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ミスター・ルーキー
2002年 118分 日本 カラー
監督:井坂聡 脚本:井坂聡 鈴木崇
撮影:佐野哲郎 音楽:和田薫
出演:長嶋一茂 鶴田真由 國村隼 山本未来 さとう珠緒 吹越満 中原丈雄 嶋尾康史 米田良 神山繁 駒田徳広 宅麻伸 竹中直人 橋爪功
阪神が優勝する映画ということで、オフィシャルサイトの座談会やらBBSやらもやたらの盛り上がりを見せている。どちらかというと、映画なんかどうでもよくて、阪神が優勝する、というファクターだけに照準を当てている気が無きにしも非ずだけど。でも実は、本作にしたって、阪神は確かに阪神、そのままだけど、その相手であるGはユニホームはそのままながら、ジャイアンツではなくガリバーズであり、そうした微妙に設定を変えてきているところが、冷静になれよ、と言っているような感じもする。
実際、メガホンを取る井坂監督は野球に明け暮れた点では野球そのものに対して思い入れはあるみたいなんだけど、東京出身であり、ジャイアンツではないけれどもベイスターズのファンであり、割と冷静に作っているな、という印象を受ける。実際、井坂監督というのは、一見前衛的に見えたデビュー作から、プログラム・ピクチュアを思わせる本作に至るまで、作家主義的というよりも、きちんと作り上げていくタイプの職人肌であり、それはこの阪神優勝フィーバー映画に吉と出るか、凶と出るか、というところだったんだけれど、結果は……?うーん、どうだろう。元プロ野球選手総動員、はてはあの伝説のバースに至るまで駆り出してきたんだから、もう少しハシャいでもよかったかな、という気分もしたのだけれど。
それは案外、役に生真面目に取り組んだ一茂氏の気分が反映したかな、という気もする。でもそれは勿論正解で、このミスター・ルーキーであり、ビール会社のサラリーマンである大原は、仕事に対しても野球に対しても家族に対しても、そして自分の夢に対してもとても生真面目で、それを体現できなければこのキャラクターも物語も成立しない。彼が生真面目であればあるだけ、阪神の瀬川監督(橋爪功、怪演!)からのホットラインである六甲おろしの着メロ、阪神命で仕事そっちのけの(まるで釣りバカの浜ちゃんの阪神バージョンみたいね)上司である古賀、家族のために夢をあきらめようとする大原に突然キレる妻などなどの、彼の周りの状況や人物のギャップが際立って、可笑しみが発生するのだから。……というように、野球以外の部分で発生するシークエンスにはなかなかオモロイ場面もあるのだが、野球選手、野球シーンではどこかスポーツ新聞をそのまま実写でいったというような趣があり、……それは実際の野球そのものよりも多分にドラマティックにしているということでもあるのだけれど……ちょっと乖離を覚えなくもないのである。
上司の古賀も妻の優子も自分の果たせなかった夢を大原=ミスター・ルーキーに託す。ウンウンなるほどね、と思わなくもないが、特に妻の造形には、息子も夫も等分に愛すハツラツとした良き妻、良き母で、資格獲得という夢も持ち、家族としての思いを夫に説きながらも、それを踏まえて尻込みする夫の尻を叩く、という、いやまあ、どこからもこれでは文句は出ないでしょう、とでもいうカンペキな女性像なものだから、何だか逆に、いや、そんなん不可能だよー、と言いたくなってしまう。でもまあこれも、どこかひとつ落としどころがあったらそこをついて女に対する見方が云々と言っちゃうんだろうから、ただ単に私の悔し紛れの感慨に過ぎない、ってことは判ってるんだけど。実際、こういう夢を追う男の物語に、結局女は観戦し、応援することしか出来ない。だから、かえって女を出さないでくれ、と言いたいほどだったりする。
だってさ、夢を追う女の物語では、そんなに男を大切に扱ったりしないじゃない。恋愛相手や夫であろうとも、優しく見守ってるみたな、あるいは逆に、男を蹴飛ばして邁進する、みたいな。それを男の物語でやっちゃうと、また女性蔑視とか何とか言われる世相だから仕方ないんだろうけど……。私も女が女がと言ってきた手前、そんなことを言うのもヘンなんだけど、いらない部分ではきっちりいらないと言っちゃっても構わないんじゃないか、って気もするのね。でもそこまで言うこともやっぱりないか……だって、大原が妻子を持つ普通のサラリーマンであるということこそがこの物語の重要な部分なのだから。ちょっと、男の夢のカッコよさに妬けちゃっただけ。
その点、仕事もほっぽり出して阪神応援に熱中し、阪神が絡んだ仕事だったら大乗り気で、説得力の今ひとつない阪神ファン節を振り回して邁進する上司の古賀は単純に愛しい。演じるのは、ここはハマりどころの竹中直人で、彼は関西の人ではないし、だからその大阪弁も関西の人が聞いたら、アクセントの違いとか気になるんだろうけれども、やはりここは彼の真骨頂である。キャラクター的にはこの役をやれる関西系の人はいくらでもいそうな気もするけれど、そのまた上司の江川常務(宅麻伸)からつつかれるとあぶら汗をだーらだーら流して縮こまっちゃうような気の弱さを体現できるといったら、自信満々が売りのような関西系の役者さんや芸人さんを押えて竹中直人が演じる意味は大きい。阪神が優勝したらミスター・ルーキービールの発売が決定する、という大一番、苦々しげに一緒に観戦している江川常務から逃げるようにしてトイレでビールを飲むという、部下から「高校生やないんですから」と突っ込まれる場面など、ホント、かわいくてねー、笑っちゃう。
阪神ピンチの場面、覆面ピッチャー、ミスター・ルーキーが花火とともに現われたり、予告フォークでうち取ったり、肩の痛みを耐えながら力投したり、そして優勝のかかった最終戦、宿命のライバル、ガリバーズのバッターに打たれながらも味方のファインプレイ(ここが、良いのよ。彼の投手としてのヒロイズムだけで終わらないところが)で救われ、優勝を見事勝ち取る、といった野球シーンのドラマティックさには、何だかんだ言っても非常に鼓舞されるものがあって、にわか阪神ファンになって映画を“観戦”していたのはホントなんだわ。あ、これを忘れちゃいけない。ミスター・ルーキーというヒーローの仮面を取り去り、俺は大原だ!と宣言して最終戦のマウンドに立つ彼は、ひっじょーにカッコよかったなあ。
その時には妻も息子も観戦に来ていて、もう妻はやった!の満面笑顔で、息子は信じられないという叫びを押えきれず……この息子が、東京出身の両親の間に生まれてガリバーズファンでありながらも、その多くを大阪で育ったせいでしっかり関西弁だったりする、いわば橋渡しというか、バイリンガルというか?そんなところがイイのよね。この子もまた野球をやっていて、野球選手が夢なわけだけど、勉強もシッカリね、という母親にまかしとけ!文武両道!と胸を叩いたりする……というのは妻に続いて息子までちょーっと出来すぎじゃないのー?いいじゃん、どっちか一方に秀でてればさ。
しばらく誰だかわかんなかった、中国人?治療師のヤンさんを演じる國村隼がスパイスどころ。まさか國村隼が髪の毛キンパツに染めてカタコトの日本語で、だなんて、そりゃまるで三池崇史的キャラだ!?でもイケてたわ。★★★☆☆
確かに、映像は美しい。水にひたひたにされる感じ。森。森はあらゆる大自然の風景の中で最も心癒されるものかもしれない。その大地にひたひたに水を含んでて、幹にもひたひたに水が流れてて、葉や下草には露がいっぱい光ってて。森自体が水の象徴そのもの。意外に森って映画の中で観ること出来ないんだよな、とこの点は充分にご満悦だったのだが、いくら映像がキレイ、キレイといったって、ホメ言葉としてはそれまでだし……。
そしてもうひとつの風景は、銭湯。この銭湯、というのは、意外に日本映画の中でこの現代においても好まれて残り続けている。あの「千と千尋の神隠し」だって、そして「パコダテ人」、そしてそして、銭湯は廃業したものの、その形をそのまま残したノスタルジックな写真店としての「フィラメント」。ひょっとしたら、今が回帰の時なのかもしれない。皆がマッチ箱みたいなマンションに住んで、小さなお風呂がついてて、なんていう西洋スタイルに憧れた結果、銭湯はどんどん減り続けているけれど、でも、銭湯はなくなってほしくないと、多分全ての日本人は思っているはず。めったには行かないけれど、近くに一軒あってほしいと。それは確かにワガママではあるんだけど……。この舞台となっているひかり湯は、その点は幸せもの。開けばお客はワンサカやってくる。このご時世に珍しいことである。そんでちょっと歩けば森があって、だけど、この銭湯がある街はこじんまりとした商店街のある普通の街なのだ。で、さらに足をのばせばいわゆる団地がどーんと建っていたりして。う、ううむ、何かこの配置は欲張りすぎ?確かに森がそばにあって、大きな銭湯があって、こじんまりした商店街のある街、ってまでは理想的だけど……。
この銭湯、何となく気になってしまう、のは、古いのはいい、古びているのは大いに結構、しかし古びている、と汚い、というのは違うと思うんだけど……という、あの風呂の壁の汚さは何とかしてほしい。銭湯って、まあ大抵古いところが多いけど、それは例えば脱衣所の木の床が磨り減ってピカピカしてるとか、そういう使い込まれた古さの心地よい感じであって、あの銭湯のタイル壁の汚れ方はただ単に不潔なだけだと思うんだけど……風呂場のシーンが映るたび、それが気になって仕方ない。で、掃除をするシーンが出てくるたび、タイル壁もこすってくれよ、と思ってしまう。通用ドアとかもえらく汚れてるし……ラストクレジットに協力した銭湯の名前がいくつか出てくるけど、あれって実際のところなの?そうだとしたらかなり問題……それとも、映画としてのツクリモノであったら、美術さんのお仕事なんだろうけど、これは違うんじゃないかなあ……そんなの、突っ込むところじゃないの?桶が木でできてたり、今どきそれはないだろうというところには、凝っている割には……。
雨女、というのがあるのは日本だけではないか、とあって、あ、そうなんだ!と何か嬉しくなる。確かにこの湿気の多い日本で、で雨が神様みたいに言われることもある日本で考え出されそうなキャラではあるよなあ。ところで、UAは実際に雨女であるそうで、監督は劇中の雨はそのため殆どがホンモノであると言ってるけど、浅野忠信は撮影中は雨女の影響はなかったと言うし、一体どっちがホント?ま、そんなことどうでもいいことではあるけど、ともかくあの冒頭、涼の婚約者が死んでしまう日に降っていた雨は確実にツクリモノでしょ?だって、空が青く晴れ渡ってるんだもん。私、どうにもこうにも気になっちゃって、空、晴れてる、晴れてる……と心の中でつぶやいちゃって、一度気になっちゃうと、あのシーン、フロントガラスにホースで降らせている様子までありありと想像できちゃうし……。でも、もしかしたら確信犯的なのかな、とも思わなくもなかったんだけど。いわゆる、狐の嫁入り。あの日、涼と優作の双方の肉親が死んで、二人が運命的に出会う礎となった日。ある意味、奇跡の始まる日だったわけだから。
あ、そういえば、奇跡、という言葉、結構頻繁に出てくるね。婚約者が死んで一人になってしまった涼が、逃避行のような旅先で出会ったユキノと再会する時とか、あとは何だっけ、優作もつぶやいていたよね、どっかの場面で。あ、それとさ、このユキノは風の女、なんだって。そしてホームレスのおかあちゃん=翠が地の女。うーむ、そんなの、観てる時には全然判んない。水火風地、確かに判るけど……何かこーゆーところが、リクツっぽいのよ。その割には判りづらいでしょうが、とか言うしさあ(私もシツコイな……)。しかし、むしろこのユキノと翠の方が印象は強かったかもしれない。ユキノは涼と出会わなければ本当に死ぬ気でいたという。出会った場所は、富士の樹海。あるいは、涼も死ぬ気でそこに足を踏み入れたのかもしれない。いや、きっとそうだ。あそこは死ぬ場所でしか、ないもの……でも、二人出会って、それが回避された。後に再会した涼にユキノは言う。「いい男が出来たんやな。一夜を共にした人に何が起こったかぐらい、判る」こ、これって……!いやいや、それこそ私の方が考えすぎだ(笑)。でもさあ、UAもそういう色っぽさがある人だし、このユキノはスラリと長身で中性的でタチ役的?だし、二人が、また来年、と約束して別れる時、涼の耳に口を寄せたユキノに、おお、キスするんちゃうん、とついつい思ってしまったのは……そりゃ単に私のシュミだわね。でも、涼と優作の関係とはまた違った湿気を感じるんだ、どうしても。
そして翠を演じる小川眞由美は、もう一人でクッちゃってるかもしれない。すごい。あのいでたちはちょっと作りこみすぎかなという気もしないでもないけど、チャラン、チャラン、と手押し車の音をさせて、銭湯の戸をバンバン!と力任せに叩くのは殆どオカルト並の怖さだし、しかもその表情はいつも人形のように微笑みをたたえてて、これもかなりコワい。しかし、不思議と、本当に不思議なんだけど、涼がおかあちゃん、と呼ぶように、そうした慈愛をきちんと感じさせるんだ。しかも、肌がきれい。涼に身体を洗ってもらっている時の、あの絹のような肌。優作が放火犯だと知り、そして彼から殺されかけて、狂ったように涼を守ろうと暴れ回る翠。優作にホレきっている涼は思わず彼女の頬を叩いてしまうんだけど、でも事実は変えられなくて……翠に抱きついて、泣きじゃくる。そして優作は……というあのクライマックスのCGはなんともはや、どう言っていいんかねと思う感じだったんだけど……天井の火柱の顔が浅野忠信ねえ……うーむ。こんなところにCG使うぐらいだったら、あの青空のままの雨を曇り空ぐらいに変えとけって(再三、しつこい)。
ところで、UAはもともと映画がやりたい人だったという。そのせいかな、脱いだりするのにもさして抵抗がないように感じるのは。あるいは関西女の根性の資質かな。どちらにしろ、これは嬉しい。それにこの黒髪の美しさ。現代の日本映画で今なかなか観られないもので、でもこの映画では、そりゃあ、絶対に黒髪でなきゃ、いけないのだ。水をたたえる黒髪……水、といえば、やっぱりセックスの象徴だよね。この映画でもわりとセックスの描写は多く、そのまましんねりと描いてたらピンクとしても通用するような感じもしたりして。だから、ピンク監督が一般映画を撮ることが多い最近、私はこの監督もピンク出身だったりして……と思ったんだけど、そんなはずないよね。だって、サンダンスって新人監督じゃなきゃいけないんだもんね。しかし、私はどうもこのサンダンスの作品とは相性が悪いらしい……「Laundry」も本作に感じたようないろんな違和感が多すぎた作品だったし。「ピーピー兄弟」は大好きだったけど。
美しい映像に、意味や言葉を持たせすぎというか、あ、でもそれは観たあとに監督の言葉を色々読んでて、何か随分定義づける人なんだなあ、と思ったせいなんだけど。ま、でも誰でもそうなのかもしれない。ただ、言わないだけで。それを聞いちゃうと正直興ざめという気もしたりして……。だって、観客に映画を渡してくれてない気がしちゃうんだもん。優作が夢想する、翠の過去、阪神大震災で全てを失った、と彼は想像するんだけど、何かここだけ唐突に語っちゃって、それまでは映像にゆだねているなあという感じだったのに、面食らう。でもそれも、そうした監督の言葉を読んでいると、さもありなんというか、ゆだねている、と見えている映像にも、常にこうした解釈が監督の中では流れていて、で、ここでは、これは言葉に出して説明しないとさすがに判んないかな、という感じで出してきているというか。
普通の映画ではない、と言いつつ、普通の映画だよなーと思った最大の理由は、おまわりさんが指名手配犯のポスターを貼りに来た時。こういう流れって、映画の中で何度も見てて、いわばドラマのお約束な展開だから、それまでは、確かにヒーリング映画という感覚で、何も考えずに、ゆだねられるのかなと思っていたので、何か勝手にガッカリする気分になってしまったのだ。水の女と火の男、そんな神秘的な運命の恋、の割には随分と俗っぽい障壁を用意するんだなあ、なんて思って……。この優作が「ちょっとしたことでキレてしまう。抑えられない自分が怖い」と語るのも、最近の世間的なことをあまりにもそのまま言い過ぎで、何か浅薄な気がして、これも勝手にガッカリしてしまう。ま、つまりは私が勝手にこうあってほしいって思って、勝手にガッカリしているだけなんだけど……感覚の映画の筈が、説明されちゃったよ、みたいにさ、本当に、勝手だよね、観客なんて。
実は、この“美しい映像”っていうのも、時々画としてやけに用意されすぎな感じがして、それも違和感だったのだ。樹齢何百年と思しき大木に優作をいざなった涼が「ここで、して」と言う場面。薄光が差し込む森の、神木を思わせる大樹の元で裸で抱き合う二人は、確かに息を呑むほど美しいのだけど、画として完成されすぎちゃって、映画の中に溢れる感情って感じじゃないというか……。なぜ涼はここで彼に抱いてほしいと思ったんだろう?彼を失いたくないって思って、それでこの神木に見守ってもらっての儀式、だったんだろうか……なるほどね、と思いつつも、何かそれも私だけの、後になってからのこじつけの解釈だし、観ているその時そう感じたわけじゃない。これって、いわゆる“美しい映画”に出会うと時々、そんなひねくれた思いにとらわれるんだけど、画として計算されているな、というのがあまりにも判り過ぎる時、美しいと思っても、気持ちが急速に冷めてしまう感覚があって。
でも、この古い家の感じは好き。銭湯の中は汚いけど(笑)、必要なものが手の届くところに全部置いてある、台所の使い込まれた感じとか(あ、でもガスレンジはも少しきれいにしといてほしい(笑))何より、靴脱ぎ石のある、濡れ縁がいい。その濡れ縁と部屋を隔ててるガラスの引き戸はピカピカに磨かれてて、雨が降るとその透明なガラスを震わせて、水晶のような雨粒が滑っていく。ああ、こういう感じ、いいなあ……そしてそこにかぶさるクラシック調の音楽。ことにそのピアノの音色は、そうだ、ピアノの音って、水の音、雨音を思わせるんだよなあ。
ところで、結局優作は、名前や過去を言いたかったんじゃないのかなあ。あの時涼は、優作と本当に仲良くなりたいから、と彼が言おうとするのをさえぎったけど、彼は言おうとしてたよね?もし、あの時彼が告白していたら、……どうなったんだろう?でも二人は水と火の関係。どっちにしたってプラマイゼロで何も生み出さない。と、いうのは、ユキノが言った銭湯の定義そのまま。「何も生み出さないのに、垢を落とすだけなのに感謝される、いい仕事や」。ならばこの二人は?プラマイゼロは同じだけど、……でもプラマイゼロが愛の定義にもなってしまうのなら、それは寂しい。愛は何かを生み出すものだと信じていたい。でも、やっぱりプラマイゼロなのかもしれないな。長いことかけて何かを生み出しても、最後にはプラマイゼロになって、終わる。二人はその時間を短く太く、駆け抜けただけで。
浅野忠信の関西弁は初めて聞いた。というか、彼の方言演技を聞くのは、「青春デンデケデケデケ」の讃岐弁以来?(「幻の光」なんかは殆ど喋ってなかったしな)なかなか新鮮。★★★☆☆
しかもこのアニメーションのキャラは、いかにもおこちゃま少女マンガのキャラよね。目、でっかくてさ……いいけどね、別に。しっかし、これって新メンの中で高橋愛を推しているというのがよーく判る映画よね。結局この映画の目的って、高橋愛を迎えた新・ミニモニ。と、ミニモニ。を引退させられたやぐっつあんが率いるキッズたちとのユニットのお披露目だってことが、ラストシーンで判るくだりになってて、この新人事が発表された時にもさんざん言われていたけど、本当に、やぐっつあんがかわいそすぎるよね。彼女が作ったユニットなのにさあ……。“ ミニモニ。を卒業する前に、こういう大きい仕事がミニモニ。でできてすごいうれしかったです。”と短くコメントしている彼女の気持ちが推し量られるよ(涙)。
そうなの、高橋愛がね、一人違うカッコしてるじゃない。だから一人目立ってるんだよね。確かに出番はオリメンよりは少ないんだけど、ミニモニ。カフェに忍び込む時のアクションとか、体のやわらかい彼女ならではの見せ場が一人用意されてたりして、彼女一人を推しているというのがホント、よおっく判るのよ。あの黒づくめの衣裳と、目のところにカパッとかぶせられる赤外線スコープみたいなヤツとか、そうそう、ミニモニ。カフェに泥棒よけに設置された赤外線も含めて、あれはハッキリ「ミッション・インポッシブル」のパロでしょ?めちゃめちゃ見せ場じゃん。新メンの中で彼女一人だけが「仔犬ダン……」ではなくこっちの映画に呼ばれてて、しかも一人目立ってて……。彼女だけが新メンの中で飛びぬけて人気があるっていうのは知ってるけどさあ、あー、結局、そう、そうだよね。商売の世界なんだもんね。くっ。
パロといえば、この作品世界自体、カラフルでポップでキッチュな感じ、「オースティン・パワーズ」を思わせる。ということに気づいたのは、シーンの節目ごとにメンバーそれぞれが一発ギャグ?をかますんだけど、そのトップバッターがミカちゃんで、彼女がオースティンをやったのよ。「イエー!ベイビー、イエー!」みたいにね。これが上手いのよ。ビックリしちゃった。思わず虚をつかれて爆笑しちゃったもん。でこのモノマネが、というわけではなくて、最初の「オースティン・パワーズ」もこういう構成だったじゃない?シーンの節目ごとにオースティン率いるバンドがジャーン!とかます、という構成。あれに良く似てるよね。
と、いうわけで、ミニモニ。がミニミニサイズになるクライマックスは全編彼女らはアニメーションになっちゃうんだけど、しかし声は彼女ら自身が当てているから、意外な才能に気づくことにはなるんである。私ね、アニメの部分は似ている声の、プロの声優さんが当てているのかと、思ったのよ。特にやぐっつあんがホント違って聴こえたんだよね。それはいかに自分の目だけを頼りに声を聞き流してるか、ということでもあるなあと思ったんだけど。でもね、アニメーションになるとやぐっつあんのオーバーアクトな喋りの上手さに気づかされるのよ。他の子たちもそれぞれなかなか上手いんだけど、彼女が一番オッと思わせたなあ。そしてこのシーンでは人物はみな、アニメーションなので、ナカジェリーヌ29世としてご出演の中澤姐さんもアニメである。ちょっとこれは、残念。このワガママで傲慢な女王様を、彼女自身の実写で見たかったな。あのストッキングの柄とか、中澤姐さんがはきそうな感じじゃない?それに、中澤姐さんはこの部分、やぐっつあんと対照的で、彼女の場合、実際のビジュアルの方が実は声よりも強力だということに気づかされるのね。あのビジュアルと同時に声を聞いているから、声も結構ドスがきいているように錯覚しているんだけど、アニメに乗せるとまあそこそこって感じで、確かに手慣れた感じで上手いんだけど、普段の彼女のイメージより意外に弱い。その点、やぐっつあんの方がインパクトがあるというのもまた意外なところで。
ナカジェリーヌ29世は美の追究者(まッ、「エルセーヌ」だからね。この辺ももちろんパロとして加味されているんだろうな)。実はケーキは大好きなんだけど、ケーキを食べるとカワユク変身してしまうので、キライとウソをついている。その彼女にミニモニ。カフェのケーキたちが全部石に変えられてしまった。んで、彼女たちはこの事態を元に戻すべく、ちいさな妖精たちとともに空を飛んで女王の城(自分たちが作ったお菓子の城)へと向かう。ジェリービーンズのあめあられとか、クリームサンドビスケットの石畳とか、心惹かれるお菓子タウンの描写がイイ。彼女達がアニメーションというのは、つくづく残念ね。この中で実際のミニモニ。を遊ばせるわけには行かなかったのかなあ?そうそう、ラストクレジットの時にね、「モンスターズ・インク」みたいに、作られたアニメーションNG(実写部分でのホントのNG……メイキングといった感じかな……もあるけど)があるんだけど、それが大体この飛行部分を使ってて、ケーキの山に墜落する一瞬をミカちゃんが助ける、というのをテイクを変えて見せる、これが結構上手く出来てるのよ。こうして考えると、ホント色んな映画のパロやオマージュが感じられて、なかなか好感が持てるんだよなあ。
彼女たちを助けるおじいさん?冷蔵庫がなかなかグー。その中にケーキの材料がなーんでも入ってて、窮地にたった彼女らにケーキを作らせて、見事ナカジェリーヌ29世を陥落させるのである。あ、でもバナナは冷蔵庫に入れちゃダメっすよ。このシーンで、絶対に食べない!と必死に横を向いていたのが、カワユイ妖精の「あ〜ん」と言うのにつられて口をあけてしまい、「お、い、し、いい〜〜〜ん」と咆哮する中澤姐さんは素敵ッ!結局ミニモニ。たちに負けてしまって、お菓子の城が大崩落する中、さっさと逃げなさい、とうながし、この妖精にチュ、とやられて「アホ、早く行き」と関西弁でテレたように言うのが上手いんだなあ。
♪ポケットを叩くと〜 のメロディそのまんまに、割れていくごとに数が増えていくビスケット兵たちが実にキュートね。巨大なシュークリームが追っかけてきたり、崩れ落ちるお菓子の城からクリームがどどどと流れ出てきたり、そうした造形、これは女の子が夢見る感じでかなり心惹かれるものがある。だから、もったいない。ミニモニ。をしっかり活躍させて、完璧なファンタジックワールド、完璧なアイドル映画を堪能したかったなあ。
相互協力の宣伝展開をしているという松竹のミニハムズが一瞬だけ登場。ということは、ミニモニ。もあちらに出演しているのかな?★★★☆☆
時代はまず1927年のロシア。そこに父と祖母とともに暮らすユダヤの少女。美声の持ち主の父は、少女に歌を歌って聞かせる。それが彼女に残した唯一の、しかし最も大きな財産。ユダヤ人迫害の危機が迫る中、父はアメリカ行きを決意する。夢の叶う国で金をため、皆を呼び寄せると。しかし父が去った後、町は迫害によって崩壊、祖母は少女をアメリカに向かおうとしている青年たちに託す。少女は胸にしっかりと父の写真を抱いて。しかし少女は青年たちと引きさかれ、イギリス行きの船に乗せられる。写真も名前も奪われ、スーザンと名づけられ、イギリスの家庭に引き取られる。英語も喋れない彼女は学校でも家庭でも深い孤独を愛することになる。しかし父から譲られた財産、歌と声が彼女を救った。それを武器に成長したスージーは再び父を探す決心をする。コーラスガールのオーディションを受け、パリへと出る。気のいいロシア人ダンサー、ローラと知り合い、同居するようになる。初めて出来た気の許せる友達。スージーは自分がユダヤ人であることもローラに話す。
そして二人はお互いの運命を決する男たちと出会う。父を思わせる美しい声を持つオペラ歌手のダンテ、そして彼が二人を雇ってくれるよう手配したオペラの舞台で出会った白馬に乗るジプシーのチェーザー。野心家のローラは金持ちのダンテを誘惑することに成功する。一方、スージーはダンテが美しい声を持つのに、その心は全くの俗物であることに失望する。そんな彼女を見つめるチェーザー。黒髪の少女を見つめる黒髪のジプシー。惹かれあうようになるのは当然の帰結だった……。
ここでメインの四人が出揃った。スージー役のクリスティーナ・リッチ、ローラ役のケイト・ブランシェット、ダンテ役のジョン・タトゥーロ、チェーザー役のジョニー・デップ。目もくらむ豪華キャストだが、それぞれにどこか陰のある個性派であるという点で、そしてもちろんハマリ役であるという点でも、単なるスター共演のエンタテインメント映画とは大きく異なっている。
つややかな黒髪と黒い瞳が痛々しいほどに真っ白な肌に映え、小柄な体が更に痛々しいのに、プライドで凛と輝いているクリスティーナ・リッチの素晴らしいこと!彼女は「バッファロー’66」の役柄のせい(と、私は思っているのだが)でずいぶんとぽっちゃりとしたが、もとの体型にちゃんと戻している(しかし胸はやけに巨乳になった)。子役時代をほうふつとさせるあどけなさをその顔や小柄さに今も残しながらも、だからこそ余計にコケティッシュ。
彼女と仲良くなるケイト・ブランシェットはその点でまさに対照的で、マレーネ・ディートリッヒもかくやと思われるような、ブロンド(も大分ブリーチしているようだが)の派手な美人。しかしその派手さも、ロシアの貧しい時代を体験してきた彼女が野心をつかむための武装であり、一皮むけば、捕まえた男よりも友達のスージーを優先してしまう、情に厚い女なのだ。ケイト・ブランシェット、「エリザベス」のイメージがあるからか、こんな顔だったっけ……とその変貌ぶりに驚いてしまった。このあたりのカメレオンぶりも、さすが、見事。
カメレオンぶりといえば、ジョン・タトゥーロも。風貌が変わるわけではないのだが、役柄にパズルのピースのようにピタリとはまり、作品ごとに印象をガラリと変えてくる。こんな姑息な役も小憎らしいほどに似合ってしまう。しかしこの俗物の男、スージーをユダヤ人だと密告するような男、なのだが、哀しい。自分の声だけで観客を呼べると信じていた自分が、戦乱の時代の波に抗えず、ついに劇場はガラガラになる。それでも華やかな社交界にあくまでも活路を見出そうとする。そんな彼の気持ちを、スージーとなら気のあったローラもだんだんと支えきれなくなる、のは、スージーと違ってこの男は借り物の理想で固められているに過ぎない、自らが希薄な哀しい男だからだ。スージーもローラも、そしてチェーザーもユダヤ人であり、ロシア人であり、ジプシーである、というそれぞれの自分のことを誇りに思っている。しかしイタリア人のダンテはイタリア人であることに誇りを見出すというより、ムッソリーニを、そして対有色人種に対する自分たちアーリア人を優越するという男で、しかしそれは自分ではなく、他人の、そして時代の妄想に過ぎないのだ。自分で考えているようで、考えていない。それだけの強さを持ち合わせない、実は最もかわいそうな男。
そしてチェーザーのジョニー・デップ。年を経るごとに美しさを増す本物の色男。ジプシーというのも、彼自身のアイデンティティをほうふつとさせ、これまたニクイほどに似合う。黒い髪、黒い瞳、まではクリスティーナ・リッチと同様だが、それに野性味あふれる日焼けした肌の下に生活の筋肉を持つ男。野営をするジプシーのコミュニティ全体が彼の家族であり、そこにスージーを招き入れる。母を亡くし、父と別れ、ユダヤ人としての名前も奪われたスージー、家族や血を失って独りぼっちになったスージーをすんなり家族として迎え入れる彼らに、そしてチェーザーに彼女は信頼を寄せていく。ジョニー・デップとクリスティーナ・リッチ!今一番スクリーン上で似合いのカップルではなかろうか。「スリーピー・ホロウ」も良かったけれども、またさらにお互いつややかさを増し、そのつややかさが二人一緒になると更に増幅される。言葉もなく、キスすらなく、椅子に座らせたスージーとそれに向かい合うチェーザーが初めて交わる場面の何という官能的なこと!クリスティーナ・リッチもこんな場面がすんなりと似合うようになってしまったのね……などと今更、だろうが。
ジプシーたちに促されて久しぶりに出すスージーの声は、美しいけれど線がとても細くて、震えるような心の叫びだ。一見、頼りなさそうな、壊れやすそうな。でも、あれだけ力強い美声を持つダンテよりも、細い糸のようだけれど決して切れない芯を持つ彼女の声の方が、その生きる強さがあるのかもしれない。弱さの中にこそ強さがある、なんてもはや陳腐な言い回しなのかもしれないけれど、陳腐になるほど言われるっていうことは……真実だと言えるということでもあるのだから。
チェーザーとの別れ。大家族を守らなければいけないチェーザーと、たった一人の家族を探さなければならないスージー。そして時代の迫害による、二人は口に出しては言わないけれど、これが永遠の別離になりそうな、別れ。最後の夜、チェーザーはスージーを訪ねてくる。祝いの門出なのだとばかりに酒の瓶を開けて乾杯し、激励するも、先に涙を流して最後の口づけをかわし、そして彼の腕の中で胎児のように眠ってしまった彼女を抱きながら、誰にも見られないその闇の空間で、チェーザーもまたやりきれない涙を流す。……ジョニー・デップがシリアスに泣く、という場面なんてなかなか見られるものではないので、思わずハッとする。
予告編でも使われていた炎の海。その海の中から必死に顔をあげて息をしようとするスージー。一体この場面は……と思っていたら、ユダヤ人迫害から逃げるために、そして今度こそ父親を見つける旅に出るために乗った船での災厄。こんなところまで執拗に追ってくる攻撃の手。スージーのために傲慢なダンテを見限って彼女を危機から連れ出したローラはこの直撃で、死んだ。夜のプールで命を散らした。その一瞬の場面もまるで夢のように不思議な美しさに満ち、さっきの言い回しではないけれど、残酷さの中にこそ美しさがあるのでは、などと思った。スージーが炎の舌がなめまわる海の中、必死に顔を出そうとあがいている場面も美しい。美しいと思ってしまうことにとまどってしまうのだけれど……でも、人間が必死になっている時に無意識に出てくる真実の美しさなのだ。ハリウッド映画ではただのCGスペクタクルになりそうなところが、やはりさすがサリー・ポッターにかかると違うのだ。体からでるフランのようなものを大事にするような監督、やはりダンサーだからか、そのあたりは。
アメリカに着いたスージーは、彼の父親の行方を捜すと、何と映画プロデューサーとして成功を収めていた。あの村が焼き払われたことを聞いたとき、彼は家族は皆失われてしまったと思い込み、この地で新しい家族を築いていた。しかし働きすぎからくることで体を壊し、重い病の床にいる。スージーは彼の新しい家族が恨めしげに病室の外に立っているのに目礼し、静かに病室に入ってゆく。10何年ぶりの親子の再会。父親は美しく成長した娘に、フィゲレか……と呼びかける。ああ、そうだ、フィゲレだ……彼女の本当の名前。フィゲレ、小鳥、彼の、たった一人の小鳥。フィゲレは涙を流しながら彼のそばに座る。細く美しく、でも強い、あの歌声を父親に聞かせる。……かつてのように、故国の言葉ではない、このアメリカの、英語でだけれども、それが彼らの間に横たわった年月と、お互いがなめた辛酸を一気に共有体験にしてしまう儀礼のようにも感じて。目を閉じて声も出さずに涙を落とす父親、そしてスージーの、てぐす糸のような、透明で美しい歌声。
寂しく乾いた色合いの映像の中、様々な歌に、音楽に、静かに、静かに幸せが満ち溢れる。感動、ではなく幸せの涙を分けてもらえる映画に久しぶりに出会った。★★★★☆