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「つ」


2011年鑑賞作品

津軽じょんがら節
1973年 102分 日本 カラー
監督:斎藤耕一 脚本:中島丈博 斎藤耕一
撮影:坂本典隆 音楽:白川軍八郎 高橋竹山 若美家五郎
出演:江波杏子 織田あきら 中川三穂子 寺田農 戸田春子 東恵美子 富山真沙子 河村久子 田中筆子 佐藤英夫 西村晃


2011/9/1/木 劇場 東京国立近代美術館フィルムセンター
映画物故人を偲ぶ今回の特集、この監督の作品を他に何か観ていただろうかと探ったら、偶然別の場所別の特集(梶芽衣子特集)でつい数日前に「無宿」を観ていた。
結構ここ数年の新しい映画でも観ていることを知った。知らなかったなあ……。

本作に関しては、名作の誉れ高いそのタイトルはなんとなく聞いたことがあって……いや、決して演歌のタイトルとしてではなく。
でもどこでそんなことを聞きかじっていたんだろう。まったく定かではない。
ただ今回のプログラムにこのタイトルを目にした時、その“伝説”に触れたことを思い出してザワリとした。暑さで参っていた体を引きずって足を運んだ。

外の暑さとは無縁の、寒々しい津軽の海が、その様が、何よりつんざく波音が、疲れた体にこたえる。それほどまでに、海の、波の、波音の存在感が半端じゃなかった。
ここを出て行ったイサ子が、一度は戻ってきてもやはり出て行ってしまうイサ子が、まるでその波音に追い立てられているような気さえした。
いや、彼女は久しぶりに戻ってきた故郷に嬉しそうにし、こんな何もないところ、と吐き捨てるように言う若い恋人に、「ふるさとを持たない人には判んないのよ。東京から一歩も出たことのない人には」と言っていたじゃないか。

それでもなんだか、なんでだか、そんな風に思うのだ。東京の人、というのは、生まれ育ちが東京であることを意味するのではなく、故郷にいられなくなる人、東京の吹き溜まりに掃き寄せられていった人なんじゃないかって。
彼女が死んだ父と兄の秘密を知らなくても、まるでそれが前提だったかのように、この村を追われたんじゃないかって。

……相変わらず突っ走ってしまう。あのね、冒頭で、もう結末を示しているも同然である。
本作のキーマン、キーウーマンか。盲目の少女、ユキが三味線弾きの女に話を聞いてもらっている。
激しい波が打ち寄せる海をバックに、津軽三味線がエレキギターもかくやと思うほどに激しくかき鳴らされ、女は歌を唸り、ユキは涙を落とす。
「あの人は25だった」その、あの人は、いなくなったと。

イサ子の若い恋人であるヤクザ者の徹男が現れてすぐに、それは彼のことだと判った。
彼が、自身の年齢を明かすのはだいぶ後になってからなんだけど。しかもその年を明かす場面は、彼が心を許した潮焼けした老漁師の息子と同じ年だという会話の中。
その息子というのがイサ子と駆け落ちした青年であり、イサ子は行方を知らないと言っていたけれども、徹男はアッサリと、無邪気と言っていい程にタネを明かしてしまうのだ。「病気で死んだんだぜ」と。
死んだ息子の年と同じ年の徹男。そしてこのオープニング。もう結末は最初から判ってしまう。それがずっとちくちく胸を責め続ける。

……なんかどうしても先走ってしまう。それほどに、なんとも心急いてしまうのは、やはりあの波にせかされているのだろうか。
イサ子が徹男を伴ってこの故郷に帰ってきたのは、一番の理由は、徹男がムチャをして敵対する組の幹部を刺してしまい、それは誰も望んでいなかったことで、つまり味方してくれるものが誰もいない、ぐずぐずしてたら始末されてしまう、という状況の彼を、ほとぼりが冷めるまで、とイサ子が故郷に連れてきたんである。

後から考えれば、ほとぼりなんてものはいつまでたったって冷めっこなかったのだ。ヤクザの掟というものは、昔も今も、ムダなぐらいにしつこいのだ。
それを思うと、そんな刹那の状況で、ふるさとのなかった彼がふるさとを見つけてしまったことが、切なく愛しく痛ましくてたまらない。
そして一方でイサ子は、もうここに戻ることはないだろう。ふるさとを持った者がふるさとを捨てた時、もう二度と取り返すことは出来ないのだ、きっと。

なんかダメだな、破滅の結末に急ぎすぎている、私。でも場面のどれもが、そこに向かって走っているのだもの。
最初の展開ではね、徹男はどうにも好きになれそうにないと思った。見るからにメインキャストだし、彼を好きになれなかったらキツいな、と思った。
最初は彼が何をしでかしたかとか明確なことは示されないんだけど、どうやら何かヤバイことをして女に頼って身を潜めていることは知れた。
なのに、こんなとこに連れてこられて、みたいなイヤな顔して、口を開けば文句ばかり、それをたしなめるイサ子が明らかに彼より年上だから、余計に彼のワガママが際立った。
何でこんな奴連れてきたの、何日経ってもこの場所にあまりにそぐわない三つ揃いのスーツなんて着込んじゃって、気ぃ悪い!なんてさ、思ってた。

でも、実は、ワガママだったのはイサ子の方だったのだ。そりゃ身を潜めているためには目立った動きは出来ないし、私が働くから、あんたを食べさすから、という彼女は出来た女なのだろう。
けれど……いつ冷めるとも知れぬ“ほとぼり”とやらを待ち続けて、日がな一日ごろごろしてなきゃいけない、「2時間かけてパチンコしに行くのかよ!」という状況に彼を押し込めているイサ子は結局、彼を独占するために、まるで軟禁しているがごとくに囲い込んだということだったんじゃないのか。

あのね、彼の、見るからにちゃらちゃらしたスリムな三つ揃いはすんごく目立ってね。この寒々しい漁村で彼がいつまでもそのカッコでいるもんだから、バカじゃないの、と思っていたんだよね。
でも、そうした“東京人”であるカッコを最後まで脱ぎ捨てなかったのは、イサ子の方だったのだ。

彼女は金を稼ぐために村の飲み屋で働き始める。その時には仕事着である和服に着替えるから、なんとなく徹男だけがいつまでもそのカッコから脱したがらないように思えたんだけど、イサ子のその仕事着も東京にいた頃と変わらないであろうことは、「新宿のバーにいた女とこんなところで会えるとは」と感激するスケベじじいの客の言葉からも判るし。
イサ子はたくみに地元言葉を使い分けながらも、結局は、この村を最初に出た若い時に、もう村を捨てていたのだ、ここはもう、彼女のふるさとではないのだ。

ヒマをもてあました徹男は一人の少女に出会う。これが冒頭にもうオチバレのように出てきた盲目の少女、ユキである。
私、最初片桐はいりかと思った(爆)。いやそのう、エラ張り気味の顔の形と、盲目であるということを表現するためであろう、より目気味な表情がなんかはいりさんにやけに似ている気がして(爆)。
でもほんとにね、この目の表情が凄く印象的なの。私、本当に彼女は目の見えない人なのかと思った。より目気味の、その黒目がとても黒々としていて、漆黒の闇のようだった。

なんかね、彼女はちょっと、頭がヨワそうな描写に映るのね。いや、そんなことを思うのは、私がヒネくれているからかもしれない(爆)。
白痴の女を美しとする、映画に厳然と存在するあるひとつの方向性が、私はイヤでイヤでたまらないから、必要以上にそうとってしまうのかもしれない。
でもね、そんな風に村の男たちが言っていた場面、なかった?それは私の気のせい?(爆)。

少なくとも、彼女とその一家はこの漁村の中で疎んじられていた。そもそもイサ子が自分たちが元々住んでいた海辺の家に住んでいるこの一家に向けたリアクションからそれは早々に察せられた。
ばあちゃん、母親、ユキ、と女ばかりが残されている。後に明らかになるところによると、ユキは兄妹の近親相姦によって出来た子供で、父親はそれを知った時、竹べらで自らの目を突いて海に身を投じた。
「呪われた家なのよ」イサ子は吐き捨てるように言った、のは、徹男がユキに惹かれていることを知ったから。

……おっとまたなんかフライングしちゃったかな。軌道修正。
えっとね、徹男は最初はユキをからかうのよ。なんせヒマでしょうがないから、暇つぶしだろうな。彼女の目が見えないのをいいことに、自分は大型船で来たとかなんとか。
からかってユキノ釣竿を取り上げたりしてふざけているうちに、彼女は川にはまってずぶぬれになってしまう。
幼女のようにしくしく泣くユキをおぶって送っていく徹男。穏やかな川辺、背の高い草原、なにか童謡のような懐かしさを感じる。
叱られる、叱られると泣きじゃくるばかりのユキに困り果てて、徹男はチュッとユキにくちづけをした。
……あーあ、ヤバいと思った。なんでか判らんけど、これが破滅への道行きのような直感がした。

ユキが白痴のように思えるのは、結構もういい年なのに徹男をあんちゃ、あんちゃと慕う幼女のような描写と、村の男がまことしやかにウワサする「あの家系はイロキチガイだから」といった台詞によると思われる。
イロキチガイというのは、近親相姦があったことも含めた単なる差別的な言葉に過ぎないとは思うけど、心が幼いまま身体だけが本能を発揮するほどに成長した時に表現されるのが“イロキチガイ”っていうことのような気がして……。
かつてそんなロマポルとか観たことあるような気もするしなあ……そして、その時も、女である私は単純にイラッとしてしまった覚えがあるんだもん。

なんかね、女が軽んじられているような気がした、バカにされているような気がした、白痴の女なら征服できる、そしてそこに美を見出すなんてあんまりだと思った、と、そんな記憶がある。
まあそれは今よりは若かりし頃の記憶だし(爆)、年くった今はそんな聞き分けのないことを言うつもりはないけど(爆)、でもやっぱり……ちょっと考えちゃう。
だってユキに出会わなかったら、ホレなかったら、ユキにこそふるさとを見出してここに留まろうなんて考えなかったら、イサ子と一緒にあの時この村を出ていたら、彼は死なずにすんだのかもしれないんだもの。

もう先走りは気にせずに(爆)。えーとね、イサ子の方にもかなりのドラマがあるの。彼女は漁師だった父と兄を漁船沈没事故で亡くした。
彼女がこの地に帰ってきたのは、リッパな墓を建ててやることも目的だった。でも、船の保険金が下りない。何年も経つのに、調査中と突っぱねられる。
口の重かった保険会社が逆ギレみたいに反撃に出る。多額の保険金をかけた直後の事故、しけではあったが、遭難するほどの天気ではなかった、小船に乗り移る二人を仲間の漁師が見ている、等々……。

特にこの最後がイタかった。それはイサ子も古くから知る漁師だったから。つまり彼女は、のみならず彼女の家族は、もう既に村から軽蔑され、見捨てられ、帰る場所などなかったんだよね。
立派な墓?そんなの父と兄をいたたまれなくするばかりだったんだね。そして先に死んだ母親も……。
しかも追い討ちをかけるように、働いていた店の売上金が従業員の女によって持ち逃げされる。イサ子はこの女を信頼していて、自分の預金まで預けていた。バカ!!!

そうなるとイサ子は、墓を建てるまではこの地を出ないと強硬に言い張っていたのを翻す。徹男はずっと出よう出ようと言っていたのに、なぜか渋る。
なぜか、なんて。それは自分の手の内にあると安心しきっていた徹男が、よそ者である肩身の狭さのままほうっておいた徹男が、自分の力で居場所を見つけ始めていたから。

いや、そんな大層なことを言ってはいけないのかも。だって徹男はやはりヤクザ、結構ひどいこともしくさる。
イサ子が酔客に犯されそうになったのを目にすると、怒るよりも、その客からカネを脅し取ることを優先し、それに味をしめて美人局をやろうぜとイサ子に持ちかける。
まあ暇をもてあましてくさくさしていた徹男のことを思うと気持ちが判らなくもないけど、でもやっぱりヤクザな考えだ。

ユキに対しても、彼女への気持ちが固まるまでは結構非道なのだ。憑き物を落とすために山奥に預けられる。もう会えないとユキが泣いて訴えると、もう会えないんならいいだろと草むらに彼女を押し倒して犯そうとする、それは未遂だったけど……。
イサ子の働く店の主人から、めくらの女なら珍しがられて客が取れると持ちかけられ、怯えるユキを禿げちゃびんジジイの前に置き去りにする場面に至っては、サイテー!と……。
でもサイテーだから、それが覆されるとサイコーになってしまう。前金だけもらってイサ子とこの村をずらかろうと思っていた徹男は、しかし判りやすく後ろ髪を引かれて、イサ子をバス停に置いて引き返してしまう。
じじいをぶっ飛ばしてユキを抱きしめ、そして彼はこの村に残るのであった。

それには、先述した一人の老人との出会いも大きかった。暇を持て余している時に出会った、小船でしじみを獲っている老人。イサ子に息子の一人を奪われた老人。
この老人に対してもそうだけど、ユキと最初に出会った時も、まるで無邪気な子供みたいな笑顔を彼は見せた。
それまで、登場シーンからイサ子になだめすかされてあばらやでゴロゴロして、パチンコ行きてえ!と愚痴り、新宿のバーのマッチを未練がましく眺める彼は、常にふてくされたガキンチョのごとくで憎たらしいったらなかった、のに。

あ、今こうして書いて気づいた。どっちにしろ彼は、子供だったんだね。
そう思えば、ずっと仏頂面の彼は、親の言いなりについていくしかない子供が見せる、精一杯の反抗の表情そのものだった。
ずっとまといつづけている三つ揃いのスーツも、元いた学校の制服を意地になって着ているみたい。
でも、元々の心根は素直だから、自分からコミュニケーションをとろうと思う相手には、子供のいい方の側面、人懐こさや無邪気さを見せるのだ。

ああ、そう思ったら、彼がたまらなく愛しくなってきた!彼にとってイサ子は母親だったと思えば確かにしっくりくる。
親の顔を知らずに育った彼、ぐっと年上のイサ子、彼女との睦言のシーンは、冒頭、それらしき場面だけ。
この地に着いたばかりの彼は目をばっちりと開けてまんじりともしない、その彼を、いとおしげになでさするイサ子、ああ、確かにそうかもしれない!

でも、老人に父を感じ、老人もそう感じてお互い胸襟を開き、漁を手伝うようになって、スーツから漁師の青年のカッコに様変わり、彼はふるさとを手に入れたんである。
村の誰からも疎んじられているユキ一家にもじわじわと受け入れられ、母親とおばあがいる隣の部屋でユキと愛し合うようになる。
絶望したイサ子がこの地を去るに至って、ひょっとしたらハッピーエンドが待っているのかもしれないと、一瞬思いかけて、冒頭を思い出した。
ああ、思い出してしまった。25歳の、ユキの元からいなくなってしまった男。それは、それは徹男なのだ!!!

いったんイサ子とこの村を出ようとした時、それは徹男が橋の上で、見るからにヤクザ者の車と遭遇したからだった。
顔を隠して川面を見詰める徹男の脇をゆっくりと通り過ぎる車、のどかな木の橋の静寂な佇まいとスタイリッシュな車のいでたち、そしてこの時はまだ三つ揃いのスーツを着ていた徹男のカッコもあいまって、その違和感アリアリがひどく、ひどく恐ろしかった。音が乾いてパリパリと離れて聞こえた。
それで村に留まるなんて、もう結末は見えていたのに。そんなにもユキに惚れてしまって、そして老人に親と子のシンパシイを感じてしまったなんて、切なすぎる。

ユキが、友達が来たヨと徹男の前に現われた時、ああもう、ダメだ、ダメなんだ、と思った。童女のように無邪気なユキが憎たらしかった。
思えば彼女はいつも田舎の少女人形のような、カラフルな着物姿で、それが海からの強風にあおられるたびに頼りなげな風情をかもし出し、そんな彼女を三つ揃いのスーツでぎゅっと抱き寄せる徹男に彼女が心を寄せたのも、そりゃあしょうがなくて。
もう運命、これは運命。ハッピーエンドなどないと、耳をつんざくほどの、耳をふさぎたくなるほどの波の音と、泣き叫ぶような津軽三味線の音でもう判ってた。
徹男はヤクザにドスで腹をえぐられた。ユキは砂浜に倒れて彼の名を叫んだ。

印象的にイラストが差し挟まれるんだけど、オープニングで既にドギモを抜かれたんだよね。
盲目のユキこそが本作の大メインだったのだと判る、最初から、目を閉じた女たち、津軽三味線を鳴らし、歌を歌う女たち。
その大きく引き伸ばされた恨めしげな顔が、三味線のさおに添えられた幽霊のような細い手指が、トラウマのようなインパクトを与える。
もうこれ見ちゃうと、向こう三年は幸せになれそうもないとか思ってしまう……。★★★★★


津軽百年食堂
2011年 106分 日本 カラー
監督:大森一樹 脚本:青柳祐美子 大森一樹
撮影:松本ヨシユキ 音楽:坂本サトル
出演:藤森慎吾 中田敦彦 福田沙紀 ちすん 早織 前田倫良 永岡佑 藤吉久美子 大杉漣 かとうかず子 野村宏伸 手塚理美 伊武雅刀

2011/4/18/月 劇場(有楽町スバル座)
純粋にタイトルに惹かれて観に行った、のは、私にとって青森は憧れてやまない土地だから。たった3年あまりいただけなのに、他のどことも違う強烈な印象があって、東北、とひとくくりには言えない、まるで異国のようなアイデンティティがあった。
まあ、東北の中でも一番ゆるやかな福島からいきなり青森に飛んだせいもあり、言葉が判らなかったこともあるだろうけれど、それにしても津軽人たちの強い自我には、それまで自我というものを意識しないで生きてきた子供だった私は大きな影響を受けたんであった。

で、まあそんなことは個人的な感慨なのだけれど、こうして津軽を舞台にした映画などを観ると、私はたった3年ちょっと、知らない青森が沢山、本当に沢山あったんだなあと改めて感じる。
もちろん、中学生だったあの頃から現代へと流れる20数年の月日も沢山のものを変えただろうけれど、当時の私にも見えていないものがきっといっぱいあった。

だって本作の重要な料理、これぞ津軽のソウルフードと言ってもいいものなんだろう、津軽そばのこと、私知らなかったんだもの。
本作を見てたまらなくおそばを食べたくなるけれど、劇中、大森食堂を訪れる客が「これがそばかよ。東京のそばはこんなんじゃねぇ」とインネンをつけるほどに、いわゆる更科そばとはかなり違うものであるらしい。
そばがきとそば粉を練り、つなぎは大豆の粉、寝かせて茹でて、また寝かすという工程を経て供される津軽そばは、ふわふわとした食感だというのだから全く想像がつかない。

ただ舞台は弘前、なんだよね。私が中学時代を過ごしたのは青森市で、少なくともあの頃の感覚では、商業都市として栄えている弘前に対して、地味な感じのする青森は、弘前にどこか憧れと嫉妬が混じったような視線を送っていたように思う。
青森には来ないのに弘前には来るイベント、青森にはないのに、弘前にはある店、数々あったように思う。それはちょうど、その前にいた福島と郡山の関係に似てるんだよなあ。

などということはだから更にどうでもいいのだが(爆)。いやだから、同じ津軽地方としても弘前だからさ、津軽そばって、青森市にもあったのかなあ、と思って。
でも劇中、その由来が語られるところ、秘伝のだしに使われる焼き干しは青森から運んできたというんだから、やっぱりあったのかなあ。私が知らないだけだったのか。

で、まあ本作は、その津軽そばを出している100年近く続く食堂が舞台で、その舞台を巡って、実にその100年前……創業者の時代と現代の四代目の青年とが交互に描かれるんである。
その創業者と四代目を演じるのが、おっとびっくりオリエンタルラジオの二人で、青森じゃなく、このキャストだったら私、足を運ばなかったかも……(爆)。
いやいや、ごめんなさい。でもね、予告編の段階で、ほんのちらっと彼らの様子を見ただけで、アレッと思ったから。アレッ、なんかいいじゃん、と。
上手い、だなどと言ってしまうのはこの場合はツマラナイと思う。まあありていに言ってしまえば“思っていたより上手い”ということにもなろうが、でもそんないかにもな感じじゃないのよね。

明治時代の創業者、脚が悪くて戦争行きを免れた大森賢治を演じるのが中田敦彦、現代の四代目、陽一を演じるのが藤森慎吾。
もちろん時代の違いが青年気質の違いを映してはいるし、二人とも風貌もキャラも全然違うんだけど、そばの屋台を手伝ってもらっている子持ちの未亡人に対する思いをなかなか言えない賢治と、そもそも男女のありよう、恋愛のありようにウトすぎる陽一とは、その純朴さがなぁんか似ているような気がするんだよな。
そばが好きなのに、店をやりたいのに、ちょっと意地を張っちゃうところとかもさ。こういうあたりのほんのりとした共通項が上手いなあ、と思う。

それを二人とも肩肘張らずにさらりと演じるから、ちょっとびっくりしちゃって。いや、私はドラマとか観ないから彼らが演技経験があるのかとかは判んないけど……それにしても素敵だった。
大森監督の英断、抜擢だろうけど、オリラジの二人に関しては、ここまでいいとは思わなかったんじゃないのかなあ。

原作は未読だけど、ひょっとしたら映画のこの尺だと、原作ファンには物足りないかもしれない、と思うのは、まあ私がバカだからかもしれないけど、賢治と陽一双方の親友となる門田がね、陽一はもんでん!と凄く印象的に叫ぶから、もんでんまさむね!という音の印象深さもあいまっててね。
そしてキャラもさ。登場シーンが真っ黒なサングラスで、連れてる幼い子供も世慣れてる感じで、で、先述の“東京のそばとは違う”とクサした客をガーンと脅して追いやるんだけど、彼はさすらいのサーカスライダーってキャラで、とにかく濃いんだよね!

一方の賢治をずっと支える、いわば兄貴的な、恩人的な、門田の方は……名前、言ったっけ?……言ったんだろうなあ……私が聞き逃してるだけだろうなあ……とにかく私、見てる間は彼が門田という苗字だってこと、判ってなかった(爆)。
観終わって、オフィシャルサイトとか見て、ああここにもつながりがあるのかぁ、と。……ダメだなあ、私……。
でもさ、関わり方といいキャラといいかなり違うし……。それが活字文化である原作と違う、ツラいところなのだよな。と、自分の記憶力のなさをタナにあげる私……。

まあそのことはおいといてとにかく話に戻ろう。現代の陽一は、今は東京でバルーンアートを見せてはほそぼそと生活をつないでいる。
後に語られるところによると、当たり前のように実家の手伝いをしていた、いやむしろ、誇りを持ってやっていた。
だけど一度は外に出たくて……でもこんな時代、大学卒業後の職が決まらなくて、ならば店を継ごうと思ったところに意固地親父のカミナリが落ちた。お前は世界に出るって言ったんじゃないのか、この店を安く見るな、と。<p> という過去があったのが判るのはずっと後。冒頭、彼は仕事先の結婚披露宴会場で、ウェディングカメラマンとして来ていた七海と出会う。

彼の風船をヒールでバンバン壊した上に、仕事中にフラッシュを無遠慮にたかれてかなりオカンムリの彼は、謝る彼女に冷たくあたり……逆に彼女の照明機材を壊してしまったんである。
お互い貧乏、高額な機材を弁償するカネがない陽一は、古い一軒家を借りている、その一室を彼女に無償で一ヶ月提供することでチャラにすることを提案。
男女が一つ屋根の下に暮らすというのにあまりに無遠慮な陽一に戸惑う七海だけど、彼が同郷の、しかも聞いてみればかなり近所であることが判り、まあ確かにカメラマンノ助手である彼女の懐事情も厳しくて、彼の提案を飲むことになるのね。

陽一は、先述したけど、ホンットに、この事態を、信じられないことに何の下心もない、そんなこと考えもしないで提供したというほどにすれてない青年であり、年下の七海の方が戸惑うぐらいなんだけどさ……。
というのも、七海は今、メッチャ恋愛しているから。いや……後から思えば、それも彼女の思い過ごしだったのかもしれない、確かに。
相手は20も年上の、師匠であるカメラマン。結局彼が倒れて、駆けつけた夫人に命の恩人だと感謝され、しかも夫婦の絆を見せ付けられて、自分は恋人なんかじゃなかった、ただのファザコンだったと彼女は思い至るんである。

と、いうのも七海が東京でカメラマンの助手をしている、つまり写真の世界を目指しているのは、実家が写真館であったこと、最愛の父を10年前に亡くし、写真館も閉めなければいけなくなって、自身は写真をやるつもりはなかったんだけれど、師匠の写真にホレこんで、つまりひと目惚れで、東京に出て、弟子入りした、という経緯があるんである。
後に彼女は、師匠の中に父親を見ていたんだと思う、つまりファザコンだよ、と自嘲するんだけれど、それもあるかもしれないけど、それだけじゃないと思うし、あるいはそれって当然じゃないかとも思う……。
ファザコンだと自覚しててもしてなくても、自分の中に刷り込まれた価値観がイヤじゃないもの、居心地のいいものならば、そりゃあそれと似た匂いを持った人に惹かれる、それが恋心というものなんじゃないだろうか。

一方の陽一は、今は嫁いで家を出ている姉やモテ男の門田に笑われるほど、オクテの男。彼自身にはその自覚さえないかもしれない、みたいな感じすらあるんである。
オリラジではどちらかといえばチャラ担当、モテ系である彼がそれにすんなりハマるというのが、本作の最も驚きだったかもしれない。
あの大きなフレームのメガネ、今時代がめぐってハヤリなのかもしれないけど、いかにもダサ青年そうにかけこなしてるんだもの。

そういう意味で言えばね、賢治を演じる中田君は彼が本来持ってるイメージとそんなに離れてないよのね。真面目で融通がきかなくて、損をしがちな青年。いや、それは単に私が勝手に持ってるイメージかな(汗)。
それだけに藤森君の方が意外性が強いだけに上手く見えてね、ちゃんと同じだけ尺があるかな、こんだけ尺が続いて、もう一度賢治のエピソードちゃんと出てくるかな、なんてそんなことが不安になっちゃうぐらい(爆)。
まあでも、現代にウェイトが重くなるのは仕方ないんだけどさあ。クライマックスが現代の方にあるんだから。

陽一の父親がね、出前途中に事故に遭っちゃうのだ。客を集めて弾き語りをしている様子に気をとられてよそ見をしていた、というのが、彼が若い頃歌手を目指してた、なんてちらりと語られるエピソードに重なりもするんだけど、そこはそれほどには掘り下げられない。
あ、でも、父親はそれがあるから、息子にはこの古い稼業を強制したくなかった。だからワザと冷たく突き放したんだろうな。でも哀しいかな、息子には父親にはあったかもしれない他の才能もなかったし(爆)確かに彼がなけなしの生業としているバルーンアートは作品中、印象的ではあるけど、凄く刹那的なんだよね。

こんなこと言うと、ホントにバルーンアートで生活してる人に怒られるかなあ。でも彼自身も、カルチャースクールの講師も好評で来期もやってほしいと依頼されるのに「もう30なんで……そろそろ定職を」と言って断わるんだもの。
いやもちろんそれは、彼の頭の中に、大森食堂を継ぎたいっていう気持ちがずっとあったからに違いないんだけどさ。

で、ちょっと脱線したけど……そう、父親が事故に遭っちゃって、陽一は弘前に戻るんである。一度は姉からあんたも仕事あるでしょ、大丈夫だから、と言われるし、何より父親が来てほしくないらしいと思っている彼は、帰る気はなかった。
でもおばあちゃんからの電話で気持ちが変わる。おばあちゃんは、お客を待ってる店がかわいそうだと言った。継ぐとか継がないとかじゃなくて、とは言ったけど、でも彼女の本音は絶対に、陽一に継いでほしい筈、というのは、なんたって彼女は創業者のエピソード、100年近く前のエピソードからのツナギ役、あの子連れの未亡人の、女の子なんだもの。
そもそも本作の始まりが、青森が観光事業として力を入れている、100年続く店のリストアップから端を発していて、小さな町の食堂ではあるけれど、ここが入らなければ意味がない、と行政から説得されるところから展開していくんだから。

どことなく賢治のエピソードの方が薄くなりがちだなあ、と勝手に危惧してしまったのは、現在軸であるという親近感と、何より私自身が陽一をうらやましいと思ったからかもしれない。
陽一はね、弘前を田舎だからと毛嫌いして飛び出したわけじゃない。他の世界も見たいという理由で東京に進学しただけだし、就職だって地元でも受けてて……まあ失敗したからそれを理由に店を継ぐと言い出したとしても、それだって言い訳だったんじゃないのと思う。
七海の津軽弁に敏感に反応してあっという間に心を通わせ、数年ぶりに帰郷すれば「やっぱり弘前はいいよなー」と何度も何度も、何度も何度も、つぶやくんだもの。

弘前は大都会だけど、彼が住む一角は恐らくそんな都心からは結構離れているザ・田舎町、地元の友人が「薬剤師になって戻ってきた」という薬局はいかにも町の薬屋さんだし、出前に向かう道路は田んぼやりんご畑に沿っていて、遠くには津軽富士こと岩木山と思しき青い山が美しくそびえている。
私ね、激しくうらやましかったのだ。この台詞、私の人生では出ることはない。生まれ育った地があるという感覚がないんだもの。凄く凄く、うらやましかった。
縁のあった土地はどこも、愛着がある。特にそこに住んでいる時は、ここから離れたくない、ずっとここにいたいと思う。でも離れなきゃいけない時が来る……私にとって、今いる東京に至るまで、ずっとその感覚しかなかった。

だから今は東京に愛着があるし、ここにずっといたいと思うけど、それは他に私を待っていてくれる、私を知っていてくれる、そんな懐かしい土地、帰るべき土地がないから、なんだよね……。
で、東京は東京で、ずっと江戸っ子で育ってきた人たちが、特に魚河岸なんて土地柄じゃごろごろいてさ、なんとも寂しい気持ちになっちゃうことがあるんだよなあ……。

はい、単なるグチです、すいません(爆)。で、えーと、なんだっけ(爆爆)。あ、そうだ、七海の話もしとかにゃあ。
本作のヒロインである七海を演じるのは福田沙紀ちゃん。なんかね、田舎から写真家を目指して上京して挫折する、っていうの、なんか結構、色々見た覚えあるんだよなあ……「おのぼり物語」とかさ。
まあ七海の場合は別に挫折した訳じゃなくて、倒れた師匠の代わりに仕事をきちんと全うするし、最終的には一度は閉めた写真館を自分の手で再興しよう、というところで終わってるんだから違うけど。
でも、写真ってちょっと象徴的なんだよなあ。写真ってだけで過去じゃん、思い出じゃん。もうシャッターを切った一瞬後、から……。写真ってだけで、何とも切ないんだよね。

で、本作ってクライマックスが桜祭りになってるでしょ。弘前の桜祭り、日本の桜祭りの中でも有数の祭りよ。ほんの数日間しか満開にならない、散る時はあまりにあっさりと花吹雪を舞わせる桜って、写真そのものって感じがしてさあ……。
で、その桜の写真にひと目惚れして、つまりそこに父親を見て師匠に弟子入りした七海、七海の父親のアシスタントだった青木が桜の写真を彼女の母親へのラブレターにするのも……いや、それは七海が気付いたことなんだけど……いかにも象徴的だし。

七海とその周囲のエピソードは、ちょっとメロウすぎる気はしたかなあとは思うんだけど。でもまあ、100年前からの思いをつなぐドラマなんだから、まあ全てがそうだったかもしれないなあ。
その青木を演じる野村宏伸、想像以上に年取っちゃって(爆)、いやある意味、あのまんま年とったんでなんか逆に痛々しいというか(爆爆)、でも彼はなんかやっぱり、いつまでも誠実派なんだなあ。

現代門田の恋人(てかもう、奥さん?)、もちろん陽一の幼なじみ……まではいかないのか、高校の同級である美月が素敵だったなあ。演じるちすんのカッコいいこと!
「私は門田より大森だったな」とさらりと言い、しかしその直後に門田のイイ人であることが明らかになり!しかもしかも、サーカスライダーの門田の替わりに桜祭りで勇姿を披露するカッチョ良さ!
ていうのも陽一が祖母の死を受けて、一度は引っ込めた桜祭りの出店を無理矢理実現させるために、門田や美月、帰郷してた七海や青木さんも巻き込んで、門田がスッカリ寝不足になっちゃって本番でケガしちゃったからなんだけどさあ。

でもね、でもねじゃないか、とにかくこの桜祭りはやっぱり感動的でね。
てか、凄くせわしないことはせわしないの。通常は数日かける出店の建設を一日で終わらせ、しかし水道ガスが来ないから、昔、むかぁしの屋台で使っていた道具を引っ張り出す。そのレトロさが大当たりしてガンガン客が押し寄せる。
もちろんそれこそが、創業者である賢治の奮闘と、その時代の道具と重なるところであり、さびついた物置に、一年に一回の出店の道具と一緒に、そう、一緒に、同系列にしまわれているのがね、無造作のようでいて、実は大切なものとしてそこにあり続けたっていうのが見えて、グッとくるんだよなあ。
しかもこの道具はもう冒頭からちゃんとチラリと見せててさ、観客の頭の隅っこにしまわれていたから余計に、である。こーゆーのが映画の、ドラマのように寸断されずに見る映画の醍醐味なんだよなあ、と思う。

……で、つまり、陽一と七海はその後どうなるの?……最後のシーンで一緒にペンキを塗る二人はイイ雰囲気だったけど……。

津軽そば、東京では食べられないのかなあ、と思う時点で、ダメだよね、例え食べさせる場所があっても、それじゃ意味ない、それじゃ違う、違うのだ、よね?
本作を見てめちゃめちゃおそば食べたくなったけど、その食べたいと思ったおそばと全然違うと知ると、本当、気になってしまう! ★★★☆☆


月の出の血闘
1960年 77分 日本 モノクロ
監督:伊藤大輔 脚本:伊藤大輔
撮影:武田千吉郎 音楽:斎藤一郎
出演:勝新太郎 中村玉緒 北上弥太朗 宮川和子 舟木洋一 村上不二夫 須賀不二男 清水元 浦辺粂子 清川玉枝 近江輝子 金剛麗子 杉山昌三九 東良之助

2011/8/27/土 東京国立近代美術館フィルムセンター
カツシンが朝吉って役、ん?なんかやけにしっくりと聞いたことがあるなあと思ったら、「悪名」のカツシンの役名が朝吉だよね!
これって偶然なのかしらん。悪名シリーズが本作の翌年の61年から始まっているんだけど、原作のあるものだし本当に単なる偶然?
カツシン=朝吉というのがあまりにもしっくりとくるので、なんとも不思議な感じ!

今回の上映は物故した映画人の作品ということで、それは照明を担当している中岡氏。数多くの作品の中での本作のチョイスは、そう言われてみれば、モノクロ映画の美しさであるコントラストを確かに鮮烈に感じることが出来る、様な気がする。
漆黒の闇の中に浮かぶこうこうとした御用提灯、賭場をぼんやりとつつむ明かりが醸す緊張感、それを朝吉が蹴散らして暗闇になるスリリング。
一転して舞台が移った海辺の街の太陽がさんさんと照らす明るさ、そこを駆け抜けていく子供の無邪気さ。

そして何よりタイトルとなる月の明るさは、モノクロの、コントラストの美しさがなければなしえない。
カラーが当たり前になり、CGだ3Dだという昨今には、照明の腕が発揮される画面の美しさ、コントラストというのはなかなか経験できない。せいぜいがとこ、やたら濡れたような画を撮るカメラマンが持ち上げられる程度だもの。
モノクロもたまには作られるけど、モノクロってだけでモノクロの美しさと言われる今とはやっぱり違う。モノクロ映画の中にあっての美しさは、やっぱり違うんだわなあ。

ゴールデンコンビ、カツシンと中村玉緒であり、それもまた見所のひとつなのであるが、私、玉緒さんがおはぐろしてるの初めて見たかもしれないなあ。
特に若い頃のカツシンとの共演作は、大抵彼が岡惚れする愛らしい娘さんで、それはそれは可愛らしくって、カツシンがホレちゃうのもむべなるかなだよなあと思う。
本作は、充分そんな可愛らしい年頃の玉緒さんなんだけど、おはぐろということは人妻ということで、抜いた襟元で義太夫の手練の声を聞かせる玉緒さんはなんとも色っぽいんである。

よく時代小説なんかではさ、おはぐろの色っぽさなんかが描写されるけど、現代に生きているこちとらにとって、おはぐろって気味が悪いかギャグかでしか思えなかったんだよね。開けた口の中が黒々としているなんて、ホラーとしか思えないって、思ってた。
でも初めて、おはぐろの女性が色っぽいって、思ったなあ。それは玉緒さんが常に慎ましやかに、喋る時もほんのりという感じでしか口を開けない、その絶妙な空間のまさしく闇の美しさに吸い込まれるような魔力を感じたからなのかもしれない。

玉緒さんに色気を感じるなんて、ひょっとしたら初めてだったかもしれない。若い頃の玉緒さんはとにかく可愛らしい、人形みたいな愛くるしさ。
でも彼女は一方でさまざまな芸事に秀でているし、だから所作も美しいし、こんな風に憂いを秘めた人妻を演じると、なんとも色っぽいんだね。
そしておはぐろの色気は、これもまたモノクロの美しさ、照明の腕にかかっているってことなのかもしれんなあ。

てか、そう、どういう物語かというと……玉緒さんはカツシンのヨメではないのよ。舞台は湯治場。玉緒さん演じるお安は夫と共に投宿している。
夫の徳次郎は優れた腕を持つ宮大工の透かし彫り職人だけど、リューマチを患ってこの湯治場で治療にいそしんでいる。
てか、彼が賭場で財産をスッてしまったから、お安が義太夫で座敷を回って稼いでいるという訳である。
まさに、ヒモ状態なんだけど、そもそもこの時点で賭け事に弱い男というのが示されているのもあるし、見た目にも、優男と彼を支える妻、という図式なもんだから、まあ先は予測できるというか……。

時代的にも場所的にも混浴なんだろうなあ。最初のお風呂シーンは徳次郎が一人でつかってて、仕事から帰ってきたお安が顔を出すシーンで、それは彼らの今までを説明するためのシーンではあるものの、なんとも余韻を感じさせてね。
彼女が着物を脱ぎにかかって、ここから二人で湯につかることも想像させ、なんとも色っぽいのよ。
で、次にこのお風呂が出てくるシーンでは、女たちがワイワイとおしゃべりしながらつかっている。うだつのあがらないダンナである徳次郎(いや、リハビリの湯治客なんだから……)をあげつらい、彼を支えるお安を贔屓にする客とアヤしいことになっていると口さがなく噂をする。
風呂に降りていこうとしていた徳次郎がそれを耳にしてハッとなって階段を上がっていくんだから、ほら、混浴でしょ!いや、そこで指摘すべきは混浴かどうかってことではないか(汗)。

で、大分登場が遅れましたけれども、その噂のお相手が、旅がらすの博打打ち、朝吉がカツシンである。
もうね、この頃のカツシンはヤバいよね。まあ後年のかっぷくの良さは既にほんのりたたえてはいるけれども、きいちのぬりえみたいに際立った目鼻立ちで、その瞳が宝石みたいにキラッキラ輝いているんだもん!
あの輝きは、それこそ照明がどうだという話じゃないよなー。これがスターっていうもんかしらん、となんかしみじみ思っちゃう。
いわゆるいい男、優男、二枚目という点で言えば、徳次郎を演じる北上弥太朗の方がそうだとも言えるんだけどさ、これはもう、スターという言葉でしか説明できないなあ。
それでいえば、やたらイケメンという言葉で処理しちゃう今のスター事情は、本当にオーラのあるスターを見出していない気もする。
……なあんて言うとね!オバチャン発言だから。いやオバチャンだし、イケメン好きだけどね!(ヤケクソー)

でまあ、ちょいと脱線しましたけれども(爆)。物語の冒頭、朝吉が旅の途上、旅籠の女たちが客引きをしている薄暮の路上(この夕暮れの感じの美しさで、まず引き付けるのよね!)で、流れてくる声にハッと立ち止まるのよ。
いやいや、そんな筈はない、とかぶりを振って歩を進めるんだけど、いや、ときびすを返す。先行きを決めようと振ったサイコロの目に逆らってまで。
この行為で彼が博打打ちだと知れるし、そしてそれに逆らってまでというのが、いかにこの声に惹かれたかも知れる訳。
その声、義太夫をうなっていた声の持ち主こそお安。そしてその声は朝吉の亡くなった女房にソックリだったのだ。

容貌ではなく声ってあたりが、なんともストイック。座敷にお安を呼んで、その声音に涙を流す朝吉、いやさカツシンのすがすがしい男っぷりもなんともグッとくるしさあ!
そう、姿かたちが生き写しっていうのは、よく聞くメロドラマの話よね。でも声だけっていうのが、それも義太夫をうなる声だけっていうのが、逆にひどくエロティックな感じがしてさあ。
それは、人妻のしるしのおはぐろが色っぽい玉緒さんの色気もあいまってなのだけれど。

朝吉は彼女が、ダンナの療養のために働いていること、そしてダンナの道具代がひとまず必要だと知り、五両もの大金をぽんと出そうとする。
あくまで辞退しようとする彼女の慎ましさに、ならばこれから十日間座敷に通ってほしい、とそれでも破格の座敷代となる小銭に両替する。

で、そのウワサが徳次郎の耳に入る訳さ。切ないなあ。だって彼はほんとに立ち直ろうとしてて、お安さんが心配するほど無理をして絵筆を持ってさ。
でもそんな話を聞き、しかも生来の博打好きの血がうずいて、自分でカネを稼いでやる!と賭場に向かってしまう。
でもさでもさ、その元手は自分の奥さんが稼いだ金なのに!でもそれが、恋敵かもしれない朝吉から施された金だと思ったら、男の意地が働いたのか……でもそれだって、言い訳だよ!

てな訳で、先述もしたようにその場には朝吉が居合わせている訳で、スられそうになった徳次郎をイカサマを見破った朝吉が救ってくれるんだけど……。
この場面は床下から針を差し込んでサイコロを転がす黒幕なんていう緊迫した場面もあり、大いにスリリング。
でも一番スリリング、というか、ええっ!と思うのは、こともあろうに追いつめられた徳次郎が女房をカタに博打を続けようとするトコなんだよね。
もうさ、この時点でコイツがどーしよーもない男だってことはハッキリしてるし、いくらなんでも自分自身でも気づけよと思うのだが、いや、このまま何事もなしに?(という訳にはどうあったってならなかったとは思うが……)終われば彼もそんな自責の念にも駆られたかもしれんが、事態は思わぬ展開を見せるもんだからさ。
この場面は朝吉が立ち回ってイカサマを暴いたけれど、その立ち回りが御用となってしまった。

その時、お安はダンナが発注したノミを鍛冶場から引き取ってきていた。騒ぎを聞きつけ胸騒ぎを覚える。
そして朝吉に遭遇した。彼女がダンナを思っていることを知っている朝吉は言葉を濁すんだけど、お約束どおり口を滑らしちゃう。
ああ、お約束。でもさでもさ、もうこの場面で、朝吉を逃がそうとしているお安さんという場面で、もう二人の気持ちはアリアリなんだもん。
朝吉がここまで逃げてきた理由が、徳次郎の賭場でのしくじりにあったと知ったお安さんは、まあちょっとは悲嘆にくれたけど、殆どその途端に朝吉に対する気持ちをぶつけるからビックリしちゃう。
もういきなりキッスよ、キッス!でもね、何のはずみだか、がけの下に落っこっちゃう訳。

この展開は、なんでそうなるのッ!?と欽ちゃんのように叫びたくなるほど、木のつるにしがみついてもんどりうったりするのもギャグかと思うしんねりさ。
しかもあの高さじゃ落っこちただけで死ぬことはねえやなと思っていたら、実際彼女を助けようとした朝吉は死んでないけど、お安さんは帯に鋏んでいたノミがなんの弾みか胸にグサリと差し込まれていて絶命!

てな訳で、この時点で玉緒さんの出番は終了で、この後、妻の敵を討つために朝吉を探す徳次郎と、そもそもの目的だった亡き女房の祥月命日のとむらいで帰ってきた朝吉、その二人の決闘がクライマックスになる訳なんである。
そう思うと玉緒さんは中盤で姿を消しちゃうし、愛しき女を思って相対する二人の男という展開こそがメインにはなるんだけれども、後半がさんさんとした太陽がまぶしい港町の明るさにシフトするせいもあって、あの暗い湯治場でしっとりと運命に抗わずたたずんでいた玉緒さんの美しさがずっと尾を引く感じなのよね。

それにこの男二人、特にバカ旦那の徳次郎がおのれのバカさを完全にタナに上げて朝吉を逆恨みして追っていくのも滑稽だしさあ。
正直、朝吉も真相をなんで明らかにしないの、と思うし、まあ言い訳をせずに男として対峙したいんだろうなとは思ったけど、確かにそういう気持ちを吐露はするけど……。
それは「自分はどんなことがあっても愛する女を賭けのカタにはしない」ってゆー、まあ確かに朝吉が憤る気持ちは判るし、朝吉を追い詰める徳次郎に対して観客が感じるもんもんとした気持ちを代弁はするんだけどさ。
でもそれをここまで追い詰めといて言うか!っていうね。それはさすがにさすがにずるいんちゃう!ていうね……。徳次郎を何一つ責めることなく相手になってきた朝吉だからこそカッコよかったのになあ。

朝吉を追うヤクザ連中が、ついでだとばかり目障りな徳次郎も標的にしだすのね。
朝吉と徳次郎はでも、特に徳次郎の方がね、自分が有利な感じになっても、尋常な勝負をしたいとその場を朝吉のために切り抜けたりするからさ、どーしよーもないバカ旦那と思いつつなんか憎みきれないつーかさ……。

何より憎みきれないのは、朝吉の故郷にたどり着いた場面で、そうとは知らずに朝吉の息子に見事な竜の絵を描いた凧をプレゼントしたこと。
息子は絵描きのおっちゃんを無邪気に慕い、自分の自慢のちゃん(父親)を紹介しようとワクワクとする。
港町の海がキラキラとして太陽がさんさんと照らす明るさ、高い高い空に、子供たちの凧が高く高く上がる様。
先述したように、ほおんとうに前半と印象が違ってね、正直最初は、暗い結末を迎えるのかなと思ってたんだけど、あの執拗な追っ手に、しかもお互い決闘の場面を何度も迎えながら、最終的にはなんか同志みたいになって手に手をとって逃げていく、なんて、やっぱり日本人は男の友情が好きなんやなあ!

片腕の朝吉と対等になるために、リューマチが治ったばかりの右手だけで戦うとか、その右手がいざ朝吉を刺そうとすると力が入らなくなるとか、それは死んだお安の気持ちがそうさせているとか、男の子の正義と友情を示す要素も満載。
あ!そうそう、こんな大事なこと言うの忘れてたのどうなの。朝吉が隻腕だっていうこと。うわー、ここまで言ってなかったってどうなの。それがカツシンの色っぽさにも通じていたのに!
いやつまり、それ以上に玉緒さんの色っぽさの方が上だったってことよ。なんせ、死んでしまったとはいえ、彼女を思う同士の男二人をクライマックスに導き、そうして殺し合いを避けて同志としての道行きへのラストに収束させたんだからさ!★★★☆☆


冷たい熱帯魚
2010年 146分 日本 カラー
監督:園子温 脚本:園子温 高橋ヨシキ
撮影:木村信也 音楽:原田智英
出演:吹越満 でんでん 黒沢あすか 神楽坂恵 梶原ひかり 渡辺哲

2011/2/23/水 劇場(テアトル新宿)
あ、良かった、今回は「愛のむきだし」みたいにやたらめったら長くないんだ、などと単純なところで安心していた私がバカだった。あるいは前作がまっとう?な「ちゃんと伝える」であったことも、油断してしまった要因かもしれない。

園子温は間違いなく、今最もスリリングな日本人監督に踊り出た。けれども一方で、なんつーかここ近年は、バイオレンスでなければ国際的にもてはやされないような気もして、若干の危機感も感じている。
いや、まさにそういう世の中だからなのだろう。だって、本作は実際の事件を元にしているんだから。こんな、本当に、猟奇映画のために作られたような話が実際にあったのだもの。
残酷を描かなければ、現代のリアルでないなんて恐ろしすぎるけれど、でもそれが事実なんだもの。

ていうか……確かに園子温監督は「愛のむきだし」も実際の事件にインスパイアされて作っていたし、本作も“ベースド・オン・トゥルーストーリー”とバン!とオープニングクレジットに叩きつけられてはいたものの、その「愛のむきだし」が実際の事件が元とはいえ、かなりブッとんだ展開とキャラだったので、もう映画そのものとしてしか考えられなかった。
てか、確かにどんなに事件にインスパイアされていたって、園子温印がアリアリで、だからこそその才能に畏怖したのだけれど……本作も確かにそれはそうなんだけど……えっ!?こんな事件、あった!!??ということが、あまりにも前提であるその部分が、もの凄く衝撃だったのだ。

ちょっと待って、ちょっと待って……いや、確かに前置きとして、この事件直後に阪神淡路大震災やオウム真理教のサリン事件など、災害史上、犯罪史上、ともに稀にみる大事があって、この事件も稀に見る猟奇事件だったにも関らず、すっかり影が薄くなってしまった、という解説はなされていたけれど。
それにしても、それにしても、こんな、こんな、“ボディを透明にする”なんていう事件が、いくら大震災やオウムがあったからといって、ここまで薄れるもの!?それ自体が恐ろしい……
まあ、確かにあの頃、私はあまりワイドショーとかは見ておらず、この事件はワイドショーが牽引する形で発覚したんだというんだから、余計覚えていないのかもしれない。

それを思うと、どうしても、つい最近見た「平成ジレンマ」を思い出したりもしてしまう。ワイドショーのヒステリックな報道でたちまち極悪人に仕立て上げられてしまった戸塚校長、そして、ワイドショーのヒステリックな報道がなければ、本当に完全犯罪のまま、極悪人が高笑いしたまま何も発覚しなかったかもしれない本事件の犯人たち。
でもでも、それも、大震災やオウムが起これば、マスコミの熱狂はあっという間にそっちに移ってしまうのであり、こんなに衝撃的な連続猟奇殺人事件さえ、人々の記憶にほとんど残らないままになってしまうのだ。そのことこそが、恐ろしいような気がしてしまう。

いやいやいや、そうは言いつつ、本作は園子温監督が、ひょっとしたら、こんなヒドい事件が人々の記憶に植え付けられないまま終わってしまうことへの危惧で作ったのかもしれないと思うほどに、本当に、犯罪史上稀に見る、アゼンとするほどの残酷さと、何より自己正当化した考えを持つ犯人で。
もう、本当に、なんでこんなに自信たっぷりなの、信じられないぐらいオレサマなの、“殺しのオリンピックがあったなら、俺が金メダルだ”という、想像を絶する言葉まで残したというこの犯人が、つまりそれぐらい、強烈なプライド(強烈に、間違ってるけど)と自己主張が激しかった彼が、しかしそれ以上に大きな事件に彼の美学とも言える犯罪がかき消されたことは、皮肉としか言い様がない。

いや、そもそも発覚しないことこそが彼の美学が完成されうることだったけれど、大体が、彼に関係する人々が次々に失踪してれば、いくら遺体がないからって疑われるに決まってるし、ワイドショーの熱狂がなくても、この“完全犯罪”はやはりボロがありまくりだったと思う。
完全犯罪の美学に酔う一方で、そうした稚拙さがあるのは、自身の殺しの美学に気付いてほしかったんじゃないかとも思っちゃう。
そしてそれが、もろくも崩れ去ってしまった現実こそが、彼にとって最大の屈辱だったのかもしれない。

と、と、これじゃ実際の事件、しかも私が全然認識していなかった事件に対する感想になってしまう(爆)。
でも、それぐらい、衝撃だったんだよなあ。遺体なき殺人と呼ばれたというこの事件。いや、本作はその事件だけでなく、色々ミクスチャーしているという話もあるんだけれど、何はともあれメインはこの事件。
勿論、事件そのものを描く訳じゃなく、実際はドッグブリーダーであるのを熱帯魚に変えているし、巨大熱帯魚ショップのオーナーである犯人に巻き込まれる、小さな寂れた熱帯魚店の主人、というのは、まさしく映画のために作られた設定なのだけれど、とにかく、とにかく。

正直ね、タイトルを聞いた時は、おバカにも80年代無気力アイドルの、あの曲のタイトルを思い出したりしちゃったのだが(ハローウェー♪じゃねぇっての)、生々しい犬ではなく、どこか寒々しい熱帯魚というのは、何か確かにゾッとさせるような気がする。
んでもって、その中を闊歩する、ノースリーブにホットパンツのセクシーな女の子たちが従業員というのは、何か滑稽で、非現実的で、このオーナーの豪快な雰囲気が、こんなセクシーな女の子たちを囲っているというのも、なんとも不穏な空気を漂わせるんである。

そう……結構、滑稽な、コミカルな雰囲気を漂わせたりもするのよ。思いっきり残虐な場面に至っても、例えば主人公である小さな熱帯魚店の店主が、この巨大熱帯魚ショップのオーナー、村田にザクザク斬りつける場面、「やめて、社本君、ちょっと痛い」という、ちょっとじゃねえだろ!というツッコミが誰しもの心に浮かんでクスリとさせもするし。
あるいは最初に示される殺人、儲け話として法外な値段で希少な熱帯魚の購入を迫る村田に難色を示す相手が、同じく不審を抱いた社本が村田に説明を求めるためにちょっと席を外したほんの少しの間に、にこやかに納得してもう契約書に押印している場面の、おいおい、信用するの早すぎだろ!(しかもその間に社本は不審を大いに深めているのに!)という可笑しさやら。
確かに可笑しい、んだけど……うー、でも、私は実は、笑えなかったなあ。というのは、村田を演じるでんでんの、恫喝の恐ろしさにすっかり身をすくませてしまっていたから。

この事件、そして本作が恐ろしいのは、“遺体なき殺人”つまり、死体を徹底的にバラして、骨と肉をすっかり分けて、骨はドラム缶で灰になるまで完全に焼き尽くし、肉はから揚げぐらいの大きさ(!)まで細かくして川にバラまいて魚に食わせ、つまり何ひとつ、チリひとつどころか粉ひとつ残らないという、確かにこれは完全犯罪の美学かもしれんが、あまりにもあまりにも恐ろしい犯罪が、そのさまが、つぶさに描かれることなのだが……。
から揚げぐらいの大きさなんて、お願いだから言わないで、食べれなくなっちゃうじゃん、とも思うのだが、しかし、そこまで徹底しているだけに、恐ろしいことになんだか笑いも生まれ(そのことにこそ戦慄を感じるのだけれど)、だけどだけど、確かに恐ろしいけど、スプラッター映画なんかである程度見慣れているのもあるし(……こういうの、ホント良くない慣れだよね)。
そりゃ実際の事件であるという恐ろしさはあるんだけど、でもスプラッターの恐ろしさより、恐ろしいのは、村田の理不尽な恫喝に尽きるんである。

……えー、個人的な見解で申し訳ないんだけれども、最近仕事で、これまた大変自己主張の強いヤーさんみたいなお客さんに、クレームという名の恫喝を受けた経験がありましてですね。
そりゃあこんな恐ろしい事件の恫喝とは比べもんにならんが、自分が何より正しい、自分のしてることこそ完全なる美学だ、と信じている人間が、心の準備の出来ていないミミズのよーな人間を恫喝することほど、そのミミズにとって恐ろしいことはないんである。

あ、勿論、この場合ミミズと称しているのは私であって、本作のあまりにもカワイソーな社本さんにそんな肩書きを負わせるつもりはないがしかし、村田にとってはまさしく社本はミミズ程度だっただろうなあ。
しかし、村田も顧問弁護士の筒井なんかにはヘコヘコするし、自分が殺したヤクザの舎弟が押しかけてくると知ると結構おどおどするし、実際は小心者だと言う説も、実際の事件からの犯人像からも聞こえてくる。
うう、でも、小心者がこんな事件を犯すなら、本当の大心者?はどういう人物なの。
大きな会社を興したりとか、大物政治家になったりとかするのが大心者、とかいう説明ならツマラナイ、などと思ってしまうことこそが、現代社会が寒々としている証拠なのだろうか。

で、なんだっけ。脱線しまくって、もう、頭の中がグチャグチャ。
ああ、そうだ、村田は散々理不尽なこと言って社本を混乱させるのだけれど、その中で最も強烈だったのは、「俺たちがいなくなったら、どうするんだよ。ちゃんと覚えておけ。そうすれば一生困らないんだから」といった台詞なんである。
ええ、ええ、ええ!!何その、伝統工芸の後継者を育てるみたいな言い方!しかしどうやら村田がマジらしいのが恐ろしく……。

いや、でもどうだろう。村田は確かにそんなことをうそぶいてみせるほどに、自身の腕に自信はあっただろうけれど、でも、本当に社本を見込んだとは思いがたい。
社本が弱みだらけの人間で、脅せば何でも言うことを聞くと、使い勝手がいいと思ったからで、実際、使い勝手が良くなくなれば、どんどん殺していった、社本のような人間が数多くいたんだろうと推測されるのは、社本に接触した刑事の、「村田の周りで、30人以上の行方不明者が出ている」という台詞を待たずとも、村田の態度一発で容易に知れるのだけれど。

そうそう、社本を演じるフッキーがどんどん巻き込まれ、最後には豹変する様も恐ろしいのだが、やはり、恐ろしいのは、でんでん。そう、さっき言いかけたけど脱線しちゃったから(爆)。
彼さあ、こんな役やったこと、ないよね?どちらかというと、人情系のイイ役が多かった気がする。
それは、彼の片棒を担ぐ“顧問弁護士”の筒井を演じる渡辺哲もそうで、二人が思いっきりワルで、色も大いに好み、爛れるほどの色を溢れさせる女を、もうおっぱいわしづかみ、レロレロブチューをかます様に、ええ、ええ、ええ!今まで見てきた彼らと違うぅぅぅー!!と、もううろたえまくってしまって、ショックが大きくて。
それにそれに、でんでんは、あのかすれ気味の声を張り上げ、まさにこれが胴間声というヤツだろう、先述のような理不尽きわまりない恫喝を繰り返すもんだからさ……。

それもね、彼が社本と最初に出会った時は、豪快ではあったけど人を引き込む魅力に溢れてて、何より社本の妻と娘はその魅力に引き込まれて、もう頭っから村田を信用しちゃったしさ、まさかこんな悪魔のような人物なんて、想像もつかない訳よ。

村田と社本の出会いは、社本の娘の美津子がスーパーで万引きをしてつかまり、警察に通報すると息巻く店長をとりなしたのが村田でね。
美津子ちゃんをウチの店で働かせてみませんか、と提案した村田は、その大物っぷりがいかにも不良少女の更生に適しているように見えたし、実際、年若い後妻と娘の間が上手くいっていないことに頭を悩ませていた社本にとってもありがたい申し出だった。

いや、本当に、ありがたい申し出だったのだろうか?社本は最初から最後まで、本当には賛成できない、協調できない、信用できない表情がアリアリで、あくまで村田の強引さと、村田を信奉する妻と娘に押し切られた形、だったんだもの。
そもそも、社本と後妻だって上手くいってなかった。物語の冒頭は、巨乳の谷間をこれ見よがしに強調したトップと、下も日常服には明らかに必要のない超ミニスカの妻が、スー パーで吟味もしないで冷凍食品やインスタント味噌汁、真空パックのごはんやらをざくざく買っているシーン。
つまり、食事は全てチーン、チーンと空しく響く電子レンジの音と、ポットのお湯を無造作に注ぐだけで終わりである。

いやまあ、別に、女が食事の用意をすべきなんて古くさいことを言うつもりはないけれども、明らかに家族に対する愛が感じられないこの後妻、ファッションはあまりに判りやすすぎるにしても、それがこの事態になんの対処もしない夫に対するアテツケだと思えば、判らなくもない。
こんなカッコをしていて誘惑しているのかと思いきや、夫がおずおずと差し出した手を、「美津子ちゃんがいつ帰ってくるか判らないから」と平凡な理由で拒絶するのが、何よりの証拠のように思う。

んでもって、この、“なんの対処もしない”ってことは、あの村田に言われていたんだよね。悔しいけれど、その他の言葉は全て理不尽極まりなかったけど、ここだけは真実だった。
人間は本当のことを言われると一番腹を立てる、というのは、まさしくだった。それまでオビオビと従うばかりだった社本はようやく激昂し、殴りかかって……。

と、と!また脱線して先走ってしまった!いや、てゆーか、どこまで進んだとかそういう話でもないか……。
えーと、どうしよう。あ、そうだ。黒沢あすか。私、あの傑作「六月の蛇」の後には、どうにも形容のし難い「き・れ・い?」でしか見てなかったので、おおーっ!と思ったんであった。
実際の事件の犯人も相当女をとっかえひっかえしていた人物らしいんだけど、本作の村田もそれを髣髴とさせる、この年若くセクシーな妻。
脱ぐとそんなにおっぱいが大きい訳でもないんだけど、つまり服を着ている時の方がやたら色っぽい彼女。
いや、色っぽいなんていう上品な言葉じゃおっつかない。なんだろ、爛熟している、とでも言うような。

村田はね、常軌を逸してはいたけれど、でもあの美学の言わんとするところが、まあ判らなくはなかっただけに、つまり恐ろしいけれど、狂人ではなかったんだけれど……この妻、愛子は、最終的には彼女は狂っていた、という認識、だろうなあ。
夫にベタベタだけど、顧問弁護士にも色目を使って、だからこそ事態をややこしくさせてこの顧問弁護士も殺され、いつものように毛布にくるんで運ぶ段になると、「お世話になったんだから、もっと丁寧に扱ってよ」なんて、これが笑いもせずにマジに言うんだもんなあ。

でもって、夫の見ている前で、その夫にけしかけられながら、社本の大きくなった“ブツ”を股広げて刺して、ケタケタと笑う。
この時点で充分正気の沙汰ではないけど、まあこの程度のファムファタルならいるかな、と思ってたが、ガマンがきかなくなった社本がついに村田を殺し、愛子に遺体をバラすことを命じ、これからは、お前は俺の女だ、と言い渡すと愛子はまるで初恋をしている少女のような潤んだ瞳で、嬉しそうに頷くんだもの……。

ああ、でも、でんでん。でんでんである。ああ、でんでん。彼はいい人だと思っていたのに(いや、いい人だろうけど!)。
彼が豹変するのは、社本の妻を、娘の美津子ちゃんのことで話がある、と社長室に連れ込んで、である。いや、そもそもそう声をかけたのは愛子なのだから、やはりこの夫婦は全てを共有していたのか。
本当に、親身になって語りかけているように見えたのに、あれ、なんか手とか腿とか触るなー、セクハラー、とか思っていたら、それどころじゃない。

なんか流れで、自然のように見えながら、しかし全然自然じゃなく、彼女の頬を張り、張り、張り続け、服を脱げと言い(!)、どんな脈略!?と思うのに、彼女は怯えつつも服を脱ぎ、いや、怯えつつと言うのはフリだったのか、つまり村田は彼女の嗜好を見抜いていたのか。
彼女は村田に突っ込まれながら、もっとぶって、もっと、と喘ぐのだ。……これが彼女の本質だったのならば、そりゃあ社本に対しては欲求不満だろうけれど……。

ああ、なんかもう、なんかもう、何を言っているのか判らなくなっちゃった!
そうだそうだそうだ……本作の主人公はフッキー、社本だったんだった。いや、影が薄いという訳じゃないけど(爆)。とにかく押されっぱなしだから、彼は……。
いやもちろん、その押されっぱなしで、こんな恐ろしい事件に加担してしまうことこそが、恐ろしいのだけれど。
だって彼はさ、いくら「家族がどうなってもいいのか」と脅されていたとしても、警察があそこまで疑っていたのだし、警察に駆け込んで、家族も保護してもらえば、あんなにも理不尽な恫喝に従うこと、なかったハズなんだよね。
……と思うのは、当事者じゃないからフツーにそう思っちゃうことであって、その不可思議さを本作も真正面からついている、そのために、村田は必要以上に、なんだこいつと思うほどに、理不尽でこっけいな主張を堂々と張って来る訳だし。

ただ、ただ、ただ……社本がさ、妻からも娘からも疎んじられているというのが、辛いんだよね。
妻は、まあ、最近めとった若妻だからまだいいよ。あんな判りやすいナイスバディじゃ、ソレに目がくらんだと、年頃の娘じゃなくたって思っちゃうもん。
でも娘も、死んだ母親だけになついてて、しかもそれが、この後妻に対する反発だからというんじゃなくて……。
物語の最後、大クライマックス、村田を殺して愛子にバラさせている現場に警察を呼んだ場面、妻子も来ていて、で、全身真っ赤に血に染まった社本は、駆け寄る妻を、グサリと殺すんだよね。

思いがけない場面に怯えた娘にも、サクリ、サクリと切りつける。生きたいか、人生ってのはこんな風に痛いもんだ、と彼は言い、自ら頚動脈をぶった切る。
人形のように倒れた父親を、娘は見下ろして、やっと死にやがった、クソジジイ!と高笑いするのだ。
それは全然、全ッ然無理してる風がなく、本当に、解放されたように、乾いた笑いを空に向かって放つのだ。社本が、あまりにも報われない。いったい彼は、何のために生きていたの。

そういやあね、社本がプラネタリウムが好きで、小さな熱帯魚の店にも星の写真を飾っていたりする。後妻との初デートもプラネタリウムだったのだと。
村田はそれを、最初こそはにこやかに聞いているけれど、いったん罵倒するモードに変わると、地球が丸くてつるつるしてると思ってんだろ。地球は岩でゴツゴツしてるんだよ!と罵倒する。それも凄く強烈に印象に残ったなあ……。
全てを先送りにして、現実に目をつぶって生きている、しかしロマンチストであるという甘い仮面は脱ぎたくない社本が、少なからず自分にも、そしてきっと多くの人に重なるんだもの。

いや、そう言ってしまえば、まるで村田を肯定するような話になってしまうのだが、それこそが恐ろしいのだが。
でも、だからこそなのかもしれない。あの押されっぱなしの社本、いや、フッキーが、穏やかなイメージが強いフッキーが、村田を殺した後、今まで全く言うことを聞かなかった娘や妻に拳をお見舞いしてまで従わせ、それこそおずおずとした誘いになぞ全然乗らなかった妻をレイプさながらに襲い、何やってんだよと冷めた口調で声をかけた娘を殴り倒して気絶させ(劇場に笑いが起こったけど、私、笑えなかった……)、一方的な、悲しいだけのセックスをする。

そして、あのラストシーン。凄惨な解体が行われた場所が、山奥の小屋みたいなところなんだけど、なぜだか十字架、手足がもがれたように折れた数々のマリアやらキリストやらの彫刻。
解体の時にともされるろうそくも凄く儀式っぽいのに、ガスバーナーでバーッ!とつけられるし、まさに神への冒涜を判りやすく示してる、その意味が、真意がどこにあるのかも、気になった。
いや、真意どころかその通りなのかもしれんけど、「愛のむきだし」でも、主人公の父親は神父で、キリスト教が印象的に使われていたから。
純粋に冒涜、その意味だけでも、確かに充分、重いんだけれども。★★★★☆


ツレがうつになりまして。
2011年 121分 日本 カラー
監督:佐々部清 脚本:青島武
撮影:浜田毅 音楽:加羽沢美濃
出演:宮アあおい 堺雅人 吹越満 津田寛治 犬塚弘 梅沢富美男 大杉漣 余貴美子

2011/10/11/火 劇場(有楽町丸の内TOEI)
原作がどうなってるのか気になるなあ、と思ったのは“夫婦の抱える問題を明るく描写したコミックエッセイ”というくくりで言えばまあひとつの方向性と言えなくもない「ダーリンは外国人」の破綻を思い出したからだった。
「ダーリン」に関しては、原作をちらちらと見聞きしていた程度だったけど、カルチャーギャップの面白さという原作の良さから大きく逸脱して、外国人のカレとケッコンする女の子、という凡庸なメロドラマになってしまったのがなんとも惜しいと思ったから。

しかして本作に関しては、なんといってもタイトルが本質をついているんだから心配?することはないのかもしれない。ちらと探したが、ネットで冒頭ぐらいしか立ち読み出来なかったけれど、まさに映画の導入部という感じだった。
それになんたってこの作品のウリは宮アあおい嬢と堺雅人という篤姫コンビの顔合わせである。この二人が夫婦と聞いただけで、そのツーショットを目にしただけでワクワクしてしまう。
それだけで映画館に足を運んでしまうという人も少なからずいたに違いないしなあ、って私もそうかもしれない(爆)。

とはいえ、最近なんとなく気になっているのは、あおい嬢がどうにも口当たりの良さげな作品にばかり出ていることなんであり、実は本作でもそうした感覚はぬぐいきれないものがあった。
まあ彼女ほどの売れ線であれば、もはやメジャーマーケットの映画になってしまうのは仕方ないのか?いやいやいや……そんなこともないと思うんだけど。
なんかあおい嬢の出演映画のことを書くたびにおんなじようなこと言っちゃうなあ。だって彼女、その最初はかなりヴィヴィッドな作品に出る印象だったからさ、なんかもったいない気がして。

で、本作でもそう思っちゃったというのは、まあ、原作自体が、これまで確かに一般的に持たれていたうつ病に対する重く暗いイメージ、しかも本人の心の弱さだみたいな差別イメージも含めて(これは劇中、上司の態度で端的に示されているし)、そうしたものを軽くあしらうかのように、シンプルな線がおりなすキュートな描写で活写しててさ。
ヒロインのハルさんが日記のようにスケッチするやわらかい鉛筆画をエピソードの牽引役のように細かく挿入して、つまり、原作のキュートさ、軽さを意識的に映画のカラーとして導入しているんだけれども……。

多分原作では、それが本当に意図的なものであるんだと思う。もちろん原作者の作風もあろうとは思うけど。
うつは誰でもなる病気、なのに先述した一般的に持たれているマイナスイメージのように、あまりにも知られていない、と彼女が思って描くことを決意した、と、映画の後半、この原作を描き始めることをツレ(夫)に語るシーンからも推し量れるように、やはりそれは、意図的であるんだろうと思う。
ただそれが映画になり、ここ最近は特に口当たりのいい、見た目のきれいな映画にばかり出てるなァというあおい嬢がヒロインを務めると何か……ね。

お団子を二つ乗せたヘアスタイル、膝小僧が出てるハイソックス姿、無造作そうなのにファッション誌から抜け出たようにオシャレで可愛くて、二人が暮らす古そうな一軒家の内部も、インテリア雑誌に載ってるみたい。
なんかこう……切羽詰ったものを感じないんだよなあ。それは原作が持つシンプルなキュートさとは違う気がどうしてもしてしまう、んだよね。

まあでも本作に関しては主演はあおい嬢ではなく、タイトルロールであるツレ、堺雅人と言っていいんだろうと思う。
彼もまた、あおい嬢と夫婦となるとヤハリ可愛らしさ、ポップさが際立つんだけど、彼に関しては確かに、ことさらにうつを深刻にさせないという方向性を感じる。
いや多分、堺氏自身はかなり自分を追い込んでうつにかかったサラリーマンを演じているんだと思うんだけど、なんたって彼は“(日本の)微笑の貴公子”だからさ。いい意味でヌケちゃうんだよね。

眠れなくて、ぎゅっとしわを寄せて目をつぶって、そこにノーテンキなハルさんが布団にもぐりこんできて「ごめん、今日はできないよ」なんていうシーンなんて顕著。
「……あっそ」と言って憮然と去っていくあおい嬢の方は、これがコミカルだという前提で演じているのが判るんだけど、彼は大マジなんだよね。
でもそのぎゅっと目をつぶった表情が哀れにもキュートで、あるいは原作でも「カメ」と称される、布団をかぶってしくしく泣く様もなんとも可愛らしく、これはさあ、女性観客が堺雅人の“ツレ”に母性本能を起こさせる作品なんちゃう?と思っちゃう。

とはいえ、もちろん真正面からうつ病に対して向き合ってはいる。原作にも実家の理容室を訪れるハルさんの幼なじみが自殺するエピソードは出てくるんだろうか?
東京に出ていたのが帰ってきて、明るく配達なぞしている彼に、実家を手伝ってる、良かったねえなんて言っていたら、自殺した。そんな兆候はまるで見えなかった。
治りかけが危ないんだよと、母親はハルさんに釘をさした。「自殺ってこと?……判ってるよ」

ツレの仕事は外資系IT会社での、顧客のサポートセンターでの仕事。いわゆるクレーム処理と言っていい現場は、うつ病になる人が多い話はちらほら聞こえてくる。
しかも数十人いた社員が一気にリストラされて一桁になって、仕事の増えたツレは疲労困憊、しつこいクレーマーにも悩まされたことが発症の原因と思われるんである。

……ただ、それは後から原作近辺をちらちらと見たからであって、正直劇中ではクレーマーに悩まされる描写はあっても、同じフロアで同じように仕事をしている社員たちはさらりと映されるだけだし、膨大な仕事量に追い詰められていく様はイマイチよく判んなかった。
台詞では言うけどね。うつであることを上司に言っても、こんな大変な状況じゃ皆がうつみたいなもんだ、とかわされてしまうのだが、この職場のそんな大変さが、あんまり判んないんだよな。
屋上でのランチを一緒するツレの後輩がいるんだけど、彼はなんかノーテンキに、ツレのお弁当を美味しそうですねと覗き込み、食欲のないツレに食べていいよと言われて嬉しそうに頬張るし。

……つまり、映画においては、ツレが追い詰められるのはキビしいクレーマーだけって感じなんだよなあ。まあ確かに判りやすいんだけど、それこそそれだけじゃ、「心の弱い人がなる」印象を強めてしまいそう。
だって最初の描写からツレは生真面目さが強調されててさ、お弁当は毎日自分で作る上に、曜日ごとに入れる好物のチーズをタッパで区分けして、ネクタイも曜日ごとに分けて、ってこれじゃなんか潔癖症みたいで、うつになるべくしてなった、みたいに観客に思わせちゃう気がする。
確かにさ、それは生活スタイルがずるずるルーズなハルさんと対照的にする意味合いもあるんだろうけど、でも「うつは誰でもなる、心の風邪のようなもの」なんでしょ?判りやすくしたがゆえに、その本質を逃しちゃった気がするんだよなあ。

ハルさんは当初売れない漫画家として登場する。もちろん、今はウレウレの漫画家さんということであろう。
マネジメントは「外に出なくても出来る仕事」として会社を立ち上げたツレによって行われているし。

「売れてる漫画家というのは、バリバリ描いて、バリバリ稼いでいる人」と、読者アンケートも冴えなくて連載も打ち切りになったハルさんは自虐的にモノローグする。
確かに彼女の生活は、いわゆる漫画家として身を立てている姿とはかけ離れてる。
いくら漫画家さんは夜型が多い(まあこれもイメージだけど)とはいえ、ゴミを持って出かけるツレを寝グセのついた寝ぼけまなこで見送り、仕事している“修羅場”の場面も、「ツレがうつになりまして、仕事をください!」と必死に頭を下げて獲得した、カット挿絵のペン入れの画面のみ。
絵のアイディアを考えている時ならまだしも、ペン入れの段階で、数カットのみの段階で、あんなに髪かき乱してテンパってツレに八つ当たりするのってなんか……しっくりこないんだよなあ。そりゃ私は漫画家さんの大変さなんて判らないけど……。

さっきから結構言ってるけど、つまりあおい嬢のそつのないポップな可愛さと、一見そう見えながらキリキリに追い詰められてる(ていうか、追い込んでる)堺雅人とのギャップなんだよなあ……。
でもね、一見すれば、二人はとてもしっくりきてるのよ。ベストカップルだと思う。悩むツレに、今は休むのが宿題なんだよ、と自らゴロゴロ寝転がってみせるハルさん、無邪気にツレの上に乗っかってみる様なんかとても可愛いし、そんな風にリラックスできなくて固まってるツレも可愛いし。

そうか、ならばそれでいいのかなあ。いいのかもしれない。
結局は当事者の苦しみは判らない配偶者、でも配偶者なりに悩みつつ、自分の立ち位置は悩まず大げさにならず、いつもどおりなのだというハルさんのスタンスを考えればこれでいいのかもしれない。
つまりハルさんは、ツレが自殺未遂を起こすまで、その深刻さに気づかなかった訳で、それがあの、唯一のユルい修羅場の時にハルさんがツレに八つ当たりして怒鳴った場面な訳でね。

この時ハルさんが請け負っていたのは、漫画編集部で頭を下げて、他の部署でもらったカット描きの仕事だった。
そこの編集長は、自分もうつ病を患っていたんだと言った。
おそらく以前は、人気や時間に追われる部署でバリバリ仕事をしていたと思しき彼。
いわゆる、病気から立ち直るとか、そういった類の本に、以前の自分ならバカにしていたけれど、こういう本に力をもらう人がいるんだと穏やかな笑顔で語る。
この時は神妙な顔をして聞いていたハルさんだったけど、この時点ではまだまだツレのことを判ってなかったんだよなあ、きっと。

ハルさんからキツい言葉を浴びせられて、特にあの「だったらツレが電話すればいいじゃん!」「……僕は電話は出来ないよ」「出来ないんだったら口出さないでよ!」(言い回し違ったかな)というやり取りはキツかったなあ……。
しかもさ、この時のやりとりは、名前が間違ってるよ、とツレが言う訳。タカサキのタカはクチダカの“高”じゃなくて、ハシゴダカの“”だと。
社長宛に手紙を送りつけてきたクレーマーにも、キレたツレはそのことを叩きつけてた。

後にハルさんの仕事をマネジメントする会社を立ち上げたツレが、ハシゴダカの“”を看板に立ち上げる描写から、いかに彼がそれにこだわってるか判る。
つまりそれは、自分が自分自身である、ただ一人の自分であること。
それは他人から見ればこんな小さなことかもしれなくても、絶対に譲れない、確かに違う、オンリーワンなのだということであり、それってひょっとしたら、うつという病気やその改善法にも大きなかかわりがあるのかもしれない、と思う。

なにげにさ、あおい嬢の苗字のミヤザキもさ、宮崎と、一般的な字で書かれちゃうけど、宮ア、なんだよね。
ネット上においては実際はこう書く、みたいにカッコ書きにされたりして。まあ草g君がカタカナにされるよりマシかもしれない?いやカタカナにされた方が実はマシなのかもしれない?
アイデンティティって、漢字文化だと更に、複雑で大変……。

でまあ、話は戻るけど。うつになると電話が出来ない、まあ人それぞれいろんな症状はあるだろうけど、そんなことも出来ないの、とハルさんがツレに辛く当たって、ツレがひどくひどく傷ついた顔をして、お風呂場の浴槽の中で膝を抱えて、声を殺して涙を流すのが、ああ、何か……子供の頃を思い出してしまった。
いや、ツレが、うつ病の人が子供っぽいっていうことじゃないのよ(汗)。そうじゃなくてさ……ああでも、ある意味そうかもしれない。

大人になったって、こういうのって、傷つくよ。でもなんか自分を騙してどっかに閉じ込めて、知らないフリ出来るじゃない。
それが大人になるということならば、それは……ウソツキになるということなのかなあ、って。
ツレは、過酷な現場にさらされて、それを何度も繰り返しすぎて、積み重ねすぎて、許容量がいっぱいになってしまったのかもしれない。
ウソツキに許容量があると考えれば、人間も捨てたものじゃないのかもしれない。

で、この時ツレはお風呂場のドアにタオルをひっかけて首吊り未遂を起こすんである。この異変を察知してじっと見詰めてるイグアナのイグ君(ちゃん?)がなんともいえない!
そう、ここまでウッカリ言わずに来たけれども、この家庭のユニークなことは、イグアナ君がのっそりといることなんである。
これがなんとも癒される。実際、自分自身爬虫類が大丈夫かといえば自信ないけど、レタスをのそのそ食べるこのイグ君のゆったりした様はたまらなく癒されちゃう。
爬虫類に感じる攻撃的な感じがまるでないのが、いいのかなあ。呼吸を如実に感じる腹の動きといい、低い姿勢のゆっくりとした移動、何より堺雅人に抱かれてじっとしている感じ!

実際はさ、きっともっと、ツレは辛い目にあったんだと思うよ。
上司の「こんな大変な状態じゃ、皆がうつになってるようなもんだ」という、うつという病気に対して軽んじられる世間一般のイメージは判りやすいぐらいでさ。
判りやすいってことは、本当はそう思ってた観客に憤らせるというのが、それって良くないよね、うちらだってそう思ってたじゃん、と自覚させなきゃダメだよねって。

でもそれも、ちゃんと対照があったから、いいのかもしれない。
ツダカン扮するツレの先輩が、話を聞きつけてお見舞い、というか、激励に来る。
家族のためを思えば頑張れるよ、という彼の言葉は、彼自身にとってはとっときなんだろうし、一見いい言葉のように思えるんだけど、それがツレに強烈なプレッシャーを与えてしまい、ハルさんは「どうして静かに見守ってくれないんだろう」と憤る。
でも、難しいよね。それこそうつ病に対する正しい認識がなければ、“静かに見守る”っていう選択に至らないんだもん。“静かに見守る”ことが冷たいことなんじゃないかって、思っちゃうからさあ……。
そういう意味でも、原作も、映画も、そして劇中でも描かれるツレの講演活動なども意味があるんだろう、なあ。

これは原作でもあったんだろうか?若干出来すぎのようにも思えた、結婚同窓会のエピソード。
同じ時期に同じ式場で結婚したカップルが一年に一度集まるイベントに、これが最後、離婚するから、とその年幹事を務めた女性がハルさんに打ち明ける。
ハルさんもツレがこんな状態だから、この年は参加できなかった。
そんなこんながありつつ、その次の年にツレの方から参加したい、と言ってきた。
電車に乗るのも一苦労、ゼイゼイ、ハアハア状態で途中下車しながらたどりついた、愛を誓い合った教会に、同じく集まっている数組のカップル。

ツレは自分がうつになったことを語り、途中詰まり、無理をしなくていいから、とハルさんが代わりに語りだす。
「この一年、私たち夫婦にとって苦しい年でした」それでも、今ここに来て、改めて誓いの言葉を目にして、胸に迫るものがあった、と。
「健やかなる時も、病める時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め……」きわめてシンプルな言葉の、その全てが、いちいちこの二人の今までに重なって、その言葉を口にするたびに、ツレと目を交わすハルさんに、単純だけど涙ドバー。
うう、あまりに判りやすい、こんなことで泣くなんて。ここまで結構悪態ついてきたくせにっ。うう、でもここで泣いとかなきゃ、もったいない?気がするもんっ。

だってさ、正直、判りやすいよな、と思う場面はその他にもあったんだもん。
ツレが依頼された講演に意を決して挑戦する場面、ハルさんが傍らに控えて見守っている。
質問タイムになって、ハイ!と手を上げた、梅沢富美男演じる聞き覚えのある声の初老の男性は、ツレを悩ませたしつこいクレーマー。
しかし彼は「この本を書いてくれて、ありがとう!」会場、拍手喝さいで、彼は静かに会場を後にする。

……これはどうかなー。これはさすがに……出来すぎ、ちゃう?いや、原作にあったらゴメン(爆)。
なんか作った感が強すぎて冷めてしまった。それまでの過程でもちょこちょことそれがあったのが、一気に、それはないだろ……と思ってしまった瞬間だった。

かるーく「典型的なうつ病ですね」とズバリと言う医者の田山涼成、うつ病の厳しさをくらーく告げる、病院で遭遇する患者のフッキー、オッと思うキャストにニヤリとさせられる楽しみ。
一番良かったのはやっぱり、イグアナのイグの予想外の癒しの魅力だったかも?あ、途中から飼いだす小さなカメも可愛かったなあ。

あ、これNHKでドラマになってるんだ……。へえ、泰造かあ。見たかったかも……。★★★☆☆


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