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「さ」


2002年鑑賞作品

最後の博徒
1985年 125分 日本 カラー
監督:山下耕作 脚本:村尾昭
撮影:鈴木達夫 音楽:伊部晴美
出演:松方弘樹 鶴田浩二 丹波哲郎 千葉真一 梅宮辰夫 萬屋錦之介 成田三樹夫 品川隆二 岡田奈々 待田京介 江夏豊 泉谷しげる 清水健太郎 木之元亮 誠直也 ガッツ石松 三島ゆり子 峰岸徹 日高澄子 森次晃嗣 苅谷俊介 岡崎二朗 丹波義隆 下川辰平


2002/4/15/月 劇場(新宿昭和館)
最後の、というのが図らずも象徴しているのかどうなのか、博徒というよりはチンピラかヤクザという感じの松方弘樹が主演で、彼が方々お世話になったり、説得したり、斬ったり張ったり?する親分集に鶴田浩二だ、丹波哲郎だ、千葉真一だ、梅宮辰夫だ、萬屋錦之介だ、成田三樹夫だ、と豪華すぎるったらありゃしない、これはちゃんと“博徒”な方々で、作られた年代をも考えると、ああ、まさしくここに終わったなというような感慨にふけらずにいられない。ことにこれが仁侠映画専門館として長年の役目を果たした新宿昭和館のシメに入るプログラムだと思えば、更にその感慨もひとしおなのである。松方弘樹扮する荒谷と揺るぎない契りを交わす菅田の親分、鶴田浩二はゲスト的な扱いではなく、メインもメインな役柄なのだけど、年齢をそのしわに刻み、子分たちに裏切られ、若い男気を華々しく散ることもなく、ただただ枯れていく様は全盛期の頃を思えば信じられないほど。でも、その哀しさがいい。こういう役の鶴田浩二を観ることができるとは、思わなかった。

それにしても。先述したとおり、やったら親分がぞくぞく出てくる……つまり、数々の組、どれがどれの組から発生した組でとか、もはや中盤頃にはワケがわからなくなるほどで、じゃあ、どんな話なのかといえば、最終的には、荒谷(松方弘樹)がもう組同士、ヤクザ同士の流血の争いはやめよう、と説いて回る話なんである。平和主義のヤクザぁ?うーん、何だそりゃ!とちょっと言いたくなるというか……何か劇中で、争いのないという点で広島のヤクザは他とは違うとかなんとか、そんなことを言うんだけど、ヤクザはヤクザだしなあ、と思っちゃうのは、いけないこと?それこそヤクザではなくて博徒で、思い切り様式美に徹したような、それこそ本作にゾロ出しているスターたちが活躍した仁侠映画なら、そうしたヤクザな世界も肯定的に受け止められる感じだが、ここで描かれているのは、時代も現代にほど近く、そうなると現代におけるヤクザ……つまりは暴力団と意味的なもの、あるいはイメージは一緒であり、だからこそ深作欣二は「仁義なき戦い」の世界へ行ったので、ヤクザと博徒の意味があいまいな本作での時代、展開は、スターたちが出ている割には、痛快さも切迫さも感じない。

とはいえ、語られている感じによると、これって実話っぽいんだけど……へえ、ほんと?それにしても、やはり私は松方弘樹はダメである。鶴田浩二はクリアしたけど、松方弘樹はやっぱり、ダメ。私が仁侠映画に求める、ストイックな美しさをどうしても見出せない。本作のように、例えこすからいヤな役をやっていても、そうした男の悲哀を感じさせる山辰役の成田三樹夫や、若い頃の無鉄砲さをその瞳や佇まいに残し、世渡りよりも少年のような友情の念を優先する加納役の千葉真一や、他を圧するカリスマ性を持ちながら、人を惹きつけてやまないチャーミングさをにじませる田城役の丹波哲郎や……そうした先輩たちにはいつまでたっても追いつけない感じがある。

一方で、本作にはかなりユニークな布陣もあり、これまた小面憎いキャラである大原に扮する泉谷しげるや、荒谷を兄貴と慕う、こっちの方がごついぞっていう田辺役のガッツ石松などなど、しかしこれが気合入ってうっとうしいような松方弘樹よりも、ずっとリラックスした演技で堂に入っている。その中でも最も異彩を放っていたのは、荒谷が属していた石岡組(組長は梅宮辰夫)の兄貴分である大松を演じる江夏豊で、親分の言うことも、弟分のフォローもぶっちぎって敵にガツンとケンカうっちまって、挙句の果てには、大原を討ち、自分も討ち果ててしまう。この大松が“悪魔のキューピー”と呼ばれている、というのには、あまりの言いえて妙さに、あやうく爆笑するとこだった。

幼い頃にいじめられていたのを助けた、幼なじみの女の子、その女の子はずっと彼を思い続けて、辛抱強い、極道の妻になる、という荒谷とその妻の純愛な展開が、何か思いっきりジャマだった。だって、その妻役の女優さんが(誰だか失念)、つまんないんだもん。それに、やたら甘々なテーマソングが、オープニングにもエンディングにもねっとりと歌いあげられるのには、ちょっと参ったなあ……。女声の歌は、男の仁侠映画には、合わんよ。★★★☆☆


ザ・SMレズ(緊縛の仕置)
1985年 62分 日本 カラー
監督:北川徹(磯村一路) 脚本:北川徹 井上潔
撮影:長田勇市 音楽:坂田白鬼
出演:田口あゆみ 早乙女宏美 涼音えりか 牧村耕次 下元史朗

2002/11/12/火 劇場(PINK FILM CHRONICLE 1962〜2002/レイト)
チラシには改題前のタイトル「緊縛の仕置」で載ってるんだけど(「緊縛」シリーズだったみたいね)、作品自体に載せられてるタイトルはこちらだったので……ソフト化されたときの改題なのかな?ところで、名前が違っていたので全然気づかなかったんだけど、これは磯村一路監督の作品なんだという。タイトルの“SMレズ”の描写と、女の足へのフェティシズム、これが半々ずつで展開していき、本質的なメインのテーマは後者の方で、ラストカットなど実にシニカルで洗練されていて面白い。ところで私はこの間からすっかり下元史朗氏に釘付けなので、もう彼が出てくると彼にしか目が行かないのだけど、本作での下元氏は、なーんにも、全然しない。職場のボスというだけで、彼にも気に入っている女の子はいるし、その子を呑みに誘ったりプレゼントをしたりはするものの、実らず、それでも大人の男の余裕で「おじさんは退散しますか」だなんてニコニコ去っていく。うー、こういう下元氏も素敵だよー。

で、まあ下元氏はおいといて。ここは編集プロダクションなのかな?男女二人ずつの小さな事務所で、“女性の足”をテーマにした記事づくりに取り掛かるんだけど、最初にその企画を持ってきた彼女は、自分が気に入っている男性社員にその手伝いを依頼する。しかしこの彼女、その男が足へのフェティシズムを持っていたのを知ってか、知らずなのか……。そうそう、タイトルバックが女性の足をモティーフにしたさまざまな写真や、映画のスチールカットや、イラストや……そうしたもののコラージュなんだけど、これがまた実にファッショナブルで、秀逸。もしかしたらこれはこの彼のコレクションだったりして?いやいや……。でも彼の部屋には女性の美脚のポスターが貼ってあるし、足マネキンコレクターだし、あり得るよね。で、自分の本質をつかれた仕事を頼まれた彼、どこかおずおずとストッキング売り場や靴売り場に出かけ、街行く女性の足にじっとその視線を注がせる。何かあまり表情が変わらないだけに、その目だけがランランと力を得ているみたいに見える。キショさと面白さ半々。

事務所のもう一人の女の子、彼女は経理担当らしいのだけれど、足モデルに心当たりがあると言って連れ出してきたのが彼女の元恋人のSな女。このS女から男にくら替えしたものの、一ヶ月前に別れた、と告げる彼女に「それで私を思い出したって訳ね」とすでにそこはラブホテルの中でプレイ中。最初は基本の愛撫から始まったものの、いつのまにかS女の手には細紐が握られている。Sを身につけたのはこの彼女と別れた後らしく、縛られることになる彼女は最初は戸惑うものの、次第にS女の手管にはまっていく……。

いやあ、それにしても、ピンクの女優ってホントすごいよね。だって、この緊縛、超恥ずかしいポーズの目白押しなんだもん。今まで観た緊縛の中で、いっちばんエゲツないんじゃないかなあ。だってシコ踏み状態に足踏ん張って、大切なところに食い込ませて(当然その部分は丸裸に処理済。痛そうだなあ……)、当然だけど全裸で、手もバンザイで後ろ手に縛られて(あらわな腋の下とか妙にエロティック)そんで宙吊りにされているっていう、もう目も当てられない恥ずかしいカッコなのだ。しかもこのスタイルで彼は足フェチのあの男性社員にその姿を見られてしまうという!うっわー、これって演技でだって相当恥ずかしいと思うのに、こんなのが実際だったら狂い死にするぐらい恥ずかしいよー。しかし彼女は、その瞬間は確かに「お願いだから見ないで!」と恥ずかしさに身をよじらせるものの、その後はS女のテクニックで長々といたぶられ、すっかり昇天しちまうんである。彼女がそのまま会社を辞めたのは、この気まずさより、S女との快楽の日々を選んだのかも?しかしこのMにされてしまう彼女、尻の吹き出物が気になるんすけど……。

しかしさあ、このSの女、真っ赤な爪が長くて、この手でM女の××××を責めたりして、あれは、あれはかなり痛いというか、危ないと思うんだけど……だってめちゃめちゃ突き刺さりそうじゃん。あ、でもそれがまさしくSかあ?そういやあ、ハイヒールをはいた踵で、下着の上からというものの、Mの××××をぐりぐりやるような描写も出てきたなあ。うげげ。で、でも基本的に保っておかないとプレイ続行できないんでは……って、何かどんどん墓穴状態になってきたので、やめる……。うーん、ピンクの感想文書いてると、必ずこういう方向に行ってしまう?

足フェチ、もとい女性の足特集のために集められた、色とりどりのストッキングやらガーターベルトやら総レースの全身下着やら。それらを足モデルに雇われたS女はとっかえひっかえ身につけて登場するのだが、彼女の足は決して美脚という訳ではなく、結構ムッチリとしていてそれが逆になまめかしく、だからこそ、こういう足を締めつけるものたちがある種、緊縛に通じるよなあ、などと思ってしまう。本作の緊縛SMは、私の中の緊縛での和のイメージとはまるで違って、使われる縄も白い細なわだったり黒いベルト状のものだったりするし、縛られるところも洋部屋で、懐かしのぶら下がり健康器みたいな(っつーか、それそのもの?)専用の吊り下げ器に縛りつけるし、徹底して現代、洋、なんだよね。だからこのストッキングから全身に至るまでのコケティッシュでエロな下着、そしてこれははっきりSであるヒール靴のオンパレードは、緊縛を想起させる、というのはちょっと発見?それとも今更?そうか、足フェチはSMに通じるし、それが緊縛に通じるのも当然なのだ。

しっかし、この作品、SMでレズで足フェチで、つまりは男女のいわゆるセックスが、殆ど出てこない。一応、出てくるだけは、いいのかなあ。この足フェチ男に企画の手伝いを依頼し男の本質をあらわにした、彼に思いを寄せている彼女がその願いを叶えることが出来るわけだけど、でもこの彼女にしたってそれが叶えられるまでは一人事務所でオナニーばっかしてるし(自分の家でしろよ)、彼女を自分の部屋に招いた彼は、その目的は彼女の足型を取らせて欲しいことを伝えるためだけだった気もするし。だって、君の足が気に入った、だぜ?君が気に入った、じゃなく……。しかしその本意に気づいているんだかいないんだか、「私のことも気に入ってください」と彼女はようやく彼にせまることができ、彼の部屋の狭いベッドで思いを遂げることに成功するのだけど……。このセックスの描写はピンク映画にしてはかなり普通だし、狭苦しいベッドっていうのもその辺妙にリアリティがあるというか、彼は女とヤることなんて、やっぱりあんまり興味がないんじゃないのかなあ。

それが証拠に彼はその後、この彼女とまっとうに付き合うなんてことはせず、彼女の足型をとったらもうそれでポイで、特注のマネキン足に網タイツはかせてウットリ。そして彼を待ち続ける彼女をそっちのけで、街中の自分好みの足を持った女に声をかけつづけるんである。「すみません、あなたの足型とらせていただけませんか」そして彼の部屋には彼好みの女のマネキン足が増えていく……。これがラストカット。ラストカットがマネキンの足の整列だよ?最高じゃん。

でもね、彼の足の好みは結構イイかも。部屋に貼ってあるポスターの美脚に彼女が「きれいな足……」と羨望のまなざしを向けるのに対し、「君の足もチャーミングだよ」とこれがくどき文句?なのだ。確かに彼女の足は、あの足モデルのS女みたいな扇情的ではなく、適度に清楚で、それでいて適度にムッチリふっくら柔らかく、彼でなくても、こう、つつつと触ってみたくなる感じ。別にスカートの中まで見せてくれなくたって、その太ももとふくらはぎで充分?しかしこれ、それこそフェチとSM嗜好にはいいけど、一般的に言ってピンクとしてはいいんかね?これでちゃんと興奮できるんかしらん。ま、そこがいいんだけど……それとも女の自慰行為って、そんなにいいもんなのかねえ。この足フェチ男の夢想でも、足から入って彼女の自慰描写、すごく多いし。判らんなあ(逆はヤだぞ、絶対)。

やっぱり下元氏が素敵だったなあ。何にもしないってところが、素敵なのよねッ。★★★☆☆


さゞなみ
2002年 112分 日本 カラー
監督:長尾直樹 脚本:長尾直樹
撮影:藤井保 松島孝助 音楽:岸谷香
出演:唯野未歩子 豊川悦司 きたろう 天光眞弓 岩間謙二 高橋幹夫 玉置こまゑ 岸部一徳 松坂慶子

2002/12/5/木 恵比寿・東京都写真美術館
今回のノーベル賞受賞者で、今や大人気の田中さんはもちろん素敵だけど、小柴教授に私はあっと思ったのだ。……全然関係ない話からで、ごめんなさい。その昔、ラジオドラマで(ラジオドラマファンだったのです)、ニュートリノを観測する地下設備で静かに働いている女性の話があって……大量の水の中でニュートリノが通過する時に放つ微かな光、チェレンコフ光を待ち続ける、ただただ待ち続ける仕事をしている女性。それが、私の中で、すっごい憧れだったのだ。闇の中でひっそりと、水と光と、宇宙の粒子……私の仕事はそれを見つめ、待つことなのだと(そして、その地下から湧き出る水は、すごく美味しいんだって!)。中学生だった私は、ホントにそんな施設があるのかと地図帳で調べたりして、あ、ホントにある、いいなあ、私もここで、ただ待ち続ける仕事がしたい、水と光を見つめて……なんて、そんなことを思ってたのだ。その施設を作ったのが小柴教授だったわけで、それを知って猛烈に感激してしまった。結局、超文科系だった私は、そんな理科系の分野に進めるわけもなく、テープに録ってあるそのドラマを何度も繰り返し聞いてて、今でも時々聞いているんだけど、そして今でも、いまだに、憧れているんだけど。

などということを、なぜ思い出してしまったのか、それは、これが本物の“水の映画”で、水を仕事にしている女性が、そこにいたから。そして彼女の静かに水を見つめているたたずまいが、即、そのことを思い出したからなのだ。「水の女」なんか、メじゃない。これこそが、本当の、本物の水の映画だ!と。本作は温泉の話だし、「水の女」は銭湯の話で、いわばお風呂でつながってはいるけれど、「水の女」がとかくツクリモノの水や雨って感じだったのが、本作ではとにかく、水も温泉も、生きている、ホンモノだって感じなのだ。

彼女、稲子の仕事は、この山形県米沢市に湧き出る温泉の水質調査。で、公務員。華奢な身体をラフな格好につつんで、トレッキングシューズで、山の中の源泉を訪ね、川の上流のそのまた奥の方から湧き出ている水の匂いをかぎ、採取し、本当に温泉か、温泉ならばその成分の分析表を出したり、そんな仕事をしている。研究室に帰ると、彼女はその上に白衣を着て試験管に採取した水をとり、振ったりながめたり。……これも!私の中で、凄く凄く憧れの情景なのだ。白衣……憧れたなあ。憧れこうじてまるで意味もなく白衣を着ていたこともあったっけ(笑)。

この稲子を演じる唯野未歩子がとにかくいい。私、彼女はあのワケノワカラナイ映画「大いなる幻影」の印象が引きずってて、いや、あのワケノワカラナさは勿論、決して彼女のせいなどではないのに、それこそ訳も判らず、彼女自身を敬遠していたような……それこそ私の方がよっぽどワケワカラナイやね、ごめんなさい。彼女、私とひとつしか違わないんだ。それなのに、まるでまだ少女みたい。ベリーショートの髪が凄く似合ってて、静謐な中にひっそりと滴らせるような声が、本当に本当に可愛いの。山の中を歩く姿も、白衣で試験管を振っている姿も、とても似合ってて。

彼女の母親、澄江は夫と駆け落ち同然の結婚をした。激しい恋だった。山奥の凌雲峡、その神社で結ばれた。しかしその夫は、大事業を夢見てブラジルに渡る道中、その船が事故にあい、帰らぬ人となってしまう……というのは、娘、稲子に聞かされていた話だったのだけれど、実は父親は生きていた……最近まで。澄江のもとに、脳卒中で倒れて死に瀕しているとサンパウロの日本人会から連絡が来た、と夫の妹の夫から連絡が来る。彼は、稲子の住む米沢で市の助役をしている人。この田舎町でマジメに仕事をしている稲子を心配して見合いをさせたり、稲子が惹かれている問題アリな男を彼女から遠ざけようとしたり、親切心は判るんだけど、どこかおせっかいな奴。彼の妻もまた、そういうところはあるんだけど……兄のことを心配し、彼を放っておいた澄江のことをどこか苦々しく思っているこの妹。

問題アリな男、玉水は豊川悦司。彼は、秀作に対する嗅覚のある人だね。あ、この長尾監督とは、「つげ義春ワールド」で出会ってるんだ。深夜ドラマだったけど、秀逸なシリーズだったよね。あのシリーズで私、大森南朋にも出会えたし……ま、それはおいといて。とにかく彼、何だってこういうほころびのある男が似合うんだろう!どこから来たのか、フラリとこの街にやってきて、便利屋なんてやってて、温泉でもないただの川の水を沸かしてこの水質調査部を騒動に巻き込んだ過去のある男。先輩にそんな話を聞いた稲子なんだけど、源泉が枯れてつぶれそうになっている奥津館を何とか再興しようと、他の源泉を必死に探している彼にムリヤリ呼ばれて、その分析を頼まれる。なので、彼女がこの奥津館を訪れるために電車に乗るシーンが何度かあるんだけど、彼女はいつも進行方向後ろ向きに乗るのだ。トンネルの向こうに……つまり彼女の背後に光り輝く森と渓谷が広がっていて、そして彼女は不安そうな哀しそうなぼんやりしているような、何だか頼りなげな表情とたたずまいで、ちんまりと一人、小さな車両に乗っているのだ。

繰り返し、繰り返し……そう、この進行方向後ろ向きに電車に乗るシーンも、そして彼女が一人部屋で食事をとる時、壁際に置かれた机に座って……つまり、壁を目の前にして食事をとるシーンが繰り返されるのも、何だか心に引っかかる。壁には一応、彼女の仕事である温泉郷の地図などが貼ってはあるのだけれど、置いてあるテレビを見るでもなく、壁に向かって黙々と食事をとる彼女が……。独り言さえ、言わずに、静かに後片付けをする様も、繰り返される。彼女はまるで、これが永遠に続いてほしいと、やや自虐的な感覚で思っているかのようで。こんな感じ、こんな風にすこし寂しげに繰り返される日常、確かに何だか覚えがあるのだ……多分、誰にでも。

稲子は小さな頃に耳を手術したせいなのか、時々音が聞こえなくなって、パニックに陥ることがあって……というのが、小さな体の彼女が不安に包まれているのを痛切に感じさせるのだ。山の木々を吹き渡る風の音、遠くに響く鳥たちの声、そして川のせせらぎ……そんな重奏がふっと、本当にかき消されるように彼女の耳に届かなくなる。耳を抑え、不安そうな顔で天を仰ぎ見る。玉水に呼ばれて奥津館を訪ねた時、虫が何匹か彼女にまとわりつく。それを払っているうちに、またその症状が出て、彼女は倒れてしまう。「……時々あるんです、こういうこと。とても不安になるんです……」蚊の鳴くような声でうつむいてそうつぶやく稲子を、玉水は何も言わず、そっと自分の胸に引き寄せる。ああ、このシーン、凄く良かった。抱きしめる、までいかない。引き寄せる、って程度、それがドキドキするんだけど、安心するような温もりがあって。

ある日彼女は口紅を買ってきて、それを何度か塗る練習をして、ワンピースを着て、自転車を走らせる。……何にも説明されることはないんだけど、彼女が恐らくこれが、この年になって初めて買った化粧品で、このワンピースだって別に普通の、なんてことないすとんとしたシンプルなワンピースなんだけど、いつも男の子のようなパンツスタイルの彼女にとってこれがせいいっぱいのおしゃれだっていうのが、判るのだ。だから彼女は一人、何も言わないで、そんな準備をしているんだけど、あ、彼に会いに行くんだ。仕事ではなく、訪ねていくんだ、っていうのが、判るのだ。

このシーンのみならず、この作品は状況はともかく気持ちを説明する言葉がないんじゃないかといっていいくらいストイックで、なのにそれが間と表情で、判ってしまうのだ。私、これがとても、凄いと思った。彼女が言わない、あえてのみ込んだ言葉が、判ってしまうんだもの。あとの方のシーンになるんだけど、稲子が母親の澄江と凌雲峡に出かけて、この時稲子は、米沢を去ってしまうという玉水のことがずっと心に引っかかっていて、というのは、母親にも言わないんだけど、判るのだ。彼女のそぞろな気持ちが。そして、布団を並べて母親に「お母さん、私、…………」この続かない言葉の中に、彼女の言いたい気持ちがもう、ほとばしってて、あふれてて、「……明日、帰ることにする。……ごめんね」と、それだけで、玉水に会うために帰るとか、いやそれ以前に玉水のことさえ、話してないのに、彼女の気持ちが、言いたいことが、ものすごくあふれているのだ。そんな娘の気持ちに応えて澄江も「いいのよ。いつまでも一緒にはいられないものね」と……これ、凄く胸がつまった。母と娘って、特別な間柄で、いつまでも一緒に友達のようにいられたらと思うけど、それもかなわない時が来たんだな、っていう……それは、稲子の年としてはむしろ遅すぎたのかもしれないけど、それは今までの母親思いの稲子だからだったような気がするのだ。

だいぶシーンを飛んで話してしまったけど、で、稲子がそんな風に意を決して玉水を訪ねると、男の子が出てくる。彼は子持ちだったのだ。しかし、そのボロアパートに奥さんはいない様子。稲子は二人のために食事を作り、何を話すこともなく三人で食事をし、その場を辞する。後日、稲子の勤める市役所に玉水が訪ねてくる。彼女を待っている玉水=豊川氏を小さくとらえるその引きの画が!その彼を棒立ちになって見つめる稲子の全身のカットが!もうね、それだけで二人の気持ちが判っちゃうの。彼は仙台への墓参りにぎこちなく彼女を誘い、こんなことを言う。「確かに僕には子供もいる。逃げたけれども妻もいる。とんでもない相手だ……」そんな彼に稲子は小さく消え入りそうな声で「……私、これで失礼します」と言って、その場から立ち去ってしまう。それがせいいっぱい。そのあと屋上で、少女のように涙があふれる目をこすりながら号泣する彼女が、判る、判るよ!って何が判るのか私にもよく判らないんだけど(笑)でも、とにかく、この言いようのない彼女の気持ちが判る!って……ああ、もうそれこそね、このタイトル、いいタイトルだね。本当に、こう、気持ちがね、説明の出来ない気持ちが、さゞなみのように寄せては返すの。

玉水は電話もなくて、電報に頼るありさま。だから、決心した稲子は凌雲峡から彼に電報を打つ。電話じゃなくて。それにこの電報を打つ電話が懐かしのダイアル式黒電話で、ダイアルがジーッジーッと戻るその時間が切なくもどかしく、胸をかきむしる。この映画では携帯電話も出てこないし、稲子が一人暮らししている部屋の電話はコードレスなんかじゃなくて線がつながってるし、澄江の暮らす古い家は、昔の、受話器の重そうな電話で、澄江はその電話の前にきちんと正座して、まるで祈るように儀式のように話すのだ。それが、凄くもう、美しかった。正座、そう、正座がね、これ、澄江だけじゃなくて稲子も、凌雲峡の旅館のシーンなんかで特に、スッと自然に座る感じ、小さな頃から今まで、それが身体に備わっている感じで、とても美しいのだ。澄江にお茶をいれてあげたりする、そのたたずまいも、ああ、お茶をいれるだけで、そうだこんな風に美しいんだよね、って思い出すような。そしてその旅館の窓からは、山の緑が視界いっぱいに広がっていて……。「夏至」で、かつて日本にもこういう生活の美しさがあったはずなのに、って嫉妬にも近いような気持ちにさせられたんだけど、あ、ここにあった、ここに残っていてくれたって、それが凄くね、嬉しかったんだ。彼女たちの立居振舞が、もちろん洋服なんだけど和服でも着ているみたいに、そういう備わった美しさがあったから。

澄江を演じる松坂慶子が凄くいい。松坂慶子なのに、という言い方もおかしいんだけど、彼女みたいな華やかな美人女優が、和歌山の小さな町で女手ひとつで一人娘を育てて、30年続くカメラ屋をいまだ守っている、というのが、その女の生きてきた30年をしっかりと感じさせるのだもの。庭で育てている野菜をとり込んで、縁側でそのままぼんやりとしていたり、夫のいわば形見である水枕を旅館の女将から差し出されて、それを見ながら嗚咽する後姿の、その足の裏の年輪とか、積み重ねられた時間が、彼女の中にしっかりと存在しているのが見える。骨組みが、しっかりしているんだよね。それが苦労がにじみ出ている美しさになってる。そこが、華奢な娘と本当に対照的で……。どうやら一大決心をしたらしい娘、一足先に帰る娘が乗り込むバスを見送る彼女、でも彼女の方は、もうすこしこの凌雲峡でゆっくりしていくわ、と言って……決心して自ら選んだ未来に向かう娘と、過去のほろ苦い思い出にひたる勇気と時間をようやく持てた母親と、って対照が、手を振り続ける母と娘に込められてて、言わないの、何にも言わないんだけど、涙が出る。

夏井稲子、夏井澄江、玉水龍男……水や緑の清明さを感じる名前たちが、雫のように透明な響きで心地よい。彼らを演じた三人はもちろん、稲子の耳の手術をした医者役の岸部一徳も凄く、良かったな。「あれは我ながらいい腕だったわ」なんて言って。彼女のこと、実の娘のように気にかけているのが判るんだよね。このお医者さんは、日本庭が好きみたい。学会があったとかで米沢で働いている彼女を訪ねてくる時も、そして和歌山の自分の家の庭も、静寂が支配しているような日本庭。あ、そうか、静寂……彼が語る、患者さんにだけ聴こえる音の話もそうだし、彼は静寂の中に身を置いて、患者さんの聴く音を聴きたいと切望しているんだ。静寂が、音として流れているようなこの日本庭も、久しく映画が置き去りにしてしまっていた日本の美しさ、なんだ。

これ、台詞協力っていう人がいるのよ。私、それに感動してしまった。だって、これだけ台詞が最小限に抑えられてて、台詞協力がいるっていうのが、素晴らしいと思ったんだ。そして、このカメラマンは写真出身の人。それも凄く納得だった。画がね、いい意味で止まっているのだ。流れを焼き付けて、止まってる。そういう感じって、山や川がひっそり息づいている日本の自然の風景そのものなのだもの。

長尾監督の前作、「鉄塔武蔵野線」もそうだったけど、本作も非常に素晴らしい地方映画。今はやはり、地方映画の時代かもしれない。長尾監督は、緑いっぱいの映画を作る監督さんだね!嬉しくなる。凄く。★★★★★


ザ・ロイヤル・テネンバウムズTHE ROYAL TENENBAUS
2001年 110分 アメリカ カラー
監督:ウェス・アンダーソン  脚本:ウェス・アンダーソン/オーウェン・ウィルソン
撮影:ロバート・ヨーマン 音楽:マーク・マザーズボー
出演:ジーン・ハックマン/アンジェリカ・ヒューストン/ダニー・グローバー/ビル・マーレー/グウィネス・パルトロウ/ベン・スティラー/ルーク・ウィルソン/オーウェン・ウィルソン

2002/9/22/日 劇場(シネスイッチ銀座)
困ったな……何だか一向にピンとこなくて。結構半ねむ状態だった部分が多かったからどうにも自信ないんだけど、その半ねむ状態だったのも、そのメリハリのなさのせいだった気もするし(思いっきり責任転嫁……)。後から色々当たってみて、何だかやたらとその筋に絶賛状態だったりするらしいのを目にすると、更に自信がなくなってしまうんだけど。でもそれを読めば読むほど余計に心がどんどん離れていく自分を感じてしまうんだよなあ。だってさ、もうやったらいろんな映画を引き合いに出してそれを彷彿とさせるとか言ったり、センス、といったこっちとしてはつかみどころのない部分に関して褒めまくっていたり、通好みの映画ファンに受けるとか言われると、あ、やっぱり私にはダメだと思っちゃう。通好みの映画って、正直あんまり好きじゃない。そういう枠組みから入るわけではもちろんないけど、どういうタイプが好きかって言われたら、センスではなくて、人の思いが伝わる作品が好きなのだ。愚直なまでにパワーが溢れていたり、判りやすい面白さをきちんと職人的に楽しませてくれるような。何か、細部にこだわるのって……好きじゃない。

こういう、細部やキャラにこだわってこだわって、私の心から離れていく感じは、何だか石井克人監督あたりに似ているかな、何て思う。何か見た目的にはホントそういう感じ。キャラが画的に立ってて、美術にこだわりまくってて。で、批評家さんとか解説者さんが、シーンの隅をつつくように詳細に説明してくれる、みたいな。ま、石井監督の場合は本作なんかよりもっと割り切ってて、登場人物の心情とか、家族の崩壊の物語とか、そんな神妙なカラーではないけど。本作の、オフビートな中に現代家族の崩壊をカリカチュアさせて描くというのは確かに通好みの映画ファン心理をくすぐるのかもしれないけど、まず前提として、こういう見た目キャラにおけるオフビートさって世の映画にハンランしているから、そこの部分で成功しないと難しい。……ということを、アメリカ映画界自体が判っているのかが、どうにも怪しい。というのも、今の映画界で新鮮さを放つのは、これだけ世界中から映画が発信されている中、非常に難しいし、新鮮さという点に置いては、本作はそれほど合格点を与えられないと思うのだけれど。こういうオフビートさってむしろ今は日本も含めてアジア映画の方が秀作が出ているんじゃないかな。あ、でもこういうタイプの映画がヒットだけではなく評価されるっていうのは、ちょっとうらやましい気もするけど。日本じゃなかなか……。

正直言って、子供の頃の描写、現在の時間軸でのキャラをそのままミニチュアにしたような彼らの描写の方がよほど面白かった。つまりはこれもまた予告編の方が面白かった。あるいはそこにこそオフビートな面白さがあって。チャプターごとに語られていく天才家族の没落の物語は、メリハリがないっつーか、まあ、そうしたメリハリに対する無欲さ(やっぱりどうしても、もっとテンションをイジりたくなりそうなもんだもんね)、それもまたネライなんだろうけど、この、重く一定のリズムを刻むような淡々とした描写に思わず催眠効果のように眠りを誘われてしまう。確かにこのキャラでこの物語で、石井克人風ハチャメチャリズムで話が進んだら、もっと凡百の“オフビート”になってしまったのかもしれない。でもね、キャラが見た目の時点で止まっちゃってる気が、するんだなあ。ことに、子供時代は天才だったわけだから中身と見た目と無愛想さ、その面白さがあったわけだけど、天才も20過ぎれば……てな感じで今はスッカリただの大人になっちゃった彼らが、でも見た目だけは子供の頃のままで、それも確かに面白いんだけど、……うーん、やっぱり見た目だけで止まっちゃってる気がする。

常に赤いジャージを着ている三人父子、長男チャス家族のベン・スティラーたちは、子供を含めた造形が面白い。父親のロイヤルが死んだ時にちゃんと黒のジャージで喪服状態になるのも、笑える。父親から養女だと連呼される次女のマーゴは、くまどり状態の強烈なアイラインが何だかうーむ、カルメン・マキ?グウィネス・パルトロウだというのは、なかなか意外だけれど、これが最も造形のみに留まってしまっていて、彼女自身のもともと今ひとつなキャラを抜け出すまでに至っていない。これはやはりキャメロン・ディアスのハジけ方などに比べると、まだまだ負けていると言わざるを得ない。しかしこのマーゴの、実の親に会いに行って指を落とされて帰ってくるというエピソードだけはかなり印象的で面白い。ずっと養女養女と言われて心の拠りどころはどこかにいる実の親だったであろう彼女が、ついに果たした再会でこんな目に会うというのが。木で代わりの指を作って、常にカタカタ言わせている切迫感。しっかし彼女、私と同い年かよ……参るなあ。

彼女とお互いに思いあっていると大人になるまで双方気づかなかったのが次男のリッチー。彼は少年の頃から天才テニスプレーヤーだったのが、この思いを寄せていた姉の結婚でショックを受け、自滅試合で引退してしまったという経歴の持ち主。なるほど、彼の造形はビヨン・ボルグのイメージなのか。確かにソックリ。だから大人になっても子供のサイズのままの(だよね?)ヘアバンドを頭にはめたまま、そして一度自殺未遂し、死んだ気になってマーゴに告白する。一応はお互いの気持ちを確認しあった二人だけれど、何となくホロ苦い気分を残したままなのは、取り戻せないこの20数年がどうしようもなく横たわっているせい、なのかな。

マーゴの夫であるビル・マーレイがいつのまにやらすっごい年とっちゃったのには驚いた。でもまあ、当然か。もう「ゴーストバスターズ」の昔から随分とたつもんねえ……。彼の気持ちが彼女にどうにも届かない歯がゆさは、何だかちょっと切なかったな。テネンバウムズ兄弟の幼なじみのイーライ、演じるオーウェン・ウィルソン(兼共同脚本)、どっかで見た顔、どっかで聞いた名前……だと思ったら、ああそうか、「シャンハイ・ヌーン」でジャッキーの相棒役やってた、あの御仁かあ。彼、このやさ男の見た目でそのお腹ぽっこりはヤバいっすよ。キャラとその言動がしっかり結びついて最も面白かったのは、父君ロイヤルの従者であり彼の命の恩人、パゴダ(つっても、ロイヤルを殺しかけたのはパゴダ自身だけど)。またしても突然(ほぼ)意味なくロイヤルを刺しちゃって、「もう刺すなって言っただろ!」と叫んで倒れかかるロイヤルをまた丁寧に介抱する、あまりのイミネーさがイイ。

テネンバウムズ家の夫人、エセルが会計士のヘンリーと再婚することになって、その教会にラリッたイーライが車をブッ飛ばして突っ込んでくる。彼を捕まえるのに追い掛け回すチャス。チャスがイーライを塀の向こう側に放り投げ、自身も飛び降りるそこはなぜか日本庭園??二人を救出するためにノックしたドアから出てくるのは和服姿の日本女性??あ、そういやあ、それまでもバックにこの「大使官邸」ってプレートが映っている場面、何度かあったよなあ……。うーむ、この日本の描写には何か意図があるのだろうか……ないか。この結婚式での場面で、男性陣は子供含めてみーんなおんなじカッコ、女性陣(つってもエセルとマーゴだけだけど)もおんなじカッコ、っていう制服状態が何か、可笑しい。あ、それで日本なの?いやいやいくらなんでもそれはうがちすぎかあ。

一時期出まくりだったジーン・ハックマンはそれで柔軟さを身につけたのか、こういうトンデモ親父が意外に似合っている。まだまだ色気や不良性があるからハマるんだよね。若い頃のギャングかよってなサングラスとか似合うし、その若い描写にも違和感がない。アンジェリカ・ヒューストンは、彼女自身トンデモ役柄を色々やってきたせいか、割と薄い味わいに思えてしまうのはいいんだか、悪いんだか。★★☆☆☆


サンセット大通りSUNSET BOULEVARD
1950年 110分 アメリカ 白黒
監督:ビリー・ワイルダー 脚本:チャールズ・ブラケット/ビリー・ワイルダー
撮影:ジョン・F・サイツ 音楽:フランス・ワクスマン
出演:グロリア・スワンソン/ウィリアム・ホールデン/エリッヒ・フォン・シュトロハイム/バスター・キートン

2002/4/28/日 TV(NHK教育)
すごい、すごい、すごい!噂には聞いていたけれど……すごいッ!テレビ放映される映画を観るなんて随分と久しぶりなんだけど、それがちょうど「マルホランド・ドライブ」を観たばかりで、この「マルホランド・ドライブ」にはサンセット大通りが出てきて、ハリウッドの内幕ものの先駆者であるようなこの偉大なる本作にオマージュを捧げているようなところがあって、このタイミングでこのテレビ放映に当たるのは、何だか運命的なような気がしたのだ。そして、サンセット大通り、グロリア・スワンソンといえば、その映画を観る前から私の中では巨匠、手塚治虫が「ブラック・ジャック」の中で描いたそれが記憶にこびりついてて。なるほど、リアルタイムで観たに違いない手塚治虫の頭にこの作品が強烈に刻印されたことは間違いなく……。

それにしても。こんなにコワい映画だとは思わなかった。既に出だしにして延々と続くサンセット大通り、そこにかぶさる音楽からもうコワくて(なるほど、確かに「マルホランド・ドライブ」のうねうねと続く道の不気味さは、この作品のこの冒頭シーンがあってこそなのね)、ありゃりゃりゃりゃ、まるでホラー映画みたい、と思ったんだけど、観終わって……本当にホラー映画じゃないか、こりゃ!?と確信してしまうぐらい。かつての栄光を忘れられず……というか、自分を忘れ去った現代を直視するのが怖くて、復帰できると信じることによって自らを生き長らえさせているかような往年の銀幕スター、ノーマ。彼女を演じるグロリア・スワンソンの、老醜への強烈な拒絶感。……っつったって、まだ50歳だっていうんだから!でも今でも、女優は50にもなると仕事が来なくなるというし、男優が生涯現役であることを考えると、半世紀も前、これほどまでに痛烈に皮肉られたことが、いまだに通用してしまうということこそに怖さを感じてしまう。年齢を重ねることの意義、その年齢ゆえの美しさなど、かつて美しきスターで君臨した女優にとって、何の意味も持たないのだ。まるでまるでまるで……これって、女性の人生そのものを否定しているみたいじゃないか!

ノーマは自分の復帰作の脚本を、映画6本分にもなる長大な長さになるまで殆ど執念を持って書き上げた。そこに偶然飛び込んできた売れない脚本家、ジョー。彼は、ただただ金が必要ということだけで、このワガママ富豪の願いを聞き入れる。まあ、テキトーに流してやっつけちまおう、と思っていた彼の思惑は、彼女と、彼女にかしずくたった一人の使用人である執事、マックスによってちゃくちゃくと崩されて行く。いつのまにか同居の用意は完璧に整えられ、このオバケ屋敷のような豪邸から逃げられない。自由がないとは言えど、出て行けば一文無し。全てがこのマダムが支払ってくれる生活からだんだん抜けられなくなるジョー。取り返しがつかなくなったのは……ノーマがこのジョーにホレてしまったこと。

ジョーがこの屋敷に飛び込むことになる場面、彼が廃屋だと思い込んだその屋敷の、二階か三階か、高い部分からブラインドを指で下げ、のぞくサングラスの黒々とした二つの丸いレンズの光……思わずゾッとしてしまった。彼女の最初の登場シーンがこれだというんだから、ホント、ホラーなのだ。それに、この映画の製作年度、まあ確かにまだまだモノクロ映画も作られていただろうが、もはや時代はカラーに突入しているはず。それが証拠に劇中、ノーマは苦々しげにテクニカラーという言葉を吐いて捨てている。サイレント時代、モノクロの静かな画面の中で、表情だけで観客を振り向かせた彼女にとって、現代の映画事情は全く悪しきことだらけなのだ。そして本作もモノクロで撮られているのだが、それは彼女のそうした意志を汲んでいるというよりも、彼女の老醜を(しつこいようだけど、といってもまだ50歳なんだからね)目立たなくするためのような気がしてしまう。ゴテゴテに塗りたくり、人工的な眉やアイシャドウ、あ、でもモノクロで観る方がひょっとしたらコワいかな……それこそジョーが称するように、ロウ人形みたいで。

このジョーもまた、別の意味でコワい。演じるウィリアム・ホールデン、いかにも女性大好きって感じで、劇中でもノーマのみならず、もはや婚約者が決定している(しかもその婚約者は彼の友人で、もんのすごい気のいいヤツ)新人脚本家のベティにも惚れられるっていうモテ男。でも彼は確かにすらりとスマートなハンサムなんだけど……そのブルー(多分)の目が、既に最初っから冷たく輝いているのが判るのだ。他の作品でも観たことがあるはずの彼の瞳が、これほど冷たく見えたことって、なかった。彼はノーマに惚れられていると判ってから前より一層身動きが取れなくなるんだけど、でもその態度は、ハッキリと冷たくなり、そのまなざしはより一層温度を下げていくのだ。例えばこんなシーン……ジョーが退屈していると感じた途端、ノーマは芸人よろしくさまざまな“懐かしの”芸を披露してくれる。自分の出演作の水着姿の若い女から始まり……というこの始まりからして、尻を突き出しパラソルをくるくる回すノーマがあまりにも哀れで。そしてこれは驚嘆、本当に似ていて上手いチャップリンまでも披露するんだけど、ジョーは感心するどころか、あくびでも出そうな勢いで、つまらなそうな視線を彼女にとりあえず固定させている。その残酷なまなざし!

それが最も冷たく光ったのは、ノーマがベティとの仲を嫉妬して、彼女に匿名の電話を入れていたのをジョーが知った時。捨てないで、出て行かないでとすがるノーマを冷たく見下ろすジョーの、もはやこの女は捨てるとハッキリ決意したその瞳の……なんという残酷な……でも残酷すぎるゆえに、悪魔に魅入られたような美しさを持つその瞳!既に冒頭でジョーの死は示されているものの、こんな目で見られたら、そりゃあノーマじゃなくったって、どんな女だって彼に惚れていれば惚れているほど、彼を撃ち殺したくなるだろう……まさしく当然、必然に、ジョーは殺される。その愛の分だけ執拗に何発も撃ち込まれ、プールへと倒れこむ。ブルジョアの象徴である邸宅の豪華なプールに。目が見開いたままの彼の死体を水面下から覗き込むショット、その上にはシャッターを切るカメラマンや警察が映りこんだ水が揺れる。その完璧な構図と鮮烈さ。

彼女が復帰を夢見て、当時の名コンビであった、今でも現役のセシル・B・デミル監督に会いに行く。セシル・B・デミル!出ているのもめちゃくちゃ本人ではないか!?か、カッコいい……。さすが、本物、存在感が違う!スターである彼女を覚えていた照明マンが彼女にライトを当てなければ誰も彼女とは気づかず、その照明をのけたとたんに皆が散り散りに去って行く(勿論、デミルが声をかけたからなんだけど)という撮影所でのシーンには、あまりに残酷な、現実があった。でもまだ彼女は気づかない。監督は自分と仕事をしたがっている、とまだ思っている。その夢は……最後まで覚めることはない。ジョーを殺したことも、そのショックで記憶に残っていない。

彼女を最後まで守り通すと言ったのは執事のマックス。ジョーに、撮られもしない映画の撮影準備をさせるなんて、あまりに残酷ではないかと責められた時、「隠しとおすのが私の長年の務めです」と言い放った彼は……ずんぐりむっくりのブ男なのに、凄くカッコよかった。続けて言う台詞、「私が彼女を見出したのです。私が彼女を撮る筈の監督だった……私は彼女の最初の夫です」うわッ!び、びっくりした!それと同時に……ザワッ!本当に寒気が走った。離れられない、どうしても彼女から離れられない。そのために監督の地位を投げ捨て、屈辱たる下僕の役目に落ち、自分も愛したベッドの上に次々に違う男が来るのを、彼はその目で見続けている。な、何という……。そしてこんな若い男が彼女の相手になるのを、しかも殆ど彼女のなぐさめとして相手になるのをまで、見ているというのか!彼女が客の来ないパーティーをジョーとのためだけに催したあの晩、彼に拒絶され自殺未遂を図って泣き濡れていた彼女のそばについていたジョーが彼女と抱き合ってブラックアウトしたあの場面で、確かに二人は寝てしまっただろうし、その後も、その肉体関係は続いていただろう。時代ゆえに、そのシーンはそうしたぼんやりとした暗示にしか表されないけれど。それを、自分ではもはや役目を果たせないことをジョーのような、無名で若いだけの男にさらわれるのを、じっと見ていたというのか!

ジョーが出て行こうとするのに、ノーマは憎まないで、お願いだから、憎まないで、と懇願し、彼にすがる。でもそんな彼女を冷たく見下ろすジョーは……彼女にそれほどまでの価値も置いてないだろう。憎しみは、愛情と同じぐらい、あるいはそれ以上の強い感情を持つもの。ジョーにとって、彼女はそんな域にはとうてい到達していなかった。男に惚れた女にとって、これ以上の残酷な仕打ちがあるだろうか。……確かにジョーには、ここで殺されてしまうだけの理由があったのだ。そして茫然自失状態の彼女は、このスキャンダラスな殺人事件に群がったマスコミのカメラを映画の撮影隊とカン違いする。そしてマックスはこの最後に至って、ようやく、彼女を演出するという夢が果たせたのだ。無遠慮にバチバチやるカメラを制して、照明を指示し、カメラを指示し、アクション!の声をかける。愛するスター女優は、気が違っている。でも、その声に合わせて“宮殿の階段”を静々と降りてくる姿は確かに、銀幕のスターなのだ。何とも言えない表情で彼女を見つめるマックス、シアワセそうにも、この上なく哀しそうにも見える彼、彼こそがジョーよりももっとこの映画のヒーローだったかもしれない。演じるエリッヒ・フォン・シュトロハイム、素晴らしかった。

でも……王女様を気取って手をさしあげたポーズをとり、筋が出来そうなケバコワメイクに、カッと目を見開いた表情、でカメラにずんずん向かってくるラストショットは……うわあああ、やめてやめてやめて、お願いだからッ!と絶叫するほどに、本当に、怖かった。や、やっぱり、ホラーじゃないかあ。こわかったよー!うー、グロリア・スワンソン、ここまで演れれば、女優としてさぞかし本望だろう。ただ座っている時のつめを立てた奇妙なしぐさとか、年甲斐のないオーガンジー風のイブニングドレスとか、何か吸血鬼を思わせる女の執念の恐ろしさで……ホント、映画史の、女優の演技として1、2を争う名演技ではなかろうか。★★★★★


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