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「あ」


2024年鑑賞作品

悪は存在しない
2023年 106分 日本 カラー
監督:濱口竜介 脚本:濱口竜介
撮影:北川喜雄 音楽:石橋英子
出演:大美賀均 西川玲 小坂竜士 渋谷采郁 菊池葉月 三浦博之 鳥井雄人 山村崇 長尾卓磨 宮田佳典 田村泰二郎


2024/5/7/火 劇場(Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下)
何これ、こんな映画観たことない!……やっぱり天才はクリエイティブ回線が無限に網の目のように広がっているのか。製作きっかけが面白く、音楽担当の石橋英子氏の持ち込み、そしてライブ用映像の製作と込みでの本作製作、何それ、そのライブ用映像も気になるじゃないの!
だって本作は、まぁ確かに山深い美しい村のビジュアルが魅力的ではあるけれど、中盤まではまるでフェイクドキュメンタリーかと思うような、都会と山村の人間バトルだったりするから、全然想像つかないんだもの、ライブの映像との相互関係が。

それはおいておくとしても……このタイトルの意味、最後の最後でひっくり返ってしまって、もう驚きで、タイトルの意味を、ずっと考えながら見ていたから、こうかな、と思っていたシンプルというか、今思えばオバカな想像が、最後の最後でひっくり返ってしまったので、ちょっと、どころか本当にボーゼンとしてしまった。
あの最後の最後でこのタイトルってどういうこと、いや、だからこそなのか、いや、そもそも確かに、最初から伏線張られまくっていたといえばそうかもしれないとか……。

冒頭、延々と続く、見上げたアングルの、群青色の木々の枝葉。ゆらゆらと揺れ、不穏な旋律が追随し、酔ってしまいそうになる。もう最初から、これから不穏なことが起こるんだと、これでもかと、念押しをしているかのようである。そして、中盤描かれる、グランピング施設建設の説明会での、都会VS地元住民のバトルがそれかと、一瞬錯覚してしまいそうになる。
そんな単純な訳ない。あんなにも、延々と、美しいのに不穏極まりないオープニングを見せておいて、そんな訳がないのに、気をそらされてしまう。

それは、そこにはいわば見慣れた作劇があったから。フェイクドキュメンタリーかと思うほどに、緊迫したバトルだった。
凡百の作品ならばクレーマー的に描かれがちな住民側のクレバーさに、都会側の人間たちが陥落され、魅惑されたところで、それまでの不穏さに、不安さえ感じていたから、ああ、作劇だ、映画だ、と思って、飛びついてしまった。

そんなんじゃない、そんなことではなかった。確かにその中盤の、見慣れた、安心できるストーリー展開は心温まった。頑なにだけ見えている地元民が、そもそもこの地は移住者が多いということを彼ら自身が自覚して、流動を受け入れる用意があるのだときちんと告白した。
そして、その上で、あまりにも身勝手なグランピング開発に対して、時には感情的になるものの、見事な理路整然で、単に既成事実だけを残そうとしていた説明会側の人間を陥落させるのだから、溜飲が下がった。

都会側の人間は、実はここに俺の居場所があったんじゃないかとさえ思いこみ、せっせと水くみなんぞを手伝うんであった。
それにうっかり心温まってしまったところにひっくり返る。いや、裏切られたとか、そんなことはまるでない、まるでないからこそ……でも最初から、最初から、全てが提示されていたではないか。

この山村の寡黙な、でも誰もが信頼している雰囲気満点の巧である。後に自分の職業は便利屋だと語る彼は、薪を割り、せせらぎの水を汲んでうどん屋に届け、ついでに野草のアドバイスをし、毎回娘を迎えに行く時間を忘れて遅れてしまう。「歩いて帰るって、帰りましたよ」学童のスタッフから言われて頭を下げる。
これがあまりにも何度も繰り返されるのは、ああ、冒頭のあの念押しと同じだったではないか。あの冒頭、それにつながった、帰りましたよと言うスタッフ、この時、ああ、やばいやばい、娘の花ちゃんが残酷な結果になっちゃうと、確信めいて思って見つめていたじゃないか。

なのにその描写が繰り返されると、次第に慣れてしまう。全身聡明が輝いているこの花ちゃんが、パパは迎えに来る時間をいつも忘れてしまう、しょうがないなと歩いて帰ってきちゃうことに納得してしまう。
この村は誰もが顔見知りのような雰囲気だし、グランピング計画でより結束が固まったようなところもあるし、こういう事態に想定される、痴漢やらストーカーやらの危機感が、まるで欠落していたのは、確かにあった。
そして……その欠落とはまるで違うところに落とし穴があって、それは、花ちゃんの父親である巧が何より判っていた筈の、この大自然の怖さだった、ということなんだよね??うわぁ……。

でも、それが、ハッキリと確定される訳じゃない。あのラストシークエンスは、巧の行動が衝撃的過ぎて、夕闇の、霧深い、遠くに何かが見えているぐらいの、もう夢を見ていたんじゃないかと思うぐらい。

その前にその前に……。巧をはじめ、この山深い地に住む人たちと、補助金目当ての安易なグランピング施設建設を急ぐ都会の芸能事務所というバトルが示される。
それまでの、まるでNHKBSの自然派番組みたいな、柳生博がナレーションしてそうな、ストーブが赤々と火を灯している、集まった村民たちがようかんとお茶で団らんしている、遠くでシカ猟の銃声が聞こえている、寒々しいしんとした空気感と真逆なストーリー感。
だからこそ、都会側の人間が、彼らの生きている感覚に触れると、感電したみたいにあっさり陥落してしまうのがよく判るし、でもその裏側、というか、薄氷のように危ない踏み外した先があるのが、当然都会側には判っていないし、恐ろしいのが、地元側にも判っていなかったということなのか。

そうだ、何度も繰り返し、念押ししていたではないか。この部分もそうだったのだ。根っからの地元民じゃないと。移住者が大半で、その最も新しい移住者であるうどん屋の若女将は、それを自覚しているからこそ控えめに、中立に、問題点を浮き彫りに語ったのだった。
彼女は最も新しい感覚を持っていたからそれを肌身に感じていたんだろうけれど、口ではよそ者の集まりだと言いながらも、踏み込んできてほしくない感情マンマンの移住年月長い人たちは、結局は地元感覚で拒絶していたんじゃないのか。

転勤族の子供だった私は、常に新参者としておどおどとする人生を、大人になってからもまるで慣習のように送ってきているから、めちゃくちゃ複雑な想いで、この経緯を眺めていた。
移住先なのに、、口では移住者だからと言いながら、理路整然と都会からの侵攻に反発する彼らが、眩しくもありながらも、なんか違うかもと思っていた。しっぺ返しが来るんじゃないかと……そのしっぺ返しがあの、最後の最後だとしたら、残酷すぎる。

巧はいつ、この地に来たのだろう。そしてその経緯は、どんなことだったのだろう。今は幼い娘と二人暮らし。写真には妻と娘と三人の睦まじい姿が記録されている。
妻が今いない経緯は示されない。離婚したのか、死別したのか。死別なら、その理由はなんなのか。

地元住民から信頼され、ストイックな生活をし、うどん屋さんに届ける水くみを何度も行ったり来たりでこなす。都会の芸能事務所からのご挨拶に酒を持ってこられても、飲まないから、とすげもない。
……ちょっとこの時、ピリッとした。私が酒飲みだから、酒は飲まないからと、仲間たちに提供することさえ厳しく拒否したのが、えぇ……と思って。

酒を嫌う人は、寛容がない。徹底的に嫌う。そこには、理由があるのだ。だって、酒を飲む仲間たちはいるのだから。説明会の前にと、打ち合わせに集まった仲間たちは赤ワインなぞをたしなんでいたのだから。
何も、示される訳じゃない。巧が酒を飲まないだけだ。それは、車を運転しているからなのだと説明も出来る筈なのに、それもしない。奥さんは今いない。何も、何も言っていないけれど、凄くイヤな感じがする。

一方の都会側。住民たちにコテンパンにやられた折衝係の二人は、もうこれは、あちら側の言う通り、とこうべを垂れることとなったのだった。そもそも社長もコンサルも来ていない、おざなりに派遣された社員二人であって、正当に反対されて、素直にスミマセンなのであった。

この説明会のシーンはめちゃくちゃ見応えがある。最初は、責任者を負わされた(負わされたことは、後々判ることである)男性は居丈高見える。こんな田舎の奴らは簡単に言い負かせると思っている、ように見える。感情的に反発する地元の若い青年とのバチバチはいかにもそんな感じなのが、ウマいんだよなぁ。
そして、サポートに過ぎなかったであろう女子、黛が住民たちの意見を拾いだしたことから、じわじわと変わってくる。彼女の上司である、ここに、責任者という肩書を押し付けられてきた高橋が、部下の、いわば暴走を全く止めずに経緯を見守っていることで、判るんである。

先述したけれど、この、ちょっと安心して見ちゃう作劇を感じられるシーン、都会の中年男と若い女性の、それぞれになかなかにサバイブしてきた社会人人生が、社長の気まぐれ、というか、それで派遣された先での、思いがけない出会い。
会社の危機を補助金でなんとかしようという浅はかなスタンスはでも、地元民の若者の勤め先でもあったらしいから結局お互い様というか、国の施策の浅はかさというか。

コロナ禍でバンバン支給されまくっている異常事態は、本当に……ちょっと怖いぐらいのものがあった記憶が呼び覚まされた。資料の提出など細かいところは妙に細かいのに、根本的にはざるで、トータルめっちゃ補助金が入っちゃう、みたいな。
本作はコロナ禍のことではないけれど、そうした、国の、矛盾したずさんさみたいところに、企業、社員が翻弄されるのを、痛切に自分ごとのように、感じてしまう。

でも、そうじゃない。本作は、そんな野暮ったいことじゃない。そんな風に、人情的社会的作劇にホッとしかけたところに、ひっくり返される。
いや……ひっくり返されるというのは、語弊がある。最初から、判っていた。寡黙で、ストイックで、慎ましい生活をしていて、コミュニティで信頼されているシングルファザー。でも毎回毎回、幼い娘のお迎え時間を忘れて、しっかり者の娘ちゃんは歩いて帰っていた。その道筋を、その不穏で危険な道筋を、冒頭、まさに冒頭から、しつこいぐらい、念押しで、示していたではないか。

巧はじめ地元住民たちのクレバーさに陥落してしまった、そもそも社長やコンサルの浅はかさにヘキエキしていた、説明に来ていた芸能事務所の二人。もともとは出役から裏側スタッフへとシフトした中年男性の高橋と、介護士から、……どうやら疲弊した果てでの思い切った天職であった黛。
マッチングアプリに登録していた高橋は、結婚してここに移り住むか!だなんて、冗談交じりに言いつつ、巧に嘆願した時にはほとんど本気だった。黛もまた、せせらぎの水くみから参加し、花ちゃんの行方不明に接して、家の留守を守った。

このあたりから、じわりじわりと、変わっていく、気がした。変わったのかどうか……どうだろう。巧は孤高の雰囲気満点、グランピング施設の管理人を打診されても、それが、所詮ヒマ人だろうという浅はかな都会事務所社長の思惑を、あっさり切り捨てる。忙しいんだと。おめーらの想像は浅はかなんだと、そんなことは言わないけれど、言外に感じさせるプライド。
そして、そんな巧に心酔していく高橋と黛に、施設を作るならと、シカの生態をレクチャーしたりしたものだった。レクチャーしたのだ。決して決して、エラソーにとか、そんな風じゃなかった。施設を作るなら、そういうこともあるのだと、具体的な数値を交えて解説しただけ。なのに……。

結果的に、花ちゃんは、シカ猟で手負い傷を負ったシカに近づいてしまって、………ということ、なんだよね??そもそも、花ちゃんが行方不明になってしまったということ、何度もお迎えの時間をスルーしてしまって、パパはお迎え忘れるから、と歩いて帰っちゃう花ちゃん。
父親である巧は、高橋から聞かれれば、野生のシカが、基本的には臆病だから危険性はないけれど、手負いであったり、近づいたりしたら襲われるかもと、しっかり、彼らに明示していたのだった。

まさにそれが、起こったのだった。無知な都会人にため息交じりにレクチャーしていたのが、最愛の娘にはしていなかったのか。何度も何度もお迎えを忘れて、娘はしっかりしているからと、思っていたのか。

てゆーか……それ以上の、最後の最後の衝撃。これは、何?何が起こっているの??花ちゃん、生きてた、大丈夫、良かった!!でもその目線の先に、シカが二頭、親子だろうか……と思っていると、その胴体の丸く赤い傷跡がアップになった。
手負いのシカ。それを示されたことでもう、心臓がどきどきしてしまって、前後をよく、覚えていない。手負いのシカは人を襲うことがある。そう言っていた巧。そんな場面は示されない、そんな場面は示されない代わりに、なぜ、なんでそんなことするの!!
巧が、高橋を、駆け寄ろうとする彼を止めただけと思ったら、引き倒して、ぶっとい腕で首を絞める。絞め上げる。口から白い泡が噴き出る。なんで、なんで、なんでよ!!

その後、倒れている花ちゃんの鼻腔に指を当てて、どうやら……ということを確認した巧なのだけれど、その確認の前にそんな行為に及ぶもんだから、ビックリしてしまう。えっ、マジに殺したの?と思っていると、まず、巧が花ちゃんを、……これは、死にに、行ったのかなぁ……抱き上げて、霧の向こうに、それこそ、もう、しんねりと、時間をかけて、目を凝らさなければ判らないほどに消えゆくまでに、去ってゆく。
巧に殺されたかと思った高橋は、これも本当に引きの、小さな画面で、必死に起き上がり、フラフラ動き、そして倒れ、倒れて……そのまま動かないままに、エンドになる。やだやだやだ、それはないよ、死んでないよね、何これ!!

結局、このタイトルの落としどころは、どこだったんだろうと、考えても考えても、判らない。悪夢のように、冒頭の群青の木々の枝葉、不穏な旋律、気持ちが通じたように思った描写が途端に安っぽく感じてしまう絶望。
これは……これ以上ない、残酷な映画ではないだろうか。理想の人間たることを思ったら、落とし穴がある。そこに不穏なまでの美しい自然がある。これは残酷。本当に死にたくなる残酷。★★★★☆


明日を綴る写真館
2024年 104分 日本 カラー
監督:秋山純 脚本:中井由梨子
撮影:百束尚浩 音楽:大林武司
出演:平泉成 佐野晶 嘉島陸 咲貴 田中洸希 吉田玲 林田岬優 佐藤浩市 吉瀬美智子 高橋克典 田中健 美保純 赤井英和 黒木瞳 市毛良枝

2024/6/26/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
平泉成初主演という触れ込みだけれど、印象としては彼に教えを請う太一役の佐野晶哉氏の方が主人公感が強いなぁという印象。ちょっとイヤな言い方だけれど、平泉氏演じる鮫島の露出というかキャラクターの押し出しをムリヤリ強くして、なんとか主人公に持っていっている感じがした。
という言い訳の元、ホントは手を出すべきではない原作コミックスの無料試し読みを2話ほど読んでしまい(最近、この禁を破りがち……)、確信に近い想いを抱く。

少なくとも原作では、太一が主人公だとしか思えない。表紙も彼だし……まぁ、コミックス作品で初老の男が表紙はなかなか厳しいのかもしれんが、でもやっぱり違うと思うんだよな。
つまり、これまたイヤな言い方をすれば、平泉氏の初主演という魅力ある惹句の元、実は佐野氏が主役、それこそがこの映画の目的のような感じがしてしまったのだ。今更旧ジャニーズの力とかなんとかは思わないけれど……むしろ素直に太一を主人公にした物語の方が、魅力的に観られたような気がしてしまう。

2話しか読んでないからいろいろ言うのもアレなんだけれど、そして原作と映画作品とは別物だというのも判っているけれど、ムリヤリ逆転させているという印象を持ってしまうと、原作ではおっとり穏やかなキャラに見える写真館の主人、鮫島が、“主役”に押し上げられた本作では、意固地で頑固で、というキャラクターを作られて、それが最後までしっくりこないというか……。
そもそも太一は鮫島の撮った、被写体が生き生きとした人物写真に感銘を受けた訳で、それは被写体とのコミュニケーションがなせる業である筈なんだけれど、そして実際鮫島はそのワザを持っている訳なんだけれど、どうやらキャラ変させられた本作では、この鮫島に被写体がどうやって心を開いたのか、イマイチ見えてこない感じがする。

ぐちぐち言ってしまった。最初から行こう。そもそもの始まりは、売れっ子カメラマン、太一が一枚の写真に心を奪われたこと。太一が大賞を受賞したフォトコンテストの一般部門、ケーキを前に微笑む女性の写真だった。
技術を駆使した太一の写真とは確かに真逆、対照的。その写真を見て、太一はすべての仕事を捨てて撮影者の鮫島に弟子入りすることを決めてしまうんである。

ファッション誌の撮影であろうか、淡々と撮影する太一を周囲がほめそやす。太一自身はスタッフたちと関わろうとせず、不愛想にその場を後にする。マネージャーの透留は古くからの友人なのだろう、不器用な彼を何くれと心配し、突然仕事をすべてキャンセルするというワガママを言い出した太一に困り果てながらも、送り出してくれる。
このマネージャー君がグレイヘアーにファッションも際立ってスタイリッシュで、彼自身がモデルみたいなカッコ良さに仕立て上げられているのは、何か意味があったんだろうか……?モデルさんよりモデルっぽいいでたちなのに、めちゃくちゃマネージャーな低姿勢で、うーむ、こんなことを考えてしまうのは、昭和的頭の古さなのだろうが。

太一自身のあまりの不器用さ、愛想の悪さも、後に両親の離婚やら、学生時代に同級生と上手く関係を築けなかったことなどが描かれるんだけれど、演じる佐野君が最後に暴露しちゃう(とゆーのもアレだが)、実はそうじゃないでしょキャラが、押し込められている分不自然極まりなく、なんか、カッコつけて俺って理解されないんだよね、みたいな風に見えちゃうというか。
学生時代の写真部の仲間たちとの回想は、回想というより妄想という形で描かれるのだけれど、写真に没頭するあまりそれ以外に価値を置かなかったということなんだろうと原作を試し読みしてみたら判ったけれど、それにしたってどうなんだろうという気持ちは正直するというか……。
原作でどこまで回収されているかは気になるけれど、映画化となった本作としては、彼の付き合いの悪さではなく、周囲が勝手にハブにした、という描き方にしか見えなくて、それが、何の事情も判らないから唐突過ぎて、俺ってかわいそうだろ、と言ってる気がして、飲み込めなかったんだよなぁ。

太一の家庭環境にこそ、彼のいわばグレた要因があったのかもしれんが、これもまたあいまいである。両親の離婚は昨今では珍しくもないのだから、子供がそのことに対してどういう影響を受けたのかの丁寧な描写が必要であると思う。
特に父親に関してはカメラを手渡してくれた場面でしか登場せず、高橋克典氏という豪華キャストを使い捨ての感がある。母親もまた黒木瞳という豪華キャストなのだけれど、彼女だけが得している感じがするなぁ。離婚理由は特段明らかにはされない上に、彼女側から言わせたら、夫が出て行った、ということになっちゃってるのも解せない。自分の責はまるでないかのよう。
太一はこの両親ともに疎遠となっている現在ということなのだが、正直ここで描かれていることだけだと、彼がそれでいわばグレちゃうみたいなのが、ないやろ、と思っちゃうんだよなぁ。

ほらほら、全然鮫島の話に行かないじゃん(爆)。結局太一の物語だからなんじゃないの。鮫島はというと、まぁ一応こっちも、家族の問題を抱えている。写真館を継いでほしかった息子は、今は離れて暮らしている。今は写真館の主に収まっている鮫島だけれど、そもそもは彼の父親の店で、鮫島自身は戦場カメラマンを目指して、飛び回っていた。
奥さんである桜(市毛良枝)は、写真館に嫁いだのに、写真を撮ったことがない、そんなことを考えたこともないという。そんな父親に息子が反発するのは当然といえば当然で、家族写真の大切さを問われたってそりゃぁ、というところなんである。

この家族像に関してはなんつーか……原作で実際にあるのかどうかは判らないんだけれど、率直に言うと、とって付けたような感じが正直、ある。
結局は、本当は結婚式もあげたかったし、ドレスも着たかったという、奥さんの希望を叶えるラストのための作劇に過ぎなかったような気がどうしてもしちゃって……。

この、結婚式をあげたい、ドレスを着たい、というのを、そしてその気持ちを女子が押し殺しているというのを、どちらも、そうかなぁ、なんだかなぁ、と思っちゃうのは、フェミニズム野郎すぎるだろうか??
確かに私の若い頃にはそういう価値観はあったし、判らなくはない。でも、新旧どちらの女子にも、つまり女子はみんなそう思ってるだろという押し付けを、フェミニズム野郎は感じちまうんである。だってそれじゃさ、あのラストは、ムリヤリ引っ張ってこられた鮫島にとっては、奥さんのためにやれやれ、仕方ないか、ということになっちゃうじゃないの。

うーむ、フェミニズム野郎はどうにもナナメに見てしまいがち。そしてラストにさっさと行きがち(爆)。それはおいといて……。
鮫島のもとで住み込みで働くうちに、彼が感銘を受けた写真の被写体であるケーキ屋の娘、そしてそのケーキ屋さんのインスタ写真に関わるようになり、閑古鳥だった店が大繁盛になったりする。ザ・現代的である。鮫島にも提案するけれど、鮫島は新しい商売っ気をかたくなに拒否する。
……ここんところは、拒否する信念とか、拒否した上でどうなるとか、結局太一は息子の代わりみたいな感じでここで働き続けることになるんだし、その回収がなされないのがもやもやしちゃう。

だって、ケーキ屋さんが繁盛したのは良きことと受け止めているんでしょ。段々と写真館の需要がなくなって、奥さんを苦労させているのは息子に指摘されなくたって判っているのなら。
そりゃね、判るよ。昭和の人間だもの。そんな新しいことは判らん、必要ない、と言っちゃうのも、判るよ。でも、それを押し通すだけの信念が鮫島にはあるのか。そもそもこの押しかけ弟子を受け入れた気持ちが、映画となった本作では頑固ジジイとなっちまった鮫島の中にはなかなか見出せないしなぁ。

余命いくばくもないおばあちゃんが、震災の時になくしてしまったアルバムを見たいと言っている、家族写真を鮫島の写真館で撮っている筈なのだが、という、孫娘からの連絡が来る、このシークエンスがクライマックスである。
家族写真なんてとぶーたれていた息子もこの大作戦に参加し、直接届けなければ間に合わない、という夜通しのドライブと相成るんである。ここが、感動ポイントであったとは思うんだけれど……。

おばあちゃんが美保純、年齢的にはそうだろうが、あの色気ダダもれの美保純が、しかも全然おばあちゃんになってなくて、不自然極まりない黒髪で……まぁそりゃぁさ、年寄りだから白髪であるべきとは言わないが、そもそもがメチャクチャ若く見えるし、つやつやの黒髪で、しかもなんでよ、ばっちりメイクで危篤状態ってさ。臨場感マイナス100%なんすけど!
しかも、写真が届けられたら、危篤で目を閉じたままだったのに、しっかり意識取り戻し、笑顔を見せ、会話までして、ないない、危篤からその復活はないわ!

……ほんっとうに、このシークエンスにはガッカリした。それまでは、散々飲み込んでいたけれど、これはないわと、さすがに思った。この場面をバシャバシャ撮る鮫島を、息子は一瞬止めるけれど、今この瞬間しかないんだと鮫島はきっぱり遮り、孫娘も、撮ってくれてありがとうございましたと頭を下げる。
でもさ……この時シャッターを切った写真は、現像してすぐに送りますというところで終わって、後にまったく現れることがないから、本当にいい写真が撮れて、感謝されるとかないから。そうなるとさ、カメラマンの自己満足、勝手な判断にしか見えないじゃん。

で、先述したけど、ラストは鮫島と奥さんのサプライズ結婚式である。そこに至るまでに、偶然近くでウエディングプランナーとして働いていた(偶然にもほどがあるが)母親との再会があり、結婚写真の撮影という、コミュニケーションが苦手で人物写真が撮れなかった太一が、開眼していくことになるんである。

黒木瞳氏だから、まーしゃーないんだけれど、ひざ上丈のツーピースという、美しすぎる、若すぎるのが、この年齢の息子をもって、この年齢の母親でそれやられちゃ、置いてかれる感しかないわ……とガックリきちゃう。
太一にとっての父親、彼女にとっての夫の思い出となる、これもまたかつて一般部門で賞をとった一枚の写真を介しての母と息子のシークエンスは感動的なのだが、なのだが……お父さーん!!と言いたくなる。

お父さんがこの写真を撮ったのに。ここに映っているのは若きお母さんなのに。そして二人泣いているのは、お父さんの存在は確かに頭にある筈なのに、なのに、お父さんは、消え去るのだ……。
母親との再会をきっかけに鮫島夫妻の結婚式を企画したのに、お父さんは、消え去ったままなのだ……それが頭に残っちゃうと、どんなに感動的な結婚式を描かれても、涙は引っ込んでしまう。

そもそもなんだけれど、これは私の個人的感覚というか、好みの問題に過ぎないんだけれど、ずっとずっと、甘美なピアノの旋律がべったり貼りついていて、それがすっごく、気になってしまった。途切れる時はほんのわずかで、すぐさまピアノの旋律の洪水。
これは本当に、価値観、好みの問題であるとは思うんだけれど、なんか、感動しろよと洗脳されている感じがするというか、単純にうるさくて(爆)、イヤだったなぁ。★★☆☆☆


あぶない情事 獣のしたたり
1998年 66分 日本 カラー
監督:鎌田義孝 脚本:臼野朗
撮影: 小西泰正 音楽:山田勲生
出演:伊藤猛 鹿島春美 佐々木麻由子 飯島大介 澤山雄次 岡島博徳

2024/4/12/金 録画(日本映画専門チャンネル)
うわー、いかにもこの当時のピンクの先鋭的なタッチ!こうしたクリエイティビティに射抜かれて、私はピンク映画に魅せられたんだよなぁ!
でもこの監督さんのお名前は初見のような。多分、私、遭遇していないと思う。多分だけど(爆)。
それにしても、あぁ、若き伊藤猛氏の切なさ。死の直前、まさに死相が出ている状態まで、前のめりに倒れるまで役者をやっていた彼の、若き日。
そして二人のファムファタル。そのお姉さん格は、当時からお姉さん格で、若き日でも、そして小さめのおっぱいでも絶望的に色っぽい佐々木麻由子先生。彼女はいつだって、男たちを狂わせる。

いやでも……若きファムファタルの方、鹿島春美氏が、私にはめちゃくちゃ、刺さった。彼女も、初見だと思う。初めて見る女優さんだと思う。
てゆーか、データベースによると、本作でしか彼女の名前は見つからない。なんと!

雑にカットした肩につかないぐらいの髪、化粧っ気のないボーイッシュな顔立ち。
それなのになぜかコケティッシュで、私をめちゃくちゃにして、と言われたら、男たちは従ってしまう。そうして凌辱して、征服した気になって、捨てた先に破滅が待っている。

まるで砂漠のような乾いたロケーション。打ち捨てられたような喫茶店。ここが、「ふしぎな岬の物語」「アンダーカレント」でも使われた喫茶店だというのが、つまりきっと、本作で初めて映画で使われたんじゃないかと思うが、まるで色合いが違う。絶望しか生まれない、何一つ生産性のない、死んだ色合い。

ここに集う男女は、すべて死に導かれる。男に捨てられる女、女に捨てられる男、愛という言葉さえないままだ。
そもそも冒頭、何が起こっているのかよく判らなかった。追手から必死に逃げるも捕まってしまうという描写は、解説によると現金輸送車を狙って二人は捕まり、一人はカネをもって逃げ切ったということらしい。

その一人、ヒデジ(岡島博徳)を、出所したタイチ(伊藤猛)が訪ねるところから物語はスタートするのだが、この乾いた町で最初に立ち寄るガソリンスタンドで、最初のファムファタルに出会う。
そのスタンドのオーナーの娘と思しき彼女の名前は、結局最後まで明かされなかったと思うが、解説にはノアと記されている。明かされなかった、よね?彼女が死んでからタイチは、そういえばお前、なんていう名前だったんだなんて、問いかけるのだから。

そう、死んでしまってから。みんなみんな、死んでしまう。まず、このノアが最初から死の影を帯びている。挑戦的な視線で、私を連れ出してとタイチを挑発した彼女は、セックスの途中、髪を触らないで、と叫んだ。
ごっそりと抜けてしまうのだ。がん、とまでは明言しなかったが、そんなところであろうと思われる。ノアの父親、ガソリンスタンドのオーナーの男は、方舟とか、そんな手書きの看板を掲げ、見えない外からの攻撃に怯えている。現代医療に娘をかからせない。それが悪魔の所業だと思っているようである。

いわゆる新興宗教の二世信者、いや、彼女は信仰していないんだから、親の信仰のためにマジ迷惑しているチルドレン。逃げる足さえないこの砂漠状況で、彼女はきっと、このガソリンスタンドに来る男すべてに声をかけて来たのだろう。
ここは出所した男たちが中古車販売店でガソリンがからっけつのガラクタ車を売りつけられて、給油氏に必ず訪れる場所。私を連れ出して、だなんて、甘いラブストーリー映画のようだが、彼女にとっては切実だった。

タイチは連れ出したものの、結局彼女を放り出してしまう。カネを持っている筈のヒデジを訪ねた寂れた喫茶店で、店番をしていたレイコ(佐々木麻由子)に目を奪われたからなのか。
ヒデジはこの時、金策で東京に行っていて留守だった。東京に金策に出かける、というのが、いかにも当時の時代っぽさを思う。今の時代ならば、すべてがオンライン上で完結してしまうだろうから。

タイチはつまり、間男になったのだった。ヒデジのいない間に、レイコを寝取った。レイコは最初は拒絶しながらも、あんたみたいにスッとした男が好き、あいつを殺してよ、と言った。
その台詞はつまり、繰り返されるのだった。タイチと共にぶち込まれたもう一人の仲間、カズミ(澤山雄次)が出所してくる。ヒデジの行き先、カネの行き先、当然問うてくる。お前変わったな、身体に悪いからタバコをやめたんだ、すべてヒデジとタイチの間に交わされた言葉で、背筋が寒くなる。

対象が変わった。ヒデジの立場がタイチになった。だってタイチがヒデジを殺したんだから。そして、同じ台詞がカズミと共に繰り返される。あの時、レイコからスッとしていると言われて調子に乗ったタイチが、あの時のヒデジと同じように客に嫉妬し、愚かになり、レイコから軽蔑される。
エプロンをしておどおどとした、いかにもな小心男が、後から来た男にレイコを寝取られる図式がそっくり繰り返される。そして、殺しもまた繰り返される。

色っぽいレイコの出現で、ボロ布のように捨てられたノアが、髪の毛が抜けて、歯ぐきから血が出て、汚いんだよと罵倒されてタイチから捨てられたノアが、観客だって死んだと思っていたノアが、カズミが連れてくる形で再登場する。
ビックリする。病院に行くことも許されず、もうどこで死んでもいい、死ぬんだとやけになっていた彼女が、結構な時間をおいてまた現れたのだから。

白いウィッグをかぶっている。元気そうだけれど、なぜか言葉を発しない。幽霊を見るように、タイチは彼女を見ている。
かつてのヒデジに自分がそうしたように、今はカズミからタイチが脅されている。激しく愛し合って奪った筈のレイコも、委縮している彼をすっかり軽蔑している。
ノアは、あんたが捨てたようにあいつ(カズミ)も私を捨てた、と言い、それは反転して、タイチもまたヒデジがそうされたように、レイコに捨てられたということなのだった。

一見元気そうに見えながらも、声を発するのも苦しそうなノア、その白いウイッグの下は丸坊主なのだった。この作品のために剃髪したのかと息をのむ。あとから調べれば本作でしか名前を見つけられない彼女が剃髪までやってのけるだなんて、本当にビックリ。
同時に見せる乳首ピアスは本当に通している訳ではないのだろうが……いや判らん、剃髪までしちゃうんだったら、やりかねない。何この凄まじさ!!
ああ、でもでも、捨てられて、捨てられて、でもその捨てた男もまた捨てられて、その二人がこの絶望の乾いた砂埃の中で、お互いにしがみつき、めちゃくちゃにして、されるのだから、役者たちもまた、そこまでの覚悟を持って挑んでいたのかもしれない。

それにしてもなんて愚かなのだろう、タイチは。いやヒデジもカズミもまた、なのか。それを、彼らを迷わせたレイコ一人のせいにしてしまうのは、男側の弱さか、女側の嫉妬か。

タイチがヒデジを殺してしまった時、もうすべての陥落の始まりだったとは思った。でも、毅然として、レイコを愛して生きていく覚悟が出来ていたのなら、万に一つの、とも思ったが、ビックリするぐらいレイコに隷属して、エプロンした男に成り下がってしまって。
いや、エプロンした男が成り下がってしまったというのは、フェミニズム的にどうかとは思うが、やはり当時の、1998年の感覚では、判りやすくそうだということだろうと思う。

でも、だからといって、女が強い訳でもないのだ。ここでは男も女も、からからに乾いたこの砂漠のような町の中から抜け出せなくなって、自分の価値をこんな狭い場所でしか見いだせなくなって、嫉妬し、嫉妬され、殺し、殺されてゆく。

奪った金がどうこうだなんて、結局はどうでもよくなっていく。タイチはカズミとレイコを殺し、いわば自分のしがらみを断ち切ったのに、だったらそのまましれりと生きていくことも可能なのに、これまた自分の手で殺めたノアと共に……。
そうだ、ノアだ、ノアだ!!ノアの方舟だ……。彼女の父親が信仰していたのは、結局どんな宗教だったのか判らないけれど、きったない字でボードに手書きしていた中に、確かに方舟の字はあったのだ。

救われるための船出、ではない、絶対に。なのにひどく崇高に見えるのはなぜだろう。
ボロ車には火が放たれた。強風波浪注意報を呼び掛けるラジオのアナウンサー。びゅうびゅうと吹き荒れる海岸で、タイチはノアの遺体を寝袋に収め、がたつく粗末な小舟に乗せた。

砂浜から海中へと、笑っちゃうぐらい腕力がなくて、めっちゃ苦労して、船を水浸させた。そして、自らも乗った。
ああ、ああ……確実に死にゆく、ノアの方舟。でもそれは、神様の元に行くという点では、そうして救われるという点では、確かにそうだけれど。

お名前が違うから判らなかった。脚本の臼野朗氏は、瀬々敬久氏なんだという。そう言われれば妙に納得。私がピンクの先鋭的、前衛的に打たれた最初は、まさに瀬々監督作品、「すけべてんこもり」だったんだものなぁ。★★★★☆


あまろっく
2024年 119分 日本 カラー
監督:中村和宏 脚本:西井史子
撮影:関照男 音楽:林ゆうき 山城ショウゴ
出演:江口のりこ 中条あやみ 松尾諭 中村ゆり 中林大樹 駿河太郎 紅壱子 久保田磨希 浜村淳 後野夏陽 朝田淳弥 高畑淳子 佐川満男 笑福亭鶴瓶

2024/4/19/金 劇場(丸の内TOEI@)
映画を観た翌日、佐川満男氏の訃報に接して、あれ?この人昨日の!あの鉄工所のベテランおっちゃん!!とビックリした。それでなくてもとっても素敵な映画だったと昨日は胸をあたたかくしていたので……。
先行上映の初日の日の逝去、そして全国公開の翌日にその訃報が伝えられるとは。そして本人も、一度は高齢だからと謙虚に断ったのを、この仕事を最後と思ってやると言って、この好演が本当に遺作になるなんて、なんということだろう。

なんて、湿っぽくなりたくない。笑って泣いての人情喜劇。そんな言葉を久々に使いたくなる。
監督さんのお名前は初見。経歴はドラマ畑のお方みたい。映画にも携わってはいるけれど、きっとこの一作、地元尼崎の、すべてを詰め込んだものを、納得のいくものと、作りたいと思ったんだろうと思わせる。地元の行政や、企業や、ラストのクレジットを待たなくたって、巻き込みまくったことが判る、充満しているんだもの。
そういう作品は、諸刃の剣というか、時におもねりすぎて、観光PR映画に成り下がる危険もある。実際、そうした作品に接した記憶もある。本作も正直、ギリギリ危ないところはあったような気がする。キャストはできれば尼崎出身、まぁ仕方ない大阪近辺までは許す!みたいなこだわりを貫いていたから。

でも良かった、良かったなぁ。たまたま鶴瓶さんのラジオを聴いていて、この作品のことを、まだ情報出しちゃいけない時から、言いたくて言いたくて仕方ないって感じでいたから。中条あやみが奥さん役で、押し倒されてんで、というところをオチにしてはいたけれど、この作品自体のことを、その素晴らしさを、言いたくて言いたくてたまらない感じがメチャクチャ伝わってきていたから。
ベテランさんが、いわば小さな作品なんだけれど、その良さを、どうしても伝えたい!というのは、なんか思い出す。西川美和監督のデビュー作、「蛇イチゴ」を、平泉成氏がすっごく嬉しそうにトーク番組で紹介していたのだよ。そういう場面にひさっしぶりに遭遇して、そして実際、その作品がとっても良くって、ああ、こういう映画体験が嬉しいんだ!と思う。

なかなか本題に行けない(爆)。江口のりこ。江口のりこよ!そして先述の中条あやみとのダブル主演。違和感しかない(爆)。そして、まさかの、この二人が義理の親子、しかも、あやみ氏が母親。異次元しまくってる。
江口のりこ氏演じる優子39歳の父親の再婚相手が、実にハタチの早希、なんである。いやいやいや、さすがにあやみ氏、ハタチじゃないだろ、45歳の年の差、というインパクトを重視したのか、それはカトちゃんを意識したのか??彼女の実年齢に近い感じに設定しても良かった気がするけどなぁ。

まぁそんな些末なことは別にいい。江口のりこ氏のやさぐれ加減が最高すぎる。優子はおとうちゃんのだらけ加減が我慢できず、自分は絶対そんな風にならん!と決意し、エリート街道を突っ走ってきた。
それが、突然、ぽきりと折れた。成績を残していたのに、突然のリストラ。彼女の厳しさが周囲の和を乱すという、まぁ正直……昭和的価値観が、令和的価値観に負けたという気もするが、一方で、実力あるものこそが勝ちあがっていくという正当さには相反していて、なんかおかしいぞ、今の社会!!と提唱している感もある。

ぽっきり折れて、優子は地元に帰ってきた。フツーに転職活動していれば、実績は充分にあったのだから、彼女が強がり気味に言ったように、引く手あまただったんじゃないかと思う。
でもそっからのニート期間が、8年、とか、言ってなかった?見間違い??とにかくとにかく、だるだるのトレーナー姿で、商店街で総菜買って父親とぼそぼそと夕食を食い、小学生に数学を教え、幼なじみの屋台で酒をかっくらい、そんな毎日を、何年も何年も過ごしていたのか。

父親が突然、再婚を宣言する。本作は、結構シリアス要素も重くあるのだけれど、さっすがオオサカ、会話劇、テンポ、突然入れ込むリズムが素晴らしすぎるんである。私、全然ここで再現できない。
そして登場する若すぎる妻、早希である。中条あやみ氏。後に彼女の家庭事情をひも解けば、女を作って出て行った父親、身体を壊し、早希が看取った母親。いつもいつも一人でいた彼女は、温かい家庭のだんらんを夢見ていた。
役所に勤めていた彼女の元に、理想の男性として現れたのが優子の父親だった。そらぁそうだろう。鶴瓶さんだもの。あたたかな家庭の権化だ。早希から積極的にアプローチしたものの、そりゃ断られてしまう。そこで、早希は仮病を使って……「奥の手や」鶴瓶さんあやみに押し倒される。キャー!!

めっちゃべっぴんさんだし、売れっ子さんだし、どこか保守的なイメージもあるけれど、なんたってあの狂った監督、狂った「ライチ☆光クラブ」にヒロインとして招聘されたあやみ氏に私は、絶大な信頼を寄せているんである。だからだから、本作のオフィシャルサイトのプロフィルに、ライチが載っていないことに、黒歴史で抹殺してるのかよ、キーッ!!と怒っちゃう。
なので、江口のりこ氏との共演、しかもダブル主演というのは、ワクワクしたなぁ。

この若き奥さんは、江口氏演じる優子が、ワレワレ観客を代弁する、単純なイメージをどんどんぶち破っていく。この小娘、と思って冷たく当たると、思いがけず、こちらの痛いところをついてくる。それは……年をとるにつけ、めちゃくちゃ思い当たるあれこれなのだ。
それを、優子が、演じる江口のりこ氏が、恥ずかしいほどの赤裸々な表情で刻み付ける。こんな小娘にたしなめられる、その正論が、確かに正しいから、本当に恥ずかしくて、本当に悔しくて、どすっぴんの優子、江口氏の、悔しくて忌々しくて、でも、確かにこの“小娘”の言う通りだと認めざるを得ないのぼせあがった表情が、たまらなかった。

ぶつかりあうきっかけは、いちいち些細なことなのよ。早希がぐさりとえぐるように、優子は嫉妬しているだけ。早希が、その若きべっぴんをしっかり表現して、ハンバーグやらシチューやら、一見おままごと的なごはんを用意し、でもそれは、確かに、優子が家族団らんの象徴として、理想としていた食卓なのだった。
なんて、可愛くも切ないの。リストラされて実家に戻ってからは、出来合いの総菜とごはんと味噌汁で、父親とぼそぼそと済ませていた食卓。急に、リカちゃんハウスのように用意されて戸惑う優子、なのだけれど。

突然、父親が倒れ、死んでしまう。健康のために、ジョギングに出かけた。干してあった手ぬぐいを二階から放ってやった優子。雷雨の中、父親は倒れ、救急車で運ばれ……。
優子は思い出す。てゆーか、年甲斐もなくワガママぶんむくれの優子に、不格好な巨大おにぎりを作ってくれた父親に、優子は幼き頃、母親が死んだ時にそうしてくれたことを思い出していたのだ。

中盤で退場する鶴瓶さんは、存在感絶大で、こっから、真に、ダブル主演の二人に任される展開になり、これはねぇ、関係上は親子だけれど、シスターフッドってことよね、と思い、萌え萌えしまくるんである。
年齢的には当然、江口氏より、あやみ氏の方がずっとずっと若い。でも、江口氏演じる優子は、こんな具合にこじれまくり、どうやらこれまでろくに友達もいないまま来てしまって、優秀なのに、再就職もせず、ニート状態のままであった。

そんな優子の、いわば子供っぽさを容赦なく喝破し、あっけらかんと懐く早希は、確かに母親であり、姉妹であり、親友であった。
凄いと思う。早希は。演じるあやみ氏の美貌と、その中に潜むドライなスタンス、それに相反する人懐っこさが、優子を演じる江口氏の中にある結構硬い人見知りを、ドリルでこじ開ける威力があったと思う。この、対照的以上にねじれた二人の化学反応こそが、本作の一番の見どころ。

もう一つあった見どころ。優子の恋である。そもそもはお見合い話だった。思いっきりありがちな見合い写真。まだ父親が存命の時、父親とラブラブな早希が、優子ちゃんに幸せになってほしいとか言ってゴリゴリに押しまくるから、そらぁ優子はぶんむくれさ。私は邪魔者、さっさと嫁に行って出て行けってことだろと、猛反発。
……正直何で帰省したの、どっかで一人暮らしするぐらいの余力のあるだけの大人だろうにとも思う。ニート生活が結構な年数経っていることが示されていたし、リストラ、そして自分の人間性が社会から否定されたことに落ち込んだことが最重要事項なんだけれど、そのことこそを、きちんと救い上げていないことだけは、本作の中でちくりとモヤった部分だったかもしれないと思う。

見合い話は奇跡的に、運命的な出会いだった。同じ京大出身、彼は優子を見知っていて、どころか、その学生時代、ボートの試合後泣いている彼女を見かけて、胸ズキュンで忘れられないでいた。
その後、エリート商社マンコースをばく進して、母親からしつこく見合い話を持ち掛けられていたらしい。最後に持ち込まれた見合い写真は、見合い写真とさえ言えない、まるで隠し撮りのようにとられたスナップ、それを一目見て、彼はあの時の彼女だと、もう、キャーッと思っちゃうのだ。

すんごくすんごく、この二人が成就してほしいと、願った。でも彼はいかにもエリート、恋愛にはウブいからそのぎこちなさは可愛くって、優子とのフィーリングは合うんだけれど、でも、たっかそうなレストランでのデートとか、やっぱオシャレしないといけない感じとかさ、隔たりを観客側にもしっかりと感じさせた訳さ。
それでもプロポーズされて、転勤先のアブダビについていく決心もした、その矢先の父親の死。そして早希の妊娠発覚。どうするんだろうと思った。彼についていくにしても、それを遅らせてもいいと彼は言ってくれた。一方で、早希は、私は大丈夫だから行けという。

そんな中、ベテラン社員が怪我をするアクシデント、それでなくても下がり気味の経営状態は、早希が見習い的に現場に入り、帳面をチェックしだしてから判ったことだった。優子は、工場と家を売り、早希の子育てとその後の生活に当てるよう提案するんだけれど……。

そんな中、台風が直撃する。そもそもこのタイトル、あまろっくは、尼崎にある、水門を開け閉めするゲートで、それが出来たことで、繰り返し起こっていた水害から市民を守ってきたんだという。
タイトルまんまだし、いわゆるPR映画と言えなくもない。若き日の父親は繰り返し、俺はわが家の尼ロックだと言い募っていたし、家族の危機をせき止めるイコール、市民生活のそれを、ということなのだろうと思う。
劇中、挿入される記録写真的なものは、そのまま、そうなのだろう。あまろっく、つまり、このゲートのおかげで、海抜が低い尼崎地方は、水害から守られてきた。その一点をアピールするためのスタートなのだとしたら、見事、観客の心を打ちぬいたよ。あやみ氏が鶴瓶師匠を押し倒すだけでサイコーだもの!!

優子の出した結論は、彼にはついていかないことだった。えーっ、じゃぁ、この結婚もナシなの??切なすぎる!と思ったら……思ったら!
売ると言っていた工場を継続、数年後の様子は、早希の赤ちゃんを抱っこしながらの優子が社長で、作業服姿でバリバリ職人さんたちに指示を出す。そこへ、営業に回ってきた、パリッとしたスーツ姿の副社長が早希、いい契約をとったのだろう、満面の笑み。
そしてそして……新人!とげきを飛ばされているのが、なんとなんと、アブダビには、行かなかった、エリート商社マンコースを降りて、嬉しそうに叱られてる優子の旦那さん!最高すぎる着地点、やっば!

冒頭で既に示されているんだけれど、二人のウエディングドレス、教会にしずしずと歩みゆく。何の情報も仕入れてなかったから、同性婚のお話なのかなとか思っていたらラストにこの場面が帰ってきて、「優子ちゃんきれい」「お母ちゃんもな」これはヤラれたぜよ。★★★★★


雨降って、ジ・エンド。
2020年 84分 日本 カラー
監督:高橋泉 脚本:高橋泉
撮影:彦坂みさき 音楽:平本正宏
出演:古川琴音 廣末哲万 大下美歩 新恵みどり 若林拓也

2024/2/18/日 劇場(ポレポレ東中野)
うわー、めちゃめちゃ好き!これ!と思ったけれど、上映後のトークで、そうか、そんな単純に言っちゃいけないのかなぁ、とも思い、でもたまらなく好きだと思った。
確かに確かに、これは映画にするテーマとしてはリスキーすぎるのかもしれない。どんな映画祭にもとりあげてもらえなかったというエピソードはショックで、こんなにも愛すべき、チャーミングな作品なのに!!と悔しくなる。真の意味でも多様性など、結局は存在しないのか!と絶望する。

でもそれでも、だからこそ、そんなのおかしいと、こうして映画作品にして、公開にこぎつけた監督さん、タッグを組む主演の廣末哲万氏に心から感謝したい。
しかし、このチーム、群青いろというユニットが作り出す作品が、公開作品になるのは17年ぶりというのにはアゼンとしてしまうが……作ったところで満足してしまうだなんて(映画祭などには出ているらしいのだけれど)そんなバカな。
でもこの作品は、世に出さなければと語っていた監督さんの言葉に、出たがっている、という言い方をしていただろうか、それは相当のリスクを覚悟の上だろうに、本当に尊敬してしまう。

後半に、その驚きのカミングアウトがあるのだ。中盤までは、どこかのんきな、平和な、不思議な物語だった。フォトグラファーを夢見る派遣社員の日和、雨宿りで入り込んだ閉店した喫茶店の中で、出くわしたのは、「IT それが見えたら終わり」だと思ったという、そのままの、シャッターを思わず切ったところにうつりこんだのは、不気味なピエロ男。
キャーッ!とばかりに飛び出した……なんて展開は、すわホラーかと思いきや、その写真がSNSでバズり、その男の正体を、と再会してみると、ぽっちゃり中年の、ほんわかピエロさんなのであった。

雨森さんというこのピエロおじさんを発信し続けると、どんどんいいね!がつき、これが夢への第一歩につながるかも、と日和は胸を膨らませる一方、勝手に雨森さんのプライベートを切り売りしていることにだんだんと罪悪感が募ってくる。
同僚の栗井さんは、それは恋ね、なんてはやしたてる。そう、そんな、とてもとてものどかで幸福な物語に見えたのだが。

後半の爆弾投下までの間にも、そんな風に幸福に、チャーミングに見えていても、ところどころ軋みは見えている。日和は先輩カメラマンに作品を持っていくのだけれど、再三鼻であしらわれてしまう。雨森さんの写真の中で褒められた一枚は、通りがかった元カレがたわむれにシャッターを切ったものだったんだから、サイアクである。
いや……でもこれは、思えば日和の雨森さんへの想いというか、一緒にいて楽しい、栗井さんに言わせれば恋だという、その関係性が思いがけず切り取られたものだったのだ。そうか、そうだったんだ!

……ついついコーフンしてしまう……。軌道修正。日和と栗井さんが勤めている会社は、ザ・パワハラ女性上司が、常にイライラして、彼女たちに理不尽に当たり散らしている。時にマンガチックに思えるぐらいのイラつきっぷりだから、二人が顔を見合わせて、ねー!みたいに共感しあうし、二人は姉妹みたいに仲が良くて、日和の家や、時に職場でもこっそりお酒を飲んだりして、うっぷんは晴らせているように見えていたのだ。

でも……日和ももちろんこの上司には悩まされていたけれど、栗井さんはもっと……日和は写真という夢、雨森さんという最高の被写体に出会って、どこかそこから逃れられていたかもしれない。
その間に、栗井さんは思いつめていった。一見して、そんな風には見えなかった。さっぱりしたショートカットのカッコイイ女子に見えた。苛立ちを、女上司の歯ブラシでトイレ掃除しちゃうなんていうことで晴らして、それで解決していたように見えていたんだけれど……。

雨森さんは、後から思えばさ、彼は自身が抱えるどうしようもないアイデンティティが故に、苦しんできたがゆえに、いろんなシグナルを敏感に受け取ってきたんだと思う。小学校教師だった彼は、その意味では天職だった訳なんだけれど……。
雨森さんとすっかり仲良くなって、家に入り浸り状態の日和が、酒も入ってちょっとした口論になる場面がある。誰かが間違いを犯す、それを周囲が気づけないのが悪いのか、きっとシグナルは発している筈だと、雨森さんは言った。
雨森さんは……そのシグナルを、誰にも、受信してもらえなかったということだったのだろうかと、改めて思う。でも、こうして、日和と激論を交わして、彼女の中にその言葉が残っていて、栗井さんの上司への凶行を、ふせぐことができた。

という、流れを思い起こしてみると、確かに確かに、チャーミングでのんきで平和に見えた前半戦も、決して決して、そうではないのだった。雨森さんが、自分は爆弾を抱えている、と言うように、どこかしこに爆弾は潜んでいる。ただ、違うのは、雨森さんは、最初から自覚していたということだった。
でもそれは、世間的価値観と外れているからというだけ、でもその、外れているからというだけで、犯罪者予備軍になってしまうというあまりといえばあまりの理不尽さなんだけれど、それを彼は悲しく受け入れて、自分は爆弾なんだと、ピエロの泣き顔の下にその想いを封じ込めている。

冒頭で、日和に対して、報酬を払えばいいんでしょう、というシーンが提示されていた。心ざわめく曇り空、訳も判らずそんな会話が切り込まれ、それはさておいて、といった感じで物語が始まる。
そして、充分に雨森さんと日和の関係性を深めてから、この場面に戻ってくる。退職金を、ピエロとしての活動、風船に結び付けた50円玉で使い切ろうとしている彼、そのバッグから1万円札を、抜き取ってしまった日和。冗談交じりに栗井さんからそそのかされたからだけれど、雨森さんへの想いを恋だと断定されて、そうかもしれないと思って、無断でSNSに載せているのも気になって、懺悔の覚悟で日和は雨森さんに謝罪したのだった。

雨森さんは、その1万円を、依頼の報酬として受け取ってくれという。ある女子中学生を、撮影してきてほしいと。
それまでに、雨森さんのフラッシュバックのように示される回想で、かつて妻子がいたこと、その妻子に対して隠し事があったこと、彼女たちが出て行った時の修羅場な状況が示されるんである。

もうそろそろ、雨森さんのカミングアウトを明かさなければ、話が進まない。彼ははっきりと、性嗜好障害、だと言った。セイシコウショウガイ、音だけでは、なんのことやら判らなかった。
写真を撮ってほしいと依頼したのは、妻と共に出て行った娘ちゃんではなく、その娘ちゃんと同じ年ごろの教え子。ケンカばかりしている両親のもとで苦しんでいた彼女の相談に乗っていた、教師としての彼は、「初めて心から愛した相手」だと、日和に告げたんである。

性嗜好障害だということを、言わなくったって、良かったんじゃないかと思う。「初めて心から愛した相手」というだけで充分じゃないかと。でも、その相手が小学生女子だということを、対外的に説明するには、自らを、障害者だと認めなければならないとは、あんまりだ。
障害、なのか、これは。確かに、ほぼ100%に近く、彼が愛する人と添い遂げる人生は得られないだろう。だとしても、これを障害だというのは、彼が犯罪者となる可能性の方を重視して、“治療すべき”という観点から断じるなんて、なんだか、あんまりすぎる。

めっちゃくちゃ、タイムリーに、ジャニーズの問題があったから、余計に言いづらい部分はあるし、だからこそ、このタイミングで本作を劇場公開した作り手さん側が凄いと思うし、そして……オーディションで、脚本から飛び出してきたとまで監督さんたちに思わしめた、日和役の古川琴音氏が、もう本当に、素敵で。

彼女のような年頃の女の子だったら余計に、このセンシティブな問題に、過剰に反応してもおかしくないのに、もちろん動揺はめっちゃするけれど、雨森さんという一人の人と相対して、なんかめっちゃ気が合って、なんだか恋までしちゃって、その上で、つまり、雨森さんが、彼女を信頼する、というか、未来ある彼女がこんな自分のために悩んでいることに逆に勇気をもらう形というか、カミングアウトしてさ。

そりゃもうショックで日和は、気持ち悪い!と飛び出してしまうのは当然で……。でも、帰ってくるのだ、日和は。警察に通報しました、なんて、洒落にならない嘘をついて、うっそーん、なんて言って。
確かに雨森さんは通報してもいいと言ったけど、罪になる何かをしたと言っていなかったし、してないよね!と観客であるこちとらも願っていたし、実際、この女の子に相対して話を聞けば、大好きな先生、相談に乗ってくれて、今でも大事な友達って感じ、という笑顔での告白を聞けば、それを確信出来て、本当に安心した訳で。

ここが、大事な境界線だと思う。あのジャニーズの問題があって、これは小児性愛の欲望を実行に移しちゃった、更に狭い断定だったけれど、性嗜好が、愛する対象なのか、性の欲望が抑えられないそれなのか、全然違う筈なのに、一緒くたにされてる。
雨森さんが、自分は性嗜好障害だと日和に告白したけれど、実際は彼は、ただ愛する女の子が一人、いただけであって、彼女にイタズラしたとか、そんなことはなかったのだ。

それは……かなりハラハラした。自分は障害があると、愛する人がこの子だったと告白したから、そういうことなのかと思ったから。そして、そういう偏見がはびこっていることも、容易に想像されたから。
それこそジャニーさんが、性嗜好が少年であるのならば、誰か一人愛する少年がいて、その想いが遂げられないことは判ってて、少年たちの夢をかなえるためにそのエネルギーを傾けている、ということだったなら、良かったのだ。
でもそう思うのも傲慢なのだろう。だってそれじゃぁ、ジャニーさんのアイデンティティは満たされない。愛は永遠に得られない。こんな苦しいことって、あるだろうか。

雨森さんがあまりにもチャーミングで、その雨森さんと意気投合する日和もまたあまりにもチャーミングで、二人のシーンはニコニコが止まらないのだ。メイクしてないところを突撃しようと突然訪問しても、しっかりメイクしている雨森さんにガッカリしたり、二人でチッ、と舌打ちを延々しあって、しまいには笑っちゃったり、箸遣いがヘタでスプーンで刺身とか食べちゃうのを共感しあったり、しまいには酔いつぶれて朝を迎えたり。
写真への夢をあきらめかけた日和を、カメラをトンカチで打ち壊せ!と煽って、実はじゃーん、タオルの下を入れ替えてます!とか言って、実際はその手品が失敗してるとか、もういちいち可愛らしくって、胸がキューンとなってしまう。
雨森さんと日和は、結局はお互いの片思いがそのまま実らなかったけれど、こんなにぐっとくる仲間同士って、ない。

日和は、雨森さんのために、彼が愛した少女へ告白する段取りをつけたのだった。想いを伝えることがいけないなんてことはある訳がないと。
激しく抵抗する雨森さんに、日和もまた激しくぶつかる。判んないよ、判んないけどさ!なんで、想いを伝えることが悪いのか、そうだそうだ、基本的人権だよ、そうだそうだ!……でも、これが、今の世では、日本だけじゃなく、世界規模でも、認められないのかもしれないと思うと……。

かつての担任教師として会いに行くのに、やっぱりピエロメイクをしていく雨森さんの胸中にキュンキュンするし、決死の覚悟で、ひざまづいて好きですと告白するも、あっけらかんとした笑顔で、私も先生好きです!大事なお友達として!と返され、見守っていた日和がガッツポーズするのがサイコーである。

呆然とした雨森さんを引きずるように、日和は駆けてゆく。トンネルの中。象徴的だ。この中で雨森さんは、子供たちに水風船をぶっつけられていた。水風船だった。色も何もない。
この時も、子供たちは行き合っていた。雨森さんと日和、相対して、日和は雨森さんに、だって好きだから!と言ったのだった。なぜガッツポーズをしたのかという答えとして。

決して決して、交わらない。性嗜好が違うから、二人が恋人同士になることはない、ないんだけれど、なぜか、なぜだか、こんなにも幸福な結末を迎える映画はないと思った。
雨森さんに日和が、愛する人に想いを伝えるべきだと言ったあの時、雨森さんの、演じる廣末氏のぐりぐりとしたおっきな目玉にみるみる涙がたまって、こらえきれない口元が震えたあの場面。
愛する誰かの存在もそうだけれど、それを認識し、理解し、後押しする存在の尊さを、芯から感じた。もう、ヤバかった。この場面で、もう、今年ベストワン!と確信したぐらい。

ヤバい轍を踏み込んだテーマがあるとは思うけれど、そこに執着してほしくない。本当に、涙が出るほどチャーミングで、応援したくなる。
深刻なテーマは、それぞれに考え方の方向は違うと思うけれど、今起こっていない事象を差別に加えないでほしい、いや、加えてはいけないということを、本作で気づかされた。
そしてとにかく、みんなみんな、チャーミング極まりなかったんだよなぁ!★★★★★


あんのこと
2024年 113分 日本 カラー
監督:入江悠 脚本:入江悠
撮影:浦田秀穂 音楽:安川午朗
出演:河合優実 佐藤二朗 稲垣吾郎 河井青葉 広岡由里子 早見あかり

2024/6/16/日 劇場(丸の内TOEIA)
まずオープニングクレジットで、本作が実際の事件を基にしている、としっかりと提示していて、それこそがまず、大前提、いや大事なこと、なのだと、監督さんは思っているのだと思った。
実際の事件を基にしている映画作品は多いけれど、言い方アレだけどいわゆるオリジナリティのある事件というか、記憶に残っているというタイプの事件を扱うのが普通だ。でも本作はそうじゃない。鑑賞後についつい調べてみたくなるほどに、どこかで耳にしたことがあるかもしれないというような“事件”。

本作に使われているのはそうした、いわば小さな二つの事件なのだということをそうして調べてみて、知ることになる。更生に尽力していた刑事が他の相談者に性加害を加えていたということと、更生に向けて少しずつ歩み出していた女性がコロナ禍もあって居場所を失い、自殺してしまったということ。
そしてそこに加えられたもう一つの事件がフィクションである、ということも興味深く、久しぶりに良質なネット記事に出会ったなぁと思って(All Aboutのヒナタカ氏、良い記事ありがとう!)。

入江監督だから、警戒しながら見ていたのは事実なのだ。母親にひどい暴力を受け、小学校も途中で行けなくなり、母親の紹介で12歳で売春、稼いだ金はすべて母親に巻き上げられる。客のヤクザに覚せい剤を教えられ、シャブ中になってしまう。……ホントにあるんだ、こんな、まさに映画みたいなことが……。

12歳で売春て、想像したくもない。しかもそれをやらせたのが同じ同性である母親だなんて。母親が娘にやらせたのがヒドいというのは勿論あるけれど、それ以上に、同じ同性だったらその残酷さが判る筈なのに、娘は自分の所有物だと思っているからなのか。
いや、この母親は娘のことをママと呼び、ママだから自分を養うのが当然とばかりに、すがるような態度を見せ、しかしその直後には殴り、足蹴にし、……なにこれ、共依存ですらない、一方的な依存。どうやって、ここから抜け出したらいいの。

こんな地獄の中にいた杏が、売春中に相手の男がシャブで昏倒したことから、彼女自身が覚せい剤使用容疑でとらえられたのだった。だけど、逮捕じゃなかった。ふてくされたように杏が令状持って来いといくら言っても、担当した多々羅刑事はシャブを抜くには身体を動かすことだとか言って、取調室で突然本気でヨガとか始めて、杏を戸惑わせた。
この多々羅という男が……ものすっごく、人というものは人間を、一面で判断しがちだということを思い知らされる人物で。いやそれは、彼がしでかしている罪があるんだからそれは仕方ないというか当然なんだけれど、そんなことをめちゃくちゃ感じさせるヤツな訳で。

多々羅を演じる佐藤二朗氏の絶妙さが、私たち観客をいい意味で惑わしてくれる。少なくとも杏にとっては多々羅は間違いなく恩人だし、“普通”に生きていっていいんだと、当然の権利なんだと、あらゆる障壁をそれこそ刑事の圧力でぶち抜いて、杏のために奔走してくれた人だった。
彼がまず紹介した、薬物依存者の更生自助グループの活動が、あまりにも善良で、入江監督作品がこんな、いわばイイ話のまま終わる訳ない、という警戒心を起こさせたのだった。それが思いがけない形で裏切られたというか……。

ちょっとね、ホント私ヤな感じなんだけど、告白を強いて、互いに頑張ろうね、なんていうこの感じが、それで本当に更生できるのか、何もしゃべれずにいる杏は辛いんじゃないか、この活動にこそ押しつぶされるんじゃないかとちょっと思ってしまったから。トンでもなかった。ごめんなさい。恥ずかしい、本当に。
杏はろくに漢字も書けない状態から、ノートを買って、日々の出来ごとを書き留めて、漢字を教えてもらったりして、この自助グループにこそ救われていく。だから、この活動は間違ってない、どころか、少なくとも杏にとっては必要な場所だったのに。

どんどん、必要な場所が奪われていくのだ。働いていた介護施設が、コロナ禍のために、非正規職員は待機になった。杏は介護のスキルを磨きたいと言ってこの職場を紹介されたのだった。紹介したのは、皮肉にも、多々羅の情報を得ていて、知らぬ顔で取材に入り込んでいた週刊誌記者の桐野だった。
そういうことだったのか。彼は一体、何故ここにいるのかと思った。明らかに異質な感じがしたから。

多々羅ともそれなりに親交のある感じだけれど、親密ではない。杏に勉強を教えたり、知り合いの介護施設に仕事をあっせんしたりと好意的ではあるけれど、一定の距離を置いている感じがある、のは、演じる稲垣吾郎氏の、誤解を恐れずに言えば独特の冷たさ、決して距離をつめない感じが、非常にリアリティを醸し出す。
結果的に、彼がつかんだ情報を記事にすることで、自助グループは崩壊、杏の居場所の一つがなくなり、頼るべき人がいなくなり、彼女の自殺がおびき寄せられたのかもしれないとしたら……そんな、単純なことじゃないし、彼の罪により苦しんだ人たちがいるのだから許すべきじゃないし、でも、その罪だけで、彼のすべてを断罪するのかと、言ってしまうことが、怖い。許されない罪だからこそ、言えない。
でも、多々羅が、少なくとも杏にとっては、全身で彼女に立ち向かい、母親の元から引きはがし、生きる場所を与えた存在であることは間違いないのだ。一方で、他の相談者に、その感謝されるべき立場を利用して、性加害を行っていたとしても。

ああ、こう書いてしまって、としても、だなんて、サイアク!!と思っちゃうけれど、それこそが、今まさに世間で起こっていることで。
即座に頭に浮かんでしまう、某事務所の事件だ。どんなに一方で彼に感謝している一群がいたとしても、被害者サイドは当然、彼のことを許せない。そして当然、世間も被害者サイドにつくに決まってる。

でも、でも……杏は、杏にとっては多々羅は感謝の人でしかないのだ。どんなに、外の事実がそうであれ。必死に、彼に連絡をとろうとする。でもその時、もう彼はとらわれの身であり、それに応えることができない。
そしてコロナ禍となり、生きがいの場所すべてが、職場も、夜間中学も、そこで出会った世代を超えた友人、受け入れてくれた社長、別れるのを子供のように嫌がる施設利用者のおじいちゃん、すべてが、彼女の手から離れてしまう。

突然、同じDVシェルターマンションの女性から、まだ満足に言葉も発せられない幼い男の子をムリヤリ預けられる、というシークエンスが、本作の中のまったきフィクションである。
それは監督さんが、親が子にDVをする、それは連鎖していく傾向がデータとして存在していると。でもこの映画で生きている杏ならば、その連鎖を断ち切れるんじゃないかという思いで入れ込んだんだと知り、このフィクション部分こそが、杏の、この物語の中で凝縮した人生を歩んでいる彼女の、真実であると思うし、思いたい。

フツーに考えれば、こんな理不尽な押し付けをされたら、警察に通報しなくちゃ、なんでしないの、と思った。杏がそれをしなかった、というか、考えもしなかったのは……親から放棄された子供を、自分と重ね合わせた、だなんて、こう書いてみるとめっちゃヤボでベタだし、そんな明確に思った訳じゃないかもしれない。
でも、彼女の意識下にはきっと、絶対にあって、このもの言えぬ幼き子を、本能的に守ろうとする心が、監督さん、そして演じる河合優実氏が信じた、杏なのだと思う。

泣きじゃくる幼い子にあたふたし、ドラッグストアに駆け込んで、店先でオムツを替えるシーン、可愛いおちんちんさえあらわに描写され、ドキドキする。
離乳食という知識もなく、いきなりハンバーグを作ってもそりゃ食べてくれなくて、一つずつ、ノートに記しながら、試しながら、この幼き子をいつくしんでいく杏の、その記録が、最後の最後に、この子の若い母に届くことになる時には、杏は、その命を断ってしまっている……。

どうしてどうして、母親についていってしまったの。給与明細が実家に送られてしまって、毒母に職場を突き止められた修羅場に心が凍り付いたけれど、社長は杏を守ったし、出て行くことないと言ってくれた。
その後コロナ禍で自宅待機となり、思いがけず幼い男の子を庇護することになって、発熱しているこの子を病院に連れていく途中で母親に見つかってしまった。おばあちゃんがめっちゃ咳をしている、保険証もないしどうしたらいいか判らない、という、後から真っ赤なウソだと判る母親について行ってしまう。バカバカ!!

ああでも、杏にとって祖母は弱点なのだ。今はどこか、恍惚の人な雰囲気のある祖母。でも杏のことを、母親の暴力からかばってくれたのだという。それはいつの記憶なのか。だって今は、いくら母親からボッコボコにされたって、ぼんやり眺めているばかりじゃないか。
それでも杏が帰ってくれば、杏ちゃん、杏ちゃんと優しく呼びかけ、杏もおばあちゃんには、ケーキを買ってきたり、母親が男を連れ込んだのを見せないようにしたり、していたのだった。

苦しい、哀しい。このおばあちゃんに対する愛情の記憶が、杏を結果的に地獄に引きずり込んだのだとしたら、なんてやりきれないのだろう。
仕事をするなら介護の現場でと、無口で反抗的な態度をとりながらもそれだけは押し通したのは、愛する祖母を思ってのことだなんて、それゆえにその地獄に引き戻されたなんて、あんまりだ。

騙されたのに、ボッコボコに殴られ、売春で稼いでこいやだなんて理不尽極まりないのに、今はそれが理不尽だと理解できるだけの知識を持っている筈の杏なのに、見知らぬながらも庇護すべき幼い子供をその手にしていたものだから……。
なのに、万札を3枚ほど手にして帰ったら、その子がいない。母親に問いただすと、うるさいから役所に電話して、児相が連れて行ったという。観客としては最悪の事態も想像していたからちょっとホッとしたけれど、杏が本当?と母親に繰り返すその響きは、どちらとも言い難かった。
無事保護されたのなら何より、ホッとした気持ち。いやでも、この母親が本当のことを言っているのか、どこかに捨て去られたんじゃないかという不安。あるいは……自分が解放されてほっとしているんじゃないかという、恐怖同様の強烈な自己嫌悪。

この、ホントかどうかも判らない結果が示される前に、事情聴取される男の子の母親のシークエンスがあって、えっえっ、これどーゆーこと!事情を聞かれてるって、この男の子がどうにかなったのか、と心配になるけれど、ラストシークエンスで、母親は杏に感謝しているといい、男の子は元気に、母親に連れられていた。

だからその前に、杏は、死を選んでいる。シャブをまたやってしまった。多々羅が自助グループで語っていた、何年もシャブをやめられていても、たった一回、やってしまってあっさり戻ってしまうのだと、その怖さを熱弁していた。
でも、杏が死んでしまった事実を突きつけられた時、多々羅は言ったのだった。かつての常習者が戻ってしまっても、死を選ぶことはまずない。なぜなら、もう一度シャブをやりたいと思う気持ちの方が強いから。杏が死んでしまったのは、自責の念だと、多々羅は確信し、血を吐くかのように、辛く吐き出す。彼女はクスリをやめられたのだと。やめられたのだと!!

桐野が多々羅をあばいていなかったら、杏は死なずに済んだのか。桐野はそう自問し、多々羅にも問いかける。タラレバはいつだって不毛だ。そして、罪は暴かない訳にはいかない。その罪によって傷つけられた人がいるのだから。
でも……どうにかならないのか。罪によって一人の人間が一面的に断罪され、それ以外のすべてを抹殺されてしまうことで、聞いてないよ!という余剰事故に巻き込まれるのは、どうにかならないのか。

これだけ、多様性の価値観が叫ばれるようになったのに、こと犯罪者に関しては、決して、死ぬまで許さないスタンス。もちろん、許されないのはそうだ。それを崩してしまったらルールにのっとった社会は崩れてしまう。でも、一面的にしか見ず、更生の道を全く許さないのは……。
被害者となった経験がないから強く主張できない、でもそれも、それこそが、危険だと思う。ああでも、こんなことを言ってしまって、強く攻撃されたら、きっと私はあっさり引っ込んでしまう。どうしたらいいのだろう。

ただ、ただただ、杏には死んでほしくなかった、けれども、これこそが、最初に、実際に起きた“小さな事件”なのだ。コロナ禍ということもあるけれど、そうじゃなくても、こんな小さな事件はきっと、沢山起きていて、私たちはそれに気づかずにいる。
杏のような人がなんとか踏ん張って、生き続けていけたなら、彼女の関わった様々な人たち、母親や、多々羅や桐野、職場や学校で出会った人たちのことを社会に語り、彼女と似たような境遇の後進の人たちを救うことができただろう。
それがかなわないのが、そして……大概女性の方がキツい状況にさらされている割合が大きいのが、先進国の顔して女性の地位が低すぎるデータが世界にさらされている日本の現状なのだ。★★★★★


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