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「き」


2013年鑑賞作品

きいろいゾウ
2013年 131分 日本 カラー
監督:廣木隆一 脚本:黒沢久子 片岡翔
撮影:鍋島淳裕 音楽:大友良英
出演:宮崎あおい 向井理 本田望結 緒川たまき リリー・フランキー 松原智恵子 柄本明 濱田龍臣 浅見姫香 大杉漣(声の出演) 柄本佑(声の出演) 安藤サクラ(声の出演) 高良健吾(声の出演)


2013/2/19/火 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
予告編を見た時もうなんか既に、あぁ……あおい嬢、またこういう感じなんだ、と思ってて、そう思って対峙してしまったから余計だったかもしれない。つまり私はそういう悪い先入観で固めて見てしまうからいけないのかもしれない。
でもさぁ、ホント、なんでここ数年、いつもこんな感じなんだろうと思う。ナチュラル系キュートな大人ガールの風貌、夫や恋人ありきの立ち位置、さわやかなカンドーを呼ぶそれなりの展開。

それなり、というのはそれなり、なんて言ったらいいのか過激でもどん底でもないというか、いやそんなこと言ってしまったらいけないのか、その登場人物たちにとっては過激でどん底な世界なのだろうから……でもそうは見えない。
それこそ一冊の絵本を見ているような、言ってしまえば、キレイめの画の、ああそうだ、“女性映画”。この言い方はメッチャキライだけど、水曜レディースデーに女性客が集まるような、“女性向けの映画”。

そんなことはない、映画はそれぞれ独立して、それぞれの思いや成り立ちで作られているのだからと思うんだけど、なあんかここ数年のあおい嬢の演じる役柄が、言ってしまえば無難な、リスクのない、可愛くてナチュラルでそれなりのナヤミなんかを共感できる的な風に収まっているのが歯がゆくてならない。
本作は、それを画に描いたような、と思った。まるでそれを形にした、みたいに思った。なんて思ったのは、このヒロイン自体に共感できにくいというのも大きかったかもしれない。

見た目は、今まで見てきたあおいちゃんが演じてきたナチュラル系ヒロインに似ている。でもその掘り下げが、なんかよく判んないの。よく判んないというか、正直全然、判んない。
もう成年の女性なのに、夢見る少女と紙一重のようなキャラは確かに難しいのだろう。一歩間違えればかなりイタい女になりかねない。……ていうか、その一歩をちょこっと踏み越えてしまったように思えてしまった。宮アあおいというブランドで見えにくいけど、果たしてこのツマが本当に女性に共感出来るのか。

……むぅ。あおい嬢に対するそんなモヤモヤがなかったら、私はスンナリこのキレイめ映画に“それなり”に“カンドー”したのかもしれない。
設定自体は決して嫌いじゃない。ていうかこういう乙女チック、ロマンチックな設定はいくつになっても女子は大好物である。
出会った途端にプロポーズされ、結婚してからお互いを知り始める。つまり恋を始める。それなりの大人だからそれなりの秘密がそれぞれにある。そこでのぶつかり合いや葛藤がある……。
“出会った途端にプロポーズ”“結婚してから恋を始める”もう、これは女子を萌えさせる最大のポイントでしょ。でもそれが、それこそが、最大重要事項のそれこそが……なんで?と思ってしまったら、もういけない。

なんで彼は彼女を見初め、結婚しようと思ったの?と予告編では早々にお披露目されるこのプロポーズシーンは作品ではかなり後半に置かれ、つまり夫婦としての二人の山あり谷ありが示された後、なんである。
始まりはこうだったから、なんていうズルさを感じたけど、だからと言って、彼が出会ったばかりの彼女になぜプロポーズをしたのか、という疑問は消えない。
一目ぼれ、運命を感じた、そんなことはいくらでも言えるけど、この場面を見せられるだけでは、さっぱりそんな具合には感じないのよ。ことに彼は大失恋をしたばかりなのだから……。

……どうも先走り気味なのでちょっと軌道修正。とりあえず人物紹介をば。彼=向井理=ムコ。彼女=宮アあおい=ツマ。このムコとツマという言い様はそれこそあおい嬢の「ツレがうつになりまして。」のそれそのものだと思ったが、そのままそれぞれの名前なんである。
でも観ている時にはそれにイマイチ気付けなかった。だからそれも、なんかこの二人、こんな呼び合い方してイタいよなー、とかしばらく思ってた。こういう言葉遊びは映像の場合は難しい……。

ムコは背中に精緻な鳥の刺青をしょっている。その秘密は中盤明かされるが、年上の夫持ちの画家と燃えるような恋をしたんである。お決まりに夫に遠ざけられ、後半、ムコはその夫から妻を助けてほしいと手紙をもらって再会を果たす。
その妻は緒川たまき。本作の中で、私的に最も印象を残した絶世の美女。まあ正直言って彼女が最も本作の非現実的さを、あからさまに体現したとも言えるんだけどさ。

緒川たまきは奇跡のように美しく、亡くした我が子を思ってさまよっていた歳月を夫のリリーフランキーから語って聞かされるだけで、めまいがするほどその妄想の中の彼女さえもが美しい。
ムコと彼女との恋の時間は尺的にはさらりなんだけど、ツマが嫉妬に燃えるのは充分なほど、あまりに濃密で、そして……なんか、そう、緒川たまき自身が体現するような、ロマンチックすぎるからこそに非現実的なそれなのよ。

……どうも、物語自体が何なのか自体が判らなくなってくるけれども。でも、実際、私、あんまり判らない、これが何を言いたいのか(爆)。
それというのも、まあ、ムコに関してはそれなりに人物像も背景も判るのさ。新進の小説家だけどまだまだ食えず、郷里に帰って介護施設に勤めながら小説を書いている。
可愛がってくれた叔母の自殺を目の当たりにしたという過去と、先述の大恋愛と大失恋の経験がある。まあある意味、これだけで充分でしょ、という気もする。
郷里なのに家族が出てこないとかそんなことを言い出したら、そんなん出してきたら単なるホームドラマになっちゃうでしょと、これは夫婦の物語、彼らの周りも奇妙なほどに夫婦のみで固められているしさ、と思うし。

そう、奇妙なほどに、なんである……。

まあそれは後においといて。そんなそれなりに判るムコに対してヒロインであるツマが、これがさっぱり判らない。いやもちろん、彼女がセンシティブな感性の持ち主で動物だの植物だのの声が聞こえるなんていうのは、楽しい吹き替えの効果もあいまって、それこそこれは実に映画的だよな、と思う。
マヌケな顔したワンちゃんが両手を上がりかまちに置いて身を乗り出し、「何か肉っぽいもん、くれよ」なんていうシーンは思わず噴き出しちゃったもの。
そしてムコさんとその祖先が長く長く住んでいたらしいこの大きくて古いお屋敷の庭に、これまた長く長く生きているソテツさんと夜のおしゃべりを楽しむ。ソテツさんの木肌、冷たくて気持いいよと寄り添うツマは、まさに画的には完璧なナチュラルヒーリングな構図である。……だからこそイラッとくるんだけど。

そう、だからこそ、イラッとくる。この設定は、確かに魅力的だけど、結局なんだったの?という思いもしてる。
……あのね、本作に関しては、人気原作があって、著名な作家で、あおい嬢も向井氏もお気に入りの本だというんだから、きっと本当にステキな一冊なのだろう。……何かね、原作との違い、というか、ニュアンスとか、何かそういう部分かもしれないけど……が、気になっちゃうんだよね。
これって原作ファンにはどう思われてるんだろ、というのは、原作がある映画に関してはどうしても気になるところなんだけど、特にこのツマの造形がさ、なんかテキトーな感じがしちゃったんだもん(爆)。
こんな感じの映画でいつものとおりに、あおいちゃんに鼻を赤くして涙をこぼされると、ああ、またか……と思ってしまう自分の鬼畜さにもイラッとくる。

でも、でも、でもでもさ、このツマは、一体、何なの?いや、このタイトルこそが彼女を示してる、心臓病を患って入院していた頃に、自分を訪ねてきてくれたきいろいゾウが空を飛んで遠いところに連れて行ってくれた。
きいろは、月を写した色。本当はアフリカの仲間と同じ灰色。そこに戻っていったゾウに、いつか会いに行くからと幼きツマは約束して別れた。

で、大人になったツマはもういきなりムコと結婚してるし、中盤さらりと描かれる、ツマの両親に結婚を反対されているままなのも、なんで??と単純に思っちまうのさ。
まあ、新進の小説家なんていう不安定さだからというのはあるにしても、やたら厳格に「娘はやらん!」っていつの時代の台詞よ。そんなに全く説得できないほどの事情が全く判らない。ツマはそんなお嬢様なの??
いや、彼女が彼の腕をつかんで出て行ったその玄関は、フツーの一般家庭って感じだったけど……。そのシーン一発だけで、ムコと共に彼の郷里に引っ込んで、「グンナイベイビー」の歌詞♪いつか君のパパも判ってくれる、に涙する、なんて……なんか、ツマの娘としての、というか、成人した女性としての立ち位置が全然わかんないんですけど。

ツマのキャラ設定として恐らく最も重要に割かれるのは、月の影響を色濃く受ける、という部分である。満月と共に生理を迎え、まあ女性は生理で身も心も大きく左右されるというのは確かにあるけれども、それだけでツマの数々の愚行を説明されちゃ、女としてはかなわんなあ、という気持ちになる。
愚行、などと単純に言っちゃったけど、だって判んないんだもん、なんで彼女がそんなことしちゃうのか。いや、それこそ、説明なんてつかない、理由なんてない、ただイライラしているから、そしてムコの秘密、心に秘めた恋に嫉妬しているから、という“言い訳”はつくのかもしれない。
でもそれ自体イヤだし、納得行かないし、正直観ている時にはそんなことすら頭にのぼらない、突然の“愚行”に、え、え、なんで?と驚くばかりなんだもの。

「ムコが私の話を全然聞いてくれない」と突然機嫌を損ねて泣き出す場面は、まあそんな感じ、月のサワリかと思えなくもなかった。でもそれも後から思えば、ムコのツマに対するなだめ方とかも、まあサワリだから仕方ないか、みたいな感じがちょっとムッとする気持がないでもない。
で、まあそれはいいとしてもさ、屋根裏にあるいかにも古そうな祖先の家族写真を叩きつけたり、不機嫌モードになって水道の蛇口を開けっ放しにし、それを止めるムコの手をグラスや食器でガンガン殴り続けたり、な、な、なんでよ??と、その豹変についていけなくなる訳。

いくらセンシティブでも、月の影響を色濃く受けてても、動植物と会話できても(これは関係ないような気もするが)、これって、一体何なの……と。
特に手を殴りつけるシーンはやたら執拗だし、意味が判らんし、あおい嬢は鼻を真っ赤に染めた得意の泣き演技でどや!って感じで……意味が、意味が判らーん!!

動植物の声が聞こえていた彼女が、このシーン、あるいはこの後にムコが東京に出張に出かけたのを境に、それらが一切聞こえなくなる。
特に、親身になって相談に乗ってくれていたソテツさんの声が聞こえなくなったのは、愚かなマネをした妻を諌めるためだったのかと最初は思ったほどにちょっとキツくて、でも予測していたよりもツマはその大きな現象の変化にショックを受けないんだよね……ていうか、まるで気付いてないがごとくにさらりと流す、てか、気付いてないがごとくに会話を続けている、というか。
これは、観客に動植物側の会話を伏せるようにしたのかとも思ったが、そうする意味も不明だし、やっぱり彼女自身に声が聞こえなくなったんだと思うんだけど。

最初にね、この設定に、ああこういうの、子供モノにあるあると思って、そんなこと思っちゃうこと自体がツマンナイ大人なんだけどさ(爆)。
で、そういう場合、特に女の子の場合、大人の女になったら、つまり処女を失ったら聞こえなくなる、というのがお決まりっていうかさ、あるじゃない。でもツマはもう大人の女で、ムコとの睦みのシーンも何度か出てくるし。

この何度か、ってあたりが、そんな予測をしてくる向きをきっちりと否定する意味合いを感じなくもなくて。まああおい嬢はやっぱり背中だけで、あんな色っぽい向井氏に愛撫されてもあえぎひとつ聞かせず、さらりと少女のような顔して受けてるのが小面憎いんだけどね。
あ、でも、それが、そういうことだったのかなあ。セックスしてても、彼女はただそこに愛されている喜びを感じているだけの幼い童女だったのだと考えると、嫉妬を覚え、突然愚行に走り、旅に出る夫を術もなく見送る彼女がその後、一切声が聞こえなくなるのは、そういうことだと、メッチャ強いて思えば、思えなくもないかなあ。

先述、っつっても昔のことのように感じるが、周りも夫婦で固められている、ってね。柄本明と、松原智恵子の夫婦、ボケてしまった妻と二人仲良く暮らしている夫は、ツマとムコ夫婦と仲良くしていて、ツマが一人の時にも口実をつけて訪ねては、お茶ならぬビールを一杯もらって帰ってゆく。
柄本明も松原智恵子もとてもステキだが、ツマが彼らのことを、「優しい」「可愛い」で片付けてしまうのはちょっと引っかかる。ボケてしまって、冷奴にミロをぶっかける奥さんの話をする柄本明に、「やっぱり可愛い」と微笑むツマ。うーむ、確かに可愛くもなくもないが(ん?どっちだ??)。

でもやっぱさ、これをさ、“可愛い”で片付けてしまうのは、ズルいと思う。そしてそんな奥さんを介護している柄本明を、口は悪いけど、“優しい”で片付けてしまうのも。
ムコの勤める介護施設の描写もそうだし、まあテーマがそこじゃないんだから仕方ないのかもしれないけど、でもそんな要素を出す以上は、甘さを感じさせてしまうのは、やっぱり良くないと思うんだよなあ……。

個人的に最も好きだったのは、美しき子役俳優、龍臣君の演じる大地君。授業で読み間違いを笑われたことで「まだ子供なのに、こんなことで注目されてしまう」ことを重く受け止め、学校に行けなくなってしまった繊細な子。
まあ大人ならば、なんだそんなこと、人気者になったんじゃん(とは、ツマも言ったし)、他に興味が移れば忘れるよ、と思っちゃうし言っちゃうもんだが、振り返って考えてみれば、子供にとっての“そんなこと”は大きく、“他に興味が移る”までの期間は、気が遠くなるほど長いんである。
ツマが彼の話を受け止めつつもムコが彼女に出来るようには励ませないこと、大地君がそんなこととは関係ナシにツマに恋していること、そして乗り越えてこの地を去る際にツマに残すラブレター、……全てがキュンキュンの萌え萌えである。

彼が乗り越えるキッカケは、ムコが介護施設の発表会で披露したオンチのパフォーマンスなのだが、正直それはあまり心に響かない(爆)。
「判りますか。スイカが好きとかそういう意味じゃない好きです。だから早く大人になりたい。ムコさんがうらやましいです」てな内容の“ラブレター”にキャー!!!と萌える。
あーん、こんなラブレター、コドモに金払ってもイイから書いてほしい!(爆)。彼にまとわりつくナマイキな女の子もいいキャラだし、基本は女の子好きなのだが、この場合は彼が余りに萌えるので、逆にジャマ(爆)。

設定的にね、西訛りなのね。なんとなく、なんとなく、なんとなーく、これにダマされた気もしなくもない(爆)。ツマもムコもとてもキュートで可愛いエロキューションだけど、それだけにダマされた感が強い(爆)。
でも二人はどこで出会ったの?なんか東京で出会ったように見えたから、後から思うとあれ?と思ったけど、彼が地元に戻ってから出会ったの?どうもそのあたりの展開の距離空間もピンと来ないんだよなあ……。

実はね、冒頭があおい嬢が風呂から飛び出してくるシーンだったからさ、背中ヌードで、それなりに期待させた訳さ。おっ、彼女、そろそろ覚悟決めたか!と思ったら、その後二、三回あるセックスシーンも見事に背中だけだった上に、先述がごとく、“セックス”って顔さえしなかったからさ……。
なんか、なんだったんだろって、感じが最後までつきまとっちゃってさ……。だってやっぱ、結婚、恋、少女時代、大人の女、それにこの要素ってメッチャ大事じゃん。なのにさあ……。

でね、動植物の声が聞こえる彼女が、冒頭で風呂に浮かんだ沢ガニを大騒ぎしてムコに教えて、真っ赤に“かまゆで”された彼?を「明日葬式しような」とムコに言われて、ウン、とニコニコうなずく。
……動植物の声が聞こえるほどに繊細な彼女、庭に水をまけば方々からありがとうの声が聞こえるステキオープニング、なのに、沢ガニの壮絶死にニコニコ、土に埋めればパンパンと手は叩くけどやっぱりニコニコ、まあそんな声が聞こえないフツーの女ならそれでいいけど、聞こえるんだと思うとメッチャ残酷な気がしてしまう……なんか、なんか、どーにも納得いかないぞ!!★★☆☆☆


奇跡のリンゴ
2013年 129分 日本 カラー
監督:中村義洋 脚本:吉田実似 中村義洋
撮影:伊藤俊介 音楽:久石譲
出演:阿部サダヲ 菅野美穂 池内博之 笹野高史 伊武雅刀 原田美枝子 山崎努 畠山紬 渡邉空美 小泉颯野

2013/6/19/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
作品の情報をキャッチした時から、かなりの期待度。中村作品はその最初の頃こそちょっと肌合いが合わない感じがしたんだけど、「ゴールデンスランバー」「ちょんまげぷりん」 の二本で、もうすっかり次回作が楽しみな作家さんになったんだから、私も単純だよなーっ。
つまり、その共通点は涙、涙。壮大だったりコミカルだったりしても、どーっと泣かせてくれるその気持ち良さ。

で、足を運ぶ前にテレビスポットでやたらと、号泣女子の観客をフィーチャーする宣伝展開で、うっ、やばしと思う。
きっと相当泣けるだろうとは思っていたが、こうして先手を打たれてしまうと期待が不安に変わって、身構えてしまうのが私の常なんである。
うー、やめてよーと思いながら足を運び、案の定、なんか身構えまくって、あんまり泣けなかった……。ちっ、気持ちよく号泣したかったのに。
あーいう宣伝の仕方はホントやめてほしい。でもそれで泣けなくなるのって、おかしいのかな??

いや別に、泣ける泣けないが作品の良さの基準になる訳じゃないんだけどさ。
本作は実際の人物、しかもかなり直近の人物をモデルにしていて、その成功秘話は現代の日本、のみならず世界も、かもしれない、を、様々に映し出す鏡で、ある意味ではこれを単純に、成功一代記とか、これが正解とか、言ってしまう段階ではないのかもしれないとも思う。
無農薬は理想だし、それを想像を絶する努力によって成功させた木村さんはもちろん、もろ手を挙げて讃えるべき人物だけれど、これまで農薬を使ってきた農家、その使用程度もそれぞれの考えやそれこそ努力やプロとしての見極めがあるに違いなく、つまりプライドがあるに違いなく、こうして無農薬ということだけに、もろ手を挙げて讃えてしまうことに対してはやはり危険度を感じてしまう、のは、弱きかな?消費者にとっては無農薬の方がそりゃいいに決まっているんだけど……。

でも経済という面からいうと、やっぱりコストがかかるだけ価格も高くなるのは当然で、全てのリンゴ、のみならずすべての作物を無農薬にする訳にはいかない。
それが必要な人のために作られているんだという線引きがきっちりとなされないと、やはり危険だと思う。
やっぱり、ね。特に日本人、特に女子供(自嘲。)は、これが百パーセントだと飛びついちゃうトコがあるから、さあ。

なんて思っちゃうのは、リンゴも作ってる果物王国、福島が実家にあるゆえだろうか……。
福島のリンゴもすんごくおいしいんだよ!無農薬とまではいかないけど、凄く考えて、必要なだけ、出来るだけ無害のものを選別して丁寧に育ててる。
そういうことを考えてしまうから、なんとなく、ただ無農薬、バンザイ!とか言われそうでヒヤリとするの……。

いや、ね。もちろん本作の作り手はそんなことはちゃんと判っていると思う。それは見れば感じる。あくまで無農薬農法にこだわるのは、農薬散布で体調を崩してしまう奥さんを思ってということが、きっかけであったこと。それで押している。
まあ、それでウッカリ始めちゃったことで、つまり、木自体がもう農薬を使った栽培に後戻りできない状態になってしまって、余計に後戻り出来なくなってしまった、ということもきっちり示してるあたりも上手いと思う。
それが涙を誘う部分でもあるしさ!いや、上手いなんて言っちゃいけないのか。これは実話なんだから。

でも確かに、農薬を使った作物うんぬんに関してはね、本当につい最近、映画の中で見たからさ……。
しかもドキュメンタリー映画。カネミ油症を追ったドキュ で、それによって子供たちも体質が化学物質に対して過敏になり、無農薬の米を栽培し始めた。
その味の違いが判る、と彼らが言った時、農薬のとがった味がしないんだと言った時、ゾッとしたんだよね。

私もアトピー持ちで皮膚が弱いし、農薬散布で体調を崩して寝込むばかりか、皮膚がじゅくじゅくとかぶれている奥さんの描写は、すんごく胸に迫った。
皮膚って、やっぱり判りやすくおぞましい。特にやっぱり女子の場合は……。演じるのが化粧品メーカーのCMでもその雪白の肌をみずみずしくさらす菅野美穂だから、余計に説得力があるんだよなあ。

そうそう、菅野美穂!彼女を映画で観るのは久しぶり……なのは、テレビ局系の大メジャー作品はついつい避けちゃうせいもあるけど、彼女のような素敵な女優さんは、もっともっと、いい作品に、作家性の強い作品にも起用してほしいと切に臨む!
まさかそのお相手が阿部サダヲだとは思いもしなかったが……いやいやいや、嬉しいのよ、ホント!

彼らが彼らとして登場するのは映画の序盤の後半、あたりから。結構丁寧に、彼らの、というか主人公、秋則の子供時代、学生時代を活写する。
時計でもなんでもかんでも、どうなっているのかバラバラに分解してみないと気が済まない男の子。
バイクやアンプをいったん分解して強力なものに作り替える、つまりはバージョンアップに鼻高々、なのにそれはいつも失敗して、バイクは暴走、アンプは爆発。
それで叱られたことよりも、その失敗自体に落ち込むような男の子を父親は叱り飛ばしたけれど、母親は優しく見守っていた。

いや、もう一人いた。ケラケラと「ばかでねーの」と笑っていた同級生の(?ん?後輩?)美栄子。気づくとビックリするほど近くにいて、ケラケラケラと笑っていた。
この笑いがまさに美栄子で、彼女はいつも、秋則との見合いの席で再会しても、夫が色々失敗しても、キザなことをつい言っちゃっても、いつでもケラケラケラと笑って「ばかでねーの」と言うのだった。
最初にその言葉を、学ランと紺サージの制服同士で聞いた時、秋則は、そうか俺はバカなんだ、と嬉しそうに悟り、バカだから、いろんなことをもっと知りたい!!と天に向かって叫んだんである。

見合い相手に指名してきたのは美栄子側だし、この学生時代のエピソードを見ても、彼女がどうやら彼のことが、この時から好きだったらしいことは明らか。
なんか、学園のアイドル的な風情なんだよね。少なくとも見合いの席にバイクで送ってきてくれた秋則の親友、もっちゃんは、「木村美栄子……!」とボーゼンとする。

秋則はリンゴ農家の次男坊。採算性の合わない農家を嫌って東京に出た彼は、何でも分解して解析するその理詰めの性格を生かして、嫌われ部署でソロバンはじいて「これもこれもムダだよー!!」とイキイキ仕事していたんだけれど、美栄子と再会してポーッとなってしまって、この婿入り縁談をあっさり快諾。
妻が農薬散布のたびに調子を崩すことを知ると、まず減農薬からスタートして、農家の若手を集め、農家の未来を変えるぞ!!と雄たけびをあげる。そこまでは良かった、んだけれど……。

まあ、それ以降はお定まりの、予測通りの、転落人生。ていうか、減農薬から一歩、どころか究極に踏み込んで、無農薬に着手したことが彼の人生を狂わせたんだけど。
それは一冊の本との出会い。森に生えている木は農薬なんかいらないとか、もう既にこの本に書いていたんじゃないかと思うけど(ページをちらりと見せているだけだったから……ゴメン、うろ覚え(爆))、後に彼が獲得する、森の法則ともいうべき手法はここには、書かれてなかったのかなあ。

農薬の代わりになる、つまり化学物質ではない、人間の口に入るもので害虫を撃退するものを探す、地道な実験が始まる。
その間は当然、作物は実らない。畑の四分の一だけを使ってやっていたんではらちが明かなくなり、義父に頼み込んで全部の畑で試行錯誤を繰り返すようになる。

この義父、奥さんのお父さん、つまり、秋則の婿入りを娘に頼み込まれて(ってことだよね)彼を迎え入れた舅、演じる山崎努がメチャ良いの。
彼はね、最後まで婿を悪く言わない。最後まで、彼を信じて、思うようにやらせる。成果が出なくて、電気代も払えなくて真っ暗な中で生活することになったとしても。
ふがいない息子をやってしまったと実家の両親が土下座をしても、私がやれと言ったのですから。彼は私の息子ですから、と。

この山崎努が最も、泣かせる人物だったよなあ。彼は何をもって、そこまで婿を信じることが出来たのかというと、正直、判らないの。結局、彼は婿の成功をちゃんと見ることが出来ないまま、この世を去ってしまったしさ……。
体調を崩して入院したことがキッカケで、痴呆症を患ってしまった、というのは、それこそ現代日本の、あるいは世界の、人生の最後の過ごし方、終末医療、の問題点を判りやすく示す要素。
誰もが皆、本当は病院なんかで死にたくない。住み慣れた自分の家のお布団の中で死にたいのに、それがかなわない。今はそうしたことも、選択肢が少しずつ出来てきたけれど、この当時はまだまだ……。

ただ、何よりの救い、あるいはちょっとワザとらしいほどの泣き所は、無農薬栽培に十数年目にして初めて成功、「情けないほど小さいリンゴ」を握りしめて、その指がほどかれないほど強く強く握りしめたまま、息を引き取ったこと。
このシーン、かなりいきなり死んじゃってたっていうシーンに突入するので、この感動的なシークエンスもまたかなり唐突だったのがウラミが残るトコだけれど……もっともっとワザとらしいほどやってくれたら、号泣出来たのにーっ(つまりそこかい……)。

まあでも、やはり号泣ポイントは、リンゴの花が咲いたとこ、だよね!花が咲きさえすれば、そこまで、いけなかったんだもの。
去年より葉っぱの状態がイイ、今年こそは花が咲く、それが口癖だった。実がなる、なんていうのはその先の話で、とにかく花が咲くまでにこぎつけること、だった。

つまりそれだけ、100年間、人間が品種改良を繰り返しきたリンゴは、傷つきやすい乙女のように、手をかけてやらなければ実がなるどころか、花が咲くところまでさえいけない、というのが常識だったんであった。
害虫駆除の自然物質を探す地道な努力が実りかけたと思った矢先に大量の害虫が発生する、見るだけで鳥肌どころか湿疹がぶつぶつ出来そうなゾゾゾな描写があったりと、花が咲くどころではなくて。
何より辛いのは、それでなくても村社会の中で、村八分にされることで……。

でも、実はそれにへこたれたのは秋則だけで、舅は最後の貯金も黙って取り崩し、婿を信じて支え続けた。奥さんは「貧乏だけならいくらだってガマンできるのに……」と、夫から別れを切り出されたことにショックを受けた。
それは、あの、号泣女子続出のテレビ宣伝にも効果的に使われてた、「(無農薬栽培を)あきらめるなんてヤだ!だったらなんで私たち、こんな貧乏してるの!」と叫ぶ長女の場面にある訳で。

この時この長女はストレス性の発熱を発症してて、保険も何もなく、隣人は車さえ貸してくれず、走って走って救急病院まで運ぶのね。
で、ストレス性だと知って、もうお父さん、うちひしがれちゃって……。
つまり、長女の必死の訴えも彼のモチベーションにはならず、自身の情けなさをより痛感することになって、事態はどんどん悪化、もう彼は、自殺までしようとしてさ、こりゃヤバイと。
いや、現時点で木村さんは生きてるんだから、死ぬわきゃないとは思いつつも、どう収拾つけるのかなあ、とハラハラな訳よ。

秋則は自殺しそこなった森の中でリンゴの木……じゃなく、クルミの木だったけど、とにかく害虫にもやられず、病気にも犯されていない木を見つけて、なぜなんだと、死のうとしたことも忘れて考える。
足元にはふかふかの腐葉土。雑草を抜いてみると、長々とした根がゾロゾロと出てくる。
彼は目からウロコが落ちる。不自然な状態だからこそ、不自然なほどに病気にもなり、害虫(まあこれも、人間にとってだけだけど)がついたんだと。自然の状態なら、木は茂る。当然のように。

ちょっと、あれっ、と思ったんだよね。だって、先述したけど、なんかそんなようなことを書いてた本を手にしたから、無農薬に踏み込んだんじゃないかと思ってたから。
そしてもう一つ、100年もの間、品種改良され続けてきたリンゴは、森の中で自然に育つような木ではないからこそ、苦労していたんじゃないのと。
だから、その本を読んでも、彼は“自然と同じく育てる”発想に至らなかったんじゃないのと。素朴にギモンだったんだけど……。

まあ、でも、つまりは土だと。基本の土を作るための、雑草を生え放題にすることだと、つまりはそこが抜け落ちていたってことだったのかもしれない。
雑草=悪だというのは、雑草、っていう言葉の響き、そこからくるイメージの悪さもあいまって、判る、確かに判る、のよねー。
化学肥料の替わりに、しかも生きた天然肥料のために、大豆を巻くと鳥が集まり、ふんをし、まあついでに大豆も生え放題、ジャングルのような高さに草が生え放題。
秋則が子供の頃は害獣として捕獲を命じられたネズミや、蛇や、ウサギまでもが闊歩する。
雑草生え放題のアンタの畑のせいで、蛾が集まってきた!と隣の農家からクレームがくるも、「よく見てください」蛾はみんな、秋則の雑草生え放題、無農薬のパラダイスに向かっていたんであった。

「その頃から周囲の目が変わりだした」というのが、まあ判りやすくて。
親友とはいえ、一時見捨てていたもっちゃんが、秋則の替わりに滞納していた電気代を払ってくれて、ある日突然、電気がついたり、自分が甘やかしたせいだと自責の念に駆られて、息子を突き放した母親が、米をこっそり置きに来ていたり、銀行の支店長が「今回は利息の支払いはいりません。そこまで鬼じゃありません。子供さんにランドセルを買ってあげてください」と言ったり。

……この最後のエピソードに至っては、いくらなんでもとも思うが、それが実話ということなんだろーか。
これは「人間はみんな優しい」てんじゃなくて、「人間はみんな都合いい」てことだと思うが……。
でも、そういう忘れっぽさ、変わり身の早さ、と言ったらワルいだけだが、でもそれも、いいように解釈したら、日本人の良さと、解釈できるのかな……?

普通に考えれば、メッチャ皮肉っぽい描写だけど、それをテライなく、いい人、優しい人たちだと、ストレートに示しちゃう、臆面のなさ、言ってしまえば無神経さが、いい意味で、いい方向でプラスに働いたのかな、と思う。
確かにそういう皮肉を考えず、単純に善悪を考えるのが日本人のいいところであり、……悪いところでもある場合、究極に悪い方向に行っちゃう部分ではあるんだけど、この場合はポジティブに考えなきゃ、ね。

ここで最初に実った無農薬リンゴが「情けないぐらい、小さかった」というのはまあ当然ともいえ、そこからどうやって、商品価値として見劣りしないほど大きく、甘いリンゴにしていったのかが、それこそが気になるところなんだけど、それはヤハリ、企業秘密ということなのかなあ??★★★☆☆


凶悪
2013年 128分 日本 カラー
監督:白石和彌 脚本:高橋泉 白石和彌
撮影:今井孝博 音楽:安川午朗
出演:山田孝之 ピエール瀧 リリー・フランキー 池脇千鶴 白川和子 吉村実子 小林且弥 斉藤悠 米村亮太朗 松岡依都美 ジジ・ぶぅ 村岡希美 外波山文明 廣末哲万 九十九一 原扶貴子

2013/9/27/金 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
えーっ、こんなお名前の監督さん、知らなーい、とかオープニングクレジットでは思ってたのだが、長編デビュー作 を観ていたことにびっくり。お名前は失念していたが、その作品は一気に思い出した。もの凄く重い重い気分になって、すっかり滅入って、パソに向かうのもやんなるぐらいと思った作品だった。
お名前を知らないと思っていた時には、こんな(恐らく)新鋭を、これほどの作品に抜擢するとはと思っていたが、あのデビュー作だけで充分名刺になるだろうな。オリジナルであれだけの社会派作品を撮れる人なのだから、そりゃあ安心して任せられるってなもんで。

しかも、これはノンフィクション。しかも、というべきなのか、しかし、というべきなのか。本当にあった事件。闇に埋もれていた事件を死刑囚の告発によって暴き出したジャーナリスト、その経過までも同じく追っていく。
つまりそれぞれに実際の人物がいて、事件にかかわった人物、特にツートップはこの上ない凶悪人間。しかしそのツートップの凶悪性に違いが現れ、断裂する。そして普通の人間である筈のジャーナリストの中にも思わぬ凶悪性が露見する。

取材対象となった強盗殺人犯人に、その罪を詳細に取材しながらも、生きて罪を償うなどと思うな、死ね、死ぬしかないだろ、とジャーナリストは激怒する。
そしてその犯人は、激昂しているジャーナリストに仏の微笑みで返すのだ。牧師さんに言われました。生きて罪を償え、と。そのつもりだと。
後にはキリスト教に入信し、短歌までたしなむ変りよう。でもそれを、ジャーナリストは受け入れられない。

面白い、と思う。山田君だったか、ピエールさんだったかな、「こういう言い方をしていいのか判らないけれど、面白いと思った、この映画を観てみたいと思った」というのが出演の動機。
そのコメントを聞いた時には漠然と、それこそ怖いもの見たさ、劇中、山田君の奥さん役のちーちゃんが言ったようなことかと思っていたけれど、それももちろんあるだろうけれど、この、人間のグラデーションの面白さもまたきっと、そうだと思った。

正直こういう凶悪事件を、リアリスティックに描写する映画って、いくら人間が露悪的なものに興味があると言ったってやっぱり見てるのキツイし、もうこういうのカンベン、見たくないと思っちゃう。でもその中に“面白さ”というものが現れてくるというのなら、やはりそれは、人間、だからなんだと思う。
正直ね、こういう悪役って、そりゃ役者は一度はやりたいだろうと思う。今は役者さんたち総じてイイ人キャラになっちゃってるから余計に、こういうギャップに挑戦してみたい気持ちが絶対にあると思う。

でもそれは、賞獲りキャラみたいなところもあって、観客としてはそういうのが続くとちょっとヘキエキしちゃう気持ちもある。女は娼婦、男は殺人鬼、両方ともイケるのは障害者の役、みたいなさ、そーゆー感じ、あるじゃない。
特にこういう凶悪極まりない役柄ってのは、役者さんはそりゃスキルあるからさ、過去のいろんな映画を思い起こしても、皆怖くて、震えて、そして最近の日本映画では「冷たい熱帯魚」で一つの到達点に達したようなところがあるから、結構その壁を乗り越えるのは難しいんじゃないかな、という気持ちもあった。

実際、ザ・凶悪、という点で言えば「冷たい熱帯魚」の方がめっちゃそのまんま、判りやすかった。
本作の怖さは、凶悪へのグラデーションのレールに、そんな気もないジャーナリストの藤井もまた、その末端にいて、この事件に関わることになってじりじりとレールを進んでいくからなんだろうと思う。
本作の中での“判りやすい凶悪”が、実行犯にならないように用意周到に立ち回る“先生”のリリー・フランキーであるとすれば、実行犯として、先生の指示以外にも、実行犯どころか自身の衝動で簡単に人殺しをしちゃうピエール瀧演じる須藤は、レールの突端までは行っていないんだろう。
こんな恐ろしいことを平気の平左でした男なのに、物語の中盤ぐらいには、彼の元カノの言う「情にアツいっていうかさ……憎めないんだよね」という言葉についうなずいてしまいそうになる。
裏切られることを極端に恐れ、だからこそ反面、信頼という甘い響きにメロメロに弱い男。

……などと進めていくとまた判んなくなるから。まあでもここまでで充分アウトラインは判っちゃった気もするけど(爆)。
最初のうちは若干時間軸もモザイクに交錯しているので、判んない部分も結構ある。
強盗殺人の罪で捕まり、死刑判決が最終確定目前の須藤がなぜ、週刊誌の記者に余罪を告白する気になったのか。
その余罪三件には“先生”と呼ばれる男が関わっていたというけれど、その男を先生と呼ぶだけ慕っていたのに、この余罪を告白することによって、自分の判決がますます不利になる筈なのに、なぜその気になったのか。なぜ、その慕う気持ちが裏返しになったのか……。

最初のうちは、記者の藤井の前で悄然としたり、必死にすがったり、記事にならないことに焦り、しまいには激昂して面会室のガラスに椅子を投げつけたりと(割れないと判ってても、このシーンは山田君、怖かったろうな……)、気持ちの不安定な男、という印象。
この印象を最初に作っていたのは大きかったと思う。確かに死刑に値する男。クズみたいな男。でも、困ったことに、少しずつこの須藤に対する共感……と言ったらあまりに危険だけれど、言ってみれば憐憫の情のようなものが湧いてくるのは、彼が弱い人間だから、なんだよな……。
激昂するのだって、彼の凶悪さではなくて、自分の告白が通らない焦りと苛立ちだし、何より彼が後悔してやまない、可愛い舎弟を撃ち殺しちゃった最後の殺人は、舎弟よりも“先生”を信じてしまったから。

彼は常に誰かを信じていなければ心の平安を保てない人間。だから、誰かを信じることによって誰かへの疑念が生じてしまえば、その人間を消すしかない。
裏切られることへの心の傷に耐えられないから。なんて弱いの。人間の弱さの極限見本みたいなヤツ。
そして、その“先生”こそが信頼すべき人間ではなかったことを、徐々に判っちゃって、もう自分は死刑囚、失うものはない(という言葉がこんなにリアルに感じられる状況もないな……)と、“先生”を告発する決意をするんである。

“先生”木村が登場するのは、映画も中盤、もかなり深まってからで、あらあら、リリーさん、なかなか出てこないな、とハラハラするぐらいなんだけど、こんなもうけ役はない。出てきたらもう、ずっと、さらっちゃうんである。
彼はいわゆる頭のいい人。キレる人。チンピラの須藤とツートップの凶悪ではあるけれど、木村自身は、舌に乗せる言葉とは裏腹に須藤のことは、格下に見ていることは確実。
いや、それを言えば、須藤だって“先生”と呼ぶぐらいだし、木村が悪巧みの計画を話すと「難しいことは判んねえや」と先を制して、木村に丸任せ、俺は言われた通り動くゼ!みたいな感じだから、別にその上下関係に対して含むところがあったとかいう訳じゃないと思う。

須藤にとっては何より信頼関係こそが重要で、だからこそ、裏切られることに異常なまでの恐怖心を感じてる。そもそも須藤が週刊誌記者を使って事件を告発するなんて事態に陥ったのは、須藤のこの、ある種異常なまでの、信頼関係を壊した相手への失望、どころか絶望の深さの現れであってさ。
それこそ頭のいい“先生”木村は、甘く優しい言葉で須藤をくすぐり、舎弟が裏切ったというウソをささやくことによって須藤を確実な殺人犯に仕立て上げ、“先生でも救えない状況”に陥れる、なんてことをアッサリやってのけ、これで自分は逃げおおせる、と思っていたんだろう。

彼の誤算は、須藤の信頼関係への執着心が並大抵のものではなかったことであり、マスコミを使うなんてことを彼がするなんて、想像の範囲外だったんだろうと思う。
それだけ、口では須藤を立てて下にも置かない態度をとりながらも、結局はバカにしていたのだ。バカにしていたどころじゃない、イヌ、いやそれ以下のコマ、それどころかクズぐらいに思っていたのだ!!

……なんか、私、軌道をハズれてきている。これじゃ完全に、数々の殺人を犯した須藤に肩入れしている図式だ。
そういう意味では確かに、本作は上手いと思う。なかなか記事にならないことに焦って、須藤があらたな余罪の殺人を告白しだす場面、藤井が「ちょ、ちょっと待ってください。それには木村はどう絡んでいるんですか」と制すると、あ、という顔をした須藤、「これ先生には関係ねえや」と笑う。
思わずつられて藤井もほおを緩めてしまう。つられて観客、つまり私も思わず笑いかけて……うっ、と止まっちゃう。
危ない危ない、須藤は、“ジジイを舎弟と一緒にぶっ殺した”話をしようとしていたのだよ、笑ってどうするの!でも、これも見事な計算。見事にはまってしまう。ああ、ゾッとした……。

という、完璧に須藤の語る異常なワールドにはまり込んでしまって、その中ならやっぱり木村より須藤に肩入れしちゃうし、などと言い訳めいた思いになっちゃったりして、ホント、感覚がマヒしてしまう。
舎弟とか、獄中で仲良くなった男とかとのエピソードもあるんだけど、それはいったん置いといて……。愛するちーちゃんが藤井の奥さんだからさあ。

てゆーか、この調子で行くと藤井は、埋もれかねないんだもん!それどころか前半は、藤井がリードしてるのにさ、やっぱり“凶悪犯”の、楽しそーに残酷殺人するピエール&リリー(なんか、昔のフォークデュオみたいだな……)にさらわれちゃうんだもん。
爆笑しながらおじいちゃんの口に酒の瓶を突っ込んでムリヤリ飲ませる、コンセントからコード分けて感電させる、スタンガンロングバージョン(うええぇ……)、こういうのって、映画のだいご味だよね、イヤな言い方だけど……。

藤井を演じた山田君が、ビックリするぐらい自分に対するダメ出しして、もう役者辞めればいいんじゃないかぐらいの落ち込み方をしたらしいというのは、えーっ、と思うし、彼の存在がなければこの作品は成立しないんだし、それに充分応えたと思うからさ、彼にこそ、賞賛を与えてほしいと思うからさ!
でも……ピエール&リリーが、言っちゃえば、たがを外してしまえばオッケーな部分のある役柄であるのに対し、受け手であり、上司に、記者として世間に、役者として観客に、何が起こっていたのかを著わさなければいけない、本当に難しい役だったと思うしさ。

無精ひげによってとりつかれていく経過を示したということも語られていたけれど、ひょっとしたらそのことも、彼の中に、役者として、忸怩たる思いがあったのかもしれない、なんて勝手に想像しちゃう。
山田君は色白なのにとっても毛が濃くて、髭が特に顕著で、あっという間のドロボー髭と、じっとり疲れ脂がにじんでぺったりしているような漆黒の髪が、実に良く、その経過を感じさせるのよね。

ひょっとしてひょっとしたら、そういう外見的変化に頼ってしまったことを、彼は悔しく思ったのかなあ、なんて勝手に思っちゃうわけ。
山田君はそんなことがなくったって、素晴らしい役者だし、本作だって、彼の受けの芝居がなければ成立しなかった。
須藤の証言で現場検証をしていく、まるで悪いことをなぞっているようなスリリングは、彼の切迫さがなければなしえなかっただろうと、思う。

でも、それでいえば、山田君=藤井に設けられたシチュエイションは、ちょっとジャマだったかなあ、と思う。
藤井君の老母は認知症とおぼしき、その世話は奥さんに任せっきりである。帰宅するたびに奥さんのちーちゃんは、もう耐えられないと訴え、施設に入れることに返事を濁す夫に、恨み言を繰り返す。
もうちょっと待ってくれって、その台詞は聞き飽きた。いつも逃げるんだから。お義母さんを施設に入れることに罪悪感を感じているんでしょ、と。
そして、この事件に没頭していく彼は、取材先を執拗に訪ねたことで警察に御用となってしまう。奥さんが彼を迎えに行く場面では、さらに辛辣な言葉を口にする。死んだ人の魂が救われる?そんなの知らないよ、私は生きてるんだよ!と。

……こうして書き出してみると案外ベタな台詞だし、そもそも藤井にこの設定を持ち込んでくることにずっと違和感を感じていたから(これから文句言います(爆))、アレなんだけど、そこはさすがちーちゃんだからさ。
奥さんとしての、女性としての、大人の女としての言い分を十二分過ぎるほど感じて、そうだそうだ、藤井このやろ、サイテーだぞ!とか単純に思っちゃうのだが……。
その気持ちは崩れることはないんだけど、次第に、というか正直最初から(爆)、この設定って、必要だったかなあって(爆爆)。

多分だけど、原作にはないんじゃないかなあ、この設定。いや、未読だからアレだけど(爆爆)。だってノンフィクションとすれば、あくまで記者が、死刑囚からの告発を元に真実を暴いていく、てことだと思うからさ。
その記者が、まだ子供のいない夫婦で、認知症になっている彼の母親を、奥さんにずっと面倒見させてる。それだけでもあまりに旧態依然の日本の社会風土で、今の若い人たちもそういう憂き目にあっているのかもしれないけど、でも正直、今の現代社会、として映している気はしない。
というか、あまりに藤井がこの問題に対してリアクションが薄くて、……だからこそ奥さんに激昂される訳だけれど、仕事のことばかりだと、悪いと思ってるとかもうちょっと待ってくれとか口ばかりで、というのがね、他のテーマの作品なら、ていうか、これそのもののテーマの作品ならば、絶対に許されないじゃん。

勿論、判ってる。今の社会風景として、入れ込んでいるのは判るし、それと同時に、“家族同然”だった須藤と木村の崩壊を著わすからこその、“本当の家族”の崩壊、寸前、を描いているってことも。
でも正直、この藤井の家族の入れ込みは消化不良だった気もしてる。い、いや、もちろんちーちゃん素晴らしかったんだけど、このシークエンスでの山田氏は、これはそれこそ、その設定の消化不良のせいよね、しっくりこない、というか、違和感、というか。
物足りなさ、があるとすれば、このシークエンスで対応するだけの藤井のキャラの描き込みの少なさ、というか……。

藤井は家庭でも職場と同じく憔悴しきった様子で、そう、まったく同じ……当然のように職場の疲れを持ち込み、奥さんの血のにじむ訴えにも、おざなりな返事……は、いかにも、自分の今の疲弊を見れば判るだろ、という感がアリアリである。
いや実際はそんなエラソーな態度をとってる訳じゃなくて、本当に、ボロゾーキンのように疲れているんだけれども、そんなの見せられても、事態は何も改善しない、てゆーか、私こそがボロゾーキンだよ!と奥さんは言いたいわけで。
ていうか、言ってるのに、なしのつぶて、暖簾に腕押しとはこーゆーこと。
……これこそ勝手な推測だけどさ、山田君は、こりゃないよ、と思ってたんじゃないかなあ、って。正直、奥さん、お母さん、と対峙する、つまり彼の安らぎの場所である筈の自宅の場面では、彼が何を考えているのか、ちっともわからないんだもの。

ただ疲れてるとか、事件にとりつかれているというにはあまりにランボーなほどの単純な無関心さ。
確かにそれしかやりようがないぐらい、藤井の家庭問題は本作の凶悪事件とはカンケーなくって、疑似家族と家族の物語で結び付けたいのかもしれないけど、そりゃ甘い、甘すぎるよっ。
ちーちゃんが迫真の演技を見せてくれたのは嬉しいけど、いまだに女はこんな役どころしかなく、しかもそれがとってつけた印象になってしまうってのが、悲しい、悲しすぎるっ。

……てな訳で、……うーむ、どう決着をつければいいのだろう(爆)。
まあでもさ、こんな風に長々と説明したいほどに、山田君はやっぱり素晴らしかったと思うし、身体で時間経過を体現できるってのは、自慢できると思うよ??
アイライン入れてるがごとく上下ともふっさふさに濃く縁どられた漆黒の瞳。殊更に事態を深刻にさせそうだ……。

こんなん見ると、世の中にはどんだけ、あばかれてない殺人があるんだろうと思っちゃう。
世に完全犯罪は存在しないなどと言いつつ、行方不明のままの人たち、未解決のままの事件、たくさんたくさん、ある。完全犯罪、なされちゃってるじゃない、と思う。
とにかく、銀行の正当なローン以外は、借金しちゃダメと思ったわ。まあ本作の標的はそれだけじゃないけれども……。 ★★★☆☆


今日子と修一の場合
2013年 134分 日本 カラー
監督:奥田瑛二 脚本:奥田瑛二
撮影:灰原隆裕 音楽:稲本響
出演:安藤サクラ 柄本佑 和田聰宏 小篠恵奈 和音匠 カンニング竹山 田部周 宮崎美子 平田満

2013/10/9/水 劇場(新宿ピカデリー)
奥田瑛二監督の新作がやっと、来た!娘のサクラ嬢をヒロインに撮っている情報をちらりと耳にした時から、今か今かと待ちわびていた。
だって彼の前作だけ、観ていない。ずっと奥田作品観てきたのに、彼が娘をデビューさせた前作を、ケッ、この人までそーゆー親バカなことするのか、などと思ってしまってスルーしてしまったことを、その後何度悔いたかしれない。あの奥田瑛二の娘なのだから、只者ではないってことぐらい予想出来たら良かったのに!と。
で、じりじり新作を待っていたら、またしても彼は娘をヒロインに撮ってくれた。もう彼女のことを一流の女優と思っての起用よね、と思ってにんまりしていたら、なんとダブル主演に娘婿をチョイス!
こ、これはっ。父であり舅である彼がまずツバつけた、って感じだよなーっ、と嬉しくなる。

でも二人はほとんど交錯しない。どころか、言葉も交わさない、どころかどころか、お互いを認識さえしていない。
震災後の、津波がすべてを持って行ってしまった南三陸町で、その道ですれ違い、ラーメン屋で入れ違い、そしてそれぞれの未来に向かって進んでいく暗示で終わる。
いわば二人の主人公のそれぞれの物語であり、それぞれの事情で後にした故郷に震災、津波が襲い、それぞれの身内(彼女の場合は、元身内と言うべきか)を失ってしまった。そんな二人の物語。

よくある、腕を見せたがる脚本家のように、どこかで人間関係やエピソードや、同じ場面にいたとか、そんな小細工を弄したりはしない。本当に関係のない二人で、この二人を両立させて一本の映画にするということ自体、ふと考えてみるとひょっとしたらムリがあるのかもしれない。
でも震災という大きな出来事と、引き離された家族、そして何より、この二人が実際は夫婦であるということが、観ている側になんともドキドキ感をもたらすんである。

本当は、やっぱりちょっとは、ああ、震災映画、あなたもですか、と思わなくもなかった。これみよがしな震災映画を作る映画人たちに、あの時から時間が経るごとにヘキエキする気持ちを感じていた。ついこの間の「日本の悲劇」も正直そう……だからちょっと、身構えていた。
奥田監督は、被災地を故郷に持つ二人の主人公を据えながら、意識的にかの地と距離をもって描くことを心がけているような気がする。

最後の場面では、二人はそれぞれ故郷に足を運ぶんだけれど、そのたたずまい方も非常にストイックで、しんとしている。がちゃがちゃとドラマチックにかき回したりしない。
足を踏み入れるまで、彼らの中にはそれぞれに大きなドラマがあって、それは彼ら自身の中に決着をつけさせるそれぞれであり、それまでは、二人は足を踏み入れないのだ。愛する人がどうなったか判らない、故郷に。

震災映画の中で数少なく心打たれた篠原監督の「あれから」をふと思い出した。本作も、そうした、無粋にならないように、土足で踏み荒らさないように、心がけている作品のように思う。
ボランティアで被災地を応援するつもりでいたが、被災地を訪れるうちに、自分が出来ることが映画を作ることだと思ったという監督の言葉は、ひどく明快に心に響く。最初から被災地をネタにしようとしていない気持ちが、現れている気がする。

両主人公が交互に描写される。安藤サクラ嬢扮する今日子は、家計を助けるために始めた保険外交員の仕事の中で、強引な上司に成績をエサに身体を奪われ、同様に客にも身体を売り、それがバレて夫家族から放り出される。
最愛の一人息子の親権も奪われ、さまよい出た東京の街でもフーゾクのスカウトに引っかかって、今日は人妻、今日はOLになりきって、一回数万の仕事をこなすようになる。

このスカウトの男を演じるのが和田聰宏で、私のお気に入りの、色気ダダ漏れ役者。
デビューは華々しかったみたいだけど、その後は割と地味で、ずっと、この人はブレイクする、絶対!と思い続けていたところが、なんかじわじわと、作り手に重宝される役者として存在感を出してきたように思う。ホント、この人、色気ダダ漏れだよね!!

彼は有能スカウトマンなんだけど、今日子のことに関しては、上に報告せずに、利益をまんま取りしてしまい、後にそれがバレてボコボコにされる。
彼はそれを、「今日子のことを独り占めしたかった」と言うが、ついその色気ダダ漏れで今日子ともどもそうかそうかと騙されてしまいそうになるが、本当はどうだったんだろう……。

今日子をデリヘルに向かわせて、狭いアパートで一緒に住み、「昼過ぎたのに、朝ごはんなの?」と、そりゃー、アンタが彼女をそーゆーふーに働かせてるからだろっ、と言いたくなるも、なんかほだされてしまう。
どー考えてもどーしよーもない男だと思うのに、だって、“朝ごはん”をとんとんと作っている今日子に抱きついて、「10万、7万、いや5万でいいからさ」と金を無心する様は、明らかにヒモ。なのになぜ彼を振り切れないのか。

初めて必要とされる実感が持てたからなのか、なんて、なんかあまりに聞き飽きた、陳腐な理由。正直、それが明らかになる前に、彼は死んでしまった感じがある。
遅い“朝ごはん”を作っていた3時前、大きな揺れが立て続けに起きて、子供のように怯えた彼は今日子に抱きつき、包丁を持ったままだった彼女はもろともに倒れ込んだ彼を刺殺してしまった。

そして、修一。浪人しているとはいえ、大学受験、そして収監される先が少年刑務所だということは、思いっきり未成年の役。
サクラ嬢が、子供を一人なして、保険の外交員やって、夫の家からおんだされた、なんていうキャリアに比して言えば、随分と若い……言ってしまえばサバ読んだキャラである。
でもこの人物造形には、佑君が演じるからこそ、思い起こしてしまう作品がある。それこそ、そのまんまの年であった佑君が、母親殺しを犯した少年を演じた若松監督の「17歳の風景 少年は何を見たのか」。奥田監督はそれを念頭においていたんだろうか、ひょっとして……。

殺人は勿論許されないことだし、しかも親殺しである。しかも、というあたりに、人間特有の……もしかしたら日本人特有の、子は親に従うべき、それも絶対的に、という価値観が見え隠れする。
単純に、親殺しと聞くと誰もが、それはイカン、どうせ子供の、ワカモンの、手の付けられない、わがまま故だったんだろうと思う。
それは、少年刑務所を出た修一を迎え入れてくれる、つまりそんな、ワケアリたちが集う工場で出会う青年、いじめの末にその主犯格を刺殺してしまった青年が登場することで、より明確に、明快に、比較される感じがする。
それでも、同僚のチンピラ青年たちにとっては、どちらも「人殺し」であり、人を殺す時の気持ちってどうなんだろうかね、と執拗に修一にカラみ、立場的にコイツを殴れない修一を、ムカつくから殴って当然、的にボコボコにしちゃう。

盗みだの暴力だので少年刑務所に入って、出てきて、ここにいるチンピラ君たちにとって、人を殺すまでに追いつめた彼らの気持ちなんて判る筈がない、と、簡単に言ってしまえるかどうかは判らない。
正直、ここまでの確執をきちんと描いていながら、このチンピラ上がりの青年が、その後工場の社長に一喝されてうなだれ、修一が大学合格、もう一人の青年も音大進学の夢を追いかけ始めたことに、殊勝に頭をさげて乾杯の音頭をとったりするのが、なんか優しすぎる気がしてね……。

いやそれこそ、それこそ、奥田監督の優しさなんだろうとは思うし、男子って案外、そんな風に優しいものなのかもしれないし。
でも修一のシークエンスには更に優しい要素が追加されている。この荒くれどもにとってのマドンナ、事務員の女の子は修一に好意を寄せ、それにムカついた荒くれたちはわざと彼女に、修一が親殺しであることを聞かせる。

悩みに悩んだ彼女は、「やっぱ、やだ!」やなのは、修一が親殺しであるということではなくて、このままお互い何も知り合わないまま、理解しないまま、終わるということ。
「両親と妹との四人暮らし。それしかないんだけどさ」という、おっとりとした人生を送ってきたであろう彼女が、いくらいい子とはいえ、今後彼と恋仲になってからの試練を乗り越えられるのかどうか、そこまでの強さを持っているのかどうか、しかと判断できかねるのはツラいところだが……。

やっぱり、そういうの、あるじゃない。彼女は「うちに遊びに来てよ」と修一に言った。彼の過去を判った上で、家族にヘンケンを持たせないだけの強さがあるのかどうか。
少し、ね、奥田監督は優しかったと思う。女はもっと計算高くてしたたかだし、逆に、どうしようもなくホレた相手には計算高さもしたたかさも利用して、包囲網にかかる。
そういう場合、きっと家族も環境も捨てるだろう。チンピラ青年たちが単純に大人しくなって、友好的になった“優しさ”と同様のものを感じなくもない。

修一はもともと学業優秀、父親をぶっ殺しちゃった時は浪人時代で、リストラされた父親がしつこく彼に絡み、止めに入った母親をなんども投げ飛ばし、ぶん殴り、したもんだから、我を忘れた修一は花瓶で父親をブチ殺してしまったんであった。
「六大学?東北大学から就職して、リストラにあった俺をバカにしてるんだろ!」
えーっ。東北大学、でしょ?“東北の大学”じゃないわけでしょ?(いや、その言い方もアレだが……)、東北大学、めっちゃデキいいじゃんか!六大学より上だろよ!……なんだろ、なんか東北人としてはモヤモヤする……。
しかも修一はその後、努力の末、見事早稲田大学に合格するんだから、早稲田大学って、もう早稲田大学だもん、日本で一番有名な私立名門大学と言っても過言じゃない、よね?うー、うー、うー……なんかヒガミのひっかかりかなあ、これは。

修一のシークエンスで最も印象的だったのは、ひどいイジメの末、主犯格を刺殺してしまった過去を持つ青年、演じる和音匠である。
音大進学の夢をあきらめかけてたところに、修一との出会いでその夢を取り戻す彼は、当然そんな役どころだから、ピアノ演奏の場面がある。
工場の社長が、彼が音大進学の夢を再び目指すことを願って、食堂にわざわざ設置したんである。
そう、最初、佑君と事務員の女の子がラーメン食べるシーンで映ってて、なんでこんな小さな工場の食堂に、ピアノがあるんだろうって、思ってたのさ!
今日子が落とした財布をさりげなく見切れさせ、更に画面にちらと映り込ませる場面でも思ったけど、絶対ムダなことはしない。時にドキュメントタッチに見えても、見えていることはすべて、つながっていくことなのだと、しっかり押さえてる。
最初からカンペキな撮影所スタイルの映画じゃない作品は、こういうところに大きく差が出ると思う。

そうそう、ピアノ演奏が、実に見事だからさあ、ホントに音大の学生とかを引っ張ってきたのかと思ったら、志垣太郎の息子!えーっ!!
た、確かにまゆ毛は相当濃いけれども(爆)、でもお父さんと違って(爆)、メッチャ繊細青年じゃん!全然違うーっ。
これが本格デビューだという。……うーん、そうか。いや、凄く彼、良かったと思うけど、ゲーノージン稼業はやっぱり、難しいからさ。
奥田監督に見出されてこれは!と思った小沢まゆ嬢だってその後……あわわ(爆)。まあ、本人が納得して幸せになれればいいんだけど。

……どーも思いっきり話が脱線するな(爆)。二人の事情は一通り書いたかな?
多分尺的には、サクラ嬢の方がちょこっと多そうな気がする。娘の贔屓目でもないだろうけど(爆)。
しかしやはり、佑君の方が印象に残る。父親を殺してしまった男と、しょせんは他人である夫家族から追い出された女、では、やはりやはり、印象度は違う。

彼女は愛する息子と引き離されたことこそが重要事項で、つまり、ただ一人の血のつながった身内で。
今日子が故郷に足を運んだのは、“家族”とひとくくりに言ったけど、絶対、息子に会いたかったからに他ならない。

息子が飛び込んだ、祖母が働く仮の縫製工場みたいなところで、彼らの会話で元夫と元舅が死んだことが明らかにされるも、今日子がズルズル泣くのは、息子に会えたこと、先行きのこと、なんか説明のできないいろんなことがぐあーっと押し寄せてきただろうことは推測されるけれど、恐らくそこには、子の愛する子供をなした夫や、その父親である舅は浮かんでないだろうな、って……。
それを、女の特質として、意識して描いているのか、それとも……。この土地の出身であるという彼女が、息子&夫家族の安否だけを、っていうのはムリあるよね。彼女自身の家族はどーしたのよ、と。まあ展開上仕方ないとは言えるけれども……。

今日子が同居していた、半分恋人みたいだった男をうっかり刺しちゃって、風呂場でバラバラに切断する。これもまた、近年衝撃の覚えのある事件の一つだったように思う。男女は逆だったけど……。
表面だけしか見えない事件は真実は判らなくて、本作の中でも再三描かれてきたように、きっと情状酌量の余地ありなケースが沢山あるんだろうけれども、やっぱりあの事件はあまりにオエッて感じだったから冷静になれない。
まあ今日子はあの事件みたいに細分した死体をトイレに流したんじゃなくて、あの感じではスーツケースにぶち込んで、埋めた??
でも展開、時間軸ではちょっと違うような……まさかあの中にいるのは、途中からふっつり姿を消してしまった、スカウトマン青年の弟分とか??うがちすぎかしらん……。

困ったことに?とにかくとにかく、ラーメンが食べたくなって困る。めっちゃ食べたくなる!!
修一が出所して、見本のショーケースから足を止めて動かなくなった、なんてことはない下町のラーメン屋。工場の食堂で事務の女の子が作ってくれる野菜の具だくさんのインスタント袋ラーメン。
この女の子とピアノの上手な青年、修一とで繰り出す、これまたザ・下町の地味なラーメン屋。
そしてそして極め付きのクライマックス、今日子と修一が単なる客としてすれ違う、被災地の仮ごしらえの、大漁旗と所せましのメッセージに目を奪われる、プレハブ仕立てのラーメン屋さん。

そのどこでも、彼らは、シンプルに「ラーメン」と注文する。みそだの豚骨だの、なんとか乗せだのなんだのと、言わない。ラーメンひとつ、と言う。
ハイ、ラーメンいっちょ!と声を張り上げられ、出てくるきわめてシンプルなラーメンを、わざとらしい賞賛の言葉など口にのぼせず、ただ食らう。時にむせるように大量に吸い上げて、食らう。
しみじみと生命力を感じ、それが連なることで更に積み上げられた力を思う。被災地でこぶしを突き上げるよりも、しみじみと実感できる、力になれる、そんなひとつのこと。

いずれサクラ嬢&佑君の夫婦がっつり作品も、いち早く奥田監督にツバつけてほしい!!!★★★☆☆


潔く柔く
2013年 127分 日本 カラー
監督:新城毅彦 脚本:田中幸子 大島里美
撮影:小宮山充 音楽:池頼広
出演:長澤まさみ 高良健吾 波瑠 中村蒼 古川雄輝 平田薫 田山涼成 和田聰宏 MEGUMI 池脇千鶴 大滝愛結

2013/11/12/火 劇場(TOHOシネマズ渋谷)
あー、なんかダメだった、私。なんか気恥ずかしくて、ずっとスクリーンを正視出来なかった。
と、同時に“痛さ切なさ”が冗漫に続いてタイクツしてしまった、などというのはヘンだろうか……確かにヘンな感覚だった。彼らの痛さ切なさは充分伝わってくるんだけど、何かそれがずーっと垂れ流し……というのはあまりにヒドい言い方だが、でもなんか、そんな感じがした。
確かにその中にはここぞ!という胸キュンシーンもあるんだけど、何かこう、メリハリが薄いというか……。

ラストクレジットで監督さんの名前を見て、うわっ、と思ってしまった。いや、私、彼の作品は二度目。避けてた訳ではない、本当にたまたま、その間の作品は見てなかったけど、劇場デビュー作の印象がひどく自分に合わないものだったので、そのイヤな感じが名前を見た途端に一気に蘇ってきてしまった(爆)。
うう、ごめんなさい、でも相性が悪いのかなあ。そういうのってある気がするんだよなあ。
本作に関しては、そのデビュー作の時のような、ハッキリとした問題点を感じた訳ではなかったんだけど、なんというか、生理的なものも含めてちょこちょこちょこと積み重なっていく感じ。なんかそれを一つ一つ説明して言ったら、すんごいクサす感じになりそうだが……。

しかししょうがないからまあ、行こう。本作がね、どこか「陽だまりの彼女」と前後して公開されたこともあって、そして同じような年恰好のヒロインだったりすることもあって、関係ないのにどこか比較されるようなところがあったじゃない。興行成績とかそういうことも含めて。で、軍配は「陽だまりの彼女」みたいな。
私にとっては、どっちもうーんという感じがあったけど……。どちらのヒロインも大好きな女優さんだから、それがなんとも言えない感じなんだけど……。
でも「陽だまりの彼女」に軍配が上がるとしたら、一番明確なものが一つある、と思った。それは、過去時間軸を本人たちが演じるか、若い役者に演じさせるか、というチョイス。

どちらも過去時間軸が今の時間軸と、同等の価値と尺を占めている。現在の彼らに大きな影響を及ぼしているのが過去の時間軸なんである。だからこそ、という理由でどちらに行くのか。
「陽だまりの彼女」はだからこそ、リアルな年齢の役者に演じさせ、本作はだからこそ、今とつながる同じ役者に演じさせた。
これは作品によってはどちらでも成功例があるし、失敗例があると思うから、どっちが正解という問題ではないと思うんだけど、こうも同じ時期に公開されて、その要素において似通ってしまうと、どうしても比較したくもなってしまう。
そうなの、私は本作のチョイスは失敗だと思ってしまったんだよね。でもそれは、「陽だまりの彼女」のそれが成功だと感じたからこそ、あまりにも接近して見てしまったからこそ、そう思ったのかもしれない。それは否めない。

まさみちゃんも高良君も、本作だけを見ていれば、15歳を演じていたって“イタい”などとは感じなかったと思う。
いや、イタかった訳じゃないんだけど……でも、「陽だまりの彼女」のリアルな高校生のみずみずしさ、痛々しさ、傷つきやすさ、を見てしまうと、やっぱりやっぱり、違うんだもの。
しかも15歳のまさみちゃんと23歳のまさみちゃんは特に演じ分けているようにも見えないというか、そのまんまというか……。

うっ、そうなのよね。23歳の役なのよね。あれれ、まさみちゃん、23じゃ……ないよな。いや、ほんの3歳ぐらいの違いだが、20代だと3年の開きは大きい。
しかも過去の傷を抱えて「15歳のまま」この年になってしまった、なんていう設定だと、うーむ、うーむ、カマトトなんぞと言いたくはないが、ちょっとちょっと、キビしくなってしまう。
いやもちろんまさみちゃんはとても可愛いし、みずみずしいし、決して無理があるという訳ではない……いや、あるかな。
うー、だってさ、ただ23歳だけを演じるならまだいいけれど、その上15歳もとなると、やっぱり難しいよ。だって着々と大人の女の魅力を備えてきた彼女なんだもん!

更にそれを難しくしているのは、この15歳の時の幼馴染を演じているのが高良君であり、それはつまり、高良君は15歳しか演じていない、というトンでもなさ、なんである。
もちろん、幼馴染同士という間柄でのまさみちゃんと高良君の共演、というのは何らおかしくない。でも高良君はこの時間軸で死んでしまう。
と、いうことは、彼は15歳の春田君としてキャスティングされた訳であり、それってさあ……やっぱりおかしいよね。
そんなことをするのならばこの作品こそ、15歳の時間軸は若い役者に託して、若い役者を信じて、橋渡しすべきだったんじゃないのかなあ、と思っちゃう。

それにしても高良君はなんだってこうも、若くして死んじゃう役柄ばかり振られるんだろう……。しかもその印象の残し方まで妙に似てる。
大抵恋人の心に苦く甘く突き刺さる感じで、唐突に命を終えてしまう役柄。
なんなんでしょうねえ……まあ彼自身にそんなはかなさを残す印象があるのかもしれない、確かにそれはあるかもしれないが、こうも続くと正直、またか……と思いたくなる。
だってさあ、ちょっと頭に浮かぶだけで5、6作品はあるよ。んで、ここで15歳で死んでしまう役、に至ると、ちょっと彼、考えなよ、と思っちゃう。

年齢の違和感は、岡田君にもちょいと感じる。彼もまた15歳の頃からを演じているんだけど、むしろ違和感は現在時間軸の方に感じる。
というのも、相手がまさみちゃんだからである。特にどっちの年齢がどうというのを示される訳じゃないけれど(示されてたっけ?)、なんとなく雰囲気的に、彼の方が上、という設定な気がする。

いや、判んないけど……取引先同士の関係で、どっちが上とか下とかはないけど、まあその、彼の態度がデカいのと(爆)、過去の傷に苦しむカンナに(あ、やっと役名出てきた……これがまさみちゃんね)、最悪感がぬぐえることなどないと、一足早く達観した禄君がそうズバリと言うから。
それだけじゃなく、何度なくカンナは彼の前で弱いところを見せるから。
……でも、実際年齢もそうだけど、それ以上に、なんか印象がね、岡田君って、ちょっと弟キャラというか(爆)、子分気質というか(爆爆)なあんか、ねえ、まさみちゃんにそんな上から意見できるような男に、どうしても、どうしても、見えないのよ。

……うう、それはあくまで、単に、私の印象だけなんだろうとは思う。まさみちゃんラブで、岡田君は新参者ぐらいに思ってるからかもしれない(爆爆)。
でもさあ、あの高良君が、15歳のまま閉じ込められて、そこに色白岡田君が(まあ色白は関係ないが)、経験者然として登場されても、なんかピンとこない。
てか、もうしっぽり色っぽくなってきたまさみちゃんが「あんた、まだ15歳のままなんだね」と言われること自体が、ピンとこない(爆)。

……なんか、物語が全然判らないままだから、この辺でざざっと概略を言うとですね。
まさみちゃん演じるカンナは、幼馴染の春田君を事故で失った。春田君がカンナを好きだってことは、半ば公然の事実、二人もちょいとキスを交わすぐらいの仲にはなっていたけれどそれをカンナは「野良猫同士の挨拶」と解説。
高校生になって仲良くなった男女二人ずつの四人組で、そのもう一人の男子に告られて、デートした花火大会の火に、春田君は事故死してしまう。しかも、その直前にカンナに「いくよ」とメールを送信して。

カンナが春田君のことを、実際はどう思っていたのか。単なる幼馴染だったのか、ちょっとは気になっていたのか、それはキスしちゃったから、ぐらいだったのか……それを明確にする必要はないとは思う。
原作は知らんが、本作を見る限りでは、禄君から指摘されるようにカンナは、自分を思ってくれていた春田君の思いに応えられないまま彼が死んでしまったことで、罪悪感をずっと感じている、というのが正解なんじゃないかと思うから。
しかも(これまた原作は知らんから、本作だけの印象だけど)、恋という感情さえ明確に知らないまま、他の男の子と初デートに及び、そして春田君は死んでしまった……だから、恋も知らないまま、カンナは「15歳のまま」23歳になってしまった、ということなんだろうと思う。

この少女少女した設定は、嫌いじゃない。充分にキュンキュン痛く切ない設定だと思う。それこそまさみちゃんが、もうちょっと若い頃に演じていたら……なあんて言ったら、失礼かなあ。
でもさこれって、やっぱり年齢の繊細さが出ると思うよ。いくら彼らがいい役者だからって、10代20代は一番繊細な年齢差が出る時期だもの。
正直岡田君がまさみちゃんに上から目線は、ホントしっくりこないんだよね。違和感があるというか……。

岡田君演じる禄君は、小学生の頃に同級生の女の子が目の前で事故死したという経験を持つ。しかもその女の子は禄君のことが好きでまとわりついてて、それを同級生の手前の照れくささで突き放してしまった時の事故だった。
彼自身も重傷を負い、そして高校生となった時、その女の子のお姉さんが声をかけてきた。大きくなったねえ、と嬉しげに。
そして妹の日記を読んでほしい、家にも遊びに来て、一緒に田沢湖に行ってほしい、と言った。田沢湖は、遠足で向かっていた場所だった。

岡田君に関しては、高校生の時にこのお姉さんと会い、家に行ったり田沢湖に行ったりするシーンはあるものの、起点となる小学生時代は、そりゃあさすがに彼が演じる訳にもいかないから(爆)、その違いがまさみちゃんたちのシークエンスとは、小さくも大きな違いとなってるんだよね。
しかも、まさみちゃんと高良君たちのシークエンスには、家族が絡んでこなかった。それこそ原作は知らんが(……なんか私、逃げ口上に言ってる気がするな……)、むしろ後に語られる、「お父さんが再婚して、子供も生まれた」と、春田君の魂がどっかに行っちゃうことを憂えるほどに、彼の家族を遠くにおいて、春田君のカンナへの思いのみを純粋に抽出することに重きを置いている。
だからこそカンナは苦しむ訳なんだけど、春田君が事故死しちゃう場面からちょっと違和感があったし……だって春田君の家族は全然見えず、春田君に恋してた友達の朝美が、浴衣で花火大会なんて浮かれたカッコのカンナをぶん殴る、なんて、いくら元ネタが少女漫画でも、甘やかすぎる。現実味がなさすぎるじゃない。

そう、だからこそ、岡田君もまた15歳近辺を演じてても、まあ岡田君はまさみちゃんたちより若いし(爆)、その15歳近辺でのエピソードは、同級生や幼馴染との青春ではなく、幼くして死んでしまった同級生と、その過去を運んできたお姉さんとの、青春というより深い人生のシークエンスだからさ、違和感がないんだよね。
違和感がないだけに、まさみちゃんたちのパートに違和感をより一層感じちゃうわけ(爆)。
しかもね、こんなことを思うの、ホントヤなんだけど、まさみちゃんラブだから、ホント、ヤなんだけど……まさみちゃんがさ、なんかうっとうしいのよ(爆)。彼女のクセというか、特徴が、悪い形でやたらクサく印象付けられているような気がして、なんか見てられない。
彼女、モノマネされるじゃない。モノマネって、その人の特徴をよりクサく、強く表現するじゃない。そのクサさがまんま出てる感じなんだよね……。

彼女、昔は確かにちょっと暗い役とかも多かったし、「モテキ」で弾けるまさみちゃんの魅力は、それほど古くからのものではないと思うんだけど、今、長澤まさみという女優が確立されてのこの役、キャラクター、演じ方というか、特に何度もある泣きのシーンに……うう、今までそんなこと感じたことなかったのに、なあんかなんか、アクがあるというか、クサみというか、素直なものを感じられなくなってしまったんだよう!!
……それ、まさみちゃんラブな私としてはすっごく悲しいんだけど、実際、そうなんだもん……。彼女の、それこそそう、モノマネされるような、あのある種のアクの強さが、クサみになってしまって、先述しまくってる15歳の違和感とかも相まって、とにかくとにかく、悪い方向にばかりなっている気がしてならないんだよう(泣)。

ところで、こういうヒロインが男前の上司にちょっと口説かれ気味というのも、「陽だまりの彼女」とおんなじで、定番なんすかね……。男前の上司は、男前だけじゃなくて、なんかやたら色っぽいのも似てる。
和田聰宏みたいな色気上司にジョークまじりとはいえ口説かれるなんつーことは、生涯可能性ゼロパーセントの腐れ女子は、ただ、はああ……と口を開けて眺めるしかない。

うーむ、恋愛映画だから仕方ないのだろーが、それこそ「陽だまりの彼女」にしても本作にしても、職場が華やかすぎる。食事をしたり、お酒を飲んだり、あるいはもう、基本の、住んでる部屋からして、ハイレベルすぎる。
こーゆー生活出来てるリーマン&OL諸氏はどれだけいるの。私には現実味がなさすぎるよ……。と、それこそこの年になったからこそ思うのだ。
客層を当て込んでる年代にとっては、いつかは私もボクもこんなステキOL、イカしたリーマン、と思って、瞳をキラキラさせて観ているのであろー。
……イジワルな言い方になっちゃったけど、その年頃の私も、無意識ではあったけど、そうだったんだろうなあと思うから……ああ悲しい……。

華やかな世界を華やかな世界のままにクサしているような、売れっ子漫画家先生役のメグミがそのあたりを微妙に崩していて面白かった。
彼女のキャラがもっとぐっとコミカルに食い込んで来れば、好きだったかもしれないなあ。つまりはそういう、ちょっとしたところなんだろうと思う。
基本は痛さ切なさがメインを貫く、ラブストーリーと単純に言えない複雑さを持つリリカルな物語なんだろう。それを際立たせるためには、実はオマケのような脇役こそが大事なのかもしれない。

言いそびれたけど、結構頻繁に登場する、バーのマスター(田山涼成)とかね。「マスターの作るナポリタンは絶品」のフレーズがこびりついて、帰りにスーパーの総菜売り場でナポリタン買っちゃったもん(マズかったけど(爆))。
春田君に恋していたから、彼の死に際してカンナに絶縁宣言した友人とかもさ、凄く重要だと思うんだけど、年齢を経て再会するとあっさり仲直りしちゃって、その時の複雑さはどこへやら。
……まあ、映画の尺の問題もあるんだろうけれど、なんかね、なんか、大事なところを抑えずに、ただただ冗長だった気がしちゃうんだよなあ……。

いや、ヤハリ、一番の問題点(あくまで私にとって)は、岡田君がどーしても後輩キャラにしか見えないことであった。まさみちゃんが彼に諭されたり、彼への思いを決死の覚悟で告げたり、追われる立場だったり、するのが、どーしても、どーしても、納得できないんだよう!
岡田君がね、ちーちゃん(死んでしまった女の子のお姉さん)と一緒のシークエンスは、実にしっくりくるのよ。もちろんちーちゃんは彼の上、もちろんもちろん年齢的にも、死んでしまった女の子の姉という立場でも、そして結婚して子供を持ち、親となった立場としても、ね。
彼女の娘がなかなか言葉を発さず、禄君と会った時に「待ちくたびれたよ」と喋った場面は、いくらなんでもという気はしたが……だって禄君が言うようには、死んでしまった女の子には全然似てないしさ(爆)。
しかしそこはそれ、やはり素晴らしきちーちゃんの演技で胸がうっと詰まってしまうのよね。正直、泣けると思ったのはここだけだったかも(爆)。

でもこの場面もねえ……生まれ変わり的なことを匂わせるのは判るけど、リアルに考えると、この娘をこの年まで(四歳ぐらい?)育てたお姉さんのことを思うと、どうなのと思わなくもない。
娘に会ってほしいとずっと禄君に言ってきて、ずっと来てくれなくて、ようやく来てくれた途端に、いきなり娘が喋り出した……私なら、そんな簡単にカンドー出来ないと思うのは、ひねくれてるのだろーか。
しかも母子家庭??と思うぐらい、夫の影がないのも気になる。いや別に夫が登場する必要はない、確かにないけれども、飾られている写真、生活の描写、不自然なまでに夫の影がない。でも、そんな必要も意味もないよね?

なんかね、こういう、ほんのちょっとしたところなんだけど、丁寧さの欠けるようなところが、気になるのよ。要素的に、尺的に、夫を登場させるのは難しいにしても、この場合、彼女たちは“普通に”結婚して、“普通に”幸せであることが、それこそ必要じゃない?
娘が喋らない問題は、あくまで禄君と会う場面のみに特化させるべきでさ……。未読ながら、そういう細かい部分が、映画にする際、難しい部分なのだろうとは思うんだけど……。

まさみちゃんはとても可愛いけど、もう高校生をやる必要はないと思うなあ。もちろん、高良君もね!!★★☆☆☆


清須会議
2013年 138分 日本 カラー
監督:三谷幸喜 脚本:三谷幸喜
撮影:山本英夫 音楽:荻野清子
出演:役所広司 大泉洋 小日向文世 佐藤浩市 鈴木京香 妻夫木聡 伊勢谷友介 坂東巳之助 剛力彩芽 篠井英介 中村勘九郎 浅野忠信 寺島進 阿南健治 松山ケンイチ でんでん 市川しんぺー 浅野和之 染谷将太 瀬戸カトリーヌ 近藤芳正 中谷美紀 戸田恵子 梶原善 天海祐希 西田敏行

2013/12/15/日 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
歴史は苦手なのよー(泣)。ことに日本史は壊滅的で、本作が三谷監督作品であっても、大泉先生が出ていなかったら、足を運ばなかったかもしれない(爆)。
ホントにホントに苦手なのよー。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、えーと順番はあってたっけ、ってぐらい、明智って光秀か小五郎か、ってぐらい、で、その明智は誰を殺したんだっけって、ぐらい、もうヒドイ有様なのよー。
だからきっと、私は大河ドラマを見ないのであろう(いや、ドラマ自体、見る習慣がないだけ(爆))。
ホントに観ようかどうしようかと思ったぐらいなんだけど、やっぱりやっぱり大泉先生が、それも主演級で出ているとなると、行かない訳にはいかない。だってだって、これでウッカリ?評価されて、賞レースとか出てきたら、観なかったことやっぱり後悔しちゃうもん。

まあしかし、しかししかし、映画とゆーものは、それだけで世界発信するものでもあるし、日本史など何も知らぬ諸国の人々だってこれを観て面白い、と思わなければいけない、ということぐらい、天下の三谷監督だって判っていらっしゃる筈、と責任転嫁(爆)。
いやいや、もうぶっちゃけて言っちゃうと、本作でこのあたりの歴史(言い方がアバウトなあたり、ほんとバカをさらけ出してる(爆))を学習できた気がした。いやいや、それは危険危険。だってこれは、あくまで三谷解釈の歴史エンタテインメントなのだからっ。

しかしそれこそ年号と起こった事実、事件だけを羅列した歴史の授業に頭からケツまで熟睡していた私にとって、“解釈”というものは、もう想像の範囲外であり、何か一つ“解釈”を示されちゃうと、もうそれが、事実だと思っちゃうの。
でもまあ、そうやって面白がれるから、歴史は面白いのだろう。……私はその面白さが判らないまま、来てしまった……。

それにしても、大泉先生が“サル”とはねえ。と最初のキャスティングの話を聞いたのが先だったか、そのいでたちを見たのが先だったか。
ねずみ男を演じた時 をほうふつとさせるインチキそうな髭にろうそく髷、彼含め一族耳が大きいというのは若干作り物感あれど、まー、確かに三谷監督がよーちゃんに振りたそうなこのビジュアル。
本作に関しては実際のビジュアルに似せること(っつっても、当時残された肖像画とかなんて、当時の画風にかなり傾くし、どこまでホントやらとも思うが……)としてキャスティングや特殊メイクを行ったといい、予告編の一瞬のつまぶっきーなんて、そのアホヅラがクドカンに見えたぐらい(いや、これはちょっと誤解を招くか!でもどう誤解を解いたらいいのか判らない……)。
で、異説ではハゲネズミと言われていた秀吉に大泉先生を抜擢は、なるほどなんであり。

でもでも、それ以上に三谷監督がよーちゃんにホレこんでくれていることが嬉しい。正直、方向性としては真逆かなと思ってたから。
そりゃ大泉先生は器用で何でもこなせるけれど、でも三谷氏の持つ、繊細なウィット感、都会感覚というか、そういうのが大泉先生の、良くも悪くも泥臭さを持つ部分とは相いれないのかなと思ったし。
大泉先生の、誰とでも仲良くなれる人懐こさは、多くの人を引きつけるけれど、内側に人を入り込ませない感じの三谷氏は、いかにも反発しそうな気がしていたからさ……いや、それこそ勝手なイメージなんだけど。
でもだからこそ、三谷氏がよーちゃんを気に入ってくれたこと、舞台でも重用してくれているのが、嬉しいんだよなあ……。

そういう意味で言えば、常にオールスターキャストながら、気に入って使う人たち、っていうのは、いるのよね。映画監督デビュー作からの京香さんは勿論、佐藤浩市も、自身の監督作品ではなくても、脚本作品で役所広司も、やはり彼が気に入っている役者さんということなんだろうと思う。
正直毎回、オールスターキャストの“その他”は、名の通っている人を並べましたという気がしなくもなく(爆)、今回も彩芽ちゃんあたりがそんな匂いを感じなくもないが(爆爆)。
いや、最終的にかなりキーポイントを握るキャラではあるけど、あの眉なしおはぐろでドヤ顔なら、どんなかわいこちゃんだってそれなりにコワいだろうしなあ……。

いや、失礼。てか、歴史モノにヨワいから、なんかキャストの話だけで済まそうとしているかもしれない(爆)。
いやでも、でもでもでも、まあでも、さ。容貌だけじゃなくて、なんたって歴史フリーク(なのかね、やはり)な三谷監督なんだからさ、歴史上の人物の人となりを掘り下げて“解釈”していくうちに、彼の頭の中で、あの人物はあの役者さん、あれはあの人……っていうのは、絶対あったと思うなあ。
今回の主要キャストは、まあ確かに先述のように三谷監督お気に入りの役者陣で固められてはいるけれど、ある意味それがバチッとハマったからこそ、本作が実現したのかもしれない。

大泉先生が主演級、と言ったけれど、確かにピンの主演が誰かと言われたら、ひょっとしたらやっぱりやっぱり大泉洋かも!!と心躍るけど(恥。いやでもクレジットの順から言ってもやはり役所さんかなあ……)、“主演級”というくくりだけで言えば、四人の名前があがる。
まずよーちゃん、そして役所広司、小日向文世、佐藤浩市。この四人。
宣伝でもこの四人がひとかたまりになるケースが一番多かった。そして三谷監督とのカップリングで大泉先生、役所広司、がそれぞれ半々、というケース。うおおお、よーちゃんてば、なんとゆー出世をっ。

大泉先生のキャスティングに関しては、先述に加えて、うん、やはり、“人心をつかむ”ってところよね。
自分の功績を大声で喧伝して、みこしに担がれて、紅白の餅をまいて、民衆にワーワーキャーキャー言われるなんて、まさにここまで培ってきた“ご存知、大泉洋”そのもの(笑)。
なんか、セルフパロディみたいで、それだけで思わず笑っちゃうが、でも確かに彼の人心掌握の魅力は、まんまこの秀吉のキャラに乗り移っているのよね。

それは口八丁で丸め込む、というところにまで至り、更にはここで丸め込んだ重鎮方々、いずれ滅ぼして自分が天下を取るんだと、その口でハッキリと言う、ちょっとゾワッとする場面までもが用意されており
、それは決して、決して決して、大泉先生のキャラではないんだけどっ(多分(汗))、その恐ろしき野心を聞いたのが、愛妻、中谷美紀だけだというのが、絶妙にキツさを緩和させてて。

あの美女、中谷美紀を、まゆ毛のぶっとい、田舎くさい百姓の妻にするってあたりも三谷監督の傍若無人だが、しかしやはり、いくらまゆ毛をぶっとくして、顔を泥だらけにして、なぜかラテン入ってる土着踊りをノリノリイケイケで踊って城内の家来たちを熱狂の渦に巻き込んだとしても、しかししかし、やっぱり美人の中谷美紀なんであった。
その意味では、三谷組の最古参の一人、鈴木京香のお市様がショッキングだったなあ……。まあこの当時のやんごとなきお方の眉なしおはぐろは仕方なしだけど、彩芽ちゃんの場合はそれが、不思議に可憐に見える(まあ、先述のキーポイントのシーンはそれゆえに怖さが引き立つのだが)。

でも京香先生、絶妙な年齢のせいか、ちょ、ちょっと妖怪入ってる……いやいや!……やっぱり女は年を取ってくると微妙だよな……京香先生とはさして年が変わらないだけに余計に衝撃を受ける(爆)。
顔のお肌や、特に首のたるみが気になってくると、現代メイクならカバーできても、こういう時代メイクでは、あからさまなんだもん。

お市様はさ、役所さん演じる柴田勝家、そしてよーちゃん演じる羽柴秀吉双方から恋心を寄せられてる訳でさ。まあ、秀吉に対しては、愛息を殺されたウラミから徹底して冷たい態度をとるんだけどね。
でもそれがいちいちコミカルってあたりが、三谷監督よね。秀吉のみやげを、お付きの女史がさっと姿勢を正して池にスローインするとか、サイコーに可笑しい!

うーん、なんかいちいち脱線して、何を言いたいのか判らなくなってきたが(爆)。

でも三谷監督、確かに最初からオールスターキャストだったけど、段々と、オールスターが故に気を配る方向が多すぎて、語る焦点が散漫になってきたような気がしなくもない(爆)。
本作に関しては、それこそメインの四人にばっつり分かれて……そりゃまあ、それぞれ丁寧に描いていたとは思うけど、特に私のようなバカにとっては、いちいち頭の中で陣営を組み直すていたらくであって(爆)。
評定(会議)に出席するはずの重臣が、間に合わなくて、劇中ずっと野中を駈け通し、バックに富士山、邪魔する敵は前作の落ち武者、西田敏行。 ちょっとした落としどころ、ユーモラスだということは判っていても、えーと、この人は……と考え出すともうダメなんである。
ああ、私、バカ過ぎる。よくこれで義務教育終われたな……いやこの日本史は高校だったかな?(どっちにしろ寝てた(爆))。

その意味で言えば、役所広司演じる柴田勝家は、本当にまっすぐで、まったくブレがなくて、ある意味私と同じようにバカで(失礼!)、すんなりと入ってこれた。
同じバカでも、信長の後継者として秀吉陣営が担ぐ“うつけ者”信雄(なんでこれでのぶかつ、って読むのかなあ……)演じるはつまぶっきーとは違うんである。
いや、なんか誤解を生みそうだけど(爆)、つまぶっきーはいわゆるバカを演じるために、彼自身の天真爛漫をそのまま出して演じていたからさあ(なんか二重三重に誤解を生みそうだ……)。

柴田勝家のバカは、無知や愚かのバカじゃなくて、純粋やまっすぐのバカ、なんだよね。
でもそれが、盟友の理知者、丹羽長秀(笑わない小日向さん!)や、計算高い池田恒興(佐藤浩市)と違うところで……。
でも勝家の純粋すぎるバカさ加減は、少なくとも長秀にとっては歯がゆくも愛しい友の美点であったに違いないし、それが戦乱の世では通じたけれども、これからは新しい時代なのだ、というのは、サル=秀吉に言われなくたって、判ってた、のだ。
判ってたけれど、その時代に最終的には乗っていけないことも判ってた。でも友、勝家は、それも含めて全然判ってなかった……。

恒興に関して言えば、計算高いけど常にその場での計算でしのいでいるという点では、勝家とは違うタイプのバカのようにも思い(爆)、つまりはそういう三谷監督の“解釈”に踊らされているのかもしれないけど(爆)。
でも三谷監督がそう“解釈”しているとするならば、まさにそれぞれ、バチッとハマるキャスティング、なんだよね。
いつもニコニコイメージの小日向さんが笑わないだけで、こんな複雑で悲哀のある人物像になるなんて、ニコニコ小日向さんにすっかり慣れきっていたから、なんか切なくなってしまった!

彼のことをずっとずっと、何の疑いもなく友として信じている勝家を演じる役所さんが、もうまさに、って感じだったからさあ……。
いや、案外、ここまで純粋無垢、言ってしまえばバカな男を演じる役所さんは、そう、案外、初めて見るかもしれない、と思う。
役所さんにコメディが似合うというのは、出世作「Shall we ダンス?」を引き合いに出さなくても、数々の、いろんなタイプのコメディ作品で発揮されてきた。
役所さん自身の混じりけのない真摯さは、どんな役に傾いてもまさに混じりけなく凄いものを見せてくれるけど、純粋がそのまんま人物の性格に移し替えられると、もう涙が出るほどまんま純粋、愛すべき人物になってしまうんだもの!

彼の単純さそのままに、お館様=信長の生き残った息子たちのうちでは、大うつけの信雄より、少なくとも真面目で理性のある信孝の方が後継ぎとしては適任だと、担ぎ上げる。
でも勝家の中ではその程度の理由だったから、成り上がり者、秀吉に対する対抗心が実は自身の中にあることをつつかれると、途端にぐずぐずになってしまう……。
盟友の長秀や、あからさまに打算的な恒興は勿論、そんなことは最初から計算のうちでさ、観客にとっても、いやそれは前提だろ、と思っているのに、勝家はまさかの純情さでいちいちくじけてしまうの。
秀吉がうつけの信雄を担いだ理由さえ、ただうつけを担いだバカ者としてしか受け取ってないの!!

……実際の勝家が本当にそういう人物だったかはさておき、三谷監督の“解釈”としては、この恐るべき純粋さは悲劇であり、一見むくつけき外見、ご丁寧にも体臭だの足の裏までアブラ性だのを設定された役所さんは、見事にそれをまっとうし……だからこそ、切ないの!
ピンの主役としては確かに大泉先生なのに、この勝家の純情さに、負けてしまう感があるんだよなあ……同じくお市様にホレてる設定なのに。
お市様は、にっくき秀吉へのアテツケに勝家と結婚する、そのことにそれこそ単純に喜んでる勝家が、切なすぎる、のは、役所さんだからこそ!!

個人的には、松ケンが出てくるのをずっと、ずーーーーっと待ってたから。スターお歴々のポスターにもちゃんとお顔があったし、オープニングクレジットでもどーんと名前が出てきたし、それなりに絡む役柄なのかと思っていたから、最後の方にちょろっと出てくるだけだったのにはアゼン。
まあ重要……と言えなくもない役……かもしれない……けど……。
最後の最後のどんでん返し、信長の孫が秀吉の肝いりで後継ぎ指名され、その幼い子をあやす術を秀吉が請う“器用なにーちゃん”。
それこそ、先述した、名の通ってる人を並べました、の一環に過ぎない気がして、なんか哀しい、てか、納得いかなーい!!
……まあ、私の好きな、“普通のお兄ちゃん”の松ケンではあったけどさあ……。うう、今後、三谷監督に起用されてほしい、松ケンはそれが出来る人だよ!

途中暇つぶしシークエンスの旗とり合戦は、まんまビーチフラッグだよね。その後に、松姫とその幼い息子(つまり信長の孫)に秀吉が出会うという大きな転換シーンはあれど、ビーチフラッグのハヤリの感覚は、日本だけのような……。
うん、やっぱり三谷氏は、海外進出のことなんて、考えてないわな。前からそれは感じてたけど(爆)、そういうところがイイとは思うけど……本作に関しては、ちょっと少しずつ、難しいと思う部分はあったかもしれない。いやまあ、日本史無知のたわごとだけどさ!★★★☆☆


金環蝕
1934年 97分 日本 白黒
監督:清水宏 脚本:荒田正男
撮影:佐々木太郎 音楽:江口夜詩
出演:藤井貢 川崎弘子 桑野通子 金光嗣郎 山口勇 藤野秀夫 野村秋生 坪内美子 小倉繁 久原良子 近衛敏明 奈良真養 河村黎吉 吉川満子 突貫小僧 仲英之助 青木しのぶ 葛城文子 御影公子 高杉早苗 三宅邦子 忍節子 小池政江 水島光代 荒木貞子

2013/7/25/木 京橋国立近代美術館フィルムセンター
金環蝕、っていうと有名どころとして先に来るのは1975年度作品の方なのかな?いや、コサキンあたりがやたら絶賛して喋っているのを聞いていたからかもしれない。
これは全くの別の原作で、恋愛ドロドロもの。ビックリするほどドロドロのこじれまくりなのに、サイレント当時特有のスチャラカ陽気な音楽がかかりまくるのが妙に可笑しくて。いや、シリアスな音楽のところもあるんだけど。
しかしホント、清水作品、あるいは当時だからかもしれないけど、これだけの物語をこれだけの尺でとんとんとんとつめこんで、しかしはしょった感じにもさせない、この展開力はなんだろう。俳優の芝居も、サイレントとしての見せ方の上手さなのかもしれないけど、角度、凝縮度が完璧なんだよね。

これもまたサウンド版というものなんだろうけれど、今回の特集で経験したような、効果音を多彩につけた感じではない。まあせいぜい、車がキキキと止まる音とかぐらいかな?あとは通常のサイレント映画に音楽がついた趣。
この清水監督特集で、今回三度目のお見かけとなる藤井貢氏が主人公。次から次へと出てくる美女たち(んー、一人は割と普通の女の子かな(爆))に次から次へとホレられて、逃げまくる卑怯なヤツ。
という、印象に、最終的には変わっちゃう。それは今の感覚で見るからかもしれないけれど。どうなんだろ。

彼はなんでこんなに次から次へと女の子にモテるのかなあ。まあ端正な顔と言えなくもないが、洋装より和服が似合いそうな(まっ、当時だからね)恰幅の良さで、つまり洋装だとハッキリ言って……お太りになられているというか……。
藤井氏演じる大崎の方に、ホレた女が二度までも思いを寄せているという、あまりにもカワイソーな立場の、大崎の親友の神田の方が、まあ最初こそはそのあたりがマヌケだったけど(爆)、ひたすら逃げまくる大崎に比べて神田君は己をわきまえているし、友情を大切にするし、女性の気持ちを汲もうと努力するし、数段、数段イイ男じゃん!!と思うんだけどなあ。

冒頭、この神田君が見事法学士となって故郷に錦を飾る、てな感じで帰ってくるところから始まる。
村中の誇りであるらしい彼が、次は嫁取りだ、この村の誰がめとられるのか、それはきっと、女学校出で、器量もいい絹江さんだと皆がウワサする。当の神田君も絹江さんにホレていて、彼女のイトコである大崎に仲介を頼むんである。
と、いうのも、大崎と絹江がイトコ以上に仲が良かった過去を、神田はちょっと、気にもしていたから。というのはまさに図星で、大崎はそれを聞かれて木の枝にひょいとぶらさがりながら、ただのイトコ同士さ、と言い、神田君も並んでひょいとぶらさがって、そうか、と。

このシーンは妙に青臭いんだけど、妙に意味ありげに印象的で、なんていうのかな、足をぶらぶらさせてる、その足がクロースアップになって、そして彼らの顔がクロースアップになって。
映画的表現の魅力なんだけど、なんていうか……彼ら二人を見比べているような雰囲気。都会帰りの法学士だけどどこか線の細い神田と、後々の展開で次から次へと女にホレられる恰幅のいい大崎とがね。

神田の華々しい帰還に両親が、うちも没落していなければお前も……みたいなことを言うから、そうした家庭的事情があったのかもしれない。きっとそれだけ、大崎も優秀な人物だったんだろう。
大崎は、弟たちを東京の学校にやりたいからここにとどまった、みたいに言ってるくせに、後に親友と女との板挟みになると、「2、3年東京で勉強させてくれ」と言い置いてさっさと上京(という名の逃亡!)してしまう。ここをツッコまずしてどこをツッコむの!

その後もさ、彼はなあんか、他人ばかり頼ってるんだよなあ。地元出身の政治家を頼って方々に訪ねて、ソデにされまくって、ついには彼の娘が乗った車に轢かれてなし崩し的に居候になる、なんてさ、当り屋まがいじゃないの、と思っちゃう、のは、言い過ぎかな?
でもこのシーンは当時のキラキラの東京を活写していて、それはこの作品は全体にそうなんだけど、その切り口で、ワクワクするんだよね。
そびえたつビルディング、多忙な政治家を追う時間を、モダンなデザインの壁掛け時計が次々と現れて時を刻んで表現。

ていうか、重要なところをすっ飛ばした(爆)。そうそう、まず大崎が最初に女から逃げるところ(爆)。
ホントは自分も絹江ちゃんにホレてるくせに、ヒガミ根性で(と後々を思うと、そうとしか思えない)親友にあっせんし、彼女の気持ちを知って、誤解しないでくれよとかサイテーなことを言い(ホント、サイテー!)彼女から一対一で話がしたいと持ち掛けられると、そこに神田を差し向けて、自分はすたこらさっさ。<p> オイー、オイオイオイオイー、サイテーやねっか!そんなん、差し向けられた神田が恥かくだけじゃねっか!
神田君はイイヤツだからさ、自分が二人の仲を邪魔したのかと恥じるけれど、そんな恥じる必要、ないッ。
絹江はショックを受け、東京へと“逃げた”大崎が乗った列車の、その線路を走って走って、卑怯者!!と叫ぶ。そうよ、こんなヤツ、ここで見限ってやればよかったのにっ。

と、この時にはそこまで憤っていた訳じゃないんだけど……。なんか次第にね。
で、大崎は先述の通り首尾よく代議士の家に滑り込み、そこの娘と、運転手の妹に同時にホレられる訳。
後にキーパーソンとなるのは純朴な運転手の娘の方なんだけど、代議士の娘役の桑野通子が、なんたってこの作品がデビューとなったっていうんだから、やっぱり最重要よね!
直前に見た「恋も忘れて」の彼女があまりにも素晴らしくて、美しくて、本作の彼女も美しいけど、やっぱりデビューの初々しさって感じは、するかなあ。

ていうか、可愛らしいキャラなんだよね。運転手の妹、嘉代にライバル心を燃やし、それをお嬢の上から目線、というか上から態度、居丈高態度で粉砕しようとするのが、ね。
嘉代が「あなたの松葉杖となって支えたい」と言えば「松葉杖なんて古いわ。私は義足になる」と言い、野の花を摘んでくる嘉代に対抗して、「大崎さんは、花と洋菓子とどちらがいいかしら?」とこれみよがしにゴーカな包みのコンフェクショナリー、開いてみると、滋養強壮ミルクチョコレート!(明治だったか、森永だったか……)思わず噴き出しちゃう。

このお嬢様、鞆音(なんて読むんだろう……だってサイレントだからさ)は、終始そんな具合。彼女のかつての家庭教師として神田が訪ねてきて(なんたる偶然……ていう偶然が、とにかくてんこもりなんだけどさ(爆))、三人で活動に出かける時も、神田の目を盗んで、「あなただけをお誘いしたかったのよ」と耳打ちする大胆さ。
最終的には、彼女から大崎にプロポーズするし……しかも、ひと気を避けた、夜更けの密室にて!暗い夜道を行く車のライトだけがともるショットから、彼女の大胆さが伝わるし、二人きりの密室でのこの逆プロポーズにはもうドキドキ!
今の映画なら、絶対彼女、コートも何も脱ぎ捨ててるって雰囲気!でも大崎は先述の通り卑怯なヤツだから、考えさせてくれとか言いながらもう次のシーンでは逃げてる訳。もうっ。

……で、なんかまた色々すっ飛ばしてたな。補足補足。そもそも大崎は、この代議士の家に幼い息子の家庭教師として入り込んだ訳。その息子は、この特集でも色々堪能させていただいている当時の名子役、突貫小僧。
彼がからむシーンは幸福な時で、野外勉強と称して、大崎とこの子と鞆音と運転手とが色々出かけ、最終的に野外ゴルフに興じる場面は最高。
彼女がボールをなかなか打てずに土ばかり掘るという繰り返しはほんのジャブで、家庭教師なのに鞆音にばかりかまっていると不満の息子の思いと、妹の思いも汲んで運転手が大崎にケンカをふっかけるも、ほんのワンカット後、あっさりペコペコ頭を下げているのには爆笑!こういうリズムの面白さは、やっぱりさすがだなあと思っちゃうなあ。

で、すっ飛ばす前に戻ると、鞆音の逆プロポーズには、この代議士の没落があった訳。
政変が起きて、左団扇だった彼はあっという間に転落。大崎が訪ね歩いていた、あのビルディングとモダンな時計の刻み、そして行く先々で、我らの時代だよ、と豪語していた彼の、いつの時代も政治家は……という思いを抱くんである。

大崎は鞆音から逃げる形で、運転手の元に転がり込む。それもなんかアッサリ、ヤア、しばらくの間、使ってくれよ、てな軽さで、もうこのあたりになるとどうにもこの大崎の逃げ癖とお気楽な人生設計がイラッときてしまうんである。
この運転手君は声をかけられた時、汗水たらして車のメンテしていたのに、このかるーい声掛けに、君が来てくれたら助かるよ、なんてあっさり受け入れちゃう。単なるお荷物、居候だろうがっ。

しかもここには、大崎に岡惚れしてしたあの純朴な妹も一緒に住んでいて、大崎の到来にすっかり有頂天。
しかし生活のためにおミズな商売、カフェーの女給を始めていた彼女。そこでなんとまあ、あの絹江と出会っていて、しかも妹分として目をかけられていたんである。
……ここまでも充分すぎるぐらい充分、ドラマチックのために偶然が重なられていたけれど、これはいくらなんでも!……とこの時には思ってたけど更なるクライマックスには信じられないほどの偶然が重ねられているもんで、ここでそれを言っちゃうとどうしようもないのだが(爆)。

最初からヒロインは絹江だし、後に登場するだろうとは思っていたし、大崎の上京後に絹江が家出したということが神田君によって明らかにされていたから、予測はしてたけど、いくらなんでもこの偶然は……。
てゆーか、絹江の家出を聞かされた大崎が驚いた顔をしたのがめっちゃカチンときてさ(爆)、神田君は二人の仲を裂いたと悔やみ、最後の最後の最後、クライマックス中のクライマックスで、もう男気全開の働きをする訳だが……。
それは後述にしても、大崎、おめー、あの時点で逃げ出して、神田君と絹江ちゃんが首尾よく上手くいくと本気で思ってたんなら、かなりのノータリンだぞ!
てゆーかてゆーか、もう、ホンットに、この無責任、許せないんだけど!絹江ちゃんが、卑怯者!を三段活用ぐらいに活字を大きくして叫んだ(サイレントですから)のが何より物語ってるんだけど!

……怒り過ぎて、どこまでいったか忘れた(爆)。そう、そのありえない偶然よ。
あのね、華やかな桑野通子の登場などもあって、真のヒロインである絹江=川崎弘子をうっかり忘れそうになっててさ(爆)。再登場の時、あまりにはすっぱになってるから、再登場を予期していたのに、なかなか認識出来なかった。
いや、めっちゃ思わせぶりな登場だから、そうだろうなとは思ったけど……初めての女給の仕事に怯えまくっている嘉代を見るに見かねて声をかける。掛けた衣装のかげから、照明も凝りまくって(爆)。

その再登場から、大崎に再会し、やさぐれまくってのクライマックス、そしてラストまで、登場した時のいいとこのお嬢さん、インテリで下の女の子たちからも慕われまくってる、てな印象から、転落しまくり、しまくりなのよ!
表情も……それこそ、女優の武器、メイク魔術を駆使しまくって、本当に、別人みたい。

純朴な後輩が大崎にホレている現場として彼と再会してしまって、もうあの時のザ・ストップモーションの恐ろしさときたら。
それまで陽気に鳴っていた劇伴がぱたりとやんで、凍り付くような静寂は、サイレントなら当たり前なのに、この時の、役者のアップのカットバックは、まさに役者の腕の見せ所だったなあ!
だって、もうさ、ダンナ然として、腹這いにくつろいでるところに、嘉代ちゃんがお茶に誘って絹江を連れてきたんだもの。

嘉代の思いを汲んで、自分が探していたのは神田さんだとウソをついてきびすをかえした絹代、純朴な嘉代ちゃんはそれを信じちゃって、鞆音と神田君の結婚式に乗り込んじゃう。もうどんだけこじれまくる訳よ!
神田君は聡明だから、嘉代ちゃんの誤解を丁寧に正して、自分が悪かったんだと首を垂れる。違う違う、どー考えても、最初から最後まで悪いのは大崎だっつーの!

てかさてかさ、大崎は、思わぬ絹代との再会を果たし、彼女の部屋を訪ねる。しかし妹分を思いやる彼女から追い払われる。そのまま、追い払われちゃうんだよ!信じられない!
「あの子はとてもいい子だから。誰かが泣かなければいけないんなら、私が喜んで泣くわ」……なぜその言に押し切られちゃうんだよ、オラー!!!

それに押し切られるんだったら、そのまま押し切られなきゃダメだろと思うのに、コイツったら、また流される。しかも自分の意思じゃなくって、偶然に流されやがるのよ!!
大崎のことを完全に諦めた絹江ちゃん、かねてから言い寄られてたカフェーの常連客の温泉旅行の誘いに乗る。その止めたタクシーが、なんと大崎が同乗する嘉代ちゃんのお兄ちゃんの円タク。
って、いやいや、いやいやいやいや、そんな偶然、ありえないだろ!!これまでも偶然ありまくりに目をつぶってきたが、これはいくらなんでも!!!
……まあ、当時は新しい職業だったのかも、そうそう円タクは走ってなかったのかも……いやいやそれにしても!!!

んでもって、このエロじじい(いや……カフェーで絹江ちゃんのふくよかな手をさすりまくってるワンショットだけでそう感じさせるのが、上手いんだな!)と絹江ちゃんを乗せて、一路熱海……てゆーか、お互い、えっ、と顔を見合わせて、熱海までの路程は長すぎねーか!!
……それまでもツッコミどころかなり満載だったけど、このあたりから特に満載だらけだよなーっ。
状況を察した(まあ東京から熱海の時間でこの雰囲気なら、察せずにはいられんよな……)運転手兄は、お前の責任だろと、客二人と共に大崎を降ろす。

それもムチャだが、大崎が二人の部屋に乗り込んで、相手のオッチャンを問答無用にぶん殴るのはムチャ過ぎるだろ!!思わず観客から失笑に近い笑いが沸き起こったっつーの!
まあそこまでは恋する男のムチャと言えなくもないけど、そもそもここまで自身で行動起こしてないくせに、偶然でこの状況に接してのコレはないよなーっ。
しかも絹江ちゃんに対して、君はそんな女だったのか、と執拗に責めまくって、あろうことかの往復ビンタ。おめーが言うなーっ!!と、これはいつの時代の女も叫ぶだろ!!

しかし絹江ちゃんは最初こそは、女が生きていくのにパトロンを持って何が悪いの!とか反論してるのに、往復ビンタされるうちに、和服の女そのものの風でよよと崩れる。
そんで、そのパトロンが呼んだ警察が来て、大崎が連行され、パトロンがしずしずと彼女に歩み寄り……。
そこにまたありえない偶然で神田君夫婦の新婚旅行軍団が来てさ(ありえない!!)神田君が大崎を助け、絹江ちゃんに自分の罪を懺悔(する必要ないっ優しすぎる!!!)

鞆音はかつて恋した大崎に背中同士でもたれかかり、私は神田を愛してる、少なくとも愛そうと努力してる。これから洋行し、永住するかもしれない。これが永遠の別れかもしれない。過去のことは笑って想い出せるわと、語りかける。
うー、うー、うううー。もうこの段に至っては、大崎はホントにただの卑怯ヤローよ。なんでこの男にみんなしてホレてんのよ。愛そうと努力しなくても、神田君こそがステキ男子よ!!
結局、どの場面でも、こんな風に背中合わせでも、顔を突き合わせても、大崎は肝心な言葉も言わず、その場から逃げ去るだけだったじゃんっ。
かつてホレた男に、プロポーズまでした男に、しかもこんな醜態をさらした男に再会して、カッコよく惜別の言葉を投げかけた女子に、コイツときたら、ホレられた男の顔をこしらえたまま、一言も残せないのよ。あー、情けねー!

でさ、次のシーンではさ、すんごい華やかな船の別れのシーンよ。豪華客船、絡まりまくるテープがデッキと桟橋にアミアミ状態。テープを投げまくる神田君と鞆音夫人はにこやかで、もうすべてが吹っ切れてる雰囲気。
そこからバッとカットが替わり、色々醜態演じまくった二人が、故郷に向かう汽車のデッキで、風にさらされてる。
このシーンがラストシーンだというのが、華やかなスター映画の時代って感じじゃなくて、この惨めたらしさ(ゴメン!)がスゲーッ!て思って!
それまで感じてた、大崎のヒドさに対する女の、女たちの溜飲、こんな下げさせてもらっていいの!と思って!!★★★★☆


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