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サーチライト-遊星散歩-
2022年 93分 日本 カラー
監督:平波亘 脚本:小野周子
撮影:関将史 音楽:合田口洸 Joseph Gen
出演:中井友望 山脇辰哉 合田口洸 都丸紗也華 西本まりん 詩野 安楽涼 水間ロン 大沢真一郎 橋野純平 安藤聖 山中崇
と、歯噛みしてしまうほど彼女、中井友望氏、そしてこの作品に胸を熱くしてしまう。MOOSIC LAB作品だったのか。その中からこうして一般公開になる作品の中には時々、ビックリするような珠玉作が出てくるから、この出会いに本当に感謝。
ヤングケアラー。最近ちょっとしたハヤリ言葉のように耳にする。中井友望氏演じる果歩は、母親と二人暮らしなのだけれど、どうも様子がおかしい。
一見、姉妹のように仲睦まじいのだけれど、果歩が作る食事を美味しいねと言いながら残し残しだし、カーテンが閉め切られた部屋の中で、ずっとうつうつとしているようだし。
果歩が学校に行っている間、彼女はドアの前に洗濯機を置き、更にひもを張って母親が出られないようにしているんである。まるで封印だ……。
もともと身体が弱かったらしいこの母親、夫がずっと世話をしていたらしいのだが、その夫が死んでしまって、身体だけでなく心も弱ってしまった。
夫が死んでしまったことが、理解できていない、ということではなく、多分まだらに、そんな状態になってしまうのだろうということは、ラスト、この母親が自ら治療を受けると娘に告げることで判る。
おっと、いきなりオチバレだけれど、でもだからこそ……完全に狂ってしまったとか、手に負えないとかじゃないから、果歩の大好きなお母さんだから、だから余計に、どうしようもなく苦しいのだ。
その果歩をどうしてもほっておけない同級生男子、輝之がまた切ない。演じる山脇辰哉氏がまたイイのだ。本当に、泣きたくなるぐらいイイヤツ。
彼の”貧乏”は、既に果歩たちクラスメイト達に知れ渡っている。きょうだいが多くて、その長男である彼は、果歩とその女友達二人がだべっているファミレスでバイトをしているんである。
この時点で果歩は……メニューを後で決めると言ってテーブルに突っ伏している果歩は……こんなところに使うお金なんて、ないのだ。
正直、この友達二人に対するスタンスはどういったものだったのだろうかという違和感はある。果歩の事情は全く察していないけれど、さりとてテキトーに一緒にいる……ようにも見えるけれどそれなりに友情は発生しているような、悪くない女子二人ではある。
でもとにかく、果歩は彼女たちにも、いや、誰にも、自分の事情を打ち明けることなんてできなかったのだ。いや違うな、そもそも、果歩は、大好きな母親と二人きりの生活を、自分がまっとうできないことにいら立ちを募らせていたようにさえ、思う。
果歩は輝之が家族のためにバイトをしている、いわば公然と、そのことを恥じることがないことに、自分を照らし合わせてしまっていたに違いない。果歩にそれが出来なかったのは……母親に、それを知られるのを恐れたのだろうか。
生活費が入った茶封筒にびっしりと書かれたメモ書き、相当考えて切り詰めていてもどうしようもなく、スーパーで廃棄されていたキャベツの外側の硬い葉っぱを頂戴してキャベツ尽くしの夕食を作ったりする涙ぐましさ。
あの生活費は、どこから出ていたのだろうか。働き手がいなくて、公的な保護の手続きも果歩は見ないフリのようにして拒み続けていた。それは、大好きなお母さんと引き離されることを意味していたから……。
私がお母さんを守ってあげる。そんな果歩こそが、お母さんに振り回されているように見える果歩こそが、お母さんと離れたくない子供そのもの、だったのだ。
それに気づいていたのがそのお母さんと、輝之だったのだ。お母さんは果歩を抱き締めて、赤ちゃんの匂いがする、と言ったのだった。大人になってもそんな人がいるらしいよと、お母さんは言った。笑って受け流した果歩だったけれど、思いがけなく同じ台詞を輝之から言われたのだ。
輝之君は、果歩の事情を知る前も知った後も、彼女のことを気にかけて、彼女の母親のことも気にかけて、奔走してくれる。
正直、果歩のことが好きだから、アタックしてきたのかと思ったし、実際にそうだったのかもしれないんだけれど、決定的に二人がそういう、いわゆる恋愛関係にはならないし、輝之君自身、果歩のことがほっておけないのは、家族みたいだから、だと言うのだった。
そう言った最初の場面では、おーまーえー、好きなくせにその言い訳はないだろ、とぶっ飛ばしたくなったが、これがホントのホントだというのは本作の大きな驚きだった。
果歩の母親が言った、赤ちゃんの匂いがする、というのを輝之も言ったのだ。産まれたばかりの一番下の弟と同じ匂い。そんな果歩が、エンコウまがいのJK散歩なるバイトに巻き込まれているところから、彼は彼女を救い出すんである。
タイトルのサーチライト。それは、このほどほどの中堅都市に夜になると照らし出される、ラブホからの光線である。星空が見えなくなるという意見で、近々なくなってしまうという。
なんだかさみしいと、果歩の母親は言った。果歩は産まれた時からこのサーチライトを見て育って、それが病院からのものだと言われていたと、ラブホじゃんと母親と戯れのように楽しそうに話していた。
そのサーチライトを発するラブホで、散歩という名のつまりアレに至って、果歩は……ああもう、サイテーだ。いくらほしいのと、客から聞かれた。
エンコウという言葉が産まれだした時、相場を荒らして安い値段で客をとるんだと、双方女子高生同士なのに、そんな生々しいやりとりをしていた映画が、その初期の時代にあった。女子高校生というブランド、ひょっとしたら処女、それをたった数万円で取引するのかと。
果歩が提示したのは5万円、だったらしい。彼女にとってはそれだけあれば、強制解約されてしまったスマホ代金を取り戻せて、お母さんがどっか行っちゃっても探し出せる、そのための金額だったのだ。
直前、もう本当にキュウキュウになって、学校のトイレからトイレットペーパーをバッグぎゅうぎゅうに盗み出そうとした場面が痛ましすぎた。生きていくために必要なものは、食事だと単純に思われがちだ。でもそれは、果歩にとっては、母親を満たしさえすれば、自分は我慢すれば済むことなのだ。
いつも買い物に行くスーパーのレジのおばちゃんが、果歩が痩せたことに気づいてしまった。隠しようもない。
そしてそう……食事よりも、トイレットペーパーはどうしようもなく必要だというのが、凄く判って、辛かった。これは果歩が我慢してどうこう出来るものではないから。
輝之がかばって停学になる形で、収まった。収まってしまったというか……。輝之がどうして自分にそんなにかまうのか。果歩はどこかいら立っていたけれど、河原で一緒に花火をしたり、さまよった母親を無事送り届けてくれたりして、そのたびに、不器用に反発したりしながらも、なにか、なんだか……近づいていく。
今までこんな関係は見たことない。単純に、輝之が果歩のことを好きで、一生懸命アプローチしているのかと思ったのは冒頭のほんの一瞬だけで、もちろん好意はあるんだけれど、先述したようにそれは、マジに彼にとっては赤ちゃんの匂いからの愛する家族の絆であって。
そんなことある?こんな、ティーンエイジャーの同級生同士で、そんなことある!?そう言いながら実はさ、というのが大抵じゃないの!!
もちろん、この後は判らない。もういろいろ、乗り越えて、最後には果歩は、調理師への道を歩むべく、母親と一緒に過ごした小さな部屋を後にする。その時も輝之君は一緒に片づけを手伝っている。それなりにいい感じにも見えるけれど、不思議な家族関係のようなあたたかさにも見える。
そして本作は、なんたってMOOSIC LAB、なのだ。お母さんが口ずさんでいた歌は、果歩は知らない旋律で、昔の歌?なんて言っていたものだった。でもそれは、河原でホームレスしている、時折輝之がバイトしているファミレスに、ドリンクバーで居続けする迷惑な客、通称四番さんが、この物語の全般の音楽を担当している合田口洸氏。
お母さんが口ずさんでいたのは彼が歌っていたこの歌であり、まず冒頭、さむ……と起き出した四番さんがギターを弾きながら歌っている、そこにさまよいついたのがお母さんなのだった。
一方で果歩はお母さんを探してパジャマにカーディガンを引っかけたような無防備な姿で明け方の街を駆け回っている。
夜のように暗いけれど、新聞配達の自転車を走らせている輝之が行き合うことで、その時間が判る。一目で輝之は果歩だと判ったんだし、その後の展開ではお母さんを支えて奮闘している女の子である果歩だけれど、パジャマ姿で明け方の街をさまよう彼女は、その立場が逆転しているように見えるのだ。
それに気づくのは、ラスト、お母さんが、望むべき場所にたどり着き、娘の果歩を抱き締めて決意表明する場面でようやく、思い至るのだけれど。
輝之君が、果歩よりも先に、お母さんが何かを探していることに気づいたのは、第三者としての客観的な目があったからかもしれないし、お母さん自身が、そうした存在を欲していたからかもしれない。
きっと借金取りだろう、ドンドンとドアをたたく音に怯えていた母子、でも輝之君は、新聞屋ですという素性がはっきりしていて、お母さんを安心させることができた。
閉じ込めたお母さんを勝手に外に出したことに果歩は憤るけれど、彼女だって判っていた筈。牢屋のように閉じ込めることが、母親を守るという言い訳の元の、単なるエゴだということだって。
JK散歩という名の売春から果歩を救い出した……けれども、ホテル側が通報し、客は逮捕、果歩は補導ということになって、あのホテルの怒号飛び交う、引き裂かれる場面は、大げさじゃなく、みゆきさんの「世情」が頭の中に流れてしまったほどの痛烈さだった。
あの時なぜ、輝之君は、警察側、そして駆けつけた教師にも、果歩の家庭の事情を、知っていたのに知らないと言いとおしたのだろう。第三者として説明できた方が、すんなり解決できたようにも思うけれど、それは、果歩のこれまで通してきた意地というか、プライドを思ってのことだったのか。
お母さんが、ドアの前の洗濯機を蹴散らしてまで探しに探してたどり着いたのは、愛する夫と愛する娘と、三人で暮らした、今は売り家になっている慎ましい一軒家だった。
ここにたどりつかなければ、このゴールを切らなければ、お母さんは次の一歩に踏み出せなかったのだろう。お母さんが入るべき施設があると思う、と、後を追って探し出して、息せき切って駆けつけた果歩にお母さんは言った。
ああ、ああ、判っていたのだ、お母さんは。自分自身のことを。だからこそ苦しんでいたんだと思ったら、こんな辛いことってない。
果歩は、自分がお母さんを守って、大好きなお母さんと一緒に暮らしていくことこそが命題だったから、福祉に頼ることを提案されても、それはお母さんと引き離されるってことだから断固拒否していたのが、お母さんから、そう言われてしまって、こんな、さぁ!
一見、病んでしまったお母さんが娘に頼りきりに見えていた。でも違ったのだ。大好きなお母さんを放ししたくなくて、他人の手を借りなかった。それがエゴだったなんて単純に言いきれるものじゃないけれど。
でもさ、親からの虐待とか、放任とか、そういう話は散々あったけれど、こういうケースもあるんだなあと思って。親も子もお互い愛し合ってる。なのに、苦しんでいる、そのためには、辛い選択をしなければいけない、そんなこともあるんだと思って。
思えば果歩は、16才だったのだ。彼女が頼ったガールズバーに勤める先輩は二級上。ティーンエイジャーにとって、その差は大きい。
16歳の彼女は、演じる中井友望氏が童顔ということもあるけれど中学生のような幼さで、母親を支えるのも、ホテルでサラリーマンにくみし抱かれるのも見ていてあまりに辛くて、ああ、いまだに女の子は、こんな風に売買されるのかと思って辛くなる。
子供の虐待に対してはそれなりに理解は進んできていると思うけれど、見逃がされがちなヤングケアラー、貧困家庭の現状に改めてフォーカスを当てるべきなのだと指南してくれる素晴らしき秀作。
炎のように役を生きてくれる役者さんでそれが体現されるのが、めちゃくちゃ素晴らしい。★★★★★
物語はシンプル。共に孤独な男と女が飲み屋のカウンターで隣り合う運命の出会いから、道行きを共にする。タイトル通りまさにさいはてへと、逃避行を続ける物語。
いわばロードムービーでもあるその風景は、どこかの街の居酒屋から流れ着いたにしてはいきなりの森の中、定食屋から出たと思ったら草原の中の一本道、白波が無数に立つ日本海と思しき海、彼らの道行きは常に絵になりまくりの風景の中に置かれていて、美しい、確かに美しいんだけれど……。
これをたとえば外国映画で観ていたら、違ったかもしれない。これをたとえば、今の時代ではない30年前ぐらいの日本映画だったら、違ったかもしれない。
なんだろう……今の、現代の、日本映画として見ちゃうからこその違和感というかリアリティの薄さ、まぁ……映像詩人、映像詩にリアリティなんていらないのかもしれないが、でも少なくとも彼らに付されたバックグラウンドは現代社会の縮図そのものだし、それによって追い詰められた二人の運命の出会いの逃避行、ならば、やっぱりそこには、凡人の観客としては、リアリティ、というか、疑似体験をしたいんだもの。
彼らが手をつなぎ、おててつないで……と、童謡「靴が鳴る」を口ずさむ。この年齢の二人、40歳という設定(なのは解説を読まないと判らんけど)の塾講師トウドウにしたって、この歌を口ずさむような年代とは思えない。
彼は塾講師だけど学校の先生に憧れていたと、小学校の先生、すべての科目を教える、音楽もオルガンを弾いて、なんて言う彼に、モモは、今はオルガンなんてないですよ、と笑い、それは彼の時代だってそうだったに違いなく、古い映画で観ていたのかもしれない、と言う。
まさにそんな、小学校の先生がオルガンを弾いているような古い映画の時代に歌われていた童謡であり、耳にしたことはあったかもだけど、そんな、フルで歌詞も完璧に歌えるというのは……しかもそれは、若い女の子であるモモ(これまた年齢は特定されないが、演じる北澤響嬢の実際の年齢である20代前半なのだろう)に関してはあり得ない、聞いたことある、ということさえ危うい、「おててつないで、というタイトルじゃないんだ」という疑問さえ浮かぶとは思えない。
リアリティのなさでいえば、もしかしたらこの一点だけだったのかもしれないんだけれど、このシークエンスをキモにしているから、ずっとモヤモヤし続けて見ちゃったのかもしれないと思う。
波長があったとか、運命的なものだったのか、冒頭の居酒屋のシーン、泥酔して眠りこけるモモを、後に、飲んでも飲んでもちっとも酔えない、と語るトウドウはじっと見ていた。
足元のおぼつかない彼女が店を出ようとして崩れ落ち、二人、店の地べたに座った状態で会話を続ける。えらいメーワクな客である(爆)、とこんなところでそう思っちゃったらもう私、ダメである(爆)。
この時の会話で、なんかシンパシィを感じた二人だったと思うが、内容覚えてない(爆爆)。とにかく、彼女がいざなったのかなんか判らん、常にカメラが接写だから周りが判らん、とにかくどっかで(爆)立ったまま駅弁スタイルのセックス。ああもう、こんな無粋な言い方するんじゃないよ、私(爆)。
この監督さんは、生と性を描く映像詩人、と謳われているんだと、そう聞くと、これがピンク映画、それこそやりたい放題映像詩人時代の瀬々監督だったらアリだったかもとか思えてきた。つまり、観客は事程左様に自分勝手だということだろうけど。ああでも本当に、30年前のカウンターカルチャーであるピンク映画だったらアリな気がしてきた!!
まぁそれはおいといて。道行き、という言葉が出ていた。トウドウはそれに反応した。逃避行する男女をあらわす言葉。二人、お互いの事情は判らないままなのに、成り行きのような形ではあるけれど、強い吸引力で、セックスまで済ませて、道行きを決行した。
でも、まずトウドウが怖気づいた。一夜明けて、彼女を近くの駅まで送って、君は帰りなさい、と言った。でもモモは踵をかえすトウドウを追いかけた。カメラまでブレブレに走っていく。……彼女の気持ちやなんかを表現したのかもしれんが、ブレブレに酔っちゃって、レール敷く予算ないだけかよ、とかつい思ったり(爆)。
モモの方の事情がまず先に明かされる。失踪した父親、戻ってきての認知症、その介護、両親の心中。だから私は独りぼっち、「焼野原なの」だという。焼野原、という表現は結局最後までピンとこなかったけど……。
モモが父親を介護する、食事の介助、それを見守る、というか、結局は愛するダンナと共に壊れて行った母親、という図式は、妙に昭和チックな畳敷き空間といい、片手鍋に作ったどろどろのおかゆをスプーンで口元に持っていくとか、イメージ貧困というか、この一品オンリーじゃそりゃ介助される側は怒っちゃうだろうなと思ったり。
そして、苛立つ父親をかばい立てするように母親もまた奇声を上げて修羅場。うーむ、確かにこういうことはあるのかもしれんが、なんとゆーか、この場面の雰囲気自体は凄く凄く、古いんだよね。それこそ30年前ぐらいの気がする。
そして両親が心中しちゃった、というエピソードに至るまで、他の親族や、友人や、行政や福祉が一切出てこないのは、これが映像詩人かぁ、と、皮肉じゃなく思っちゃう。確かにそんな風に純粋に追い詰められなければ、トウドウのような運命の相手にはで会わないんだろうなとか。
モモは確かに不幸なめぐりあわせの女の子だとは思うが、この両親だったというだけで、友人知人、差し伸べる誰もいなかったということにはムリがある。そんなたった一人の孤独を納得させるだけのものがないから、まさに絵にかいたなんとやらに感じてしまう。
こんな寂寞とした和室の一室の修羅場が画になるのは確かだけど、画になるだけ、なんだもの。
そしてトウドウの方の事情は、最後の最後になって明かされる。モモがそれこそ、何にも言ってくれないとキレ気味に当たってからようやく。
半ば成り行きのごとくモモと道行きを共にした彼だけれど、一夜明けて早々に追い払おうとしたように、彼は逃避行の理由を、最後の最後まで言いたがらなかった。
時にモモを撒こうとさえした。でもモモは彼を発見しちゃう。追いすがっちゃう。ハッキリ言ってそこまでの執着を彼に感じる、それこそリアリティはまるで感じないのがツラい(爆)。でもまぁ仕方ない。それが恋というものなのだろう。
トウドウは、恋人に死なれた。彼がお守りとして与えた毒薬をあおって死んだ。だから彼は、自分を誰かが捕まえに来ると思って逃げていたのだという。
本当にそうだろうか。むしろ、捕まえられたかったのに、そんな動きが何もないから、逃げてみれば、誰かが捕まえに追って来てくれるんじゃないか、というのが本当のところかなと思う。でもそれも、凡人観客の浅はかな推理かもしれない(爆。もうどんどん、ヒクツになってくる……)。
トウドウは逡巡の末、ずっと懐に隠し持っていた、彼女に与えたのと同じと思しき薬瓶を地面に叩きつける。その薬瓶がね、まーこんな、クラシックな、少年探偵団物語あたりに出て来そうな、こんなん、インテリアでしか今や見ないんじゃないのと思うような、ガラスのきゅきゅきゅという蓋の瓶でさ。
ないないない、そらまぁ、映像詩的なロマンティックはあるが、持ち歩いていたら蓋が外れそうで怖い。
そもそもの話よ。恋人に、死にたがっていた恋人に、お守りとして毒薬を渡す。いつでも死ねるんだから、今死ぬことはないと。この後段は、確かに聞く。心理学的なものとして、そんな物語を聞いた覚えがある。それこそ、なんか映画だった気がする。
でもその、なんか映画だった気がするものは、与えたのはお医者さんだった。そういうものを与えられる、調合できる人よ。塾講師、しかも国語の塾講師、毒薬をフツーに保持出来てる自体、ダメでしょ。恋人に渡す以前に、あり得ないでしょ。
これはねぇ……あの薬瓶のフォルム、ディズニー映画みたいな可愛らしさでもう、ここでもう、彼の苦悩はディズニー映画以下に転落したよね、と思う。そして、地面に叩きつけた薬瓶の破片をなぜか自身の靴の中に入れ、苦しさのあまりの自傷行為??よくわからんが、モモがその傷を手当てするラブホでのシークエンスがいっちばんイライラ。
彼の足のケガをぺろぺろ舐める愛のシーンだが、靴の中にガラス入れて、なぜ足の甲に傷があるのか、そして悠長にぺろぺろラブラブしてるくせに、カットが変わると、コンビニに救急道具を買いに行くため、もう息せき切って、もう急がなきゃ死んじゃうぐらいの感じで走っていく。ぺろぺろする前に行けよ、と思っちゃう。
生と性を描く映像詩人、と謳われているから、セックスシーンも満載だけれど、そういう齟齬があちこちに見られて、なんかなえちゃうんだよね。
性愛はとても大事なもの。そこで心を通わせているということを観客に感じさせてくれなきゃ。あのぺろぺろシーンにエロや愛を感じる前に、観客はいやいやいや、まず消毒して治療してやれよ、と思った訳で、それをぺろぺろ後に急がなくちゃ!!みたいに見せられても、順序が違うだろ……それは愛がないだろ……と思う訳。当然のことだと思うんだけれど……。
トウドウを演じる中島歩氏の独特のエロキューションは、ハマる時はめっちゃドンピシャなのだが、こんな具合に、あくまで私個人的にツライ本作では、厳しかったなあ。まさにこの世界観をイライラさせる手助けになっちゃって(爆)。
ラストの、死にたいと思うトウドウが海の中に入っていき、それをモモが必死に止める、まさにクライマックス、一発のスリリングを狙ったのかもしれないけれど、二人が辛そうで、もう早く終わってあげてよ……と思っちゃう始末。
死にたい、殺してくれ、というシーン、真剣に演技をするとはいえ、死ぬ訳にはいかないというか(爆)、シーンを割らないとそのあたりの苦しさが見えちゃって、これはカット割るべきだろ……と観客に感じさせてしまうのは、ダメだよー。
モモに抱き取られて、海中からカメラ目線のトウドウは、どういう意味だったの。正直観客側としては、もういい加減カットかけろよ、監督、という表情に見えちゃったけれども。
ラスト、海岸に捨て置かれたオルガン登場。うわー……それはないわ、と、思ってしまった。この画はさ、確かに魅力的よ。海岸に捨て置かれた、かつては、昔々の小学校にはあった、担任の先生が弾いていたオルガン。
でもモモが言っていたように、今はない。ここまでにも、ありえないリアリティのなさで続いていたけれど、ここをラストにするなら、徹頭徹尾、現代の物語ではない、現代の苦しさではない、もっと超越した、いい意味でのファンタジーの、観客を連れて行ってくれる物語にしてくれないと、はぁあ??と思っちゃうよ。
だってありえないじゃん、砂浜のオルガンなんて。これをキラーシーンとしてラストに持ってくるのなら、観客をそこに連れてきたと納得させるそれまでが必要。何一つなかった、と、私は思うのだけれど……。★☆☆☆☆
その「んで、全部、海さ流した。」は、一見して震災をテーマにしたと思いきや、舞台は確かにそのとおりなのに、どこか頑なにそうじゃない、ここで生きている、それだけ、と主張しているように見えた。
でも本作は違った。がっつりと、震災を根底にしている。いや、主人公のアキラは漁師だというのにいまだに海のものが食べられない、両親は行方不明であるだけで、頑なに死亡届を出そうとしない、という点では、震災を根底にしていても、アキラ自身は向き合っていない、ということなのかもしれない。
でもこの、向き合うっていう言葉は安請け合いな感じで使われるけれども……こうして書いてみるとやっぱり、安請け合いだ、好きになれない言葉。簡単に言ってくれるなと、アキラの心の声が聞こえてくるような気がする。
でも、弟のシゲルにまで、海のものを食べられないことを巻き込んで、毎日毎日カップラーメンで過ごしていたのは、もしかしたら、ひょっとしたら、彼の傲慢だったのかもしれない。
すみません、相変わらずいろいろすっ飛ばすけど、シゲルはお兄ちゃんのために海のものを食べずに我慢していたと言った。そう言われたアキラはぷつりと何かが切れてしまった。
自分は12年前から、いや、そのずっとずっと前から、シゲルのためにすべてを我慢してきたのだと、言った、言ってしまったのだった。
シゲルは天真爛漫な少年として描写され、アキラのように海に出られないのは震災ストレスなのかもとも思われたけれど、なんとなく、そうかなという気はしていた。
軽度な知的障害があるのだろう。でもそれは、アキラにとってもこの地に暮らす、近所みんな家族みたいな人たちにとっても、そんなんじゃない、ということだっただろうことは想像に難くない。
あるいは、外から見ればそうなんだろうということが判っていても、その外からという視点が今までなかったから、急に真実味を帯びて、怖くなってしまったんじゃないかと想像される。
ここは島なのだ。小さなフェリーでつながれている。東北のハワイと称されるほどにきれいな海が魅力の島。夏場はほやを潜って捕る、漁業が中心の静かな島。
そんな島に、風変りな来客である。水色の髪はつむじから黒色が侵食しているあたり手入れおかまいなし、ヤンキーみたいなでろでろのカラフルなファッションでがらがらスーツケースを引っ張ってこの地に降り立った美晴である。
ほどなくして、シゲルが愛読していた人気コミックスの作者だと知れる。売れっ子漫画家さんが気まぐれに島に訪れ、アキラとシゲルが暮らす古い一軒家を買いたいと、いきなり一千万円を提示する。
震災からこっち、船の維持費やらなんやら督促状がたまりまくっていたアキラ、でもさすがにそんな突飛な申し出受けられないと思うものの、あれこれ痛いところも突かれちゃう。
アキラにとっては何もかも見透かされるような都会の女にドギマギするところもあるし、なんたってシゲルが無邪気に、あのあぶないねーちゃんの作者!!と一気に心開いちゃって、美晴の舎弟みたいになっちゃって、なし崩し的に一緒に暮らすことになっちゃうんである。
頭金だとポンと出された50万、督促状の金額を彼女は見ていたに違いなかった。しかしアキラは、この金を元手にユーチューバーとして儲けて、家は売らない、美晴に50万たたきかえして出ていってもらう、と鼻息荒いんである。
タイトルのほやマンは、アキラの父親が作ったキャラクターで、物置に古びた被り物が保管されていた。隣のばっちゃ、春子さんがミシンをかたかた言わせて衣装作りを手伝ってくれる。かつてアキラの父親がイベントのために作ったほやマンは、そう、かつて、震災が起こる前には、近隣の人たちの間で盛り上がっていたローカルヒーローだったから。
この春子さんが明かしてくれるのだ。アキラが海のものが食べられなくなったこと。
当時、遺体がたくさん海にそのままになって、そのことで海産物が美味しくなったとか、心無い風評が流れた。辛かったと春子さんがつぶやく。覚えてる……市場でもそんな軽口が叩かれていたんだもの。
アキラを演じるアフロ氏は、お芝居は初挑戦というミュージシャンさんだが、その無骨な存在感と無垢な芝居、竹原ピストル氏なんぞを思い起こさせ、今後ヤバい役者になるかも……というワクワクを感じさせる。
アキラはとても不器用で、美晴の論破におどおどすること多々なのだが、それでも、自分が今、この暮らしをしている、それを奪われまいと必死に抵抗する。でもその根拠は……彼自身、今まで考えたことがなかった、というより、考えないようにしていたのだろうか。
ことに、震災後、両親が行方不明になった後は特に。あの日、アキラは両親を止められなかった。両親は船を守りに行こうとしたのだろうか。
何度か繰り返される回想の音声は、早口の訛りが聞き取りづらくて、ただ、両親は、アキラに、シゲルを連れて高台に行けと言った。それだけは何度も繰り返した。生き延びろ、シゲルを頼むと。
シゲルが、海のものを食べるのをお兄ちゃんのために我慢していたと吐露したことに爆発したアキラは、自分はそれよりも前から、お前のために我慢してきたんだと言い放ったけれど、両親がいなくなる前までは、そのことを自覚的に感じていたのだろうか。
感じていたのかもしれないけれど、両親のかわりにシゲルを守らなければいけないという思いがけない立場の転換が彼を襲った時、それまで感じていなかったかもしれないことを、記憶を捏造するがごとく、自分を言い訳するように、弟のせいだと、負わせたようにも思う。
こんな熾烈な状況でなくても、多かれ少なかれ、こうした感覚は誰もが思い当たる節があるから。
そしてそれを気づかせるのが異邦人である美晴であり、彼女もまた直面したくない過去を抱えてこの島にやってきたのだった。
所さんのダーツの旅よろしく、地図にダーツを投げて、この島に来たのだと彼女は言った。アキラの叔父さんが美晴のことをググって、アシスタントへの暴行事件で執行猶予中だと知れることとなる。
b津田寛治氏演じるこの叔父さんは、なんていうか、世間の鏡というか、もちろんアキラとシゲルのことを心配しているし、アキラを一人前の漁師に育てようと頑張っているけれど、その時々の状況にあっさり流されてしまうのだ。
ほやマンの動画がバズると涙ながらに喜んで盛大な宴を仕切るくせに、障害者(シゲル)をイジメている動画だと炎上すると、この恥さらしが!と掌を返す。
そもそもこのほやマンの動画がバズったのは、美晴がSNSでつぶやいたのが拡散したからなのであった。まだ私、影響力あるじゃんと美晴はつぶやいていたから、助けたい気持ちが勿論あったにしても、やっぱり確かめたい気持ちはあったのだろうか。
だから、リアルにバズったんじゃないんだよ。アキラは、自分は実はクリエイターになりたかったとか調子こいて言うけれど、あっという間に現実なんだよ。
でも、でもでも、このほやマンを作り出したのは彼の父親だというし、その血はあったのかもしれないけど、でもそれでも、やっぱりアキラ自身じゃない。美晴に手助けされたことさえ、彼は知らないままだ。
美晴から家を買いたいと言われた時は突っぱねたアキラだけれど、動画が炎上して、シゲルが美味しそうにほやをむさぼり食ってて、ずっと我慢してたと言われて、限界を迎えちゃう。
外に出るんだ。自由を得るんだ。それもまた、それもまた……当然の選択肢だ。縛られる必要はない。死んでしまったことを認めることができない両親にも、その両親から守ってくれと言われた弟にも、バズったり炎上したりしたほやマンにも、縛られる義務はない。
ないんだけれど……。そもそもの、アキラが本当はどうしたいのか、正直な気持ちが、アキラ自身が、それこそ向き合えないまま来ていた。
当然のことだ。大抵の、ほとんどの人間は、そんなめんどくさいことに向き合わなくったって、それなりの人生を送れるものなのだから。辛い思いを強いられた人たちが、そのことに向き合わざるを得ない、だなんて、なんだか不公平じゃないか。
いや、逆に考えれば、真実の人生を送れる、辛い思いをした人たちに神様が送ったプレゼントなのかもしれない。アキラはね、一度は島を出る決意をするのだ。これまで自分は我慢してきたんだと。家を売ろうと思ったら自分の名義じゃなく、親が競売にかけていたと知って、もはやこの家に住むことさえ許されないことを知り、八方ふさがり。
そしてこの時になって……シゲルがね、それまで、そんなことは思っていなかっただろうし、そんな扱いも受けてはいなかっただろう、でも、アキラから、つまりは、外から見たら障害者、自然に動画でじゃれ合っていたのが障害者イジメと言われ、きょうだいの関係が不条理な第三者の目によって不鮮明になり、……どうするのだろう、と思ったのだ。
アキラとシゲルはただ、兄弟。それだけ。そうだった筈なのに、外の目が介在した途端、もしかしたら、いわゆる単純な兄弟同士の確執が、障害者いうフィルターを通されて曇ってしまったのならば……。
だって、アキラは、アキラに限らずこの地の誰もが、そんな風に思ってもみなかったから、動画でシゲルがアキラにぶっ飛ばされることが、楽しい動画としてしか見なかったんだし、実際そうだし、これって何、何なの。お互い判り合っていて何の問題もないのに、障害者問題に祭り上げられると、その当事者を判っていない、名前も顔も見えないネット民たちなのに、障害者問題に祭り上げられちゃうと、もう、犯罪者扱いレベルだなんて。
本作は、震災のテーマはもちろんだけれど、こうした社会派部分も濃厚にチェックしてくる。
美晴がアシスタントに暴行して執行猶予、という事件も、執行猶予が付いたんだからきっと事情があったと思われるが、そこが明らかにならないのはちょっと残念。確かにこの島での事情が濃厚すぎて、なかなかそこまでは回らないのはしょうがないのかもしれないけれど。
最後アキラは両親の亡失を認めるためなのか、海へと船を出す。それを、追いすがるシゲルを制した美晴、二人が見送る。その海の上で、アキラは両親の姿を見る。ただほほ笑んでいるように見えた両親の姿を。
無事陸に戻って、アキラは美晴に告白めいたものをして、なんとなくイイ感じに見えたけれど、結局美晴はある日突然姿を消したというモノローグがあって、めちゃくちゃ残念に思う一方で、でもそうだよな、美晴はどこか妖精的というか、アキラたちを導くような雰囲気があったから。
もちろん彼女自身、アシさんへの暴行事件で執行猶予という立場ではあったし、編集部とのやり取りでその葛藤は見られたけれど、アキラとシゲルとの出会いであらたなインスピレーションを得た彼女が、これは傑作だとつぶやく新作が出来上がったからこそ、彼女は出て行ったのだ。アキラやシゲルとは違う世界に生きていた、最初から。
それでもラスト、美晴号という大漁旗を翻らせた船で、漁に出かけるアキラ。チャーミングでユーモラスで、でも苦くて、マグマのような熱が根底にくすぶっていた。まだ何も終わっていないし、何も始まっていない、そんなことを言いたくなるようなラストだった。★★★★☆
でもね、でもその承海は……ああ、だってモリシゲがさ!!前回観た「裸の重役」でモリシゲと共演していた、草笛光子と団令子、かたやバーのマダムが後妻として、かたやエンコウ相手の女の子が娘として、つまり三人が家族として登場するんだから、なんとまぁ不思議なこと!
冒頭は承海の前妻が死の床にあり、幼い千賀子が心の動揺も収まらないまま、あっというまに年若い後妻が迎え入れられるという、なかなかにスリリングな展開である。これは、若い後妻が幼い娘をイジメるとか、なんかそーゆー陰湿な話になっちゃうんだろうかとハラハラしていると、案に相違してそうはならない。
初夜からさっそく承海は、まぁなんたってモリシゲだから(爆)若く美しい新妻にがまんならんといった感じ。幼い千賀子を慮っていた八千代が、姉ちゃんになったげる、仲良うしような、と仲睦まじく話しているところを、さらっていってしまう。
ああ、障子の穴から千賀子は夫婦のむつみごとを見てしまう。しかも結婚初日である。前妻が死んで間もないというのに、もう!と思い、千賀子の心がどんなにか傷ついたか……とやきもきするのも杞憂というかなんというか。
そのまま時間は一足飛びに数年後に飛び、千賀子は女子大生になっている。実に屈託なく、八千代を姉ちゃんと呼び、本当に姉妹のように仲がいいのだ。
なんという不思議な。確かに、モリシゲと草笛光子の実年齢からも、劇中の感じでも20は離れた夫婦、娘の千賀子とは親子というより年の離れた姉妹という年齢感覚であったのはそうなのかもしれないけれど、でもお父さんの奥さんなのに、成人してなお、姉ちゃんと千賀子は呼ぶのであった。
普通に考えればそのことに溝を感じるものだけれど、不思議と感じなかった。最後の最後、承海が死んでしまって二人きりになって、これからはお母ちゃんと呼ばせて、と千賀子はいい、八千代の涙を誘うけれども、でもその後の会話でも姉ちゃんと言っていたし、やっぱり二人は、承海を介した姉妹なのだ。
承海を介した……八千代はね、薬屋の娘、出戻りだと語られる。解説では戦争未亡人となっていたけれど、そこまで言っていただろうか。出戻りとしか言っていなかったような。
若く美しい後添いさんということで羨まれる承海、という図式は、フェミニズム野郎の私としては(しつこいな)やだやだやだ、と思うし、なんたってモリシゲだから(これもまた言い過ぎ……)初夜からずっこんばっこんな訳だが(だから言い過ぎだって……)、これまたモリシゲだから、それが本当に、愛情だと信じられる、八千代にゾッコンだと信じられるのだ。
娘が難しい年ごろになって、妻にもあれこれ取りざたされると、自分は信仰に生きて、30まで童貞だった。前妻は病身だったし、だから我慢できないのだ、と。
まー凄い言い様だけど、でも正直で、つまりは純粋で、病身の妻も、後妻の八千代も、10代の男の子のように、息子が母親を思慕するように、徹底的に愛していることが伝わるから、なんか憎めないのがクヤしいのだ。
一方で女たち、とゆーか、千賀子である。おいおい、と思うほどの尻軽さである。下宿先で男子学生としっぽり、八千代に紹介する段に至っても、その男はまるで礼儀を知らないし、客観的に見れば当然、主観的に見てもなぜこの男のクズさが判らないのか、と千賀子をぶっ飛ばしたくなる。
当然というかなんというか、それにしても妊娠して放り出されるとはあんまりの展開、まさかこんな年代の映画で、本当に自分の子なのかとか男が言う展開が待っているとは思わんかった。
千賀子には他にもボーイフレンドがいたことが、そういう隙をつけこませることになったのだが、義母である八千代には、「ボーイフレンドの二人や三人、当然いるでしょ」と言う娘の気持ちが判らない。
身体の関係はないんだから、というのは結局千賀子だけの言い分で、それが男に言い訳させる隙だということを、千賀子はもちろん、八千代もまた、追いつけないんである。
これで懲りたかと思いきやその後、千賀子はアルバイト先のビヤホールの常連客、銀行員の剣山と恋に落ちる。ドライブ先の旅館でしっぽり、もうこの後はヤるだけ(爆)とゆーところに至って、コイツに妻子発覚、なのに君にゾッコンみたいにかき口説いて、本気だ、君と結婚したいからと、もうセックスしたいだけマンマンなんである。
うわー、これ、千賀子がこれにほだされたらどうしよう、と本当に心配になるけれど、二の轍は踏まなかった。でもかなり、あられもない展開で、団令子と木村功、結構濃厚ブチューしまくるし、スリップ姿があらわで、めっちゃハラハラした。
妻子と別れて君と結婚する。いいさ、そんな口説き文句は恋人同士の材料でいいかもしれんさ。でも、そのためには、妻と離婚するためには、君を先に手に入れておきたいだなんて、つまりヤリたいだけだということを、この台詞で判らなかったら、マジで千賀子ぶっ飛ばすところだったわ。死んでしまった実母や、後妻の八千代のことをも思って、女ってなんて哀しいの、とすすり泣く千賀子。
千賀子の素行を心配する承海とは何度か衝突する。お父ちゃんは姉ちゃんを閉じ込めて、監視して、外に出ないようにしている、と激しく糾弾するのには、え、ええ?そんな風には見えなかったけど……てか、そんな風に思ってたんだ、とちょっとビックリする。
八千代を溺愛するあまり、彼女がちょっと外出することに疑心暗鬼になっているような描写はあるが、それはすべて千賀子に呼び出されて恋人と会わせられたり、中絶の金策に奔走したりするためだったというのに。
千賀子がクライマックスで父親にぶつけるそうした言葉は、フェミニズム野郎の私としては溜飲が下がる筈のそれなのだけれど、そう見えていなかったから、まぁ私がモリシゲに甘いからかもしれんが(爆)、ビックリしちゃうんである。
承海が八千代に惚れ切っていたことは最初から明らかだけれど、八千代もまた、おっさん、という呼び方が何とも言えず愛しく、確かに年齢差としてはオッサンだけど、だからこそこの時の八千代は女盛りで、オッサンに求められるほどに、つやつやと輝いていったのだ。
それは娘の千賀子から見ても判るほどで、そう……千賀子もまた、女になっていたから。そういう意味でも、二人は姉妹。親子ではこうはいかない。たまに帰省する千賀子はそのたびに難題を抱えてくるんだけれど、そのたびに、ガールズトークというか、女同士としてのセクシャルな悩みや想いをあっけらかんとぶつけ合う。
結婚初日、八千代と承海のチョメチョメ(死語(爆))を見ていたことを千賀子がざっくばらんに明かすシーンにはドキリとしたが、いややわぁ、とちょっと困り気味に照れるだけですんじゃうあたりに二人の信頼と絆が一発で判っちゃう。
タイトルになっている沙羅は、花の名前。門前に植えられた、一つは八千代のため、ひとつは千賀子のためだと承海は言っているのだという。千賀子の奔放な男性遍歴、沙羅の花の香りにムズムズしちゃうような八千代の女の本能、そして、童貞歴30年の後爆発した、承海の性愛。
なんかこう書くと、ドロドロした感じに見えちゃうけど、全然違うの。承海は純粋な愛を、前妻にも八千代にも娘にも授けたし、八千代は承海の素直な愛情に幸福を覚えていたし、千賀子という親友のような娘を得た。
千賀子は亡くなった母親への思慕と、父親へのアンビバレンツな気持ちに苦悩していたけれど、私、めっちゃお父ちゃんの子供じゃん、と、数々失敗しまくって、ポジティブに理解した。
クソ妻子持ち男と勇気をもって決別した後、訪ねてきた父親と千賀子がぶつかり合い、でもだからこそ溶け合い、腕を組んでそぞろ歩くシーンが忘れられない。娘と、自分の性愛のあからさまを討論するなんて、信じられないと思うけれど、この時代、私よりもずーっとずーっと以前の時代で、こんなスリリングな、ヴィヴィットなことが行われていたとはもう、凄すぎる!!
まさか、承海が死んじゃうとは思わなかった。あまりにも、突然だった。そうだ、冒頭から気になっていた。酒を飲んで坊さんスクーターを乗り回す。飲酒運転!!酒を飲んで運転するのは危ない、ぐらいのスタンスってことは、当時はそれが法的にはオッケーだったということ??信じられない!!
戯れのように冒頭で示されるけれど、当然これはフリで、後半でヤバい展開になるに違いないというのは、当然そうなるんだけれど、承海が死んでしまうのはツラいんだけれど、それ以上のこと、なんだよね。
先述したけど、結局はしきたりだと。籍を入れてさえなければ、禅宗の戒律を全うした僧として褒めたたえられるのだと。承海自身、そこまで考えていただろうか??純粋な信仰心、あるいは単なる慣例に従っただけで、妻子が追い詰められることを、考えていただろうか??
でも、死の床の母親の言葉を千賀子は覚えていたし、八千代もその覚悟はとうからあった、のなら、承海がそれを知らぬ訳はなかったけれど、男の無自覚な、根拠のない自信で、自分が先には死なないと思っていた??ばかな。20も違う後妻なんだから、こーゆー、不慮の事故でなくたって、あり得たじゃないの。そこはやっぱり、この愛しい妻に溺れちゃったということなのかなあ……。
なんつーかね、なんともいえん、幕切れなのよ。そもそも酒飲み運転してたってのがアレなんだけど、当時の交通整備の緩さ、そしてそこにつけこんだのかもしれない、生臭い檀家獲得僧侶の取り引き。そして……そんな議論があったからこそ、何度も確認される、承海が檀家たち、つまり地元民たちにいかに信頼を得ていたか、なんである。
檀家を回ることで布施を稼いでたと陰口叩かれていた承海。でも、もっと賢い、ずるがしこいやり方で安楽している僧はいくらでもいるといことを、皆知っていたからこそ、足しげく檀家を回って話を聞いていた承海が愛されていたこと、支持されたこと、それは当然のことで、後釜に入り込もうとした欲得金亡者ボーズは、禅宗幹部の坊さんに見抜かれて、追い払われちゃう。
こんな、大会社組織ウォーズみたいなことが、寺、僧侶の中であるのか、いや、あるだろうな、という衝撃。
でも、やっぱり、たてまえだか、見栄張りだか、その中で女たちは放逐されてしまうのだ。本葬に額づくこともできず、こっそりと閉じられた部屋の中で仏壇に手を合わせるしかないなんて!!
親子三人の、時に奔放な性愛を示してドギモを抜かれながら、私的には、ということもあったけれど、やっぱり……女が排除される、妻の筈なのに、娘の筈なのに、というのが、大きかった。
それを、妻の筈、娘の筈、という彼女らも、夫であり父親である彼も判っているのに、どうすることもできない。家族の愛情、夫婦の愛情はちゃんとあるのに、その中での葛藤もまた、絆を深めているのに。日本、のみならず、家父長制度が根強いアジア共通の問題のように思う。★★★★☆
監督自身が20年間も温めていた企画だといい、舞台設定が1988年と出ていたと思うから、監督、そして私世代よりは(あら、同い年だわ)若干若いけれど、いわゆる昭和世代の、そして地方都市で暮らす子供の頃の、記憶であり、こんな友達がいたかもしれないといことなのだろう。
和製スタンドバイミーとでも言いたい、甘くほろ苦く、ただただ友達だけが大切だったあの頃の時間。
しかし、冒頭、そして後半にも、揺れに揺れまくる長回しのカメラには参ってしまった。自転車で、そして全力疾走で駆け抜ける少年たちを、まさにそのまま追っかける形のカメラ、情けないけれど酔いまくってしまい、た、頼むからカメラ、落ち着いて止まっておくれ……とゼイゼイしまくり。
オフィシャルサイトで知ったが、足立監督は相米監督に師事しており、相米監督といえば長回し、長回し信者を数多く生み出した、元凶、と言ってしまったらアレなのだが、結構ヤラれてしまうからさ。
確かにとっても躍動感があり、彼らの初々しい演技をぶった切ったりせずに信じて映し続ける素敵さはあるのだが……どうも年を取ると三半規管が以前より弱っちゃって……。
まあそれはともかく。主人公は瞬。小学五年生。六年生になる直前からスタートする。成績の悪い通知表を母親にがっつり怒られ、六年生からの入塾を約束させられる冒頭のシークエンス。
ガミガミ怒りまくる母親の臼田あさ美氏と、めんどくさい問題は投げっぱなしの父親の浜野謙太氏、甘えん坊の妹のこの家族は、瞬はいかにもうっとうしげだし、塾なんて行きたくないし、という、この時期の男の子らしい反発を示すものの、もう一発で幸せそうと判っちゃう。
臼田あさ美氏は、自らの乳がんの手術痕をこれ見よがしに見せるようなパンチの効いたお母ちゃんで、物語の後半には乳がん再発で動揺しまくり、家族を巻き込みまくるのだが、つまりはとても正直で、あけっぴろげで、常に全力なこのお母ちゃんだからこその息子の瞬、なのだろうと思う。
このお母ちゃんは、瞬の友達たち、ちょっと一癖ある子たちばかりなのだが、皆に平等に息子に対するように100%で接し、親友の隆造などはその感謝を瞬に対して吐露するぐらい。
瞬が後に、自分だけが普通の家庭、つまりは幸せな家庭であることに疎外感を感じていた、と語るぐらい、瞬の仲間たちは皆、家庭環境にいろんな問題を抱えている。
隆造は、人を何人も斬ったと噂される元ヤクザの父親を持ち、母親は出奔中である。後半、隆造が帰ってきた母親をいたわりながら商店街を恋人のように寄り添い歩くシーンがあり、それを瞬が垣間見ているのだけれど、そう……隆造にとっては母親は、酒乱で人殺しの父親から守るべき存在であり、父親の妻であるという母親、父親は、にっくき恋敵であるのかもしれない。
そんなことを言っていた訳ではないのだけれど、あのシーン一発で、隆造の心優しき男子の、息子の心意気がだだ洩れているから。
新興宗教にハマっている母親と二人暮らしのトカゲは吃音と皮膚病とやせっぽちで学校に行けばイジめられるから、休みがちである。ヤンキーJKの姉と母との三人暮らしで、ゲームばかりしているけれど頭がいい正太郎は、瞬のように塾には貧しくて行けないし私立も受けられないけれど、ゆくゆくは東大に入ってこの生活から抜け出るのだと決めている。
この四人が基本の悪ガキチームで、そこに、学校一のワルで、伝説の不良中学生、マサちゃんの舎弟であることでハバ効かせてる明、転入してきた時からサングラスにタバコ(火をつけてないあたり……)をふかし、エアガンを持ち歩く小林、教室で映画雑誌、スクリーンを読みふけり、一人で映画館に行くような孤高の存在、西野君などなどが参戦してくる。
マサちゃんの舎弟とか、マサちゃんに守られるために金を払うとか、その金を弱気な西野君から巻き上げるとか、ヤクザ社会の縮図がまさかの小学生の世界に展開し、マジかよと思い、カツアゲされる西野君の哀しさといったらないのだが、でも小学生だし、マサちゃんは中学生なんだよなあと思っていると、そんな感じの収束にはなるんだよね。
ここんところは、難しいなと思った。小学生である彼らにとっては、一回り体格も違う中学生、金を渡さなければ、言うことを聞かなければ殺されてしまうぐらいのことを、本気で思っていただろう。
クライマックスでの対決シーンで、コントみたいないきがり方をするマサちゃんに、こらー弱いわ……と一発で判っちゃうが、小学生である彼らがどう向き合うのか、隆造が本当にお父ちゃんのさび付いた日本刀でやっちまうのかとハラハラしていた。
結局、みんなで力を合わせれば、こんな虚勢だけのガキはあっさり蹴散らかすことが出来るという、スイミー原理にほっこりする。
それは大人である私たちが、小学生から金を巻き上げる中学生なんて、ガキそのものだと判っているからであって、当事者である小学生の彼らがどんなに怖いか、本当に殺されるかもと思っているそのリアルな恐怖に寄り添えていたかはどうなんだろうと思うけれど。
実際の恐怖を真に感じていただろう西野君に、だから観客である大人たちはグッときちゃうのかもしれない。それでなくても西野君は、本当に、魅力的なキャラである。ぱっと見、女の子かと思った。重たいおかっぱ頭。昭和なこの設定で、これだけで揶揄されそうなもんだと思った。
でも不思議と、そういう向きはない。確かに明たちにカツアゲはされていたけれど、イジメられているというよりは、孤高の存在だった。瞬とは塾が一緒になり、ジャッキー・チェンのサイクロンZを家族で観に行った先で偶然会って、仲良くなる。
めちゃくちゃお金持ちの大豪邸、何千本もの映画テープ、映画監督という夢を持つ西野君は、既に自らの作品も撮っていた。明や小林とのグループ付き合いでぎくしゃくしていた隆造もまじえ、瞬は西野君の家を訪問、隆造もまた一気に西野君に魅了されちゃう。
お前、見かけと違うな、という台詞が正直すぎてふるってるし、この時に西野君が、瞬と隆造の関係性を、特に瞬の隆造への気持ちを見抜いたのだろうと思う。いやこれは……どうだろう、腐女子の深読みすぎだろうか??戯れでビデオを回して、西野君は二人に相撲を取らせ、倒れ込んだ二人に、瞬に、キスしちゃえ、と演出した。それは、瞬の気持ちを感じ取ったからじゃないんだろうか。
結局はそのことは深堀りされることはない。でもその後、西野君は、ヘンな意味じゃなくて、とわざわざ前置きして、瞬が隆造のことを本当に好きなんだということを、うらやましそうに語った。
西野君自身のアイデンティティが明確にされる訳じゃない。ただ、この昭和時代なら特に、一見して女の子かと思うようなヘアスタイルと柔らかな物腰、繊細な感受性を示してくるから、やっぱりそうかなあと思っちゃう。
瞬と隆造が西野君の才能に心酔して自らのキスシーンもみんなに見せちゃって、西野君は監督と呼ばれ、映画を作ろうぜ!!ということになる。これはもう……青春映画としてはエモエモのエモ、近作でも、「サマーフィルムにのって」などが思い起こされる、青春映画の大きな要素である。
でも、結局作られることはないのだ……。作られることがない、ってことが、彼らの絆をはかなくも、不思議と強く結束させることになる。子供だからってことじゃない。強い生命エネルギーを持った彼らには、映画作ろうぜ!!っていう盛り上がりの先に作っちゃえるだけの勢いがあった。
でも、子供という立場は、理不尽なあれこれに左右される。この、子供の頃のエネルギーを持ったまま、大人の立場を持てていたなら、何者にもなれたのに、と思う。
瞬は自分の家庭を普通だということにコンプレックスを持っていたけれど、母親の乳がんが再発し、あんなにガミガミ強気だった母親が、もう死ぬんだとばかり言い募るから、混乱してしまう。普通の家族でいることにコンプレックスがあったのに。普通なんてないんだよと、大人になれば思うけれど。
いや、大人であっても、そのコンプレックスはある。実際、瞬のお母さんは、文章を書く仕事をしたかったけれど、才能がなくて挫折して、結婚してこの地に来たという。駄菓子屋のおばちゃんが言うように、彼女は当初、ハデな格好で自己主張バリバリのヨソモノ、だったのだろう。
駄菓子屋のおばちゃんは、瞬のお母ちゃん以外にも、隆造、トカゲ、正太郎の親や環境をあしざまに言う。彼らだけではなく、この地のすべての情報に精通しているんだろう。イヤなババアだけれど、むしろその方がいいのかもしれないとも思う。
このおばちゃんは世間というものを映し出している。オバちゃんが思っているんじゃなくて、世間が思っていることを映し出している。とかく隠されがちなそれに対して、まだ子供である彼らが、さらされるというキツさはあるけれど、アイデンティティに直面し、戦い、仲間と認め合うことができる。まだまだ子供なのに、キツいよ、とも思うが、じゃあどこから直面すればいいの、突然直面する訳にも行かない、そもそも彼らはじわじわ直面を余儀なくされている。子供だと思ってナメてるのが大人側じゃないのか。
トンネルが象徴的に描写される。今や使われなくなった廃トンネル。地獄直行だと面白半分の掲示がされ、暗くて奥が見えない。何かが出るとか、自殺した中学生がいるとか、いろんな噂が横行していて、いわば肝試しのような場所である。
それでなくてもこの町自体が、ひしめくように立ち並んだ古い日本家屋、埃っぽい町並みの中に、山々、ぼうぼうに草木がはびこり、ざあざあと小さな滝を結ぶ川とか、もう、たまらん、こんな町を、ロケハンで見つけたのか、監督自身が見知っていたのか、たまらん町。
ここに、瞬の母親は承認欲求バリバリで乗り込んできて、でも今、息子の友達たちに慕われて、自らの病気に向き合って、生きている。隆造は酒乱の父親に死ぬ気で対峙した後、仲間たちのためにマサちゃんにひとり立ち向かう。
トカゲは、ずっとずっと弱気で来たのに、西野君の窮地を見逃がせなかった。のは、ちょっと、自分に似た、ヒエラルキーの下の雰囲気を感じたんだろうか。カツアゲされていた西野君のことを、教師に進言したことで動き出す。
そもそもマサちゃんが牛耳ってる、つまらないガキ社会こそなのだけれど。瞬はそのカツアゲ現場を見たのに様子を見るという言い訳のもと、西野君を、仲間曰く、見殺しにした。あのトカゲが、弱気そのもののトカゲが、そんな事態を見かねて教師に進言した。
隆造は瞬がなんとかするだろうからとトカゲに言い含めていたけれど、それがなされなかったから……。見て見ぬふりをしてしまって呻吟する瞬、イジメだけではなく、両親の離婚によって転校することになる西野君、そしてそれは隆造もまた……。ただただ仲良く、バカなことばかりやって、楽しく過ごしていたいだけだったのに。
映画を撮ろうぜとあれだけ盛り上がって、なのに実現できなった。西野君からぶ厚い脚本が送られてきた。
うわー、ワープロだよ……ワープロ、めっちゃ興奮したこと思い出す。自分の想いが指先から瞬時に印字されるあの感動。でもそれは、活字になったけれどそれは、撮影されることはないのだ。
長い長いトンネル。あんなに怖がっていたのは何故なんだろう。駆け抜けてしまえばなんてことはないのに。子供の頃、自我だけは立派に成長していたのに、自分だけでは何も出来なかった。親への愛憎のさまざま。複雑な家庭環境の彼らが、でも一様に、決して親を否定せず、愛していること前提の描写が救われたけれど、逆に苦しかった。
だって、憎んでいいのに、と思うじゃん、それは。憎んでいい親なら憎んでいいのに。絶えないあらゆる事件に遭遇するたびに思う。でもそれはそんなに難しいことなのかな。★★★★☆