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「あ」


2024年鑑賞作品

あぶない情事 獣のしたたり
1998年 66分 日本 カラー
監督:鎌田義孝 脚本:臼野朗
撮影: 小西泰正 音楽:山田勲生
出演:伊藤猛 鹿島春美 佐々木麻由子 飯島大介 澤山雄次 岡島博徳


2024/4/12/金 録画(日本映画専門チャンネル)
うわー、いかにもこの当時のピンクの先鋭的なタッチ!こうしたクリエイティビティに射抜かれて、私はピンク映画に魅せられたんだよなぁ!
でもこの監督さんのお名前は初見のような。多分、私、遭遇していないと思う。多分だけど(爆)。
それにしても、あぁ、若き伊藤猛氏の切なさ。死の直前、まさに死相が出ている状態まで、前のめりに倒れるまで役者をやっていた彼の、若き日。
そして二人のファムファタル。そのお姉さん格は、当時からお姉さん格で、若き日でも、そして小さめのおっぱいでも絶望的に色っぽい佐々木麻由子先生。彼女はいつだって、男たちを狂わせる。

いやでも……若きファムファタルの方、鹿島春美氏が、私にはめちゃくちゃ、刺さった。彼女も、初見だと思う。初めて見る女優さんだと思う。
てゆーか、データベースによると、本作でしか彼女の名前は見つからない。なんと!

雑にカットした肩につかないぐらいの髪、化粧っ気のないボーイッシュな顔立ち。
それなのになぜかコケティッシュで、私をめちゃくちゃにして、と言われたら、男たちは従ってしまう。そうして凌辱して、征服した気になって、捨てた先に破滅が待っている。

まるで砂漠のような乾いたロケーション。打ち捨てられたような喫茶店。ここが、「ふしぎな岬の物語」「アンダーカレント」でも使われた喫茶店だというのが、つまりきっと、本作で初めて映画で使われたんじゃないかと思うが、まるで色合いが違う。絶望しか生まれない、何一つ生産性のない、死んだ色合い。

ここに集う男女は、すべて死に導かれる。男に捨てられる女、女に捨てられる男、愛という言葉さえないままだ。
そもそも冒頭、何が起こっているのかよく判らなかった。追手から必死に逃げるも捕まってしまうという描写は、解説によると現金輸送車を狙って二人は捕まり、一人はカネをもって逃げ切ったということらしい。

その一人、ヒデジ(岡島博徳)を、出所したタイチ(伊藤猛)が訪ねるところから物語はスタートするのだが、この乾いた町で最初に立ち寄るガソリンスタンドで、最初のファムファタルに出会う。
そのスタンドのオーナーの娘と思しき彼女の名前は、結局最後まで明かされなかったと思うが、解説にはノアと記されている。明かされなかった、よね?彼女が死んでからタイチは、そういえばお前、なんていう名前だったんだなんて、問いかけるのだから。

そう、死んでしまってから。みんなみんな、死んでしまう。まず、このノアが最初から死の影を帯びている。挑戦的な視線で、私を連れ出してとタイチを挑発した彼女は、セックスの途中、髪を触らないで、と叫んだ。
ごっそりと抜けてしまうのだ。がん、とまでは明言しなかったが、そんなところであろうと思われる。ノアの父親、ガソリンスタンドのオーナーの男は、方舟とか、そんな手書きの看板を掲げ、見えない外からの攻撃に怯えている。現代医療に娘をかからせない。それが悪魔の所業だと思っているようである。

いわゆる新興宗教の二世信者、いや、彼女は信仰していないんだから、親の信仰のためにマジ迷惑しているチルドレン。逃げる足さえないこの砂漠状況で、彼女はきっと、このガソリンスタンドに来る男すべてに声をかけて来たのだろう。
ここは出所した男たちが中古車販売店でガソリンがからっけつのガラクタ車を売りつけられて、給油氏に必ず訪れる場所。私を連れ出して、だなんて、甘いラブストーリー映画のようだが、彼女にとっては切実だった。

タイチは連れ出したものの、結局彼女を放り出してしまう。カネを持っている筈のヒデジを訪ねた寂れた喫茶店で、店番をしていたレイコ(佐々木麻由子)に目を奪われたからなのか。
ヒデジはこの時、金策で東京に行っていて留守だった。東京に金策に出かける、というのが、いかにも当時の時代っぽさを思う。今の時代ならば、すべてがオンライン上で完結してしまうだろうから。

タイチはつまり、間男になったのだった。ヒデジのいない間に、レイコを寝取った。レイコは最初は拒絶しながらも、あんたみたいにスッとした男が好き、あいつを殺してよ、と言った。
その台詞はつまり、繰り返されるのだった。タイチと共にぶち込まれたもう一人の仲間、カズミ(澤山雄次)が出所してくる。ヒデジの行き先、カネの行き先、当然問うてくる。お前変わったな、身体に悪いからタバコをやめたんだ、すべてヒデジとタイチの間に交わされた言葉で、背筋が寒くなる。

対象が変わった。ヒデジの立場がタイチになった。だってタイチがヒデジを殺したんだから。そして、同じ台詞がカズミと共に繰り返される。あの時、レイコからスッとしていると言われて調子に乗ったタイチが、あの時のヒデジと同じように客に嫉妬し、愚かになり、レイコから軽蔑される。
エプロンをしておどおどとした、いかにもな小心男が、後から来た男にレイコを寝取られる図式がそっくり繰り返される。そして、殺しもまた繰り返される。

色っぽいレイコの出現で、ボロ布のように捨てられたノアが、髪の毛が抜けて、歯ぐきから血が出て、汚いんだよと罵倒されてタイチから捨てられたノアが、観客だって死んだと思っていたノアが、カズミが連れてくる形で再登場する。
ビックリする。病院に行くことも許されず、もうどこで死んでもいい、死ぬんだとやけになっていた彼女が、結構な時間をおいてまた現れたのだから。

白いウィッグをかぶっている。元気そうだけれど、なぜか言葉を発しない。幽霊を見るように、タイチは彼女を見ている。
かつてのヒデジに自分がそうしたように、今はカズミからタイチが脅されている。激しく愛し合って奪った筈のレイコも、委縮している彼をすっかり軽蔑している。
ノアは、あんたが捨てたようにあいつ(カズミ)も私を捨てた、と言い、それは反転して、タイチもまたヒデジがそうされたように、レイコに捨てられたということなのだった。

一見元気そうに見えながらも、声を発するのも苦しそうなノア、その白いウイッグの下は丸坊主なのだった。この作品のために剃髪したのかと息をのむ。あとから調べれば本作でしか名前を見つけられない彼女が剃髪までやってのけるだなんて、本当にビックリ。
同時に見せる乳首ピアスは本当に通している訳ではないのだろうが……いや判らん、剃髪までしちゃうんだったら、やりかねない。何この凄まじさ!!
ああ、でもでも、捨てられて、捨てられて、でもその捨てた男もまた捨てられて、その二人がこの絶望の乾いた砂埃の中で、お互いにしがみつき、めちゃくちゃにして、されるのだから、役者たちもまた、そこまでの覚悟を持って挑んでいたのかもしれない。

それにしてもなんて愚かなのだろう、タイチは。いやヒデジもカズミもまた、なのか。それを、彼らを迷わせたレイコ一人のせいにしてしまうのは、男側の弱さか、女側の嫉妬か。

タイチがヒデジを殺してしまった時、もうすべての陥落の始まりだったとは思った。でも、毅然として、レイコを愛して生きていく覚悟が出来ていたのなら、万に一つの、とも思ったが、ビックリするぐらいレイコに隷属して、エプロンした男に成り下がってしまって。
いや、エプロンした男が成り下がってしまったというのは、フェミニズム的にどうかとは思うが、やはり当時の、1998年の感覚では、判りやすくそうだということだろうと思う。

でも、だからといって、女が強い訳でもないのだ。ここでは男も女も、からからに乾いたこの砂漠のような町の中から抜け出せなくなって、自分の価値をこんな狭い場所でしか見いだせなくなって、嫉妬し、嫉妬され、殺し、殺されてゆく。

奪った金がどうこうだなんて、結局はどうでもよくなっていく。タイチはカズミとレイコを殺し、いわば自分のしがらみを断ち切ったのに、だったらそのまましれりと生きていくことも可能なのに、これまた自分の手で殺めたノアと共に……。
そうだ、ノアだ、ノアだ!!ノアの方舟だ……。彼女の父親が信仰していたのは、結局どんな宗教だったのか判らないけれど、きったない字でボードに手書きしていた中に、確かに方舟の字はあったのだ。

救われるための船出、ではない、絶対に。なのにひどく崇高に見えるのはなぜだろう。
ボロ車には火が放たれた。強風波浪注意報を呼び掛けるラジオのアナウンサー。びゅうびゅうと吹き荒れる海岸で、タイチはノアの遺体を寝袋に収め、がたつく粗末な小舟に乗せた。

砂浜から海中へと、笑っちゃうぐらい腕力がなくて、めっちゃ苦労して、船を水浸させた。そして、自らも乗った。
ああ、ああ……確実に死にゆく、ノアの方舟。でもそれは、神様の元に行くという点では、そうして救われるという点では、確かにそうだけれど。

お名前が違うから判らなかった。脚本の臼野朗氏は、瀬々敬久氏なんだという。そう言われれば妙に納得。私がピンクの先鋭的、前衛的に打たれた最初は、まさに瀬々監督作品、「すけべてんこもり」だったんだものなぁ。★★★★☆


雨降って、ジ・エンド。
2020年 84分 日本 カラー
監督:高橋泉 脚本:高橋泉
撮影:彦坂みさき 音楽:平本正宏
出演:古川琴音 廣末哲万 大下美歩 新恵みどり 若林拓也

2024/2/18/日 劇場(ポレポレ東中野)
うわー、めちゃめちゃ好き!これ!と思ったけれど、上映後のトークで、そうか、そんな単純に言っちゃいけないのかなぁ、とも思い、でもたまらなく好きだと思った。
確かに確かに、これは映画にするテーマとしてはリスキーすぎるのかもしれない。どんな映画祭にもとりあげてもらえなかったというエピソードはショックで、こんなにも愛すべき、チャーミングな作品なのに!!と悔しくなる。真の意味でも多様性など、結局は存在しないのか!と絶望する。

でもそれでも、だからこそ、そんなのおかしいと、こうして映画作品にして、公開にこぎつけた監督さん、タッグを組む主演の廣末哲万氏に心から感謝したい。
しかし、このチーム、群青いろというユニットが作り出す作品が、公開作品になるのは17年ぶりというのにはアゼンとしてしまうが……作ったところで満足してしまうだなんて(映画祭などには出ているらしいのだけれど)そんなバカな。
でもこの作品は、世に出さなければと語っていた監督さんの言葉に、出たがっている、という言い方をしていただろうか、それは相当のリスクを覚悟の上だろうに、本当に尊敬してしまう。

後半に、その驚きのカミングアウトがあるのだ。中盤までは、どこかのんきな、平和な、不思議な物語だった。フォトグラファーを夢見る派遣社員の日和、雨宿りで入り込んだ閉店した喫茶店の中で、出くわしたのは、「IT それが見えたら終わり」だと思ったという、そのままの、シャッターを思わず切ったところにうつりこんだのは、不気味なピエロ男。
キャーッ!とばかりに飛び出した……なんて展開は、すわホラーかと思いきや、その写真がSNSでバズり、その男の正体を、と再会してみると、ぽっちゃり中年の、ほんわかピエロさんなのであった。

雨森さんというこのピエロおじさんを発信し続けると、どんどんいいね!がつき、これが夢への第一歩につながるかも、と日和は胸を膨らませる一方、勝手に雨森さんのプライベートを切り売りしていることにだんだんと罪悪感が募ってくる。
同僚の栗井さんは、それは恋ね、なんてはやしたてる。そう、そんな、とてもとてものどかで幸福な物語に見えたのだが。

後半の爆弾投下までの間にも、そんな風に幸福に、チャーミングに見えていても、ところどころ軋みは見えている。日和は先輩カメラマンに作品を持っていくのだけれど、再三鼻であしらわれてしまう。雨森さんの写真の中で褒められた一枚は、通りがかった元カレがたわむれにシャッターを切ったものだったんだから、サイアクである。
いや……でもこれは、思えば日和の雨森さんへの想いというか、一緒にいて楽しい、栗井さんに言わせれば恋だという、その関係性が思いがけず切り取られたものだったのだ。そうか、そうだったんだ!

……ついついコーフンしてしまう……。軌道修正。日和と栗井さんが勤めている会社は、ザ・パワハラ女性上司が、常にイライラして、彼女たちに理不尽に当たり散らしている。時にマンガチックに思えるぐらいのイラつきっぷりだから、二人が顔を見合わせて、ねー!みたいに共感しあうし、二人は姉妹みたいに仲が良くて、日和の家や、時に職場でもこっそりお酒を飲んだりして、うっぷんは晴らせているように見えていたのだ。

でも……日和ももちろんこの上司には悩まされていたけれど、栗井さんはもっと……日和は写真という夢、雨森さんという最高の被写体に出会って、どこかそこから逃れられていたかもしれない。
その間に、栗井さんは思いつめていった。一見して、そんな風には見えなかった。さっぱりしたショートカットのカッコイイ女子に見えた。苛立ちを、女上司の歯ブラシでトイレ掃除しちゃうなんていうことで晴らして、それで解決していたように見えていたんだけれど……。

雨森さんは、後から思えばさ、彼は自身が抱えるどうしようもないアイデンティティが故に、苦しんできたがゆえに、いろんなシグナルを敏感に受け取ってきたんだと思う。小学校教師だった彼は、その意味では天職だった訳なんだけれど……。
雨森さんとすっかり仲良くなって、家に入り浸り状態の日和が、酒も入ってちょっとした口論になる場面がある。誰かが間違いを犯す、それを周囲が気づけないのが悪いのか、きっとシグナルは発している筈だと、雨森さんは言った。
雨森さんは……そのシグナルを、誰にも、受信してもらえなかったということだったのだろうかと、改めて思う。でも、こうして、日和と激論を交わして、彼女の中にその言葉が残っていて、栗井さんの上司への凶行を、ふせぐことができた。

という、流れを思い起こしてみると、確かに確かに、チャーミングでのんきで平和に見えた前半戦も、決して決して、そうではないのだった。雨森さんが、自分は爆弾を抱えている、と言うように、どこかしこに爆弾は潜んでいる。ただ、違うのは、雨森さんは、最初から自覚していたということだった。
でもそれは、世間的価値観と外れているからというだけ、でもその、外れているからというだけで、犯罪者予備軍になってしまうというあまりといえばあまりの理不尽さなんだけれど、それを彼は悲しく受け入れて、自分は爆弾なんだと、ピエロの泣き顔の下にその想いを封じ込めている。

冒頭で、日和に対して、報酬を払えばいいんでしょう、というシーンが提示されていた。心ざわめく曇り空、訳も判らずそんな会話が切り込まれ、それはさておいて、といった感じで物語が始まる。
そして、充分に雨森さんと日和の関係性を深めてから、この場面に戻ってくる。退職金を、ピエロとしての活動、風船に結び付けた50円玉で使い切ろうとしている彼、そのバッグから1万円札を、抜き取ってしまった日和。冗談交じりに栗井さんからそそのかされたからだけれど、雨森さんへの想いを恋だと断定されて、そうかもしれないと思って、無断でSNSに載せているのも気になって、懺悔の覚悟で日和は雨森さんに謝罪したのだった。

雨森さんは、その1万円を、依頼の報酬として受け取ってくれという。ある女子中学生を、撮影してきてほしいと。
それまでに、雨森さんのフラッシュバックのように示される回想で、かつて妻子がいたこと、その妻子に対して隠し事があったこと、彼女たちが出て行った時の修羅場な状況が示されるんである。

もうそろそろ、雨森さんのカミングアウトを明かさなければ、話が進まない。彼ははっきりと、性嗜好障害、だと言った。セイシコウショウガイ、音だけでは、なんのことやら判らなかった。
写真を撮ってほしいと依頼したのは、妻と共に出て行った娘ちゃんではなく、その娘ちゃんと同じ年ごろの教え子。ケンカばかりしている両親のもとで苦しんでいた彼女の相談に乗っていた、教師としての彼は、「初めて心から愛した相手」だと、日和に告げたんである。

性嗜好障害だということを、言わなくったって、良かったんじゃないかと思う。「初めて心から愛した相手」というだけで充分じゃないかと。でも、その相手が小学生女子だということを、対外的に説明するには、自らを、障害者だと認めなければならないとは、あんまりだ。
障害、なのか、これは。確かに、ほぼ100%に近く、彼が愛する人と添い遂げる人生は得られないだろう。だとしても、これを障害だというのは、彼が犯罪者となる可能性の方を重視して、“治療すべき”という観点から断じるなんて、なんだか、あんまりすぎる。

めっちゃくちゃ、タイムリーに、ジャニーズの問題があったから、余計に言いづらい部分はあるし、だからこそ、このタイミングで本作を劇場公開した作り手さん側が凄いと思うし、そして……オーディションで、脚本から飛び出してきたとまで監督さんたちに思わしめた、日和役の古川琴音氏が、もう本当に、素敵で。

彼女のような年頃の女の子だったら余計に、このセンシティブな問題に、過剰に反応してもおかしくないのに、もちろん動揺はめっちゃするけれど、雨森さんという一人の人と相対して、なんかめっちゃ気が合って、なんだか恋までしちゃって、その上で、つまり、雨森さんが、彼女を信頼する、というか、未来ある彼女がこんな自分のために悩んでいることに逆に勇気をもらう形というか、カミングアウトしてさ。

そりゃもうショックで日和は、気持ち悪い!と飛び出してしまうのは当然で……。でも、帰ってくるのだ、日和は。警察に通報しました、なんて、洒落にならない嘘をついて、うっそーん、なんて言って。
確かに雨森さんは通報してもいいと言ったけど、罪になる何かをしたと言っていなかったし、してないよね!と観客であるこちとらも願っていたし、実際、この女の子に相対して話を聞けば、大好きな先生、相談に乗ってくれて、今でも大事な友達って感じ、という笑顔での告白を聞けば、それを確信出来て、本当に安心した訳で。

ここが、大事な境界線だと思う。あのジャニーズの問題があって、これは小児性愛の欲望を実行に移しちゃった、更に狭い断定だったけれど、性嗜好が、愛する対象なのか、性の欲望が抑えられないそれなのか、全然違う筈なのに、一緒くたにされてる。
雨森さんが、自分は性嗜好障害だと日和に告白したけれど、実際は彼は、ただ愛する女の子が一人、いただけであって、彼女にイタズラしたとか、そんなことはなかったのだ。

それは……かなりハラハラした。自分は障害があると、愛する人がこの子だったと告白したから、そういうことなのかと思ったから。そして、そういう偏見がはびこっていることも、容易に想像されたから。
それこそジャニーさんが、性嗜好が少年であるのならば、誰か一人愛する少年がいて、その想いが遂げられないことは判ってて、少年たちの夢をかなえるためにそのエネルギーを傾けている、ということだったなら、良かったのだ。
でもそう思うのも傲慢なのだろう。だってそれじゃぁ、ジャニーさんのアイデンティティは満たされない。愛は永遠に得られない。こんな苦しいことって、あるだろうか。

雨森さんがあまりにもチャーミングで、その雨森さんと意気投合する日和もまたあまりにもチャーミングで、二人のシーンはニコニコが止まらないのだ。メイクしてないところを突撃しようと突然訪問しても、しっかりメイクしている雨森さんにガッカリしたり、二人でチッ、と舌打ちを延々しあって、しまいには笑っちゃったり、箸遣いがヘタでスプーンで刺身とか食べちゃうのを共感しあったり、しまいには酔いつぶれて朝を迎えたり。
写真への夢をあきらめかけた日和を、カメラをトンカチで打ち壊せ!と煽って、実はじゃーん、タオルの下を入れ替えてます!とか言って、実際はその手品が失敗してるとか、もういちいち可愛らしくって、胸がキューンとなってしまう。
雨森さんと日和は、結局はお互いの片思いがそのまま実らなかったけれど、こんなにぐっとくる仲間同士って、ない。

日和は、雨森さんのために、彼が愛した少女へ告白する段取りをつけたのだった。想いを伝えることがいけないなんてことはある訳がないと。
激しく抵抗する雨森さんに、日和もまた激しくぶつかる。判んないよ、判んないけどさ!なんで、想いを伝えることが悪いのか、そうだそうだ、基本的人権だよ、そうだそうだ!……でも、これが、今の世では、日本だけじゃなく、世界規模でも、認められないのかもしれないと思うと……。

かつての担任教師として会いに行くのに、やっぱりピエロメイクをしていく雨森さんの胸中にキュンキュンするし、決死の覚悟で、ひざまづいて好きですと告白するも、あっけらかんとした笑顔で、私も先生好きです!大事なお友達として!と返され、見守っていた日和がガッツポーズするのがサイコーである。

呆然とした雨森さんを引きずるように、日和は駆けてゆく。トンネルの中。象徴的だ。この中で雨森さんは、子供たちに水風船をぶっつけられていた。水風船だった。色も何もない。
この時も、子供たちは行き合っていた。雨森さんと日和、相対して、日和は雨森さんに、だって好きだから!と言ったのだった。なぜガッツポーズをしたのかという答えとして。

決して決して、交わらない。性嗜好が違うから、二人が恋人同士になることはない、ないんだけれど、なぜか、なぜだか、こんなにも幸福な結末を迎える映画はないと思った。
雨森さんに日和が、愛する人に想いを伝えるべきだと言ったあの時、雨森さんの、演じる廣末氏のぐりぐりとしたおっきな目玉にみるみる涙がたまって、こらえきれない口元が震えたあの場面。
愛する誰かの存在もそうだけれど、それを認識し、理解し、後押しする存在の尊さを、芯から感じた。もう、ヤバかった。この場面で、もう、今年ベストワン!と確信したぐらい。

ヤバい轍を踏み込んだテーマがあるとは思うけれど、そこに執着してほしくない。本当に、涙が出るほどチャーミングで、応援したくなる。
深刻なテーマは、それぞれに考え方の方向は違うと思うけれど、今起こっていない事象を差別に加えないでほしい、いや、加えてはいけないということを、本作で気づかされた。
そしてとにかく、みんなみんな、チャーミング極まりなかったんだよなぁ!★★★★★


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