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「は」


2019年鑑賞作品

バースデー・ワンダーランド
2019年 115分 日本 カラー
監督:原恵一 脚本:丸尾みほ
撮影:田中宏侍 音楽:富貴晴美
声の出演:松岡茉優 杏 麻生久美子 東山奈央 藤原啓治 矢島晶子 市村正親

2019/5/5/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
なんでだか判んないんだけど、前半、キャラクターの動きというか展開の流れというか、乗り切れなくてもやもやしているうちに、うっかり眠くなった(爆)。
なんだろうなぁ……。ヒロインのアカネが、冒頭の学校内の描写以外はいまいち小学生に見えない、というか、感じられないのも、あったかなぁ。松岡茉優嬢は無理のない自然な声で、小学生の女の子をきちんと演じていたとは思うのだけれど。

アカネはある朝、学校に行きたくない、と思う。というのも、クラスの友人(というより、今の時代も変わらずあるらしい、グループ)の中の軋轢に悩んだからである。
ハブられたのはアカネではなく、もっと判りやすく不安げな女の子で、彼女はあかねに助けを求めるけれど、アカネがそれに応えられなかったのは、恐らく自分がその代わりになるのを恐れたからなのだろうが。

と、いう部分が、“恐らく”と言ってしまうほどに、明確にならないうちに、彼女は旅に出てしまう。旅の間にそのことを思い出す訳でもないし、そもそもが“自分なんかには何も出来ない”という漠然とした自信のなさがアカネという女の子を象徴している感は前面に押し出すんだけれど、それが冒頭の描写と上手く結びつかない。
アカネは自分自身の自信のなさにあえいでいるだけのように見えるから、冒頭の友人同士の軋轢をほったらかしにしているように感じるのがなんだか気になってしまう。

なんて思うのは、先述したようになんだかこの動き、この流れに乗り切れないからだろうか。キャラクターデザインをロシアの気鋭イラストレーターに依頼したという大胆さは、昨今の女の子アニメがどれもこれも同じタッチに見えるのと比べれば大きな個性であることは間違いない。
そのことが、アカネを小学生の女の子に見えなくしているかもしれないにしても。逆に、あの目元のデザインとか、ちょっとレトロな感じがしなくもない。

アカネが学校に行きたくないがゆえにバレバレの仮病を使うのに対し、お母さんはあっさりとそれを受け入れる。イマドキの現代映画で専業主婦のお母さんだなんて珍しいが、その珍しさこそが、このお母さんの不思議の第一歩である。
アカネは年頃の女の子らしいひねくれた見方で、いいよね、専業主婦は気楽で、と心の中でつぶやく。「でも、お母さんの料理はおいしい」……ほんっと、イマドキじゃないのだ、不思議なぐらい。

不思議なお母さん……美味しい料理を作る専業主婦のお母さんが不思議、というのが、現代っぽいということかもしれない、とこの時点では思っていたのだが、観終わってみると、いわばこのお母さんは時をかけてきたのかもしれない、と思うに至って、その、どこか異星人的な不思議さに妙に腑に落ちる思いがするのだ。
明確に答えを出している訳ではない。でも観終わった観客の誰もが、そうかと思うだろう。もうオチバレで言っちゃうけど、アカネが“緑の風の女神”であり、その女神は、このパラレルワールド的な世界に以前、現れたのだという。最後の最後に、この世界とアカネたちが暮らしている世界は時間の経過がまるで違うことが明かされるんである。

ちょっとうろ覚えですみませんなんだけど(爆)、アカネたちはこのパラレルワールドに三日いたと思うのだが、アカネたちがいる元の世界では三時間過ぎただけ、だったと思う。
でね、アカネのお母さんが、そもそもアカネを彼女の妹であるチィの元にお使いに出したその理由は「アカネへの誕生日プレゼントを頼んでいる」からだった。その日はアカネの誕生日の前日。でもアカネの叔母であるチィは、そんなの頼まれてたっけなぁ、と首をかしげる。

チィが営む、まるで商売っ気のないアンティークショップの地下室への階段が異世界への入り口になっていて、アカネの母親はそこからアカネを探しに訪いがくることを、知っていた訳だ。劇中では、明らかにされてなかったよね?アカネのお母さんの名前なんて……判る訳ないもの。
ミドリ。“緑”の風の女神として残された絵に、アカネが似ているということは、お母さんに似ているということ!それが最初から判ってたら、そういうことか!って、思ったに違いないのに!!

いや、私が寝落ちして聞いてなかっただけかもしれないけど(爆)。でもそれが判ると、いろいろと憶測をしたくもなってくる。専業主婦のお母さん、としておっとりとした風情を見せるお母さんだが、お父さんは、出てこないんだよね。専業主婦、と娘からわざわざ言わせるんだから、お父さんがあくせく働いているんだろうとそらぁ観客は思う訳だが、でもお父さんは出てこない、会話にすら出てこない。
まるで不思議なお母さんと娘と猫の三人?暮らしのようにも思える。そしてお母さんが初代緑の風の女神なのだとしたら……お父さん、って??と下衆の勘繰りもしたくなるではないか。

いやー、観てる時にはそんなことは微塵も思ってなかったけどね(爆)。だってお母さんがミドリって名前だってことが判ってなかったんだから(爆爆)。
それにこれはファンタジーワールド。この作品の魅力は、それに尽きる。パラレルワールドというよりは、ファンタジーワールドなんだよな。ピンク一面の花畑、巨大な鳥、もこもこの羊、どれもこれもキュートなカラフルさで、ゴールデンウィークに当て込んだアニメって感じ(爆)。
イジワルな見方をすれば、現代アニメ技術のすべてをつぎ込んだ美しさ、というだけで語ったっていいかもしれない。

なんて言い方をしちゃうのは、ちょっと……物語の展開というか、設定というか、的には、いろんな過去作を、やっぱり思い浮かべちゃったからに他ならないんだよね。
小学生の女の子が、もやもやした悩みを抱えたまま、異世界へといざなわれるのは、否応なしに「千と千尋の神隠し」を思い出させる。

そして……これは時代なのか日本人キャラクターデザインだからなのか、ジブリだからなのか、ハッキリと、コドモである千尋に対し、アカネは……確かに終始不安げだし、共に旅する叔母のチィに対すればそりゃあ幼いけど、でもチィが自由奔放、つーか、自分勝手(爆)だから、むしろアカネの方がしっかり見えてしまって、終始アカネがどうしても子供には思えない、不安を抱えている女の子、というのは判るけど、小学生には見えない、というのは、正直なところなんだよね。
そのあいまいさは、こーゆーファンタジー世界には必須の、姿を変えられた王子様との出会いにおいてこっちが勝手に期待するスパークが今一つ感じられないというウラミにもつながっちゃう。

これまた、千と千尋の世界であり、美女と野獣を持ち出すのもヤボなぐらい、古今東西、脈々と受け継がれる伝統文化のようなもんだよね。本作における、金属人形に閉じ込められてからーの、ドジな魔法使いによって残虐な見た目のロボットに変身しちゃってからーの、そしてやっぱり、この国の危機を守るべくの王子様の姿に戻ると、金髪碧眼のイケメン王子。めっちゃ王道ー。
……なのだが……なんか、もったいない、もったいないんだよなー。だってさ、この王子だって青春(まで行ってないかもしれない。恐らくアカネと同じ年頃ということだろう)の悶々よ。アカネと出会い、元の姿に戻って、命を落とすかもしれない、でも父親や祖父が見事しのいできた、この世界を救う、その水を救う儀式に挑む。

そもそもさ、メカチックな残虐非道なザン・グは不気味だけど、なんていうか、苦悩の色気があって、カッコイイんだよね。でも元の姿に戻ると……確かに金髪碧眼の美少年だけど、あれ、コドモかい、と(爆)。
これって美女と野獣でも感じたなぁ。野獣の時の方がカッコイイって(爆)。オリジナルのモノクロでも、ディズニーでも、そう思っちゃうの、困っちゃう。

ザン・グの相棒、ドジで魔法の技術が今一つなドロボが一番、好きなキャラクターだったなぁ。
アカネたちと同行するちっちゃい魔法使い、ピポの魔法学校時代の同級生というキャラなのだが、猫に模したデザインといい、キバがちらりと見える感じといい、何よりとにかくドジなところといい、めっちゃ可愛い(照)。元の姿に戻ってほしくなかったなあ。なんて。

なんか全然触れなかったけど、アカネたちを誘う錬金術師、ヒポクラテスが一番出番が多かったんだよな。声を当てるのも御大、市村正親だもん。でも途中、ハエになっちゃうし。
うーんでもでも、それこそこのハエになってからのくだりは、ヒポクラテスがいなくなったことをそれほどみんな心配してないし、結局、ヒポクラテスがいなくても進行しちゃうし、みたいな。錬金術師のヒポクラテスより、彼のちょっとしたライバル的な、冬眠中だったおじさんの方が出番は少ないけど、好印象だったよなあ。

ラスト、記憶がぼんやりとした感じの、眠そうな顔で現代に戻ってくるアカネとチィ。……やっぱり千と千尋っぽい感じがしちゃった。★★☆☆☆


拝啓天皇陛下様
1963年 98分 日本 カラー
監督:野村芳太郎 脚本:野村芳太郎 多賀祥介
撮影:川又昂 音楽:芥川也寸志
出演:渥美清 長門裕之 左幸子 高千穂ひづる 中村メイコ 桂小金治  葵京子 加藤嘉 西村晃 藤山寛美 多々良純 小田切みき 北竹章浩 穂積隆信 井上正彦 玉川伊佐男 岡部健 千葉晃一 園田健二 森川信 大塚君代 山本幸栄 遠山文雄 高橋とよ 草香田鶴子 若水ヤエ子 津村映子 上田吉二郎 清川虹子 山下清

2019/7/21/日 劇場(神保町シアター)
これは傑作の呼び声を聞いていたような気がする。それと、なんたって寅さん以前の渥美清、喜劇役者渥美清の純粋な魅力が見られると。
アレルギーの薬のせいで、序盤どうやらかなりいいところを眠気ですっ飛んでたらしくてこの感想自体を書くことを臆する気持ちもあるのだが……どうやら山正(山田正介の略)が天皇陛下を実際に見たところとかをすっ飛ばしたのかも、そういうシーンの記憶がないから(爆)。ああ、私のバカ。

山正が天涯孤独の身だというのも、言っていたかなあ。だからか、彼が夫婦者や家族にまっすぐに憧れるのは。後半にホレっぽいところ見せるあたりは後年の寅さんをほうふつとさせたりして。
でもそれもこれも、泣けちゃうほど純粋で、愚かなほど純粋な男だからなのだ。

山正と棟本(長門裕之)が出会ったのは、軍隊入隊の時。自分の名前もろくに書けない愚鈍な山正は、たまたま隣にいた棟本に話しかけたことから、これぞ縁、もう親友、とばかりになつきまくる。
まさになつく、という表現がピッタリである。それでなくても渥美清のマンマな人好きのする魅力が全開で、この男になつかれたらもう仕方ないかな、という気がする。

図体ばかりデカくて今一つピントの外れている山正を、先輩兵もイジメだかイジリだかギリギリの線って感じでちょっかいを出すのだが、山正は大してこたえてない感じ。
そもそもこの軍隊に、三度三度のメシが食える天国みたいなところ、と意気揚々と入ってきた彼は、その後まさに戦争の時代に突入すると、召集されることを首を長くして待つ始末なのだ。

最初こそタバコを分けてくれたり親切にしてくれた先輩も、理不尽なことでシバいたりするのはいかにも軍隊生活(西村晃がこーゆー理不尽な先輩兵、似合い過ぎる……)だが、二年目になると山正もまたあっさり後輩に同じことをするあたりが。

でもそれも、渥美清がするとなんか間抜けているというか、ヒドい感じにならないんだよね。それどころかウッカリ懲罰房に入れられると、それを心配して同情した年かさの中隊長が我もともに、と膝付き合わせてきたり、読み書きのできない山正を心配して、山正より年若の兵を家庭教師にしたり。
うーむ、あれは、ひょっとして、ちょっとした好意以上の……ナニカ、BL的な!?ものだったのか??軍隊って、ありそうだからなあ……。

兵隊さんは色町で半額になるとか、そこでおへちゃをあてがわれてヘソまげるとか、先輩兵に遭遇して修羅場になるとか、なんてゆーか、青春、である。
だって若き男子ばかりなんだもの。その中には新婚さんなんぞもいて、そう、桂小金治だ!彼が新婚ほやほやで、皆からからかわれまくるんだけど、新妻から送られてきた手紙は、ラブラブなものではなく、……貧しい村で、隣の娘は売られて行った。私はお前さんに嫁いで運が良かった。借金に当てたいので給料は送ってくれろと、囃し立てた先輩たちもシーンとなっちゃうんである。
そういう時代。戦争そのものの悲惨さは、この先の時代にある。それを考えるとまた、気が重くなるんだけれど……。

次は、まさに、赤紙招集である。棟本は嫁さんをもらって、小説家の夢を追いかけながら、妻の内職を手伝う日々である。
妻、秋子、左幸子、かあ!そうかそうか。後に出てくる山正の最初で最後の恋人が中村メイ子であったりして、何か、昭和の女優史を見るような思いもする。

秋子、ステキだったなあ。いかにもチャキチャキとした働き者、山正が訪ねてきた時には怯えまくって「ルンペンの親分みたい」と。
でもその後は打ち解けまくって、もう山正のことが大好きになって、美しい未亡人に山正が恋した時はなんとか仲を取り持とうと奮闘して、未亡人がすげなく断ると、山正に加担して憤慨する、みたいな。ああこの人と、友達になりたい、みたいな!!

棟本も山正のことは大好きだけど、猪突猛進の彼に、それなりに学がある棟本は価値観の違いを強烈に感じることがあり……。友のためなら盗みなんてなんてことない、という山正と激しいケンカをして、瀕死のニワトリを地上と二階で投げつけあったり(爆)。
かたや棟本夫婦に食べさせたい山正、自分たちのために盗みをしたことを許せない棟本、という、もーつまりは相思相愛じゃないかと。こんなことは、実に平和なエピソードだったのだ。

二度目の軍隊生活、これぞガチの戦争の時、山正は、なんかもう、天皇陛下崇拝者になっちゃってて。でもそのなんたるかを本当に判ってたのかどうか。
軍隊にいれば三度のメシが食える。そこから追い出さないでほしいと天皇陛下に手紙を書きかけた山正を、棟本は必死に止めた。天皇陛下に手紙なんて。不敬罪でとっつかまるぞと。

不敬罪、という言葉も、まさに今、死語だろう。不経済、と変換されてしまったもの。むしろそんなことを思いつきもしなかった山正こそが、今の、現代の感覚に近いような気がしてしまう。
この物語が始まった頃は、まだ天皇は神様だった。物語の中で終戦を迎え、玉音放送を聞き、その時にようやく、山正は天皇陛下が神様“だった”ことを知る訳で。

山正なら、渥美清なら、天皇陛下に稚拙な字と文章で手紙を出しても、いいような気がしちゃう。
山正がね、三度のメシなどとノンキなことを言ってられない、本当に、まさにの戦場に送り込まれた時、これも喜劇にするのかと、かなりビックリしたんだけれど……焚火をしている一隊に山正は話しかける訳。こらこら、今、腕を焼いてるからと。腕??腕!!!
……そして本体は今埋葬中である。離れた腕だけを焼いている、ということは……それはそれは、ひょっとして、食おうとしているの!?そこまでは明確にされなかったけど……。

この兵士に死にざまについて、山正と兵士たちが口論になる。天皇陛下万歳と言ったのかと、山正はそれにものすごく、こだわるのだ。死ぬって時にそんなことを言うものか。そうせせら笑う兵士たちに山正は激昂して、自分の先輩は、頭を撃たれても三度唱えて死んだと言い、ウソを言うなと小突かれ、更に山正はいきり立って、ケンカになっちゃう。
一緒にいた棟本が仲裁するのだが……この場面が、最も印象に残ってる。山正はなんたって愚鈍な男だし、いわば右翼みたいな盲信者ではないのに、まるでお母さんが大好き!というのと同じように、天皇陛下大好き!!みたいになってて、それは三度のメシが食える軍隊にいられる戦争を起こしてくれているからなのか、などとうがった見方をしたくもなっちゃって。
渥美清が、可笑しいんだけど、喜劇の可笑しさで可笑しいんだけど、これはつまり、そういう……反戦なのかもしれない、と思ってくる。

戦争が、彼の居場所を作っていたのだ。戦争が終わると、根無し草の山正は、棟本を頼るしかなかったんだろう。作家志望だった棟本は、一時は兵隊作家として、従軍作家としても、もてはやされた。でも戦争が終わると……しかして、山正は、さっすが棟さん、という無邪気な視線を崩さなかった。
成功した友人に甘える、というのは、ヘタすればしたたかな処世術にも見えるけれども、本当に山正は、ただただ棟本を慕って、彼の奥さんや近所の人たちにも好かれて、……なんかそれって、ああまさに、寅さんで、渥美清の感じでさあ。

でも確かに彼には、渥美清には、いつでも何か哀しさというか、ペーソスっていうやつ??明るくて可笑しいのに、彼自身が幸せには決してなれないんだ、っていう、ヘンな確信のようなものがあって……。
お上品な未亡人に岡惚れしてフラれるというのはいかにも彼らしいが、これまた戦争未亡人の、でもとっても山正にお似合いの庶民的で感じの良いセイ子を連れてきて、結婚するんだと言って、幸せそうで、棟本も奥さんも、良かった良かったといって。

でもなぜか、予感がするというか、山正は、皆に好かれて、最終的にはそんな彼の良さが判る女性に出会って、幸せになる、と見えかけていても、なぜだかなぜだか……後の寅さんだから、というんじゃなくて、本当になぜだか……彼が相惚れで添い遂げて、めでたしめでたしにはならないんだよな、と確信めいたことを思っちゃって。
だとすると、……だから結末には、哀しいけれど、驚かなかった。後に彼が演じ続ける寅さんのことを思ったりしてしまうのは、よくないんだけれど、でも、渥美清という喜劇役者が演じる男は、やはり哀しみでありペーソスであり、あたたかな幸せな家庭を作る男、ではないのだ。
だからこそ山正はそれが出来る棟本に本能的に惹かれたのだろうし、自分を受け入れてくれる場所は軍隊であり、戦場であり、天皇陛下、であったのだろう。

改めて、渥美清という役者の在り方を思ってしまう。山正が本当に天皇陛下に手紙を出したなら。それを想像させる力が彼にはある。
山正の死を新聞記事に見つけて、夫婦ともども動揺してブルブルと震えながら、どこかで、彼はそんな風に逝ってしまうのだろうという共通認識があった。
その場面、恋人とラブラブで、酔っぱらいながら名残惜し気に別れて、長靴をはきなおそうとして、雪の降りしきる中……その先を暗示させつつ終わる切なさに胸をつかれた。

長門裕之は、結局は狂言回し的役柄だったのだが、この愛しい男を語る、素敵な男だった。山正と違ってハッキリ出世するし、立派なひげをたくわえて外見も大きく変わるのだが、山正と一緒にいると、軍隊で一緒だったころの、まるで小学生同士のような無邪気さに戻ってしまう。ちょっとすり合わせれば和解できそうなところを、子供の様にケンカして何年も会わなかったりする。
そうか、和解、って、大人の言葉だ。ケンカ別れしても再会すれば何事もなく肩を叩き合えるのが子供の友情のいいところなのだ。山正はそういう男、だったのだよなあ。★★★★☆


箱根山
1962年 105分 日本 モノクロ
監督:川島雄三 脚本:井手俊郎 川島雄三
撮影:西垣六郎 音楽:池野成
出演:東山千栄子 加山雄三 藤原釜足 北あけみ 佐野周二 三宅邦子 星由里子 東野英治郎 有島一郎 森繁久彌 小沢栄太郎 上田吉二郎 中村伸郎 浜田寅彦 藤田進 田島義文 桐野洋雄 瓜生登代子 藤木悠 熊谷二良 児玉清 古田俊彦 塩沢とき 小西ルミ 西村晃 井上大助 二瓶正也 三田照子

2019/4/28/日 劇場(神保町シアター)
メインの旅館同士の対立はロミジュリなのかもしれないけれど、冒頭スリリングに描写される、箱根における道路の開通、そこを走るバス、果てはモノレール、客船に至るまで!の展開は、きっとこの箱根の実際の観光発展合戦の、つまりは歴史なのだろうと思うとワクワクする。
まるでその昔の、映画館にかかっていたニュース映像のように、甲高い声の男性と女性のナレーションの掛け合いで、めちゃくちゃワクワクする。

そもそも、冒頭が、共にバスを走らせている交通会社の対立で、一方は箱根に至る道路を通したという功績があり、その道路を、あくまで金を払って走ろうというんだから乗っ取りとはおだやかじゃない、と他方は言い、あの場は何か、政治的な議場のような、政治家も参加して、議題に乗っててそうだそうだ!!みたいな怒号が飛び交ってて、しかも外は洪水のような雨が降ってて、モノクロがその迫力をひどくあおって、もう最初から持ってかれちゃう。
後から思えば、確かにまぁここに出てくる、交通会社も政治家も観光業者も入り乱れて物語に参入はしてくるものの、ふたを開ければ箱根の二大旅館における、跡取り娘と若番頭とのロミジュリ物語であり。しかしそうして、リアリティを持たせるあたりが上手いんだよなぁと。

ロミジュリは加山雄三と星由里子。黄金バッテリー。キラキラな二人である。加山雄三は玉屋の若番頭。実はその昔、ドイツの兵隊さんが駐留を余儀なくされてそこの女中さんとイイ仲になり、産まれたのが彼。
ドイツ兵さんはかいがいしく息子を育てたが、国に帰らなければならなくなって、泣く泣く玉屋に彼をおいていった。後に「ついに、私を縛り付けていた妻が病死しました」なんて感じで、待ってました!!みたいな手紙を送ってくるのには笑っていいのやら、なんとやら。
見ている時はオトーと呼ばれる加山雄三、ドイツからの手紙ではオットーと言われているから、うーむ、役名はなんだろうと思っていたら、なるほどなるほど、乙夫でオトー、オットー!上手いこと言う!

星由里子は若松屋の娘。明日子という名前は、考古学オタクのお父さんがつけた。この足刈の地名のルーツを探って、もう執着ありまくりで、客を捕まえては自説をとうとうと披露して、「二度と来なくなるのよ」と娘はあっけらかんと、にべもない。
奥さんも多少は小言を言うけれどやはりどこかおっとりとしていて、この夫婦は口で言うほど玉屋に対しての対立心も感じられず、いい売値がつくんならここを売って、東京でのんびり暮らすのもいいネ、明日子も箱根に残る気はなさそうだし、なんて感じなんである。

ことにお父さんを演じる佐野周二の、我が道を行き加減は実に秀逸である。ぜってー、旅館業には興味ないだろ、とツッコみたくなる我が道を行く、である。
今の言葉で言えばマイブームに没頭している、まさに趣味に人生を捧げてる、ああ、ついこないだ観た「波乗りオフィスへようこそ」の彼らより数十年昔から、実践している人が、いるんである!そう、まさに関口知宏のおじいちゃんが!
東京でのんびり暮らす、というぼんやりした夢も、そこでのんびり趣味を追求できるだろうという意味合いであり、この箱根山から考古学的遺産(まぁ……石器ナイフ程度なのだが……)が出たら、もうここから動く気ナシ!なんである。その石を見つけたのが乙夫であり、それを大事にしている明日子、という意味合いはもはや彼にとっては知ったこっちゃないんである。

ライバル旅館の若番頭と禁断の?恋に落ちているのかも!と夫に相談を持ち掛けてきたのは奥さんなのに、そして奥さんの、娘のプライバシーを侵害しまくって手紙を開けようとしたり、日記を探しまくったりするのがおいおい!と突っ込みたくなる可笑しさなのに、それを穏やかに収めつつ、結局は娘の部屋から出てきた石器にコーフンして、奥さんの言うこと何にも聞いてない佐野周二が可愛くも、可笑しすぎるんである。
なんか、若松屋の方が地味系なんだけど、そこはかとなく可笑しくて、好きだったなぁ。

かなりフライングして進んでるけどカンベンしてね(爆)。で、そう、玉屋は女将がもう80に手が届く感じで、それで若い夫婦が営む若松屋にライバル意識メラメラで、なんとか温泉を掘り当てようとやみくもにボーリングして金使いまくっているってんだから。
老番頭がそんな老女将を支え、乙夫と明日子の仲を微笑ましくもやきもきしながら眺め、乙夫が優秀なもんだから訪れる政治家やら観光業者に引き抜きをかけられてまた苦悩し、……たいへーん!藤原鎌足!!
なるほど、ここで加山雄三とこれだけの年の差がある訳だ。加山雄三と佐野周二の息子の関口宏、の年関係を考えたりしてフムフムと思っちゃう。

そして、これまた乙夫を気に入っちゃう老政治家が森繁久彌。もー、大好きだなー!
乙夫の“車が走る道ばかり。人間が歩く道を作るべき”という意見に素直に賛同し、それを自分のアイディアのように言うかと思いきや……あの旅館の、ちょっと様子のいい青年からの受け売りだよ、とあっけらかんと言う。あんな青年は欲しいな、と言う。

それを聞いて焦ったのが、元から彼をネラっていた観光業を営む社長。これまたいかにも一筋縄ではいかない東野英治郎。彼が乙夫をネラっているのは、無論、この箱根という膨大な利益を生み出す観光資源とのパイプ(しかも頭のいい)に他ならない。
しかしそのことも乙夫はよく判ってて、一時は箱根自体が乗っ取られる危機を確信し、自分はここに残って守り続けることを(それは以前からなのだが)決意していたんだけれど、不測の事態が起こって、彼はそれを知った上で、そして相手にも告げた上で、修行のために箱根を出る決意をするんである。

この短い尺で濃い内容なもんだから、片方を語り始めると、あっという間に片手落ちになっちゃう(爆)。
明日子が取り残されてるよー。ヒロインは明日子、なんだから!ダブル主演という趣だが、この場合はヤハリ、華やかな女優に華を持たせたいと思っちゃう。

おきゃん、という言葉を姿にしたら、こーゆーことになるのであろう。高めの位置からきゅっとたらしたおさげ髪、セーラー服、両親にも乙夫にもぽんぽんモノを言って、臆するところがない。
英語や物理が苦手で、赤点をもらって帰ってくるもしれりとして、「でも、作文は満点だわ」と言ってのける。こーゆーさばさばした女の子はむしろリケジョの設定にしてほしかった気もするが(爆)、乙夫から教えられるのはヤハリ、英語や物理の方が様になってるかなぁ。

彼女は旅館同士の古臭い対立を嫌っているし、そもそも旅館を継ぐ気もない。だから、乙夫が玉屋を存続させるために、東京に就職して修行するのだ、と言った時に、自分も東京に行く、だって箱根になんかいたくないもん、という訳でさ。
しかし乙夫は、10年後には箱根に帰ってくる。その時まで、君は自分の旅館、若松屋を守っていてほしい、という訳だ!!なんか、凄いな!!ロミジュリ以上!!
ロミジュリは対立する家同士の若者が恋をして、悲劇の結末を迎えたが、彼らは、つーか、乙夫は親世代の反発を無理に解決しようとせず、それどころか存続と融合を目指して、実に10年という猶予を、若い自分たちの試練の期間に与えたんである!!

そもそもね、ちょっとしたアクシデントがあって。玉屋さんが火事になるのよ。若松屋の女将、つまり明日子のお母さんがしたり顔で「でも、火事太りって、いうじゃない??」と、保険金ががっぽり入ることをちゃっかり指摘するのには思わず噴き出しちゃうけど、でも、玉屋さんは温泉を掘り当てるボーリングに金を使いまくってて、保険の更新の時期に見直し、という口実のまま、かけていなかったのだ。うわー、なんか、凄く、生々しい!
もう玉屋の女将さん、寝ついちゃって。何よりショックだったのは、火事になった時に敵方の若松屋の娘、明日子に邪気なく親切にされちゃったことなのだ。

まさに明日子は何の邪気もなかったし、そもそもこの二つの旅館は、そのルーツは同じ祖先をもっているということもあって、明日子はむしろ、この対立をバカバカしく思っていた訳なんだよね。だから彼女にとってはなんの屈託もない、それこそ、「弱者をいたわるのは、当たり前じゃない??」なーんて、言っちゃう!!ギャー!!それでこそ明日子ともいえるが……。
いわばそのショックで寝付くというのが、玉屋の女将さんは、つまりそれだけの気概があるということで、こんな施しを受けちゃ私はダメだ、そもそも火事になって玉屋は運を失った、と思って寝込んじゃったんだけど……。

温泉が出て、ついに出て!!その途端に、あれだけ死にそうだったのに、バーン!!と起き上がって、布団を押し入れにしまって、床上げの赤飯の用意まで指示して、「10年後は92か。大丈夫だろ!!」みたいな!!
乙夫が、いわば身売りする形で10年頑張ってきます、というのを嬉しく聞きながらも、自分は100になってしまう、とても生きていられないと弱気だったのに、この大転換!笑いながら、じーんとしてしまう。
そしてその玉屋に触発されて、おっとり夫婦も、負けちゃいられないと、それまで全然考えてなかった温泉ボーリングを計画し始める。なんか、いくつになっても燃える仕事、燃える相手、ああ、凄く、イイなぁ!!

結局、ワキのベテランが魅力的過ぎて、ついつい若く美しい二人を置き去りにしてしまう(爆)。いっぱい、面白いエピソードはあったのよ!!火事の後、乙夫のアイディアで焼け跡にテントを張って、夏のバカンスの若者たちを呼び寄せたり、老女将肝いりの嫁候補が、“総天然色”のハデなメイクで町中のウワサになったり。
でもモノクロじゃ総天然色もよく判らないし、フツーに美人さんでしかなかったのが惜しかったけどねぇ。ハデハデメイクとファッションがよく判って、総天然色、という表現が観客側に伝わるような、クジャクのようなカン違い女を出してきてくれたら、ホント面白かったと思うんだけど。

ラストは、結局親に開けられることのなかった、乙夫からのラブレターを、明日子が彼と約束を交わした、思い出の草原で読む場面で、終わるんである。しかして彼が示す、日に換算すれば、時間に換算すれば、分に換算すれば、……という、いかにも彼らしい賢い計算は、数字は増えに増え続け、こちら側にはかすかに絶望的な気持ちを与えなくもない。
草原に座り込んで手紙を読む彼女からもカメラがぐーんと引き、ドローンかと思うぐらい引き(爆)、彼女がその文面に決意を固めた……かどうかは、かなーり、疑問なのだが、いやそれは、現代の感覚、なのかなぁ。
彼女は凄く、旅館業(というより、近代的なホテル業として!)に興味とやる気を持ち始めていたしなぁ。難しい!!社会系なのは判ってたけど、あっさり青春ラブストーリーじゃ、やっぱりない!!★★★★☆


初恋 お父さん、チビがいなくなりました
2019年 104分 日本 カラー
監督:小林聖太郎 脚本:本調有香
撮影:清久素延 音楽:小六禮次郎
出演:倍賞千恵子 藤竜也 市川実日子 佐藤流司 小林且弥 優希美青 濱田和馬 吉川友 小市慢太郎 西田尚美 星由里子

2019/5/12/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
最近はコミック原作にしても猫が登場にしても、結構安易に映画化しちゃうからあんまり期待してなかったんだけど、そのハードルが低かったのが良かったのか(爆)、涙涙。
いや、素直に良かった。原作通りのタイトルで良かったんじゃないかなぁ。初恋、とつけたことによって多少のネタバレというかオチバレのように思う。このタイトルは確かにちょっとコミックスくさいが(?)結果、この二人の夫婦関係を最後まですべて包括して言い当てていて、素晴らしいと思う。
チビがいなくなりました、と妻から言われて、彼がとる言動、行動、その心の動きが全然見えなかったのが見えてくるまで、そしてそれを言う妻側も、というのが見事に収束していくんである。

この昭和の男、昭和の夫、の“お父さん”つーのが、まさしく私らの親世代にドンピシャリでさ。だって小市慢太郎、西田尚美の親でしょ。ドンピシャリじゃない。
最初の内は末娘の市川実日子嬢しか出てこないので、この親の娘じゃちょっと若いんじゃないのかなぁと思っていたら、三きょうだいだった。ドンピシャリ、まさに私の親世代。

私の父親も寡黙だったが、お酒が入ると結構喋るし、あんな靴下まで脱がせるような人じゃない……確かに家事はやらないにしても、退職してからは皿洗いぐらいはやってた記憶があるし(母親が教育してた(笑))、まぁ、違うんだけど、凄く判る、判るんだよなー!!
末娘に対する感覚も、凄く判る。一人独身で、仕事に燃えてて、どうやら結婚に意味を見出していないらしい娘に対して「女がそこまで責任を持つ仕事をする必要はないと思うけど……」と控えめに口にするのはお母さんの方だったとしても、それは彼らの世代共通の“常識”であり、当然、お父さんの方がそれを強く思っていたに違いないのは想像に難くない、のだ。

ちょっと、話が脱線してしまった。これはそんな、老夫婦の物語。目に見えるようである。それまではモーレツに働いてきた夫、専業主婦として家を守って来た妻。
途中、反旗を翻した妻に夫が言いかける「家のことは……」というその台詞の先は、お前に任せてきた、というんだろう。子育てをしているうちは妻もまた、事の重大さに気づかずにいたのだろう。

子供たちが自立して、夫が現役を退いて、たった二人きりになった時、これまで仕事を理由にしてきた、大したコミュニケーションもとらずに来たツケが、ここで回ってくる。
相変わらず身の回りの世話を王様のように妻にやらせる夫、夕食の“団らん”にもろくな返事をしない夫、町中で顔を合わせても、知らぬふりをして顔を背ける夫、忘れ物を届けようと歩いて行く背中に呼び掛けても、聞こえる筈の距離なのに振り向きもしない夫……。

妻は、訪ねて来た末娘にぽろりと、「お父さんと別れようと思ってる」と口に出してしまう。
大した覚悟があっての感じには聞こえなかった。つい、ぽろりと口に出た、という感じだった。でも本音だったからこそ、滑り出たのだ。それが証拠に、そのことに言っちゃった彼女自身は慌てた様子も見せなかった。あぁ、私はそう思っていたのだ、という感じだった。

正確に言うと、二人暮らしじゃないのだ。まさにタイトルロールというべき、そういう意味では主人公というべき、彼ら夫婦の10年以上をずっと見守りつづけてきた黒猫のチビ。このネーミングもまた、目に浮かぶようだ。子猫の時に拾ったという、その時の姿をそのまま名前にしたのだろうと。
今はすっかり落ち着いた大人猫となり、常に妻のそばに寄り添っている。大好きな韓流ドラマを見る時も、彼女の腕に抱かれている。何度も見ているのだろう、役者に合わせて台詞を口にする彼女。何度もの再放送をあらわすのに、画角が昔のサイズにしているのが、芸が細かい。

もうひとつ、ドンピシャリだったのが、この猫の存在である。年齢が、私の愛猫にそのままそっくりなのだ。だから私は、このチビのことを“老猫”と書きたくないのだ……。
劇中では突然姿を消したチビのことを夫が「死に時を悟っていなくなったんだから、探すな」と冷たく切って捨てる。もうそれがたまらなかったし、そんな言葉をカンタンに発する夫に対しての妻の反発心がものすごくよく判ったから、もうこの時点で私は、あー別れちゃえ、こんな男とは別れちゃえ!!とか思ったもんね(爆爆)。

しかしてチビは、タイトルロールであって、彼ら夫婦のかすがいでも、あったのだ。子はかすがいとはよく言うが、もう自立して、遠く離れた彼らは、もうその役割を果たさないのだ。
それに子供たちはヤハリ、親は親であり、男と女としては見られない。離婚、という言葉が出ること自体、うろたえるぐらい、なんだもの。

今は家猫が半ば常識化しているし、猫を愛すれば愛するほど、外に出られる環境なんてコワ過ぎる!!と思っちゃうんだけど(爆)、東京とは思えないこののどかな環境で、今までの狭いテリトリーを超え、どこに行っていたんだか判らないけれど、チビの旅を思うと、どんなに納得していても、人間の都合で家に閉じ込めているんだよなぁ……ということは考えざるを得ない。
いや、私の猫は絶対外に出さないけどね!!まぁそれはともかく……。

恐らく夫は、チビに関しては全く関わらずにこれまで来たのだろう。まさに、妻や子供たちに対するみたいに、家庭のことはまかせた、というあの台詞の通りに。
何を言ってもなしのつぶての夫に、「まるでチビと私、二人で暮らしてるみたいだね」とつぶやいた妻の序盤のシーンが、胸に突き刺さる。

これはね、本当に最初から猫と二人暮らしなら、全然問題ない(私だ(爆))。でも、長年連れ添った、連れ添った筈の夫がいるのに、まるで猫と二人暮らしのように感じるっていうのは……これは、これはキツいなぁ。だからさっさと別れろと思っちゃう(爆)。いやその……。
末娘の生き方に対して、親子間のやりとりを通じて、作品として一定の理解を示したのは嬉しかったけど、結局末娘にも恋の予感を与えちゃったし(爆)。

まぁとにかく、結婚というものの価値観はさ、やっぱり親から与えられちゃうもんじゃない。親との年の差を考えれば、その20年から30年、ひょっとしたらそれ以上のジェネレーションギャップを、なぜだか子供たちはなかなか触れる機会がないまま大人になり、だから苦しむ訳。
いわば、結婚しちゃえば、その時代の結婚事情、夫婦事情、親子事情というものに直面せざるを得ないからいい結果に転ずるのかもしれない。でもそうじゃない人生を選ぶと決めたら……自分自身も、親にも、それを納得し、理解させるのは、本当に難しいと思う。いわば、いなくなった猫を通じて、そんな結婚なり、人生の価値観が、一気にあぶりだされる形になるのだ。

夫の一日は時には将棋道場、時には相談役として出向くかつての会社である。しかし後者はどうやらウソで、こっそり女性と会っているんである。
絶妙に、過去回想が挟まれる。妻と夫の出会いの場面。ミルクスタンドの売り子と、あわただしく牛乳と菓子パンの朝食をとっていくサラリーマンたち。

常連の一人であった夫に、就職したての妻は恋をした。でも先輩が、常連の彼に手慣れた感じでいつもにこやかに接していた。なんとなく人生に目的が持てなかった彼女が、気乗りのしないまま受け取った見合い写真が、なんと彼だった。
彼は見合いの席で、最初の見合いで結婚すると決めていた、と言った。お互い面識があったことは、判っていた筈なのに、妻は恋愛感情を自覚していながらも、夫の側の気持ちが判らないまま、実に50年!が過ぎていた、という訳。

正直言うと、なぜ夫が、ミルクスタンドの先輩女性とこの期に及んで密会していたのかが、判らない。原作では明らかにされていたのか……。なんたって星由里子なのだから(遺作とは……。でもいい作品だから、良かったと思う。)、そしていくつになっても、こんな役柄でも色気が隠しようもない藤竜也なのだから、なんかあるんじゃないの、と、思っちゃう。
その辺は、明らかにされない。表面上は、昼間のレストランというか、カフェというか、そんなところで会う、というだけである。

夫はその密会に行く途中に、周囲の状況が判らなくなってパニックになり、警官の世話になって、彼女に会わずに家に帰ってしまう。そして、そのことを妻に言えない。
そらぁ当然とも思うが、彼が言えない理由が、妻が自分に関心を持っていない、いなくなった猫のことで頭がいっぱいだ、ということをこの彼女に訴えるシーン、そして彼女が微笑んで、あなたのことはいいことも悪いことも知りたいはずよ、と返す台詞で、なんか、ホッとするというか、あぁ、夫は、妻のことを大好きなんだと思う。

妻は夫のことをお父さん、と呼ぶが、夫は妻のことをお母さん、とは呼ばず、名前で呼んでいた。ユキコ、と。それに気づけた時点で、もう答えは出ているような気がした。
子供が出来ると互いにお父さん、お母さん、と呼び合う。彼がいまだにユキコ、と呼ぶのは、子育てとか家庭を顧みなかったという意味ではよくないことなのかもしれないけど、彼にとって、彼女は、今でもミルクスタンドで一目ぼれした、初めての恋に動揺して、目も合わせられなかった、最愛の女性なのだ。

と、いう結論に至るまでは、そらまぁ、騒動である。お母さんの突然の離婚宣言、韓流スターそっくりのペット探偵との仲を誤解して、あたふたする三きょうだいの様はサイコーである。
上の兄と姉は家庭もあるし、末娘も仕事が忙しい中、心配して一泊帰省の都合をつける彼らの仲の良さがほほえましすぎる。みーんな、大好きな役者さんたちなんだもん!もう、この三人がきょうだいというだけで、ワクワクが止まらない!!

結果的には彼らにとっては両親は、当たり前だけど親以上の想像がつかず、二人の危機にどうこうすることはできなくて、いわばコメディリリーフ的な展開に終始するものの、それだけに、彼らが両親のことを愛して、心配しているのが判るから、じーんとするんである。
正直、このお父さんの無自覚さに気づいてあげても良かったと思うけれど、そこはヤハリ、親を男と女として見てないから、気づけないのかなぁ。

末娘にだけ吐露していた本音を、夫にもぶつけ、妻は家を飛び出す。雨の中びしょぬれになって、ブルブル震えながら、もう家には帰りたくないという。
事態がよく判らないまま、でも自分なりの人生を覚悟している末娘が、どんな結末になっても、お母さんの決断を尊重するよ、と布団を並べて言うシーンがグッとくる。結果としては老夫婦はお互いの最初の気持ちを確認し合って大団円になるけれども、もし別れることになったとしても、このシーンがあったから、観客としては納得出来たんじゃないかと思っちゃう。

夫は、別れたいと言い出されて本当にうろたえ、それまではないがしろにしていたチビのことを真剣に考えだす。でも妻は、この時にはなかば、覚悟している。死んでいるのかもしれないと。いい年だというのは本当だからと。ただ……ウチで、死なせてあげたかったと。
別れたいと言い出した真意を問いただされて、初恋だった自分の思いと、一度も言葉にしてもらえなかった、いわばウラミを口に出す。恋愛なのか見合いなのか、という、子供の前での問答は、妻にとっては本当に重要な問題だったのだ。

「田舎から出てきて、初めて好きになった人がいた。目も合わせられなかった。諦めて、最初の見合いで結婚しようと思った。そしてその見合いの席で顔を上げたら、その人が目の前にいた」

……これで、泣くなというのは、なかなか大変よ。
妻から言われた、私のこと好きだった?という台詞に、この時には夫は答えなかった(最終的には言ったけど)。そのあたりがね、昭和なのさ。言えよ、さっさと!!……ていうね。
見合いと言い張った夫に対して、妻は自分だけの片想いだと思っていた。なのにお互い初恋の両想いだったというこの奇跡のエンディング。……ひょっとしたら夜通し話込んで、手を重ね合ってこたつで眠ってしまった二人が、かすかな物音で夫の方が目が覚めた。チビが帰ってきたのだ。
エサのやり方も知らない夫が、妻に嫌われたくないばっかりに、山盛りにして縁側においていたカリカリにがっついていた。猫が戻ってきてくれたことにも、本当に安堵した。

ラストシーンは、チビを見つけた公園(というか、林というか……凄く、自然豊か)。それまで妻に言えなかった弱みを言う決心を、しかも笑顔で言う夫、にまたまた涙腺がゆるみながらも、私の心が持ってかれたのは、他にある。
ここで、子猫を見つける。夫は、自分たちの年齢ではこの子の面倒を見切れないから、他に助けを求めよう、と言う。妻はそれに納得する……なんつーか、道徳的なちゃんとした幕切れなのだが。最近のペット飼育事情を鑑みたらね、本当にそうなのだが……。

わーん、そこは甘く見てよ。だって彼らには三人も子供がいるし、今回お世話になったペット探偵もいるし、いざという時、頼りになるコネクションはあるじゃん!!……もう飼えない年齢だと切って捨てられるのは……責任という点ではあるのは判ってるけど、ツラい、ツラ過ぎる。
勿論、私の愛猫、のえちの後なんて、考えたことも、ないんだけどさ!!(想像しただけで、泣いちゃうよ……)★★★★☆


破天荒ボクサー
2018年 115分 日本 カラー
監督:武田倫和 脚本:
撮影:武田倫和 岡崎まゆみ 音楽:安西崇 榮百々代
出演:山口賢一 高山勝成

2019/7/14/日 劇場(新宿K's cinema)
大阪弁がかなり聞き取りづらかったし、来場していた監督さんが熱を込めて語ってて、判りやすく説明してありますと勧めていたパンフレットにも心惹かれたのだが、ヤハリ映画はその作品でのみ接するという想いがあるので……(決して200円(安い!)をケチった訳ではない!!)。
でもさぁ、全く無知であまり興味もない私のようなシロートですら、ボクシングにやたら団体があってそれぞれで世界王者になれたり、その試合の組み方が判りづらく、時にわざと弱い相手を選んでいるとか言われたり、なんでそんなことになるのかなあ、と凄く不思議だったからさ。
ボクシングファンだったらきっと、もっとずっと前からこの不可解さに気づいていない筈はなく、私が知らないだけで、この山口選手以外にも口に出している人は大勢いるんじゃないかなーと思うが、それを行動に移したのが、彼だけであった、ということなのだろうと思う。

それがどれだけ、難しいことか。水面下でこそこそと言うだけなら、誰でもとは言わんが出来ること。それこそ現役選手だと難しかろう。あるいはただ、黙殺されるだけなのか。
しかし、本当に不思議じゃないか。世界中に団体があって、その中で日本が承認している団体、という言い方も??で、ということはこの団体にトライしたいと思ってもJBCに在籍している立場ではどうにもならない。かといってJBCに在籍していなければ日本国内でプロボクサーとして認められない。

なのに、試合の組まれ方は不透明そのもので、デビューから11連勝もしているのに、その後のステップアップであろう日本タイトルマッチは待てどくらせど組まれない。
なんとなく予想はしていたけれど、こんなにあいまいな業界なのかと本当にビックリする。“デビューから11連勝”っていうところまでは、透明性があったのかもしれない。いや、すいません、詳しいこと判らんまま言ってるけど。

でも一般的に考えるスポーツの世界って、そもそも頂点の大会は一つで、その枝分かれみたいに国から下の地域戦があって、勝ち上がっていく、という、まさにシンプルに判りやすい形じゃない?てゆーか、そうでなければならないと思うが、それはアマチュアスポーツの考え方、なのだろうか。
そういえば、山口選手が日本のボクシングの現状を相撲の世界になぞらえていて、ああなるほどと思ったのだった。相撲における部屋制度が、ボクシングにおけるジム制度。所属していなければ、勝負にすら出られない。判りやすい。
ただ……力士ならば、デビューしてしまえば後はもう、実力次第だ。勝敗でシンプルに番付が上がったり下がったりする。なのにボクサーさんは試合が組まれないと先に進めない。しかもそれが、ジムの会長の一存、言ってしまえば選手の好き嫌いで決められることもあるのだという。

衝撃、である。でも……めっちゃ、腑に落ちる。トーナメントでもなければ、最終的にトップの大会のタイトルを目指すんでもない、ボクシングという世界が、急に腑に落ちた。
そして腑に落ちたと同時に……謎だらけだ。なぜこんなに世界中に団体が乱立していて、なのに全てにおいて世界チャンピオンで、試合の組まれ方が日本においてはジムに任され、外国においては個人の裁量に任され、だったら一体、真のチャンピオンって、どうやって生まれるの??と。

で、そこに切り込んだのが本作であり、来場した監督さんが言うとおり、ボクシング中継にめっちゃ癒着しているマスコミ、ことにテレビ局なんぞは、ぜぇったいに、本作をとりあげることなぞ不可能だろう。
もう公開からそれなりに時間が経ち、その前に国際的な映画祭でも評価を得ているのに監督さんがわざわざそう言うってことは、ザ・黙殺されている、っていうことなのだろう。
恐るべし、恐るべし、である。そのこと自体が、作品が切り込んでいる事実を認めているようなものなのに……。

しかしてね、とにかく主人公の、このまさにタイトルロールの、破天荒ボクサー、山口氏のチャーミングさこそが物語を引っ張るんである。彼は日本国内では、確かにはみ出し者なのだろうという気がする。海外での武者修行がこれほど軽やかに似合う人もいない気がする。
勿論、試合が組まれない憤り、納得のいかない歯がゆさからJBCを脱退するに至るまでには、その年数を考えれば相当の葛藤はあっただろうとは思うけれど、闘えることの喜びに海外に飛んでった彼を、まあ想像するだけではあるんだけれど、水を得た魚って感じだったんじゃないかなあと思う。

別にそれで、それだけで、良かったんじゃないか。闘いたい。とにかく試合がしたい。それなら国内で認められなくても全然問題ない。
同じくJBCを脱退した盟友をサポートして、IBFの世界チャンピオンに押し出す。当時JBC非公認だったIBF、そしてWBOのアジア太平洋チャンピオンに自らなり、その二団体が後にJBCに承認されることとなる、のは当然山口氏の挑戦が功を奏したに違いないのに、いや……。

むしろそれをJBC側は苦々しく思っていたのか。それ以降も山口氏への不当な冷遇は。これほどまでの実績があっても、世界タイトルは取れてない。挑戦に挑戦を重ねて無理な階級上げでトライして撃沈したこともあった。
でもその実績は買われて、外側からのオファーが来た。そう、山口氏の実績を買われてのことだったのに、なのに、日本での試合にはJBCへの復帰が必要と言われ、その条件には無理難題、というか、頭を押さえつけて、子飼いになれ、と言わんばかりの条件を無機質なFAXで送られる。ああ日本、である。

選手であるうちは、ジムの経営なぞするな、選手の育成なぞするな。元いたジムに所属して選手に専念しろ。えーっ、と思う。なんつーか……プロなのにね、と思う。
これってアマチュア選手の感覚だよね。力士を引き合いに出したけど、まあプロ力士なんていないけど、アマチュアとして抱えられているということだよね。他のスポーツでもそうだよね。

それこそプロと名がつく格闘技、プロレスラーなら、武者修行で自由に海外に打って出て、名声を得て帰ってきたり、してる。プロレスラーと一緒にするなと怒るんだろうか。あんなのは見世物、ショーだからボクシングとは違うと。
でもなんだか、なんだかどころかとっても似てる気がしたんだもの。それこそシロート目にはさ。
世界中にいくつもの団体があって、それぞれにチャンピオンが存在して、海外からの挑戦もオッケーで、少なくともファン側からしたら、スポーツエンタテインメントとしての側面は、変わらないんじゃないのと思ったのだ。

それこそ山口氏が、そうしたエンタテインメント性を大事にするタイプの選手だから、余計にそう思ったのかもしれない。オオサカ人ということもあるだろうが、そうした信念を持っていなければそもそもこんながっつり密着するドキュメンタリーで、練習から交渉から試合からプライベートから何から何まで、見せ切ることなぞ出来るはずがない。
それだけ製作スタッフを信頼していたということだろうが……確かに確かにそれは、すんごく重要。この監督さんは初見なのだけれど、経歴を拝見すればガッツリドキュメンタリー畑を迷うことなく歩んでこられたお方で、信頼感タップリである(機会があれば過去作も観たい)。何より、被写体が監督さんを信頼することこそが、ドキュメンタリーの基本であり、成功の必須であるのは間違いなく……。

そうそう、来場されていた監督さんが、最後の試合に山口氏が負けてしまって「オチがついたやろ」と気丈に笑かしてくれたあの台詞が、この大事な大事な一戦に至るまでの、この密着におけるお互いの信頼関係の中での、落としどころをつけたいという、共有するゴールを求めていたそれだったのだ、というのを明かしてくれて、ああ、これぞドキュメンタリー、その奇跡だ、という想いを持ったのであった。
この最後の試合をめぐる攻防は本当に、本作において最重要、言ってしまえばJBCの横暴さを、呼びつけられての会談を音声だけ許されているという点でも、しかしてその音声だけで充分に判っちゃう横暴さっていうのがさ。

まさに恫喝なのよ。脅迫なのよ。それを、普通に考えれば、とか、常識ではみたいな言い方を交えて、いかにも山口氏側がワガママで常識はずれなことをしているみたいな言い方で迫る。
でもその中で、後に山口氏が語るように、「井岡さんは選手だったから」と、井岡氏だけが、他のオッサンがたと違って、糾弾する言い方をしない。もうチケットもさばいているんだしね、と、この場をとりあえずとりなすような、言い方をする。ここで使われている井岡氏の音声はここだけだったと思う。多分(汗)。

それだけ、オエラがたには選手経験者がいないのだ、つまり、利益としてだけ考えていて、それこそジムの会長なんかもそういう人たちが多くいて、試合のマッチングも選手が強いかどうかじゃなくて……好き嫌いってことかもしれないんだ……と思うと、本当にゾッとして。
山口氏が選手として、本当にボクシングが好きで、ただただ強い相手と闘いたいし、タイトルを取りたいし、っていう、それって当然でシンプルな願いなのに、そんなことがフツーに叶えられない、実力があるのに、っていうことをさ、まざまざとさ……。

山口氏は、本当にフットワークが軽く、なのにメッチャ信念がかたく、義理がたく、年齢層関係なく彼の周りには人が集まる。母校のボクシング部を指導していたりするのだが、彼自身の在学時代にはボクシング部はなく、野球部でコワい先生にしごかれていた、その先生からの依頼というのも面白い。
この先生とはまるで親友みたいに対等で、そういう感覚は教えている生徒たちとの関係にもつながれていくのが素敵である。
ボクシングの試合が元でか、突然倒れて救急車で運ばれてしまった男の子にめちゃくちゃ心配して見舞いに駆けつける山口氏の、その子の方がむしろあっけらかんとしていて、山口氏の方がむしろ泣きそうになりながら、絶対大丈夫、大丈夫と励ましてるんだか、自分に言い聞かせてるんだかっていう場面とか、メッチャあらわしてんなー、と思った。

こういう人に、これから先を任さなければいけないんじゃないの。いや、私は全然判らんよ、判らんけどさ……確かに彼は、行動力はあるけれど不器用なのかもしれない。いわゆる日本的な根回しとかコネとかは出来ないから窮地に立たされるのかも。
でもそれこそが、悪しき慣習だ。彼を支持する人がたくさんいて、地方の公民館みたいな試合にまでJBCからクレームつけられて脅されても、たくさんの、本当にたくさんの観客がつめかけた。
そこで彼は負けてしまったけれど、対戦した相手とボクシング業界に確かな未来と、そして観客や、映画となって私みたいな無知なヤツラに大きな足跡を残した、のだ。★★★★★


母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。
2019年 108分 日本 カラー
監督:大森立嗣 脚本:大森立嗣
撮影:槇憲治 音楽:大友良英
出演:安田顕 倍賞美津子 松下奈緒 村上淳 石橋蓮司

2019/2/24/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
まだデビューも決まっていない地方の駆け出しの漫画家で、親御さんが亡くなって……という展開に、微妙にデジャヴを感じたのは、「おのぼり物語」を思い出したからだったが、あれは亡くしたのがお父さんであり、あくまで漫画家になるために上京した主人公自身の物語だったから、違うんだけど。
でもそれこそ「おのぼり物語」もお父さんの癌が発覚してから亡くなるまでの展開になると、すっかりそっちに引きずられて、主人公自身の成長物語がどっか行っちゃうというウラミがなくもなかった(大好きな作品で、その年の私のベストワンなんだけどね!)。

本作はもうずっぱり、癌が発覚した母親とべったりの主人公の、もうそのショックの日々オンリーといった趣で、そう……息子が父を亡くす「おのぼり物語」もメッチャ涙涙ではあったが、母と息子って、やっぱり、すんごい、特別なんだなぁと改めて……。
正直言うとさ、もうこういう話はいいよ、っていう気持もあるのだ。それこそ劇中、サトシの父親が言うように順番なのだし、癌というのは今や二人に一人はかかる病気なのだから。

だからこそ早期発見ならほぼ完治することだって常識なのだから、その点で言えばこのお母さんの癌の発見が遅かったことは悲しいことだけれど、それを早期発見の啓発として描いている訳じゃなく、これまで散々、見飽きるほどに作られ続けてきた、癌にかかって死にゆく物語、で家族愛とか、感動とか、そういうことが、またか……という感じがしたからさぁ。
そんなことを言ってはいけないのかもしれない。これは実話なのだというし、家族それぞれにとって、オンリーワンの物語なのだということは判っちゃいるが、正直、もうこういう話はいいよ……という気持がしたのは、事実かなぁ。

ヤスケンが大森監督の作品に、しかも主演で迎えられるというのは嬉しかった。いい年こいて実家暮らしで、塾講師はしているものの、こそこそと漫画を描いては、その夢が諦めきれない、泣き虫で甘えん坊な気質は子供の頃から変わらないサトシ。
二人兄弟なのだが、お兄ちゃんはもう結婚して家を出ているというのがあるにしても、ちょっと不自然なぐらい、家族の物語に加担してこない。お母さんが亡くなった後、サトシに任せっきりだったことを後悔している、とアツく語るムラジュンはステキだが、お兄ちゃん、という言葉すら出てこないので、冒頭、もうお母さんの遺骨を拾うシーンでお兄ちゃんが登場しているにもかかわらず、サトシの一人っ子感がどうしても抜けないんである。

いやさ、途中、白血病になってしまったサトシがお兄ちゃんから骨髄をもらうというくだりがあるんだから判ってはいたんだけど、そんな大事な時ですら、お兄ちゃん、登場しないんだもの。お母さんとサトシのベッタリ二人きりなんだもの。
それで言ったらお父さんもほとんど出てこない。母子家庭なんじゃないかと思うぐらいである。もちろんそれは、確信犯的なのだろうとは思う。つまりサトシと母親の愛の物語なのだ。嫁さんにとってはたまらんと思うけどねえ。

嫁さんは、後半になって出てくる。サトシの人生二人目の彼女だというモノローグで、脳に癌が転移して、もう語彙も混濁している母親が、それでも、“祝言”(古い言い方だけど、彼女の言いたい雰囲気はそんな感じだ)をみんなを集めてしたいと、そういうやり方で、自分からは積極的に出られない息子を後押しする形で結婚に至る、松下奈緒扮する真里ちゃんである。
ステージ4の癌を宣告されてもまだまだ元気で、庭の草むしりなんかガンガンやっちゃう時期から出入りして、お母さんと女子同士な大の仲良しである。まだ結婚はしていないにしても、理想的な嫁姑関係とは見えるが、まぁなんつーか、ちょっと出来すぎかなぁという気もしなくもない。

サトシはお母さんが大好きで、だから長生きしてほしくて、ステージ4を宣告されても絶対に大丈夫だと、かつて自分が白血病にかかった時、絶対に大丈夫だとお母さんから言われ、まだ子供だったから半ば訳が判らないままにそれを受け入れていた自分を思い出して、今度こそ自分の番だと、自らを奮い立たす。
アガリスクだなんだと言い出さなかったのは賢明だが、野菜ジュースが免疫力を高めるとか言って飲むのを強要するあたりから、確かに雲行きはアヤしい。
写真を整理したり、庭を整えたり、「私がいなくなったら」という具体的な言葉にも出して身辺を整理しだす母親にサトシは前向きじゃないと怒り、泣きだすが、そんなサトシにこそ真里ちゃんは怒るんである。

お母さんの気持ちを判っていないと。自分の気持ちを押し付けていると。辛いのはお母さんなのにと。大好きなんでしょ?その気持ちを伝えなきゃ!!と。
うーん、うーん……感動ポイントなのは判るが、出来すぎな嫁(まだだけど)。確かにね、こういう気持を想像できるっていうのは、同じ女同士というのもあるし、なんたって好き合ってる相手の母親だから大切にしたいというのもあるから判らなくはないが、なんていうのかなぁ……理想のヨメが息子の元に来た、だから愛するオフクロは安心して天国に行けた、みたいな、それぐらい、あまりにも真里ちゃんは完璧すぎるんだもの。

私だったら、さぁ(と、結婚もしてない自分を引き合いに出すのは間違っているのは重々承知なのだが……)、そもそもこんなに彼氏のお母さんに入れ込めないよ……。
いやつまりその、それだけお母さんが魅力的な可愛い人だったというキャラではあるのだが、それはサトシの教え子のイチゴ農家の母親が「とっても可愛い人でした」と裏打ちするエピソードもあるのだが、でもさ、それって、それって……メッチャ母親礼賛するためだけの、描写じゃない?つまりは、真里ちゃんだってそのために存在する訳よ。サトシの恋人としてじゃなく。

それはこの物語の大オチ、お母さんがサトシの精子を冷凍保存して医療機関に保管していてくれた、というネタにおいても感じるところなんである。それをお母さんは未来のヨメと見込んだ真里ちゃんに託すのだが、これは相当なプレッシャーだし、お母さんはつまりさ……愛する息子の子供を残したかったという訳でしょ。勿論、真里ちゃんという素晴らしい彼女を連れてきてくれたことで、二人の間の孫を夢想することはあったにしても、そもそもの動機はそこでしょ。
息子の将来を案じるというよりは、そこに母親の息子への偏愛……いやそんなことを言ってはいけない……純愛、を感じずにはいられないのだ。愛する息子の分身を見たいと。あるいは、愛する息子の血がつながらないことが耐えられないと。……私、フェミニズム野郎過ぎかなあ??

つまりはね、私がどーしても引っかかっているのは、原作者さん自身の、男の子の、息子としての、お母さんへの愛が他の登場人物をはじめ、すべてを形作っちゃってること、なんだよね。
例えば、仕事で帰りが遅い息子をいつまでも起きて待っているお母さんの描写しかり、そしてお土産のイチゴを一緒に食べて幸せそうにしている描写しかり。そこには一緒に住んでいる筈のお父さんの存在は完全に消し去られ、家を出ているにしてもお兄ちゃんもしかりで、もう完全に母子ラブの世界なのだ。

いや、さっきも言ったけど、あえてそうしているのだろうとも思うのだが、これほどまでに、甘えん坊息子のフィルターにかけられてすべての登場人物が構築されている物語を見たことがなかったから、なんかもう、正直どうしていいか判らなくてさぁ(爆)。
眉毛の上でぱっつんの、それこそ漫画みたいなヤスケンの息子描写を、マンガチックととらえればいいのか、それともマジなのか、断じきれなくて。

白血病=不妊、ということなの??いやぁ……私は無知でアレなんだけど、友人がそれこそ同じように子供の頃に白血病になり、同じようにきょうだいから骨髄移植を経て、大人になって結婚して、妊娠し、結婚したのを見ていたから、まぁこっちは女の子だけれど。
でも詳しく聞いてなかったからなぁ、彼女ももしかして卵子を保存していたのかも??いろんなケースがあるとは思うが、確かに病気になってしまうとその治療だけで頭がいっぱいになってしまって、そこまでは考えが及ばないだろう。

日本の医療現場でも、そこまでのアドヴァイスは、現代でもなかなかされていないようだし。そういう啓発が行えたという意味では、本作はとても意義のあることだと思う。これを、さっすが俺のおふくろ、最高の置き土産だぜ!!とただのカンドー物語にするんじゃなくてね。
だって、本当に、順番なのだから。最初にお父さんが言ったのに、お父さん=石橋蓮司が一番ショックうけてるんだもんなぁ。でも、可愛かったけど。

癌でガーンとか、転移を移転と言って「引っ越しみたいだね」とつぶやいたりとか、予告編ではもっと笑える感じだったのだが、だからこそ期待もしたのだが、やっぱり病気モノは、どうしても引きずられちゃうね。
彼の漫画家人生が全然クローズアップされなかったのも残念だった。そもそもの、彼自身の大事なアイデンティティの筈なのに、それもまた“大好きなおふくろ”の死にかき消されてしまうのだ。これじゃ、彼が漫画家を目指してるとか、別にいらない設定なんじゃないのと思うぐらい(爆)。

だって漫画家への道って凄く大変な筈なのに、その苦悩も、そもそもどんな漫画を描いてるかも判然としないまま、しかも「親世代に判ってもらうとは思ってない」てなプライドがある筈なのに、全然判んないんだもん。
……やっぱり「おのぼり物語」を思い出しちゃうよ。中盤以降はお父さんの死に引きずられてしまったけれど、駆け出し漫画家の苦悩がきちんと、面白く、描かれていたもんなぁ。

しかも、タイトルとなってる遺骨を食べたいと思った、という明瞭な動機や気持ちの機微もいまいち伝わってこなかったし。まぁつまりは、私が死を感動ネタにする映画が、もうイヤだな、と思っちゃうってことに終始したかな。★★★☆☆


浜辺のゲーム
2019年 77分 日本・タイ・マレーシア・韓国 カラー
監督:夏都愛未 脚本:夏都愛未
撮影:戸田義久 音楽:
出演:堀春菜 カトウシンスケ 福島珠理 大塚菜々穂 ドン・サロン 田中シェン 永純怜 ク・ヒョンミン 李多韻 神原健太朗 飯島珠奈 RICO 杉野希妃 エドモンド・ヨウ

2019/5/4/土 劇場(新宿K's cinema)
本当に小さな映画らしく、公式はツイッターになっているので、キャスト紹介や人物相関図が見たかったこちとらはちーと慌てる。
だって数組の人間関係が一つの別荘の中にすれ違い折り重なる形で、重層的に作られている作品なんだもの。あー、役名とか間違えそう。間違ったらゴメン(爆)。

細かくタイトルのつけられたチャプターごとに分かれていて、一見オムニバスのようにも見えるが、つながり、重なり、流れていく。あのチャプターはフランス語のような?
劇中、三人のうちの一人の女の子が古い海外の映画雑誌を見つけて、ドヌーブにキャーキャー言っているシーンが出てくることもあるけれど、なんとなく、この構成といいライトな男女の会話の感じといい、小粋なフランス映画っぽい、と思えなくもない。なんつって、フランス映画なんて最後に観たの、何年前って感じだけど(爆)。

何組かの人間関係が出てくるけれど、メインは女の子三人組。どうやら同じ大学らしい。いや、一人は違うのかもしれない。二人は同じ大学で、同じゼミで、一見して親友、という趣なのだが、その思いのバランスが、とれていない。
さやかは唯に対し、恋愛に近い感情を抱いている(恋愛感情かどうか、ということに迷いを感じている)が、そんなさやかの気持ちを重く感じているから、唯はこの場に恐らく昔からの友達の桃子を呼んだという図式なのかもしれない。

しかし、冒頭はぜんっぜん違う方向からのアプローチである。からっぽのプールに身ぐるみはがされた、と言った感じの中年男が大の字になって寝ている。まさに白昼、白っぽい陽光がしらじらしく彼を照らしている。
慌てた彼は、家の中に入っていく。見知らぬ男がぱんついっちょになっていることに、出てきた女性が驚き、不審がる。彼曰く、飲み会で居合わせた、見知らぬ女性、ミワコさんにつれられて、この“別荘”に来たんだという。

財布がなくなっている。この別荘を任されているらしい女性が不安がって呼んできたのは、お国訛りになってる日本語が妙に可愛いタイの青年である。
本当に、彼が風貌はもっさりしているんだけれど妙に可愛くて、この別荘に入れ代わり立ち代わり現れる人物に対して心の中でこっそり形容して、静かに掃除とかしているのが、なんともキュートなんである。

この別荘にやってくる人たちは皆一様に、ミワコさんから紹介されたと言ってくるんである。一体何者なのか、結局姿も現さないし、最後まで判らない。
唯一、この別荘にレストランでの演奏の仕事を得て泊まりに来た男女三人組は、メンバーの一人がミワコさんであるらしく、連絡が取れないことに苛立っている。結局連絡もとれなくて、レストランも閉まっているし、私たち、騙されたんじゃない?もう、帰ろ、帰ろ!!とかいう展開になる。
一体、ミワコさんの目的というか、そもそも正体はなんなん、という気持になる。姿を見せないのにキーマンというのは、「桐島、部活やめるってよ」を思い出させる。正直言うと、こーゆー思わせぶりな設定は好きじゃない。なんかいかにも、この脚本上手いでしょ、とか言いたげな感じなんだもん。

しかしなんといっても魅力的なのは、この女子三人のリアリティである。一見したところの会話の女子っぽさ、緩慢に伸ばす発音のいわゆる女子的可愛らしさの自己演出は、この場には男子がいないのにもう準備している、と思わせるような苦々しさがあり、それが実に巧妙に、重なり合い、すれ違う他の人間関係と化学変化を起こしていくんである。

そもそもこの三人の人間関係が、既に一触即発である。一見して、さやかはちょっとやぼったい女の子である。さやかは唯と二人きりだと思っていたのに桃子という知らない子が現れて、明らかに戸惑っている、というか、不満げである。
唯は恐らく、桃子に対して、このめんどくさいさやかから逃れたくて助けを求めているのに、桃子は、別にいい子やん、、というさっぱりしたスタンスである。

自由時間の行動をめぐって小さな衝突を起こし、友情関係、というか、この旅でのくっつき関係が刻々と変化していくのが面白い。めんどくさい女、がさやかから唯に移り、そして第三者として客観的立場に見えたさっぱり桃子が、さっぱりもさっぱり、「そういう感じになったから」とこの別荘で出会った男と行きずりのセックスをしちゃうことで、ラストは大爆発になる。
価値観をぶつけ合う、というか、自分の価値観をなすりつけ合う女子という生き物のナマな生きざまを、決して汚らしくなく、可愛らしさを残しつつ存分に見せてくれる。

そういう意味で言えば、関西弁がそのさっぱり度を増していた桃子が、キーマンだったのかもしれない。他の人間関係と橋渡しをするという点でも。彼女が「そういう感じになって」ヤっちゃった相手は、ミワコさんからレストランの演奏の仕事を聞かされて訪れた三人組のうちの一人である。
バンドメンバーの女たちを食いまくったらしく、女子二人はその残骸(爆)で、この男、秋宏を罵倒しまくる。確かに見た目、ちょいと色男であり、さやかたちも女子トークで彼のことをこき下ろしながらも、そのハンサムさは認めるところ、なんである。

さやかだけが、秋宏と個人的に話をする。つまり、友情が壊れかけて、恋情にも悩みを抱えている時にである。さやかは唯に恋をしているから、純粋に秋宏のことを優しい人だと思う。
秋宏が、このやぼくさい女子大生に色目を使おうと思っているなんて思いもせず、である。結果的に、そんな事態にすらならないのは、他の恋愛関係に突発的に巻き込まれるから、なんである。

もう一組は、韓国からの留学生。男女二人だけれど、これから留学したいと思って旅行に来たヨナちゃんを狙っている先輩ミンジュンという図式である。
ミンジュン君は冒頭ぱんついっちょになってた教授のゼミに入っていて、さやかと唯はゼミ仲間である(多分。唯はそう言ってたけど、さやかもそうだと思うが……)。

彼もまた、教授や唯たちが参加していた飲み会でミワコさんから紹介を受けて、この別荘にやってきたクチなんである。あのチャーミングなタイ青年が形容するところの、黒髪でやわらかな雰囲気のヨナちゃんに、明らかにミンジュン君は恋をしていて狼藉を働こうとしていて(爆)、そのよこしまさがあまりにも明らかだからヨナちゃんは警戒して、つまりは修羅場になる訳。
なかなかに国際的な展開だが、そもそもやたらチョイ役で 杉野希妃嬢が入ってて(この教授の妻役)、彼女のプロデュース作品かと思いきやそうでもなく、えーっ、でも絶対、関わってるよねーっ、と思っちゃう。彼女がこんなチョイ役だけで済む訳ないもん。

、彼女が深いかかわりを持つ韓国映画界とのコネクションかな。だからミンジュン青年とヨナちゃんというキャラの参入なのかな。
一本のマッコリだけで本当に酔っぱらったのか、ヤる気満々のおまぬけ君、ミンジュンと、警戒しまくって、恐らく酔っぱらったフリで釣ったヨナちゃんの展開はなかなか面白かった。

今の日本の社会情勢、新卒の方が就職において有利だとか、どう思いますかね、なんて話しかけてくるアヤしい男がいたりする。さやかは気味悪げに避けるものの、秋宏はあっけらかんと彼の会話に乗っかって盛り上がる。
どこまでの意図があるかは判らないけれど……妙に、社会的な意識を感じる。妙に、だなんて、ヘンな言い方だけど。

本作は確かにね、今の閉塞的な日本社会に対する色んな、攻撃的な意識を感じるのさ。今まで経験なかったけれどもしかしたら私はレズビアンなのかもしれない、とか、セックスは単純に楽しんではいけないのか、特に女性の側の意識が保守的過ぎるのではないか、とか、そういう、ね。
そういう流れの上に、あのアヤしい男がいたんだとは思うけれど、この物語の人間関係に絡んでこないし、ちょっと……社会派を気取ったような形に見えちゃった感は、あったかなぁ。だってさ、それ以外はとても小粋で、すれ違い、重なり合う様が絶妙で、良かったからさあ。

タイ人青年は、唯に恋をしてしまう。それというのも、唯とトイレでバッティングして、我慢できなくなった唯がおもらししちゃって、それを隠そうとしたのか、とっさに彼にチュッとやってトイレから追い出したからなんである。
このシークエンスは若干の無理が感じられたが、どうなんだろう……。さやかと桃子と三人で話してて、ちょっとトイレ行ってくるネ、といって席を立つだけじゃ、あんなに切羽詰まっているなんてちょっとヘンじゃないかなぁ。二人の友人にその事実を必死に隠す尺もかなりとってて、これはコメディ部分として勝負に出ているのだろうが、なんかいまひとつ……。

それよりも、この間に、唯の信頼を勝ちとっているとして、さやかが嫉妬の感情うずまいていた桃子と、なんだか深い話を交わして仲良くなっちゃう、というのが面白く、両てんびんにかけているような唯こそが、実は一番、つまんねー女だったんじゃないかと思えてきて、面白い。
セックスに対して奔放な発言をしていた割には、結果的には凄く保守的だしね。いや、それは別に悪いことじゃないんだろうが……。

個人的には、オシャレ女子たちにおいてきぼりにされ、一人行動に寂しさをかみしめ、優しくされた男子を純粋に好ましく思うマジメでカタいさやかちゃんが、共感が持てた。
アンビバレンツな意味合いも込めてね。開放的な女子に、憧れちゃうんだよね。★★★☆☆


パラダイス・ネクスト/亡命之途
2019年 100分 日本=台湾 カラー
監督:半野喜弘 脚本:半野喜弘 余為? 游善鈞
撮影:池田直矢 音楽:半野喜弘 坂本龍一
出演:妻夫木聡 豊川悦司 ニッキー・シエ カイザー・チュアン マイケル・ホァン 大鷹明良

2019/8/3/土 劇場(新宿武蔵野館)
この初見の監督さんが、映画監督というよりもまず音楽家である、そちらのキャリアこそがプロである、ということを聞くと不思議となるほどと思ってしまう。
というのも、なんだかなんとも話の意味が判らんなー、と思ったまんま終わってしまったから。謎というか、人間関係というか、人となりというか、出会いとか付き合いとか組織同士とか、そういうことが、なんとなくの雰囲気で流れて行ってしまう感じで。

えーとつまり、どーゆー話だったんだろう。なんで彼女は死んでしまった女の子にそっくりだったんだろう、なんで、なんで……とツッコミまでもいかない、本当に知りたい欲求に駆られる要素が次々と思い浮かんじゃって。
音楽家さんで、本作の脚本も彼自身が自分で書いていることを考えると、音楽のような美しさを映画で表現したいと思う人なのかもしれないと、物語の筋とか、構成とかじゃなくて、キャストをこの風景の中に配置して、この色合いの中を車を走らせて、みたいなことをやりたかったんじゃないかと。

非現実的な、草原にぽつんと立っている豪奢な洋館に一人暮らす、死んだ女の子にソックリな美少女とか、そこに転がり込むチンピラのような男二人とか、この奇妙な三人で水色にぬりたくられた武骨な車であてどないバカンスに出かけるとか、そう、なんか何もかもが、音楽家のセンスと思えば妙に納得してしまう。……なんかムリクリ納得しようとしてる気もするけど(爆)。

でも、本作は自身だけが音楽をやっていないんだね。監督さん自身も音楽のクレジットに名を連ねてはいるけど、あの御大、坂本龍一を音楽担当として迎えている。具体的にどの部分かとかはよく判らないが、なーんとなく、無駄に壮大だったり甘美だったりする(爆)感じは教授かなー、と思ったりする。いや、監督さんの方だったりして(爆爆)。
先述した、三人でのバカンス、もうわっかりやすく、車の窓から乗り出してイエーイ、みたいな旅行きを、哀し気で甘美な音楽で送り出すのが、結構ムズムズだったからさ(爆)。なんつーか、この時点でこの三人で旅行くのとか思ったし……てゆーか!!

うーむ、自分が何を言いたいのか判らないから整理して、物語の最初から行こう。物語の最初から、とか言いつつ、先述したとおり、結局どーゆーことだったのか、正直よく判らんかったのだった。
主演は妻夫木君とトヨエツ氏。意外なカップリングで、豪華すぎる顔合わせである。それが、映画監督としてはかなり新鮮なお名前であるお人の元に呼び寄せられたというのも、それこそ新鮮である。

台湾を舞台にしたこの国際的企画は、どのように進行したんだろうと興味津々である。彼自身が、台湾の映画作家と数多く仕事をしているということが当然、その実現に向かわせたんだろうと想像しても、でもやっぱり、その監督さんが、少なくとも映画監督としてのキャリアはあまりない人だというのはオドロキである。
近年、「あゝ、荒野」「新聞記者」など、それまでは中国語圏なら若干あったコラボから一歩進んで、韓国の才能との企画に大きな成功を見たりしていたが、台湾というのは、親日国家であるけれども意外に見ていない気がしたなあと思ったりする。

ぶっきー演じる牧野は、彼自身の人懐こいキャラクターをそのまんま反映したような男である。
もはや冒頭、人があまた流血で死んでいる場面から命からがら逃げだしているんだから、彼が抱えた秘密の重さ暗さは想像に難くないのだが、彼がまっすぐに目指す島と出会ってからも、寡黙すぎる島にシカトよろしい態度をとられても、殺されかけても、ヘラヘラと笑いながら、「俺を殺したら何にも判んないよ」といわば横柄な態度を崩さない。

島を演じるのがトヨエツ氏。これまた、彼そのもののような、ほんっとうに、いっっさい、口を開く気がないんじゃないかというような、寡黙な男である。あまりにも彼が喋らないので、そのせいで人間関係や物語の筋がさっぱりわかんないじゃないの!!とか叫びたくなるぐらいである(爆)。
結果的に考えれば、島が付き合っていた彼女とゆーのが、彼が逃れてきた台湾で出会ったシャオエンという女の子にソックリであり、島の彼女を毒殺したのが牧野であり、牧野はどうやら、てゆーか、優しく考えれば(爆)、単なるパーティーのスタッフだったのに暗殺事件に巻き込まれ、どうやら俺、殺しちまった、しかもそのせいで、俺、殺される、という展開で、台湾まで舞台を移してまでそーゆーことになったらしい、のだが。

なぜ台湾なのか。いやそもそもパーティーが台湾だったのかな。殺された彼女はそーいやー、親御さんが娘はなぜ死んだのかと執拗に島に迫って、それが島のトラウマになっていたから、台湾だったんだろうか。でもそれじゃ、牧野が台湾にまるで不案内なことの説明がつかないし……。
死んじゃった女の子にソックリのシャオエンは、街角の飲み屋で親戚のおばさんを助けて働いてるアルバイトの女の子に過ぎない。なのになぜその死んじゃった女の子にソックリなのか。それは単なる偶然なのか。せめてそこだけでも明らかにしてほしかった。

牧野は、それは自分の罪から逃れられないことなんだと悟ったとか言ってたけど、そもそも牧野がなぜ、この殺しを請け負ったのかさえ判らないし。牧野がそもそもヤクザ組織にいたのかどうかさえ、判然としないというか……なんか素人臭くて、金でつって仕事をさせて、その後消すつもりだったんじゃないかとも思うのだが、わっかんないんだよね。
島は牧野が突然自分の目の前に現れて当惑したし、その後、組織筋から牧野の写真を見せられて、この男を殺せと厳命される。
島の立ち位置も正直よく判らない。ヤクザだということは判るけれども、まず台湾に身を潜めているのが何故か判らない。島の彼女が殺されたことが原因だとは思うが、そもそも島の彼女がなぜ殺されたのかも、彼女が何者だったのかも、私がバカなのかなー、全然判らないんですけど、と思っちゃう。

死んだ女とソックリの女、というのはミステリーではよく出てくる。画的にも、それが魅力ある女であればあるほど、効果をそそる。実は死んでなかったとか、双子の姉妹だったとか、確かにそれぐらいしか決着のつけようはない。これだけ行動を共にして、夢の女だったという訳にもいかないし。
だからどうするのかなあと思ったのだ。斬新な理由があるのかもしれないとか、期待した。そもそも“死んだ女にソックリな女”という設定自体、かなり懐かしい感じがしたし。

それなのにまさかのスルー。ホントに他人の空似ということで済ませるつもりなのか!!島と牧野の逃避行でわざわざ寄っていくいわば食事処で、それを最初から、ここにはそういう場所がある、という風に見えていたし、だったら指示したヤクザ組織の陰謀なのかとも思ったり、それを島がどう思うのかとかも思ったり、でもでも、そんなことは結局、観客側の深読みか……。
てゆーか、死んでしまったシンルーという存在はもやもやと描写されてはいるけれどそのお顔はなかなか明らかにされないし、恐らくヤクザの娘であっただろう、島との交際が色んなしがらみを刺激して殺されたんだろう、というのは、優しい観客側の推測(爆)。

そうすると牧野はますます判らないんだよねー。ヤクザ側の人間だったのか、仕事をして消すだけの素人を雇ったのか……。こういう世界はメンが割れている。突然、屋台でメシを食っている島の元に馴れ馴れしく声をかけて来た牧野のことを島は知らなかった(このシーンは引きの長回しでやたら長くて、こーゆーシーン撮りたいっていう気持は判るが、しんどかった(爆))。
だったらその業界の人間じゃなかったということが考えられるんだけれど、でもこの時点でもう、パーティーも、台湾、なんだよね。でも牧野は台湾のことに全然詳しくないし、どうやって牧野がかんできたのか、全然判んないんだよなあ……。

そして、殺されたシンルーとそっくりさんのシャオエンが、恐らく単なる学生さんなのに、ご丁寧に日本にルーツがある、というか、日本語が喋れる。亡くなった父親が画家で、母親は今日本に住んでいるんだと。日本語が喋れるというこのルーツと、親が画家、彼女自身もその才能を引き継いでいる、というエピソードは、一体何の意味があったのか。意味があると、思うじゃん、フツーに!!このミステリアスな雰囲気とキャラ設定に、意味があるんだと、思うじゃん!!
……まさかの、ナッシングですか、まさかの……。ただ偶然にソックリで、ただ偶然に牧野と島が立ち寄った店で働いてて、ただ偶然に、彼女が何部屋もある豪奢な洋館に住んでて、ただ偶然に、彼女の雇い主であるおばが、泊めてあげればいいじゃない〜♪と言ったというの??まさか!!!

母親がなぜ日本で暮らしているのか、なぜ離れたのか、母親が日本で暮らしているというだけで、日本語が多少理解できる理由にはならないし、すべてが、この国際合作映画を成立させるためのテキトーな“音楽的”展開だったんじゃないかと思っちゃったりするのが正直な、ところかなあ。
シャオエンはなぜかこの二人の男に心を開く。なぜか、とか言ってゴメンね……それなりにそれをうながす交流描写は描かれるんだけど、ひたすら喋らない島が昭和の男みたいに、うるさいこと言うな、とか、女はタバコ吸うな、とかいうのを、無言で示すとか、牧野が犬みたいに人懐っこく、言ってしまえば馴れ馴れしく押しつけがましく、話しかけたり誘い出したり島との間を取り持とうとしたり、というのが、あー、ないない、あり得ないんですけど!!とか思っちゃう。

男たちより、シャオエンの気持ちが判らない。母親が日本に住んでいるというだけで、日本にルーツがある訳じゃない。この二人はどうやら危ない橋を渡っている。一緒にドライブに誘い出すだけの親密さを育てたとは、私は思わなかった。
なのに、彼らがウカツに目を離したすきに、牧野を狙っていた殺し屋に(とゆーことだよね?)、牧野には何の接触もなく殺されちゃう。なんじゃそりゃ!!と思う。

チケットを買いに行ったまま帰ってこない焦燥の中、やたら胸騒ぎの美しい夕暮れになるとか、帰って来たと思ったら車の中に満載の花に埋もれてシャオエンが息絶えてるとか、そりゃーそりゃー美しいが、それまでもめっちゃ意味不明だったから、あーもー、勘弁してよー、と思ってしまう。
そしてさ、牧野は自分のせいだと落ち込みまくり、まー、誰もが予想していた、シンルー毒殺に手を下したのは自分だと言い、ソックリなシャオエンが現れたのは自分の罪が許されないからだとか言い……島の銃弾を浴びたいような顔を見せながら、きっとちょっと好きになっていたかもしれないシャオエンの遺体を小舟に乗せ、荒海に共に乗って、消えゆく。

ほんっと、なんでシャオエンが殺されるのと思うし、そもそもシンルーが殺された経緯とか、日本と台湾の組織の関係とかも判らんし、ノワールな雰囲気を出したいのは判るけど、いくら何でもトヨエツ氏喋らな過ぎだし、どうしていいか判らない!と思ったのは、理解力に乏しい私だけかなあ……。
ぶっきーはめちゃくちゃ熱演だったのだが……もったいないぐらいに……(爆)。★☆☆☆☆


半世界
2019年 120分 日本 カラー
監督:阪本順治 脚本:阪本順治
撮影:儀間眞悟 音楽:安川午朗
出演:稲垣吾郎 長谷川博己 池脇千鶴 渋川清彦 竹内都子 杉田雷麟 菅原あき 牧口元美 信太昌之 堀部圭亮 小野武彦 石橋蓮司 岡本智礼 原田麻由 マレロ江口剣士朗 大浦彰希 大橋逸生 中津川巧 芳野史朗 上ノ茗真二 西沢智治 保科光志 井谷三枝子

2019/2/17/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
むしろ、SMAPを解散してからの方が、私的には触れる機会が多そうな新しい地図のお三方。稲垣氏なんて、俳優としての彼を見るのは初見に近いのではないだろうかと思うぐらい。いやきっと、覚えてないだけ(爆)。でも少なくとも、40歳という年齢をそのまま、どこか悲哀をもって演じる彼などは、当然初めてに違いないのだ。
他の二人はね、年齢相応の様々な役どころを見てきたから、なんていうか、そんなに驚かないというか。驚かない、というのもヘンだが。

しかしてこれは、阪本順治監督作品だったのだなぁ。彼が稲垣氏とタッグを組むというのも意外中の意外だった。
無論そこには商業的ななにがしかが働いているのだろうが、でもとても、地味な役だし、稲垣氏といえば誤解を恐れずに言えばちょっとスノッブなところのある、まぁだから面白い人ではあるけど、そういうところがあるからなぁ。

正直言うと、長谷川博己なり我が愛する渋川清彦なりこれまた我が愛する池脇千鶴嬢なりといった、“同級生”なメンメンがそろいもそろって芝居上手過ぎなので、主演の稲垣氏のそれがちょーっと……時々、ツラくなったり、しなくもない。
いや別に普通だとは思うんだけど(なんか失礼な言い方だな……)、同世代役者が上手過ぎるんだもん。やっぱりこれは、場数だよなぁと素直に思ったりする。
いや、予想よりは“山奥の炭焼き小屋で一人黙々と炭を焼いている40手前の男”がそれなりに現実感をもって演じられているとは思うんだけど、他の三人が上手過ぎるんだもん。

そのうちの一人、長谷川博己なんか、いかにも心の傷を負って帰ってきましたという、友人すらも拒絶する男の色気ダダ漏れだし、正直なんか中途半端な立ち位置に置かれる渋川氏だって、彼の持つ天性のチャーミングさを存分に生かした存在感だし。
稲垣氏の奥さん役のちーちゃんときたら、年相応の女の凄みをきちんと見せるのに、年相応には見えないかわゆさで、もうホントにこの人は凄いと思うしさ!うーむ、やっぱり役者って、凄いんだなぁ。

40手前って、そんなにキーポイントだったかなぁ、と自分を振り返ってみたりする。30前後の方が、全然大人になってない!という焦りはあったと思う。
そうか、焦ることが出来ていたんだ。本作の惹句のひとつに、“焦るには遅すぎる”というのがあった。そんなこともないと思うが、確かに焦ることができるっていうのは、未来に何か変わることができると無条件に信じられる若さの特権なのかもしれない。

三人は三様で、稲垣氏演じる絋は、父親の跡を継いだ炭焼き稼業に苦戦していて、それは父親への意地もあっての跡継ぎで、今多感真っただ中にいる長男に“興味と関心”を向ける余裕がなく、嫁さんの初乃とぶつかることしばしば。
しかし基本的にこの夫婦はラブラブで、ケンカした翌日はお弁当に桜でんぶでバカとか書いちゃう。可愛すぎるだろ。
ケンカの雰囲気だったのに奥さんから仕掛けて、そこに光彦が訪ねてきて「……これから、セックスなんだよ」と追い返すなんていう場面まであって、くっそー、ちーちゃんとチューとかしやがって、おめーぶっ殺す!(いやその)。

光彦っつーのは、我が愛する渋川清彦氏である。中古車販売店を営んでおり、色ボケ気味の父親が石橋蓮司だとゆーのが、なんとゆーか、確かに共通のDNAを持ってる気がする(爆)。
この親子、って多分初だと思うんだけど、超個性派同士なのに、妙に納得しちゃう!!ついでにお姉ちゃんが都子ちゃんで、石橋氏より年上の“彼氏”を連れてくるとか、ありそうで最高!

光彦はまだ独身で、なんか初乃ちゃんに横恋慕してる、とまでは言わないけど、でもまぁ、初乃ちゃんはなんたってちーちゃんが演じてるんだから、この集落中の男たちが好きなんだろうなぁ、なんて。
息子を高校に行かせるのさえおぼつかない炭焼き業、決して表立ってじゃなくて、同窓会と称してこっそり有名ホテルに彼女が売り込みに行く場面、一度ダンナが玉砕したところだけに、彼女の意地も見えて、しかもその可愛らしい女子ならではの言いまわし「許されない愛こそ、燃えます」なんて言葉で押し切っちゃう、もー、こんな年頃でそんなこと出来るのは、ちーちゃんしかいませんっ。
いつまで経っても相変わらず可愛いのに、きちんと年相応の女性、お母さん、働く女も並走できる。奇跡ですよ、この人は。

長谷川氏が演じる瑛介が一番のキーマンと思われる。まず彼が帰ってくるところから始まるんだもの。いや、それはちょっと正確じゃない。冒頭は、瑛介と光彦が高校卒業の時に林の中に埋めた、タイムカプセルを掘り出す場面から始まるのだから。
そう、そこに絋がいないから、その理由がオチになるのだろうと容易に想像できてしまうのだ。その最も想像しやすいオチは、絋が死んでしまうこと。うーむ、めっちゃその通りになってしまった(爆)。心の中で、イヤな言い方だけどそれを待ちながらの鑑賞になってしまう。

いわば三人の中で絋が最も、自分だけで精いっぱいで周りが見えていない男として描かれる。心に傷を負って田舎に帰って来た瑛介を心配しながらも何も出来ないままだし、光彦からは息子に対する無関心さを指摘されもする。
ただそれだけ、彼には最も伸びしろがあるということであり、その伸びしろが、他の二人、というか、主に瑛介に影響を与えることになるのだ。

正直、瑛介が心を閉ざしていたのが開いていく過程が、すんなり納得できないというか……かなりぐずぐずのような気がしたが、ハッキリしたキッカケを欲しがるのは、受け手側の良くないクセなのかもしれない。
瑛介が絋の息子がいじめられているのを、護身術(とゆーか、殺人術に近いが(爆))を伝授して、ついでに絋の父親としての不器用さをメシを奢りながら教えたったるのも、ちょっとどころじゃなく出来すぎのような気がしなくもない。

こういう図式は、正直それなりに見覚えがあるのだ……そして現実、そんなに甘くはないのだ……。
いや決して、甘い描写にしたとは思わない……くもないかな。あんなに親に反発してたのに、結構すんなり塾とか行ったりするし、いじめっ子たちに逆らえない心理描写も、いじめっ子のリーダーが折れる描写も、今、いろいろとひどすぎるイジメ描写映画がありすぎるせいかもしれないが、ちょっと甘く感じちゃったかもしれない。

そもそも瑛介は部下の自殺が自分のせいだと思い込んで、追い詰められていたんだよね??しかしそれは彼の指揮下から離れた後の出来事だったという。
それもそうだし、絋の炭焼きの仕事を手伝うようになるのも、それまでかたくなに心を閉ざしていたのに結構唐突だし、フラッシュバックのように突然狂暴になるのも、部下の自殺が原因というにはなんかすんなり納得がいかないし、離婚して残してきた子供からの電話で薬飲んでる?なんて聞かれてて、なんか病気なのか、それとも精神的なことなのか気になるのに明かされないし。

突然漁師になって船の上が落ち着くんだとか言い出して、なんかなんか、思わせぶり社会派のまま止まっていたと思ったら、絋の突然死によって全部そっちに持ってかれちゃうしさぁ。もうなんつーか、ぐずぐず感で、なんかなんか、納得できないんですけどー!!
しかも「俺があのまま手伝っていれば」と後悔する、光彦が「きれいごと言うな!」とカツを入れるのは当たり前だが、当たり前すぎてそのベタさにくじける。炭焼きに意欲を燃やしていた先だっただけに、そらまぁ自身のトラウマが大爆発しちゃったといううことはあれど、突然漁師とか、船の上が落ち着くとか、昭和なドラマすぎる。三人で海で毛布にくるまって酒飲むとかさ。

主人公、キーマン、ときて、三番手以下に落ちてしまっている光彦の人間的描写が、せっかくの渋川氏なのにおざなりに思えてしまって、凄くもったいない、気がする。石橋氏のお父さん、都子ちゃんのお姉ちゃんと、コミカルなキャラは立ってるが所詮コメディリリーフで、彼自身はいかにも都合よく友人二人をよく観察してて、的確なアドバイスを加える人物でしか、ないんだよね。
一人独身だったから、それこそコメディリリーフでもいいからロマンス的な展開があるかもと期待したがそれもなく、初乃ちゃんに対する横恋慕も友人に対するネタの域を出なくて、もう、ホントにつまんないー!!

やっぱり予想通り絋は死んじゃうし。「私も一緒に行く!」と号泣するちーちゃんの迫真の演技がもったいないぐらいだよ(爆)。
狐の嫁入りの豪雨の中、棺は運ばれる。倒れた絋を見つけたのがいつも通りかかっては声をかける葬儀社の男(これもまた、同級生なのだろうな)というのが皮肉というか。

炭焼き小屋を継続するか否かは、一人息子の意志にゆだねられる。「マジすか」「ガチでマジす」
息子はボクサーになるのもいいかな、と意外なことを言いだし、「あんたには絶対、ムリ!」と母親に一笑に付されるも、次の場面では高校生になった彼が、バンテージを両手に巻いて、炭焼き小屋に吊るされたサンドバッグを打ちながら、炭が焼きあがるのを待っている。

これが東京国際映画祭で観客賞を受賞したというのが、ものすごく意外。どっちかっつーと、玄人好みの作品だもの。やはり稲垣氏を応援するファンの投票があったのだろうか……。★★★☆☆


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