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怪獣ヤロウ!
2024年 80分 日本 カラー
監督:八木順一朗 脚本:八木順一朗
撮影:柴田晃宏 音楽:ゲイリー芦屋
出演:ぐんぴぃ 菅井友香 手塚とおる 三戸なつめ 平山浩行 田中要次 麿赤兒 清水ミチコ 武井壮
きっとこの主人公は、監督さんの分身なのであろう。監督さん自身は、お写真で見るとシュッとしていて、本作のぐんぴぃ氏のような豊満ボディではないのだけれど、でも怪獣映画を撮り続けていたという学生時代の監督さんの、その熱い思いを誰かに判ってもらいたいというもどかしさが、ぐんぴぃ氏の独特のフォルムとキャラクターに託されているのだろう。
冒頭の、中学時代の山田一郎、文化祭と思われる、自分としては一世一代の怪獣映画を上映したのに生徒たちに失笑され、深く傷ついたシークエンスは、多かれ少なかれ、監督さん自身の経験に基づいているのだろうと思ったりする。
だって、怪獣映画って、やっぱりすたれてしまっているもの。いや、ゴジラとかそーゆーことじゃなくて、いわゆる手作り感満載の、ミニチュア合成で撮る怪獣映画。このノスタルジックは昭和のものだと思っていたから、このお若い監督さんがそれにのめりこんでいたというのが、ある種多様化の時代ゆえかもとか思ったり。
そしてそこにご当地映画が絡む。ミチコさんが出演しているのは勿論、これが彼女の地元、岐阜の映画だから。
劇中、全国各地のご当地映画のチラシがぶちまけられる中に、函館雪物語とかいかにもなものがあって、あーありそうありそう、みたいな。でも、函館はそもそも商業映画の舞台として数多く登場するし、わざわざご当地映画として自治体が乗り出す必要すら、ないんだよな。そこらへんの皮肉もひょっとしたらあったのかもしれない。
北日本、いやもっとおおざっぱに東日本に住んでいると、それ以外の事情に途端に疎くなる。それは、南日本、西日本の方たちもきっとそうであろうから、責めないでほしいが(及び腰……)、岐阜県、は、多分47都道府県の中で一番最後に絞り出す気持ち確実である……ごめんなさい……。
でもそれが、ある意味武器になる。それこそ函館なんて散々映画の街として使い倒されているんだから。ご当地映画はちょいちょい見かけるが、まぁ大抵やっぱりこの町っていいよね!みたいなテーマであるように思う。
市長が書いた脚本がまさにそのとおり、いきなり主人公にその台詞を言わせるっていう、ベタ中のベタである。市長が言い出したご当地映画プロジェクトなのだが、ザ・ご当地映画ありがち盛りだくさんの脚本で、その時点で観光課のメンメンは意気消沈。いや、その前に、山田が提出した怪獣映画の企画があっさり却下されたというのはあるのだが……。
市長が、清水ミチコ氏、なんである。自治体のトップを演じるというともう即座に、都知事をモノマネする彼女を思い出しちゃうし、本作のキャラもかなりそんな感じで可笑しい。
代々市長の家系だという、その市長室には、もーこれは、真骨頂でしょ、ぜーんぶミチコさんの歴代の市長の肖像写真が飾られてて思わず噴き出す。正直言うと、ここが面白さのピークだったかしらんとも思うのだが(爆)。
山田が敬愛する、地元に住んでいるということは彼にとっての怪獣映画のスターであり、地元のスターでもあるということなんだろう。でもどうやら、地元民には伝わってない。
なんたって本多猪四郎と円谷英二を掛け合わせた役名というザ・オマージュ、今や自治体は地元出身の著名人を観光資源にすることはマストな訳だから、手落ちと言われても仕方ない状況。
それとも、山田は車で乗り付けたから、関市ではなくちょっと離れたところに住んでいるのだろうか。このあたりの設定の曖昧さは気になるところ。だって、ご当地、この地を宣伝する、というキモの部分だからさぁ。
市長が用意したぶ厚い脚本は、ベタベタな、やっぱりここがいいよね!という、タイトルもまんま、「ふるさと」。ご当地映画と言われて想像する、100%パッケージで山田をはじめ観光課のメンメンはうんざりするけれど、ワンマンの市長には逆らえない。
でも、地元の伝統をとにかく守ることしか頭にない市長が、なぜご当地映画などというものに手を出したのか、というのがキーワードとなっていて、もうオチバレで言っちゃうと、市長もまた、山田と同じだったのだと。映画少女で、学生時代映画サークルで撮っていたのだと。
その点で言えば、1人で映画を撮っていたとおぼしき山田とは、同じではないのかな。サークル仲間とザ・青春な写真が、モノクロで(涙)示されるのだから、市長には映画が黄金期として、観るにも作るにも華やかな青春時代があったということだろう。
でも今、市長はいわば孤独で、映画に青春を燃やしていた情熱を、誰かと共有することも出来てないってことなのかな。
そこまで推測するのは優しすぎるかしらん(爆)。市長はなんたってミチコさんが演じているんだからオーバーアクトな可笑しさに満ちているんで、そんなヒューマンドラマを感じさせるキャラではないし。
そもそも、山田の企画は却下されたのになぜ、怪獣映画を撮ることになったのか、という流れであり、それは正直、かなり強引というか、まぁそもそも、怪獣映画を撮らざるを得ない状況を作るための、作劇であるんだから仕方ないっちゃ、仕方ないんだけれど。
そもそも予算のない中作っていて、市長が街のVIPを引き連れて撮影現場を訪れたいと。その時までにこれまで撮影した素材でイイ感じの予告編作っといてねと。あー、もう、この流れでやばいやばい、判っちゃう。何が起こるか、判っちゃう!
素材を編集していたプロデューサー、まぁ最初こそは市長お抱えの秘書であり、そっち側の人物だった女子なんだけど、これまでの撮影素材を全部すっ飛ばしてしまったところから急展開する。
山田に、どうにかできませんか!とムチャぶりする彼女は、それまでは山田のことを、バカにしていたとまでは言わないけど、やっぱりこの時点までは市長側だったし、それは山田以外の観光課のメンメン、特に手塚とおる氏演じるベテラン職員は特にそうで、ここで公務員やっている限り、市長の言うことを聞くことが俺たちの仕事なのだと言ってはばからないぐらいだったから。でも……。
雷、なのよね。市役所に誘雷針があるということは、この土地は雷が多い土地、なのかもしれない。それが、この作劇に生かされているのかもしれない。それによって、怪獣映画そのものを強行突破しようとしていたその撮影現場が、爆発、ボロボロ。まるで原爆のきのこ雲みたいに、爆発している様子が遠くから見ている市民を驚かせるのは若干シャレにならんが(爆)。
この事件が市民を怒らせたと市長は大激怒で、職員は懺悔行脚。でも市長は隠していたのだ。実は、賛同、激励の言葉も同じぐらいあったことを。
ただでさえ予算がないから諦めかけていたメンメンが、この市民たちの言葉に一念発起。なんたって、怪獣映画、いいじゃない!と思っている市民がそんなにもいることに、山田自身が奮起する。
前半のくだりで、山田が自転車をこいでいる、それがもう、哀しいぐらいのシャッター商店街でさ、もうこれは、全国各地の問題で、そしてそこから離れた、車でしか行けない郊外にショッピングモールが立ち並ぶ、まさに地方都市の図式、なんだよね。足がない市民、お年寄りとかハンディキャッパーの人たちとかが、取り残されてしまう。
本作は、怪獣映画で市民たちの心を一つにする、というところまでで、こうした根本的な問題にはアクセスさえできてないし、そういう部分は甘いかな、と思う。だってこうして、問題提起としての映像を示しちゃっている訳だから。
そのシークエンスで、山田は中学時代の恩師に声をかけられる。あの中学生の時、文化祭のあの忌まわしき記憶の時、自暴自棄になりかかった彼に、人と違うことをやったら、叩かれるものなんだと、このまま突き進めと、背中を押してくれた先生。
ラストシークエンスで、この先生が完成した映画を見てくれて、拍手喝さいしてくれるのは、泣ける。だけど、そもそもこの場面は市政説明会的な場所で、山田たちがゲリラ的に乗り込むことを先生が知っている訳がないので、これはちょい甘いかなぁと思っちゃうけれど。
で、結局は怪獣映画にはなってないというか、いや、どうなんだろう……難しいな。その前段階は凄くいいのよ。特撮するだけのお金がない、でもこの土地には、まさに伝統があるこの土地には、特撮でなくても撮れる素材があると、レジェンド本多英二監督が言い、火花散る鉄鋼加工、鵜飼いの鵜の鳴き声、花火師のおっちゃんたちにバーン!あげてもらって、それらを合成する。
でも、合成……怪獣が、着ぐるみが、あの落雷爆発でボロボロ!どうするどうするとなり、山田が編み出したのは、彼がブリーフいっちょで(ふくよかだから、巨大なブリーフ!)関の街を、口から火を吐きながら、ぶっ潰し歩く!
でもそうよね、考えてみれば、第一作のゴジラはまさに、そうだったんだよね。いや、ぱんついっちょの男子怪獣ではなかったけど(爆)、ミニチュアをゴジラが踏みつぶし、カットが変わって逃げ惑う人々が映し出される。その基本でありシンプルなカットのつなぎこそが、臨場感を感じさせたのだ。
この日居合わせた観客たちは、どっちかっつーと爆笑モードだったけど、そういう、プリミティブは感じたかなぁ。
大抵の映画が、こうした非モテ男子を主人公に出してくると、恋愛サクセスを持ってくるもんだけど、なかったね(爆)。いやいやそれこそが、リアリティ。でもいろんな意味で幸せになってほしいけど!★★☆☆☆
まるでジェットコースターだ……カットが異様に早く、人物へのカメラの距離感がぐわんぐわんと変わっていく。息もつかせぬ、という言葉を久々に思い出した。
事実、こういうことはあるだろうというアイディアの元に練り上げられた物語は、なにもこんな短尺にしなくてもというほどのドラマティックなのだが、この尺とこのスピード感と、グラグラ揺れるようなカメラでなくては得られないナイトメア感に、恐れ入ってしまう。
とても面白い導入、アイディア。夫が失踪し6年半、7年が経過すれば死亡扱いになり保険金が下りる、という状況。佳奈は今、孝明と夫婦になっている。死亡扱いになるのは7年かかっても、離婚するのは3年でOKなんである。
失踪して死亡扱いになる年数についてはなんとなく聞いたことがあるような気がしていたが、3年で離婚が成立する、というのは知らなくて、このそれぞれの時間経過の違いが見事にこのスリリングな物語を作り上げてて、ここに気がついちゃったことでほぼほぼ勝ち決定!なのだ。
いや、その上で、いわばほとんど死んでしまっている男、見えない影におびえる物語のなんという面白さ。あと半年、もう少し。しかもその保険金は、今の夫が友人たちと共に立ち上げる映画館設立の事業に投資される約束であった。その事業の準備のために孝明は会社も辞めてしまっていた。
でも、なんということか。6年半も行方不明だった元夫の由紀夫が、佳奈が友人と訪れた近所の居酒屋で働いていたのだ。いや、正確に言うと、瓜二つ、ソックリの男だが、この倉田という男が記憶を失っていることが店長によって明かされ、そら由紀夫だろ!と佳奈も孝明も、そして見ている観客も思うのだけれど……。
果たして、そうだったのか、などと揺れ動くことになるとは思わなかった。当然、由紀夫だと思った。佳奈はそう確信したからこそ動揺し、孝明を引き連れて、リスクを負ってまでわざわざ確かめに行ったのだけれど。
もうね、展開していくうちに、何が本当か判らなくなる。いや、最初から何一つ本当じゃなかったんじゃないかとさえ。
てゆーか、そもそも、孝明は、もう見るからに油断していたのだ。見るからに、そのお顔から、油断しまくりのダメ男なのだ。佳奈と由紀夫の離婚が成立してからの結婚なのだから、由紀夫が失踪してから3年は経っているけれど、でも言ってしまえばたった3年。
いつから二人は付き合っていたのか。佳奈は一度、試すように言った。子供でも作ってみる?と。それに対して孝明の反応が一瞬、遅れたのは、観客にはもう既に提示されている、彼は他に女を作っているからさ。
そして本気かどうかは判らないけど、まぁ不倫する男のすべてがそうであるように、いずれ妻と別れてキミと一緒になるから、ということを言っている訳。
すべてが、後から思えばうわうわうわ、っていうことばかりなんだけれど、佳奈は孝明が女を作っていること、それどころか、夫の死亡保険金を事業の出資金に当てることは了解しているものの、この女の出資金分も含まれていることも、知ってたんじゃないの。それどころか、それどころか!!
……という、加速する解釈のしようが怒涛のように押し寄せるのだが、ちょっと落ち着こう、軌道修正。
そう。もうね、この孝明が、見るからに、ダメ男なの。素晴らしいキャスティングだという。ダメ男フェイス(失礼!)。一見とても優しそう。昔風に言えば草食系。困ったような笑顔、眼鏡が似合っていて、イケメンというんじゃないけど、こういう男子が一番モテると思う。
真面目そう、優しそう。それは間違いじゃないけれど、ワキが甘いというか、つまりね、あんたみたいな男が外に女を作って上手くいくと思っている時点でアウトなのだ。
佳奈の父親の具合が悪くなって、急遽実家に帰ることになると知ると、不倫相手のあゆみを家に呼んじゃう。し、信じらんない。せめてホテルでの逢瀬だろ。証拠が残るとか、急遽予定が変わって帰ってきちゃうとか、考えないのか。
自分のテリトリーに女を呼び寄せることでステイタスを感じる、男子のマーキング的本能なのかなぁ。それにしてもこれは!不倫がそもそもアウトにしても、まぁ不倫は文化と言っていた人もいたし(爆)、それをやるんだったら、守るべき一線はあるでしょ。絶対にダメなことやってる!
後から思うと、こういうシチュエイションにこの男はどういう行動を選択するのか、と、女たちが見定めていたように思えてくるのが本当に怖いのだ。
佳奈に関しては孝明側の被害妄想的な感覚の方が強く感じられるけれど、不倫相手のあゆみは、ベタアマ女子だったのが豹変し、孝明を戦慄させるという図式で、結構判りやすい。いやでもそれも、イチャイチャ場面と、素の場面での女の違いに、騙されたとでもいうように夢から覚めたみたいな顔をする孝明の幼さこそに、あーあ、と思わされる。
あゆみはいかにも、いかにもなしたたか愛人キャラなので、イラっとさせられそうなのに、不思議とそうならない。そうならないうちに、孝明を戦慄させる脅迫キャラに移行していくからなんである。
そして、妻のいぬ間の宅飲みのシークエンスで、あゆみがテイクアウトした総菜が元夫、由紀夫の働いている居酒屋のものであり、頼んだものが入っていないとあゆみが激高して、キッツイクレームを入れ、家に届けられる手はずになって、孝明は狼狽する。元夫の由紀夫かもしれないあの男が、配達するかもしれない。自分がかつて住んでいた住所に記憶が呼び覚まされるかもしれないと。
このあたりになってくると、もうなんつーか、孝明の精神状態は普通じゃないんだよね。そもそもキミは、外に女を作るとか、奥さんの元夫の保険金を当てにするとかゆー器じゃないんだよ。
その感じが、困ったようなヤサ男笑顔に現れてて、身の程知らずを追い詰める様に、彼は、いわば勝手に、恐怖の妄想の渦に巻き込まれていく。
そう……私は、妄想だったんじゃないのかなぁ、と思った。解釈は、めちゃくちゃそれぞれにあるように思う。孝明が友人たちと共にたちあげようとしている、映画館プロジェクトだって、まるで学生サークルの延長線上のように楽し気に喫茶店で打ち合わせしている様子が、深刻さを感じられなかったし、それぞれの出資金のめどが、打ち合わせのたびに段々と崩れていくさまが、いかにも理想だけの机上の空論のように見えた。
こうなると、このプロジェクトさえも、孝明を陥れるワナに見えてくる。すべてがそう、見えてきちゃう。それが、怖い!!
居酒屋で働いている、元夫の由紀夫に瓜二つだという男、そもそも孝明はその元夫のお顔を知らなかったんだよね??写真を見せられるでもなかった。ただただ、佳奈の動揺にどこか面白げに付き合っている感じだった。
そして佳奈の父親の具合が悪いという展開になり、手術費用に保険金を半分使わせてもらいたい、と言い出した。そもそも愛人分の半金なのだから、孝明が否と言える筈もない。
でも確かに、このあたりから……佳奈の言うことって、何一つ事実として見えてこないことに気付いてくる。失踪した夫、瓜二つの男、それらはすべて、佳奈が言い募っているだけなのだ。それを補完するような店長だって、佳奈に言いくるめられていたなら。
そして愛人のあゆみだって。そもそもあまりにも自信満々だった。自信満々に過ぎる様に見えた……と思うのは、後からの感覚だけれど。
意味ありげに示される、佳奈の泥だらけのパンプス、行方をくらました由紀夫に瓜二つの居酒屋店員、あゆみが孝明にあおったことで明らかになる、元夫だけでなく今夫の孝明にも生命保険がかけられていたこと、そして、元夫の由紀夫かもしれない男の死。
孝明が悪夢に見た、まるで二時間サスペンスドラマのような崖上でのシーン、妻と愛人ががさがさと揺れるカメラで彼に迫る。あれは、現実ではないと思ったけれど、どうだったんだろう……。
解釈のしようだよね!と冒頭で勢い込んで言ったのは、泥にまみれた佳奈のパンプスを映し出された時、マジでゾッとしたから。そこにしれっと愛人のあゆみが一緒しているラストに、さらに戦慄し、いやいやいや、これは夢であってほしい、あるいは、女子が男子をからかっている茶番だと思いたい、と思ったが……。
そう、見えなくもない。自身の裁量を過信していたダメダメ男の孝明が、女たちの恐ろしさ……ひょっとしたら自分に生命保険をかけて亡き者にしようとしているんじゃないかと思い込んで必死に逃げ去るラストシーンは、いかようにも受け取れて、いかようにも受け取れることこそが、めちゃくちゃ怖いと思った。
孝明、あるいはかつての元夫もそうだけれど、勝手に女たちに陥れられることに恐怖して失踪し、女たちはじっくり時を待って保険金を手に入れる。決して自ら手を下したりせず、でもそうしたんじゃないかと男に思わせて追い詰める。
……ありそうな気がする。一度手に入れた女、妻や不倫相手に安住した男に対する復讐、思いがけず、妻と不倫相手が結託する、そんなことを男は考えもしないという恐ろしさ。
でも結局、本当のところは判らないのだ。これが一番不安。こういう映画は不安!!そうじゃないと言われたら終わりなんだもの。
でも、観客にゆだねてくれるのは、嬉しいし、何より、あぁ、正解が知りたい!監督さんにはあるんだろうから、知りたい!!★★★★★
確かに、しっかり原作を踏襲している。そりゃそうだ、なんたって脚本に原作者の先生自身のお名前ががっつりクレジットされているのだから。原作の尺を映画にそのまま写し取ることが出来ないのは当然で、原作者自身が脚本を担当しているということは、どこをバッサリ行くかという決断をしているということだ。
それによって、原作、この場合は自伝的物語だから、先生自身の記憶、思い出、アイデンティティといったものを損なわずに、むしろ映画の尺によって際立たせるための選択をしているということ。
物足りない、などと感じたのは恐らく、このスパルタ絵画教師に大泉先生を持ってきたことによって、デフォルメ、コミカル、柔らかさは当然加わってしまうことを、どう感じ取るか否か、という部分のように思う。
大泉氏は別にコミカルに演じている訳でもなく、厳しいスパルタ教師をしっかり演じているのだけれど、やっぱり彼ならではのキャラクターはにじみ出る。てゆーか、それがなければ彼が演じる意味はないだろうと思う。
このキャスティングは原作者である東村アキコ先生の肝いりなのだというし、試し読みをした感じでは大泉氏とこの日高先生は、結構違うような気がしたけれど、ここが難しいところで。
原作者自身が描いたもの、それを受け取る読者、原作者自身が実際に抱いている印象、映像で再現する時、あれこれが、これほど気になっちゃうのは初めての経験だったから。
それは、もう事前にいろいろ情報が入ってしまっていたからかもしれない。美大受験のための絵画教室、教えるスパルタ教師。今まで見たことない、想像も出来ない世界。
体育会系でなくても、文化系の部活でも、これまで演劇部とか合唱部とか吹奏楽部とか、スパルタ青春ストーリーはそれなりにあった。でも、美術部は、なかったんだよなぁ。考えてみれば、美大、芸大という狭き門に挑む高校生たちなのだから、今までそれがなかったことが逆に不思議だったのかもしれない。
でも、いわゆる動きがないというか、演劇も合唱も吹奏楽も、外に発するパフォーマンスだけれど、美術は、内に表現する(基本的には。劇中、ライブペインティングのことも触れられるから、その限りではないけれど)というのが基本的概念であったから、スパルタ教師、というのがそれだけ新鮮なアイディアで(いや、事実だから、アイディアではないんだけれど)、とても面白いのだ。
でも、難しいと思った。それを、実際に印象付けるのは。ズルして試し読みした原作漫画では、そのヒリヒリした感じは当然、さすがという筆致で迫ってきたけれど、それを映画で再現するのは、想像以上に難しいように感じた。
宮崎ののんびりとした気候風土で育った、原作者の東村アキコ先生を演じる永野芽郁氏がピッタリに感じた。映画を見る前にあさイチで東村先生を拝見したのだけれど、やわらかいマシンガントーク、可愛らしくふわっとしている見た目に比して、いろいろとんがってる、とにかく面白くて。
それが、永野芽郁氏の、そもそも持っている天真爛漫だけど基本的な地の強さと、ビジュアルも近似に感じた。
でも、なんだろうなぁ……。恩師もの、というジャンルがあるのかどうかは判らないけど、その意味を、本作に接して考えさせられるところは、あった。今まではすんなり、恩師への感謝、今の自分があるのはあの先生のおかげ、という道筋を受け入れることが出来ていたのだけれど、そもそも、その今までだって、間違っていたんじゃないか、って。
人間誰もが、自分自身だけが可愛くて、自分を肯定するためだけに他人をジャッジしている。その最たる存在が、こうした恩師ものの先生に対するそれなんじゃないかって、思ってしまったのだった。
本作におけるスパルタ絵画教師、日高先生は、客観的に見て教え子の明子のことを、本当の意味で理解してはいないし、むしろかなり自分勝手にカテゴライズして、言ってしまえば自分の庇護下に囲い込もうとしているように見える。
それは、明子自身も感じているからこそ反発するんだけれど、なぜこれが恩師ものとして成立しているかと言えば、明子がまだ子供で、根拠のない自信があって、それを打ち砕かれた時に、先生の言葉のあれこれが思い出されるから、なのだと思う。少なくとも、そう見える。
これが難しいところで、すっかり大人になって、自分で食い扶持稼げるようになって、そこから過去を顧みると、いわゆる成功した大人の余裕で、恩師だった、と位置付けられるように思うのだ……。
つまり、あぁ、イヤだな、気にかけられるようなものを持っていない凡百の子供たちは、こういう経験を持つことがないのだ、私のようにね。だから、見えてくるものが違う、悔しいけれど。
先生の人となりが見えてこないのは、当然のことだ。子供であった明子、大人になってからも、先生でしかなかった相手の人となりを考える必要などないのだから。
遊び惚けた大学生活を送る明子の姿に、その先の自分自身が何度も苦々し気にツッコミを入れる(これは原作において)のは、大人になって、働くようになって、お金の価値が判るようになった誰もが苦々しく思い返す若き日であろう。
でも、美大、絵を描く、という、そうではないほとんどの人たちがうかがい知れない世界を垣間見てしまうと、特別な才能を持っているあなたたちでさえ、凡人の私たちと同じ悪しき道を歩んでしまうのか、と身勝手に、思ってしまう。
そして、先生、親、本作においては明子に厳しいジャッジを下す編集者という大人たちが、子供であったこの時には、自分ばかりが苦しくて、必死で、頑張ってると思っていた、だからこうした大人たちは無理解な敵だと思っていたけれど、同じ大人の延長線上にいたのだと気づくのは、すっかりすっかり、ベテラン大人になってからなのだと、このことこそを、どこかの時点で、学校で教えてやってほしい。
日高先生が、実際は何を考えていたのか。劇中では明子にめちゃくちゃ期待していて、学生時代からずっと、二人展をしようと持ち掛け、自分の余命が幾ばくも無いと知ると、この教室を継いでほしいと持ちかけもする。
明子の方はというと、高校生の時から漫画家になりたくて、美大出身の漫画家というハクをつけるためにスパルタ教育に耐えた。ずっとずっと、先生に漫画家になりたいんだということを言えずに、実に10年近くも言えずに、絵画教室の手伝いもずっと続けている。
観客としては、そして原作をずっと読んできた読者さんたちもきっと、何で言えないの、漫画家になりたいってことを、何で言えないの!!と思う、思っちゃう。でも一方で、言えないよね、ということも判っちゃう。
大人になっちゃったから、何で言えないのと思うけれど、根拠のない自信でしか支えられていなかった子供時代は、根拠のない自信は強靭だけれど、それは内なる自身に対してだけ発動するものであって、身内や親密な関係にある大人には言えない、当然言えない。受け入れたくないけど、大人という経験値が比して自分にないことが判っているから。
そのロジックが、当時の子供であった私を含めた彼らに腑に落ちていないから、なんとなく判ってはいるけれど腑に落ちてはいないから、こんな具合にねじれてしまう。だから本作は、きっとこのねじれ具合こそがキモであるんじゃないかと思ってしまう。
日高先生はアイコンとしてのスパルタ教師であり、明子の心の中で、親身になってくれたといわば勝手に変換した存在なのだ。でも誰もが、あらゆる相手に対してそうだと思うし、それが悪いなんて思わない。でも、その図式を改めて示してくれたというか、思い知らされたというか。
特にラストシーン、死んじゃった日高先生を、海岸で想いにひたる明子が召喚する的なところは特に、その感覚を強く、思ったなぁ。大泉氏が演じたから、コミカルで愛しい存在に映ったけれど、正直最後まで、日高先生が明子を含め、生徒たちを愛していたのか、今一つ感じられなかったから。
難しいと思う。絵を教えるというスタンスだと、体育会系はその点単純な道筋があるからさ。絵を教える、特に美大受験のための教室ということになると、技術を徹底的に叩き込む、というところにスパルタ、竹刀をバシバシ言わせて指導する訳なんだけれど、難しいよなぁ。
身体の動きで見せられるわけじゃないし、何度も描き直させるというスタンスはあるにしても、パースが狂っているとか、画として観客にリアルに納得させられる、感じさせるところがなかったから。
そうか……冒頭に書いた、そもそもの、物足りなさは、これもあったのだ。漫画家への道、というのはメインとしてあった。それはなんたって現役漫画家先生なのだから、描きかけの原稿まで用意して、リアリティたっぷりに提示されていた。
でも絵の道は、彼女の中にはない、受験のためのツールでしかなかったからなのか、少なくとも映画となった本作では、絵に対しては終始イヤイヤで、大学の課題を日高先生にスパルタで描かせられるところも、結果評価は得たにしても辛いだけで。
だったら日高先生の存在は、明子にとって、美大に進んだ絵の道、イヤイヤであったその道のとりあえずの先生でしかなかったように思えてしまって。
それが辛かった。ずっとずっと、日高先生は明子に二人展をやろうと持ちかけていたから。
これも正直、彼女にばかり目をかけていたように見えてるけど、それが何故なのかイマイチ咀嚼できないっていうのもあって、映画の尺の問題もあるだろうけれど、やっぱり原作がある映画化って難しいんだなぁと久々に痛感した、気がする。
未読だったから、事情を知らなかったから、恩師が亡くなっているのを知らなかったから、見ている間中は、ご存命であるイメージで見ていたので、今日高先生が、東村先生にどう言葉をかけるんだろうなぁと妄想していた。
でも、死んじゃってたのだ。だからこそ、日高先生自身のアイデンティティは示されないまま、それが許されちゃったのか……。★★★☆☆
そしてキャストも。主演の奥平大兼君、絶対この子知ってる……思い出せない。あぁ、なんと、「MOTHER マザー」のあの子とは!!いやその後、「Cloud クラウド」でも確かにお見かけしているし、きっとその時もおんなじことを思っていたんだろうが(爆)。
たった5年で、あんな幼い少年だったあの子が……あぁ、10代から20代の数年の早さときたら恐ろしい……。ちょっと平凡そうに見える風貌なんだけれど、優しくて繊細なこの京くんにピッタリで、それは勿論彼自身のキャラクターもあるんだろうけれど、やっぱりとても素晴らしい役者さんだったんだなぁと思って……。
本作は彼をはじめ、5人の仲良し男女クラスメートが、恋模様、友情模様、自身のアイデンティティをかわるがわる、そして交錯しながら描かれる展開なのだが、彼らすべての若き才能が素晴らしくて。
京くんが主演、と言ったけど、この5人が主演、というべきかもしれない。その中のメインというか、彼らの関係や感情をひっぱるきっかけとなるのが京くんとミッキー。
ミッキーは判りやすく、クラスの中で目立つ女の子。きっと、高校生時代の私だったら、こんな子がクラスにいたら、あぁ、勝ち組、ヒエラルキー、ピラミッドの上の民、と見上げていたような。でも後に彼女のパートになると判る、それが重々判ってて、彼女は抱えているものがあること。でもまずは、京くんの物語からスタートするんである。
最初はね、それこそ少女漫画チックだと思った。だって、京くんにはクラスメイト達の感情が、ビックリマークやハテナマークとして、その度合いもカラフルにグラデーションされて、頭の上に浮かんでいるのが見える、というのだもの。しかし、もうオチバレだけれど、彼ら5人全員、その能力があるのだ。
見えるアイコンはそれぞれ違う。プラスとマイナスのバーだったり、トランプのマークだったり、あれこれである。彼らは皆、それが自分だけに備わっている能力だと思っていて、時に、自分の好きな人が別の人を好きなのが見えちゃったり、友達が、同性が好きなことが見えちゃったり、冷たい気持ちを持っているのが自分と似ていると同族嫌悪に苦しんだり。
まさか5人すべてが、自分だけが持っていると思っている能力、という展開になるとは思わなかったから、二人目ぐらいまでは、ファンタジー青春もの、みたいな気持ちもしていた。
彼らが、今の高校生とは思えない、いや、それはマスメディアが悪いのだ、何かそういう風に思いこまされていたけれど、やっぱりいつの時代も、みんなシャイに思い悩んでいるんだ、と段々としみじみ染みわたってくる。
そうなると、5人すべてにその能力が備わっている、という決着になると、それはきっとね、そうだけどそうじゃない、思い込みとは言わないけれど、あなたの中にあるジャッジメントで、そのことで一歩を踏み出せなくて苦しんでいるんだよと言いたくなる。
一方で、10代というきらめきの年代は、まだ生まれる前の世界に近い年代は、そんな能力が備わっているのかもしれない、とも思う。あるいは、その能力が、まだ軸が定まっていない自分を守る鎧として生まれたのかもしれないと思う。
もしかしたら私たち大人も、持っていたかもしれない当時を、忘れてしまっているだけなのかもしれないとも思う。
京くんは思い悩んでいる。学校に来なくなったエルが、自分が不用意に言った言葉に真っ黒なしるしを出していたのを見てしまったから。なんのシャンプー使っているかに気づくなんて、今の高校生男子はそんなに意識高いのか……そのことに打ちのめされていたら先に進めないのだけれど。
エルはいわゆる地味な女の子で、流行りのシャンプーを使っているなんて自分の身の丈に合わないと軽蔑されたと思い込んで、その後不登校になってしまう。随分と大胆つーか、ビックリな設定で、この部分だけが、そんなんありか……とは思ったが、人によって心の弱い部分はそれぞれなのだから。
京くんはその見える能力でエルがその後不登校になったタイミングだったことで思い悩んでいたのだが、ミッキーからの謎の問いかけによって、それが突破される。
ミッキーがそのシャンプーを使っていることを、彼が気づくかどうか、エルがそのシャンプーを使っていたことを京くんから引き出せるかどうか。
前半は、こんな想いもかけない駆け引きに結構尺が割かれ、そして、京くんが自分だけに見える他人の感情の動きをポップなアイコンで示していたから、ファンタジー青春映画に来てしまったかなぁ、と思いながら見ていたのだった。
でも、最終的に、すべての人物にこの特殊能力が発動していて、彼らはこの高校生活を表面的にはわちゃわちゃと楽し気にしながらも、この特殊能力によって他人の気持ちを必要以上に慮って苦しんでいるんである。
表面的にはわちゃわちゃと、だなんて言ってしまうのは良くない、違うかもしれない。実際に、彼らは仲良く、楽しいのだから。哀しいことがあっても、楽しい時は楽しい。子供の頃はそれがきちんと両立している。「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」に教えてもらったこと。
京くんに嫌われていると思い込んだエルは、京くんのことが好きだったわけじゃ、ないのかなぁ。これぞゲスの勘繰りだとは思うけれど……。
エルはミッキーの親友である、個性的な女の子、パラがミッキーに恋していることを、その特殊能力で知ることとなる。その能力によって、京くんがミッキーに恋していることも判っている訳だから、自身の心持がどうであれ、というところはあったのかもしれないけれど、エルちゃんが誰かに恋していたのか、というのは気になったかなぁ。
その、パラである。少女漫画的には、あるいは、女子校的には(女子校じゃなかったけど)、ぜぇったいに女の子にモテモテだったであろう、個性的でカッコイイ女の子。
演劇祭の出し物を、めんどくさがるであろうクラスメイトたちを率先して制して、ヒーローショーをやろう!脚本は私が書いて、録画した作品は大学のAO入試に使わせてもらうから!と実にもっともらしい理由をつけてはいたけれど、全方位的にみんなのことを思い、何より恋するミッキーのことを思った。
将来何がしたいか判らなくて進路を悩んでいるミッキーの幼い頃からの夢、ヒロインじゃなくてヒーローになること、ということを。
この演劇祭が一つのクライマックスだった。ヒーローになりたかったミッキー、地味な女の子だったエルは衣装製作に才能を発揮、それぞれの役割を与えられたクラスメイト達とのきずなも深まった。
まぁ正直言うと、この演劇祭のパートに関してはその掘り下げが弱かった感はあったけれど、なんたって彼ら5人の2年ほどを描いているのだからそこは難しいところで。
演劇祭では、パルのミッキーへの想いがより鮮やかに掘り下げられ、それに気づいているエル、という図式だったように思う。
そしてもう一つの大イベント、就学旅行。そうか、今の高校生は修学旅行、私服なのか……うっわ、ファッションセンス問われるわ、厳しい……。でもみんな、自身のキャラクターに即したオシャレで素敵!
修学旅行中に想っている相手に鈴を渡せば、永遠に一緒にいられる、そんな言い伝えがこの学校にはあるんだという。まぁ、バレンタイン的な、告白イベントといったところ。
パルは京くんの背中を何度となく押すけれど、引っ込み思案の彼は踏み出せなくて、他のクラスの男子がミッキーに鈴を渡すところを目撃してしまうという青春の修羅場。でもミッキーはその鈴を受け取らず、その後、「みんなに渡したけれど、京くんには特別」と鈴を渡してくるんである。
あぁーもう。ここだけじゃなく、最初から最後まで京くんは、もうー!!と誰もが思う。ミッキーとは両想いなんだよ、行けよ!!と。
そう思うと、必ずしも男性から行くべきなんてことはない時代なのに、一見イケイケに見えるミッキーから行けなかったのは、そう見えているだけで、彼女はその能力ゆえに他人に忖度する、演技しちゃう術を身につけてしまっていたということなのだけれど。
でも、何度も言うように、全員だから。京くんの親友である、なんも考えていないように見えるヅカもまた、見えてしまうのであった。ヅカを演じる佐野晶哉氏は「明日を綴る写真館」 で拝見して以来二度目なのだけれど、ちょっと、瞠目してしまった。正直、「明日を……」ではピンと来てなかった(爆。ごめんなさい……)。
いかにも陽気なニコニコ笑顔のヅカだけれど、京くんのような大人し気な男子と仲がいいのが不思議な、つまり、男子側のミッキー的な明るい存在である。その闇、といったらアレだけど、パラに見抜かれる。
いや、逆かな、そもそもヅカはパラにそう思われていることを察知していたし、その嫌悪は同族のそれだということも判っていて、なんつーか、一歩上を行っている。
周囲がパラとヅカが付き合うかも、と思っちゃうのはそのシンクロ度合いを感じ取っているからにほかならず、でもそれは、付き合うとか、恋人同士とかじゃないことを、当事者同士はこれ以上なく判ってる、だって、自分自身のイヤな部分、見たくない部分をこれ以上なく共有している、てことだもの。
でもそれは……これ以上ない親友にはなれる、のかもしれない。個人的に、修学旅行中のヅカとパラの、まるで自分自身同士とお互い対決しているような、ヒリヒリする場面が一番、好きだった。
このシーンまでは、あっけらかんとしていたヅカ、演じる佐野君がとてもとても素晴らしくて、超絶繊細、複雑、深遠な内面をしんしんと感じさせて、うっわ、こんないい役者さんだったの、全然ピンと来てなかった、ゴメン!!と思っちゃった。
最終的には、もじもじしている京くんとミッキーをエルが押し出す形で二人は両想いになり、その経過もめちゃくちゃ甘酸っぱくてキャー!!となるんだけれど、でもそこじゃないんだよね。本作の素晴らしさは、あちこちにありすぎる。
この5人があらゆる組み合わせでツーショットになるたび、友達でもなく恋人でもなく言ってしまえばクラスメイトですらない、ワンオンワンでその相手にだけさらけ出す、繊細過ぎて涙が出ちゃうようなしんしんとした描出がたまらないのだ。
とてもいい青春を見せてもらった。でも君たち、もっとなんも考えず、ガンガン進んでいいんだからね!!★★★★★
つまり、この3人は幽霊。だから世間の人には見えていない。彼女たちは子供の頃に痛ましい事件に巻き込まれ、殺されてしまった。3人は世の中の人には見えないけれど一緒に暮らしはじめ、世の中の人には見えないけれど成長し今や大人となり、世の中の人には見えないけれど学生生活や仕事やバイトに従事している。
彼女たちが暮らす一軒家は女の子三人が暮らす可愛らしさに満ちていて、朝はバタバタと弁当を包み、夜には三人一堂に会して夕食を共にする。バレバレのサプライズを仕掛けたり、ラブレターみたいな感謝の手紙に感動してイチャイチャしまくったり、……そうね、いつもの私なら、女の子の可愛いワチャワチャにキャーキャー萌えまくっている筈、なのだが。
幽霊なのに成長したり、食事したり、トイレのドアは開けっ放しにしないでなんて言ったりするってことは、消化して排泄までいってるってことをわざわざ示している訳で、ヤボとは思いつつ、この設定はいくらなんでもなぁと思ってしまう。しかも、彼女たち幽霊が元の世界に肉体を持って戻って来られるかもしれない、だなんて展開になると、更についていけなくなる。
彼女たちが暮らしている世界線は、SF的見え方とすればパラレルワールドに属すると思うんだけれど、それは幽霊としての存在の仕方では、どう考えても人間の肉体をもって成長して食ってクソして、という形をとらざるを得なくなるから、矛盾という以上に、……冒頭に言ってしまったような、茶番に思えてしまう。
しかもそれを、ホントらしく、まことしやかにするために、また違うどこかの世界線からのラジオ、そしてあろうことか、ノーベル賞をとった日本の素晴らしき功績、ニュートリノを彼女たちの存在を証明するものとして持ち出してくるのには唖然としてしまう。
大学の講義にもぐりこんで、図解を示しながらさもありそうな感じで解説するけれど、SFとしても御伽噺としてももちろん科学的にもあまりにもあいまいで適当すぎる。
そもそもの物語の始まり、彼女たちがまだ幼い、小学生だった頃、なのだよね?合唱クラブ、女の子が圧倒的に多い、目にもまぶしい白いセーラーのお揃い、大会前に写真を撮ろうよと、上級生の主導で撮った写真は、皆ドアの方に目を向けている。美咲(のちの広瀬すず)が、姿を消した典真(のちの横浜流星)を気にしていて、彼が来たんじゃないかと音に反応したのに皆がつられたのだ。
典真は美咲が、……彼女はどうやら家庭の事情で貧しくて、お腹を空かせていたもんだから、彼はコンビニに肉まんを買いに出た。その間に、悲劇は起こった。この時の写真が今も、彼女たち三人の暮らす家に飾られている。この直後、三人は乱入してきた少年の刃に倒れたのだった。
少年の刃。そう、少年犯罪。少年法に守られて、こんなに凄惨な犯罪を犯したのに、プライベートを守られて、出てきてしまう。その理不尽さは判るけれど、本作での描き方はあまりに雑過ぎると思ってしまう。
すみません、かなり展開が先のことになるんだけれど、そもそもの核の部分の話だからもう言っちゃう。この少年が出所したことを知ったさくら(清原果耶)が、彼に会いたいと言い出す。それは、先述の、この世界に戻れるかもという方法に、会いたいと思う誰かを強く思う気持ち、というのが示されているから。
ニュートリノなんていうめっちゃアカデミックな科学をこれが証拠だ!みたいに出してきて、そんな根性論をぶつけてくることにこれまた唖然とするのだが……。
優花(杉咲花)が母親を見つけてしまう。花屋の車で配達しているところを。大学生たちをぼんやり眺めていたのは、優花が順調に成長していたなら、と考えていたに違いなく、実際、優花はその大学に、まぁ幽霊だからそれこそ幽霊学生として通っているんである。
この優花の母親が、出所した元少年である犯人に接触し、手紙を読みましたかと迫り、……こう言っちゃなんだけど、被害者家族だから当然だとでも言わんばかりに、結局あなたは反省なんて出来ていない、結婚して幸せになろうとしてるじゃないの、と涙ながらに、ナイフまで出して迫りまくる。
そんな彼女の方に感情移入出来なくなることが、この物語自体に感情移入できないこととイコールで、しんどい。理不尽に他人の命を奪う殺人犯を憎み、許せないと思う。それは当然のこと。でもここで描かれているのは、その殺人犯のそれまでもこれからも、罪を償う時間を費やしたことも、何もかも否定し、更生なんかする筈もないし、することも許さないし、話し合う価値も余地もないという、まぁこれまでの、日本の、死刑制度がいまだにあるからこその考え方なのだと思ってしまう。
それは当然、私自身が、そうした立場になっていないからのんきに言えるのだということは判っている。でも、それは作り手側も一緒じゃないのだろうか。こうして、エンタテインメント映画の中で描くのなら、結局こーゆー奴は許すべきじゃないだろ、と、被害者や被害者家族からの制裁を良しとするのは、あまりに無責任だと思うのだけれど……。
このいわば、ひとつのクライマックスの中で、元少年の犯人は、車に轢かれ、重体に陥る。もしかしたらその後、死んじゃったかもしれない。優花の母親が、彼をにっくきと思っていたのは当然としたって、自分とのおっかけっこで彼がそんな目に遭ってしまって、ざまーみろと思うだろうか。余計に辛い想いを背負ってしまうとしか思えないのだが。
そもそもこの優花の母親、幼い娘を連れているのを目撃した優花は、自分を忘れて幸せになっている、とショックを受けるも、先述のように、決してそんなことはないんである。
事件後再婚して、娘を授かり、前を向いて歩き始めたとか言うが、そもそも事件後再婚、というのが、いかにも事件があったことが理由みたいに言われるけど、もともとシングルマザーだったのか、事件があったことで離婚したのかも明らかにされないので、家庭の事情も全部この事件のせいにしてんじゃないの……と思っちゃう。しかも自分が幸せになるのはオッケーで、犯人には許さないというのがなぁ。
えーと、なんかぐちゃぐちゃしちゃったから、軌道修正。そう、この三人は一緒に暮らしている。結構早くに秘密は明かされるけれど、それまでは本当に、仲良くわちゃわちゃ普通に暮らしているように見える。末っ子のさくら(清原果耶)は水族館でバイト、次女の優花(杉咲花)は大学に通い、長女の美咲(広瀬すず)はオフィスに勤務。
でも当然、誰にも彼女たちは見えていないんだから、勝手にバイトし、勝手に大学に通い、勝手に勤務している訳で。最初だけちょこっと、いかにもコミュニケーションとれてるような描写を見せるけれど、実際は、誰にも聞こえていない、見えていない。
当然、給料も発生していない、講義もタダで聴いてる。美咲が、誰も手を付けない入力作業をもくもくとこなしたり、さくらが飼育動物のエサのバケツを持ってきたりしても、それは一切、現実の世界に反映されていないことが、これはご丁寧に示されていて、だったら彼女たちは一体何をモチベーションにこの暮らしをしているの、意味なくない??としか思えなくて。
車に閉じ込められた赤ちゃんを助けたいのに、当然、誰に訴えても聞こえないし、美咲が再会した典真にかつての想いを伝えたくたって、そのすべがない。
典真はあの事件で自分が助かってしまったことで、……きっと当時から両想いだったであろう美咲の命が奪われたことに、余計にキツい想いが加わってしまったのだった。ピアノ男子と歌劇の台本を書いている女子。メチャ萌えではあるのだけれど。
で、そうそう、ラジオ電波から聞こえてきたパーソナリティー、彼女たちと同じ立場だと。現実世界に戻れるんだと。会いたい人を強く願って、この日この時、この灯台まで来て「飛べ」と。
キャストクレジットで誰??と思いつかなかった唯一の人、松田龍平氏があの声だったのか。優花の母親と元少年の犯人との追っかけっこの後、まだ時間が間に合うかも、と三人はその灯台に向かう。ご丁寧にドローン撮影で豪華に、三人手をつないで、飛べ!!と叫ぶんである。
うわー、これはかなり、観客側としても恥ずかしい。なんつーか……学芸会チック。ドローンでドラマチックに上空に飛んでっての画だから余計にハズい。
現実の世界線で、三人が暮らしている一軒家はすっかり廃屋になってしまっていて、新たな買い手が内見に来ている。三人は、典真との再会によって当時なしえなかった合唱コンクールに出場することを目標にする。その過程で、美咲は典真と、あの事件の時、直前、書きあがった歌劇の脚本を、見せられなかったそれを、彼と、読み合わせるんである。
当然、典真は気づいていない。恩師から大会でのピアノ伴奏を依頼され、いろいろ逡巡し、かつての部室であり、自分がピアノを練習していた部屋を訪れるんである。
雑然とした状態、アップライトピアノもほこりをかぶってて、こらー調律全然してねーだろと思っちゃうと、彼が感慨深く鍵盤に指を落としても、いやだからこそ、ピアノをずっとやってきたオメーなら、このピアノの状態判るだろ、と言いたくなっちゃう。
美咲と典真の、美咲側にしか判っていない筈だけれど、典真もどこかで、感じているかもしれない、的な、時空、じゃないな、幽霊と人間なんだから、違うか、とにかくそのクライマックス、これで泣けとばかりな圧を感じたけれど、結局典真が彼女のことを見えていないし、なのに彼女との読み合わせを感動的にこなしてて感動モードに持っていくのが、ムリでしょ……ムリだと思うんだけどなぁ。
そして、本作はなんたって合唱である。圧倒的に女の子が多い、小学生時代の合唱クラブ。だからこそ、数少ない男子が象徴的になるし。
ラスト、美咲、優花、さくらの三人は、かつて参加できなかった大会に参加しようということになる。当然、誰にも見えない、ここまで作品に感じていた、身勝手な社会参加に過ぎない。
正直言うと、その、身勝手な、という気持ちは、そのままだったかなぁと思う。結局、この可愛い女の子三人を見せたかっただけじゃないかと思ってしまう。
絶妙にダルダルファッションも含め、常に可愛くて、だから、常に、世界に入り込めなかった。クライマックスの合唱コンクールに、幽霊自分勝手参加に至っては、それぞれいい感じに違うデザインの制服スタイルで可愛さ倍増させ、合唱シーンは感動的だけれど、彼女たちの可愛さを見せたいだけちゃうん、というのは、全編通して感じていたので、つまり、ヤだった、ヤだったんだよなぁ。
そして、買い手がついた一軒家、彼女たちはあらたな住処を求めて旅立つ。こうしてずっとこの世界をさまよって、しかも成長し続けて、おばあちゃんになって、幽霊なのに死ぬところまで行くのかと余計な想像をしてしまう。めっちゃ矛盾。死んだら火葬とかするのかとか、幽霊なのに。こういうヤボなことを思う私がやっぱり間違っているのか??★☆☆☆☆
前作もそうだったし、照屋監督は死生観というテーマが根っこに、大事に、あるのかもしれない。それは沖縄という土地の、それこそアイデンティティによるものも、絶対的にあると思う。
あるいは、宗教的とは違うけど、沖縄の人が持っている生き方に対する考え方、そしてその歌うような言葉からもそんなことが感じ取れる。
なかなか凝った構成である。冒頭、口紅を丁寧に塗り込む、その口もとの超至近距離アップのカットからスタートする。
レトロなデザインの青いワンピースに、白いハイヒールをかつかつ言わせて病院の廊下を歩いていく足元、年配の女性看護師さんと作業着の男性が車いすの髭面男と共に出迎える。奥さんが来ましたよ、と言う。
その車いすの髭面男の前で満面の笑みで、くるりと一回り、ワンピースの裾をひるがえして見せる女性。
遺産目当てかとヒソヒソささやかれる中、彼らは病院の外へ行き、女性はぱんつ見えそうな勢いでブランコをこいだり、浜辺のパラソルの下で髭面男と一緒にカクテルを楽しんだり、パラソルの影で生着替えをして思わせぶりに下着を投げたり。
果てはなんと、ウェディングドレス姿になって、パワーショベルのショベル部分に乗って、イエーイ!そして社員たちが結婚おめでとう!!と。こ、これは……。
もうオチバレで言っちゃうと、これは娘の美花が余命いくばくもない父親、しかも認知症が進行して娘の自分のことを、奥さん、つまり美花の母親の町子だと思い込んでいることを見て、最後の美しい思い出作りのためにした演出なのだった。
このくだりが後半、裏方の必死こいた苦労を交えてもう一度繰り返されるのだが、それまでの間に、この父親悟と娘美花の7年もの空白とその理由、そしてもう恍惚の人となってしまった父親に会いに来た娘、美花の両親への想い、確執、亡くなった最愛の母親の真実が明かされていく。
フェミニズム野郎としては、正直、ちょっとなぁと思う部分は沢山ある。ありていに言えば、優しすぎるというか。
美花の両親、先に病気で亡くなってしまった優しい母親、町子と、飲んだくれだけどこれまた優しく愛嬌があって憎めない父親、悟はザ・相思相愛で仲が良くて、何の問題もないように客観的には見える。
でも、町子が病気になって、家事もままならなくなったというのに、それを夫には言えなくて体調不良を悪化させてしまう最初のシークエンスで、うーむと思ってしまう。これは懐かしき昭和の家父長制度、家父長にワガママを申し立てちゃいけないってアレだぞと。
ベテラン看護師も、娘の美花も怒って町子を諫めるのだけれど、毎晩飲んだくれて帰る夫を、好物のてびちを作って待つような妻、町子は、一向その態度を改めることはない。
こう書くと、よくある亭主関白、夫に服従する妻、夫は暴力とかもふるっちゃう、みたいな図式を思い浮かべるのだけれど、全然そうじゃなくて、悟はいつもにっこにこで町子とベッタベタの仲の良さ、まるで恋人同士のよう、なんだよね。
だからこの齟齬というか、違和感というか……それだけ仲がいいのに、この奥さんは夫に甘えることが出来なかったり、言えないことがあったりするのが、なんかすごく、悔しいというか、いまだにこんなことあるの、と思ってしまったのだ。
これは、なんなんだろう……。沖縄的、ということではないと思うんだけれど、不勉強ながら判らないから……でも、沖縄、というんじゃなくても、地域的に、こういう、夫を立てる、家父長としての旦那を尊重する、尊重?……なんか違うな、町子の言い様は、お父さんは私たち家族のために頑張ってくれている、我慢してくれている、と再三、言っていた。
そんなことは判っている。でも美花が、そして観客がもやもやしたのは、この文脈では、家族のため、というのは生活費を稼ぐためということでしかなく、そのために他の家族が辛い気持ちになることが仕方ないのだとしたら、その関係性って、ちっとも対等じゃない。尊重じゃなく隷属しているに過ぎないんじゃないの??と思ってしまって。
美花は、そこまで自身の中で明文化はしていなかったと思うけれど、そんな感覚はあったと思う。ただ、まだ若くて、子供で、娘である自分より父親の二日酔いを優先してコーンスープからアーサ汁に変更されてしまうことにいら立ってしまうようなところでしかなかった。
でもそれって、結構根本的だよね。町子は母である前に妻、いや、悟の女ということなのだから。それは全然いい。むしろいいと思う。今はそうでもないかもしれないけど、昭和の日本は特に、結婚した途端、あるいは子供が出来たとたん、特に妻の方が母親完全版になってしまうきらいがあると思う。
だから、大好きな夫のために、あの人の前では女でいたいからと、毎日メイクをして可愛い服を着ている町子はとても可愛いし、いいと思った、思ったけど、いわばその”理由”が、本作の最大のもやもやを生じさせてしまう。
それは、美花が問い詰めたのだった。お父さん、お母さんが倒れた時の電話にも出ないで、女の人の匂いさせて酔っぱらって帰ってきたんだよ、と。
再三の問い詰めに、町子は覚悟を決めたのか、娘に吐露した。本当のことを知ることが幸せとは限らない。私が病気になって、お父さんはセックスを諦めた。でも、私はお父さんの前では女でいたい。だから毎日お化粧をするんだと。
この衝撃的な告白を聞いて、美花は一度耳をふさぎかけるも、おかぁ、ごめん……と抱き合って、母親の思いを受け止める。
でも結局、町子が亡くなってしまう、その倒れた時に、やっぱり父親は彼女からの再三の電話に出ず、つまり女とよろしくやっていたに違いなく、そらー美花は激高して、許せなくて、そこから実に7年間、故郷を離れて帰らなかった。
夫婦間のセックスに踏み込んで、その事情を子供に聞かせるというのは、確かに思い切ったと思う。でもなるほどと思いかけて、セックスが出来なくなった奥さんの代わりの女がいる、ということを、事実として公認もしてないし、知らないテイでいるということに、やっぱり違うと思ってしまう。
それじゃ仮面夫婦じゃんと。表面上どんなにラブラブで仲が良くても、倒れて息も絶え絶えな時に、夫は他の女とセックスしてて電話がかかってきたことにも気づかない。それを、私が病気になったがためにお父さんはセックスが出来なくなったから、という理由で納得させるのは、あまりにも無理がある。
これはね、倫理観というんじゃなくて、まぁそれもあるけど、男子はセックス封じられるとキツいから、浮気に目をつぶるんだという理論でしょ。これを夫婦愛、純なる愛にされちゃ困る。ツッコミどころがありすぎる。
まず、じゃぁ病気によってセックスできなくなった女の側は、そうした苦しみはないのか、その観点が完全に抜け落ちている。病気の症状や個人差にもよるけれど、夫の性欲に想いを馳せられるほどなんだとしたら、この病気がなければ、この夫婦はセックスを普通にしていたということなんでしょ?
だったら彼女側にだって、出来ない苦しみはあるんじゃないのかなぁ。病気だから性欲があまりなくなるというのはあるかもしれないけど、でも問題はそこじゃないよね??
もう露骨に言っちゃうと、だったら風俗でいいじゃんと思っちゃう(爆)。実際はどうだか判らないけど、いまわの際の電話にも全然出なかった、それ以前もにやけた電話をするシーンが描かれていたということは、フツーに女がいたと受け止められてしまう。
本作は許しの物語、どんな愚かなことをした人間も、もう死ぬ時にはさ、そしてそれまでとても反省したならさ、許してあげようよ、というテーマなのだけれど……ちょっとね、昭和フェミニズム女としては、むしろウチらを怒らせることを目的にしてんちゃうのと思うぐらい。美花が怒って7年も島に帰らなかったのは当然だと思っちゃうし。
まぁだから、美花がいわばほだされたことには、7年も怒っていたのにさ、と思うが、でも人の死に接すると、もうそりゃしょうがなくなっちゃうのかなぁ。しょうがない、お母さんはお父さんを深く愛していて、お父さんもお母さんを深く愛していたのだから。
なのに愚かなことをやっちゃうのが男だとしたら、それを許すわけにはいかんぜよ!許してあげなよ、という雰囲気を、故郷に帰った美花に対して発動する、父親の右腕だった男性があれこれ美花を連れまわして、そのシークエンスはとてもコミカルで笑っちゃうのだが、そう、それこそが、芸人ゴリ氏の真骨頂のユーモラスな脚本なのだが……。
でもやっぱり基本、男は頑張ってるんだよ、仲間を大切にしてきたんだよ、というスタンスだよね。知らんわ!!と言いたくなるのは良くないかなぁ。亡き妻のために彼女の好きだったテッポウユリを、手植えでこつこつと、広大なスペースに咲きほこらせた、そこに美花を連れてきてどうだ!とばかり……まぁ美花は感動してたけど、お母さんが死んでからだからなぁ、と思っちゃう自分がヤだなぁと思っちゃう。
で、ここで感動のクライマックス、タイトルとなっているかなさんどーを琉球衣装もばっちりで美花が歌い、その姿が、夫婦が出会ったきっかけの町子の歌う姿にオーバーラップする。悟は泣きながら、テッポウユリ畑の町子を、娘が演じる町子と、彼だけに見えている町子を見つめている。
まぁ、まぁ、優しすぎるよね(爆)。正直、7年島に帰ってこなかった美花の気持ちの方が判る。だって、病気の奥さんに対して、表面上はラブラブ愛してるけど、結局はその現実から目を背けて、娘を怒らせて、最後の最後もサイアクの行動しか出来なかったんだから。
まぁそれでも、許した方がそらまぁ、双方気持ちが落ち着くのは判るけれど、でもやっぱり、男の性欲が夫婦愛の問題と切り離されて、対話せずに、議論をぶつけずに、男が知らんままに女側が勝手に許して我慢して譲歩しているのは、おかしいと思う。
この一点が私、腹が立ってるんだな。自分がセックス出来ないから他の女としていることを黙認するなんて、やっぱりおかしい。そんなの夫婦愛じゃないと思うんだけどなぁ。★★★☆☆
本作はオリジナル脚本だということも驚きであった。昨今は本当に少なくなったオリジナルということもあるし、差入代行というなりわいも初めて知ったし、とても映画的だと思ったから、そもそも今まで手がつけられていなかったことが不思議なぐらい。
でも……脚本を手掛けた監督さんが語っていたように、そう簡単にはいかない、こぎつけるまでに相当な時間がかかったという、このなりわいの複雑さを、深さを、丸山氏演じる金子に投影して、作り手自身が逡巡しながら描いているように思った。
冒頭の、刑務所に入っている時の金子、面会にやってくる奥さんの美和子、面会シーン。先月来なかったと苛立ちをぶつける金子に、美和子がギャー!!爆発して出ていく。産まれたのか、と金子が気づく。
その後、金子が伯父さんのアシスタントとして差入代行業務についている様子が描かれ、そして現在となる。
判りやすい、こう書いてみると確かに判りやすいんだけれど、現在の、良きパパの、真摯に仕事をしている金子の穏やかな様子と、冒頭の、細眉で目を吊り上げてオラオラしている彼とが、確かにお顔は当たり前に一緒なのにつながらなくて、それぐらい違ってて、え?同じ人なんだよね?と混乱するぐらいで、丸山氏の役者としての振り幅に驚いてしまったんであった。
彼に仕事を引き継がせる伯父さんは、大大大好き、寺尾聰である。後に金子が自分の仕事に苦悩するように、この伯父さんもまたそうであったに違いなく、なぜこの仕事をしていたのか、独り身のままでいるのは何か事情があったのか、ひょっとしたら金子のように……?などと想像は膨らむけれど、そんなヤボなことは一切語られない。
でもそこは寺尾氏の滋味あふれるたたずまいで、悩める甥っ子に、今は引退して、隠居している立場だけれど、だからこそいつでもバックについているという安心感がある。
後に明かされるところによると、差入代行としてこの伯父さんが、金子の面会に訪れたのだった。奥さん、ではなく、お母さんの代行として。
ザ・身勝手な母親、名取裕子氏の色っぽさがピッタリすぎるこのお母さんは、金子曰く、男のケツを追い回してばかり、金目のある時だけ嗅ぎつけて来る、というのを見事体現したお母さん。自分では行かなかったにしても、代行を頼んだのだ。
伯父、ということは、彼女のお兄さん、なんだよね。このきょうだいの物語を特段描く訳ではなかったんだけれど、伯父さんは家庭を持たず、この特殊ななりわいをして、まさか自分が身内の差入代行にいくとは思わなかった、とこの描写はかなり後半になってからなのだけれど。
そう……かなり後半になってから。金子が、この差入代行という仕事の本当の意味というか、辛さというか、神髄を思い知るのは、あまりにもあまりにも、つらい事件に遭遇してなのだった。
一つは、彼ら家族の身近に起こった。無差別殺人事件。年老いた母親と二人暮らしだった青年が起こした犯行だった。演じる北村匠海氏が、ハッキリと、怪物であるキャラクターを演じていて、カクカク不自然に動く首の動きや、何度も手術したけどこうなった、クズ医者、と淡々と吐き捨てる右目のただれ落ちたまぶた、その言動は、いわば神視線であるヤバさ。
もう一つは、一見して単純な強盗殺人事件と見えたのが、殺された女性は売春をしていて、娘にもそれを強いていたと。金子も見かけていた、時代から取り残された昭和のヤクザ、組のために、親分のために、鉄砲玉となって臭い飯を十数年食って出てきたのに、迎える人など誰もなく、強盗殺人に及んだと、見えていた。
でも実際は、母親に売春させられている娘の実態に怒って、母親を殺した、いや、殺しかけた。娘がとどめをさした。その事実はかなり後になって明かされるのだけれど……。
この二つの凄惨な事件が、それまでは粛々と仕事をこなしていた、そして家族とのあたたかな生活を守ってきた金子に、急速に影を落としてくる。
伯父さんから引き継いだこの特殊な仕事は、後に奥さんからカツを入れられるように、必要な仕事、胸を張れる仕事、凄いことをやっているんだよと、そのとおりなのだ。金子だってそれは判っていた筈だし、だからこそ、誇りを持ってやってきた筈なのだ。
でもそれは、自分に関わりのない事件の関係者だったから、出来たこと、なのだ……。いわば、言いたくないけど、人徳者として、犯罪を犯した人も悔いて、次の人生を生きる権利がある、その手助けをする、出来る、素晴らしい仕事だと、思っていた、いや、言い聞かせていた、というべきか。
実際そのとおりだと思うし、何一つ、恥じることはない、そう思うけれど、でもそれは、事件や犯人が遠くに存在するから。身近に起こってしまうと、息子の幼なじみの女の子が無残に殺されてしまうと、途端に平静を失ってしまう。
それこそ、その途端に、今までくすぶっていたに違いない、穢れた仕事だという偏見が急速に湧き上がって、ご近所から村八分にされ、息子はいじめの対象になる。
バカバカしいぐらいに判りやすいけれど、結局これが世間というもので、金子は息子の窮状に気づいて激高し、学校に乗り込んで、すわ前科を重ねそうになってしまう。
この事件があってこそ、いろんなものが見えてきたと思う。傷害事件でぶち込まれた金子は、でも、迎える家族がいた。男狂いで金を無心する母親はクソだけれど、彼女が差し向けた伯父さんによって金子は今、仕事と家族に真摯に向き合っている。
息子の幼なじみを殺した殺人犯の母親は、一見して息子を偏愛しているモンスターママだけれど、でも彼女が言うように、確かに、成人するまで育てたならば、それ以降の責任を言われる筋合いなどないのだ。
でも何か、懐かしい気がした。ワイドショー的レポーターたちが、判りやすくクズ親である彼女を執拗に追いかけ、煽り、煽情的な映像をおさめるのが。
今でもあるんだろうか、いや、あるだろうな。誰も望んでないのに、と思う展開をよく見かける。もういいよと思うのだけれど。
金子の店先の植木鉢が、再三ぶち壊されている。最初こそ、怒って、苛立って、始末する金子だけれど、なんだか段々と、慣れて来ちゃう。ラストもラスト、クレジットが終わった後にも、このシーンは繰り返される。
ちょっと、怖いと思う。誰が、やっているのか、見えないから。ここまでに彼らに関わった人たちじゃないと思うから、怖いのだ。でも、そんな風に……見えない嫌悪感にさらされているということなんだとは、思うけれど。
この仕事は、確かに素晴らしい仕事なのだ。ヘコんだダンナを叱咤する奥さん、演じる真木よう子氏の迫力もあいまって、そう、本当にそう!!と思った。罪を犯した人に対して、不寛容すぎる日本という国、収監者に差入を代行する仕事、その本質を理解する気もなく、ただただ、蔑まされるような国。
その中で闘わなければいけないのだ。正しいことをしているのだから。でも、金子は自身の前科があり、身内的なところで起こってしまうと、正常に対処できなくなってしまう。まさにこれは、プロではないと断定されても仕方がないんだけれど、私たち、素人に突きつけているんだと。
テレビの向こう側で報道されているセンセーショナルな事件、当然、他人事。他人事だからこそ、客観的に自分なりのジャッジが出来る。いわば、偏見なしに。
でもそれが、自身の身内、コミュニティーで発生してしまうと、途端に平常心を失ってしまう。プロ意識も失われてしまう。
まさに、この難しさを、劇中、示していた。自身の仕事のせいで、まさしくさ、同級生が殺されたなんてショッキングな事件があって、その犯罪者をいわばサポートするようななりわいである金子なのだから。
その息子ちゃんは判りやすいイジメに遭ってしまった。ノートに心無い落書きをされてたのに気づいてしまった金子は激高し、職員室に乗り込むんである。
この件について奥さんは夫に怒るし、すわ警察沙汰だし、そうなったら金子は前科を重ねちゃうし。でも、結局はこの事件を、本作中でちゃんと回収はしてくれなかったなぁ、と残念な印象。
丸山氏も、真木氏も、めちゃくちゃ真摯な芝居を見せてくれるのでもうそれ以上望むところはないっちゃないんだけれど、なんつーか、最終的な決着をきちんとつけられていない感じは、しちゃうんだよね。
言葉が発せられないウソ芝居をしてまで、売春をさせられていた母親をぶっ殺したあの少女は、その直前、客になりそうだったヤクザの男を、好きになっちゃったんじゃないかなぁという気がしていた。
男が刺した母親は、虫の息ながらまだ生きていた。そこに、彼女がとどめを刺して、振り返った時の顔。妖艶とも見えるあの笑顔が繰り返し描かれるのが、すべての事実が明かされるまでよく判らなかった。
確かに憎んでいた母親ではある、けれど……。男との約束を守って、この事実を口にしないまま、それでも会いたくて、獄中で死んでしまうのではないかと心配で、刑務所に日参する少女。
生の搾取をされていた彼女の、修羅場で芽生えてしまった愛のようなものが、面会室で爆発したように思った。元気でいてください、生きてくださいと、ついには待ってますと、最初は文字で示すばかりだったけれど、我慢できず、叫んだ、吠えた。
女、だったんだよなぁ。危険を冒して面会室まで連れてきた金子は、それをどこまで感じていたのか。それこそ、単純な義侠心であったようにも思われるから……。
難しい、でも意欲的な題材。何よりこのなりわいを初めて知って、従事する人たちを本当に知りたいと思った。関係ない、筈がない。いつでも私たちは誰かとつながっている、そのことを改めて突きつけられた。★★★★☆