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「ら」


2019年鑑賞作品


2018年 120分 日本 カラー
監督:高橋朋広 脚本:高橋朋広
撮影:高橋祐太 音楽:クボナオキ
出演:桜田通 福田麻由子 笠松将 清水尚弥 キンタカオ 連下浩隆 ヒカルヤマモト 十枝梨菜 一色絢巳 古沢一郎 小野和子 佐津川愛美 ダンカン 西田尚美


2019/4/15/月 劇場(新宿武蔵野館)
青春音楽ドラマかと思ったら、犯罪ドラマになって、恋愛サスペンスになって、えーと結局……どこに着地したのだろう。どこかに集中するところが見出せなくて、ちょっと困惑した、というのが正直な気持ち。
映像も役者たちのアツい芝居もめっちゃ緊迫感があるから、なんか一見、とても力作かも……とも思うのだが、なんかうまく咀嚼できないなぁ。

主人公の桜田君は他の映画でもバンドのボーカル役を演じ、しかもそれでメジャーデビューまでしているというのがうなずける、ちょっと魅力的な歌声を持っていて、彼らのねじれのきっかけとなった、バンドで活動していたのに彼だけにスカウトがかかった、というのが結構リアリティをもって受け止められるのは大きかった。ここがね、えー、あの程度で??と観客に思われちゃったらもう、アウトなんだもの。
こんな、四半世紀前の少女漫画で見かけたような設定が今でもホントにあるのかどうかは判らんが、桜田君演じる慎平は、そんな少女漫画的葛藤と全く同じく、バンドでなければデビューしたくない、と言って、しかしそれで絆を保てたわけもなく、崩壊してしまった。

物語はそこからしばらく経ってから、慎平はいまだバンド再結成の夢をあきらめきれず、女のヒモになってギターばかり弾いている日々。
彼をヒモにしている女が、そんなにも大きく物語に関わってくるとは、よもやこの時には思わないし、慎平が執着している元メンバーの中でも、楽曲制作を一手に引き受けていた黒やんが、再結成どころかトンでもない黒いことを(黒やんだけに……違うわ)考えているなんて、更に思わないんである。

黒やんを演じる笠松君が、個人的には最も強い印象を残しているように思う。確かに何度も観ている顔だが、その個性的な芝居の強さをまざまざと見せつけられる印象を持ったのは、初めてのように思う。
なんというか、クセモノ、って感じ。そのオーラが立ち上っている感じ。

楽曲制作を担っていたというんだから、バンドの才能は彼にあったと言ってもいいと思うのだが、世俗社会はいつでも判りやすいスターを発掘したがるものである。
黒やんが慎平の音楽とメンバーへの無邪気な愛を疎まし気に思っているのは、ありありと伝わってくる。それがイマイチ伝わっていないのが、慎平だということも。お前、バカか!!と言いたくなるような、世間知らずさ。その世間知らずが彼を恐ろしい展開に巻き込んでいく訳で……。

だから、黒やんが慎平の誘いに乗った時には、うっそだろー、と当然思った。しかしまさか、詐欺犯罪に巻き込ませるとは思わなかったから、アゼン呆然である。そ、そーゆー展開にするの!!??音楽で青春じゃねーの!!??……だってかなり気合入れてライブシーンとか作ってたやんか……。
いやそれでも、きっといずれその熱い気持ちに戻ってくると思ってたら、戻ってこない、どころか、犯罪シークエンスはどんどん深刻になり、それどころか彼をヒモにしている彼女は慎平をどんどん追い詰め、慎平は双方からのプレッシャーで引きこもりになるという、……これは一体どーゆー物語なの……と困惑するのは仕方なくないですか……。

なんかいろいろ、盛り込みたいのかなぁ。確かにそれに若い役者陣はとてもアツく応えては、いるんだけど。
慎平が大好きで大好きで、どうやらファンから彼女に強引に昇格した、それは多分、彼女が金づるだから……というゆかりを演じるのが福田麻由子嬢。おぉ、なんか久しぶりに見た気がする、と言ったら失礼だろうか。
なんつーか、子役のイメージしかなかったから、でもその頃とまんまの顔で、その優等生なイメージのままのお顔が、重たい、怖い、彼女となっていくから、結構インパクトがある。

慎平にお金を渡すたびに、なんと指紋捺印させるという恐ろしさ。いや、ちょっと可愛いノートに仕立ててはあるが、コワ過ぎるし、その代償がデートと言うのも一見可愛いが、その指紋捺印がいっぱいにたまってゴールしたら、結婚する、という口約束なのだ。
一見可愛い……くない!だって指紋捺印、証拠押さえてる、コワイコワイコワイ!!なぜ慎平はうっとうしく思いながら、先のことを考えずに指紋捺印し続けていたのか、まったくもって訳判らん。バカと切って捨てるにはあまりにも……本当にバカすぎる。

だってそれだけカネがないということは、彼一秒も働いてないってことでしょ。音楽だけに身を捧げる、みたいに、スタジオ借りては練習、彼女の家に居候して練習、いや、考えてみればそれでなぜそんなに彼女から金をもらわなきゃいけないのかが判らん。だって衣食住、足りてるやん。
その上、彼女が心を込めて作った食事は練習に没頭して食べない上、玉子の焼き加減に文句をつけ(うわー、最低)、黒やんからの詐欺仕事(ということは、この時点ではまだ判っていないが)のためにしつらえるスーツのために親に金を無心に行くというシーンまである。

……どこにそんなにカネがかかってて、あなたはそんなに貧乏なの。寝る時間以外ギターの練習してるんじゃなきゃ、アルバイトする時間ぐらいあるだろ……そこまでのストイックさまでは感じられなかったから、だから、重たい彼女のヒモになるという設定を固めるためだけの、それにしてもムリな設定だと思って……。
一体、彼女のヒモになってからどれぐらい経っているのか判らんが、かなりしょっちゅう金を無心し、それがたまったら結婚するという口約束を無視しているまでのせっぱつまった状態には、とても見えないんだよなあ。

お年寄りから、孫の裏口就職のための金を巻き上げるというドキドキのシークエンス、その金を、雇われた詐欺グループからネコババするってんだから、そらートンでもない事態になるに決まってる。
そもそも黒やんがそんな野心??を持つようになったのは、その存在さえ忘れ果てていた、恐らく彼もイジメに加担していた、高校時代の同級生、ダビデに出会ったからだったんであった。
ダビデというあだ名は、「チンコ丸出し」にさせられるイジメを受けていたという、もう、聞くだけで身がすくむような事態なのだが、いまやダビデは青年実業家であり、居酒屋で慎平と黒やんに偶然出会った時も、臆せず「僕のこと、覚えてる?ダビデだよ」と堂々としていたものだった。

偶然、だったのだろうか。後から考えれば、自分をイジメ倒していたのに、自分の存在さえ忘れている、ことも予測して、二人に近づいて、その成功した姿を見せつけ、そしてワナにはめたんではないかと、思ってしまう。
慎平は違うクラスだったから覚えていないと言っていたが、黒やんがストレートに、あのダビデが、とショックを受けていて、驚くべきことに、その成功スキルを伝授してもらおうとする無邪気さだった。

いやいやいや、と思う。ここにもちょっとした、違和感を感じる。ダビデがあんたらを憎んでない訳がないのに、なぜそんな無邪気に俺らダチだよな、みたいな雰囲気出すの、と思う。
黒やんが慎平に対しては嫉妬と親しみのアンビバレンツを感じさせる繊細さを見せるから余計である。なんだろうなぁ……。やっぱり盛り込み過ぎだと思うんだけどなぁ……。

ダビデを演じるのは、そうか、そうだそうだ、この濃い顔、「独裁者、古賀。」の彼だ!!チンコを出されていたからという設定のダビデだけれど、その独特のバタくさい風貌が、いい感じにねじれて成長して(爆)、正直頼りない感じで主演を任されていた時にはどーなることやらと思っていたが、かなり面白いエッセンス。
でもまたやっぱり、いじめられっ子の役なんだね、でもでも、そこを復讐するんだから、成長したということか!!

詐欺を働き、それをネコババしようとして詐欺グループから狙われ、恐怖でゆかりの部屋に引きこもる慎平。
ゆかりから妊娠を告げられた時にうろたえて逆ギレ同然に激怒して、「なんで判んねぇんだよ、お前と結婚する気なんかないって!」と吠えた彼だが、結局は彼女を捨て去る心の余裕もある訳がなく、ヒモ以上の超ヒモヒモになって引きこもっている間に彼女は臨月を迎えるんである。

「慎平君は何も考えなくていいから。」と繰り返し、出産直前に動けなくなる時でさえそう言ってタクシーを呼ぶ彼女は、なんかもう、脅迫の悪魔にしか見えない(恐恐)。
なんかね、結果的には、自分の赤ちゃんにいざなわれて、何度も逡巡するにしても、結局はそれで引きこもりから脱出する(ま、その前に、くだんの詐欺グループに拉致られて怖い目に遭うにしてもよ)ってのが、ますますもって、……一体これは、つまりはどーゆー話だったんだろーか、と、考え込みたくなる訳よ。

出産シーンとか挟まれると、もうここで感動しろとか言われてるような気になっちゃうし、いわばハメる形で慎平の子供を授かり、囲い込んだゆかりに、観客側まで巻き込まれている気になっちゃうよ。
いや、そりゃー、授かった命は、産むべきだ。うろたえた慎平が堕ろせと言った言葉には、何にも考えずにこんな事態を招いたくせに、なにおぅ!と思うさ。
でも……だからこそ、なんかラストには、慎平は産まれたばかりの我が子に素直に感動して涙流しちゃって、ゆかりとも微笑みを交わしたりしてさ。なーんなの、そんな簡単にしちゃっていいの!!とか思っちゃうよ。いやその、桜田君は超熱演なので、なかなか言いにくいものがあるけど……。

母親が息子に対して理解がありすぎる、っていうのも、世の中の条件に照らし合わせてありがちすぎだし、詐欺師の襲撃に怯えて引きこもりまくっている息子の消息を心配して父親が役場に訪れるんだけれど、実家にはカネの無心にしか来ない息子に辛く当たっていた父親を、そのシーン一発だけで懐柔させちゃうのも何かなぁと思う。
最初に言ったけど、やっぱり盛り込み過ぎなんだよと思っちゃう。音楽も友情も恋愛も家族もそして人生も、一本に描こうなんて、しかもこの若い世代、悩み苦しみもがきまくっている彼らを主人公にだなんて、そらムリがありすぎるよ。とっちらかっている。それが正直な印象かなぁ。
だから、赤ちゃんの最初の産声なのだとかいうタイトルの意味も、活かされてるとは思い難かった。映像は凄く凝ってる感じがしたけど……。 ★★☆☆☆


楽園
2019年 129分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:瀬々敬久
撮影:鍋島淳裕 音楽:安川午朗 野田洋次郎
出演:綾野剛 杉咲花 佐藤浩市 村上虹郎 片岡礼子 黒沢あすか 石橋静河 根岸季衣 柄本明

2019/11/3/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
関係ないし、単なる偶然なんだけど、この時桐野夏生の「柔らかい頬」を読んでいて、幼い女の子が行方不明になる話、ってのだけだけど、かぶっているのは。
でもなんか最近、森鴎外読んでると鴎外の孫のお医者さんのドキュメンタリーに遭遇したり、こういう偶然に、いろいろリンクさせて考えちゃったりする。「柔らかい頬」は真相が判らないままの結末だったが、そして本作が原作どおりなのか、どういう解釈なのか判らないけれど、この事件は神の目線でしか、その真実は判らないのだ、ということなんだよね?私の見方が間違っているだろうか……。

もう早々にオチバレで言っちゃうと、あの時、行方不明になった女の子、愛華と直前まで一緒にいた親友、紡が何も見ていた訳はない。見ていたんなら、あの時そう言う筈なのだから。
黙っている理由なんてなかった。豪士とだって知り合っていなかったのだから。だとしたら、最後の最後、紡が見たのは、そうだったのかもしれないという、彼を疑ってしまった妄想に過ぎない、のではないの??

訳判らん、こんなことを言っていては。そもそも犯人がどうかということは、それほど重要なことではない。なんていったら劇中の愛華のおじいちゃん=柄本明に殺されそうだけど。
この舞台が限界集落で、ひどく閉ざされた場所で、そもそも“よそ者”を受け入れる気のない、排他的極まりない村だということ、それこそが悲劇を呼び寄せる、というか、人間を狂わせることになるのだということを、ロケーションした地が気の毒になるぐらい、糾弾に近いほどに残酷な描写で見せつけるんである。

この場合のよそ者は、二人いる。二組、と言うべきかもしれない。一人目は、綾野剛扮する豪士(&母親)である。難民としてこの国にやってきたという設定を言っていたような(うろ覚え(爆))。
とにかく、母親の方にはハッキリと外国訛りがあり、幼い頃に日本にきた豪士は、覚えられた語彙が少ないのか、とにかく寡黙である。自分の気持ちを的確な表現で伝えられないもどかしさを常に抱え持っているような感じである。

豪士の母親は、バッタモンを売っている露店を、ヤクザもんに荒らされているシーンから始まる。どつきまわされている母親になすすべもなく、地元のお祭りに出張っていた柄本明たちいかにもな地元連たちに豪士は助けを求める。
この時、このヤクザもんを警察に突き出すとか、せめて何やってんだと一発殴るとかしたんだったら、話は違っていた。この時に地元連たちが出した解決策で、もはやこの物語の答えは出てた、ってことなのだ。

ヤクザもんをなだめて、“おみやげ”を持たせて追い払っただけ。つまり、このヤクザもんもまた地元の男であり、豪士たち母子はよそ者だということなのだ。
親切な態度を見せていられるのは、大ごとが起きていない時だけ。大ごとが起きなければ、彼らの自己満足を満たす、“よそ者への親切心”で、よそ者側は多少の違和感を感じながらも、お互いの利害関係をうまく調整しながらいけたのだろうが、それをぶっ壊す“大ごと”が起こる。愛華ちゃん行方不明事件、である。

愛華ちゃんと最後まで一緒にいたのは、親友の紡。親友、この10歳にも満たないような幼い女の子同士で親友と言い交わす時、そこには大抵、パワーバランスが生じている。
親友、というのは強い側が言いたがるものだ。二人のシーンはほんの少しだけれど、見事にそれが表現されている。

愛華ちゃんは、なんていうか、“恵まれた子”。言ってしまえば、女王様キャラ。紡が両親から、何を考えているか判らない、と言われるのは、無論、この事件があってからの影響だとは考えられるけれど、そもそもこの二人って、本当の意味での親友だったのか、少なくとも紡は本当にそう思っていたのか。
そういう意味で、最後の別れの時、愛華ちゃんからの家への誘いをすげなく断った時にもう、紡もまた“よそ者”になってしまったのだ、きっと。

地元の人間であったって、簡単に“よそ者”に転落する。本当に、幼稚な、学校でのいじめの標的の入れ替えと替わらない。それがよく判るのは、Uターンしてこの村で養蜂を始めた善次郎である。
Uターンってことは、もともとこの地元であったということでしょ?そして若くて(っつっても、この村に残されている人たちが老い過ぎているからなんだけど)、彼がやっている養蜂はどうやら、都会にもウケそうである。

という感触を得て、善次郎も乗り気になるが、いざ予算が取れるとなると、とたんに村人たちは冷たくなる。言ってることはなんとなく筋が通っている。養蜂で村おこしをする前に金がかかるところはいっくらでもあると。それをすっ飛ばして、養蜂に金をかけるなんてできないと。
……つまり、酒盛りの席で盛り上がった話は、本気じゃなかったというか、他人任せで上手くやれればいい、でもそれを、自分たちの知らないところで予算通されたりするのにプライドが傷つけられるともう、まっさかさま、という、ボーゼンとするぐらいの、幼稚な思考回路なんである。

善次郎はあっという間に村八分になる。そのきっかけは一見、正当なものである。善次郎の愛犬、レオが、地元連のおっちゃんの一人にかみついたというものである。
でも、でもでも、そりゃ、それこそ、神の目線がなければ判らないことだが、あんな賢いレオが、なんの理由もなくかみつくのか。でも結局、それが大きな理由にされちゃって、善次郎はゴミの収集も拒まれ、レオの出歩き禁止令が出されて、眼病を患ったまま、檻に閉じ込められたレオの痛ましさといったら、なくて。

ネットニュース(はまぁ、なかなか信じきれないところはあるけど)とかで見かける、Uターン組、Iターン組の村八分の描写ともリンクする。村を救うために外からの力が欲しいのに、自分たちのプライドがちょっとでも損なわれるとあっという間に排除する。そして、排除が生み出すその先の惨状を、考えない。
それこそ、ネットニュースのその先は、せいぜい他の理解ある村に移住しなおすとか、いう程度の落着であった。でもそれは、結局は問題の解決になってないし、そうだ、こういうことが、起こり得るんだ、と突き付けられる、のだ。

善次郎は淡い恋愛関係に陥る。これも、一瞬よそ者化していた出戻り娘の片岡礼子=久子である。でも結局は、彼女は地元側についてしまう。しまわざるを得ないのか。
判らない、その辺は。彼女は善次郎にホレていたし、善次郎もまんざらじゃなかった。追い詰められた彼が、久子に救いを求めるのは当然である。だって、久子は彼を温泉旅行に誘っちゃって、混浴の風呂に身を沈めたんだから、そりゃそう思うのは当然だ。てか、久子だって、覚悟があって、そうしたんだろうに……。

片岡礼子のヌードは実に、「愛の新世界」以来じゃなかろうかと思う。ついこないだの「よこがお」の筒井真理子氏もそうだが、この年になってからのヌードには覚悟よりも、作品に与えるリアリティのための、迫力みたいなものが伝わってくる。
自分が女として立ち向かえるのか、といった表情で、脱衣所で裸の自分を鏡に映す片岡礼子に慄然とする。女としても、同志としても、結局立ち向かえなかった展開に更に、打ちのめされる。

紡側の物語も相当にキツい。杉咲花嬢が瀬々作品とがっつり組んだことに震えを感じる。いわば、親友を見捨てて以来、彼女はこの土地はもちろん、両親にさえも、心を開けないまま、過ごしてきたのだろう。逃げるように東京に就職した気持ちが推し量られて、たまらない。
てゆーか、なぜその辛さを両親は判らないのかね、と思うぐらい。やはり、地元の人間だからなのか……むしろ、娘によって、肩身の狭い思いをさせられていると思っているからなのか……それが娘に伝わってて、余計に彼女をここにいられなくしたということか。

祭りにおける笛の名手で、彼女は何度となく地元に呼び戻される。そのあたりは、なかなか律儀である。地元にはウザイぐらいにまとわりつく同級生の男の子、広呂がいる。演じるは虹郎君である。
紡のことが好きなのは判るけど、ホントにウザくて、しまいには紡の東京の勤め先である青果市場に職を得るという、マジにストーカーなことまでするし、ほんっと、イラッとしたんだけど……。

うーん、これは卑怯だよ、このやり方は。広呂は病気に倒れるんだもん。わっかりやすく、虹郎君のあの濃い眉を剃り落として、ガンですよねー?白血病かな??って感じよ。いくら彼が自分の意志を通したからって、地元の病院での入院治療を拒否して東京にしたのはまだいいにしても、家族がひとりも来てないってのは、さすがに現実味がない。
まぁ、こーゆーところはいかにも日本的違和感ではあると思うんだけど、眉まで抜けて、青白い顔で、フラフラただよっているような状態の広呂に面会しているのが紡だけ、恐らく手術とか受けているだろうに、それには絶対に家族、少なくとも親族の了解は必要じゃん。こーゆーところでリアリティが失われるのって、ホンット、残念なんだよなあ……。

でね、もう一つの少女行方不明事件が起こる訳。結果的にはメチャクチャ単純に犯人がつかまるのに、12年前と同じだと、アイツが犯人だと、現場はいきりたつ。そう、豪士が追い詰められるのだ。
追い詰められた豪士はパニックになり、そば屋に立て込んで、ガソリンをまき散らし、自分もかぶり、火をつけた。柄本明演じる愛華の祖父は、後に、この時ホッとしたんだと、正直に吐露した。
豪士が犯人だと、そう決まってしまえば、その彼が死んでしまえば、安心できる。誰もがそう思っていたんだと。愛華の祖父は、その無実の罪を紡にもかぶせてて、紡にそう、言ったもんだから、紡は、紡は……。

この場合、愛華ちゃん行方不明事件を、解決するべきなのだろうか??劇中ではまるで、豪士が、優しく声をかけてくれた愛華ちゃんに情けをかけられたように感じて、フラフラと彼女の後をついていった、それをまるで紡がその目で見たように描写して終わるけれど、これは、真実じゃ、ないよね??
紡は自分と同じ孤独の魂を豪士に感じて、ひょんな出会いからほんの少しの交流の中で、彼にシンパシィを確実に感じていたし。ああ、でも、判らない。真実を明らかにすることがこの物語の重要性じゃないとは思うけど、こんなハッキリと紬の目線で、まるで見たかのように再現されると……。

善次郎が追い詰められて、村中の人間を殺戮しているニュースを見て、紡は慌てて帰ってくる。その展開の中で、豪士の母親と邂逅する。
ほんの短い間だけど、確かに心の琴線を触れ合わせた豪士との、まるで形見のような、自分が置き忘れた小銭入れと、その中に入っていたという豪士のつたないメッセージ、君は悪くないとかなんとか、そういうヤツだったと思うけど(再三、うろ覚え(爆))、それではじかれたように、紡は帰りたくなかった故郷に、帰るのだよね。

恐らく、この中で一番の年長、ベテラン役者の柄本明と、子役を外せば一番の若手、花嬢がいわばぶつかり合うラストシークエンスが、圧巻で、そして作り手が、言いたいことを、ここに集約させてて。
それは……なんていうかね、トシヨリが負けるという感覚はなくはない。ワカモンが青いこと言ってんじゃねぇという悔しさもなくはない。でも結局、双方を併せ持っても、答えは、出ないのだ。双方ともに、まるで膝をがっくりとついたような答えしか出ないのだ。だから、なんていうのかな……。判らないけど……。★★★★☆


嵐電
2019年 114分 日本 カラー
監督:鈴木卓爾 脚本:浅利宏 鈴木卓爾
撮影:鈴木一博 音楽:あがた森魚
出演:井浦新 大西礼芳 安部聡子 金井浩人 窪瀬環 石田健太 福本純里 水上竜士

2019/6/2/日 劇場(テアトル新宿)
井浦新と鈴木卓爾監督の名前で足を運んだが、井浦新はその中で唯一のスター役者で、京都造形芸術大学の在籍学生や卒業生が多くキャストやスタッフに含まれた、大学での映画製作に深く根差した形での作品になっている。
こういう形はつい最近観た覚えがあって。ドキュメンタリーの「ぼくの好きな先生」だったが、監督と被写体が同じ大学の教える側としての同僚同士というのが面白くて。
それってまさに本作も同じなんだもん。本作の場合は撮られる側の同僚は脇を固めるベテラン俳優だが、その水上竜士氏は俳優というイメージしかなかったから、脚本も手掛けるスタッフ側の顔を持ち、芸大の先生をしているということにビックリしてしまった。

そらまぁ鈴木監督は昔から俳優と脚本と監督、いくつものわらじを履き分けているのは有名だが、水上氏は知らなかったなぁ……。
なんにせよ久しぶりに見た彼はすっかりいい感じに枯れた色気を出していて、観ている間は私の知っている水上氏と全然つながらなくて、えーっ、あのマスター、水上氏だったの!とちょっと驚いてしまった。バイオレンス役者のイメージがあったからなぁ。

と、なんか本筋とは全然関係ないまま進んでしまう。京都の大学が製作母体であり、当然舞台は京都であり、そして今もなお映画製作といえばの撮影所が登場する、映画ファンには垂涎の舞台である。
しかしてこれが意外に、路面電車があるということは知らなかった……のは私だけかもしれない……京都は排他的なイメージがあって、修学旅行で行ったきり、なんか足を踏み入れるのが怖いイメージがある。その閉鎖的、というのがいい意味で本作の不思議な世界観に上手く作用しているようにも思う。

そうか、あんな一両か二両の路面電車があるなんて、知らなかった。本作の音楽をあがた森魚が手掛けていて、あがた氏といえば函館だよねと思い、函館といえば路面電車だからさ、やっぱりなんか、きゅんとくるものがあるのだ。彼独特の、決して古びない時空を超えた世界観が、めちゃめちゃマッチしていて、まるで函館と京都を結び付けたみたい!!
しかも知らなかったのだが、あがた氏は子供時代、青森にかなり長く住んでいたというではないか。本作に青森からの修学旅行生が津軽弁も鮮やかに京都の空気をかき乱すのは、ひょっとしてそのあたりのアイディアが鈴木監督から出たのかも??

本作は井浦氏演じるノンフィクションライターがまず登場するから、井浦新の主演映画かと思いそうになるのだが、実際は三分割、といったところである。それぞれが少しずつ重なり合い、触れ合うけれども、本作のもっともメインという印象のある、B級映画の役者とその撮影現場に弁当を届けるカフェ店員の女の子のどきどきスリリングなシークエンスが独立しているような感があり、実質、この二人が主演ではなかろうかと思われるのである。
二人ともなんかで見たことある筈だよなと思った記憶は良かった、間違ってなかった(爆)。なんか、が思い出せなかったのはいつものことだから勘弁して(爆爆)。

嘉子(かこ)役の大西礼芳嬢は、そうか「菊とギロチン」で見ているのか。意志の強そうな、甘さのない美貌が凄く記憶に残っていた。
譜雨(ふう)役の金井浩人君は、そうかそうか、「きらきら眼鏡」のあの子。そう言われればこの可愛い顔、そうだそうだと。

譜雨の京都弁の指南役として、弁当を届けた嘉子が助監督の女の子にスカウトされる、というところから関係がスタートする。インディーズ系の役者とはいえ、“東京の役者さん”の譜雨である。
でも嘉子は彼との読み合わせで、それは彼との相性が良かったのか、芝居への才能が目覚めたのか、フレキシブルな、フレッシュな芝居を連発し、彼を刺激する。結果的には二人を引き合わせた助監督の女の子に、自分が監督する暁には二人を呼び寄せたい、と言わしめるぐらいに。

ただそれが、二人が響き合う感情だったのか、役者同士の火花がスパークしたのか。
その決着がつかないまま、二人は、一度は感情をぶつけ合うのだけれど、“都市伝説”のキツネとタヌキが車掌をつとめる嵐電に乗ってしまって、その都市伝説の通りに、それっきりになってしまうのだ。

人間の役者が白塗りして、からっぽの電車に現れるキツネとタヌキとか、あがた森魚ワールドだよなぁと思う。いやいやいや、今回彼は音楽で、監督じゃないんだけど(爆)、これを函館の路面電車でやって、あがた監督でもおかしくない気がしちゃう。
井浦氏演じるノンフィクションライター、衛星は、嵐電の不思議話を集めにやってきた。最初は、単なるネタ集めかと思われたが、以前、妻と京都を旅行した時、キツネとタヌキの嵐電に乗ってしまって……それ以来、彼女との関係が変化してしまった。

最初さ、奥さんが死んでしまったのかと思ったのだ。あるいは逆に、ここで取材活動をしている彼が、実は死んでしまっているのかなぁと。
青森から来た修学旅行生グループ、その中の南天ちゃんという女の子が、地元の男子高校生、学校へも行かずに嵐電を8ミリで撮影することに没頭している子午線に恋をする。
南天ちゃんと子午線君が、若いからこそのアンテナをビンビンに張っていて、この都市伝説が、捨て置けないものだということを、お互いのまっすぐな感情のぶつけ合いで証明していくのがたまらんのである。
フツーの商業映画だったら、南天ちゃんや子午線君のような荒削りの役者さんは、なかなか起用できないだろうなーという気はやはりする。でも凄く、イイんだよね。特に南天ちゃんを演じた赤いホッペの窪瀬環嬢は心惹かれた。

助監督役の福本純里嬢がその中でも印象に残ったかなぁ。まだまだ下っ端っで、現場で走り回って、でも役者の気持ちはすっごい汲み取ってる。さばさばした独特の口調で、すっぴんな感じでボーイッシュなんだけど、結構女の子っぽいふわりとしたスカートはいたりして、なんか、なんとも目が離せない魅力がある。
彼女が嵐電のホームで偶然嘉子と出くわした時、嘉子さんが好きになっちゃいました。私が監督する時は出てくれますか、というシーンはもう、本当に好き。

この時嘉子は、心通わせてキスまでしちゃった譜雨と会えなくなっていて、心乱れていて、でもこの助監督嬢が、その時には譜雨さんも出てもらいたいと思っていると言い、嘉子ちゃんはあふれる涙を必死にこらえながら「……譜雨さんが出るなら、出ちゃおうかな」とさりげなさを必死に必死にまとわせながら言う。
そのことに助監督嬢は絶対に気づいている筈なのに、それを相手に気取らせないさばさばさを保ちつつ、でも愛情を残しながらじゃあまた!と去っていくのが、たまらないのだ。

……結局、このキツネとタヌキの電車がなんだったのか、この電車に乗ってしまったら、好き合ってる同士も別れずにいられないと。
衛星は妻と京都旅行中に、妻がぎっくり腰をやってしまって外に出られなくなったのに、嵐電をどうしても見たいと言って、夫の手を借りながら外に出て、そして、キツネとタヌキの電車に遭遇して、彼女だけ乗って、行ってしまった。……この現象がどういうことだったのか。

衛星は妻と電話で連絡を取っているし、死んだという訳じゃない。でもなんか、おかしいのだ。衛星は、“関係が変わってしまった”という言い方をし、まるでそれは、衛星がこんな風に取材旅行を繰り返す生活をしているから心が離れてしまった、それが決定的になった、という風にも見えるのだが、どうも納得しがたい。
変わってしまう、というのがどういうことなのか。それは、嘉子と譜雨が心を通わせたとたん、キツネとタヌキの電車に乗ってしまって突然会えなくなる不可思議さが解明されないのと同じく、もやもやとして心の中に残ってしまう。

衛星の奥さんを演じるのは、市川準監督の裏ミューズと言いたい安部聡子。本当に大好き。鈴木監督とは「トキワ荘の青春」で共演しているのは確実だが、その後も交流はあったかもしれない。
役者としての鈴木卓爾を初めて認識したのが「トキワ荘」だったから、私の勝手な認識は、二人は同志、なのだ。あー、もう一回、トキワ荘観たいな。 あの時のまんま、そのまんま、いい感じに年を重ねた安部聡子に出会えたことに、泣きそうになってしまう。この優しい声、飾らない雰囲気、確かに、キツネとタヌキの嵐電にふっと消え入りそうなはかなさが、あるのだ。でも当然のように、現実世界に帰ってくる違和感のなさも。

衛星は最終的に、彼女と暮らす家に戻って、目が覚める。昼寝をしていた。まるで今までのことが、夢の中の出来事だったかのように。
妻はよく寝てたね、とあの優しい声で言う。夫は、寝ちゃった、と笑顔で言う。笑顔を久しぶりに見た、と妻はなんでもない感じで返し、そうかな、と夫も返すのだが、これは実は、重要なのではないかと思う。

そもそも衛星はホントに京都に行っていたのか。すべては“寝ちゃった”夢の中にあるのではないか。
8ミリで嵐電を撮り続けている青年、子午線との出会いも、ホームにある美味しい珈琲を出してくれる店のマスターとの交流も、まるで亡霊のような妻を探し求める、嵐電が通り過ぎる線路わきの小さなアパートでの生活も、すべてが、すべてが!!

……いやー、やっぱり、京都は怖いわ。足を踏み入れられないわ。ここに足を踏み入れたら、どこかに連れていかれそう。パラレルワールド。魔界への入り口。ありそうありそう。
嘉子と譜雨はその後、助監督嬢が約束を果たして、お互いの恋物語を反芻するような撮影を、実にドッキドキの再現ドラマみたいに繰り広げるのだが、お互い同士の個人的な想いがどうなったのか、明かされることはない。
なんかそれがモヤモヤして……でも演技の中の彼らはめっちゃ情熱的で!!!……でもでもそれは、役者としての彼らで……やーん、なんなの!!いやー、嘉子と譜雨、ドキドキするわ。二人とも今後追いかけたい、素晴らしい役者さん。★★★☆☆


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