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「せ」


2018年鑑賞作品

聖なるもの
2017年 90分 日本 カラー
監督:岩切一空 脚本:岩切一空
撮影:岩切一空 安田瑛己 音楽:有泉慧
出演:南美櫻 小川紗良 山元駿 縣豪紀 希代彩 半田美樹 佐保明梨 青山ひかる 松本まりか 岩切一空


2018/4/16/月 劇場(ポレポレ東中野レイト)
「花に嵐」の監督さんだということはちらりと目にしてはいたけれど、それにしてものデジャヴ感である。えっ?これはアノ話の続きという訳なの??確かにあの時新入生だったアブラ君は今、3年生になっている。今はアブラ君とは言われていないけれど。
前作と同じく、監督さん自身が演じる、映画研究部の冴えない男の子、岩切君である。名前もまんま同じ。そして彼以外の登場人物も役名がまんま同じ。前回と同じく、これはマジでドキュメンタリーなのでは……という錯覚にとらわれる感じも同じ。そして、幽霊の女の子が出てくるところまで同じ!!
これをデジャヴ感と言わずしてなんという……。てゆーか、ユーチューバーになってしまった橘先輩も前回と同じかなあ。ちょっとそのあたりは自信ないんだけど(爆)。

だから正直、ソレ以外の作品を観たかったなあという気もするが、それだけPFF準グランプリ入選で単独公開にまでこぎつけた「花に嵐」が多くの人の心をつかんだ、ということなのだろう。
その前作もそうだったらしいが、本作はさらにフェリーニだの庵野秀明だのウテナだのへのオマージュが捧げられているという。……鈍感な私はちっとも気づかない(爆)。てゆーか、そーゆーオマージュ系は苦手である(爆爆)。てなことを、私前回も言ってた気がするなあ。基本的にミーハー系映画ファンだから、そーゆーアカデミックなことが苦手なの……。

まぁとにかく。岩切君は新入生の頃はともかく3年生になっても、映画研究会で孤立したままである。脚本を書いて先輩に見せても「お前は映画撮るなよ」とまで言われるし、新入生もちっとも勧誘出来ない。
「俺がお前に頼んだのは、お前が現役だからだよ。なんで一人も入れられないワケ」と理不尽なことを言う橘先輩は8年生。エラそうに言う台詞かっての、とか思ったり。こーゆーあたりが有名大学に跋扈していそうな赤裸々感を感じ、楽しくなったりする。
だって私が出たよーな無名大学は、そんなゼイタクな御身分でいられる余裕なんてないんだもの。これはやっぱり、有名大学故の遊び心よねーっ、と思うのは完全にヒガミだが。

岩切君は新歓コンパで久しぶりに会った先輩から、四年に一度現れる謎の美少女の話を聞く。その子をヒロインに映画を撮れば、大傑作が撮れるという都市伝説。この時点で、デジャヴ感が完璧になって、あれれ、また幽霊モノですかぁ、と思ったのは否めないところ(爆)。
ただ、前作の彼女が完全に幽霊(死んでるからね)だったのと違って、今回はそこんところは判然としない。岩切君以外の人にもちゃんと見えてるし(前回はどうだったかなぁ……覚えてない。彼以外には見えてなかった気がする)。

ただ、黙ったままひとことも喋らない彼女は、色白で長い黒髪で目が大きくて、てな風貌だから、照明やアングルの加減では時々ものすごーく怖く見える。目のギリギリでぱっつんと切られた前髪の下で輝く大きな目が、ものすごく怖い。これは意図的というよりは、本当に照明やアングルの加減な感じで、それが逆にヘンにリアリティを感じる。
女優としての彼女がナゾの存在とされているのが、本当にゾクリとする感じで。この謎の美少女の都市伝説を語られる時に使われるレトロな手描きアニメーションがまたうまい感じでそれを伝えているんである。

新歓コンパで会った先輩もそうだが、映画製作を手伝ってもらう小川先輩(公式サイトでは後輩と紹介されていたが、先輩だったと思うが……思い違い??)を演じる小川紗良もとても達者な演技者である。ええっ、えええっ!「イノセント15」の彼女!?うっそ!うわー、なんか、ナットク!!あの作品は凄く印象深かったからなぁ、なんか嬉しくなる。

彼女からも脚本をクソミソに言われる岩切君。でも南ちゃん(タッチからとった(爆))に出会った彼は、イラッと来るような強引な手法でこの優秀な先輩を引き入れちゃう。
彼女が優秀なのは、小川組と言われる美術倉庫でスタッフたちをキチンと組織して準備に取り掛かっているところからも明らかである。結果的に岩切君は小川さんにおんぶにだっこの状態で、彼女自身の出演も強引にとりつけ、スタッフも丸借りしているんだもの。

つまり彼自身に監督としての裁量はまるでない訳。その上脚本もクソミソに言われ……それを橘先輩に言われたシーンでは、8年生の立場にお気楽に鎮座しているイケメン先輩に頭ごなしで言われてお気の毒ぐらいに思っていたが、撮影が始まると、その陳腐な台詞回しとムリアリアリの展開、南ちゃんがひとことも喋らず謎めいているにもホドがあって不自然すぎる展開は、素人目にもヒドイのひとことで、フィクションとはいえめちゃめちゃセルフドキュメンタリーチックな錯覚を起こさせるこの作品で、そこまでのことをやってのけちゃうことに、凄いなぁ……と素直に感心してしまうんである。
自分の姿に置き換えながら、こーゆー場面をリアルに見てきている、それを描いているのかもしれないと思うと、ウム、なかなかにしたたかさん、と思っちゃうんである。

脚本の力不足の上に、陳腐な上に無意味としか思えない滝行シーンを強いたり、結果全然改善する気のない岩切監督に小川先輩のみならず、協力していた友人もイライラしていた矢先、誰もいない家を許可も取らずにロケーションに使ったことでマックスになっちゃう。
この場面で妊婦のハラを再現して見せる岩切監督自身の見事なお腹には思わず笑っちゃったが、事態は深刻である。急に帰って来たこの家の持ち主はこちらが不審に思うぐらい寛大だが、当然これは、犯罪行為なんである。
そのことに岩切君がイマイチ判ってないことに小川先輩は怒り爆発、完成直前だったが、彼女自身の映画製作も迫っていたし、もう手伝えない!!と長文メール(一瞬のチラ見せだったが、これがコワい。リアル)を送りつけてきて、それ以降、彼の現場は崩壊してしまうんである。

ところでなぜこの事態を説明するモノローグが彼自身ではなく、誰かしらん女の子の声なのだろう??あれは南ちゃんの声なのだろうか??判らない……だって、南ちゃんは一言も喋らないんだもの。だから不気味度は増すばかりである。
最初にこの都市伝説を教えてくれたサバサバ系女子先輩が、「あれ、南さんじゃない!?」と言って岩切君と共に追いかけるシーンは、往年のホラー映画を思わせる地味な怖さである。確かに前を歩いている筈なのに、しかも普通の歩行スピードなのに、走っても走っても、追いつけない。

てゆーか、この女子先輩がイライラするほどに岩切君が、まー言ってしまえばデブだから(爆)、ぜんっぜん追いつけないからなんだけどさ。
この作品は全編そうなんだけど、岩切君のセルフカメラを通しているから、走って追いかけるシーンなんかブレブレで、このシーンで完全にカメラ酔いして、おえっぷ状態(爆)。うーむ、普通の作劇の映画を撮ってほしい。これは辛い。

レイトショーだったこともあって、ラストのクライマックス、かなり記憶がとぎれとぎれである。うーむ、スミマセン、オチは結局どういうことだったのだろう……(映画観る資格ナシ!!)。
てゆーか、唯一の頼みの綱である小川先輩を訪ねて行ったら、姿を消してしまった南ちゃんと小川先輩がラブラブな雰囲気で、岩切君は戸惑ってしまうのね。あれってどういうことだったのかなぁ。撮影の合間に彼女たちは親しくなったのか、それとも……。

なんかキレちゃった岩切君は、特撮映画よろしく小川先輩のスタジオでよく出来た美術セットの中、ゴジラになったかのごとく暴れまわる。そしてこのあたりからかなり私の記憶もあいまいなのだが(ごめんなさーい!!)なんか、海辺で撮影してたりする。
ジャージ姿の小川先輩と南ちゃん。南ちゃんは、いつも同じ黒いワンピースなのよね。勿論撮影の時には高校生役で制服を着たりもするが、生活感がない、現実味がない。いやだって、きっと幽霊だから(爆爆)。

南ちゃんに入れ込むあまり、いや、どちらかというと、彼女を撮る人間に選ばれること、その作品は大傑作になること、という都市伝説事態に踊らされて、岩切君は身の丈に合わないムリを繰り返し、崩壊してしまった、のだよね。
そもそも南ちゃんに魅入られて、勝手に“一緒に住む”とかいう決断を下した時点でアウトだし。そのことを知った小川先輩の、あ、そうなんだ……というあぜんとした表情が忘れられない。

その“一緒に住む”間、何かが起きたのだろうか。劇中、そうしたことは一切語られないし、なんせ幽霊だし(多分)、岩切君自身の妄想が100%だった気がしてならない。彼の中では南ちゃんとひとつ屋根の下で、××的なことがあったのかもしれない。そういうことは全然描写されないけど。ちょっと惜しい気もするけど。
でもそうなると、南ちゃんの存在が本当に幻だと決定されちゃうからなのかな。それは確かにつまらない気もするが、でもでも、最初から“幽霊か、妖怪か”と言っている訳だし。

本作の一番の魅力は恐らく、前作もそうだけれど、映画業界のひとつ、学生の中での世界ではあるにしても、映画を作るという意味では小さな映画業界の、もう根本にすべての人間の有象無象、愚かさや汚さ、大人になってから見つめ返せば身もだえするほどの恥ずかしいうぬぼれやプライドが充満しているからだと思う。
大人になってからなどと言ってしまったが、どんなに大人になっても、おっさんおばさんになっても、そのことに気づかず、誰かを見下し社会を見下し、結果それが自分自身が見下されていることに返っていくという恐ろしさを思って、戦慄したりするんである。

まぁとにかく、この監督さんの、この世界以外の作品を観てみたいと思う。オマージュはもういいんで。どうせ私、判んないし(爆)。
ところでこれは、ムージックラボの一作だという。確かにワザとらしい感じで、この会ったことのない先輩の音楽を使いたい、とか紹介するし、その音楽は素敵だけど、正直、エンディングでじっくり聴ける感じで、映画自体に音楽そのものが効果的に使われているという感じはしなかったなぁ。
本作の一番の収穫は、「イノセント15」のあの子!!と感動した小川紗良嬢。作り手でもあるという彼女の今後に注目したい。★★★☆☆


西北西
2015年 102分 日本 カラー
監督:中村拓朗 脚本:中村拓朗
撮影:關根靖享 音楽:中里正幸
出演:韓英恵 サヘル・ローズ 山内優花 林初寒 松村龍樹 田野聖子 高崎二郎 中吉卓郎 大方斐紗子

2018/9/24/月 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
あぁ、日本でもこういう作品が出てくる時代になったんだなぁ、と思う。 でもおかしいかもしれない。だってマイノリティは時代によって存在するのではなく、いつだって存在している筈であり、ただそれが顕在化していたか否かの問題であり。
顕在化していないと、アイデンティティやそれを共有するパートナーを探すことも難しい。確かにこれまでは不幸な時代であったんだろうと思う。 でも本作の彼女たちを見ていると、顕在化した今、アイデンティティを見つめることが出来ても、パートナーを得ることが出来ても、そのことによって他者との溝や自分自身の浅さを感じたりして、もっと孤独になってしまうんじゃないかという気がする。
ケイやナイマやアイを見ているとそう感じる。
判り合いたいと願っているし、判り合っているとも思うのに、相手を大切に思えば思うほど、何が彼女にとっての幸福か、判らなくなる。

ケイを演じるのは韓英恵。素晴らしい役者。そんなことは判っていたが、メインで見ることはそれほどなかったので、今回は本当にガツンと来た。
スレンダーながら、ちらりと見えるタトゥーがなんとも煽情的で、たまらなくセクシー。そのクールな寡黙さが、アイのみならずノンケの女子もドキドキさせてしまうような。……女にはどこかに、疑似レズ気質があると思うから……。

年若い女の子、アイをパートナーに持つ。アイはそれが束縛だということも気づかずに、ケイの気持ちを執拗に確かめたがる。ナイマの存在にも激しく嫉妬する。友人なんて価値観が、存在する訳はないとまで言いたげだ。
それは、彼女たちが同性で愛を育んでいるということだけではなく、いやむしろ、それとは関係なく、アイはケイしかいない、友達なんていうものはウソの価値観だぐらいに思っているように感じられる。

そしてそれは、なんだか判る気持ちだから、ドキリとするんである。よく、女の間に友情などないだろうと言われる。それは、女が、男よりも恋愛に深く重きをおくからのように思われる。
もちろんそれも、単なる偏見に過ぎないのだけれど、それは女性が家庭に入るべく差別がかけられてきた時代があったからゆえの、選択肢の狭さだったんではないかとも思う。なかなかその価値観を完全に拭い去ることは、難しい。

その恋愛対象が、同性である女性であったら、余計にその意識は狭くなる。友人すら、持てなくなる、という道理が通ってしまう。
こんなこと書いたら、怒られちゃうかな。でもそれが、社会で選択肢を奪われてきた女性の、実情なのだと思ったりもする。

ケイが、ナイマからレズビアンなのかと言われて、苛立たし気に再三否定するところに、そういう複雑な胸の内を感じてしまうのだ。
でも、観ている時には、ナイマの戸惑いと同じように、なぜそれを頑強に否定するのだろうとも思ったのは事実。好きになるのがいつでも女性なだけ。それがレズビアンということでしょう、とナイマが言うのは何も間違っていない。でもケイは、だから違うから、とシャットダウン。

レズビアン、という言葉、あるいはゲイやバイセクシャルでもそうだけれど、それがそのまま生々しくセックスだけを想起させるという事実が、明らかに当事者たちを悩ませているのは事実だろうと思われる。ゲイだ、レズビアンだと言ったとたんに、ストレートの人たちにはそんなことはないのに、すぐにその性生活を想像され、時にあからさまに問われたりする。
劇中、アイが急性虫垂炎で入院した時、かけつけた彼女の母親が、ケイが彼氏ではなく彼女だったことに「気持ち悪い」と直截な嫌悪感を示すのが判りやすい例なのだ。彼女はつまり、まずセックスを頭に描いたに違いないのだ。

ケイが、いわば自信を持って、誇りを持って、自分はレズビアンなのだと言えない、こんなクールでカッコイイ女性なのに言えない、というのが、端的に示されている。
そしてそれを、邪気ないどころか、邪気以上の戸惑いという無垢さをもって、でもそれがレズビアンでしょう、と問い返すのが、ムスリムのイラン人留学生、ナイマである、というのがひどく意味深いんである。

ケイとナイマはカフェで偶然に知り合った。というのも、ナイマが故郷の友人に悩みを電話で打ち明けているのを、うるさい!となじった客と、それでたしなめにきた店員、そこからケイが救ったんであった。
この出会いのシーンは鮮烈である。マナーを美徳とする日本のいいところのように見えて実はイヤな部分を、見事にすくい上げている。そう、私たちは話をしているだけ。そうやって店員と客をはねのけたケイはカッコ良かった。
でもきっと、様々に置き換えられるのだ。ただ人を好きになるだけ。それが同性だってだけ。どんなことにだって。

ナイマを演じるのはサヘル・ローズ。存じ上げてはいたけれど、役者として演じているのは初めて見る。彼女のような存在が日本で活躍しているからこそ、本作のような意義深い作品が出来上がったに違いなく、まさしく彼女の存在ありきで、監督さんの創作意欲がかき立てられたんじゃないかと夢想したりする。
だってなんたって、タイトルである西北西は、ナイマが祈りを捧げる方角を意味しているんだもの。ケイのマンションで祈りを捧げようとすると、「ここは磁場が狂ってるの」とぐるぐると方位磁石が回転してしまう。ケイのスマホで方角を確認して、ナイマは静かに祈りを捧げる。それをケイはじっと見つめている。

後にアイを含めた三角関係やらでごちゃごちゃした時、「祈りの時間だよ」「あとでまとめてやるから」「そんなのダメだよ!」ケイの方がナイマの祈りに執着したことに、ナイマは驚いて顔を上げた。
もしかしたらナイマにとっては、習慣に過ぎなかった、過ぎなかったなんていったらアレだけれど、そういうもので、自分自身の、個の問題を優先しようとするのは、別に普通のことだったのかもしれない。
でもケイが怒ったから……ケイにとって、ナイマの祈りがきっと大事なことだと、何より大事なことだと、そう思ったのをナイマが汲み取って、さ……。

日本人はまだまだ些末な情報しか得てないもんだから、もう宗教的に恋愛はダメだろうとか、同性愛はもってのほかだろうとか、勝手に推測しちゃってさ。いや、ケイはナイマに惹かれてしまったから余計にそんな予防線を張ってしまったのか。判らない。
ケイはアイのことを本当に好きだった筈。若くて傍若無人でわがままで独占欲が強い、メンドクサイ子だけれど、ナイマの言うとおり、「誰よりケイのことを愛している」のだった。ケイがアイに「いつか、アイは男の恋人を作る」と言って別れを告げようとしたのは、アイの将来を思ってとか言いながら、自分に自信がなかったのか、それはアイを愛する自信なのか、それともアイに去られる不安なのか。

……後者だろう、と思う。レズビアンだと言われることに殊更にこだわっていたケイを思う。アイが男の恋人を作るか否か、そもそもアイの性的嗜好が本質的にどっちなのかを確かめることをしていただろうか。怖かったのか、あるいはアイとの関係を、セックスに絡めてしか判断されないような価値観で計られたくなかったのか。
どっちもあったように思う。そして何よりアイが大切だからこそ、この偏狭な日本社会では、“男の恋人”の方が、無難に生きられたり、するんだもの。ああ!!

アイがナイマに嫉妬して、猫みたいなバッチリメイクして、生々しいセックスの時の描写なんかして、ナイマを牽制する場面が、痛々しくて、けなげで、可愛らしくて、仕方ない。
この時のナイマにはまだまだ判ってない。ケイとアイは真実愛し合っているし、でもそれが、まだまだナイマが戸惑う、性愛というものを抜きにしては語れないことを。

ナイマは付き合った人どころか、好きになった人もいないと言った。真面目な学生で、敬虔なムスリム。中華系が多い大学ではなかなかコミュニティーになじめない。でも、親しく接してくれるチャイニーズガールがいるのに。
その仲間に入ることが出来ないのは、言葉以上に宗教的壁があるからなのか。いや、そんな風に考えることこそ、宗教で恋愛に制限があるのかもと考えてしまうケイのような、つまり日本人の典型的な差別意識なのだろうか。

ケイはナイマに恋をしかけたけれど、ナイマにとってケイは大事な友達だった。嫉妬で押しかけて来たアイにその旨伝えるけれど、そんなことはアイにとっては生ぬるい言い訳にしか聞こえなかった。
友達って、そんなに弱いものなのかと思う。先述したように、男性は時に女性の友情をそんな風に言うけれども、じゃあその性差って何。男の友情は、アイにとってのケイへの思いに勝るのか。

アイは言ったのだ。「あんたなんかに判らない。ケイを見つけ出すことがどんなに大変か」それは一見して、レズビアンの恋人を見つけることという、俗っぽい見方も出来るし、それも外れてはないだろうが、アイの気持ちは当然、違うだろう。自分にとってのたった一人の相手、世界中にたった一人の愛する人に出会うことがどんなに奇跡か。
レズビアン、という言葉にとらわれているナイマには、やはりまだ判っていなくて、でもこの時、きっと感じ取れたんだろうと思う。ただ習慣的に、盲目的に、信仰心のあるというアイデンティティだったナイマが、西北西という信仰の方向が、磁場が狂ってケイやアイに出会った時、その本当の意味を考え始めたのだ、きっと。

後から思い返すと、イヤな脇役以外は全く男性が出てこないので、本当にストイックに絞り切って、描いたであろうことに感嘆する。そう、イヤな脇役……ナイマが勇気を振り絞って歌ったカラオケをヘタクソ!とヤジを飛ばす酔客とかね。
つまりはこれも、カフェでうるさい!と怒鳴ったおっさんのように、静かなことや、歌の上手いことにマナーを強いるくだらなさなのだ。そしてそれは、実に男性的な偏狭さなのだ。あー、くだらないくだらない。
女にホステス的な意味を無意識に抱いている男どもを実によく示していて……でもそれを描いているのは男性監督なのだ!なんかクヤシイ!!なんて思っちゃうことこそ、ジェンダーフリーの時代に、古い、古いぞー!!!★★★★☆


赤色彗星倶楽部
2017年 82分 日本 カラー
監督:武井佑吏 脚本:武井佑吏
撮影:渡邊雅紀 音楽:笠野孝介
出演:羽馬千弘 手島実優 櫻井保幸 ユミコテラダンス 平山輝樹 ひとみちゃん 三輪和音 山口陽二郎 神崎みどり

2018/2/11/日 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
タイトルがやたら魅力的で足を運んでしまった。これは人気女優さんが出ているんだろうか、舞台あいさつにぶつかったら満杯!ポレポレで立見席まで出るなんて、経験ない(爆)。
印象としては学生映画っぽいなあというのが正直な感想、と思ったら本当に学生映画だった。いや、そんなことが言えるほど学生映画を観た経験がある訳じゃないけど。どころか、学生映画は観た経験、ないわ。

なんでそんなイメージがあるんだろ。ヤハリそれは解説でもチラリと触れられていた、大林監督的匂いを感じるからなのだろうか。天文部、夜の学校に忍び込む、文化祭の準備、もうそこまでで懐かしいぐらいのむせ返るような懐かしの学生っぽさ。
今っぽさが感じられるとすれば、昼休みでも覇気がないとしか言いようがないだらだらさ加減で教室にたむろしている、あの感じだろうか。授業中に紙を回すなんて今でもやっているんだろうか。なんだか昭和の一こまを、それこそ私の時代の高校生活を覗き見ているような気がしてしまった。

ラストクレジットで埼玉県の高校がロケーションとして使われていることを知る。ということは、あのイイ感じのド田舎加減は(失礼!)埼玉ということなのだろうかと思う。
幼なじみのジュンとハナ。「自転車がパンクしたから乗せてってよ」「いいよ」なんていうことが、この年頃の男女の間で、付き合ってもいない間で交わされるのいうのは、幼なじみという感覚が判らない転校生の私にとっては、なんともまばゆいんである。
でも彼らが幼なじみという関係というか感情をどう思っているのか、というか、扱いかねている感じはして、それがこの10代のかゆい感覚なのだろうかと思う。友だちとも違う、恋愛感情とも違うけれど、他の異性と仲良くしているのを見ると胸がチクリと痛むような。

ジュンは天文部。彗星と同じ物質を持つ彗星核を作ることにのめり込んでいる。というのも、数十年に一度訪れる彗星が横切る時、大きな磁場が発生しタイムパラドックスが起こる、という説を、あやしげな天文学者が論文にして発表し、話題になっているからなんである。
そのテレビを天文部の連中はもちろんもれなく見ているが、彼ら以外の学生は、恐らく知りもしないだろうと思う。てゆーか、アヤしすぎる名前で頭にも残らなかった、デジータだかドジータだかいう名前のひげ面の男の、思いっきり大げさな身振りで磁場が磁場が、というテレビ番組は、コントというにもお粗末な(といったら、コントに失礼か)映像で、ちょっとこの時点でかなりテンションが下がる。

タイムパラドックスっていうのは、映画や漫画や小説がそれなりに好きな学生時代を送れば必ず遭遇してハマってしまう青春の瑕みたいなもので、それを聞くだけで懐かしさと照れくささで胸がむずがゆくなってしまうほどなのだ。
その“説”を半ば本気で信じているらしい天文部員たちの姿に、なんともたまらない思いを感じてしまうのは、私だけ……ではない筈。

ハナは剣道部である。見た目もイケてるしいかにも闊達なハナは、部内に言い寄られているイケメンもいる。
ジュンとの仲にヤキモチを焼いて、このイケメン君に責められる場面もあるが、ジュンは幼なじみだとは言うが、つきあってはいないんだろ、という更なる追及に即座に答えることができない。付き合う、って、どういうことなのか、ハナに対する感情はどういうことなのか、彼自身に答えが見えていないのか。

天文部には一人だけ女の子がいて、彼女は男子たちほどに天文や彗星に入れ込んでいる訳ではない。というか、なぜ天文部に入ったんだろうと思うぐらい、いわば無関心である。軽音部の練習が始まれば、彗星核の製作そっちのけで、なぜか靴下脱いで裸足で駆けて行ってしまうような。
軽音部、文化祭でのバンドの演奏にたまらなく熱狂してしまうという高校生時代の感覚って、それこそ今でもあるんだろうか。何かとても懐かしく、胸をうずかせて見てしまった。

天文部の男子部員たちはあっさり出て行ってしまった彼女にぽかんとするばかりで、この地味な部活は文化祭での発表も何も、考えが及んでないんである。ただただ、近づく彗星接近とそこで起こるかもしれない磁場の狂いが生じることで発生する何かに、不安のような期待のようなものをふくらませているだけ。
このただ一人の女子部員に、いかにもイケてないメガネで小デブの男子部員君が叶わぬ恋をしていて、休日に一人部屋でもんもんとうつぶせになって腰を振っている場面が何度も挿入されたりする。
こういうのも、学生映画っぽいな、と思う。ここで笑わせたろうと思う感じでしつこく入れてくる(爆)が、こんなことは当たり前のことで大して面白くないのだ(爆爆)。

むしろその点ではジュンはあまり当たり前の男の子じゃないのかもしれない。いや、この素直じゃない感じは、当たり前かもしれない。
母子家庭。今や珍しくもないが、離婚ではなくてどうやら死別らしい。仏壇に手を合わせたり、墓参りに行く場面が出てくる。母一人子一人。ジュンは愛想も良くないフツーの男の子だが、母親の言うことは割と黙って聞くんである。

この時から、死の匂いは漂っていたのかもしれない。突然訪れるハナの死。一体なぜ彼女は死んでしまったのか。学校を休み、キャリーバッグに旅道具を詰めて出て行った彼女はどこに行ったのか、自殺だったのか、事故だったのか……。
その直前、ジュンの作った彗星核を、ただ一人の女子部員でハナの友達である子に得意げに見せられて、そうなんだ……と何とも言えない表情をしていたハナ。ジュンから貸してもらった哲学書はちんぷんかんぷんで、彼の感覚についていけないことに歯がゆさを感じているように見えた。

実存とか本質とか、そういうことにたまらなくはまっちゃう感じも、高校生の懐かしさだ。自分が何者か判らずもがいている時に、こういう概念に引っかかってしまうのだ。
宗教とかもそうかもしれない、あるいは、柔らかな感性が自我で固まらないうちにそうしたものに影響されると、危ないのかもしれない。
ただ、ジュンがそうした概念が好きだったのは、耽溺していたというほどではなく、冷静に見つめていたのは、父が死んだこと、彗星が何十年もの周期で巡ってくること、ひょっとしたらタイムパラドックスというものがあって、死者と生者の違いはなんてこともないところに存在しているのかも……などということを考えていたからなのかもしれない。

なんていうのは、うがちすぎかもしれない。正直言うと、観ている間中、ちょっとイラッとするぐらい、彼らの気持ち、やりたいこと、言いたいことがつかめなくて、画面はいつも薄暗くて見にくいし、意味なくカツアゲする先輩をジョークみたいに入れてくるのもちょっと嫌悪感があったし、文化祭の準備も全然やる気ない感じで、そもそも文化祭ってホントにやるの??ぐらいの準備のなさで、ついていけんなぁ、というのが正直なところだった。
そーゆーところが現代の学生さんとの差なのかもしれんが、でもどーなのかなぁ、天文部の活動も彗星核を作る以外は部室でダラダラしているだけだし、タイトルにするぐらいの熱量は正直全然……それが現代っぽさなのか??

いやそれ以前に、作劇の熱を感じないんだよね。あまり、好きじゃない。授業は古典だけで、その古典の先生が何かイイことっぽいこと言うんだけど、全然意味判らん、響かないし、なんだったんだろうという(爆)。
ハナがジュンから借りた哲学書に付箋を貼り付けて、何かを書き入れていた、それをジュンは見つけて目にした筈なのに、それを明かすこともしない。もはや意味が判らん。

ハナが死んですっかり意気消沈していたジュンだけれど、ハナのことが好きだったイケメン君とやりあったりしたこともあって、気をとりなおし、部室へ戻ってくる。
彗星が来る日。今まで以上に巨大な彗星核を作ろうと、ドライアイスをかき集め、花壇の土をかすめ取り、先生の目を盗んで屋上に集結する。先生に見つかりそうになって……というのはお決まりのハラハラだが、その先生をトイレに閉じ込めて見事集合場所に間に合う、というのがあっさりしすぎて、どうやったらそんな芸当が出来たのかも判らないし、こーゆーところをテキトーにしないでほしいと思っちゃう。

んでもって、今まで以上の規模で彗星核を作るってんだから巨大なものが出来上がるっていう理屈は判るんだけど、その過程を一切見せず、おお、出来たね、と言っていきなり巨大な……そうなったらもう、コントでハリボテ見せてるってことにしか見えないわ。思わず笑っちゃったもん。ここはちょっと過程を見せとかないと、いきなりボン!て、ハリボテかよ!!とか思っちゃうよ。
で彗星が流れ、磁場が発生し、死んだ筈のハナとジュンとの邂逅……感動的になる筈なのだが、そんな過程があるから、なんかね、なんかね。「私のことはズンドコ忘れてよ」ズンドコって、何さ。そういう独特の言い回しで印象付けようとか笑わせようと思っているのかもしれんが、なんかピンとこなかったなあ。ここは素直に行った方が良かったような。

ジュンを演じる彼がちょっと古臭い容貌だったのも気になった点かも。主人公のいでたちはヤハリ重要よ。その時代を描くためには。★☆☆☆☆


センセイ君主
2018年 105分 日本 カラー
監督:月川翔 脚本:吉田恵里香
撮影:花村也寸志 音楽:得田真裕
出演:竹内涼真 浜辺美波 佐藤大樹 川栄李奈 矢本悠馬 佐生雪 新川優愛 福本莉子

2018/8/6/月 劇場(渋谷HUMAXシネマ)
キャーッ、観てしまったーっ。ちょっと恥ずかしい!いや、映画は映画だ、なんだって映画は映画。しかししかしヤハリ客層は、層、どころか100%女子高生であろうと思われるのだ(怖くて周りを観れない……)。
あんなに素直に、トキメキ場面でたまらずキャーキャー声を上げることが出来る彼女たちが何だかうらやましくて可愛くて、そしてそんな映画体験はめったに出来ないから(今はホンット、そういうマナーが若干押しつけがましいぐらいに厳しいからなあ)、その臨場感に、まるでテーマパークに来たかのようにワクワクもしたのであった。

「植物図鑑」でもそういう雰囲気はあったが、あれはお互い大人同士の恋物語であったし、ファン層もちょこっとだけ高めだった(ちょこっとだけど。でも10代から20代の差って、大きいじゃない?)から、そのためいきを何とか抑えよう、抑えよう、っていう感じがあったが、今回はそうじゃない。抑えきれないのさ。劇場中が、竹内涼真君がちょっと仕掛けるだけで、もう悲鳴さ。
「帝一の國」で少女漫画の実写版みたいなヤツと言われていた、それをまさにガチで体現。あの時もそのことに凄いと思ったけれど、やっちゃうんだもんなぁ。そりゃ、女子死んじゃうわ。凄い凄い。女子高生テーマパーク。なんつって。
いや、古びた女子の私も、心の中でないない、こんなこと絶対にないないないとツッコミながらも、隠せないオトメ心でキャーキャーつぶやいていたかもしれない(大照)。

差別をしている訳ではないのだけれど、やはり公開数に比して時間的限界があると、優先順位はどうしてもついてしまう。つまり、昨今の膨大な少女漫画原作映画は、なかなか手が出ないんである。ヤハリ先述のような、ちょっと恥ずかしい気持ちも、あるんである。
それでもちょっと、“同じような”少女漫画原作の映画の乱発、という論調があることに対して、若干の違和感も感じてはいた。観てはないから言えないところがツラいけど、同じようでも、同じである訳がない。そしてこうして何かのキッカケで出会ってしまえば、ターゲットとしている客層じゃなくても、トリコにしちゃうかもしれない。そういう論調は、映画をゲージュツというオタクのものの中に閉じ込めてしまうのだよ。

それに、この年頃でしか出来ない作品、役柄というものもある。激戦の若手役者たちがしのぎを削って、“同じような”作品の中でいかに爪痕を残していけるか、“同じような”モノに自分たちの力でしないでいくことが、勝負なんじゃないかと思う。本作に出会って、そんなことをしみじみと感じたんだよなあ。

本作に足を運んで“しまった”のは、予告編がものすっごく、よく出来ていたから、なのであった。口幅ったいな。つまり、予告編が凄く、面白かった。予告編が面白いというのはキケンなのだ。本編がそれを超えられるかどうか、というところになるから。
妄想女子とクール男性教師の、いわばツンデレ物語を、超ハイテンションでつないでいく予告編は、見事のひとことだった。そしてもう言ってしまうと、見事に本編は、それとニアイコールだったのだ。超えたとまでは言わないけれど(爆)。

いや、それだけ、予告編が見事だったということよ。つまり、本来の客層でない私みたいな古びた女子を引っ張ってきたんだもの!
そういうのって、重要だと思う。勿論、ターゲットとする客層はあるにしても、そこからいかにはみ出していけるかなのだと思う。今は男子も女子力高い時代だから、意外に幅広くいけそうな気もする。

この監督さんは初見なんだよね。まー、あれだけ話題にもなり評価もされていた「君の膵臓をたべたい」を私は観ていないワケ。あー、ダメダメ。だから、本作のヒロイン、あゆはを演じる浜辺美波嬢もなんとまぁ、初見なのだ。
観てはいないが「君の膵臓……」はシリアス系だったろうし、今回のあゆは役とは真逆に印象が違うと思われる。まず、この子にこそ衝撃だったのだ。

それは予告編の時からそうだった。若くて可愛いというだけでは、少女漫画のヒロインは演じきれない。それを、しみじみと感じた。親友言うところの“この、恋愛バンビちゃんがー!!”という、恋に恋する女の子は、いわば半世紀も前から少女漫画の王道のキャラではある。でもそれをそのまんまじゃ、面白くもないし、何より同じ女子に受け入れられないのよ。
今回、リアル女子高生観客の中に埋もれてみた印象としては、彼女がまさに、観客の心をつかんだ訳。

勿論観客たちは、イケメン竹内君に自分もそう言われる、そうやられる、キャーーーー!!ということを妄想しているからこそ、あの悲鳴が産まれるのだが、不思議なことにその妄想の間にきちんとあゆは……いやさまるんと言うべきだな、彼がそう呼んでるんだから……が、挟まっているのだ。
さまるんの猪突猛進に笑い、しんみりし、心ときめかせる、これぞ少女漫画の、他の何にもマネできないテクニックを、見事彼女は、そして演出が、クリアしている。

私ね、何が感動したって、まぁ、いろいろあるのよ、いろいろあって、先生が幸せなことを選んでほしい、って、身を引くような形になってさ、その後が一年半後よ。大人にとってはあっという間だが、女子高生にとっては、恋に恋していた女の子が卒業を迎えて、ひとつ大人になるだけには十分な期間な訳よ。
一年半後、とクレジットされて、髪をばっさり切って鏡に向かうさまるんに、劇場内の女の子たちが、可愛い……と本気のためいきを漏らしたことに、私はモーレツに感動したのよ。そのさまるんの可愛さ、つまるところ浜辺美波嬢が到達した一年半後の姿は、先生への猪突猛進の想いを心の中にしっかと守りながら、自分をもしっかり育てて成長した、可愛らしさ、美しさなのよ。いやー、感動したなあ。

それじゃもう、全部中身すっ飛ばしてるやんか(爆)。でもまぁ、いい意味でも悪い意味でも中身はあってないようなモンというか(爆)。
ざっとアウトラインを申しますと、さまるんとセンセイが出会ったのは、さまるんが何度目かの失恋(いや、恋もしてない段階なのだが)にハイテンションに落ち込んで(ヘンな表現だが、彼女は終始そうなのだ)、すきやで牛丼を、えっ、一体何杯食べてるの、そりゃいくらでも食べられる年頃ではあるけれども!!四千いくらと言われて、お財布の中身が追いつかず、そこでサッと払ってくれちゃったのが、後に担任教師として再会する弘光先生なのであった。まさに、運命の出会い。

本作の魅力は、なんといってもこの弘光先生のツンデレにさまるんともども観客が悶絶死しちゃうところにある。まー、ありえない理想のあれこれが大爆発。雨の中をジャケットを雨除けにして二人駆けだす、宿題とけて頭ぽんぽん、「俺のこと、好きなの?」と聞いちゃう。「落としてみなよ」とまで言っちゃう!!!ギャーッ!!!
一番ツボだったのは、手がふさがってる弘光先生が、口でジャージの襟を噛んで押さえて、ファスナーをおろすところ。さまるん、え、エロい、さ、さこつー!!と吐きそうになるほど興奮する。こらこら、君。エロいのは君の方だがな。

そうなのよねー、この浜辺美波嬢には本当に驚愕した。原作は未読だが、本当に、マンガそのものの表情を目指したんじゃないかという気がした。ちょっとアゴちゃんだし、本当に完璧な美少女ではないのかもしれない、と思ったのは、このさまるんに全身全霊飛び込んでいたからなのか。
一番好きだったのは、男子にコクられて浮かれてデートに出向くも、まるで理想の恋と違ってかたまりまくって笑顔が張り付いたままデートが進行していく彼女の、その顔!!

勿論、弘光先生とのあれこれは劇場中の女子(私もねっ)の胸を焦がし、その間も彼女のハイテンション百面相は何度も爆笑の渦を巻き起こすのだが、私はこの、いわば初デートでカッコつけちゃって彼女をドン引きさせた彼との時の表情が、たまらんかったなぁ。
いわばその後はさまるんの方が弘光先生にドン引きされまくっていく訳だから、ひとつの布石だったのかもしれない。

さまるんには、親友がいる。川栄李奈嬢扮するアオちん、そしてその彼氏矢本悠馬君がとっても、イイ。だって矢本君なんだもの。
さまるんは恋に恋する女の子。んでもって、もう完璧なイケメンツンデレ年上先生に恋しちゃって、もうその時点でリアルじゃない訳。ガチ恋は存在しないのかと苦悩するさまるんに、「バーカ、ガチ恋したら胸ボンババボンだっての!」と、そのジェスチャーも最高なアオちん、その彼氏が決して、全く、全然イケメンじゃない(ごめーん!)矢本君ってところが、リアリティ、なのよね。本作におけるただひとつのリアリティ(爆)。
そしてこの二人の、もうすっかり落ち着いちゃって、他人の恋路を心配しちゃう近所のご隠居夫婦みたいな(笑)感じが、いい、いいのよねー。

そしてさまるんには、彼女に恋してる幼なじみがいる。……もう少しオトナな展開というか、オトナな客層を狙ったならば、ぜぇったいに、この幼なじみの虎竹とのハッピーエンドを用意したに違いない。それこそリアルな幸せというもの……と思うことこそが、夢を失ったしなびた女子なのかもしれない(爆)。
でも、切なかったなぁ。えぇ、EXILEの人なの??とにかくイイ奴の幼馴染の男の子100%で、全然EXILEっぽくない(ゴメン!!)でも、さまるんがセンセイへの想いを抱えたまま一年半で成長したように、彼もまた彼女への想いを抱えたまま、成長したのだろう。センセイは一度夢から逃げた形で諦めたフランスへ再度飛び立ち、数学の著名な賞を受賞した……とっとっと!!

そうだった、もう一人重要な人物がいたんだった。しかして、“センセイの幼なじみで有名なピアニスト、一緒にフランスに留学”ってあたりの展開で既に、今までは何とかこらえてきた少女漫画的非現実性にそろそろ耐え切れなくなってくる。うーむ、このあたりが、実写とするには世間的になかなかネックなのかもしれない。
センセイの将来を思って身を引いたさまるんが、一年半後の卒業式の日、センセイの受賞記者会見をテレビで見る、しかもフランス語!という場面に、さしもの女子高生観客も、なんとか失笑にならないように気を使ってクスクス笑っていた、というのがもうすべてを物語ってるもの。
いやー、昨今、マナー重視でみんな死んだように映画を観ているのが当たり前になっていたが、こんな風に観客の反応でいろんなことがあぶりだされるのって、楽しいよなぁ。

本作のクライマックスは、さまるんが実行委員を買ってでて、優勝を目指した合唱コンクールである。
音楽、という要素が、美人ピアニストの幼馴染につながっていくのだが、かつて合唱部だったこちとらとしては、なにかもうそれだけで心躍るし、めんどくさがっていたみんなが団結していく姿を、このベタなラブコメの中で上手いことコンパクトにまとめていて、結構感動しちゃうんである。

さまるんはセンセイと美人幼馴染のことでめちゃめちゃ混乱してて、それは自分の恋を諦める、っていうところまでに発展してて、必死に本番の合唱を歌いながら、あふれる涙を抑えきれない。それに、弘光先生も気づいている。
これは、たまらんなぁ。「同級生」を思い出したよ。合唱と、その中で抑えきれない涙。思い出しちゃったよ。飛び出すさまるん、追いかける虎竹。ドキドキのこれも「同級生」をほうふつとさせる。メンツの関係性は違うけど。

最後はキスさせてあげて良かったんじゃないのぉ。王子様みたいに手の甲にキスだなんて、今の時代それで成立するぐらい女の子は純情なのか、マジか。
いや、意外にそうなのかもしれない。キスもしてないのに(爆)、色んなあれこれで死にそうな悲鳴を漏らす観客女子に、いいなぁ、これぞ日本の文化なのだと、思っちゃった。★★★★★


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