home!

「あ」


2011年鑑賞作品

あぜみちジャンピンッ!
2009年 85分 日本 カラー
監督:西川文恵 脚本:田中智章
撮影:丸池納 音楽:D・A・T
出演:大場はるか 普天間みさき 梅本静香 上杉まゆみ 池田光咲 渡辺真起子


2011/7/27/水 劇場(ポレポレ東中野/モーニング)
これって実際に聾者の方はどんな風に思うのかなあ、とふとそれが気になった、のは、観ている時からそうじゃないかとは思っていたんだけど果たしてヤハリ、演じているのは実際の聾者ではなく、普通に聞こえている女の子たちだったから。
ていうか、そうだよね?プロフィル探ると、ジュニアアイドルとしてフツーにメディアに出てるみたいだし。
ジュニアアイドルってカテゴリがあること自体初めて知ったが(かつての大沢あかねちゃんとかもそうだったのかな?)、だからなのか、ファン一同からあんなに花が来ていたのは。まあ各地で上映しているみたいだから作品自体のファンかもしれないけど……。
なにか、ちょっと、ちょっと、もったいない気がした。というより……もっと言ってしまえば、甘い感じも、したかなあ。

というのは、やはりだって、聾者を主人公にし、テーマにした映画っていうのは意欲的だと思うし、意欲的な作品というのは完成度も高いものを求められると思うし。完成度が高くなくても意欲的だというだけで評価されるのは違うと思うというか……。

いや、たまたまね、この前の日に観たのが、聾者ではないけど様々なハンディキャップやお年を召したために不自由が生じた方たちを見つめたドキュメンタリーでね、そこでは本当に、私らが見えてないだけで、普通に世の中には、いわゆる“障害者”とカテゴライズされる人たちがいるんだということを、ただカメラを向けるだけで、示していたから。

つまり彼らだって“普通”なんだから、その“普通”である彼らをそのまま描写せずに、更に“普通”度が高い、普通に聞こえている女の子たちに聾者の演技をさせるというのが……何かね、違うというか、もったいない気がした、のであった。
そりゃあ演技をつける側は聴者であり、難しいのかもしれないけど、でもそこまでやらなきゃ、この“意欲的”は意味がない気がした、のだ。
ていうか、“そこまで”どこじゃなくて、その方が“普通”の感覚に思えるのだけれども……。

ああでも、そもそもジュニアタレント事務所からの企画なのかあ、じゃあダメかあ……(ガクリ)。
でもさあ、聾者がテーマって、企画時点での想像以上に大きく受け止められると思うからさあ……。

なあんて、それこそ聴者である私がエラソーに言えることでもないんだけど……。
この日ちらと挨拶に来ていた監督さんが言うように、これはあくまで異文化コミュニケーションをテーマにした物語であり、聾者と聴者という“異文化”の壁と、その壁を取り払った時に見えてくる風景、という意図からすれば、特に問題はないのかもしれない……聾者を聴者が演じたとしても。

でも、この物語は決して凝ってはいない、じゃない?さわやかなシンプルストーリー、これが聾者じゃなくても、仲間はずれとか、家庭環境や考えの違いとか、ちょっと仕掛けを加えればそのまま出来上がりそうな青春ストーリー。
その“仕掛け”が聾者なのだとしたら、やはりそこには、異文化コミュニケーション以上の意味がどうしても生じてきてしまう。
ここには私が理想として感じているような、いわゆるハンディキャップの人たちも“普通”に生活しているようなスタイルはなく、やはり私ら健常者が意識的、無意識的に差別して見ている、彼らを排除した生活が脈々と流れているのだ。
だから主人公、優紀は聾学校の慕われている後輩から、聴者とばかり仲良くしている、と避けられるし、実際、聴者と聾者は“普通”にコミュニケーションなど出来ていない世の中なのだもの。

……なんか書いているうちに、私も何が言いたいんだか判んなくなってきたけど(爆)。
ああつまり、私もアレだな、聾者をテーマにしているなら、もっと深刻なものが観たかったとか、勝手なことを思っているのかもしれない(爆爆)。

まあさ、深刻になりそうな要素はそこここに転がってはいるのよ。その最も大きなひとつは、優紀がどうやら母子家庭らしいということ。
女手ひとつで優紀を育てている母親は、大型スーパーの中に入っているファミレスで、若い女の子たちに混じって超ミニスカの制服で働いている。
娘との時間が取れないほど朝から晩まで働いて、ソファで一杯やりながら居眠ってしまって朝を迎える母親。

どう見ても父親の影は見当たらないが、それがどういう事情なのか、まあ普通に離婚かとも思うけれど、それこそ、あれほど普通、普通と連呼していながら実はヘンケンアリアリな私は、その離婚の理由が何なのか、耳の聞こえない娘を残して父親がいなくなった理由は何なのかとか考えてしまうのよ。サイテーだな、私(爆)。

ならばこれが両親揃ってるとなると、少なくともどちらかの親の目は行き届いてしまう訳で。
そうなると優紀がダンスに目覚めたことや、そのために成績が落ちたことや、“派手な女の子たちと付き合っている”ことも早々に親の耳に入るだろうことを考えると、この“シンプルな青春物語”を進行する上で、支障があるのかな、などとイジワルなことを思ってしまう、のね。
まさかそんな理由で母子家庭にした訳でもないと思うけど、でも母子家庭、てのは、なんか気になっちゃうんだよなあ。

しかしなんといってもメインテーマは、ヒロインがダンスに目覚める、ということである。
確かに単純な聴者であるワレワレは、“耳が聞こえないのにダンス?”と思ってしまう向きがある。
しかしダンスを定義するとしたら、「音楽に合わせて踊る」ことであるのなら、要素は前段にある音楽にあるのではなく、後段の踊ることにあるのであるから、この作品が食い込んだテーマの重要性は、まさにここにあるのだと、思うのね。
それこそ最近は、SPEEDの今井さんのお子さんが聾者で、でも踊るのが大好きだと、彼女自身も海外の聾者ダンスチームを訪ねて一緒に踊ったりしているのをテレビで見かけたし、まさにそういうことだと思うんだよなあ。

リズムに合わせて身体を弾けさせることへの渇望。その“リズム”はきっと、クサイ言い方かもしれないけど、まさに、大地のリズムに違いない。
私たちが聞いている、人間が作るという限界のある“音楽”とは違う、胎動のリズム。
それに確かに監督さんが言ってたように、言語である手話は一方で動きのある美しいダンスの表現にも通じる。顔の表情、手の表情のみならず、体全体を使って意思を伝える唯一無二の“言語”。

ただまあ、それも確かに単なる勝手な想像であり、聴者押し付けの理想であるのだが(爆)。
いや、ね。物語の最後に優紀が「初めて音楽が聞こえた気がした」とノートに記したでしょ。彼女が本音を書き綴ったノート。それがためにダンスチームの仲間との絆を取り戻したノート。
大本番のステージで、一時はカウントを見逃すというピンチを仲間たちの助けで脱し、見事ソロを踊り切った優紀が、泣きながら踊った優紀がそうノートに記したあの言葉。
ちょっとね、それが、気になった、ちゃあ、気になった、かなあ……。

途中失聴者ならともかく(などと言ってしまうのも良くないのだろうけれど……)音や音楽に絶対的価値観を見出すことって、この場合必要なのだろうか、と思う。
ことにラストを〆る言葉であるから、余計にそんな、逡巡する気持ちは顕著に持ってしまう。
それは私が、音楽が聴こえてしまう聴者だから思うのだろうか。こんな風に、聾者の人は“音楽が聞こえた”と思うのかとか、そんなことを考えること自体、不遜なことなのか、と。

なんてつらつら得手勝手なことを書いてきたら、筋をちっとも書いてないが(爆)。
まあでも、この通りよ。ただタイトルから判るように、舞台はのどかな田園地帯が広がる町。ロケは新潟ということらしい。
優紀が見かけるのは、市役所の前でいつもダンスの練習をしているジャンピンガールズ。その中のキャプテン格の麗奈が優紀に気づいてくれて、仲間に引き入れる。
麗奈はなぜか手話に通じていて、その理由は仲間たちも知らず、彼女の家に行ったこともないという「秘密主義」。
後に麗奈がケガをして大会に出られなくなり、優紀が抜擢されたことで、チーム内に亀裂が生じる。
自分がセンターに出られると思った美希が優紀を目の敵にしだすのね。

チームのおちこぼれである年少の女の子が麗奈を慕っていたことから美希に巻き込まれ、加担することになってしまうのだけれど、彼女もまたイジメられた経験があって、ダンスに出会って生きがいを見出した少女。
彼女は優紀のノートを読み上げながら、涙を流す。しかも優紀は美希にいじめられているとその時点まで思ってなくて、差別せずにズバズバ言ってくれるのが嬉しい、とノートに記していて、美希以下のメンバーは思わずシンとなってしまう中に、そんなシーンが展開される訳なんである。

んでもって、ここで皆して水田にダイブしてキャーキャーはしゃぎ(まさしくここが、あぜみちでのシーンだった訳よね)、それまでの確執はどこへやら、一気に団結してしまうのがまあそのー、青春ってヤツなのだが。
しかしまあもうひとつ問題があるのがそのくだんの麗奈のことで。
彼女のケガは、「ヒールを履いてこけてしまった」ということだったんだけど、実は違った。
妹と映画を観に行った際に、街頭のテレビでダンスに見入ってしまった麗奈に痺れを切らした妹が道路に駆け出し、車に轢かれそうになり、それをかばった麗奈が怪我をしてしまった、のよね。

映画館のスタッフが、「もうすぐ上映が始まりまーす」と言っているのに、いっかなテレビの前から動こうとしない麗奈は理解に苦しむし、車に轢かれそうになったのをかばってケガをするなんてのも、なんかふた昔前ぐらいのドラマか少女まんがみたいやな……などとも思い、ちょっとどうなのと思いはするんだけどさ、
この麗奈の妹と優紀は聾学校の先輩後輩であり、まさに、映画に行く約束を破った、という確執がうずまいていたのよね。
更に言うと、皆で行こうと誘われたのにダンスの練習があるからと断った川沿いのもんじゃ屋にも、優紀はチームメイトたちと足を運んでいる訳で。
このシーンでは、彼女たちが鉢合わせするんじゃないかと思わずハラハラしたが、そこまでベタなことは残念ながら?なかった(爆)。

優紀が怪我をした麗奈をお見舞いに訪ねてきたことを彼女は激怒し、「勝手なことしないで。これで判ったでしょ。私の妹は……」と激烈なメールを優紀に送る。
でも優紀はただ麗奈に感謝し、元気になって欲しかっただけだったのだ。
彼女たちが憧れるダンスユニット、リップガールズがゲスト審査員にも駆けつけた大会当日、麗奈は松葉杖をついて現れ、妹をメンバーに紹介し、私は妹が大好き、でも誰にも妹を見られたくないと思っていた。そんな自分が恥ずかしい、と涙を流す。そう思わせてくれたのは、優紀だよ、と。

そしてその会場には麗奈の妹が連れてきた聾学校の生徒たち、そして今までダンスのことを相談してなくて学校に呼び出されて心配をかけてしまった母親も駆けつけてる。
でも母親は、知ってたんだよね。優紀が、母親が勧めた聾者の女の子が主人公の泣ける映画を退屈そうにホッポリだし、夢中になって観ていたダンスDVDを、へえ……という顔で見やっていたんだもの。
母親を演じるのは渡辺真起子。さらりと見守る母親は素敵だが、でも雰囲気で仲良さそう、理解してそうと思わせるだけで、さっぱり娘とのコミュニケーション場面がないのは、そんな親子関係、あうんの呼吸ってヤツで上手くいくかね?とまたしても勝手にうがってしまうんであった(爆)。

勝手に深刻さを求められるテーマをさらりと交わして普遍の青春映画を作り上げたという点から言えば、確かに本作は、意味があるのかもしれない、と思う。
女の子たちは正直演技はアレながらも(爆)可愛かったしネ。 ★★☆☆☆


あぜ道のダンディ
2011年 106分 日本 カラー
監督:石井裕也 脚本:石井裕也
撮影:橋本清明 音楽:今村左悶 野村知秋
出演:光石研 森岡龍 吉永淳 西田尚美 田口トモロヲ 山本ひかる 染谷将太 綾野剛 螢雪次朗 藤原竜也 岩松了

2011/6/23/木 劇場(テアトル新宿)
近年稀に見る楽しみな新鋭の登場を感じさせた「川の底からこんにちは」から順当に新作が来てくれて嬉しい。ヘンに作家性を振りかざさないエンタメの才能、エンタメに媚びて個の色を失うことなくいい感じにシニカルで、それがいい意味での若さや新鮮さをも感じさせるような。
で、次は何を撮ってくれるのかと思ったら、ちょっと意外、おじさんの話だった。意外、というのはやっぱり若い人は年相応の登場人物に心を寄せて作品を作ることが多いし、年相応だからこそリアリズムを感じることが出来る、と思っていたから。
あるいは、自分より若い世代を撮って、自分の若かった頃と、多少お説教じみた気持ちを乗せながら撮る、なんてことはどんなにベテランになってもやりがちなことだし。

でも、おじさん、である。倍近く年上の。彼らからすれば、それこそ劇中の子供たちが「絡み辛い」と言うような感想だって出てきそうな世代ではなかろうかと思われる。
ベテランと呼ばれる彼らに対しては、演出だってなかなか難しかろうと思われる。それこそ同年代や下の世代にビシビシ言う方が気持ち良かろうと思われる。
でも、この監督は商業映画二作目にして、おじさんを、撮ったのだね。しみじみじーんとしまくって観終わり、インタビューなどつらつら眺めていたら、なんとも得心がいった。
監督は、こんなおじさんに憧れているんだという。こんなおじさんになりたいんだという。一見して不器用、意地っ張り、見栄っ張り、なぜそんなおじさんになりたいのかとふと思うが、彼の言葉は明瞭だった。それがいい男だから。

そう言われて、おじさんとか、お父さんとかに対することではなかったけど、私も常々思っていたこととちょっと似ているかもしれない、同じかもしれない、と思ったんであった。
私が思ったのは、学校の先生。昔は威厳があって、怖かった先生。でもだから嫌いというんでもなかった。好きな先生、というのが、そういう先生だったりした。
私が高校生頃からだろうか、いわゆるトモダチ先生というのが出現し出した。生徒と友達のように関係を持つ。威厳ではなく、親近感。道を示すのではなく、隣りで一緒に考える。
それもステキな先生なのだろうけれど、素敵な大人ではない、ということなんだと、監督の「いい男だから」という言葉を聞いて、ふと腑に落ちたような気がした。

それにね、やっぱり、お父さん、なんだよね。これを見て、たまらなくお父さんを思って涙した人はいっぱいいると思う。
劇中の二人の子供たちは、日常生活では父親とつっけんどんに暮らしているけれど「でも本当は感謝している。上手く話せないだけ、てか、ちょっと絡み辛いし」と言うだけ、イイ子たちである。
父親と上手く話せない、そういう環境が保たれていなかったから、というのは、モーレツサラリーマンだった私の父親とのことを思い出させ、そういう父子関係ってのは、かなり共感を持って語られる題材なのだな、と思う。

てか私、皆そうだと思ってた。皆、思春期は父親とうまく話せなくて、母親とは仲良くできてもあんまり家にいない父親とはダメで、他人みたいに接しちゃう、みたいなさ。
でも、意外にそうでもない人も多いんだよなあ……。特に、東京に出てきて、東京で知り合った東京っ子たちにそれが多い気がするのは気のせいだろうか?単に、自営業の親を持ってる子たちが多くて、始終父親が家にいる環境と私の父親とは違ったからなのだろうか?割と、父親とベッタリだった、なんて子達と上京してから知り合うことが多くて、なんだか私はビックリしちゃったのだ。

父親は常に、遠い存在で、自分が生活できることや、本作のように大学に行かせてもらうことも父親が稼いでくれるおかげだと判っていても、どこか他人事で、本当の意味で感謝の気持ちを実感出来る様になったのって、恥ずかしながらつい最近のような気がする。
ようやく、大人として父親と対等にしゃべれるようになってから。だから、この子たちは、一見今風のクソガキに見えながら凄くデキた子たちで……私なんかとは全然、違うのだ。

でも、この地方の物語、高校を卒業して親元を離れて東京に出てくる子供たち、という設定が、あまりにも自分、そして自分を出してくれた親を、資金的な面で言ったらヤハリ父親を思わせて、なんともグッとくるものがあるんである。
そして父親は東京に住んだことはおろか、行ったことすらもない、みたいなさ……。子供たちが受かった大学が東京の私学であることさえ、学校の名前だけでは判らない、みたいなさ。
それで子供たちの方が、東京に行ったことがなくても東京のことをよく知っている子供たちにバカにされる、みたいなさ……。

なんかまたしても脱線しまくっているので修正。そもそもここがどこかというのは語られないけど、東京に高速バスで出られるぐらいの距離だというのは、後に兄妹二人が部屋の下見に出かけるので判る。
その距離感はまた絶妙で、東京が完全に異国の地のようであった私とはまた違って、彼らは東京に出るのなんてカンタン、とか思っていたのに、実際出てみたらのどかなイナカの彼らの故郷と全然違って呆然とするんである。いやいやいや……それもまたかなり先の話だから(爆)。

なんたって本作は、光石研である。彼が主演っていうのは、実に33年ぶり?なんだって?ビックリ!これだけ出ている人だから、主演作ぐらいちょこちょこあるかと思ったが……。
これはまさしく、彼の映画。だから、監督が、キャスティングはプロデューサーに任せている、というのを聞いてビックリしたぐらい。
でも、撮影していくうちに皆が光石研にホレちゃって、彼を輝かせるために一致団結した、というエピソードにそうでしょう、そうでしょう、とうなづきまくってしまうんである。
私、光石氏、大好きなの。この人は確かに、理想のオジサンだと思う。てらいのないチャーミングさと言ったらいいのだろうか。それがホンットに、本作の主人公にピタリなんだもん。

彼は、男やもめなのね。奥さんを亡くして以来、男手ひとつで子供二人を育てている。
いや……今の状態は育てているとは言い難い、年子の息子と娘は彼とろくに口もきかない。話し掛ければ「何」のひと言。
……いや、彼の方だって、この子供たちと似たり寄ったりの無愛想さなのよ。この真顔で「こんな遅くまでどこ行ってたんだ」と、しかも普段はろくに会話もしないのに頭ごなしに言われたら「友達とプリクラ。別に関係ないでしょ」と言ってしまう娘の気持ちも判らんではない。

この設定、奥さんを亡くしているという設定は、その亡くした奥さんが写真と回想と妄想(てか、夢想だな)でだけ出てくるんだけど西田尚美でね、その天真爛漫な感じがいかにこの家庭の潤滑油になっていたかを思わせるんだよね。
詩的な回想場面、家族四人で囲む食卓は幸せそうである。奥さんは猫を抱いて微笑んでいる。まず、奥さんが消える。猫だけがそこにいる。あぜんとする夫。
猫を抱こうとすると、猫もいない。順次、子供たちも消える。彼一人になる。そして彼は、一人になった。子供たちはいるのに、一人になった……。

なあんていうと、なんかすっごいシリアスな話みたいだけど、いや実際シリアスだし、「川の底から……」の印象からするとシリアスなんだけどさ、やっぱりそこは、チャーミングな可愛らしさが絶妙で、そここそがこの監督の個性、なんだよね!そしてその個性に、光石氏の個性が見事応えている、みたいなさ。
正直、光石氏がこんな、昭和の香りを残す厳格オヤジがハマるなんて、意外だった。いや、確かに昭和は昭和なんだけどさ、彼の年代はつまり、その昭和の負の部分を指摘されているのに、でも引きずってしまう、みたいな年代で、そのねじくれが、彼のキャラに投影されているのかもしれない、と思う。
光石氏演じる宮田と、彼と漫才コンビのように一緒にいるトモロヲさん演じる真田はなんとも可愛く可笑しく、で、宮田の方は、その昭和の価値観、昭和のオヤジの価値観をガンとして信じてる、それでしか自分の生きる道はない、みたいな感じなのよね。

それは潤滑油になっていたであろう奥さんが亡くなってしまったことと、安月給の自分のアイデンティティがそこにしかないと思い込んでいることもあるかもしれない。
でも真田の方はといえば、奥さんに逃げられ、自身は年老いた父親の介護に明け暮れ、今、その父親の最期を送り出し、自由の身になり、オシャレな帽子なぞかぶって遅い青春を謳歌している。
宮田が持て余している子供たちとのコミュニケーションをとって、自分は持てなかった子供との擬似親子のような経験に悦に入ったりするもんだから、自分だけ取り残されている気がする宮田は激昂するんである。

そうなの、もう光石氏とトモロヲさんのコンビネーションが絶妙でね!光石氏主演ではあるけど、相棒のトモロヲさんなくしては語れない映画であるのは、このタイトルが、中学生時代、カツアゲされる場面があまりにしっくり来過ぎている(爆)いじめられっこ同士だった二人が自転車で疾走した“あぜ道”であり、そんなイケてない中学生だった彼らの憧れが“ダンディ”であることからも明白である。
双方共に名バイプレーヤーである二人は、共演も多かったと思うけど、こんな風に相棒としてがっぷり組むのは初めて、だよね?

なんともいいんだよね。宮田は真田にしか自分を出せないからさ、自分を出した宮田はやけに強気でさ、いや、その点で言えば、子供たちに決死の思いで強気に出る宮田と、真田に対して気楽に強気に出る宮田とは大して変わらないかも(爆)。
胃の不調を覚えた宮田が、これは死んだ女房と同じ症状だ、胃がんで余命いくばくもないに違いない、と思い込み、「たった一人の友達に弱音を吐けなくて、誰に弱音を吐くんだよ!」と逆ギレどころか真性ギレするシーンを皮切りに、理不尽な怒りを再三ぶつけられ、トモロヲさん演じる真田はもういい迷惑(爆)。

特に、長年父親の介護をし、その間、子供を二度も流産してしまった妻も自分の元を去り、父を見送ってようやく自分のための時間を使えるようになって、つまりヒマになって(爆)、宮田の元に日参する彼、オシャレのためにかぶっている帽子を散々宮田はクサし、真田を閉口させる場面は最高!
だってトモロヲさん、ほんっとに悲しそうな顔で「帽子のことはもう言うなよー……」って消え入りそうなんだもん(笑)。光石氏の可愛らしさとはまた違った可愛らしさでね!

宮田が胃がんだと思い込んでいたのが実は違った、ってのは、真田が「そうだと思った」と言わなくても、観客にも充分察せられるあたりが、なんとも宮田のカワイイところなんだよね!
で、余命いくばくもないと思い込んだからこそ、いろいろ行動を起こす宮田の突飛さがあまりにも愛しくてさ。
まず、自分の遺影を用意する、引き伸ばしたのが、猫を抱いた写真で、引き伸ばしている分妙にマヌケでさ。
確かに宮田はこの猫に対しては、奥さんに引き続いて死んでしまったという思いもあり、そして自分は猫が死んだ時ひどく泣いたけれど、子供たちは自分が死んでも泣きやしないだろうとネガティブに思い込んでいたりもし……。
2枚で二万一千円も取られて仰天したこの写真を、子供たちそれぞれの部屋に差し入れて、後に二人が「お父さんって、何考えてんだろうね」と言い合うシーンが微笑ましくなるまでの展開で見事に昇華するのが上手いんだよなあ。

で、自分はもうすぐ死ぬんだと思うからこそ、宮田は自分の元から離れてしまう子供たちと思い出を作ろうと奮闘する。
娘とプリクラを撮ろうと後を付け回して、娘の友人がエンコウしようとしているのにカツを入れ、「お前、凄いな……」と真田が感心すると「人の子供には言える」という真田がせつな過ぎる(爆)。
いつもプレステばかりしている息子と“対戦”しようと、大型電気ショップで購入するも、見栄を張って店員に確認もしなかったもんだから、それはプレステではなく、なんか安そうなゲーム機で「俺、その機種持ってないから」結局真田とピコピコ貧相な音をたてて対戦するハメになる(爆)。

大体がさ、このゲーム機を買うシーンで、俺も買う、と言う真田に「お前とは対戦しない」と宮田が言い、なんでだよ!俺と対戦してくれたっていいだろ!と真田が心底すがりつくように言うのがメチャ可笑しくて、この場面一発で、この二人の関係性が示されてる感じがしてさ。
いや、とか言いつつ、宮田は真田をかなりバカにしつつ、実はすんごい信頼してるし、気を許してるし、彼以外頼れる人はいないんだけどね!

後にこの大型電気ショップで宮田の息子、あのぶっきらぼうで無愛想な息子がバイトをしているシーンが挿入され、親に対してとはまるで違う笑顔で、老人と孫の質問ににこやかに対応している。
てか、その前に息子は、先に大学生になった同級生(息子は浪人してるからね)の家に遊びに行くシーンがあってね、友人の母親が食事を作ってくれる訳。その様子を息子は何か、ぼんやりと、夢を見ているみたいに眺めてる。
友人はババア、ババア、と母親を呼び、「ババアの作ったメシ、まずくね?」とまで言い放ち、息子は無言で“メシ”をかっこむんである。

そして、帰り際、「お母さんにお礼言わなきゃ」と真摯な顔で言い、いいよ、あんなババアと失笑する友人を押しのけて、ごちそうさまでした!おじゃましました!と叫ぶ。友人は驚いて彼を見ている。
……正直、このシークエンスはちょこっと観客への示唆的過ぎる気もし、そんなことしなくても判ってるよ、とも思ったけど、でもやっぱり……ことに男の子に関しては、母親への思いは強いだろうし、示すべき、なのかもしれない。
それは、若くして愛する妻を亡くしてしまった父親の宮田とも通ずるのかもしれず、つまり、ここで息子と父親の気持ちが母親を通じてつながったことが、大事なのかもしれないなあ。

真田と話したこともキッカケになって、父親への思いをあらたにした長男が、父親と同じようにほとんど喋ることのない妹とコミュニケーションをとる。
なるべく安い部屋にしろよ、オヤジ、安月給なんだから、俺の貯金で敷金とか払えるところにしろよと言い、その台詞を聞いて、ああ、彼がバイトしてたのはそういうことかと胸がギューンとくるんである。
その後、彼らが見栄っ張りの父親のこと、ちゃんと判ってるからさ、散々、安月給、安月給、と心配するのがなんともおかしく切なく、父親を思って久しぶりにぎこちなく結託する兄と妹が大都会東京にヤラれるのも切なく……。
実際、安月給で二人を私学に入れるのがキツくて、父親の遺産を手に入れた真田に相談したら、真田が「心配するな」とカッコ良く請け負ったのも切なく……。
宮田が自分が死ぬと思い込んでいた時から、真田は彼の子供たちの面倒を見ることを約していたからこの流れは当然と言えば当然なんだけど、「カッコイイな、お前。でもその金は、父親の遺産だろ?」「それを言うなよ……」なんとも最後まで宮田と真田なんだから!!

宮田が酔っぱらってしか娘に言えなかった、人を好きになる、恥ずかしいけど貫けば誇りになる気持ち、満足して寝入っちゃった父親を自分のベッドに寝かせて、お兄ちゃんの部屋で寝る妹。
父親が見る、家族全員でのウサギのダンスの妄想、それは奥さんが最後に残したカセットテープの歌。「二番まで歌うのかよ」と安い発泡酒(以下の第三種のビール、てあたりが細かい。真田が呑んでるのは宮田よりちょと高い銘柄……)を呑みながら聞いている宮田。
まだ年若い時、ラブラブであったであろう時に死に別れた設定がなんとも切なく……。

でもやはり、ラストである。ついに二人の子供がこの家を出る日がやってくる。大学進学。その後の就職、結婚、などの人生の進行を考えると、まさに永の別れに等しい別れである。
配送業の宮田はレンタルトラックで二人の子供の引っ越しを担う。亡き妻に線香をあげて出発し、友の真田に「事故るなよ!」「ばぁか、俺は運転のプロだよ!」と茶化しあいながら涙ながらに送られる場面。
盛り上げる音楽も伴って感動的だが、カットが変わると歩道に乗り上げてて、「仕方ないよ、うん」「猫が飛び出してきたんだもん」「猫好きなら避けるって」爆笑!子供たちにめっちゃ慰められてるし!こーゆーあたりが、きっと、監督らしいんだろうなあ。

兄から言われていたのに、妹は「お父さんが心配すると思って」とセキュリティ万全の家賃高めの部屋に入居、その後向かった長男の部屋は、平成のこの時代にもこんな部屋まだあるのね、と思われる、カビくさそうな、勿論風呂ナシの部屋。
彼は「俺もバイトするからさ……」と控えめに口を出すけど、宮田はハンで押したように「心配するな!お父さんは金はいっぱい持ってるんだから」この台詞、言えば言うほどウソ臭く思えて(泣)。

で、このシーンで既に泣きそうだったんだけど、その後の、宮田と長男が一緒に銭湯に浸かって、息子の背中を流してるシーンも泣きそうだったんだけど、でもやっぱり、でもヤッパリ、ラストもラスト、大ラストである。
地元の、宮田がいつも真田と飲む居酒屋、席もいつも同じ場所に真田が待ってる。酔っぱらってクダを巻いて、周囲に煙たがられることもしょっちゅうだった場所。
この場所がね、いつも同じ店の同じ席で、予算が少なかったという本作の、心ある協力店のたまものなんだろうけど、その定点観測みたいな感じがまた、なんともあたたかくて、イイのだ。

真田は、これからは寂しくなるけど、俺はいるから、と宮田にビールを注いだ。バカヤロウ、と宮田はいつものように毒を返した。いや、これはとしや君(息子ね)が出る前に言ったんだよ。
……予測はしてた。メッチャ予測マンマンだったんだけど、ドーッと来てしまった。だってだってだって、光石研、その台詞を聞いた途端、グハッ!という感じで、爆発するみたいに、泣き出したんだもの。
いやいや、それも予測はしてた、してたけど、してただけに……あまりにも爆発的だったから、ウワーーーーーッと思った。あの時、息子がトラックの横っちょに真田をこっそり呼び出した時から予測してた筈なのに……。
宮田は、いや、光石研が、本泣きする、鼻水たらして泣く、真田が、いや、トモロヲさんが、泣くなよ、男だろ、と、この作品のキーワードの言葉を言いながら、もらい泣きする。もう、もう、もうーーー!!!

……あのね、やっぱりさ、確かにお父さんって、不利なのかもしれんさ。今は判んない、今の時代は。共働きが普通だし、お母さんもお父さんも対等で、古い価値観のつまんない役割なんて今はないのかもしれない。
でも、私ら世代はまだそんな価値観に生きてるからさ、監督世代がギリギリなんじゃないかなあ、本作のキャラの高校生はちょっとどうなのかなとも思うけど……。
お父さんとお母さん、その価値観がいいのか悪いのか、今それがはざまの時期のような気もしてる。この父親像がアナクロに見えつつも、でも消えてほしくないとも思う。
お父さん!お母さんよりずっと複雑で、いや単純だからこそ複雑に考えちゃう、永遠のテーマかもしれない。
お父さん!光石研がそれをメチャメチャ体現してくれて、もう涙が出るほどチャーミングで可愛くて切なくてさ。監督始め製作現場が“光石研を輝かせるため”動いたというのがもう、大納得なの!

宮田が競馬実況をマネしながら自転車を走らせるシーン、そして真田と退屈紛れに競馬中継を見るシーンで、「もともと猫とか馬とか、四つ足の動物は好きなんだ」と、ピシピシムチを打たれて走る馬にシンクロして眺める宮田もたまらなく好きだ!
しかも、この場面の、退屈しっきりの宮田と真田が、やったこともない(宮田がね)ゴルフのスイング練習をするマヌケさも、たまらなく愛しくて、好きだ!★★★★☆


アブラクサスの祭
2010年 117分 日本 カラー
監督:加藤直輝 脚本:佐向大 加藤直輝
撮影:近藤龍人 音楽:大友良英
出演:スネオヘアー ともさかりえ 本上まなみ 村井良大 ほっしゃん。 たくませいこ 山口拓 草村礼子 小林薫

2011/1/14/金 劇場(テアトル新宿)
福島在住のお坊さんに芥川賞作家がいたこと自体、知らなんだ。小学校時代はずっと福島に住んでて、今も“帰省”は両親が落ち着き先に決めた福島だというのに。
本作が当然、原作者の生まれ育った地であり物語の舞台でもある福島でオールロケされていたことも、福島で先行上映されていたことも、なーんにも知らなかった。ダメだなあ、私。

割と重要なキャストを地元の一般人キャストで埋めていることに、「海炭市叙景」で嬉しかった思いを、またここでも感じられるなんて、と思う。
ただ舞台にしているんではなく、ただその時ロケに出かけて引っかき回して終わるんでなく(結構、ロケで荒らされてイヤな思いをしたとかいう話、かつて聞いたからさ……)あるいは地元出身の俳優で固めるとかでもなく、真にその地から発信され、その地の思いが湧きあがってくる、こんな映画を観たいと思う。

とはいえ、主人公の浄念さんは設定自体、この地の生まれではなく、心の悩みや迷いを抱えて流浪してきた感がアリアリなので、もちろん、この地の出身などではなく、更に言うとプロの役者さんでもない、バリバリのミュージシャンであるスネオヘアー氏が担当する、というのは大いに頷けるんである。
まあ、浄念さんが東京でロックミュージシャンをやっていた過去があり、物語のクライマックスには圧巻のライブシーンが用意されているんだから、やはりここはプロのミュージシャンの起用は当然だっただろうとは思うけど。
役者さんが特訓してそれをこなしても、そこは役者さんだからきっちり仕事はするだろうけれど、でも、ことこの浄念さんに関しては、人の歌を歌わない、自分自身を見つめなおすにはこの町で歌うしかない!という固い決意を固める彼に関してはやはり……。
しっかとした音楽の世界を持っているミュージシャンの、その世界観こそが重要になってくるんだもの。

スネオヘアー氏に関しては、そりゃあ名前は知っていたけれど、現代音楽シーンに殊更に疎いもんだから、彼の音楽がどういうものなのか、まるで知らなかった。
ちゃんと知っている人が見れば、それこそクライマックスのライブシーンなんて、まさにスネオヘアーだ!と思うのかもしれないが、私は知らないから、浄念さんのライブステージを時にハラハラしながら、しかし最後はただただ圧倒されて、浄念さんの心の叫びで身体を満たしていた。
本当に、素晴らしかったと思う。スネオヘアーという人をろくに知らないままにこの映画に接して良かったと思う。

だって、本作の成功はやっぱり、彼の起用だと思うもんなあ。
学生時代演劇にのめりこんでいたというスネオヘアー氏は、実際いくつかの映画作品にも参加しているし私も観ているものがあるかもしれないんだけれど、もちろん初主演映画である本作に鮮やかに起用された彼は、もう、浄念さんでしか、なかった。
私がろくに知らないということもあるだろうけれど、でも、剃髪して、袈裟に身を包み、静かな……言ってしまえばさびれた田舎町で、時に排他的な住民たちに心ない態度を示されながら生活している彼は、浄念さんにしか、見えなかったのだ。

重要なファクターは、彼がどうやら鬱病であるらしい、ことなんである。らしい、というのは、ハッキリ言葉にして劇中では語られないからなんだけど、一回分ずつきちんとプラスチックケースに収められた薬を、流しの水道からコップに移した水で飲み下す場面が、まるで禅の修業のように静かに、粛然と行なわれる場面が印象的に繰り返されるのがまず大きく示しているし。
それに彼を見守るおっしょさんである玄宗さんやその妻の麻子さん、浄念さんの奥さんの多恵や息子の理有でさえも、彼の繊細さが彼自身を傷つけてしまうことをとても心配している。

何より、冒頭の場面で、高校の進路を応援する講演会に呼ばれた浄念さんが緊張のあまりブチリと切れて咆哮、スピーカーをぶっちぎり、ピアノをジャーンと弾いてしまうという大暴走を犯してしまうという、“ツカミ”で観客に強い印象を与えるんである。
その冒頭、カメラがまず、キレイに剃髪された彼の後頭部、耳と首筋の上あたりをじーっと捕らえるのが、妙に緊張する。
きちんと剃髪された、というのがひどく神経質に映って、というのは、あながちハズれてもいなかったのか、と後になって思うんである。

なんたって奥さんがしっかりものだし、一人息子もこんな?パパのことが大好きだから、彼はなんとかやっていられるのだ。
勿論、おっしょさんの玄宗さんや奥さんの麻子さんの理解も大きな味方である。
この講演会の事件は小さな田舎町では当然ながらあっという間に広がり、檀家の法事に玄宗さんと出かけた浄念さんは、人々の冷たい視線に容赦なくさらされる。
しかし、その法事の当主、老舗和菓子屋のご主人の庸平さんと思いがけず心を通わせたことで、この町で生きていく力みたいなものを得るんだけれど……。

この庸平さんを演じるほっしゃん。が、本作のキーマンであり、最も強い印象を残す人物なんである。
ほっしゃん。がこんなイイとは正直、意外だったなあ(失礼!)。いつもニコニコして、思春期の息子に手を焼きながらもでもそれは、よくあることやんか(いや、ここでは関西弁じゃないけどさ)と割り切っているように見えたのに。
でも、不穏は感じていた。音楽への思いを自覚した浄念さんが、この町でどこか歌えるところはないか、と庸平さんに問うと、スナック「こころ」に連れて行ってくれる。当初、ここでライブをしようとしていた場所であり、町の人たちの憩いの場所である。
浄念さんをしつこく歌に誘う酔客に、庸平さんがキレる。しんとしてしまった場に、「……なんてな」と庸平はごまかしたけど、その充血した目は真剣だった。
浄念さんに、「歌いたくない時は、歌わなくていいんだ」と、その血走った目をひたと据えて言った。……もうこの時、うっすら予感はあったかもしれない。

その後、浄念さんが息子と一緒に郡山の楽器店に行くシーン。通り道で庸平さんと行き会い、橋の上でぼんやりたたずんでいる彼に声をかけてもどこかうつろで、ほんの一瞬のシーンなんだけど、あ、やっぱり……これはヤバいな、と思ったんだもの。
庸平さんが自殺した、ということを聞いても、ヤなことに、驚かなかったのだ……。

と、だいぶ先走ってしまった。ちょっと戻そう。奥さんの多恵のこと。スーパーでパートをしている多恵は、実質、この家庭をすべてにおいて支えているだろうと思われる。
演じるのは安定感バツグンのともさかりえ。「ちょんまげぷりん」といい、こういう役をやらせると彼女の右に出る者はいないだろうと思われる。
ムダに美人女優じゃない(!いや、充分美しいけれど!)ってのもあるけど、なんだろう、凄くバランスがいいんだよね。
キャリアウーマン一辺倒でもなく、お母さんや奥さん一辺倒でもない。女っぽさ一辺倒でもなく、男勝り一辺倒でもない。ほどよくカッコ良く、ほどよくカワイイ。

浄念さんのような繊細で頼りない夫に対しては、ひたすら強くて、彼女に何の相談もなしに勝手に何もかも決めてしまう(……この奥さんに対しては、コワイからだろうなあ……)浄念さんを、彼女は何度ぶっ飛ばしただろうか(笑)。おこずかいも散々減らすし(笑)。
もちろんそれは、上手くいかないことがあるとどん底まで落ち込んでしまう夫のことを心配してのことであり、本当に本当に、浄念さんのことを愛しているんだよね。
それでも最後の最後、スナックからライブを断わられた時、当人の浄念さんよりずっと激怒して、玄宗さんのはからいで寺の境内でライブが出来ることになると、当人より飛び上がって喜ぶ多恵、ともさかりえが可愛くて、そしてじんと来てしまうのだ!!

その玄宗さんを演じる小林薫も、その若い奥さんを演じる本上まなみも、とても良かったなあ!
玄宗さんは浄念さんの自己表現への渇望に理解を示しながらも、なんたってこの町を一手に檀家に持つ住職だから、困惑を隠せない。なのに、最も冒険である、寺の境内を浄念さんのステージに差し出すんだもの!

本上まなみの、穏やかで暖かい理解者の雰囲気もとても救われた。浄念さんの若い頃のライブステージをネットで発見して、驚きながらも笑顔で、すごーい!みたいな感じで。
浄念さんのライブのためにポスターを作ってくれたり(絵が上手いのだ!)、なんかね、もしかしたらこういう立ち位置はズルいのかもしれないんだけど、全てを肯定的に受け入れてくれる、なんのしがらみもない彼女の存在が、凄く、癒されるんだよなあ。
だって、町の人から浄念の奥さんという立場でやいやい言われる多恵は、やっぱりこんな立ち位置にはなれないじゃない?そんな多恵は、時折り浄念さんの本当の素敵さを見失うこともあるし。
それを麻子さんが凄く平易な、純粋な言葉で指摘してくれるのだ。浄念さんのまっすぐさを。

墓参りに来るおじいさんのエピソードはなかなかに感動的だが、ことさらにそんな判りやすい例を持ち出さなくても、浄念さんの素敵さは、ちょっとキッカケを与えてあげれば、多恵は思い出すことが出来る筈なのだ。
だってきっと、だからこそ多恵は、彼が好きになったと思うんだもの。

庸平さんの死にショックを受けて、行方をくらました浄念さんのエピソードが、クライマックスのライブシーン前の大きなヤマである。
その前のシークエンスで郡山の楽器店に息子と二人で買い物に出かけ、店員と共にふと姿を消した父親に、幼い息子が不安いっぱいに店の中を探し回るシーンが、布石になっている。
正直このシーンで親子がはぐれてしまうんじゃないかとヒヤリとしたが、不思議なぐらい、ちょっと不自然なぐらい、親子は再会し(いや、この幼い息子が不安を抱えて歩き回っている距離はホント、狭い空間だったから……てのが愛しいんだけど)ホッとしたのも束の間でさ……。
でも、ここで息子は、お父さんに「どこにも行かないで」と訴え、彼もまた「どこにも行かないよ」と約束したのだもの。

庸平さんの死でね、浄念さんはホントに打ちのめされてしまうのだ。あんなに近くにいたのに。しかも、自分を励ましてくれた庸平さんを救えなかったことにガクゼンとして、お経どころか、木魚も叩けなくなっちゃう。
そして姿をくらます。浄念さんが僧侶になったばかりの頃、同じように檀家さんの死に落ち込んで冬の海に飛び込んだことがあることを心配して、玄宗さん、麻子さん、何より奥さんの多恵が奔走する。

浄念さんがたどり着いたのはまさに、冬の海でさ。でもヤミクモに心乱れてそこにたどり着いたんじゃなくて……なぜ自分がここにいて、庸平さんは死んでしまったのか。自分がここにいる意味は何か、ということで……。それを、独特の表現で言っていたと思うんだけど、ちょっと忘れた(爆)。
浄念さんは冬の海に向かって絶叫し、わざわざ持参したギターとアンプで海に浮かんだ岩の上に立って絶唱し、朝を向かえ、ザブンと打ち寄せた波で目を覚ました。全てが、必要である儀式だったように思う。

この場面、ちょっと間違えればかなり陳腐にもなりそうなんだけど、浄念さん、いやさ、スネオヘアー氏が凄く、素晴らしくて、胸を打たれてしまった。打ち寄せる波に感電しないかと、ちょっと心配したけど(爆)。

老犬、ナムのエピソードも心に染みる。この冬を越せるかどうか心配なぐらいヨタヨタしたナムに、浄念さんは看取れなかった父親を重ねる。
オムツ(ていうか、ペットシート)をしなければいけなくなったナムに「オムツ記念日ですね」と浄念さんはそこは僧侶らしい前向きなことを言い、それを幼い息子にも教えるんである。
タイトルにもなっているアブラクサス、いろんな意味があるみたいだけど、それをこの老犬の名前にもなっているナム、南無阿弥陀仏のナムに重ねる。
善も悪もひっくるめた、というか、善でもあり悪でもあるもの。神様も人間も、そうなんだと。

浄念さんがライブ前夜、重ね鏡の前で裸になって座禅を組み、無数に映し出される“自分”の中で、悟りを開く場面に直結する、このナムであり、アブラクサス。
この鏡のシーンは、とても静かだけれど、実はこここそがもっともメイン、主題を示していたんだろうな……。
自分なんて、ないんだと。あるがままだと。もっと深遠な言葉で言っていたと思うけど、すいません、覚え切れなくて(爆)。
でもね、ここはとても美しいシーンだった。それが、ライブの前「お願いだから脱がないでね」とちょっと冗談ぽく言った多恵の台詞にふと重なったとしても。
しかも、更にその前、多恵がしぶしぶライブを了承した場面で「脱がないでよね。上だけじゃなくて下も!」というちょっとクスリとさせるシーンにもちゃあんとつながるのが、なんとも微笑ましいのだ。

まあだから、脱いじゃうんだけどさ(爆)。でもね、でも……このライブシーンは、そんな揶揄する気持ちも封じ込めてしまう程、本当に、すごくすごおく、凄かったんだもの!
急遽変更された会場に、本当に人が来てくれるのか。村祭りみたいに豚汁だのなんだの用意しながらヤキモキするのもなんとも良くて。
そして田んぼの向こうから人々が三々五々集まってくる様に本当に感動する。

ていうかさ、日程が着々と詰まってきて、かつて一緒にやっていたと思しきサポートメンバーが終結する、剃髪に袈裟姿の浄念さんを、オシャレなミュージシャン姿のサポートメンバーが腕を広げて彼を大きく抱擁し、その坊主頭を優しく抱き寄せるのが、引きの場面だけに余計に、ググッときちゃうのだよ!!!
もうそこだけで、時間も空間も離れていたけれど音楽でつながっていた彼らの絆を感じてさあ!!
だから、かがり火の中で、“脱いじゃった”上半身が神々しく映り、暴れまわり咆哮しまくる浄念さんにちょっとハラハラしながらも、彼をサポートするメンバーたちの熱いリアクションもあいまって、それこそが、神への神聖なる供物のように思えて、胸が熱くなるのだよね……。

そして、静かな日常が戻ってくるのをきちんと映し出すのがまた、いいのだ。
浄念さんが気にかけていたナムはライブの最中に静かに息を引き取り、ライブを遠くから見守っていた玄宗さんは、お疲れ様、とナムに声をかける。
浄念さんはナムが葬られた盛り土に静かに手を合わせ、今日も田んぼの間の狭い道を静かに降りていく。

アブラクサス、と聞いて、子供の頃大好きだった童話「小さな魔女」のお供のカラス、と、それだけが頭にこびりついていた、なんてのは、どれだけの人が共感していただけるのか知らん?アブラクサスに、そんな深遠な意味があるなんて、初めて知った。

庸平さんの息子がやけにイケメンで、父親にずっと冷たい態度をとっていたことを後悔する彼に浄念さんが「私もそうでした」と静かに語る場面は感動的だが、そう、やけに判りやすくイケメン君でね。
父親の遺品のギターピックを渡したり、浄念さんのライブを遠くから眺めてニコリと笑ってバイクで走り去ったりと、ちょっとイケメン描写すぎる気がしたかなあ。
父親が自分に後を継いでほしかった気持ちを感じていた彼が、それでも「自分には他に居場所がある」と考え抜いた末に到達したという経緯があるだけにさ、その彼の結論に浄念さんが無言で深く頷いた場面が印象的だっただけにさ……惜しかった気がしたなあ。 ★★★★☆


UNDERWATER LOVE -おんなの河童-
2011年 86分 日本=ドイツ カラー
監督:いまおかしんじ 脚本:いまおかしんじ 守屋文雄
撮影:クリストファー・ドイル 音楽:ステレオ・トータル
出演:正木佐和 梅澤嘉朗 成田愛 吉岡睦雄 守屋文雄 大西裕 佐藤宏 西村絵美

2011/10/25/火 劇場(ポレポレ東中野)
予告編で、どんだけシュールな映画かと思って怖気づいていたので、割と話が判ってホッとしたりして。
いやー、だってさ、あの予告編はなんか、そうやって観客を威嚇して、足を鈍らせるような作り方してないかい?だってだってさ、シュールな歌で踊りまくったり、河童が狭い風呂でシャワーでお皿に水をかけている場面だけじゃ、わ、判らん!前衛舞台のような作品なのかと思ってしまうじゃないのお。
見てしまえば案外切な系のイイ話?しかしなぜそれを河童にしたのかが訳判らんが……。

……だっていまおか監督ならやりかねないんだもの。そんな前衛作品だって作りかねない。程度の差こそあれ、なぜそうなる?と理解に苦しみまくる描写や展開を提示してくる彼は、やはりある意味天才だと思う。
ある意味……というあたりに、凡人にはどうしても入り込めない壁があるのを感じたりもする訳で。

それにしてもなんで河童なのかなあ。「かえるのうた」といい、水棲生物が好きなのかなあ。ていうか、河童は水棲生物、だよね……たぶん。
それ以外にもナゾが多すぎる。なぜドイツとの合作??どのあたりがドイツ??あ、音楽ドイツのミュージシャンなんだ……一体どこからそのコネクションが生まれたの?
てか日本語の歌だったよね?確かに言われてみれば、ミョーにトーンの低い歌感が実にシュールだったが……。
ドイツでも“某劇場”で同時公開されているんだとか。だ、大丈夫、なのか??……日本人でもこの世界観、ついていくのにひいこらなのに。

最大のナゾは、どういう経緯でクリストファー・ドイルが参加することになったのかだ。これが一番ビックリした。いや、いまおか監督ほどの才能ならクリストファー・ドイルと組んでも可笑しくないと思うけど、でもそれを、この作品でか!?
彼はどう思いながらカメラを回していたのか、メッチャ気になる!てか、どの時点で参加することが決まったの、こういう映画だって判ってて、なの?
だって確かにさ、ザ・クリストファー・ドイルな映像なんだもん。ウォン・カーウァイの出現と共に衝撃的だった、あの湿度の高い映像美学。カーウァイの名前以上に、クリストファー・ドイルのそれの方が映画ファンには刻み込まれたぐらいだったんだもの。

それが、まさか、まさか、まさか、この河童映画(というのもちと違う気がするが)でっ!なんでなんでなんで!
河童がぬらりと出てくる、蓮の葉がぎっしりと浮かんでいる沼地、水をはじく蓮の葉のみずみずしさが詩情豊か過ぎだろ!
凪いだようなブルーグレーの川面に浮かぶ、黒い桟橋の静けさなんて水墨画のような美しさ。それであのチープな造形の河童……い、いいのかなー!!

……なんか戸惑いまくっている。しかしてそう、先述したように結構物語はマトモ?……なんだろうか……。
ざっと言っちゃうと、高校生の頃、川で死んでしまった同級生の青木君が、河童となって生き返ってヒロイン、明日香の前に現われる。それには実は理由があって、明日香は余命いくばくもないんであった。
青木と明日香はお互い初恋の相手同士。思いを伝え合ってはいなかったけれど。
青木はなんとか明日香を助けたいと思って、死神と交渉したりするも埒が明かず、彼女を無理やりさらって、河童の長老たちの元に連れて行くのだが……。

うーん、マトモだろうか、どうだろうか(爆)。青木が明日香のことを当時のあだ名、チャゲと呼ぶのはやはり、チャゲ&飛鳥から来てるんだろうな、とどーでもいいことを思ったりする。
まあ確かに年代的にピタリだし……いや、ヒロインはピタリだけど、青木君は若い気がする。汚れたワイシャツと黒ズボン、そのシャツは背中が破けて河童の甲羅が見えている。
ということは恐らく、川にはまって死んだ高校生の時のまま、時間が止まっているんじゃないかと思われる。だって河童の姿になったとはいえ、明日香は「青木君?」と判った訳だし……。

そうなの、ちょっとね、この汚れた河童の造形がね(爆)。確かに日本人にとって河童は馴染み深いし、でもマンガチックが好きな日本人にとって河童はどんどんそんな具合にデフォルメされているからなあ。
正直青木君のいでたちは汚れすぎててなんかホームレスみたい(爆)。河童の特殊メイクもビミョーだし(爆爆)。

ただ……確かに死んだ時のまま、そのいでたちのまま、若いまま、というのは心にぐっとくるものは、ある。
後段でね、青木君は死神からあんなオバサン、とくさされて、明日香は女の子だよ。だから好きなんだ、と言うのね。それがまったく躊躇なしに。
女の子、の定義がどこにあるのか、明日香はもういい年で、この地元に帰ってくるまでにだって、10年間東京でOLの経験だってある。
親の死を期に帰ってきたとはいえ、人生経験を積んでいるのだ。それを青木君に「新橋でね。仕事場との往復だった」と言うものの、高校生のみそらで死んでしまった青木君には知るべくもない境地じゃないの。

それに青木君の目の前で、明日香は婚約者とセックスもするしさ。青木君はその時彼女の家に押しかけていて、青木君の存在を隠そうとして、必死に婚約者の気を引く。そんな全裸の彼女のお尻に、青木君たらちょいちょいちょっかい出したりしてさ。……青木君こそが童貞じゃないのと思うのだが。

あ、あ!童貞!この青木君=河童を演じる梅澤氏は、あの、あの問題?作、「童貞。をプロデュース」の童貞2号君!
うっそお!え?何?彼は今役者やってるの?そういう訳ではないの?ていうか今思えばあの“ドキュメンタリー”もどこまでホントだったのか疑わしい気も……。
び、びっくり、した。だって彼、本作の中で見事にカラミを二人もこなしてるじゃん!……てそういう問題じゃないか……。
でもいわゆるカラミ要員である、工場のエロエロ従業員の女の子と、何より明日香とクライマックスで、実に美しい、山奥の清らかな川のほとりで、命を吹き返すための儀式のような美しいセックスを!!

……おーっと、またちょっと先走ってしまったっ。えーと、どこから修正しよう……(爆)。
と、とりあえず。あ、そうだ。工場、そう、工場よね。ヒロインが勤めているのは静かな田舎町の水産加工工場。このあたり、めっちゃ「おじさん天国」!て感じがする。あの久米水産社歌は今でも口をついて出てくるぐらい、トラウマのように?頭の中にこびりついたもんなあ。
私は勝手にこの水産加工工場の世界観を「川の底からこんにちは」が後追いしたと思ってるんだけどっ。

まあそれはいいとして。あとなんだっけ。あ、そうそう、ヒロインの婚約者、はじめ。すっかり安定感漂う吉岡睦雄。工場の主任という立場で、年恰好もイイ感じの明日香と結婚に向けて、式場やらなんやら楽しげに打ち合わせをしている様が可愛い。
パンフの顔写真を全部二人の写真に貼り替えたのは、きっと彼の手作業だろうと思っちゃう。「あ!今どきゴンドラあるよ、乗っちゃう?」い、愛しいなあ。

明日香のアパートに青木君が押しかけてきていて、それを知らずに訪ねてきたはじめが、「一人で考えごとをしたいから」とテキトーなことを言って帰ってもらおうとする明日香に「すぐ終わるから。そしたらゆっくり一人で考えていいから」とニコニコしながらセカセカ求めるのが、こんな事態じゃなければイラッときそうなんだけど(いや、こんな事態だからこそイラッとくるのかな?……だんだん訳判らんくなってきた……)困ったな、なんか許せちゃうのね。

とはいえ、彼はなんたって明日香を目の前でさらわれてしまうんだが……。なんかここまでこれがミュージカル!だってこと、予告編の話だけでそのままスルーしてたんだけど、ミュージカル、なんだよな……。
うーん、ミュージカル、なんだろうか?確かに冒頭、明日香が働く工場で彼女がいきなり踊りだすところから始まるが……それもオバサン、オバサンと連呼して(爆)。
で、余命いくばくもない明日香を救いたい青木君が、死神との交渉も上手く行かなくて、もう最後の手段!と婚約者の前から彼女をさらい出す訳で。

で、何でか明日香はこんな理不尽な状況なのに、もういいや!みたいな感じで青木君についていっちゃう。で、ついていった先で楽しげに彼と手をとりあって歌い、踊る。な、何故……!?
それ以外は一応なんとなく説明がついていたのに、ここが一番彼女の気持ちの変遷が判らんくてシュールだったなあ……。まあでも、女はこう!とキモを固めてしまえば理不尽だろうとなんだろうと、ハラを固められる生き物なのかも……しれんなあ。
自分は死んでしまうんだ。いや、もっと生きたい。青木君についていって、山奥の河童の長老に会い、しりこだまなるものをもらい受ける。

それを尻の穴から入れれば死神が近づけないと。その設定自体スゴすぎるし、ここで河童たちといきなり踊りだすのもシュール極まりないのだが、ここで明日香が長老と交わす会話が一番マトモで、そして、本作のテーマなるものなのかもしれない。
35年も生きてきてまだ生きたいのか。しりこだまを授けても、何年か何十年か先にはお前は死ぬ。それでも生きたいのか、と。
この時にね、明日香が「そうか、私、死ぬんだ……」とつぶやくのが印象的でさ。そりゃあ人間、明日死ぬとか、何日後に死ぬとか言われればピンとこないけど、何年か何十年か先には死ぬというのなら、まあそうかな、と思う。

うーん……明日香のような体験をしなければ、何年後かというのもちょっとギョッとするけど、何十年後かならば、そりゃそうだな、と思える。
でも、本当に思えているかと言われると……明日香がつぶやいた言葉が、「そうか、私、(いつか)死ぬんだ……」という含みがあったように思えたからさ。
ああ、確かにいつか死ぬことさえ、判ってなかったかもしれない、って。青木君は高校生の時に死んで、そのままの姿……ではなく、河童になって現われた。そのままの姿、だったら、明日香もまた違う感情の経過があったかもしれないなあ。

長老からしりこだまをもらい、それを川の水で洗って尻から入れる、そうすれば死神が近づけない。しかして川に到達するまでの帰り道、青木君は皿の水が乾いて立ち往生してしまう。
仕方なく明日香は一人先に行くも、彼女の命を狙う死神が待ち受けている。この死神の造形がまた、なんかヒッピーみたいなファッションでお気楽で、明日香との相撲にアッサリ負けて退散しちゃうし。
てゆーか、河童が人間と相撲を取るなら判るけど、死神と人間が相撲をとるのは必然性ないんじゃないのかなあ……うーむ。

でもこの死神はちょっとホッとするキャラ。明日香の寿命を交渉する青木君が、彼がかつて住んでいた廃屋に酒をエサに死神を誘い出し、一升瓶片手に鍋をつついてウーイといい具合になってる様のユルさが楽しい。
それにこの廃屋は、そう、青木君の思い出がつまっている場所だからさ……。最初に登場するのはカラミ要員のエロエロ従業員とヤッちゃう場面としてであり、パンツ見えるにも程があるだろ!てなありえねーミニスカワンピースでぶりぶり前を歩いていく成田愛嬢の豊満なボディに圧倒されるのだが。

ホント、豊満、これでいいんだと思っちゃう。いや、おっぱいはこんなないけど、このお腹でもいいんだとか思っちゃう(爆)。
いや、明日香を演じる正木佐和嬢が薄めながら美しいおっぱいと、ぺったんこのお腹の持ち主だったからさあ。
青木君のナニがドードーと登場するのも衝撃だが、まあ彼は河童だから、という訳で赤黒い特殊造詣物として現れる……。
うーん、ある意味アイディア勝負かも?だってそのものじゃんよ……いや、人間のサイズとは違う……かどうかはそんなバリエーション見た経験ないから判らんけど!!

でも、カラミ要員とか言っちゃったけど、このエロエロ従業員とのシーンはなにげに重要だったのかもしれんなあ。だってこの子、まあ最初はカネとるつもりだったらしいけど、押入れの奥から古いラブレター見つけ出して、思いを伝えなきゃダメよ!と後押ししてくれるし。
それにクライマックスの、死にかけた青木君の息をふきかえそうと明日香が自分の中に彼を収める場面ではさ、先にエロエロ従業員とのシーンがあるから、あのナニだとか思っちゃって(爆)。
なんかだからこそ、初恋の人のもので明日香の中がいっぱいになる、清らかな川辺の様子が、泣きながら彼にまたがってピストンする彼女の白い裸体が、なんか人工呼吸で恋人を生き返らそうとしているようにも見えて、呼吸よりもっと、奥まで、突っ込んで、生命エネルギーを注入する行為じゃんね。だからさ……。

ほんの一瞬のような気がした。青木君が河童の造形から、彼だけの、彼自身になったのが。
河童のチープな特殊造形から解放された青木君=梅澤氏は、童貞二号君とは思えないほど、適度にシェイプされた身体がセクシーで、明日香と愛し合う様が感動的だった。
彼女がイッて、その後我に返ると彼の姿が霧のように消えている。結果、どこの時点でハッピーエンドだったのか、青木君はいつか生き返るのか、明日香はとりあえず婚約者である主任と結婚して幸せになるのか。

ラストは明日香が、自分も書いていた彼へのラブレターを出会った川に放り投げるところで終わる。青木君からのラブレターを瀕死の彼から渡された彼女が、彼が死にそうだということにテンパって、なんか川にそのまま流しそうになっているのがかなーり気になったんだけど、知らぬ間にちゃんとしまっていたらしい。
個人的には、主任にすべてを話し、主任はすべてを受け入れ、二人、子供も作って家族で幸せに生きていってほしいなあ。

ひとつ意味ありげで気になったのが、明日香がキュウリをボリボリ食べているシーン。婚約者のはじめと居酒屋で結婚式の打ち合わせをしている場面なんだけど、モロキュウとかそんなんじゃなくて、まるまる一本のキュウリが何本もドンと置かれてて、そんなメニューあるかと。
その前に、青木君が彼女の家に押しかけてくる、ペンギン型のカキ氷機の前にフツーにおかれたキュウリ、それを青木君がカキ氷を作って冷やしてボリボリ食べる。……明日香は河童になる要素を持ってるとかいう暗喩?だとしたらラストの感慨は、違ってくるのかなあ。

沼のぬるり感とか、常に水気を欲している感じ、実はエロを表していたのかなあ?水棲生物のヌル感て確かにちょっと……エロかも。★★★☆☆


アンダーグラウンド/UNDERGROUND
1995年 170分 フランス=ドイツ=ハンガリー カラー
監督:エミール・クストリッツァ 脚本:デュシャン・コヴァチェヴィッチ/エミール・クストリッツァ
撮影:ヴィルコ・フィラチ 音楽:ゴラン・ブレゴヴィッチ
出演:ミキ・マノイロヴィッチ/ラザル・リストフスキー/ミリャナ・ヤコヴィッチ/エルンスト・ストッツナー/スラヴコ・スティマツ/スルジャン・トドロヴィッチ

2011/10/17/月 劇場(シアターN渋谷)
各年代ごとに、これは見とかなきゃマズいだろうという映画はやはり存在してて、本作は90年代におけるその一本であることは間違いなかろうと思われる。
ていうか、その年の……あれはなんだったかな、どっかの外国映画賞ベストワンに選ばれてて(まあきっと、いろんなところで獲りまくってたんだろうけど)、その作品の存在すら知らなかった若き頃(まあ今よりは(爆))私はショック、驚愕、ええ、何、何、何これ?と……。
だってとっくに公開も終わってて観るすべナシで、レンタルというのも悔しく(レンタルの習慣がそもそもないもんで……)、結局この16年間(もうそんなになるのか!)いつか観られる機会があるだろうと、そのタイトルをずっと心の底に刻んでいたんであった。

刻んでいた割には、これがどういう映画かという基本情報もまったく入れていなかったあたりがイタい。いや、でも基本情報入れてたら、私怖気づいて観られなかったと思う。
だって、めっちゃ私の苦手分野なんだもん。国際情勢、民族紛争、苦手苦手、超苦手。映画とはいつでも普遍的なものを提示してくれるものだと、気楽に考えている自分の甘さを突きつけられる。まあ平和ボケした日本に暮らす頭の悪い女なんてこんなもんさと(自爆)。
確かに私のそうした認識は間違ってる。映画は決して普遍的なものを提示するメディアじゃなく、まったく真逆、その時代の人間そのものを映し出す鏡なのだ。そんなこと、判っていた筈なのに。

見逃してしまっていたことで、逆にクストリッツァ監督の名前は刻み込まれて、その後に公開された「黒猫・白猫」は即効観た記憶があるが、そこで得た印象はひたすら祝祭的な明るさだったから、本作の重さはよもやだった。
ていうか、本作以前に「アリゾナ・ドリーム」でクストリッツァ作品には触れているのに。完全にハリウッドスター出演映画として足を運んでるもなあ……いや、ジョニデじゃなくて リリ・テイラー狙いよ!

なんてことはどうでもいいのだが。でも本作も確かに、祝祭的ムードにはそれこそ“一見”あふれてる。それは、何があろうと、何が起ころうと全篇を暴力的なまでに貫き続けるロマ(ジプシー)音楽である。
本作がそんなにまでそれをフューチャリングしているとは知らなかったけど、これ以降、特に90年代はサブカル上でロマ音楽があふれる映画がちょっとしたブームだったような記憶もある。なるほど、その基点は「アンダーグラウンド」だったのだな、と思う。

本作は大戦や内紛に翻弄されたひとつの国の悲劇的惨状を描いているから、ひとつの映画作品として対面するには色々と制約があるというか、それを感じざるを得ないというか……。
私なんてほおんとに無知で判らなくて、え?ユーゴスラヴィアって今ないんだっけ、というぐらいの超絶おバカさんだから、慌ててその国の歴史やらとか後付で調べるんだけど、そうなると、本作をそれだけで語らなければいけないような気にもなり、ユーゴの歴史だけをここに書きそうになる自分がいて(爆)。

だってそうしないとあっという間にあちこちツッコミ入れられそうだとか、ほんっとに情けないことを考えちゃうんだけど、ほんっとに情けないんだけど、ただ……。
でもやっぱりこれは映画であり、映画的魅力に満ち溢れているし、クストリッツァ監督だって決して決して、そんな難しい見方をしてほしいと思っている訳ではないと……思う。私のようなおバカさんに知ってもらいたいと思う気持ちがあったと……思う。

なんかかなーり言い訳じみてしまったけど(爆)、まあそういう訳で書き進めていくのでお手柔らかにお願いします(爆)。
でもね、本作中にも、私のような立場の人間は数多くいるのよ。ていうか、メインキャストの何人かは、そうなのよ。タイトルであるアンダーグラウンド、地下世界。そこに閉じ込められた人間たちは、世界大戦後の実に20年?もの間、その戦争が続いていると信じている。
170分もの長尺である本作は、三つのチャプターに分かれてるんだけど、一が戦争、二が冷戦、三が戦争、つまりずーっと戦争なんである。そして一と三の戦争は、前者が世界大戦、後者がユーゴ内紛である。地下に追いやられた人間たちは、その間ずーっと世界大戦が続いていると信じていて、その敵は実に判りやすくナチである。

実際、物語の冒頭、彼らの住む首都ベオグラードはナチの爆撃によって壊滅的な被害を受ける。メインキャストの一人、動物園の飼育係のイヴァンが世話しているチンパンジーのソニをしっかと抱きながら逃げ惑い、傷つく動物たちをどうすることも出来ない描写にドギモを抜かれる。
いやまさか、そんなアレだろうが、大怪我をしたトラが、なぜかちょっかいを出してくるアヒル(こちらも怪我をして動けなかったんだろうか?)にガブリと覆いかぶさるショットなんかヒヤリとする。

このソニは本当に可愛くて賢くて、ことあるごとに彼?の描写に癒されるんだけど、その最たる場面は……まだまだ先である。
ていうか、冒頭の冒頭はこのシーンじゃなかったな。メインもメイン、一番の主人公マルコが、クロ(というのは呼称。ペタル・ポタラ)を共産党員として迎え入れ、その儀式?としてやたら祝祭的に大騒ぎしているシーン。クロの奥さんがもうやめてよ、みたいにマルコに悪態をつく、みたいな、一見すれば実にあっかるいシーンから始まるんである。
この時点で、マルコがこの国で何を目論んでいるのかとか、この国の情勢を描く映画だとかまったく判らないで見ているので、気楽にワクワクするぐらいなんだよね。

クロとマルコが二人して恋慕しているのが、美しい女優、ナタリアである。彼女が舞台に立っているシーンは一箇所だけあるが、実に確信犯的にドヘタである。ていうか、信じられないほどオーバーアクトである。
まあそれは、本作の全てにおいてそうであるとも言えるんだけど、最初のうちはね、つまり事態が判ってなかったもんだから、祝祭的ハイテンションの楽しさがこの映画の魅力として描かれているのかと思っていたんである。なんとノーテンキなと今は思うけど(爆)。
つまりはさ、もうこんなテンションでないとやりきれない訳よ。監督の故郷、ユーゴスラヴィアは今はない。それまでの過程はこれほどまでに、これほどまでに……。

でもさ、本作が作られた頃にはまだユーゴの内紛は現在進行形で、ユーゴの国としての体裁はまだかろうじてあったことを思うと、本作を作ったこと、それによって彼が受けたあらゆる重いリアクションは想像するに余りあるのだが……。
今なら、今ならね、それこそ、セルビア人、クロアチア人、そんな軋轢も、おバカな私にさえなんとなく聞こえてくるけれど、本当にリアルタイムで見ていたら、やっぱりもっともっと自信ないなあ。
監督はセルビア系だという。当時現在進行形だったユーゴの内紛に踏み込んだ本作で彼がさらされた事態はほんとに……想像するにあまりあるんである。

まあそれに言及しちゃうと、映画自体の話からは離れちゃうから……。で、どこまで行ったんだっけ。あ、そうそう、二人の男が恋慕するナタリアの話ね。
二人の男と言いつつ、最初のうちはクロが超積極的で、先述の舞台上に乱入して、紐でぐるぐる背中合わせにくくりつけ、ナチの将校、フランツの元から、奪還するという荒業!なんである。
ナタリアは最後までこの二人の男、最終的にはマルコに翻弄され続けるんだけど、彼女がナチの恋人を選んだのは、障害を持つ弟の存在もあったんであった。

こういうのもキツいけど、でもこの弟、車椅子で、恐らく知的障害もありそうで、ど近眼で眼鏡の奥の目が巨大化する様がケント・デリカットみたいで、彼をコミカルにとらえていいものかどうか悩むところなんだけど。
ただ彼は、だからこそ、凄く“見えて”いる感じはしたなあ。それこそ地下に追いやられた人たちが地上の変遷に気づかず、ただナチだけを憎んでそれをエネルギーにして生活していたり、地上の人間たちが、同胞(まあ、広い意味でね)の闘い、価値観がくるくる変わる中で疲弊する中で、彼だけは、こいつイイ人、こいつ悪い人!みたいにシンプルでさ……。

そもそもなんで地下生活、タイトルにもなっているアンダーグラウンドとなったのか。それはマルコが彼らを使って武器を作らせ、地上で売りさばいて富を得て、いや富どころか名声も得ていく、地上と地下は価値観どころか時間の経過まで違っていくという、ものすごい設定、ものすごいアイディアの展開なんである。
そう、時間経過まで違うの。一日の時間を少しずつずらして、20年間経っているのに地下の人間たちは15年しか経っていないと思っている。でもそれをやったのはなんでかなあ。少しでも長く、地下の人間たち、特にクロを黙らせ続けるためだったんだろうか。あるいは子供たちが大人になって、おかしいと思い始めて、真実を求めようとするのを少しでも遅らせようとしたのだろうか。

そりゃまあ実際クロは、ずっとずっと地上に出たがってた。マルコによって解放闘争の重要人物に仕立て上げられていたクロは、出るべき時はまだ先だと、カリスマ指導者チトーの名前まで出されてマルコに慇懃無礼に押さえ込まれていた。
チトー。これまた無知な私は知らん名前である。しかしユーゴの歴史をひもとくと、彼なしでは語れない、どころか、彼によってユーゴの歴史が語れるぐらいの人物なんである。

それでもクロの堪忍袋、ではないけど、ガマンが切れる時が来る。クロの息子、ヨヴァンの結婚式が本作のあらゆる点での基点になる。
なんかここまででもかなーり取りこぼしている点はいっぱいあるんだけど(爆)、ナタリアを取り戻しに来たフランツによって捕らえられたクロが拷問を受け、助けに来たマルコがフランツを殺しちゃったりさ!!
アッサリ言っちゃったけど、激しい電気ショックの拷問に「クロは電気技師だから平気なんだ」なんて理屈が通ってしまうナンセンスさ!

それ以降、クロは地下生活を続けること20年。息子のヨヴァンはね、彼を産んだ時母親は死んでしまって、まあクロは心置きなくナタリアに言い寄ることが出来る訳なんだけど、この状況だから、もうマルコがすべてを握ってしまってる。
まだずーっと戦争は続いてる、ナチに立ち向かうために武器を作り続ける地下の人々は、敵が自分の国の人たちになっていることなんて知る由もない訳である。
そんな中、マルコは着々と国での地位を固め、大統領の側近にまでなる。つまり彼の妻、ナタリアもまたセレブの仲間入りである。
このあたりから実際のニュース映像との合成が多用され、それが実に巧みなもんだから、なんか本気で騙されていく感じがする。だって、こちとらホント知らんもんだから、それこそドキュメンタリーのような錯覚に陥っちゃう。

マルコはクロを解放戦線で英雄的死を遂げたとまつりあげて、銅像まで作らせちゃうのね。それどころか英雄映画まで作らせちゃう。それに参加している俳優がみんな生き写しのクリソツ。

このあたりだって、やろうと思えばいくらだって皮肉的解釈は出来る。判りやすく、いくらでも代わりはいるとか、誰がなっても同じとかね。
でも何か……そんな判りやすい皮肉をここで言いたくないぐらいの感慨が、もはやこの時点では生まれてる。だって、クロをはじめ地下生活をしている人間たちが、自分たちの存在価値として信じていることがもはや遠い過去に過ぎ去っていることを思うと、それ以上に彼らを否定するなんて、あまりに残酷なんだもん。
しかもここで撮影されているのは、記録映画。映画、映像自体が流される時点で過去のものなのに、もうそこにいない彼らという前提なのは、あまりに残酷ではないか。

でもそれでも、それでもそれでも、彼らは現在の時間軸で生きる。生きようとする。豪勢な生活をエサにされながらもウソをつき続けることを強要されたナタリアが我慢の限界、真実をぶちまけようとするヨヴァンの結婚式がひとつのクライマックス。
自殺に見せかけて自分の足を撃ち抜いてまでクロを欺き、生き抜こうとするマルコの姿も痛々しいけど、クロがなかなか真実に気づかないのが更に痛々しいんだよね。
地下でしか暮らしたことのない息子のヨヴァンを伴って、もうガマンの限界だ、外に出て戦うんだ!とクロ。ていうかその前にチンパンジーのソニが戦車をぶっ放したもんだから、賑やかな結婚パーティーがもう大混乱に陥っちゃう訳さ。
しかしずーっと先述のロマ音楽が半ば暴力的に響き続けてるから、これがとんでもない展開であることに、この時点でなかなか気づかないんだけど……。

ソニの面倒をずーっと見続けてきたイヴァンが慌てて飛び出す。彼は心優しき飼育係。倒すべき敵だとか、地上がどうなってるかとか、あんまり考えてなかったように思う。
なんか彼には、おバカな私も感じられるようなシンパシイがある。だって彼は、彼が驚愕するのは愛する祖国がなくなってることに尽きるんだもの。
まあそりゃあ、彼が地下にもぐることになる前、ナチによってヒドい目に合わされた記憶はハンパなくて、だからナチには純粋に怒りを覚えててね。

ソニを探しに地上に出て、流れ流れてドイツの病院に収容されてしまい、もうすっかり年を取って、この病院に勤務している“同胞”にドイツに加担していると憤りをぶつけるんだけど、彼から、ユーゴはもうなくなったんだと言われて、もうもう……。
その上、頼っていた兄のマルコとその妻ナタリアが武器商人として世界手配されていることを知ってしまえば、そりゃあ平静を失ってしまう。彼は地下に帰りたいと、マンホールから降りていってしまう。

ウソかホントか。いや、これは大いなるフィクションだよね、ヨーロッパの地下が難民やら軍隊やらが行き来する大通路になってるなんて。
しかもそこで、こちらもすっかり年老いたソニと再会する!もう……チンパンって、凄いね。
イヴァンはさ、当然老けメイクをしてるけど、チンパンの方は別のチンパンなんだけど、彼を見つけてキイキイと鳴いて、しっかと首根っこに抱きつくその様が、あまりにもあまりにも、どこ行ってたんだよ、ずっとほっといて、とその長年の歳月を感じずにはいられないの。もう、もう、難しい設定とかどーでもいい、泣いちゃうんだよー!!!

ていうのが、実は大いなる皮肉だったのかもしれない、とも思う。確かに人間の生み出す複雑な文化は、同時に戦いも生み出すけれど、この後、第三チャプターに至ると、チンパンジーに戻りたくなっちゃう。その方がなんぼか幸せだと。
クロはどっかの時点で、今地上で何が起こっているか、ちゃんと気づけていたんだろうか?どうにもそうは思われない。
息子と共にナチを倒すために地上に出たクロは、自分の英雄映画を作られているのを、フランツのそっくりさん俳優を本人だと見誤って半ば訳が判らないまま突入、殺戮、警察に追われ、息子と共にヘリから銃撃される。

しかしてこの場面、一度も外の世界を知らない息子のヨヴァンが月を太陽と見誤り、本物の太陽の美しさ、明るく地上を照らす様に感動している様、海に出て、泳ごうと言う父親に「泳げないんだ」という彼、そりゃそうだろう、地上に出たことがないんだから……。
とにかく、地上の、地球の、本来人間が暮らすべきところの意味をまったく知らない彼が示す半分トンチンカンなリアクションが愛しさと痛々しさがたまらんくてさ。

ヨヴァンは海中に、式半ばで飛び出してきた愛しい花嫁の姿を見て、それを追って姿を消す。クロも息子を追うからそのまま死んでしまったかと思いきや、第三チャプター、ユーゴ内戦真っ只中の中、白髪になってまだ生きてる、てか、なんかリーダーになってる!
リーダーなんだけど、自分の立場というか、今国がどうなっているか彼はイマイチ判ってない様子で、どの勢力に属しているのか、どこの隊なのかと聞かれても、俺はペタル・ポパラ"クロ"だ。属しているのは俺の部隊だ。従っているのは俺の祖国だと、まるで雲を掴むような言い様なんである。

……雲を掴む、だなんて。こんなにはっきりとした存在価値の表明もないのに。今ふと書いて、そう思って、愕然とした。
聞かれているのは彼の肩書き、どっちの民族に属しているのか、従っているのはどこなのか。それこそ、それこそ、雲を掴むような話の筈なのに。

そう思えるのは、こんな平和ボケした日本だからなのだろうか。クロも、そして仲間を騙したまま地下を爆破させて姿を消したマルコもナタリアも、悲劇的な結末を迎える。
武器商人として高級車で乗りつけて軍事勢力としたたかに交渉しているマルコ、そこにイヴァンが迷い込んでしまうというあたり、なんかもうこうなるとお伽噺チックに思えてしまうが、ラストを思うとだからこそ、なんとか救いになっているのかもしれないと思う。

マルコに裏切られた思いをイヴァンは激しくぶつける。殴打して殴打して殴打して……実の兄を殺してしまう、と思ったのはイヴァンの優しいところで、しかしその思いに、いや長年の思いにさいなまれてイヴァンは自ら命を断ってしまう。
イヴァンが自殺未遂をする場面はそれ以前に一度示されていて、それを助けたのがマルコだった。悪い癖だと、たしなめられた。死に癖が、悪い癖だなんて。そりゃそうだけど……。その時もこの時も、そばにソニがいた。ソニ……ソニ……!

イヴァンに殴られて大怪我をしているマルコに急ぎ駆けつけるナタリア、しかし兵士に捕らえられ、彼が連絡を取った“上官”がクロ。
信頼していた親友に騙された傷を持つクロは、武器商人を心から憎んでいる。「武器商人を二人捕らえました」「武器商人?殺せ」。
冷徹にぶっ放される銃、そしてばしゃばしゃとかけられるガソリン、火をつけられ、二人を乗せた車椅子はくるくると回り続ける。
それを到着したクロが見てしまうのが、見てしまうのが!!見てしまうのか、見てしまうのか!!!

クロさあ、ソニを連れてあの地下に行くんだよね。ソニを連れて行くんだよね……。誰に対しても寛容で優しくそばにいるソニが切ない。
奈落に落とされたクロが探し続けた息子の声を聞き、井戸の中にその姿を見る。ザバンともぐる。泳いで泳いで泳いで……。このラストはなんと言ったらいいのか……。

これまでの経過や、この国の惨状や、色々あるから、色々ありすぎるから、これを単純に天国だとかどうだとか、言えないじゃない。
でも死んだ人たちが、死んでしまった同胞たちが、皆集まってる。憎んでも憎みきれないマルコも、愛したナタリアも、悲しませるままに死なせてしまった妻も、皆皆いる。
マルコがクロに許してくれるかと言う。「許すが、忘れない」苦笑いを浮かべるマルコだけど、でも、この言葉ってシンプルだけど、この作品の全てを解決してしまうぐらいの重さがあると思う。

だってこれ、逆になったら、忘れるけど、許さない、となったら全然違う意味になるじゃない。それこそそれこそ、これまでの経過が全然判らないのにただ憎しみだけが残ってる。国や民族の間の敵対心だけが残ってることになる。
そしてそれは結構世界中にあることなんだよな。地下に幽閉(という意識もなく)され続けた彼らが、国の中の、一緒に暮らしていた国民同士の紛争を知らぬまま、敵は外にいると信じたまま外に出たのは幸福だったのか否か……。
なんかそれは、おバカな平和ボケの私みたいなヤツの抱える不幸と通じる感じがして、そしてその不幸は、実は実は……本当に悲惨な不幸なのかもしれないと思える。

しかしてそれでいながら、見た目はなんだか楽しくて、やたらオーバーアクトなのも慣れちゃうとまるでミュージカルのように感じちゃう楽しさ。
エンドレスと思えるロマ音楽にノセられちゃって。でもそのエンドレスも、うがってみればこの現状が続くという意味合いがあったのかもしれないなあ。

でもね、やっぱりラストよ。いかに彼らがもう地上では死んでしまっているとしても、今はないかつてのある国の同胞として母なる河、ドナウに浮かぶ陸に集まり、もう音楽は楽しげに始まっていて、あの時中断したヨヴァンの結婚式がやり直される。
ヨヴァンを産み落として息を引き取った奥さんはナタリアに嫉妬の目を向けるけれど、そんなこんなも全部ひっくるめて祝いの音楽が終わることはない。

エンドレスの意味が、不幸のエンドレスではなく幸福のエンドレスとしてここで大きく転換されて、そして……彼らの乗った陸が切り離されて、流れ流れていくんだよね。
ドナウ河は海につながっているんだろうか。これってすんごい意味深な描写だけど、単純に黄泉の国とかじゃなくて、何からも切り離された自由という意味なのだろうか。それもまた……ベタな解釈なんだろうか。

自分の国がなくなるっていう感覚が、どうしてもないからさ。でもそれって世界において全然珍しいことじゃなくて。そのことに、この作品を見逃している16年の間気づかなかった私が、アイデンティティという意味を真に判っていなかったことを思う。
凄く楽しい雰囲気と核の重さに引き裂かれて、その只中で戸惑ってしまう。そうだ、音楽は楽しい音楽は、そのままの意味として、ポジティブを鼓舞する意味としてしか思ってなかったから、それも……衝撃だったし、辛かった。★★★★☆


アンチクライスト/ANTICHRIST
2009年 104分 デンマーク=ドイツ=フランス カラー
監督:ラース・フォン・トリアー 脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・トッド=マントル 音楽:クリスチャン・エイネス・アンダーソン
出演:シャルロット・ゲンズブール ウィレム・デフォー ストルム・アヘシェ・サルストロ

2011/3/22/火 劇場(新宿武蔵野館)
正直、直後はあまりのエグさに、あー、しんどい、観たこと自体とりやめにしたいなあと思ったぐらい。
というのも、あの大地震があってやはり映画に行く気になれずに十日ばかり過ごしたものの、いやいや、被害のないワレワレはちゃんと生活しなきゃいかん、ちゃんと日常に戻って、小さな力ながらもちゃんと経済を回さなきゃいかん!と、“映画の日常”に舞い戻ってきた訳だが、何も一本目にコレを選ぶことはなかったかも……。
うぅ、だって、時間が合わなくてなかなか観られないままだったんだもの……。

とはいうものの、それこそあの信じられないほどの大地震の後なので、とにかく世間的には衝撃だ、過激だ、残酷だと叫ばれている本作に対して、素直にそれを受け止められなかったのは正直なところで。素直ってなんだよ……。
だって本作ってさ、幼い息子を失って悲嘆に暮れるあまりに狂気に陥っていく夫婦、というか、妻の話でしょ。まあ、そんなくくり方はあまりに大雑把にしても、まあ、前提はそうじゃない。
それは、それこそあの大地震がなければ、あの信じられない悲惨な被害がなければ、こんなにまで狂ってしまうほどの彼女の心の痛みを、も少し“素直”に受け止められたかもなあ、などと思ってしまう。

だって、そりゃ私に子供はいないが、愛する子供を失う悲しみが想像を絶するってことぐらいは、それこそ想像ぐらいは、出来るもの。
でも、なんたってあの大地震が……いやいやいや、そんなことはこの映画には何の関係もなく、というかそもそも映画は、芸術というものはそれそのものだけですっくと成り立っているからこそなんであって、こんなことを言ったって詮無いことだってことは判ってるんだけど……。
ああ、だからもう、激しく観る時期を間違ってしまったとしか言い様がない。

とか言いつつもひとつ。ラストクレジットの後、映画の最後の最後に、タルコフスキーに捧ぐ、とやられてドーーーーッと落ちてしまったのも大いなる原因(爆)。
タルコフスキーとか何とかスキーとか(他にスキーのつく監督がいたかどうかは定かではないが)、私、ダメなんだもん。メチャクチャ苦手。哲学の塊りって感じで、もう最初から高い壁がそびえまくってて、どうしていいのか判らない。
タルコフスキー系の映画だったのかァと思うと、ただでさえエグさに引きまくっていた私の心は、更に超引き潮状態になってしまったのだったのだが……でもそれも良くないと思い直す。

実はね、私にとって引きまくる要因は、勿論エグさもあったけど、それ以外のところにあったんだよね。勿論、性的描写、スプラッタ描写のエグさにはうえっとはきた。
でも、その性的描写ってのは、ほらアレよ、映倫のボカしが入るからさ。ああこれはスクリーンいっぱいに、ペニスがバックで突っ込んでる画が繰り広げられているんだなと判っても(こんなこと言いたくないわ)、女性器をつまんでハサミでジョッキンと切り取る(!!!)場面が大写しにされても、やっぱボカされてるからさあ。

本作は日本公開が危ぶまれたらしいんだけど、ボカシ一発で公開オッケーになるあたりは、ある意味日本は寛容というか……かなり間違った寛容と思っちゃうけどね。
だって本作でうえっと思うのは○ンタマやオ○ンコが大写しになるからではなく、まあ、オ○ンコが切りおとされる場面はいくらボカシでもうえっと思ったけど、やっぱ、スプラッタ描写にあったと思うからさあ。

あ、でも思い返してみればそれも一箇所だけだったのか。妻が夫のふくらはぎにドリルのようなものでギリギリ穴をあけ(!)、更にそこに重い砥石をぐりぐりねじ込んでボルトをしっかり取り付け、レンチを軒下に放り投げてしまうという……。

私ね、彼女が夫のふくらはぎにギリギリドリルをねじ込んだ場面で、三池監督の「オーディション」のキリキリキリキリー♪を思い出してゾゾッとし、ああ、だから、こういう場面は幸か不幸か日本の観客は慣れてるんだよな、とも思ったんだけど、見ている時点ではね、正直その意味合いを見い出すことが出来なかった。
後からあれこれ考えれば、キリストが十字架に磔にさせられた時に足に開けられた穴を象徴しているのかもしれないと思ったり、あの重い石は罪人につながれるおもりを意味しているのかもしれないと思ったりもするんだけれど、観ている時には正直、意味不明って気持ちがぬぐえなかったのだ。

なあんか、こうしてつれつれと綴ってると相変わらずワケ判らんけど、まあいいや、このまま行く(爆)。
本作はすっごい、宗教的な匂いがするなあと思ったのだ。だって思わせぶりな言葉や描写が続々出てくる。それだけで構成されていると言ってもいいぐらい。
山奥の小屋の屋根にひっきりなしに降り注ぐドングリ、三人の乞食、子供に履かされる左右逆の靴、おのれの肉を喰らう狐が振り返ってこの世の無常的なことを喋ったり。狐が喋った!とかいうのは、こういう哲学的な描写や台詞が満載なので、正直いちいち気に止めていられない(爆)。

まあ、そんな具合なもんだから、これはキリスト教がベースになってて、それを基本的に知っていなくては入っていけない世界なんではないかと思って、それもひとつの引く要素だったんだよね。
あまりに不安になったんで、監督自身の言葉はないかと探しまくって、ひとつ行き当たったんだけど、監督自身は特にそんなことにこだわってる風もないみたいだった。いや、たったひとつのインタビューを読んだだけでアレなんだけど……。

そんなに深く考えなくても、キリスト教文化の中で育っている人には自然に備わっているイメージであって、日本人には仏教的、神道的教えが備わっているのと同じことなのかもしれない。例えば閻魔様とか地獄が普通にイメージできるのと。
ただ、やっぱり基本的価値観にキリスト教があるのはどうしようもなく否めなく、だって、そうでなければこのタイトル自体ありえないし。まあ、このタイトルも、それほど重き意味を持たせてる訳ではないって、監督は言ってるけどさあ……。

そうそう、このタイトル、クライスト、と言われるとイマイチピンと来ないけど、アンチキリスト、と言われると、ああそうか、と思う。
実際、日本公開前の情報を探ると、この読みでのデータが結構出てくる。正直、公開タイトルをなんでキリストではなくクライストにしたのかなあ、不自然じゃない?などと勘ぐってしまうぐらい。
まあ、ジーザスクライストとか言わなくはないけど、アンチキリスト、とスパッと言ってしまうことにどこかの関係筋へのエンリョとかがあったのだろうか?

キリスト教的暗示が沢山あった中で、チャプタータイトルにも使われていた三人の乞食は、これだけは三人の賢者につながるのだろうというのは、聖書関係の情報をちょこっと探れば簡単に出てくるから、ヤハリ“アンチキリスト”という前提は否定出来ないのだろうと思う。
先述したインタビューでは、タイトルにそれほどの意味はないみたいなことは言ってたけどね……。それと、彼は女性非難主義者?何それ!?なんかそれって周知の事実っぽいんだけど……えー、奥さんいるのに(爆)。判らん人だなあ……。

えー、あんな荒っぽい前提じゃなくて、一応物語は追っておかないと(爆)。
そう、夫婦の、幼い息子が亡くなってしまうのよ。それも、二人がセックスしている間に、窓から転落して死んでしまう。
このプロローグは、考えてみれば単なるセックスなのに(爆)、やけに神聖な透明感のあるモノクロのスーパースロー映像で、聖夜に教会で聞きたいようなソプラノのオペラが神聖なるビブラートを聞かせる。
しかもそのスーパースローでペニスが突っ込む様を画面いっぱいに示し、勿論ボカシいっぱいだが、ちょっと見えたりもし(爆)。

この時には正直、どんな展開だか知らんが、性器をスクリーンに大写しにするだけの理由って、どんなん?とも思った。
しかし全てが終わって落ち着いて考えてみると、セックスに夢中で息子の様子に気付かずに死なせてしまったこと、そして全編を貫くキリスト教的価値観が、性的欲望を悪としていること、それに“アンチ”を掲げ、しかしそれゆえに苦悩し、破滅していく夫婦を考えると……確かに必要な描写だったのかもしれない、と思う。

でも、なんたってボカシだからさ、物語が佳境に入って、夫の○ンタマに重い鈍器でゴツンと殴りを入れて、その後なぜか勃起している彼のモノをゴシゴシと(まさにそんな感じ)しごき、ビュッと出たのは白濁した精液ではなく、血だったという場面。
ボカシだから○ンタマがどういう状態にあるのかが判らず、もう既に血まみれでエラい状態になってるのかそうじゃないのか、判らないからさあ……ボカシは、更に困惑を引き起こす、のは、また後述。

だから、また脱線してしまったけれども(爆)。でね、息子が転落死してしまって以降、もう妻は悲嘆も悲嘆、悲嘆しまくりなのよ。
ムリはないとは思いつつ、医者が言ったという「この悲嘆のプロセスは異常だ」という言葉が、ヒドいと思いつつも実は、この物語を牽引している前提であるのは否定出来ないところなんである。

というのは、また最初の話に戻るけど、あの地震の後に見ちゃったせいもあって、確かに彼女の悲嘆っぷりは……こんなこと言うべきじゃない、そうじゃないんだと思いつつも、やはり……何か、異様、なんだよね。
何かにとり憑かれているように、悲嘆にくれている。
彼女を何とかして救いたいセラピストである夫は、医者の言うことなんてクソだ、自分の方が患者を見てる。君の悲嘆のプロセスは極めて正常だ、と言い、本当はご法度である身内のセラピーに挑むのだけれど……。

全てが終わってしまえば、この、息子が死んだことによって狂気に陥る妻、というのは、狂気に陥るための理由づけに過ぎなかった気もする。
いや、それは言い過ぎか。なんたって女性器を切り取る場面まで出てくる、そして魔女裁判の歴史や、まことしやかにささやかれる監督の女性嫌悪感……はおいとくとしても、生殖と生命が深くこの物語に関わっているのは、どうしようもなく感じるところであり……。
だから、その矛盾が、おかしいというよりは、悲しいんだよね。いわゆる肉欲の罪悪、女であることへの罪悪、まさにそのことで息子を死なせてしまったとに妻は自責の念に苦しむんだけれど、でもセックスによって尊い生命は生まれるんだもの。

ただ、本作がその点を追究することはなく、というか印象としては殊更に避けている感じがするのは、それがキリスト教的な価値観ということなのだろうか?そういやあ、マリアは処女懐妊だものなあ……。
それで言っちゃえば、全ての人間は不浄の星の元に生まれたということになってしまうけれど……。あ、だから、キリスト教の哲学がおかしんだと、アンチキリストを提唱しているのかなあ。

なんか、宗教学のレポートみたいな方向に行ってしまうので、テキトーな解釈はここらでやめるとしても……でも、彼女がさ、あるいは二人が来たこの場所そのものがさ、ことごとくアンチキリスト、つまり悪魔の世界を点描してるのは間違いないんだもの。
カラスなんて実にわっかりやすい悪魔の使者だし、それが洞窟の中の土の中を掘り出したらギャーギャー!と鳴いて羽ばたくなんて、いかにもじゃない?
血まみれで死にかけた(既に死んでる?)赤ちゃんを半分ぶら下げて走り去る鹿だの、ぼとっと落ちてきた鳥のヒナが蟻にまみれてて、それをタカがさらっていって木の上で肉を引きちぎって喰らうだの、あるいは森の中の木がドォーン……と倒れるのさえ、何か悪魔的、不吉極まりないんだよなあ。

あ、そうそう、そもそもなぜこの夫婦がこんな場所にいるのかという話なのだが……正直その理由付けも判然としなかった。というか、このあたりから、ハッキリと現実感を無くしていた。
妻の心の闇を晴らそうと、意味なくおびえている彼女の恐怖に飛び込んで治そうと試みる夫。
彼女が怖がっているのは森。彼女が大好きな筈の森。列車の中でセラピーを繰り返しながら向かうその森、そして山小屋は、彼らが休暇に使う場所なんだろうけれど、ひどく、現実味がないのだ。

ここからもう幻想、言っちゃえば、彼らの言う悪魔の世界、地獄、なんじゃないかと思えてしまう。
だって、先述したような、彼らが見る数々の奇妙な動物もそうだし、彼女は誰とも知れぬ赤ちゃんの泣き声を聞き、そして亡き息子の幻影を見て……次第に、急速に、彼女は狂っていってしまった。
なんかね、私、カンタンに、パラレルワールドみたい、と思ってしまう。最近、ちょっと判らない展開になると、あ、これはパラレルワールドだからと片付けてしまうのは、良くない傾向(爆)。
でもこれは果たして……本当に、現実だったんだろうか?霧深い中、深緑の森に車が吸い込まれる引きのカメラだけで、充分異世界への突入を感じさせたけどなあ……。

ウィレム・デフォーがこういう強烈な役をやるのはそんなに驚かないけど(それでも彼は逡巡したらしいけど)、シャルロット・ゲンズブールがそれをやるのはやっぱりちょっと、驚いてしまう。
まあ、全裸ぐらいで驚いちゃいけないのか、下半身まるだしで歩き回ったり、セックスシーンぐらいでも(爆。こーゆー基準でモノを考えるのって、ヤダな……)。
最も衝撃的なのが、自分の欲求に答えてくれない夫にキレて、全裸で飛び出し、なんか川っペりでゴシゴシオナニーする場面だって思うのは、間違ってる?(爆)。
セックスシーンより、オナニーシーンの方が見てられないのは、それがあまりに悲しい個人的行動からだからなのか(爆)、股を広げてボカシが入っても、たった一人という虚しさだからなのか(爆爆)、あるいは、もっと単純に、私が女だからなのか(爆爆爆)なんとも言いようがないな……。

そらね、もっともっと、扇情的な場面はあらあな。その彼女を追いかけていった夫が彼女の上で腰をくねらせる場面は、正上位とはいえ赤裸々な動きが(ヤな言い方だ……)凄かったし、意味深に、彼らが愛しあう木の根元のあちこちから白い手が伸びているという、ゾンビが芸術的になったような?シーンは息を飲む美しさだった。
美しさと言うよりは、怖さか。この作品をホラーというジャンルに分けられる向きもあるのも、まぁ、判る気もするというか。結構、怖がらせるカッティングも使っているしなあ。

結局、どうにもこうにも崩壊してしまった二人、夫は妻を絞め殺し、この悪魔の森から逃げ出す。
すべては彼がセラピーの元、彼女から聞きだした世界であり、いくら彼らにとって何度も来たことがあって見知った場所だったとしても観客にとってはその情報しかないから、やはりここは、非現実の世界としか思えないんである。
だからこそ、ラスト、そう、プロローグのモノクロに対比させる形のエピローグ、これまた美しい透明感を持つエピローグで、逃げ行く彼が見るのが、無数の白く横たわる肉体、モノクロのせいかマネキンに見える、いや、あれはまんまマネキンだろうと思われる。

そして、わらわらと現われた女たちが、彼が逃げ出した山を登って行く。多分、女たち、だったと思う。
というのも、顔が見えないんだもの。ノッペラなのよ。あのね、これも、日本の検閲なのかと思ってさ。つまり彼女たちの顔がマ○コになってたとか(爆)なのかとかさ。
いや、どうなんだろう、そこんところはちょっと探ったけど、そもそもの処理なのか、ボカシなのか、判らなかった。
うー、こーゆー時、とにかく性器だけを隠しとけばオッケーという、厳しいのか寛容なのかわからん日本の検閲って、困るのよ!

ラース・フォン・トリアー監督に関しては、作風への好悪の感情で語られる向きもあり、それは違うだろうと思いつつも、確かに私も……。
あのね、こういう賛否両論分かれる作品って、賛の方に回れば通、みたいな、賛否両論分かれるものは、とりあえずは傑作、みたいな、なんかそういう空気があるじゃない?人間の優越感や自尊心をくすぐるというか……。
いやいや、通になれないヒガミというのは否めないけどさ……でも、この咀嚼できない感じ、なんとも鉛を飲み込んだような気分なんだよなあ……。★★★☆☆


アントキノイノチ
2011年 131分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:田中幸子 瀬々敬久
撮影:鍋島淳裕 音楽:村松崇継
出演:岡田将生 榮倉奈々 松坂桃李 原田泰造 染谷将太 檀れい 鶴見辰吾 柄本明 堀部圭亮 吹越満 津田寛治 宮崎美子

2011/12/4/日 劇場(品川プリンスシネマ)
本業は音楽家であるさださんが、小説を書こうと思うその始まりはなんだろう、と考える。やはり映画にもなった「解夏」でも小説家としての能力も実証済みではあるけれど。執筆のオファーを受けるから?いや……やはりこれを書きたいという気持ちが生まれるのかな。
本作に関しては、まあ未読ではあるけれど、最初、この遺品整理業で働く人とお知り合いなのかと思った。映画化に寄せて、こうした日本人らしい仕事があることを知ってほしい、てなことも言っていたから。
でもさだ氏は、テレビドキュメンタリーを見て着想を得て、取材をし、執筆したのだという。そうなんだ……。

映画を観てて、あるひとつのエピソードが、これをこそさださんが書きたくって、このアイディアにピンときたのかな、と思うところがあった。
あるひとつの事件を思い起こさせる、風俗嬢の女が男友達と遊びたいがために、二人の幼い子供を閉じ込めて餓死させたという現場の遺品整理。
さださんがね、この事件も含めて、子供たちがさらされる悲劇に胸を痛めたことをよく言ってるから。子供たちはどんな親でも大好きなんだと。

もちろんそれはそうで、この事件に関しては本当に子供たちが可哀想で可哀想でたまらなかったんだけど、ただヒドイ親、勝手な女、とまで思い切れなかった。
二人の子供を抱えた、さしてキャリアもない女が生きていくには風俗ぐらいしか働く場所がないのが今の日本。一握りの大企業ぐらいだ、子供を抱えてバリバリ女性が働けるのなんて。
世間にさげすまれて、一人きりで、子供を抱えて、追いつめられて、助けてくれそうな男に出会った彼女を責められない気持ちがあった……などと思うのは、やはり私が子供を持っていないからなのかなあ。

と、思いっきり本題からハズれたところから入ってしまった。ホンットに関係なかったね、すみません……。
でもね、さださんの、こうした基本視点って、結構あちこちに感じ取れる気がしてる。小さな子供が餓死した部屋で、榮倉奈々嬢演じるゆきが泣き崩れるのも、レイプという悲惨な経験の末の妊娠、そして流産でも、その子供を殺したのは私だと、“そういう自責の念に駆られなければ人間じゃない”という視点がなんとなく見え隠れするような気がして。
そのせいかなあ。ラスト、ゆきが死んだのにはちょっとアゼンとして……そりゃないだろー、と思った。

それこそ原作がどうなっているのかは知らないけど、ここでゆきを死なせたら、まるで子供を死なせた彼女は幸福になる資格がない、それ以上に生きる資格がないと言っているような気がした。
だなんていくらなんでも言いすぎだよね。なんか私、ちょっとヘンなところに意固地に引っかかってる。なんかおかしなこと言ってるね、なんだろ。

ちょっと、落ち着かなければ。何か、落ち着いてない、私。なんだろうな……別に私は、こんな過酷な状況や精神状態に陥ったことがある訳じゃないのに、なんでだか。
ただ、確かに、楽しいばかりの学生生活じゃなかった、時期もある。こんな過酷ではなかったけど。でもキャピキャピと楽しいだけでも、なかった。
ゆきの過去は殆ど彼女の口から語られるだけなので、どこかよくある青春メロドラマのようだな、と思う感じも、ちょっと反発したくなるトコなのかもしれない。

まあこれを、実際に映像化したら、それこそベツモノになってしまう危険はアリアリなんだけど……。
女の子がレイプされるとか、妊娠させられた男の子の家に談判に行ったら売女呼ばわり(までは言いすぎだが)されるとか、ね。ホント、ベツモノになっちゃう。
なんかそういう意味でも女はちょっとソンだと思う。ただ受身で心が殺され、でも画にするとその精神世界の過酷さより、画の俗な悲劇の方が勝っちゃうんだもの。

……どうも私、相当荒れているような気がする。一体何を言いたいんだろう。観ている時にはさらりと観ていた気がするのに。
そう、大体、これは主人公は岡田君、永島君の話よ。彼に関しては、学生時代の“再現”というか、“回想”がじゃんじゃん出てくる。
奈々嬢と同じぐらいの年なのに、彼女がもし回想シーンで女子高生なんぞ演じてたらちょっとアブナそうだな、と思うのに対して、岡田君はバッチリハマっている。
それで言ったら、彼の過酷な高校生活に絡んでくる二人の男の子、染谷君と松坂君もまたそうである。
染谷君。ベネチア映画祭の受賞ですっかり有名になった彼。しかして確かに彼は、そこにつながるイイ仕事をこれまでに着々と重ねていて、本作もその一本であるだろうと思う。

悪意に満ちた噂話をするクラスメイトに迎合する永島君に、振り向きざまチラリと冷たい視線を送るだけで、背筋が寒くなるオーラを放つ。そのたたずまいだけで彼もまた、この狭い世界の中の弱いグループに属していると判る。
彼らの敵となるのがやたらオラオラな雰囲気を発している松井という男の子で、演じる松坂桃李君の強めの端正さもあいまって、小憎たらしいぐらいに説得力がある。
しかし彼は何ゆえに永島君や山木君(染谷君ね)を攻撃するのだろう。いや、そこには理由はないのか。理由なき反抗ならぬ、理由なき攻撃なのか。

ネット社会の功罪も巧みに取り入れられ、松井は悪意に満ちたチャットで熱帯魚を愛でる山木を攻撃する。
熱帯魚を切り刻む写真まで添付した掲示板に山木が激怒し、永島君に同意を訴えるんだけど、気弱な彼はそれに応えることが出来ない。
失望した山木は、たった一人松井に立ち向かい、とたんに情けなくひれ伏した松井を冷ややかに見つめてナイフを突きつけ、先生たちになだめられるとジョークに紛らせる。
永島に「君は味方だと思ってたよ」と言い捨てて押さえつけていた先生の腕を振り切り、飛び降り自殺をする。その刹那、たまらなくうつろな目をして永島を見やって。

染谷君があまりにも印象強烈だったから、ずっと頭にこびりついていた。だからか、その後どんなに永島君が悩み苦しみ、松井が悪意を振りかざしても、山木の、永島に裏切られたあのうつろな瞳の強烈さには叶わなかった。
無論、永島君はそれゆえに苦しみ、その後はターゲットを自分に向けて陰湿な告げ口系イジメを続ける松井に、ついには明確な殺意を示すようになるのだが。

するすると書いちゃったけど、こうした永島君の経緯も、彼が働き始める遺品整理業の仕事と共に入れ子形式で示される。
それにメインは遺品整理業の話だしね。だからちょっとここでそれを書いておかないと、そのままズルズル行っちゃいそう。

永島君が父親に連れられて来たその職場。どういうつてだったのか……彼の先輩として現場を一緒したゆきは、「永島君も病気だったんだってね」と言う。
友達との過酷な出来事で重度の躁うつ病になり、最近まで薬を服用していた永島は驚く。つまりはこの職場は、そういう受け皿なのか。
たった一日でやめちゃう人もいる。でも永島君は一生懸命やっていた。なぜ?と聞かれ、彼はどもりながら、きれいになるから……跡がなくなるから……と答えた。それは彼の過酷な過去を思えば充分すぎる理由だった。
ゆきはふと顔を歪める。誤解してる。跡なんて消えないよ、と。

どもりながら。そう、永島君はちょっと吃音があるんだよね。それが彼のコンプレックスになってて、大人になってみればそんなこと、と思わなくもないけど、若い頃にとってはそりゃツライだろうと思われる。
実際、松井が悪意たっぷりに彼の物まねをしている教室に、永島君が入っていけない描写が冒頭に用意されているし。

ただ、それだけに永島君の搾り出す一言には物凄い重みがある。贅肉もムダもない、筋肉だけの言葉。
でも、その筋肉だけの言葉が、嫌われたくないがために自分自身を欺いた言葉として発せられたりもするから、余計にキツいんだよね。
だからこそ山木は、絶望の目を永島君に投げて、空を飛んでしまった。

遺品整理業の現場は実に丁寧に描かれる。丁寧、ということは、それだけ生々しいってことでもある。
発見されるまで時間がかかった遺体から染み出た体液、ぐらいなら色味程度で再現できそうだけど、明るい窓際を目指して干からびて死んでしまった無数の蛆虫とか、大量発生しているゴキブリを「すぐに戸を閉めろよ!」と緊迫した連携プレーでバルサンで退治したりとか、なんともなんとも赤裸々である。これが匂いのある映像だったら、間違いなくゲー袋が必要だろうと思われるような。
永島君は初めての現場でもそうした事態には陥らず、ベテランの佐相さん(泰造。素晴らしい!)に感心されるぐらいなんだけど、永島君は、……なんだろう、それ以上にグロな感情を経験しているから、なんだろうか。

現代には確実に必要な遺品整理業者。一人孤独に死ぬ人たちが多いから。と、簡単に考えがちだけど、劇中永島君が言うように、最期の場面で誰かがそばにいてくれたとしても、あの世に旅立つのは自分一人なんだし、意識を失ってしまえば結局は同じだと思う。
……などと思うのは、誰にも看取られずに死ぬことが、まるでその人の人生が失敗したかのように思われるのが、なんとなく納得がいかないから。

だって、そう、所詮死ぬ時は一人じゃん。発見されないのがどうだっていうの。皆自分ひとり、懸命に生きているのだ。誰かが死ぬかもしれないと思って生きている訳じゃないじゃないか。
死んだことに気づくか気づかないかなんて、死んでから何日経って気づかれたなんて、……異臭がするまで気づかれなかったとしたって、そんなの、タイミングに過ぎない。

……ああ、私、また何かおかしくなってる。多分、というか、確実に、自分自身がそうなるであろうことを予期しているからだろう、な。
でも私はそれが不幸だなんて、思わない。ムリして疎遠な親戚の末端に迷惑顔で処理される方が不幸ではないか、と思う。
遺品整理業。リアルに、結構考えたりする。自分らしく去るためには、そうしたプロをかしこく使って、遺言とかに明記したりして、立つ鳥跡を濁さず、と。

……ほんっと、私、なんかおかしいね。何かな。過酷な経験をして、今にも死にそうな目にさえ遭っている彼らが、それでもやはり、若いからかもしれない。
特に永島君は、逃げ出す人の多いこの遺品整理業にある種の才能を見出す。ベテランの佐相さんにも何かそうした過去があったのかもしれないけど……彼も辿ったような、先方に怒られるおせっかいなどもやっちゃったりして、つまり永島君も、佐相さんのようなベテランへの道を歩みそうな感じを受ける。
“先方に怒られるおせっかい”、幼い子供を捨てた母親の、子供に当てた出せなかった手紙を届けるという、超メロドラマな展開。

正直このシークエンスは佐相さんが言わなくてもそんなクサいことするなと思ったし、最終的にその手紙に、捨てられた子供であった、今はもういい年の母親である女性が涙しても、それでもやっぱりクサくて余計なことだと思った。
このケースのように、おせっかいがいい方向に転がることの方が稀であろう。
その後の、夫に黙って老人ホームに入り、そこで息を引き取った女性の残した“ご供養品”、留守電のメッセージに涙に咽ぶ、いかにもな団塊世代、熱血サラリーマンで残業で遅くなってばかりの初老の男性が電話機を抱えて涙するシーンも、柄本明が演じているからギリギリイイ感じではあるけど、でもやっぱり何か、メロドラマだよね。

なんだろなんだろ、私なんで、こんなにイジワルな気持ちになってるの?やっぱりそれは、やっぱりそれは……奈々ちゃんが、いやさ、ゆきが、死んでしまうという“オチ”に怒っているから、なのかなあ。それも、道路にぼけっとしている子供を助けるために飛び出した、なんていう、展開でさ。
あー、ていうか、ていうか。何か私、全てすっ飛ばしてる。なんか、本当に、おかしいな。
ゆきはね、あの、子供たちが餓死した現場で自分が生きるために死んでしまった(というリクツも彼女が思い込んでいるんだけれど)赤ちゃんのことを思い、涙が止まらなくなり、そして忽然と姿を消す訳。

で、どうしても彼女に会いたいと思った永島君が実家に問い合わせてまで会いに行った先で、ゆきは高齢者福祉施設のスタッフとして働いていた。
やりたいことが見つかりそうと笑顔を見せたゆき、後に彼女の部屋に“遺品整理”として入る永島君が目にする参考書の類は、泣き所であろう、ゆきの撮った永島君の写真より胸にグッとくる……あたりが……私、ダメかもしれない……。

だってさ、なんでそれで、ゆきを死なせなくてもいいじゃない。いやそら、ゆきが思いがけぬ運命で死んでしまって、永島君が遺品整理に入って、愛する人のために仕事が出来るというのは、通常は喜ばしきことなのに、ことこの仕事に至っては……みたいな、ドラマティックは演出できるとは思うよ。でもさでもさ……。

永島君は、二度友達を殺した、と言った。言葉どおりの意味ではない。一度目は、友達の味方になってあげられなかったために、彼は絶望から死を選んだ。
二度目は、本当に殺意があって、殺そうと思った。しかも、二度までも。誰も見ていない場所、山岳部で登山したその帰り道、難しいルートを選んだ永島に半ば意地のように追従した松井を、冷たい目で突き落とそうとした。
それでもいくらなんでもそこまではしなくて(出来なくて?)滑落しかけた松井を助けたんだけど、そのシーンを写真に撮られてた。文化祭で大々的に貼り出されてしまった。

先生は永島を誉めそやした。見てたくせに、手を差し伸べなかったのか、永島はキレた。松井もキレていた。
松井が先にカッターナイフを取り出した。もみあいになった。永島も殺意が満ち溢れた。松井はあの時、山木からナイフを突きつけられた時のように、愚かに、情けなく、泣きながら、死にたくないと言った……。

永島君が、友達を見捨てて死なせてしまったことと、リアルに殺そうとしたことと、どっちが彼の中で重いことだったのかは……私的には当然こっちでしょ、と思う答えがあるけど、実際は判らない。自分の中の悪魔のベクトルをどう考えるかで、全く違う答えが出るのかもしれない。
それで言えば、強烈な自責の念に駆られながらも、客観的に見れば、何一つ悪いところなどないゆきは、……なにかね、男の人が描く、男の人の好きな、不幸な女の子のキャラクターだな、とちょっと思ったりする。
二人の幼い子供を閉じ込めて餓死させている間に、男友達と遊んでいたフーゾク嬢、というあのキーワードと、やけにキレイに対照的になるよな、などとも思う。
私、本当におかしいよね。誰に肩入れするつもりなんだろう。

永島君が言う、たとえ不幸にも死んでしまった命でも、アントキノイノチは生きてた、そのイノチがあったから、ゆきちゃんと自分とは出会えた。
そして、ゆきが言う、永島君のアントキノイノチは死んでしまったけれど、そのイノチがつながって出会えた。
アントキノイノチがアントニオ猪木に聞こえる、というタイトルオチは、「元気ですかー!!」と海に向って叫ぶという実にさわやかな結実の仕方をし、おずおずながらも二人の気持ちを確かめ合う抱擁には胸ときめく。
奈々嬢も岡田君も、役者としてはねじれてなくて、よく言えば正統、言っちゃえば割と淡白な印象なんだけど、それがいい感じに素直に響いた。

それもあるから、死にオチってのはねーっ、と。特にさ、奈々ちゃんは「余命1ヶ月の花嫁」でも死んでる訳じゃん?死んでる訳って言い方もおかしいが……。
と思ったら、その系列の企画であり、スタッフであるという。えー、なあんかそういうのヤだな。難病でもないのに交通事故で死んじゃうとか、それが子供救って死んじゃうとか、あんまりやん。
なんかそれって、そのエピソードだけで、イイ人のイイ話にされてる気がしちゃう。

ああ、何よ何よ、私本当に、おかしいな。自分が何を思ってるのか判んない。
うーん、でも、そうだな、女子な感じで言っちゃえばさ、単純に、永島君とゆきにハッピーエンドが訪れてほしかったのかもなあ。
途中、ゆきが永島君をラブホに連れ込むシーンがあるでしょ。このシークエンスは、ゆきが永島君に自分の過酷な過去を打ち明け、永島君とだったら出来ると思う、と、ラブな感情よりも、自身のトラウマを乗り越える為、という実に熾烈なシーンなのだが……。
つまり、ラブなシーンではないと判ってはいても、こういう場面が一度は用意されたのなら、後にでもいいから、二人が幸せに交わえるシーン、シーンがなくても余韻だけでもほしかった。

そう思うと、これってメッチャプラトニックラブストーリーだったんだなあ、とも思う。セックス未遂場面があったからこそ余計に、プラトニック要素が際立つ。正直、残酷なほどに、際立つ。
だって、まあ男の子の気持ちは知らんが、彼女は幸せなセックスの経験がないまま、この世を去った訳でしょ。たとえレイプでも、わが子を産んで愛することが出来たなら、幸せなセックスが出来なくてもいいかなとも思ったけど、そうでないなら、そうでないなら……。すんごい、キツい気がする。

なーに言ってんだろうね、本当に、私。プラトニック、純愛、好きなくせにさ。でも……なんか、なあんか、色々思ってしまった。
とても真摯な作品であると思う。役者も芝居も素晴らしいと思う。一体私は何に引っかかっているのか、自分自身をいぶかしんでしまう。
なんだろう……独りで死ぬことを、覚悟というよりはまあそうなるだろうと思っていたから。人とつながっていることと、独りで死ぬことは別だと思っていたから。
独りで死ぬことがそれが不幸なことであると、人間として不幸なことであると、この作品のテーマがそこにあるような気がしたから、なんだか私、おかしくなっちゃったのだろうか。

私、自分が思っているより、死ぬことが怖いのかな……。★★★☆☆


アンフェア the answer
2011年 109分 日本 カラー
監督:佐藤嗣麻子 脚本:佐藤嗣麻子
撮影:佐光朗 音楽:住友紀人
出演:篠原涼子 佐藤浩市 山田孝之 阿部サダヲ 加藤雅也 吹越満 大森南朋 寺島進  香川照之

2011/11/11/金 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
もーっ!判ってるのに騙される。山田孝之なんてそりゃー彼がキャスティングされた途端にウラギリモノに決まってるのに、どうして信じちゃったの、私。
てゆーかてゆーか、薫ちゃんがウラギリモノになるなんて、そんなそんなそんな。ずっとずっと雪平の一番の理解者、最も信頼する相棒だったじゃないのお。
イヤー、しかもあの人も。イヤーイヤーイヤー。

……こんな許されないオチバレ、私殺されそうだな(爆)。ま、でももう公開も終わったし、いいよね?(爆爆)。
つーかねー、そりゃ私は推理モノ苦手、犯人とか裏切り者の予測なんて全然出来んさ。それでもアンフェアには毎回驚かされてしまう、アゼンとする。
だって毎回……雪平があつく信頼を寄せている人が、まさかと思う人が、実は雪平を裏切っていた、って展開になるんだもの。
それでもそれでも、薫ちゃんだけはまさかと思ってた。連ドラの最初からずーっと、いささか間が抜けていて鑑識という自分のシュミに没頭しているオタクキャラのような薫ちゃんは、演じる加藤雅也の絶妙さもあいまって、独特の癒しキャラだったのに。

雪平の親友の濱田マリが裏切り側だった時も相当ビックリしたけど、今回はそれ以上だった。
だって連ドラの時から引っ張って何年も雪平の理解者として側にいたのに。連ドラが好評だったから、スピンオフや劇場版が決まった筈。ならば、薫ちゃんのキャラに最初からそんな伏線はなかったんだよね??
……そう自分に言い聞かせないと、あまりのショックに心が折れてしまいそう。

おいおいー、いつも以上に文章が破綻してるぞ(爆)。しっかしそれにしてもねえ……。
今回の劇場版二作目で新たに加わったキャラ、雪平の新しい恋人であり上司の佐藤浩市や、正義感の強いおぼっちゃま検事、山田孝之に関しては、そりゃあ彼らは演技巧者だからこちとらまんまと騙されやがりましたけど。
でも結果的に考えてみれば、最初から彼らは裏切り者としてキャラ設定されるだけの役者だし、そういうタイプの役者でもあるな、と納得できるのだ。
でもさあ、薫ちゃんは……(まだ言ってる)。

薫ちゃんの裏切りと、これもシリーズ最初からの重要なキャストである雪平の元ダンナの香川照之が死んでしまうことで、ああ、このシリーズは本当に、これで終わってしまったんだな、と思った。
薫ちゃんの裏切りは本当に最後の最後に判明するので、いまだ私の気持ちの整理がつかないが(爆)、前半のかなり早い段階で香川照之が死んでしまった時、まあ、もう劇場版二作目ということもあり、前作からの謎を冒頭でざっと紹介してその究明に当たる、という展開が先に示されていたから余計に、ああ本当に終わりなんだな、と……。

だって、香川照之、元ダンナ、佐藤が死んでまでこのシリーズが続く意味合いはないもん。でもその意味では、彼が裏切り者の側に回らなくて本当に良かった。
死んで良かったというのもアレだけど、なんたってアンフェアは、先述したように、まさかこの人が、こんなに篤い信頼を寄せていた人が、ってキャラをアッサリ裏切り者にしてしまう驚きがあるからさ……。ちょっとだけ、そこは救われたかな。
でも彼が雪平に言う「俺を疑うのか」という台詞は、ちょっとヒヤリとしたけど、逆にまさかと思いながらも身内の弱点を突かれるんじゃないかと疑ってかかったのは、佐藤だけだった。
ある意味、もっとも信じたい相手だから、もっとも裏切られたくない相手だから、雪平が弱気になった瞬間だったのかもしれない。

なんか話の筋が見えないまま突入してるなー。でもまあ、いいや。もうアンフェアも終わりだし(理由になってない(汗))。
ところでね、どーでもいい話だけど、雪平、って苗字で呼ばれるのって、イイよね。
まあ一刑事なんだからそうなんだけど、映画とかドラマとか小説とかでもさ、キャラや筋を解説する時に、男性は苗字で呼ばれ、女性は下の名前で呼ばれる慣習が、実は私、ちょっとヤだったんだよね。
作品の中では苗字で呼ばれていても、あらすじとかの解説では女性は下の名前で説明されている。そういうのが、なんか、上手く説明つかないけど、ものすごく、ヤだった。

でも雪平はやっぱり、雪平なのだ。夏見と呼ぶのは元ダンナと恋人ぐらい。
恋人の一条(佐藤浩市)にしたって、人前では勿論雪平と呼ぶし。
何かそれがね、雪平のカッコ良さをとても端的に示している気がしたのだ。

篠原涼子姐さんは、何を演じても見事にハマる、芝居力は勿論だけど、キャラにハマるタイプで、数々の名物キャラが頭に浮かぶけど、その中でもこの雪平がバツグンに好きだなあ。
彼女自身はほあんとした、これまた似合うコメディエンヌの役の方が地に近いのかなとも思うけど、この雪平のカッコ良さときたら類を見ない。

実は、先述したように彼女が信頼を寄せる人から次々に裏切られるという経過を考えても、彼女は実は簡単に人を信じやすいタイプなのかもしれないし、そういう意味では純粋で単純なのかもしれないと思うところがある。
あるいは、実は本作にもちょこっと感じたんだけれど、そういう部分からほころぶ、キャラというよりは筋としての弱さもあったかなとは思うんだけど、彼女の男前美女という圧倒的な存在感と、映像美学で、なんかそれをふっ飛ばしちゃうんだよなあ。

そう、映像美学、なのよね!私改めて、アンフェアって、凄いわ、と思った。
実は今回、ちょっと観るのが遅れた。躊躇してた。アンフェアのファンだけど、スピンオフドラマは見逃していたし、前回の劇場版からもちょっと時間が経っていて、今回の登場が、何かこう……よくあるドラマの劇場版、のイメージと分かちがたくなってて、素直に乗り切れなかった。
ドラマの劇場版、the movieに対するちょっとしたアレルギー反応のようなものがある。
そのドラマのファンだったらいいけど、いや、ファンであっても、何か、一般映画から隔離されている感じがする。あるいは、格下に見られている気がする、なんて、勝手な言い草だけれど。

でもアンフェアは、本作は……。これを、ドラマの劇場版として語るのはあまりにも勿体無い、と思った。映画作品としての完成度、魅力、素晴らしさを、きちっと評価されてほしいと思う。
なんていう私が、そうしたイメージにとらわれていたのにアレだけど、それだけに、本当に、そう思う。
まあ正直、冒頭で、前作から積み残した謎を示された時はちっとも覚えてなくて、あれ、スペシャルドラマとかを見逃してるのかな、などと思ったぐらいだった。
だから余計に、先述したような、ドラマのファンだけが囲い込む格下感を予感して不安を覚えた。
でも本作は逆に、そうしたイメージがもしかしてつくのならあまりにも勿体無い、素晴らしい完成度、これぞ映画的という独自の世界観に満ち満ちている。

あのね、確かに篠原涼子は連ドラの時から素晴らしくステキだったけど、着実に年齢を重ねて、イイ女になっていった。
本作は猟奇連続殺人、その犯人との直接対決、検察も巻き込んだ警察上層部との対決といった、連ドラの時の、いわばダークファンタジーのような趣からはもっと現実的な部分に踏み込んでいて、それは彼女の大人の女としての成長に比例していったと思う。
後半、疲れに疲れ果てた雪平、てか、篠原涼子が、目の周りをくっきりと黒くするんだけど、……それでなくても雪平のメイクはダークなアイメイクが特色で、それが次第にギャグ寸前にまで色濃くなっていくのにはハラハラしたんだけどさ。
なんかね、その、目の周り真っ黒にするぐらい疲弊した雪平の様子が、エコエコアザラクを思い出させてさあ……。

そう、本作の、ドラマも含めて脚本、監督を務めている佐藤嗣麻子の出世作。私ね、そう、この篠原涼子の顔見て、久々にそれを思い出した。
そして、連ドラ初期には一応あった原作からは大きく飛躍していった世界を彼女が一手に引き受けていったことを考えると、その力量の確かさを感じずにはいられなかった。

で、篠原涼子のホラーメイクと言ってもいいような疲弊したメイクにエコエコを思い出して、そうか、エコエコの佐藤監督なんだよな、と思い、映像の世界観も確かにそうだと思い、でもエコエコは一体何年前?と思い、それ以降、彼女がこと映画に関してはろくろく手がけてないことを思い……。
もったいない、もったいなーい!!なんで彼女ほどの才能のある人がオリジナル映画を撮れないの!

昨今、ちょっとした女性映画作家ブームだが(こんな程度でブームと言ってしまうのも哀しいが……)正直その中には、生ぬるい癒し世界でお茶を濁している人もいるしさ……。彼女はとても先鋭的なデビューをしてるのにさ!
原作が連ドラの冒頭だけというならば、それ以降は殆ど彼女のオリジナルっつーことではないの。
ネイルガン(釘打機)で冷酷に人をぶっ殺し、ご丁寧に血抜き処理をして、蝋人形のように真白い死体を作り出すことに美学を感じる殺人犯、なんて世界観を、戦慄させながらも、醜悪感は感じさせず、禁断の甘美めいた気持ちをふと感じさせ、観客にちょいと焦らせるなんて芸当、ぬるい癒し映画作ってる昨今の女性監督に出来る訳ないよ!

……ちょっと脱線してしまいました。ていうか、本当にこれじゃ全然話が判らないけど(爆)。
んんー、でも、薫ちゃんが裏切り側に回ったって言っちゃっただけで、もう話が終わりのような気もするけど(爆爆)。
正直、前作からの伏線もぜんっぜん覚えてないし(ダメだ私……)、雪平がどうやって機密がつまったUSBメモリを手にしたかも、そんなことあったっけ……?と思うていたらくなんだけどさ(爆)。

まあとにかく(汗)、現段階で雪平は北海道の片田舎の警察にいる訳。登場シーンはいきなり恋人である上司との睦言である。
正直ここまで色っぽいカットやバックヌードを見せるなら、それ以外にも犯人とのバトルで、湯上りの濡れた髪と身体の色っぽさにちょいとシャツをはおっただけ……の筈がしっかりボクサーパンツはいてたりして、なんともズルいなとかさ。
そりゃあ背中やおみ足はさらすだけある美しさだけど、ちょいとおっぱいのひとつもぽろりと、とも思うが、雪平のようなハードボイルドの場合は、乳首見せただけで作品カラーや意味合いに影を落とすのは確かだから、特別に許してやろう(ナニモノ?)。

モノトーンファッションのいでたちは、今回の舞台の半分を占める北海道の銀世界にも憎たらしくなるぐらい美しく、スタイリッシュだったしさ!
あの黒コートの丈のわざとらしいまでの長さがまた、いい意味でマンガチックでヒロイックでゾウッとする魅力なのよね。

東京で検挙率ナンバーワン刑事としてバリバリやっていた雪平がなぜこんなところにいるのか……まあ確かに問題児だったし、彼女を毛嫌いしている小久保課長(阿部サダヲ)あたりに飛ばされたかなと思った、のは、やはり前作をさっぱり覚えてなかったせいだろうな(爆)。
雪平は警察上層部の機密が隠されたUSBを手にしたことによって、その解析を依頼した元ダンナは殺されるし、自身も連続殺人犯として追われる立場になる。
警察上層部、のみならず、結果的に判明するところによれば、検察も巻き込んで、つまりは、一条言うところの、無知な国民を統治するために動いてきたこの国の、そのために動いた汚いカネやら組織やらの秘密がつまっていたのが、雪平が手にしたUSBなのであった。

そう、結果的に言えば、雪平があっさりホレてしまって信頼してしまった佐藤浩市演じる一条も、雪平が連続殺人犯の容疑者として拘束された時、正義の味方のように現われて雪平と共に逃走する(表向きは雪平の人質を装って)山田孝之演じる村上も、そりゃー、こう書いてみればアヤしさ満点のキャラなんだけど、一条はともかく、正直村上には私はダマされてしまった。
なんで山田孝之が、青臭い正義感を持つ若き検事などと信用してしまったの(爆)。ありえないのに、そんなこと(爆爆。言いすぎだろうか……)。

でもさー、ウッカリ可愛かったんだもの、山田孝之。こんな可愛らしさが出せるのね、と思った。正直、ヤラれてしまった(恥)。ときめいてしまった(恥恥)。
途中何度も、ああ、山田孝之に、純朴さにときめいてしまうなんて、と自問自答し、そういうキャラなんだ!と浮かれ気味に言い聞かせていたら……このていたらくである。
あーあーあー、バッカだ−私―。山田孝之が純粋正義のキャラなわけ、ないじゃん!(言い過ぎ言い過ぎ。「電車男」もあるじゃないの)

どうもウロウロしてしまう。まあいいや、続ける。
そういう意味で言えば、まあ予定通り?で、ちょっと安心するぐらいのキャラが、連続殺人犯の大森南朋である。
最初の二人までは、彼の美学に基づく猟奇殺人。三人目の被害者になってしまった雪平の元ダンナの佐藤は、これは予告殺人だと、容疑者になった人物が殺されるのだと雪平に告げ、海外逃亡を企てるものの、間に合わなかった。
てか、佐藤を殺したのは大森南朋扮する連続殺人犯ではなかったから。二人目までの殺人がそこから続く殺人への目くらましだったのか、とにかく彼は警察上層部に雇われて雪平を狙うこととなったんだけど、佐藤を殺したことは、彼の範疇外だった。

佐藤を殺したのは一条。雪平が、なぜ佐藤が殺されたのかと、連続殺人犯に関する記事を書いたというだけでは弱い気がして、それ以上に、解読できないUSBに関する秘密を知りたくて、敵の懐に飛び込んだ。
残酷美学のような屋敷の中、死体写真の中に佐藤のそれはなかった。
鮮血したたるなんだか判んない肉をぶった切る大森南朋の造形はなにか、超笑えないスウィーニー・トッドのようである(いや……そもそもスウィーニー・トッドは笑えないのだが)。

大森南朋に、ある意味ベタな、一見確かにコワいけれども、結局は黒幕の手駒でしかない猟奇嗜好男を振るのは、確かにメッチャ似合ってるけど、なかなかに贅沢な配役かもしれない。
それでいえば数分であっという間に死んでしまう香川照之も贅沢だが、でもさすが、彼はそれだけで、鮮やかな印象を残す。まあこれまでの、連ドラからの流れもあるしね。

でも、佐藤が雪平に、元女房に、大丈夫だよ、じゃ……みたいに、香川氏独特のゆがんだ笑みを見せた時、そのアップのショットに、ああ、もうこの人死んじゃう、間違いない、と判ってしまったのが、辛かった。
それでもその時既に、この人は雪平の味方のまま、信頼できる人のままで良かったと、本当にこの時既に思ったのも事実。
しかもそれが、まさにラストのラストまで効いているのだ……。

でもほおんと、雪平はあんな敏腕なキャラなのに、実は信じすぎだよねーっ。一歩間違えれば命をなくしていた場面続出。
でも後から判明すれば、すべてが裏切り者側の計算づくであった訳で、ならばそれを雪平も最初から見切っていたということなの?いやそれはさすがに思われない……。
実はちょこっと脚本の弱さ、というのは言い過ぎかな、気になるスポットみたいな部分を感じるのはそこでね。
検事の村上が自分を人質にして逃げてくださいというのにアッサリ乗っちゃうのも、村上がかくまった場所に一条が現われると、一条の方を信じたいと身を寄せるのも、まあ薫ちゃんだけを信じて殺人犯の調査を依頼した件については、彼の裏切りに大ショックな私も大きなことは言えないけどさ(爆)。

でもそれにしても、後から考えれば雪平って結構、女々した感覚で突き進んでるんだよな。
村上のことだって、最後の最後には見事に見切って「バカか、お前は」と、あの雪平の超カッコイイ台詞でシメてくれはするけど、でもやっぱり、ある程度の時点までは彼を本当に買っていたと思う節がある……なんて思っちゃう私の方がやっぱりダメダメなのかなあ??

でも、一条のことは、やっぱり信じていたよね……。
雪平が彼女を追う小久保課長の盗聴器を巧みに利用して、一条の告白を聞かせて、一条が佐藤を殺したことを確定させるけれど、でもさ、かなり直前までは、雪平は一条を信じていたよね……。
村上のことも。いや、そう思っちゃう私の方が甘い?

佐藤は雪平に、解読出来なかったとUSBメモリを返したけれども、必殺の細工をしていてくれていた。
このメモリは特定のパソコンに接続しなければ読み込みされない。だから解読出来なかった。殺されるかもしれないという時間的余裕のなさもあった(実際、殺されちゃったし)。
でも、相手がパソコンに接続した時、そのデータがこっちで用意したパソコンに自動的にダウンロードされるように細工、しかも、元のメモリが爆破する仕掛けまでほどこした。
そこまでする時間と、解読する時間とどっちがどうだったのかしらんという気持ちもちょっと起きたが(爆)、そんなヤボなことは言うまい。

だってこれはあくまで結末の爽快感なのだもの。爽快感というには、どす黒いものが含まれすぎだけど……。
だってその数分前に、薫ちゃん、村上、一条がそろって雪平を裏切る側にいたと(一条の裏切りは事前に判明してたけど、警察ではなく検察側、しかも消された筈が生きていたという二重、三重のショック!)明かされ、そのショックから立ち直れないうちに、そんなスピーディーな展開されたってさあ、ついてけなーい!!!

でもホント、何度も言うように、この場面に至って完全に、ああ、良かった、佐藤は、元ダンナだけは、最後まで雪平を裏切らず、彼女の味方だった、というのが、最大の救いだった。

ラストには、ウラギリモノたちがそこここの場面でどう動いていたか、水面下の場面が次々と示され、もう、ただただ悔しいばかり。
なーんつーかね、私は、てか皆そうだけど、表の、つくろった、優しい、正義感のある、初々しい、穏やかな、そんな顔に軒並み騙されているのか!っつーさあ。

もうこれが最後だろうから、もうさすがにこの人は信じたい、なんか雪平はあまり信じてないようだった、あからさまに悪人顔の寺島進扮する山路警視。
一条にホレてたのかと雪平に聞くと彼女は……そうかもねと答える。
「つくづく因果な女だな」
この言葉がね、彼なりの思いやりと共に、ほおんとに雪平自身を示してるなーって思って。
雪平は裏切られ続けても、最後にはあの決め台詞、「バカか、お前は」で見事にクールな美貌で〆て、悲壮感はないんだけど、だからこそカッコイイんだけど、でもそれでも、最後に一人でも、判っている人にいてほしかったから。 ★★★★★


トップに戻る