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東京マリーゴールド
2001年 97分 日本 カラー
監督:市川準 脚本:市川準
撮影:小林達比古 音楽:周防義和
出演:田中麗奈 小澤征悦 斉藤陽一郎 樹木希林 寺尾聰 石田ひかり
しかしこの、1年という恋、ラストシーン近くで、エリコが、タムラの彼女、えんちに偶然遭遇し、その彼女がいう台詞で、あれ、と思うのである。1年間だけの留学だったはずの彼女の台詞としてはあまりにも違っている。エリコがタムラとの別れを決心して離れてからどれぐらいの期間が経っているのか判らないけれど、それにしても、えんちは2年前に結婚し、今妊娠8カ月で、どう少なく見積もったって、その旦那さんとの出会いから結婚、あるいはアメリカでの生活期間とかは、タムラのいう「たった1年の留学では何も身につかない」というあの台詞とは食い違うのである。このシーンに至って、タムラに対して、なんでこんなヒドい筈の男のことをひどいと思えないんだろう?と感じてきた気持ちにようやく合点がいくのだ。
タムラを演じる小澤征悦が、そういう意味で本当にいいのだ。「豚の報い」以来、本当に彼は注目株だと思う。今時なかなかない骨太な風貌ながら、でもとっても、普通、なんだよね。普通に生きてる弱い人間を体現している。彼はエリコがタイプだって思っても、えんちを忘れられなくて、そんなふうにものすごく防御線を張っている。傷つくのが怖くて、でも幸せが欲しくて。すごく勝手だけど。彼はえんちが戻ってくる、と思っていたわけではないだろうと思う。あきらめはついてたと思うけど、でもあんなうそをいったのは、自分の心の中にまだ彼女がいるということを、ある意味正直にあらわしたのだ。1年と切ったのは、それぐらい経てば自分も心の整理がつくかもしれないと思ったのかもしれない。タムラの部屋にえんちからのメールがプリントアウトして貼ってある。送信日までは確認しなかったけど、でも今考えると当り障りのない内容。それに、普通メールを印刷したりなんてしないよ。大切な彼女からのメールだったら、あるいはフロッピーに保存するぐらいはするかもしれないけど、パソコンの中に入れといて、そうして読み返すっていうのが普通じゃないかな。あれはやっぱりエリコに対しての意図的な予防線だったんだろう。部屋を借りたのだって、そう。もはやえんちとそうした関係にない彼に彼女からの電話などそうそうくるわけがないのだ。なのにあんなことをいって。ああ、そんなことを考えてると、どんどんどんどんタムラに感情移入してしまう。
と、いうのも、実は私はエリコに対してあまり思うところがなかったから。女の子の成長物語というより、こんなふうにタムラの非成長物語としての哀しさの方をより強く感じたから。彼女は冒頭に今までつき合っていた彼からふられて、友達に誘われた合コンでタムラと知り合う。そして携帯電話の番号をタムラから教えられたとはいうものの、自分からデートに誘い出す。なんとなく、このエリコという女の子が、常に彼氏がいないとダメなような、なんかそういう体質の女の子に思えてしまう。まあそこは市川監督だから、そこまでロコツには描かなくって、淡々としてるけど。お母さんと一緒に住んで、就職も仕事もなんとなーく過ぎていく感じ。ファッション雑誌の取材に呼び止められるようなおしゃれな格好をしていて、あまりさしたる好きなこととか趣味とか生きがいとか、そんなものも特にありそうもなく、だからか自分と一緒にいる彼氏は欠かせない、みたいな。彼女がタムラにのめりこむのは、そう、最長記録を達成するのは、目に見えないライバルがいたせいではないのか。いわゆる“生きがい”としての、恋愛。
田中麗奈ちゃんて、そんなにいいかなあ。いや、悪くはない、とは思うけど、そんなにいいかなあ。私はついつい彼女関連の女優……真野きりな(デビュー作で一緒の「がんばっていきまっしょい」)、池脇千鶴(同じ市川監督の「大阪物語」)と比べてしまう。微妙な表情も、せっぱ詰った感じも、切なさも、正直この2人にはかなわないと思う。加えていえば、まあこれはいっつもいってることなんだけど、致命的なのは彼女の発音で、あの「え」行のつぶれる、現代のワカモノの発音にはかなりガックリさせられちゃうんである。そう、あの場面、麗奈ちゃんがタムラに、彼女と別れてよ、という、確かにこの場面ではたまっていくストレスが隠しきれずに、涙を抑えきれずに、ついには“鬼のような顔で”(麗奈ちゃん弁)迫りまくる、一世一代の名演技だったあのクライマックス、ねえ、ねえ、とたたみかけるその発音に、あっちゃーと思ってしまうのは、やっぱり私だけ……なんだろうな。
恋をすると、そしてこんなふうな結末が待っていると、俄然うっとうしい女になってしまう女の愚かしさや哀しさは確かにあって、でも私はできればこんなふうに恋によってうっとうしく愚かになってしまう女はあまり見たくはないのだ。自分でも甘いと思うけれど、もう女に対して絶望的な気分になっちゃうんだもの。映画の中で見る女は、なんか恋に落ちるといつでもそうで、まあいいところでは結婚してハッピーエンド(って、ハッピーエンドなんだろうか……)とか、その程度で、たいてい恋をするとこんなふうに愚かでうっとうしくなっちゃうんだもん。これが現実なのか……恋によって高められることなんて、それはあまりに理想的過ぎるの?まあでも、ラスト、彼女は一人の姿がはつらつと輝いていたけれど、でもあの暗示はなーんとなくタムラとまた連絡を取り合うとかそんなふうにも思えて。いやそれは、全然いいんだけど、あるいは、お母様お気に入りのあの気のいい宮下先輩(斉藤陽一郎。最近映画でやたらみるね。相手も奥菜恵といい、アイドル食いだな。)とどうにかなっちゃうでもいいんだけど。それとも、えんちとの真実を知ったことで、すっかりふっ切れちゃったとか。でもそれも逆にヤだけどね……。
エリコがタムラとつき合う前まで携帯電話を持っていなかったというのは何となくイイかな、と思った。でもタムラとつき合うためだけに携帯を買ったような気がして、やっぱりヤかな、とも。彼女のお母さんは彫刻家、お父さんはスペインに行ったっきりたまに絵葉書で短歌を歌ってよこしてくる。まあああ、やたら素敵な御両親!お母さんはいかにもこの芸術家としての自分を楽しんでるって感じで、娘のエリコとはずいぶん違う。まあ、この人生の大ベテランとしての余裕だろうが。エリコのことをそれなりに心配してはいるが、心地よい距離を保っている。エリコは、だから娘としては非常に幸せだよ。帰ってきたら美味しいお味噌汁が待っていたりさ。それをふつふつ煮返して、玉子を落として食べるあの幸せ。あー、食べたい。
エリコがふっ切れたきっかけは、CM制作の現場で働く宮下先輩から誘われてワンカット出演したCMのビデオを、先輩から受け取って見たこと。タムラとのことでテレビを見る余裕もなかった彼女は、そこで初めてそのCMを見ることになる。何度も繰り返し自分の出演場面、銭湯から出てきしなにボールをキャッチし投げるというその場面を見ながら、ふと涙を流す。何を思ったのか、あの頃の、新しい仕事を始めてちょっと頑張ろうかなって思っていた頃を思い出したのか、軽く笑みを浮かべながら、泣く。いいシーンだけど、このときの表情と涙は、モロ「はつ恋」の、桜の木の下で両親と写真を撮るあの場面の表情そっくりそのままだなあ。別にいいけど。
この作品のキーワードであり、予告編でも聞こえてくる「彼女がアメリカから帰ってくるまでの1年間、私とつき合って」とエリコがいうのが、タムラと初めてともにしたベッドの中、というのが、おおお、麗奈ちゃんファンにはかなり……。そのもののシーンはもちろん出てこないけれど、指を絡めて握り合う二人の手が、暗闇中で浮かび上がり、微妙に動く、それだけでそれを感じさせる手法はさすがは市川監督!って思っちゃう。このへんのソフィスティケイトされた生理的感覚が、とっても好きだ(逆の意味で望月六郎監督はちょっと苦手……関係ないけど)。
青山界隈などのしゃれた町を描いていても、静かで優しい市川ワールドになるのはやっぱりさすが。でも市川監督、やっぱり浅草とか入れずにはおれないのね。懐かしくて優しい日本の原風景。でもあの煙は、自分がたてたお線香の煙じゃなきゃ効果がないんだよー。ダメだよ、ズルしちゃ。東京都写真美術館なんかも出てきて、うーん、石原知事が喜びそう?実際東京を撮らせたら市川監督の右に出るものはいないんだから、都の映画助成プロジェクトを大いに利用してガンガン撮ってほしい。市川監督の撮る東京を見てると、時々この街でくじけそうになる気持ちが、大丈夫、そんなに冷たい街じゃないよ、って気になって、頑張れそうな気がするから。★★★☆☆
街にまかれた毒ガス、それによって倒れ、死に行く人々。この光景はもちろんあの事件なわけで、それに関していろいろと考えるところのある私としては、もはや古くは関東大震災や、阪神・淡路大震災のごとくに、時代を映す災害の一つのように映画の中にあらわれることにいささかの戸惑いを感じる。この作品の中ではこの事件が点景として描かれているに過ぎないような気がしたからだ……。全編にわたって意味ありげな、謎解き風な感覚はつきまとうものの、この事件は生と死の問題を喚起するためだけに使われているから。ああ、もうそんな風になってしまうほど、あの事件から時間が経ってしまったんだな、と思いつつ、もっと考えなきゃならないことだったのに、もう時代の判断が下されて、動かないものになってしまったのかという危惧もある。もちろん、そんなことはこの作品には関係ないことなんだけれど……。
カップルのそれぞれが、違う場所で、違う時間で、違う状況で死ぬ。男が死んだ時間から、そして女が死んだ時間から誰かの目線で世界が俯瞰で眺められ、新しい時代に、新しい男と女が、出会い、また新しい物語が紡ぎ出されることが示唆される。その間には不倫のカップルやバンド仲間の四人組が、ただれたセックスに興じ、水鉄砲で撃たれて死んでしまう……。スーパーマンや死神が、およそらしくない姿で登場し、その存在が登場人物によってドキュメンタリーのインタビュー風に云々される。こういう構成はどこかで見たような気がしないでもない。その意味は、正直言って私には判らない。意味なんてないのかもしれない。意味なんて求めるべきじゃないのかもしれないのだけど、じゃあ何を感じ取ればいいのか、なんて戸惑ってしまったから。
生まれる前と死んだ後ではどちらの時間の方が長いのか?という問いが全編にわたって繰り返される。ある者はそんなのは同じことだと言い、それでもどちらかというと後者の方だと言う人々が多い感じである。もちろん、それに対する答えなど出ないのだが、死んだ後の長い長い虚無への恐ろしさは誰しも持っていて、しかしそれを否定するかのように、同じ人物によって新しいカップルの誕生を描き、物語は終焉を迎える。彼らが歩く渋谷の街には、救いのないセックスを繰り広げていたあの4人のバンドが明日への賛歌を歌っている。
渋谷という街は、こんな風に誰かが死んでも、セックスしてても、殺されても、誰一人気にしないような、あの雑踏に埋もれるような、ニギヤカだけれど熱はない感じが確かにする。だから逆に、カップルがそれぞれに別れ、それぞれに死んだとしても、その同じ二人がまたカップルになって闊歩しているのも、まるで不思議ではなく、ありそうなことに思える。しかもそれは2002年、微妙に未来の話である。だからこそ、余計にありそうな気がする。今はまだいないあの時の二人が、いなかったことさえ誰も知らなかったかのように、あの街に当たり前のように存在しているというのが……。
ということは、瀬々監督は生まれる前も死んだ後も関係なく、ただ価値があるのは生きている時間だけと思っているのかな……。トークバトルで榎本監督に突っ込まれた時、瀬々監督は口ごもってどちらとは言わなかったけど。そしてその生きている時間も、俯瞰でながめればこんな風に死が見えてしまって、それに呼応する形での生が見えてしまって、時間は錯綜し、明確なものなど何もない。それはこの濡れたような、あるいは時々逆光で白っぽくなってしまうような、デジカムの映像に感覚的に表れている、そんな気がする。生々しさを感じさせながらも、どこかに現実味を欠いているような。
と、ようやくここまで書いて、手が止まってしまった。本当言うと、良く判らない。瀬々監督の作り出す世界観はさすがだと思うし、圧倒されもするのだけれど、どう受け取っていいのか、戸惑っていたというのが正直なところで。でも、普段はそんなことを考えて映画を観ているわけじゃなくって、そこに提示されている、繰り広げられている物語を、ただストレートに受け止めているつもりなのだけど、何と言うか……もっと深読みしなきゃいけないのかなとか、そんなヘンなことを考えてしまって……。と感じたのは、決勝戦相手の榎本作品が、ストレートに受け止めればストレートにハッピーになれる物語だったから、余計そうなのかもしれない。
この作品は、後日ユーロスペースでレイトショー公開されるという。あ、何かそれって凄く似合ってるな、という気がする。そこでなら、また違った感覚で観られるかもしれない。★★★☆☆
22年(オリジナルは21年)の時を隔てて無線交信する男女の、不思議な運命の糸のつながりの物語。あの、超美人のキム・ハヌルが演じた役を、まあ可愛くはあるものの、見劣りする感は否めない吹石一恵が演じるという時点から不安だったが、彼女はまだ及第点の方である。見た目的にはジャガイモ顔のユ・ジテよりもきれいな顔をしている斎藤工の方がマズく、ユ・ジテのチャーミングで情熱的な演技と比較して、彼の演技の熱のないつたなさがどうしても気になる。まあ、それもいいとしても、一番マズいのは、この斎藤工の演じる優二にくっついてまわっているチャキチャキ娘、オリジナルのヒョンジである美樹を演じる北川弘美が最悪で、ああ、なんなのだ、あの気取った喋り方はァ!ただ単に私がこういう喋り方がキショクワルイと思うという、個人的な好き嫌いの問題だけなのかもしれないけれども、ちょこまかと付きまとうオリジナルのヒョンジが小悪魔的に可愛ゆかったのに対して、彼女に対してはうっとうしさしか感じない。それに、美樹に関してはオリジナルにあった、複雑そうな問題を抱えている、という暗示もそぎとられていてキャラが薄まっている上、それなのにその伏線上のエピソードであるはずの、朝酒をかっくらっているとか、夜突然優二の家を訪ねてくるとかいう描写は残されているというのが全く解せなく、これでは彼女はただのイーカゲンな女の子でしかない、って感じじゃないかあ。こりゃないよ、全く。
オリジナルでは独裁政治に反発する学生運動、というシリアスな状況だったのが、リメイクでは校内暴力の嵐が吹き荒れる時代、ということになっている。優二が2001年の現代ではイジメが原因で自殺する子もたくさんいるんだ、という会話も出てくる。しかし、1979年にしても2001年にしても、それら時代の格差、あるいは時代における社会の変革を感じさせることがなさすぎる、のは日本ではそれほど動きがなかったということで仕方ないのかなあ。確かにオリジナルでも学生運動で負傷する先輩、という、そのケガをする場面がそのまま描かれていたわけではないけれど、学生運動にしても、その時代の政治的な側面にしても丁寧に描いていて、いわゆる目に見える風俗的なことだけではなく、きちんと2001年との差が現れていた。しかし、本作では、本当に風俗的なこと(ファッションとか)がかすかに違うかな、というぐらいで、あとはひたすら1979年と2001年という違う時代に存在しているんだ、という百合と優二の会話上にしかのぼってこない。校内暴力の描写なんて、毛筋ほどもない。そうした描写で切ない恋物語の雰囲気をジャマしたくなかったのかもしれないけれど、それじゃあこの設定の物語を語る意味がないんである。
決定的なのは、優二が2001年の百合に会いに行く、というまさにクライマックスで、全く気持ちの高まりを感じさせてくれないのが致命傷になった。オリジナルでは、こっそり見るだけ、と思っていた優二に当たるイン(ユ・ジテ)が、でもその気持ちを抑えきれず、泣きべそ顔でソウン(キム・ハヌル)に対峙し、彼女の方も明らかに彼と認識しているというのが判る、ひと言も言葉は交わさないんだけれども、その感情が一瞬間重なるのが判る、というまさしくメロドラマの大波の頂点、だったのだが、日本版では日本らしいおくゆかしさを出そうとでもしたのか、優二は2001年の百合を静かに見送るだけで、百合は優二に全く気づかない。無線で優二は百合に2001年の君を見た、と告げているんだから、百合は21年後に優二が会いに来るんだ、と思っていたに違いないのに、である。オリジナルではだからこそのあのソウンの表情であり、泣かせる部分でもあったのだが、日本版ではそれどころか、1979年のあの時から今まで百合がどう生きてきたのかさえすくい取ることがないので、おくゆかしさどころか、手抜きではないのかと思ってしまうぐらい。
自分の思い人が親友、幸子の結婚相手であるという事実に直面した百合は、動揺し、ただただ幸子を避けることしか出来ない。幸子側の葛藤も、21年後に優二が発見した、母から百合にあてられた手紙で知ることとなる(しかし、何でこれが幸子サイドにあるんだ?百合が突っ返したとか……そりゃヤな女だな……)。彼女たちが関係を修復したかどうかは、描かれない。実はこのあたりはオリジナルでもそうで、ちょっぴり気になる部分ではあったのだけど。オリジナルのことばかり言うのも何だなとは思うのだけれど、リメイク版で、幸子と香取が初めて出会うという重要なポイントがまったく流されてしまっているのも気になるし、それよりも何よりも、百合がその思い人、香取(山中聡)ときちんと別れを決意する場面が、出てこないのはあまりにも……。オリジナルではソウンがトンヒの顔に自分の手を当て、なんとも言えない悲しそうな表情できびすを返す、あのシーンである。そのシーンは彼女が彼に「小さな顔だね」と同じ事をされた、恋のキュンとする一場面から連鎖していて、だからこその切なさだったのだけれど、その恋のシーンは日本版にもあるのに、このシーンがあるからこその別れのシーンが削られている。先述した部分でもあったけど、オリジナル版での良さである、シーンやエピソードの連鎖を、起因の部分だけで結を削るという理解不能なことをなぜ、こうもへーぜんとやるんだよー。うー、こういう削りかたされると、厚みのない印象がますます薄っぺらくなってしまう。ツライ。
オリジナルでは、ああ、確かにこの人は21年間の事情を知っているんだな、と思わせたイイ味出してた守衛さんが、日本版では、何も事情を知らないはずの1979年の時点で「無線は時を越える力がある」なんて言わせて、それを言うなら2001年の時点でなきゃ意味ないだろー!と思わずガックシ来てしまうんである。……これじゃ守衛さんの意味も全くもってなくなってしまうではないか。それ以外の部分ではオリジナルと同じような登場の仕方はするものの、この意味不明の取り違えで、あまりにも脱力してしまう。
つたなさ、というより幼くなってしまった感じがするな……。ヤバい、ヤバいよお、それでなくてもホント最近、韓国映画に日本映画負けてる、って思っちゃうのに。本当に負けちゃうよー!
最近ほっんと、90パーセントの確率で邦画の中に拝見する田中要次氏が、今回は70年代的に、ヅラじゃん!と思って、妙に可笑しかった。★★☆☆☆
はるばる?兄、良介のもとに馳せ参じた弟、健司。兄はガールフレンドとセックスの真っ最中。大事な用件だからと言っても、取り込み中だから気を利かせろよ、と追い返されてしまう。この冒頭のシーンは、その後、兄弟がお金を借りに行くパチプロ仲間のシーンで反復されていて、笑わせてくれる。それもそうだし、会話のテンポとそれに合わせたシーンのカットバックが絶妙なトボけた間を生み出していて、やたらに可笑しくて、嬉しくなってしまう。この最初のシーンでも、しらけちゃった、と帰ろうとする女の子を引きとめる良介の「俺はしらけてないよ、ぜーんぜんしらけてないよ」というそのしらけた言い方が最高なんである。
この兄弟の父親が事故で死んだために、二人は葬式に出席するため田舎に帰らなくてはならないのだった。後で判明するのだが、この父親の死因というのも、この物語のトーンに合っている実にバカバカしいもので、サイドブレーキを引き忘れて、自分の車に轢かれちゃったっていうんである。兄弟が相談するために入る喫茶店、物語のカギを握るウェイトレスの女が、長居をする二人にいやみったらしく追加注文を受けに来る。全編をつらぬくトボけた会話の間とテンポがここでも展開されていて、それがこの女のキャラをも絶妙に示唆している。この女は最後までこの調子で、3人の男たちと次々とセックスをし、しかし、結婚願望があってイイ奥さんになるらしいんである!?
金を借りるために、良介の知り合いをしらみつぶしに当たって、最後に行き着いたのが良介のパチプロ仲間の木村。そこで冒頭の良介と同じ状況で木村は女とヤッており、ヤリながら、良介の話をドア越しに聞く、そのマヌケさも可笑しくてたまらない。木村は貸せるお金はないというのだが、彼の下であえいでいる女が、今日バイト代が出たばかりだから、私が貸せる、と言うんである。その女というのが、先ほどの喫茶店のウェイトレス、春代。
金を貸してくれるというのがあのイヤミな女だと知って、良介はこんな女に借りられるかー!とばかりにこの話を反故にしてしまうのだが、シッカリモノの弟、健司が一人引き返すのである。しかし木村の部屋には春代しかいなくて、木村は金を持って彼らを追いかけて行ったと言う。二人きりになる部屋で、春代はとんでもないことを言い出す。「あなたが田舎で家を継ぐなら、私も一緒に帰ろうかな。つまり、あなたのお嫁さんになるってこと」「あなた、木村さんの彼女なんでしょ!」とうろたえる健司に、「数時間前にパチンコ屋でナンパされただけよ」と悪びれもしない春代。「どう、ここで私とする?」とこれまたとんでもないこと言う春代に、「あなたって、本当に都合のいい女なんですね」という健司の台詞も妙に可笑しくって、大爆笑!しかし、「する?しない?」と迫られて、「します!」と答えちゃう健司!おーい、素直すぎるぞ、って違うか!?
しかし、これですっかり健司は春代に恋しちゃうんである。……かわいいなあ……。一方その頃、良介は一度木村のアパートに健司を追って行くものの、そこからまたアノ声が聞こえてきたので、あいつ、またやってやがる、ときびすを返すのだが、パチンコ屋から出てきた木村と遭遇してしまう。まあ、状況で判断できるんだが、木村はその金をパチンコ屋ですっちまったんである。この時の良介と木村の、良介が木村の腹のうちを探り、それにあいまいながらも真相を探られちゃう木村、という二人のカットバックと会話のやりとりが、スッバラシク可笑しい!「お前、やっていいことと悪いことがあるだろ!」と激怒する良介に、木村は「勝てると思ったんだよなあ……」とこれまたあまり悪びれもしない。
二人、夜の野球グラウンドの外側の遊歩道で、まばゆい外野ライトに照らされながら話をする。長男だから家を継がなきゃいけない、という良介に、だったらお前、嫁さんを連れて帰らなきゃ、田舎なんだからいろいろ世間体もあるだろ、あの子はどうだ、って話になる。あれはナンパしただけで、彼女じゃない。ああいう子が意外といい奥さんになるんだ、と無責任なことを言う木村だが、それこそ意外に的を得ているのかもしれない。その時には、ムチャな話だと思っていた良介も、健司が良介のアパートに帰ってきて、その話をする頃には、明日プロポーズしようと思うんだ、なんてすっかりノッていて(ノリやすいんだから……)「なあんか、どんどん好きになってくよなあ、ガンガン好きになっちゃうよなあ」とニコニコカップラーメンをすするのにはこれまた大爆笑!もう、この素直さが好きだよ、この兄弟は!
しかしその話を聞かされて、春代にすっかり参っちゃっている健司はすっかり失望するのだが、そこは兄思いの弟、かの喫茶店の前で兄の背中を押して、自分は彼女を忘れるために、風俗店へ行く(……金ないんじゃなかったっけ。あ、街金で借りたのか)。とびっきりの子を、と言ったのに、次のシーンで健司の下であえいでいるのは、三段腹の女!むせび泣く健司は、まあ、春代のことを思い出していたんだろうけれど、何でこの女なんだーとも思っていたに違いない!?そんな健司に「私を抱きながら、忘れられない人がいるのね」なあんて、プロっぽいことを言うこの三段腹女もイイ味出してるが……なんにせよ、健司の切なさよ。
その頃、良介は、ホントにプロポーズしている。しかもめっちゃくちゃ恥ずかしいプロポーズ!彼女を店の外に連れ出し、抱きしめ、愛の言葉を雨あられ、春代が恥ずかしいとか何とか言うと「愛に羞恥心はありません!」だってー!どっひゃー!そんで二人は公衆の面前で熱いキスを交し続けるのだが、これが、ホントにロケだったのかなあ、割と引いて撮っているというのもそうなんだけど、二人のキスシーンに振り返る人々の中でも、何度も振り返って照れ笑いをするあのオバサンが妙にリアルなんだもん。うっわ、恥ずかしー!
ホテルで、良介が春代に「ついて来てくれないか……いや、ついて来てくれ」と言い、「その言葉を待ってたの」と応える春代。はあ、あんたその言葉を男から聞くために、色んな男と寝たわけじゃ、ないよね……。んで、この良介と春代のハッピーエンドのセックスと、健司の春代を忘れるための切ないセックスが絡み合って、終焉を迎える。
監督の応援で来ていた佐藤幹雄君が、スクリーンで見るよりもっとずっと好感度のある素敵なあんちゃんで、すっかり嬉しくなっちゃったんであった。★★★★☆
それにしても、スペインにも、というか欧米にもこういうコメディアンコンビのタイプがあるとは……。も、ほんとにどつき漫才としか言いようがないスタイル。一人が徹底的に喋りまくって、一人が徹底的にボケまくって、そしてどつく、というか、この場合には、ほっぺをひっぱたく。もともと歌手志望だったニノとバーテンだったブルーノが出会い、ひと旗揚げに都会へ出て、ステージでコチコチになっているニノをふとどついてみると、観客が大ウケしたことから始まった。そのステージとは、田舎の、場末の、ストリップ小屋。全国巡業で力をつけて、テレビ番組に出て、二人は瞬く間に全国的スターになってゆく。CMに出演し、彼らの名前のつくお菓子まで出来る。外見上は、中の良い二人を演じながら、その実、心の中ではお互いを憎みあっている……。
と、いうのが実は、お互いに対する嫉妬心、尊敬心がつのったその裏返しだったということが後にわかるのだが、それにしてもこのお互いの、お互いに対する殆どパラノイアに近いような執着と憎悪には恐ろしいものがある。二人はそっくり同じ形の、壁でつながった隣同士の家を買って住む。ニノはブルーノに来るファンレターを全て自分のところに留め置いて、金で女を雇って楽しそうなパーディーの様子やイチャイチャしている声なんかを隣に聞かせる。ブルーノはそれにまんまとだまされて家で一人孤独と屈辱にさいなまれている。一見ここではニノの勝利のように見えながら、金で雇った女を倒れるまで踊らせたり、セックスの声をテープレコーダーで流しながら一人床についたりするニノ自身も絶望的なほどの孤独感、敗北感である。ニノは厳しい母親に対するねじくれたマザー・コンプレックスがある。この母親、ニノの家に忍び込んだブルーノが冷凍庫に放り込んだ猫に驚いてショック死してしまう。これで二人の仲は決定的になる。今までどつかれっぱなしだったニノが、テレビの収録中にブルーノに猛然たる反撃をはじめたのだ。それは、どつきとかそんなんじゃなく、モロ暴力で、ブルーノはそれによって片足が不自由になってしまう……というのも、どこまで本当だったのか。
わかりやすい形でブルーノへの憎悪を表したニノより、ブルーノの方が怖いかもしれない。と、いうのは、この事件以降、ブルーノは表舞台から姿を消し、ニノは一人国民的人気を得ていく。オリンピックの聖火に点火したり、フランク・シナトラばりに歌を歌ったり。でもそれも、ニノが金の力に物をいわせて獲得した部分もあるらしい。二人のマネージャーが彼らの復活を願ってお互いを引き合わせる。もう、何年ぶりになるのか、ブルーノはひたすらニノに対する許しを請おうとする姿勢を見せる。ニノは目の前にいるというのにブルーノと直接話をしようとしない。しかし、ブルーノが持参した、ニノの幸運を呼ぶソックス(彼が20年以上(!)ずっとはき続けているかたわれ)で心動かされ、復活を了承する。……しかしそれこそがブルーノの計算だったのだ。
しかし、ブルーノ、本当にこのチャンスのためだけにずっとずっと待ち続けていたのか。あの頃には冴えないニノより俺の方がイイ男なんだと言ってはばからず、ニノの惚れた女を寝取ったりしていた彼が、痛々しいほどにすっかり落ちぶれて、でもそれこそがカクレミノで。ブルーノは空港でニノのファンを装わせた女の子二人にニノと接触させ、彼のかばんをすり替える。ニノの虚栄心を利用した悪質な手段。かくしてニノは大量の麻薬持込みのとがで逮捕される。ブルーノはヤク中ということになっていて、見た目にもそんな感じで、この10年というもの、それが原因ですっかり身を落としていたと思われていたのが、違ったのだ。ブルーノは、この時のためだけに、クスリを買い続け、ため続け、そしてニノを刑務所送りにしたのだ。
ブルーノはその場でギプスと杖を捨て去り、自らの復活の準備に入る。自分のどつきに従順に従う、自分こそが映える相手をオーディションする。スタニフラフスキー演劇をやっているという冴えない男に白羽の矢を立てる。監禁状態でどつかれ特訓をほどこされるその男は、逃げ出そうとするところを、脱走してきたニノに(この時、エントツをつたって降りてきた彼の形相の恐ろしいことときたら……悪魔のような笑顔で、まるでのろわれたサンタクロースみたい)捕らえられる。トランクに押し込められる。俺の座を奪ったのは、お前か、と。そしてニノは階段の下に潜み、ブルーノの足の裏にドリルで穴を開ける(!)。火を放つ。テレビの特番に間に合わないから、と、ニノを振り切ってほうほうの態でトランクの相棒と共に車で走り去るブルーノを、別の車でニノが追いかける。追突する。飛び出すトランクはがけ下の道路でトラックに轢かれてしまう……。
この一連のシークエンス、どつかれ特訓とか、その男をトランクに押し込めるとか、こっけいさを身にまとっているから、だから余計恐ろしい。トランクがトラックに轢かれるというのも、その前に、男が「大丈夫ですー」と中から声を発するワンクッションののち、というブラックユーモアが、強烈。血だらけ、ほこりだらけになった二人がガードレールにぼんやり身をあずけ、お互いへの心情を吐露する。ニノのブルーノに対する感情はなんとなく推測できていたけれども、ブルーノがニノに対して、彼こそが笑いの才能がある、俺は単なる添え物だ、と、嫉妬心に思いつめていた告白をするのには、ニノはもちろん、観客も、そうだったのか、と、あらためて驚く。ブルーノがニノに対して、あれほどまでに憎悪の炎を燃やしたのは、今まで自分より下だったニノに裏切られたからではないか、となんとなく思っていたから。お互いに銃を向ける二人は、しかしこんな汚いところでのたれ死ぬのか、と思い直し、テレビ局へと車を走らせる。先ほどの騒ぎで警察が追ってきているのも、ものともせず、二人はステージに向かう。往年のコンビの復活に沸きに沸く客席。と、銃声が聞こえる。客は大ウケしている。舞台の演出かと思ったが、どうもおかしい。乗り込んでみると、二人はお互いを撃ちながら、お互いに罵声を浴びせ続けている。撃っても撃ってもなにくそという感じで悪口を言い合う二人。客席はそれがホンモノの殺し合いだとは気づかず、爆笑につぐ爆笑。二人は最高のステージで最期を飾ったのだ。と、思いきや……。
とっくに死んでなければおかしいという状況で、二人は病室に仲良くベッドを並べ、まだ生き長らえている。不思議な力が二人を生かしている。ニノの心音が停止しかけると、意識を失っているはずのブルーノがむくりと起きだしてニノのほっぺたをどつく。と、ニノの心音が復活する。このラストシーンだけが、素直に笑えた。だってこの場面だけが、二人の気持ちが通い合っているのだもの。殺し合いにまでならなければ、そしてついでに他人を一人殺しちゃうくらいまで行かなければ、気持ちが通い合えなかったというのもスゴいが、でも、逆にそれぐらいお互いがお互いに対する気持ちが強かったということで、これは並みの恋愛映画よりずっとずっと凄まじい。
実際、こういう漫才コンビとか、あるいはそれに限らず才能をしのぎあうようなコンビの仲って、実はこんなとてつもない愛憎が渦巻いているんじゃないか、と、まあ今更だけど、そんなふうに感じさせるわけで。多かれ少なかれ、こういうコンビにはそういう時期が絶対訪れてるんだろうなあ……そう考えると、コンビを見る目が変わっちゃう、ほんと。見た目は濃いウェイン&ガースという趣きながら、いやいやだからこそ、中身も濃いっちゅーことだよなー。血が沸騰してんだもん、マジで。
70年代まで白黒テレビだったり、民主革命がおきたりという、スペインの内情や歴史もおりまぜるという意味でも、やっぱりミョーにシリアスな本作。うーん、オバカなところをもっと見たかった!んだけどね。★★★☆☆
物語は麻薬に関わる三つの物語が同時進行する。麻薬の捜査官、麻薬の取引王、麻薬取締りの最高責任者である判事。この判事は同時に家庭に娘のドラッグ常習という問題を抱え持つ。この三つの物語はそれぞれに画面の色やテイストを変えており、交互に語られる割には、そしてこういう語り口にはすぐ混乱するタチの私にも、きちんとわかりやすい。ソダーバーグ監督自らがカメラを回したのだという。時にエモーショナルに揺れる手持ちカメラが感情の高まりをスリリングに映し出す。
オスカーをはじめアメリカの主要な賞を総なめにしたベニシオ・デル・トロ(ベニチオの表記で通っているが、こちらの発音が正しいのだとか)ばかりがクローズアップされているが、それぞれのエピソードの登場人物はそれぞれに印象深く、決して彼一人で持っていっているという印象は受けない。でも、ここでのデル・トロのようなタイプの演技をアメリカがこぞって評価するというのはちょっと意外だった。いわゆる、賞ねらいのアツい演技ではないからである。押えて押えて、中からじんわりにじみ出てくる感じ。ことにゲイである殺し屋をバーで誘う時の、ちょっとすると見逃してしまいそうな腰のあたりの微妙な色気には驚いた。もちろん煙草に仕込んだコンドームという小道具はあるけれど、それがなくったって、彼の行動とその後の展開が、その腰まわりの空気だけで推察されてしまうから。
当然上手いのはマイケル・ダグラス。彼の場合は既に余裕すら感じられる。麻薬取締連邦最高責任者に就任するホワイトハウスでの挨拶で、家庭に実際に問題を抱えている彼は、力を感じない空虚なステイトメントを読み上げることができず、一時つまった後、自分の言葉でしぼり出すように訴えるのである。この場面、客観的に見れば相当にクサいというか、いかにもな場面なのだけれど、さすがマイケル・ダグラスがやると、そのあたりのさじ加減は非常に上手く、思わずしんみりと見せられてしまう。
そして意外だったのは、自分の夫が麻薬売買組織のボスであることを夫が逮捕されて初めて知り、世間知らずな有閑マダムがしたたかで強い、まさしく“極道の妻”になっていく、キャサリン・ゼタ=ジョーンズの好演である。実際に(マイケル・ダグラスの子を)妊娠中である彼女は、そのふっくらとした体つきで、スーパーモデル美女であった彼女に対するこちらのイメージをまず打破してきて、しかもそのリアルな体つきがまさにリアルにこのキャラ、このエピソードに活力をもたらすのだ。しかも彼女の変貌は切実ではあるけれど劇的ではなく、フィクショナルな感覚を起こさせず、思わずすんなりと彼女の変化を受け止めてしまい、はっと気づいてこちらがうろたえるという感じなのだ。
ここらあたりの演技感覚は、先ほどのデル・トロやマイケル・ダグラスとも共通しており、これはやはり監督の意向がしっかり俳優に伝わっているということなのだろう。これほどまでのスター俳優を配してそれができるのは、凄い。昨今のハリウッド映画は、とかく俳優の色に振り回されがちだからなあ。
この作品は監督がいうように、主張というものは押えている。麻薬問題に対して何がいけないとか、誰がいけないとか、そういう主張を一切感じさせず、この3つのエピソードをひどく淡々と描写するに過ぎない。そう、いやに静かで、いやに淡々とした印象なのだ、驚くほどに。さすがに予告編などではちょっとハデな展開で売っていたが、実際の物語はドンパチがあるわりには、やけに静かである。これで2時間半なのだから、ついつい眠くなってしまったのだが……。この姿勢、ふと気づいてみるとなんだか最近多いような気もするのだ。観客にゆだねるという手法。この手法が出てきた最初の頃は、これこそがリベラルな素晴らしさだと思っていたのだけれど、そうしたものばかりになってくると、いささか首を傾げたくなるアマノジャクな感覚にとらわれてしまう。監督の声高な主張に違和感を覚えることは確かにあるし、あるいはその時点では良くても、時代を経ると価値観が変わって間違った認識になってしまう映画も多々あるし、そういう意味ではこの姿勢は正しいのだけれど、監督の主張があってこその映画ということもあるのだ。やたら観客にゆだねられてしまうと、なんだか監督が逃げてるような気もしてきてしまう。いや、この映画やソダーバーグ監督に対してそう思うという訳ではないんだけど。
麻薬問題に対してシリアスに考えるというよりは、10代の子たちの、ドラッグをやりながらの会話の方にずっと感じるところがあった。彼らの言っていることが、時間的、空間的なものを飛び越えて、10代の感覚そのものだったから。日本でも、そして世界中のどこでも、10代という限られた年頃の感じる思いって、これほど共通しているのか、という……。ウソだらけの大人社会への憤り、将来への不安、なぜウソがあるのか、それは変えられないのか……。あまりにもまっすぐでセンシティブで、逃げ道がなくて。正しすぎるからこそ、逆に間違いにも近いような弱さと、透明な強さ。この前振りがあるからこそ、優等生であるウェークフィールドの娘がドラッグに溺れていく弱さと、そこから立ち直る強さが、よりヴィヴィッドに感じられるのだ。
クリントン大統領から引き継いだブッシュ大統領は、なんだかさらに世間知らずというか、ええかっこしいというか、この病根をそのまま拡大させちゃいそうな、オトナコドモな頼りなさ。果たしてアメリカはどこにいくのか?★★★☆☆
これって、この時代だからこそできた雰囲気かなあ。夢や向上心を持とうにも、それを実現させてくれるだけの状況がなくって、それなら今はただ何となくやり過ごしている方が、確かに無駄なエネルギーを使わなくて済むというか……。まあ、でもそれも若いから出来るんだよね……。じっとやり過ごしているうちに事態が好転して、その時頑張ればいいや、っていう……その時にもまだ何とか若いんだろうし。だから彼らに仕事を提供するカップルは、彼らのまったり感とはやっぱり違って、どこかに人生のせっぱつまった感じを持ってるし。ゆえに、裏ビデオの製作&主演の夫婦の方に妙な親近感を覚えたなあ。20代半ばもとうに過ぎてるのに、女子高生だと言ってビデオに出てしまうあたりが(笑)。それにあっさりだまされちゃう努の純真すぎちゃうあたりもアレだけど(笑)。絶対若く見える、だなんて、そんなことないと思うけど……ブラの肩ひも見えたくらいでドキドキしてるんだもんなー。
入りからして、もう“何となく”感が出ていていい。開店前のパチンコ店に並ぶ二人。並んでいるのは二人だけで、こんな流行んなそうな店にわざわざ並ばなくってもいいのに、他にすることもないし、とかあるいは、家出てきちゃったし、とでもいうように並んでいる。いかにも冬で寒そうなのに、二人とも家をふらっと出てきたような、何か寒そうな格好で、そのあたりも“何となく”って感じである。一人は、うだつのあがらない、とまでも進化していない、青二才のなーんもやってなさそうなぼけっとしたお兄ちゃん。実際、ここで知り合った紀世彦から、「プー太郎だ。プー、プー」と言われる、その感じそのままだ。一方の紀世彦は、前方に20センチはゆうに突き出しているリーゼント頭と、貧弱な身体にナンパなカッコがある意味やけに似合っている、安っぽそうな男。
正反対だけど、“何となく”感だけは共通している二人。紀世彦はプーだという努に、自分の仕事を手伝わないかと持ちかける。このシーンもなあんか好きなんだよなー。パチンコし終わって、両替所にいる努を見つけて、帰ろうとする努に満面笑顔で走りよってくる紀世彦(笑)。何となく、努は何とか勝ったけど、紀世彦は負けたんじゃないかなー、などと想像されて。ついつい紀世彦の部屋についていった努は、「ぼ、ぼかしがない」と裏ビデオ画像に釘付け(笑)。裏ビデオのダビングが、紀世彦の言う“仕事”で、すっかりぼかしのない裏ビデオに魅了された(大笑)努は、手伝うことを了承。了承っつーか、返事をしたのかどうかさえ定かじゃないっていうか……紀世彦のことなどそっちのけで、ビデオに釘付け状態なんだもんなー。いまどき純なんだか、何なんだか。
この紀世彦の部屋、せっまい、きったない1DKもまたたまんないもんがある。モノだかゴミだかわけわからんものにあふれてて、お決まりのコタツの上にも牛乳パックとかそのままでもうモノが置けないぐらいで、台所の流しも山積み。でも妙にナベとか、調理道具はしっかり置いてあるなあ、と思ったら、そうそう、意外に料理はするらしく(この辺も何か笑える)紀世彦が股引姿でネギを刻んでいる場面なんかが出てくる。きったないマナ板でさあ、うわあ、とか思うんだけど。それはおりしも大晦日の晩で、てことは、あれは年越しそばの準備かなあ。き、きちんとした奴……。そんで彼は、テレビのカウントダウンに合わせて、年越しの瞬間にジャンプしたりするんだよね。誰も見ていない、一人で(笑)。何か、たまんない、可笑しげな寂寥感が。その場には努はいるんだけど、こたつでぐっすり居眠り中で。何かね、あ、こいつら大晦日も二人でいるんだあ、そいで年越しそばとか一緒に食べるんだあ、とか思ったら涙が出そう?で。
実は、この紀世彦にはなんとまあ、別れた奥さんと子供がいるんである。コ、コイツが結婚していたとは……。いや、もしかしたら、子供だけ出来て、それを彼女側が育てているだけなのかなあ。とにかく、紀世彦は努には何にも言わないで、奥さんに会いに行く。もう4つにもなった、という子供の話を聞く。彼女の結婚話を聞く。その何とも言えない切なげな感覚は、紀世彦があからさまな仮病を使って彼女とホテルに入ろうとするこっけいな場面でも途切れることはない。彼女から冷たい一瞥をくらっても、しゃがんだまま笑顔を貼り付かせている紀世彦ってば、ほおんとに情けないんだけど、情けないがゆえにとんでもなく切ない。それは、今はもう自分とは別の道と時間をしっかりと歩いていっている彼女に対して、そうではない彼を反映させるからなのか。
いや、でもこういう、紀世彦や努のような人生のあり方というか、ある時期の過ごし方って、やっぱり男ゆえ、って感じがするのよね。女って、こういう過ごし方はあんまりしないというか……。男よりも先に焦りがくるというか。この彼女の結婚話にしたって、彼女自身の気持ちというよりは、子供の父親という気持ちが働いているんだろうし。彼らのような時間が過ごせるのは、女にとって割とうらやましいというか、そういう感じも受けるんだけど。紀世彦と努の関係性も、友達とか友情とか言ってないし、そんな感じでもないんだけど、それでも何となく一緒にいられる感じっていうのが、ああ、男っぽいなあ、と思って。女の場合は友達っていう言葉が先にないとダメっていうような感じがする。こういう何となくのつながりができないような気がする。打算的だからね、女は。生きていくうえでの約束や手形がないと受け入れないから。それって、寂しいなあと思うけど。
努はコンビニでビールを万引きしてしまう。あっさり店員に見つかる。奥へ連れて行かれて、こんこんと説教される。警察に電話をかける店員を後ろから金属バットでボコボコに、血みどろになるまで殴りつける……というのは思ったとおり幻想。しかしこのヌーボーとした努に、そういう幻想を見るような部分があったのかと、あくまで逸脱しないこの物語とキャラ世界の中でぴょこっと頭が出ている部分にちょっと驚いたりしてしまう。しかもこの幻想シーンはやけに念がいっていて、生々しかったから……。ともあれ、解放された努がすごすごと帰って行くと、仕方ねえなあ、万引きなんかして、と紀世彦にカルい調子で言われ、へへへ、と笑顔を作る。まあ、ここまでかなあ、努にできたのは……なんてホッとしたような、ヘンな気分。
紀世彦は子供へのプレゼントを買いにいく。その間に、努は紀世彦の元奥さんからの電話を受ける。明日会うはずだったのだけれど、行けなくなったと彼に伝えてくれと……。しかし努は伝えない。紀世彦とすれ違いざま笑顔で話したりするのに、伝えない。紀世彦は大きなおもちゃのプレゼントを抱えて待ち合わせ場所に行く。待てど暮らせど来ない。おもちゃをわきにおいて座り込んで待つ。来ない。そこへ努がやってくる。隣に座る。何を言うでもなく、時間が過ぎて行く。……この作品にはこういう場面がとても多い。じっと見据えて、動かないカメラ。ちょっと長すぎるぐらいの長まわしで、もともと長まわしの苦手な私にはかなりツラいものがあるのだが、この場面だけは、苦手ながらも、そのもの言いたげな感じが時間の長さになって表れているような気がした。でもやっぱり長すぎると思ったけど……。
満開の桜の下で、定番メニューのお弁当を所せましと広げて、メインの登場人物全員が楽しげに宴会を繰り広げる。これもまた幻想で、実際はまた同じ曇天の下で、あのカップルがどこかに行ってしまったため仕事を失った二人が、これからどうしようか、まあ、何とかなるでしょ、とでもいった雰囲気でまだ一緒にいる。終わってみてもなあんにも変わらない。いろいろあったような気がしたけど、それもまた幻想かもしれないってぐらい変わらない。ドラマチックに何かが変わるなんて、そんなことってそうそうないよね、とでもいうような……。いつか晴れる日がくるのか、このままいつまでも曇りじゃないのか、という、冬の曇天続きを映し取ったような二人の生活。でも曇天って、決して嫌いじゃない。包まれている感じでどっかあったかいし、いつかは晴れるよ、といった漠然とした期待感があるから。雨や晴れのようにハッキリしているよりも、日常を感じる。
タイプとしては、かなり好きな映画。でも……うん、やっぱりあの長まわしだけが、苦手だったな……。★★★☆☆