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「し」


2005年鑑賞作品

ジーナ・K
2005年 103分 日本 カラー
監督:藤江儀全 脚本:藤江儀全
撮影:松本ヨシユキ 音楽:
出演:SHUUBI 石田えり ARATA 光石研 石井聰亙 吉居亜希子 片岡礼子 永瀬正敏


2005/9/7/水 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
ジーナ・Kを演じるSHUUBIの圧倒的なライヴ・パフォーマンスにシビれながら、私の知らない歌姫がそこここに隠れてるんだなー、と思う。今まで知ってたいわゆる“歌姫”の中でも最も心揺さぶられるライブシーンは、映画だからこその演出による臨場感も無論、あるんだろうけれど。でもあの石田えりを母親役として、その母親を「絶対に母親なんて認めん!」と向こうを張って母親のステージを奪い取り、自分のステージにしてしまうこのSHUUBIの生きている輝きと存在感は本物。だってあの石田えりだよ?しかも彼女、一切手抜きせずに(まあ手抜きするような女優じゃないけど)、それどころかこの娘に挑みかからんぐらいの強烈な“石田えり!”で襲いかかってくるんだもん。ちょっとやそっとの新人じゃつぶされちゃうよ……ましてやこのSHUUBI、この華奢な身体で、そんな美人ってわけでもないし、歌だけが彼女の武器で、それだけで、いやそれで充分っていう気迫で、挑戦的な鋭い瞳と引き結んだ唇でこの母親に挑みかかっていくんだもの。

そもそもこの映画は、この石田えり扮するストリッパー、カトリーヌありきだったんだという。実在する伝説のストリッパーから監督が着想を得て、薄命だったこのストリッパーにもし娘がいたら、というアイディアから始まった話なのだとか。なるほど、このカトリーヌが強烈な生&性の匂いを沸き立たせて、娘の前に立ちはだかるほどの存在感で、だからこそ石田えりでなければいけなかったんだ。彼女、勿論すっぱり脱ぐし、迫力のストリップシーンを見せる。そりゃー、さすが、石田えりである。そのおっぱいは脂肪とは思えず、鍛え上げられた筋肉のようにとぎすまされており、足の筋肉なんて女の人生を生き抜いてきた、甘えを一切許さないオーラをビンビンに発している。どこにも隙がなく、女の甘えも、男への隙も許さない。そういう意味では、女の美しさを見せるストリップとしては違うのかもしれないけど、その段階を大きく超えているからこそ、カトリーヌは伝説のストリッパーとして君臨しているんだろう。劇中ではもう年だし、人気にもかげりが見え始めている、という設定ながらも、その誇り高きステージの迫力と、そこここで語り継がれるカトリーヌの威厳は圧倒的なものがあるのだ。

その石田えりに対抗して、対抗どころかヒロインなんだから、これは相当な重責なのに、そこに、一般的には無名といっていい歌手を主演として送り込んでくるんだから、そりゃ監督として相当の勝算がなければ勝負しまい。その勝負に充分に応えるこのSHUUBIの生命力。なるほど、石田えりも手加減しないはずである。特に演技が上手いというわけではないんだけど、この役だからこそ、彼女は挑むことが出来たんだろう。歌に全てを賭けている、孤独を歌で跳ね返して生きている女の子。彼女こそがリアルなNANAって感じである(いや、中島美嘉はピタリだったんだけどさ……)。母親に反発しながらも、かえるの子はやはりかえるで、形としては母親がステージを追い出され、そのステージを娘が奪い取ったという形ながらも、母親のステージを受け継ぎ、守りぬいたということだったんじゃないかと思うのだ。

舞台は福岡の中洲。“夢がかなう町”というキャッチフレーズの小旗がそこここにはためいている。でもどことなく場末の雰囲気である。“ジーナ・K”になる以前のかやのは、町をブラブラと歩いている時、橋の上でいかにもって感じで客をとっている娼婦、ニナと出会う。父親がいないという境遇も、ないがしろにされている現状もよく似ている二人は意気投合して友達になる。まるで「サマリア」みたいな詐欺まがいの騙しの売春をやって、その場をやりすごす生活を、でも楽しげに送る二人。
ふたりで、パクッたお金でおでん屋かなんかで飲んでて、かやのがヘッドフォンで音楽をずーっと聞いているのが印象的なのだ。失礼な態度だと怒るニナに、だって雑音を聞きたくないから、と言うかやの。彼女は好きな音楽だけをその体に満たして過ごしていたかった。
後にかやのが出会うことになる運命の人、菊地が片耳が聞こえなくて(あるいは難聴なのか)、でも普段は補聴器をつけてなくて、それを、「余計な音を聞きたくないから」と言い、かやのはそれに深く共感するんである。

菊地は、一人の女性を探していた。それは、なんだっけ、アニキの嫁さんとか言ってたかな。なんか彼にとって重要な存在らしくて、劇中で説明していたよーな気がするけど忘れちゃった(我ながら無責任だなー。ま、メインの話に劣るから薄れちゃうのよってことで。なげやりー)。で、その彼の弱みを握る形で郷田って男がまた上にいて、かやのがいつものように詐欺売春で菊地をワナにはめた、と思っていた時に、待ってたニナを連れ去ってレイプしていたのね。菊地はかやのをニナの危機の場面に連れていってくれて、でもニナはすでに郷田に陵辱されてて……その郷田にかやのもヤラれそうになるんだけど、菊地がヨワいのに必死になって助けてくれようとして、でもボコボコにされて、かやのも絶体絶命!そこを何とか復活したニナが、郷田の頭を殴り飛ばして助けてくれる、のね(うっ、説明クドい)。
この郷田を演じているのが永瀬正敏で、彼はクライマックスでまた重要な役割を担って登場するんだけど、このとおり全編憎まれ役である。でもこのいかにもヤクザな感じはちょっと物語としてはベタすぎるような気がしないでもないんだけど……。

でも、この菊地を演じるARATAは最高にステキである。ていうか、彼っていまだにつかみどころがないっていうか、お顔がまずつかみどころがないし、別にハンサムってわけじゃなくて、なんというか、ぼんやりした顔の印象で、でもこれが不思議とどの映画のどの役を演じてても、それ自体はすごく印象が強いんだよね。だから余計に、つかみどころがなく、だからこそすんごく気になるし、素敵に思えるの。消えていっちゃうようなはかなさがあるんだよなあ……そのある意味での薄さが、どんな役にでもすっとはまっていく部分でもあるし、そのはまった役からもすっと抜けていってしまう危うさでもあり、ここではそんな揺れ加減がなんとも素敵なんである。
白いシャツをいい感じに開襟にして、ノーネクタイで黒のスーツに身を包んでいるのが、固さとナゲヤリさを同時に体現しててイイんだよなあ。

かやのはケガをした菊地を自分だけが安らげる場所、劇場の地下にかくまうんだけど、プロデューサーの宮本に発見されて、追い出されてしまう。
この宮本ってーのが、カトリーヌをストリッパーとして育てた男である。
カトリーヌの一番近くにいながら、カトリーヌもそれなりに思いを寄せていたこともありながら、彼女に手を出せなかった男でもあるんである。
このカトリーヌを切って、かやのをジーナ・Kとして売り出しにかかった宮本に、ジーナのステージを見にきたカトリーヌは、自信満々な妖艶さで宮本に迫り、キスまで奪って、こう言うのだ。
「ショックやってんで、私」と。
笑顔だけに、その思いには計り知れないところがあって……。
でもカトリーヌはどこでも彼女の誇りを失わない。
たとえ場末の温泉に営業に行ったって、そうである。
それは、その血を分けた娘、かやのの、いやジーナのラストシーンに重なるんである……。

ある程度のプロデューサー的手腕は確かにあったんだろうとは思う。歌声を聞いたのは何年か前の一度だけだったかやのを、ジーナ・Kとして売り出して成功させたのは、確かに彼の見る目と手腕だったんだし。
ただ、育て続けていく力量があったかどうかは……。
CDを出さず、同じライブハウスで同じ時間にライブを続けることで伝説の存在になっていったジーナ・Kを作り上げたのは、確かに宮本のセンスだった。でも、そこ止まりだった。同じ曲目で同じ進行ではじきに客に飽きられてしまう、と忠告したスタッフを宮本は容赦なく切った。ジーナが信頼していたスタッフだったのに。口癖は、「俺の言うことを聞いていればいいったい!」
かやのは母親の血を引いている。それを確信する。伝説のストリッパーであった母親、それを受け継ぐように、またたくまに伝説の歌姫になっていったから。
でもあまりにも作り上げられすぎた“ジーナ・K”という存在、演じているかやのが次第に苦しくなっていくのが判る。
インタビューにはいかにもアウトローな受け答えをする。生意気な歌手というイメージが先行する。

ところで、このジーナをずっとドキュメントで追っている映像作家(石井聰亙!)がいる。
物語は彼の目線で語られている部分もあるのね。
そもそもこの物語は、「ジーナ・Kが死んだ」という号外を手にした、このドキュメンタリー作家のシーンからスタートするんだから。
そして彼は、ジーナ、いやかやのの母親である伝説のストリッパー、カトリーヌに取材を試みるんである。
今はどこぞの場末で働いているのか、胸にヤケドのあとを残したカトリーヌは娘、かやののことを語り始める……。

結論から先に言うと、ジーナは死んでなぞいない。でも凄く厳しい目にはあった。その歌声ひとつでのし上がってきた歌姫には穏やかな未来など待ち受けてはいなかった。
親友のニナは妊娠していいダンナさんを見つけたと思ってたのに、間際で裏切られて、金を奪われて、捨てられて、彼女自身もダンナに復讐をしてからとはいえ、姿を消してしまった。
宮本が菊地を追い出してしまって、「お前は俺の言うことを聞いていればいいったい!」と言われたジーナ、この時の宮本はかなりヤバかったが……私、ジーナがレイプされちゃうのかと思って、すんごいハラハラしちゃった……でも多分、そういう目でも見ていたんだと思うんだよな、コイツ……。
宮本は結局、育て上げる力量がないから、なんか怪しげな小亀売りとかに手え出したりしてさ、一方でジーナは狂信的な女の子ファンに斬りつけられそうになる事件があって、それで菊地がケガしちゃうんだよね。その菊地が宮本に追い出されてジーナはキレちゃうわけ。

でも、宮本は、菊地は自分で出ていった、と言う……そうかもしれない。
菊地には、最後まで、彼はどういう存在だったんだろうという見えなさがつきまとう。
それこそが、ARATAが演じるべく、ミステリアスなんだけれど。
飛び出して、行き倒れになって、トラックの女運転手に拾われるジーナ。この運ちゃんが片岡礼子である。
劇場がなくなって今は休業しているけれど、もともとはストリッパーだったというこの運ちゃんは、当然のように、「カトリーヌのようにはなれないけどな」と言う。
母親の存在から離れることばかり考えて突っ走ってきたジーナは、こんなところでも母親の存在の大きさに直面することになるんである。
片岡礼子、カッコ良かったな。彼女は美人なのに、こういう素の、生きるパワーを持っている女性を演じさせると、なんでこんなにふてぶてしく、リアリティがあるんだろ。美人だから、ふてぶてしさが、ベタじゃなくって、その中和加減がリアリティがあるんだろうな、と思う。その生活を感じさせるような低めの声もいいんだよね。

ジーナは戻ってくる。宮本には見切りをつけて、自分ひとりで歌っていこうと決意する。その矢先に菊地と再会する。橋の上でトランペットを吹いている菊地。チンピラにからまれている彼、「菊地!」と思わず声を上げるジーナを見るや、逃げ出してしまう。なんだなんだと呆然とするチンピラをよそに、彼女は菊地を追いかける。
いつのまにやら海岸になってね。砂浜を、逃げる菊地を執拗に追いかけて、何度も捕まえかけては、振り切って逃げる菊地、というのを繰り返して。でもついに捕まえるんだよね。
「菊地、絶対あんたを逃がさないで」
自分を諦めずに追いかけ続けたジーナを抱きしめ、キスをし、砂浜の上で愛を確かめ合うシーンが、あああああ、もお、すんごくいいんだわ!うらやましいー、もー!

ジーナ・Kの復活ライブのリハーサルで、菊地のトランペットとセッションするジーナ・K、いやSHUUBIの、まさに肉声の迫力は圧倒的である。
ここで、彼女が歌声を意地でも聞かせなければいけないのは、菊地が追ってきた郷田に殺されてしまうから……。
郷田が菊地を殺さなければいけないほどの理由は、どーも今ひとつ判らない部分はあるんだけど……。それに菊地が倒れているのを一番に発見したカトリーヌにしても、いつまでも来ない菊地を心配して様子を見に来たジーナを通せんぼして見せないようにするのが今ひとつ判らんし、菊地の変わり果てた姿に取り乱すのは判るけど、ジーナにしてもカトリーヌにしても、なぜ救急車を呼ばんのよ。いくらカンペキに死んでると思っても、そんなの素人判断じゃ判らない部分があるじゃんー。
こういうの、言っちゃうと興ざめな部分があるんだろうとは思うけど、でもワンカットでジーナが取り乱して、カトリーヌにくってかかったりして、っていうのを延々見せるもんだから、すんごい気になっちゃうんだよね。
ワンカット、ワンシーンも、気をつけないと、こういうマヌケな感慨をもたらしちゃうのよ……。
こんな悲劇があっても、ジーナは歌を歌い続ける、というオチというか結論が用意されているわけだから、そういうマヌケさは極力排除してほしいと思うんだよなー。

そんなことがあっても、ジーナは舞台に戻ってくる。
復活ライブ。それまでは宮本の操り人形状態だった彼女、挑戦的で、同時に退廃的な、つまりはナゲヤリな態度が逆にカリスマ性をもたらしていた。でもそれは、作り上げられたジーナ・Kだった。菊地の死を受け止め、裸足で舞台に出て行った彼女、この映画のテーマソングである「ハジマリノウタ」を歌い上げる。
その姿は、ナマイキでナゲヤリだったかつてのジーナではなく(それがカッコよかったんだけどね)、歌を愛し、歌の神様から愛される歌姫そのものである。
でもジーナはステージに歩み寄った一人の少女に、ナイフでのどを斬りつけられてしまう。
その少女こそ、菊地がジーナをかばってケガを負ってしまった、あの時の狂信的なファンだった。
その後、ジーナは行方をくらます。号外で死亡説も出てしまう。
でもドキュメンタリー作家のインタビューを受けたカトリーヌは、「生きていれば、いつかどこかで会えるったい」と言う。
この台詞は、ジーナが男運の悪い親友のニナに当てて言った言葉でもある。
妊娠してたのに、その男に捨てられちゃって、でもキッチリそいつに復讐して、その後行方をくらましてしまったニナ。
「生きとうや、生きとったったい、生きてりゃ会えろうや」
博多弁のしぶとさ、タフさが、一歩間違えれば悲劇に陥りそうな状況を、ぐぐっと持ち上げてくれるのだ。

ラストシーンは、死亡説まで出たジーナが、駅構内の雑踏の中で、つぶれた声帯を必死にしぼりだして、「ハジマリノウタ」を歌っているシーンである。
取り巻きの中には、親友のニナが生まれた赤ちゃんを抱きながら、ジーナの歌声を嬉しそうに見守っている。
歌う。ジーナは、殆んど出ない喉を振りしぼって。
愛する人もいなくなってしまったのに。それでも歌うのだ。

石田えりのパワーに圧倒されながら、最終的にはSHUUBIのパワーに負けてしまったのが、ヤバい。あの石田えりを打ち負かしてしまうなんて!
でも、石田えりも、嬉々として打ち負かされていた感もある。
すげえ、SHUUBI!とか思いながら、私はARATAの素敵さにメロメロになっていたのが正直なところなんだけどさ(笑)。★★★☆☆


四月の雪APRIL SNOW/
2005年 107分 韓国 カラー
監督:ホ・ジノ 脚本:シン・ジュノ/イ・ウォンシク/ソ・ユミン/イ・イル/ホ・ジノ
撮影:イ・モゲ 音楽:チョ・ソンウ
出演:ペ・ヨンジュン/ソン・イェジン/イム・サンヒョ/リュ・スンス

2005/11/7/月 劇場(日比谷スカラ座)
ペ・ヨンジュン=ヨン様というのがあまりに記号的になりすぎてて、観に行くこと自体がどうにもこうにも恥ずかしく、こんな遅れ足を運ぶ事態になったんだけど……ホ・ジノ監督だし、観に行かなきゃとは思ってて、でもどうにも足が向かなかった。
で、ようやくもう終わっちゃうなっていうこの時点で観に行って、あ、彼、役者として……いいじゃん、などと不遜なことを思う。ホント不遜なんだけど、役者として、なんて考えたこともなかったから。

私は「冬のソナタ」は観てみようと一回トライして、その設定に一回だけで赤面して挫折した人間なので、そりゃー、大きなことが言えるわけもない。
ただ、その冬ソナで人気者になった彼が“ヨン様”としてすっかり定着しちゃって、やたらと露出している彼は、もう記号化されまくって、もはや“きいちのぬりえ”状態に見えてたんだよね。メガネかけて、ニッコリ歯出して笑って、ちょっと上向き加減、みたいな。
その固定化された笑顔ばかりが露出していると、何かだんだん、クローン人間に囲まれているような気味悪さを感じてきちゃってたんだよな。
でもその記号化されたことは、彼にとって不幸なことだって思う。いくらスターでも。だって私が感じていたように、ペ・ヨンジュンという一人の役者である彼が、役者として、演技力がどうこうってことを言われているの、聞いたことがないんだもん。
映画の挑戦は「スキャンダル」からだということだけど、もちょっと早くトライしても良かったように思う。やっぱりテレビドラマだけのイメージがつくというのはツラい。
私はだから、その記号化されたヨン様以外、ドラマも結局見ずじまいだったので割とサラの状態で役者としての彼を観ることが出来たのが良かったのかも。日本のファンや、本国韓国での反響はどうだったのかな。

そう、だって、ホ・ジノ監督が、スターだからという理由だけで彼を起用するとも思えないもんねえ。
まあ、アジアでの集客力はあると踏んだかもしれないけど、それでも彼が監督の世界観にちゃんと応えてくれる役者だという確信がなければ、使いはすまい。
それぐらい、この監督は作家性が確立しているし、それを集客力というエサでぶち壊すようには思えないんだもの。
ペ・ヨンジュン自身がこれだけ記号化しているのに、こんな繊細な演技をするなんて、そりゃあ考えもしなかった。やはり、ホ・ジノ監督が起用するだけのことはあったんだ。
確かに彼はメガネをとったり、笑顔じゃなかったりすると、印象があいまいになる。つまり“ヨン様”じゃなくなるんだよね。でもそのあいまいさこそがいいんだ。どこにでもいる、生身の青年になるから。この絶望的な状況で、判りやすく救いのない表情になるのではなく、どうしていいか判らず、絶望というよりは呆然ともてあましているあいまいさがいいのだ。そういえば、「八月のクリスマス」でとにかく全編ニコニコとした笑顔だったハン・ソッキュが、自身の絶望にその笑顔を消した途端、一人の青年としての苦悩が生々しく現われたことを思い出す。

筋立てだけを追えば、かなりのメロドラマになることは必至である。でもホ・ジノ監督はそれをそれこそ韓国映画が好むようなドラマチックなメロドラマに仕立てたりはしない。あくまでストイックに、静かに二人の役者を離れたところから見つめるから、役者も内面の変化をじりじりと見せるやり方を迫られるのだ。
冒頭からもうそれは始まってる。舞台の照明技師であるインスが、後輩に指示を求められ、急用が出来たから後を任せて帰る、と言う。その急用というのは妻が交通事故にあったというもので、普通のメロドラマだったら、それを電話で告げられてハッとするとか、そういうシーンを入れそうなもんなんだけど、ここでは、次のカットで彼が病院の廊下に駆け込んでくるシーンがあるまで、そんなことはまるで判らない。彼が後輩に向ける背中は、どこか頼りなげながらも、何かあったんだ、という予感をかきたてるだけなのだ。

手術室の外で、同じように呆然と、祈るように経過を待っている女性、ソヨンがいた。つまり、それぞれの伴侶同士が事故に遭ったのである。その合い間に二人は警察にも呼ばれる。事故状況はヒドく、二人とも車外に投げ出されていて、どちらが運転していたかさえ判らない状態だった。しかもインスの妻は飲めないはずのアルコールが体から検出されたという。そしてさらにマズいことに、その事故に巻き込まれて死んでしまった若者がいた。
この、どちらが運転していたかさえ判らない、というのは、それぞれ取り残された伴侶同士の二人の立場を完全に同じにするためで、そうでなければ絶対どっちかがどっちかを責める構図になるし、まあご都合主義っちゃご都合主義なんだけど、ただそこまでの完全なる符号が、二人を運命の相手として引き合わせたとも思える。
ただ不倫だけで、そのお互い同士で出会う物語ならあったかもしれないし、それなら全く違う、いわゆるドロドロモノになったと思うんだけど、これは、その第一の当事者が意識不明で、まるでジャマされないまま、その伴侶同士が全くの被害者のまま出会うから、ある意味罪悪感がないというか、甘美な悲壮感に包まれているんだよね。あるいは、二組の夫婦とも子供がいないのも、そうだよなあ。
まず、その点ではかないのだ。だから、そこで結びついているから、二人がこのまま続くとは思えないわけなんだけど……。

二人は、現場に残された遺留品をひとつひとつ、どちらの伴侶のものか判別して引き取る。その中には、コンドームもある。うっわ、キッツい……それを手にとりかけ、モノがなんなのか判って躊躇するソヨンを気遣うように、インスがそれをパッと引き取る。
二人はそれぞれの伴侶が入院している病院の近くのモーテルに同じく宿を取る。ドアは斜め向かいである。お互いを責めることも出来ず、責めるべき伴侶は昏睡状態から覚めないまま、二人はモーテルと病院で、または共に眠れないために睡眠薬を買おうとする薬局などでも何度となく顔を合わせ、ぶつけたい苛立ちをイライラとその内に押さえ込みながら日々が過ぎていく……。

そんな風に、それぞれイラ立つ様子が描かれていて、ソヨンの方は部屋の中で一人、泣き崩れるシーンが多いんだけど、インスの方は後輩が彼の元を訪ねてきて一緒に呑むシーンがあるのね。多分、このシーンのことだろうな。ペ・ヨンジュンが実際に酒を飲んだ状態で撮影に挑んだっていうの。
飲み屋の小さなテーブルに体重を預けてしきりにガタガタ言わせながら、通り一遍の慰めの言葉しか出てこない後輩に当たり気味にグチリながら、それもどうしようもないことだと判っているから、自分の気持ちをやりきれないように持て余して、「帰ってくれ」と言うしか出来ない彼。
全編、“もてあまし気味”の演技がイイ彼なんだけど、このシーンはその中でも、彼自身も決意を持って臨んだというのが判る名シーンなんである。

二人の距離が近づいたのは、あのあたりからかな……。伴侶はどちらも目を覚まさないし、どちらに責任があるとも現場の状況からは判らない、ということから、弁護士?が被害者の弔問に二人で訪れることを勧めるのね。それもキツいと思うんだけど……インスの運転で田舎道を延々、当然二人は押し黙ったまま車を走らせる。この気詰まりの車内の空気がなんともたまらない。
到着する。彼女を気遣って、ここで待っているかとインスは聞くけれども、ソヨンは気丈に彼と共に弔問へと向かう。しかし、当然、二人の身元が知れると、家族たちから泣きながら「息子を返せ」と罵倒され、蔑まれ、つかみかかられ、二人はその場を早々に辞するんである。

ま、これはテレビドラマチックに型どおりで、かなりありがちな描写ではあるんだけど、ただイイのはこの後の場面。来た道を引き返す、その助手席でソヨンは涙が抑えられず、「止めて」と路肩に車を止めさせる。そして車外に出て、田舎道の道端にうづくまり、大声をあげて泣き始める。インスも車外に出るけれども、それを少し離れた場所から見守っている。その田舎道は果てしなく続くように見えつつ、二人がそうして佇んでいるのはゆるいカーブのところで、その後の展開を暗示させるような非常に印象的で、絵画的な構図なのだ。そして彼は彼女が泣き止むまで待ち続けて、あたりが薄暗くなってくる……二人の位置はそのまま、彼女はうずくまったまま、彼は少し離れた場所で立ち尽くして彼女を見守るまま、そして夕闇が二人をシルエットに変えだして、その引きの場面はストイックでとても……美しいのだ。
泣き疲れたのか、助手席で寝てしまった彼女がふと目を覚ますと、休憩をとるためか、また車が止まっており、車外に出たインスがタバコを吸っている。それを目を覚ました彼女がぼんやりと眺めているシーンも、なんてことないんだけど、なんだか不思議に胸にこみあげるのだ。

でもまだ、この時点では、二人はよそよそしいまま。いつ頃からだったろう……部屋の窓から、雪投げをしているインスを見かけたソヨンが、その子供っぽい彼にクスリと笑顔をもらしたあたりからだったろうか。下に降りていった彼女は彼に話しかけ、なんとなく肩を並べて歩き出し、喫茶店に入って喋り出す。その時は、同じ境遇の者同士の連帯感以外の何ものでもなかった、はずなのに。
お茶する、が食事、に発展して、二人の関係が少しずつ変化してくる。酔ったソヨンは、それまでのストレスを吐き出したように陽気になり、たわむれっぽく、「目を覚ました時、驚かせてやるの。不倫しましょうか」などとインスに言うんである。あ、ちなみにこの台詞、演じるソン・イェジンのアドリブだっていうんだから、この場を運命的なものに変えるドンピシャのそのアドリブには震えがくる!
ソヨンのそんな言葉に一瞬、ひるんだような表情を見せるインス。そうだ、彼の方が先に、現実的にとらえてしまったんだ。予感があったんだろうな……。
酔った彼女が笑い出し、その場は笑い話になるけれど、二人の道行きはもう、ここで決定されてしまっていた。

あの水辺のホテルに来たのは、もう最初から二人にそういう気持ちがあったからに違いない。二人の会話はいつでも、質問をして、それを相手に同じく繰り返して、という感じで、それは会って間もない二人が、そしてこんな状況の二人がお互いを探り合っているといった印象も強いのだけれど、ここではそれが実にスリリングに響く。
「何をしたいですか?」
「何をしたい?」
顔を見合わせてそんな会話をして、もうとっくにそういう気持ちで来ていることぐらいお互い判ってるのに、そしてなにげなく、どちらからともなく手をつなぐのをロングでとらえ、それは引きだから一瞬見逃してしまいそうになるんだけど、そのかすかな手の動きに、あっ、あっ!キタッ!と猛烈にドキドキしてしまう。
案の定、次のシーンで、入っていったホテルの一室で、彼はベッドサイドでタバコをくゆらし、彼女はバスルームでストッキングを脱いでいる。このじらしシーンの期待感がイイ。
そして二人は一線をこえてしまうんである。

ラブシーンは凄くキレイに撮ってるんだけど、結構濃厚。そんなにナマナマしくは見せないけど、ペ・ヨンジュンがマッチョだってことが意外でもあり、しかも彼女が華奢だから、彼の大きな体に折り曲げられるように抱きしめられる彼女、というのが、いやー、なんかもう、イイやね。
しかもこのソヨンを演じるソン・イェジンは、華奢だけど、意外に胸が豊かである。
可憐なブラに寄せられたオッパイが、脱がせた彼の目の前にあらわになるところでオオッとか思う。
折れそうな身体で、幼い顔立ちなんだけど、しかも専業主婦とか言うし、でもだからこそ、ギャップが生み出す女の本能的な色香がドキドキなのよねー。やはりギャップよね。

コトの前に、彼女が彼のメガネを外すところとかが、またイイんだよね。やはりヨン様の記号が外れる瞬間の生々しさ、だよね、これは。
水辺で、「二人の写真を撮りましょう」と言い、そんなことを言ってしまった自分にハッとなって、やっぱりやめましょう、と口ごもるソヨンにインスは、なぜ?撮りましょうよ、と二人携帯のカメラに収まる。笑顔を見せるけれど、その写真に、ソヨンが口元を抑えて画面から見切れたのは、笑顔だったのか、泣き顔だったのか、判然としない。
だって、これって、遺留品に残されていた、お互いの伴侶の不倫ムービーとなんら変わりないんだもの。
今、二人は恋に落ちている。だから「死んでしまったらよかったのに」と言うほど(と、インスが昏睡状態の妻に言うシーンがあるのだ!!)苦しめられた彼らの気持ちが、判ってしまうのだ。

そんな風に二人の関係が深まっている間に、インスの妻の意識が戻ってしまう。
当然、インスは妻の元に駆けつけなければならないし、つきそってやらなければならない。
しょうがないことなんだけど、二人ともそのことで高まり始めた感情がさえぎられることに、歯がゆさを感じているように思える。
二人、お互いの伴侶につきそっているところを、窓の外から盗み見ているところなんか、伴侶を心配している気持ちは本当なんだけど、でも気持ちがそれぞれ別のところに確実にあるっていうのがなんともスリリング。
それに、廊下ですれ違うインスに、ソヨンは嫉妬からか八つ当たり気味だし……。
ソヨンの夫はまだ目を覚まさない。しかし身体機能が低下してきており、医者からソウルの大病院に移してはどうかという打診が出される。ソヨンは迷う。その迷いは夫の回復ではなく、インスと離れ離れになってしまうことに他ならないことが、観客にも伝わってくる。それが証拠にソヨンは医者に、インス夫婦はどうするのかと何気なく尋ねるから。医者は、ソウルの病院に移るようですよ、と告げる。またも何気なく思案するような表情を見せながら、彼女の心のうちは透けて見えるように伝わってくる。

二人は、それでも逢瀬を重ねていた。仕事を片付けるためにソウルへ出かけたインスをソヨンが追いかける形で。「こうして二人でソウルで逢っているなんて、なんだか妙ですね」そんなことを言いながら、肩を寄せ合って夜の闇の中を歩く二人。「寒いから、車まで競争しましょうか」なんて、こんな状態であることを振り切るかのようにはしゃぎあう。
インスのアパートで、ぎこちなくリンゴをむくインスをソヨンが見かねて替わる。リンゴをむくソヨンを向かいに座ってインスが見つめている。彼はふと立って、彼女をまた見つめ、うつむいた彼女の顔にかかった鬢の髪を、そっと耳にかけてやる。ベッドでそうしてやるように……だから、こんなささいなしぐさが不思議にエロティックでドッキドキなんである。そしてしゃがみこんで、彼女を座った椅子ごとこちらに向き合わせる。目と目が見つめあう。彼女の手からリンゴはすでに転げ落ちている。あー、もう、早くキスでもなんでもしてくれい!とじりじりこっちが待っている、この間が残酷なぐらいだが、またこのじらしがイイわあとか思っていると、まるでお約束のようにジャマが入るのだ。
なんとまあ、インスの義父、つまり彼の妻の父親が訪ねてきたんである。
とっさに彼女をバスルームに隠す彼。でもこの訪ねてきた者の存在が、二人の関係があってはならないものだということを、痛烈に突きつける。一度義父を外に出してから、彼は急いで戻ってくる。バスルームに彼女は立ち尽くしたままである。「私は平気よ」そう気丈に言う彼女を彼はそっと抱きしめることしか出来ない……。

それでも、二人は逢瀬をやめられなかった。そしてついにこの時がやってくる。何もこんな時にと思うけれど、二人の逢瀬の最中に、ソヨンの夫が死んでしまったのだ。何もこんな時に!でも……逢うことをやめられなかった二人だから。
葬儀に、インスが弔問に訪れるシーンがまた胸をしめつける。真っ白な喪服のチョゴリに身を包んだソヨンは華奢な体が倒れそうな弱々しさ。インスは何も言えず、いや何も言わず、ただ深い気持ちをそのまなざしに託すのが精一杯で、彼女と目と目をかわす。お互いに軽くえしゃくをする。この場では、それしか出来ない。それがたまらない。
彼女は自分の夫をソウルの病院に移すかどうかの選択を迫られてて、それを、彼が彼の妻をどうするかで決めようとしていたフシもあり、そして夫は死んでしまった。この事実はかなり重い。

もっと以前に、僕たちが出会っていたら?そんなことを、愛し合ったベッドの上で語り合っていた。いや、でも二人が愛し合うようになったのは、おたがい同じ立場で、慈しみあったからだから、やはりこの形しかありえなかったのだ。慈しむという感情は愛するよりも美しいけれど、だからこそ慈しみが愛に変わるべきではないのかもしれない。そうなると、それは慰めになり、そこにはみじめな感情がつきまとってしまう。
二人が愛し合えば愛し合うほど、なぜ二人が出会ったのか、その事実から目をそむけることは出来なくなる。

目を覚ました奥さんに、インスは何も聞かない。
奥さんは彼に、「ありがとう」と言う。「何が?」と問い返す彼。「いろいろとよ」そう、いろいろと……。
そして当然、「聞かないの?」とも問う。「聞きたいと思ってたけど、今はもういい」そう彼は言う……。
自分が同じ立場になったからに他ならないんだけど、この時は、やっぱりこうなるしかないのかな、って思ったのだ。お互い同じ傷を持った者同士、奥さんはインスに感謝して、インスはソヨンと別れて、夫婦として頑張っていくのかな、って。
今までのホ・ジノのカラーなら、そういう切ないラストで決まりだったんだろうけれど、いやそうも思えるんだけど、このラストにはちょっと含みを感じるんだよね。
奥さんはインスから不倫相手の死を告げられ、号泣した。その彼女の病室から、一人にしておいてやろうという気持ちだろう、インスは静かに出ていった(ドアを静かに閉める悄然とした彼の背中が物語るよな……)。そこまでならいいんだけど、その後、ラストシーンがね……。

まあ、それはちょっとおいといて。ソヨンは看病のために訪れていたこの街を出て行く。
彼女はインスに会わずに行こうとする。でも出来なくて引き返し、いつも会っていた店でぽつねんと座っている。
約束をしていたわけではなかったんだろう。ただ、この席からは、彼の泊まっている部屋が見えるのだ。
一方のインスは、彼女が去ったことを、片付けられた彼女の部屋を見て悟る。部屋に戻り、泣き崩れる。彼は泣くシーンが結構あり、いやそれはホ・ジノ監督が男優にも臆せず泣きシーンを用意するってことだろうけれど。鼻水が落ちた直後に顔を伏せるのは、スター、ヨン様はやはりここらあたりが限界ということかな。ま、鼻水だけでもかなりイイ感じだが。

で、この感じでは、やはりこれは切ない別れのラストかな、と思ったし、それが完成形だとも思ったんだけど。
それぞれの生活に戻る二人。インスは職場に復帰し、野外ステージの照明の指示を出している。この野外ライブシーンはなかなか圧巻である。その前に、コンサートホールでのリハーサルシーンで披露されたヒップホップが妙に演歌調だったのにはアレッとか思ったけど、ここで登場してくる歌姫なんかはなかなかにパワフルで感動的である。
ステージが終わる。片付けがされている。真っ赤な花吹雪が風にあおられている。その時、降って来るのだ、「四月の雪」が。

何度目かの逢瀬の時、二人は互いに好きな季節を言い合った。ソヨンは春、インスは冬。ソヨンはでも雪は好きだと言った。なら、春に降る雪があればいいのに、そんなことを、睦み合った。
彼の好きな冬と、彼女の好きな春と、二人が好きな雪。
雪を見上げて笑顔を見せるインス、いやさこれは皆が見慣れたヨン様の姿だな、こればかりはファンサービスかしらん、とか思いながら、ここで終わるかと思いきや、あの、意味深なラストシーンなんである。
二人の姿は映らない。車で雪道を行く、そのフロントガラスから真っ白な雪景色がゆるゆると流れているだけ。そして二人の声が、「どこへ行くんですか?」「どこへ行く?」あの、繰り返しの、二人の道行きを決定づけた、あの会話。二人は、運命の相手、になってしまったのかなあ。四月の雪、がその奇跡を起こさせたんだろうか。

このタイトルはそれこそ冬ソナのヨン様って感じだけど、でもホ・ジノ監督自体、今までの作品タイトルを思えば、もともとこういう季節モノの、しかもポエティックなタイトルが好きなんだな。
それに、写真、音響、照明、と、思い出と同じように手には触れられないけれど、心の印象に残る職業を主人公に託すのも一貫しているし。

なんにせよ、「ヨン様」ではない役者、ペ・ヨンジュンが見られたのは収穫。なんてことない普通のあんちゃんであることの方が、彼には似合ってる気がする。★★★★☆


社長えんま帖
1969年 90分 日本 カラー
監督:松林宗恵 脚本:笠原良三
撮影:鈴木斌 音楽:神津善行
出演:森繁久彌 久慈あさみ 岡田可愛 小林桂樹 司葉子 内藤洋子 岡口俊成 英百合子 東野英治郎 加東大介 小沢昭一 関口宏 藤岡琢也 草笛光子 団令子 沢井桂子 浦山珠美

2005/2/7/月 劇場(浅草新劇場)
んもー、エッチな森繁久彌がステキ過ぎるッ!あー、私ってば、この人が活躍していた若い頃の、主演の作品を観るのってひょっとして初めてでは?あー、そうだよねー、これが有名な「社長シリーズ」なんだ。今更だよなー私ってば、まったく。でも若いって言ったってこの時点でもう、いわばエロじじいの社長役なんだからもういい年なんだけど。でもさー、不倫だの浮気だのっていうのでも、こういう風にまさしく軽妙洒脱にやられちゃっちゃ降参だわさ。うん、こういう風に現代の男性もやってほしいものです(ん?)。奥さんはこのエロ旦那さんが他の女に色目使ってることぐらい承知なんだけど、それなりにガミガミ言って尻に敷きつつも、仲良く散歩に行くぐらいの夫婦円満さ。冷めてないところがイイ。ま、そのあたりが女好きエロじじいの面目躍如。それに浮気相手だって愛人って程じゃない。京都の芸妓さんで、近々縁談が決まっているぐらいだからそこらへんはビジネスライクだし、いつもチューの手前で邪魔が入るお約束が好きさッ。あ、でも銀座のバーのマダムとは結構濃厚にチューしてたけど。うーん、このあたりの手練手管がドキドキするなあ。いやー、実際、こういうオジサンとはお付き合いしたいものだわ。なんたって社長だし(笑)。それなりに情を持って接しつつ、引きずらない。確かに日本は不倫文化があったのかも!?

化粧品会社の社長ってのが、また独特の色があっていい。社長室に出入りする役員たちは小林桂樹だ、小沢昭一だ、加東大介だと濃ゆーいメンメンばっかり。しかもこの社長をぜっんぜん立てずに、すねたり何だりするあたりが異常に可笑しい。そう、特にびん底眼鏡をかけて、社長の目くばせが全然通じず、とんちんかんな言動ばかりしてて、しまいには「社長と同衾ですね、えへへ」とばかりに同じベッドに潜り込む富田林役の小沢昭一が可笑しすぎるなー!らくだのシャツとももひきが似合いすぎるよ、もう。

タイトルであるえんま帖っていうのは、森繁久彌が演じる大高社長っつーのは先代から抜擢された生え抜きなんだけど、この親会社の社長である梅原が、各方面の社長のえんま帖をつけているというのを浮気相手の芸妓の香織から聞いて震え上がる、という設定。でもあんまりこの話は全編に効いているわけではないんだけど。それにしてもこの梅原大社長、東野英治郎だよー。この大社長に巨大なかぼちゃをお土産に持っていく大高社長がどーもよく判らんが、それを、「あっちの方にも効くのか、ん?」と、耳が遠くてもコイツもエロじじいなのがおっかしくて。だって、若い愛人、花丸を看護婦ということにしてそばに置いてるんだから、「老いてなお、お盛ん」なわけよ、このエロジジイ(笑)。ミニスカートの花丸ちゃんがヤバすぎるなあー。しっかし時代の流行なんだろうけど、ここに出てくる女の子たちのスカートの丈の短さは本気でヤバすぎるぞー。今よりずっとダイタンではないの。

社長秘書であり、若き情熱を持って仕事をする中沢に関口宏でわたしゃびっくり。ソックリだわと思ってたらほんとーに本人だった(そりゃそうだ)。いやだってさ、私、彼が役者やってるの、初めて観たわ。あ、いや、観てるんだろうけど(「刑事物語」とか)全然覚えないし、印象なかったから。私さー、この人の司会やってる時の、思わせぶりっつーか訳知り顔つーか、どーにもこーにも生理的にぞぞぞとくるものがあったんだけど、ここでの純情でサワヤカ青年っぷりが悔しいんだけど、感じイイんだよー。社長に自家用ジェット機購入を決断させ、自ら操縦桿を握る彼はバリバリ仕事をする熱血漢でありながら、一方で好きな女の子にはカタナシで、彼女がヤキモチやいてちょっとむくれただけで「もうだめだ、ダメダメだ」と落ち込みっぱなしというのがカワイイじゃないの。カワイイといえば、この彼女役である内藤洋子のカワイさときたら、ヤバい。ふえー、彼女、若い時、こおんなにカワイかったのお。

日米合弁の会社を作ろうと、大高が接触する日系三世のポール花岡っつーのが、また開放的なエロジジイで(笑)。まったく、エロジジイ満載だな、このエーガはッ。ポール花岡を演じるのはうわー、藤岡琢也だよー。それにしても彼、ちょっとワルノリしすぎだよ。そりゃ日系三世になんて到底見えないのはお約束だけど、怪しげなカタコトにしても程があるっつーの(苦笑)。しかもべっかべかの青いサテンスーツなんか着ちゃって。大高社長が愛人とこっそり逢瀬を楽しもうとした京都で、このポールを案内してきたドンカン社員の富田林ともども遭遇しちゃって、ポールはこの色っぺー看護婦さん(と、梅原社長にならってそうごまかしたわけね)に「オー、ヨロシクネ、ワタシ、アナタ、コノミネ」とせまりまくるんだからさー。ヤメロってば、もう。
それにしても、このポールとともになりゆきで九州に行くことになっちゃって、盛大なおくんち祭り見物なんかしちゃって、あれって、実際の、ホンモノのおくんちでしょー?地元の人も出演で、森繁久彌にこの祭りのことを聞かれるあれって多分、実際に当時の市長さんなんだよね?だってぎこちなさがリアルだもん(笑)。うーん、いきなりこのご当地ノリが好きだわ。しかもこのお祭り、スクリーンで観ると、すっごい大迫力で。

やあっぱり、森繁久彌っていう人は素晴らしいのね。適度にダンディで、しかし頼りなくて、イヤミがない程度にエッチで、調子が良くて。彼なら部下の進言を一蹴して、手遅れになってからまたやれっつっても、部下のネーミングアイディアを盗んでも、なぜか許せちゃうノリがある、っていうのは実際、反則だよなー。だって、本当にこんな社長なら、ヤだもん(笑)。でも男性としては、ダンナとしても浮気相手としても(!)最高でしょ。浮気をしない(と言う)ダンナより、こういう浮気の仕方のダンナの方が、いいかも?

ワンショットに濃ゆーい役者陣が絶妙な立ち位置でひしめいて、そこここで勝手にガヤガヤとわめきあい、社長の森繁久彌が「うるさいよ、君たち!」なーんていう場面とか、部下に慌てて耳打ちする社長を手前にピント合わせて、奥のピントをはずしたところでエロエロポール花岡が香織を口説いていたり、そんな遊び心満載かつ職人的なカメラワークがまた、ツボをつくんだよねー。そして自家用ジェットが上空を舞い、そこからはるか九州を展望するとかいう開放感あふれるショットあり、飽きさせない楽しさ。まさしくプログラム・ピクチュアの王道だなっ!★★★☆☆


Shall we Dance?SHALL WE DANCE
2004年 106分 アメリカ カラー
監督:ピーター・チェルソム 脚本:オードリー・ウェルズ
撮影:ジョン・デ・ボーマン 音楽:
出演:リチャード・ギア/ジェニファー・ロペス/スーザン・サランドン/スタンリー・トゥッチ/ボビー・カナヴェイル/リサ・アン・ウォルター/オマー・ミラー/アニタ・ジレット/リチャード・ジェンキンス

2005/5/24/火 劇場(有楽町日劇3)
周防監督がオリジナルを発表した時に、その数年前にヒットしたバズ・ラーマン監督の「ダンシング・ヒーロー」から着想を得た、と言っていて、「ダンシング・ヒーロー」の熱烈なファンだった私は、そのことをよーく覚えている。で、「ダンシング・ヒーロー」を観た時高校生だった私は旭川にいて、そこの劇場の支配人さんは後から思えばきっと熱心な映画ファンだったんだろうと思う、東京のミニシアターでかかるような作品を積極的に持ってきては、二本立てでバンバンかけてたのね。で、「ダンシング・ヒーロー」と同時上映だったのが、「ヒア・マイ・ソング」だったのだ。これもまた私はすんごーく大好きな映画。そして、そう、「ヒア・マイ・ソング」の監督は、このリメイク版のピーター・チェルソムであり、私の中だけで勝手に、うわー、つながった!と喜んでいたりして。

オリジナル版から実に10年近くたっているんである。昨今の、あっという間にリメイク版ができてしまう風潮を考えると、この長き道のりはなかなか感慨深いものがあるんである。それにしてもその間全く新作を撮ろうとしない周防監督、寡作にもホドがあると思うけどねえ……まあそれはおいといて。
そう、オリジナルが出来たあの当時と、今、日本の社交ダンスに対するイメージは180度と言っていいほど、変わった。あの頃は確かに、社交ダンスっていうのがエロオヤジの欲求の延長線上にあるみたいな、社交ダンスを習っているなんて、特にこういうオジサマの場合は絶対に人に知られたくない、オジサマじゃなくても、恥ずかしい、野暮ったい、そんなイメージが圧倒的にあった。今から思えば不思議なほどなんだけど、やっぱりさっそうと、カッコよく欧米人が踊るイメージがあるから、それを日本人、しかもくたびれた中年が踊った時のカッコ悪さが頭にあったんだろうと思う。だから周防監督がこの映画を撮った時も、「社交ダンスう?」と、もう自嘲的なコメディってことしか頭にのぼらなかった。そして確かに映画はそのイメージのところからスタートしており、だからこそ自嘲的ながらもそれを段々と克服していく姿に、ジーンとするものがあったんだよね。

で、時代は大きく様変わり。オリジナルの頃は、社交ダンスをネットで調べるなんてことも出来なかった。社交ダンスのイメージがこれほど変わったのは、間違いなく周防監督のオリジナル版のおかげである。今は社交ダンスがカッコ悪いなんて思わない。大学生の男の子が“競技ダンス”で女の子をくるくる回しているのなんて、メチャクチャカッコイイと思う。そんなイメージが確立した中、そもそもダンスがカッコ悪いなんていう文化は毛頭ない(という風に私たち日本人は思っている)アメリカでのリメイク版、というのは確かにスタートからして違うのは当然で。
でも、どうなんだろう?アメリカでもあの頃の日本ほどではないにしても、そんな風にカッコ悪いイメージ、あるんだろうか?でも見た限り、竹中直人に当たるリンクは別として、少なくとも主人公のジョンは、ダンスを習っていることを同僚にひた隠しにしている、という感じはない。まあ、オリジナルでもリメイクでもダンスを始めたきっかけは窓に見た美しいダンス教師なんだからそれはもともとないっちゃないんだけど、オリジナルではやっぱり、同僚に知られたくない、という感覚がすごく伝わっていた覚えがあるんだよね。本作では家族には内緒にしている、という程度の印象。

んでさ、困ったことに、リチャード・ギアは最初からカッコいいんだもん。ブザマさもそれなりには見せるけど、それはほんの一瞬で、なんか結構すぐ上手くなっちゃう。やっぱりこれは、台詞にもあったように「高校生のプロム以来」という、そんなの日本ではないもんなーという、ダンスを学生時代には当然やったことのある下地、がモノをいっているんだよね、やっぱり。
役所さんは確かにステキなんだけど、日本男性のテレや戸惑いがまずある人だから、この役にドンピシャだったのよね。そんで、段々本当にカッコよくなってくる。リチャード・ギアの場合、もう最初っからカッコイイんだもんね。それは私が彼のファンだからか?(うー、そういや昔はギア様などと言っていた覚えが(爆))お国柄だから変わってくる部分は確かにあるんだけど、このキャラの変化に関しては、やっぱり譲れないものがあったりして……。とか言いつつ、でも、うん、やっぱり役所さんの役が、リチャード・ギア、というのは当然の帰結だった気がするな。だって彼、すんごい親日家だし、やっぱりそこんところは大事だと思うもん。実際、リチャード・ギアがこの役をやってくれると知った時には、嬉しかった。そういや、やはり踊りに踊る「シカゴ」のギア様は最高に良かったもんなー。あれで賞とってほしかったぐらいだった。

そんでヒロインのダンス教師、オリジナルでは草刈民代が演じた役をジェニファー・ロペスというのも粋なキャスティングである。アメリカ版の違いがここんところに最も出ている。確かに、日本的清楚な草刈さんをアメリカ版にそのまま持っていくのは少々違和感があり、かといって私が予想していたほどセクシー露出全開ではなくて品良くセクシーなジェニファー・ロペス、だったので、そこんところも、うん、良かったなあ。徹頭徹尾、オリジナルを壊さないよう、という配慮が、なんか気を使いすぎじゃないかってぐらい、感じるのね。

ただ問題は……ワキ役陣、なんである。やっぱりさあ、ハリウッド映画って、基本的にキャストにお金をかけられるのは主役と準主役までぐらいじゃない。スター総出演映画は、もうそれだけでカネを回収することを考えてめまいがしてくるようなお国柄だからさ。まさしくここではリチャード・ギアとジェニファー・ロペスであり、オマケに妻役のスーザン・サランドンぐらいという感じ。でも日本版オリジナルでは、そう、もうスター、ベテラン、個性派役者総出演だったんだよね。そりゃあここでの脇役さんたちだって、様々な作品でキャリアをつんでいるお方たちなんだけど、正直、インパクトがない……というか、これだけオリジナルに細かいところまで踏襲していながら、メインの二人への力の比重が確実に大きいことを感じさせ……オリジナルはこれが意外に、ワキへの愛情にあふれていたんだよな。
今にして思えば、竹中直人がいかにスゴかったか判る。かつら姿の彼、ほっんとうに、キモチワルかったもん(笑)。そのカツラが最初にとれちゃうとこ、もうそれだけで大爆笑だった。でもリメイク版での同じシーンは、なんかさらっと流されちゃって、あれ?ここ笑いどころだったのに……と戸惑う。それは演出のリズムのせいもあるんだろうけど、やっぱり竹中さん役に相当するリンクが、竹中さんのインパクトには到底届いていないのがありあり。だってさあ……この人、まずハゲ頭姿でふつーにカッコイイんだもん。竹中さんみたいにキモチワルくないんだもん(ごめん!)。竹中さん、オリジナルで女の子に、ストレートに「気持ち悪いんです」って言われるシーンがあるじゃない。でもリンクはそこまでストレートには言われない。せいぜい、手のクリームがヤだって言われるぐらい。あの、「気持ち悪いんです」と言われた時の竹中さんの表情ときたら、もうたまんないものがあって、今思い出しても吹き出しちゃうぐらいで、……やっぱり竹中さんは(ま、ヤリすぎって感じもしたけど(笑))スゴかったんだなあ。

で、ダンス教室の実質的な指導者であるたま子先生、オリジナルで草村礼子が演じていたあの役ね、草村さんはすっごく感じがよかったんだよね。それは、傷心のヒロインをここで癒してあげているっていうのがにじみ出てたの。たま子先生のこの柔らかな癒し系の存在感というのはオリジナルでまさしく輝いてて……でもリメイク版ではとりあえずキャラとして登場させてるだけって印象だったのも……ちょっと残念だったなあ。

渡辺えり子役の人も、今ひとつインパクトがないのよね。えり子さんはやっぱりさ、ゴーカイでも最初から愛すべきオバサンって感じだったからさ。リメイク版でのボビーはカン違いのセクシービームに周りが引いているっていうのが、結構シャレにならなかったりして。オリジナル版と同じように、彼女が倒れた時に娘さんが出てきて母親を心配して、皆にこれこれこういう理由なのヨと言うんだけど、これがなぜか……オリジナル版の母娘みたいに、じーんとしないのはなぜなんだろ。
やっぱり、同じ日本人に対する視線で、共感している部分があったんだろうか……いやでも、“オリジナル版”を踏襲しているからこそ、流れをなぞっているだけの部分と、力を入れている部分、というのが感じられてしまうような気がする、のね。
そういやあ、トイレで「姿勢、いいですよ」とダンスやってるのがバレバレ、っていうシーンがあったでしょ。オリジナルではほんっとにぴーんと張っちゃって、そのカットが映ったとたん、爆笑してしまったのを覚えてるんだけど、リメイク版では、言われれば、あ、そうかな、ってぐらいで、そんな“姿勢のよさの可笑しさ”がないんだよね……ここは大事な名シーンなのにい。あ、でもあの姿勢矯正器、出てこないもんね。長い棒でやる程度で。あれが面白かったのになー。あの矯正器をはめて一人原っぱで練習するあのバカバカしいシーンこそ、リメイク版で再現してほしかった。ここまで細かい部分まで踏襲しといてからに……。

あと、探偵役、はオリジナル版では柄本明。これはね、なんつっても感化されちゃった彼がラストにダンス教室の扉を叩く、柄本明が!っていう可笑しさが大前提だからさ、本作のリチャード・ジェンキンスがそれをどこまで実現しているのかは、本国では可笑しく感じるのかもしれないけど、うーん、判んない。

ジョンとボビーに指導するポリーナ(ジェニファー・ロペスね)っていうのは、オリジナルのそれが、こういう作戦で審査員の目を引き付けるのよ!とかなりアツくやっていたのに比して、あら?ッて感じでサラリである。本番でのダンスの方をふんだんに見せている感じで、このあたりも、練習や作戦大好き日本人と、本番至上主義のアメリカ、というお国柄の違いが見えてる気がする。それより、競技会の前日、ジョンにポリーナが特訓する、たとえようもないセクシーなダンスシーンにこそ重きがおかれてる。先生と生徒の垣根を、ひょっとしたら越えちゃいそうな、あのせめぎあいが、リチャード・ギアとジェニファー・ロペスの真骨頂でドキドキさせる。いやー、こういうところはさすがにハリウッド映画の華である。
競技会の演出は、さすがエンタメの国、アメリカって感じでさすがであり、なるほどこれをふんだんに見せるんだよな、というのは判るのよね。
でも、ジョンがボビーの衣装をびりっと落としちゃうシーンは、やはりえり子さんのそのシーンの衝撃(笑撃?)には勝てないモノがあるけどねッ。

新聞とかでも言われてたけど、オリジナルとリメイク版の一番の違いは、夫が妻の職場にタキシード姿でバラ一輪持って行くクライマックスシーンである。
ま、妻が専業主婦だったオリジナルともそのあたりは違うけど、日本じゃさすがにありえないよね。
日本版では、夫婦は完全に倦怠期なんだもん。そうそう、日本の夫婦ってこんな風になっちゃうよね、っていうような。スキンシップを取らないお国柄だからさ、アメリカみたいに、行ってきますってだけでほっぺたくっつけたりしないから、距離が離れるのが早いわけ。で、その倦怠期を打破するのが、オリジナル版のひとつのテーマでもあった。
でもリメイク版では、夫婦仲は決して悪くない。だからこそ奥さんは嫉妬に近い感情で探偵を雇う。同じ行動でも、オリジナル版での日本の奥さんは、浮気されたらこの生活が壊れてしまう……みたいな危機感の方が強かったように思う。だから事実を知った時、自分の知らないことを考えて、行動している夫に衝撃にも近い驚き方をするのは、……まあ言い方悪いけど、せいぜい夫が家に金を入れてくれる存在ぐらいにしか思ってなかったからって部分はあったと思うんだ。
そういう点では、リメイク版のこの夫婦関係というのはなかなかうらやましく感じたりもする。
オリジナル版では、夜風に吹かれながら、静かに夫婦二人だけでステップを踏む。これから、ゆっくりと、夫婦としての、そして家族としての時間を取り戻していこう、そんな趣。そんな姿を娘が嬉しそうにそっと見守っている。
リメイク版では、衆人の目に夫婦のラブラブっぷりを見せつける。ここでは娘の存在がほぼ、関係ないものになってる。夫婦の関係があの頃の恋人の気持ちを取り戻した、そんな趣。
やっぱり、違うんだなー、お国柄って。

あの、オリジナルの「Shall We ダンス?」から始まったと言ってもいい役所さんの今の地位。あの年はホント凄かったよね。「KAMIKAZE TAXI」といい。そしてそれがハリウッドでリメイクされ、リチャード・ギアが演じちゃってるんだもん!すごいよなー。★★★☆☆


17歳の風景 少年は何を見たのか
2005年 90分 日本 カラー
監督:若松孝二 脚本:山田孝之 出口出 志摩敏樹
撮影:辻智彦 音楽:友川カズキ
出演:柄本佑 針生一郎 関えつ子 小林かおり 井端珠里 不破万作 田中要次 鳥山昌克 丸山厚人

2005/8/8/月 劇場(ポレポレ東中野)
17歳、を描く映画で、最も最右翼かもしれない。正直アウトローの若松監督が17歳映画を撮るなんて意外だったけど、若松監督が自ら想起した17歳映画であり、他の何ものとも違う。
監督は、岡山で起きた、17歳の少年が母親をバットで殴り殺した後、自転車で北へ北へと逃走した事件からこの作品を着想したのだという。だからといってその少年の足取りを克明に追うとか、実際に取材してその心の中を探るとか、家庭環境を探るとか、ということはしていない。
だからこの少年が、その岡山の事件の少年をモデルにしているということさえ、予備知識がなければ判らないし、実際着想を得ただけで、彼を題材にしているというわけではないのかもしれないとも思う。

劇中で、ここ数年起こっている17歳前後の少年による殺人事件の新聞記事が次々とさしはさまれ、それに関してラーメン屋でラーメンをすすっている少年たちが話をしている。どうやら今逃走中の少年と同級生らしく、何かもっともらしく彼が学校からも家庭からも追いつめられていたことや、彼女にもめぐまれてなかったことや、自分でもきっかけがあればキレるかもしれないとかなんとか、そんなことをひどく説明的に話している。
私、このシーンで、あれ、なんか随分とワザとらしいことやるんだなあ……と思ったのだ。彼らの言葉がナマで響いてこなかった。何か、借りてきた言葉のように思えたのだ。それこそ、新聞や雑誌でもっともらしく言っているような台詞を、彼らが話しているのがどうにも解せなくて、ちょっと失望したりしたのだった。
でもその後の展開で、あのシーンはやはり、確信犯的にワザとらしかったんじゃないかと、思うのだ。だって当の少年は何一つ喋らないのだもの。弁解も、事情説明も、今の気持ちも、何も喋らずに、まるで憑かれた様に自転車で北へ、北へと走ってゆく。
少年が何も喋らないから必要なのかなとも思ったけどそうじゃなくて、それは白々しい対比でしかないんだ。だって、言葉なんて、ウソだから。

まるで言葉を発しない少年を助けるように、彼の心の中の叫びなのか、いくつか風景に言葉がクレジットされる。富士山に、いつもただ見ているだけだ、と言ってみたり、渋谷の雑踏や海の鳥たちに、なぜ群れているのか、と言ってみたり……いや、言ってみたり、じゃないや、本当に、活字の点景。ひどく詩的にちりばめられる。
でもそれもなんだか、やけにとってつけたように感じた。朝の通勤ラッシュの人の群れに逆らうように独り歩くシーンなんて、いかにもそんな群れに迎合しない反発心を感じたけれど、でもだからって何の意味があるんだってことなんだ。要は自分の気持ちこそが大事なのに。行動じゃなくて、何を思っているかが大事なのに。
そんなこっちの気持ちを見透かすように、それもまた前半部分に固まっていて、後半は本当にひたすらひたすら、自転車を走らせるだけなんである。本当に、追い立てられるように、ただただ自転車を走らせるだけ。しかも途中で自転車は壊れてしまって、彼は修理屋に持っていくなんてことも考えつかないのか、壊れた自転車をかついで、あてどなく、歩いていくだけなんである。

彼はどこまでも行けるような気がしていたのかもしれない。実際、確かにどこまでだって行けるに違いない。でも彼は立ちはだかる山肌や、雪に埋もれた行き止まりに躊躇して引き返す。言ってみれば、ただそんなことで先に行けなくなるんである。人間なんて、無限のように見えて、ひどく無力なのだ。
彼が、壊れた自転車を崖から投げ捨ててしまった後、どうなったのか、判らない。
人間が無力だと気づいた時から、人間に力が備わるのだとしたら、彼にはこれからの力が与えられたのかもしれない。

彼がまるで喋らないから、この映画は観る人によって千差万別に、感慨が違うんだろうと思う。
この映画を試写で観た10代の子がこう言ったんだという。「大人はなぜ、10代にこだわるのか」と。
ちょっと、ドキリとしたりして……確かにそうだ。人間80歳まで生きる時代に、ほんのわずかな数年間の、ティーンエイジャーの時代になぜ私たちはこだわるんだろう。
それは多分……大人になってからの、20代も30代も40代も……すべての大人が、共通して振り返ることが出来る年代だからなのかもしれないと思う。やっと自我が芽生えた最初の時代として。
それにやっぱり、10代は特別なのだ。なぜあんなにも感受性が豊かでアンテナがびんびんと張っていた時代があったんだろうと思う。すべてのことに出会える時代が。でもまだ未熟だから、それを言葉にするすべもなく、なにか息詰まって、思い詰まって、もやもやとしていた。

大人になって、それにこだわる、それを語ることが出来るのは、老成した私たちが、語る言葉を身につけたからなのだ。10代の頃には、そんなボキャブラリーなんて、なかった。
でも、だからこそ、言葉にさえ出来ない思いを抱えていた10代が、やっぱりまぶしく思える。言葉は所詮言葉で、あの頃の思いを直訳できるものではない。言葉を駆使できるようになるほどに、あの頃の深い思いが失われてゆく。
だから、少年が何ひとつ喋らないのが、心に染みるのだ。ラーメン屋の少年たちの饒舌がうそ臭く思えるのは、私たち大人を早々にマネしているからなのだ。
だって、言葉ってウソなんだもの。思いを示せる言葉が見つからないことにもどかしく思うことはあるけれど、でもそのことに時々ホッとする。まだ自分は正直な部分が残されているんじゃないかって。

でも、やはり言葉には力があるのだ。……言葉を持たないまま旅をする彼の前に、ひどく力強い言葉を発する老人が現われる。男と女一人ずつ。その二人とも戦争を語るんだけど、ことに前半の、おじいちゃんの方が、言葉の力を思い知らされるのだ。
すんごい、聞き入っちゃうんだもの。
こういう話は、新聞や、雑誌や、本やらで、よく聞いていたものではある。あの頃の17歳は、お国のために死ぬことしか考えてなかった、っていうの。でも、聞いちゃうんだ、聞き入っちゃうんだ。この力はなんなんだろう……同じ映像でも、テレビでもこんなには聞き入らない。語る老人のとつとつとした語り口調のせいだろうか。
少年はただ黙って聞いている。おじいちゃんの顔を見つめながら。おじいちゃんも、別に彼に語って聞かせるって感じじゃなくて、思い出すまま、思いつくまま、という感じである。
あの頃の青春と、今の青春は、明らかに、違うのだと。

このおじいちゃんの息子は、親の時代をうらやましがるんだという。自分たちは、決まったレールの上をいく人生しか出来ない。でも親たちの時代は、時代が大きく変わる時だったと。そしておじいちゃんは、それもまた一理ある、と言うのだ。
このおじいちゃんの息子世代というのは、この少年の親世代じゃないかなと思う。
決まったレールの上を走る人生を送った親たちから産み落とされた子供たちは、一体何を夢見ればいいのか。
死ぬことも、生きることも、そこに目的も意味も見いだせない。お国のために死ぬなんて確かにナンセンスだけど、何かのために生きたり死んだりすることが出来ないから……やっぱり人の生命は軽くなっているような気がしてならないのだ。
ああ、でも違う……そんなこと言ったら、本当にただ道徳的なだけだ。人は何かのために生きるんじゃなくて、ただ自分のために生きるんだもの。その自分が上手くつかまえられないからなのかなあ。でも実際、10代の時なんて、まだまだ、本当にまだまだ、自分なんてさっぱりつかまえられなかった。半熟玉子みたいに柔らかくって安定していなかった。でもその時期に、すべてを決めろと言ってくるのが社会。もう大人なんだからと、まだ子供の彼らに言う。
もういいかげん、本当に大人になってからあの頃を思い出すと、見えてくるものがいっぱいある。何より言えるのは、あの頃はまだまだ全然定まっていない、迷ってばかりの、迷うことさえよく判っていないぐらいにもやもやと未成熟な、子供だったということ。

少年が北へ北へと自転車を走らせる。季節は冬で、寒風吹きすさぶ中、周りはどんどん雪にうもれてゆく。やっぱり逃げるのは北なんだなと思う。南は、楽天的すぎる。生命の匂いがしすぎる。……ということは、やはり少年は死を無意識に求めて北へ向かったんだろうか。
確かに、北には死の匂いがする。でも逆に、だからこそそこに生きる人間には生への執念も強いのだ。
彼も段々とそれに気づいていくような気がしてる。寒風や、雪や……それまで都会にいた少年の周りにはなかったもの。都会にあるものは何もないけれども、都会にないものはどっさりある。最初のうちは、暇つぶしになのか、夜を過ごす雪の中で、携帯のゲームなぞしていた。でも次第にそんな余裕もなくなる。この冬の厳しさの中で、ただただ進むだけで精一杯になるから。それに、彼はずっと考えていたのかもしれない。言葉にもならないことを。必死に自転車をこぐ彼の顔に、最初の倦怠感のような影から、生への希求が見えるような気がしたのは……うがちすぎだろうか。

少年がなぜ母親を殺してしまったのか、その理由なんて判らない。判りっこない。もしかしたら、少年自身にさえ判らないんじゃないかとさえ思う……理由はいつだってやっぱり、後付けの、大人の、言葉のウソなんだもの。
そこにこそもっともらしい理由をつけないことに、ああやっぱり若松監督はヤボなことなどしない、と思う。それに、若松監督の視線は優しい。少年が、苦しんでいるから。
少年は、北へ北へと逃げている。自分が犯した罪の場所から遠く離れて、苦しみから逃れようとしている。どこかに行きたいのではなく、ただその場所から離れたい。でも彼は予測してなかった。場所からはいくらでも離れられるけれど、記憶はどこまでも追いかけてくることを。どんなにその場所から離れても、記憶はどこまでも少年を追ってくるのだ。むしろその場所から離れれば離れるほど、彼の脳裏に、母親の顔と、自分が振り下ろしたバットが鮮明に姿を表わす。
母親の顔はいつも穏やかに笑っていて、少年の勉強部屋に静かに佇んでいたりして、決して少年を叱責したりなんだり、しているわけではない。そりゃ、この殺人事件の原因を、親の締めつけだと断じるのは簡単だけれど、何も知らない部外者の私たちに、彼に何があったかなんて、語る資格は確かにないのだ。
ただ、私たち、年だけは相応にとってしまった大人たちには、確かに判ることはある。10代は確かに特別だったってことが。
言葉にならない思いを、大事にしてほしいと思う。ムリヤリ言葉にする必要なんてないから。それは大人になっていくらだって出来るから。

まるで喋らない少年が、たった一場面、明確に喋るシーンがある。雪の中で足をくじいて倒れていたおばあちゃんを助けた場面である。助けを求めるおばあちゃんに一度は通り過ぎた彼、立ち止まって、引き返してきて、声をかける。「どうしたの、おばあちゃん、大丈夫?」その優しい響きにドキッとする。初めて聞く彼の言葉。それがこんなに優しい響きをしているなんて……親を殺した少年の声がこんなにも優しいなんて。ううん、きっと優しい子なのだ。おばあちゃんに声をかけるとき優しい気持ちになれるぐらいに、普通の子なのだ。
救われる、思いがするのは、単純すぎるんだろうか。でも、人間はそんな風に救いがあると、信じたいのだ。
雪に埋もれた自宅までおぶっていってくれた少年に、おばあちゃんは粗末ながらもあたたかい粥をごちそうしてやる。一心にすする少年に、彼女は身の上話をする……韓国から渡って、あの言い回しは慰安婦だったんだろう、っていう過去を。そして朗々と歌い上げる祖国の歌。

若松監督が、ここで戦争を語るのがこの年で映画を撮る監督としての責任なんだと、思っているのが痛切に感じられる。他の人がやれば陳腐に聞こえそうなもんだけれど、あの頃、同じ17歳として過ごした対比を、ストレートにぶつけてくる若松監督の思いに共感せずにはいられない。
私たちは、そう、ウン年前17歳だった私たちの世代から、どこか、戦争の時代に青春を迎えていた彼らに、嫉妬していたのかもしれない。
10代はかけがえのない時間だ。本当に特別な時間。こんなこといったら、戦争賛美にとられかねないけど……特別な時間だけど、自分のコントロールがきかない時間だから、そんな年の時を、ドラマチックなうねりに身を投じられた世代にちょっとだけ、本当にちょっとだけ、いいなあと思ってしまうのだ。あの、戦争を語ったおじいちゃんの息子さんみたいに。

少年の旅の終わり。叫ぶ、しかない。自転車は壊れてしまう。自分をどこまでも連れて行ってくれるものがなくなる。自分の足には限界がある。
どこまでも、行けると思ったのに。
人間の可能性って、意外にないものなのだ。それを知っていくことが、人生、なのかもしれない。

「IZO」で打ちのめされた友川かずき(クレジットではカズキになってるけど、どっちがホントなの?)の歌声、「IZO」以上にストレートに作品世界にリンクしてくる歌声に、完全にヤラれた。北国だ、テラヤマだ、死の観念だ……なんて考えて……。北国、東北をひたすら疾走する少年の姿に、友川かずきの強烈な秋田訛りの魂の叫びは、心臓直撃で命にかかわる!この年になって……命の意味と、どんな年齢でも必死に生きるんだってことを、少ない可能性を最大限に生かせるように、生きるんだってことを、やけに何度も、何度も何度も、考えた。★★★☆☆


女醫絹代先生
1937年 91分 日本 モノクロ
監督:野村浩将 脚本:池田忠雄
撮影:高橋通夫 音楽:万城目正
出演: 田中絹代 佐分利信 坂本武 東山光子 吉川満子 島田富美子 水島亮太郎 谷麗光 大山健二 磯野秋雄 小林十九二 山田長生 縣秀介

2005/11/16/水 東京国立近代美術館フィルムセンター(野村浩将監督特集)
こんな若い田中絹代は初めて見る!それだけですんごい得した気分。だって、若さゆえのほっぺぱんぱんで、あやうく二重アゴになりかけるぐらいのふっくら加減なんだもん。いや、でもスラリと映画女優体形ではあるのよ。ロングスカートがすっきりと足の長さを演出して、その足首の細さったら、そりゃもう、ルール違反でしょ!ってなもんなんだから。しかし可愛いんだなあ。女学生みたい。いや実際劇中でも前半ちょこっとは女学生なんだから。あ、いや女学生というのはアレか。医者の学校なんだから、大学生か。女医となってからはその美人っぷりで街中の男をとりこにして、全然元気な男性患者ばかりつめかける始末なんだけど、でもやっぱり美人っていうよりカワイイっていう雰囲気だと思うんだけどなあ。

その相手役となるのが佐分利信。私彼を見るのは初めて……かもしれない。あるいはちゃんと認識して見るのは初めて。可愛らしい田中絹代と、がっしり無骨だけど青年らしいお顔の彼は本当にお似合い。ところで、二人は敵同士なんである。敵同士……いや、親、というか、両家が代々犬猿の仲なんである。それというのも、山岡家(田中絹代の方)の漢方医をしている父親と、浅野家(佐分利信側)の父親が、共に患者を取り合った医者同士で。もともと開業していて患者を取っていたのは山岡家の、絹代の父の漢方医だったんだけど、後から開業した浅野家の安夫の父がその患者たちを、まあ努力によりぶんどっちゃったわけで、だったら浅野側が山岡を嫌うのもおかしいんだけど、その頑張りが過ぎて早死にしちゃったから、と。うーん、なんかムリヤリな設定のような。ま、そんなわけで、山岡の父と浅野の未亡人は犬猿の仲、それを子供たちにも教え込み、共に医者を目指している二人は、相手より絶対偉くなってやろうと競い合っているのだ。

でも、その競い合っているっていうのもやけにカワイイんだけど。だって冒頭、学生同士の二人は往来で顔を合わせると、絹代の方は思わずニッコリと会釈するの。でも安夫は仏頂面で知らん顔。それを安夫の連れの友達が、まあはっきりいってブサイクな男友達がいぶかしげにこっち見たりあっち見たりするのがやけに可笑しい。無視された絹代、ブンむくれて彼を追い越す。彼も意地になって追い返す。それを繰り返しているうちに、ほとんど徒競争みたいになっちゃう。絹代がけつまづく。思わず彼が抱きとめて……目を合わせて一瞬気まずげになる。彼女の靴のかかと、折れちゃって、さっと離れて彼女はかたん、かたん、と歩いていくんだけど、前方から足の悪い御仁が同じように足を引きずって歩いてくるのがまた可笑しくてね!さらに気まずくなった彼女、妙に胸をそらして歩いていくのが。そんでね、安夫の靴もこのおっかけっこで靴底がはがれちゃうの。
双方共に家に帰ると、親たちに同じように、このおっかけっこで負けじと追い越してやった話にホメられるのが、くっだらなくておっかしいんだよなあ。

そして1年後。絹代の方はもう開業している。彼女目当ての男性患者で毎日大盛況。でも男性患者たちは診察後も服をなかなか着ないで彼女に色目ばかり送ったり、「あなたに触ってもらえるだけで、僕は元気になるんですよ」なんて、思いっきりセクハラだろー!てなエロ発言する男もいるし、赤ん坊を抱いてきたからその子の診察かと思いきや、「心臓が痛いんです。妻に逃げられて、その後あなたを街で見かけるたびに」オイオイオイ!何口説いてんだよ!可笑しいのはしつこく迫るそのふとっちょ男を「草津の湯でも治らん病気か?」と言ってお父ちゃんがズルズル奥に連れていってにがーい漢方薬をムリヤリ飲ませるところである。なんたってこのお父ちゃんはベテランのはずなのに、患者の診立てがもうボケちゃって、娘にお伺いをたてる始末なんだから。しかも今は彼女からお小遣いもらってるしさ。でもそれも悪びれないのがいいんだよなあ。立派になった娘を自慢することが何より嬉しいって感じが。

一方の安夫の方は医大病院に勤務している。ゆくゆくは開業するつもりなんだろうけれど、今はまだ小さな妹もいることで余裕がないんである。毎日毎日小さなケガの治療ばかりやらせられてかなりストレスがたまっている。しかもライバルの絹代の病院は盛況で、そのことでおふくろさんはカリカリしているし。

それにしても面白いのが、絹代の病院で副院長として勤務している、カズちゃんと呼ばれる女の子で、メガネッ子の彼女が実に素晴らしいコメディエンヌっぷりなのだ。みんな絹代目当てで彼女に目もくれないんだけど、そんな群がるハエみたいな男たちをピシャッとはねつけるのが実に痛快。あのエロ発言をするお坊ちゃまを彼女は好きなんだけど、彼が未練たらしく受けつけ窓から顔をのぞかせるのを、「あなたには風邪のお薬です」なんつってピシャッと窓を閉めてしまう。うーん、言葉で説明してもこの可笑しさは伝わらんなあ。とにかく可笑しいのよ!健康な患者しか来ないことに頭をかかえる絹代に、「そりゃそうよ。あんた、イイ女よ」とサラッと言ったり、診療前の時間、絹代の膝にしなだれかかった彼女の髪を絹代がいじくったりするところなんて、なんかこの二人、ちょっとアヤしい!?学生時代から仲が良かった二人で、休日も絹代の運転するダットサンで出かけたり、実に仲が良く、その良さは本当にそんなちょいレズを感じさせる部分があってねー。だって絹代が安夫に対する恋心でふさぎ込んだ時、お父ちゃんを説き伏せるのがこのカズちゃんなんだけど、「このままだと絹代は死ぬわよ。それなら私が絹代と同性心中しちゃうから」ど、同性心中って、ナンだよー!!!

そうなの。絹代は屋根のあいた、あれがダットサンなんでしょ?を運転する実にカッコイイキャリアウーマンなんである。あれはカッコイイ。小さな小回りがきく車だけど、結構男っぽさがあるし。休日、このカズちゃんとこの車で遊びに出かけようとしたら、パンクしちゃって、それを助けてくれたのが安夫だった。一年前に開業してからこっち、顔を合わせる機会もなかなかなかった彼に助けられて、彼女はちょっとときめく。のを、やっぱりカズちゃんが二人の様子を見て察知しているのがいいのよねー。あ、でもそれは安夫側の、あのイカさない友達もそうなんだけど。彼もかなりのコメディリリーフだからなあ。
非力な女の子二人して、えっこらえっこらタイヤのボルトを回そうと、絹代の腰をひっぱって二人して尻餅ついたりするのが、これまたちょいレズっぽくて萌え萌えなんである。あ、じゃなくて、ここは安夫の話だった。まあそんなわけで二人は顔を合わせて……で、カズちゃんは絹代の気持ちに本人よりも気づいちゃって。「それにしてもイイ男だったな」「もうその話はヤメてよ。あんな人大嫌い」「イイ顔よね」「もう!やめてったら!」「あんたのことよ。イイ女」いやー、やっぱりカズちゃん、面白いわ。しかもやっぱりちょいレズな雰囲気はあるよねー。その女の子っぽい仲の良さが、非常にツボ。それに絹代もカズちゃんの恋路を応援しようとするし……。あのエロ発言のお坊ちゃまね。

安夫の気持ちにもあのイカさない友達が気づいていて、安夫が「僕は彼女に軽蔑されてるから」というと、「あんな美人に軽蔑されるならいいじゃないか。軽蔑されがいがあるってもんだ」と励ますっつーか、この発言自体かなりスバラシイんですけど。そういやあ、彼にだけは幸せがやってこないのがなんかカワイソーなのよね。カズちゃんは最終的にあのお坊ちゃまと上手くいく……てえのもこのお坊ちゃまもやけに変わり身が早いけどさ。で、一緒に苦楽を共にした安夫は最後、絹代と一緒に病院やるわけでしょー?彼だけはいまだに医大の実験用の動物の係のまんまなのかしらん。安夫が雇ってあげればいいのになあ。
あっと、思いっきり話が最後まで飛んでしまった。失敬。あ、そうそう、この動物係ってのがね、また彼らしくてさ。逃げたウサギを追いかけて、向こう側で同僚がつかまえてくれる。そのウサギを耳を持って受け取る彼。そこに安夫を訪ねて使いがやってくる。お坊ちゃまの使い。この時点でお坊ちゃまはよもや安夫が恋敵だとは知らないんだけど、彼の父親の主治医を探していて、というのもこのお坊ちゃまの父親もエロジジイで絹代に色目を使うもんだから、他の主治医を探していた時に、安夫に白羽の矢がたったのだ。でね、この話を立ち話でしている時に、ウサギを受け取ったままのこの友達が、ずーっと耳をもったままウサギをブラさげているのが、妙に笑えるのよ。ウサギがもうされるがままで足をダラーンとさせちゃって、それを友達が手持ち無沙汰にその足を持ち上げたりなんだりするその微妙さ加減が、ああ、これは意図的かどうかさえ判んないんだけど、でもこのコメディリリーフの彼だから、きっと意図的なんだろうと思うの。もうそのウサギばかりに釘づけになっちゃうんだもん!

で、これはこの実のない状態から抜け出すチャンスかもしれない、と安夫はそのお屋敷に赴く、と、絹代がいるわけ。で、彼女の前で安夫は彼女が見抜けなかったこのおやじさんのリューマチを見つけてしまう。ま、ムリないのよ。だってこのジジイが彼女をとかくお気に入りで、聴診器を当てる彼女の手を上からつかんで、「あなたにこうして診てもらえると、元気になる。相変わらずお美しい顔だ」とかなんとか、もうエロジジイ全開なんだもん。つまり、そういう目的でだけ彼女を呼んでいるようなフシがあって、それは外来にくる患者たちと変わらない、と彼女も思っていたところがあるから……だって緊急で呼ばれても、いつも異常がないんだもん。でも安夫に指摘されて、彼女は深く落ち込んじゃって、診療さえ出来なくなって、病院はずっと休診状態になってしまう。彼女がこんなに落ち込むのは、相手が安夫だからだ。そのことをカズちゃんは見抜いてお父ちゃんに、二人を何とか一緒にさせてやろう、と持ちかけ、あの犬猿の仲の浅野家に放り込むのね。この時、玄関までついていったカズちゃんが、しっかり!とお父ちゃんを送り出し、お父ちゃんは彼女の前では威勢良く「ごめん!」と玄関奥に声をかけるのに、カズちゃんがいなくなった途端、「ごめんくださーい」と弱気に言うのが可笑しい!

で、その犬猿の仲の奥さんが出てくる。中になんか入れないぞ、てな雰囲気なんだけど、「ま、ま、こんなところじゃなんだから、中に入りましょう」って彼女を押しのけてずんずん入っていっちゃうお父ちゃん、オイオイ!そして膝を詰めて話し合うも……お父ちゃん、エラいのよ。今まではさんざんこの奥さんとケンカしてたのに、まな娘のためなら、ととにかくにこやかに、話を進めようと努力するんだもん。奥さんの方は当然けんもほろろなんだけどね……。お父ちゃんがくりかえし「これはおしるしに」と差し出す果物の盛り合わせを、何度も突き返して、それでもめげずにお父ちゃんが何度も何度も果物をずずい、と差し出すお約束のギャグが笑えるんだよなあ。

山岡のお父ちゃんが訪ねてきて、娘が安夫に恋しているから一緒にさせたいと言ってきた、と聞かされた母親から安夫は、それまでの強硬な態度が一瞬にして崩れ、手に持っていたものをごとりと取り落とし、顔が一気に緩み、「本当ですか?」と母親に顔を向けるのには、虚を突かれて吹き出しちゃった!だって彼の気持ちは推測は出来たけど、まさかそんな反応をするとは思ってなかったんだもん!でも母親が追い返したと知って、「そりゃそうですよね……」と意気消沈。母親にはまだ虚勢を張って、あんな女と間違いなんか犯すはずはない。もしそうなったら僕はボウズになる、とまで言う彼。

その頃、元気の出ない絹代をカズちゃんがほんの思いつきでスキーに誘う。あのお坊ちゃまも一緒である。雪深い山奥に馬に引かれていくのなんか、えー、こういう風に行ってたの、となかなか興味深い。スキー場、ゲレンデ、といっても、今みたいにキレイに整備されてなくて、まんま山ン中を分け入って、新雪を踏み散らしながら滑る、といった趣であり、とても初心者じゃムリそうな感じ。
くしくもその時、医大のスキー部合宿が行なわれており、安夫とあのイカさない友達がOBとして出席していた。絹代と結ばれることはムリだ、と意気消沈した安夫を、友達が連れ出したのだ。そして絹代たちと会ってしまう。それも転んだ友達に絹代が突っ込んでくる形で(笑)。いかにもだなー、このイカさない友達!それにしても絹代はカワイイ。ニットの帽子をあみだにかぶり、細めのサングラスにぼてぼての手袋して、今のスキーウェアなんかよりずっと粋である。まあでもあれじゃ、2,3回も転べば雪ですっかり濡れてしまいそうだけど……周りの皆も割とそんな感じの軽装なんだよね。でもそれがオシャレなんだよなあ。

電報が届く。一緒に来ていたおぼっちゃまのオヤジさんにアクシデントがあったという。電報ってからには今度はホントにヤバそうである。カズちゃんが気を利かせてくれて、安夫も一緒に連れて行こうと言う。もし交通事故だったりしたら、外科の安夫さんがいる方がいいでしょ、と。
急ぎ帰ってみると、雨に打たれてゴルフをやっちゃったこのおやじさん、リューマチも悪化し、熱も出て、ヒドい状態だった、のにそれでも、絹代の顔を見ると喜び、その後ろから安夫が入ってくると急に肩を落として、「また来たのか……」というあたりが笑えるんだけど。でも、危険な状態である。二人は協力して夜通し様子を見る。当然ここで二人の距離は近づくわけでさ!うつらうつらする彼女を「あなたが寝てくれなきゃ、僕は居眠りも出来ない」と寝かしつけるシーンなんかグッと来ちゃったなあ!ソファに彼女を寝かせて、毛布とコートをかけてくれて。彼女は本当に嬉しそうな顔をするの。そしてドアを出て行こうとする安夫を見つめている彼女の瞳にみるみる涙がたまってくる。「安夫さん」そう声をかけてみるも、振り返った彼に何を言うことも出来ず、毛布にもぐりこんで「何でもないの、おやすみなさい」

朝になる。二人、顔を泡だらけにしながら手探りで石鹸を取り合うなんていうジャブがまずあって(けっこうギャグシーンいれてくるよなー)、おやじさんを診てみると、無事峠を越している。じゃあ僕はこれで、と安夫は辞する。絹代は彼を追いかけたいんだけど、一応主治医なので、しかもおやじさんは早速色目を使ってるし(笑)。仕方なくイスに座るんだけど……カットが変わり、門を出て行こうとする安夫を絹代は追いかけてくる。思いつめたような表情で、「私たちの家、どうしても仲直りできないのかしら」「僕たちはもうケンカなんかしてないじゃないか」……「僕は君が好きなんだ。あまり言わせないでくれ」ついっときびすを返して安夫は歩いていく。って、え、え!?今突然、何言った!?あまりにも突然、さらっと、何言った!?あービックリしたー!絹代も一瞬あっけにとられたようになって、でもすぐにすんごい満開の笑顔になり、彼に走りよる。けつまづく。またかかとがとれちゃってる。とっさに支えた彼の靴底もまた穴があいている。二人抱き合ったまま笑いあう。いやー、ハッピーエンドだなー!!

いや、ハッピーエンドは次のシーンまで待たないといけない。これ以上はない大団円。カズちゃんにあのお坊ちゃまが、「君に大きな病院を建ててあげるよ」と絹代に対して同じことを、桜が満開の下で彼女に囁き、どうやらうまくまとまっちゃったらしい。そして“浅岡医院”つまり、浅野と山岡の一字ずつをとった看板がかかげられ、絹代のお父ちゃんと安夫のお母さんが、いい名前だ、とご満悦で顔を見合わせ、お父ちゃん、一杯やりますか、と彼女を誘うと、いいですねえ、とニッコリ、二人仲睦まじく門の中へと入っていく。なんだよ、オイオイ、すっかり大団円じゃないかよ!まあ、安夫が母親との約束どおりボウズになっちゃったことぐらいはお約束だからねー。それをハズかしがる安夫にいいじゃないのと帽子を取ろうとする絹代、そんなじゃれあいを安夫の妹がニコニコチャチャ入れるのも、いやー、大団円だな。お前らラブラブじゃねえかよ!

女医さん、女性の社会進出、あるいは夫婦の共生の形、家の形、なんて点からも、なかなかに先進的で、明るい未来を思わせる快作なのだ。それにしても田中絹代は可愛かった!★★★★★


シルヴィアSYLVIA
2003年 110分 イギリス カラー
監督:クリスティン・ジェフズ 脚本:ジョン・ブラウンロウ
撮影:ジョン・トゥーン 音楽:ガブリエル・ヤーレ
出演:グウィネス・パルトロウ/ダニエル・クレイグ/マイケル・ガンボン/ブライス・ダナー

2005/1/13/木 劇場(シネスイッチ銀座)
なんでかなー、なんでこう、イライラするんかなー。共感……は難しい。それは彼女が追いつめられ、いわば狂っていく過程にじわじわ感がなくてちょっと唐突な感じがするせいなのか、はたまたそう感じさせるようなグウィネス・パルトロウの演技力に問題があるのか(!)だってねー、私、彼女のどこがいいのかいまひとつピンと来てないんだもん。そらまーサラブレッドなんだろうけどさ、そんなキレイでもないし、オスカー受賞の時も、あんな感じでとっちゃうの?みたいな印象だった。うーん、でもコレに関してはやはり監督の責任なんだろうか。あんまり聞いたことのない監督さん。え?でも女性監督ですって?女性監督でこんなに女性の描写が唐突なの?うーむ。
詩人同士の恋、結婚、芸術と家庭との板ばさみ、妄想からくる嫉妬が生み出す悲劇、……うん、判る、判るんだけどさ、その過程がね、じわじわ来ないのよ。彼女、結婚してとたんに嫉妬深くなっちゃって、もうコワいの。そら男は引いちゃって浮気にも走るよなーって感じで。でもこの時点では浮気はしてないんだよ。痛くもないハラさぐってるだけ。

家事におわれたストレスなんだろうけど、なら結婚なんてするなよ……。
書けないストレスでもあるんだろうけど、なら結婚なんてするなよ……。

まあ、そりゃ、ね。この時代は大変です。結婚して夫を支えるのが大前提。でも、ひと目会ったその日から〜♪てな感じで思いっきりひと目惚れ状態の二人があっという間に結婚する盲目さで既に、いいのか?とか思っちゃうし。
お互いにまだ学生同士、文学サークルで即興の詩を言い合って熱病のように盛り上がり、そして寝ちゃう。それは、才能ある夫を支えたい、というほどの熟慮があったようにはとても思えないんだもの。
今だったら、彼女みたいに才能ある女性は結婚なんて多分しないだろうな……などとも思う。
彼女のイライラが彼への嫉妬なのか、書けないことなのか、両方なんだろうなとは思いつつ、どことなくどっちつかずで、彼女にイライラするばかりで共感できないのはそこかもしれない。

特に現代の女性はね、恋愛の悩みと仕事の悩み、それぞれに苦悩しているわけよ(つーか、なんで男はそうじゃないんかね)。だからそこんところは自分自身がシルヴィアなんじゃないかと思えるぐらいに語ってほしいわけ。
同じ仕事をしてて、それも芸術という分野で、だからもうないまぜになっちゃって、ノイローゼに近いぐらい悩みまくる、というのは判るけど、なんかこう……実感までは出来なくって。
彼女が悲しいのは、詩への情熱と彼への愛情を分けて考えることが出来なかったことなのかな。それぞれは絶対別でしょ。今ならもっと上手く出来ると思う。それでも今でも皆苦しんでいるとは思うけど……同じ詩人同士という恋愛が、その境界線をひどく曖昧にしてしまったんだ。

あ、そういえばもうひとつあった。この冒頭の大学はケンブリッジ。つまりイギリス。でも彼女はアメリカ人。そういう意味で目立ってた。彼女がテッドに惹かれたのは、彼がイギリスの詩人としての、そういう魅力があったのかもしれない、と思う。お互いにまるで失った半身同士のように惹かれあいながらも、二人の間にいかんともしがたい小さな隙間が生まれ、それが亀裂となっていくのは、仕方のないことだったのかもしれない。
でも、それこそが情熱をかき立てる。だからこそ運命だと思う。お互いが自分の故郷を懐かしがって、あるいはそこから逃げたいと思って、イギリスとアメリカを行ったり来たりする。愛さえあれば大丈夫のはずだったのに、その環境の違いが二人の愛のもどかしさをより強めてしまう。

でも、そういう苦しさが詩人の才能をより花開かせるってこともま、ある。彼女の尽力でテッドは成功した。でもそのことがシルヴィアを苦しめることになったのは……彼女が詩を書いても、詩人の妻だから、と冷ややかにしか見られなかったから。でもその才能は確かにあったのだ。それはちゃんとしたファンがついていることで明らかだった。評論家なんていつの世も当てには出来んのよ。

でもこのファンっていうのがね、彼女をさらに苦しめることになるんである。
しかしね、ここんところが重要なポイントなのよ。結果的にはこのシルヴィアのファンであった女性がテッドと浮気することになる……って、え?そうなの?あの浮気のシーン、いまひとつ顔が見えなかったもんだから、私はその前にシルヴィアが疑っていた、あの女子学生なのかと思っちゃったけど、違うんだ……。うー、そういうあたりもどうも描写が煮え切らんような気がするよー。
ま、とにかく、そうなんだっていうの。でも最初に会った時にはお互いに夫婦同士だったし、何より今まで聞いたことのない熱烈な褒め言葉をもらって、シルヴィアは大感激してたのよ。彼女にとっては大事にすべきファンであり、友人だったはずなんだけど、次にこの夫婦が訪ねてきた時、シルヴィアはもうスランプと家事でくたびれ果ててたのが重なっていたのか、邪険にふるまいまくり、最初っからこの女性、アッシアがテッドに色目を使ってるんだとばかりに攻撃するのよ。

私にはねー、テッドとアッシアがそういう気持ちを共有しているようには全然見えなかった。そうだっていうんだけど、全然、見えなかった。このあたりも描写に問題があるのか、それとも私が愚鈍なのか?ま、いいんだけど、とにかくこの時のシルヴィアの機嫌の悪さは前述の理由を考えてもあまりに唐突で、何だよ、お前ーとこちらとしてはイライラするばかりなの。それともそれが狙いなのかなあ。でもさ、彼女の、仕事と結婚、そして夫との関係に重層的に悩むっていうのは、現代女性にも通じる悩みであって、やっぱり共感させるようにきちんと導いてくれなきゃ困るんじゃないの、とか思っちゃう。
そらまあ、チョンガーの私にはそんなの判んなくて当然なんかもしらんけど……。

やっぱりね、このシルヴィアの疑心暗鬼が、逆にテッドとアッシアの距離を近づけてしまったような気がするのよ、私はね。こん時のシルヴィア、怖すぎるんだもん……理不尽なイライラを三人にぶつけて、鬼のようで。これ以上自分の中にイライラを閉じ込めていたらどうかなってしまう、だから他人にぶつけてしまえ!てなところまで追いつめられていたのかもしれないけど、そりゃー、テッドだって家出てくよ、そりゃあね。
逆に私は、こんなに締め付けられてもテッドが、シルヴィアを愛している、というのにも、はー?って思っちゃったり。いや、運命の相手だっていうんでしょ。でも運命の相手同士を感じさせるだけの準備が足りなくないかなー。
愛していると言えば観客もそうだと納得するわけじゃないんじゃないのかな……。

シルヴィアも、いやシルヴィアの方が、テッドを愛して愛してやまないからこそ、こんなに嫉妬に狂ってるわけだけど、愛しているからこそ、もういられなかった。彼に三行半をつきつけた(でもあの、出てって!という台詞……お前が出てけよって感じだけどさあ)。そしてテッドと別れてから後のわずかの間、彼女に詩の神様が降りてきた。前とうって変わって穏やかな顔になった。詩作にふける彼女には、確かに神様が降りている、そんな感じだった。朝三時か四時に起きて明け方までの間。神様が近くにいるのを感じる、となじみの編集者に詩を持ち込む。編集者はその詩の鬼気迫る、充実した内容に驚く。
彼との関係が糧になったのは間違いない。芸術家っていうのは、詩人なんて特にそうだと思うけど、人生で苦しんだ分だけ作品にきらめきが出てくる。何もなく、穏やかだったら芸術作品なんて残せない、のかもしれない。だとしたら彼女、いい作品を生み出すために、積極的に、テッドをも巻き込んで苦しんでいた、と思えなくもない。そう、自分のいい仕事のために男をギセイにする、それだったら大賛成よ(!?)。

愛する子供に対しても、スランプに陥っていた時にはあんなにもうっとうしそうに、ジャマなだけみたいな顔をしていたのに、詩の神様を近くに感じているこの時、親子三人で過ごしているその時の彼女は、とてもとても慈しむ顔をして。愛らしく聡明そうで、詩人二人の血が通っているのを感じさせる静かな子供二人との、幸せな時間。
この時点で、止まってれば良かったんだ。女はわりとね、そうやって充実できるもんだと思うもん。
でも、いい作品を生み出してしまったことが、また彼女の中にふとした隙間を作ってしまったのかもしれない。編集者の前にケバケバのカッコで現われるシルヴィアに、あら……と思う。彼女はこの編集者を誘惑しようとする。吸ったことのない煙草まで始めて。でもこの編集者、シルヴィアもテッドもよく知っているから、そんな彼女に、お互いに惹かれあっているのに離れている、と感じて、一緒にいるべきだ、諦めちゃいけない、なんてアドヴァイスして、で、シルヴィアはテッドに会う決意をするのだ。
しかしそれは正解だったんだろうか……。

この時点で、シルヴィアの中の、いい作品を生み出すための苦しみは、一回使い切っちゃっていたのかもしれないと、思うの。結果的に言えば、このテッドとの逢瀬は彼女に死するほどの苦しみを与え、そして死を賭けての最後の作品は、後世に残る珠玉の名作になった。皮肉だけど、いわば見事、彼女は必要な苦しみをテッドから頂戴し、そしてテッドをしのぐ芸術家として花開いたのだ……その時、もうすでに、彼女はこの世にいないんだけど。
シルヴィアはテッドを招く。今度は本当に本気モードでおめかしして。柔らかなロールヘア、赤い唇。それまでの彼女がウソみたいに、美しくなる。
それまではテッドが訪ねてきても、冷たくあしらうばかりだった。でも今度は違う。この時の彼女には、もう一度テッドとやり直す決意があった。自分から彼を抱きしめ、唇を重ねる彼女。

……私はね、今のシルヴィアの生活の中に、もう一度テッドが入ってくることがどうしても想像できなかったんだ。だって、彼女が結婚してから、そうテッドと一緒にいるようになってから、彼女が詩を生み出せることはなかったんだもの。それをシルヴィアは家事と子育てのせいにしていたけど、でもテッドが出て行ってからは家事も子育てもそのまま残ったけど、彼女には充実した詩作の時間が与えられたから。もう一度ここで、テッドを加えていいの?なんて思ってしまって。
でもそんな心配、する必要なかった……なんて言い方は適当ではない、だろうな。シルヴィアとテッドが情熱的にお互いを欲しあった後、シルヴィアは満足そうに、私たちは二人でひとつの完成形なのよ、とかなんとか、運命の愛をしんしんと語って、だからもうあの女とは別れてね、私のようには愛せないでしょ、とテッドを口説きにかかるんだけど……テッドはシルヴィアの言うとおりだ、と認めながらも、浮気相手とは別れられない、と言うのだ。もう彼女は妊娠してしまっているから、と(セックスする前に言ってくれよ……)。
ほら、ほらね。またシルヴィアは自分から苦悩を作り出したでしょ。まさに皮肉だけど、そんな風に思ったりして。シルヴィアの芸術のために必要な糧となる苦悩を、彼女が意識せずに作り出したのだとしたら、それもまた天賦の才能ってやつかもしれない。いや、皮肉じゃなく、ホントに。でも、それで彼女はまさに芸術を生み出すことには成功したけど、生きていくために必要な糧がさすがに尽きてしまった。芸術のための苦悩ばかりを彼女はむさぼり、生きていくための幸福を摂取することを忘れていた。
それこそが、彼女が真の芸術家たるゆえんなのかもしれない。

私はね、これを、女が愛に狂っていく話だなんて、思いたくないのよ。だって、女ばっかりじゃん、こんな風に愛に狂う姿が映画になったりするのはさ。
女は愛がなければ生きていけないみたいな感じで、で、ここでは多分芸術家のテッドは(シルヴィアだって、いや彼女の方こそがそうなのに)とりあえず仕事があれば生きていけるんだよね。そ、テッドの場合は芸術じゃなくて仕事。
テッドはシルヴィアや子供たちと離れていても、ちょっとした心の空しさを感じるだけなのだ。それが満たされればその方がいいんだろうけど、ま、浮気ぐらいしときゃあ、ちょっとだけ空しさを埋めて、生きていける、みたいなさ。
私、今なら絶対に違うって、思うんだけどなあ……。なんかね、これってだって、テッドによる晩年の回想でしょ?男ってともかくも、女が、ことに恋愛においては似たような性格で似たような反応示すと思ってるんじゃないかしらんと思っちゃうことが時々……あるんだよなー。

でも彼女は確かに、血だったのかもしれない。ハチの研究に没頭したという彼女のお父さん。ハチの王と言われ、それ以外は何も見えなくなった。でもきっと彼女はそんなお父さんが好きだった。「九歳までは穏やかで、安定していた。幸せだった」と語る彼女、その時お父さんが亡くなったのだった。そして彼女は一度目の自殺未遂をする。
睡眠薬を飲み、地下でじっと死を待っていたという彼女。
そして二度目はガスオーブンに頭を突っ込み、今度こそ、死を迎え入れた。
それにしてもガスオーブンって……私、「ヴァージン・スーサイズ」でそれを聞いた時、まんまのイメージで、頭が丸焦げになるの!?と思ったんだけど、アホだわね……ガス自殺ってことなのね。
穏やかに横たわる彼女の顔は、当たり前ながらまる焦げになぞなってなくて、白く、穏やかで、美しい。
やっぱり、死にしか穏やかな幸福を望めなかったの……?

シルヴィアの近くには、死がどこか親しいものとしてあったのかもしれない。彼女は自分でもどかしくて、どうしようもなくなると、階下の一人暮らしの老人のところに行き、話を聞いてもらう。このおじいちゃんイイ人で、彼女の近くにある死を、感じ取っていたのかもしれなくて、とても心配してくれる。最後の作品を郵送するための切手をもらいにいったのも、この老人のところだった。
シルヴィア、やっぱり一人ではいられなかったのかな。愛する子供がいても、ダメだったのかな。彼女がせっぱつまって、誰かれなしに電話をかけまくるシーン、哀れで……どうして女はひとりで生きていくことが許されないの。今なら、と思うけど、思ってたけど、今でもなんかそういう風に追いつめられる空気ってあるじゃない。男が30すぎて一人でいるより、女が30過ぎて一人でいる方が、寂しいとか、キツイとか言われるような。

女流詩人といえば、日本でも「みすゞ」なんてあったなあ、と思って、あ、でもあれも、愛に苦しんで詩人の彼女が死んじゃう話だったよな、と思い……さらに暗澹たる気持ちになるんである。★★★☆☆


シン・シティSIN CITY
2005年 124分 アメリカ カラー
監督:ロバート・ロドリゲス/フランク・ミラー 脚本:ロバート・ロドリゲス/フランク・ミラー
撮影:ロバート・ロドリゲス 音楽:ロバート・ロドリゲス/ジョン・デブニー/グレアム・レヴェル
出演:ブルース・ウィリス/ミッキー・ローク/クライヴ・オーウェン/ジェシカ・アルバ/ベニチオ・デル・トロ/イライジャ・ウッド/ジョシュ・ハートネット/ブリタニー・マーフィ

2005/10/25/火 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
これが今後シリーズ化される予定、っていうんなら、私観なかったなあ……などとシリーズ恐怖症の私はちょっと恨めしく思いながらも、それでなくても、これはもはや予告編症候群って言っちゃっていい現象じゃないの?とも思ってしまう。予告編があれほど面白そうだったのに、本編観るとあれ?っていう……。でもこれってきっとコミックの世界を忠実に再現はしているんだろう。何たって原作者が共同監督の一方に迎えられているぐらいなんだから。しかも三人目、ゲスト監督としてタランティーノまでかんでる。いかにもタランティーノが好きそうな世界。でもなんかここまでくるとだんだんタランティーノのそういうシュミが信用できなくなってくるしさあ。だって彼ってその作品自体が好きっていうより、その世界観にしびれてるって感じでしょ。しかも節操ないし(まあ、人のことは言えんが)。

うーん、スタイリッシュな映像だとは思う。モノクロのコントラストが独特でハッキリしてて、ダークな色合いもカッコイイし。なるほどコミックスの世界を大事に再現したという感じである。あ、でもこれって、最初カラー映像で撮ってからのモノクロ変換なんだってね。最初からモノクロで撮ったのかと思った。んで、ところどころペインティングしたのかと思った。元の色に戻した部分がすっごくヴィヴィッドだったから。こういう色味に統一させていく“技術”もいかにもデジタル世代の申し子って感じ。
でも言うほど実験的、革新的とも思えない。技術やグラフィックアートの延長って感じがする。で、なんかそのまんまダラダラしてて、疲れる。なんかね、ごめん、つまんないんだもん。この映像の時点で仕事終了って感じなんだもん。それに、お門違いなのは承知でこんなこと書くんだけど……たまたまちょうど見ていてそうそうとか思っちゃったから。藤山寛美のインタビューをね。彼は「自由と節度」ってことを言ってて、時代によってそれは動くものだけど、それが良くない方向に行き過ぎたと思ったら、昔に戻す努力をすべきだと。

まさに、良くない節度を越えちゃっているように思うんだよなあ。映倫的に道徳的なことを言うみたいでこそばゆいし、残酷映画キライってほどお行儀良くないけど、“節度”をイタズラに越えるとバランスを失って、面白さやセンスも失われるんだなあっていうのが、この映画を観てて思っちゃったのだ。
つまり、単調に殺戮ばかりが続くので、節度を越えたところに刺激はなく、タイクツがあるという、皮肉にもならない結果なの。あくびをしながら、眉をひそめるのもめんどくさくなって、あー、早く終わんないかな、長いよ、とか思いながら観てしまう。暴力を映画の魅力として使うには、見せない努力とタイミングのツボを計ってくれないと、ドキドキもスリルも、そして痛みもまるで感じないから、すんごい傍観者みたいに、観ちゃう。それに気付くと、映画の内容じゃない部分で怖くなるのね。それって、よく言われる残酷ゲームの危険性と、似てない?って。
今は痛みをなかなか感じられない時代だから。
時々、紙で手を切ったりしただけで、こんな小さなキズがゾッとするほど痛いのかと驚いて、普段こんな風な残酷描写に慣れちゃって、それこそアクビしながら観てる自分が怖くなるんだ……。

なるほど、まんまR指定だわ。でもこれだと、R指定を覆して子供に見せるべきという議論が出来たバト・ロワと全然違うよな。それこそお門違いなこと言うけど。確かにこれは子供に見せるべきじゃないと全員一致で思うだろう。別にすべての映画を子供に見せてもいいとは思わないけど、じゃあこれが大人の世界かといったら、破壊の欲望があまりにも幼稚な気がして、ヤバい子供っぽさを感じる。
コミックスの世界でどんなに残虐なことやったってスタイリッシュに処理できるけど。それをコミックスさながらにコントラストのハッキリしたモノクロとペインティングとシルエット、とさまざまな手法を使ってスタイリッシュに見せてるのが、そうなると逆に逃げに感じるというのもある。

コミックスはきっとメチャカッコイイと思うんだけど……。いや見た目のカッコよさはこの映像もあるとは思うんだけど……。映像って、それだけで与える印象が違うから。それは様々な媒体、小説や絵画や、写真や、によって違うように。
例えば、写真はどんなに残酷であっても、真実であればこそ、賞賛されるでしょ。いやフィクションであっても、デフォルメされた一瞬は、一瞬だからこそ、アリな世界。
コミックスは描線であるという時点で、もう100パーセントフィクションの世界をまとってんのよ。そして映像は、フィクションであるってことは観衆は判ってるんだけど、私たちと同じ人間が演じていることで、その感覚が次第に薄らいでいくし、リズムを演出に握られていると、コミックスをどんなに忠実に再現しても、コミックスを読む個々人の受け取り方の忠実には沿わないし。
んで、コミックスでのそれぞれの話は短いからなのか、三つのエピソードを使ってる。冒頭と最後はブルース・ウィリス演じる老刑事、の話で挟んでそれなりに時間軸は上手く使ってるけど、そんな風にエピソードで気持ちが寸断されるのもね、オムニバスじゃないんだから。
上手く時間軸を循環させているとは思うけど、大きな流れで観たかった。余計に長く感じるんだよなー。
男たちのモノローグで進んでいくのは、いかにもコミック的だし、まんまなんだろうけれど、それ一辺倒だから、タイクツさがますます助長されるってのも、どうもね。
男の一人ごときいてても、女は面白くないんだよなー、などと。

あー、文句ばかりで随分書いちゃった。でもこれがどういう話かとか書いてもなんか意味ないような気がするし、私自身どういう話なのか今ひとつ判んなかったもん。バカだから。
えーと、シン・シティっていうのは、罪(というか悪)が横行している街、っていうノリなのかな?ロアーク枢機卿とロアーク上院議員という兄弟によって牛耳られている街。兄弟だったのか、言ってたっけ?言ってただろうな、もう同じ名前の時点で私ダメよ、判りにくっ、とか思っちゃうもん。でどっちの息子がどうとかこうとかで、もうややこしくなっちゃうんだもん。
えーと、プロローグ、どっちかの息子が(もう調べる気もナシ)ロリコンの異常者で何人も女の子殺してて、また一人毒牙にかかろうとしているナンシーという女の子を何とか救おうと、定年?間近の刑事、ハーティガンが救い出す話から始まる。でも街は正義なんてところから遠く隔たっているから、この刑事の相棒もカンタンに彼を裏切るし、警察もまるめこまれているから、彼女は救い出すものの、このロリコン息子を不能にした刑事は全ての罪を着せられてブタ箱にブチ込まれてしまう。

で、二つのエピソードをはさんでラスト、9年後刑事がこのナンシーと再会するエピローグが用意されている。二つのエピソードはこのプロローグの時間軸の直後から始まるという趣向である。
二つのエピソードは正直どーでもいいんだけど、このプロローグとエピローグは結構好きだった。ちょっとお涙ちょうだいな純愛だったから。あ、でもそれをいえば、二つのエピソードもそれなりにそういう部分は含んでるんだけど、やはりここはベテラン、ブルース・ウィリスの勝利だろうか。9年間、このナンシーはブタ箱の中の彼に毎週欠かさず手紙をくれた。彼にとってはそれが支えだった。そして9年後再会した時、ナンシーは彼の予想に反して色っぽいストリップダンサーになっていたけど(彼のイメージは、本の虫、だった)。でも生きるためにたくましくなった彼女はしっかりした、聡明な娘に育っており、しかも彼女は彼のことをずっと愛し続けていた。法の本とか読んでるあたりは、本の虫というイメージもあながちはずれてはいない。彼のためだよね、きっと。でも、そもそも彼をおびき出すために彼女の手紙がわざと止められたワナにはまり、彼はここにいるのであり、街の悪はおいぼれの彼一人の力で変わる訳もなく、だから彼は、彼もナンシーのこと愛してるけど、若い彼女の未来を考えて、自らの命をたつのだ。
という筋立てはね、イイでしょ。それまでにバンバン人殺してるけど。でも彼の最期のシーンだけはちょっとイイのだ……シルエットで頭を撃ち抜く、哀しいけど、奥ゆかしくて。ここだけは痛みを感じた。気持ちが入ってないとね、やっぱり。

で、もうどっちかのロアークの息子で、人肉食趣向のキラリメガネの少年を演じているのがイライジャ・ウッドである。うーん、うーん、うーん……彼にこういう役を演じてもらいたくはなかったなあ……まあ、役者としてはこういうギャップは楽しいんだろうけど。両手両足を切られても叫び声ひとつ上げず、クールな無表情のままの彼、なんてね。はあ……。

で、あとの二つのエピソードをさらっといこう。一つ目は、えーと主人公はミッキー・ローク。既に懐かしい名前だが、すんごい人工メイクで登場、あのミッキー・ロークが世紀のブ男を演じている。なんかイメージとしてはノートルダムのせむし男か、エレファントマンって感じである。彼、マーヴは唯一自分に優しくしてくれたゴールディという高級娼婦が殺され、それを自分の罪にされたことで、彼女の敵をうつためにかなうわけのない悪に向かう。ゴールディと双子の妹のウェンディと共に。
三つ目、主人公は、クライヴ・オーウェン(知らん)扮するドワイト。この街は娼婦たちが警察公認の形で自警しており、そのボスが彼の元恋人である。今はしがないウェイトレスを恋人に持ち、そのウェイトレス、シェリーに言い寄り、暴力をふるう男がドワイトに脅されて追い出されて娼婦街に逃げ込む。んで、女をナンパしようとするもんだから、これは危険、とこの男を女たちとドワイトは……殺してしまうわけ。でも内ポケットをさぐると、なんとこの男、ジャッキー・ボーイは警察官で、これで娼婦と警察の約束が壊れてしまう、とこの事実を隠蔽しようと画策、しかし内部にウラギリモノが出て……みたいな。

ジャッキー・ボーイを演じているのはベニチオ・デル・トロで、実に嬉しそうに演じている。いかにもイヤな男で、殺されて当然って感じだけど、殺されてもしゃべりまくり、首だけになってようやく、口に爆弾突っ込まれて完璧に吹っ飛んじゃう。うーん、悪趣味だよなー。似合ってるけど。
しがないウェイトレスに情を移しながらも、ワイルドな娼婦のリーダーを、オレのワルキューレと言って手放せないこのドワイトは、優男で頼りなげで、だけど凶暴、でもやっぱり、頼りない、みたいな重層的なところがなかなか魅力である。少なくともミッキー・ロークよりはね。
こってりメイクにボンテージファッションでプリプリのお尻を編みタイツで包んだ女たちがゴージャスだけど、その中に一人、“殺人兵器”と呼ばれるミホという女がいる。その名のとおり日本人っていう設定だろうな。日本刀振り回すし。だけど、それなら純日本人を使えよなーとか思ったりして。あんないかにもオリエンタルなキツネ目とそれを強調するベタなアイメイク、日本人じゃ逆になかなかいないって。しかもガニ股にゲンメツ。栗山千明と一緒にすな!

なんか、こういうのを見ると、報復意識のアメリカが、コミックスの中でさえ、いやだからこそフツーの感覚で存在してんだな、と……それもウェットな意識ナシに、ドライに。ここでのスタイリッシュは、それに達成感を感じてるよ。日本映画と一緒にしないでほしい。監督の一人で原作者のフランク・ミラーは、日本は世界で最もバイオレントなフィクションや映画を作り出しているけれど、犯罪率は低いほう、とか寝ごと抜かしてるけど、ホント一緒にしないでよね、と思う。それに対して後味の悪さや痛みを感じるか否かってことなんだ。刀を納めた時に、無常を感じるか否かってことでしょおー。

この世界自体、なんか、古めかしい。古めかしいから魅力的だったのかも。それを現代の、映像で、殺戮シーンもリアルに再現しようと思うと、やっぱりきしみも出てくるような。★★☆☆☆


新・痴漢日記
1999年 81分 日本 カラー
監督:富岡忠文 脚本:富岡忠文 新田隆男
撮影:村石直人 音楽:
出演:大森南朋 栗林知美 田口トモロヲ 螢雪次朗 有薗芳記 佐藤誓 梅沢昌代 松嶋亮太

2005/3/17/水 劇場(渋谷ユーロスペース/大森南朋特集/レイト)
成人映画には時々凄い傑作に出会うことがあるけど、これもそのひとつだと思う。これはOVモノ?この監督さんの名前も初めて聞くわ、大変!どんなジャンルにも才能って隠れているものなんだから!と思ってたら、痴漢日記、うーん、そーいえばそういうタイトルのは昔一本観たことあるわ、と思い出し、あ、大森つながりじゃん、大森嘉之主演ので、これまた切ない話だったんだよなあ、と思い出し、んん?これにも大森嘉之が友情出演ぽく出てるねえ、と……同じシリーズじゃないですか。同じ監督さんだったのね。そーか、そーか。95年の第一作を、私、ビデオレンタルは殆んどしないのに、借りて観てるのよ(10年前のメモを探し出した(笑))。何でだっけ、やっぱりそんな“切なく、泣ける”評判を何かで読んだからのような気もするし、「デンデケ」の大森嘉之の出演作を観たいと思ったせいだった気もするし。痴漢仲間のクダラナイ面白さや、名人だのウンチクだのは、もうこの時から普遍だったんだなあ。主人公の造形、“痴漢なのに、純情”も共通してる。つまりこれは、名作シリーズなわけだ。

で、この日も立ち見状態満員御礼で(今回はガッツで席取った)、そうじゃなかったら、隣りに人がいなかったら、私ぐすぐすと泣きたかったなあ、泣いていたと思うなあ。隣りに人がいると泣けないんだよねー、ああ、泣きたかった、この切ない恋物語に。
「春眠り世田谷」で今までで一、二を争そう、母性本能くすぐり大全開の大森南朋だわと思ったけど、それをかるーくこの作品は上回ってきた。ちょっと反則でしょ、というぐらいに母性本能を熊手でかき回す勢いの大森南朋。もう、雨にぬれた子犬みたい、その頼りなげにおどおどと女の子を見つめる顔、躊躇しながらもどこまでもついてくるところ、こんな年の青年が、そんな風に見えるなんて、そんな役をこなせるなんて、大森南朋しか、いやこの物語の中の大森南朋しか考えられない。
彼、結構コワい役もやってるのにねえ……。
多分、若さも手伝っているんだろうな。私、思ったもん。この時の、この年頃の大森南朋だったら「めぞん一刻」の五代君がまんまいけるわ、って。かつての石黒賢なんて比じゃない(なつかしー)。浪人っぽさといい、住んでる下宿の怪しげ貧乏加減といい、情けなさといい、女の子にオクテな感じといい、洗いたてまんまって感じのぼさぼさの髪の、その髪型といい(笑)あー、ぴったりじゃん。

下宿のアヤしさ加減は、なんとあのめぞんの一刻館をも凌駕しちゃうんだけどね。だって、住人全部が痴漢なんだもん。
痴漢モノというのはアダルト作品の一ジャンルであるわけなんだけど、これを女性観客に見せて納得出来るものにするのって、難しいと思う。でもその難しさが作者にやる気を起こさせるのか、私が今まで見た痴漢モノって、どれもこれも秀作なんだよね。本作みたいな切ない恋物語モノも多い。痴漢って、女性にこれほど嫌悪を与えるものもないってのに、そこを乗り越えるのが決め手だってことを、どの作家さんもちゃんと知っているような気がする。
ここでの痴漢さんたちは、まず、あまりリアリティはない(笑)。痴漢という場面においては、成人モノであることをクリアする条件以外は思いっきりコメディ路線に走り、専門に触らせるサセ子がいたり、整体師のワザを活かして見事な腕をふるう場面あったりと、見ている女性客に嫌悪を抱かせるようなことが、ないんである。このあたりは不思議なんだけどね。だって、もともと女性が観るという前提はないはずなんだもん。

大森南朋も、この痴漢下宿の住人だから、彼もまた痴漢なんである。……うー、とか思うものの、彼はくすぐり専門で(笑)、しかもかなりのオクテときているもんだから、仲間たちが次々と獲物をゲットする中で、おどおどと一人、眺めているだけだったり。
でも、この仲間の痴漢さんたちも、なんつーか、マヌケでね。痴漢している間にサイフすられちゃう。で、その対策委員会が設けられ、大森南朋扮するゴンちゃんは、そのスリを突き止めるのだ。
でも、彼にはずっと前から判ってた。なぜって、彼は電車の中でその彼女をずーっと見ていたから。
きっかけを得て、彼はこの女性、沙耶と何とかこのままつながりを離したくない、と思う。彼女の勤め先の大学までのこのこついていったり、待ち伏せしたり、彼女の帰りについていって、アパートの階段に立ち尽くしたり。沙耶は、私がスリという弱みを握られているからこんなことをするのか、と、殆んどストーカーのごときゴンちゃんに怒鳴り散らすんだけど、突き放しきれないのは、彼があまりに真剣なまなざしを向けてくるから。
そう、あの、雨にぬれた子犬のような、今にも泣き出しそうな、全身全霊をこめた、あの顔である。
やっばいよお、大森南朋。若さからくるやぼったさも手伝って、あまりに可愛すぎる。女はね、決してイケメンだの、クールな男に惹かれるわけじゃないの。そういうのは外見だけでキャーキャー言ってるだけなの。でもこの彼は……ハッキリ言ってダサいし、やぼったいし、外見だけでいったら不合格よ。でも、確かに内面からあふれる思いが伝わってくる。それこそが、女が何より欲しいものであり、その中に母性本能をくすぐるもの、という要素も含まれているんだと思うのね。
ううううー、カワイすぎるぜっ、大森南朋ッ!

沙耶は、フクザツな事情を抱えていた。かつては、ジャズピアニストを目指していた。でも、不倫の恋に苦しんで、その時にピアノもやめてしまった。恐らく彼女が全てを捧げていたものだっただろうに。そのことから拒食症に苦しみ、食べ吐きを経験し、スリもそのストレスから始まった。言ってしまえば、彼女は生ける屍、だったのかもしれない。
沙耶がゴンちゃんと出会ったことは、運命だった。ゴンちゃんとその仲間たちは固まっていた彼女の心をほぐしてくれたし、沙耶はゴンちゃんの無償の愛にだんだんと心を開き、彼のことを好きだと、確かにそう思うようになっていたに違いないのだ。
でも、“沙耶がゴンちゃんと出会ったことは、運命”だというのは、もうちょっと複雑な事情があるんである。そう、これは運命としか言えないこと。皮肉な運命。沙耶の不倫相手が、ゴンちゃんの勤めるバーのマスターだったのだ。
マスターはつい最近、やっと離婚が成立した。長いことモメていたらしい。どうやら逆玉であるらしい奥さんは、「あなたには一銭もないわよ」そう言い放って、ハンコをついた。マスターには、好きな女性がいたらしい。この奥さんの台詞から察するに、その女性は離れていってしまったらしい。そして、それでもマスターはその女性のことを諦めきれずに、離婚を望んだらしい。

これで気づかない私もアホなんだけど、そう、沙耶の話と思いっきり一致するってこと、をね。
沙耶が、その不倫相手のことを、ずっとずっと忘れられずに苦しんでいること、そしてそれを受け止めながら彼女を愛するゴンちゃんに癒されたこと、そのゴンちゃんが、ピアニストを募集する、とマスターが言い出したのを受けて、沙耶を店に連れて行ったこと。
切ない、切なすぎるこの運命。
マスターは、そんなことあるわけないと思いながらも、沙耶がこの応募に応じてくることを夢見ていたはず。そして、実際、ゴンちゃんが連れてきた。沙耶はこの偶然に呆然とする。最初こそ、知らないフリを通しながらも、ピアノを弾きながら、たまらず涙を流す。「ゴンちゃん、私、どうすればいいの」その台詞は……、ゴンちゃんに惹かれたはずだと思っていた自分の心が、本当に好きな人に再会してしまって動揺していることを語ってあまりある。

その前夜、沙耶はゴンちゃんに抱かれた。ずっとずっと彼女を探し続けてくれたゴンちゃん。山登りのカッコして、大きなリュック背負って、一緒に山に登ろうよと言ってくれたゴンちゃん。星空がキレイに見える、ビルの屋上で、テントを張って、その中で、沙耶はゴンちゃんに抱かれた。どこか彼女自身がゴンちゃんをリードするような雰囲気で。彼女のおっぱいをおずおずとくすぐるゴンちゃん、いやさ、大森南朋にはドキドキしちゃったなあ(笑)。沙耶がゴンちゃんのことを愛しいと思っていたのは本当だったはず。だけど。
愛しいと、好きとか愛しているという感情は、違うのだ。
愛しいから、愛しているに発展すればいいと思った。それだって充分アリだったはずなんだけど。
まるで水先案内人のように、ゴンちゃんがずっとずっと愛していた人のもとに連れてきてくれたものだから……。
「ゴンちゃん、私、どうすればいいの」これは、これだけで、判ってしまう台詞。ゴンちゃんは、「今日はオレのために弾いてくれるんだろ。最後まで弾いてよ」そう言い、彼女は涙でグシャグシャの顔のままうなずき、弾き続ける。でも……ゴンちゃんは、そっと出て行っちゃう、のね。身を、引いてしまうの。だって彼は知ってた。沙耶がずっとこの不倫相手のことを忘れられずにいたこと、マスターが恋人に去られてもなお、奥さんと別れたこと。これを目の当たりにして、もう身を引くしか、ないじゃない。

いつものように、彼は下宿に帰ってくる。絶好調だよ、そう言いながら。でも、唐突に言う。「今日からオレ、山で寝るから」
山、というのは、この場合、登山用のテントであり、下宿の庭にテントを張るんである。それは何とも、どーにもカワイイんだけど……その中に入って、むせび泣く彼の、テントから聞こえてくるその泣き声だけというのが、もう、なんつーか、もう……あまりに切なくって、切なくって。
何を説明することなくても、下宿の皆は彼が失恋したことをそれで悟っちゃう。で、心配そうに、そして哀しげに、テントの中の彼を、遠くから見守ってる。
これがまたね……。コイツらってば、ホント、イイ奴らでさ。痴漢のクセに(笑)。一度、ゴンちゃんが沙耶をこの下宿に招待したことがあってね。この、今ゴンちゃんがテント張ってるお庭で鍋パーティーをしたんだけど、その時躊躇する沙耶に(ま、彼女が彼らにスリを働いたんだから)、ゴンちゃんが説得するのがさ、「大丈夫、皆、女には目がないし……いや、触るのは電車だけだから……皆いい痴漢たちなんだ!」と言えば言うほど墓穴を掘りまくってるっちゅーか、いい痴漢たちって何だよ!とか思うんだけど、確かにいい痴漢たちだよ(笑)。沙耶も、久しぶりに楽しい時を過ごす。この下宿で唯一の女の子、バクダンとケンカしてこのパーティーはお開きになっちゃうんだけど、それだって、ネガティブな沙耶にバクダンが体当たりしたわけでさ、沙耶はそれにキレるんだけど、うわっつらじゃなくて、彼女が真から体当たりしてくれたことを沙耶も判ってたから、ね。

本当に切ない恋物語っていうのは、これがなかなか出会えないもので。切なさっていうのは、報われないこと。なぜそれを人は欲してしまうんだろう。失恋したいと思っているわけじゃないのに。
切なさは、人を恋する思いを、実感として残してくれるからだと思う。それは愛にまで行っていないのかもしれないけれど、行く前に破れてしまうからこそ、その存在を確かに感じられる。心臓をぎゅっとつかまれるような、実感として感じられるもの。
恋を、感じたいのかもしれないな。誰かを好きになるというこの気持ちを、この手に、この心臓につかまえたいのかもしれない。切なさを、これほど欲するというのは。
それを、大森南朋は、私たちに与えてくれるんだよなあ。

ナンセンスなユーモアに思わず吹き出してしまいながら、その中に、仲間のあたたかさと、恋の切なさと、愛の強さが描かれてしまうこの作品には、ううっ、ノックアウトだよ!★★★★★


シンデレラマンCINDERELLA MAN
2005年 144分 アメリカ カラー
監督:ロン・ハワード 脚本:クリフ・ホリングワース
撮影:サルバトーレ・トチノ 音楽:トーマス・ニューマン
出演:ラッセル・クロウ/レニー・ゼルウィガー/ポール・ジアマッティ/クレイグ・ビアーコ

2005/10/24/月 劇場(東銀座 東劇)
最近やたらとボクシング映画が出てくるなあ、と思いつつも、ボクシングを語る時に避けて通れない“ストイック”というものの本質は、実はこういうところにあるのかなあ、と思う。今までのボクシング映画は、あくまで、自分自身に向けてのストイックさだった。自己を追いつめ、磨き上げること、他者への愛はあっても、それはボクシングから切り離されたところにあったし、あるいは、その愛する人のためにというのも、自らの成長した姿を見せたいというメンタルな部分にあったように思う。
このジム・ブラドックが何のために戦うのか。そりゃ彼自身、ボクシングに対する愛はあるしこだわりはあるだろうけれど、それによってファイトマネーが稼げるからなのだ。思いっきり、生活に直結している。最初はそう直截に描かれるわけじゃない。あくまで彼はボクシング界のニューヒーローで、飛ぶ鳥を落とす黄金時代が冒頭、描かれる。しかし大恐慌時代がやってきて、財産をすっかり株で失ってしまった彼は、負傷をおして試合に出場するもんだから、負けとケガがどんどん込んで悪循環に陥り、ついにはブザマな試合をさらしたということでライセンス剥奪されてしまう。失業者が溢れる町では荷役の仕事に一日数人の雇用しかなく何十人もの男たちが群がり、フーバー村と呼ばれる家を捨てた人間たちの無法地帯が現われるありさま。ほんの、2,3年のうちに彼の状況はあっというまに変わってしまう。

彼がボクシングへの愛だけにこだわるならば、ここまで自分を追いつめはしなかっただろうと思う。でも唯一彼に出来るのはボクシングだけで、家族を守るために戦うという、ストレートなその仕事は誇りでもあった。それは勝ち負けも関係ないということを、彼はこの負けと怪我の悪循環の中で学んだのだと思う。だって、本当にボクシングそのものにこだわっていたら、こんな悪循環に陥ったりしない。試合に出ればとりあえずカネはもらえる。だからといってテキトーに流す試合をするのは、“家族を守るために戦う”意味がなくなってしまう。だからいつも本気でする。そしてケガがひどくなる、負ける……その繰り返しも、彼にとってちっとも屈辱ではなかったんだろう。子供のために勝った自分を見せてあげたいという思いはあったかもしれないけど。
いわば、この彼の基本姿勢が、後半の奇跡の連続を産む訳で。流してKOされれば良かった、勝ち目のない前座試合にさえ、彼は本気を出したから。そして奇蹟の勝利をつかんでしまったから。
ま、という部分は感動の後半だから、それはあとにとっておいて(笑)。後半感動するためには、前半たっぷり主人公がこの大恐慌時代に苦しめられなければいけないのだ。

でも、この時代は、男と女にとって、ある意味幸福な時代であったんではないかと思う。
男と女というか、夫婦にとって、かな。今みたいに存在価値だのなんだのという、それぞれの立場が複雑化していない、美しいくらいシンプルで、“内助の功”という言葉がストレートに通った時代。
私は正直、“内助の功”という言葉はキライである。女がこれほど押し込められる言葉もないと思う。でもそれはやっぱり今の時代だからだし、ある意味負け惜しみであることはここで認めざるを得ない。ここでの内助の功は、彼のボクシングと同等か、それ以上の意味を持っているんだもの。二人に共通しているのは、家族という幸せを守ること。まっすぐに、それに向けられている。
それを、レニー・ゼルウィガーがやるから、イイんだよね。彼女はバリバリのキャリアウーマンを演じるタイプの女優じゃないし、かといってお嫁さん型の女優でもない(まあ、今はそんな女優、いないだろうけど)。自分や世間に対する意識の強さと、そして愛する人に対する柔らかさをバランス良く感じさせる人だから、このふんわりと可愛い、それでいてどっしりと強い奥さんであり、お母さんを、成熟した魅力で見せてくれる。

それにしても、大恐慌時代、である。言葉で聞いたことはあるけれど、それをこうして映画で描写しているのを、うーん……何かの映画で観た記憶はあるけど、でもとにかく、このリアルに悲惨な描写はなんともはや……。全ての人が、飢えているわけじゃないのだ。カネはあるところにはある。だって、家中のものを売り払って金にかえて、という部分で、買い手がいるということなんだもの。ここに、貧富の差の拡大で表面のきらびやかさの裏に闇を抱えるアメリカが見える。
ジム・ブラドックの家族がその貧しさの方に陥ってしまったのは……それは、先述のように、家族のために戦う彼の悪循環、つまりは純粋さゆえの要領の悪さのように思う。そして彼は後に復活を遂げるけれども、そのベクトルはまるで方向を変えていなくて、彼はそれを貫いたからこそ、運を、奇蹟をつかみとることが出来た。だからこそ観衆は彼に熱狂したし、感動したんだよね。

えーと、だから、まだ話はそこまでいってないって。失業時代の彼は実に悲惨である。もう家に売るものはないし、電気代やらなにやら滞納しまくっていて、食料品のツケもきかない。ある日、長男が思い余って肉屋からサラミを盗んでしまう。ジムは「一緒に返しに行こう。お父さんは本気だぞ」と彼を伴って肉屋に返しに行く。「どんなに貧しくても、人のものを盗んじゃいけない。もうしないって約束してくれ」「約束する」「お父さんも、どんなことがあっても、お前たちを手放したりしない。約束する」長男が、くしゃ、と唐突に顔をゆがめて泣き出し、その小さな身体をジムは抱き上げて、「不安だったんだな」と背中を優しくぽんぽんと叩きながら、歩いていくシーンが、もう、胸がつまってね……。三人の小さな子供たちの中でも、一番上のお兄ちゃんだから、責任というか、何か色々考えちゃうところがあったんだろうな、この小さな身体で悩んでいたんだろう、不安にさいなまれていたんだろうと思うと、もう、たまんないの。
このお兄ちゃんを、子供として慈しみながらも、このときに多分ブラドックは対・男として扱ってやろうと思ったんだと思う。復活してついにチャンピオン戦に挑む時、それもものすごい凶暴な、過去に二人も選手を殴り殺しているボクサーとの試合に出かける時、このお兄ちゃんだけ、キスじゃなく、手を差し出して握手するんだもん。それを見た次男が、自分もとばかりに握手を求めるのがまたカワイイんだけど。

えーと、だから、また先にいってしまった。まだジムは失業中です。ある日、ついに電気が止められてしまう。真冬のさなかに、幼い子供が3人もいるのに、である。街に出て、木で出来た塀から暖炉用の薪にと、家族総出でベキベキと折り取ってこなければいけないほど、せっぱ詰まってきた。しかも一番下の子が、熱を出してしまった。家の中でも白い息が凍る。思い余った奥さんのメイは、ジムが仕事でいない間に、子供たちを自分の父親や妹のところに預けてしまう。
このメイの選択はね、正しかったと思うのね。だって、このままじゃあの子は死んでしまうもの。でもジムは激怒しちゃうの。彼は約束したから。決して子供たちを自分たちから手放さないと。激しい言い争いになる。メイは、「あなたは子供たちの様子を見ていないでしょ!」ひるんで、黙り込んでしまうジム。そう、メイの不安や苦しみを、ジムは真の意味で判っていなかった。

この時、ジムがどういう選択をしたか。彼はまず非常救済所に行き、なけなしの金を援助してもらう。周囲の視線はかつての栄光のボクサーに容赦なくそそがれる。「ジム、あなたがこんなところに来るなんて……」窓口の女性も、どこか呆然とため息混じりに彼に金を渡してくれる。そして彼はボクシング協会に出向く。絶対に、ここにだけは助けを求めたくなかった場所。「非常救済所にも行きました。でも電気代を払うまであと××ドル足りません……」そこに集っている男たちはスーツ姿でビシッとしていて、タバコをくゆらしたりなんかして、つまりはここにはカネがあるのよ。要領よく立ち回っている人間たち。そこに、ジムのファイトマネージャーを務めていたジョーもいる。でもね皆、なんともいえない顔をしているの。侮蔑でも冷笑でもなくて、本当に、彼が、イヤな意味じゃなくてかわいそうで、哀れで、でも哀れんだら彼がもっとミジメになること、みんな判ってるから、あからさまに同情の言葉もかけられないの。ただ言葉少なに、頑張れよ、と少しずつお金を、そっと彼の帽子に入れてやることしか出来ない。もっとたくさんのお金を出すことも出来るかもしれないんだけど、それもまた彼を傷つけると思って、みんな静かに、少しずつ出すのが、もう、たまらないんだよ。そしてジムは最後に、遠くからじっと見守り続けていたジョーに静かに歩み寄る。ジョーは、「あといくら足りないんだ」そう聞いて、その分をきっちり入れてくれる。ジョーも、何を彼に語りかけてやればいいか判らない。ただ、頑張れよと、言うしか出来ない。

このジョーがね、私は大好きなの。彼はジムがムチャな試合を繰り返している間も、そんな彼の心情を判っていて、付き合ってくれていた。でもついにジムがライセンスを剥奪されてしまい、この状態になってからは会っていなかった。それは冷たいとかそういうことではなく、仕事の上での信頼関係であったルールを二人が守っていたんじゃないかと思うんだよね。
だからジョーは、ジムがなんとかこうしてギリギリの事態を切り抜けて、季節も少しぬくんだ頃、彼に会いにくる。バリッとしたスーツを着て、ジムから、「相変わらず、シャレた格好してるな」と言われると、「こういう仕事は見た目が大事だからな」と。
ジョーが持ってきたのは、試合の話だった。出るだけで250ドルがもらえる前座試合。出るだけで、ということは、つまり誰もジムが勝つことなど期待していないということなのだ。いわばパフォーマンス。ジムがボクシングをボクシングとしてだけこだわる選手だったら、ジョーはこんな話、持ってはこなかっただろう。いや、本当は持ってきたくはなかった。でもジムが家族のためにボクシングをやる男だって、ジョーも判ってるから。そしてそんな屈辱的な設定の試合でも、持って来てくれたジョーにジムが抱きついて心から感謝するのがグッとくるのだ。ジョーは複雑な顔ながらも、彼を助けたいから、それが判ってるから、グッとくる。

でも勝っちゃうんだもん!ジム!そう、彼は、パフォーマンス試合だからと、勝ち目のない相手だからと、流されてKO負けなんてしない。家族のためだからこそ、本気で戦う。そここそがメイの心配するところなんだけど……ケガが絶えないから。でも、この奇蹟の復活劇が民衆の心をとらえ、ジムの元には次々に試合が舞い込んでくる。ライセンスを取り戻すこともジョーが奔走してくれる。かつての栄光のボクサーは、老いぼれのボクサーになり、引退に追い込まれたはずだった。みんながそう思っていたから、復活したジムが次々に奇蹟の勝利を収めるのに、皆熱狂的になる。
何よりも、リングサイドのジョーが一番喜んでいるのがイイんだよねー。メイは試合には決して来ないから。家で、ジムが無事で帰ってくるのをいつも祈りながら待ってる。だからこのリングでは、ジョーがその代わりを務めているとも言え、まるで自分が勝ったかのようにガッツポーズをして感極まって喜ぶジョーがありがたくて、嬉しくて。

でも、ジョーもいっぱいいっぱいだったのだ。隠していたけど。ついにチャンピオン戦、でもその選手は、あまりにも凶暴な男で、絶対にジム、殺されてしまうとメイは思って、ジョーのもとに怒鳴り込みにいくのね。とても立派なマンション。「こんな立派な家に隠れて!出てきなさいよ!」とどんどんとドアを叩くメイ。ジョーは「マズイな……」とつぶやくも、観念してドアを開ける。何がマズイかって、その“立派な家”はまるでがらんどうで、テーブルと椅子が真ん中にぽつんと置かれているだけ、家具も何も一切、なくなっていたから。
「この仕事は見た目が大事」ジョーは誰からも気づかれることなく、そしてジムの復活劇のために、もうギリギリまで追いつめられていたのだった。ジムのトレーニング費用も最後の家具を売って渡した。メイは呆然とし、何も言えなくなってしまう。
そんでね、ここにいる、ジョーの奥さんがイイんだよ。少々うろたえて事情説明するジョーに、「あなたはクラッカーを持ってきて」と落ち着いて、メイの向かいがわに座る。「お前は一家のあるじだな」なんて皮肉なのか本気なのか判らない面持ちで、ジョーは台所に消える。メイはなんと言うことも出来ず、「……ステキな住まいね」と言う。微妙な台詞である。「ありがとう」奥さんも微妙に受け答えする。でもここで、奥さん同士にも共犯関係というか、だってこのことをジムには言えないし、そして二人とも立場は違えどこんな夫を持つ似た境遇なもんだから……決してそのことでいろいろ話し合ったりはしない、この二言三言だけなんだけど、それでお互い了解するところが染み入るんだよなあ。

チャンピオン戦の前に、ジム夫婦、ジョー夫婦はスポンサーに高級レストランでの食事をおごられる。そこに対戦相手のベアがやってくる。宣伝用に仕組まれた、と思いつつも、ベアの挑発をさらりと受け流してにこやかに写真に収まるジム。でも、夫をブチ殺すとニヤニヤ笑いながら挑発するベアにメイがキレちゃって、グラスの酒を彼の顔にぶちまけちゃうのね。騒然とする店内。ベアが、「おたくは奥さんに戦わせるんだな」と皮肉を浴びせると、ジムは落ち着き払って、「ああ。凄い女だろ」とリターンエース!そうさ!これも内助の功のうちだもん!(そうかなー)
でもね、ベアは、ひょっとしたらジムのこと、あんなマヌケ選手とかさんざん言ってたけど、みんなから恐れられる自分にまるで臆することなく、まっすぐに挑んでくるジムが嬉しかったんじゃないかと思うんだよね。ベアは今までライバルがいない孤独があったんじゃないかって。人を二人も死なせて、孤独だったんじゃないかって。だから自分から逃げようとしない彼の出現は、彼は嬉しかったんじゃないかな、って思うのね。
散々挑発したのも、試してたのかも、と思う。それで逃げ出すならそれまでの男、と。
でも、ジムは逃げ出さなかった。だからベアも、試合さえ最初の方はからかうような調子だったけど、本当に、最初から本気が持続している、怖じ気づかないジムに自身も本気になれた。

試合のシーンはやっぱり泣けちゃうんだよねー。こういう映画で泣くの、あまりにベタな気がして意味なく涙腺をそらしてたんだけど、やっぱり素直にオイオイ泣いちゃう方が気持ちイイよねー。
あ、そうそう、メイがジムの無事を祈りに行く教会も、同じような気持ちで来ている人たちがいっぱいいて、これもまた胸を熱くさせる。その朝彼を送り出した時、まるでこの世の別れのように沈痛で言葉少なだった彼女が、初めて会場の楽屋に姿を見せるのがまた泣かせるのよね。「私の支えがないと勝てないでしょ」「戦う意味が判ったような気がする」と。
でも、メイはやっぱり試合は見ない。ジムに「家で待っているから、必ず帰って来て」と言う。「必ず帰る」ジムはそう答える。
ぎっしりと、すし詰めの観客は、皆がジムの応援団で、ジムが登場してきた時、シンと静まり返って、それは本当に鳥肌が立って……。

正直、私はこの会話が最後の会話だったらどうしようって、もう凄く怖くて、本当にベアに殴り殺されるんじゃないかって、試合は生きた心地がしなかった。
壮絶なパンチが繰り広げられる、この猛者に一歩も引かないジョーに、涙腺決壊の波が何度も押し寄せちゃってさー。特にあの大観衆の、時にさざなみのような、時に大嵐のような大歓声が、胸を突き上げるのよね。こういうのは、もうズルい!と思うぐらいなんだけど、胸を熱くせずにはいられない。
数ラウンドしか持たないと思われていたジムが、ジョーと互角に15R戦い抜いて、でも、あの判定が出るのにすんごい時間がかかったのは、それまでだーだー出てた涙が思わず引っ込んじゃったけどさ。あれはやっぱり言われていたように、裏工作がなされるっぽかったの?感動の波を断ち切んないでよー。
審判員がジムの勝利を告げる。ウワー!とばかりに大熱狂の観衆、家では妹家族とラジオを恐る恐る聞いていたメイが、信じられない、という泣き笑いの歓声を上げ、そしてジョーとその奥さんが喜びあってるのが一番微笑ましくって、大好き。選手だけでなく、マネージャーの妻にとっても夫の戦いの場だったから。
そして、ベア。負けても、満足そうにみえた。この人と戦えて良かった、みたいなね。

荷役の仕事で友人になったマイクが、組織運動を思い立って、フーバー村で非業の死を遂げてしまうのが、あの時代、そういう人たちがきっといっぱいいて、そうやってダンナを失ってしまった女たちも沢山いたんだろうなと……。このことがあったから、未亡人になってしまったこの彼女を見ていて、メイがことさらにベアとの試合を反対したっていうのがあるんだけど、あの大恐慌時代の避けられないひとつのエピソードとして、彼とこの奥さんの存在があるのが、ただ感動してるだけでは済まされないものがあるのかな、っていう……。★★★☆☆


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