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「も」


2016年鑑賞作品

モヒカン故郷に帰る
2016年 125分 日本 カラー
監督:沖田修一 脚本:沖田修一
撮影:芦澤明子 音楽:池永正二
出演:松田龍平 柄本明 前田敦子 もたいまさこ 千葉雄大 木場勝己 美保純 小柴亮太 富田望生 劔樹人 大竹康範 矢澤孝益 クリテツ 渡辺道子 守屋文雄 坊薗初菜


2016/4/18/月 劇場(有楽町スバル座)
そのデビューからほれ込んでいた沖田監督、時々は手放しで100点!とはいかないまでも、そのほとんどにほれ込んできた沖田作品。本作は手放しで100点!の記憶が新しい「滝を見にいく」以来のオリジナル脚本だということなのでかなり、おおーいに期待に胸膨らませて足を運ぶ。
結果的には、うーん、そうね、「横道世之介」の時みたいな感じだったかな、という私的にはさらりとした印象ではあったものの、松田龍平が沖田監督、というのはすんごく相性がいい気持ちがしていたので、それだけでもちょっと嬉しかったのであった。

相性がいいとは思う。このほんわり、オフビートな温かさを持つ監督さんと、龍平君の魅力はそのままピタリで、まるで同じ遺伝子を持っているかのようなのだ。でもそれがバチンとはじけなかったのは、この物語のテーマ自体はかなり深刻である、ということと無関係ではないように思える。
勿論、親が死ぬ、ということは劇中の彼の台詞のように、いつかはやってくること、普遍的なテーマ。深刻なテーマ、という方が当たらないのかもしれない。
でも、それが根っこにあると父親役の柄本明側に引きずられて、龍平君のとぼけた魅力が100%発揮できないように思えた。いや、柄本明だって充分にとぼけてるんだけど、とぼけてないとこの監督の下でこの役は出来ないんだけれど。

龍平君は売れないバンドマン役。タイトルそのまんま、つまりタイトルロールというやつである。ヒロインのあっちゃんはその恋人。登場シーン、眉をしかめて寝ている様が可愛く、その眉根を広げてクスクス笑う永吉(龍平君)の描写に、二人の仲の良さがほのぼのと伝わってくるんである。
彼女の方が気ぃ強いし、後に永吉の母親に言うように「私ぃ、バカだから、永ちゃんぐらいがちょうどいいんだよねー」という感じのカップルなのだろう。妊娠ということも殊更に重くとらえないのもだからなのだろうとかは思うが、むしろラブラブとかゆー虚構の奇跡より、ずっとずっと本物の仲良さが愛しいんである。

前田敦子嬢は、すごくチャレンジを続けている。もともとがまっさらとした女の子だから割となんにでも化けられるが、さりとて憑依とかその役を生きてるとかいうところまではいかないのがちょっと物足りないところでもある。よく言えば一生懸命やっている、というか……それが見えちゃうというか。
お姑さんとなるもたいさんに由佳ちゃん由佳ちゃんと可愛がられるのは、どこかほっとけなくなるあっちゃん自身の魅力によるもので、由佳が持つアホさではないような気がしちゃうんである。
まあそんな女優さんはいくらもいるし、それこそが魅力の女優さんもいくらもいるんだけれど、なんというか、そろそろ心配になってきたかなあ、という感じもするんである。

まあ、それを言ったら龍平君とあっちゃんは割と似ているかもしれない。龍平君は見た目で圧倒的なオーラがあって、だからデビューの時にはドギモを抜かれたが、それが内面と全くそぐわないことが徐々に明らかになって(爆)、不思議な魅力を醸し出していくようになったのであったが、彼女はどうだろう……。
でも、やり続けることこそが役者道であるから!って余計な心配なのだが……。

脱線してしまった。で、二人は妊娠、結婚を告げるために永吉の故郷に帰る。彼、実に七年ぶりの帰省である。最初、予告で本作に接した時、お父さんのガンが判って帰郷したのかと思ったら、そうではなかった。
妊娠と結婚を告げるも、永吉は相変わらずうだつが上がらず彼女が食い扶持を稼いでいると知って、両親は激怒するんだけれど、ほどなくして父親のガンが発覚、あいさつに来るだけの筈だった二人はそのままズルズルい続けになるんである。
いや、両親は帰れというんだけれど、何かをしたいと急に思い立った永吉と、不思議に溶け込みなついちゃう由佳は、むしろ積極的に居候を続ける訳。

後に二人の結婚式が行われる展開において、由佳の親族が急ぎ呼び寄せられるんだけど、東京の居酒屋で出会ったという二人、由佳はダルダルながらもこの故郷にはそれなりにカワイイカッコで来て、メイクもネイルもバッチリ、伊達眼鏡なんかかけてるし、地方の出身なんてことは微塵も感じさせなかったんだよね。
でも、急に横一列に並ぶ親族一同はなぜか女ばかり、騒ぎまくる甥っ子に怒声を浴びせる由佳に永吉ビックリ、みたいな、そして見事な東北弁。
由佳の母親役が美保純で、やっと皆片付きましたよ、と笑顔で言うのが実に美保純ぽくて、父親の影が当然のようになく、男兄弟もなく、っていうのが、すんごく美保純ぽい!て感じがしてさあ、面白いんだよね。この女系家族で育ったら、そら強くなるわ!みたいな。

いや、考えてみれば、永吉家だって。弟も仕事もせずにしょっちゅう家に来てごはん食ってる、とお母さんが愚痴るぐらいだもの。んでもって、ダンナは矢沢の曲を嫌がる中学生にムリヤリ教えている、と。
ここもまた、男たちが頼りないのはおんなじなんだよなあ。そうか、だからお母さんは由佳ちゃんの強さを見抜いて、しきりに可愛がったんだ。そういうことかあ。

で、なんかいちいち脱線しましたけれども(爆)。まぁ今は、ダンナが女房を養うとかいう価値観もようやく薄れかけているし、だからこのカップルは、まあそこまでの信念もないんだろうけれど、彼女が彼のことを頼りないとかうだつが上がらないとか、そんな古い価値観でも見ていないしさ。
でもこの小さな離島の、老夫婦にとってはそうはいかない訳。当然、頼りない息子を罵倒しまくる。

しまくるんだけど……でも、やっぱりそんな深刻じゃないあたりは、特に女房役がもたいさん、だからかなあ。柄本明のダンナはひょっとして、婿養子なんだろうか?女房の方が古い酒屋を切り盛りしていて、ダンナはまるで道楽みたいに中学の吹奏楽部を教えている。教師のようにはあまり見えない(爆)。
永吉が中学生だった頃から、吹奏楽部に矢沢永吉を演奏させている。広島の義務教育やけん!と言って。

頼りない息子のことをあしざまに言うけれども、売れないといえど、ロックミュージシャンになったのはこの父親の影響があったに違いなく。吹奏楽部でたった一人の男子生徒、野呂君を徹底指導するお父さんは、かつての息子の姿を重ね合わせていたに違いなく。
永吉が中学生だった頃は、今の二倍は部員がいた。今は10名足らずで細々と。そして矢沢をやるのもイヤがっている。中学の吹奏楽部で矢沢なんてやらないと。
部長である太めの女の子が、この人数で吹奏楽部はムリだと思う、とこぼすも、それを覆す見事なクライマックスが用意されている。矢沢っていうのもね!

野呂君が、お父さんに言われて仕方なく吹奏楽部でやっている、と言ったのも、永吉に重ね合わせていたんだろうけれど、でもきっと、野呂君はそれだけじゃなかった筈。
だって、訓練に呼び出された病院から「家族でかっぱ寿司に行く予定だから」と逃げ出し、永吉にとっつかまって送られる車中、永吉のバンドの爆音に、「このバンドカッコイイですね」と言ったんだもの。
つまりさ、きっと彼だけが、吹奏楽部はともかく、そこで矢沢をやることは、受け入れていたってことだと思うんだよね!やりたかったと思うんだよね!

だからこその、クライマックス。もう指導することもおぼつかないお父さんの代わりに、スマホで演奏を中継しながら永吉が指揮をする。
頼りなげに指揮棒を振っていたのに、まるでジャズの即興演奏のようにドラムの子にアドリブを指示したり、どんどんスピードを上げて行く。そんなこと初めての経験の筈なのに、彼らが瞳を輝かせてついていくのが本当にワクワクするのだ。矢沢が本当にヤザワになった瞬間なのだ!!

この野呂君をやっていた男の子は「十字架」のあの子!!と。
こいでんの同級生にさせられたのはさすがにキツかったけれど、中学生をやらせたらいやー、ピカイチである。それだけに今後がどうなるかがちょっと不安だけど(爆)。

で、最初にもうオチバレみたく言っちゃったけど、柄本明が死にゆくさまを見せていく、んだよね。柄本明は「神様のカルテ2」でもやっぱりガンで死んじゃう役だったし、なんか顔つきというか、が、今の彼はことに、そういうものを感じさせる、なんて言っちゃったら怒られるだろうか。
「俺も全然考えてなかったんだけど、親って死ぬんだな」とこの野呂君にぽろりとこぼす永吉、それを演じているのが龍平君だというのがなんとも感慨深い。だって、彼はそんなことを思う筈もないままに父親を亡くしているのだから。
由佳に父親の存在が示されないのは、亡くなったのか離婚したのか判らない。そのあたりが特に言及されずに圧倒的な女系家族パワーで示されるのは上手いと思う。彼女には親がいるというありがたみが判っているのだ、と思う。

だんだん、弱ってくる。記憶もあいまいになってくる。永吉を、中学生の頃の永吉だと思う。トロンボーン、続けろ、応援するから。東京行って、ビックになれや。そう言う父親に涙する永吉。
きっと、父親は、本当は本当のその時に、出て行く息子に、そう言いたかったのに果たせなかったんだろうと思うから。遠くには、由佳と母親がまるで本当の親子のように波間で戯れている。

なんでもやりたいことを言え、と言う永吉に、父親が冗談みたいに言ったのが、「えーちゃんに会いたい」だったのだった。もちろん叶う筈もないことなのだけれど、脳が侵されてきている父親のことを逆に利用する形で、永吉は素肌に白のスーツ、ハットをかぶって、でもまるで似ていないんだけれど、父親の前に立つ。
父親は、197×年の武道館、目が合いましたよね!と息子たちに何度も自慢していた話を、“本人”に投げかけるのだ。“ヤザワ”がうなづくと、父親はまるで、本当に中学生みたいに半狂乱になって、ギャー!!!とベッドの上で暴れまくる。
これ以上ない親孝行。一歩間違えると、危ないけど(爆)。こんなことって、出来ないよなあと思う。私は、出来なかった。

もう、いよいよという時になる。父親が結婚式が見たい、と言う。女どもが顔を見合わせる。苦笑いする永吉。
そして、由佳の親族が呼び寄せられ、病院での結婚式は豪雨にたたられて、牧師も歌手も来れない。居合わせたシスターである患者の女性は、「滝を見にいく」の時のキャストの一人だよね!こういうのって、嬉しくなる。

もう意識も混濁している父親に本当に見えているのかどうか判らない中で、アットホームな式が執り行われる。
誓いのキスの直前、ゾンビみたいに起き上がり、バタンと倒れた父親を皆で焦って運び出すシーンは、勢い余って寝台だけ滑って行ってドーン!と壁にぶつかるというアゼンなギャグ!でもこれが最後だっていうことも判っちゃうほろ苦さ。

永吉はきっと、ビッグにはなれない、だろう。船を見送るもたいさんが、「はたらけー!!」と叫ぶ声にそう思う。
大きなお腹を抱える嫁さんに、ここに至ってようやくお腹に耳を当てる彼に、父親の自覚どうこうというヤボな言葉が一瞬、思い浮かばなくもないけれど、彼らはきっと、なんとなく上手くやっていくんだろう。だってソックリだもの、永吉の両親と。

色々と物足りない気持ちはあったけど、ほんのりと幸せな気分になれるのは、ヤハリ沖田監督という感じがするのであった。★★★☆☆


モラトリアム・カットアップ
2015年 38分 日本 カラー
監督:柴野太朗 脚本:柴野太朗
撮影:中谷駿吾 音楽:井上湧
出演:守利郁弥 大石晟雄 竹林佑介 杉山つかさ 小林哲也 豊嶋梨那 樋口アイリ 安部敬太 安部直美 尾中正樹 中嶋莞爾

2016/6/13/月 劇場(テアトル新宿/レイト)
いやぁー、凄い凄い!まだ知らぬ新鮮な才能に出会ってワクワクが止まらない!!新しい風を感じた。ホントに。そんなフレーズがピタリと来る。
ひと昔、いやふた昔前と比べて、今は機材的にも知識的にも格段に得やすく、いわゆる“若い才能”というヤツはごろごろ出てくるけれど、そうなると当然玉石混合で、私が一番苦手なのはいかにも映画のメソッドを知ってますみたいな頭のいい人たちだったりして。いや、そーゆー人は玄人受けしてるから、私が単にバカなのかもしれないけど(爆)。
でもやはり、やはりやはり、そういうことではないのだ。リクツなしに、これは見たことのない才能だと思える、感覚で、本能でワクワクするような、そういう新しい風、なのだ。

この日、本編前に出来たてホヤホヤのミニミニ短編ふたつと、なんとナマの演劇をさしはさむという、もう若さのやる気満々が何とも嬉しいプログラム構成で。
演劇に関してはちょっとよく判んなかったけど(爆)、ナマの芝居を観るなんて機会はなかなかないから凄くスリリングだったし。だって、通路を駆け抜ける駆け抜ける、まさに風がびゅんびゅんと立つんだもの!
そしてミニミニ短編ふたつが、これが本編を凌駕する面白さでぶっ飛んだのであった。めっちゃ、めっちゃ、メチャクチャ面白かった!

一本目が、本作を観るために(いや、キャストなのだから、挨拶をするために?)劇場で待ち合わせるための、新幹線からどこでどう乗り換えたら一番早く着くのか、ということにソーゼツに頭を悩ませるという話。乗り換えシュミレーション映像がザクザクスピーディーで最高!
二本目は、新宿で出くわした(待ち合わせていた?)二人が、西口から出て南口の方をぐるーっと回って、また同じ場所に戻ってくるまでに、しゃべくり倒すという、それも特に意味のない、ほんとに他愛のないことをしゃべくり倒すという、ほぼワンカットではないだろうか(!すごっ!)というお話。
二人が通っていく駅の構内に公開したばかりの「植物図鑑」の駅貼りポスターなんぞがあって、ほんっとうに作り立ての短編だということが判るんである。

もうこの二本のスリリングな面白さと来たら、なくて、この時点でこの監督さんの才能を確信した。
ついでに、その二本目で“他愛のないこと”の話術のとてつもない才能を発揮する大石晟雄君にも。本編にも友人の一人として怪演を見せているが、彼は今後出てくるのを待ちたい役者さんだなあ。絶対に凄い!

と、いうわけで、なかなかその本編の話にいきませんけれども(爆)。でもそうか、この本編って、38分しかなかったのか!だから短編とか演劇とか、いろいろ組み合わせての公開を試みたのだね!でも振り返って考えてみても38分とは思えない密度の濃さで、とにかくギュウギュウに信じる面白さを詰め込んでいる感じがするのだ。
カットアップというのは芸術表現におけるひとつの手法で、端的に言えばバラバラにして組み直す、てな感じの意味らしい。いや、ウィキを読めば読むほど難しくて頭がパンクしそうになったので(爆)、もうそのあたりは諦める。
モラトリアムという言葉も私的には最近知った感じである。そう、あっちゃん主演のあの映画である(照)。そんな難しい言葉であのモヤモヤを表現するのかぁ、と思った記憶がある。そらあったよ、私にだって長い長いモラトリアムが(遠い目)。

そういう意味で言えば、モラトリアムってのはある程度年齢制限というか、若者の特権なのかもしれないという気もする。さすがに40過ぎてモラトリアムとは言えないもの。実際は抜け出していないのかもしれないけど……。
ま、とにかく(汗)、そんな年頃の男子4人、女子2人が登場するモラトリアムさんたちだが、主人公となるフミヤは友人たちからアナログ人間と揶揄される、携帯すらも持たず、地デジにも抗い続けている男子なんである。

アナログじゃなくてアナクロだよ!!と熱血に解説するあたり、その思いは徹底している。アナログとアナクロの違いは、私もかつて悩んだ覚えがある。今はあんまり悩まず(つまりかなり間違って)使ってるけど(爆)。
アナログ=アナクロになるほどに、アナログはもう取り残された価値観なのだ。フミヤの家族たちもスマホやパソコンやタブレットを手にして、同じ居間に集結しているのにひとことも会話せずに過ごしているもんだから、フミヤはイカっちゃうんである。ここは居間だろ、家族だろ、って。

こうして書いてみると、現代青年なのにまるでおじいちゃんの社会評論家みたい(爆)。そういうことを伝えたいメッセージなのかなとも思うが、そうかもしれないんだけど、不思議とそんなヤボなことは感じないんである。
だって、カットアップだから。もう彼の妄想(こうなったらいいな、的な)と過去の回想とが隙間なくカットバックされて、ああそうか、これがカットアップということなのかと思う。

こういう、実は妄想だった、という描写……例えばかつての初恋の人と再会してイイ感じになる、っていうのが妄想で、そんな訳ないよな、と一人芝居のオチみたいに、向かいの椅子には誰も座ってない、みたいな。
そういうのってあるじゃない。お約束みたいに、使われる哀しき妄想描写。つまり、そういうしっかりと既存の表現が“カットアップ”に使われる要素として用意されている、というのが実は本作の何よりの強みなんだと思う。

モザイク状に主人公の妄想やら希望やら過去回想が入り混じる、なんていう構成なら、確かに考えつくし、今までだってあったと思う。そしてそういう描写の多様にあざとさを感じてガッカリした記憶も、多々あったのだ。
つまりこれは、相当なセンスが必要なことなんだと思うし、何よりその行ったり来たりする彼らが、その若さが(年寄りくさいいい方でゴメン!)、本当にイキイキとしていて、ワクワクせずにはいられないんだもの!!

という感じなので、特に濃いストーリーがある訳じゃ、ないんだよね。あくまでアナログいや、アナクロ、いやいやもうどっちでもいいか(爆)なフミヤが、スマホどころか携帯なんかなくて待ち合わせさえできなくても、「行けば誰かに会える」という喫茶店さえも閉店してしまって、新しくできたカフェにみんなが集っているのを発見して声をかけるも、誰も彼のことが判らない……という、凄く残酷な結末を用意していて。

それまでに、バカップルな友人やら、ピンポンダッシュやら、高校時代に作った小さなバス停から始まる疑似初恋な8ミリフィルムやら、家族や友人との様々なエピソード……、喫茶店でだらだら喋ったり、ボーリング場でだらだら遊んだり、誕生日を祝ってもらう妄想したり、初恋の人と再会する妄想したり……てな具合でだんだん、妄想の度合いが濃くなってくる、という構成の中で、“カットアップ”が常に行ったり来たり、という、改めて考えてみれば実にクレバーな構成を成しているのよね。
それが観ている時にはまるでジェットコースターに乗っているように行ったり来たりさせられているから、全然そんな、構成なんて感じさせないのだ。ああ、悔しい、こうして書いてみてそれに気づくなんて。

アナログ人間であるフミヤに対して、作り手側は常にあたたかな視線を向けていることを感じることが出来る。
表現手段は映像の可能性に遊んでいるようなエッジの効いたものだけれど、根底にこうした思いがなければ、やはり本当の才能などは感じられないと思う。

地デジ終了の最後の最後のメッセージの後の砂嵐に頭を抱えるフミヤ、ラブラブカップルなのに彼氏側はずーっとゲームをしていて、彼女がねぇ、ねぇ、と根気よく訪ねるシークエンス、最新のiPhoneを自慢する友人、それにヘキエキするフミヤ、そしてなんといっても、アナログ人間の自分のことが判らなくなった友人たちが、顔を突き合わせているのにゲームやスマホやイヤホンに没頭して、なぜ集まっているのか判らないような画になっていること……。
新しい映像表現にチャレンジしているけれど、根底には作り手自身のいい意味でのアナログさが、恐らくちゃんと主張する形で表れていて、それが好感につながっているんだと思う。

アナログを愛するフミヤはどんどん取り残されて、就職活動の面接官に、「とりあえず、君、話長いね」と言われるのも、そんな価値観の延長線上にあるように感じ……つまりそれを、糾弾しているんだと思うんだよね。
でもだからといってデジタル時代を否定している訳ではない、のは、勿論この新しい世代だからというのもあるんだけれど、何より何より、ラストクレジットの後に用意されているニコニコのラスト、なんである。

友人たちからお前なんか知らない、という態度をとられて放り出されたフミヤが、最新のiPhoneを手にして、その機能のスゴさに無邪気に感動し、周囲の友人たちが、だろーっ!?と盛り上がっているという……しかもそこはフミヤの自宅で、妄想バースデーパーティーの再現のようなあたたかさで、ああ、優しいなあ、と思う。
優しい映画が好きよ。どんな傾向の作品でもさ、根底にその思いを感じることが出来れば、きっと私は大好きだって、思えるんだと思うんだよなあ。★★★★★


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