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「か」


2000年鑑賞作品

カーラの結婚宣言THE OTHER SISTER
1999年 129分 アメリカ カラー
監督:ゲーリー・マーシャル 脚本:ゲーリー・マーシャル/ボブ・ブランナー
撮影:ダンテ・スピノッティ 音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ジュリエット・ルイス/ダイアン・キートン/ジョバンニ・リビージ/トム・スケリット/ポピー・モンゴメリ/サラ・ポールソン/ヘクター・エリゾンド/ジョー・フラニガン/ジュリエット・ミルズ/トレイシー・ライナー/ハーベイ・ミラー


2000/1/26/水 劇場(丸の内シャンゼリゼ)
軽度の知的障害のあるカーラ(ジュリエット・ルイス)が学校に行き、恋をし、一人暮らしをし、結婚をするという“人並みの”幸せをつかむ奮闘を描いていく。この“軽度”の知的障害というのがミソで、カーラが好きになるのも同程度の障害の男の子だし、とことん深刻にならないという意味でズルい設定だとも言えるのだが、逆もまた真。カーラや、その彼、ダニーが自意識や自我という点ではいわゆる“健常者”とそう大して変わりなく、いや、きっと人一倍それは強く、自分の判断能力や、感情コントロールを上手く出来ないことに彼ら自身が一番歯がゆく思っているに違いないという深刻さがあるから。

知的障害者のドキュメンタリーをここ最近よく見る機会があって、だから余計にそれを思うのだが、彼らが私たちと違うのはそうした部分、判断能力や感情コントロールだけであると言える。それは私たちの中にも充分にあるものだし、実際別に知的障害者じゃなくても、そうした部分の欠如での犯罪が多発している今日。知的障害者と呼ばれる人たちが、自分のこういう点に“健常者”より明らかに自覚的で、明らかにずっと悩み苦しんでいる。私たちがこうした人たちの物語に心打たれるのは多分、そういう部分。私たちはそういう欠如を上手に隠してしまうことが出来る。目をつぶっていることが出来る。でもそれは果たして幸せなことなんだろうか?彼らのように存分に悩んで苦しんで、その先に得るものがあったほうが、どんなにか幸せではないのか。

そして本作のカーラも、とにかくあがいてあがいてあがきまくる。彼女が幼少時、手におえなくて障害者学校へ入れてしまったことに、母親のエリザベス(ダイアン・キートン)は必要以上に罪悪感を感じ、呼び戻してからは、それこそ過保護むき出しで干渉するのだが、彼女にはカーラがちゃんと成長していったことが見えていない。カーラは一人では何も出来ない子、何も判断できないし、仕事になんて就けるわけない、とこういう思い込みである。こんな母親の締め付けにガマンならなくて、カーラは学校に逃げ帰り、職業訓練校に通いたいという意志を校長に伝える。迎えに来た母親がそんな高度な授業についていけるわけがない、私は母親だから判るんだ、あなたは子供を持っていないのでしょう、と言い張るのに抗して、校長がこう言うのだ「私はここで20年子供と一緒に暮らしてきました。私はカーラの不屈の精神が好きです。彼女ならきっとやり遂げます」と。

そう、これはどちらかというとカーラの成長、自立物語ではなく、カーラによって母親であるエリザベスが成長、自立していく物語なのだ。三人の娘も大きくなり、次女は結婚目前、長女は同性の恋人がおり、それもまた彼女の悩みの種。この子だけは手元においておけると思ったカーラまでもが自分の手元から巣立ってしまうこと、その事実に自分が動揺していることに彼女はなかなか気付かない。長女のことにしたって、多分同性愛がどうのというより、子供が自分の手の届かない世界に行ってしまうことに対する恐れなのだ、きっと。この二人の姉は妹思いでいいお姉ちゃんたちだけど、わりと口ばっかりで、母親を実際には動かせない。夫であるラドリー(トム・スケリット。相変わらずシブい!)はエリザベスと対照的に、やたら物わかりはいいが、彼もまた彼女の一種偏執的な愛情には太刀打ちできない。それを動かせるのが、カーラなのである。

それは多分、彼女は難しいことを、あるいは物事をこねくり回して難しく考えないから。世間的なことや、失敗したらどうしようとか、そんなことよりも、自分の信念にまっすぐ。これがいわゆる、判断能力や感情コントロールの欠如だと言えるのだが、そうなんだとしたら、カーラの方がよほど正しい。よほど人間的である。彼女は学校に行き、まっすぐに勉強し、まっすぐに恋をする。その相手のダニーもまた、一生懸命。マーチングバンドが好きで、ボランティアでそのバンドの手伝いをし、パン屋さんでアルバイトをしている彼は、将来仕事を得て自立したいと思っているカーラにとって、実に参考になる人物でもある。同級生はイジワルだけど、ダニーの周りにいる人たちが、これまたズルい!と思うほどにいい人ばっかりで……マーチングバンドのメンバーたち、パン屋さんのおやじさん、そして何より何より、ゲーリー・マーシャル監督といえば、そうこの人の登場を心待ちにせずにはいられない、ヘクター・エリゾンド!今回の彼は、ダニーの住む下宿の大家さんで、車修理をしているギターの名手。もう、相変わらずまったく素敵である。本作での彼は、ちょっと粗野で、でも面倒見が良くって、ダニーの心からの親友である。そしてカーラとダニーの結婚式にはきちっと正装してギターをつま弾いてくれて、ああ、もおおお、ほんとに素敵なんだから!

この結婚にいたるまでには、当然一方ならない苦労があって。その前、二人がお互いに衝動を感じ、セックスをしようとするまでの、本での勉強や、特にカーラ側の心の葛藤、その手探りで進んでいく様が愛らしく、ちょっと笑ってしまいながらも、頑張れよ!とこちらも手に汗にぎる。ダニーが以前悪友たちによって金で童貞を失っており、男と女は違うから、と彼が言うのを聞きとがめたカーラが、その女の子のこと、愛していなかったの?と聞き返す。ちょっと悩んでからダニーは、その時は愛していたと思ったんだけど……と口ごもるんである。うーん、カーラ、意図せずだろうけど、重要な本質をズバリである。ダニーはああ言ったけど、多分彼にはそんな気持ちもなかったか、あるいは愛しているという気持ちがどういうものか、まだ判っていなかったんではないだろうか。女性が先に気持ちありきで相手と深い関係になりたいと思うのと違って、男性はそうした気持ちと、もう一方純粋な?本能的衝動によるそれもあるのだということ。それがいつでも恋愛をややこしくさせるんである。まあ、ここでダニーはちゃんとカーラに愛していると言ったから、許してやろう?

次女の結婚式に出席しているカーラに、「卒業」よろしく(実際二人はこの映画が大好き)教会に忍び込んで会いに行くダニーは、その場でプロポーズ、母親の猛反対を押し切って、二人だけで計画した慎ましやかな式を敢行することとなる。招待状も手書きの手作り。いままでどんな行事にも呼ばれなかった、長女の恋人、ミシェルもちゃんと呼んで。最後の最後までゴネて出席しようとしなかった母親は、でも式が終わり、いざ二人が教会の外に出ていこうとするところに真っ赤にドレスアップしてあらわれる。ああ、単純だけど、本当に単純なんだけど、あっさり私は陥落、涙してしまいました。ママは呼ばない!とつっぱってたカーラも、母親の顔を見たとたんくしゃくしゃの顔になって抱きつくのだもの。やっぱり、娘にとって母親って特別、なんだよね。殊に結婚式ともなれば。

そして長女の恋人もちゃんと認知し、あまりにも出来すぎなハッピーエンドだけど、母親もこれまでに散々カーラによっていろいろ考えさせられたんだから、一気に吹っ切れたと思ってよしにしよう、と思っているところに、ダニーの呼んだマーチングバンドの行進が!「君へのプレゼントだ」とカーラに言うダニーに彼女は大感激、出席者も拍手喝采。私の先ほどのうがった考えなんぞも吹き飛ばされて、ただただひたすらの幸福感。そしてヘクター・エリゾンドの運転するオープンカーでいざ新生活へと出発!パン屋さんのおやじさんがダニーをりっぱな職人に育ててくれることだろう!

すっかり泣き笑いの幸せ気分にさせてもらっちゃいました。あああ、私も単純なんだもんなー!ああでも、ジュリエット・ルイス、やっぱりさすが。上手いしこういう役をやっているのにちゃんと可愛らしいところがスゴい。あのねじくれた眉毛、相変わらず印象的ですね。★★★★☆


怪談 累が淵
1960年 90分 日本 モノクロ
監督:安田公義 脚本:犬塚稔
撮影:竹村康和 音楽:大森盛太郎
出演:中村鴈治郎 中田康子 北上弥太郎 浦路洋子 三田登喜子 村田知栄子

2000/1/22/土 劇場(新宿昭和館)
もう40年も前の作品なのに、モノクロはくっきりと冴え、なおかつぬめっとした気味の悪さをもたたえ、さらになおかつ粋であでやかな艶っぽさが充満する。ああこの、豊志賀に扮する中田康子!艶っぽい、色っぽい、何たるこった!初見かと思ったら、「怪談 蚊喰鳥」でしっかり観ていた彼女。しかもこの時もやはり盲目の針按摩とのコラボレーションが、その妖艶さを際立たせていて、抜きかげんの、そしてギリギリまであいた胸元の着物の着くずしかた(着こなし、ではなく)はそれでもなぜかわざとらしい色気の演出など全く感じさせないのが凄い。きめ細かくふわっと柔らかそうな豊満さを持ちながら、なおかつしなやかで細い指先や柳腰。うわああああ。

そしてそして、彼女と因縁の、そして運命の恋人となる深見新五郎に扮する北上弥太郎の美しさもまた、どうだろう!彼は私は本当に初見。すっきりと通った鼻筋と、切れ長で、かつくっきりと強い瞳。着流しがよく似合うほっそりと、しかししっかりとした骨格を持つ体躯。彼と彼女とがよりそう姿は本当に美男美女を絵に描いたようで、一級の浮世絵を鑑賞するがごとくうっとりと見惚れてしまう。

しかし、そうなのだ、この二人はただただ幸せな恋人同士を演じていられるわけもないのだ。冒頭、彼女の父親である針医で金貸しの宗悦(中村鴈治郎!鬼気せまる!)が、この彼の父親である新左衛門(杉山昌三九)に殺されてしまう。この時新五郎はよその土地に行っていて、この父親と後妻が宗悦の亡霊に取り殺され、使用人は後妻の間男に殺されてしまったところに帰ってくるのだ。数年後、出逢った豊志賀と新五郎は親同士のそんな因縁があることなども知らず、しかし明らかに邪悪な運命の糸に導かれて恋に落ちる。

このあたりまでは明るい色合いに満ちている。昼間っからふすまを締め切って逢い引きにふける、三味線のお師匠さんである豊志賀に、彼女にホレてる弟子である二人の男がヤキモキするところなど笑わせてくれる。特にそのうちの一人、二人の様子を立ち聞きしたオカマ口調の男が、豊志賀の口調をマネて「男嫌いがそうでもなかったなんて、まあ、憎たらしい、ですってよ!」なんて井戸端会議のオバチャンよろしく言うのには大爆笑!

しかしどんどん雲行きは怪しくなってくる。多くの弟子を持つ豊志賀は、新五郎ばかりにかまけていることですっかり信用を無くして弟子どころか使用人までも出ていってしまう始末。自分を助けてくれたことで豊志賀を最後まで慕ってくれるお久(浦路洋子)を新五郎を奪う女だと邪推して遠ざけてしまう始末である。げに、げに女の恋路とその嫉妬は恐ろしい。

一足先、57年に作られた中川信夫版の同名作品では、(未見だが)実際新五郎はお久のほうに心変わりをするらしいのだが、本作での新五郎は、どんなに豊志賀が嫉妬深い、うっとうしいイヤな女になろうとも、最後まで彼女を見捨てない。いや、真実彼女にホレているんである。ここが泣かせる。自分のせいで彼女が弟子も何もかもなくしてしまい、理解者であるお久を傷つけることになったことに責任を感じた彼は別れ話も持ち出すのだが、豊志賀はそれをお久に乗り換えるつもりなのだろうと責め立てるんである。まったく、あんなに弟子思いで、タヌキおやじどもともビシッと渡り合っていた彼女がこんな体たらくだなんて……ああ恋は恐ろしや。そんなこんなしているうちに、彼女は目の横にまるでお岩さんみたいな醜い傷を負ってしまうんである。ますます殻に閉じこもってしまう彼女。

と、この間、宗悦の亡霊がウロウロしているのだ。そのせいで彼女はおびえきり、こんな弱い心持ちになってしまったんだとも言えるので、まああんまり言うのも酷というもんかもしれない。たった一人の身内である妹を呼び寄せ、布団をかぶり引きこもったまま、惨めな嫉妬心ばかりがふくらんでいく。しかしこんな風にやつれ、醜い傷が出来てもやはり美しい中田康子。この人の美は、清廉な美や汚れなき美ではなく、人生の機微を充分に知った、ちょっと堕落したものの入った美しさなので、こんな風にやつれればやつれるほど美しくなる気すらする。それにしてもいわれなき疑惑を浴びせられるお久も、そして豊志賀もほんとかわいそう。

まあすべてはこの宗悦の成仏できない、さまよえる魂が仕掛けたドロドロ劇だと思えば、豊志賀の嫉妬心もまた図られたものなんだから。かくしてすっかりオカしくなってしまった彼女は、そして父親の宗悦に導かれるようにして彼の死体のあがった場所である累が淵に生き霊として漂ってくる。お久を沼に引きずり込もうとし、それを救おうとする新五郎。お久は無事に助けられるが、彼の目はお久など見ていない。生き霊の彼女を追いかけていく。そうだ、彼はいつだって豊志賀を見つめていたではないか、どうしてそれが判らなかったんだよ!もう!そして彼女の家までたどり着いた時、家の中で賊にやられて彼女は死んでいるんである。冷たくなった彼女の亡骸をおこして抱き抱え、真実惚れていた、と号泣する新五郎。哀切ながら、見とれてしまう美しさ。

その後場面が変わり、お久、豊志賀の妹、その彼氏と新五郎とで彼女の墓参りをする数秒のショットでいきなり終マーク。あ、あ、あら?ずいぶんとあっさりした終りかただこと……。★★★★☆



1999年 123分 日本 カラー
監督:阪本順治 脚本:阪本順治 宇野イサム
撮影: 音楽:coba
出演:藤山直美 豊川悦司 國村隼 大楠道代 牧瀬里穂 佐藤浩市 岸部一徳 内田春菊 早乙女愛 渡辺美佐子 中村勘九郎

2000/8/22/火 劇場(テアトル新宿)
藤山直美の映画初出演にして初主演作。なんたって父親にソックリで、藤山寛美以上に藤山寛美とも言える達者な彼女が、今まで映画に出ていなかったことは、まっこと邦画界の損失である。それを実現させたのが阪本順治監督であるというのはまさしくドンピシャ!阪本組のメンメンが豪華に彼女のまわりを彩りながら、口をあんぐり開ける、どこかサワヤカなエンディングまで、ひとときも飽きることのない味わい深いロードムービーだ。

自ら世間との関わりを拒むように、実家のクリーニング屋の二階で繕いもののミシンを踏む正子(藤山直美)。洗濯物が溜まると訪ねてくる奔放な妹とは折り合いが悪く、腹立ちまぎれに室内履きのまま列車に飛び乗ったりもする。ある日突然の母の死。その日の夜の妹の暴言についにキレた彼女、妹を絞め殺し、香典袋をつかんで家を出る。そこにおりしもあの阪神大震災……。

それにしてもこの妹のヒドいことときたら!牧瀬理穂がこんな役を演るというのもちょっとオドロキだが。「私、子供の時からずっとお姉ちゃんが恥ずかしかった」(あんたの方がよっぽど恥ずかしいわ!)と泣き叫ぶわ、「お姉ちゃん、早よ、女になったら。同情するわ、ほんまに」とあざけるように耳打ちするわで、ほんとに正子でなくたって殺してやりたい小憎らしい妹。正子の大切に読んでいるふた昔前くらいの漫画、「カトリーヌの涙」の一節をコバカにしたようにそらんじる場面も、正子の踏みにじられた気持ちが切なくって……いまやたった二人の身内どうしになった姉妹が、どちらかが死んだらどちらか一方が哀しむべき姉妹が、こんなことになってしまうなんて。

震災の混乱の中を呆然と歩きながら、なぜか持って出てきたアルバムをふと思いついて投げ捨てる正子。……昔ラジオドラマでごみ捨て場に家族のアルバムを見つけて、こんなものを間違っても捨てるものだろうか、と悩んだ男性の話があった。私もそのラジオドラマを聞いた時は、そんなことってあるだろうかと思ったものだが……そう、普通ならば、アルバムを捨てたり出来るわけがない。しかし正子にとって家族や過去は忌まわしいものでしかなかったのだ。いつの日からか、家族の記憶としての写真を撮ることもなくなった(だから指名手配の写真がなくてなかなか捕まらない)。唯一人かばってくれた母親も、もういない。彼女は家族と、過去と決別したのだ。しかしそれは普通の旅立ちではない。決別したくても殺人犯の彼女には過去が猛スピードで追っかけてくる。

大阪のラブホテル、別府のスナック、姫島でのおばあさんの手伝いと、警察の目をかいくぐって転々とする正子。そしてレイプで“女”にもなってしまった。しかし彼女と出会う人たちは、皆総じて優しく、そして哀しい。自転車乗りを教えてくれたラブホテル経営者(岸部一徳)はホレかけていたところで突然自殺し、自分のスナックで雇って可愛がってくれたママ(大楠道代)はヤクザ崩れの弟(豊川悦司)を殺され、正子にホレたスナックの常連客(國村隼)は金で彼女を買い、正子がホレた、リストラされて会社を脅している男(佐藤浩市)は妻に逃げられる……この彼との別れで「月が西から昇ったら、うちと一緒になってください(あの「カトリーヌの涙」のセリフであろう)。ただ気軽に、うん、と言ってくれればいいんです」と万感を込めて言う彼女に従い、訳も判らず彼女を見送る彼……切ない。

それにしても、どんどん魅力的になっていく正子(=藤山直美)には驚いてしまう。妹を殺してから、というわけでもないだろうが、あの客が一目惚れ(!)するのも判るほどにきれいになっていく。人を殺して人生が開けて輝きだすなんて、なんという皮肉だろう。しかしその代償のように、正子はどんな素敵な人間関係を築こうとも、それを長い間楽しむことは出来ない。彼女が呼び寄せたように必ず警察の手が入るような哀しい事件が起こり、彼女は顔を隠してまた逃亡する。……大海にまで!

佐藤浩市と豊川悦司の両氏が(本作ではカラミがないのが残念だけど、共演は「Lie lie Lie」以来ですなあ)妙齢の男の色香をふりまく。バーテン姿が異様に似合う豊川氏は、退屈してるだろうと正子に雑誌を拾ってきてやるという親切な(?)一面もありながら、正子をあの客に売り、間に立って金を受け取るという行為もする。しかしヤクザの世界から逃れ切れなかった彼は、「姉ちゃんのこと、頼むわ」と去り、正子が見つけた時には血まみれで虫の息……あいかわらず血まみれ姿が良く似合う。一方の佐藤氏は、彼女が殺人を犯した前に彼女と関わった(彼は覚えてないけど)唯一の人物。列車の中で彼女に割り箸を貸し、スナックで飲んだくれて店で一夜を明かし、……ピンポイントで正子の女心をくすぐる面を見せる優しさや色気がたまらない。

もうちょっと年がいった男性二人、岸部一徳と國村隼の二人は、また違った魅力。もうかなり人生に疲れ、男の色気というより、守ってやりたくなる疲れた中年男ぶりが哀しくいとおしい。特に國村隼は、良かったなあ。カーテンの陰から顔を覗かせた正子に目を奪われる最初から、思いつめた顔で(……かなりコワかったぞ……)正子に迫り、別れの前、彼女に砂浜で平泳ぎを教え……。彼女がホレた男性たちより、彼がイイなあ、と思うのは、やはり愛するより愛される方が幸せだからかしらん!?

「友達って、おらんとあかんの」「別に許してもらわんでもええよ」といった台詞が胸に突き刺さる。一方でそうだそうだと共感しながら、共感してしまう自分に慄然としたりする。友達の位置、恋人の位置、恩人の位置、片思いの相手の位置……他人を推し量る距離はいつだって難しいのに、身内の距離だけは厳然として遠のきもしなければ、縮まりもしない。どんなに遠くなっていても、結局はそれに縛られ苦しめられ、殺してすら亡霊(幻影?)につきまとわれる。逃げ続ける正子はその重そうな体(その実案外と軽やかなのだが)が多分にユーモラスなのだが、しかしその自虐的な哀しさがもう何か身につまされちゃって、とてもその日の観客の男性たちのようにはムジャキに笑えなかった。監督は勿論、そうしたシーンで笑わそうと意図しているとは思うんだけど、それに応えて笑っている男性たちに、ああ、私はこの人たち好きになれないな、などと思ってしまって……。

どこか「カモメ kamome」で描かれた福間和江を思い出す物語(劇中でも指名手配ポスターなどで目配せしている)。しかし、正子は福間和江のように顔を変えない。“家に閉じこもりっきりで最近の写真がない”という、かなり悲惨な状況だったために比較的容易に逃亡を続けていけた彼女が、しかしスナック時代の写真が世に出たため、追いつめられてしまう。しかしここで彼女は初めて自分のアイデンティティを獲得できたようにも思う。それを象徴するのが、“顔”。写真の中の正子はそれまでの彼女(や指名手配似顔絵)とは別人のように華やかに輝いている。そしてラスト、追いつめられて海へと浮き輪で逃亡を図る正子には、何だか泣き笑いのようになってしまった。絶対無理、無理だって判ってるけど、あのまま逃げ切って欲しい!って願ってしまった。★★★★☆


カオス
1999年 104分 日本 カラー
監督:中田秀夫 脚本:斎藤久志
撮影:喜久村徳章 音楽:川井憲次
出演:萩原聖人 中谷美紀 光石研 國村隼 夏生ゆうな

2000/10/23/月 劇場(テアトル新宿)
「女優霊」「リング」の時にはその尋常じゃない恐怖演出にあんなに盛り上がっていたのに、なんだかそれ以降は急速にフツーの映画監督になってしまっている気がしてならない中田監督。本作も、しかりなのである。それなりのどんでん返しはあるものの、それはそれほど驚くことはない。監督が言うように男と女の心理的葛藤が主たる目的なのだろうけれど、少なくとも中谷美紀の妙に思わせぶりな表情からはそれを汲み取ることは難しい。私は彼女が巷で言われているほど“若手女優のホープ”などとは思わないのだけど。私はテレビドラマを観ないし、映画の「ケイゾク」も観てないから大きな事は言えないのだが、少なくとも本作での彼女は割と型通りである。

美しく、なぞめいた人妻、そしてその正体は男二人にゲームをもちかける若き愛人。彼女は狂言誘拐を頼んだ便利屋が“誘拐劇のリアリティ”を演出するために(というのは半ば口実なのだろうという危うさがあるのだが)彼女に軽く暴力を働いたその時から微妙に感情のバランスを崩していくのだが、それもまた話の流れからそうだったんだろうな、と推測される程度で、彼女から感じさせるものはあまりないというのが正直なところ。

対する萩原聖人は、彼もどちらかと言うとテレビのフィールドの人だが、その数少ない映画出演でかなりしっかりと私の心をとらえている役者。彼はかなり上手い、と思う。「7月7日、晴れ」なんていう、ちょっと気恥ずかしい映画の時ですら、私は彼の役柄にシンクロしてしまってかなり感動してしまったくらい。彼はその表情、特にちょっと困った時のそれが絶品なのだ。そしてその表情はカチッとしてなくて常に微妙に揺れていて、なにかリリカルでさえあるのだ。彼が演じるこの便利屋をも騙しているとはいえ、それにしてもちょっと(悪い意味での)テレビドラマチックなわざとらしい台詞回しの中谷美紀に対して、彼はその表情と考え考え言葉を発しているような言い方が実にナチュラルで、彼の不安が観客にも感染してくるのだ。それでいて、依頼人に内緒で別のルートから巧妙に金を巻き上げるしたたかさもある。彼女を“リアリティのため”脅しつける場面といい、時々針が振れるようなコワさも違和感はない。

若いモデル崩れの女と不倫している男、その妻が愛人の存在に気付いて包丁を振りかざして二人のもとに押しかけてきたことで、夫は思わずこの妻を殺してしまう。そこで自首してしまえば良かったものの、ハデな化粧をすると妻に微妙に似ている愛人がそれをネタにひとゲーム考えだす(女の言いなりになってドツボにはまっていく夫の光石研もイイ)。彼女がこの男の妻に扮し、誘拐され行方不明となったと見せかけるというのがこの狂言誘拐劇の真相。それを時間を前後させながら描いていくのだが、この手法も最近のサスペンス劇にありがちで、そろそろ食傷気味。ある程度までは確かに効果的だし、この物語においては必要でもあるのだが、少々あざとい感じすらする。

ラスト笑いながら崖から、しかもこちらがわを向いて飛び降りてしまう中谷美紀はかなり恐怖だった。飛び降りる前からその笑顔は、ただの笑顔の筈なのにやたらと怖くて、そしてその笑顔をギリギリまで見せたまま飛び降りてしまうのだから本当に怖かった。ここだけはさすが中田監督!などとも思ったのだが(ちょっと「女優霊」の、フィルムの向こうで笑っている女を思い出させたりして……ゾゾッ)。でも、なぜ彼女がどういう心境でその死に至ったのかは今一つわかんなかったけど。まあ、追いつめられていたのは事実だけど……。★★☆☆☆


風が吹くままTHE WIND WILL CARRY US(国際版タイトル)
1999年 118分 イラン=フランス カラー
監督:アッバス・キアロスタミ 脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:マハムード・カラリ 音楽:ペイマン・ヤスダニアン
出演:ベーザード・ドーラニー/シアダレ村の人々

2000/3/30/木 劇場(ユーロスペース)
何だかだんだんと、……どのあたりからだろう、前作「桜桃の味」ぐらいからだろうか、キアロスタミ監督作品が苦手になってきてしまった。「友だちのうちはどこ?」「そして人生は続く」をたて続けに観たあの頃の、こういう映画が存在するんだという新鮮な驚きがなくなってしまったせいかもしれない。でも、キアロスタミ監督の作品自体も大きく変容していると思う。「友だちの……」のあたりでは、意図するものがあったとしても、それが表面上に出ることはなかった。何を狙っているわけでもない、子供のケナゲさをひたすら映し出すことによって清新な感動を引き出していた。そうしたものがだんだんと薄らいでいる気がする。でもそれは、主人公が子供ではなく大人になったせいなんだろうか?いや、作品が進むにつれ、構造がより複雑になり、画面にちりばめられる哲学的なヒントが増え、観るというより、分析する映画になっていってしまっているような気がするのだ。

地方に残る変わったスタイルの葬儀をカメラに収めるため、首都テヘランから700キロも離れた小さな村、シアダレを訪れたテレビクルーの一行。冒頭、どこまで行っても変わらないジグザグ道を砂埃をもうもうと上げて進みながら「一本木が目印だ」「一本木ばかりだぞ」と応酬しつつ進む様は笑いを誘うし、今にも死にそうなハズだった老婆の死をひたすら待ち続けて、しまいには同行のクルーにも去られてしまうベーザード・ドーラニー扮するディレクターは、携帯電話がなる度に急いで村の高台に車を走らせる姿もナサケナク可笑しい。カフェの肝ったまおかみさんや、収穫時のこの時期、畑で日がな一日働き続ける村人たちのおおらかなエネルギーは、この非生産的なテレビクルーたちとまさに好対照で、映画的躍動感に満ちている……はずなのだが、どうしてか私はそこに幸福感どころか、イライラ感ばかりをつのらせてしまった。

ディレクターが何度も何度も高台に車を走らせる繰り返しもそうだし、あまりにも意図的すぎるほどに顔を出さない人々(ディレクター以外のテレビクルー、乳しぼりの娘、穴掘り人夫)、全編折々に朗読される詩、穴から掘り出される人骨、フンコロガシ、ひっくり返される亀……などなど、とにかく解析しろといわんばかりに意味ありげなファクターをふりまいていくものだから。もちろんそれを解析しようとしまいと観客の自由だし、キアロスタミ監督自身もそれぞれの解釈については明言せず、どう考えるかは観客自身に委ねると言っているのだが、ということはやはりそれぞれから意味を汲み取れと迫っているに等しく……。頭からお尻まで解釈するすきなど与えず、きっちりと説明しきってどの監督の映画も同じように見えてしまう、いわゆるハリウッド型の監督たちとは明らかに対照的な位置にいるキアロスタミの姿勢はとても素晴らしいものだ。けれど、それを“作家主義”と呼ぶならば、この“解釈映画”はこうした作家主義が実に陥りやすい落とし穴。それこそ、批評家による解説を読んで、ふんふんナルホド、などと得心したり、キアロスタミ監督の過去作品を引っ張ってきてつつきまわすなどといった、オタク的な楽しみ方をして悦に入らなければ完結できないとでもいうような……。一方ではディレクターがカメラに向かってひげを剃るなどといった、妙に劇映画っぽい(いや、劇映画なんだけど)ことをやらせたりして、こういう作られた画を嫌う人だと思っていたのに、それも違和感。

二週間も続くテストで、いい点を取らなきゃと頑張る少年だけが、このテレビクルーたちの意図を知っている。彼はその待たれている老婆の孫。……ずいぶんと残酷な話だ。多分休閑期の冬ごとに妊娠しているのであろう女性や、ディレクターに間一髪助けられる電話線を埋めるためにひたすら穴を掘っている人夫など、印象的な人物はたくさんいる。とくにこの穴掘り人夫のエピソードは、このディレクターが村人たちには電話技師だと偽っているせいもあり、そして死を待っているディレクターがこの人夫の命を救って、自分の意識が変化するきっかけとなるせいもあってなかなかに感動的である。人夫を助け、そこに駆けつけた医者を死ぬのを待っているはずの老婆のために、医者のスクーターの後ろに乗って金色の草原の中を二人で走っていくシーンは、理屈抜きの、まさしく映画的な美しい場面。

ラスト、村から出ようとしたディレクターは、ずっと持ち続けていた人骨を川に流し、そこでかの老婆の死に遭遇することになる。あれほどまでに待ち続けた老婆の死を、多分彼は哀しい気分で見つめていたに違いなく……いや、厳粛な気分の方が近いかもしれない、とにかく、とかく死と生を語るためにヒントをばらまき続けても、そうしたものとは一切関係ない場面が印象的になるとは皮肉なものだ。それともそうしたヒントが蓄積されることで、そうした場面が印象的になるのかもしれないが……。なんにせよ、なんだかひどく長く感じてしまった。★★☆☆☆


火星のわが家
1999年 104分 日本 カラー
監督:大嶋拓 脚本:大嶋拓
撮影:芦澤明子 音楽:伊藤竜太
出演:鈴木重子 日下武史 ちわきまゆみ 堺雅人 藤田敏夫 牧口晶子 高瀬勉 井鍋信次 日下部孝一 伊藤竜太 斎藤小百合 小田香 望月志津子 小林幸司 野村純子 細川朋子 秋元早苗 露木恵美子 金子拓也

2000/2/28/月 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ)
この大嶋拓監督という人、私は前作、「カナカナ」を観た時から女性監督だと思い込んでいて、今、「カナカナ」のチラシを探し出してきたら、“女性以上に女性のまなざしを備えた新人監督”って、えッ?じゃあ、男性だったんだ……そうか、いやそりゃ、しっかり男性名なんだけど、女性だと信じて疑わないくらい、女性の願望や、もやもやとした形にならないような悩みや思いが、そこには穏やかにあふれていたのだもの。そして本作も、それは健在だった。実に四年ぶりの新作。「カナカナ」がずっと心に引っかかっていて、でもそれ以降ちっとも名前を聞かなくて、まさかあれ一作でもう映画作りをやめてしまったのかなあ、とちょっと心配になっていたから、嬉しかった。

ステージに立つと声が出なくなるというストレス性心身症を抱えて、活動の場であるニューヨークから一時帰国している未知子(鈴木重子)、その父である、かつて科学ジャーナリストをしていた神山康平(日下武史)、結婚して家から出ている久仁子(ちわきまゆみ)、司法試験の勉強のために、夏の間康平の自叙伝の清書のアルバイトをしながら離れに居候している透(堺雅人)。この四人が主な登場人物。康平はかつて「宇宙旅行協会」という団体で火星の土地の分譲をしていた経歴のある、夢見る天体マニア。そんな父を尊敬している未知子と、逆に母親が早死にしたのはその父親のワガママのせいだと、憎んでいる久仁子。康平が脳梗塞で倒れてから、介護のやり方の違いからくる衝突も発生、二人の確執はいよいよ大きくなってしまう……。

などというと、何か深刻な福祉問題を提示した作品のようにも思えるが、そうではない。勿論そうした部分もかなりシビアに描いていて、久仁子が旅行に出かけたいがために康平を施設に預けてしまうと、その施設のずさんな管理によって風邪をひいてほったらかしにされた康平が、ついにはそれが原因で死んでしまう、なんていう究極の結末までをも導き出してはいるのだけれど。この物語が魅力的なのは実在したという(!)「宇宙旅行協会」のチャーミングな発想が物語全編にもたらしている優しく、どこかファンタジックな空気感であり、それが、厳しい結末となった康平の死をも穏やかに大きく包み込んでいくのだ。そしてなんといってもイイのは、主人公、未知子を演じる実際にアメリカで活躍するジャズ・ヴォーカリスト(不勉強ながら私は彼女を知らなくて、初見でした)鈴木重子の柔らかな存在感。季節は真夏なんだけど、ノースリーブのワンピースを好んで着る彼女の、雪のように真白い肌の、そしてスレンダーな肢体が、清楚な清涼感を運んできて、とても涼やか。とても35歳には(うっそお!)見えない、いや、いくつにも見えないような一種何かを超越したナチュラルさ。そしてその優しい喋り口調。役者の際立ちかたの独特さが大嶋監督の魅力かもしれない。「カナカナ」でも、最初は単なるぎこちない台詞回しだと思えたのが、いや違う、これが実はリアルなのだと感じさせた、“演技”以上の、存在そのものが先に立つ演出法が素敵だ。

彼女が幼い頃逃げ場所となっていた、父、康平の蔵書がぎっしり詰まった部屋のある離れに住んでいる、司法試験を落っこちつづけている透は、本気で試験合格を目指しているのかも疑わしいほどマイペース。破天荒な生き方をしてきた永遠の少年である康平を尊敬しているのは未知子と同じで、いつしか彼女と不思議な感情で結ばれるようになる。彼女が離れを訪ねた時も、父の蔵書を手にして家具によりかかったまま未知子は穏やかに眠り込んでしまい、そんな彼女にタオルケットをかぶせて、透が背中合わせでパパイヤを食べるシーンや、「僕、マッサージが上手いんですよ」と言って、うつ伏せになった未知子の腰をもむ透とそのまま安心しきって眠り込んでしまう未知子。……エロティックな感覚を想起させそうなのにそれとは全く違う、惹かれあっているんだけど、それはとても深い、信頼感という部分での結びつきであり、いいなあ、と思ってしまう。こういう部分がとても女性が共感する、女性的な感覚だと思っちゃうので(そうでもないのかな)……。

二人の感情を敏感に察知した康平が仮病を使って、彼らを外の食事に行かせた日、帰ってきた二人は康平の使っていない介護ベッドの上で(!)キスをかわし、透は性急に彼女を愛そうとするのだけれど「あなたがいやだというのではないの。今私は精神が不安定な状態で、安定剤を飲んでいるし、実際にセックスは控えるように言われているし、それに、そうした欲求も起こらないんです……ごめんなさい」と未知子から拒まれてしまう。透は未知子が好きだという気持ちは本当なはずなんだけど、その時の本能的衝動がおさまらないままだったのがいけなかったのか、久仁子の誘いにのって彼女と関係を結んでしまうんである。やっぱり男性は性的欲求が完全に感情から分離できてしまうんだな、と……女性にもそういう部分がないとは言わないけれど、多分男性の方がそれは顕著で。それがいつでも哀しい結果を生んでしまう。

体が不自由になった父親を未知子と交代で介護する久仁子の、父親を人間扱いしていないやり口はひどく、なんて女だ、と思ってしまったりもするのだけれど、彼女が未知子に抱えているコンプレックスからくる、苛立ちみたいなものもなんだかとても切実で……。彼女もまた音楽の道に進みたかったのだけれど、家庭の財政的時期が悪くて、それが出来なかった。「あんたはいつでもタイミングがいいのよね」と愚痴る久仁子。未知子はでも、その穏やかな外見からは想像の出来ない、思い立ったらこれ!という行動力が彼女に音楽の道を開かせたのだけれど、久仁子にはそこまでは見えていないのだ。長く家を離れていた妹が、自分よりずっと父親の信頼を得ていることも、彼女の反発をより強くしてしまうのだろう。彼女自身は母親への思いから、父親を「今でも許してない」と言うのだけれど、多分そうではなく、明らかに自分よりも可愛がられている未知子がねたましいのだ。彼女のミスで康平が危篤状態に陥った時、「ごめんね、お父さん」と体を震わせて涙を落とす久仁子をそっと抱きしめる未知子……。

それにしても、久仁子もそうだが、康平を何ら理解せずにエラソーな口を叩くイヤな女がもう一人登場する。何の下準備もせずに康平をインタビューしに来て、彼を詐欺呼ばわりするあの女!マスコミ的優越感と「私はこんな仕事したくないのに」みたいな、不満顔をまき散らし、家族の仲をひっかき回し、天体を、科学を愛する康平の純粋な心を土足で踏み荒す。テ、テメエー!しかし、彼女がいわゆる現代社会を象徴する存在なのかな、という気がする。途方もないことを、本当にまっすぐに信じて、正しいと思うことだけをやってきた人間をあげつらい、嘲笑する、そんな世の中。康平みたいな、そして未知子みたいなピュアな人間は息の出来ない社会。

康平の死後、家を売りに出すことになって、透は離れを出て行き、未知子はアメリカに戻ることとなる。引越屋さんを待たせて、未知子のいる二階のベランダに登る透。「この家に帰れなくなると淋しくなりますね」と言うと未知子は「ここは父の家、父がいるからこその家だったから」と言う。「あの時、本当は抱かれたかったかも。もちろん不安はあったけれど……」と告白する未知子に驚く透は、ややあって、「またいつか一緒に住めるといいですね」と言うのだ。……思わず数秒考えてしまったけれど、こ、これって、ひょっとして、プロポーズ!? それに応えて未知子もまた「私もそう思ってます」と返すのだもの。ああ、こんな、普通の会話みたいにさらりと流して、でも、ああ、なんて素敵!なんの確約も約束もないままの二人だけど、きっときっと、このままでは終らない。そんな予感がする。康平は、透のことを「あいつはああ見えてなかなか見所がある。あんな弁護士がいてもいいじゃないか」と言い、可愛い未知子の相手として考えていたようだったしさあ。二人は空を見上げ、「もう、お父さん着いたかしら」「そろそろじゃないですか」なんて言う。病院のベッドで、先立たれた妻が火星で待っている夢を見たという康平、着いた先は当然天国ではなくて、火星だろう。

作品中では徐々に歌声を取り戻してはいるものの、結局まともに歌うシーンは聴けないけれど、ラストのテーマソングとして流れる、未知子に扮した鈴木重子の優しい歌声がこの作品世界をドンピシャに象徴している。こんな優しい映画は何だか本当に久しぶり。厳しさを内包しつつも、優しさに満ちている。厳しさがあるからこそ、ことさら優しさが染み入るのだ。★★★★☆


カノンSEUL CONTRE TOUS
1998年 93分 フランス カラー
監督:ギャスパー・ノエ 脚本:ギャスパー・ノエ
撮影:ギャスパー・ノエ 音楽:
出演:フィリップ・ナオン/ブランダン・ルノワール/フランキー・パン/マルティーヌ・オドラン

2000/10/27/金 劇場(シネマライズ)
あっ……私ったら、ギャスパー・ノエ監督の前作にして第一作、「カルネ」を観ないままだった。この「カノン」はその登場人物だったという馬肉屋の男の物語で、どのあたりまで「カルネ」と「カノン」が呼応しているのか知るよしもないのだけど……「カルネ」を観ずして「カノン」を語っていいのかどうか判らないのだけど……。

と、言うわけで、かなり今更ながら、ギャスパー・ノエ監督初見、なのである。ウワサは数々聞いていた。あの塚本晋也監督が言及していた(何を言っていたかは忘れたけど)ことで、興味をくすぐられていた。そういやあ、出演や音楽こそ手がけてないけど、撮影や編集など実に五役をもつとめているあたりはツカモト流。でも作品的には塚本晋也というよりも、福居ショウジンに近い感じ(そう言えば、福居ショウジンの新作、聞かないな……)。衝撃、暴力、人間の生々しい欲求、憎しみ、不条理な感情、生理的嫌悪。人間が心惹かれながらも、心惹かれていると言ってしまうことに躊躇する世界。……だからか、この「カノン」、好きだ、というのは難しい。★★★☆☆というのは決して“普通”という意味じゃない。観逃せはしないけど、★★★★☆以上つけることが感覚的に出来ない。社会を憎み、フランスを憎み、外国人を憎み、……たった一つ愛しているのは自分の娘。生理的な嫌悪感と、生理的な共感が同時に発生する、どこかいまいましいような感覚。

何度も何度も現れる、爆発音とともにジャンプカット(クラッシュ・ズームと解説されているが)される手法が、この作品の唯一無二の個性とリズムであると同時に、絶えずビクビクしながらこの映画を観続けなければいけない凄まじい音と映像である。ビデオで観てたら、絶対音を絞っているだろうな、などと考えて、……映画館でなければ意味ないんだろうな、と思う。あいかわらずくだらないところに目を光らせている映倫によるボカシ(主人公の男が観ているポルノ映画に)に苦笑しつつ、アホやね、本当にヤバイところはメッチャ見逃しているやん、と……。あんな、たかが(誰もが持ってる)性器が映っているのより、娘の若いむっちりした太股の奥に年老いた男の手を差し入れていったり、幻想で娘を殺すシーンで首からドクドク流れる血や、撃ち抜かれた頭から脳ミソが混じっていると思しき形状の血が吹き出している方がよっぽどヤバイのに。……そしてそのシーンで今まで以上に切れ目なく絶え間なく時には輪唱のように寄せては返す男の苦悩のモノローグが、もうやめてくれよ、頼むから、苦しい、苦しい!とたまらなくなる。……でも、ここは、ひどく残ってしまう。名シーンである……と思う。

終わってしまえば、娘とのシーンはかなり短いのにもかかわらず、この男がたえず娘への思慕を口にしているせいか、やはりその邂逅のシーンが最も強い印象として残る。そのシーンまでに男のそれまでの過去(これは「カルネ」の説明なのか?)、そしてはらませた女の尻に敷かれ、腹を立ててその女に暴力をはたらき流産させてしまったこと、彼女についていった田舎からパリへと戻り、なかなか仕事が見つからないこと……などが語られていく。その間、この男は表はただただムッツリと黙っているのだけれど、その内ではひたすら、絶えることなく、ずっとずっとずーっと呪いのように憎しみの言葉を言い続けている。仕事が得られないこと、フランス人より成功しているアラブ人、ゲイ、……この映画自体を非難してくれ、糾弾してくれとでも言いたげな挑発的な態度。しかしそれが出来ないのは、……彼のその言葉が結局は全てが自分への苛立ちから逃げるためにつぶやいているに過ぎないからなのか。それとも自分たちの中にもこうした憎しみの言葉が存在するからなのか。いや、最も大きな理由は、この物語の着地点が憎しみから愛に変化しているからかもしれない。

その愛とは、娘への愛である。口を聞かない娘、自分のせいで施設へ入れられてしまった娘、自分にとって(娘にとっての自分も)、ただ一人の家族である娘。彼がこの世でただ一つ愛しているもの。ここにも糾弾する要素は存分に含まれている。彼はその愛情を娘に対する性欲という形で表すからである。でも、愛情を何によって表現するか、愛に種類があるのか?と考えた時に、この男の感情や行為を否定できないことに慄然とするのである。こと男女の恋愛において、性欲が発生しない愛情はない。しかし、なぜ家族においてはそれが否定されるのか?……もちろん、一般的な感覚では、家族は愛しているけれどもそれが性欲に結びつくなんてことは決して無い。でも、なぜ無いのか?在る場合だってあるのじゃないのか?同じ愛ならば。愛は愛でも同じじゃないと言うのなら、どう違うのだ、どちらが上なのだ?恋愛相手だって結婚してしまえば、家族ではないか。

性欲は愛情が絡まなくても単独でも存在する。存在してしまう。それが、この世界でのただ一つの誤算。セックスは聖なるものとしても、愛情を語るものとしても、そして同時に醜悪なものとしても語られるこの矛盾。そのことにいつだって人間は苦しめられてきた。……この男は、しかしそれで苦しんでいるのだろうか?いや、彼の中では娘に対する性欲はただただ純粋でまっすぐの、愛情の表現のみのように見える。彼は娘を抱きしめる。強く、背中をさすって愛撫して。そして驚くべきことに、それに対して娘もまた積極的に応えるのだ。彼女は喋らない、喋らないけれど、まるで待ってた、とでも言っているかのように。そして窓辺に場所を移しての、乳房への愛撫を一瞬移してから外の子供たちが遊ぶ風景へとパンしていくラストは、未来に生きる子供たちに、世界の根源である愛の形を、これが真の愛なのだとでもうたい上げているかのようだ。

この、娘との一連のシーンの前に、「アテンション!」と画面いっぱいの字幕で、劇場を出るならあと30秒以内で、と警告する。しかしその後に続いているのは(ショッキングな幻想での殺人シーンがあるとはいえ)結局は愛の語りなのである。多分、今までで一番穏やかな。それはまるで、愛というものの是非を問うているような気もし……。ああ、でも、動物のように、他人である異性への愛情表現と、家族へのそれとが、行動形態だけで何の疑いもなくはっきりと別れていたのならこんな風に思い悩むこともなかったのに。なぜ、人間だけが、その愛情表現に感情が複雑に絡み、タブーだなんだと考えなくてはならないのだろう?

アイトハナニカ? ★★★☆☆


仮面学園
2000年 分 日本 カラー
監督:小松隆志 脚本:橋本裕志
撮影:高瀬比呂志 音楽:真魚[ma−o]
出演:藤原竜也 黒須麻耶 栗山千明 石垣佑麿 渡辺いっけい 本田博太郎 小野麻亜矢 茂森あゆみ 麿赤兒 大杉漣 鈴木ヒロミツ

2000/8/21/火 劇場(丸の内東映)
藤原竜也主演というよりは、黒須麻耶主演という感じ。彼女が語りべとなって事件に潜入していき、その中で藤原竜也演じる仮面作家の堂島暁に出会い、惹かれてゆく。堂島は最後の最後まで敵か味方か判らない位置づけをされているし、登場シーンも彼女扮する川村有季の方が多い感じだし。それにねー、この笑顔のまぶしい美少年が、役柄のせいで常にクールな表情をたたえているのがもったいなくってね。対照的にいつも素直な笑顔をたたえる黒須麻耶が、まあまあなんでしょう、この美少女のはつらつとした伸びやかな美しさときたら!「ブギーポップは笑わない」を観逃したのを、ものすごーく後悔しちゃうなあ。すらっと背が高く、すらっと足が長く(スリット入りの、しかもミニスカートからのぞく素足にくぎづけじゃー)やわらかなショートカットも似合ってて、女子校で女の子からキャーキャー言われるタイプだわ。自分をモデルとして売り込む場面の、後頭部と腰にそれぞれ手を当てて体をS字にくねらせる場面のカワユサときたら、んもう、おねーさん、困っちゃう!

この原作は知らなかったけど、どこかシュールな画になる世界が、映画にピッタリ。いじめられた子供たちが人格を変えるために仮面をかぶり、それが学校中、世間中に蔓延していく。誰が誰だか見分けがつかなくなり、疑心暗鬼にかられ、混乱が混乱を生む。多分に今の子供社会の問題点をついた物語だが、華やかさ、奇抜さ、怪奇さでエンターテインメントとしての見ごたえ充分。一人でもぎょっとする仮面人間がだんだんと増え、群れをなしてくる不気味な迫力は圧倒的。そうした学校や社会での場面は勿論、最も謎を呼ぶ現場である、DAIMONの仮面ファッションショー(ちょっと「白痴」のメディア・ステーション、銀河のショーみたいですな)、スチール撮影の場面や、Dビルの、仮面パーティーでほとんど乱交パーティーのごとく絡み合う男女といった、アバンギャルドで耽美的な世界が効いている。

藤原竜也や黒須麻耶は勿論、有季と行動を共にする、彼女に惚れてるメガネがいかにもコミカルな貢役の石垣佑麿、仮面ブームの先駈けとなった仮面モデルのHIROKOに扮する小野麻亜矢、そして堂島の妹(ではないんだけど)レイカ役の栗山千明はなぞめいた、ちょっとぞっとするような日本的美少女が相変わらずいいし、なんだかもう、キレイな少年少女がぞろぞろ出てきて、ああ、若いって美しいわあ……と嘆息してしまうのであった。一方でこうした若い役者たちを支える渡辺いっけい、本田博太郎、麿赤兒、大杉漣といったベテラン役者たちが味わい深い。ことに渡辺氏と本田氏の、少々はしゃいだようなテンションがイイ。

堂島は親との相克から仮面をかぶることでもう一人の人格を生み出している……という展開は予想通りという感じだが、しかし彼の場合はいわゆる多重人格症というのとはちょっと違う感じもする。彼の場合、父親との問題がTOSHIという人格を生んだんだとはっきり認識し、その人格が消えても別にかまわないみたいな感じを受ける。多重人格というより、堂島自身が意識してTOSHIを演じているように思えるのだ。というより、精神的にツラくなると、TOSHIという殻に逃げ込む、というか。有季はそうした堂島に臆することなく忠告を与える。彼女のまっすぐな心が、堂島の病気を癒してゆく。ちょいと単純だけど、若くて美しいから許しちゃう、もう。

ラストシーン、必死に笑顔を作って心を押し殺し、堂島と決別した有季が泣きながら歩いて行くのを貢が追いかけ、ハンカチを手渡す。「……バカ」といいながら受け取ったハンカチを目に押し当て、泣き笑いする黒須麻耶が可愛いぞ!しかもこの場面が一番セクシーだ!★★★☆☆


カモメ kamome
1999年 96分 日本 カラー
監督:中村幻児 脚本:中村幻児 佐藤俊城
撮影:中村幻児 音楽:遠藤浩二
出演:清水ひとみ 田口トモロヲ 絵沢萠子 宮下順子 木村栄 藤田みどり 梓陽子 木村恵美 瑞木智乃 中村孝雄 飯島洋一 鈴木佐知 中村幻児 大鷹明良 吉田亨 河内喜一郎 税所伊久磨 宇佐美百合子

2000/3/10/金 劇場(銀座シネパトス)
昭和57年に起こった松山ホステス殺人事件の犯人、福間和江が、時効寸前に逮捕されるまでの十四年と340日間の逃亡生活を、実際の逃亡先を舞台に一年がかりで撮影されたという“ドキュメンタリー・ドラマ”。とはいえ、映画のラストには「事実をもとにしたフィクションであり、実在の人物、団体とは関係ありません」などというただし書きがされており、どこまでがドキュ・ドラマとして成立しているのか、難しいところである。もしかしたら、映倫あたりからクレームがついて、急遽、この最後のただし書きをつけさせられたのかもしれないが(確かにとってつけたような感がある)全てがプロの俳優にって演じられているし、彼女の逃亡先の店での常連客のコメントなども、本人が出てきて言っているわけではないので、現実にそんなコメントがあったかどうかも判らない。この状態でドキュ・ドラマとはちょっと言えない気もするのだが……。

しかしこの事件を題材に推測だけでここまで描いてしまっていたのなら、相手が殺人犯とはいえ、ちょっと人権問題に引っかかってくるかも知れず……まったくの創作と言ってしまうのも、ドキュ・ドラマと言いきってしまうのも危険な作品。そこに描かれるのは、性におぼれた女の姿であり、行く先々で男を翻弄し、また逆に翻弄されて堕ちていく姿なのである。“オバサン”になることを極端に恐れて店の若い女の子を毛嫌いし、濃い化粧を施すごとに逆に醜くなっていく姿は目を覆わんばかり。福間和江を通して女自身のあり方、男の視線による女のあり方を痛烈に批判しているともとれる。女はあくまで若さであり、男は金(男性自身にとっては性的能力が重要と考えている向きもあるが……)。殺してしまったホステスのことを思い返す時、彼女や遺族に悪いことをしてしまったという反省の言葉と「あのバカにした態度!」というにがにがしげな言葉とがまるで分裂症のごとく交互に出てくる福間和江。自分にはもうない、女の若さと美しさ、それそのものが自分に対して向けられる時に「バカにしている」と思われてしまうのであろう、愚かな、でも切実な女の思い。

逃亡先で次々と名前を変え、整形して顔を変え、自分自身でも自分が何者なのか判らなくなっていったんではないだろうかと思われる福間和江を演じる清水ひとみが凄い。まさか本当に整形したわけでもないんだろうが、全てを彼女一人でこなしているのが信じがたいほど、本当に顔が変わっていくのである。小さな目を気にしているのか、やたら幅広く入れたアイシャドウが、逆に目をはれぼったく見せて恐ろしくブスに見えていたり、逆に目もぱっちりとして、口元も華やかに、素晴らしい美人になっている場面もある。しかしどの状態においても彼女はもはやみずみずしい魅力といったものからは完全に見放されている。熟女の魅力というものとも違う。方向を見失い、早く捕まえて欲しいという気持ちと、早く時効を迎えたい、でもその頃にはもうオバアチャンだ、といった気持ちが交錯する疲弊して実体のないような女の姿。15年弱逃げ続けた彼女はしかしその間の時間は止まっていたかのように、その世界は何だか最後まで昭和の古めかしい色をまとっており、彼女だけが年を取っていく悲哀が痛烈である。

三人の子供のうち、長女は「あんな女の血を引いていると思っただけで身の毛がよだつ。私はお母ちゃんみたいにはなりたくない」と言って一人家を出てしまう。長男は逃亡中の福間和江に呼ばれて、彼女をひいきにしている和菓子職人に弟子入りし、しばしの時を母子で暮らす。彼は言う「お母ちゃん、自首して罪を償う気はないのか。お母ちゃんが刑務所から出てきたら、他人がどう言おうと俺が一生面倒見るから」。……娘と息子、それぞれにとっての母親の存在の違いが象徴的。娘にとって母親は将来の自分かもしれない存在であり、息子にとってはどこまで行っても聖女としての母親なのである。

気弱な夫が似合いすぎるくらいに似合っている田口トモロヲ、自らの責任も感じつつ、しまいには娘に死んで欲しいとさえ願ってしまう彼女の母親の絵沢萠子、彼女を信頼する気持ちと、殺人犯に対する嫌悪感に板挟みにされながらも通報してしまう小料理屋の女将、宮下順子などなど、やはり一線で活躍している俳優の存在感が大きい。★★★☆☆


玻璃(ガラス)の城CITY OF GLASS
1998年 110分 香港 カラー
監督:メイベル・チャン 脚本:アレックス・ロー
撮影:ジングル・マ 音楽:ディック・リー/李迪文/チウ・ツァンヘイ
出演:レオン・ライ/スー・チー/ニコラ・チェン/ダニエル・ウー/ビンセント・コク/イーソン・チャン/ポリーン・ヤム

2000/7/17/月 劇場(岩波ホール)
紆余曲折の人生や愛を、その長い時間を見つめて描くのはおハコのメイベル・チャンのはずなんだけど、今回はどこかハズしているような気がしてならない。なんでも本作はいつも以上に脚本・製作のアレックス・ローに手綱を握られていて、実質上彼の監督作品である感が強かったというウワサも聞こえてるし、ひょっとしたらその辺に遠因があるのかも。いくら童顔だからって撮影時は既に32歳、当年とって34歳のレオン・ライに(あ、でもそんなもんなんだ……40位いってるのかと思ってた)大学生時代までを演らせるのはちょっとムリが……。スー・チーはまだ20代前半だから大学生時代に違和感はないけれど、彼女もまた40代の、現在大学生の娘がいる設定にはツラすぎる。いねーだろう、こんな若いおかーさん持ってる大学生は!しかもただ大学生ならまだしも、70年代の学生運動時代、というのがさらにツラいんだなー。レオン・ライの長髪が恥ずかしすぎる……も、ほとんど直視できなかったもん。大体実際は10は離れているレオン・ライとスー・チーがせいぜい違って2つかそこらの年齢差を演じているのが……ねえ。

物語は三つの要素。香港の中国返還と、(いわば)不倫の果ての許されない恋の終焉と、その子供同士の新しい愛。大学のキャンパスで出会って恋に落ちたラファエル(レオン・ライ)とヴィヴィアン(スー・チー)が時代の波に引き裂かれてそれぞれに伴侶を持ち、20年後に再会し、再び激しい恋に落ちる。香港がイギリスから中国に返還される年の1997年の新年の鐘の鳴る中、ロンドンで密かに逢瀬していた二人の乗った車が激突、横転、二人が息を引き取る場面から始まる。それぞれの息子(ダニエル・ウー。チラシの表記はダニエル・ンだけど、こちらを取りたい)と娘(ニコラ・チェン)が、親同士の関係と突然の死に衝撃と驚き、哀しみを隠せない中で出逢い、親の過去を拾いながら彼らの愛も育んでゆく。

中国返還直前の数年間、香港では保険としての海外移住が流行り、夫婦の別居や家族が別れて暮らすことが珍しくなかったらしく、それゆえこうしたダブル不倫の物語もわりとリアリティを持って迎えられるらしいのだけど、それにしても悩まなさすぎだよなー。そりゃ憎んで離れ離れになったわけではないけど、それぞれの伴侶とだってそれなりの恋の末の決断で結婚したに違いないのに、ラファエルとヴィヴィアンが再度の恋に落ちている間は、まるで彼らがただ疎ましい存在だといわんばかりなんだもの。しかも、恋に目がくらんでいる二人は、自分達に子供がいることもすっかり忘れているかのよう。ま、すでに子供は手を離れているし、香港では子供に対してドライなのかもしれないが、まるで何にも足かせのない状態で恋しているみたいに見えるのが気になる。障害があるがゆえ燃え上がる恋に見えないのだ。なんかこの辺りはちょっと欧米的だよな、と思うのは偏見なのだろうか?ま、イギリス領だった香港だから仕方がないのか??

親の死によって、しかも不倫の果ての事故死によってめぐりあう子供同士、デイビッドとスージーの方がよほど苦しんでいる。しかも彼らは香港が揺れ動くさなかに多感な時期を迎え、故郷や自らのアイデンティティのあいまいさに翻弄されてもいる。デイビッドは海外での生活が長く、英語で生活するのが普通の彼にとって香港はあまり長くはいたくないどこかうっとうしい街。そんな彼に中国人なら中国語を喋れと一喝するスージー。それぞれが自分にない部分に惹かれ、お互いに埋めあって成長していく様は、その親世代のただ甘いだけの恋の過程よりもよっぽど説得力がある。

そう、あのシーンが良かったな。デイビッドとスージーが彼らの親が共同名義で買っていた家を売るために一緒にいて、で、その家の窓から外を眺めていたデイビッド、池のそばにいる女の子が好みだと言う。それなら私が話をつけてあげる、と飛んでゆくスージー。池につくともうその女の子は立ち去っていて、スージーは二階にいるデイビッドに向かってジェスチャーでどこ?誰?と呼びかけると、デイビッドもまたジェスチャーでそこ、そこの女の子だよ、と指差すのだ。え?でももういないじゃん、と思っていたら、デイビッドはスージーを指して、君、君だよ、と言ってるんだよね。……なにかちょっと良かったなあ。

この女の子は初見だけど、ダニエル・ウーは私にとって「美少年の恋」に続いて二度目のお目見え(そういやあ、スー・チーも「美少年の恋」に出てたっけ)。スラスラと出てくるネイティブイングリッシュの知性とサワヤカな風貌が武器の実に好青年。「美少年の恋」の時はその独特の口元がちょっと気になりもしたが、本作ではその違和感もなかった。なにより「美少年の恋」よりももっと普遍的というか、リアリティのある普通の青年役がしっくり来ていたせいもあるだろうが。あー、しかし「ジェネックス・コップ」を見逃したのはほんとーに失敗だった!彼のキレた悪役、見たかったなあー。

それにしてもほおんと、レオン・ライはクサさ全開だったなあ……ギター片手に「トライ・トゥ・リメンバー」を語り掛けるように歌うに至ってはもう逃げ出したくなっちゃうくらい?彼はホントにマスクが甘すぎるから、甘い役柄だと甘々で胸焼けがしてきちゃうのだ。少々キツメかホドホドな役柄の時にしっくりくる。あっでもマギー・チャンとのこれもまた長い年月を超えた大ロマンス「ラヴソング」(ピーター・チャン監督。彼の新作早く観たい)でも甘いキャラだったけど気にならなかった……監督によるのかなあ。★★☆☆☆


ガラスの脳
1999年 100分 日本 カラー
監督:中田秀夫 脚本:小中千昭
撮影:林淳一郎 音楽:川井憲次
出演:小原裕貴 後藤理沙 榎木孝明 名取裕子 林知花 河合美智子 国広富之 モロ師岡 大高力也 吉谷彩子

2000/2/21/月 劇場(テアトル新宿)
おっとお!まさかこの作品で泣かされるとは思ってなかったのに、ラストクレジットでは、そのピタリな主題歌(「DOOR」歌うは石井聖子。作詞:谷山浩子、作曲:崎谷健次郎だなんて、ナイスチョイス!)もあいまって、ぐずぐずと泣いてしまった……うーむ、年を取ると涙腺が弱くなって困る!?遠くさかのぼれば『いばら姫』、あるいは『眠れる森の美女』(劇中では『ねむり姫』)に原典を置く手塚治虫の原作は未読、しかしこれは読んでみたい。手塚治虫の原作だから、時代も彼の時代で、1954年に墜落した飛行機から唯一生還した、その時に生まれた赤ちゃん=眠ったままの少女が目覚めるのは1972年(原作上梓は前年の1971年)。しかし上手いことに物語のラストは1999年なのだ。しかしこの時代でなければ、こんなうぶな純愛物語は成立しないだろうなあ。お互いの手を取って笑いながら雨の中くるくると舞い踊るなんて、いまやったらおかしいと言うより、異様だもの。

とはいえ、この純な物語を体現する二人は、そうした気恥ずかしさを真正面から表現するという、新鮮で誠実な、ナカナカの好演を見せてくれる。演技はまだ固い感じだけれど、その初々しさがこの時代の、そしてこの年頃の感覚によく似合っていて。私は10代の役者はへんに上手いより、こうした硬質の演技を見せてくれる子達の方が好みだし。特に眠りつづける少女、由美に目覚めて欲しい一心でキスを贈りつづける雄一に扮する小原裕貴は、一生懸命に感情移入しているのが感じられて好感度大。いやねえ、正直言って、ジャニーズJrあ?なんて思って全然期待してなかったんだけど(そうした先入観は持たないようにしてたのに……すいません)。何でも彼はもう芸能活動10年選手だというし(さすがジャニーズ事務所だ)、インタビューを読むとすごくしっかり考えている頭の良い、落ち着いた子で、いやー、おねーさん、こういう子に弱いのよ!?

対する後藤理沙、目覚めた直後に見せる、赤ちゃん同然の発声と行動、その後みるみる言葉と知識を吸収し、どんどん輝いていく様に目を見張る。彼女の笑顔は本当にキラキラ輝いていて、ああ、この笑顔ゆえの美少女なんだなあ、と思う。というのも、眠りつづけている時の彼女は、そう、歯が大きいんですな、少々口とあごがせり出し気味で、すんなり美少女というにはためらわれるところがあるんだけど、目覚めてからの彼女は本当に美少女。17年間の眠りから覚めてマスコミが殺到する中、雄一が彼女の手をとって救い出すんだけれど、その場面での彼女の嬉しそうな笑顔は本当に輝いていて、そしてそのテレビ映像が年老いて由美に先立たれた雄一の手元に残り、そのたった五日間だった由美の目覚めた人生を見ている場面に、涙を禁じ得ないのだもの!

それが暗示による思い込みだったのか、あるいは本当に神の啓示だったのか、由美に与えられた目が覚めた状態の人生は五日間しかなかったのだ。その五日間の間に彼女は一生分の笑顔と涙と恋と愛を知る。恋というのは、担当医、斐川院長へのいわば思い込みの恋。そして、キスを贈りつづけた“王子様”雄一との純愛。彼は由美の言った五日間の最後の日、彼女と結婚する。彼は五日間だけの人生だという彼女の言葉を単なる思い込みと思いたかったんだろうけれど、でも彼自身も、彼女の言葉を信じていたからこそ彼女との結婚を急いだのだろうし……。そして(おそらく)新婚旅行へと出かける列車の中、「し、あ、わ、せ……」とつぶやいて再び深い深い眠りに落ちてしまう由美。泣き崩れる雄一。

そこで終わるかと思いきや、終わらない。いやこの時点では私の目はまだ乾いていたんだけど。この後、時は移り1999年(現代)、初老の雄一(国広富之)が家に帰ってくると、そこには、これまた白髪まじりの由美がベッドに眠っているのである。雄一はそれが彼にとってのまったくの日常なのだろう、まるで彼女が目覚めているかのように、今日の出来事を快活に話しかける。ふと、彼は彼女の異変に気づき、首に手をやると、彼女はこときれているのだ……「ひどいじゃないか、先に行ってしまうなんて……」とむせび泣く雄一。その後彼が取り出して見ているビデオが、先述した五日間の由美の輝く笑顔であり、いきなり私の涙腺がぶわーとばかりに開いたのであった。国広富之の、白髪交じりの頭と肩を落とした後ろ姿が、この何十年もの間の、これこそが純愛をつらぬいた人生が見える気がして。そしてそのままあの主題歌が流れるラストクレジットに突入し、ヤバイヤバイと思いつつ心地よい涙を流しつづけてしまった。

キスがこの物語の重要なキーワードになっているので、雄一と由美は何度となくキスをする。ぜんそくで由美と同じ病院に入院していた幼い頃の雄一(大高力也)が、眠りつづける由美(吉谷彩子)に贈るキスは微笑ましいものだけれど(撮影時、大高君が緊張というより大興奮して大変だったとの撮影日誌には爆笑!)、アイドルの二人が、それこそこれでもかとキスをしまくるもんだから、ああこりゃ、大変だあ、ファンがカミソリ送らないかしら(今時そんなことしないか……)と心配になってしまった。眠っている状態の由美にキスする場面はまだいいが、由美が目覚める直前の嵐の日、雄一の焦る気持ちが色濃く出た、由美を抱きかかえての長い長い長ーいキスと、“王子様”が雄一だったと気づいた由美と雄一が床に座り込んで何度も何度もごていねいに角度を変えて雨あられとキスをするのには、いやー、テレちゃいますね。でもどんなにキスしてもまったくもって初々しく……もちろんそうでなければこの作品は成り立たないのだけど。それって、今時の若者(死語)には希有なのかもしれないなあ。

もう一つ印象的なキスシーンがある。それは、雄一にホレてるしっかりものの同級生、恵子(林知花)と雄一との偶然のキス。恵子には感情移入しちゃうよなあ。雄一と由美の関係を知った恵子は、「あれはキスだなんて思ってないから気にしないで。世界中で大切なのはたった一人なんだから、あの子を大事にしなきゃだめだよ」と雄一に告げにくるんである。泣かせるねえ!こういう、ソンな役回りの優等生的な女の子、好きだなあ。まさしくあの時代の女子高生!という感じの素朴な顔が、ジャンスカの制服と短いソックスに良く似合ってるのもツボだ。

そういえば、ここの男子の学生服、ちょっと変わってるんだよな。基本的に学ラン型なんだけど、なぜか襟がついていて、それが不思議にクラシカル。クラシカルといえば由美が入院している病院もクラシカルで美しい造形。遊戯室は光にあふれ、由美のいる病室はどこか教会を思わせるような敬虔な雰囲気。

脇を固める大人の俳優達がまたいいんだ。先述の国広富之は勿論、人間としての弱さを見せる院長役の榎木孝明、雄一と友達みたいな母子関係を持つサバサバした母親の名取裕子(雄一と「ま」「り」(ただいま、おかえり)のやり取りをするところがいいなあ)、我が娘の花嫁姿をそっと見守って涙を流す、彼女の失踪した父親であるモロ師岡、もひとつおまけに、最近よく拝見する、中年不良患者の諏訪太朗等々。この俳優達もまた誠実な演技を見せてくれたからこそ、このファンタジーを切なく胸に迫るものとして泣かせてくれたのだ。

最近「危険な純愛」だの「狂暴な純愛」だのと、なんだそりゃ?どこが純愛だよ、てな映画が横行しているけれど、純愛ってのはこーゆーのを言うんですよ、判ったか!★★★☆☆


カリスマ
1999年 103分 日本 カラー
監督:黒沢清 脚本:黒沢清
撮影:林淳一郎 音楽:ゲイリー芦屋
出演:役所広司 池内博之 風吹ジュン 洞口依子 大杉漣

2000/3/7/火 劇場(テアトル新宿)
何だか最近の黒沢監督作品は、ひどく観念的になっているような気がする。何を言おうとしているのかつかみかねて、一生懸命手ですくい上げたものがさらさらと指の間からこぼれていってしまう、理解しようとする気持ちがくじけてしまう。特に前作、「大いなる幻影」では、今でも思い返すと頭が拒絶反応を起こすほどなのだが、本作に関しては、そこまではいかなかった。それは、台詞が結構あったから。この辺り、我ながら情けないなあと思うのだけれど、文学ではなく、映画なんだから映像自体の力を信じたいと言っていながら、結局は台詞に頼ってしまうのだなあ、と……

でも、「大いなる幻影」ではそれこそ映像もまた、妙に白々としていて、戸惑ったのだけれど、本作はいわば黒沢カラーとでもいいたい、乾いた画面。そうだ……徹底的に、乾いている。森の話なのに。“カリスマ”と呼ばれる痩せた木は、立ち枯れているとしか思えないほどに白茶けて、かさかさと細い枝を揺らしている。無期限休暇をもらった藪池刑事(役所広司)がふらりと入っていく森全体が、乾いているのだ。そして彼が出会うカリスマを守っている青年、桐山(池内博之)の住む、以前は療養所だったという壊れかけた廃虚も。水は生命の源のはずなのに、そんな“常識”はまるでここでは通用しない。日本の湿潤気候の湿り気がまったくないのだ……だからここはまるで異星……火星かどこかのよう。そこに、個性的な枝ぶりをした一本の木。まるで「荒野のダッチワイフ」の砂塵舞う冒頭シーンのよう。

ただ一個所、不自然なほどにみずみずしい場所がある。それは植物研究学者である神保姉妹の住む家。神保姉(風吹ジュン)は、カリスマは怪物なのだと言う。その根から分泌する毒素が森全体を枯らしているのだと。事実、森の木たちは片っ端からばさばさと倒れ、植林した苗木も即しなびてしまうありさま。彼女の言うことは、かたくなにカリスマを守る桐山よりよっぽど信憑性があるのだけれど、それでも、どこかおかしい。この家の、陽光が差し込む妙に明るい、植物園のような感じが、この森の中で浮いていて、招かれざる客のような感覚を与えるのだ。森の中にいると、何だかいつでも冬独特の薄暗さを感じるのに、この家に入ってくる陽光は人工のもののように明るい。ガラス張りで、要塞のようだ。

彼女がおかしいと感じさせるのは、薮池にくっついて回る神保妹(洞口依子)が、「森全体に行き渡るこの(ポンプの)水に何を入れていると思います?毒ですよ。姉は、この森は一度完全に死滅させないと再生できないって言ってるんです。姉は狂っているんです」と言ってから。最終的にそれは確かに事実だったのだけど(狂ってる、と断定できるかどうかは別にして)、なぜそうもあっさり、この神保妹の言葉を信じることが出来たのだろう。客観的に言えば、この妹の方がよっぽど狂気をはらんでいるように見えるのに。自然の中なのに、開放的とはとても言えない、この完全に閉じられた世界である枯れた森の中に住み、この年になって(彼女がいくつの設定なのか知らないが)自立できずにいる、この妹。北欧の人形みたいに、白いフワフワがついた赤いオーバーを着てプリーツスカートをはいている彼女の、無垢な少女を模したようなその違和感。実際彼女は、一見まるで無垢な少女のような動きをする。スキップしたり、薮池の背中に飛びついてみたり。それが、そこはかとなく恐ろしい。神保姉がまいた毒素によって白痴になってしまったかのようだ。

神保姉妹は自分達が毒をまいているから当然森の植物は食べない。森に住んでいながら、都会の生活なのだ。渓流で山菜を採っている薮池を見かけて神保姉が「ここの山菜は発癌性があるんです、食べ続けているととり返しがつかなくなりますよ」とこともなげに呼びかけるのには思わずゾッとしてしまう。彼女には自分が生物を殺しているという自覚がないのだろうか。知らずに食べつづけている療養所の老婦人はもはや虫の息だと言うのに。この森に自生するキノコ、一度食べたらまるで麻薬のように食べずにはいられなくなるあのキノコもまた毒素の影響を受けた突然変異なのだろうが、毒素で肥大したキノコが、とてつもなく美味だというのは、一体何を暗示しているんだろう。思えば、カリスマが植物ハンターによって刈られ、最終的には神保姉妹によって火を放たれた後、突然、それこそキノコ曇のようにもくもくと発生?した巨大な樹木、“もう一本のカリスマ”もまた、枯れているのに異様な生命力とでも言うべき吸引力を持つ。あの毒素を栄養分にした結果が、この姿だとでも言うように。

カリスマを焼き払ったのもそうだし、新しく出現したカリスマを髪を振り乱して排除しようとする神保姉は、ああ、やはり彼女、狂っていたんだろうか。あるいは、カリスマに魅せられて死んでいく森の木々や、カリスマを神聖視する人間たちが異常で、そんなカリスマに嫉妬する彼女の方が正常なのかもしれないとも思う。藪池はそんな彼女を止めもせずに見つめ、ふと近寄って彼女を引きずるように木から離してこう言う。「そんなにこの木が憎いですか」そして彼は彼女がカリスマに仕掛けた圧縮空気に向かって銃を発砲し、この第二のカリスマも爆破してしまうのだ。しかしそこには一本の芽が顔をのぞかせている……。

ああ、何だかいくら考えても、いくら書き進めても一向に答えが見えてこない。一応、“特別な一本の木を生かすべきか、その木を切って森全体を生かすべきか”という、共生、共存といったテーマが掲げられ、薮池は「あるがままにだ」との境地に達し、青年、桐山から「あんたがカリスマだ」との言葉をささげられるのだが、その答えほど“答え”でないものはない。しかし、そんな明確な答えを導き出すための作品でもない気がするし。そこに横たわっているのは、ウェットな感情を何ら引き起こさない、愚かな人間たちの死、死、死、ただそれだけのような気すらする。重い石鎚で頭をつぶされ、刀で腹を椅子の背ごと刺し貫かれ、うめき声も立てずに死んでいく人間たち。言葉どおりの森ではなく、常識がすべて狂い出す異空間を象徴するものとしての森。“火星かどこかのよう”と思ったのはあながち見当はずれではなかったりして……人間の根源的な欲望だけがむき出しにされるような。そしてその行き着くところは死であり……いや、森の“意志”としての、世界の完全死滅?それで言ったら神保姉はその使者であったのかもしれず……。

ああ、だめだだめだ。それこそ、映画は“あるがままに”受け止めたいのに、なぜこんな風に何とかして何かをつかみたくて、まるで見当違いのような方向に向かってしまうのだろう。「復讐」二部作、「蛇の道」「蜘蛛の瞳」の二部作などは、その荒涼とした、不思議なユーモラスさと、美しさと、怖さを、考えることもなく、まるごと受け止めて驚嘆することが出来たのに……この三つの要素はこの作品でだって全然変わってないのに、どうして出来ないんだろう。私の方が変わってしまったんだろうか。★★☆☆☆


カル
1999年 118分 韓国 カラー
監督:チャン・ユニョン 脚本:コン・スチャン/イン・ウナ/シム・ヘオン/キム・ウンジョン/チャン・ユニョン
撮影:キム・ソンボク 音楽:チョウ・ヨンウク/パン・ジュンソク
出演:ハン・ソッキュ/シム・ウナ/ヨム・ジュンア/チャン・ハンソン

2000/11/8/水 劇場(新宿東急)
内容といい映像といい、どうしても「セブン」を思い出したりもするのだが。あ、一部分だけ「天空小説」思い出したな。あの、拡大コピーをパーツごとにとって巨大な顔を壁に貼ってたとこ。かの作品がそれがユーモラスな効果をもたらしていたのと逆で、犯人の(……犯人の部屋じゃなかったっけ)、彼女に対する執着を強烈に印象づけて恐怖を盛り立てる。あ、違ったっけ、エドワード・ヤンの「恐怖分子」に本作とソックリの雰囲気のやっぱりそういう場面があったんだ。超拡大写真が分断されてる恐ろしさ。そうだ、あれにソックリだ。あの、相変わらずネタバレで言っちゃいますが、犯人は最初に思った人から外れることはなかった。……あの、私が間違ってなきゃ、だけど(おそるおそる)。スンミンとスヨンの共謀ということで、よろしいんでしょうか?なんか、そう言いきってしまうのにも引っかかる部分はあるんだけどね。ラストにスヨンが残した部屋からそれぞれの死体の一部が発見されてて……。なんかよくわかんなかったのは、冒頭ビルの一室から男の子が墜落した一件なんだけど。何、あの男の子は何かを(人をバラすところをか?)見たわけ?

んで、結果的な犯人はだから、そんなに驚きはしなかったんだけど、その観客の推測を一生懸命牽制しようとしているというか、スヨンにつきまとってるギヨンだとか、彼女に性的虐待をしていた画家の父親だとかいうのを、かなり突っ込んで、いかにも犯人らしく提示してくるから、結構惑わされたりして。でも、ギヨンはともかく、この父親は解剖技術はないわけだからいくらなんでも違うと判ったけどね……。彼女が見ての通りの美人で、殺されているのは彼女が過去につきあった男たちであり、しかも不倫も含まれてて、今も男に付きまとわれてて、過去には父親に……という、とにかく男の影をばらまきにばらまいて、犯人は男性に違いないという無意識の先入観を植え付け、それが結構成功している。しかし、女の方が独占欲は強いんだから。女が女にホレたら、男以上に怖いんだという……スンミンの、スヨンの首にメス?を当てた時のすわった目はかなりコワかったもんね。そしてスヨンによって撃ち殺された時の、裏切りに驚いて大きく目を見張った、その目を閉じることなく死んでしまうその顔も。……そうだ、私気付かなかったけど、ほんと、あの場面だけスンミンは女らしいワンピース姿なんだよね。だから彼女はある程度は予測していたかな、こうなることを。最後の正装だったかもしれない。愛するスヨンの元で死ぬ時の……。

このスヨンを演じるシム・ウナがね!えッ、この人ってこんなきれいな人だったっけ!っていう……というか、いまんとこ「八月のクリスマス」(大好き!)でしか知らないんだけど、あの時はそんな、思わなかったんだよなー。ケラケラ笑ってて、明るくってどこか幼い感じという印象はあったけど。しかし本作の彼女ときたら、最後に二重人格っぽいところ(っつーか、確信犯か?それともしたたかなプレイガールか?)を見せるまでは、とにかく表情を抑えに抑えて、見てるこっちが辛くなるくらいで。あの作品の時と驚くほど印象が違う。このシム・ウナがヒロインということは知ってたはずなんだけど、終わってクレジットを見て、え、同一人物?と思ったほど。顔は同じなんだろうけど(当たり前だ)、表情というか、全身から醸し出す雰囲気が全く別人。それにずいぶんと大人っぽい。なにか、鈴木京香とか、その辺の印象。そうだ、この暗さといい、「39 刑法第三十九条」の時の彼女を、もちょっと華やかにしたようなそんな感じだ。

最後の最後まで、彼女は心ならずも男性を惹きつけてしまうとでもいったような、美人の哀しい宿命のような描かれ方なのだけど、それがラストでひっくり返される。彼女自身が罠を仕掛けたのか、と……。ただなあ、ハン・ソッキュ演じるチョ刑事に対してもそうだったのかな。というか、あの事件の本当に全てに対して彼女が……つまり、あのおびえた様子は全てウソだったのかな、というあたりの恐ろしさが……。あー、私やっぱり間違ってる?スンミンの単独犯罪だったの?頭悪いからさあ。

死体の見せ方が上手い。血まで絞り取って黒いゴミ袋に入れ、エレベーターの中や高速道路で鮮血とバラけた身体のパーツがブチャッ!とばかりに飛び散るのは圧巻。少々マネキンめいた感じのものもあったけど全体的に死体感はリアルだし(血が助けてるのね)。でも、ハン・ソッキュの頭も作ってたって、彼は最後まで生きてんのに、どこで使われてた?……あ、あの彼の白昼夢?の、エレベーターの天井から降ってくるあの時かな?ついでに言うとチラリとではあるけど、バラす様子も見せたりして、メスが腕の付け根にサクッと入るのだけで貧血起こしそうになってしまう。チョ刑事の上司がなんか鉄骨みたいのでぶっ刺し殺される場面もかなり、キテた。ほんと、こういう見せ方はかなりハリウッド映画の影響多々あり、って感じだよなあ。この映画自体が、ああやっぱりハリウッド映画で育ってきた人の映画だな、って感じがする。日本も含めたアジア映画についつい求めがちな作家主義な匂いは全く感じないもの。……いい意味でも、悪い意味でも。

チョ刑事に冒頭で賄賂容疑がかかってるのもよく意味がわかんなかった。彼が(それこそハリウッド映画でよくあるように)実際は犯人?であるスヨンと恋愛関係になる、などということはなかったのは良かったわ。惹かれてはいたけど、ひたすらストイックに守るだけ。しかしさあ、彼女に対して全く容疑者扱いをしないというのは、いくらなんでも不用心だと思うけどねえ。

劇場の様子じゃあ、「シュリ」ほどのヒットは望めそうもなかったけど、いまや半ば当然のように全国マーケットに韓国映画がかかっているのを見ると、いまだに信じられない感じ。あれほどブームと言われてるインド映画ですら、まだ単館にとどまってんのに。ほんと、韓国映画は世界的に“来てる”んだなー。★★★☆☆


川の流れのように
2000年 108分 日本 カラー
監督:秋元康 脚本:秋元康 遠藤察男
撮影: 音楽:久石譲
出演:森光子 田中邦衛 谷啓 いかりや長介 久我美子 三崎千恵子 菅井きん 滝沢秀明 大滝秀治 西村雅彦 段田安則 柄本明

2000/5/6/土 劇場(日比谷みゆき座)
……困ったな。秋元康さん、自分の詩に酔ってんじゃないのお?という感じ。いやまあ、あまりにコテコテというか、出来すぎというか、見え過ぎというか、はっきりツマラナイと言うべきか……。ま、芸達者な人たちの集まりだから、突然オシャレに目覚める老婦人達の変身ぶりとか、魚を守るためにフィッシャーマンズワーフ建設に反対してカゲキなパフォーマンスをして新聞に載っちゃう男達三人とか、そういうコミカルな描写でしっかり笑わせてくれたりしてそこは面白いのだけど、本題の部分……過去の罪の意識だの、人生讃歌だのという部分になると正直言って感動するにはツクリが単純すぎる。こりゃ芸達者たちが集まったって、根本的な問題だからさあ……。

えー、まあ、つまりは、若い人たちにのけ者にされている老人達に、好きなように生きるべきだとか、人生の先輩をないがしろにするべきじゃないとか、過去の罪はなかなか消えないけど許しあおうとか、ま、判るんだけどもうちょっと練ってほしかったな。テレビドラマだってもうちょっと考えるよ……シンプルなメッセージそのままに展開までシンプルじゃあ……人生はもっと複雑なもんなんじゃないの?今や売れっ子作家となった主人公の百合子(森光子)が余命幾ばくも無く、死に場所としてふるさとを選んだ、しかしそのふるさとはかつて逃げ出した場所で……っていうね、設定や展開、なんか陳腐というかわざとらしく感じるのはなぜなんだろう?

まあ確かに森光子さんは信じられないくらい若々しいけど、おそらく10以上離れている人たちと同級生の設定にするとは……。ずらっと横並びに並んだ時、森さんの白さだけがまるで鈴木その子状態で気持ち悪いんだわ……不自然。そんでその森さん演じる百合子が、かつての初恋の人、一平(田中邦衛)と、まあ再び恋に落ちるわけだけどこれもねえ……。どうやら見る感じでは百合子は独身ぽいけど(まるでそのあたりのことが語られないというのも不自然だが……独身なら独身で一人で生きてきてしまったとかなんとか言うもんじゃない?まわりもそのことに関しては忘れてしまったかのように何も言わないもんね。普通ご主人やお子さんは?って聞くよな……)、一平は奥さんに先立たれたんだか何だか知らないけど子供がいるんだから結婚してたわけで、いくらこの年だからったって、その辺の葛藤が少しはなきゃおかしいんじゃない?

「老人らしくしろ」と親を閉じ込めようとする西村雅彦や段田安則があまりといえばあまりにステロタイプなんだもんなあ……。それに、今のご老人達って、別に百合子みたいな人物に喝を入れられなくったって、皆カラフルなカッコして、好きなことしてるパワフルな人たちが普通だよ。これが小さな田舎の漁村だからという事だからなのかもしれないけど、それこそ差別的だし、現実のご老人達に勇気を与えるには感覚がズレているとしか思えない。

そして多分、このシーンが一番やりたかったんであろう秋元監督。百合子が幼なじみ達に残した、8mmに自らを映したメッセージフィルム。いつもはカラフルな洋服でオシャレに決めていた百合子が、ビシッと和服に身を包み、カメラの前にきちんと座る。一人一人に呼びかけて言葉を残すところまではいい、彼らが泣いているのも理解できるんだけど(こちらは泣けないが)、そのフィルムのラストを締めくくるのに「川の流れのように」をアカペラで歌うとは!この自己陶酔ぶりは一体何なんだ!それで一緒に口ずさみながら泣いている彼らにどう共感しろというのだ!いやまあ、そのフィルムの中では歌っているということにしてもいいけどさあ、途中からでもひばりさんの歌の方に移行するとかしてくれなきゃ辛すぎだわ。そりゃ森さんだから歌はしっかりしてるが、そーゆー問題じゃなくてさあ……。だって、こういうメッセージって自分の言葉で残すべきものだろうし、しかもその歌が、おいおい、二番まで歌うのかよ、おいおい、サビのリフレインまでするかあ!?と、もう何か気恥ずかしくなってくるんだわ、もう。この歌は我ながらスバラシイ!と思ってでもいるかのような秋元監督の押しつけに腰が引けてしまう。確かにこの時の森さんはさすが女優、一番美しく輝いてはいるんだけど……。

これまた田舎でもんもんとする若者のステロタイプを演じる、滝沢くんのキャスティングといい、近藤真彦氏のチョイ出演など(とても刑事には見えんぞ。まんま“マッチ”だ)、ジャニーズをはべらせる森さんの映画!って感じだよなあ。しかも“special thanks東山紀之”ときたもんだ(笑)。しかし、チラシの解説“若手ナンバーNo.1俳優滝沢秀明”はないだろう、誰が言ってんだそんなの、初めて聞いたぞ!★★☆☆☆


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