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長いお別れ
2019年 127分 日本 カラー
監督:中野量太 脚本:中野量太 大野敏哉
撮影: 月永雄太 音楽:渡邊崇
出演:蒼井優 竹内結子 松原智恵子 山崎努 北村有起哉 中村倫也 杉田雷麟 蒲田優惟人 松澤匠 清水くるみ 倉野章子 不破万作 おかやまはじめ 池谷のぶえ 藤原季節 小市慢太郎
で、その時に中野監督は初見だったのだけれど、その前作も、それ以前の短編自主製作も、とにかく脚本は自身のオリジナルにこだわっていたという話は、聞いていた。その点がかなり買いであり、ヤハリ監督は脚本もかけてナンボだという思いが強いからさ。
だからそれまでオリジナルで作ってきたのに、商業映画を撮り始めると原作を元にしたり、脚本家を別に求めたりする作家さんに、ちょいと寂しい思いを抱いてもいたのだが……。
でも、自身がオリジナルに強くこだわっていたのが、これをどうしても自分の手で映画にしたいと思う作品に出会って作るのなら、あるいは、そういう時が、作り手としてのひとつ乗り越える、飛躍の時なのかもしれないとも思って……。
と思ったのは、私は前作より、軽やかなユーモアと幸福な記憶が胸にじんわりと残ってくれる本作の方が、圧倒的に好き、だと思ったから。確かにこれも泣かせモノではあるけれど、あたたかで幸福な涙、だったから。
認知症と7年間も闘って、いや、闘って、という言い方は好きじゃないな、前述のように、それが普通なのだ、日常なのだ。家族もそれが日常で、生活で、その中で愛を確かめていく時間をもらう。そんな映画になっていると思ったから。
それは何より何より、山崎努のキャスティングが大きい。というか、マストに違いない。ああ、この人には最大限長生きをしてもらって、ギリギリまで役者をやってもらいたい。ヘンクツな愛すべき老人役をやらせたら右に出る者はいない、と感じさせてからも相当時間が経っている気がする。
だからもう、認知症のご老人というのは、極北である。後はもうお亡くなりになるしかないんだもの(爆)。それが、“長いお別れ”だというのが……発症してから実に7年、見事に生涯を歩み続け、ロングロンググッドバイしてゆくご老人、というのが……なんとまぁ、山崎努にふさわしいじゃないの。
校長先生まで勤め上げたというガチガチの教育者、ガンコ者の父親を陰に日向に見守るのは女三人。奥さんと娘二人、である。
この図式……私の父親は認知症ではなかったけど、最後には意思の疎通もままならなくなってしまって、やっぱり母親と私と姉、という女体制三人で、姉が一人、海外ではないけどちょっと遠くに住んでて、結婚して家族も持っててなかなかフットワーク軽くなれない、一方で妹は近いところに住んでるんだけど、独身のままのその身の上が、どこか肩身の狭い思いを感じてて、とか、なんか、なーんか、私んちのことをついつい想像、しちゃうんだよー!!
認知症になってもカクシャクと生活しているお父さんに、この娘二人は、なんか判らない状態でもお父さんに聞いてほしい、お父さんと話したい、という思いで、行き詰っている自分の状況を訴えるのね。
次女は仕事も恋愛もなんだか上手くいかない、その想いを縁側でお父さんと話して、なんか意味の分からない会話になるのに、なんだか通じてて、泣いちゃう。
長女は、夫や息子と親密な関係が築けなくて悩んでて、しかもアメリカで自分一人だけ英語も出来なくて孤独で、スカイプ越しに父親に悩みを聞いてもらう。
もうこの時には言葉を発することも出来ないぐらいの状態になっているんだけれど、ただ、聞いてもらうだけでいいんだ、ということなんだよね。じーーーっと、前を見据えて、娘の顔を見据えて、聞いている父親に、酒に紛らせながら泣きながら訴える長女。
そのまま寝入ってしまって、それでもそのまままっすぐスカイプのカメラを見据えている父親。長女の悩みの種の息子が気づいて、母親に毛布をかぶせ、PCの向こうのグランパに挨拶をする。
このお父さんと同じように、私の父親もいわゆるモーレツ勤め人だったし、家庭は女が守るもんだという……そうハッキリは言わなかったし、子供たちの時代はそうではないことは判っている人だったとは思うけれど……そういう人だったから、凄く、重なるんだよね。怖くはないけど、遠い人だった。
母親とは何歳になっても和気あいあいやれる自信があったけど、父親とは自信がなかった。なのに、今、何かに息詰まると、話を聞いてほしいのは父親なのだ。もういないのに。いないからそう思うのかもしれないけど。
松原智恵子扮する母親は、私がそんな妄想を抱かせるのに大いに貢献している。これまたちょっと、ウチの母親に似ている(爆)。おっとりしていて、お父さんに何かあると、すぐに娘に助けを求める。
いや、全然いいのさ、当然だと思う。てか逆に、逐一事態を知らせるというのは、家族にとってマストの状態。でも意外と、世間的には意外と、そうでもないのかも、というのを見聞きしているから、まるで私のお母さんみたいな松原智恵子にふと心があたたかくなるのであった。
お父さんとただただ一緒にいることだけを、信じて疑わない。疑う理由なんてない。最後の最後には、ヤハリ娘二人は施設ということも考えるが、娘二人も、それを承知しないのは母親自身であることをよーく判っている。しんっじられないほど、ラブラブなんである。
そのことを、今更ながら子供たちは知るんである。そう、私も、私と姉も、そうだった。典型的なモーレツサラリーマンの父と、典型的なおっとり専業主婦の母。父親の姿を見ることすら子供の頃には稀だったぐらいだから、両親の絆というものをなかなか実感できずにいた。
父親が病気になって、リハビリに頑張ったり、入退院を繰り返したり、その時の二人の姿を見て、私って、何にも知らなかったなあ、と思ったのだ。母親が献身的に父親を支えているという姿なんだけど、それは圧倒的に父親が母親を、いや、夫が妻を信頼しているから出来る姿なんだよな、と思って……。
だから、蒼井優嬢演じる次女が独身で、父親の思うような自分になれていなくて、そして両親の姿を見て、父親の姿を見て、母親の姿を見て……というのが、違うよ、全然ケースは違うんだけど、なんかなんか、泣けちゃったんだよなあ。
認知症のことを娘たちに報告した最初のシーン、父親の誕生日だった。みんなでキラキラの三角帽をかぶって、ごちそうを作って、お祝いした。その時点で、その三角帽はちょっと笑っちゃったけど、最後に、最後に……それが出てくるとは思わなかった。反則だよー!!!
医者から、人工呼吸器をつけるか否かを問われる場面。つまり、これ以降は良くなることはない。自力で呼吸をするか否か。お父さんが実際にどう思っているか、健康な時ならどういう判断を下していたか、女三人は苦悩しまくりで、おっとりしていた母親が突然の決然とした態度を見せて、つまり、私はずっとずっと決心を迫られ続けていたし、ずっと考えて来たんだ。考えを尊重するだなんて、バカにするんじゃないと。
……なんか……打たれたなあ。結果的に、どういう選択をしたかは、特に示される訳じゃないのだ。それはきっと、そこが大事なところではないからなんだろうと思う。
こういうケース、色んな考え方や決断があるというのもそうだし。何より、みんながお父さんのことを考えて考えて考え抜いたことが伝わることが、いいんだと。
お父さんが、まだ体が動けてて、だからこそ女三人が振り回されているシークエンスの数々は、笑い泣きしまくりである。そもそもお父さんが、家にいてももう帰らなきゃ、帰ります、と言い出すのがすべての契機になってて。
それをただ、認知症だから判ってないから仕方ないよね、というんじゃなくて、それをお母さんから聞いた娘たちは、考える訳。特に長女は、慣れない海外生活に疲れていたこともあって、父親が心配で帰りたい、というのが、若干帰りたい願望も入っていたのかもしれない。“帰る”という言葉を頻発し、理路整然な夫から、ここが君の家なのに、と言われちゃうんである。
長女の夫を演じる、英語ペラペラ、研究者職に就いていると思しき北村有起哉がメッチャいい。彼は別に、冷たい夫という訳じゃないんだ。ただ愛情表現が不器用なだけで、不器用なのにヘンに頭がイイから、奥さんが臆しちゃって、息子もすっかりアメリカ生活になじんで英語ペラペラだしさ。
息子が不登校になった時、学校から呼び出しを受けたこの夫婦、家庭に問題があるんじゃないかと言われて、奥さんの心の鍵がはじけ飛んじゃってさ、本当は私だって夫と毎日ハグだってしたい、キスだってしたい、と言ってブッチュー!!!とやる場面はサイコーに好き!!
それだけで劇的に夫婦関係や家族関係が変わる訳じゃない。お父さんがいよいよ危ないという時に送り出す夫は、泣きじゃくる妻に不器用にハンカチを差し出すぐらいしか出来ない。ハグしろよ!!と思うが、まだまだ、まだまだ不器用な年頃の日本人男子なのだ。
でも、「事態が落ち着いて、帰る便が決まったら、空港までむかえにいく」「平日でも?昼の便でも?到着が遅れても??」「空港で、ずっと君を待ってる」しつこく条件を変えて聞きまくる竹内結子の可愛さにもヤラれたが、それにまっすぐに答える北村有起哉の不器用な優しさに、や、やられたー!!ただただジェントルマンな優しさだけが、心を溶かすんじゃないのだ。ああ、日本男児!!
次女の方は,物語の冒頭でもう、同棲していたと思しき恋人との別れが示されてる。彼女は彼が小説家の夢をうやむやにしたのを追及するが、彼女だって漠然とした夢……自分の料理を出す店、というのが定まっていない。
この冒頭の時点で彼は、北海道の実家に帰ってジャガイモ農家を継ぐことを決めており、彼女が自分の店を出す暁には、てゆーかそのタイミングを見計らって、オレが作ったジャガイモを送る、使ってもらいたいから、と言う。
お互い、別れ際だし、まるで社交辞令なことだった。夢をかなえることだけが、人のすべき道だと考えがちな年代、特に彼女の方は、ふがいない彼氏にガッカリした風が感じられた。
でもその後、次女もなかなか上手くいかない。移動トラックで青空食堂なるものをやってみても、さっぱり上手くいかない。そのさなかに幼なじみと再会して、その実家が古くからの洋食屋を経営しており、彼と付き合い始めたこともあって、そしてそのお母さんから、息子と結婚してほしい。あなたに店を任せたい。と言われて心が大きく揺らぐ。
てゆーか、障害はなさそうに見えたのに彼女がくじけたのは、バツイチである彼が心を残す幼い娘、そして彼のお母さんも孫娘に同じぐらいかそれ以上かもしれない、大きく心を残している場面を、再会の場面を覗き見して、残酷なぐらいに思い知らされたからなのだった。
そんな、そんな、と思う。だって別れてるのに、と思う。でもこの場面以降、次女は「家族には勝てないよ」とお父さんに涙ながらに告白して、またスーパーの総菜売り場の職に戻るんである。いわば顧客の好みに対する腕を磨かせてくれたこの職場に戻って、池谷のぶえさん扮するベテランさんに励まされて、彼女はまた独立への夢を再構築する。
めっちゃカワイイ蒼井優だし、勿論常に彼氏の姿をまとわせているけれど、“親の期待を裏切った、いまだ独身の、仕事もままならない次女”というのが、くーっ!!!と思っちゃうのだ。仕事はなんとかなっているけど、その他は、私そのものなんだもん(爆)。
てゆーか、やっぱり娘の場合は、孫を産むかどうかって、親がどう思っているかを確かめるのも怖いぐらい、ひとつの必須条件だからさ……。それだけで、うしろめたかった。ずっと。
孫は、一人だけ。長女のところに一人息子。まだ中学生ぐらいの時に認知症出来立ての頃に母親と一緒に帰って来た彼は、漢字マスターであるグランパを無邪気に尊敬した。つまり彼に関しては、若干危なっかしながらも、いい関係しか築いていなかったのだろう、と思う。
その後、彼はグランパに会うことはなかった。不登校になり、真っ金金の髪になって、改めて学校から呼び出された。教授に漢字マスターとして尊敬していたグランパが死んだ話をした。それだけだったけれど、ひどく濃密な時間だった。
まだ若い、悩める彼が、今後どう進んでいくかは判らない。でも、息子のことで悩んで酔いつぶれて眠ってしまった母親にブランケットをかけ、スカイプの向こうのグランパに手をあげてあいさつした彼が、間違った方向に進むことは、きっときっと、ないだろう。
沢山いいエピソードがある。お母さんが目の手術をして、愛するお父さんから離れなければならなくなって、次女にお世話を頼む。その大変さを真に判っていなかった次女が、うんこべったりの父親のお尻を見て驚愕する場面は、女が脱ぐより男が脱ぐ勇気!!と山崎努を万雷の拍手で称えたい。
医者から言われてうつぶせのままでいる母親が、思いがけず夫が骨折をして同じ病院に入院しているのを知り、ひたすらうつむきながら会いに行く場面、そのユーモラスさだけでも泣き笑いなのに、愛する人の元にたどりついて、彼女の顔を見て、実際はなんだか判らないままかもしれないのに、妻の首筋あたりをなでなでする、くすぐったいわ、なんていう、ちょっとしたエロティックささえ感じさせる場面は、本当に、心にずーんと来た。私は、何も、何もやってないまま、一人でいるだけ!!と思っちゃったもんなあ……。
本作の一番の泣き所は、もう前半に示されていた、お父さんが傘を三本もって、家から遠く離れた遊園地に向かう場面である。GPSで追うと線路の上にマークされて、緊張感が走り、消えた!死んじゃった??とパニクる女子三人が可笑しい。
つまり、彼は遊園地に向かっていた。次女だけが最初に記憶を取り戻した。みんなで行ったんだと。長女と母親はしばらく思い出せなかった。メリーゴーランドに、大人と一緒じゃなければ乗れないからと幼い姉妹に頼まれて乗っているお父さんを、三人が見つけた。
ふいに記憶がよみがえる。次女が風邪気味だったから、雨が降り出して、お父さんが迎えに来てくれたんだと。娘たちが、今一緒に乗っているあの姉妹ぐらいの年頃だったと。
ああ、ああ。ここで泣かずしてどこで泣く!!記憶は確かに大事だけど、それも失われてしまうけど、帰らなきゃ、帰らなきゃと、ずっと言い続けていたお父さんの真意が、自分ではなく、愛する家族のためのものだったのかもと思ったらさ……。
なんか、自分のことばかりに反映させちゃった。こういうのって、タイミングだなと思う。ちょっとハズかしいけど、出会ってよかった。★★★★☆
私が見てないだけかもしれない。香取慎吾という役者を、ドラマを見る機会がほとんどない私がどう語れる訳もない。が、やはり驚く。そんなイメージがない、というか、こういう役を彼に振るということ自体、やはりなかなか考えづらいのではないだろうかと思う。
映画におけるキャスティングというものが、こと商業映画においてはどういう風になされるのかなど判りようもないが、少なくとも白石監督にとっては受け身の、驚きのオファーだったんじゃないかと妄想してしまう。そして、これは面白いぞと思ったんじゃないかと。
スクリーンの中の、堕ちた、汚れた、ごくつぶしの、ろくでなしの郁男は、もはや彼が演じてしまうと彼以外考えられない陰惨さをまとっていて、慎吾君に対してそんな印象を持ってしまうこと自体に確かに驚いてしまう。
だが、でも、それこそもう結果論なんだけど、実は一番に無邪気で明るく見える、SMAPの末っ子であった慎吾君が、末っ子であっただけでそう思われてしまっていたような、実は一番影を持っていたのは彼だったんじゃないかと、思わず思ってしまうのだ。
ふと顧みると五人の中で最もガタイが良く、実は最も男臭く、それを持て余しているような暗さ。末っ子としてのその明るさ無邪気さの中にそれを隠していたような気が、今更ながらにしてしまうのだ。
そう、こんなに男臭い人だっただろうかと思う……別に、なまめかしいシーンがある訳でもないのだが、長年付き合っている子持ちの女性と、籍を入れるカイショもない自分を自嘲する、半ばヒモのような男が、似合ってしまうなんて、というか、その役を生きてしまうなんて、想像も、していなかった。
この郁男という男は、考えてみれば正体不明なんだよな、と思う。恋人の亜弓側の家族や出自やバックグラウンドはスケスケに見えているから余計にそう感じる部分もあるけれど、でも本当に、まるで身一つでこの世界に放り出されているみたいである。
冒頭、彼は川崎の印刷工場を同僚と共にクビになる。そこでは、その同僚の……つまはじきにされていた彼をかばったが故のとばっちりみたいに見えていたし、実際そうだったのだろうが、郁男の人生は、なんていうか、そういう“仕方なさ”を積極的に受け入れているような気がしてしまう。
彼のバックグラウンドが……それこそ家族とか、それまでどこで何をして暮らしていたのかとか、が全く見えないのは、正体不明とか、怪しいとかではなく、こんな人生を受け入れるしかないという積極的な仕方なさを、彼の全身からひしひしと感じてしまうせいなのだろうと思う。
亜弓とは上手くいっているし、その一人娘の美波とは幼い頃から共に過ごし、郁男と呼び捨てにされ、親とか母親の恋人とかいうより、まるで友達みたいだ。
いや、違うな。同志、その方がしっくりくる。美波は川崎では学校に行けていなくて、亜弓の地元に帰ることになって突然の引っ越し、転校に不満は漏らすけれど、でも外と上手くやっていけない気性は郁男とよく似ていて、血もつながってないし友達同士みたいなんだから不思議なんだけど、確かに二人は、仲のよい親子のように見えたのだ。
そうか、震災を見せるんだと、思う。緊張する。段々と、震災そのものや復興をネタにしない映画は出てきているし、本作もそうなんだとは思うが、生々しく削られた津波の跡や、永遠に工事中なのではないかと思われる造成の描写にはらはらとする。
勿論震災のことは口にするし、亜弓の母親は津波にさらわれてしまってそれ以来、父親はふさぎ込んでいる、といった描写は語られるにしても、それに対して肯定も否定もせず、淡々と日常が広がり、空は妙に曇天で、描かれるのは、ヨソモノの郁男がこの地で受け入れられそうになって、でも出来なくて、堕ちていって、でも救われて、でもそれもまやかしで……みたいな、なんかもう、地獄なのだ。
何もそれが、この、さらわれまくってしまった震災の地でなくてもいいだろうと一瞬思ったが、この地であることが、ひどく意味があることのように思えてしまうのは、なぜだろう……。
この東北の片田舎で、外から、東京から(正確には川崎からだが)きた人間なんて、ヨソモン以外の何物でもない。でも津波にすっかりさらわれてしまったこの地で、それがどれほどの意味を持つのだろうかと、ふと思ってしまう。
そんな言い方をすれば、そらー各方面から非難ゴーゴーだろうが(爆)、なんか本当に、素直に、そう思ってしまったのだ……これまで積み上げてきた土着的なものが、もちろん物質的な意味合いでさらわれただけにしても、これだけ何もなくなってしまって、それでもこだわるのかと。
亜弓の元夫は、彼女が小さい頃から可愛くて人気者だったのだと口にし、何気ない口調で、お前はそんなことも知らないよそ者だ、と排除する。籍も入れていない、つまりこの地に根差すつもりのないのだろうと。
結論からいえば、そうした土着的日本的、もう強力に意識されまくっている血のつながりジャパンをくつがえす価値観をドーン!と出してくる訳で、それはかなり冒険的であると、思っちゃう訳で。
でもそれを、日本という土着社会の中では比較的新しい歴史を持つ、北海道出身の白石監督が描くということに、意味があるのかもしれないと、思うんである。
そしてその描く先は土着も土着の東北であり、訛りはちょっと似ているけれど、やっぱり全然、全然違う。
でもそこが、積み上げてきた土着の土地が、まるでかつての未開の土地である北海道みたいに、境界線も何もかも、なーんにもバリアのない、ところになってしまって、でもそれでも、そこに何かがあったと、あるんだと、いや、そうでなければ、生きていけないんだけれど。
そこに、郁男が持ち込んだギャンブル、というのは、ひどく刹那的ではあるし、お決まりの地元のヤクザがかんでくる図式というのも、いくら津波にさらわれても、脈々と残っていくものなんだという、ヘンな安心感もある。
むしろ、この物語のメインとなる哀しい出来事が、そこに絡んでいない、本当に人の感情、愛憎のみに根差しているということが、意外なようでもあり、地元のヤクザ、任侠という世界に結果的に純粋性を持たせたというのが、白石監督の持つ根っからの映画魂、みたいなものを感じたりもする。
いや、もう一つの映画魂、かな。人間の愛、それがねじれたものでも、それを信じているのかもしれないけれど。
年頃の娘を心配する亜弓と、それをたしなめる郁男、思春期の美波の反発で、ほんの隙間が出来て、事件は起きてしまった。
悪いのは、たった一人しかいない。恐らく亜弓に横恋慕していた小野寺(リリー・フランキー)の、嫉妬からくる凶行だけしか責められるところはない筈なのに、その隙間を作ってしまったことに、まず美波が落ち込むんだけど、自分が亜弓とケンカして車から降ろしてしまったと郁男が告白すると、それまで上手くいっていた美波と郁男の仲も悪化する。
おじいちゃんはステージ4のガンを宣告されているし、郁男は亜弓と籍を入れていないまま、美波の先行きも不透明になり、郁男は亜弓の元夫から罵倒され、自分に何が出来るのか自信もないし、ヨレヨレになってまたギャンブル依存症に逆戻りするし、もうボロボロ、なんである。
郁男が没頭していたのは競輪である。完全にギャンブルにのめりこむ男たち、しかもヤミで、という描かれかたをしているので、ちょっと心配になったりもする。
思わずラストクレジットで競輪業界の協力を探したりするが、そらーまぁ、ないわな(爆)。でもアレかな、東北のレーサーが勝った場面をクローズアップしたりするのが、気ぃ使ってるのかな(爆爆)。
亜弓の父は、どうやら脛にキズ持つ人らしく、前科持ちだとハッキリ言ってたし、郁男が最後に大暴れする時にも、いかにも大物のヤクザトップに話つけて(これは麿赤児しか出来ないだろー)、郁男を引き取る。それ以前に、郁男がノミ屋で重ねまくった借金を、引退するからと船を売って、これできれいにしろというカッコ良さ。
実は、リリー氏演じる小野寺こそが、郁男を金銭的にもちょいちょい助けていたし、彼こそが救世主だと思わせていた部分はあるんだけれど……ただ、観客側も、亜弓を殺した人物が誰なのかと、ずーっと考えながら見ていた部分はまぁ、あるからさ。小野寺か、亜弓の元夫の村上か、どちらかかなあと思いながら見ていた部分は、あった。
小野寺はいかにも、ザ・善人で、亜弓にとって、ザ・イイ友人で、きちんとした勤め人で……でも、それこそ彼に家族とかのバックグラウンドが見えなかったことが気になったんだよね。
判りやすく悪役に見える村上(だって、亜弓とはDVで離婚したとか言ってたし)は、過去も現在もスケスケに見せている愚直さがあったから……。
私はフェミニズム野郎だから、血のつながらない関係でもそれ以上の関係になれる、親子にだって、それ以上にだってなれると思っているから、それを目指していてくれたのかなあと思った結末には……老いた父親が死んでしまった娘から預かった婚姻届けを出してきた結末には、心熱くなるものがあった。
郁男が川崎時代の朋友だったおっちゃんの逮捕事件をニュースで見て、それで頭にのぼったのが、義父にもなれなかった亜弓の父親から無償の愛のように差し出された大金であったこと、それでヤクザに殴り込みに行った。
本当に本当にアホな、愚かな、行為であり、結果的にまたしても義父に助けられるというていたらくが、でもこれで親子になったと、思っちゃう、それをつなぎとめていた筈の亜弓が、しかもヒドい理由で死んでいるのに、つなぎとめているのが、血のつながりって、なんだろう、なんだろう、なんだろう、って……。★★★☆☆
それにねぇ、本来は原作自体が凄いものなのだから、そっちを読まずして映画だけでコーフンするのもダメなのかもしれない。
でも、普段の私なら、この手の、なんてゆーか、いわゆる群像劇は避けちゃう傾向にあるのだ。頭悪いんで、人物相関図だけで頭抱えちゃうんだもん。
記憶に新しいのは「孤狼の血」ほんっとうに、観てる間中判んなくて身もだえしてた(爆)。
予告編やポスターでずらっとオールスターキャスト並べられるだけで、あ、私、もうダメ……とか思うタイプ(爆)。だから、正直ちょっと迷っていたのだが……。
野村萬斎氏が映画に出てくれるというのは、そうそうあるものじゃないからさ。しかもなんだかもう、予告編の段階から大怪演、だしさ!!
香川照之とキスしそうなぐらいに顔つき合わせてのぶつかり合いをチラ見せされちゃったら、もう、もう、……見に行かなかったら絶対に後悔する!!と思っちゃったんだもん。
実際、小説でこれを読んだら、私はきっと、人物相関図を頭の中で上手く整理できなくて、頭抱えたと思う。きっとさ、キャスティングは楽しかったと思うなぁ。この人物にはこの役者!みたいにさ、考えていくの、メッチャ楽しそう!と、思うぐらい、この濃さでみんなバッチリ、ハマりまくりなんだもの!!
不思議なのは、へぇーこの人にこういう性格の役をやらせるんだ……みたいなことは後から思えばあるのに、それこそミッチーとかね、気弱な営業マンなんてさ。でもそれが、あの濃さ押し出しの強さの役者陣の中に細身で美しい彼が放り出されると確かに、そうなんだもの!
オリラジ藤森君にも驚いた。それこそドラマはなかなか観てないので、彼がどの程度、役者として活躍しているのか知らない。それこそ「津軽百年食堂」以来、私的には。
経理部所属で、いわばコバンザメで、社内の女の子に手をつけて甘い言葉でのらりくらりと縛り続けて、無人販売のドーナツに金も払わないようなコソコソしたちっちぇー男!彼のあの独特の声も相まって、凄くピッタリなんだよね!!
あと、眼鏡をはずすと途端にあいまいな印象になるのが逆に凄くバッチリの昇太師匠もサイコーだったしなぁ。強度偽装をした工場の社長というキーマン中のキーマンの立川談春氏も結果的にしたたかなエセ野郎を示してうえーっ!と思ったし!!
そうだそうだ、それこそ昇太師匠、談春師匠もそうだし、メインの一人である片岡愛之助氏、そしてもちろん主役の野村氏、落語家、歌舞伎役者、狂言師と、なんてゆーか、伝統芸能の担い手が、役者一本の人たちよりもメインに押し出されて、ぶつかりあってる、もう大衝突ぐらいの!!芝居の火花を散らしている、しかも映画という大スクリーンで!!というのが、もう、なんか、凄い!!と思ってさぁ……。
早めに言っときますけど、物語の内容とか、もはやあんまり記す気がないんで(爆)。だってこれは……まさに映画ならではの、役者の芝居を堪能する作品だなぁと思ったんだもの。
もしかしたら、映画とドラマの魅力の差異はそこにこそあるのかもしれないとか、思った。長いスパンで観てもらわなければいけないドラマは、役者力も勿論だが、それ以上に作品力、物語で引っ張っていく力こそが重要なのだと思う。
勿論映画にだってそれは必要だが、最低三ヶ月続くドラマと、二時間前後の映画では、役者が惹きつける力は前者に比べて相当に必要なのだ。そういうことなんだなぁと、なんか初めて気づいたぐらいに、思ってしまった。
考えてみれば、香川照之だってさ、歌舞伎役者なんだもんねと思う。なんか、そう思うとジーンとする。
彼が今、どの程度歌舞伎役者として時間を割いているのか判らないけど、ずっとずっと、思い続けてきた歌舞伎役者としての自分を手に入れて、そして今、歌舞伎役者の花形、狂言師の花形と、火花を散らしてスクリーンに芝居をぶつけているのだと思うと、なんか、それだけで涙が出そうになっちゃう。
本作はさ、絶対、大げさな芝居を演出でつけられているんだと思う。頬がブルブルするのなんて序の口、みたいな(笑)。それぐらいじゃなきゃ、この凄まじい役者陣、そして日本どころか世界中も揺るがす大企業クライムサスペンスエンタテインメント(!)を支えきれないんだもの。
大げさ、は、いわば本作のキーワードというか、前提、だったと思う。タイトル通り、大小さまざまな会議が繰り広げられる訳だが、予告編でまずワレワレの心をわしづかみにした、萬斎さんがい眠っててラブ様がキーッ!となり、ミッチーが脂汗を流す最初の会議の場面、もう最初のあの場面からよ。
フィクショナル、とまで言うのはアレだけれど、舞台チックというか、花形の第一営業部とショボい第二営業部が左右にかっきりと別れてて、親会社からコワーい幹部が来てて、その手下とも言うべき香川照之がゲキを飛ばす……この大いなる大げささ、わざとらしい舞台作り!
無茶なノルマを到達できなかったと言って、更にムチャなノルマを迫るという、もう、イヤ!日本の企業の、社員を奴隷のように縛り付けるの、イヤイヤ!そういう話か!!と……。
確かにそういう話は一方ではあったのだが、もう心躍る企業クライムミステリエンタテインメント!(もう、判らん!!)しかし、結局は、そういう話に収束していく、ことが、目的だったのかなぁ。そしてそのスリリングに、前述したような、ちょっと大げさな感じで舞台設定を盛り込むのよね。
親会社なんて宝塚劇場かってな大階段、会議室なんて世界各国の首脳が会議でもするような広大さ&きらびやかさよ。しかしその中にぽつんぽつんと、親会社と子会社の関係者が数人置かれて、その中で心理合戦を繰り広げるんだから、それがまた、凄く凄く、ビリビリくるの!!
……さすがに、どーゆー話かを言っておかねばならないかのぅ。親会社からのキツイノルマに屈する形で、やっちゃいけないデータ偽装、しかもそれは、世界中の航空機とか高速列車とかのシートに使われているネジの強度偽装だったから、バレたらもー、大変なことになる。
てなことが発覚するのは物語もかなーり後半になってからであって、それまでは社内抗争の物語のように展開されていく。それでも充分に、十二分に、おっそろしくスリリングなのだが、これがそうした、世界の安全を巻き込む大問題だということが発覚するクライマックスからは、もう、あれこれ、それはそうだったのか、あれはああだったのか!!と、もう謎解き初心者まるだしでキャーキャー言っちゃうていたらくなんである(爆)。
そりゃ、判ってたさ。いくら萬斎さんが無精ひげにネクタイ緩めてぐーたら居眠りしてたって、なんたって主役だし、ということ以上に、ただならぬ、ただ者ではない感が充満していたのだもの!
どー考えたって役立たずの筈の彼が、実はかつてはめちゃめちゃやり手だったと発覚し、しかし、そりゃそーだろー!!とか思い(爆)、しかし、次第に、その同期に、今は彼を鬼のように叱責しているラブ様や香川氏がいると判ってくる、いわば謎解きのような展開に、もう、うわー、うわーー!!と震えるしか、ないのだ!!
先述したが、普段は違う土壌での役者、化学変化というのもおぼつかないほどの、パワーと濃厚が爆発する芝居のぶつかり合いに、あぁ、もぅ、生きてて良かった、この時代に!!と思うばかりなのだ!
ラブ様の芝居を観る機会は初……ではないとは思うが、ほとんどそれぐらいの体験で、凄い、凄かった。香川照之と、いわば歌舞伎役者同士で、というのが、なんかグッときた。もうもう。
そういう意味で言えば、出ずっぱりだし、謎を解明するんだし、萬斎さんと共にダブル主演と言ってもいいぐらいのミッチーだが、そこは(シャレじゃないけど)狂言回しに徹している。彼の中にある、マンガチックな可愛らしさが上手く作用している。
相棒となる同僚の女子社員も不倫問題を抱えてるし、萬斎さんもこのキツい仕事が原因で家庭が壊れているし。
そんな中で、そう、後から考えてみれば、ミッチーは、そういう生臭い情報が、一切、ないんだよね。例えば結婚してるとか、付き合ってる人がいるとか、全然ない。
ちょっと、女子社員とイイ仲になるのかなとゲスな勘繰りをしたが、そんなこともなく、周りの状況を、そうなんだ……と受け止めるだけの存在、本当に、狂言回しとしての存在に徹せられているのが、これは意外に、凄いことなのかもしれないと思って!!
ミッチーの持つ、現実感のなさが、上手いこと作用したのかなぁと思う一方で、でも彼の悩める営業マンの姿は、イイ感じのワザとらしさが加味して、ちゃんとリアリティはあったんだよね。なんかいろんなそれもこれもが、ホント凄いと思って!!
言い切れないキャストがいっぱいいる。まさにキーマンの町工場社長、音尾さん、彼らに脅しをかける、濃さたっぷりの鹿賀氏、小心さをこれでもかと見せつけるのが逆に凄いパワーの橋爪氏、最後の最後にこれぞ!と出てくる北大路欣也氏の圧倒的な存在感がズルさなんぞをかき消してしまうパワーはいわずもがな。
親会社からの出向だけど正義の人、世良公則、だったんだ!気づかなかったなぁ……前髪下ろされると(爆)。チョイ役で太鳳ちゃん、孝太郎君、溝端君、って、豪華すぎるだろ!いやー、とにかくとにかく、コーフンしたなぁ、めちゃくちゃ、面白かった。ヤバい!!!★★★★★
それがまんまこの、タイトルに現れているんである。サーファーには絶好のスポット。四国の右下。仕事をおろそかにするんじゃなくて、仕事も、生き方(趣味)も、同等に大事にする生活。
言葉にしてしまえば当たり前のように思えるし、それが出来ていなかったら逆に仕事なんてできないよと思うが、まさに日本人は、それが出来ていなかった。
多分、少なくとも先進国の中で日本人だけが、出来ていなかったんじゃないかと思う。季節ごとの何週間ものバカンスなんて、日本じゃあり得ない。
そしてそれをここまで構築してきてしまった日本で、急に実現するのはもっと不可能だ。ならばどうするか。一日の中、あるいは一週間の中、一ヶ月の中でのライフスタイルの中で構築すればいい訳だ。
なんてカンタン。目からウロコ。それこそさ、埼玉都民などという言葉が出るほど、東京への通勤圏内というのは他県は当たり前、ヘタすると新幹線まで使って、一時間なんて短い方。考えてみれば、趣味に一日一時間かけられる人が、どれだけいるだろう。
休日に“頑張って”趣味をこなして、それも疲れてイヤになって、趣味もない人生になって、仕事に会社に人生を捧げて一生を終わる……それがそれほど不思議じゃなかった。
そして今、それがイヤだという(もっともだ)“ゆとり世代”にその上の人間たちは眉をひそめ、結果、いい人材をとれなくなっている。
なんてバカバカしいのだろうと思うが、だったらどうすればいいのか、あるいはそれを実践しているところがあるなんてこと自体、思いも及ばなかった。
まぁ私は完全インドア人間なんで、サーフィンが出来るとか、山も海も川もあるとか、全然魅力には思わないのだが(爆)、でも逆に、私は本当にどこでもいいのだ。部屋の中が世界で最高ならば、部屋の外がどこでもかまわないから。
職種によって、あるいはスキルによってはどこにオフィスがあってもいい時代、私の子供の頃はテレビ局の数からして情報格差があったが、ケーブルテレビに衛星テレビ、インターネットによってそれも日本全国どころか、全世界で差がなくなった。東京でなければいけない理由はどこにもなくなったのだ。
いやまぁ私の場合はなんかムリヤリ東京に出されたような感があって(ちょっとウラミ節)、でも結局、どこに行っても、私の生活は変わらなかった。ウチン中がサイコーだから、外の世界がどうであっても、ほぼ関係ないのだ。
だからこの作品の提唱する価値観とは真逆の部分でだけど、都会でなければいけない、という価値観が今の世の中、どーでもいいことだけは、実感として判っている。
だからこそ、ちょっと優等生的な作り方かな、という気はしたけどね。サーフィンが出来る、アウトドアが出来る、仕事は専門的なことが継続できる!!というのは、新しいようでいて、むしろ……日本が遅れに遅れてたどり着いた、という感じがある。
こーゆーライフスタイルは、それこそアメリカ映画やなんかで、以前から見かけたような感覚がある。50年ぐらい遅れているんじゃないの??という感じがある。
都会礼賛は、全世界の中でトップクラスに日本は重症なんである。どんな仕事だって、こういう生活スタイルはやりようによっちゃできると思うのだが、日本に関してはそれが、“光ファイバー回線が徹底”された地方でなければ実現できなかった、というのが、ちょっと皮肉な感じもしちゃう。
だいーぶ、前置きが長くなったが……。関口知宏氏主演というのは初めて見る。そうだよね、初主演、だよね!!てゆーか、彼が役者として出ているのも、ドラマを見る機会がすみません、ほぼないせいだろう……初めてである。
たまたま彼のおじいさん、佐野周二の映画を本日(書いてる日)見てて、で、彼のお父さんは今でも思いっきりテレビで活躍してて、……知宏氏、ってさ、なんか全然タイプ違うよね。なんつーか、武骨というか野性味があるというか、都会味がないというか(爆爆)。芝居も大きくて、ちょっと時々、ドキドキするぐらい(爆)。
まぁそれは演出のせいなのかなぁ。監督さんの名前は久しぶりに見た気がするけど、久しぶりどころじゃない、「キリコの風景」以来って、どんだけよ!!そうだ、ロマポルの監督さんとして、かなり名前を見ていたんだ、そうだ……。プロデュース業の方が長かったんだ、そうなのかぁー。
とゆー訳で、久しぶりに手掛けた監督作品は、前述のように、どっちかっつーとかなり優等生的な、固い作品構成に、私はどうしても感じちゃったけどねー。
エンジニアの優秀な人材が集まらなくて、背水の陣で故郷に活路を見出す主人公の徳永、その夫に、子供たちは学校もあるんだし、勝手に決められても困る、と同行を拒否する妻。
今は役場に勤める故郷の同級生(柏原収史)や地元でカリスマ的力を持つ、造船業から何からマルチに活動しているとうさん(宇崎竜童)の手を借りて、この地で働く魅力を全国に発信することで、見事優秀な人材を獲得することに成功。
突然やって来た彼らに反発する地元の人々との軋轢もあれど、とうさんの助言で、ボランティアや祭りの責任者として仕切ることで、その垣根も低くなっていく。
都会の女子大生のインターンシップがまた、風穴を開ける。テーマは地域創生。もう就職も決まっていて、カルい卒業旅行気分で訪れた女の子三人は、“田舎”という先入観に凝り固まっていた自分を発見し、山のおばあちゃんとの別れに涙を流し子あり、あわびの養殖に挑戦している若者と恋に落ちる子あり、とドラマチックな展開を見せる。
ことに後者に関しては、たった一週間の滞在でそこまで至り(いや、何にもヤッてないけど、って下世話じゃ!!)「小さなころからの憧れの仕事に内定している」という理由で、彼からのプロポーズ(!!)を断るけれど、その後もつながり続け、赤潮であわびが全滅したというピンチを聞かされ、彼女は心を決めて、彼の元へ戻ってくるんである。
いや、この場合重要なのは、徳永が落ち込む青年、あわび養殖の四宮を叱り飛ばし、とうさんや地元銀行の力を借りて稚貝からまたスタートすることを実現させたことで。
つまり、地元民の一部から煙たがられていた徳永(てゆーか、ほとんどチンピラワカモン三人組の描写に限られる、というベタな展開だけどねー)、がそれまでも彼には好意的ではあった四宮だが、本当に、尊敬のまなざしで「カッコイイです」と徳永に言うあのシークエンスこそが大事なのだよね。
何の損得もなしに他人のために奔走してしまう人間のことを、愛情をこめて“ぽんこつ”と呼び、それはとうさんを筆頭にこの地にはたっくさん、いる訳なのだが、見事徳永はその名誉??の仲間入りをした訳で。
四国の右下のこの美波町で採用した中で、最も印象的かつ、キーマンとなるのが、サーフィンをやりたくて応募したという、まさに本作のテーマにぴったりな生田である。社内だけではなく地元の肝いりにも気に入られ、祭りの責任者にまで抜擢されるという役どころ。
演じる伊藤祐輝君は年恰好も若すぎずイイ感じにシブかっこよく、とっても気になるのだが、オフィシャルサイトがカンタンすぎて、彼のプロフィールが全然判らないよーっ!後で調べてみよう……。
彼の面接場面では、恐らく徳永の家族間の問題が頭にあったのだろう、独身かどうかを尋ねる場面があって、彼は独身、その言葉にホッとする彼らなのだが、でも採用する全員、独身なんだよね。そしてその後、特に同僚間、地元民間で恋愛に発展する感じもない。
いや、いいんだけど……徳永が、家族の問題で苦労していたし、わざわざ彼に独身かどうか聞いたりしていたからさ、そーゆー方面で展開があるのかなと思ったから……。
いやまぁ、インターンシップの女の子とあわび青年とのさわやかな恋はあったけど、それぞれ仕事をどうするかという点においては、まだまだ甘い点は、あったかなぁ。
勿論、劇中、徳永が誘致する事業所のエピソードや、それと関連する地元民との軋轢とその解決、さまざまスリリングな展開はあるのだが、じゃあ徳永の妻と子供が、何となく移住するかも、みたいな雰囲気だけで終わるのが、それまでの葛藤をちゃんと見せていただけに、不満も残るんである。
徳永の妻が……多分だけど専業主婦っぽいから余計である。多分だけど、というあたりも、である。彼女のこの家族での立ち位置が、子供にべったりなのか、夫の言い分を判ってるのか、なんだかあいまいなまま、彼の“ワガママ”に反発したり、意外に理解を示したり、するのがなんかピリッと来ないんだよね。
子供たちにしても……この年頃の子供たちにとって一番重要なのは、環境の変化よりも、友達との別れなのだ。同じように思われるかもしれないけれど、全然、違うのだ。
親が、環境の良さだけを理由に、それを子供のためみたいに言って無理強いすることこそが、私は自分の子供の頃を考えて、ガマンできない訳(爆)。進学のこととかなんて、子供にとってはどーでもいい訳。あったり前でしょう!!
美味しそうなお刺身もりもりとか、いかにも地元PRな場面もあったが、さばいてる場面からビシバシ見せてほしかったなぁとか思ったりする。勿論、水揚げの場面はあったけどね。
役場の人間、漁業の人間はいたけど、市場の人間はいなかったなぁ、とかね、市場の人間だから、気になるわけ(笑)。
アワビ青年は市場の人間だったとは思うし、その周辺のエキストラ的な人たちはいたけれど……。そこできちんと関わらなければ、真のリアリティまでは、至らないかなぁ。だってたてつくのが、チンピラ三人のみで、とうさんに説得されてアッサリ懐柔しちゃうんだもん(爆爆)。★★★☆☆