかし最後のひと言、決定的なひと言に引っかかる。だから同化しなさい、と。同化?同化って……すべての人が同じになるってこと?
確かに、平等の権利は素晴らしい。でも同じ権利はイコール同じ人間ではない。だからこそ、世界に社会主義は徹底しなかった。資本主義の生み出す競争社会、個人主義、自由思想には残酷な面が多々ある。それでもそっちを人間が選んだのは、同じ人間になりたくなかったからだったのだ。
ゾンビは、死んだ人間。死んでしまえば、生きていた時にどういう人間だったかなんて、意味がなくなる。一様に死んだ人間なのだ。それがここで、生きた人間として再現されている。なんという皮肉。

それは、決してアイマイには済まさない。テレビニュースにはキム・ジョンイルが映し出され、核の放棄を宣言する。テレビはそれを無邪気に信じ、平和な世の中が来たのだと礼賛する。あるいは、独裁国のトップが大統領と呼称されたりしている。彼は確かに、すべての人が平等の社会を作ると言っているのだろう。しかしそれは、トップである彼を除いた上での、平等な社会なのだ。
しかしこの描写はギリギリの、危険な賭けでもある。それは、ロボットの大量生産のような“同化”を押しつける恐怖を描いている一方で、それを生み出さないためには、資本主義による争いや、戦争や、格差や、奢りや……際限のないそうした悲劇も仕方ない、と正当化しているとも言えるからだ。
それを、最も率先してやっているアメリカにそう言わせてしまうことを、北朝鮮やなにかの究極を持ち出されてそう言わせてしまうことを、ただただ受け止めていいのか、という危機感はどうしても抱いてしまう。

キャロルやベンら、トップに位置する医師や科学者たちは、この異変が世界を揺るがすことになるといち早く気付く。キャロルは元ダンナに預けた息子を取り戻しに行くと、そこには同化人間たちがうじゃうじゃしていて、キャロルも取り込もうとし、彼女は元ダンナから感染ゲロを浴びてしまった。
うわわわ、ヤバい!これで彼女は、ワクチンが出来るまでもう眠るわけにはいかない!しかも息子がどこにいるのかも判らない。携帯もなかなか通じない。まさか電波までも彼らが操っているわけではないだろうが……。
っていうのはあんまり判然としなくて。ただサスペンスとして盛り上がらせる部分では携帯がつながらないのに、突然つながって息子からのSOSが届いたりするんだもん。ちょっとご都合主義かあ?まあいいけど。

で、もうこっからは息子と共にこのゾンビ人間からいかに逃げるか、というホラー映画王道の追っかけっこアクションとなっていくんである。息子の存在がなければ、いち早く聖域である研究所に向かえたんだものね。
キャロルはベンに、自分が感染してしまったことを涙ながらに告げると、ベンは黙って抱きしめてくれる。大丈夫、僕がついている、と。彼だけは信頼できる。彼についていてもらえれば、息子を無事取り戻して、研究所に逃げ込んで、全てが解決できる。そう思っていたのに……。
息子を救い出しに行ったボルティモアで、どこかの時点で、ベンは同化人間になってしまったのだ!ええ!そんな!それはないよ!だってそれまでキャロルは自分と息子の身を守るために、元ダンナをはじめガンガン人をブチ殺していたのに!彼を殺すなんて、そんな救いようのない状況になってしまうの!?

キャロルの息子は、いつまでたっても同化人間にならないんだよね。一緒にいる友達は既に同化しちゃって、冷たい目でキャロルを監視しているのに(この子、コワイ!)。
どうやら息子には免疫があるらしい、小さい頃の病気が原因らしい、と突き止めたキャロルとベンは、逆にそのことが同化人間たちにバレたら殺されてしまうことを危惧し、一刻も早く救い出さなければ、と思う。そう、同化していないことがバレたら危ないのだ。
それはキャロルやベンにしても同じで、それがバレないように、街中では真っ直ぐ前を向き、無表情で歩いていく。それだけでバレないっていうのもなんか、こんなコワイエイリアンたちにしては随分と非科学的で単純だなと思うけど。でも、感情を持たない人間としてふるまって、危険を避けるなんて、なんか……“北”みたい、などと思う。

そうこうしているうちに、キャロルの眠気も限界に達してくる。何とか息子のいる元夫の母親の家に到着し、眠っているという息子の部屋に忍び込む。息子はむくりと起き上がってどこか能面のように、母親を迎える。
いや、まさか、そんな筈はない……キャロルが、二人の間だけに通じる「ピクルス」という単語を使って怖かったかと訊ねると、一瞬、ピクルス?と問い返した息子、途端に母親の腕に飛び込むんである。「ママも皆と同じになっちゃったのかと思った……」「ママは違うわ」
そして二人は何とか皆の目を盗んで家を抜け出し、同化人間たちの追っ手を必死に交わしながら、とりあえず薬局に逃げ込む。もうキャロルの眠気は限界。クスリや眠気覚ましの飲料を摂取し、それでももしママが眠ってしまったら、この注射を心臓に打ち込んで、と息子に言い含める。「あなたは勇敢よね」と。最後の手段。でもベンが到着するのが遅くて、ついにキャロルは眠り込んでしまい、息子は彼女の心臓に注射器を打ち込むのだ。あー、この場面、凄いドキドキした……人間せっぱつまると、子供でも凄いことが出来るんだな……。

ベンまでもが同化人間になってしまった。絶体絶命に思えたところへ、ベンの同僚医師から携帯に電話が。まさにキャロルがゾンビどもとのカーチェイスの真っ最中。ヘリで救出するから、ビルの屋上まで来いと言う。もうこのあたりになるとSFもサスペンスもどうでもよくなり、ひたすらホラーアクション、いや単なるカーアクションの体をなしてくる。ま、それこそハリウッドの魅力だけど。
久々にカーアクションなど見たもんだから、結構アドレナリンが上昇してしまう。逃げる車に取り付く無数のゾンビ……じゃなく、同化人間を、カーブごとに凄まじいスピードで振り切ってゆく。絶対逃げ切れると判っていても、屋上までゾンビどもがまるで息も切らさずに追いかけてくるのには戦慄を覚える。いやあー。ドキドキした。
ついに屋上のヘリポートにたどり着いてヘリコプターに乗り込み、すがってきた大勢の同化人間たちを見やる。スリルはあるけど、ある意味ホッとする。だって、ここで捕まるわけはないと確信してるから。それ以上に皮肉な後味が用意されているわけだけどね。
そこからいきなり時間が飛び、ワクチンによって世界の危機は脱したのだ、というオチへとなだれ込む。は、早いな。

免疫の出来た息子は、いわば選ばれた人間である。彼の細胞から作られたと思しきワクチンが、世界の人々を救ったんだろう。
こういう意識も正直、危険だと思うんだけど。そもそも、アメリカの研究所に「ノーベル賞ものの科学者が集結」して、ワクチンを開発して世界中の人を救う、という発想そのものが、どーにもいけすかない、と思うのは、私がアンチアメリカだからなんだろうけど。そりゃまあ、それが可能なのはアメリカぐらいなんだろうさ。うう、なんか腹立つ。
でもやっぱり、選ばれた人間、選ばれた研究者、っていう宗教くさい描写が、それこそ同化人間と同様の危険さをはらんでいる気がして、どうにもハラハラしちゃうのよ。

既に“同化した人間”が、他の人間たちを感染させるためにノドの奥からゲロ状の液体をグワッと吐き出すあたりも、まるでエクソシストみたいで、やっぱりホラー映画の要素が入ってるよなー、と思う。
いやいや、やはりこれはドラキュラの趣?キスや血管注射から侵入するなんて、特に後者なんてまさにそんな感じ。同化したヤツらが、手っ取り早く仲間を増やすために、感染しないための予防注射と称して打ち込んでいくのなんて、実に判りやすい構図である。
しかし結果的には、彼ら感染した同化人間たちも、免疫のある人間から作られたワクチンの広域散布によって、その間の記憶を亡くしただけで、元の彼らに戻ることができるんである。
これは甘いとも言えるし、逆にこれ以上ないキツい仕打ちとも言える。キャロルは、信じていたベンまでもが同化してしまって、一度は絶望の底に突き落とされた。しかし彼女には愛する息子がいて、この息子のために、決して自分は同化するわけにはいかない、まさに最後の砦だった。

でもキャロルは、別れた夫はブチ殺せても、この愛する彼は、殺せなかったのだ。同じ条件である。同化した人間。同化できない息子を、用なしだと殺してしまう理由を十分持った人間。元ダンナは彼女に殺される前、こう言った。君にとって息子が1番だった。仕事が2番、ボクが3番。この順位は変わらなかった、と。彼は確かに“同化した人間”としてエイリアンになっていたけれど、その中に持っている、彼自身、は変わっていなかった。
だからこの場面は凄く皮肉だった。だって、夫の叫びは共感できるほどに悲痛なものだ。彼女が、愛するベンと共に家族として生活を始める示唆で終わるけれど、その彼とだって同じ問題が生じないという確証なんてないではないか。
でも現時点で、彼女は同じ同化人間でも、夫は殺して、ベンは足を撃っただけで助けた。殺せなかった。その後、ワクチンで救えるかもしれないなどという意識は、さすがにこの時点では頭に登っていなかったと思うし。

ラスト、皆が何事もなかったように元に戻って、ヘンになった期間の記憶は覚えてないし、キャロルとベンも、めでたく親友の期間を脱して、パートナーとして生活を始めた様子が描かれるんだけど、世界の忌むべき事件を新聞に読んで眉をひそめる彼に、逆にキャロルが眉をひそめるのは、複雑に皮肉なんである。
未知の細胞に侵入されたから仕方ないんだけど、まるで知らないフリをしているように感じてしまう、一度自分たちを裏切った彼に対する、ぬぐいようのない不信感。
そして、一向に平和にならない世の中に憂いを示す彼に、そんなの、人間として当然の感情なのに、あの「全ての人が同じになる」ことが平和だと主張した同化人間になるんじゃないかという不信と不安を、彼女は彼に抱くんである。

平和は望みたいのに、それを素直に望めないこの世の恐ろしさに戦慄する。私もまた、同化人間なんだろうか?★★★☆☆


インランド・エンパイアINLAND EMPIRE
2006年 179分 アメリカ=ポーランド カラー
監督:デヴィッド・リンチ 脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:オッド・イエル・サルテル 音楽: デヴィッド・リンチ
出演:ローラ・ダーン/ジェレミー・アイアンズ/ハリー・ディーン・スタントン/ジャスティン・セロー/カロリーナ・グルシカ

2007/10/11/木 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
な、長い……。いいとこで終わりそうで終わらない。いいとこ?そんな風に決められる筈もないのだけれど。やはりつい、そんな風に落ち着きの居所を求めてしまう。そんなこと、無意味なのに。
そんな具合に、相変わらずワケわっかんないデヴィッド・リンチなんだけど、何となく観に来てしまう。この人の作品を判ろうなんて努めること自体、ムダな努力のように思えるし……。
というか、映画、あるいは作品というものを理解しようとか理解できたなどと思うことこそが傲慢だということは、判ってるつもりなんだけど、どうしても近づきたいと思うもんだからさ……。

ただ、悪夢の世界に連れて行ってくれる、そのジェットコースターに乗ればいいというだけの話なのかもしれない。この監督の頭の中がどうなってるのかホント、覗いてみたい。
というか、こういう映画の企画書や、こういう映画を作りたいんだけど、という伝達や、いやそもそも脚本は一体どうなっているのか、想像もつかない。この展開で、役者はどう自分を高めていくんだろうか。
なんて、ちょっと皮肉っぽく思ってしまったのは、リンチ監督のミューズともいうべきローラ・ダーンが、終始同じ顔しているように見えたから。
恐怖と戸惑いと不安と驚愕が入り混じったような表情。それがまるでこわばったように顔に張り付いたまま、その瞳から涙が流されたり、口から台詞が発せられたりする。
グロスべったりに塗られた唇の周りに、まるで梅干しバアサンのように細かいしわが入っているのがどうしても気になるほどに、ほぼ全カット、異常なまでのクロース・アップなのだ。

これはただ、悪夢というだけで片づけていい世界のようにも見え、あるいは勘ぐればいくらでも、あらゆる暗喩が隠されているようにも見える。とりあえず、手におえない。

このヒロイン、ニッキー・グレース(ローラ・ダーン)が女優だということは何とか判る。広大な、つまりはひどく寒々しくだだっ広い彼女の屋敷に、近くに引っ越してきたと言って初老の女が挨拶に訪ねてくる。
この女がまず、異様なんである。市原悦子が秘密を覗き見たような見開いた目と、麻生太郎のようにくっきりと捻じ曲げられた口を画面に見切れるほどに大写しにして、あなたの次回作には凄惨な殺人シーンがあるに違いない、と言い切る。そんなものはない、とニッキーが否定しても、その見開いた目と曲がった口で、そう断定し続けるんである。
しかも奇妙なことに彼女は、昨日(明日?ちょっと記憶が判然としない)のあなただったらあの向かいのソファに座っている、などと言い出す。言っている意味が今ひとつ判らない。ニッキーもまたそんなことを言いたげな表情で向かいのソファを見やると、そこには自身が座っている姿が見えるんである。
そして、役を獲得した知らせを受けて、友達(?それもよく判らない)二人と共に飛び上がって喜んでいるのを、まるで誰かが見下ろしているような俯瞰のショットでとらえたりする。時間軸の錯綜が始まる。早くも混乱の予感をはらみ、イヤな予感がひたはしる。

ニッキーがヒロインに選ばれたのは、『暗い明日の空の上で』という映画。この劇中映画と、更にもうひとつの劇中映画が同時進行して、事態は更にややこしくなっていく。
この映画は、ポーランド映画『47』のリメイクで、主演の二人が撮影中に殺されたために中断、未完になった。そんなことは知らされないまま読み合わせに向かったニッキーは、撮影所の暗がりに不穏な空気をかぎつける。スタジオに誰かいる。それは後に判ることなんだけど、ニッキー自身だったのだ。時間を越えた、未来の彼女だった。窓の外に迫る恐ろしさ。白昼の悪夢。
そんないわく付きの企画だから、監督は、作品が呪われている、と言うのだ。斬新な脚本だと思ってオッケーしたのに、実はリメイク作品だったことを知らされたニッキーと相手役のデヴォンは戸惑いを隠せない。

その、オクラ入りになったフィルムという設定の『47』のフィルムの断片もガンガン挿入されてくるんである。しかしそれが実際にオクラ入りになったフィルムなのかどうか。だって、結局それは、ニッキーが妄想として見ているだけなのかもしれないし……。
劇中映画の演技と、この映画の演技との差がまるでないから、混乱を極めてくるんだよね。妻が妊娠したことがショックでしかなかったダンナのくだりなんて、実際のダンナと役者も違えば、貧乏で粗末な部屋でのシーンなのに、実際のニッキーとごっちゃにしてしまって、混乱してくる。
まあ、それはいくらなんでも私の頭がバカ過ぎるのだが、だけど劇中映画って、演技を違えたりするじゃない、普通。映画によって演技のカラーも違ってくるし。でもローラ・ダーンは一切やんないんだもの。もちろんそれが、リンチ監督の意図するところだというのは判っているんだけど……。

更に更に重ね合わされる世界。繰り返し現われる、ウサギの被り物をした三人の男女。ソファに二人、アイロンをかけているのが一人。男女かどうかは判らないけど、一応、男物と女物の服装で分けられているから。
三人がどういう関係性かも判らないほどに、不条理な会話が繰り返される。もしかして、不倫の三角関係なのかとも思わせるんだけれど、特にソファの二人の会話があまりにもかみ合わないので、どうも状況がよく判らない。
しかもこのシュールな見世物小屋じみた設定に、ドリフの大爆笑みたいなワザとらしい観客の笑い声がかぶせられるんである。別に、全然、笑えないのに。
全くもって意味が判らず、意味が判らないだけに……しかも表情の見えないウサギの被り物がシュールを越えてホラーのごとき恐怖を感じる。
奇しくもつい最近、「ミス・ポター」で、ジャケットを着たウサギにカワイイッ!と叫んでいたことを考えるとなんという皮肉なのか。顔の見えない擬人化されたものの恐怖は、日本のキャラクター物でもふと気付くと怖さを感じるものは多々あるけれど……特に動物の擬人化は、その表情に乏しいから、怖いんだよね。

しかしこのウサギのくだりが主筋のニッキーにどう影響しているのかも良く判らないのだが。まあ、でも、彼女は相手役のデヴォンと不倫関係にあるようだし、ダンナはひどく彼女を縛りつけていて、その窮屈さが不倫へ走らせたようだし……でもそれらも、あまりに断片的で、そうじゃないかなと推測される程度なんである。
どこまでが撮影で、どこまでが現実で、そしてどこまでが夢で、あるいは妄想で、あるいは過去や、過去の映画やらが入っているのかが判らないのだ。本当に混沌としてくる。
ヒロイン自体も、今、本番の撮影中だということが突然トンでしまって、順調に撮影が進んでいたのに、「これ、脚本のままの台詞だわ!」と言い出して、周囲をビックリさせたりする。

どうも位置関係が判らない黒髪の美女、劇中映画の未完成のオリジナル『47』のヒロインと同一人物。しかもこの映画、同じ男女で違うシチュエイションを演じていたりするので、余計にややこしい。
この美女の超クロースアップもしつこいくらい出てくる。苦悩にゆがめられた表情、その長いまつ毛に縁取られたダークグレーの瞳から、しぼり出されるように零れ落ちる涙。
彼女がテレビ画面に見ているのはリメイク撮影されているヒロインのニッキー、あるいはその相手のデヴォン。どんな状況だったらそうなるのか、大体彼女は撮影中に殺されたんじゃなかったのか。ならばここはいわゆるあの世?そんなこと考えてもムダなことは判っていても、混乱する頭を抑えきれない。
しかもそのニッキーもまた、迷い込んだシアターで、まるで電気屋のテレビ売り場みたいに、今の自分の姿がスクリーンに映っているのを見る。そして『47』のヒロインは、その彼女が自分の部屋に入ってくるのを見るのだ……。そしてなぜか二人は、そっと抱き合い、クチビルを重ね合わせるのだ。もう何がなんだかよく判らないんですけど。

というか、ニッキーが妄想なのか夢なのか、はたまたこれも撮影なのか(そうは思いにくいのだが……)、迷い込んだらせん階段の上のコンクリ打ちっぱなしの寒々しい部屋で、一方的に話を聞いてもらうシーンが妙にオソロシイのだ。
何が恐ろしいって、彼女が何のためにここに来たのかを知らず、しかし目の前の男に話を聞いてもらうためだということは判っている、そのこともそうなんだけど、その話を聞いている丸眼鏡の男が、微動だにせず、まるで表情が動かず、本当に、ただ、彼女の言葉を能面のように聞いているのが、気持ち悪くてしょうがないのだ。
聞いてどうするかとか、そういうことが全くないのだ。本当に、ただ、聞いているだけ。それがほんっきで耐えられなくなる。気持ち悪くて、息苦しくて、吐き気まで覚えてくる。正視出来なくなる。
別に気持ち悪い顔をしている訳じゃない。どっちかというと、おだやかな小動物系の顔だ。なのに、見ていられない。この無神経な顔に耐えられなくなっていくのだ。

確かにこれは、ホラー映画なのかもしれない。ホラー映画っぽい要素はそこここに潜んでいる。ひょっとしたらこれが思い込み気味のヒロインの悪夢だと、それだけだと仮定されるのなら、「エルム街の悪夢」に代表されるような、ただの悪夢と片づけるのも確かに可能だもの。
ことに、もう二度と見たくない場面が二箇所。暗闇の中、画面の奥で不自然にカックリと直角に曲がった角をターンして、画面のこちら側にまっすぐに歩いて来る女性。どんどん近づいてくる。
そのシーン、本当に、前後の脈絡はまるでないのだ。理由も何もないのに、恐ろしくて仕方がない。妙に早いのだ。ただ歩いているだけなのに。そして画面のすぐ前まで来てニッカリと笑った彼女の顔は……ほんの一瞬なんだけど、なにがおかしいというわけでもないんだけど、何かがおかしいのだ。ちょっとだけ、大きすぎる口、ちょっとだけ、むき出されすぎな歯、ちょっとだけ……それが凄く凄く怖くて。

その印象が脳裏に焼き付けられて、ニッキーがその後、呪いの部屋『47』に自ら向かう場面、妙に不穏な空気を感じる人気のない廊下で、またしてもあの女が、顔が見える前から判るあの女が、恐ろしいスピードで近づいてきて、あの時よりも数倍もグワッと大きくあの恐ろしい口を顔の半分ぐらいに開けて……。
もう、本当にカンベンしてほしい。その直後、ノロイだということを強調するように、その顔がフィルムが焼かれるようにねっとりと溶けていくんだけれど、それがまた怖い。
なんかこの、口デカ女の怖さがね、中田秀夫監督の「女優霊」を凄い思い出しちゃったんだよね。あの作品はこんな風にあからさまじゃなかったけど、女優、呪われた作品、閉ざされた撮影所、というあらゆるアイテムが、妙に共通している気がしたわけ。まあ、リンチ監督に、そんな影響関係はないだろうけど。

そして、リンチ監督の難解さに二の足を踏みつつも本作に足を運んだ最大の理由、この作品によって堂々たる凱旋帰国を果たした裕木奈江の存在があったのであった。
何でかバッシングされやすい彼女、国費でギリシャ留学したことまで追及されてたけど、だったらおめーら、申請して認められて行きゃいいだろっつーの。しかも、忘れられた女優、的なくくり方でさ。そんな理不尽なバッシングにもきっちり答えを出した、見た目とは違う彼女のカッコ良さに心から拍手を送りたいんである。
私は昔からあまりドラマを見ない人だったんで、彼女を認識したのはずっと後、「おしまいの日。」「光の雨」の立て続けで、この人スゲエ!と思ったんだけど、それは彼女が表舞台に立てなくなったあたりの、彼女曰く“小さな映画”であり、それから数年、かなり苦しい時を過ごしたらしい。
なんてもったいない!その“小さな映画”で、充分名刺になるほどの素晴らしさだったのに!やはり世間というのは“小さな映画”の名演技でイメージが払拭されるほど甘くはないということなのか。うう、映画ファンとしては、哀しい。私はあれだけで、彼女の凄さに皆が感服すべきだと思っていたのに。

「硫黄島からの手紙」は、彼女が自らオーディションをかぎつけて獲得した役で、他のウレ線の役者とは違う存在感があった。そして本作は、まさに運命としか思えない出会い。ただ単にエキストラである友達の撮影現場に行っただけなのに、ひと目で彼女を見初めたリンチ監督。やはり、あるんだよね、オーラっていうのは。
すっごく、もうけ役。別にヒロインのニッキーに何の影響を与えるわけでもない。だってその時点では、ニッキー(というより劇中映画のスーザンというべきなんだろうか……もう入り混じっちゃって、判んないんだもん)、刺されて息もたえだえなんだもん。
瀕死のヒロインの脇でとうとうと話し続ける奈江嬢、実に5分以上はソロの語りをもらってる。正直、何の意味があるわけでもないのだ。
血を流し続けて今にも死んでしまいそうなニッキーをかすかでも心配している他のブラックのホームレスもいるんだけど、彼女の役割はホントそれだけで、そんなこともあんなこともまるで気にせずに、友達のミコの家に遊びに行った話を延々とし続ける“クレイジージャパニーズホームレス”の裕木奈江に釘付けなのだ。ここまでリンチを動かした彼女は、ホントに凄い。

しかし、このくだりもかなり不条理入ってるんだけどね。だってその犯人は、彼女を刺すだけっていう印象で、刑事の元に訪れる女なんだもん……と思っていたら、この女、劇中映画のデヴォンの妻、ドリス(ジュリア・オーモンド)だったのね。ってことは、あのカウンセラー場面もやっぱり劇中映画のシチュエイションだったのか……どうもそうは見えなかったけど。
なんかカウンセラーも刑事も同じような部屋とシチュエイションでニッキーとドリスに向かい合ってるから、余計混乱してしまう。
ドリスは刑事に、「知っている男をドライバーで殺す催眠術をかけられた」と訴えてて、しかしそう訴える彼女の腹にこそ、ドライバーが突き刺さっている!?という不条理も不条理、どうしてそうなるの!?ってな条件がまず提示されているのだ。
なんでそれで、ニッキーを、じゃなかった、スーザンを刺しに行けるんだろう……だからムダなんだってば、そんなこと考えたって。

セクシーダンサーズの女性陣たちが、一番判んなかったかも知れない。ていうか、誰?あんたら。最後、ニッキーが迷い出す街頭に立っている娼婦たち?美乳を自慢し、褒めあったりして、しかし、若いとはいえあそこまでのボール状は、なんか不自然な感じがするのだけど!?レズっぽいというか。どうにも、シュールなのだよね。
で、映画が無事クランクアップしても(ここでようやく、ここまでがニッキーの妄想ではなくて撮影だと判ったのだけど、どうもスッキリしない)ニッキーはフラフラとさまよい出る。あのポーランド映画のヒロインを訪ねて一瞬抱き合うもすぐに彼女の腕から消え去る。
そしてたどりついたニッキーの屋敷。しかしそこにはたくさんの人が溢れている。彼女の会話(劇中映画の会話だったかどうかも忘れた)に出てきた義足の人物や、奈江嬢が話していたミコなのか、オウムを連れた人物、そしてセクシーダンサーズが「ロコモーション」で踊りまくるのがラストクレジット。???なんかスカッと大団円みたいに見えなくもないけど、イヤー、判らない。あまりに判らなすぎて、逆に気持ちいいくらい。

この判らなさをあれだけスムーズでリズミカルな予告編に仕立て上げた手腕に、観終わってグッタリしてから思い当たったんであった。予告編制作者が、一番この映画を判っていたような気がする……。★★★☆☆


トップに戻る