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ジオラマボーイ・パノラマガール
2020年 105分 日本 カラー
監督:瀬田なつき 脚本:瀬田なつき
撮影:佐々木靖之 音楽:山口元輝
出演:山田杏奈 鈴木仁 滝澤エリカ 若杉凩 平田空 持田唯楓 きいた 遊屋慎太郎 斉藤陽一郎 黒田大輔 成海璃子 森田望智 大塚寧々
人の生活する場所というのは都会に限らず変化し続けるものではあるし、逆に言えば東京だってすべての場所でこんな風に作り替え続けられている訳ではない。
しかし本作では彼らの背景となる東京は常に壊され、建て続けられ、上空へ上空へと伸びていく超高層建物たちは、まるでサグラダファミリアのように出来上がる時が何百年も先のような錯覚に陥る。無機質なのに動き続ける、うごめく、と言った方が正しいかもしれない。
その一種の不気味さの中に、彼らは生きている。神奈川ケンイチと渋谷ハルコという役名もまた非常に印象的である。神奈川と東京の境目で彼らは出会ったのだろうか。あの巨大な、これまたいかにもザ・人工建造物、しかしまるで神の手が作ったかのように、信じられないほど巨大で広大な橋の上で彼らは出会う。
ハルコはこの時一目で恋に落ちてしまった、というところだろうが、ケンイチの方はナンパした年上の女の子の彼氏にひどく痛めつけられた直後である。
いや彼氏、ですらなかったのか、この年上の女の子、マユミはいわゆるファム・ファタルでつまりそれが二人を成長させるのだが。
ハルコとケンイチは違う生活圏で生きている。当然、学校も違う。どちらも、現代の感覚で言えば少々幼いような感じもするが、それは世間でまことしやかにささやかれる高校生たちの早熟さの方が一握りで、今も昔もこの程度に純真なのかもしれない。
ハルコは仲良しの女の子二人といつもつるんで、恋がしたいですなあ、などと楽しげに小突き合っている。そんな感じの中で、ケンイチとの出会いで雷に打たれたようになる、のだから、最初のうちは恋に恋する、程度の感じだったのかもしれない。
ケンイチの方は恋より先にどこか人生に焦ってて、急にこんなことじゃいかん!!みたいに思って衝動的に高校をやめてしまう。このシークエンスもなにか、新感覚のモダンダンスのように空間の動きがあって、新鮮である。
ケンイチは追いすがる教師に不意にチューをして、校舎を出て行ってしまう。次の日には彼はあっさり後悔することになるのだが、もう後には引けないし、既に身の丈に合わない恋に落ちちまっている。
ジオラマボーイ・パノラマガールはそれぞれケンイチとハルコなのだろうし、つまりタイトルロールである彼らが、その境目となる橋の上で運命的な出会いをしたのだから、当然、二人の恋物語になるのだとばかり思っていた。全然、そうじゃない。それどころかケンイチの方にハルコはまるで目に入っていない。
出会いこそ、運命的な可愛らしさがあった。ハルコはゲームに負けて妹たちに頼まれたお菓子やら、ついでに母親に頼まれた低脂肪乳やらを買いにコンビニに出かけ、ついでに発売したばかりのジャンプも手に入れてふんふんと上機嫌で橋の上を歩いていた。
そこにバッタリと倒れ込んだ男の子に仰天。血だらけの彼を助け起こし、妹たちのために買ったコアラのマーチも草餅もジャンプも渡してしまった。そして低脂肪乳を口飲みでごくごく飲んでしまった。ワケの判らないハルコの興奮が生き生きと伝わってくる。
ハルコを演じる山田杏奈嬢がイイ。ぶっとい眉毛が印象的な、あか抜けてないように見えて突き抜けているような女の子。なるほど、「ミスミソウ」の子か!!と思い、ブルってしまう。こりゃあタダモノではない。
このあたりの年頃になると恋愛経験や処女かそうじゃないか、なんてことまで気になってくるもんだと思っていたが、彼女やその友人たちは恋がしたいですなあ、というところにとどまり、ケンイチの出現にキャーキャー言い、ハルコが失恋したその時に、その日出会った見知らぬ男の子にキスされたことが大事件となる。ああ、……今も昔もそんなもん、何かホッとする気持ちにさせられる。でもそれが大事件であり、大問題なのだ。
ハルコはケンイチが落とした学生証をまるで戦利品のように友人たちにかかげ、これをどうする、学校で待ちぶせするか、ということになるけれどやめちゃってるケンイチは当然現れず、ハルコは住所をたどってケンイチの家を訪れるんである。かなり本気である。
ケンイチの家庭は父親は亡くなっており、母親が入院中、看護師をしているお姉さんと二人暮らしの現在。お姉さんを演じるのが成海璃子嬢で、ちょっと前まで彼女こそが学生役でキュンキュンの青春を演じていたのになあと思っちゃう。そんな彼女が「クラブでオール」したと言って帰ってきて、グータラしている弟に親密さゆえのケンカをかます大人なお姉ちゃんになって……と目頭熱くなっちゃう。
そのお姉ちゃんに、ハルコはバケツの水をバッサー!!とかけられちゃったんであった。だってアヤシサ満点で恐る恐る玄関からのぞき込んでいたんだもの。
でもそーゆー訳でお姉ちゃんの方とソッコーで仲良くなっちゃう。友達のイベントにぜひ来て、とチケットを渡される。「ケンイチもくるから」と。
三枚のチケットだから、いつもつるんでいる二人の友達と行ける筈だったが、そのうちの一人は家が厳しいからと辞退になる。彼女の家にお泊りしているという設定を設けて、ハルコは一世一代のおしゃれをしてそのイベントに向かうのだが……。
この、行けない友達がネックというか、その後の展開にも大きく関わってくる。あれ、私気づいてみればケンイチ側をすっとばしまくってハルコのことばかり書いているのはやっぱり女の子好きなんだろうなあ。ケンイチにも相応の展開があるのだが、まあそれはあとでさらりと(爆)。
ハルコがとっかえひっかえいワードローブをひっかきまわしてあれこれ算段する女の子らしいシーンに、オザケンがかかるという奇妙な懐かしさ。今揺り戻しのハヤリが来ているのか、ハルコは友達からオザケンの、しかもレコードを借りているのだ。タワレコの袋に入って!
そしてその歌を口ずさみながら、校舎の廊下を踊りまくり、すれ違うクラスメイト達もそれに応じてハイタッチしたり、そんなんあるの、というトキメキなんである。
原作の時代を取り入れながらの、絶妙の超越感覚に心ときめいてしまう。映画という時間空間は、現実のそれと関係なくったっていいんだ、と思わせてくれる。
そして、ああそう、このあたりでケンイチの事情も語っとくか。彼が何かを打開したくてとりあえず声をかけてみた女の子、マユミは、まあかなりな女の子だったんであって。
見る限りでは、なんつーか、高級エンコウというか、パパ持ちというか、そんな感じに見えた。そんな生き方に誰かから、例えばケンイチのような世間知らずの男の子から責められたら、100言い返せるぐらいの気の強さがある一方で、何かひどく、寂しくて気弱そうにも見えた。
なんでだろう……そもそも、ただ男をクイモンにしているのなら、マユミはケンイチのような男の子を相手になんかしなかっただろう。最初こそは、暇つぶしぐらいに見えていたし、実際そうだったのかなとも思うけれど、彼と再会、仕事も紹介するし、一度はセックスを拒否したのも意外だった。
バカにしないで、だなんて、ホレてる台詞だと思ったけど、実際そうな気がしたけど、マユミもまた、素直になれない女だったのか。
セックスするのにいくら払えばいいのか、好きな相手ならタダだよ、そんなケンカのようななれ合いのような会話をしながら、マユミはじゃあだったら、ケンイチとセックスするのかどうかさえあやふやのままだ。
ハルコの方は、ケンイチのお姉ちゃんからもらったチケットで行ったイベントで、ケンイチとマユミのキスシーンを見てしまう。その前に、声をかけられたマユミに口紅を塗ってもらい、イヤリングまでもらって、憧れのまなざしを抱いたその女性とケンイチが、であり、そのショックは想像するに余りあるんである。
フラフラとその建物の屋上に出て、同じように時間を持て余していた青年と出会い、なんとなく誘って外に出ちゃう。
ハラハラする。ハルコの危なっかしさは、まだこんなところで遊ぶまでの成長を見せてないのに、こんな鮮烈な失恋までしちゃって、背伸びするにも間に合わない感じなのだ。
この青年がふっとハルコにキスしたのは、気が合ってはしゃぎまわった先の、本当にキスしたいという、邪念のない感じだったと思うのだが、その瞬間ハルコは我に返ってしまう。それは……ケンイチへの想いを見ないようにしていた自分に気づいたのか。
酒も飲んじゃって、午前様で、迎えに来た、イベントに行けなかった友人との自転車二人乗りでおまわりさんに捕まっちゃって、ママは激おこだし、大学の指定校推薦も逃しちゃって、停学になっちゃって、もう散々である。
でもその停学期間中に、ひどく印象的なシークエンスがある。正直、あのイベントでの展開がハルコもケンイチもひと山超えた感じだったから、このまま終わるかなと思ったら、まだがっつり、あるんである。
むしろこっちだったかもしれないと思う。それまで再三、しつこいぐらいに、背景に印象的に描かれていたスクラップアンドビルドである。
ハルコの妹とそのボーイフレンドかなあ、おませな二人に秘密基地があると連れられて、友人のカエデと共に入り込んだのは、まさにその、建築途中のタワマンと思しき中なんである。
こっそり入り込んで、なんか物を落としちゃったりして、誰かいるのか?とどなり声が聞こえて慌てて逃げ惑ったりするけれど、不思議なぐらい、人の気配がない。建築中なのに。ニッカボッカのおじさんたちがここを作っている筈なのに。まるでロボットが建て続けているかのように、誰一人いない。放り出されたようにシンとしている。
いつかはお金持ちの住人が住み着くはずのある一室に入り込む。ハルコの誕生日だからパーティーをしようなんてことになる。カエデたちがこっそり連れて来たサプライズゲストがケンイチだったんだけど、なんとまあ……ケンイチはハルコのことを覚えてないんである。
これはキビしい。めっちゃショック。でも落ち着いて考えれば、ハルコがケンイチに激しく恋していたこの期間、ケンイチはマユミに激しく恋をしていて、そして双方、しっかり失恋した、ということなのだ。
友人と妹たちと共にかなりの攻防があった後、どうやら二人は身体を交えたらしいのだが、この後二人はどうなるのかは、判らない。
キスもセックスも、それなりの大人になればなんてことない日常の会話のようなものだが、地球が壊れるほどの意味を持つこの年頃のことを思い出すと身がすくむ。そして愛しいと思う。★★★☆☆
つまり彼は奥さんに食わせてもらってる。会話から察するにこの奥さんが彼を文壇に押し出すために背中を押したらしい。そしてお互い恋愛や結婚にいかにも疎そうな同志が結ばれたということらしい。
それは奥さんが、「行き遅れになるところを結婚さえできれば満足だった」てな台詞を口にすることでなんとなく察せられるんである。
それでも、別に鬼嫁でも悪妻でもないし、夫婦仲は悪くない、どころか仲の良い夫婦だろうと思う。でも後から思えばそれは、夫婦としての仲の良さというよりは、気兼ねのなさ、つまりきょうだいとかいとことか幼馴染の友人同士のような気安さだったようにも思う。
ふっとヘンなこと思い出しちゃった。永瀬正敏と小泉今日子が離婚した時、ずっといとこのような感じから抜けきれなかった、とか言っていた記憶がある。嫌い合って別れる訳じゃない、夫婦になれなかっただけ、というニュアンスをそこに感じたことを思い出した。
その亀裂があぶりだされるのには、二つの出来事があった。一つは奥さんが子供がほしいと言い出したことである。いわゆる妊活を始め、ダンナのテッキ(ヤン・イクチュンね)はどうも乗り気になれない。
そもそも“ムードもへったくれもない”セックスをしかけてくる奥さんに露骨にイヤな態度をとるし、どうやら二人のいわゆる夜の生活は、途絶えがちであるらしいのだ。
テッキは今時の、性に淡泊な男性、という見え方もしていた。なんたってロマンチックな詩人だし、生臭いことを嫌うような消極的な感じがあった。同人たちが詩を批評し合う時にも、グイグイ批判してくる女性同人にその場では文句も言えず、誰も聞いていないバスの中でこっそり悪態をついたりするのだ。
でもその女性は見抜いていたんだよね。テッキが恋をし、その感情を詩にしたためてきたら、すぐさま気づいた。「ウェルカム、リアルワールド」酔っぱらって彼の盃に盃をぶつけてきた。
そう、もう一つの出来事は、テッキの恋である。恋、だったんだろうか、結果的に。タイトルは「詩人の恋」だし、確かにそうだったのかもしれないんだけれど。
情報を仕入れずに飛び込んだので、詩人の恋の相手がどんな人物なのか、全く判らずに観進めたので、最初はこの辛辣な女性同人かと思ったら、なんと見目麗しい美青年、いや、美少年と言いたいぐらいテッキとは年が離れている男の子である。近所に出来た、ニューヨークで流行っているという触れ込みのドーナツ屋のアルバイト店員である。
テッキの奥さんが妊活を渋る夫をなだめるために買ってきたそのドーナツに、彼は虜になる。箱いっぱいに買ってきては、待ちきれずに帰路の途中で頬張り、原稿を書きながら頬張り、空の箱を手探って、また店に買いに行き……。
冒頭、まだ仲の良い夫婦だった二人、テッキが作文教室の生徒に「詩人なのに太ってる」とからかわれ、そうか?とくまさん柄のセーターをまくりあげたそのお腹は見事な中年っ腹。でもそれが愛しく思えるぬいぐるみキャラで、やせなきゃねと笑った奥さんだって、そんな彼を愛していたに違いないのだ。
いや、過去形は寂しすぎる。少なくとも奥さんは彼を愛している。決して決して、世間体の結婚と子供を欲していたんじゃないと思いたい。
ただ……彼女が「行き遅れと言われていたから結婚できただけで満足していた筈なのに」という先に子供を望んだことから、二人の仲に亀裂が入ってきたことで、夫婦とは、夫婦の愛とは、という問題に二人は直面せざるを得なくなるのだ。
テッキが“恋した”男の子、セユンは過酷な家庭環境を抱えている。父親は寝たきり、母親が家計を支えているものの、母との関係はサイアク。まだ若いから遊びたいセユンは、酔っぱらって母親に金をせびりに行ったりする。
でも父親のことは気にかけている。母親があまりに気にかけないからである。さっさと死んでくれないかぐらいの態度で、寝たきりの夫の前で友達と花札に興じたりする。
ふてくされて酔っぱらって外で寝ているセユンに行き合って、テッキは心配して声をかけた。真冬で、寝入ってしまったら危険だということはあったにしてもやはりそれは、自分に対する言い訳だったかもしれない。
最初のうちはドーナツをテイクアウトしていたテッキだったけれど、いつしか原稿を持ち込んでそのドーナツ屋で長い時間過ごすことになっていたのは、奥さんから逃れたいためだったのか、セユンを眺めていたい気持ちだったのか。
結果からいうと、テッキとセユンの間には何もない、んだよね。何もないまま、なのだ。プラトニック、とわざわざ言うのさえはばかられるほど、何もない。それはセユンが、なぜそんなに親切にしてくれるのか、同情してるのか、と勘繰って逆ギレするぐらい何もないのだ。
テッキはセユンの事情を知って、自分の亡き父が使っていた介護グッズや、食材までいろいろと差し入れたりする。セユンの母親は、親切な人だね、金をくれればいいのに、と無遠慮に口にして息子にたしなめられるが、この台詞が後々効いてくるんだから皮肉である。
二人はあくまで年の離れた仲のいい友人、の筈だったのだ。奥さんがそれを暴かなければ。
妊活で夫婦間の気持ちがささくれ立っているところに、奥さんは夫の創作ノートから浮気の匂いを嗅ぎつけた。それは一見して、単なるアイディアの断片の言葉のようにしか見えなかったのに、さすが長年連れ添っている彼女には判っちゃったのだった。
そう考えると、少なくとも奥さんの方はテッキを真実、愛していたのか。いや判らない。もうこうなると、愛の定義すら判らなくなる。
ちょっと途中すっ飛ばして言っちゃうと、ダンナをセユンにとられまいと奥さんが貞淑な妻の演技をするも、彼から反駁され本性むき出しにして噛みつくシーンで、彼女が守りたかったのはなんなのか、考えてしまう。
結婚という安住、その上の欲であった子供、そもそも経済力のない夫なのだから彼女一人で子供を育てるという選択肢もあった筈。なのに、“子供には父親が必要”という世間体だか自分が捨てられるみじめさを回避したいがためだか判らないけれど、その全てがごっちゃになって、つまり煩悩がごっちゃになって、なりふり構わず彼女はセユンを罵倒する。
そしてそれに……セユンは負けてしまうのだ。彼こそ家族というものの無意味さに直面したのに。だから彼女を言い負かすことだって出来た筈なのに。
それはやっぱり、テッキを愛しちゃったから、なのかなあ……。ただ、先述したようにこの二人の間に性的な何もないから、本当に精神的つながりでぶつかり合う純すぎる二人だから、どう言っていいか、判らないんだよね。
セユンの父親が死ぬ。それもどうやら……最後は父親自身の意思で食べ物を受け付けなくなったという。テッキは彼の言葉を聞いていた。息子に迷惑をかける。死んでしまいたい、と。
病院で治療や介護を受けるでもない。まるで監獄のように日の当たらぬじめじめした部屋の隅っこで、ただただ息をしているだけの彼が積極的な意思として死にたいと願望するのを誰に止められるのか。それを誰か第三者に告白できたことで覚悟が出来たのか、食事をとらないという原始的方法での自殺、だったのか。
やっとホッとしたとばかりに露骨に安どを示して、葬儀場から帰るバスの中でセユンを撫でまわす母親に、彼は爆発する。母親の方がそれに反応して激怒し、お前も父親も役立たず、と罵倒する。
ひっそりと葬儀に来ていたテッキは怒り、セユンと二人、バスを降りるんである。「先生でも、怒ること、あるんですね」そうだ、テッキはいつもおどおど、へどもどしてばかりだった。怒りという感情は、それも他人の境遇に対してわくその感情は、確かに愛なのかもしれない。
セユンをほっておけず彼と二人でいるからと奥さんに連絡するテッキ。奥さんは心配してやってくる。「私があの時行かなかったら、あの子と寝ていた?」そう奥さんは後に言うけれど、そんな雰囲気があった訳じゃない。
泣きじゃくるセユンをなだめて寝かしつけていただけなのだけれど、女というものは鋭敏な嗅覚を持っているから、その奥底に眠っている本当の感情やら欲情やらに気づいちゃうんであろう。
これがやっかいなモンで、そこんところにドンカンだったならば、テッキもセユンも、そもそもリアルにその気持ちに気づかないままだったんじゃないかという気もする。
テッキはちょっと自覚しかかってたけど、妊活を始めて不妊の原因が自分の側にあるということが判明してから、心が揺れていたこともあるし、そのことがアイデンティティそのものを揺るがして、深いところに行っちゃったという感はあるのだ。
でもセユンはどうだろう。性的な愛情はなかったと思う。でも性的な愛情が必要なのだろうか。テッキとセユンの間には性的な接触はなかったし、性的な想いを伝えあうこともなかった。
ただ……特別な存在だった。愛、という言葉さえ使わなかった。でも、一緒に暮らしたい、一緒に逃げよう、という段にまでは行った。古臭い考えを持っているから、この言葉が意味するものは、愛、性愛、その先の家族、みたいなことが浮かんじゃう。でもそうじゃなかった。ただ一緒にいたかった。
セックスしなくっても、大事な相手。今はいろんな価値観が認められる時代、性愛がなくても、強い欲情がなくても、一緒にいたいという想いで家族をむすんでいい。そう認められる健全な価値観が育ってきた時代。
でも家父長制度、儒教的考え方がまだまだ強く残るこの韓国や、日本といったアジア諸国では、性的マイノリティというだけでまだまだ敷居が高くて。
テッキは今や大きな文学賞もとり、可愛い赤ちゃんにデレデレ、民族衣装を着て伝統的な儀式なのだろう、親戚一同を呼んで、盛大なパーティーが開かれている。本当に幸せそうである。
文学賞のパーティーを準備しているところに、バイク便で荷物を届けに来たセユンと再会する。いっとき、痴話げんかのような感じで別れた時、くれるんならカネをくれよ、と言うセユンに、哀し気な顔で財布からなけなしの札を手渡したテッキだった。セユンが母親から、金をくれればいいのにと言われた言葉を辛く反転したあの時だった。
今は穏やかに話せる。でもほんのり、わだかまりがある。セユンが、本気とも冗談ともつかない、でも結構真剣な調子で、僕と逃げようよ、と言う。
テッキは一笑に付して、彼にカードを手渡す。「暗証番号は君の父親の命日だから」金の切れ目が縁の切れ目。そもそもモノよりカネをくれよと言ったあのクソ母親に反発していたのに、金をくれよと言ったあの時が別れだった。でもこのお金は……。
「僕も君を利用した。だからこれで新しい人生を送ってくれ」とテッキは言った。利用、というのは、セユンとの関係を作品に落とし込んで、この栄光を得たということなのか。だとしたら、違う違う違う!!ああでも、上手く言えない……。
テッキは生まれて来た子供を愛している。この子をそばに寝かせて仕事をしている穏やかな時間を静かに映し出す描写は、幸福に満ちている。奥さんとの仲は……ちょっと判らないけれども、子はかすがい、ということであろうと思いたい。
思いたい、というのは、奥さんとの修復が特に描かれず、セユンとの再会を思い出したのか、赤ちゃんとの穏やかな時間の中で、テッキはふと、ふと……涙を流すんだもの。
何を選び取れば良かったんだろう。今、目の前の愛しい我が子を捨てる選択はない。後悔などない。この子を産んだ奥さんはそれだけで尊い同志だ。だったらセユンはどの位置にあるのだろう。家族という価値観に苦しめられたセユン。テッキも一時期同じ立場にいたのに。
恋、愛、性愛、家族、子供。……いわゆる近代社会になって、西欧、英米文明はそのあたりばっさり切り捨てる潔さがあるけれど、どんなに経済的に豊かになっても、アジア文明はなぜ、なぜ、捨てきれないのだろう。この、しがらみから。愛とは言えないこともあるものから。★★★★☆
しかして本作の大野君は、まるでこの無門という忍びに当て書きしたかのようなハマリぶり。大野君のすっとぼけた抜け感に何度も笑わされるのに、クライマックスでは人として男として立ち返る彼にすっかりしびれてしまう。
最近千葉ちゃんのガチフィジカル忍者ばかり見ていたもんだから、余計に隔世の感あり、である。CGという言葉さえ古臭く聞こえる、現代最先端の映像技術(言えば言うほど昭和くさい(爆))の忍者たちは、自分がついつい持っている土臭い忍者像をまさしく一掃してくれる。
当然舞台は戦国時代で、日本史大の苦手の私はこーゆー作品にかなり気後れしちゃうのだが、今の映画は親切だなあ、てか、もしかしたら大野君ファンには老若男女色々いるから、余計にそういう気の使い方はするのかもしれん。
役柄が初登場するたび、その横に役名が書かれ、織田の支配の広がり方、伊勢まで迫っていて伊賀の攻め落としももはや時間の問題、というのを、当時の手書き風地図を、しかも横から縦から立体的に3Dじかけにして(だから言えば言うほど古臭い……)説明してくれるので、わっかりやすーい。こーやって日本史の授業も聞きたかったわ(バカ……)。
つまり、忍びの国である伊賀は今や織田軍の支配下の中でポツンと残っている、風前の灯火なんである。しかしそんなことは露知らず、といった感じで冒頭は、ノンキな小競り合い(という名の殺し合い)が繰り広げられている。
忍びの国、ではあるけれど、一枚岩ではなく、二手に分かれてにらみ合っている……訳でもない、なんかゲームみたいに仕掛け合っている。時が来ると終了する、みたいな、まさにお遊びみたいなのだが、恐るべきことにその都度相当数死者が出る。
なのにそのことを何とも思ってない。でも死ぬのはイヤだから、相当の賞金をくれるのなら行くよ、と言う者がいる。腕に覚えのある者である。それが無門である。大野君である。この伊賀一の忍びであると自負している。
この忍びの者たちは虎狼の輩、つまり人間の心を持っていない、と揶揄されるのだが、こうやって書き出してみると、まさに無門こそがそんな冷血に思えるのだけれど、全然、そうじゃない。それは大野君が持つすっとぼけた脱力の魅力にも他ならないのだが、彼が自分の中の人の心、男の心に気づいていないだけで、それは忍びとして強すぎるから気が付かなかっただけで、キザな言い方をするなら愛に目覚めた時に、無門はそれを取り戻すんだよね。
その愛の相手が、お国である。まだ女房ですらない。力づくでどっかから引っさらってきたんだけど、そもそもその時術にかからなかったぐらいの女であり、忍びの力はピカイチの無門に「結局は百姓じゃありませんか」と斬って捨てる、つまりカイショのない無門は彼女の前に無力なんである。
術にかからなかった女、と書いたが、後に無門が伊勢の殿様、織田信長の次男の信雄を術にかけようとしたのにかからなかったことを鑑みると、あれれ?フィジカルはめっちゃ強いけど、ひょっとしてその方面はダメダメ?と思われたり……。
ただ、本作のキモは、織田に攻め入られることを承知の上で、織田を返り討ちにする秘策のために、この秘術を使って近しい身内をも陥れ、裏切り者にさせたり、作戦をワザと聞かせたりしていた、という部分である。だからそんな術も使えない、術にはまったことにも気づかない、無門のみならず、無門を仇と憎む平兵衛も、この虎狼のメンメンの中で、数少ない血の通った男であり、人であったということなのかもしれない。
いや、そんなマジな展開はしばらく訪れない。本作のステキなところは、クライマックスではシビれるドラマで見せるけれど、そこまではあくまで、時にナンセンスなコミカルさで、しかししっかりと物語は展開させていくこと、なんである。
こうなると原作が気になる。これをマトモに物語だけで追うと、かなりシリアスな話で持っていけそうなんだもの。
言い忘れてた。平兵衛がなぜ無門を仇と憎んでいたのか。弟を殺されたから、なんである。無門はそれを、親方的な忍びから依頼され、まさに依頼……報奨金を吊り上げて、それならいっちょやりますか、と乗り込んだのだから。
川、と呼ばれる一騎打ちで、倒した。お互いの陣地として線を引き、その真ん中に負けたものが倒れて川の字になるから川。川だ、と判ればその間、誰も手出しをしない、といったルールなのだろうと思われる。
平兵衛の弟はいかにも向こう見ずで、血気盛んな男。無門の力を知っている平兵衛は必死に止めるけれど、哀れ、彼は無門の圧倒的な力の下に倒れる。
平兵衛は判ってたんだ。憎むべきは無門ではなく、この闘いをけしかけ、自分の息子が死んだにもかかわらず、「次男は下人に過ぎず」と平然としていた父親の方だということを。
この下人、という言いざまはその後折々登場する。そもそも忍びたちは仕事を請け負って生活をしている訳だけれど、その請け負う先を下人とも呼ぶ。つまり、見下しているのだ。
平兵衛は長男、父親から大事にされている証拠だと、この事実も、その後のあらゆることも、言われた。それが更に我慢ならなかった。織田側に寝返った。ただそれも、織田を迎え撃つために作戦を知らせるスパイとして術にはまったことを後に知る。なんという残酷な……。
とゆー訳で、平兵衛を演じる鈴木亮平アニキにシリアスさが一時、一手にゆだねられるんである。大野君、いやさ、無門は暫くの間、いかにも彼らしいのほほんさにヤラれるんである。
だって、お国に心底ホレてるんだもの。力づくでさらわれてきたのに彼女は強気でシンラツ、とにかく金を運ばなければ許さない。織田に攻め入られる危険が高まって、京に逃げようと無門が行っても、食い扶持が稼げる当てがないのならと承知しない。
吝嗇なお姫様と見えるのに、妙に人情家のところもある。いや……さらわれてきた子供が忍術の訓練のために命を落とすのを、弱いんだから仕方ない、と言う無門の方がそりゃムチャだ。お国はこの時なんとか命をとりとめたネズミという少年に心を寄せるのだが……。
オチバレで言ってしまうと、無門もまた、さらわれてきた子供だったのだった。お国は再三、無門の本当の名を知りたがった。無門、というのは、無敵の彼の前に開かない門はない、という意味のニックネーム。弱ければ死ぬ。だから強くなる、というのは、生き抜くために決死の訓練を課してきた彼にとって当たり前のことだったんであろうが、お国はそんな事情は知らなかったし……。
そして平兵衛も知らなかっただろう。彼には家族があった。まさに家族の情を知っていたからこそ、この“虎狼”の忍びの血を嫌った。無門の事情は知らなかったけれど、知っていたらどうだっただろう。ただ……無門もまた、お国と出会わなかったら、そんな、人として当たり前のことも知らずにいたのだと思うと……。
なあんか、結構シリアスな話なんじゃん!!と今更ながらに思う。クセモノ役者たちが跋扈して笑わせてくれるもんだから、騙されちゃう。
忍者の定義、っていうか、生き様、っていうか、価値観、っていうか?その解釈っていうのは、語り手によってかなり違うものなのねと思う。それこそ千葉ちゃん映画で忍者に接してくると、忍者のプライドは男気であり、その生きざまのプライドである。
でも本作においては、あくまで金で雇われる、いわば派遣会社の社員たちである。会社は、伊賀の国である。自分たちの国を攻め入られるのに闘うとしたら、ゼニはどこからも支払われない、ということじゃないかと、頭を抱える。伊賀忍者の誇りとか、国の誇りとか、ないんである。
だから危険と思えばさっさと逃げ出す。冒頭で一枚岩じゃないことをしっかり示していたし、幹部たちも判っていたのに、予想以上に銭ゲバ主義で味方がまったく残らなくなるクライマックスには思わず笑ってしまうが、これは本当に、忍者の定義というか、思想に対する思い込みを痛快にぶっ飛ばすんである。
実際がどうだったのかなんて、判る訳はないのだが……一旦退いた後に、再度攻め込んだ織田軍の圧倒的勝利で伊賀忍者は全滅するんだけれど、その時、彼を追い続けてきた大膳(伊勢谷友介)は言うのね。ヤツらは決して滅びない。人の血を持たない冷血な奴らは天下に散らばり、残っていくのだと。
そしてその姿が現代の私たち群衆にオーバーラップされる。つまり、現代にはびこるキチクな、自分のことしか考えない輩たちの祖先が忍びたちだと、言ってる訳さ。
ど、どうなの、これは……なかなかに危険な結び方だけど!!もちろん、その後、その残っている忍びが誰かってーと、当然無門であり、彼はお国が心配していたネズミ少年を息子として手元において、ひっそり忍びとして生き延びているラストが描かれている。
お国は、まさに冷血な忍びたちのために、その忍びたちから“夫”を救うために、死んだ。無門はお国の遺志を汲んだ。あんなに、すっとぼけて、怒りなんて感情がなかったような彼なのに。
てゆーか、大分中盤すっ飛ばしてしまった(爆)。個人的にヨワヨワなお殿様である信雄が印象に残った。バーターと言ったら失礼だが(爆)、共演のジャニーズ枠としてご登場の知念君は、その圧倒的な美形をヨワヨワお殿様として存分に発揮する。
偉大な父親の、しかも次男として生まれて婿養子として送り込まれる、つまり男として苗字さえ奪われている情けなさ。父親の権力をかさに配下を従わせるも、それが自分の力じゃないことも判ってる。
主要な二人の配下が、断腸の思いで元の主を自分の命で討った場面の凄まじさ。そしてその後も何かと歯向かわれ、青二才の自分が何も出来ない歯がゆさを、ついに、百戦錬磨の配下たちの前でぶちまける。白装束の寝間着姿を胸元はだけながら、涙ながらに咆哮する場面は、その美しいお顔立ちを情けなさ方面に存分に発揮して、ちょっとなかなかにヤバかった。
男としての力を持つキャラが跋扈している、その中で、いわばナヨナヨとした、権力をかさにしたガキである。でもそれを本人こそが十二分に判ってて恥ずかしいし、なにより心細く思ってる、ってことを爆発させたシーンは、大野君と伊勢谷氏の対決シーン、お国との永遠の別れのシーンと並んで、ひどく心に残ったんだなあ。
そもそも金がすべての価値である忍びたちだから、無門が人の心に目覚めたって、変わる訳がない。身内を陥れて殺し合いをさせたことに、まるで人生初めてみたいに腹を立てて、だからこそこれ以上ない激怒で、無門は身内に刃を向けた。
無敵な彼だったけど、幹部たちは汚いから、またしても報奨金を約して他の忍びたちに無門を討たせようとする。
ところに、お国が立ちはだかる。ムチャだ。こんな無数の、金の亡者に。慌てて彼女の元に駆け寄るも、毒の吹き矢がお国に突き刺さる。まじか。こんな哀しいラストが待ってるなんて、すっとぼけた大野君の感じじゃ全然、予測できんかったよ!!
忍者って、なんだろ。今ではもういないよね。いるのだろうか。その定義はなんだろう。本作では派遣社員。プライドもナンもない。あんなにワザがあるのに。めちゃくちゃ楽しいエンタメだったのに、何か心に深く突き刺さる哀しさがあった。★★★★☆
本作は三人が主人公と言えると思われる。そのうちの一人は一人とカウントすべきかどうか、というのが実に不思議なところなのだが……。
その主人公の一人、一穂の家庭事情である。玄関に揃えられた女物の靴二足、一足は妹で、もう一足の大人の女性の靴は、その二人の会話と一穂のぎこちなさからしてどうやら父親の恋人らしい。
しかし父親は登場しないし、妹は鷹揚に迎えているのに一穂だけが彼女に対してわだかまりを持っているのは何故なのか、妹がとりなすように姉を気遣うように様子をうかがっているのが何故なのか、そもそも本当に父子家庭なのか、父子家庭になった理由はなんなのか、何一つ明かされない。
そしてこれは展開が大きく変わった後の出来事なんだけれど、パラレルワールド的な違う世界に飛んで行った一穂(の心を持った、外見は違う女の子)が遭遇する、震災の後に通信も何もかも断絶され孤立した学校の中である。残り少ない食料をカウントしながら殺伐としていく数人の生徒たちプラス女子教師一人という中で、黒板に書かれている名前、なんである。
それはいつの間にか消されていて、外に偵察に行く一人を決める、それは最も役に立たない人を投票で決める、という、ひどく残酷な展開で改めてここに集結している女子たちの名前が書かれるんである。その、消された10数名の名前は、明らかに男子の名前だったのだ。
これはどういうことなのか……。違う世界に飛ぶ前の、一穂が通っていた学校は明らかに女子校だったけれど、飛んだ先の世界では共学で、男子たちが先に消えていったのか。
この学校には一人、男性教師がいて、それは飛ぶ前の世界でも登場するツダカンである。飛んだ先でも彼の存在は語られるが、今はいない。食料調達と偵察に行ったまま帰ってこない。
生徒の中にこの教師と恋仲になっていた子がいて、どうやらそのお腹に彼の子供を宿している。
そして、目の前で彼氏が死んだのを見たのにその事実を受け入れられないまま、もうすっかり電源が切れたスマホで必死に彼氏と連絡を取ろうとしている子もいる。
更に、負傷した状態で外の世界から迷い込んできた男は、何も事情を語らないまま自ら命を絶つ。それもどうやら、ここにいる女の子たちの内の一人が、生きていることが苦しいなら、頑張る必要ないよ、と偽善の親切を込めて耳元でささやいたかららしいんである……。
そもそもの物語に全然入らずに横道ばっかり行ってるけど、何かこの、周到に男性という存在を排除した上で女の子たちの世界を作り上げる、しかも排除したという痕跡を巧妙に残しながら、というのがなんか、怖いんである。
ただ……主軸の物語、親友二人の、友情というより愛情と言いたい結びつきは、女の子映画を愛するこちとらとしては最も大好物である。後から思えば一穂も巫女も、孤立しやすいタイプというか、無理に友達を作らないタイプというか。
本作はありがちな女子グループとかカースト制は明確には描かれないのだが、飛んだ先の世界では仕切り女子や賑やかし女子、可哀想がられ女子など、あるあるな区分け(差別かも)を明示するし、他の世界を知る前の一穂や巫女にとって決して生きやすい場所ではなかった筈なんである。
美術部の部室が彼女たちの逢瀬の場所(そんな風に言いたくなる……友情と恋愛がミクスチャーされた感じなんだもの)だが、他に部員は見当たらない。
昨今は凄惨なイジメ描写やらが現代的リアルとしてやたら描写されて、映画を観に行くのも苦しくなるぐらいなのだが、このぐらいな感じも一方で、非常なるリアルなのではないかと思う。私的には、自分の時代にも照らし合わせられるようなリアルさを感じる。
一穂が運命の出会いをした親友が、心臓の病気を持っている巫女であった。桜散る、課外授業の日、その発作を助けたのが一穂。ほどなくして巫女は入院中に容体が悪化して死んでしまう。しかしそれは、かの男子教師から報告されるだけでまるで現実味がない。ありがちな、クラス全員で葬式に行く、とかいうことすらないのだから。
一穂は手紙を受け取る。巫女のことで話がしたいから、あの部屋で明日の夜待っている、と。あの部屋、と言って呼応するのは巫女しかいないのに、まさにその相手はそこで待っていた。転校生の莉音である。
莉音は、自分は他の世界から来た巫女なのだと言う。にわかに信じられる訳がない。でも一穂は巫女に会いたい気持ちは隠せないから、挑発的に、だったら他の世界で巫女は生きているんでしょ、会いに行かせてよ、と言うんである。
後から考えると、いやこの時点でもちゃんと変換して考えると、こんな残酷な言い様はない。そりゃだって、外見が違う女の子なんだから一穂が信じがたいのは仕方ないが、巫女しか知り得ないことを知っている彼女を、ニセモノだと断じ、本物の巫女に会わせてよ、というのは……まさに本物の巫女にとってはあまりに辛い言われようなのだ。
しかし、ムリもない。ここに、三人主人公がいるけれど、三人目はカウントできるのだろうか、という不思議がある。一穂に会いに来た巫女、そしてそれを信じずに、自分で他の世界に生きている巫女に会いに行った一穂、それぞれがその外見が莉音なんである。
つまり、莉音そのもの、という女の子は存在しない、ということなのだ。それぞれの世界で、きっとちゃんと家族もいて、正当な手続き?で存在している筈なのに、まるで着ぐるみのためにこの世界に存在しているような莉音なのだ。
パラレルワールド物は、なんたってSFの王道だから様々な表現媒体で見て来たけれど、このアイディアは初である。
いや、パラレルワールドと言ってしまったらいけなのかもしれない、と思うのは、巫女として莉音の姿で一穂の前に現れた彼女が、一穂が使うパラレルワールドという表現に、そんなようなものかな、ぐらいに濁したことから感じ取れるんである。
難しい。パラレルワールドの定義は、少しずつ何かが違う世界であるけれど、一穂が莉音の姿を借りて飛んだ世界には、一穂の存在そのものがないのだ。
ちょっとそれがゾッとさせるのだが、巫女に会いたい気持ちでいっぱいのせいなのか、一穂はその事実に頓着する様子はないし、そもそも莉音という、器だけの存在はなんなのか。別世界を行き来する“薬”を持っているそもそもの存在はなんなのか。
巫女、という名前である。一穂との出会いで自己紹介した時には、まさかこんなまんまな字を当てるとは思わなかった。しかも苗字が唐木田(カラキタで)ある。
カラキタ。私世代の人なら知ってらっしゃる方もいると思うのだが、学研のおばちゃんが届けてくれる、学習と化学、その特別別冊的な、読み物特集。その中で忘れられないコワいSF、今思い返せばシンプルな物語だったように思うが、謎の転校生の名前が、カラキタミキ。ミライカラキタ、という謎解きがなされた時、マジで怖くて震えたことを思い出す。
カラキタなんて苗字、本当にあるのか。作り手さんが私の記憶と同じものを共有してるんじゃないの??読み物特集は私の読書体験の原点なのよ。地下数十階のデパートに売ってる巨大な長靴とか、今思い出してもトラウマ的に怖いの!!
……脱線してしまった。本作は、導入部分、百合族かとも思っちゃう美しき女の子同士の友情にうっとりとする。なんたって一番美しい時期のそのヌードを、親友に描かせるだなんて、女の子好きとしては、これがあったか!!とヤラれた感で鼻血ブーさ。巫女が死んでしまったと聞いても、ああ甘美な友情が哀しき結末、とか、のんきに浸っていたのに、全く予想外の展開。
飛んでいった違う世界ではじわじわ版バトルロワイヤルとでも言いたい、思想ロワイヤルが繰り広げられる。それを、たった一人残っている保健の先生が混じっているのが、更に残酷度を増すんである。だってこの先生、たった一人の大人なのに、一番ヘタレで、決断力がなくて、おろおろしっぱなしで、仕切り生徒に追い込まれてばかり、なんだもの。
食料の限界が見え始め、外に出ていく一人を決める投票シーンの残酷さは、筆舌に尽くしがたい。フィジカルの残酷さより、残酷なことがあるのだと、思う。
責任を問うために、記名性にするべき、ということが、残酷さに拍車をかけたが、だったら無記名なら良かったのか。現代の、匿名で自由気ままに中傷、弾劾、告発、……すべてが正体を隠したまま、正義を気取れる現代の風潮を思う。
このシーンはひどく残酷だけれど、それが残酷だと感じることこそが、匿名性の非常識な甘ったれを知らず知らず肯定しているということじゃないのか。バトルロワイヤルのように、フィジカルな本能や欲望もむき出しにして闘える方がはるかに幸せだったんじゃないかと、なんだかもう、訳が判らない状態になってしまって。
この極限状態に、自殺しようとする女の子が出る。それを必死に止める巫女と一穂(莉音の姿の)。巫女はもう心臓の薬も切れるし、自分は死ぬ寸前だけれど、でも生きたいと思ってる。あなたを助けて、私の分まで生きてほしいと、告げる。
センテンスとしてはよく聞く表現なんだけど、一度巫女の死に接した一穂がいて、でもその姿はアイデンティティを持たない莉音であり、そうなるとよく聞く展開には、ならないのだ。
巫女の発作が出てしまう。一穂は莉音(の姿をした巫女)から得たパラレルワールドを飛び越える薬を、瀕死の巫女に飲ませる。
一穂はこれまでの経験を学習して、元気に生きている自分を想像して、と必死に囁いた。そして私と出会った(この世界の巫女の記憶ではなく、一穂のいた世界の巫女、一穂から聞かされたエピソードに過ぎないのだけれど)桜が咲く石段を思い出して、と。
そもそも二人が出会ったのは、課外授業の一日だった筈だが、再び出会う、莉音の姿の巫女と一穂が出会う、同じ季節の同じ場所は、多分一年ずれてるんじゃないかと思われる。
卒業式の日、なんである。つじつまは、絶対に合わない。合わせようなんてことがヤボだと思う。違う世界に飛んだシークエンスはかなり社会派な気分もあったけれど、私は、私は……女の子の、なんていうのかな、つまらなくこねくりまわすんじゃない、まっすぐな、透明な、友情を信じたいと思う。
あまりにもまっすぐで透明だから、ラブに変換しそうになってキャー!!と思うのだ。女の子大好き。どんな世界になっても、きっと女の子なら大丈夫。★★★☆☆
物語はこう。将軍様がそろそろみまかりそうである。せいぜい半月か、もって20日。跡継ぎは当然長男だが、遠方にいる次男がこのチャンスに天下とったり!と、外様大名たちから連判状をかき集めている。
その情報を得た老中はお抱えの伊賀忍者、甚五佐にこの連判状を奪うよう内密に命じるんである。この話をしかと受け止めた甚五佐だが、仲間たちにその報告をする時には、彼だけでなく皆、これは俺ら全滅だな……という雰囲気マンマンなんである。
こちとら千葉ちゃん忍者に頭を犯されているから、何気弱なこと言ってんの、アンタら忍者でしょ!!とか思うのだが、無数の侍たちで固められているネズミ一匹入れないガッチリそびえたつ本丸の中の、しかもどこにあるかも判らない上に、相手方にも手練れの忍者が雇われているんである。
これが面白い。つまり忍者同士の対決になるんだけど、お互いスタンスが全然違う。甚五佐たちは主人のために既に命を投げ出している。ビックリするぐらい、本丸に侵入しようとしてバッタバッタと殺される。もはや作戦を遂行する気がないんじゃないかと思うぐらい、殺されっぱなしである。
それは敵方の根来忍者、才賀の才覚によるところも大きい。この才賀ってのが野心タップリというか、伊賀忍者がお抱え忍者として禄をもらい、悠々自適に暮らしてきたのに反発心を隠そうとしない。
そんなヤツらとは訳が違うんじゃい!!とそれこそハケンの悲哀とでも言いたい、いっときの雇われ忍者が、ここで結果を残さなければ根来忍者はすたれてしまうのだ、と鼻息が荒いんである。
しかしてこれは、そもそも忍者というものがある意味時代に必要とされなくなって、消えゆく物語ともいえる。甚五佐たち伊賀忍者たちはこのムチャな作戦が自分たちを全滅させることを知ってて、つまり負け戦に乗り込むのだ。
才賀は甚五佐に、自分たちのように根絶やしになるなと情けをかけられるも当然、そんな情けなんぞ受け付けないから、自ら滅びちゃう。この物語が終わった時には、忍者たちは、消えてなくなっているんである。
いや、二人だけ残る。それがトップに名前が来る、つまりはスターさんである里見浩太朗である。里見浩太朗!!若い映画スターの彼、初めて見た!!若い時の方がお顔がハデ!!
里見氏演じる半四郎は、甚五佐の妹の梢と心を通わせている。つまりは恋人同士。甚五佐は気づいているが見て見ぬふりをしている。しかしコトがもうにっちもさっちもいかなくなると、いわばそのことで半四郎を追い詰めるようにして、頭の座を譲るんである。頭の自分が捕まることで隙を見せなければもう突破口はない。そしてその後、すべての指示をお前が出すんだと。
半四郎は残った仲間の中ではまだまだ若く、彼自身戸惑うんだけれど、そもそも忍者世界というのは頭の言うことは絶対。むしろ半四郎の覚悟に応じる形で、残った仲間たちは命を預ける、とゆーか、死ぬ覚悟をさらに固める。
こんな台詞が印象的である。「伊賀の忍者は頭の命ずるままに死ぬ。頭はただ死ねと言えばよい」はああ……この時代にはまだそれが美学でいられた美しき主従関係である。
そーゆー意味では現代の私たちに痛烈に刺さるのは、根来忍者の才賀の方に他ならない。そもそもいでたちからして田舎臭くて、しゅっとした甚五佐とはえらい違いである。
ちなみに甚五佐に扮しているのは大友柳太朗で、才賀は近衛十四郎である。知性的な甚五佐に、噛みつくようにジェラシーをあらわにする才賀、同じ忍者というくくりでここまでの違いである。
でも甚五佐は、かみつく甚五佐を冷静にあしらいながらも、どこか敬服しているというか、ちょっと可愛いぐらいに思っていたかもしれないのだ。こういう忍者に自分は、自分たちはなれない。そしてちょっとバカだけど実力のあるこの男を死なせるのはあまりに惜しい。
見たても作戦も正しいけれど、勝つことだけに執着して家中の者たちを見下し反感を買って協力が得られなくなる。つまり、リーダーには向かない男。それが彼自身の、根来忍者が生き残ることへの執着が生んでいるのだと思えば、なんとも哀しいのだが。
確かに伊賀忍者はここまで劣勢中の劣勢である。バッタバッタ殺されてる。だから家中に油断は生まれている。ただ一人、才賀だけが頭である甚五佐を捕らえたことにはしゃぎながらも、残っている彼の仲間たちに恐怖にさえ近い危機感を募らせるんである。
残っている伊賀忍者は二人。そこまでは突き止めている。捕らえた甚五佐から、「つまりそれは、腕が立つから残っているということだ」と言われなくても判っているのだ。
しかし家中はたった二人残っているだけ、ぐらいな雰囲気になってきている。ちなみにこの残っている二人は半四郎と、彼と同年配かちょっと先輩な雰囲気の文蔵である。演じるは東千代之介。また彼がイイんである。
半四郎が頭に任命されたと知った時、キャリアや実力的には恐らく文蔵こそが適任と彼自身も周囲も思っていたんだろう。文蔵はそんな気持ちを残しつつも頭が決めたことなら、と新しい頭である半四郎に従うのだが、もう残り数人、どころか彼ら二人てなところになって、ぶつかり合う。もう敵に見つかっちゃう!!てなところで、である。
半四郎はとにかく慎重派である。もちろん命を受けて死ぬことはいとわないが、あくまで受けた仕事を遂行する、それがどんなに不可能に限りなく近くても、というのが彼のスタンスである。
そう、明確に言う訳じゃない。言う訳じゃないから、最初から命を投げ出すつもりの文蔵はイライラするんである。
そういう意味では確かに、甚五佐が半四郎に頭の座を譲ったのは、妹の恋人だからという訳じゃなかったのねということが判ってくるんである。
文蔵も半四郎の「無策ではなく、耐えがたきを耐えている。それが判った。負けた」とさわやかに、おとりとしての身を投じるんである。彼が倒れれば、伊賀忍者たちは倒した!!ということになるから。
なんで?それは梢である。この足手まといな半四郎のカノジョは、そーゆー意味では敵をかく乱し、半四郎の身を救ったわけである。ちょっとイラッとしたんだけどね。来るなっつーのに来るし、彼女が来たためにベテラン忍者さんが、自分は老いぼれだから、と梢の足手まといの責任をひっかぶるように彼女の代わりに敵の矢にかかっちゃうし。
女としては、足手まといになる同じ同性の姿は、ホンット、見たくない。半四郎様!、お兄様!!じゃねーんだよ!と言いたくなる。
ただ、これが思いがけない事態を招く。伊賀忍者の残りは二人、と計算していた才賀は、梢を捕らえ、文蔵を倒したことでやったった!と喜び勇む。それを静かに見守っていた甚五佐は、……うーむ、これを教えてあげちゃうのは敵に塩を送るというより、なんだろうね、ちょっとやっぱり才賀に対する共振があったのかなあ。
「公儀隠密人別帖に女の名は載せぬ」つまりあと一人、残っているのは最強のあと一人。そうわざわざ告げるなんてさ。
甚五佐は才賀を、自分と闘わせたかったのかなあ。才賀はここに、たった一人で来ていた。伊賀忍者たちが次々死んでっちゃうといえども、甚五佐にとっては常に仲間と共に闘っている訳で。
単に作戦係として雇われ、虚勢を張って空回りばかりして、ついには家中から疎まれて言うこと聞いてくれなくなる才賀は、本当に孤独で、ハデな立ち振る舞いだからこそ余計に孤独で。
なんかね……甚五佐が、もう足が動かない訳よ。憎しみを込めて才賀にやられちゃってるからさ。座敷牢に押し込められて、一歩も動けない……と思いきや、半四郎から取り上げた梢のかんざしでこっそり牢の木枠を削っているんである!!
そして半四郎たちがついに乗り込んできた時、甚五佐は、まず一番大事な連判状を手中にする。才賀が甚五佐に威勢を見せつけるために彼の目の前に置いていた連判状、その後は他の場所に移したがっていたのに、家中から嫌われまくっていたもんだから、おめーが守るって言ったじゃねーかよ、みたいにイヤガラセ的に甚五佐の目の前置きっぱなしにされるんである。
ああ、もうなんともはやカワイソウな才賀である。でも……才賀がきっと、最高に尊敬していたからこそアンビバレンツに悪口雑言を浴びせていた甚五佐と、一騎打ちになったのは、彼にとって幸せだったということなんじゃないかなあ……。
だってこのシーンはかなりの尺を割くし、もうなんかね、歌舞伎か、っていう強烈な様式美で、死にそうで死なないとか、もうヤバいのよ。それから考えれば、半四郎と梢の手に手を取って生き延びる恋人たちなんて、アホみたいなもんよ(爆)いや、言い過ぎだが……。
つまり、甚五佐は半四郎と妹の梢を生き延びさせるのだ。あんだけ最初からアキラメムードで、仲間の死の報告のたびに「惜しい者を亡くした……」と何度言ったか知れやしないのに!!
でも、それはあくまで、恋人同士としてである。伊賀忍者としてではなく。「江戸へは戻らず伊賀へ行け。忍者には家を持つ幸せはないのだ。その悲しみはわしで終わりとしたい。人間としての幸せをつかんでもらいたい」凄くない、この台詞……。忍者には恋人も家族もないということなのよ。
だから究極に言えば、妹である梢のことをここに含めて言ってないんだよね。伊賀忍者を絶やさせる。その責を負ってお前たちは生きていけ、と、部下に向かって言ってるんだよね。
哀しすぎる……そしてそれを息も絶え絶えに言っているのに、お兄様!!頭!!とおめーら長すぎる、甚五佐の心意気をくんでさっさと行けっての!!
才賀を封じ、異変を察してのぞき込んできた武士を引き込んで倒し、半四郎と梢を追わせないよう、かんぬきをかけて、更に警護するかのように、そこにぶら下がって、ガクリと甚五佐は死んだ。
もう最初から、命を受けた時から、諦めというより、死相が浮かんだような、死にゆく覚悟を決めている甚五佐を演じる大友柳太朗の滅びの色気が凄まじく、老人に変装したりしてもその色気がダダ漏れ。
もちろん野心タップリの近衛十四郎も、若くピチピチの里見浩太朗も、ヒューマニズムあふれる東千代之介もすべて素晴らしいんだけど、大友氏の、最後の忍者の覚悟には、打たれたなあ。
★★★☆☆
いやでもやっぱり違う。確かに男性側の主人公はなかみつ氏、女性側の主人公はめぐり嬢なのだが、それぞれにやはり違う圏にいるといった感じである。
しかしなかみつ氏演じる正一はどこか特別な目でめぐり嬢演じる泉を見ている感じは確かにあった。そしてそれはピンク映画なのに、不思議にエロじゃないんである。正一自体は二言目にはセクハラめいたことをいうエロオヤジなのにも関わらず、である。
そもそもの出会いは、これまたいかにもピンクらしいのだが、花屋の正一がバイトで入っている女子大生とラブホでよろしくやっていて、夜明けのコーヒーが飲みたいから用意して、と言われてしぶしぶ買いに出た、路上に座り込んでいた泉の前に缶コーヒーを転がした、その時である。
その時、正一はもう、亡き妹にソックリだということに気づいていたんだろうか。見てる限りではとにかくエッチの続きに慌てて駆けていく感じに見えたけれど。
後に正一のお得意様で行きつけのスナックに、バイト募集の貼り紙を見て入ってくるのが泉で、その時改めて目を見はるから、やっぱりこの時、かなあ。
でもその事実はかなり後になってから示される。正一は毎朝、写真に手を合わせて出かけるが(もちろん、いつも新鮮できれいな花も供えられている)、その写真が全然観客に見せられないから、なんでかなあとは思っていた。
てっきり奥さんが亡くなったのかと思っていたけれど、女子大生とウハウハエッチするし、スナックのママにも言い寄るし、肩と乳はただで揉ませるもんだとか訳判んないこと言うし(爆。でもこれ、エロオヤジのセクハラ言葉としてはめっちゃ上手く出来てる……)、奥さんが亡くなってのこの所業だったら、いくらピンクでも許せない気はしたんだよなあ。
そうか、コイツはここに至るまでひとりもんか。気のいい人だし、本当はとても優しくて世話焼きだし、だからスナックのママも泉も、ウザがりながらも正一のことが憎めないのは見ててよっく判るし、でも、ママも泉も一様に、「あの一言がなかったらねえ……」という感じで、モテない男な訳なんである。
ママに関してはちょっとミステリアスなまま終わる感じがある。正一とは腐れ縁で、いつエッチしてもおかしくないような雰囲気を醸し出しつつ、その巨乳には一切触らせないし、突然一ヶ月の旅行に、どうやらオトコと出かける様子をふりまいて中盤、姿を消すんである。
そしてその中盤、またまたミステリアスな助っ人ママが登場して、その助っ人ママのワケアリ情人が、影のある色気ダダ漏れならこの人、な岡田智宏氏であるから鼻血ブーである。
高倉健みたいに短髪に刈り込んで、いい感じに年を重ねた岡田氏、頬にぽつんとある印象的なホクロがどーにもこーにも色っぽくて参っちゃう。
このイイ年になるまで童貞、融通のきかない性格で生きづらく、最後に童貞を捨てて死のうと思って、そんな店に行った勲(岡田氏)。そこでこの助っ人ママ、サエと出会って恋に、いやつまりセックスがよくって、いやその……いややっぱり、恋に落ちたのだよ!!
しかしサエのダンナがクズで、彼女を助けるためにコイツを殺しちゃったのか、ケガさせただけかもしれんが、とにかく前科者にしてしまったと、サエは苦悩する。
そして結局、二人がどうなったのか知れぬまま、本来のママが帰ってきて判らないままなのだが、こうしてサイドストーリーがやたら重く湿度しっとりしているのが、当然若い主人公カップルにも影響してくるんである。
泉は、ストリートミュージシャンの幹雄に出会った。純粋にいい曲だと思った。声をかけて、ポケットからりんごを取り出して投げ銭の代わりのように差し出した。なんという、ポエティックな出会い!
すぐに彼は彼女を追いかけ、次のシーンではもう肩を抱いて、その次のシーンではもうセックスしてた。
ちょっと、時間軸がジグザグと交錯する。今の時間軸で幹雄はもう音楽をやっていない。スナックのアルバイトに出かける泉と、ツンデレみたいなラブラブを繰り広げているけれど、どうやらチンピラ稼業に身を落としているらしい。
いや、チンピラにすら、なっていない。彼は本物のヤクザになりたいと思って、盃をもらうために、いわばプラプラしているんである。
あれれ、つい最近、バブル前の、実にウン十年前の映画で、ヤクザ前のチンピラ、というまさにその通りの設定の映画(「チ・ン・ピ・ラ」)観たぞ。しかしてその当時の価値観とはこんなにも違うか、ってものだった。バブルを目前にしたキラキラ時代は、縛られなくない、自由でいたい、でも遊ぶ金は欲しい、そんな感じだった。
でも本作の彼、幹雄は……愛する女を幸せにするために金を稼ぎたい、そのために本物のヤクザになりたいと言うのだ。そんなバカな。
いや、もう一つ理由がある。彼女も自分もこの街が大好きだから、外からはびこってきている輩を排除するために自分が力になれるなら、と思っているというのだ。
幹雄を演じる山本氏は、常に思い詰めたような表情に女心をつかまされる。端正なお顔立ちは真にイケメンと言って良かろう。
幹雄と泉が恋人同士になるに際しては、泉にストーカーのごとく付きまとっていた男を、幹雄が排除した過去がある。その男のナイフに切りつけられて幹雄はギターが弾けなくなってしまった。
それ以来、ケースに入ったまま取り出されることのないギター。それを泉が哀し気に見やるシーンが出てきた時、こーゆー場合、ホコリぐらいかぶってないとリアリティないんじゃないの、低予算だから美術がテキトーなのは仕方ないわよね、なんて知ったようなことを思った自分を後にめっちゃ恥じることになる。
正一が、幹雄の暴挙を止めるために、彼のギターケースを持ち出して突き付ける。あれ以来一度も弾いていない、置いたままだっていうのに、ホコリひとつかぶってねえじゃねえか、って言うの!
うわ、ヤラれた!はずかし!低予算だからね、なんて、なんて知ったようなこと思って、マジはずかし!!あーもう、判ってたじゃん、ピンク映画は、一見ヤッツケのように見えて、絶対に、そうじゃないんだって、判ってたのにー!!
結局はね、幹雄を止めることはできないの。幹雄がムチャする理由が、泉を愛しているからということプラス、この街を愛しているからだと言われたら……止めようがない。ただ……ヤクザになることだけは、正一は止められたんじゃないかと思いたいけど。
もうギターが弾けない幹雄と、泉は何か、お店をやりたいと思っていた。幹雄をヤクザにしたくないのは当然、でも彼女には止められなかった。そこんところはどうだったのか……難しいところなのだが……。
本作において、様々な人間模様、男女模様、ママに至っては全く見えないから妄想を掻き立てられる人生模様があったりして。
正一なんぞはここまで単なるエロオヤジのままのひとりもんで、周囲の老若女たちにナデナデされて、愛されているけれど、まるでまるで、純情中学生男子。亡き妹にソックリだったからほっとけない、だから当然エロの対象じゃないし、その子の彼氏ならもはや自分の弟だし、てなわけで、ほっておけないんだ。バカみたいに愛すべき男!!
数年後、なのだろう。泉は戻ってくる幹雄と一緒に営む飲食店の物件を物色している。通りかかった正一は、喫茶店がいい、時間がつぶせるから、俺を雇ってくれよ、と言う。泉は幸せそうに、ウエイターはもう決まってるから、ダメ!と言うんである。
もうこうなったら、ラストシーンはキマリである。正直な気持ちとしては、正一のハッピーエンディング、腐れ縁のママとのエッチシーン一発でもいいから欲しかったが、ありそうだったけど、ない、ってことは、本当にそういう仲にはなれないんだ。正一は愛すべき男だけど、世話焼きのソンな立ち回りで終わるっていうことなんだよな、愛しき切なき、である。
幹雄が、暴挙に出る場面で正一、そしてママも駆けつけた場面、バカ、と言われるのは悪くない、泉がそう言っていたけれど、本当にそうだ、と、幹雄が子どもみたいな幸せそうな笑顔で言った場面が良かった。
その後、幹雄は結局バカな所業に及び、正一とママはそれを責任もって見送るのだが、愛情持ってバカ、と呼ばれる仲間がいるこの街が好きだと、いうことなんだよね。ただいまと言って泉に迎えられるラストは最高の幸福感。★★★☆☆
夏の“彼氏”の修吾の“ストーカー”行為はLINEを切れ目なく送ってくる程度。程度、と言っちゃうのは、乃亜がその後付き合うことになる昌也の束縛はハンパないから。
乃亜のバイトするバーに彼女を監視すべく端っこにずっと居座り、マスターから「番犬かよ……他の客が居座らなくなるだろ」と苦言を呈されている。
なぜこんな男と付き合ったのか。マスターとイイ感じにもなっていたのに、乃亜は根負けしたようなことを言っていたけれど、「リーマン。スーツ着てる」程度の平凡さが、自分の身の丈に合ってるぐらいに判断したのかもしれない。
マスターはシブくて色気のある大人の男で、若い頃には野心があった雰囲気がプンプンする。それは、夏が所属している政治系サークルのデモの話にちょいちょい食いついてくるのでも知れる。
マスターに扮する那波氏の影のある色っぽさにはいつもクラクラくるが、いかにもこうした過去がありそうでうっとりしてしまう。
かなり後の話にはなるが、口先ばかりで本気で世界を変えようなんて思ってない夏の彼氏(この時点では既に元カレ)である修吾に、ナイフを渡し、変えたいと思うならデモよりもテロだ。これぐらいやらないと変わらない。しかも変わるのは一瞬ですぐに元に戻るんだと、自嘲気味に言うシーンが、本作の最も言いたかったポイントではないかと、思ってしまう。
お前みたいなやつは昔も沢山いた。今じゃ立派な歯車やってるやつらだ。俺か?さしずめ摩耗した歯車ってところか。あきらめの味は苦いんだぞと。
世の中を変えたいと言っているのは実は、自分が変わりたいのだ。それを世の中を言い訳にしている。デモもテロも同じことだと言ってしまっているような感じは、今の世の中的に危険思想かもしれないけれど、判る気もするのだ。
そしてそれを、男の子たちは政治に反旗を翻すデモと言う形で、女の子たちは恋人やセフレたちに表現しているというのは、極端すぎるといえばそうだろうか。
まずヤリマンという印象を強く植え付けた後で、夏の家庭時事情がかなり複雑であることが示される。母親と母方の祖父と夏の三人暮らし。即座に想像される。そう、父親と長男坊が死んでいるんである。
しかし父親の不在はほとんど語られることがない。母親にとっては息子の死こそが大事件である。夏のことは、息子の代わりを産むつもりだったのにと言う。つまり失敗だったと言っているようなモンである。
そして飲んだくれである。夏が家に寄りつかなくなるのはむべなるかなだが、いわば板挟みになって苦しんでいるじいちゃんのために時々は顔を出す。
娘の苦しみも孫娘の苦しみも判るだけに、じいちゃんはこの親子の間で本当に苦しんでいる。娘は酒浸り、孫娘は男浸りだなんて。そしてそれは双方ともに、自分自身の感覚を何かを触媒として取り戻したいと無意識に思っているからなのかもしれないと思う。
それは特に、夏に思う。判りやすく可愛らしい女子大生の夏が反政権デモをばんばんやるようなサークルに所属しているということこそに、彼女自身のぼんやりとした、何者かになりたい、何かを変えたい気持ちを感じる。
しかしそこに所属している男たちが、彼女と同じように何者かになりたい気持ちを持っているものの、どこか男のくだらないプライドが先行して、カタチ以上に進めていないヤツらばかりなのだ。
修吾はライバル大学のスターラッパーにうっとりしちゃうし、田舎から期待を背負って「実家では俺が初めての大学進学」だという公正はやはりそうした気負った気持ちがあった。
唯一明確な政治的目的をもって臨んでいると思われたリーダーの春来でさえ、はかばかしい実績が上がらないのにイライラしている、のは、彼はハッキリと、「理念なんかない。将来政治やろうと思ったら今から動いといた方がいいからなだけだ。俺みたいに何の子でもないヤツはそうするしかない」と自覚しているからなのだ。
世の中に本気で腹を立てて、変えたいと思って、そんな気持ちがある者たちはここには一人もいない。
それを象徴するかのように、話ばかりに出て、デモのシーンは一ミリも描写されない。それは無論、低予算のピンク映画だからということはできるが、彼らの空虚な“なりたい自分への渇望”を皮肉っていることは即座に想像されるんである。
春来は年上の彼女と付き合っているが、そこにも束縛がある。この彼女にはコワい兄貴がいて、しかも彼女は「中出ししても大丈夫だよ」と、どっちの意味の大丈夫やらのからめ手も使って、春来を逃がさないつもりらしいんである。
夏の“ヤリマン”が春来にも及んでいたことが知れて修羅場になるが、いくらこの彼女が凄んでも、夏は相手にしない。だって夏にとってどの相手も、彼氏の修吾ですら、彼女の人生を一ミリも変えなかったから。
そういう言い方は勝手かもしれないけれど、間違ったやり方だったかもしれないけど、夏は自分が何者かということを何とか否定せずに、死なずに、生きて行くために、“好きでもない男とのセックスも気持ちいい”こと、政治活動だってサークルに入った最初はきっと希望があったに違いないし、必死だったに、違いないのだ。
夏と関係を持った男たちにとっては、単なるヤリマンだったのだろうが、でもそれは結局、それを言い訳にして、恋人でもない女とヤッたことについて自分たちには責任がないと言ってるようなもんだ。
それを象徴するのが、外出しすれば大丈夫だから、と誰もが言っていたこと。彼氏の筈の修吾にだけ、だったら買ってきてよ!!と蹴り飛ばさんばかりに何度も拒否していたのは可笑しかったが、それは修吾がウザかったからではなく(そう見えたけど……)サイアク彼氏ならそこんとこはきちんとしてよ、ということだったのかもしれないと後から思い当たる。どーでもいい彼氏でも一応彼氏、それ以外の男たちは、クズでもまあしょうがないかということだったのかもしれないと。
コンドームを使うことは最低限のマナーであり、相手がヤリマンだからという言い訳にしていたんだとしたら、男として本当にサイテーなヤツということなのだ。つまり、どーでもいい彼氏であっても、そこに猶予を与えてやったのに、コイツは、つまりこの時点で、カノジョがヤリマンだと知っていたから、軽く見ていたのかと思い当たると、フラれて当然!!と思ったり……。
おい、とかちょっと、で呼ばれることや、命令形が大嫌いだというのも、女として、お兄ちゃんの代わりとして、存在を亡き者として語られている自分に必死に抗おうとしている夏の闘いを痛烈に感じてしまう。
しかし、フラれてすっかり意気消沈したコイツは、乃亜のバーで潰れてしまう。「フラれて飲み明かすと言っていたから、稼げると思ったんですけど……」「たった二杯で潰れやがるってなんだよ」という乃亜とマスターの会話が可笑しいが、この場面にも乃亜の番犬彼氏は画面の奥にお控えなすっているんである。
「乃亜がいれば自由なんていらないよ」と、それは彼女の自由も奪っているという感覚だということすら判ってない彼に乃亜はもう我慢ならず、「私が好きだから?私が好きなオレが好き。ありがちだよね」とその自分勝手さを吐き捨て、以降連絡を絶つんである。
でも、居場所は判ってるから……最後の最後に話したいと言われて、仕方なく応じるも、なんと相手は思い出の場所、彼が乃亜に告白して、その後も何度となく訪れた橋の上で、農薬をかっくらって自殺を図るんである!!
サイアクの結末。その後乃亜はすっかり精神的にも体調にも不調をきたしてしまい、バイトも学校も行けなくなって、実家に帰ってしまうことになる。
平凡な、自分を好きになってくれる、そんな人の筈だった。スーツを着ている以外は、目だった個性が挙げられなかった、というのは、彼にとって残酷なジャッジだったのかもしれない。
つまりは乃亜は自分を愛してくれる無難な相手なら誰でもよかった、という選択が、こんな事態を招いてしまって、危険な香りがするからということだけでイイ雰囲気だったマスターをソデにしてしまっていた、ということなのだ。
一方夏の方は、乃亜をサポートする関係上、死んでしまった彼氏方の関係者と思しき青年と出会い、恋に落ちる。助監督をしているという彼は、いわば夏にとって初めての、地に足に着いた男だった。
そんな中、酔いどれ母親が事故で死んでしまい、一人になった祖父を案ずるも、「あの家に残るのは自分だけでいい」と言ってくれたおじいちゃんに甘える形で、夏は彼との同棲生活に入る。
ロケに出かける彼と連絡が取れなくなって不安になった時もある。でも、そのセックス描写は、それまで夏が、「好きな人とでなくても、気持ちイイよ」というのが、自分自身でも判ってなかった、そんなんじゃない、好きな人とのセックスは全然違うんだってことを、はっきりと差別化して示していた。
政治とか、国を変えるとか、あるいは自分を変えるとか、関係ない。自分自身が、望む道に進むことなのだと。そんな風に思えた矢先だったし、このままハッピーエンドになると思っていたのに。
いや、デッドエンドが示された訳じゃない。それまでの、ただただ続いた不穏な出来事が、影を落としただけだと思いたいけれど、あのラストは、あのラストは、ないよなー!!せめてせめて、夏の圧倒的なハッピーエンドにしてほしかった。
亡きお兄ちゃんの代わりにされ、父はいなくて、母に憎悪され、その母にも死なれ、自分のアイデンティティに苦しみ続けていた夏が、ようやく、純粋に愛する人に出会えたのに、なんであんな、不穏な予感のままのラストにするの!!★★★☆☆
登場人物たちのモノローグで展開していく形は、少なくとも私の観た竹洞作品の中ではお初のような。ピンク映画はとかく役者さんがかぶりがちにしても、バーのマスターの那波氏、そして彼が学生運動、デモ、といった過去の記憶を語ったところであれ、と思った。
聞き覚えがある……そういやあ、あのカウンターだけの店も同じに見える。ロケの使い回しだったりして(爆)。なのに見ている間は結局気づかないまま、って私ヤバくない!!同じチャンネルNECOで観た「女子大生 ひと夏の経験」のまさに続きではないか!!
バーでバイトしてる乃亜がこんどはヒロインとなり、彼女の友人で前回のヒロインであった夏は、あの不穏なラストの結末が……イヤな予感がやはり当たってて、助監督をやっているという新しい彼氏は自殺を図って死んでしまった。
そして孫娘の夏の背中を押して、彼氏との新生活に送り出して祖父は、今まさに孤独の一人暮らしをしている。うわおうわお、その後の物語なのではないか。なぜ私気づかない!!
……言い訳したくなるが、ヤハリ役者さんがかぶりがちだから、顔触れが似てるなと思ってもまさかと思っちゃったのだ。続けて観てればさすがに……間あいちゃったからなあ。
それに先述したけど、とことんモノローグで展開していく本作と、前作は違った色合いだったような記憶がある。鮮烈だったのは乃亜のストーカー彼氏が農薬をあおって死んでしまったクライマックスで、本作の劇中彼女が「あの時、彼、私を見て笑いながら死んでいった」と言っていた台詞を改めて思い出し、そうだそうだ、確かにそうだった!となぜ私思い出さなかったのかと(もうこればっかり)。
そしてあらたに本作で紡がれる人間関係も含めて、その全て、実に全員が、大切な誰か、自分を愛してくれた誰か、愛した誰か、を失っているのだ。全員、である。結構ボーゼンである。
前作では語られなかったが、マスターは学生運動に身を投じた当時の恋人を、つまらぬ内ゲバで失っている。彼はその原因となった、こうなったら爆弾を作るしかないという、その爆弾の設計図を形見として手元に残していた。
前作で中途半端な気持ちで政治活動にのぼせている青年にナイフを手渡し、変えたいと思うならデモよりテロだ、と試すように言っていた場面を思い出す。
本作で夏の新しい相手、いや、恋人というまでに至らぬままだが、中学の同級生として再会し、「父親の町工場を継いだ」という機械油の匂いを漂わせている青年。夏は今は亡き父親の匂いを思い出し、ふんわりといい関係になる彼が、なんと彼もまた、街頭のビラ配りに感化され、政治運動に身を投じるんである。
夏はテキトーに所属していた大学の政治サークルのことなど忘れたように、そんな彼の変容をぼんやりと眺めるばかりなのが面白いというかなんというか。
ここんところは肝心の夏とはつながらず、夏の友人の乃亜がバイトしているバーのマスターとつながっちゃうところが面白い。結局男の方が、世界を変える、そして自分も変わる、という幻想にとりつかれやすいのかもしれない。
女は現実的だからむしろその運動に身を投じるなら、マジに残酷になれると思う、というのは、最近女性プロレタリア作家の小説を集中的に読んでて、理想論の男性プロレタリア作家と比して、ナマでエロで赤裸々で凄い、と思ったから。
そんな物語も見てみたいと思うが、せいぜいビラ配りに終わるだけの“男の子の政治運動”は結局何も変えることはない。
本作で最も心打たれ、メインとして語られるのは、夏のおじいちゃん、今は孤独な一人暮らしのなかで、家政婦さんとして出会った、未亡人の美奈子である。
美奈子は夫と、仲良く暮らしてきたつもりだった。朝食のシーンが回想される。いつもの玉子焼き、つまんでしまう夫。目玉焼きを追加する。両面焼きにしてくれよ、と夫。そんな新婚夫婦のような会話が、懐かし気に美奈子のモノローグで回想される。
いつものように出勤した夫が、美奈子がアイロンをかけたワイシャツに自分と他の女の血をつけて、死んだ。ぼんやりと、血は醤油よりも落ちないよな、と美奈子は思った。
逃げるように故郷に戻り、家事代行派遣の仕事を始めた。そして出会ったのが、夏のおじいちゃん、木本だったんである。
木本は判りやすく老齢、60ぐらいかな?といった雰囲気。美奈子はぐっと年下ではあるけれど、結婚生活、目じりのしわ、年相応の落ち着きから、彼とせいぜい10ぐらいの差かなと思わせる。でもそれが、木本にとっては意外に踏み出せない差なのかなと思ったりする。
亡き妻に似ていたのか、出会った時から美奈子から目が離せない。家事をする彼女をずっと見てしまう。居心地悪くなった彼女が訴えると、三ツ矢サイダーをおわびに差し出し思わず彼女はほころんでしまう。
幼い頃の懐かしき味を木本は求めるようになって、そんな彼を美奈子は愛しいと思った。思わずキスをし、一度ははじかれるように離れ、でもおずおずと身体を重ねるまで時間はかからなかった。
本作の中で、美奈子の事情が最も壮絶に思う。夫は死に、そして殺人者でもある。詳しい事情は語られないが、つまり相手を殺し自殺した、無理心中というにも身勝手な、まさに殺人者だったのだろう。
夫の死の哀しみよりも彼女が「私は殺人者の妻」だという台詞に重い苦しみを感じる。美奈子と木本は愛する人を失ったという点では共通しているけれど、その事情は全く違うし、そしてお互い、その事情を明かすこともない。
ただ……そこに何か、同じ魂を分かち合うんである。ちょっとね、心配したのだ。こんな風に、いわば傷をなめ合う関係になったら、そのことに疑問を抱いて、離れてしまうんじゃないかって。
その心配が具現化しかかる。美奈子は木本との関係を見直すようなことを口にする。でもそれは、じぶんの気持ちを整理する時間を積極的に持ち、“待つ”時間を、木本と共に持ちたいと、彼女は言ったのだ。
忘れるために、とか、忘れなきゃ、じゃなくて。愛していた記憶を尊いものにできればと思うけれど、死という残酷はそう簡単にはいかない。でもそれを判って寄り添い合える相手がいるならば。
ピンク映画はなんたってエロだし、若い女の子のピチピチおっぱいが不可欠だし、本作だってちゃんとそれはそろえられているんだれど、一番グッとくるのは、巨乳ではあるがそれなりにおばちゃんで、横たわったらふくらみは流れちゃうし、腰も太もももばーんとしているし。
でもそれが、ここまで踏ん張って生きて来た、人生中盤の女であり、でも恋をし、彼女と恋をするおじちゃんはお腹ばーんと出っ張ってるし、勃たないし、でも恋をしているのだ。
勃たないなんて、大した問題じゃない、とここでも言ってくれていたけれど、声を大にして言いたい。ただ好きな人と、肌を合わせ、チューをして、あたためあえればそれで幸せなんだと。
乃亜はマスターと酔った勢いな感じで一度だけセックスした。でもそれっきりだった。なぜあの時、と乃亜は問うた。彼も悩み悩み、なにか哲学的な返ししか返せなかった。
マスターの吸いかけのタバコを奪って、乃亜がせき込むとか、なんか懐かしい匂いのする、大人なのに子供っぽい男と、急速に大人になりかかっている女の子のせめぎ合い。
那波氏はめちゃくちゃ大人の色気の男なのに、過去にとらわれているせいなのか、不思議に子供っぽい可愛さがあって、それはかつての恋人の死にとらわれているのがまるで大好きだったママへの思慕のようにさえ思われて、なんかズルいと思っちゃう。
モノローグ合戦の中で、夏役の若月まりあ嬢のボー読みがかなりキビしく、ブチ壊し感になっちゃったのがツラかった。
難しいね。このモノローグ展開の試みはかなり挑戦的だったと思うのだけど、モノローグ、単なる朗読じゃんと思われるものでこそ、芝居の力量が現れるものなんだなあと……。★★★☆☆
今から思えばさっさと観て、父親とこの映画のことで盛り上がれば良かったと後悔している。つまり……シビれちゃったのだ。父親もシビレちゃったからこそ、私に勧めてくれたに違いないのだ。
あーあ、後悔先に立たずとはこのことだが、でもこのコロナ騒動で、東映チャンネルを入れて出会えたということも、ヤハリ縁そのものに違いない。
実は、鶴田浩二とゆーのが、長らく私にはピンときてなかった、のは、彼の代表作を見ないまま、ワキで渋く構えているのにしか遭遇してなかったことが大きかろうが、それこそそれこそ、任侠映画にハマっていた頃に本作に遭遇していたら、きっと雷に打たれたようにファンになっちまっていたに違いない。
当時、これまた今はなき新宿昭和館に通ってはうっとりしていた任侠映画の数々は、今から思えばすっかり様式美が確立されていたそれであり、勿論その様式美が美しいからこそ私はトリコになった訳なんだけれども。
「任侠映画の最初」つまり、様式美がまだ固まっておらず、侠客というものが実際にいた時代を肌身で知っている世代のクリエイターたちが作り上げた任侠映画は、そうした様式美に当然のことながらとらわれることなく(だって確立されてなかったんだから)、何か、生々しさをもって迫ってくるのだ。
鶴田浩二や高倉健はむしろ、その中ではその後に通じる様式美の先鞭をつけている感はあるのだが、特筆すべきは女である。鶴田浩二扮する飛車角の女、遊女あがりのおとよを演じる佐久間良子。
まずその圧倒的な可愛さに衝撃を受け(そらまあ美人女優さんだとは知っているが……)、そして彼女が、私が“その後”の様式美任侠映画で安心しきって接していた、聞き分けのいい女ではぜんっぜんなく、180度どころか、ねじれて宇宙に飛んでっちゃうほど聞き分けなく、子供のように暴れ、泣きじゃくり、ヤダヤダって言う……そのある意味アクションの凄まじさに圧倒されちゃって。
当時の女性(舞台設定も、作られた時代も)だから、受け身であるしかない、愛した男、あるいは愛してくれる男に身をゆだねるしかない、それは彼女自身の遊女としてのスタートと、結局同じ苦界に再度身を沈めるしかないという彼女が、愛というよりも生きるためじゃないかと思われるほどに、必死に、狂犬のように食らいつくそのアクションが凄くてさあ……。
そして、なんと言っても映像のコントラストの壮絶な美しさである。ああ、これはスクリーンで観たかった、いや、観たい!それこそ後に確立される様式美の、時には華やかさとはまさに対照的なのだ。
泥で泥を洗うような組同士の血だらけの抗争、刑務所の寒々しさ、出所した飛車角を迎える吉良常との、哀しさ虚しさをこれっでもかと表現するびょうびょうと吹き荒れる乾いた砂嵐、苦界に落ちるおとよの日の当たらないじめじめした花街の一角、ラスト、命を投げ捨てて“男になりに”命を捨てに行く、すっかり日の落ちた、目を凝らさねば見えないような、人の姿もシルエットになったような中での立ち回りといい、ああ、どれもこれも!!
しかもその中に、飛車角が服役している間にお世話になっている親分さんが、実は裏切り者で、そのアリバイにおとよを使うために花火祭りに呼び出し、ドーン!と上がる花火と、殺人シーンとのカットバック、愛らしい佐久間良子のふっくらとしたお顔が恐怖にひきつる、その彼女を、判ってるだろ、とばかりに一瞥する裏切り親分さん、ああ!!
こういう印象的なモダンなカットバックがここだけじゃなく、物語の転換点のそこここに見られ、しかもそのシーンはことごとく……この華やかな花火祭りのシーンですらも、マット感強めの渋い色味で押さえ、心理の、精神の奥底にひたひたと訴えるようなのだ。
なんかすっかりしびれ切っちゃって物語を追うのもおっくうになったが(爆)、まあよくある組同士の抗争ってことで(爆爆)。
飛車角はその中で一匹狼の客分なので、常に今草鞋を脱いでいる組に忠誠を誓うという、つまり、“一宿一飯の義理”とゆーやつね。
現代の感覚ではちょっと信じられない義理がたさであり、それはきっとおとよのような女にとって、当時であったとしてもそらあ信じられなかったであろう。
で、そんな他人に近いような親分さんに忠誠を誓って、駆け落ちしてきた女を置き去りに、命を落とすかもしれない抗争に加わり、死ななかったものの、自分がすべての罪をひっかぶって5年の実刑。
この時の親分さんは当然止めたんだけれど、飛車角が言った台詞がこの当時(舞台設定と、作られた当時両方ね)は許されたんだろうなあと嘆息する。「おとよは俺の女だ。俺と同じ気持ちに違いねえ」明らかに違うじゃん……それあんた、判ってない訳ないじゃん……。
で、この時この小金親分さんの手下として、飛車角と敵方に殴り込みに行ったのが高倉健扮する宮川であり、「死にに行く時はじめて口をきくなんて、妙な縁だな」だなどと言っていた訳だが当然そのまま済むはずがない。宮川とおとよがお互いその正体を知らないまま深い仲になり、ネジくれた展開になる訳で。
その前に、本作の中でちょーぜつ、私がいっちばん、シビれたのは、鶴田浩二でも高倉健でも佐久間良子でもなく、誰かと言えば吉良常を演じる月形龍之介、なんである!!名前は知ってるし、多分(汗)何本か出演作品も観ていると思うんだけど、バチッ!とその存在がハマったのは、初かなあ。
もう老齢。殴り込みに行って殺しをして、逃げてきた飛車角をかくまうために登場するその姿は、うたたねをしていたところを起こされた、というのどかさだし、おだやかな老人そのものなんだけれど、水を一杯と所望する必死の形相の飛車角に驚くこともなく、むしろ一目でその男気を見抜いてほれ込み、捜査に来た警官たちをハネつける。
この一連のシークエンスの彼の発する言葉はどれもこれもが名台詞で、全部ここに書きつけておきたいぐらい。その中でも一番は、警察とのバチバチのやりとりの中のこの台詞かなあ。
「バクチ打ちじゃねえ、侠客だ。落ちぶれようが腐ろうが吉良の仁吉の血をつないできた吉良常だ。死んだって卑怯な真似はしやしねえ」
……あのね、任侠映画、と言っちゃったけど、任侠と侠客という言葉の違いは、ニュアンスなんてものじゃない、もっと決定的なものがあるんじゃないかと、思うんだよね。
吉良常は後に、郷里に跋扈している新興の組のやり口に、「あれじゃまるで暴力団じゃねぇか。」と口をゆがませる。暴力団、という言葉がヤクザという言葉の次の表現として使われたが、ヤクザという言葉はそれそのものというよりは、生活態度とかいろんな意味を包括したいわば便利なもので、そんな言葉を挟みつつ、侠客、任侠、ヤクザ、と“衰退”していったように思えてならない。
そう、名言はキリがないんだけど、それを言ったらこの言葉も連ねたい。仕事は何だと警官から居丈高に問われた吉良常が、「国定忠治を知ってなさるかい。(そんなこと聞いてバカにしてるのかと返されて)バアにしてやしねえ。国定忠治だっておめえさんの商売は何だって聞かれたらきっとまごつくさ」
これさあ……まさに侠客の美学を、説明しきれないそれを、まさにまさにシビれる例を持ってぶつけてるじゃない。誰が、国定忠治は暴力団でヤクザで悪人だって思うよ、っていう話じゃない。
……吉良常にシビれすぎてなかなか話は進まないが、このお話が大正時代、っていうあたりが、そういう過渡期を示しており、ヤクザは暴力団になり、警察ににらまれ、義理と人情は衰退していく、そんな時代ということなのだろうが、なんたって大正だから何とも言えないモダニズムな魅力もあり、そして佐久間良子は超絶可愛いし。
てか、ちらっと触れたが、たった一瞬の道行であったとはいえ、なんたって親分の窮地を身を挺して乗り込んでくれた兄貴のいろ(女。この表現は、なかなか微妙だよな……)と、それとは知らずに情を通じてしまう宮川=高倉健、なんである。
先述したとおり、飛車角が信じて彼女を託した奈良平親分(飛車角が客分となっていた小金親分の弟分)が裏切り、小金親分を殺害したことで、おとよは身の危険を感じて逃亡。働いていた料理屋で奈良平親分と偶然遭遇してしまい、逃げ出したところを助けてくれたのが、小金組解散後、人力車を引いて生計を立てていた宮川だったとゆー、まあありえない偶然だが。
この緊張の事態のせいでか発熱してしまったおとよを、宮川が自分の住む部屋で介抱したことから情を通じてしまう、とゆーか、見た目的には宮川の方がのぼせ上っちゃって、ほぼほぼレイプに近い形でおとよをモノにしてしまったというのが正解だからなあ。
おとよは宮川が小金組の者だと知って泣きじゃくりながら彼の元を去ろうとするんだけれど、そもそも力づくにヤられたのか、それともそのテイを言い訳に彼女もホレちゃってたのか……。
ちょっと判然としないなと思うのは、この当時の時代感で、他の男に肌を許したら、しかもそれが兄弟分のおきてを破っては、みたいな、もう後戻りできないでしょみたいな雰囲気があることもあるし、男はカイショでも女は穢されたらそれもまた後戻りできないでしょ、って雰囲気があるし……。
何より何より、おとよだけが知っていた、小金親分殺害は、奈良平親分の指示であること、つまりは……ここもまた、侠客ではなくヤクザであり、暴力団であるような、義理人情ではない勢力拡大、名誉欲、金銭欲という、成功を良しとする時代が生み出したあつれきの構図であり。
そのことをおとよから知らされた宮川は、それが、飛車角に二人の仲を告白して許しを請うた後だったから……。飛車角は悶絶しながらもおとよを思って諦めたのだ。なのにその後の、おとよの血を吐くような真実の告白である。何で言わなかったんだと、だってだって、おとよは、女だから、この当時の女だから、この事実を言ったら男がどう出るか知ってるから、それが愛する男で愛してくれる男であれ、女の自分は、さあ……。
なんてことを言ったら、イジワルだろうか。でも、5年も自分を信じて刑に服していた(まあ、勝手な言い分で彼女を待たせてた訳だが)飛車角が、裏切った自分と宮川を許して、幸せになれよと言ってくれたのに、宮川が奈良平襲撃に失敗して命を落としたことを知った飛車角が、その仇を討ちに行くことを知ると、「あんたのことが一番好き」と言うのは、それは、それはないよう。
宮川があまりに不憫だし、ならば、どんなことがあったって、宮川にレイプ(爆)されたって、愛されたことが嬉しかったって、飛車角が出てくるのが待てなかったって、それは、言っちゃダメだって!
そりゃさそりゃさ、おとよはメッチャ苦労したさ。自分を卑下して自ら苦界に身を沈めて「物好きだねえ」なんて言われて、一時は満州にまで身を売りに行こうとしていたところを吉良常に救われたのだ。
めっちゃ可愛いし、可哀想なんだけど、時々イラッとするのは、恐らく……彼女だけが時代感が違うからなんじゃないのかなあと思うのだ。それこそ様式美が確立される前だけど、なぜだか古臭い価値観を持つ男どもは(爆。それが素敵なんだけどね!!)なんとなく察知して、美しい日本的様式美を演じるけれど、まだそれが確立されていない段階の女優=女である佐久間良子の生身の本能のぶつかり合いが、もう格闘技よ。
だってそりゃ、女は愛にしても生活にしても、生きなきゃいけないんだもん、必死だもん。
そしてそのめっちゃくちゃ対照にいるのが吉良常老爺であるのだが、彼はまさしく、そんなすべての若いもんの煩悩を受け止めてて、本当に、本当に素敵なんだよなあ。★★★★★
でもまさに彼らはワキ役中のワキ役、あるいはコメディリリーフであるからして、主人公の角さん、そしてラバウルで共に手に手を取って生き延びた戦友、岡崎はあまりに辛く哀しいラストが待っている。
角さんが自嘲気味に言うように、彼は確かに古いタイプの男なのだろう。だからこその末路だとも言えるのだろう。ただ、最初のうち、戦地から帰還したばかりの頃、彼にその言葉を浴びせるのは、闇商売で儲けて「俺が組を支えている」とふんぞり返っているかつての組の後輩、神戸なんである。
角さんがいた頃の白根組は根っからの侠客である親分の元に、浅草に古くから根を張って男意気を張っていられたが、戦争、焼け野原の東京では何もかもが変わってしまった。
神戸は行き場のない女たちを救うという名目の元街中から女たちを引っさらって、ムリヤリ米兵の相手をさせて荒稼ぎをしている。着替えだとアロハとスラックスを手渡されてあぜんとする角さんは、親分さんのお古の着流しを着て神戸をたしなめるも、そうやって稼いだ金で買った闇米をあんたは食べてるんだと嘲笑する。更にあぜんとする角さん。
ついには一騎打ちとなるが、その間、嫌がる女をレイプしようとした米兵とのいざこざで、老衰で臥せっていた親分さんが射殺されてしまう。
うっわ!である。だってだってだって、のど元にピタリとピストル当てられて二発、三発!!角さんは神戸と雑魚たちを蹴散らしたけれども、その間に起こってしまった出来事で、もう白根組は完全崩壊。
おっと、大事なことを言い忘れた。角さんには大事な人がいる。踊り子のまゆみである。壁に大事に貼られたモノクロ写真から察するに、もともとは正統派のバレリーナだったに違いない。
角さんとは白根組の若いもんが出征する壮行会をやっている隣の部屋、ということで角さんがコップを借りに来たことで出会った。敵組が差配する劇団に属するまゆみが角さんと仲良くしていることで因縁をつけられたことで組同士の抗争に発展しそうになったところを親分さんにたしなめられた。真実ホレた女だから、と引かない角さんに親分さんが仲介の労をとって、二人は結ばれた。
しかし、角さんにも召集令状が。このあたりは時間軸がジグザグに描かれる。出征する角さんを送っているのか、小旗を振った群衆の中駆けていくまゆみ、ラバウルで岡崎と死線を必死に超えていこうとする角さん、戦後の混乱、米兵の横暴……。
その中でしんとした空気感で心に刺さるのが、角さんに召集令状が来たある宵闇の時。時が止まった二人をカメラが引いていき、「きんぎょえー、きんぎょ」とのんびりした金魚売の声が遠くに聞こえる……。
しかし、角さんは帰ってきた。なのに、まゆみはいない。組はすっかり神戸に乗っ取られ、親分さんは床に就き、角さんが信じていた侠客の仁義は見当たらなくなってしまった。
まゆみは海外への慰問を行う移動劇団に飛び込んだまま行方知れず。親分さん言うところによると、「外地に行けば、お前さんに会えるとかたくなに信じていた」からだという。バカか。外地は“外地”っていう一か所じゃねーんだぞ。
まだ三本しか見てないけど、佐久間良子演じる角さんの愛する人は、可憐で純粋で可愛いんだけど、だからこその愚かさがあって、それはこうした、男の心意気を追究する物語の中で刹那的な美しさを放つも、現代では絶対に成立しないだろうなあと思っちゃう。
現代において、当時の時代のものを作ったとしても、である。だから現代の目で見れば、まゆみよりも、たくましく生きるストリッパーの女たちに目が行ってしまうんである。ワキ役中のワキ役、コメディリリーフにしかすぎなかったであろうに、今の目から見ると、彼女たちこそが真の女の強さだと思っちゃうんである。
てゆーか、本作の角さんは結構ヨワヨワである。親分さんの死が特にこたえて、中西(長門裕之)相手にべそべそ泣きながら酔いつぶれる。
目を覚ますと、中西率いるストリッパーたちの旅巡業のトラックに乗せられているんである。女たちの股の間に寝ていたことに動揺する角さん(笑)。しかし当の女たちは頓着なく、歌いながらトラックに乗っている。
ボロトラックだから当然のようにエンコして、中西は、「戦争のせいなんて言わない。そのおかげで修理もお手の物だし、こうしてストリップ劇団を立ち上げることも出来た」とひどく前向きで、明るくて、べそべそ泣いてた角さんを立ち上がらせる原動力になったのは間違いなく中西。
でも角さんと中西は、やっぱり違うんだよね。後に岡崎と再会した角さんが「素人であるお前が足を洗うのに躊躇することはない」的なことを言うのだけれど、つまり角さんは最後まで侠客であることにこだわり続けているし、実際それが、彼を最後まで苦しめ続けるのだ。
角さんは侠客というプライドが失われたんじゃないかと絶望しかけていたところに、足助親分と出会うんである。これが志村喬である。あーもう、志村喬である。ちょーカッコイイんである。本作の鶴田浩二がそれまでの飛車角シリーズで見せていたクールさとは違って、自分の信条を戦後という名のもとにズタズタにされてすっかりヘコたれているから、志村喬のカッコよさが際立つんである。
前二作でお目見えの吉良常に代わる形で、角さんに本物の侠客の生き残りのカッコ良さを見せる。月形龍之介もカッコ良かったが、志村喬の滋味あふれる“最後の侠客”っぷりはまた、ヨダレもんである。
足助親分が、まゆみと彼女を拾い上げた芝居一座の座元と懇意にしていた、というのはあまりにもあまりな都合の良さだが(爆)、ただ……まゆみのここまでには言うに言われない辛い経過がある。
てゆーか、角さんに会えると思い込んで海外慰問の移動劇団に飛び込んだというだけでアホだが、砲弾飛び交う中で日本兵の木元に救われ、彼に囲われる形になってしまうんである。
そりゃしょうがないよなとは思う。南方で、同じ日本人を見つけて、助けてくださいと飛び込む。しかしこれが佐久間良子だからさ、もー、こんなカワイイ女の子が砲弾飛び交う中胸に飛び込んだら、逆つり橋効果で木元はすっかりまゆみを放せなくなってしまうのさ。
木本を演じるのが 西村晃で、 西村晃だもん、きっしょく、悪っ!(失礼!!)もう蛇みたいにまゆみを追い詰める。
実は角さんともニアミスしている。中西についてきた興行先で、露店でイカ焼きを売っている角さんに話しかける。自分も生き別れた妻を探しているんだと。まさかその“妻”が同一人物だとは思わない。
このシーン、画面の外側から手だけがスルスルと見切れ登場する気味悪さが、最後まで同じ後味として残る。この気色悪さは唯一無二である。
でもちょっと、カワイソウな気はする。だってあんなふうに助けを求められて、あんなにカワイイ女の子なら、そら運命の相手だと思うさ。そして……彼に組み伏せられるまゆみ=佐久間良子の上気した顔の色っぽさときたら!!
この時に彼女は、穢れてしまった、もう東京には戻れない(つまり角さんとは会えない)と同僚に語る訳だが、これだけ聞いたらなんとおぼこなこと言うかしらん、だって角さんとは夫婦だった訳だし、別に処女を破られた訳でもあるまいに、と思ったのね。
でも……ことあるごとにこの蛇のような男とのアレを思い出す、時にスローモーション、時にモノクロームのストップショット、えらく官能的で意味ありげで、つまり、彼女は、コイツに、女を開発されちゃったんじゃないかと……下世話なことを、思っちまうのだ。
決して心まで明け渡したとは思わない。でも……そもそも木元の想いの強さは、ひょっとしたら角さんよりも強かったかもしれないなんて考えると、女は弱いから……。
穢れてしまったというまゆみの台詞を、同じく移動劇団経験のあるストリッパーたちは即座に解したけれど、それは身体の問題だけだっただろう。まゆみは、女としての性愛の心まで、木元にからめとられてしまったからこそ、約束の場所に行けなかったんじゃないの。
約束の場所。まゆみと再会した時、彼女が気に病む穢れた過去を、角さんは判り切ったことを言うな!とビンタし、それでも自分とやり直せるかどうかが聞きたかったと背中を向ける。それを考えた上で、約束の場所に来てほしい、と。
しかし、角さんも、行けなかった。岡崎が口を糊するために働いている新興集団、SY連盟から足が抜けずに、瀕死の目に遭った。そして死んでしまった。角さんは当然、この事態を見過ごすことが出来ず、死闘を繰り広げる。
でもまゆみとの約束の時間にはほとんど死にそうな状態で向かっていたんだけれど、その時にまゆみはからめとられた木元と共にどこへか向かう車に乗っている。約束の浜辺、約束の朝日ののぼる時間。まゆみは目を凝らすけれど、彼の姿は認められない。来ていたんだけれど、角さん来ていたんだけれど、そんな死にそうな状態だったから、まともに歩けなくて、這うように向かってて、だから彼女の目に映らなかったのだ。
諦めて、そのまま車を走らすまゆみ。角さんは彼女が来ていることを信じて、血だらけで、死にそうになって、黄金色の朝日が輝く海岸をさまよう。死んでたまるかと、こんなことで死んでたまるかと。
これはどっちに原因があるの。やっぱり、木元を振り切れなかったまゆみになんで!!と思う気持はあるが、キショい相手だけど、愚直に、侠客だの男意気だの言わずに愛してくれる相手ではあったのかもしれないと思うと……。★★★★☆
飛車角シリーズはタイトルが続々と並んでいるので、いわば昭和残侠伝スタイルで、役名だけは同じだけど同一人物じゃない、というスタイルかと思いきや、少なくともこの二作はつながっている。しかし、データベースのあらすじを見ると、大事なところが大きく違ってる。
オチバレで言うと、満州に渡ったおとよがその地の男と結ばれたのを知って角さんが身を引く、というあらすじが、実際はおとよは哀れ満州で死んでしまうという大きな改変。
データベースに乗っかってるあらすじは、当初の脚本から引かれていると聞いたことがあったから、この大きな改変は気になるが、でも確かにおとよを他の男に託して、角さん自身が彼女ソックリの女と結婚しちゃう、っていうぐらいなら、おとよは角さんに愛されたまま死んじゃうほうが確かにいいんだよなあ。
ああ、オチバレオチバレ。そうなの、まさかのソックリさん登場。生き写しの女、だなんて、なんてベタな。
てゆーか、すっかりホレこんだ前作に受けた印象が、様式化される前の、任侠映画としての原石を見るような荒々しさと済んだ美しさだったのだが、たった二か月後の続編で既に様式化、というか、その後の任侠映画(娯楽映画というべきか)に見られるあらゆる定石がそこかしこに見え隠れしているような気がする。前作にはいなかったコメディリリーフ(大好き、長門裕之!)の存在なんかもそれに当てはまる気がする。
しかし本作が異彩を放っているのは、前半と後半で展開がガラリと変わることなんである。まるで二本の映画をつなげたように、まるで違う話が展開する。
一応前半で角さんがコネクションを築いた渡世人、侠客、テキヤ業界が引き起こす形での後半ではあるのだが、それにしても……。
そうそう、この違いもね、面白かった。任侠映画が様式化されるともうそんなことは頓着しなくなるが、角さんはとにかく侠客であることにこだわる。それは前作で出会った吉良常に共感したことも大きい。
本作でまず彼が出会うのは、テキヤであるエントツの坂田である。もー最高にチャーミングな長門裕之である。ぽんぽんと飛び出す関西なまりがまた楽しい。
現代のワレワレが想像する、露店を出してるテキヤのお兄さんはヤクザ、みたいなイメージ、そしてバクチ打ちが渡世人、それもヤクザ、みたいなイメージ、暴力団は新しいイメージだったが、前作から既に、本作では本格的にその違いが語られる。侠客と渡世人とテキヤとヤクザと暴力団は、それぞれに違う、ということなんである。深いんである。
だからこそ、テキヤの問題に頭突っ込んじゃって、そこの親分に惚れ込まれて、おらが娘をもらってくられいと言われて角さんは困惑する。
親分と子分の結びつきが似ているようでも、侠客とテキヤはまるで違う。てゆーか、角さんは“いっぽんどっこ”つまり一匹狼の侠客であることにこだわっていたから……。
つーか、なんか赴くままに書き連ねちゃったけど、そもそも角さんが前作の事件を受けて出所するところから始まって、前作でも散々待ち続けたおとよさんがまだ待っていて、もう合算10年ってところじゃないのというムチャさで。
確かにこんなに待てるってこと自体(だって彼女は仇を討ちに行く角さんを止めに止めたのに)いわば不自然に近く、彼女が、操をたてて待ち続けた自分に満足して、角さんに会わずに満州へと旅立ってしまう、というなんじゃそりゃ!のオープニングから始まる訳。
判るような判らないような……。一応そこには、二人の板挟みになった形で討ち死にしたような若武者、高倉健扮する宮川の存在があった訳だが、このオープングでおとよさんがつらそうに口にするだけで、なんかおとよさんを満州に行かせる作劇の口実ぐらいにしか思えなかったけどねえ。
ところで、本作の冒頭は、吉良常の亡き親分さんの息子、文士となって気炎を上げている瓢吉であって、前作で、えーっ、えーっ、どー見ても梅宮辰夫に見えないと首をかしげるぐらいぴっちぴちに若かったが、たった二か月後だけど、ちょっとだけ梅宮辰夫に近づいた(爆)。
彼は今回キーマンで、新聞社の従軍記者として満州に渡り、そこでおとよさんに会っている。馬賊相手に春を売っていると吉良常づたいに聞いて、角さんは満州に渡る決心をするのだが……そっからが後半戦であり。
前半戦は、その、そらルール違反だよなー!と思う、“去ってしまったおとよソックリ”のお澄との出会いがある訳である。
そしてお約束通り、顔はソックリでも気性は正反対。異常なまでにネガティブで操をたて、ついでに満州まで行っちゃったおとよと違い、テキヤ一家の一人娘としてわがまま放題に育てられた鉄火肌の彼女は、ホンモノの男、角さんとの出会いで、打たれてしまうのだ。テキヤだから、侠客ではないけれど、角さんの説く、男の道、仁義の道に、打たれてしまった。
お澄は自分のわがままを父親に通して、勢いそのままの横暴なやり方で、桔梗組(エントツの属する一家ね)が持っていたコットンの権利を奪った。エントツとの出会いで、その縁を感じた角さんは義憤にかられ、命を賭して親分会に乗り込み、権利を奪い返す。
それには、お澄の改心があった。このシークエンスは、エントツのコメディアンぶり(堂本組に痛めつけられて歩けない筈なのに、慌てて松葉杖を抱えて走り出すとかさ!!)がほっこりさせるも、前半のクライマックスで、大いに緊張が走る。
関東一円の親分が集う親分会。ギャグかと思うほど大きな広間で、角さんが乗り込んでいくも、上座までひどく遠い。その後、お澄さんがステキな臙脂のお着物で乗り込んでくるも、これまた遠い。マジでギャグかと思うほどである。
これが……なんですかね。いわば勢力との距離なんだろうかと思うが、お澄さんが親分の名代として頭を下げたことで奇跡の手打ちが成立。しかもここでは強気の条件を出した角さんだが、手打ちが終わればきちんと親分さんたちに譲歩の態度を示し、その男気に親分さんたちは彼への信頼を募らせる。角さんはその男気で危険を常に突破してきたと思っていたのだが……。
で、満州、である。おとよを探しに出かけるという角さんを、お澄は潔く見送る。なんだか妙な心持である。だって同じ佐久間良子なのに……。
馬賊に春を売っているというおとよ、満州に到着した時には、移動馬賊にさらわれているという緊急事態。しかし彼女たちを引き受けている広い心を持つ男、陣がその馬賊から女たちを奪い返してきた。
そしてここに更に絡んでくるのは、後半の政治的な話も絡んでくる中でのキーマン、平幹二朗扮する、満州でやり手のビジネスマン、蔵高である。動乱の満州を金儲けのネタに暗躍する彼に、角さんは本能的に嫌悪を感じ、陣もまた同じ考えの持ち主だったから、魂の交換をする。
移動馬賊が報復に襲ってきても、彼のためだからこそ、角さんは闘う。ただこの時、しんどすぎる人生に身体を削ってきたおとよは、もう死んでしまっているのだ……。
おとよの死を見届けて、嗚咽も止められずはらはらと泣く角さん=鶴田浩二に胸を打たれる。だから、満州から帰ってきた彼がすんなりお澄と結婚して子供をもうけちゃってるのが、なんでだよー、と思ったけれども……。
三年後、となる。もう盛り込みまくりである。ここからは政治的キナくささであり。あれだけじゃそらーすまないよなと思った平幹二朗である。蔵高は政府の黒幕に暗躍している。植民地政策の労働力に日本のヤクザの親分を買収し、その子分たちを送り込めば、親分には逆らわない子分、しかも命知らずのヤクザならば、現地人を抑え込めましょう、という、実になんとゆーか……。
この作戦を聞いた時にどう言葉にしていいか判らなかったことを、角さんが見事に言い表してくれたのだった。「国のための仕事を金で買う?お国のためならびた一文いらない。明らかにもうけ仕事じゃねぇか。お国のためなら召集が来るはずだ」
……確かにそのとおり……。
今も昔も、国と民間(つまりはヤクザ)との癒着はある訳で。そしてヤクザではなく侠客であり、テキヤであり、渡世人であり、という、本作の矜持がある訳で。
でも、時代は移り変わっているのである……。
勿論、角さんの考えに共鳴する真の侠客はたくさんいる。本作シリーズの主題歌を担い、本作でもかなりムリヤリといった感じながらもねじ込まれた寺兼(村田英雄)もまたそうである。そこへ四角四面の文書で蔵高から呼び出しが入る。もう子供もなして幸せな家族を築いている角さん、特に角さんの義父となる堂本の親分さんが必死に止めに入る。みすみす殺されに行くようなものだと。
しかし、その直前までこっちが泣いて止めていた妻のお澄が黙って正装の準備をする。テキヤの娘だったけれど、今や侠客の妻なのだと、今までワガママを聞いてくれた父親に背中で言っているようである。
意外にも、その場では角さんの迫力に蔵高が屈した。これは……これは一番、見たくなかった最期だった。蔵高に寝返った堂本の子分が、蔵高に命じられ、それでも親分の顔を見て躊躇して、だって角さんは、「気にするこたあねえ。帰ってこい」なんて言うから。
なのになのに……幼い子供に買ったガラガラを機嫌よく鳴らしながら夜道を歩いて行く角さんの後ろ姿に、コイツは拳銃をぶっ放したのだ。信じられない。角さんがこんな不覚をとるなんて信じられない。いや、敵だと思わないからこそ背中を向けたのだ。背中を向けた相手に飛び道具をぶっ放すなんて、それこそ侠客ではありえないのだ。なんでなんで……。
音が消える。バッタリと倒れる角さん、しんしんと降り積もる雪。こんなのないよう。
あまりにも哀しいラストだから、殊更にコメディリリーフだったエントツとの楽しい場面がよみがえる。エントツの軽妙な口上に惹かれたからこそ、イチャモンつけてきた警官から助けた。
エントツがおとよの生活を助けていたテキヤの子分で、おとよに横恋慕していたという運命。コットン権利を奪い返すためにエントツと共に闘う中、角さんのヘタ過ぎる口上に笑っちゃったり、しかしその中でちょっと上達しちゃうあたりがほほえましかったり。
後から思えば、この壮絶すぎるてんこ盛りのシリアス物語の中で、エントツとの、兄弟のじゃれあいみたいな楽しさは、まるで幻のような幸福感なのだ。長門裕之はヤハリ素晴らしいのだよなあ……。
★★★★☆