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野火
2014年 87分 日本 カラー
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也 林啓史 音楽:石川忠
出演:塚本晋也 リリー・フランキー 中村達也 森優作 中村優子 山本浩司 神高貴宏 入江庸仁 辻岡正人 山内まも留
ついでに言えば、恥ずかしながら原作も未読である。日文出身のくせに実にお恥ずかしいが、戦争モノは文学に限らず苦手でついつい避けて通ってしまうんである。
つまり戦争映画も決して積極的には観ない。ことに毎年夏になると必ず作られる戦争映画は、現代になるに従ってどうにもこうにも触手が動かない。
本作に足を運んだのは勿論、塚本監督だからということもあるけれども、“現代になるに従って”という部分が、この原作の存在によって、グッと当時に近づくんじゃないか、という思いがあったから。
戦争映画は観ないと言いつつ、いわゆる映画黄金期の戦争映画、あるいはかつての独立プロなどで作られた意欲的なものはそれなりに足を運んでいる。やはり、違うと思うからなのだ。
単純に、時代が近いというだけで全然違う。塚本監督が言うように、記憶が鮮やかな人々が、ずっと若い年代でいたからに他ならないと思う。本当に、単純に、戦争のむごたらしさが鮮烈に迫ってくる。
現代になるに従って、戦争映画は作劇や英雄伝に傾いていかざるを得ない。言ってしまえばネタギレというヤツである。そしてそうなると、かなり危険な傾向も出てくる。
去年、興行も賞レースも席巻した「永遠の0」、私は未見なので、未見では何も言うべきではないのだということは判っているのだが、推測でものを言うべきではないと判っているのだが、ここではそれをお許しいただきたい。
まあ、否定的意見の人たちの受け売りと言われたらそれまでなんだけど、やはりあの作品には、ちょっと間違うと戦争肯定、家族を守るためにが国を守るために、になる、危険を感じたし、現代に近づくにつれそうした傾向がどんどん強まっていたから、その頂点に達していそうなアノ作品はどうにも観る気がしなかったんであった。
つまり、戦争に作劇も英雄伝も必要ないのだ。だってただ、無意味でむごたらしいだけなのだもの。
そしてそれだけを圧倒的に見せる力が、戦争の時代からそう遠くない時に作られた映画には確かにあった。勿論、映画作品として見せるためにはそれだけでは成り立たないのだが、何を伝えるべきかということを考えれば、そここそが基礎なのだ。
軍隊というヒエラルキーの中では、そんな優しい上官などそうそういやしない(と思われる)。仲間同士も泥だらけの痩せたイモの取り合いである。
地元市民に暴力をふるい、凌辱し、ぶち殺す。敵というだけでヘロヘロの兵士たちを無差別に殺戮する。顔が吹っ飛び、内臓が零れ落ちる。腹が減りすぎて、撃った仲間の血肉をすする。
こう書いてしまうと、ただのスプラッタホラーまがいに思われてしまいそうだけれど、でも誤解を恐れずに言えば、それを避けてヒューマンドラマに傾いていったからこそ、戦争映画は本来の意義を果たさない傾向に至ってきたんだと思う。
本作の、腕や頭が吹っ飛ぶ掃射シーンのむごたらしさは一瞬、「プライベート・ライアン」を思い出したが、決定的に違うのは、「プライベート・ライアン」がそのシーンがツカミはOK的な使い方で終わり、結局は作劇、英雄伝、選民思想的なヒューマンドラマに“落ち着いた”訳で、実は私、この映画がサイアクにキライなのはそこんとこの理由(爆)。同じ理由で、「シンドラーのリスト」も大嫌い(爆爆)。
まあそんなアンチスピルバーグな話はともかく……、本作は、ただひたすら、それで押すんだよね。現代戦争映画に不可欠(と思いこまれている)感動要素とか泣き要素はゼロ。
兵士同士や地元民との関係性は緊迫と人間性の崩落でしかない。同じ釜の飯とかいう仲間意識なんてものは、こんな場所ではおままごとな価値観でしかないのだ。
でもそれをギリギリにも信じたいからこそ、悲劇は起こるんだよね。殺したて(!)のフレッシュ(!!)な人肉をすする少年は、その人肉はずっと付き従っていた目上の兵士であり、寂しいからと彼はこの高圧的なオッサンを助けながらここまで来た。なのに……。
おっと、なんか激情に流されるままに綴ってしまった。ちょっと落ち着け、私。てかさ、塚本監督が戦争映画を撮るなんて意外だったけど、肉体の痛みをリアルに描き続けてきた彼ならば確かに不思議はなかったのだ。
いやでも、塚本監督が描き続けてきたのはいつだって突端の現代で、だからやはり意外ではあった。いや、でもこの原作、「野火」を選んだ、というか、ティーンエイジャーの頃に受けた衝撃をそのままにあたためてきた企画、と聞くと、やはり塚本監督だと思うのだ。
あの、当時の戦争に限りなく近い皮膚感覚を活写した原作、それに最もセンシティブな年代に出会った塚本監督、そして彼の持つ肉体の痛みを映像という手段を使って最大限に発揮できる才能……これはまさしく、出会うべくして出会った素材と才能で出来上がったものなのだ。
でも、とても年月がかかったという。感覚の人のように見える塚本監督でさえ、実際に経験を持った人に話を聞かなければと思ったらしい。そして資金的なこともあって、ここまで繰り延べになった。
でも良かったと思う。それこそ未見だから言うのもアレなんだけど、やはりあの、「永遠の0」があって、戦争映画、そして戦争というものに対する議論が高まった。
本作の制作に寄せる塚本監督の言葉を読んで、ああ彼も、今の日本が限りなく戦争容認に近づいていることへの危惧を感じているんだと知って、凄く嬉しかったし、ホッともした。だから未見だからアレなんだけど、アレはさ……もうヤメとこうか(爆)。
今作らなければ、という思いでの発進ということもあったのだろう、久々に塚本監督自身の主演である。てゆーか、兵士たちが皆泥だらけ過ぎて、誰が演じているのか判別のハードルが高いんである。
てゆーか、そんなことは問題ではないのだよね、この世界では……。年若い兵士をアゴで使うリリー氏は、ああ確かに彼なんだけど、歯並びの悪いのが黒く染まった感じだけで全然読み取れなくて、最後のキャストクレジットで、ああ、そうか……と驚いてしまったぐらい。この人はもともとが美術系だと信じられないほどの憑依系役者。
主人公は塚本監督自身が演じる、後に作家としてこの体験を書き綴っている様子が描かれる田村一等兵だけれど、“寂しいから”という理由だけで、この地獄の戦線を、“オッサン”たちにこき使われながら生き抜いていく永松が一番のキーマン。
演じる森優作君が圧倒的、なんである。塚本監督自身の強い思いから、制作資金をかき集めての制作となったという本作は、だから最もカネがかかる主人公は監督自身だし、常連俳優やコネクションのありそうな役者で固められている。
森君はいわばただ一人の無名俳優で、オーディションでの抜擢とはいえ資金のなさゆえの無名俳優という風に見られても仕方ないネームバリュー感なのだけれど、それだけにオドロキが大きい。
このむごたらしい、過酷な南国の戦場で、何度となく子供のように泣きじゃくる彼が、最終的には最も鬼になってしまう。人肉を、血肉を、顔中血だらけになりながらむさぼりすすってしまう。
でもそれに至った理由が、一人でいるのはさみしいから、なのだ……。お国のためとか天皇陛下のためはいざ知らず、家族を守りたいとか、仲間を死なせたくないとか、そんな“マトモ”なことは戦場ではないのだということを、あの時代に近い原作は痛烈にぶつけてくるし、それに10代の頃衝撃を受けた塚本監督は、その感覚のままに、投げ出してくるのだ。
森君は、「「また、必ず会おう」と誰もが言った。」でデビューしているんだね!奇しくもそこで塚本監督と共演しているが、正直何の役だったのか全然思い出せないし(爆)、主要キャストではなかったと思う……塚本監督とも同シーンでの共演ではなかったんじゃないかな??
でもそう思うと余計に、不思議な縁よね、と思う。こんな風に、監督と役者の関係、そして映画が出来上がっていくのかと思うと、映画ファンは何ともワクワクしてしまう。
夏になると必ず作られる戦争映画が、どんどんリアリティを失っていくのはもう一つ、理由があると思う。この数年、ようやく語られるようになった、加害者としての自意識が、全く欠けているから、なんである。
今の若い世代には、どの程度教育されているのだろうか。少なくとも私たち世代には、加害者としての歴史は、学校教育の中では一ミリも教えられなかった。
それを中国映画(「等待黎明」)の中で観た時のショックと恥ずかしさは、今も忘れられない。
そして夏ごとに作られる戦争映画は、いまだに被害者としての視点でしかないのだ。だからかもしれない。殊更に、現代において作られる戦争映画を避けがちになったのは。
当時に近い戦争映画ならば、そのリアルな実態、むごたらしさ、戦争のむなしさを赤裸々に伝えるだけで価値があったと思う。でも“ネタ切れ”になっていってしまう現代において、戦争映画を作るのならば、今、何を知り、何を考えるべきなのか、という視点が絶対に必要だと思う。
未見のくせに再三持ち出して申し訳ないけど(爆)、ゼロ戦、特攻隊っていうのは、判り易く自己犠牲、浪花節、カンドー路線、なのだよね。その危険性は、「風立ちぬ」にもぬぐえないものがあった。
戦争なのだから、自己犠牲であっても、その先に同じく命を落とす相手がいるという意識が欠落しがちになる。今の時代は、それでは真の平和社会として前に進めないのだ。
本作には、ちらりとある。原作にはどの程度だったのか、気になるところである。いや、これをちらり、というのは、良くないのかも……だってカップルの女性を容赦なくぶっ殺し、最終的には死んでしまったはずの彼女が復讐の様相で、鬼の形相で日本兵たちを機関銃連射、なシーンが用意されているんだもの。
でも、全体のパーセンテージで言えば、やはりチラリな気がする。でもでも、今までストレスを感じていた、現代ヒューマン感動系戦争映画に照らし合わせれば、やはり違うと思われる。
だって岡田准一が地元女性を機関銃でぶっ殺したりレイプしたりはしないだろうと思うし、いやだから未見なんだから言うなって(爆)。
なんかそんなことを言っていくと、残酷描写を見たがっているのかと思われちゃうかなと……戦争映画の難しいところだろうとは思うんだけど、でも、塚本監督の感じた危機感こそが、単純に戦争はイヤだ!!っていうことだって思うし、そういう気持ちに単純につながってほしい。
それにはやはり、近い記憶、鮮やかな残酷さが、必要なのだ。残酷なものを人は見たいと思う。だからこういう映画も見るんだろう。でもそれと、現実にそれを望むか、っていうことは、当然ながら全く別のことなのだ。映画はそういう役割を、エンタテインメントという俗な仮面をかぶって担っているんだと思うのだ。
★★★★☆
監督さんは初見だと思ったが、そうではなかった。「僕の中のオトコの娘」、あの、妙に企画プログラムが並んだ、妙に限定上映のあの映画の監督さんであった。興味深かったけれど、言ってしまえばそれだけだった印象も……(汗)。
草野康太はそこからの流れだったのかあ。でも本作でどの役だったのか、彼は時間をおいてとぎれとぎれにしかお目にかかれないから、それこそ「僕の中の……」もトンでもない役だったから、最後まで気づけなかったし(爆)。
でも、あの独特の顔の濃さだとアレかな、ベンチャー企業の若き社長役のアレかな??って、私、人の顔覚えなさすぎ(汗汗)。
だってさぁ、オフィシャルサイトがテキトーな作りだったから……普通、役柄とキャスト紹介ぐらい、するでしょ。この日観た二本はどちらもイントロダクションのみのあっさりとした作りで、その時点で作られた映画に対する愛を感じられなかった。
フェイスブックとかいくら作られても困るんだよなー。こういうところでガッカリさせちゃ、余計に観客が減るっての。
んんー、でも、確かにちょっと、ハテナマークはついちゃった気がする。今の時代、真のハードボイルドを作るのは本当に難しい。それも、意外性という点をついて近藤芳正を起用するとなると本当に難しいのだ。
彼は長年バイプレーヤーとして活躍してきて、芝居巧者としては何ら問題はないと思われる。でも、だからこそ、そこで作り手側は安心しきってしまったような気がする。イメージというものがどれだけしつこくやっかいなものかというものを。
決して決して、彼の芝居がそれを打ち破れるだけの力がなかったという訳じゃない。間に何もなしの、ギャップを飛び越えるには、その間に培われた彼自身の魅力(イメージと言い換えるよりはこちらの方がしっくりとくる)の積み重ねと、バイプレーヤーとしての年月が長すぎたのだ。
しかも初主演、である。これが例えば、その前にそこまで飛び越えない役柄での主演があったならまた違った気がする。
ずっとずっと、やわらかで誠実でユーモアのあるバイプレーヤーであった彼が、突然ハードボイルド、濡れ場もオッケー!な主演!!で出てこられると、観客がついていけない。
なんか、見てて恥ずかしくなっちゃうんだよね。うわ、近藤芳正が女買ってズッコンバッコン、ホステスに恋してズッコンバッコン(そればっかりか!)、夜、一人部屋で、ナイフ投げの練習て!ギャグじゃないの??みたいな(汗汗)。
彼が大マジにやればやるほど、その上向きの鼻の穴に目が行ってしまう……。いや、いやいやいやいや、イケメンがハードボイルドやる方が、クサくてハズかしいと思うよ、私は!!でもでも……なんかダメなの、そんないきなり飛び越えられないんだよぅ。
まぁそれこそ、国際映画祭に出品しているのだから、そこではそんな要素は関係なく評価されているのかもしれないけれども……。でもさ、やっぱりなんか、描写がいろいろ古いような気がしてしまう。
さっきちょっと言及した、ナイフ投げ練習のシーンとかさ、標的のボードとか、007かルパン三世に出てきそうでヒヤッとしちゃう。
近藤芳正が殺し屋のボスというのは、「一見普通の人」であるという、つまり世間を欺くという点で有効なのだろう、実際彼自身も若い部下に、ハデに生活するな、深入りするな、普通に生活しろ、と口をすっぱくして言っているし。
でも、劇中の近藤芳正は、ザ・ハードボイルド、普通のスーツではあるけれど、芝居が思いっきりハードボイルドなもんだから、通りですれ違う人でさえ、普通のサラリーマンじゃないだろ、と気づきそう。
せっかく近藤芳正を起用してそれじゃ、なんだかもったいない気がする。世間的には本当に、ぼーっとした人の好い人物だと思わせておきながら、実は非情な殺し屋さん、というんだったら、近藤芳正を起用する意味が充分にあると思うのに、一から十までパンパンにハードボイルド男、なんだもん。上半身裸で腕立て伏せとかしてさ(爆)。
ちなみに彼が部下に、普通でいろと説教するのはいかにも高級そうなキャバクラなんだけど、そんなこと言うなら、こんなとこ来るな(爆)。いや、来てもいいけど、全然普通の社長さんの雰囲気じゃないだろ、めっちゃハードボイルド男芝居(爆爆)。
こういう場所ではバカやってホステスを笑わせて、でも実はハードボイルド男、とかいうのなら近藤芳正の意味があると思うんだけどなあ……。
まあそれこそ、単純な考え方、なんだろうか??でもさ、ホステスの、つまり年若い女の子と、恋のような、愛のような、そんなちょっとした関係になるんだから、そのあたりの機微は慎重に行ってほしかった気がする。
そのホステスは、近年の随一のお気に入り若手女優の柳英里紗嬢。近年の使われようは若干、脱げるという点でキャスティングされている感がなきにしもあらずだが(爆)、でも実際、それを積み重ねることで、彼女の強みと魅力は増していっているように思う。
子役あがりとは今や信じられない、ちょっと危なっかしいコケティッシュさ。幼さというよりは愚かさ、弱さが見え隠れするところが、彼女のたまらない魅力なのだ。その頼りなげな口角の上がり方がいい。
彼女自身のキャラでは、ナンバーワンホステスというのはピンとこないんだけど、従業員である彼氏とオーナーによって育て上げられた、つまりは虚像だというのが、実にはかなさを感じさせるのだ。
ホステス姿から解放された彼女は、同一人物とは思えない雰囲気になる。ウィッグ(エクステ?)をとってボブスタイルになると、そのファッションも普通のOLさんのようだ。
だから、街中で近藤芳正に声をかけるシーンは、彼が即座に彼女と判るのがちょっとビックリするぐらいでさ。いや、私が人の顔を覚えられないだけなんだけど(爆爆)。
ちなみに、近藤芳正演じる黒澤は、幼い頃、自身の父親を刺して、返り血を浴びたところに、彼のボスとなる男と出会った。つまり、ボスが踏み込んだところに現れた訳で、見込みのある子だと、引き取られたのだった。
冒頭がそのシーンで、そこからいきなり50年後に話が飛ぶ。正直、このタイムリープ的な場面転換はあまり好きじゃない。てゆーか、かなりキライ。何年後、とかゆー展開が出ただけでダメ、と思っちゃう。なぜと言われても困る、これは生理的なものかもしれない(ダメだろ!)。
うーん、なんか都合がいいというか、説明的な感じがしちゃうというか。こんな過去が、トラウマが、事情があるから、今の彼がこういう生き方してるのは仕方ないとか、そういう風に感じるからイヤなのかなぁ。あるいはただ単に、現在の時間軸の芝居だけで勝負してもらいたいと思うからかもしれないけれども。
彼に殺しを依頼するのは木下ほうか。政府につながるようなかなりな大物もからんでくるような仕事を、長年の知己である彼を信頼して依頼する。
長年の付き合いだけれども、依頼して呼び出す場所は、常に彼の経営するバー……というか、営業しているところは見たことないけど、とりあえず看板はそんな感じの、メッチャ薄暗い場所で、札束積み上げて、時に凶器も用意して、標的の資料をペラリと渡して、じゃぁ、頼んだぞ、とね。
この場所の雰囲気もほうかさんも、思いっきりベタというか……。なんていうかね、凄くハードボイルドやりたいーーーっ、でもそれだけじゃ勝負にならないから、意外性で近藤芳正持ってきました、みたいな、だからそれ以外は、マンガみたいにベタなんだよなあ。
確かにほうかさんはこんな闇の世界も似合うけど、せっかく近藤芳正と組ませるんなら、打ち合わせの場所も俗世間の雑然としたところで、よれたサラリーマンに見える二人が、こんなところで実は恐ろしい話をしているとかさ、なんかそーゆー方が面白い気がするんだけどなあ。なぁんて、素人考えだけどさ、確かに。
でも近藤芳正の意外性以外は、ハードボイルド直球、しかもオールドファン向けみたいなベタさを感じると言うか……。
そらまあ、ボギーだって身長が低くてイケメンというんでもない、そういう意外さがあったと思うさ。でも、やっぱりそれはそれなりの、戦略が練られていたと思う。そういうのが感じられないというか……。
いや、近藤芳正がハードボイルドの初主演ということプラス、ベテラン殺し屋が老いを感じて引退を決意する、ということも、本作の大きなキモであった。確かにそれは面白いと思った。でも近藤芳正がハードボイルドの厳しさそのままに、その事実を受け入れがたく渋面を作るのが、ここに至ってもヤハリ、やわらかなイメージの彼からなかなか離れがたくて、部下たちが彼にイライラするのに対して、上手く共感出来ないままであった。
イライラするままに、お気にのホステス、英里紗嬢を強引にホテルに連れ込んで押し倒すのも、ねぇ。そもそも“いつものように”という感じで買った女にズコバコやるシーンから始まるのが、こういう世界の男、のいかにもと、近藤氏のギャップを植え付けようという意図がちょっとミエミエな感じがして、なんだかイヤだったのだ。
女の気持ちとして言えば、たかが上客、まぁ、無口に優しくしてもらった印象が良かったというのがあったとしても、それだけで、連れ込まれて押し倒されて「……いいよ」と、彼自身の悲しみを察したような顔で言うのは、理解できない。ホステスに、いや女に、慈悲を求め過ぎであると思う。
あぁ、ヤバい、またフェミニズム野郎が顔を出してしまう(汗汗)。そら、あんなロクデナシの浮気性のカイショなしの彼氏がいたら、こーゆーおじさまになびいてしまうのかもしれんが、レイプ行為が、彼自身の苦しさから出ているだなんてことを思う女は、よっぽどの慈善家か、よっぽどのバカのどちらかだよ。彼女がどちらかはしらんが(爆)、こーゆー描写を許す訳にはイカンのだ!!
ターゲットに抵抗されて鼻血出したり、大事な仕事の日に寝坊したり、若い部下から厳しく言われて、意気消沈した彼は、引退を決意する。後は若いモンに任せて、自分はしばらくゆっくりした後、田舎に引っこむよ、と。
しかし案の定、若いモンが問題を起こす。それも致命的な。深入りするなと言ったのに興味本位、いや優越感だろう、殺し屋が知ることが出来る裏事情の優越感に溺れそうな雰囲気がアリアリだった若手が、にっちもさっちもいかなくなった。
てか、部下は二人しかいない。どちらもワカゾーだが、先輩格の方は、それなりに落ち着きと理性を兼ね備えている。そもそも老いを感じるほどにキャリアを重ねてきたのに、部下が30代……も前半位のワカゾーだというのは、このオチのためだけなんじゃないかと思っちゃう。だって、見るからにワカゾーで、見るからにうぬぼれ屋で、見るからに愚かなんだもの。
そりゃこうなるよと予測が出来る。可愛い部下を自分の手で始末しなければならないという、いわゆる大オチが予測できちゃう。
先輩格が後輩を助けたいと泣きついてきて、それだけの覚悟があるのかと思ったらアッサリ行方をくらます、という展開が、もうちょっと観客にショックを与える工夫があればいいのになと思った。
そもそもこの先輩格も黒澤はそれほど信頼している描写がなく、口だけで後は頼む、って感じだし、後輩を助けたい、という描写もほんの一瞬で、次のカットでは裏切りを告げられるから、オドロキがないんだよね……。
黒澤は、ほうかさん演じる依頼人に殺されるのかと思った。いつも同じ場所で打ち合わせしていたのに、わざわざ黒澤のマンションを訪ねるし、それっぽい会話もするし、こりゃダメだ、でもそれが、非情なるハードボイルドよね、と思っていたのが、そうはならなかった。
黒澤が可愛がっていた部下を自らの手で始末をつける、という結末は確かに非情だけど、そっちを選択して、長年の付き合い、男同士の友情をとった方が甘い気がした。
復帰するんだろ、と言われて、何とも言わずに別れた黒澤だが、いかにもカッコよくラストクレジットに合わせて通りをウォーキングされる結末には、ムズムズしちゃう。どうしても、最後まで、近藤芳正のハードボイルドには、慣れなかったなあ……。★☆☆☆☆
この女優さんが観たことあると思ったのはピンクではなく、「おだやかな日常」あたりであったのかもしれない。痛々しいほどのスレンダーで、脱いでもちっともエロくないあたりが、本作の彼女そのものの痛ましさを感じさせる。
不思議。だって、役柄設定は、父親はアル中、母親は男を作って出ていき、自身は万引きで補導歴二回、そしてパート先のスーパーの納入業者から誘われ、イイ年こいてエンコウ、なんていう、堕ちていく女くささそのものなんだもの。
彼女に岡惚れする佃煮屋は乃梨子が既婚者だって判ってるのに猛攻撃、彼女がエンコウとして応じてからは、「5万出しますから、他はやめてください」というぐらいののめり込みぶりだしさ。
でもそうしたすべてのことが本当に不思議に思われるほどに……なんだかちっともエロくないのよ。その小さな胸がピストン運動で小刻みに揺れても、哀しさばかりを感じてしまう。
それでも彼女にとって失うわけにはいかない穏やかな幸福を守るための手段で、驚くべきことに夫もまたそれを容認、どころか積極的に許している。こんな夫婦関係があるのだろうか。
いや……いくらなんでもこのエンコウ関係は秘密にしていると思っていたからこその、オドロキだった。エンコウ相手、戸高との子供を彼女は宿し、その次のシーンではダンナが「相手はカネを持ってるんだろ。いいじゃないか。子供は風の子。誰の子でもないよ」とまるで屈託なく言うことなんである!!
ダンナとの間の一人娘と思っていた子でさえ、そうじゃなかったんじゃないかと疑いなくなるほどのあっさりさ加減で、……でも、もしそうなら、逆にステキだと思う、と言ってしまうのは問題アリだろうか??
だって日本の実子至上主義にウンザリしているこっちとしては、同じ命には変わりないじゃんと思っていたところにすんなりとハマる価値観だったんだもの。「子供は風の子、誰の子でもない」なんて素敵な言葉なんだろう!……だからこそ、乃梨子にはこの子供を産んでほしかったと思ったけれど、堕ろした、というのは本当だったんだろうか??
……相変わらず、流れで訳判らんまま進んでしまった。少し概要説明。そもそも乃梨子がエンコウなんぞを始めたのは、ダンナが仕事を辞めてしまった、それどころかそれが一年も前で、退職金もすっかり使い果たしてしまった(まあつまり、毎月の給料として差し出していたということだろうな)から。
「これからどうすんのよ」と判りやすくダンナを責める図式が現れた時は、あらま、さしもの才あるクリエイターも、こんな俗世間の価値観に落ちたか、と思ったが、そっから突き進む乃梨子の道筋は、俗世間どころではなかった。
ダンナを演じる川瀬陽太氏。なんかすっかりイイ感じの中年っ腹(爆)。でもそれが、ちょっとトンがってた今までの彼のイメージを一新させていて、すべてを諦めているようで、妻も子供もちゃんと愛している、頼りないようでここ一番には頼りになる(クライマックス!)中年男を、哀切感たっぷりに体現していて、あら、この人こんなにイイ男だったかしらん、などと思ったりする(爆)。
女にとっての男、あるいは家族になる男として見る男は、単純なイイ男のモノサシとは違うのだ。
そりゃあ、中盤までは、こんな頼りにならないダンナはないと思ったよ。相談もせずに仕事をやめちゃって、妻にいらん苦労をかけてさ。
でも……彼が一年言えなかったことや、一年言えなかったけど家族を愛しているから、妻の両親のように逃げずに告白し、その後は日雇いで稼いでいる姿が、なんか泣けるんである。
彼が仕事を辞めた理由……警察官だったんだけどね、辞めてしまった理由は、ハタから聞けばかなりアイマイな理由に聞こえる。どうしようもできない、そんな風に言っていたと思う。ゴメン、正確な言い回し、忘れた(爆)。
そしてそれを聞くのが、佃煮屋の戸高をぶっ殺し、死体をトランクに詰め込んで山中に埋め、ほっと一息ついたホテルのベッドの中だったんである。
「言ってもわからないよ。でもお前だってそういうこと、あるだろ」矛盾しているようにも聞こえるこの言い方はでも、こんなにも妻を、イチ人間として尊重している言葉はないと思う。
時に、女なんかに判らない、と言いがちな世の男たちが、彼のように仕事を辞めたことさえ言えないのとは、ちょっと違うのだ。確かに仕事を辞めたことを言えなかったのは情けないことだけど、それは妻に判ってもらえないと思ったからじゃないのだと。
一方の佃煮屋さん。これまたピンクのクオリティを支え続けてきた吉岡睦雄。彼はさあ……まるで純粋に乃梨子に恋をしていた、のだろうか。既婚者で、子供までいる彼女にアプローチしたのは。
いやでもそれは、あまりに優しすぎる見方か。既婚者で、子供までいるからこそ、深入りせずに、セックスだけ楽しめる相手になれると考えたとフツーなら言えるではないか。
でも、「5万出すから、他の相手はやめてください」とまで言うぐらい、そして、地方から営業に来ていたのに乃梨子の家の近くに部屋を借りるぐらい、だったのだから。
でも、乃梨子が「堕ろしたんだから、今までどおりだよ。やろうよ」と言ったとたんに豹変した。「このばけものが」と彼女の首を絞めにかかった。本当に殺そうと思った訳ではないと思う……いや、それは、逆に彼女に殺されてしまったからこその、贔屓目に見すぎなだけだろうか??
エンコウの関係だったけれど、海へのデート場面なんかもある。これがひどくセンシティブというか、いや、もっともっと、心の中をかき回しまくる感じなんである。
それは判りやすく、やたら手ブレを強調するカメラワークにもよるんだけれども、そのある意味わざとらしさが、確信犯的描写が、内的描写、心理描写の強いメッセージを感じて、主張を感じて、圧倒されてしまう。
だって、海へのデート、なんだよ??波打ち際ではしゃいで、びしょ濡れになって、そんな少女マンガみたいなことして。
でも乃梨子はネックレスをなくしたことに動揺する。こんな砂浜、そして海ではしゃぎまくったんだから、見つかる訳ない、戸高はそう言うし、乃梨子だってその結論に行き着くんだけれど、それまでの、酔ってしまいそうなほどのブレブレのカメラワークに、ただならぬものを感じるんである。
なぜ、なぜそんなにまでして、そのネックレスにこだわるの。特に強調して映していたわけではなかった。なんてことはないネックレスに見えた。ダンナからのプレゼントなのかなとも思ったが、それを匂わせる描写もなかった。
結局、その件についてはナゾのままに終わるんだけれども、でも……日常を、穏やかな日常を失うことを恐れたのかな、と思った。
何か平凡な結論だけれど、でも、それを失いたくないがためにイイ年こいたエンコウに踏み切ったのだとしたら、そう考えれば、ネックレスひとつがパズルのピースをひとつ失うように、崩れ去るキッカケになることを恐れる気持ちも判るような気がした。
穏やかな日常というけれど、それを幸福と言い換えられるほどの描写がないのも、乃梨子に対して感じる痛々しさの一つなのかもしれない。
パートに出てはいるけれど、専業主婦のようなもの。たった一つの外の世界のパート先のスーパーでは、同僚と話す場面すらない。まるで彼女だけがレジ係のようにも見えるこじんまり加減、戸高と口ずさむ、店内に流れるテーマソングの安っぽさが、そのまま彼女の世界を示しているよう。
今日は、明日は、献立は何にしよう、ハンバーグか、から揚げか……そんな歌詞。いかにもとりあえずな定番のおかずを並べる歌詞に、本当に献立に悩む、あるいは料理を楽しんでいる主婦へのリスペクトは感じられない。そしてそれをともに口ずさむ戸高にも当然、判ってる訳は、ないんである。
戸高は、見合いをしている。見合い場面があらわれるんじゃなくて、その相手に「僕の趣味は金儲けとセックス!」と言い放って断られようとしたのに、「だったら私と同じ」と言われる場面からスタートする。
その場所が、しんとぬめるような海面をたたえる、おそらく佃煮の海苔を養殖していると思しき桟橋の上、なんである。
昔くさいパンプスを履いたその見合い相手は、乃梨子とは正反対のタイプ、若くて肉感的な、おっぱいの大きな女の子。好みの違いはあれど、素直に考えれば、男子はこーゆー女の子とセックスしたいんじゃないかなと、ストレートに思わせるような。
戸高は乃梨子に見合いしたことも言うし、修羅場になるとかいうことはない。ただ、この見合い相手の女の子にとってはそりゃ耐えられないに決まってる訳で……。
でも正直、ちょっとカラミ要員(ちゃんとエロを感じさせるという意味での(爆))な気もし、彼の携帯を勝手に捕獲して、乃梨子からの連絡を断つという描写もありがちで、その後あっさりと彼と別れちゃったということを、台詞上だけで示すのはどうなのかなあ……。
でも、しょうがない。戸高は乃梨子にすっかり執着してしまっていたのだから。だからこそ、殺されてしまったのだから。
佃煮屋のおぼっちゃまではあるけれど、小さな商店、決して余裕がある訳じゃない。消費者金融からの督促状で、母親にそれと知れてしまった。
追いすがる母親に、車のウィンドウ越しにクシャクシャの笑顔を見せた、のは、安心させようとしたのだろうか?あれじゃ、逆効果だ……ハッと立ち止まったように動きを止めた母親が、安心どころか、もうこの子を救えないと、瞬間的に察知したことが判っちゃう。
まさか殺されるとまでは、この時点では推測できなかったけれど、あのストップモーションの笑顔は、破滅しか予測できない。でもなぜ、そう思ったんだろう……。
時間軸を短時間で前後させる、あの時、実はこんな顔してた、みたいな手法が、こんな、たまらなく刹那的な予感を確信に変えてしまう。
乃梨子は、確実な職に就きたいと、医療事務の勉強をして、見事に合格した。スーパーを辞めて、就職活動を始めた。でも上手くいかない。戸高から、そんな甘いもんじゃないと、せせら笑われた。
せせら笑う、というまでの気持ちはなかったとは思うけれど、観客には、そして当然乃梨子にも、そう思えたに違いない。
彼の言うことは判る。いかにもキャリアを得られそうに見える資格が、だからこそそれによる就職の競争率も高く、中途採用が難しいこと。資格だけではキャリアにならない。資格だけなら若い人材を欲しがるに違いないことを。
家庭環境も厳しく、自身もそれなりに苦労してきた乃梨子が、そんな甘さがあること、ある意味では、世間知らずで、純粋であったことが、判る。
あのね……彼女が取り返しのつかない事態を犯して、ダンナに助けてもらって隠ぺいを図るじゃない。むしろその時から、まるで透明な湖のように、まっさらを感じ始めるのよ。
動揺してしまった。そんなことを感じてしまうことに、なぜ、なぜ、と。だって彼女は殺人を犯し、それを、元刑事というダンナのコネクションを駆使して隠ぺいをはかり、恐らくそれが成功してしまう。罪の意識とか、そういうことを飛び越えて、彼女の瞳は、誰も訪れない山奥の湖のように澄み渡る。
おそらく相当久しぶりだろうと思われる、ダンナとのセックス場面でその、恐ろしいまでの澄み渡り加減は顕著である。
殺人への罪の意識なんぞという、判りやすい(これを判りやすいと言ってはいけないんだろうが……)感触はそこにはなく、ただ、取り戻した夫との信頼関係、……それを愛と言っていいのなら……いや、愛だよな、きっと、愛だ……を、本能的に察知したような静まりかえり状態。
観ている時、ウッカリ人を殺しちゃって、それをこっそり埋めて、コトの隠ぺいを図る、って、なんかそーゆー話あったよなあ、と、観てる時には思い出せてたんだけど、忘れちゃった、ゴメン(爆)。
エンコウ相手のささやかな別宅の生活用具と、彼を殺した後始末の道具をそろえるのが、双方100均だってのが、なんか泣けるの、リアリティありすぎて(爆)。そしてそれがそれぞれ、違う100均だってのが、これまた妙なリアリティ。
戸高の生活用品を揃えたのは、シルク&ミーツ、戸高を殺した後始末をつける用意をしてきたのは、キャンドゥ。シール機能付きの袋はおそらく布団圧縮袋。
「こいつ、デカいな!」という台詞と相まって、出来ることなら掃除機で吸い込んで、圧縮しちまおうと思ったんだろう……コワッ!
隠ぺいし終わって、牛丼屋で二人、黙々と、どころかガツガツとかっこむシーンが妙にリアル。人を殺して埋めた後の牛丼はウマイのかも……いやいや(汗)。
でも本当に、妙にウマそうなの。日本中で見つからない失踪者がめっちゃいるということを思わず考えてしまったりする。こんな風に、知らずに殺されてしまっている、それを追及されない、寂しい人が、たくさんいるのだろうかと思ってしまう……。
これはひょっとして、愛の物語だったのだろうか??遺体の入ったトランクを埋め終わり、ホテルに泊まり、ダンナとセックスし、翌朝目覚めると、ダンナはいない。真っ白いシーツにくるまれて、乃梨子は明るい窓の外を見やる。そこでようやくタイトルが現れ、彼女の歯磨きシーンで終わる。
ダンナは、どこに行ってしまったのか、どこかに行ってしまったのか。もしそうなら、乃梨子の望んでいた穏やかで幸福な日常はどうなってしまうのか。それともそれは、いざダンナがいなくなってしまえば、どうとでもなる話なのか。
判らない、これは乃梨子の勝ちなのか、それとも……結論を見たがるのは、悪い癖だと思うけど、でもあのダンナにも幸せになってほしいと思うからさ、それだとこのラストは、……さあ!★★★★☆