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「う」


2021年鑑賞作品

丑三つの村
1983年 106分 日本 カラー
監督:田中登 脚本:西岡琢也
撮影:丸山恵司 音楽:笹路正徳
出演:古尾谷雅人 田中美佐子 池波志乃 原泉 夏木勲 石橋蓮司 山谷初男 南城竜也 新井康弘 ビートきよし 大場久美子 五月みどり


2021/3/7/日 録画(チャンネルNECO)
タイトルから勝手にオカルト的な話かと思っていたら、全然違った。全然違ったけど、それ以上におっとろしい話だった!
てか、女優が次々脱ぐのにはビックリ。五月みどりはまあ予想がついたが、池波志乃に田中美佐子までも!池波志乃に関しては単に私が彼女の女優時代を全然知らないから、脱ぐイメージもなくてビックリしたに過ぎないが、まさか田中美佐子が脱いでいたとは!!知らなかった!!
アイドルみたいに清純な若いかわゆさの頃、その通りの清冽なヌードを見せてくれてなんかカンドーしてしまった。いやあ……今の女優も見習うべしだよ。

いや、女優のヌードはどうでもいい。このおっとろしい話である。丑三つとゆーのはオカルトな丑三つではなく、丑三つ時にこの村には肉欲の秘密が横溢していることと、なんといってもクライマックスの惨劇が丑三つ時に行われるから、である。
あーもうこれがこの物語のキモになってるから、オチではあるが早々に言わずにはいられん。この呪われた村の全村民、三十人を主人公の犬丸継男がぶっ殺すんである。周到に、村の電線を断ち切って真っ暗になった中を、銃や日本刀やドスや、まるでランボー並みに兵器で身体をぐるぐる巻きにして。
そのカッコは、彼が憧れて憧れてなれなかった、お国のために戦う兵隊さんの究極の姿と思ったら、なんと哀しいではないか。

うーむ、あまりの衝撃のラストに、すべてをすっ飛ばして言及してしまったが、なぜそうなったか。
継男を演じるのは古尾谷雅人である。なんかそれだけで、涙が出そうになってしまう。彼が住む本当に小さな村、全員が顔見知りのような村、つまりは近親でつないできた、血の濃い、というか、呪われた血の村……。

その知識はよそ者によってもたらされる。純情な童貞男子の継男は、近親どころか性の意味さえ判ってなかった。
よそ者たちは、この世間知らずの村で我が物顔に振る舞ったのがたたって、村の男たちによって粛清された。
そう、そんな村。そんな村であることを、ただ一人純情男子の継男だけが判ってない感じが最初から危うさをはらんでいる。

継男は秀才である。村始まって以来の神童とまで言われている。祖母との二人暮らし、人一倍祖母想いの彼は彼女を残して師範学校に行くことを望まず、独学で勉強して試験を受け、教師になることを目指している。
……そもそも、なぜ継男の両親はいないのか。病気で死んだとだけ、祖母は何か、言いにくそうにしているばかりだった。結局明確にはされなかったけど、よそ者への粛清、やたら周囲の人々が祖母に金を借りに来る、つまりここだけが裕福であったり、あるいは継男には見えていない弱みを抱えていたり、したのか。

継男はイヤな咳をしている。長身で端正な顔立ちの古尾谷氏だから、確かにちょっとか弱い感じを受ける。
世間知らずのドーテー君であることも手伝っている。悪友が金をせびる代わりにと置いていくエロ写真で一気に目覚めて、村の人妻たちを一人一人夜這いに回る純粋さ?である。

その最初が池波志乃で、妖艶、とゆーか、もうスケベたっぷりに年下男子をくわえ込むおっぱいたわわな彼女に度肝を抜かれる。
時は昭和13年。この小さな村からも男たちは軒並み引き抜かれ、妻たちは一人寝の寂しさにうずいている頃だった。

この忌まわしい村の女たちは、夫たちの無事を祈るなんて殊勝な心は持ち合わせてない。優秀な子種が欲しいと、皆して継男に色目を使う輩ばかりである。
それを継男は全く理解しておらず、「夜這いは悪いことかのう?」と夜這いパトロールに回っている村の男たちにきょとん顔で聞き返す危険なおぼっちゃまぶりである。

そんな感じだから、村の男たち、いや全村人たちは、頭の出来のいい彼を一目置く一方で、根本的にはバカにしていた、のだろう。
継男がそれに気づいていたとは思わないけれど、このご時世、頭の出来のいいことよりは、早くお国のために兵隊さんに呼ばれたいと、継男はそればかりを思っていた。近所の医者から軽い肺門浸潤を指摘されてはいたが、まさかの兵役検査不合格だった。

結核。そうハッキリ診断された。そのとたん、あれほど村始まって以来の神童とチヤホヤされていたのに、まるで病原菌を見るがごとく、継男は誰からも口をきかれなくなる。それどころか、姿を見るさえいとわしいとばかりに、これ見よがしに戸を立てられる。
それでなくても、不合格に人間としての自分を否定されたように傷ついて、砂ぼこりの舞う中子供のように泣きじゃくって、涙の後に砂がくっついてしまう継男に、この後の破綻が予感されて、悪寒を感じちゃうんである。

田中美佐子演じるやすよは、この村の中で継男のただ一人の理解者である。おそらく、お互い初恋同士出会ったんだろうと思われる。
小さなころは結婚の約束もしていたけれども、時代的にもこの村的にも、自由恋愛で結婚が決まるようなことはなかった。いや、やはりこの村的、か……。”自由恋愛”は、夜這いの中にこそ成立しているような村なのだもの。

兵隊にもなれず、結核であることがあっという間に広がり、村中から避けられる継男、その最初の頃は、なんたって純粋一辺倒の彼だから、その事態をうまく理解できないまま、憤るばかりなのだ。

ただ……彼にはその前に、苦い体験があった。よそ者が粛清された時、それは自殺に見せかけて殺されたのだが、その場面を目撃していたのに、村の男たちのギラギラした威圧に圧倒されて、駐在さんに言い出せない。
ただ、言いだそうとしたことから、さらに継男は目をつけられてしまう。なんたってその優秀なタネによだれを垂らして寄ってきた人妻たちによって”大人の男”になっちまったんだから、余計にである。

その中で、初恋の相手、やすよだけは……。継男が結核になって村八分にされても、変わらなかった。継男と話していたというそれだけで、婚家から離縁されたということを知って、継男は憤るも、次の縁談もあっさり決まってしまっている。本人の意思など関係ない。そういう時代である。
でもその前に、二人は想いだけでなく身体も交し合う。丑三つなんて時じゃなく、おてんとさまが照っている下の、青草の上である。

彼女だけは、巻き込む訳にはいかないし、そんな気もなかった。ただ、祖母だけが気がかりだった。結核になって村八分になっても、信じてくれたのはやすよと祖母だけ。
村八分がひどくなって、夜這いをかけた相手の夫から殺されかけた事件の後、祖母が心労で倒れ、継男は思い余って祖母に毒を飲まそうとした。
そのあとの自分の蛮行をこの時どこまで覚悟していたかは判らないけれど、察して逃げ出した祖母が、しかしその後、そんなことを孫がする筈はない、としれっと撤回した強い姿を見て、さらに想いを固めたのだろう。

お前を信じている。せめて自分が生きているうちは悲しませてくれるな。それは、死んだ後なら、という含みを持たせていた。
継男はそれを、祖母を心ならずも叩き殺してからでなければ行動を起こせない、という解釈にしたが、祖母もそんな予感はしていたような気がする。

フラストレーションをぶちまけるように、手に入れた銃を山でぶっぱなして、ストレス解消していた。その当時はこんなカンタンに銃が手に入ったのか……それも、さんざん金をせびりに来られる、継男と祖母はこの集落の中ではとびぬけて裕福だったからなのか。
家の感じは他と同じでそまつなわらぶきだし、質素な雰囲気で決してそうは見えないけど、ただ、たっぷりの白米を炊き、もうお腹いっぱいの継男にお代わりを強要するあたりは、その周辺の子だくさんの貧乏、夫が戦争に行って生計がままならない貧乏、といった中で、やはり違っていたのかと思われる。

一度は毒殺しかけた祖母を、今度は斧でたたき殺す。うわー……。大量殺戮のいの一番である。それは、自分が死んだ後なら何をしたっていい、生きているうちは悲しませないでほしい、という祖母の言葉を、祖母をいの一番に叩き殺すことで、その約束を守ったという、凄惨な始まりである。斧って……ないわ……。
遠くに嫁いだやすよには、自分が鬼になるこの日、決して村に近づくなと手紙を出した。バカだねー女心が判ってないね!ドーテー君(いやこの時点では経験豊富君だが、女心がまだわかっていないという意味合いで)だからね!判んないね!!

頭の両サイドにライトをつけ、たっぷりの弾倉、長短の銃身、日本刀、ドス、先述したけどまさにランボー、いや兵器の種類の多さからしたらランボー以上。
そこから繰り広げられる殺戮は……恐れおののき、逃げまどう村人たちに容赦なく……。継男を冷たく無視し、貶めたとはいえ……。恐怖におののく目を見開いたまま、至近距離で撃たれ、斬られ、血みどろになってもんどり倒れる。

これが、……何十分続いたろう。この作品は、この凄惨な殺戮場面だけでも、語り継がれているんだろうと確信する。
途中、やすよが彼を止める。演じる田中美佐子は台詞も満足に言えないほど、マジに泣きむせんでいる。それぐらいの凄惨さだが、この可憐な美少女が声にもならないぐらい泣きむせんで止めても、もうどうにもならないんである。

継男は鬼であり、夜叉である。当然、すべてが終わった後、自身が死ぬことを厭うている訳がない。
丑三つが過ぎた後の、まるで何もなかったかのような朝もやの村を山の上から眺めながら、銃身を口にくわえ、足指で引き金を引くか、というところでカットアウト。

本作が作られた80年代の娯楽映画にはよくあった、ライト感覚のサントラが、ぜんっぜん、この深刻さ凄惨さに合ってなくて、これはどうなの……と思っちゃう。確かに80年代的サントラだけど、丑三つ時に恨み爆発して村民皆殺しにするのに、こんなエレクトロシティサウンドはど、どうなの。
まるでこの戦慄の殺戮場面、この長尺が、アミューズメント的な、エンタテインメントだよって言ってるみたいで、それは逆に、めっちゃ怖い!!ウキウキ殺人場面見てくださいって、言ってるみたいじゃないの。80年代怖っ!!★★★☆☆


うみべの女の子
2021年 107分 日本 カラー
監督:ウエダアツシ 脚本: ウエダアツシ 平谷悦郎
撮影: 大森洋介 音楽:world’s end girlfriend
出演:石川瑠華 青木柚 前田旺志郎 中田青渚 倉悠貴 宮崎優 高橋里恩 平井亜門 円井わん 西洋亮 高橋かなみ いまおかしんじ 村上淳

2021/9/8/水 劇場(新宿武蔵野館)
14歳の女の子、小梅が同級生の男の子、磯辺の前で服を脱ぎ捨てたとたん、そのおっぱいにたじろいだとたん、バチッと記憶がよみがえった。石川瑠華、そうだあの娘だ!、「猿楽町で会いましょう」で私を驚愕させてくれた、あの女の子だ!!
あまりの衝撃に、私はあの感想文の結びに「ユカを演じた石川瑠華嬢、本当に素晴らしかった。彼女にもう一度、すぐにでも会いたい。本当にすごい才能だと思う。」とコーフン気味に書き綴ったのが、まさにすぐに会えてしまった、そしてまたしても、驚愕の。
おっぱいとともに記憶がよみがえるなんて、ゴメン(爆)。それは決して、これほどの若き女優が、まだまだ名を知られていない新進の彼女が脱いだからというんじゃなく(それももちろんあるけど)、お顔立ちの記憶より、体そのものから発散される石川瑠華という存在が強烈だったからなのだ。

本作は14歳。同級生とのセックスが物語のキモになるのだから、そのシーンを逃げずに描く訳にはいかない。しかしホントに14歳の役者を使う訳にはいかない(特に女の子は)。でも14歳に見えなければ意味がない。見事。
石川瑠華嬢はまさに、14歳にしか見えないのだ。幼い顔立ちというのは確かにそうだが、実年齢は10も上の彼女が、その素足のなまっちろささえも14歳そのものに見えてしまうのはどういうことなのか。猿楽町の時にはちゃんと年齢相応の彼女だったし、本作でもラスト、高校生になった小梅はちゃんと高校生なのだ。なんなんだこの子は。 しかしまあ……本当にすぐ、出会えてしまい、またしてもの衝撃である。本作はもともと評価の高い人気コミックスであるという。
今時、中学生同士のセックスというのもことさらにセンセーショナルに取り上げるものではないのかもしれない。むしろ、身体も成熟し、恋愛感情も持つようになり、お互いの意思を確認した上のそれを正しく行う教育が遅れているのだ、と言われるぐらいの昨今である。

でも小梅は、不安定だ。身体は磯辺とセックスできるぐらいに成熟しているのに、お顔の幼さがアンバランスで、磯辺と彼の部屋で、学校のトイレで、抱き合っているのが不思議になるほど。
そのお相手となる磯辺を演じる青木柚君は、彼もずっと下の年齢を演じてはいるけれど、男の子の成長の遅さというか、ニキビっぽいお顔の感じとか、彼もまた違和感なく14歳である。

しかし磯辺は……大きな心の闇を抱えている。そもそもこの地は彼の生まれ育ったところじゃない。磯辺にどこか異邦人のような雰囲気があるのは、やはりこうした地方都市で、そこで生まれ育っていないということが、決定的なよそ者感になることによるだろうと思う。
しかしそれ以上に……かなり後になって明かされることだからここでオチバレもアレなんだけど、彼は兄を自殺によってなくしていた。その原因はいじめ。そして今、父は仕事で忙しくてなかなか家に帰ってこなくて、母は海外で仕事、ほぼ磯辺は家で一人暮らしのような生活。食事はコンビニ弁当を外でぼそぼそ食べるような。

それに比して小梅は、家族の様子はひどく平和である。幼い弟に両親もそろっている。仲もよさげである。特に反抗期らしいものも見当たらない。つまり、家庭においては小梅は、何の問題もないんである。
彼女自身、家族に対しては自身のうつうつとした内面を少しも漏らすことはない。隠すというよりは、家族の中の小梅と、その外の小梅は違う人格、とまではいわないまでも、違うのだろう。
なんとなく判る気はする。その子のタイプにもよるのだろうけれど。自分のプライベートな心理まで家族と共有するタイプの仲の良さと、そこはきっちり分けて、家族としての仲の良さを別物として保っているタイプと。

小梅が磯辺とそういう関係になったのは、「だって磯辺、一年の時私に告ったじゃん」ということなんであった。小梅はいかにもハデな3年生の先輩にフェラさせられて激しく落ち込んでいた時だった。
想いを告げる前にそんなことになったから、どうしていいか判らなくなったのか、経験しとかなきゃ今後先輩に告白することも出来ないと思ったのか、とにかく、セックスの相手としてだけ磯辺に持ちかけたんである。

「だって磯辺、私に告ったじゃん」で、付き合うこともせず、好きになる可能性も否定してセックスだけ、キスも拒否とは、磯辺が怒るのも当然なんだけど、まあ結果的に二人はそういう関係になる。
まさにセックスだけの関係なんだけど、親のいない磯辺の家、鍵さえかけていないところに始終小梅は上がり込み、マンガを読み、音楽を聴き、セックスをする。

膨大な蔵書とCDは、磯辺の亡きお兄ちゃんの持ち物だった。「気づけよ、二段ベッドじゃん」と磯辺が言うまで小梅はまるで気にしていなかった、というあたりが、彼女の気質を絶妙に表している。
後半、磯辺が小梅に激怒して、自分のことしか考えてないと突き放す、本当に残酷なまでに突き放す、小梅はボロボロ泣くんだけど、彼女に同情出来ないのはまさに、磯辺の言うのがその通りだからなのだ。
小梅は自分のことしか考えずに磯辺とセックスし、彼のことを好きになってきちゃったかもという感情を見て見ぬふりをし、それから振り切るためにフラれた先輩に近づきランボーされそうになり、そこでようやく磯辺への想いに向き合った時には、磯辺は亡き兄への想いを乗り越え、新しい恋も見つけて、小梅なんか必要としなくなっている、という!!

この時期は女の子の方が早く大人になる、といった印象を持ち続けていたから、小梅が、先輩にフェラもするし、同級生とセックスもするのに、あまりにも子供なことに、……こういう設定は新鮮だなあと思う。
あるのかもしれない。こういうパターンも。凄く判りやすい対照的なものとして、小梅の親友、桂子と、小梅の幼なじみ、鹿島の存在がある。桂子は鹿島に片思いしているけれど、どつき漫才のような形でしか彼とコミュニケーションできない。そして鹿島は小梅に片思いしている。桂子はそのことを知っている、のだろう。明確にはされないけど。

ああ、なんと切ない。そのことを小梅も磯辺もちっとも気づいてないのだ。いや、磯辺は、鹿島の小梅への想いには気づいている。だって鹿島が食ってかかったから。小梅が苦しんでいるのを見ていられなかったから。
人生の暗闇とセックスを知ってしまっている磯辺と、健やかに成長している感まんまんの鹿島(旺志郎君がそういう雰囲気をイイ感じに出してる)とでは、かみ合う訳がないのだ。

でもさ、でも、どっちがどっちって訳じゃないよ。辛い思いを経験してるから、セックスを経験してるから、大人になる訳じゃないよ。でもこの年頃には、そんな風に錯覚しちゃうのだ。ヘンな優越感、ヘンな劣等感、お互い小梅が好きな同士、ねじれたライバルであることも手伝うにしても。

桂子と小梅の場合は、桂子の方が、……不思議なんだけど、大人であったと、言うべきなのかもしれない。
桂子は小梅の事情を結局何一つ知らないまま。そこが鹿島とは大きく違う。ケンカ相手みたいな立場で鹿島に想いを伝えられない、これぞ、古き良き中学生的恋愛事情!と昭和世代のおばちゃんが感涙しちゃうような女の子、メガネ女子だし、オタク女子だし。

でもだからといって、先輩にフェラをし、磯辺とセックスにふける小梅に比して幼いと言えるのだろうか。高校を卒業したらお笑い芸人になる、という夢を幼いと言い切るのも早計である。だって小梅には、そんな夢さえない。勉強は嫌いだけど、桂子と一緒の学校に行きたいから頑張る、というのが高校進学のモチベーションなのだから。
磯辺とセックスしていても、次第に磯辺に恋したかもしれないと悩みだしたとしても、恋の苦しさ、夢を目指す苦しさを先に知っている桂子が小梅よりずっとずっと大人であると、言うべきなんではないのだろうか。判らない、判らないけど……。

一体何なの、セックスって。だって小梅は、やけくそで処女を捨てた最初は、当然痛いばかりだった。でも、磯辺のアレが可愛いと思った。
そこからはセックスの衝動、といった描写が続いて……。感情がどこから乗っていったのか、磯辺はそもそもずっと小梅が好きだったわけだけれど……。

いや、違った。突然磯辺の、その心は離れるのだった。前兆はあった。てゆーか、タイトルである。うみべの女の子は、小梅のことじゃないのだ。なんということ!
磯辺が海岸で拾ったSDカードに写っていた美少女。その画像を小梅が嫉妬に狂って消してしまったことで、一気に二人の仲がぎくしゃくする、ストーリーを転換させるキモになる存在。
幻の存在であったようなこの美少女に、磯辺は奇跡的に出会うんである。しかも、死のうと思っていた矢先の、嵐があがったタイミングで。

そのタイミングで、小梅は磯辺への想いにようやく向き合って、自覚して、ちょうど文化祭で、磯辺に、欲しがっていたはっぴいえんどのCDアルバムをプレゼントしたいと思って……。
あれはやっぱり、台風とかを待って撮影したのかなと思う。雨ならホースで降らせることができるけど、海がざっぷーん!とあばれまくるカット、その場所でさまよいまくる彼や彼女、これは……!!待ったなあ!!と思う。まあ日本って国はちょこっと待てば台風はバンバン来るにしても(爆)、でもやっぱり、ねえ。

「うみべの女の子」にリアルに出会っちゃって、それまでは、次の誕生日(兄の命日)には死のうと、確実にそう思っていた磯辺が、彼女の高校に入ろうとモチベーションを得ちゃう。
小梅がアゼンとするぐらい、再会した磯辺は別人なんである。うっそうとした重たい髪はすっきりとカットされ、「うみべの女の子」に出会った奇跡にウキウキしていて、小梅のことなんか、眼中にないのだ。

この時点で、小梅が哀れ、というか、愚か、というか、醜くさえ見えてくるのが辛くて……。だって、自分に告った相手だからセックスしてあげる、というスタンスから始まったのに、次第にセックスしてくださいになり、つきあってくださいが、ゴメンと返され……。
結局小梅は、恋を知らないままフェラしちゃってセックスしちゃって、相手からの真剣な恋を、自分の方が大人だと(フェラもしてるしセックスもしてるから)勘違いしちゃって、今、ただ一人、取り残されてしまった、のだ。きっつ!!

現在時間軸は高校生になった小梅なんだけれど、言い寄ってきてる彼氏候補もいるけれどイマイチ乗り気になれず、小梅は幼なじみの鹿島と久しぶりに再会する。鹿島はいまだに小梅に未練な雰囲気なれど、桂子との長い付き合いに、色々あるんだよと語るにとどめ、小梅を心配するのだ。
彼氏がいる、それを聞きだしても、小梅はなんだか、あの当時から変わらず、頼りない。小梅を好きになる男子は大勢いるし、小梅をだまくらかす男子も大勢いる(爆)。そんな危なっかしい女の子である彼女を、今、幼なじみとしてしか見守れない鹿島である。

恋って、何だろう、ということだろうと思う。そしてそこに絡んでくるセックスってなんだろう、っていうこと。
大人になれば、性愛という文学的、哲学的言語で分析することが可能だけれど、10代(しかもローティーンならば余計に)は別の言語や解析方法が必要であると思う。この物語は、ローティーンの衝撃的物語とくくってオワリじゃないのだ。これがリアルだし、現実なのだから。★★★★☆


海辺の金魚
2021年 76分 日本 カラー
監督:小川紗良 脚本:小川紗良
撮影:山崎裕 音楽:渡邊崇
出演: 小川未祐 花田琉愛 芹澤興人 福崎那由他 山田キヌヲ

2021/7/4/日 劇場(新宿シネマカリテ)
女優としてお名前は拝見していたけれど、縁がなくってその出演作は……いやいや待てよ、彼女のフィルモグラフィを眺めていたら、「イノセント15」で映画初出演!!覚えてるあの子!!
そういやあその時、へー、映画製作学んでる学生さんなんだ、こんなにイイ感じなんだから女優さんになっちゃえばいいのに、と思った記憶が急によみがえった!!なんと!!……小さな映画も足を運んどくもんだなあ、ああ一気に感激してしまった。

そしてその映画製作の才能が、マジに本物だったことにも驚きを隠せない。天は二物を与えずとゆー言葉がどう考えても嘘っぱちだということは、古今東西そこここに示されていることではあるが、驚いてしまう。
是枝監督に師事していたということで、一気に納得もいく。なるほど、「誰も知らない」をほうふつとさせる。むしろそれを知っちゃうと、ダイレクトに影響を受けすぎな気がするほど。

「誰も知らない」でパーフェクトに昇華した、もともと是枝作品のベースとなっているドキュメントな作り方が、本作にしっかりと踏襲されている。
ホントに施設の子供たちではないだろうけれど、もしかしてそうかも、と錯覚してしまうほど、子供たちのリアクションやまとわりつき方や会話のペースが生活そのものの自然さで、これは取材と演出をかなりじっくりやったんではと、驚かされるんである。

海辺の金魚。冒頭とラストがつながっていく。金魚が海に放たれる。あれれれ、金魚を海水に放したら死んじゃうよと思ったら、そこにも監督自身の考えがあったことをのちに知る。観賞魚として退化したからだと。その金魚を海に連れ出したいと思ったのだと。
正直作品を観ている限りでは、監督のその深い想いをくみ取ることはおばかな私にはできなかったし、そういう隠しテーマを設定するのはそこはちょっと若さかなと思いもしたけれど。

だってこれって、もっと単純でベタな見方をされちゃいそうじゃない。金魚鉢の中に囲われた孤独な私の分身を、死んでもいいから放してしまえ、みたいなさ(爆)。
まあ映画は受け手がどうとるかは自由だし、作り手がどう提示するのも自由なんだから、それはそれでいいのかもしれない。それにそれだけじゃない。金魚の意味合いはそれだけじゃない。主人公、花の思い出したくなかった遠い記憶につながっていくんである。

花はこの施設で高校卒業を間近に控えている。つまり、ここから出る時ももうすぐなんである。奨学金を得て大学進学を目指しているけれど、親のサインが必要なことが彼女を躊躇させている。
そもそもここで暮らしている子供たちは、そんな具合に親たちがどうにかなっちゃったからここにいる訳である。

花の場合は……かなり後になって明かされるが、かなりの深刻度である。シングルマザーだったのかなあ、父親は出てこないから。農家である母親は、集落から孤立している感じだった。
ある祭りの日、かき氷を食べた人たちがばたばたと倒れ、死んだ。そのかき氷に農薬を入れたとして彼女は捕まり、今も刑務所の中。再審請求も棄却され、ほぼほぼ刑が確定だと推測される。 その刑、というのは恐らく……そして、再審請求を出しているのは当然、一人娘である花。
彼女は母親を、ただただ信じたいのか。でも母親が何を考えていたのか、ほんとうにやったのかという以前に、幼すぎる子供だった彼女に判る訳はなかったのだ。

このエピソードで即座に思い出されるのはあのカレー事件だが、皆が寄ってたかってつるし上げたあの事件は、今では冤罪の疑いが濃厚になっている。それを考えると、あの事件をどうしても想起させるこのチョイスは微妙な気もする。
有罪なのか無罪なのか、そもそも幼い子供であった花がその事情を知る由もない状態で再審請求だけを出しているという状態が、あの事件を想起させると必要以上の意味深さを感じさせちゃうからである。

ただ、この深刻な事情はかなり後になってから明かされる。花はこの施設の最年長で、母親的、教育係的、そんな存在になっている。そのことが、彼女を知らずに追い詰めていたのかもしれないと思う。
18歳。そしてこの施設にいること。まだ彼女は子供であっていい筈なのだ。施設長の高山だってそのことは判っていた筈なのに、長年の付き合い、しかも手のかからないしっかりした子供であった花を、子供、なのに、ついつい大人的に、同志的に、信頼し、頼ってしまった部分があったのだろう。
そのくせ、花が晴海を心配して口出しするのに対しては、急に子ども扱いする。これが大人の無責任さというもんである。

物語の冒頭で、この施設に連れてこられた晴海である。心を開かず、手を焼かせる。ぼさぼさに手入れしていない長い髪。きったないぬいぐるみをぎゅっと抱きしめたまま、食事さえも拒否した。そして行方をくらました。
駅までは頑張って行った、ということを花が報告すると高山もその意味を汲んであたたかな笑いをもらす。こういうことはあるあるなのだろう。
でも、晴海が何故ここに来たのか、高山がそれを知らない筈はないと思うんだけれど、後の展開を思えば、知らなかったのかなあ、そのあたりの抑え方がちょっと甘かったような気はする。花が発見するのだ。晴海の肩口にあざがあることを。

それでも晴海は家に帰りたがる。母親のもとに戻りたがる。子供のこの精神状態というのは、のんきで放任だった専業主婦の母親を持ったこちとらとしては、なかなか理解しがたい部分がある。
虐待された子供たちが、それでも母親が好きだと、教育専門家あたりがしたり顔でいうことが、なんかピンとこなかったのだ。子供はみんな母親が好きだということが常識みたいに言うのが。

でもふと、思い当たった。これは洗脳ではないのか。庇護者として、守ってくれるものとして母親という洗脳が、ヒドい仕打ちを受けても、庇護を受けるためには絶対的存在として、大好きでいなければならない、ということなんではないのか。
花は虐待を受けてはいなかったけれど、断片的に示される回想シーンでは、娘として愛されている感じはなかった。ピリピリしている母親に戸惑っている少女、それが、母親が捕まって連れていかれる場面にまで通じている、そんな感じだった。

その時、花がお祭りで金魚すくいをしていたんである。なかなかすくえない花に、おじさんが一匹プレゼントしてくれた。その直後の出来事だった。
そして、晴海をお祭りに連れて行った時、まったく同じ事象が起きて、記憶がフラッシュバックし、花は倒れてしまうんである。

晴海は花に甘えていた。最初こそハリネズミのようにとげだらけだったけど、脱走事件から徐々に、心を開いた。心を開いた、じゃなくて、まさに甘えていた。
でもほんのささいなことだ。晴海の年頃なら、甘えかかって親にするような。でもそれに、花が二回目ですでにイラついたのは、まあいろいろ思い出しちゃったこともあろうが、自分だってまだ子供だということを忘れて、それこそ子供っぽく思っちゃったせいもあろう。それを待ち構えているかのように晴海は鋭く言う。「いい子にしていたって、帰れないじゃん」

大人の立場としての安易な優越感で、子供をだまそうとしていたことを突きつけられる。そしてその愚行を犯した自分はまだ子供なのだ。
晴海と花。見た目的にはまさに大人と子供だけれど、年齢的にはほんの10程度の差である。大人と子供じゃない。子供と子供なのだ。

でもこの10代の差は大きく、時にオトナ側から、まだ子供である年長者に大人の役割を期待したり、子供自身も自分は大人なんだからと錯覚したり、させられたりする。
まだ子供なのだよ。子供でいいのに。お母さんに会うことも怖くてできない。再審請求は出しているのに、会いたがっているというお母さんに会うことも出来ない花はまだ子供でいいのに!!

きっとずっと封印してきた子供としての自分を、忘れていたという言い訳の元に封じ込めていた記憶をよみがえらせたのが晴海だったのかと思う。表面上は庇護する、される関係である。

花の同級生の実家の流しそうめん屋で興じる場面が、アクセントとして印象的である。この男子同級生は、どうやらいじめられている。隠された靴を、花が見つけてあげるんである。なのに彼が言うのはありがとうじゃなく、ごめんであり、おわびにと、実家の店に招待するんである。
彼としてはまさか、施設の子供たち総出で来るとは思ってなかったらしいが、思いがけないイベントに子供たちは大はしゃぎ、これをきっかけに晴海も心を開くのだから本当に大きな出来事なのだ。

ただ、この男子との関係性、エピソードはこれだけにとどまったのが、もったいない、惜しいなあ。そらまあ、それ以上の大事なシークエンスを消化しきれてないから、ということなのだろうとは思うのだけれど、そっちを重要視するなら、男子との淡い関係性はすっぱりない方がすっきりしたと思う。
彼がいじめられているっていうのも、そうらしい、ぐらいにとどまったまま、彼側のその事情には踏み込んでいかないなら、花とのつながりを持たせるためだけの設定なら、収拾できないままに重すぎる。意味ありげすぎる感じはしたかなあ。

それを言うと、花側の学校での立ち位置もちょっと気になっちゃう。友達がいない、ということを示したかったのかなあ、ヘタクソなショパンの演奏に導かれて、音楽室に入っていった花と、同級生たちの、なんか気まずい雰囲気、その一発だけが、花の学校生活として示されるのだけれど、そこに女子的確執の大きな意味を読み取るべきなのか、花が単純になじめない感じなのか、なんか気になる!!的な布石をドーンと置かれちゃって、ソワソワしてしまう。
まあそのこと自体は本作のテーマには本質的な関係はないけれど、それならすっぱり切ってしまうか、本質的な関係はないけど、間接的な関係はあるというのなら、あの描写は観念的で判りにくい感じはしたかなあ。

判りやすさを求めちゃうのは、観客としてめっちゃ恥ずかしいことなんだけれどね。でもそのことで、伝えたいと思っていることが末端にまで伝わらないのだとしたら、こんなもったいないことはないから……。★★★☆☆


梅切らぬバカ
2021年 77分 日本 カラー
監督: 和島香太郎 脚本 和島香太郎
撮影:沖村志宏 音楽:石川ハルミツ
出演: 加賀まりこ 塚地武雅 渡辺いっけい 森口瑤子 斎藤汰鷹 林家正蔵 高島礼子

2021/11/17/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
「きのう何食べた?」を一緒に観た友人と、多様性の社会への意識への持ち方が、日本は100年、いや200年遅れてるよね!!と大いに共感しあったものだが、その多様性の中には“今流行りのLGBTQ”(とか言ってる時点でダメなのだが)以外に、当然、障害者、高齢者、虐待されている子供などなど、あらゆる人たちが含まれる。
それを一様に社会的弱者、と言ってしまうあたりも日本的200年遅れている意識だとしみじみ思うのは、そういう価値観に疑問を持たないからこそ、相模原のような事件が起こるのだとほんっとうに、思うからである。

私は劇中の、忠さんと友達になる草太君がめちゃくちゃうらやましい。なぜかというと、私が子供の頃、そういう出会いがなかった。つまり、今から思えば隠匿されていた、なきものとされていた、ということなのだ。
現代だってさして変わらないように思う。ようやく車椅子ユーザーが街にいるのが普通になってきた、という時代錯誤である。障害、とくに知的ハンディキャッパーと出会うチャンスはほぼない、という不自然さを、子供の頃はその存在自体を知り得なかったのだから、気づく筈もなかったのだ。

そのことがどんなに不幸なことかと思う。自分の周りを自分とさして変わらない生活をしている人間だけで武装して、それ以外の人たちに出会うチャンスすら与えられていなかった。そしてそれは、何度も言うけれど、現代でも大して変わらんのである。

忠さんは50になんなんとしている。母親の珠子さんと二人暮らし。当然、珠子さんは心配するんである。この先共倒れになるんじゃないかと。
このケースとは違うけど、引きこもりの人たちが50に差し掛かり、親世代が80に差し掛かる。8050問題が、9060問題になんなんとしている、というケースをふと思い出す。そしてそのケースは、200年遅れた日本社会が、結局ダメ人間の話だろと興味すら持たないことこそが大問題なのだ。

それは本作の、知的障害者(障害という言い方は好きじゃないんだけど、他の表現の仕方ってないのかなあ)たちへのそれと何ら変わりない。自分たちの周りを同じような人間で固めて、それ以外は興味を持たず、ふと目の前に現れると、人間扱いさえしない、怪獣でも現れたように、怖れ、拒絶し、迷惑をこうむったと怒りをあらわにする。
想像力ということを思う。自分があちら側になったらと想像するだけで、大抵のことは解決すると思う。でもその機会を、先述のように遅れに遅れた日本に生活してるワレワレは奪われ続けているんである。

忠さんを演じる塚地氏のなんとチャーミングなことか。分単位の生活スケジュールから一歩も出ることを自分に許さない。決して人と目を合わすことはないんだけれど、対峙する人のみならず、お馬や梅にも人と寸分たがわない優しく、繊細な精神で臨むんである。
目を合わせないし、なんかぶつぶつ独り言言うし、それこそそういう人たちと出会う場を奪われている凡人な大人にとっては、ただ奇妙な怪物みたいに見ちゃう。

でも子供は。隣に引っ越してきたばかりの草太君は、友達が寄せ書きしてくれた野球のボールを“不法侵入”して届けてくれた忠さんに、一気に心を開く。目を合わせなくても、会話がイマイチ成立してなくても、自分のことを思ってくれた忠さんという人間そのものにダイレクトに反応する。
本当にうらやましいと思う。めちゃくちゃ基本なんだもの。なんかね、考えちゃうよ。会話が成立することが、コミュニケ―ションなのかって。お互い別のこと考えてても、会話って成立しちゃうよ。そういうことじゃないってことが、忠さんと草太君の間に起こっている。だからこそ草太君は、お馬さんが大好きな忠さんに触れ合わせてあげたいと思って、夜の乗馬クラブに忍び込み、大問題に発展するのだが……。

なんかすべてをすっ飛ばして、いきなりクライマックスに行ってしまった。私の悪い癖(爆)。本作はどこか愚直なまでに、現代日本の、知的障害者への差別、いや、侮蔑的視線、しかもそれを正当な権利としてふりかざすという見るに堪えない民度の低さをまっすぐにとらえる。
「私たちは穏やかに暮らしたいだけなんです!!」とトラメガで絶叫する住民たちに、それを言われている彼らだって同じだよ、ということが何故判らないのかと思っちゃう。

何度も言うけれど、想像力、なのだ。そして同じ人間だと思っていないという、恐るべき傲慢、なのだ。なぜこんな住宅街にグループホームを作るのかと、施設利用者に子供が頭をはたかれたと訴える母親は言う。郊外に作ればいいじゃないですかと。
ガマンならずに説明会に同席した珠子さんの言い分がまさにである。忠さんを危険人物扱いしている乗馬クラブのスタッフの女性に、なら乗馬クラブを郊外に移すことは考えないのかという提案に絶句するんである。
「お互いさまでしょ」。ああこんな、いい言葉が日本にはあるのに、それが本来の意味で機能することが、なくなってしまったんじゃないの。

8050問題に直面して、珠子さんは身を切られる思いで忠さんをグループホームで生活させることを決心する。強いこだわりを持っている忠さんだから、共同生活であるホーム内での生活は大変なこともあるが、それはむしろコミカルに処理される。
つまりそんなことは、大した問題ではない、ってことなんである。周辺の住民からは始終クレームが入る、というか、そもそもここから出ていってほしいということが前提なんである。
それは、迷惑をこうむっているということ以前の印象がある。珠子さんがお互いさま、という価値観を示したように、かつての日本社会ではそれですべてが解決していた。200年遅れていると言ったけれど、むしろ200年前はそうした共同体がきっと成り立っていたのだ。

お隣の友達、草太君が忠さんを夜のお散歩に連れ出さなければ、もしかしたら、お互いお約束な感じの小競り合いで済んでいたのかもしれないけれど、それこそが日本の悪しき伝統、とりあえず議論にのせてるという体裁は示しても、そこから真の話し合いには至らない、至る気もない、という。
そこに、忠さんの友達である草太君が、友達同士だからこその秘密の冒険をして、それが、……この均衡を、いい意味でも悪い意味でも破っちまうんである。

いや、いい意味だったんだと思う。少なくとも草太君の父親、息子からも妻からも、その尊大な、絶対に謝らない、強硬な性格が疎まれているお隣さん、演じる渡辺いっけい氏の変化こそが、本作の大きなトピックだった。
それまでの彼はいかにも、であった。知的障害者の理解なんて思いもよらぬ、みたいな。自分たちの生活が守られていればいい、みたいな。

どんな人間が、どう転ぶか。私もさあ、単純だから単純に感動しちゃうのよ。いっけい氏演じる古臭そうな自分本位の男が、不器用ながらも子供や奥さんをきちんと愛していて、彼らの考えをくみ取って、忠さんと人間として立ち向かおうと,渾身の努力をするのが、すんごく意外で、でもほんと、それでこそ人間、人間って、判らないな、と思って……。
なにかね、一枚の絵のように、一緒くたに、理解ある人、無い人、みたいに、ついつい考えちゃうのよ。でもそうじゃない。それぞれの個々人の、意識や価値観や考え方、それは認識不足、勉強不足の面もあって、グラデーションのように変わっていく。もうさ、ネット民とか、コメントとか、炎上とかやめようよ、と思うのはまさにこの点である。簡単に人を傷つけるコメントをする人たちは、このグラデーションの中にさえ、いないのだから。

かなり後半まで、たんなる頑固者、興味すら持つ気もないっていうのは、抗議攻撃する人たちと比して、どっちがどっちなのか、と考えちゃうような彼であった。
なのに、愛する家族が信頼する人たちならと、表面上はどこかぶすくれながらも恐る恐るおとないを入れ、なのにあっという間に取り込まれて気持ちよく酔いつぶれ、最終的には、「ここにグループホームを立てればいいじゃないですか!反対する人はいないですよ!!」と酔った勢いとはいえ言っちゃう。
これぞ、相互理解であり、一緒に生活している同じ人間同士であり。こんなにこんなに簡単なことなのにさ、っていうさ。

本作の描写は、昨今取りざたされている事象を、かなりわかりやすく羅列している感もあって、住民運動のシーンとか、正直ちょっとヤボな印象も受けなくもない。でもそんな具合にイチから説明しなきゃ、200年遅れてる日本では判ってもらえないということなのだとも、思う。
だってむしろ、こんな拒絶反応より、無関心の方が重要事項なんだもの。そこにいない存在として、認識さえしてない、っていう。何か意見を問われれば、それなりに理解のある態度をとる、っていう。

私はね、当事者じゃないし無責任な理想しか言えないんだけれど、誰もが自分の住み慣れた家に住み続けて、最期を迎える権利を持っている、持つべきだと思っている。
私は独身で、冗談交じりで姪っ子甥っ子に老い先は頼むねと言ったりはしているけれど、本心は違う。自分の人生は自分だけで完結したい、そのために福祉の手を借りるのはまったくもってやぶさかではない。
自分が住み慣れた場所で最期まで全うするために、中立の公共の手を借りて、最後まで自分らしく生活して最期を迎えたいというのが理想、というか、絶対にそうするから!と思ってて、でもそれって、当然のことだよねと思っている。

最近の良作ドキュメンタリーで、病院ではなく自宅で最期を迎える、そのための訪問ドクターというのを見て、これが普通でしょ、なぜもっと、普通にならないのと思い、自分が死にゆくときにこれが普通になってほしいと切に願っているんだけれど、死ぬ死なない以前に、自分らしく生きる、生活する、という点で、これでしょ、と思って。
障害者、特に知的障害者はグループホーム、それはそれで、いい面もいっぱいあるだろう。でも、自分の家で生活したいと、どんな立場の、どんな人間だって当然、そう思うんじゃないの。

私は当事者じゃないから、勝手なことは言えないのかも、でも当事者じゃないからこそ、勝手なことを言っちゃう。どんな立場の人間であれ、自分が心地よく生活する選択を遮られるなんて許されないでしょ。
極端に言ってしまえばさ、罪人でさえさ、刑務所で刑に服している時はそらまあ強いられているけれども、そこから出て、生きていこうって時に、その権利を妨げられるってのは許されない訳でしょ。

でも、なんかさ、なんか……日本って国は、凡百な人間である自分が安全圏にいると、少しでも瑕疵のある人間を見つけ出して、ひねりつぶそうとする残虐な嗜好があって……時折それに接する時、それが自分が見知った人だったりすると、ほんっとうに、ゾッととしてしまう。
だからこそそれにちゃんと気づいて、草太君のような良き隣人でありたいと思う。出会う機会をくださいと思うのが、消極的なのかな。自分から会いに行かなければ。

お馬さんは最初から、忠さんを怖がってなどいなかったよね。乗馬クラブの女性が、お馬さんに興味津々の忠さんをゴキブリのような拒絶をしたけれども、彼女がたずなを握っているお馬さんが、忠さんとすでに心を通わせていたことを、映画という表現に落とし込まれた時、観客である我々は目にすることができる。
私たちが、人間という立場、というか、価値観にあぐらをかいていることに、めっちゃ恥ずかしい!!と思わせられるんである。★★★★☆


浮気妻 -身代わりの罠-(浮気妻 寝室の覗き穴)
2015年 73分 日本 カラー
監督:吉行由実 脚本:吉行由実
撮影:田宮健彦 音楽:
出演:椿かなり 里見瑤子 あやね遥菜 ピン希林 柳東史 樹カズ 和田光沙

2021/8/16/月 録画(チャンネルNECO)
終わってみればなかなかの心理サスペンスであった。他人の空似にしてはソックリの二役を演じることとなることをのちに知れば、そのひと役目となる傲慢なセレブ妻の芝居がツラかったのもムリなかったかもしれない。
だってこれは、二役という以上になかなか芝居としても難しいと思うもの。ふた役目となる地味系メガネっ子女子として登場してくると、とてもキュートで生き生きと演じているのが、そうかきっと彼女は本来こっちなんだな、とその時は単純に思ったが、そーゆーことではなかった。つまり、このふた役目としての彼女こそがメインであり、キーパーソンであり、すべてをひっくり返す女だったのだから。

その位置づけで考えると、何も知らずに自分だけが世界の主人公のようにふるまっているひと役目のセレブ妻はとんだ猿回しの猿であり、その構成を考えると、これは、む、難しい!
だからそのセレブの傲慢さが無理やりはがされることになるクライマックス以降の、精神崩壊と狂気に落ちてからの彼女は、それまでのツラい芝居がウソのように、そっちにイキイキし始めるのだから、時に芝居に悪戦苦闘しているピンクの女優さんの、作品の中のこうした変遷を見ることができるのが、面白い。

そしてもう一人、いわばタイトルロールともいえる女優も参戦。家政婦、というより古臭い言い方だが女中、と言った方がしっくりくる。セレブ妻、梨花による扱いは正しくそれである。
演じるはピンク女優としてはベテラン、里見瑶子。彼女ひょっとして、梨花を演じる椿かなり嬢に寄せたんじゃないかと思われるような、“理不尽なセレブ奥様に従順な女中”をかなりベタに演じる。そう感じるのは、昔からのご近所さんで事情をすっかり知っているらしいジョギングおばちゃん(これが吉行監督自身だよね)もまた、そうよねえ、たいへんよねえ、という、それを誘い出すいかにもなウケの芝居をするからである。

いわばセレブ妻である梨花の家庭生活は、そんな具合に虚飾に満ち満ちている。二番目の奥さんを盲愛している旦那さんはその腹黒さにちっとも気づいていないし、それをいいことに梨花はイケメンジャーナリストと爛れた関係をむさぼり楽しんでいるんである。

しかして梨花は、昔からトラウマのような夢にうなされ続けている。波だった水面に落ちる帽子、泣きじゃくる女の子の声。しかも梨花には四歳までの記憶がないんである。
両親もすでになく、自分を育てたという恩義でやたらとタカってくるおばにイラついている。梨花がセレブ妻になったのは、つまりきっとネラってその立場をゲットしたのは、無意識有意識含めて自身の中にある劣等感を払しょくしたかったんであろうことがアリアリである。

でもその根本の原因に、あの悪夢がなんであるかに気づかぬままに、七恵と出会う。セレブな生活を記したブログのファンだといって接触してきた、梨花とは正反対の地味系女子だけれど、不思議に顔立ちがソックリな七恵。
この時点で、観客であるこっちがその都合のいい事実にピンとこなかったのが、ああ悔しい。ピンク映画はエロのためなら雑な設定も結構押し出してきちゃうから、と思ったのが甘かった。

七恵を演じたとたんに、梨花の時とは打って変わって、まさに水を得た魚のようにイキイキと演じだしたかなり嬢にも、いい意味で騙された。本当に梨花を崇拝し、彼女のようになりたいと思い、こんな素敵な生活、こんな素敵な旦那様と褒めちぎる彼女を、梨花と同じ目線でヨシヨシと思ったのはどういう心理的麻痺だったのか。
おかしいだろ、こんな近い場所に、うり二つの顔の女がいて、接触してくるなんて。フツーに考えて、おかしいだろ。なぜそう思わなかったのか!!

梨花はイケメンジャーナリストとの不倫旅行のために七恵を雇う。余計なことはするな、ぐらいにしか忠告しない。一応テストとして、監視しながら食事の様子など見守るのだが、充分危なっかしいし、叱責もするのに、それでオッケーと思って不倫相手と旅行に出かけちゃう甘さは何なんだろーと思っちゃう。
ただ展開はここからである。梨花から言われたことにはうんうんとうなずいていたのに、七恵はことごとくそれを破るんである。ご近所さんには愛想よくあいさつし、部屋の模様替えをし、旦那さんと出かけ、その先で得意の似顔絵を描いてあげて、究極は、……「誘われても絶対に拒否して」と言われたセックスを、なんとまあ、自分から誘ってヤッちゃうんである。

このセックスに関してはそらまあバレることはないけれども、それ以外のあれこれに関しては、だって私からは何も言わなかった、誠さんが言ったことにすべて従っただけよ、と言い募る。
これが、本当に恐ろしい。見事にすり替えてる。七恵はあくまで梨花に雇われ、梨花の指示に従う立場の筈だった。ただ、梨花が、適当にうなづいていればいいのよ、という指示を見事にすり替え、梨花ではなく、旦那に従う立場に成り代わったのだ。

しかもそのことに、頭に血が上った梨花は気づいていない。まだ七恵が支配下にあると思い込んで、不倫相手の気持ちをつなぎとめるためにもう一度七恵を利用しようとする。もはやすでに、七恵に利用されているとも知らずに。

ところで、先述したタイトルロールともいえる女中、陽子はどこまでの立ち位置だったんだろうか??いかにも訳アリというか、誠の幼なじみで、きょうだい同然に育てられ、ということは、どうやら彼女もまた家庭に事情アリな感じなのだが、そのあたりは“壁の穴から旦那様の秘密を覗き見る女中”という設定以上に発展していないのは惜しい、気がする。
いや、発展しそうなシークエンスはある。何より優子は明らかに旦那様、つーか、彼女にとっては弟のような愛しい存在である誠を愛している。誠の方が彼女に対してほとんど関係性を示すような会話も何も示さず、一か所だけ、妻との関係に悩んでいる時に、“お姉ちゃん”としての優子に親愛の情を示すハグをするだけ。

確かにそれだけだからこそ優子としては切ないんだけれど、本当にそれだけなので、正直、壁から覗く女としての設定を成り立たせるための最小限で、むしろ不自然というか、ジャマな印象すら受ける。
だってなんたって、まぶたの双子姉妹、しかもそこには幼児とはいえ殺人未遂、その復讐っつー、重すぎる展開が用意されてるんだもの。

しかしてこの展開の謎解きは、かなりツッコミどころは指摘せざるを得ない。梨花が双子の妹の理恵を川に突き落とした。それは、キャンディを独り占めしたいがためだった。理恵は見つからず、梨花はその時までの記憶を失ったまま育った。
死んだと思われた理恵は、偶然ソックリな顔なのだとして梨花の前に現れた七恵ということなのだが、七恵の囲い込みによって次第に追い詰められた梨花が、七恵から「きょうだいとか、判らない。川に流されたところを保護されて、施設で育ったから」と言うんである。

これはさ……ムリがあるよね。七恵が梨花を追い詰めるためにわざわざ当時の新聞記事を用意したように、当時、その事故はしっかりと明るみになり、警察による捜査もされたのだから、近い時間軸で、同じ川筋で拾い上げられた女児が、その事件と結び付けられずに身元不明として施設行きというのはあまりにもおかしい。
これを、設定上の甘さとするのか、この物語が持つ怨念的なものに寄せるべきなのか……先述したように、二役に苦労している主演といい、ワザとらしさに妙に寄せているようなワキたちといい、なんとも判断しがたいものがあるんだよね。

自分が何者なのか、という葛藤が、後半になって急激に押し出されてきた印象があるのも、その戸惑いを加速させる。先述の、七恵の存在の成立の不思議さというか、おかしさというか、それがもしかして、確信犯としてのそれだったのかと考えると、急にゾッとするのだ。
七恵は、いや、理恵は、死んでしまった存在。この世にいない存在。そして、自分を突き落として殺した姉を恨んでいて、双子だからソックリで。

……こういうこと言うのは良くないかもしれないけど、双子だから、彼女が手にしたダンナが自分の好みにも合って手に入れたくなって、姉はイヤがってセックスもしないそのダンナを、子供を作る勢いでラブラブにセックスしまくって。
死んでしまって、身元も何もなくなってしまった七恵、その名前も仮である彼女が、全身ソックリの双子の姉から、そのすべての幸福を乗っ取るために、最初から、近づいたのだということなのか?ああ、なぜ気づかなかった。ピンク映画のエロ設定だと思ってあなどっていただなんて、最悪の侮辱の仕方じゃねーか!!

従順さだけを前面に出して、眠れないんだったらいい薬がある、と差し出した時にようやく気付いた私は、本当に愚か!!そしてその時点でもう、フラッフラに精神がヤラれている梨花は、その薬にすっかり溺れ、幻影を見て、愛人の浮気を幻覚に見て、刃傷沙汰に及び、捕まってしまう。
そして、そこで、自身を奪われたことに気づくのだ。彼女の存在意義は、セレブ妻としての、誠の妻としての自分だけだった。それが、七恵によってあっさり奪われた。

ダンナとのセックスを拒否し続けていたこともあだになった。旦那が証言した、彼だけが知る妻の身体的特徴、つまり閨房の秘密は、梨花が彼に身体を容易に許さなかったから、七恵の身体の秘密をこそ刑事に打ち明けることになる。
そうして、梨花は自分自身を七恵に、自分が殺し損ねた妹に明け渡してしまった。そして、自分自身が殺した妹自身になって、何者でもなくなってしまった。

冒頭が、誠の妻だと、そう言えば判るんだと、その後のセレブ妻としての美しく傲慢な姿からは想像できない、すっぴんで、スリップ姿の、もうあられもない姿で女刑事(和田光沙!)に尋問を受けているシーンから始まる。そしてこのシーンに最後帰っていくわけである。
秋元誠の妻だと言えばわかるんだと言い募る彼女に、名前さえない、存在を証明するのに使うのがダンナしかない、なのにそのダンナの妻として、自分ソックリの女が置き換わっているというのが冒頭に照らし合わせる形で差し出されるラストに震える。物語の後半から急激に、キャスト全員信じられなくなったっていうような、展開もぎゅっと怖くなって、何を信じていいのか判らなくなった。★★★★☆


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