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「さ」


2018年鑑賞作品

サイモン&タダタカシ
2017年 83分 日本 カラー
監督:小田学 脚本:小田学
撮影:鈴木周一郎 音楽:小田切雄亮
出演:阪本一樹 須賀健太 間宮夕貴 井之脇海 田中日奈子 山本圭祐 大島蓉子 菅原大吉


2018/4/8/日 劇場(シネリーブル池袋)
童貞君がヤリマンの女に筆おろしさせてもらうために友達と共に向かう、ってつい最近ひじょーに似た話を聞いたような気がするぞ。まぁあれは25過ぎて童貞、っていう焦りがあってこっちは男子高校生なんだから違うけれども、工業高校の、つまり女の子と全然接点ないまま卒業を迎えかけてて、このままじゃ俺は終わりだ!と焦ってる、という点はやっぱり似ているかもしれない。
そんなに世の中には筆おろしさせてくれる優しい大人の女がいるものなのか。うーん、逆は聞かないのに。幻想だ、幻想だ。

ひとつ違うのは、その友達、てーのが、筆おろしの旅に情熱を燃やす彼に恋してる、ってことなんである。勿論?男子である。ボーイズラブ、というところまでもいかない、純粋乙女のような恋心である。
サイモンを演じる、ジュノンボーイで今回初演技であるという阪本君のことは当然初見。正直、タダタカシに対する恋心の切実さはかなり薄い感じ。それは彼自身の初々しい?演技のせいなのか、脚本のせいなのか、やたらアツい須賀君のせいなのか。
そう、タダタカシに扮するのはもはや大ベテランの須賀健太君。もう20代中盤だが、基本顔が変わってないから、違和感なく高校生の、しかも童貞に見える(爆)。ほっとくと眉毛がつながる、「決してカッコイイとは言えない」というには優しすぎる風貌かなとは思うが、時に訳の分からない理論を持ち出して、女の子に対して果敢にアタックし続けるタダタカシに、超ピッタリなんである。

訳の分からない理論、その一。ただでさえ女子が少ない工業高校、後輩女子に手を出したら後輩男子のチャンスがなくなる。そこはせき止めなければいけない、と、ただ同学年の女子であるというだけで、サイモンが呆れるほどブス系の女の子にも見境なく告白しまくる。
つまり、タダタカシは恋をしている訳ではないんである。恋を知らないんである。その点では、サイモンにも、このブス系の女の子にも劣るんである。ブス系なんて失礼だな、小太り系=ブス系にしちゃうのは、日本の悪い癖だ。あとメガネ系とかね(私だ(爆))。
「なんでダメって?好きじゃないから!!」としごくまっとうなことを言われてもひるまないサイモンは、君のおっぱいをもみたい〜てな自作の歌をサイモンのハーモニカと共にギターでかき鳴らし、「てゆーか、私服がだせーんだよ!!」と根本的なことを吐き捨てられて最後の女の子にフラれてしまうんである。

タダタカシのあくなき探求心に、サイモンが「だって、ブスじゃん」と弱々しく言ってみても、「可愛いよ!俺にとっては!!」と前向きなタダタカシに彼の想いは通じない。しかしこの台詞は裏を返せば、自分はブスじゃない、自分の方が好きなのに、ブスじゃないのに、と言っているようにも聞こえる。
好きな相手が誰か他の相手を好きな時に、その容姿を罵倒するってことは、これはなかなか出来ないことよ。サイモンにはその自覚がないのかなぁ。男女の違いで気づいてないのかなあ。でもこの辺は、フェミニズム野郎はとっても気になるのよ。

サイモンがタダタカシを好きになったのは、一年生の時、むさくるしい先輩や先生たちを押しのけるようにして現れた時。まるで白馬の王子様、眉毛はつながってるけど(爆)、一目惚れだった。
このくだりとか、時折大事なシーンになると突然、線描画アニメーションになるんである。こーゆー手法はそれこそついこないだ「ニワトリ★スター」で見たが、正直あんまり好きじゃない。こういうのって、必然性を感じる使い方を出来ている作品を見かけることは少ない。むしろ、サイモンを演じる阪本君の演技に難があるから、ポップにごまかしてるぐらいに感じてしまう。しかもUFOまで出てきちゃうしねー。正直ここまでくるとワケ判らない。

タダタカシがトイレでブリブリやっていた時に、壁に落書きされていたいつでもヤラせてくれる女の携帯番号、もう、それに運命感じちゃって、運命の相手と定めて高校三年生の夏休み、旅に出るのだ。
で、まぁさらりと言っちゃったんで言っちゃうけど(なんなんだ)、このヤリマンさん、間宮夕貴演じるマイコさんの恋人が宇宙人で、てゆーか、つまり彼女自身も宇宙人??ウワキした恋人にゼツボーして人間界に降りてくるも、やり直したい恋人は彼女を追っかけてきて、で、なんで現地の女の子をさらうのかよくわかんないんだけど……マイコにやらせてくれとつきまとう男たちを爆破するのは判らなくもないが(いやいや!)そもそもこの設定は……言っちゃ悪いけど、幼稚くさい、学芸会みたいに感じちゃう。

かなり先走ってしまったが(爆)。マイコさんはもうこんなこと、ヤメたいと思ってる。そもそも、自分自身の気持ちを確かめるために、みたいな(すいません、よく判らなかったんで、集中できなくてうろ覚えで(爆))感じで、色んな人と交わってみたけれど、みたいな説明してて、それはかなりぶっ飛んでて、それはそれはつまり、宇宙人だからなの??みたいな。
サイモンとタダタカシが長距離バスに乗ってたどり着く、なーんにもない、ザ・田舎!!なこの町で、「みんながマイコさんの世話になっている」と、彼女の勤めるスナックに押し寄せた男たちは言う。タダタカシが目指しているように筆おろしと共に、その後のはけ口も世話になっていると、そーゆーことであろう。

「もう私、こういうのやめたんです!」「いや!マイコちゃんはこの町に必要なんだ、そういう女なんだよ!」そういう女、をその後もやたらと連呼する男たち。
オフビートな作風だと判っていても、これはなかなか聞き捨てならないなぁ……こーゆーところでフェミニズム野郎を持ち込んだら、面白くないのは判っとるが、でも正直、こーゆー設定、こーゆー考え自体が古いなぁと思っちゃうんだもん。

でも、こーゆー設定、こーゆー役柄なのに、そして間宮夕貴なのに、おっぱいひとつ出さないのは、もったいない、もったいないなー!いや、ついつい彼女には必須条件としてそれを期待しちゃうところがいけないいけない、フェミニズム野郎がそれを言っちゃいけないじゃないの!!
でもアレかな、“そんな女”であることを内面にふつふつと隠し持っているということなのかな。もうね、サイモンが嫉妬するなんてレベルじゃないのよ。サイモンは、サイモンの恋心は、肉体への執着になんてまだまだ程遠いんだもの。

それでもタダタカシをマイコさんのところに行かせたくなくて、捻挫したとウソをついたり、タダタカシのスマホを捨てたりしちゃう。なかなかに、悪魔女子(女子じゃないけど)である。しかしタダタカシはメゲず、父親に連絡を取ってトイレに書かれた携帯番号を再びゲットするんである。
この父親、菅原大吉、女房に逃げられて、毎日毎日、おでんを作りすぎる。そこにサイモンが呼ばれる。男三人、しょっぱい食事である。フィリピンパブでホステスに介抱されながら号泣する彼は、「もう母さんは帰ってこない」と息子には言いながら、妻に対して未練たっぷりに違いないんである。
ここには彼らの経験値を飛び越えた、愛という名のエゴの形があるんである。でも、飛び越えた先にあるこのお父さんは、Uターンして帰ってきて、純粋な恋になっている気もするけれど。

この田舎町には、もう一組純粋カップルがいる。ヤンキーカップルは確実に彼女の方が強い、別れるだぁ?てめ、ぶっ殺すぞ!!てな勢いなんである。彼氏が別れ話を持ち出したのは、強い組織に狙われているから。一度ハデな動きは抑えよう、バイクはやめて自転車にしよう。自転車の暴走族て(爆笑!)。
組織ってなんだよ、栃木か?という彼女の台詞に、最近、そーゆーローカルヤンキーな話もちょっとしたハヤリだよな……などと思ったりする。しかしそもそもなぜ彼女がUFOにさらわれたのか判んないし(マイコに手を出そうとした男どもが消されたのは判るけどさ)、その危機を彼氏君がなぜ察知していたのかも判らないし……あれ?私ねむねむで、肝心なところ見落としてたのかなあ。

マイコさんは宇宙人の彼氏とヨリを戻して去っていく。恋するタダタカシが宇宙人に殺されちゃうかもしれない窮地に立ち向かったサイモンは、ついに彼に告白をする。
でも、別にね、どうともね、ならないのだ。ただ、タダタカシの態度は素敵である。彼は、ただ純粋に、俺のどこがいいんだよ、と本当に純粋に疑問を持つだけで、サイモンと友達同士であることは変わらない。またオヤジがおでんを作りすぎたから、来いよ。そのニュアンスはこれまでとちっとも変わらない。
恋人から友達に戻るのは奇跡ぐらいに大変だけど、恋人になることが出来ずにUターンするのなら……それはめちゃくちゃ切ないけれど、でも、でも……。
このラストシーンで、タダタカシの誘いに頷くサイモン……でも、その先に、彼はいないのだよね。タダタカシの家でおでんを食べて終わり、じゃないんだよね。そこに少し、彼らの道筋が別れること、大人になることを、感じなくもない。

サイモンには心を寄せてくる女子がいた。女子が少ない学校じゃなくて、大学進学を目指して通っている塾。つまりサイモンはタダタカシと違って、引く手あまたなのだ。
告白してきた女子が言った。「私、好きな人になら何でも合わせられる。性格も、髪型も。整形だってするよ。今は働いてないからムリだけど」サイモンは少し考えて言う。「好きな人に、好きな人がいたら、どうする?」彼女も一瞬、間をおいて言った。「応援するよ。好きな人には幸せになってもらいたいから」。
ああ、すべてがすべてが、凄く記憶にある、そんなことを思ってた、そう思わなくちゃダメだと思ってた、と言った方が正しいかも。好きな人のために自分自身を変えることも、好きな人の幸せを願って自分の気持ちを取り下げるのも、そんなことは出来ないのだ、この時にはできると思っていた、確かに思っていたけれども!!★★☆☆☆


サニー 32
2018年 110分 日本 カラー
監督:白石和彌 脚本:高橋泉
撮影:灰原隆裕 音楽:牛尾憲輔
出演:北原里英 ピエール瀧 門脇麦 リリー・フランキー 駿河太郎 音尾琢真 山崎銀之丞 カトウシンスケ 奥村佳恵 大津尋葵 加部亜門 松永拓野 蔵下穂波 蒼波純

2018/2/21/水 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
これは絶対、アノ事件が元ネタと思ったが、少なくともオフィシャルサイトにはそれらしきほのめかしは一切ない。そんなヤボなことを言う必要はないのだろう。気鋭の監督&脚本家が放つ“完全オリジナルストーリー”だというのだから、勿論その通りだし。
でも、アノ事件の衝撃を思い出した時に、彼女は何故友達を(いや、アノ事件の場合は友達ではなかったのかもしれない)殺したのか、そして大人になった時に彼女はその時の気持ちをどんな風に振り返るのか、ということはやはりすっごく気になったから。だからやっぱり監督さんもそんなところにヒントを得たのかなぁと思って。

小学生の女の子による、同級生殺害事件。ネット上に拡散された集合写真から特定された彼女は、“犯罪史上最も可愛い殺人犯”として、神格化される。右手で三本、左手で二本の指でポーズをとるその姿から、32、サニーポーズと呼ばれ、彼女自身もサニー、サニーたんなどと熱狂的な信者をネット上にふつふつと集めている。
でもそんなことは、確かに異常だけれど、ネット上だけで盛り上がっていたならば、よくある話に過ぎなかったのかもしれない。その熱意を、恋心を、想いを、行動に移してしまったヤツが現れなければ。

この境界線なのだ。ネットやアイドルとの接点や、そうしたものの怖さは。“普通”ならばその境界線は超えない。時にはその熱狂が明らかに異常だとしても、熱狂している彼らがそれを自覚し、ネット上や自制心の中に抑え込めていれば、それは単なる嗜好の自由に過ぎず、むしろ侵害してはならぬ個人の領域なんである。
でもその境界線は、情報化社会(なんて言葉さえ、今はなんと陳腐に聞こえるのだろう!)が進むにつれ、どんどん希薄になり、境界線なんてものすら意識しないことが“普通”になり……普通、というのは、大多数が共有する常識なのだとしたら、多数決でそれを得てしまったら、狂気だと思われていたことが、普通になってしまうのだ。

主演をつとめる北原里英嬢はアイドルには疎い私にとっては初見。なんでも秋元氏自身が彼女の熱意を汲む形で白石監督に売り込んだのだという。
年若い女の子が「凶悪」のファンだなんて、などと言うのはそれこそ陳腐な“普通”の枠にとらわれた感覚だろう。
秋元氏はそこに彼女の可能性を見出したのか、それとももともと秘蔵っ子だったのか判らんが、なんにせよ“体当たり”というアイドルから脱皮するにあたっての殺し文句をこれ以上なくゲットできた彼女は、したたかであり、幸運であるに違いない。

藤井赤理というのが、彼女が演じる役名だが、タイトルロールと言っていいだろう。ただ、彼女はサニーではない。人違いなんである。後に本物が現れる。それで拉致監禁されるんだから、とんだメーワクこうむった、どころじゃないんである。
ところでこれは北海道が舞台。白石監督は地元北海道にこだわるところがイイ。そして音尾さんを妙に気に入っているのか起用し続けてくれるところもイイ。ナックスさんの中で音尾さんのチョイスというのは、なかなかにオツなんである。
今回の音尾さんはなんと22歳の設定!思わず噴き出す!!しかしコワいチンピラ先輩というのはピッタリ過ぎて、年齢を感じさせない……てゆーか、もう音尾琢真のキャラである。素敵である。

赤理は、新米中学校教師。生徒指導に燃えているが、生徒たちは心を開いてくれない。てゆーか、彼女が気になっているのはただ一人、いつも一人きりでいる向井さんなんである。
そんな彼女に先輩教師の田辺は教師なんて当てにされてないですよ、と軽く言う。赤理ーがストーカー行為に悩んでいるのにも親身になってくれている彼は、しかしアヤしいとは思ったし、実際ストーカー犯として捕まるのだが、その直後に彼女はサニー信者たちに拉致されてしまうんである。
だったらこの同僚教師はなんだったんだという気持で……グルでもなさそうだし、安心させるための単なる小道具的キャラ??

舞台が北海道だから、雪景色である。拉致されるまではまだ街中の雪の積もり具合だったが、拉致先は豪雪!!てな具合である。
「凶悪」の最狂コンビ、ピエール瀧とリリー・フランキーの強烈さに圧倒される。「凶悪」とは逆で、ピエール氏演じる柏原が高圧的にサニー信者リーダーとして君臨し、そもそもリリー氏扮する小田氏はサニー信者であったのかどうかすら……。ちょっとオツムが弱そうで、「だからチンチン触るな!!」と柏原から叱責され続けている小田は、しかし突然キレると手がつけられない。一体この二人はなんでまたコンビを組んだのか……。

“サニー”を拉致し、信者たちを募り、暴力やエッチなことはナシで、一人一人との時間を設けるという、なんかアイドルとの握手会か、エッチはなしにしても逆デリヘルか、極端だけど(爆)、そんな感じで。だって赤理は柏原の趣味で乙女チックなピンクのミニドレスを着せられているし、アイドルなのかエロなのか、ってなはざまなのだ。
しかし早速危機が訪れる。最初に謁見した医者だという男に望みを託して助けを求めた赤理だが、その次の男がサニーに妹を殺されたということで、赤理に斬りかかり、その医者の男が刺されて死んでしまう。

勿論、柏原は救急車とか警察とか呼ぶ訳はなく、死体も含めて隠ぺいするために向かった先は、夏以外は寒々と閉ざされた海岸。そこでこっそりセックスしていた若者も巻き込まれ、事態は急変していく。
“サニー”が覚醒したんである。赤理はサニーじゃない。でも、もうそんなことどうでもいい。そこんところは、実はサニーじゃなかったことが発覚しても「俺たちにとってのサニーは彼女だ」ということを押し通した柏原と通じていた。
柏原はサニー信奉者だったのに、なぜそこはこだわらなかったんだろう。自分が間違ったから臆した??いや……本当に、誰がサニーでも良かったんじゃないかと思う。そして赤理がサニーとして覚醒して、まさにそれがサニーそのものだったから……彼はそれでよかったのだ。

赤理がなぜサニーとして覚醒できたのか、は、赤理自身に親に愛されなかった自覚があるというところが語られ、それがサニー信者たちに対する強烈な説法の説得力になってくるんだけれど、これがかなり口先だけで語られるだけなので、ちょっと不満が残る。だからこそ、本物のサニーが現れた時に、急に存在意義が薄くなってしまうのは、そこんところにあるんじゃないかなと思う。
パンチとハグをドラマチックに繰り出して信者たちをメロメロにしてしまう赤理はこの時にはまさにサニーそのものだったが、レズビアンとしてサニーに恋焦がれていた女性に真実が知れたら、そりゃあ、修羅場になるに決まっている訳で……。

と、いう前に。そうよ、本物のサニーが現れるのよ。そういう意味では、登場も遅いし登場尺も短いけれど、彼女こそが真の主人公だったのかもしれないと思う。
本物のサニー、門脇麦。あの時の、11歳で止まってしまっているような、妙に舌足らずで幼い物言いなのに当然今は24歳で、大人で、その色気が危うい魅力の彼女が圧巻である。

親友と逃避行、どこまでも逃げていけると思っていた。なのに、帰ろうと言われて、自分だって帰るつもりだったのに、寂しくなった、哀しくなった。もっと言えば……絶望した、ということなのかもしれない。
「反省してますよ。もう出し尽くしましたよ。」まるで11歳のままの幼い口調で彼女は言う。でも、この言葉が突き刺さった。「人を殺してしまったら、罪はもう償えないんですよ。」更生などという言葉は、許されない。どんなに反省しても、後悔しても、どこまでもどこまでも、追ってこられる。償え、償え、それは……死ねということ以外にないのだ。

赤理は教え子がハブられてて苦しんでいて、先生=サニーに憧れてその罪をなぞろうとしていることに危機を抱いている。本物のサニーが現れたことで、ニセモノになった自分を陥れられるといういら立ちも見せながらも、でも真実の苦しみを抱いているサニーに引きつけられずにはいられない。
本物のサニーの登場で当然混乱の度を極めて死者もバンバン出るんだけれども、もうそんなことすらどうでもよくなっちゃう。サニーにさせられていた赤理が、本物のサニーに出会った時、化学変化が起こり、なんてゆーかね、一心同体少女隊ですよ!!(これが判る人は何年産まれかなー)

そもそも、ネット上で盛り上がっていたとはいえ、赤理を拉致して楽しもうなんていう時点でのネット住人達は、まぁそこそこ年もいってたし、自分の中だけに閉じこもっていた感はある。
そこに割って入ったのが展開を大きく変える、ドローン少年、ドローンを駆使して事件現場に割り込み、突撃インタビューを試みるという怖いもの知らずの男の子である。
つまり彼は別にサニーの信者という訳ではなく、自分というものを誇示したいがためにこんな危険な(危険どころじゃない……狂気と殺戮の場所だ!!)ところに踊り込んだんである。

彼もまた赤理によって内省的な自分をこじ開けられた一人ではあるのだけれど、もともと信者ではなかったという部分が、やはり大きく違うと思う。
赤理に命じられて向井さんや本物のサニーとコンタクトをとっていく彼は、本物のサニーか否かという点にこだわって右往左往している根っからの信者たちとは違ってて、ラスト、赤理をドローンで救いだす場面も、サニーを救うってんじゃなくて、この事態から自分も含めて解放される、脱出する、っていう感覚が大きいのだ。

赤理はサニーから脱出し、教え子の向井さんを救いに行った。
最初こそは暴力映画っていうか、拉致監禁だし、ボッコボコだし、二人も三人も死んじゃうし、えげつなっ!!って感じなんだけど、結果的にはなんかファンタジー??って言いたいぐらい、先生と教え子ラブラブハグの大ハッピーエンドなんだよね。どーゆーことっ!!★★★☆☆


SUNNY 強い気持ち・強い愛
2018年 119分 日本 カラー
監督:大根仁 脚本:大根仁
撮影:阿藤正一 橋本桂二 音楽:小室哲哉
出演:篠原涼子 広瀬すず 小池栄子 ともさかりえ 渡辺直美 池田エライザ 山本舞香 野田美桜 田辺桃子 富田望生 三浦春馬 リリー・フランキー 板谷由夏 新井浩文 矢本悠馬

2018/9/17/月・祝 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
監督自身が惚れ込んで、リメイクの企画を熱望したという本作、なんとなくタイトルに聞き覚えがあるような気がしていたのは、気のせいではなかったのか。
あー、観ておけば良かったかなぁ。一時期はアーティスティックな韓国映画に妙にハマっていたのだが、ラブ系感動系があふれ出してくると、なんとなく食傷気味になって離れてしまった。特に難病モノとかは日本映画でもあまり手を出さないからなぁ。でもオリジナルでもリーダーの子はやっぱり死んじゃうのかな??

そもそもの韓国オリジナル版は、洋楽のヒットナンバーを散りばめたものだったという。それを日本の90年代に舞台を移し、多分監督自身の青春時代を彩ったヒットナンバーで構成した、というのが、満を持してやりたいこと爆発!!という気がして。
だって、既存の大ヒット音楽を自由自在にイキイキと登場人物たちに歌い、踊らせる楽しさは大根監督の大得意分野だってことは「モテキ」で証明されているし、韓国オリジナルは未見にしても、これは日本オリジナルとして胸を張って世界に出したい作品に仕上がっているんじゃないかなぁという気がする。

この頃、アムロちゃんがまだ10代で、小室サウンドが席巻し、奥田民生が脱力系のPUFFYを作り出し、小沢健二をはじめとした渋谷系が洒落た世界を作り出していた、そんな重層的な時代。
まだJ-POPという言い方はしていなかったと思う。そんな、ヤボな言い方は。J-POP前夜、アイドルではない音楽がアイドルのように席巻した、今から思えば相当に、凄い時代だったのだ。そしてそれはどれだけ世界に認知されているのだろうか??

監督はひょっとしたら、それをこそ世界に問いたいと思ったのかもしれないなぁ。それこそ今やK-POPが世界を席巻している時代。厳しい訓練によって完璧に仕上げられたパフォーマンスと、練りに練られた洗練されたサウンド。何度目かのアイドルブームを迎えた日本のヒットチャートに並ぶJ-POPは、残念だけれど見劣りすると言わざるを得ないんだもの。
勿論優れたミュージシャンはたくさんいると思うけれど、それが浮上してこない。浮上していたのが、あの時代だったし、それを人生そのものとしてイキイキと摂取していたのが、それこそカルチャーを作ったあの当時の女子高生、だったのだ。

劇中の彼女たちは私よりちょっと下ぐらい。でもこの数年の差、つまりこの時10代だったか20代だったかで、やはり全然違うのだ。監督の青春時代、と言ってしまったけど、監督の方が私の世代に近い。
つまり彼は、大人の入り口に立ってこの時代の音楽を享受し、それを、自分たちを楽しくするものとしてどん欲に摂取する10代の女の子たちを、見ていたのだろう。それこそ、どう見ていたのだろう。その当時から、こんな風に暖かな目線で見ていたのだろう、か?

だから私はルーズソックスも全然カスりもしないし、チェックのミニスカ、カーディガン、そういった、変貌していった制服時代の完全に以前にいる。「あなたたちが自由気ままにやっちゃったから」今は現代風の制服になった、と冗談めかして当時の担任は言うけれども、あながちそれは当たってなくもないような気がする。
ただ、自分たちでカスタマイズしてカワイイ制服に仕立て上げていた彼女たちに迎合する形で、最初からカワイイ制服を与えられてしまった世代が、彼女たち言うところの「大人しいよね、今の子たち」というのは、ひとつの方程式を見たような気も、するんである。

そんなことカンタンに言うのはイヤなんだけどね。いつだって今の若者は……と言いがちなんだから。
でも、まだ携帯も普及してなくて、ポケベルなんて信じられないものが最先端だったあの頃に青春時代を迎えた彼女たちが、まるで怖いもの知らずで、ウリをやらないことがマジメの明かしというすさまじい基準を作り、パンツぐらいは売るし、オッサンとデートはしてがっぽがっぽ稼いで、でもそのお金はひたすら、自分の楽しいことに使う、その中には大事な友達との時間も入っている、というのがね、もうなんか、即物的と純粋がメチャクチャなの。

「あの頃、ずっと笑ってたよね。なんであんなに笑ってたんだろう」それが、今のJKと呼ばれる子たちには見えない、と40代に突入してしまった彼女たちは思うのだろう。
そんな簡単には言えないことであるのは判ってるし、それこそ今のJKに怒られちゃうと思うけれど、携帯がない、ということは、当然ネットだのSNSもまだない時代に、見えない顔がなかった、お互い真正面でぶつかるしかなかった、という点ではヤハリ違ったのかなぁ、と思う。

担任の先生が久しぶりに会った奈美に、「あんたたちは全部顔に書いてあった。判りやすかったもの」と言うのね。愛しみを込めて。
うっるさくて、化粧だのおやつだの、もう、マトモに授業を受ける気もないような子たちだったけど、でも、あからさまだった。あっけらかんだった。単純にそうだったとは言い切れないけど、監督が言いたいのも、このあたりかもしれないと、思う。

全然物語に入れない(爆)。まぁつまり、ご存知のように(爆爆)、サニーと名付けられた仲良しメンバー(サニーは、ダンスイベントに参加するためのチーム名)6人、しかし今は誰一人として連絡を取ってなかったのが、奈美(篠原涼子)が偶然、母親の入院先にリーダーの芹香(板谷由夏)を見つけて、これが余命一ヶ月という状態で、彼女から、「サニー、あのバカども」に会いたいと依頼されちゃうんである。
結果的には奈美が見つけられたのはふとっちょ梅(渡辺直美)とニセパイを手に入れた裕子(小池栄子)のみで、アル中でボロボロの心(ともさかりえ)は、芹香の死後にようやくマトモな姿を見せることが出来、仲間の中で読者モデルとして活躍して一目置かれてた奈々は、最後の最後まで行方知れずのままである。
というのも、彼女たちの友情が一瞬にして断たれたのが、彼女のモデル生命を断ってしまった、顔に深い傷を負ってしまった事件があったから。

という事件は、ドラッグ中毒の女子高生によって引き起こされるというのだから、なかなかにディープである。しかしそんなことって本当に当時、こんなに普通に……あった、んだろうなぁ。普通にあった、とまでは言いすぎかもしれないけど。
奈美は転校生として、淡路島から東京に来た女の子だから、そういうことも含めてすべてがカルチャーショックで、いわば彼女の目を通して、当時の女子高生カルチャーを驚きをもって追体験する、という手法である。

奈美を演じる広瀬すずちゃんが実に爆発していてステキである。特に、みんなから仲間として認められた、敵対グループの女子に、白目向いて立ち向かっていくところは実に出色。お好み焼きの下にご飯をしいた炭水化物弁当を武器にするというギャグもサイコーである。
淡路島、もう方言バリバリ、母親がドリさんというだけで面白すぎるこの家族、お兄ちゃんがヒッキーで、エヴァオタクで、ノストラダムスを信じていて積極的に無職でいる。ノストラダムスは私も覚えがあるし、エヴァには衝撃受けたし、一歩間違えれば私も……みたいな気持ちになってたまらなくなる(爆)。あぁ、そう、あの時代を色んな年代でカスった人たちは、やっぱりやっぱり、たまらなくなるんだなぁ。

ガンで余命いくばくもない、というあっさりとした設定は、まぁあんまり好きではない。今は二人に一人はがんにかかる時代、付き合いながら普通に生きている人の方が今や多数派だしね。24時間テレビ的な見方はキライなのだ。
でも、それをなんか、見透かされているような気がした。勿論、20年も会ってなくて、会ったらもう一ヶ月なんて!!という梅ちゃんの台詞は、まさにまさに、なのだが、それさえも出来なくて、という経験はしてる。このぐらいの年になると、友人知人が若くして亡くなる、という経験は、割とそれなりの人がしていると思う。
つまりそれまで会っていなかったことを、ものすごく後悔するのだ。でも彼女たちは、後一ヶ月でも、会えた。会えなかった子もいるけれども。

「女同士の友情って、意外に薄いんだよな。あれだけべったりでも、卒業したらぱったり」みたいな奈美の夫の台詞には、ドキリとするものがある。奈美はそれに対して、自分たちにはそうなってしまった理由があったのだ、という言葉を飲み込むけれども、でもやっぱりそういう部分はあると思う。特に家庭を持つと、子供を持つと、そうじゃない女子との差はできるから……。
でも男子はどうなのかな。子供ではなく仕事が壁になって、それほど友情を継続できてはいないんじゃないかと思うけれど……。

芹香は高校時代の予言通り、“こんな性格だから”結婚はせず、会社をバリバリ経営して、でも両親を先に亡くして身寄りのないまま、この病院で痛みと不安に耐えて過ごしていた。
バリバリウーマンだから、奈美と再会した後はカッコ良さを崩さず、特に死後の、友人たちに残す想いとお金のこもった“遺産”は感動の嵐な訳だけど、勿論金持ちじゃない独女が余命いくばくもなくなっても、こんな芸当はできるはずもない。

自分のいつか来るその後を顧みてふっと、そのことには皮肉な思いもよぎるけれど、病気モノに肉薄しすぎず、あくまであの頃の楽しさを、今ちょっとしょぼくれてしまっていた彼女たちに注入したワクワクに浸りたいと思う。
最後の最後にもう会えないと思っていた奈々も見事合流、これはあり得ない夢のセッションである、20年前の彼女たちと今の彼女たちが、「強い気持ち・強い愛」で、大勢の女子高生ダンサーと共に、本当に本当に楽しそうに歌い踊るラストは圧巻!

芹香が言っていたように、ダンスナンバーとして選びがちなtrfではなく、オザケンが狙い目なのだ。今改めて、小沢健二は素晴らしいと思う。そしてこれが最後の映画の仕事となり、仕事そのものとしてももう多分……と思われる小室氏が、こうして、自身の曲がメインとしてではない作品を手掛けた、というのもなんか、感慨なんである。
勿論、今年のエポックメイキングな出来事だったアムロちゃんの引退を意識した、当時のアムロちゃん、そしてもちろんtrf、小室サウンドは満載なんだけど、でもメインも最後も小沢健二なのだ。なんかそれがね、結構凄いことなんじゃないのかなぁ、って気がした。★★★★☆


サラバ静寂
2018年 85分 日本 カラー
監督:宇賀那健一 脚本:宇賀那健一
撮影:八重樫肇春 音楽:小野川浩幸
出演:吉村界人 SUMIRE 若葉竜也 森本のぶ 斎藤工 川連廣明 泊帝 内木英二 美館智範 カトウシンスケ 影山祐子 高木直子 田山由起 細川佳央 杉山拓也 南久松真奈 高橋美津子 仲上満 古澤光徳 伏見狸一 ミヤザキタケル ヒス ソニー 灰野敬二 大貫憲章 仲野茂 今村怜央

2018/2/5/月 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
へー、斎藤工氏には気づかなかったわ。全然知らずに飛び込んで、ラストのキャストクレジットでもったいつけての斎藤工、え、どれ、って彼ほどのネームバリューならアレしかないが、実に楽しそうに悪役演じていて、判らなかったわ。唇厚かったかなあ、すぐ判るんだけど、あの唇で(爆)。

近未来、といった雰囲気なのだろう。遊楽法なる法律で、音楽、映画、小説、あらゆる娯楽が禁止されたいつの日かの日本が舞台。
遊楽法で娯楽が禁止というのも不思議である。遊楽禁止法とかいうなら判るけど。有楽町行きの筈のバスが非楽町になっていたりすることにふふふと思うが、物語自体は至ってシリアスである。シリアスというか、スプラッターと言ってもいいぐらいぐちゃぐちゃに殺されまくるんである。

遊楽法を厳しく取り締まる警察が、法の下に、こっそり娯楽を享受している人たちを見つけ出し、ぶっ殺す。容赦なく。逮捕するとか、罪に問うとか、そんなところをすっ飛ばす。
だって法を犯してるんだもーん、といった感じで、楽し気に、ぐちゃぐちゃにぶっ殺す。ぶん殴りまくり、頭にピストルぶっ放して血みどろ脳みそぐちゃぐちゃ(まではなかったかな、でもそういうイメージ)。それを斎藤氏が実に楽し気に演じているんである。剃り込み入れて革ジャンにオールドクラシックなサングラス、首をコキコキ言わせながら、あー気持ちイイ、あー疲れたと言いながらぶっ殺しまくる。

正直言うとこの杉村なる殺人鬼(だよな、もはや)の造形が、これはそれをネラっているんだろうけれどかなりマンガチックで、なんだかなぁと思っちゃうんである。
遊楽法のもとにとか言ってるけど、それを推進しまくっているのは彼一人で、一緒に出張ってくる警察官たちは、「死んでしまいますよ!」とか常識的なことを言って、腰が引けている。引けてるっつーか、そら当然の感覚である。
杉村という男一人だけが台頭している状況というのがキャラのマンガチックさ以上に説得力がなくって、だったら彼をぶっ殺せばいいんじゃなーい、とか、段々この残酷描写にマヒしてくるとそんなことを単純に思ったりしちゃう。

だって、遊楽法という法律があるにしても警察官たちはその場で殺すまでしちゃうことに明らかに疑いを持っていて、ただ単にこの殺人鬼、杉村に逆らえないだけでしょ。
日本にこの法律が施行されているというには、この狭い範囲での殺戮バトルもどうなのかなぁ。日本中に杉村みたいな男が配置されている??考えにくいなあ……。

かなり言い遅れたが、主人公は斎藤氏ではなくって、この遊楽法の状態にすっかり慣れ切った、というより、恐らく遊楽法より後に産まれたであろう、娯楽というものを元から知らない若者二人、ミズトとトキオである。
工場でネジをひたすら作っている二人。このネジが何に使われているのかさえ、知らない。テキトーに空き巣をしてヒマつぶししたりしている、まぁ言ってしまえばごくつぶしさ。後に音楽というものに触れた二人は、アンプ(だったかな)に使われているネジが同じことに興奮し、きっとこれだよ、こっそり作られているんだ!!と狂喜するが、そんなことは判らない。

ただ、彼らにとって音楽との遭遇はまさに衝撃だった。そこに、音楽を楽しむことをやめられなかったために殺されてしまったおっちゃんの死体が転がっていてさえ、音楽との出会いが彼らの魂を揺さぶらせた。
カセットテープ、CD、レコード、どれもが見たことのないものであり、たまたま電源がつながっていた画面から爆音ギターが飛び出した。「なんだこれー!!!」狂喜する二人。どこかで音楽というものを、知識としては知っていたのかもしれない、これが音楽かと、思ったのかもしれない。

遊楽法が、娯楽全般を禁止している、という設定なのに、本作で描かれるのはただただ音楽オンリーである。なら、音楽禁止っていう話にした方が良かったんじゃないか、と思っちゃうぐらいである。
これが映画であり、映画もまた遊楽法に引っかかるというのなら、ヤハリ映画ファンとしてはそっちの展開を期待しちゃうよね。でも杉村が執拗に嗅ぎつけるのは音楽を聴いているヤツだけである。

なんか片手落ちだよねと思ってしまう。娯楽全般を禁止、っていうのはさ、凄く重いことだよ。世の中全体の重苦しさをどれだけ表現できるかって話になる。
そして実際、音楽にしか焦点を当てておらず、一方で小説、映画、エトセトラを追う杉村のような男がいるのかもしれないが、ちょっと考えにくいよなあ。

つまり、作り手さんは、音楽が娯楽の根源だと、思っているのかもしれない。原始的な芸術という点では、当たってなくもないかもしれない。でもここで示される“音楽”のあまりの許容範囲の狭さには、音楽に限った上で更にこれかぁ……とも正直思っちまうんである。
それこそ音楽は他の娯楽に比べても、その種類というか、ジャンルは幅広い。正直本作の中で描かれるのは爆音パンクというか、爆音ロックというか、それだけで、ああ、陥りやすいなぁ、と思っちゃう。
なんでか判らんが、ロック系をやっている人たちほどやたらと、これぞ音楽、音楽が好きだ!!と凄く狭めて言いたがる傾向があると思う。……何か、クラシックやジャズなんて、過去の遺物、ぐらいなさ。

でも、ヒカリがこっそりとヘッドフォンで聴いていたのは、クラシックだったような気もするが。
ああ、なんか登場人物に全然行き着けない(爆)ミズトとトキオ、トキオの方が音楽にすっかり夢中になって、いつかミズトと世界中を回って、モテるんだ!なんて夢のようなことを語った。ミズトの方はむしろ、トキオとそんなことが出来たら楽しいだろうな、みたいな、友達としての感覚。

トキオは見つかってしまう。そらそうだ。もともとここはマークされていた場所。死んでいたおっちゃんは、ミズトとトキオが埋めたのだから。
トキオは抵抗するも杉村になぶり殺しにされ、それを目の前で見てしまったミズト。彼も散々にボコボコにされたのに、翌朝、目を覚ました。動かないトキオに絶望していたところに出くわしたのが、死んだおっちゃんの娘のヒカリ。二人はどこかに集まっている筈の、こっそり音楽を楽しんでいる集団、サノバノイズを探すことを決意する。

サノバノイズ、かぁ。あぁ、なんか若々しいネーミングだ(爆)。絶対、サノバビッチを思い浮かべてるよね。ああ、若いな、ちょっと照れちゃう(爆)。
それは森のはずれの炭焼き小屋にあるという。急におとぎ話感満載である。その炭焼き小屋で、音楽を愛する老若男女が日がな一日楽しんでいる、と。

その場面こそがクライマックスなのだが、こんな森のはずれの炭焼き小屋、しかも法に触れていることしてるのに、電源とかどうしてるのかなー、とかフツーに思っちゃう(爆)。いや、それこそクラシックやジャズの、アコースティックな音楽ならそういうのいらないじゃない。
音楽は電気通した爆音ロックだ!!みたいなことで押してきてるから、なんかついついそんなイジワル言ってしまいたくなる。あ、でも、急に祭りミュージックで盛り上がりまくるなんていうこともあったか。でもいきなりな感じはしたなあ。

サノバノイズにたどり着く前に、ヒカリは白いドレスを欲しいとミズトに言った。金ならある、買おうぜ、とミズトは臆せず、その高そうな店に入っていった。なんで金があったんだろう、いかにもビンボーそうなのに(爆)。
結果的には、まぁ、かなり予測できたけど、そのウェディングドレスのようなお洋服が、彼女の死に衣装になる。めっちゃ、予測できちゃう。この真っ白い、幸福マンタンのドレスが血に染まるのが、想像できちゃう。
しかもこめかみにピタリとピストル当てられてぶっ放されるという、きっと脳髄までぶっ飛んでるだろうという、えげつない血だらけ。うーむ、こういうのやりたいって、凄くよく判る、画的というか、女の子が白いドレス着て血まみれで、それを男の子が抱きしめてアー!!!みたいな。でも、いまだにこれかと思っちゃう。

そして、ようやく杉村が殺される。ようやく、反目した警察官にヤラれるんである。サノバノイズの場所を教えてくれた警察官である。そういう組織内の葛藤も、彼だけのうっすらとしたものだけにとどまり、正直不満が残る。
だって、疑義を抱えていた警察官たちはたくさんいた筈でしょ。で、そんな同志をまとめていた雰囲気を、案内された先で醸し出していたのに、そういうクーデター的なものもなく、あっさりと杉村死んじゃう。不満足ー。

ツメが甘いかなぁ、というのが結果的には正直な感想。語弊を恐れずに言っちゃえば、幼稚な感は終始否めなかった。近未来にしても、愚かなほどに慎重すぎる今の日本が、こんな直截的な未来を選択するとは思えない。
マンガチックというのも、マンガに失礼かも。娯楽を敵視するということの意味、それは日本以外のどこかの国が君主に従わせるためとか、あるいは宗教的な理由でとか、あるかもしれない。それこそ本当に、シリアスな意味合いで。そこまで考えての作劇とは思えないから、しっくりこない、リアル感がない感じがしちゃったんじゃないかなぁ。★★☆☆☆


斬、
2018年 80分 日本 カラー
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也 林啓史 音楽:
出演:池松壮亮 蒼井優 中村達也 前田隆成 塚本晋也

2018/11/26/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
やべっ、ちょっとねむねむになってしまった。なんでだろうなぁ。こんなにキリキリに緊張感に満ち満ちていたのに。夜のシーンの暗さに持ってかれてしまったのか。
しかしラストの方になると、夜も昼も朝も判らなくなる。絶対に朝の筈だし、朝の光が確かにさわやかに満ち満ちていた筈なのに、もうすっかり絶望の淵に立たされている杢之進の心理状況なのか、どんどん周囲が暗くなる。

ていうか、そもそも、中盤までやけにのどかに牧歌的な明るさに包まれているのが、妙に不安だった。ヘンな気がした。確かにそこは農村だし、今は太平の世で、杢之進はそんな中武士としての自分のありかたに苛立ちを隠せず、子供に剣を教えることで発散しているようなところがあるのだが、でもその風景はどこまでものどかである。
そこに、敵討ちを挑まれた野武士然とした澤村が現れ、不穏な空気が漂うけれども、でもまだ明るい。それは、杢之進が剣を教えているまだまだ子供である市助が、ホンモノの斬り合いに、まるでチャンバラ映画を見るように無邪気に興奮していたせいかもしれない。

あの時の杢之進は、殊更に興味ない感じを貫いていたが、どこか揺らいでいた。後から考えれば、あれだけ剣がたち、御政道のためにその腕を振るいたい、武士として名を上げたいと思っている彼が、この長く続いた太平の世のために、戦どころか一度も人を斬ったことがないということが、プライドを傷つけていたのか。
それを隠し続けて、でもそこに本物が現れてしまって。クライマックス、凄惨な惨殺が行われ、敵討ちを請う村の娘から、「そのぶら下げているのは飾り物かい!」と、これまたベタな台詞なのだが、そう言われて、ただ固まるだけだった、それこそが本心だったのか。

時代劇。確かに時代劇。塚本監督初の時代劇と言われれば、確かにおぉと思うが、誤解を恐れずに言えば、あの傑作、「野火」と変わらないように思う。不思議とロケーションさえ、ソックリな気がする。そしてゲロを吐きそうなほど凄惨な殺戮がごくごく内々で行われるのが、みょうにのどかで明るい光の差し込む自然の中だというのさえ、妙に似ているのだ……これは、ネラっているのだろうか??
そりゃ一応舞台設定は幕末だし、太平の世が続いて、でも世の中がようやく転換する時になって、今こそ武士の力が御政道のお役に立つ時なのだと、杢之進もそういう思いを持って今は農家の手伝いをしつつも江戸に出ようとしていたし。

そこに、京都の動乱に参戦しないかという、目の前で尋常じゃない剣の腕を見せられた澤村から誘われて心躍り。
確かに確かに、時代劇、なんだけど、でも結局彼らは京都どころか江戸にも出やしないし、そもそも澤村が腕の立つ仲間を集めたというのも、その仲間っつーのも一人も出てこないし、なんたって澤村を演じているのが塚本監督自身なもんだから、どことなくの怪しさが絶妙で、ナニモノ感っていうの?

結局ホント、コイツは何者で、何をするつもりで、そもそも京都での動乱に参戦とか言うには、そりゃ剣は立つけど着てる服はボロボロ、証になるものは何もない。
そして結局、災いの引き金を引いちゃう訳で。そして結局結局、この明るい農村(明るくなくなっちゃうのだが)から舞台は一歩も出ないのだもの。

時代劇、と聞いて、緻密なサムライストーリーを期待する人は、古今東西多かろうと思う。怖がらず、それを裏切る人だなぁと思う。カッコだけ時代劇で、「野火」で追及した、追い詰められた人間の、命を取るか取られるかの壮絶な心理戦、なのだと思う。
でもそれを感じさせないほど、池松君と塚本監督らが見せる殺陣は凄まじく、もうそれだけで騙されてしまいそうなぐらいなのだが(爆)、でも絶対に、違うのだ。

だって杢之進は最後まで人を斬れない。そのことに苦悩して、ついには発狂寸前(いや、発狂したのか)にまでなる。一方の澤村は、むしろそのことに対して非情過ぎる。いや、非情どころではない。何を躊躇しているのか判んないな、といった感じである。
しかしその澤村の狂気には見えない狂気が、この村の秩序をぶっ壊す。武士らしからぬ、いわば腰抜けの武士である杢之進こそが、この村の平安を守っていたのに。

そこにやってきたのは、いかにもチンピラ然としたこれまた武士崩れの集団。「俺たちは、悪い奴にしか悪いことはしない」と悪びれもせず言う薄汚れて目つき鋭いメンメンは、悪役商会か、まぁとにかくチンピラ集団って感じで、確かにちゃんと?時代考証をかましたカッコをしてはいるんだけど、彼らの登場が時代劇らしからぬを決定づけたように思えてならないんである。
杢之進はあえて彼らに近づき、酒を酌み交わし、村人たちとトラブルにならないように仲介をはかる。しかし村人たちは判りやすくこのチンピラ集団におびえ、むしろ杢之進に対していぶかしげな眼を向ける。

若い市助がケンカを売ってしまってボコボコにされちゃって、その時杢之進は熱を出して床についていて、その間に澤村が仇を討つ名目でヤツらをやっつけちゃうのだ。
それを興奮して報告する村娘のゆう(蒼井優)から聞いた杢之進は顔色を変えた。案の定の結果になった。確かに杢之進は人を斬ったことのない腰抜けの武士かもしれないが、百戦錬磨の澤村が、これがどういう事態を招くのか、判らない訳はない。村人たちの想いを汲む形であえて仕掛ける澤村が恐ろしいのだ。

そのことで、罪なき村人たちの惨殺を招いてしまう。勿論、それに対して何の悪びれもせず、哀しきことだ、ぐらいな顔して、でもそれに対して杢之進は、彼が、彼が、そもそもちょっとどうなのということは考えないのか。
杢之進、池松君のぼそぼそ喋り、絶妙にイラッとさせる。大人びているようで、結局は全然判ってない感じ。出立する日に熱を出しちゃう子供のような感じ。

そして……何度か差し挟まれるエロティックな描写は、最後は別れ行くゆうとの指なめなめでちょっとドキドキしたけど、えーと、なんつーか、オナニーしすぎだろ!(爆爆)。ここ、これは……眠くなってた時に、思わず目が覚めたっつーの(爆爆爆)。
ゆうとは、はっきり想いを交わし合った訳じゃない。それこそキスのひとつもやっちゃいないが、それこそそれこそ眠くなりそうな夜のしじまで、明日旅立つ杢之進の指を噛んで、って、まさかそこでなんか、熱が出る毒を仕込んだ訳じゃないよね……それはいくら何でも考え過ぎだろうか……。

てぐあいに、なんたってオナニーだから(爆爆爆爆)、やっぱりさ、やっぱり……杢之進は煩悩アリアリなんだもん。いや、武士が煩悩がないという訳じゃない。そもそも判んないけど(爆)、先述したけど、これはきっと、時代劇の形は借りてるけど、時代劇じゃ、ないんだもん。
杢之進の苦悩も、澤村の不気味さも、ゆうの単純な正義も、無頼者集団の言い分も、あまりにも、現代的、なんだもの。

それこそ、江戸なり京都なりに出張って、動乱とやらに参戦する描写が出て来たなら、違ったと思う。そういう気は、当然、ある訳がなかったでしょ。
彼らはここから出られないのだ。そんな力もないし、もう、なんていうかさ、時空を超越しちゃってるから。この人間たちの心理劇を映しだすための、舞台に過ぎないから。だから杢之進の心に従って朝になったり夜になったり、しちゃうのだ。

池松君が抜擢されたのは、なんか判る気がする。彼は、いい意味で、弱いんだもの。いや、言い方ヘンだな。弱さを体現できる人。ものすごくプライドは高くて、こうあるべきだって立っていられるのに、ちょっと不意を突くと、もうダメになる弱さを体現できる人。そらー、塚本監督につんと押されたら、イチコロだわさ。
正直言うと、蒼井優嬢は、もうちょっと、うん、なんつーか、もったいなかった、気がする。結果的にはこれは男子の物語なのよ。彼女は弟を殺され、それはいわば澤村のせいなのに、ごろつきたちを成敗してくれたと思ってて、最後までこの男のアヤしさに気づかない。
なんていうか、なんていうかさ!!結局、澤村の恐ろしさに、明確に気づいたのって、最後の最後で杢之進は気づいたかもしれないけど……もう一体、なんなの、なんだったのって!★★★☆☆


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