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「か」


2003年鑑賞作品

怪談異人幽霊
1963年 70分 日本 モノクロ
監督:小林悟 脚本:金田光夫 小林悟
撮影:岩橋秀光 音楽:近江俊郎 長瀬貞夫
出演:梅若正二 一条美矢子 江波志郎 扇町京子 エンベル・アルテンバイ ロミー・マイ C・J・マクムマン マリアン・クリシップ エデス・ホッパー トニー・セイテラ ファテフ・アブドラシット 五月藤江 小野彰子 白川昌雄 加藤英一 岩田レナ 一条ゆかり 菊地双三郎 三浦敏男 宮浩一 九重京司 大原謙二 国創典 大原永子


2003/5/16/金 東京国立近代美術館フィルムセンター
も、もしかしてもっのすごくとんでもないエーガを観てしまったのではないか??最初のピンク映画を撮った監督、として、つい最近亡くなって初めて知ったこの小林悟監督が、怪談の名作、傑作、珍品を数多く輩出した大蔵映画で撮った怪談、と知ってかなり興味をそそられて観に行ったら、これは……ち、珍品、ですかね?まずはちっとも怖くない。まあ、でもこれは仕方ない。むしろ昔の怪談映画を観る時は、怖さというよりもむしろ(無論、メチャクチャ怖い作品もたくさんあるけれども)日本独特の様式美に見惚れる場合が数多くあるわけだから。で、本作の様式美ときたら、もうこれがムチャクチャ。いや、賛美しているつもりなんだけど(笑)。だって、異人幽霊だから、まず外国人なのだ。で、外国人相手に日本古来の怪談描写(といっても、怪談映画というのはこの頃から確立し始めたのかなあ)を疑いもなく当てはめる、とこれがまた、何だか形容しがたいモノが出来上がっちゃうのだな。それが証拠に劇場内は少々失笑にも似た笑いが何度となく出て、私も笑っていいものやらなんなのやら、どうにもこうにも困ってしまった。だって、まさかウケを狙っているとも思えないんだもの……作っているときは大真面目だとしたら、やっぱり、ねえ?でも、やっぱり笑っちゃうんだけど。

ま、でもまだ白人さん(ヘンな言い方?)だからいいのかもしれない。これが例えばもっと有色人種だったりインディアン系だったりしたら、もう抱腹絶倒の怪談になったりして?と考えなくてもいいようなことを考えてしまうんである。だってさー、外人さん(今はこの言い方、失礼にあたるのかな。でも劇中でも言っているから、ゴメンね)にお岩さん風メイクを施したり、唇の端からうらめしげに流血たらーっと流させたり、生首状態であちこち浮遊したり、これがね、ざんばらの黒髪の白い着物来た日本女性だったりしたら、怖かったり様式美を感じたりするんだろうと思う。やっぱり、その素材に合っているから、そういう描写を思いつくのよ。これをそのまんま外人さんに当てはめると、もはやコメディ。

で、多分それだけでこんなに可笑しいってわけじゃなくて、この外人さんキャストがね、ヘタなの(笑)。外人さんの役者の上手下手って、実は結構判りにくいものなんだけど……だって洋画観てて、向こうの言葉喋っていると、それだけでなんか上手いように聞こえたりするじゃない?それが、この役者さんたち、ハッキリ、ヘタなんだもん。それはだから逆に……日本語の中で英語を喋ったり、あるいはカタコトの日本語を喋ったりする違和感からヘタに聞こえるのかな、と最初は思ったりもしたんだけど、段々観ていくうちに……いや、違う、やっぱりこの人たち、ヘタだわ、もうベタベタにヘタ、と確信しちゃう。日本人の女とイチャイチャしているダンナを睨みつける妻、ってそれだけの画で、うっわ、ヘタ!と思えるって……かなりスゴいかもしれない。英語の台詞なんて、そんなに難しいこと喋ってない。英語なんて全然判らない私でさえ、聞き取れるぐらい。で、不思議なことに彼らは外人さんは英語、日本人は日本語のままで会話して、で、お互い通じてるの。日本語で罵倒されると英語で謝る、という……ここもかなり、笑えた。いや、お互いが双方の言葉を理解している、という理屈は判るんだけどさ。

何たって一番笑えたのは、そのケンカアクションのヘタレぶりである。すべての悪の根源、ロバートさんと、彼を暴く日本人の弁護士さんが戦うんだけど、もうこれがはっきりフリつきだって、判りすぎるんだもん。だって、相手の殴ってくるアクション、しっかり待ってるんだよー?ぶっつぶつ流れが切れちゃって、こりゃ目も当てられない。そりゃまあ、昔のケンカアクションって、きっちり型にはまってて、決してリアルというんじゃなかったけれども、これはヒドイ。ウケ狙いじゃないかってなぐらい。でもここまで徹底してヘタレのケンカを観られたというのは、かなり貴重って気もする(笑)。

おっと、ヘタレなことばかりを書いて、一体どんな映画ってこれじゃ全然判らない。えーと、チンピラに絡まれていたキョウコをかばって人をあやめてしまった彼女の婚約者。でもキョウコは彼が牢獄にいる間に、ロバートと恋愛関係に陥る。ロバートは妻帯者で、つまりダブル不倫。ロバートはキョウコと一緒になるために、妻のペギー殺しを彼女に持ちかけ見事成功するんだけど、その後、二人の前にペギーの幽霊が現われるようになる。で、ロバートは実はもっと悪辣なヤツで、キョウコに近づいたのは彼女の財産目当て。キョウコが自分の思い通りにならないと判ると今度はキョウコを殺し、その罪をたまたま訪ねてきていたキョウコの恋人の妹、ミヤコになすりつける。という真実はこの時点では判らず、ミヤコの恋人である弁護士が奔走してロバートの罪を暴く、という後半は怪談だったはずがそれを忘れたかのようにまるで謎解きのミステリ仕立て。このあたりもなんだかムチャクチャのカルト風味。しかしロバートがクロだということを示唆したのが、無実の罪で捕えられたミヤコの前に現われたペギーの幽霊だってんだから(あの、「トメ、ヤマダ、ハチオウジ」は笑ったなあ……)、どこまでも仏教思想。だって、ミヤコと恋人の弁護士さんは、総てが終わったあとで、ペギーの墓に手をあわせ、これでペギーも浮かばれるだろう、って言うんだよ?つまりは成仏?うーむ、ペギーは仏教徒だったんだろうか……あれはどーみても十字架の外人墓地だけど……。

キョウコはかなりのファム・ファタル。彼女は自分をかばって罪を犯してしまった婚約者がいるのに、母親に対する子供っぽい反抗心で、奔放な生活を送り、ロバートと不倫までしている。キョウコはつい最近父親を亡くしたばかりで、この母親が若い恋人を連れ込んだりして、それに反発する気持ちがあるらしいんだけど、そのあたりの触れ方は割と通り一遍。まあ、親子の確執がテーマの映画ってわけじゃないから。婚約者が出所してくると、ペギーの亡霊にさいなまれていたこともあってロバートと別れ、この婚約者とよりを戻したかと思いきや、ちゃっかりロバートと連絡をとったりと、かなりのヤリ手である。でもまあ、愚か。その現場をこの婚約者に押さえられちゃって、挙句の果てには財産めあてなだけだったロバートに殺されちゃうわけだし。でもこのキョウコを演じる扇町京子、すっごく官能的。顔立ちは、切れ長の瞳にそれを強調するくっきりとしたアイラインでとても日本的なんだけど、モノクロだから余計に際立つ陶器のようなしっとりとした肌と、特に殺されたシーンで目が釘付けになるもっちりとした太ももがたまらない。絶対この彼女の美しい太ももを見せたくて、ああいうポーズの殺され方にしたに違いないもの。だって、和服の寝巻き(襦袢?)を着ているのに、しかもそんなにもみあって倒れたようでもないのに、その胸を血で染めて床に倒れている彼女、まるで不自然なほどに太ももがあらわにはだけてるんだもん。

ピンクの先駆者だからというわけではないだろうけど、一般映画、それも怪談映画という割には、結構しっぽりとした場面が多く登場する。しかしこれが不思議なことに、本格的?に不倫をしているロバートとの場面では、抱き合ったり頬を寄せ合ったりする程度なのに(屋外での絡み合いや、ベッドシーンさえあるのに、実際はそんなもん)、出所した婚約者とはねっとりと絡みつくようなキスを見せたり、かなり本格的。この違いはちょっと興味をそそられるな。外人キャストサイドから制限があったりしたのかなあ。

前半部分はフィルムがところどころ欠けているのか、かなり矛盾というか首を傾げる描写も数多い。しかしそれもまたカルト風味をかきたてる。ペギーを崖から突き落とす場面の、引きとはいえはっきりマネキンと判る画や、どう見てもただのデブの踊り子が、羽つけたラメのビキニスタイルでクネクネ踊るクラブとか、何かこれは狙っているのかそうじゃないのか、ビミョウなところで笑えて苦しい。だって特に、後者の踊り子ってば……。デカい貝のオブジェにうっとりとしなだれかかったりするんだけどさあ、も、しっかり二重アゴだし、腰をクネクネするたびにお腹に脂肪のシワは寄るし、その二の腕はヘッドロックかけたらさぞかし強力だろうと思われるぐらいだし、ダイナマイトな太ももをロースハムか、ってな網タイツに押し込んで、食い込んだビキニを大股開きするに至っては、脂汗が流れてきそうなほど凄まじいものが……しかしロバートとキョウコの二人はそれをラブラブで楽しげに見てるのよね。バッキングのジャズもやたら本格的だしさ。そう、ジャズ!全編ずっとジャズが流れて、これがやたら本格的でクールなんだよなあ。あ、でもさすがにこのデブの踊り子の場面は、ヤボったく聞こえたかも(笑)。

あ、私ってば、結構楽しんだかもしれない……なんか、すごおい、エーガだったわあ。★★☆☆☆


顔役
1971年 98分 日本 カラー
監督:勝新太郎 脚本:菊島隆三 勝新太郎
撮影:牧浦地志 音楽:村井邦彦
出演:勝新太郎 山崎努 大地喜和子 若山富三郎 藤岡琢也 伴淳三郎 山形勲

2003/11/8/土 劇場(浅草新劇場)
何か不思議な映画というか、不思議な雰囲気の映画というか。ハードボイルドに見えなくもないんだけど、そこまで辿り着く前に破綻しているというか。これは勝新の初監督作品、ということになるのかな?脚本も彼が手がけていて、これがいい出来なんだか悪い出来なんだかよく判らない。主人公である彼のキャラ自体もあんまりよく判んないというのが正直なところ。彼は刑事。いわゆる、型破りの。しかし型破りすぎて、警察飛び出しちゃって、最後には人を殺すっつーのは何なんだか。彼が警察を飛び出した、ところまでは何となく共感できるものはあったものの……つまり、警察自体が正義に反する癒着構造になっていたため、悪を暴くという自らの使命を警察は投げ出した。彼がそれに反発したのはとってもよく判るんだけど、そんでもって警察手帳を投げ出し、単身でその悪の構造の中に飛び込んでいくのもま、判るんだけど、しかしそれで人まで殺しちゃったら、あんたの正義感は勧善懲悪なのかい?とか思っちゃうし、しかも殺す相手がなんでなのか今ひとつ理解に苦しむというか……結局自分のイラだちの腹いせに殺しちゃったんじゃないかとさえ思ってしまうのだ。

不思議とか、不思議な雰囲気、というのは、初監督ということで意気込んだのか、不思議なショットがかなり多いのだ。カメラワークに凝ったというのも判るけど、それがやり過ぎで、もはや不思議としか言い様がない。足の指の股をスクリーンいっぱいに大映しにして水虫の薬をつけている冒頭から、焦点をボカした扇風機越しに覗き込むショット、緊張のあまりはげ頭につぶつぶの汗をかいているのがどアップになったりと、しまいにはヘンなフェティシズムの映画かしらんと思ってしまうほど。こうしたカメラワークに懲りまくる気持ちは判るような気もし、いわゆる映画的なショット、新鮮さを模索しているんだろうなとも思うんだけれど、その作意が見えすぎて、返ってヤボに思えてくる。でも逆に、というかこういうショットが多すぎるからかもしれないんだけど、何気なさそうに見えるふっとしたショットにいいところがあったりもする。あの扇風機越しのショットの次、捜査が打ち切りになったことに憤る主人公、立花刑事が憤然と部屋をあとにするシーン、暗めの照明の中で、何食わぬ顔でデスクに向かう同僚たちのワンカットがストイックで、不思議に印象を残したりするのだ。

立花は、川底をさらっているショベルカーを新米刑事と共に眺めながら語る。自分たちは、このショベルカーのようなものだと。悪という泥を機械的にさらっているだけ。スイッチを止められれば止まってしまう、使われている機械に過ぎないんだと。しかし泥も放っておけば溜まる一方。俺たちのやっていることは少しは意味があることなんだ、と自分に言い聞かせるように言う。一見してヤクザに間違われるようなこの立花は、しかし正義感は人一倍強く、まるで会社のサラリーマンのように警察の歯車の一部となって機械的に事件を処理していくことが耐えられないのだ。しかしその腕は折り紙つき。今回のヤクザが絡んだ信用金庫の不正融資事件も、彼の腕を見込まれて託された。「捜査の打ち切りだけはしない」ということを条件に、その正義感を発揮して少々荒っぽい捜査を敢行するのだが……。

ショベルカーが泥、あるいは土をさらっては捨て、さらっては捨てるショットが思わせぶりに何度もインサートされる。これはラストの、どうも不可解な殺人場面へとつながっていくのだが……。もはや刑事ではない立花。彼を信頼する新米刑事が彼を救おうとするのも振り切って、事件の当事者の一人を車に乗せて連れ去る。たどり着いたところは一面の荒野である。立花は一人車を降りる。中の男が窓から外を見ると、車が段々と持ち上げられる。何と、立花が持ち上げているのである(!笑)。どんどん傾いていく車は、ついに崖(?それともあらかじめ掘ってあった穴?)に落とされる。窓から必死な顔をのぞかせる男。そこにどんどん降り積もる土。立花が土をすくってはかけ、すくってはかけしているのだ。土が天から降ってくるようなショットはここにつながっていたのだ。確かにまあ映画的なような、印象的な場面ではあるのだけれど……やはり、どうも、不可解。正義感が裏切られて、殺人に走る男って……いくらなんでもあんまりなのでは。

冒頭登場する男が勝新かと思ったらさっさとハケてしまうのでビックリしたら、若山富三郎なのであった。と、こういうことは前にもあった気がするけど……並べると違うんだけど、やっぱり似てるのよねえー。新米刑事役が前田吟なんだけど(私、彼を「男はつらいよ」以外で映画で見るの、初めてかも)、ちょっとオドロキなことに、ハンサムなのよね。劇中出てくる事件の参考人の女が「本当に刑事さん?いい男ね」というのが大いにうなづけるくらい、オオッ、と目を引く美男なのだ。そんなことにビックリするのは失礼だけど……。でも、前田吟=ハンサム、という図式なんて考えたこともなかったからさー(もっのすご、失礼)。これまた今のイメージとは全然違う大滝秀治も面白い。辛辣で冷ややかな立花の上司。顔はまんまなのに、その冷たさが実にクール。アツい勝新と非常に対照的なのだ。

捜査上の特権、みたいな感じで女を抱いたりもするこの立花。しかし、相手は事件の参考人なわけで、そーゆーのはやっちゃいかんだろー、おい。勝新のそういうシーンはかなり生々しくネッチリなので、目のやり場に困ってしまう。腕とか太いから、ほとんど力づくって感じだしさー。つまり……今の役者でこういうラブシーンをやれる人はいないのよ。勝新の体格はほとんどプロレスラー級で、じゃあ、プロレスラーみたいな男がラブシーンをやると、強姦みたいな感じになっちゃうし。強姦、ではないのよね。そのギリギリ一歩手前の、この勝新の「力づく」なとこがキャラ的テクよのお、などと思ったりして。力づくながらも、愛撫はネッチリ。イヤー!てなもんよ。こんな野獣系でありながら、モテるの判るよなードキドキ。

勝新の初監督としての野心がモロ出し映画という点では、かなり興味深いものはあるんだけど、それだけかな……。★★☆☆☆


過去のない男MIES VAILLA MENNISYYTa
2002年 97分 フィンランド カラー
監督:アキ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン 音楽:
出演:マルッキィ・ペルトラ/カティ・オウティネン/ユハニ・ニエミラ/カイヤ・パカリネン/サカリ・クオスマネン/アンニッキ・タハティ/マルコ・ハーヴィスト/ポウタハウカ/ヨウニ・サールニオ/ユッカ・テーリサーリ/ユルキ・テリラ/エリナ・サロ/アンネリ・サウリ/オウティ・マエンバー/ペルッティ・スウェルホルム/マッティ・ヴオリ/アイノ・セッポ/ヤンネ・ヒューティライネン/タハティ

2003/5/26/月 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
なんとまあ、私、カウリスマキ監督の映画は「マッチ工場の少女」以来、観ていなかったのである。それというのも、「マッチ工場の……」があまりに悲惨な結末だったのが、今よりさらに単純バカな映画ファンだった当時の私にはショックが大きすぎ、さらにこの監督が小津安二郎の信奉者だということを知って更に拒絶反応を覚え、そのあとサイレントが続いたりしたものだから、バカな私に判る自信がなくて、これは私には縁がない監督なんだわ、とひたすら遠ざける決心をしたのだった。しかしまあ、私も少しは大人になり、ケン・ローチ作品などでハッピー・エンドじゃない映画でも受け止められるようになり、ほんの数年前まであんなに苦手だった小津作品が、何の作品がキッカケだったか、とにかくコロッと信奉の側に回り、で、今回はサイレントじゃないっていうし、予告編のクレイジー・ケン・バンドの曲があまりにも気になって仕方なかったし、そしてこれが大きいのだけれど、大いにやられまくった「ばかのハコ船」の山下敦弘監督が、“日本のカウリスマキ”などと呼ばれていたので、オリジナルであるカウリスマキ、ようやく観る決心がついたのであった。

やっぱり今まではどこかカルト的な作家であったカウリスマキ監督、でもやっと戻ってきてみると、いつのまにか、すんなりとその切なさと幸福感に身を浸らせてくれる作品を作っていた。監督自身、“妥協”という言葉を敢えて使っている本作は、確かに真にカウリスマキ味ではないのかもしれない。でも私は単純バカだから、やっぱりこんな風に幸せになれる映画を愛してしまうのだ。で、帰ってきたその日にもういきなり、スーパーで買った安い寿司パックを前にして、書き始めているんである。まずそうな寿司を、食べたくなっちゃったんである。それは何か……贅沢をすることではなくて、市井の人の、慎ましい、それなりに一生懸命な生活こそが、真の幸福であることを感じさせてくれる、余韻だった。

物語はそれなりにドラマティックなのに、人々はちっともドラマティックな動きを見せなくて、本当に動いているのかと思うぐらい淡々としている。でもそれが、ドラマティックな表情やしぐさより、ずっとずっと必死の、一生懸命の、愛情いっぱいのそれに感じるのはなぜなんだろう?人間は、みんな不器用で、上手い言葉や表現で自分の思いを伝えることなんか、そうそう出来ない。むしろ、それが出来るというのは、逆にとっても嘘っぽいのだ。だから、タメも何もなくさっさと動いていく彼らに、いっぱいいっぱいの気持ちを感じてしまう。例えば……これはもう最後の最後の方になるのだけれど、自分の過去を知らされた男が、元妻のところへ帰ってみると、彼女を愛しているという男に決闘か、と挑まれる。決闘をする必要などない。君は彼女を愛し、彼女も君を好きなようだ。何も問題はない。すると相手は、彼女に聞いていたより、いい奴だな、と言って二人、さっさか煙草を吸うのである。駅まで送ってくれたこの男と、握手も何もするでもなく、ぱっと別々の方向に歩いていくに至るまで、起こっている出来事からすれば信じられないほどにひたすらドライにスピーディーに展開する。そのあまりの早さに吹き出しそうになるんだけれど、その早さこそが彼らの必死さを語ってあまりある、のだ。双方共に共通するのは、早く愛する彼女のそばに行ってやりたい。それだけ。だからこんな風にコミカルなまでに話が早く通じてしまうのだ。そしてそれはそれぞれの彼女への愛情の深さ。

いきなり話を飛ばしてしまったけれど、つまり最初、主人公の男は過去を失っている。いや、最初どころか、彼は記憶を回復することはないし、これがお前の過去なんだよと提示される後半に至っても、聞かされるだけで思い出すことはない。かなり自堕落な男だったらしい過去の彼と、運命の女を得て、親身になってくれる友人や同僚を得て、一生懸命に生きている今の彼は、はっきりと違う人物なのだ。これまで存在した、記憶をなくした人物が出てくる物語とここが明確に違う点で、そしてこれがカウリスマキ監督には珍しい、ハッピーエンドを連れてきてくれる。「人生は先に進むしかない。戻ったら、大変だ」一見単純に聞こえるこの言葉は、こと記憶喪失の物語が今まで語ってきた、過去の自分に戻ることこそが、自分自身を取り戻す不可欠な旅だという、いつの間にやら出来ていた暗黙のルールを新鮮にも、打ち破る。あるいは、記憶喪失というのはひとつのメタファーに過ぎなくて、どこかで人生につまづいた時、つまづいた時点にまで戻ってしまうことはないんだと、また新しい自分で新しい方向に進めばいいんだという、カウリスマキ監督らしからぬ?ポジティブなテーマなんである。

何の過去を背負っているのか、そしてどこへ行くのか。一人の男が列車に乗っている。そして夜半、彼は列車を降り、ベンチでぼんやりとしているところを、暴漢に襲われる。メチャクチャに殴られて、一度起き上がって人気(ひとけ)のあるところまで血だらけでフラフラ歩いてくるも、そこで倒れてしまう。包帯ぐるぐる巻きで病院のベッドに横たわる彼は、一度は心電図も止まってしまい、死を宣告される。医者と看護婦が出て行った後、心電図はやっぱりそのまま、止まっているのに、ミイラみたいに包帯だらけの彼はガバリと身を起こす……い、いきなり予想外の描写に吹き出してしまうんだけれど、今から思えば、そうだ、この時にこそ、彼は一度死んで、新しい生を得たのだとうなづけるのだ。だって、心電図はジグザグを取り戻していないのに、彼は生き返る。包帯の上から曲がった鼻をグキリとやって(笑)、生のスイッチが入ったのだから。過去の自分を総て忘れ去っていて、覚えているのは、列車に乗っていたことだけ。それは列車に乗ってこの街についた、彼のこれからの、始まり。

しかし、名前も社会保障番号もない彼が、現代の世に生きていくことは、難しい。すぐそこには確かに都会があるのに、ちょっと信じられないほどのビンボウ暮らしをしている人々が住む、コンテナ村とでも呼びたい荒涼とした一角に彼はまた行き倒れ、そこの一家に助けられる。やがて彼は回復し、ボロいコンテナを借り、ひとり立ちする。この間に運命的な出会いを果たしている。この失業者だらけのコンテナ村に、毎週金曜炊き出しにきている救世軍兵士のイルマ。彼は、ひと目で彼女に恋するんである。

カウリスマキ映画の代名詞とも言える、イルマ役のカティ・オウティネンは、もう相当に年もくってるし、仏頂面で、制服のせいもあっていかにもカタブツだし、お世辞にも想いを寄せられる女には見えないんだけど、ドラマティックなキッカケや、大きな気持ちの動きなど何もなく、ただただ男が理屈ぬきに彼女に恋心を抱き、まるで迷いもなく、大げさでもなく、日常会話でもしているかのように彼女にアプローチしていくさまに、何だか感動する。まるで、何ひとつ、心の内の説明なんて、ない。でもこれが恋、なのだ。男の方もガタイはデカイし、その無骨そうな外見は、決してイイ男ではない。人間二人、男女二人のこのナマなリアルさ。ラブストーリーを語る女優といえば、みんな美人でチャーミングで、だからこういう女にも、しかもなんの理由もなく惚れてくれる男がいると思うと、何か年をとっていく勇気も出るんである。

しかし驚くのは、どう見てもブーな女に見えたこのイルマが、彼に誘われて、初めて買ったんじゃないかって思えるような化粧品道具で、次のシーンではちょっとだけセクシーに胸元を開けた黄色いシャツと細身のスカートで、実はキレイなブロンドだった髪もカールされ、華やかに口紅を塗ったその口元に笑みが浮かぶと……び、美人に見えるのだわ。いや、驚くことはないのだ。カウリスマキ作品の中ではひたすらブーな女にしか見えていなかった(らしい)彼女は、実は元々ちゃんと美人なのであった……やっぱ、驚き。記事で見かけた彼女は、普通に?穏やかな微笑みがチャーミングな美しさにあふれている女性で、こんな人をずっとこんなキャラにさせているカウリスマキという人は、実はちょっとイジワルなんじゃないのと思えるぐらい。まあ、映画ではそこまで劇的な変化は遂げられていなくて、イルマは本当に、ちょっとずつ、ちょっとずつ、その華を開いていくのだけれど……。彼の過去がひょんなことから明らかになった時、夜半、彼の元へとイルマが駆けてくる。細いイルマとごつい男がひっしと抱き合う、抱き合うだけでこの切なさ。キュっときてしまう。そして彼を奥さんの元へと送り出すイルマが、「忘れないわ。私の初恋だもの」と言った時には、ハッとして、そしてまたまた、キューンとなってしまった。この年にして初恋……それがヘンではなく、何でこんなに切なく思えるんだろう。

ひょんなこと、というのは、仕事を得た男が給料口座を作るために銀行を訪れたら、実に真摯な銀行強盗に遭遇してしまったこと。凍結された口座の残高分の金額だけを出せとライフルを構える男は、後に判ることなのだけれど、倒産してしまった自分の会社の社員に未払いの給料を支払うために、こんな暴挙に出たのだ(くッ、泣かせるじゃないの)。だから、欲得じゃないから、「(残高以上に)余計に金をくれるなよ」などと(爆笑しちゃったよ)……。しかしこの銀行も、ギリギリのキュウキュウで、既に行員は一人しかいないし、銀行強盗がライフルを向けた「あ、その防犯カメラは……(バキュン!)壊れているのよ」という絶妙の間で繰り広げられるやりとりにはもう大笑い。エアコンは経費削減のために切られているから、閉じ込められた金庫の空気はどんどんなくなっていっちゃうし、防犯ベルさえない。極めつけは「この銀行は北朝鮮に売られたの」!!な、なぜゆえに北朝鮮!?どうなることかとやきもきさせそうになるのを制するかのように、彼女の機転で壊されたスプリンクラーによって、あっさり外に出られてしまうあたりがやはりカウリスマキ。ドラマティックを避けに避けまくるのが、だんだん好きになってきちゃう。

で、犯人は逃げてしまったし、もともと壊れている防犯カメラに何が映るわけでもないので、男は調書をとられるわけなんだけど、当然自分のことが何一つ判らない彼は、名乗ることも、サインをすることもできず、世の中には黙秘を続ける銀行強盗犯として彼の名前が知れ渡ってしまう。そのことで、彼の元奥さんが名乗り出て、彼の過去が明かされるわけだが……。しかしこの時、許されたたった一本の電話をイルマにかける彼、電話が鳴る先は彼女の寮の廊下なので、男からの電話を待っていたのか、飛び出してくるほかの女に受話器が奪われるのが何か妙に切羽詰まってて可笑しいんだけど、ま、とにかく、イルマに受話器が渡され、そして彼女が手配した弁護士によって彼は救い出される。しかしこの弁護士がまた、ケッサクで。実によどみなく、スラスラと法律用語を並べ立てて刑事を圧倒し、あっさり彼を放免させるんだけど、この弁護士の発音がね!彼、全然歯がなくなっているんじゃない?もうフガフガフガフガして、おっかしくてしょうがないの!で、このフガフガ発音でずーーーっと喋るんだもん!

それにしても、都会は、いや現代社会の仕組みというやつは、一生懸命に生きようとしている人間に対して、こうも冷たいんである。職安は、名前も社会保障番号も持っていない彼に冷たくて、暴漢にやられて記憶を失ってしまったという彼のことを頭から信用せず、芝居をやりたいなら演劇の世界へ行けとか、クスリなら路上で売っているとか言って、福祉のことも何も手配してくれずに、さっさと彼を追っ払ってしまうのだ。名前?番号?そんなの、人間の何を現してくれるっていうの?そんなの、ただの記号にすぎないのに。その人の何がそれで判るっていうの?いや……確かに彼は、この時点で自分でも自分のことが全く判っていないのだから、こんなクダラナイ記号でも、ノドから手が出るほどに欲しかったに違いないのだ……。コンテナ村はモノが何にもなくて、本当にビンボーだから、男が訪れる職安にパソコンが常備されているだけで驚いてしまう……ああ、これ、本当に都会の、現代の話なんだな、と。この見事なビンボーっぷりは、どこか片田舎とか、あるいはちょっと昔の話なのかなとか思わせそうになるあたりがまた皮肉で、運良く仕事や住む場所を得て、その中でも不満をブツブツ言いながら暮らしている総中流の私たちに、かなりガツンとくるものが、あるのだ。

コンテナを法外な家賃で貸し出すおまわりさんは、それで私服を肥やしているくえないヤツだけど、でもそのおかげで男は何とか人間らしい生活をすることが出来るのだし、電気を引いてくれた職人は、彼にお礼はどうしたらいいのか、と問われて「自分が死んだ時に、悼んでくれればいい」とだけ言うのは(ちょっと言い方、違ったかもしれない)、何だかふっと泣かせるものがあるんである。あるいは職安から追い出された男が、軽食屋でお湯だけもらい、マッチ箱から出がらしのティーバッグを出して飲んでいるのを店の人が見かねて、どうせ残り物だから、と一食ふるまってくれる、その食事のあたたかさにもなんだか泣きそうになる。男の溶接工の腕を見込んで雇ってくれた先では、名前なんかどうでもいい、なんだったらうちのほうでつけてあげるから、と言う。オフビートな中に、いいタイミングで差し挟まれてくる、人間そのもののあたたかさが、オフビートな中だけに、余計に際立つ。いつだって、絶望するにはまだ早いんだ。だってそこには冷たい社会や融通のきかない組織ではなくて、ちゃんと人間がいてくれるんだもの。

あのくえないおまわりさんだって、実はちょっとおまぬけなイイヤツなのだ。期日に家賃が払えない男に首をしめんばかりにくってかかるものの、「お前の鼻を食いちぎるぞ」と置いていったハンニバルという名の(……)犬は、実はメスで、もう最初っから男の部屋でくつろぎまくって、なつきまくる、実にめんこいわんこなんだもん。「オスだと聞いて買った。騙された」というこのおまわりさん、それが本当にしてもウソにしても、やっぱりちょっと、憎めなくって。理由はどうあれ、このおまわりさんが一番、彼を助けているんだもの。自分にはそのつもりはないのかもしれないけど……ていうあたりが、偽善という匂いがまるでなくって、知らないうちにいい人になっちゃっているっていうのが、何かうらやましいというか、大好きよ、もう。

この作品、ひいては(私は観てなかったんで判らないわけだけど)カウリスマキ作品に重要な、フィンランドの血が通う哀愁と陽気が絶妙にブレンドされた音楽が、最も本作、いや、カウリスマキ作品を、オンリーワンにしているのだろうと思う。救世軍のしわくちゃのおばあちゃん上司が、「私も昔は歌っていたのよ」と、バンドのヴォーカリストになって歌いだす。何でも本当にフィンランドの国民的歌手なんだそうで、余裕で、聞かせる。あの仏頂面のイルマも、就寝時にロック音楽を聴くという、隠れロックファンで(しかし、非常に冷静に聴いているのが、らしいんだな)、もしかしたらこの辺で共通の魂を見出しているのかもしれない主人公の男も音楽ファンで、壊れたジュークボックスを嬉々として家の中に持ち込み、イルマを口説き落とすのにも一役買うのである。しかしロックといっても、フィンランドのロック。そこにはどこか、日本人も不思議と郷愁を覚えるような、泣きの旋律が強調されており、そしてきわめつけはクレイジー・ケン・バンドなんである!私が寿司を食べたくなったのはまさにそのシーンのせいで、男がイルマの元に戻ってくる列車?の中でのシーン、寿司と日本酒を前に、ホノルルー♪と流れ出す「ハワイの夜」のスバラシさ!しかし彼は遠慮がちに海苔巻ひとつだけ口に入れるのだけれど……いや、結構美味しそうだったよ。もう、映画を観終わってずーっと、ホノルルー♪と鼻歌歌いっぱなしである。いつかカウリスマキ作品に、ぜひクレイジー・ケン・バンドのご登場を願いたいところ。

離婚が成立した奥さんと、その奥さんが愛する人を得て幸せなのを見届けて男はイルマの元に帰る。まさにドラマティックな再会になるはずが、やはり拍子抜けするほどにあっさりとイルマは迎え、二人手をつないで踏み切りの向こうに消えてゆく……。そ、幸せな二人の再会を、観客はジャマしちゃいけないの。「本当は怖かった」と言うイルマ、怖かったのは、彼がいなくなって自分がどうなってしまうのか、という意味かなあ……ああ、でも良かった、ホントに、ハッピーエンドで。また哀しいラストかと思って、かなりビビっていたからさあ……ホントに良かった。

はい、これからは、カウリスマキ作品、ちゃんと観ます。私も大人になったのかな?★★★★☆


完全なる飼育 秘密の地下室
2003年 110分 日本 カラー
監督:水谷俊之 脚本:我妻正義
撮影:志賀葉一 音楽:澄淳子
出演:山本太郎 しらたひさこ 加藤治子 竹中直人

2003/9/9/火 劇場(新宿武蔵野館/レイト)
何でまたここまでシリーズが続くのかよく判んないんだけど、我ながら半ば意地みたいになって四作目の本作も足を運んだ。しかし今回は正直、唖然。

なんじゃこれ。

……というのが正直な感想なんである。
陳腐、なんて言葉は言いたくないけれど、それしか出てこない。このシリーズがなぜこうまで続いたのか、それは描ききれないテーマの難しさ、それをさまざまな形で追う面白さがあったと思うのに、その前提がまるで機能していないことに本当に唖然としてしまう。

つまりは、今回ははっきり、原作が違う。今までは、フィクションが大きく作用してはいるものの、一応現実に起きた事件を元にした小説であったのが、今回はむしろここまで続いた映画作品からイメージされたと思しき、全くのフィクションである。映画用に書き下ろされたわけではないのかもしれないけれど、もし映画化を念頭に置いていたのだとしたら、正直、作劇に溺れたとしか思えない。
「完全なる飼育」が「完全なる飼育」たるすべてのことから逃げ去っていて、シンプルでこそ深く掘り下げられるはずの真理劇が、やたら書き込まれた過去のトラウマ劇になって、それならそれで良かったのかもしれないけれど、その書き込まれた過去はすべて言葉で説明してしまい、まさしく、なんじゃこれ、なんである。

いや、それならそれで良かった、と言ってしまったけれど、やっぱりちっとも良くない。
「完全なる飼育」が追い求める、追い求めなくてはならないテーマは、いわゆる“ストックホルム症候群”である。実際に確かに存在する、この不可解な心の現象は、しかしフィクションである映像で描くのは非常に難しい。やはりそこには力を持つ側の傲慢がどうしても現われてしまうから。
でも、それだけにやりがいもあるはず。長尺の映画とはいえ、限られた時間の中で、拘束された側の心の変化を見つめることに、少なくとも今までのシリーズ作品は腐心してくれた。確かにそれが成功しているかといったら難しいところなのだけれど。

でも、今回は、それはまるで眼中にない、というぐらいの感じである。
なんでも原作小説では、最初から監禁というよりは庇護という関係であったというのだから、映画では少なくとも今までの関係に戻した、のかもしれない。
その意味ではやはり原作からしてズルイと思うし、そこから描く映画化作品にその点が甘くなるのはどうしても仕方ないのか。
冒頭、ヒロインの梨里が公園で気絶している状態にあるのを、男、タケルが連れて行く。なんかいきなりガクッ、ときてしまうのだ。これまでのシリーズでは抵抗する女を力で押さえつけて連れていき、その行為は本当にヒドいものなのだけれど、男の側にそれだけの想いがあるから、ということがあって、その最初のショックをどう男の想いとして観客に、そしてこの女の子に納得させるのかが勝負、であったのに。だから最初っから、こりゃズルイよなー、などと思ってしまう。メンドクサイ部分をごまかしてる気がして。

しかも、連れて行かれた梨里が心を許すのがいくらなんでも早すぎる。監禁されたことへの恐怖さえもすっ飛ばしている。一応そういう描写はあったものの一瞬で……つまりはこの梨里が、現代式の、心臓の強い女の子なわけだけれど。演じるしらたひさこの挑戦的な瞳はそれを物語って余りあり、確かに魅力的ではあるものの、その順応の早さには違和感を通り越して不快感が生じてきてしまう。
何でだろう……と考えると、やはりそこには作劇のズルさに対する不信感に思い当たってしまうのだ。

この梨里は冒頭、恋人から殴られて捨てられていたことからも判るけれど、非常に恵まれない、不幸な女の子である。恋人だけではなく、家庭環境もことごとに不幸である(というのを聞きもしないのに本人の口からつらつらと告白されるのは……そういうのが陳腐だというのだ)。今までの映画シリーズのヒロインも、そういう匂いは感じさせてはいたものの、でもはっきりそれを言い訳にするようなことはしていなかった。本作は、このバックボーンにべったり寄りかかりなのがイヤなのだ。つまり、彼女自身が不幸だから、行くところがないから、こうして連れてこられたところでも「他に行くところなんてないし」とアッサリしたものである。……そりゃあんまりではないか?

一方の男、タケルの方はというと、これがまた後半のクライマックスで長々と、じつーに長々と、すっかり手綱を握ってしまった梨里の口からご解説あそばしてくれ……ホント、この説明状態は何とかしてくれと思うんだけど、とにかくもんのすごい、不運な男で、トラウマで記憶を封印しているぐらいなんである。しかも、彼女を“飼育”しているはずの彼の方が、老婆と言ってもいいぐらいの年上のマダムに“飼育”されていたという過去までも持つ。ちなみに梨里はそのトラウマとなっている可哀想な女の子に瓜二つ。

もっのすごい、用意されちゃっていることに対する不信感、なのだ。不幸な女の子を選んで好きになるわけじゃないし、男が不運な境遇だからとか、不幸な女の子だからとか、そんなことでこの状況を正当化し(というのは今までの作品にもあったけど、今回はあまりにそれが顕著)、心の変化をすっ飛ばすのはいくらなんでもルール違反じゃないのお?と。別にこっちは不幸な話を聞きたいんじゃなくって、この状況下でなぜ女の子が心を許していくのか、いや心どころか身体までも許していくのかが、そういうことが知りたいし、見たいと思っているのに。しかもこれまたズルイことに、トイレだのお風呂だの、そういう絶対に発生する問題まで思いっきりハズされている。甘い。これまた今までのシリーズではちゃんと踏襲されている部分なのだ。

確かに、飼育された男が、今度は飼育する側に回り、その飼育された女の子の方が強くなって手綱を握り、彼の記憶を引き出し、飼育関係がまた逆転したりといった“飼育の重層関係”は上手いのだけれど、上手さであって、心は打たれないのだ。
つまりは、ここが、あらためてフィクションを作ってしまった原作である小説、そしてそれをも映画化してしまう際の落とし穴なのだと思う。ストーリーテリングより、映画ではできることがある。起こる出来事は少なくてもいいのだ。心の変化を刻印できることこそが大事なのだから。
で、今回この梨里は処女じゃない。今まではそこがキーであった。だからこそ心、そして身体をほぐすのに時間をかけ、映画にするだけの意義があり、そのほかの、今回のようなムダなエピソードはいらなかったのだ。今回は監禁されている梨里の方が積極的。でも、これは逆にヒドい。つまり、経験している女の子なら、こういう状況にショックを受けないとでも言いたいみたいなんだもの。なんかの映画で観た、処女じゃなければレイプにならないとか、そんなアホな言いぐさを思い出してしまう。

で、彼女はタケルを飼育していた隆子から“秘密の地下室”のカギをもらい、そこで彼の記憶の封印を解きにかかる。サブタイトルでもあるこの“秘密の地下室”には……このコトバを目にした時からイヤーな予感はしていたけれど、その予感をはるかに超えるほどの、なんじゃこれの世界が展開されてしまう。とりあえず、確かにここであばかれるタケルのトラウマはあまりにひどくて、彼が可哀想で、そんな目にあった春菜が可哀想で……なのだけれど、その起こったことは確かにそうなんだけれど、ここで語られると、ホントただの説明状態で、ダレダレなのである、困ったことに。そのダレダレを回避するためなのか、あるいはこのR指定である「完全なる飼育」のやるべきこと、とでも思っているのかよく判らんけど、赤い長襦袢で誘惑したり、網タイツにムチ持ってSM女王様やるに至っては、さすがに苦笑、失笑するしかなくなってしまう。もう、もう、なんじゃそりゃー!なのだ。確かにこの密室の中で記憶に追いかけられるタケルとそれを操縦する梨里、という図はもんのすごい心理劇の様相を呈していて、天蓋つきベッドだの、かがり火だの、バスタブで血のシャワーだの、様式美さえ感じられるのだけれど、でも、ダメ。長襦袢に網タイツ持ち出しちゃ、すべてが台無し。

それに悪いけど……梨里役のしらたひさこ嬢は強いまなざしと目を見張る美脚は魅力的だけど、演技力が……特にこんな場面をまかされるだけの演技力が、ないんだもの。それにやっぱり監禁される少女役は、やっぱりやっぱりもうちょっとふっくらしててくれた方がいいんだよなあ(って、そりゃ私の好みだ)。
一方、タケル役の山本太郎はというと……いうと……あー、これは……その……。くちごもってしまうのは、私は彼は本当にいい役者だと思うし、好きなんだけど、でもでも、やっぱりやっぱり、ミスキャストというのはあるのよー!!(絶叫)いや、演技力がどうこうっていうんじゃない。こと演技ということに関しては彼はしっかりこなしているとは思う。最後のひと言以外は台詞がまったくない、というこの難しい役を、発作シーンの凄まじさも含め、ひたすらその訴えるような目線に込める彼の演技自体は、確かに問題はないのよ。でも、でもね……やっぱり彼はね、体育会系キャラなのよッ!「夜を賭けて」のようなハマリ役というわけにはやっぱりいかない。だって、何なのこの造形は。ギャグな稲垣吾郎って感じ。山本太郎に長髪やらすか?しかも三つ揃いスーツまで着させて……。この人は、日本一長髪の似合わない人ですよ。このガタイで、こんな繊細そうな印象の外見で固めさせるなんて、見ているこっちがその違和感にハラハラしてしまう。だから回想シーンで体育教師であったという彼の、ボーズ頭にパツパツのTシャツ姿が出てくると、そうだよ、これが山本太郎でしょ、と一気にホッとするのだ。つまりはこの過去のキャラがあっての山本太郎、だったのかもしれないけれど、でも長髪にスーツの彼はやはり見たくなかった……。

音楽がメロディアスで美しくはあるんだけど、美しすぎるというか、言っちゃえば古くさいメロドラマ風で、聞いているうちに、物語の陳腐さもあいまってだんだん恥ずかしくなる。
この年下の男を、実は激しく愛していた、いくつになっても女、である隆子を演じる加藤治子のさすがの貫禄や、人のはかなさに重ね合わせるかのような、満開の桜の美しさとそこに叩きつけられる雨、そしてその雨の中、去ったはずの梨里が真っ赤なワンピースで現われ、タケルがはじめて「り……り……」と声を出すラストなど、印象的なものはなくはないのだけれど……。★☆☆☆☆


カンパニー・マンCYPHER
2001年 95分 アメリカ カラー
監督:ヴィンチェンゾ・ナタリ 脚本:ブライアン・キング
撮影:デレク・ロジャース 音楽:マイケル・アンドリュース
出演:ジェレミー・ノーザム/ルーシー・リュー/ナイジェル・ベネット/ティモシー・ウェッバー/デビッド・ヒューレット

2003/2/6/木 劇場(銀座シネパトス)
あの「CUBE」の監督の第二作。あれがデビュー作だった、と考えると本当に恐るべき監督だったわけだけれど、それから5年たって、ようやく第二作が届けられた。……大体、第一作で熱狂した監督っていうのは、第二作では妙に冷めた目で見てしまうものなんだけれど、例えば最近では「π」「レクイエム・フォー・ドリーム」のダーレン・アロノフスキー監督とか(そういえば、この秒刻みの悪夢がスパークする映像処理の感じ、どことなく「レクイエム・フォー・ドリーム」風な気もする)。それはついつい第一作と同じ興奮を求めてしまうせいで、いけないとは判っているんだけれど。そういうのがイヤだから、監督ありきで観てうがった論を並べるのではなく、一つ一つの作品をこそ大事に観ていきたい、と思っていたはずなのに……気がつくと、どうしても前はああだったとか言いたがる自分がいて本当にイヤ。でも、うーん……本作に関しては、上映終了ギリギリになって、あの「CUBE」の監督の第二作が公開されているというのを道すがらに知って慌てて観たぐらいで、前作、ミニシアターで丁寧に宣伝して大ヒットした時とは随分と違ったのにも気になった。何でも日本が世界で最初の公開だというらしいのに、この扱いはないんじゃないの、と……。メジャー系列の、端っこの、単館というんでもない中途半端な公開で、っていう、これが一番始末に終えない。映画にとってもかわいそう、と思う。おかげで観逃すところだった。……観逃しても、良かったかな……。

またしても天才、と呼ばれてしまう人が出てきちゃって、でも私としてはそう簡単に天才をポンポン生み出さないでほしい、と思う。天才っていうのは、本当に一握りの人だと思うから。彼の場合は、自分の世界観を忠実に再現することのできる職人監督。一般的な商業的にウケる映画ではない、と本人は思っているのかもしれないし、ハリウッドでは確かにそうなのかもしれないけれども、日本で「CUBE」が大ヒットしたことを考えると、意外にそうでもないんである。……「CUBE」だけだったら、そして次の作品も「CUBE」の流れを汲んでいたら、この監督を私も天才と呼びたかったかもしれない。いや、確かに流れは汲んでいるのだけれど、「CUBE」には不条理さの魅力、というのがあったのだ。本作にそれがないとは言わないけれど、いや、あったはずが、一生懸命、それを回避して回避して、謎説きして、せっかくの不条理を白日のもとに明快にしてしまった、という感じなのだ。それが私が最もガッカリした理由。これを社会派サスペンスとか、そういうカテゴリの中で論じるならば、不条理さの魅力というものも浮かび上がってくるんだろうけれど、「CUBE」の監督の第二作、と思って観ていると(だから、これがいけないんだってば)サスペンス、ミステリになってしまっていることこそに物足りなさを感じてしまう。勿論、これはこの監督の幅の広さを示すことだとわかっていても、あ、普通になってしまった……などと思ってしまう。

自分は誰なのか、何のためにここにいるのか、そしてどうなってしまうのか。アイデンティティをめぐるこの三つの大きなナゾが、「CUBE」から流れる大きなテーマのように思う。“そしてどうなってしまうのか”の部分が曖昧になる恐ろしさが「CUBE」にはあり、それこそが人間の、そしてある種の世界のたどり着けないリアルな怖さだからこそ、あの作品は際立っていたように思う。しかし本作は、その“そしてどうなってしまうのか”という部分にこそ重きを置いていて、やはりどこか、推理サスペンスの趣。それは監督も意図するところで、60年代スパイ映画を再現したかったというのだから、このどこか親切な謎解きの雰囲気は確かにさもありなんではあるのだけれど。

一人のサエないサラリーマン。妻の尻に敷かれて、このままでは妻の父親の会社に放り込まれて、いっそう身動きがとれなくなってしまう……で、彼は産業スパイの世界に身を投じる。違う名前を与えられ、誰にもそのことを知られてはいけなくて、やってる仕事は大したことないんだけれど、誰も知らない別の自分になれることこそを、彼は快感に思う。ガラにもなく?ミステリアスな女を酒の席で口説いたのも、別の自分だったからかもしれない。しかしこの女こそがすべてのカギを……いや、自分自身こそが、すべてのカギを握っていた。

つまりはサエないように見えていたこの男が、洗脳されそうになって命からがら逃げ出したこの男が、世界のすべてをその手中におさめていて、自らサエない男になる洗脳を受け、スパイ活動をしていた、という大オチで、“自分自身こそがすべてのカギを握っている”という部分に気づいてみると、意外にマトモな人間描写の話だったりするんである。世界観は、「CUBE」からの流れを汲んでいる。数学的とも言いたい、無機質で冷たい大都会。それはセピアかモノクロームか、というような極度に抑えた色味の中に描かれ、主人公の男も、ミステリアスな女も、まるで死人のような肌の色合いをしている。ウソをついていないかを調べる神経グラフのマシンや、気づかないうちにかけられている洗脳マシンなど、緻密な機械描写がどこか日本のSFアニメーションチックで、この監督が日本大好きだというのもこのへんからなのかな、などと思う。特にこの洗脳マシンは、自分たちがスパイだと思い込んでいる群衆が皆して催眠状態に陥り、一斉にかぶせられる、というその画がまずブキミで、しかもこの機械ときたら、細い管が鼻に入るわ、見開いた目にまぶたを固定するカギがせまってくるわで(あれはホント、やめてほしい。先端恐怖症の人は、死ぬぞ)何だかもう不必要なまでに凝っていて、監督、楽しいんだろうな……などと、そっちの方を想像してしまったりして。

しかしこの場面、タイクツな会議に、本当は専門分野でも何でもない人たちがアクビをかみ殺して見ている、というのが、“本当は専門分野でも何でもない人たち”でなくったって、実にありえる風景で、このへんもいかにもシニカル。でもこういう、やや判りやすすぎるシニカリズムは、何となくまだまだこの監督の若さを感じなくもない。むしろそういう部分が脱却していったら、それこそ面白くなる人のような気もする。なーんて、エラそうに言ったりして(笑)。

彼がひと目で心奪われるミステリアスな女、リタは、もともと彼の恋人だったんだから、まあそりゃそうなんだけれど、それにしても登場シーンの、キテレツな和服風味のミニワンピースの後姿には、ナンジャソリャ、とついつい思ってしまった。「ディナーラッシュ」でそう思ったせいもあるんだけれど、本当、アメリカ人って、こういうアジアン・ビューティーが好きなんね。アジア人のこちらから見れば、今どきこういう顔立ちはむしろ特殊で、もっときれいで魅力的な人がいるんじゃないかと思ってしまうんだけれど……。この顔立ちは、昔フランス映画とかに出てきたアジア人女性がそのまま変わっていない感じがし、歌舞伎チックなアイメイクとかも、妙に古くて気恥ずかしい感じがする。しかも、アジア人特有の肌のきれいさが、「ディナー・ラッシュ」のヴィヴィアン・ウーにしても、このルーシー・リューにしてもないのがね……。ルーシー、そのソバカスはまあちょっとチャーミングだけど、でも、これもアジア人には珍しいよね。どちらかというと、白人っぽいソバカス。でも二の腕とか、大きくはないけど寄せられてふっくらとした胸元とか、その白いモチ肌はちょっとイイ感じかな。最初の登場シーンでは、そのへんのフェティシズムに私もクランときたもん。彼女は自分の正体を明かすまで赤毛のウィッグをかぶっているんだけれど、後で脱ぎ捨てて長い黒髪になるより、このウィッグがキュートに似合ってた。そのままで良かったのに(笑)。だってさ、どうせこの男、自分で自分を洗脳しちゃってて、彼女のことが誰かだなんて思い出そうったって思い出せないワケでしょ?

でもこのへんも、どうもよく判らない。確かに彼女にそういう風に説明されて、でも、すっかり洗脳しちゃっているから彼は思い出せなくて苦悩して、敵が向こうから迫ってて、とりあえずヘリコプターに乗り込んで、「あなたなら、操縦することが出来るはず。だってあなたがデザインしたんだもの」ってさあ、それが出来ないから洗脳はオソロシイんじゃないの?ていうか、彼は元の自分に戻るなにがしかの手だてもしないまま、自分を洗脳しちゃったのかなあ?でもそれじゃ、何の意味もないような……すべては彼女に託して?しかも、ムチャだと思ってたのに彼はギリギリのところで操縦法を思い出せて、そのままなし崩し的に自分のことも思い出せて、またまた、ナンジャソリャなんだけど。ええー?そんなテキトーで、いいの?何か思い出すキーワードとか、元に戻るマシンとか、そういうのは、ないわけ?そ、それで洗脳なの?わっかんないなあ。まあ、頭のワルい私には、全編イマイチよく判んなかったんだけど……。

まあ、何と言っても見どころは、この男がモーガン・サリバンからジャック・サマースビー(お!?この名前は……)になり、そして本当の自分になっていくという変遷である。モーガンからジャックになるのは、最初は名前を与えられているだけで、そして本当にジャック・サマースビーという男だと思い込まされるところをリタの手引きで何とか逃れて洗脳されたフリをして(二重洗脳じゃ、確かにキツいもんね)いたわけだから、その部分にはまあ、せいぜいメガネをかけてるかかけてないか、その程度の違いしかないわけだけど、しかしそのサエないモーガン&ジャックと、最終的に到達する本来の自分はすごおく、違うの。無精ひげで、セクシーで、サングラスかけて女を抱き寄せてヨット乗るような(笑。ちょっとあまりにも画的にアリすぎ?)。しかしこのあたりは、役者の面目躍如。あっさり驚いちゃったもん。ええー!?こ、これがあのサエない男?って。ひとつの作品の中でこういう変身を見せつけられると、その役者自身を役のイメージで見るということがどんなに意味のないことか、思い知らされる。うーん、このヒト、上手いわ。

アメリカ各地の、聞いたこともないような地名が色々出てきて、そうか、アメリカはハリウッドとカリフォルニアとワシントンとロサンゼルスだけじゃないのね、と勉強になる?ところで、つまりはこれ、リタの暗殺計画を阻止するため、ってことだったのかなあ、うーん、よく判らないけど、そういうこと?★★★☆☆


歓楽通りRUE DES PLAISIRS
2002年 91分 フランス カラー
監督:パトリス・ルコント 脚本:セルジュ・フリードマン
撮影:エドゥアルド・セラ 音楽:
出演:パトリック・ティムシット/レティシア・カスタ/ヴァンサン・エルバズ/カトリーヌ・ムーシェ/イザベル・スパド/ベランジェール・アロー/パトリック・フロエルシャイム/マニュエル・ボネ/パスカル・パルマンティエ/ドロレス・シャブラン/キャロル・エステール/フローランス・ジェアンティ/イザベル・ル・ヌーベル/ソフィール・テリエ/セリーヌ・サミー/ヴァレリー・ヴォグト/エマニュエル・ヴェベール/メルセデス・ブラワン/シャルリー・ネルソン/マキシム・モンシミエ/ジャン=フランソワ・コプフ/クロード・デレッブ/エチエンヌ・ドラベール/ダニエル・ケニグスベルグ/ミッシェル・グレゼール/ナタリー・ペロ/クリスチャン・マズッチーニ/ボリス・ナップ/ナターシャ・ジェラルダン/サンドリーヌ・マリック/イザベル・ザノッティ/ジャック・ベルタン/ルイ・ロワイエ/カトリーヌ・ソラ/サミュエル・ラバルト

2003/3/15/土 劇場(渋谷シネマライズ)
小粋なフランス映画。それを100パーセント実現したらこうなる。ルコント監督はそういう監督。その洒脱な腕前はこの人以外ないと思う。と言いつつ、ルコント作品を観るのは久しぶり。別に避けてたわけじゃないんだけど。ルコント監督が漫画家出身だということを今更ながら初めて知る。石井隆みたいだ……なるほど、このどこか完璧に過ぎるほどのイメージどおりの世界も、また。

美しい女に、美しいとは決していえない男が奉仕する。この図式は少ないながらもルコント作品を観る中で、この監督のひとつのテーマになっている気がする。母親は娼婦で父親は顔も知らぬその相手のお客。華やかなランジェリー姿の娼婦たちの間で、おしろいと香水の蠱惑的な匂いの中育った少年、プチ=ルイ。この、少年時代のひとコマ、彼を愛撫しようと、次々と出てくるしなやかな娼婦たちの手、「プチ=ルイ」「プチ=ルイ」と甘やかにささやく彼女らの笑顔、その海の中を愛らしい笑顔をたたえて進む彼、という、なにかひどく幻想的な美しさで、まさにおとぎ話。しかもどこかフェティシズムが溢れ、退廃的なのに、陽気な空気に満たされている。ここには娼婦の抱える現実的な悩みや、汚いものは一切、排除されている。彼にとって娼婦とは偏見の対象とは全く無関係だし、何より、母親が娼婦で娼婦の間で育った彼にとって、娼婦たちそのものが母親と言えるのだ。

ということに気づけば、彼が運命の人、ただ一人愛する人、マリオンに一切手出しをしようとせず、肉体関係など思いもよらず、ただただそばにいられること、彼女の世話をすること、彼女の幸せを願うことを望んでいることが……そういう愛情の種類だということが、すんなりと納得できるのだ。だって、彼にとって女性は娼婦で、娼婦は母親で、母親として彼女らを愛し、その中に見出した特別がマリオンだったのだもの。あの時、母親から問われた時、「女の人を世話する。運命の人を」と答えた時、彼の中には娼婦以外の女性などまるで浮かんでいなかったに違いないのだ。マリオンに対する愛情の示し方は、そう、どこか、年をとった母親に対する慈愛と奉仕の愛情に似ている。勿論それは、恋愛の中にも潜んでいるものだけれど、この経過をたどっている彼の場合はやはり、それ以外の何ものでもないという気がするのだ。

私は、だって、マリオンはプチ=ルイを愛していたと思う。彼女は確かに恋は知らなかったかもしれないけれど、その前にもう愛を知っていたと思う。だけど、恋を知らない彼女に、プチ=ルイは恋を教えてしまう。恋こそが最上の愛を導く、とでも言いたげに。あるいは、本当にそう思っていたのかもしれない。私には、私にはプチ=ルイの方がよっぽど世間知らずだ。あるいは監督が……私、監督のインタビューを読んでちょっと唖然としてしまったのだ。私が受け取ったマリオン像とはあまりに違う。「マリオンには、ちょっとすれたところもあって、プチ=ルイがどれだけ彼女に恋をしようとも、気がつく可能性はまずないね」とか、「一瞬でもプチ=ルイがどれほど彼女を愛しているか気がついたならば、彼のそばで他の男といちゃついたりしようなんて思いもしないだろう」などと監督、語っているんだもの。気がついているに、決まってる。気づいているから、そうしているとしか思えないもの、“女”の私には。それに、マリオンを演じるレティシア・カスタにもそういう空気を感じたし……。彼女は、プチ=ルイに愛してほしかったに決まっている。そういう種類の愛情ではなくて。でも彼がそういう愛し方しか出来ないから、それを彼女は気づいたから、運命の人を探しなさい、という彼の提案を受け入れたんじゃないのか。「あなたも私のリストの中に入っていたのよ」あの言葉は、愛の言葉では、ないというの?

マリオンの哀しみは、プチ=ルイが自分を愛していながら他の男に託そうとすることだったんではないの?彼女がやたら惚れっぽくなったのは、彼女自身の必死の努力だったのではないの?この映画の惹句、「私、恋しているの」 でも、恋と愛とは、違うものではないの?恋が愛に発展することは勿論あるけど、だって彼女はもうプチ=ルイを愛していたんだもの……違うんだろうか。

監督いわく、プチ=ルイは自分が彼女を幸せにすることができないと思っているんだという。それは女を侮辱することだってことが、何で判らないの!と思う。男が女を幸せに「する」のが愛情ではなくて、愛し合う二人で幸せに「なる」ことこそが愛情なんだということを。男はしばしばこの点を間違えるのだ。いや、プチ=ルイのような男性の場合は、もっと確信犯的。だって、自分の手の届かない(と思い込んでいる)女性をただただ愛することは、やはりそれは幸福にほかならないんだろうから。だって、その場合の女の方は幸福どころか、地獄ではないか。やっぱり、男は得だと思う。なぜって、女は実はその男を愛していることがほとんどだから。でも男は大抵自分を愛してくれる女を愛してはいない。愛されることを幸せに思い、そこから愛することが出来るのが女で、愛することだけを幸せに思うのが男だから。だから永遠にすれ違い続ける。プチ=ルイの愛情、この愛情の種類は、本物?自分に自信がない故の行動?それとも他人に愛されている彼女を見ることが幸せの一種のマゾヒズム?それとも……。

マリオンの恋人になったのは、外見はかなりイケてるディミトリ。しかし次第に彼がどうしようもない男だということが判ってくる。しかしマリオンとディミトリがひと目で恋に落ちたこと、何よりマリオンが彼にメロメロになっていることで、プチ=ルイは何とか二人を一緒にしようと奔走するのだが、彼の手におえない。ディミトリはヤバい仕事に手を染め、ヤクザな男に絶えずつけねらわれているような男なのだ。しかし、マリオンを愛しているのは、本当。“彼女を幸せに出来ない”自覚があれば、そういう種類の、つまりはプチ=ルイのような愛情があれば、とうにもう離れていたに違いないどうしようもない男。でも、彼は彼女を愛しているがゆえに、一緒にいたいと望む。そしてそれこそが、彼女が求める種類の愛情なのだ。プチ=ルイのように、「君を愛していたいだけ」という愛情は、それは、美しそうに見えて、相手もまた愛している場合、あまりにエゴイズムな愛情。

たしかに、ディミトリはどうしようもない男かもしれない。ギャンブルに溺れて、過剰な自信で闇取引に手を染めて失敗し、果ては女のヒモのような状態になる。マリオンはディミトリのために、一日に何人もの男と寝て稼いでいるのだ(これもまた、男の理想郷かもしれない)。そんなマリオンを心配し、ディミトリのことを苦々しく思うプチ=ルイ、その気持ちは当然なんだけれど。でも、現実の厳しさの中に生きているディミトリと、どこか夢のような世界を人生に引きずって生きているプチ=ルイ、と考えると、実はディミトリの方が本物の男で、本物の愛を持っていたのかもしれない、と思いもするのだ。それにディミトリはマリオンとプチ=ルイの信頼関係をよく理解していた。プチ=ルイの彼女に対する滅私奉公的な愛情も。その上で彼もまたプチ=ルイを信頼し、その度量があるからこそ、あんな奇妙な三角関係が成立していたのだ。途中で、「これはとんだハズレクジだった」とディミトリを切ろうとするプチ=ルイよりも、ディミトリの方が大人だったと、思えはしないだろうか?

ディミトリがもうどうしようもなくなって、彼にはそんな予感があったのかもしれない、プチ=ルイを神父にたててマリオンと衝動的に結婚する。その直後に、幸せ絶頂の披露パーティーの最中に、追っ手がやってくる。ディミトリと、なんとマリオンまでもが連れ去られてしまう。ヤクザからの身代金の連絡に、プチ=ルイは街中の娼婦たちからの協力で金をかき集める。このシーンはかなり感動的で、プチ=ルイのマリオンへの愛情に、彼に愛されている彼女に、皆が慈愛を注いでいるのが判るのだ。豊かな胸の間から、はさんだガーターベルトから、壊された貯金箱から、次々と供されるお金は、しかし最初から期待されていたものではなかった。金が来ても来なくても、二人は殺される算段になっていた。しかしそこは修羅場を潜り抜けてきたディミトリの機転で危機一髪、逃げ出すことが出来る。……この時、マリオンだけが生き延び、ディミトリが死んでいたらと……ついつい思ってしまうのは、いや、プチ=ルイだってそう思っていたんではないだろうか?

マリオンの夢のリストのひとつが、有名になること。プチ=ルイは彼女にオーディションを受けさせて見事合格、この修羅場の夜が初舞台の日だった。いくらなんでも無理だと震える彼女に、大丈夫、僕がついているから、とプチ=ルイが肩を抱く。そしてそのとおり、彼女は初めての大舞台に見事、成功し、レコーディングとこのステージの5年契約までも勝ち取るのだ。しかしその喜びを分かち合っているのはプチ=ルイとでは、なかった。抱き合って喜び合うのはディミトリ。それをやや離れて眺めるプチ=ルイ。そういえばこういうシーンは他にもたくさんあった。思えばマリオンがディミトリと出会ったその時も、二人が街中で我慢しきれずにキスの雨を降らせた時も、そして三人一緒に生活していた時、ひとり台所に床をとっていたプチ=ルイは、二人のセックスの声を連夜聞いていたに違いないのだ。そしてそれこそが、プチ=ルイの幸せだった。それを彼女も判っていたから、プチ=ルイの前で自分が幸せだと、半ば迫真の演技で見せていたように思えてしまう。

上手いとは思えない彼女の歌には、しかし愛と恋とに悩む説明しがたい空気があるのかもしれない。オーディションの場面で、彼女の前の番で歌っているコーラス三人組は技術的には随分と達者だったのに落とされた。このあたりにフランスのセンスとプライドがあるように思う。この映画自体の音楽もなんとも言えぬアナログな響きが素敵。冷たさがない。しかしこのスタンダードな音楽の響きが既にして、もう見ることの出来ないおとぎ話の世界で、愛もまたおとぎ話の砂糖の飾りをまぶされている、そんな感じがしてしまう。もちろんそここそがルコント監督のいいところなのだけれど。

マリオンと出会った時、プチ=ルイはひと目で判った、という。彼女こそが、自分の運命の人だと。「君のお世話をしたい。一生だよ」そう言って、プチ=ルイは実際、そのとおり彼女が死ぬまで、そばにいつづけた。死ぬまで、と言っても、その一生はあまりにも理不尽に短いものだったのだけれど……。だけどひょっとして、短ければ短いほど良かったんではないのか。美しい華のうちに彼女は死んだ。男と違って、女は若いうちしか価値がない、という価値観は、残念ながら今も根っこに生き続けている。世間一般の通念としてではなく、もしかしたら本当に真性の部分でそうなのではないのか、と思うことさえある。美しさを若さで輝かせている彼女のような場合は、特に。いつもいつもどこか哀しげなメイクで自分を武装していたような彼女が、あの時初めてスッピンに近いような顔で、それはメイクしている顔なんかよりも、ずっとずっと、みずみずしく美しかった。プチ=ルイは肩をもむために、彼女のもろはだの、素肌の肩に触れる。悲劇の直前、彼はその肌に唇をつける。もしかしたら初めて……。
この悲劇の結末のシーンは冒頭で触れられていて、しかしそのときにはまさかこんな悲劇が訪れるとは判らない。もう終わりまで来て針が行きつ戻りつしているレコードプレーヤーに少しだけざわついた予感を感じるだけで。とてもリラックスした、あたたかで優しい色合いの空気に満たされているからだ。なのに……。

この幸せなピクニックの時間を切り裂いて、追っ手がまずディミトリの眉間を撃ち抜く。事態に気づいて半狂乱になって彼の元へと走り出すマリオンもまた、撃たれる。なぜ彼女を撃つの!?ああ、でも、その血だらけの顔を駆け寄るプチ=ルイに力なく向けた彼女の顔は、なぜか微笑んでいて、それはプチ=ルイへの愛を、示してはいない?呆然と彼女を腕にかき抱くプチ=ルイ。確かに最後まで、あなたは彼女のそばにいた。だけど……。

少し、懐疑的になってしまった。でも、こういう愛を純粋に受けとめられるのは、果たして幸せなのだろうか……?★★★☆☆


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