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「せ」


2021年鑑賞作品

聖地]
2021年 114分 日本 カラー
監督:入江悠 脚本:入江悠
撮影:大塚亮 音楽:津島玄一
出演:岡田将生 川口春奈 渋川清彦 山田真歩 薬丸翔 パク・イヒョン パク・ソユン キム・テヒョン 緒形直人 真木よう子


2021/11/27/土 劇場(池袋グランドシネマサンシャイン)
べらぼうに才能があるのは判っているが、あんまりきちんと追いかけていなかったのは、出世作を観るタイミングを逃したことと、大メジャーエンタメも手掛け、それが個人的にちょこっと苦手なタイプのジャンルだったからかもしれない。
しかして本作、近年ぐんと魅力と実力を増し、「ドライブ・マイ・カー」で大いに驚かされてくれた岡田将生君が、組みたかった監督だと自ら宣伝活動にも熱心に動いているということで、これは、と思った。

実は本作の存在さえ、知らなかった。韓国との合作だしかなり大きなバジェットだと思うのだが、公開形態はかなり狭められている。
人気監督だし人気役者なのになぜだろう。確かに風変わりな内容ではあるけれど……まさか昨今の日韓の関係悪化が原因とか?まさか。

韓国の役者さんやアーティストは、日本語を操れる人が昔からたくさんいるのに、その逆は成立しないのはなぜだろうと、映画自体とは関係のないことをふと考えてしまった。韓国の人は英語が達者なイメージもあるし、語学脳が発達しているんだろうか。でも日本が嫌いなら日本語習おうなんてしないよなあ、うーん、日韓の問題は難しい。

そんなことは関係ないのだが、でも関係なくもないかも。本作のキモとなる呪われた店は、韓国に開店しようとしている和食居酒屋である。つまり韓国にそれで打って出るだけの手ごたえがあるってことである。
主人公の輝夫(岡田君)は、亡き両親が残した別荘のあるこの韓国の地にのんべんだらりと住み着き、バイトに雇っている大学生の女の子も実に流暢な日本語をあやつる。
それは、和食居酒屋の開店に向けて手伝いに来ている中年女性もそうである。当然のようにそうなっているけれど、逆はなかなか考えにくい。特に日本文化が好きだからとか、そういう理由が語られることもなく、普通に。だからすごいなあと思っちゃうんである。

のんべんだらりと言ってしまったが、輝夫はいわばこの地に逃げてきたことが、後々明らかになるんである。他人に対してどもりがちの彼はいかにも人づきあい、というか社会生活に適応できない風である。
それが後半、彼の得意分野である謎解き、ミステリを解いていく段になると、今までのおどおどがウソのように饒舌になり、皆を引っ張っていく。しかもそこに至るまで、お兄ちゃんとして、そして出会った仲間たちと一致団結してこの危機を乗り越えようとして、徐々に徐々に、冒頭に見せていたおどおど、どもりがちの青年から脱却していく。
いつのまにやら、あれれれ?ちゃんと普通の、それどころか頼りがいのある男になってるじゃん!という展開で、これは輝夫の成長譚であったのかと思い至る。

両親は事故で、突然死んでしまったらしい。そのショッキングな事実から逃げるようにして、韓国の別荘に逃れたらしい。突然ものすごいケンマクで乗り込んでくる妹は、「永住するつもり!?」と怒鳴り込むんだから、兄がポジティブな理由でここにいるんじゃないことはお見通しなんである。

でもそれは彼女もそうである。乗り込んできたっつーか、押しかけ居候である。確かに兄である輝夫が言うように、「親が残した別荘だから、どっちのものとかはないけど、でも俺が先に住んでるんだから」少しは遠慮、というか、生活スタイルを尊重してほしい、と言い終わることも許さず、妹はどかどかと分け入り、ここに住むことを宣言。
いつまでいるのかとおずおずと尋ねる兄に、突然くしゃりと顔をゆがめた妹。ダンナが親の遺産を使い込んでいた。しかも500万。風俗だのアマゾンだのなんなの!!と泣き崩れるんである。

妹、要を演じるのは川口春奈嬢。さらりと色のないところが、なんにでもなれるフラットさを感じさせて、逆に底知れぬ怖さがあるかも、と期待させられる女優さん。
彼女が思い込みでダンナの分身を作り上げちゃう、という荒唐無稽なスタンスが、思い込みの激しそうな憑依女優ではなく、彼女である、ということが逆に不気味なリアリティをもたらす。

本作は一応ホラーという紹介になっているし、こんな具合に不気味さは満ち満ちてはいるけれど、決して怖い映画ではないんだよね。不気味さ、不穏さはあるけれど、心臓に悪いような安っぽいこけおどしホラーではない。
人間というものは何なのか、それは器だけにすぎないんじゃないか、そこに詰まってる感情とか記憶とかがお互い相容れなければ、対人間の時に、相手は単なるぽんこつデータしか入れてない器だけの木偶人形と同じなんじゃないか。
そういうスタンスが根底にあったのだということを改めて考えると、なんかすんごく……ゾッとするというか人間の得手勝手さとか、だからいろんな事件が起こるのかもとか、考えちゃう。

でも一見して、案外のんびりとしたミステリーである。要が生み出した分身旦那は、彼女の心の奥底にある、こうであってほしかったダンナなんである。
要のことを愛してて、自分がしでかしたことを後悔して、どうか考え直してほしい、自分は変われる、記憶が失われても、要に出会えばまた要を好きになると、自信満々に言う。

明らかに要は揺れる表情を見せ、輝夫は絶対に別れるべきだとコイツに離婚届を突きつける。そんなことをやっている間はまだ平和である。
なんたって、この旦那は二人存在するんである。携帯にかけてみたら、東京のダンナがフツーに出ちゃう。ダンナの上司に写真を撮って送ってもらって、どうやらそれは本当らしい。ドッペルゲンガー??しかし“本体”と思しき方も、記憶があいまいで仕事にも支障をきたしているらしい様子。

その原因が、呪われた店にあるという。しめ縄が巻かれた奇妙にねじれた巨木、貞子が出てきそうな古井戸。西部劇のような砂塵がたちのぼる、こんなとこに客こねえだろ、というような、辺鄙なところにある店である。
冒頭ですでに、この店で起きた不審な餓死事件が示唆されている。時は日韓ワールドカップのあった2002年。ブラウン管のでっぱったテレビに映し出されている試合、どたりと顔をテーブルに突っ伏して死んだアメリカ老紳士。

その原因が餓死であったこと、そしてその後に入った店もすべて全く長続きしない上に、不審な事件ばかりが起こっていることが判明し、オーナーの江口(緒形直人)は私のせいで、と嘆息。
店を任せる夫婦の、妻の方に異変が起きていたのだ。記憶にあいまいなところがある。その前から奇妙なことばかり起きていた。妻がプリンと騙して夫に食べさせたはずの茶わん蒸しが本当にプリンに替わっていたこと、座布団を頼んだはずが大量の健康マットが届いたこと。

後に、ちょっと笑っちゃう、にぎやかな祈祷を行う、教祖様ってな雰囲気のメイクほどこしたおじさまが、ここは手に負えない、という。でも悪霊に取りつかれてるとかじゃなくて、神と思えば神、悪魔と思えば悪魔、と意味深な言葉を残すんである。
その言葉と、それまでの事象が輝夫にヒントを与え、見事な解決へと導くんだけれど……深読みすれば結構、心理学的なディープな解釈も出来る気がする。人の思いようでなんとでもなると。

その思い込みは時に、実体さえ持って現れる、というのは映画エンタメとしての誇張にしても、こういう事象を抱える人には、まさにあることなのだろう。彼や彼女にとっては、まさしく実体をもって現れるんだろうから。
本作のようなエンタメで、まさしく実体を持って現れる、複数の人間の目の前で、というのは、その事象を客観的に実証させるというか、客観視させるというか、つまり単なる気のせいとか思い込みとかそういうことじゃなくって、リアルにそういう精神状態が発生するんだということを、エンタメとして示しているのかなあ、って。

要のダンナは上司の星野(真木よう子)が笑って言い捨てるように、「(恋愛対象じゃ)ないない。だってカルいっすよね」というぐらい、大したことない男なんだけど、要はなんか執着しちゃう。
兄である輝夫が言うように、両親が突然いなくなった心の穴を埋めるために結婚したぐらいの相手だったんだろうけれど、そんな自分を認めたくなかったってことなのかなあと思ったりする。

本当に、人間の心理、てゆーかうぬぼれ、直面したくない愚かな自分、である。他人の思い込みにより分裂発生する実像たちは、それだけ薄っぺらで、一見ある筈の肉体もあっという間に空洞が生じたりして、明らかにただのイレモノなんだけど、見た目は人間の形をしてるから、どうしよう、ってなっちゃうのだ。
つまり、最終的に、分裂した人格を合体させるために、不要な分身を作為的に発生させちゃったから、これは、これは殺さなくちゃいけない、ってこと!!??

怖いよ、本当に怖い。これって、さ。人間としての完全な知的、精神的なものを備えてなければ、イレモノだけ、殺してオッケー、そんな価値観に聞こえる。いや、もちろんそれを問題提起しているのだろう。殺せないんだから。殺せちゃったら、肯定したことになったんだと思った。
殺せないんだ、やっぱり、殺せないんだ。要が吠えるように兄を止める。私が本体と決着をつけるからと。そうなれば遅かれ早かれ、不要になった記憶しか持たない第三の分身は消えるだろうと。それもまた何とも言えない切ない話なのだが……。
でも、輝夫は、ほっとしたような、それでも複雑な含みを持って、最初からそうしろよ、と言ったのだった。

この地で分身が作り出される、ということをいわば証明した和食居酒屋を切り盛りすることになる夫婦、大好きな渋川清彦氏、彼と共演した、「アレノ」のめっちゃエモーショナルなのが忘れられない山田真歩嬢とのカップリングにわっくわくである。分裂前の、夫婦の愛と信頼関係、準備中にふと顔を合わせてチュッとやるとか(照)イイんだよなぁー。彼らの事例があったからこそ、このややこしい事態を輝夫は見事な推理と作戦で乗り切った訳で。

本作がもともと舞台作品で、入江監督が以前タッグを組んだ、「太陽」の劇団の作品であるということを知り、めちゃくちゃ腑に落ちる。「太陽」は、凄かった。今でも夢に出そうなぐらい。悪夢的インパクト、でも本作はどこかコミカルでチャーミングなところがあって、なんか愛があるなあと思ったなあ。 ★★★☆☆


先生、私の隣に座っていただけませんか?
2021年 119分 日本 カラー
監督:堀江貴大 脚本:堀江貴大
撮影:平野礼 音楽:渡邊琢磨
出演: 黒木華 柄本佑 金子大地 奈緒 風吹ジュン

2021/9/23/木 劇場(新宿ピカデリー)
これ、予告編観ていたら対峙する印象全く違ったな、と思った。まるで情報がないまま、映画館のスケジュールを眺めて見つけただけで飛び込んだ。
タイトルから、ラブコメかなと思っていた。黒木華嬢と柄本佑氏が上下にに分割されたシンプルなポスターからも、そんな印象を受けたし、観ている時にも、かなり後半になるまで、柄本氏演じる俊夫の引け目百パーセントの弱腰が、そんなコミカルさを常に醸し出していたし。

でも確かに、なんだかずっと、奇妙に静かなのだよね。俊夫の妻である佐和子は本音を言わない、てことは後になってから判ってくる。ただ静やかな性格なのかな、ぐらいに思っていた。でも静かながらも会話は常にあるし、信頼しあっている夫婦に見えなくもなかった。
てか、見えていた。これぐらいのテンションが長続きの秘訣じゃないの、ぐらいに思っていた。あれ、ヘンかも、と思ったのは、佐和子の実家で夫婦のお布団が並べて敷かれた時に、「いいの?」「お母さんの手前、仕方ないじゃない」といった会話で初めて、というあたり、私はいかにもニブかったのかもしれない。

でも予告編では、そうした夫婦の断裂、というか、むしろサスペンスチックな心理戦の雰囲気が内容バレよろしくしっかと描かれていたんだよね。
タイトルの言い方もホラー映画かと思うぐらいの深刻さでつぶやかれる。一見、甘やかに聞こえるこのタイトルをそんな風に言っている予告編を観ちゃってたら、最初からそういう気持ちで観始めちゃってたんだろうと思う。
予告編って、だから難しいよな、と思う。全くの無情報で、だから私は後半からの急展開に相当ビックリしたし、してやられた!!と思ったのだもの。

なんか抽象的なことばかりでちっとも進まないが(爆)。俊夫と佐和子の夫婦は、二人とも漫画家である。しかし今は、売れっ子漫画家として連載を持つ佐和子のただ一人の有能アシスタントとして俊夫がサポートしている、という状態。
今の漫画家さんはデジタルで描くのが主流、という話を聞いたことがあって、「キャラクター」でその、手描きとデジタルを物語の効果として使っていた記憶も新しく、本作の、懐かしき手描きオンリー、トーンをカッターで削るとか、私の漫研時代の(ああ恥ずかしい、超ヘタだったよ)記憶がよみがえるわー、と思ったり。

でもそれこそ、本作は手描きこそが重要なのだ。本作においての彼らが描く漫画は、完成原稿より、ネームのそれこそが重要、というか、それが主人公、というか、物語の語り部とさえ、なるんだから。
ネーム、だから、まだ鉛筆状態である。いくらでも消しては、描き直すことができる。それがクライマックスでは重要な意味を持つ。すみません、オチバレで言っちゃうと、漫画なんだからフィクションであり、いくらでも描き換え可能なのだ。俊夫が、これは事実じゃないよ、と消しゴムで台詞を消して書き換えても、それだってまだ紙の上の出来事に過ぎないのだ。

俊夫は浮気していた。こともあろうに佐和子の担当編集者とである。その編集者、千佳を奈緒嬢が演じるのだが、「僕の好きな女の子」の印象が強烈だったので、まさしくこーゆー、無邪気なことが罪なあっけらかんと可愛い女の子がまたしてもハマりまくり、コイツ―!!と喜んじゃう(爆)。

ただ、千佳は確かに俊夫とそーゆー関係にはあるのだが、あくまで佐和子先生の担当編集、佐和子先生が面白い作品を描くということの方が優先順位に来ていて、そらまあ俊夫に会いたいよーとか可愛らしく迫ったりはするものの、佐和子先生、いや、俊夫先生の新作も楽しみにしている、夫婦のファン、いや、漫画ファン、なんだろうな。
俊夫とそーゆー関係になっちゃったのは、まあうっかりっつーか、そのことに執着をしている感じがないのが、イイんだよね。バレちゃいました?と一応はうろたえる態度は示すものの、その不倫を含んだ新作ネームを読んで「面白いじゃないですか!!」と大興奮するあたり、敏腕編集者!!なんだもの。

さて、このネームが生み出されたのは、佐和子の実家である。地方に住む佐和子の母親が事故で怪我をし、生活が不自由になったと聞いて、夫婦で実家に移り住むことになったんである。
漫画はどこでも描けますから、と佐和子の母に問われて俊夫は言ったが、自分が長年描けないでいることを義理のお母さんが知らないことに更に追い詰められる。

更に、というのはここまでにじわじわと示されていることである。かつては佐和子こそが俊夫のアシスタントだった。俊夫こそが売れっ子作家だった。なのに今は何年も作品を描けていなくて、妻のアシスタントをしている。
「お母さんには新作の準備をしてるって言ってるから」という佐和子の台詞の残酷さ。後に俊夫が、もう漫画家に戻る気はない、「心が動かされることがないんだ」と血を吐くように告白する場面さえ用意される。漫画家、いや、漫画に限らない、クリエイターという職業が直面する生き死ににさえ関わる大問題。

このタイトル、ヤラれたと思ったよね。現役売れっ子作家である佐和子は当然、先生と呼ばれていたけれど、俊夫もまた、千佳から俊夫先生と呼ばれていたのだった。
でもなんとなくスルーしていた。新作が描けないまま、奥さんのアシスタントをしてくすぶっているダメダンナ、と思い込まされていた。佐和子が俊夫先生、と呼びかけるまで、そのクライマックスまで、気づかなかった、だなんて!!

めくらましされるのは、自動車学校の先生、なんである。それまでは俊夫に運転手を頼んでいた。東京に出て漫画家になることしか頭になかった佐和子、実際そうなって、そらまあ東京では車は必要ない。でも、母一人子一人になって、車がなければどうにもならない地方社会、母が怪我したことで一時的にでも実家に帰ってきて、これからのことを考えて、と免許を取ることを決意する。
もっともな理由に思えたけれど、そこにも佐和子は意味深なトラップを仕掛ける。ずっと運転手の役割を担ってきた俊夫、佐和子が免許をとればお役御免、別れたいんだよね??みたいな雰囲気を押し出してくる。

連載が終わって、新作のテーマを考えあぐねていた佐和子が、ピンとひらめいて描き始めたのが、教習所のイケメン教官とのラブストーリー。やましい心がなければ、教習所に通い始めることで思いついたナイスアイディアぐらいに思っただろうし、それがそりゃあ、普通だろう。
しかし、上手いんだな、佐和子は、その導入部を、自分が実際に体験した、見た、見てしまった、経験をそのまま描き込んだ。連載が終わって、ほっと一息ついて、送り出した夫と担当編集者が駐車場でキスしているのを目撃しちゃう。本当にまんまのことを、佐和子は新作ネームに描き出したもんだから、俊夫はもちろん、観客も、その後の展開まですべて、同時進行、リアルタイム、マジな話を彼女が描き進めていると思い込んでしまった。

教習所に通い始め、アクセルを踏み出すことが出来ず落ち込み、しかし新しく登場したイケメン教官の指導の元、運転が楽しくなり、満点合格。その間の、イケメン教官とのラブをつづったネームがこれ見よがしに机の上に置かれ、それを読んでしまう俊夫の焦りといら立ち、しかしそもそもこの事態を招いたリアル描写を描かれてしまっている彼は何も行動できず……。

でも、結局、判らないんだよね。教官との恋物語はフィクション、漫画家稼業をあきらめて、テキトー手近で不倫とかしちゃって、勝手に人生諦めて勝手にくすんでいる夫に“復讐”したんだと、佐和子は言った。
でも、本当にフィクションだったのか。薄々察してはいたけど、リアルに目撃してしまった夫と千佳のキスシーンはマジだったし、そこからの導入で、教官との恋を俊夫のみならず、観客にも信じさせてしまうぐらいのリアリティがあった。
修羅場のクライマックスがあって、何も知らずにご招待されたイケメン教官は何も知らず、佐和子の創作にしてやられた、という展開にはなるし、なあんだあ、そうかあ!と一度は思わされるのだが、いや、それも騙されているかもしれない!!というラストに転がっていく。

俊夫と不倫はしていたものの、それよりも編集者として面白い漫画が見たい!という欲がキラキラしている千佳にとって、夫婦の修羅場やバトルはむしろ面白いそれであり、わくわくして見物している感じである。
佐和子の不倫相手としてでっち上げられたイケメン教官君は、ただおどおどと戸惑っている感じである。が……それは先述したように、あくまで表面上で、芝居かも知れないのだ。

生来の漫画好きなのだろう、千佳は佐和子と俊夫が並んで漫画を描いている姿にコーフンし、翌朝、佐和子先生原作で、俊夫先生作画の連載決定!!と編集長からの知らせを高らかに宣言するが、その時、またしても佐和子は姿を消しているんである。
イケメン教官との逃避行をにおわせて姿を消した間、ファックスでネームを送り続けてきた佐和子が、俊夫と気持ちをぶつけ合って修復を迎えたと思いきや、「これからファックスでネーム送るからよろしくね」ハートマークがつきそうな勢いで書きおいて姿を消しちまった佐和子。なんとまあまあ、つかみどころがないまま、にょろにょろと、最初から最後まで、つかませてくれない佐和子!「……うっそーん」と妻の書置きに呆然としたつぶやきを漏らす俊夫。

でも、なんだろう……。佐和子のネームを俊夫の作画で描くことで、佐和子原作、俊夫作画の漫画になる訳なんだけれど、私世代はさ、原作と作画が別の漫画はフツーにあって、それこそキャンディキャンディや、梶原一騎先生とか、フツーにあったけど、近年はどうなんだろう。今の漫画文化に無知すぎるから……。
私世代の感覚だと、シンガーソングライターのごとく、すべてを一人でやらなくてはいけない感覚、なんだよね。本作でさ、そのあたりの感覚のすみわけというか、俊夫が漫画家として、つまりは作画能力は間違いないクリエイターであるからこそ、売れっ子漫画家の奥さんをたった一人のアシスタントとして支えることが出来ている訳でさ。

んで、本作は俊夫に、作画、つまり、画作りのクリエイターとしての才能を発揮してもらうという結論であった。まあそのほかのドタバタは、映画作品としての面白さを構成する要素であったと考えると……俊夫の苦悩をこそあぶりだして、製作事情、クリエイター事情の問題提起をしているのかも、と思ったりすると、おおおー、と思っちゃう。
漫画家の友人がいるもんでね!!(自慢!)コロナ禍でなかなか会えないけど、今度会えたら、こーゆー話してみたいなあ。★★★★☆


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