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「わ」


2004年鑑賞作品

猥雑ネット集団 いかせて!!
2003年 63分 日本 カラー
監督:上野俊哉 脚本:高原秀和
撮影:小西泰正 音楽:
出演:江端英久 村山紀子 佐々木日記 藍山みなみ 蔵内彰夫 星野瑠海 川瀬陽太 高木鈴華 小川美佳 住吉理栄 下元史朗 伊藤猛 きぬた


2004/4/18/日 劇場(池袋新文芸座/第十六回ピンク大賞AN)
2003年度ピンク映画ベストテン第一位の作品である。
こう言うと非常に語弊があると思うのだけれど、ピンク映画とは思えないテーマ。
現在真っ只中にあるイラク戦争問題がテレビから流れ、呑気な独善者、ブッシュ大統領を揶揄する。
そんな殺伐とした世界の、小さな島国の中で、一人で死ぬ勇気が持てずに、集団自殺をしようとする男女。
あの、一時期まるでブームのようになった集団自殺である。ネットでつながった男女がただ死ぬためだけに集まる。そして道行を共にする。
確かにあの、“男女”という部分に、ピンクの可能性はあったのかもしれない。そんな要素を考えなくもなかった。ああやって見も知らない男女が集まって、そして本当にただ死んだだけだったんだろうか、なんて、いかにも俗っぽいことをついつい考えたりしていた。
でも、きっと本当に死んでしまったあの人たちは、純粋に死んでいっただけなんじゃないかとも思う。本作を見ると。
まさに間際、セックスをすることによって、生きたいという意味がむくむくともたげてくる主人公。
いや、セックスは確かにただのきっかけにすぎなかったのかもしれない。でも本当に欲するセックスを久しぶりに、いやもしかしたら初めてしたということなのかもしれない。

いきなりクライマックスを言ってしまったけれど、そこにいきつくまでにこの集団自殺の呼びかけに集まる男女がそれぞれに描写される。
呼びかけるハンコはそのハンドルネームのとおりハンコ職人。何回ものお見合いが失敗に終わっている。「いい人だと言われるのが苦痛」……死ぬ理由がないことが、彼の死ぬ理由だ。
DV夫に子供をとられたマリア。
友達でもない友達をつなぎとめるために、万引きを繰り返すミュウ。
人間関係を上手く築けず、笑顔が苦手なイノセント。
そして、AV監督と不倫関係にあり、女優として壁にぶち当たっている銀幕。

この銀幕一人が少し、違っていた。彼女は「やっぱり生きてみます」とメールし、一旦はこの参加を辞する。しかし彼女はうっかり(うっかり、だったのだろうか……)このAV監督を殺してしまって、呆然としてハンコたちの前に現われるのだ。
憤るイノセント。「殺せるなら、死ななきゃいい。殺せないから、死ぬんだ」
銀幕は、一人風呂の中でリストカットをして死んでしまう。
その真白な死体を呆然と見下ろす他の四人。一人で死ぬことが出来た彼女に、しかしなぜここでなのかと戸惑いを感じているようにも、うらやましく思っているようにも見える。
この銀幕の存在は彼らに死というものが本当の意味でどういうことなのかを、見せつけたように思える。一人で死ねた彼女にどこか羨望を感じながらも、その恐怖も同時に与えたように思う。

ついさっきまで生きていたはずが、今はまるでろう人形のように横たわっている銀幕……。
彼女の死体を横に、畳の部屋に仰向けに並んで横たわる彼らが、それぞれに隣の相手を欲して絡み合うのは、だって、何だか滑稽な感じだ。
隅では練炭がくすぶり続け、じわじわと彼らを殺そうとしているのに。
その前から、銀幕が呆然と現われる前から、彼らは交わっていた。子供のことが忘れられないマリアはハンコにおっぱいを吸ってもらい、「ママ」と呼ばせて、そして……。
ミュウは最後の風呂に、一緒に入ろうとイノセントを誘った。ミュウの清らかな裸体にイノセントは勃起しミュウは「凄い、生きてるって感じ」といとおしそうに触れる。射精したイノセントの精液を手でもてあそんで「この中から選ばれて生まれてきたのにね」とつぶやく。そして……。
もう、この時点で、彼らは生への欲望が満々ではないか。普段の生活では気づかないでいただけで。

確かに、戦争があったなら、死にたいなんて思わないだろう、脚本家の高原氏が言うように。生きたいと思うのは、本当に死ぬんだ、死ぬかもしれないんだと思うからこそなのかもしれない。彼らがギリギリで踏みとどまったのは。
ここでのセックスはそれそのものの意味というよりは、あのミュウの台詞のように、本当に、生の根源に立ち返っているんだと思う。そして彼らはそれぞれに、もとの場所へと戻ってゆく。
ほとんど、前と変わりない生活をする彼らだけれど、イノセントが少しだけ、変わる。ティッシュ配りのアルバイトをしている彼は、不器用でほとんど受け取ってもらえないんだけど、受け取ってくれた人に、大きく、頭を下げる。彼の中に今までなかった喜びという感情が見えた気がする。小さいかもしれないけれど、人生なんて小さな幸せの積み重ねでやっと成り立っているんだ。

大きく変わってしまったのは、マリア。彼女はあのDV夫を包丁で惨殺する。夫に馬乗りになってザクザクと何度も包丁を振り下ろす彼女。返り血で血まみれになるその姿は、ホラー映画さながらの恐ろしさ。
でも、そのあときれいに洗い落として身づくろいをして子供に会いに行く彼女。子供から「ママ、今日きれい」と言われて嬉しそうに彼女を抱きしめる。ずっと一緒にいようね、と。
本当に、自分の望むものが見えていて、それを手に入れるためにここまでしなければならなかったマリアの突き抜け方というのが、あまりに際立っていて、まるで彼女が本当に幸せそうに見えてしまうのだ。
だって、彼女はそうでもしなければ、その小さな幸せさえ手に入れることが出来なかったんだから。

パソコンの掲示板を思わせる、一言書かれた文字画面が印象的に使われる。最後の「生きてますか?」の問いに、黙々と印鑑を彫っていたハンコが答える「僕は生きています」死ぬ理由がないのなら、生きるしかない。生きていれば、きっといつか、生きる理由が見つかるはずだと、思いたい。

ピンク映画とは思えない、と書いてしまったけれど、制約が少ないピンク映画だからこそ、ここまでのテーマ性を貫けたのだろうと思う。タイトルの「いかせて!!」が、集団自殺で集まった男女が「一緒に逝く」と口にする言葉と、そして何よりやはり、最後に彼らが選択する「生きる」という意味にもダブってきて興味深い。★★★★☆


わが故郷の歌GOMSHODEI DAR ARAQ/MAROONED IN IRAQ
2002年 100分 イラン カラー
監督:バフマン・ゴバディ 脚本:バフマン・ゴバディ
撮影:サイード・ニクザード/シャーリアール・アサディ 音楽:アルサラン・カムカル
出演:シャハブ・エブラヒミ/アッラモラド・ラシュティアン/ファエグ・モハマディ/サイード・モハマディ/イラン・ゴバディ

2004/3/23/火 劇場(神保町岩波ホール)
戦争が日常になってしまうというのはどういうことなんだろうか。
もはやそれが遠い昔になってしまった日本では作りえない映画だけれど、それにしても理不尽な戦闘に巻き込まれ続けるこのクルドの人たちの明るさにはふいを突かれてしまう。だって、怒りと哀しみに満ちているとばかり思っていたから。
いや、確かに、怒りと哀しみに満ちてはいるのだ、もちろん。でも“集団墓地を発見してももう誰もショックを受けない”などという監督の言葉に、こっちがショックを受ける。全てのクルド人が誰かを失っている。怒りと悲しみが日常になると、もう明るさを奏でるしかないのかもしれない。それはどこか……悟りにも似た到達点、なのか。
まだ性懲りもなく戦争を続けようとする人たちは、きっと、まだまだ怒りと哀しみの本当の意味を判っていないのだ。多分、私たち日本人も。
クルド人には、音楽がある。頭上を過ぎゆくジェット戦闘機の爆音でさえ、音楽にすんなりと混じってしまう。それは、音楽が日常であり、そして戦闘機も日常だから。
戦争をやめよう!とスローガンを掲げて平和で豊かな国で行われるチャリティコンサートなんて、この本物の平和への渇望の叫びには遠く及ばない。
彼らの、永遠に続くかと思われるような、体の中から沸き起こる原始のリズム!

クルド人たちの物語を、初のクルド人映画監督が描いた。国を持たない民族、クルド人。四つもの国の国境に分断されるクルド人たちの住むクルディスタンは、それゆえにそれぞれの国に、戦争において格好の利用材料になった。あまりにも理不尽な弾圧、迫害、虐殺……ただ資料を読んでいるだけで、怒りで吐き気をもよおしてしまうぐらい。
つまりは、それまで私があまりにもその事実を知らなかったことを恥じたのだけれど……。
イラン・イラク戦争によって手ひどい被害を受けたクルディスタンが舞台の物語である。イラン側は砂ぼこり、そして国境を越えたイラクは厳寒の雪の世界である。この対比には驚く。見るからに珍道中の始まりだったイランからの出発は、戦争の爪あとを徐々に、そして確実に知らされることになるイラク側となると、深刻な様相を呈してくる。

でもこの映画の基本ラインは、ロマンティックな物語なのだ。ロマンティックにしてしまう強さ。
そのロマンティックが生まれるために、この過酷な状況が必要だった。必要だった、と言ってしまうと御幣があるかもしれないけれども……でも人間には人を愛する力があって、人を許す力があるんだと、そして生きていく力があるんだということを、この状況だからこそ、これ以上なく強烈に語ることが出来るのだ。

クルド人なら誰もが知っている大歌手のミルザ。そして二人の息子もミュージシャン。ミルザはかつての妻、ハナレがイラク側の国境近くで彼に会いたがっていると、イラクから逃れてきたクルド人難民に伝えられる。ハナレはミルザと共に音楽活動をしていて、同じグループのサイードとイラク側に駆け落ちしたのだった。だから二人の息子、アウダとバラートはハナレを憎んでおり(しかも二人とも母親は違うので)、行くことなどないと何度も父親を説き伏せようとするが、ミルザは頑としてきかない。
そして親子三人のイラクへの旅が始まるのだ。

アラビアンなダブダブのズボンをはいて、砂ぼこりの中、三人はゆく。兄のアウダはとにかくうるさくて可笑しい。可笑しいほどにうるさい。「家長が家族を置いてなんていけない!」とずーっとずーっと言っている。もー、うるさいっ!と言いたくなるんだけど、ノーテンキな人物で何か、憎めない。
こいつってば、7回も結婚を繰り返してるんである。その理由というのが、息子が生まれないから。11人の娘を得ても、まだ懲りない。
しかし血にこだわっているというわけでもないらしい。イラク側に渡り、両親を失った孤児たちがたくさんいる難民キャンプで、手続きすれば養子縁組できると聞いて、飛び上がって喜ぶんである。歌の上手い男の子がしかも一度に二人も!と。
ノーテンキな男を通した描写だけれど、このくだりはなかなか、感動的でもある。彼は血のつながらない“息子”でも自分の子供としてきっちり愛し、育てることが出来るに違いないと確信できるから。人にはそういう力がちゃんと備わっているのだ。
女の子もちゃんと大事にしてほしいけどさ。女の子にも歌を教えてよ。

弟の方のバラートは、いまだ独身。サイドカーつきのオートバイがご自慢で、これで三人は旅を始めるんだけど、このハデな旅のカッコがまずかったらしい。強盗に襲われて何もかも、何と彼の金歯まで奪われてしまう。
バラートは旅の途中、歌を口ずさむ美しい声の娘に出会う。声だけで、逆光に照らされた姿はシルエット。しかしバラートは一発、その声に参ってしまって、いきなりプロポーズである。おいおいおい!ホントかよ!と思うけれども、これもまた力強きロマンティック。彼女は、じゃあ結婚したら私に歌を歌わせてくれる?と問う。イランは女性が歌を歌うことを禁じているから、と答えるバラートに女性は背を向けて行ってしまう。あわてて追いかけ「女性でもいつでもどこでも歌っていいんだ!」と焦って声をかけるバラートだけれど、彼女の姿を見失ってしまう。

そこにはある伏線が張られている。ハナレがなぜ、イラクに行ってしまったのかということ。それはただの駆け落ちではなかったのだ。
バラートのような若き世代に、ハナレのような運命を回避する力があるはずだということ。だっていつだって残されるのは子供と女なのだもの。怒りと哀しみは女にばかり背負わされる。言ってしまえば死する者(=男)には、その悲嘆の感情は判らないのだ。
その女たちから歌さえも奪ってしまうということがどれだけ残酷なことか。

バラートがこの女性と再会するのは、イラクの大量殺戮による集団墓地で、である。これは……あまりにも凄い場面で……ひっきりなしに運ばれる遺体、家族を捜しに来たのは全員女性で、天も裂けんとばかりに泣き叫んでいる。ひどい光景だ、とミルザとバラート(すでにアウダは養子をもらえたことで有頂天でこの旅から脱落)は呆然とする。そう……男がこういう場面を経験することはないのだ。いつもいつも女子供が失われたものへの哀しみを一手に引き受けるしかない。
バラートは、兄の遺体を捜しに来ていたあの美しい声の娘をその中に見つける。
ここにはいなかった、としゃくりあげながら言う彼女。また次の場所へ探しに行くという彼女をバラートは追うことが出来ない。
しかしミルザはこれはチャンスだぞと息子の背中を押すのだ。ここからは自分ひとりでハナレを探しにゆく。お前はその彼女についていてやれ、と。

こんな、言葉もないような戦争の爪あとの場面で、それさえもロマンティックを引き寄せてしまう強さが、この映画の素晴らしさ、そして彼らの、人間の素晴らしさだと思う。今までの戦争映画だったらこんな場面にロマンティックを語るなんて、考えられなかった。
そしてユーモアも。強盗に襲われてさるまたいっちょになった警官二人組とか、戦争で難民のけがの治療や闇物資で稼ぎ、サダムバンザイ!などと叫ぶ非道徳な医者もまた身ぐるみはがれてしまうとか。恋人の結婚を阻止するためにと、ミルザたちを脅し、ムリヤリ婚礼の演奏をさせる場面は、そのにぎやかで華やかな雰囲気の中、砂地に埋められた導師とミルザの間をさんざん行き来させられるメッセンジャー役の男の子のウンザリした様子がたまらなくユーモラス。
監督は、ユーモアがクルド人のあらたな武器だと語る。それが凄く判りやすく、共感できる形で提示されている。このあたり、「D.I.」の判りにくさと実に対照的。

ついに、ミルザはハナレのいる難民キャンプに辿り着く。ハナレもまた、クルド人では知らない人のない人物。それは、ミルザを捨てたヒドイ女として。しかしミルザはそんなハナレをちっとも憎んでいないように見える。それはなぜなのか。
女性が歌を歌うことを禁じているイラン。ハナレは歌(=自由)を選んでイラク側に行った。
それをミルザは判っていたに違いない。
歌を選んだはずのハナレがイラク側で遭遇したのは……あまりにも過酷な運命だった。
化学兵器によって声と顔が傷つけられてしまったハナレ。歌姫にとってあまりにも悲惨な悲運。
そしてミルザがイラク側に渡った時、サイードは……一ヶ月前に死んでいた。彼の最後の望みはミルザに埋葬してもらうことだった。サイードはミルザの親友だったのだ。
そう、ミルザは全て判っていた。でも何も言い訳なんかすることもなしに、妻に逃げられた男として20何年もひっそりと生きてきた。
ハナレがどこかから彼を見つめていることも、ミルザには判っていたかもしれない。ハナレがミルザに託したのは、幼い娘のサヌレ。ちょっとないぐらいの、可愛い女の子。まさに、未来の子。ミルザはその子を背負い、道なき国境を一人、また渡ってゆく。

ひっきりなしに続けられる爆撃。ミルザたちが途中出会う、飛行機のことを子供たちに教えている教師がいる。人や物資を運ぶ飛行機は、しかし一方で破壊を繰り返す悪でもあると、彼は教えている。かなたに飛んでゆく飛行機をまぶしい目で見上げる子供たち。
空から見ると、人々が豆粒のように小さくて、まるでネズミのようにしか見えない。サダム・フセインにとって、そんなネズミを殺すことなんて実にカンタンなことだったのだろう。
人間は、息のかかる距離で、触れ合うことが出来る距離で、判り合わなければならない。一度そうすれば、離れてしまっても、ミルザとハナレのように、ずっとつながっていられるのだから。★★★☆☆


笑の大学
2004年 121分 日本 カラー
監督:星護 脚本:三谷幸喜
撮影:高瀬比呂史 音楽:本間勇輔
出演:役所広司 稲垣吾郎 小松政夫 高橋昌也 吉田朝 陰山泰 蒲生純一 つじしんめい 伊勢志摩 小林令門 坪内悟 長江英和 石井トミコ ダン・ケニー ルカ・チュホレッティ 河野安郎 小橋めぐみ 眞島秀和 木村多江

2004/11/28/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
じっつに魅力的なレトロな美術に、うっとり見とれるところから始まる。特に昭和初期から戦前の実在のポスターを使用したというクレジットなど、ため息が出るほどのセンスの良さ。そうかー、その時代を匂わせてあらたに作ったものかと思った。それぐらい、当時すでにこんなに洗練されていたんだ。
それにしても三谷脚本の映画化はハズレがない。彼自身が演出しても、他の人がしても。私、どうも舞台畑の人の作る映画とは相性が良くないんだけど、三谷さんのはどれもこれもすっごく好きなんだな。面白いのは当然なんだけど、隙がなくて、ヤラれた!と思う。映画になる三谷脚本はしかし、密室が多いし舞台向きであってもけっして映画向きとはいえないものばかりなんだけど、ロケーションの多い映画向きのそれよりも圧倒的に映画として面白い。何でなのかなって、今までもちょっと考えたことはあったんだけど、今回その答えが出たような気がした。

ギャップの面白さ、なんだ。
本作は、まさしく全てがそれと言ってもいいぐらい。三谷作品の最高傑作と呼ばれる脚本が、稲垣吾郎と役所広司の二人劇と知った時、正直ちょっとえー?と思ったんだ。ゴローちゃんがコメディ?うーん……みたいな。でも、それだったんだ。まさしく。
戦時下真っ只中、喜劇を取り締まる検閲官とその脚本家の攻防の物語。喜劇にはムリな条件をどんどん提示されるのに、脚本家はそれで引っ込めるなんてことを絶対しないで、その厳しい条件のもと、またあらたな笑いを考えてくる。条件が厳しければ厳しいほど、つまりはギャップの深さが増して可笑しさを産む。スマップの中ではもっともコメディとは遠いところにいそうなゴローちゃんだからこそ、そのギャップを最初から生み出してるわけなんだ。
彼と一対一で相対する役所さんは何やっても上手いから何も不安はなかったけど、思えば彼だってマジメ系の役者さんなわけで、この役柄だから余計にマジメ一徹で、だから返って可笑しいわけで。
しかも、このキャスティングは三谷さん自身が希望したという。さっすが世界の全てを握っている脚本家、判ってるんだよな、そのあたり。

もともと三谷さんが古きよきアメリカのシチュエイションコメディが大好きだってのは知ってたけど、日本の黄金期のそれもまた同じぐらい精通してるんだね。やっぱり三谷さんはすっごいな……彼の凄さは、そうした知識の凄さじゃなくて(もちろんそれは前提にあるけれど)、何より喜劇が好き!古今東西の喜劇が好き!というねじれのなさにあると思うのね。
今をときめく脚本家のクドカンがね、どうもどこかクドカンクドカンしてる(なんじゃそりゃ)、どこを切ってもクドカンという、まあいわば個性の強さがあるのに対して、三谷脚本がそれがないとは言わないけど(こんな面白さは彼にしか書けないよな)、全くイヤミなく面白いのはそのせいなんじゃないかと思うわけ。
スタンダードなものだから、誰が見ても素直に笑える。個性だけど万人のもの、そういう才能があるんだよなー。

そう、そして密室での話。舞台でこそ映えるであろう話が、なぜここまで映画として面白いのか。三谷さんは映像の脚本も早くからやっていたせいもあるのかなとは思ってたんだけど、それだけじゃなくて。
一箇所限定、密室での話。映画だから、一応そこから出た場面も用意されてはいるけどほんのわずかで、なくても支障ないくらい。
それでもなぜだか、映画にして面白い。これもまさしく、ギャップが生み出す面白さだってことに、今回遅まきながらようやく気づいた。
密室での二人劇。その緻密な面白さは舞台でも映画でも共通のものだけれど、その息詰まるものがあるからこそ、ちょっと外に出た時、それだけでスゴイ開放感があったりする。それはまさに、映画だけのもの。
映画には足かせになるようなことが、返って面白くさせるんだ。
まさにこの映画の言いたいことじゃないの!
制限があるから、それだけそこからハズれた時の反動が大きい、っていう。

“息詰まる二人劇”だからといって、“映画的”あるいは“舞台的”にこだわってヘンに長回ししたりしない。カッティングにいいリズムがある。監督さんは三谷さんの信頼の厚い、テレビドラマでの演出家だった星氏。映画になったとたんそんなヘンな意識が働いて長回しをやたら多用したりする人もまあ……いるけど、そんなこともなく、非常にイイリズムで観ていられる。逆にカットを切りすぎるということもなく、かといって、切る時はキッチリ刻む。なるほど、あの三谷さんが信頼を寄せるだけの人なんだね。

さまざまな劇団が、検閲を受けるために訪れている。あるものは泣く泣く受け入れ、あるものはプライドを曲げることを拒絶して上演中止に追い込まれる。しかし、劇団「笑の大学」のお抱え作家、椿だけは違っていた。
いや、椿が違っていたというよりは、検閲官の向坂の態度が椿にだけ違っていたのかもしれない。
お話にならないと上演不許可にすることだって、言うところを直せば上演許可を与えることだって、どっちだって出来たのに、向坂はわざわざ含みのある言い方をするのである。
「このままでは上演は許可できません。このままでは。あなたも作家ならこの言葉の意味を読み取れると思いますが」
ここでオチバレだけど、向坂は最初から椿の脚本にホレていたのだ。腹の底から笑うことなどなかった彼が、椿の脚本に感服して、持ち歩いて読んじゃあ爆笑して。だから、このまま彼を帰したくなかったのだ。
いわば、これは恋と言ってもいいぐらいの展開である。
相手を帰したくないから、引き止める。無理難題が提示されるごとに恋が愛へと深まる、みたいな。

密室なのに、いや密室だからこそ、このライブ感!二人の熱によって、この一室の温度が上がっているのが見えるようである。
脚本家と検閲官のハズが、いつのまにやら共同脚本の趣になってる。
そりゃあまあ、百八十度立場の違う二人なんだから、お互いに牽制しあってる。でも思えば……牽制しているのは検閲官、向坂の方だけだったのかも、なんて思う。彼は最初から椿の才能に感服してたから。「いつかネをあげるだろう」とか言いながら、本当は、彼が繰り出すアイディア、そのライブ感に酔いしれて先延ばししてたに違いないから。でも、立場上そう言うわけにはいかないから……まるで、許されない恋をもう少し、もう少しと言いながら深みにはまっている、そのものじゃないの。
なぜ許されないか。それは、戦争というもの。国家というもの。お上というもの。時代というもの……。
今の日本では、何ひとつない要素だ。
今の日本は創作においてほぼ完全に自由だ。野放しといっていいぐらい。
戦争はあってはいけないもの。国家権力による弾圧もあってはいけないもの。でも、完全な自由が生み出す創作が果たしていいものを生み出すのかといったら、ほとんどノン、なのだ。
創作は、抑圧によっていいものが産まれる。なんという皮肉なことなんだろう。

どんどん深みにハマっていく向坂。口では、「喜劇など、全部禁止してしまえばよい」「こんな時代に、何が喜劇か!」そう言いながら、果ては、役者役を買って出るまでになる。「笑の大学」の舞台まで観に行って、さも仕事のうちだとでも言うように、看板役者(小松政夫!)のベタっぷりを批判なぞしたりする。でもそれは、向坂が椿のホンの面白さを最大限に買っているからこそであることを、ひょっとしたら向坂自身さえ気づいていなかったのかもしれない。
椿が脚本の中に必ず入れてくる決り文句(一発ギャグ)や「お約束」と言われるベタな設定を、つまりは一般的に言えば矛盾になるものを「気になるんだ」と譲らない向坂。
後から思えばね、私は……向坂が椿のファンになっちゃってるから、少しでも彼と長くいたくて、あるいは関わりたくて、そんなことを言ってたんじゃないのかな、なんて思ったりもしたんだけど(夢見る年増はそーいうことを考えるのがスキなのよ)、実際その向坂の提案が、「お決まり」で片付けていた椿の脚本を、必然性のあるものにしながら、更に面白くしていくのだ。

椿は才能があるけれども、どこかそのお決まりに縛られていたトコがあって、つまり、お約束だからウケるから、安心だ、みたいな予定調和。それは言ってしまえば……平和な世の中そのもののような。向坂は今が平和な世の中ではないということを、椿よりは知っている立場の人間だから、本能的に譲れなかったのかも、などとも思う。本当に、皮肉な話だけれど。
そうしたお決まりや矛盾が向坂によってどんどん取り除かれ、椿は自分ではすっかり判っていたはずの喜劇の本当の面白さに目覚めてゆく。
この展開、もちろん三谷さんは一人でそれを書いているわけなんだけど、自分が作り出した向坂というキャラによって、三谷さん自身が椿になって目覚めさせられてくみたいな感覚をすっごく与えられる感じがあって、そういうのが、才人ってことなんだな、きっと。

最後、結構泣いちゃった。それこそ、“お約束”なんだけど……「お国のために、死んではいかん!死ぬのはお肉のためだ!」と椿に叫ぶ向坂に……。

この攻防の中、信頼関係が生まれ、椿は向坂に告白する。自分はこうして戦っているんだと。これが自分の戦い方なんだと。どんな条件を出されてもくじけない。その上で、さらに面白いものをつくってやる!と。向坂さんなら判ってもらえると思って話した椿だけれど、向坂は「聞きたくなかった」と激しく拒絶し、今までのなごやかムードが一変、「笑える部分を一切省いた脚本を書いてくること」という、まさに究極の無理難題を提示してくるのだ。
椿はそれでも、どんな厳しい条件でも何か突破口があるはずだ!って、その条件を飲むのね。でも、翌日椿が持ってきたのは、それまで二人で試行錯誤してきた脚本がまるで別物になるほどのシロモノで……しかも、徹底的に、素晴らしく、笑いのたえない、喜劇として完璧なホンだったのだ。
ナゼだ、どういうことだ。と向坂は問う。思い出し笑いを必死にこらえながら。完璧じゃないかと。自分は83回も笑ったんだと、「正」の字を書いたページを見せることさえする。
椿は言う。自分に赤紙が来たんだと……。
そして、あの向坂の台詞なのだ。「お国のために死んではいかん!生きて帰って来るんだ!」

国の“末端”で働いている向坂は、それこそ死んでも言っちゃいけない台詞でしょう?権力との戦いを、向坂を信頼して告白した椿に、もしかしたら共感していたかもしれない向坂だけれど、この、どこで聞き耳を立てているやも知れない公の建物中では、首肯するわけにはいかなかった。だからあんな無理難題をふっかけて、激昂したフリをして……(私にはそう見えてしまったんだけど)。
でも、向坂は、83回も笑ったという完璧なホンを書いた椿に、もう自分をいつわることが出来なくなったのだ。あれほど権力と自分なりの形で戦うと言っていた椿が、その権力のために死ぬかもしれない。密室さえも出て、廊下で、しかも絶叫する向坂。その、検閲官ではなく、友人としての言葉に頭を深く下げる椿。今までも、腰から折れるほど辞儀をしていた彼だけれど、だからこそ、ここでのそれこそがホンモノだって判る。……涙が出る。
ずっとドアの外で二人の攻防を薄々と感じていたまさしく古い、国家に使える大和人、である高橋昌也の敬礼は……微妙だけど。
こんな、楽しい物語にもある、戦争の影。
いや、この時代にしたのは、それを言いたかったがためでしょ。
三谷さんは決して言わないかもしれない、けど、戦争への激しい拒絶がすっごく、感じられた。
「お国のために、死んではいかん!死ぬのはお肉のためだ!」なんて名台詞なんだろ。

ラストシーンは、三谷氏と星監督の間で、議論が続いたんだという。この椿のモデルは喜劇王エノケンのお抱え作家であった青森出身の菊谷栄という実在の人物(いやー、やあっぱり、青森は天才を生み出す土地だね!)。喜劇を愛した才人は、招集されて二ヵ月後、玉砕してしまった。
菊谷を敬愛する三谷さんは、彼が戦争によって殺されてしまったことを、そういう結末を譲らなかった。一方、星監督は映画として希望のあるラストを望んだ。どちらの気持ちも凄くよく判る。そうした結論を出していない、あいまいと言われるかもしれないラストシーンは、でもやっぱり星監督が三谷さんのそうした深い思いをくんで、控えめに、そうした静かながらも熱い思いを存分に感じられるものになってて……だから、泣いちゃうんだよね、きっと。
そして、彼だけではなく、その戦時下の検閲によって、喜劇を笑えないものにさせられて、消えていった喜劇人がたくさんいるわけで。
三谷さんはその人たちへの限りない尊敬と愛情と鎮魂として書いたんだよね、きっと。

「こんな時代に、人を笑わせることが必要なんだろうか?」
「必要だと思います」
笑っている観客たちがさざなみのように揺れるシーンが何度も何度も挿入されていることを、思った。笑うことに、必死になっているとさえ思えるような。
笑うことに必死にならなければ、生きていることにしがみついていけない時代と、本当の意味での笑うことを実感していない今の私たち。
笑顔と幸福は一致していると思っていたけれど……果たしてそうなんだろうか。
ヤダな、コメディにこんなシリアスに考えちゃうなんて。それこそ、“こんな時代”だからなのかな。★★★★☆


嗤う伊右衛門
2003年 127分 日本 カラー
監督:蜷川幸雄 脚本:筒井ともみ
撮影:藤石修 音楽:宇崎竜童
出演: 唐沢寿明 小雪 椎名桔平 香川照之 池内博之 六平直政 井川比佐志 藤村志保 MAKOTO 松尾玲央

2004/2/24/火 劇場(新宿文化シネマ)
京極夏彦作品初の映画化、って、あれ?「京極夏彦『怪』七人みさき」はそれに当たらないのか……あ、あれは先にWOWOWでの放送があったからなのかと思い出す。京極夏彦、興味はありつつもその作品を読んだことはなくて……イメージとしては凄く映像的というか、耽美な映像的、な感じがするんだけど、世間的には京極作品の映像化は困難と言われているんだという。そして京極氏自身も、映像化には抵抗があるのだと。その京極氏を「参りました」と言わしめたこの作品は、「青の炎」では今ひとつピンとこなくて首を傾げてしまったこちらにも納得させる作り。それは、これもまた蜷川幸雄のイメージ……まがまがしい耽美さ、とでもいうような部分とピタリとリンクするものがあったからなのかなと思う。時代といい物語といい、その設定がはっきりとフィクションとされているから、画面の隅々まで作りこまれた美術が一つの完成された世界観を持っていて、むしろその中にあってこそ人間の情念だけがナマなもので、そっちの方がとても生々しく感じられる。

これは京極版・四谷怪談、であって、一般的に見知られている四谷怪談の話にヒントを得つつも、その人物設定も展開も当然、大きく異なっている。岩の顔が崩れたのはオリジナルのように伊右衛門が岩に毒を盛ったからではないし、岩の親、佐平も伊右衛門の手によるものではなく病死、お梅も喜平の娘ではなく、愛人である。登場してくるキャラクターは皆押さえているし、基本的な人間関係や印象的な部分はオリジナルを彷彿とさせながらも、岩と伊右衛門が最後までお互いを愛し合い、慈しみあうという、オリジナルを大きく裏切る物語となっていることに、その豪腕に唸る。無論その部分に関しては京極夏彦のストーリーテラーとしての力である。そしてそれをこれまでの四谷怪談のイメージを振り切りつつ、京極氏の力を借りつつもかわしつつ、ニナガワワールドに作り上げたのは監督の力量、である。まあでも……どうしても四谷怪談の様式美の名作、中川信夫版などをついつい思い出さなくもないけれども……蜷川作品は、ホラー色はないものの、色味を落として艶めいた情念をかもし出すその世界観は、どこか中川版の情念たぎるあの傑作を思い出させもするから。そういう部分ではどちらに軍配をあげるかといえばそれは無論……なのだけれど。

岩は顔の半分が崩れながらも、それでも凛とした自分を失わない女性である。それはちょっと意固地なまでに。演じる小雪は、「ラスト サムライ」から時代劇連投。しかしこの人の華奢な柳腰と白雪のようなもち肌は、時代劇の、地味ながら力強く生きる女、が似合うんである。それにこんなメイクをしながらも、彼女はしっかり、美しい。街の人々は、こんな顔になっても気にせずに前を向いて歩いてゆく岩を恐れながら揶揄するのだけれど、岩と直接関わる人たちにとって、岩は醜い女などでは決してない、どこも醜くなんかない、美しい女なのである。心の醜いものには、それが見えていないのだと。

伊右衛門が岩の家に婿入りしたのは、しがない浪人生活をおくる伊右衛門を慕う御行乞食、又市(香川照之)が、双方を不憫に思うこともあり、彼ならば岩のいい夫になれると踏んだから。岩と伊右衛門は当初、お互いの気持ちが汲み取れずにぎくしゃくした夫婦生活を送るのだけれど、次第にお互いを深く理解し、慈しみ、愛し合うようになる。それが面白くないのが、昔、岩に言い寄っていた成金筆頭与力、喜平である。彼にとってかつて執着していた美しい女の顔が崩れてしまったのも、その顔をいとわない伊右衛門も、その伊右衛門と岩が愛し合うのも、何もかも、何もかもが気に入らないのだ。この喜平を演じるのが椎名桔平。愛人の梅をべろんとおっぱい丸出しにして砂利の庭に押し倒すなど、鬼畜満開、イイ男だけに似合ってて、やらしいぐらいの悪党である。喜平の策略に岩も伊右衛門もまんまとはまってしまう。なぜそれほどまでに……それは岩と伊右衛門がお互いを純粋にそして深く愛しているから。むしろ喜平は二人が自分の撒いたエサによって憎みあい修羅場になるのを期待していたような向きがあるのに、二人とも相手に落ち度があるわけがない、不義があったとしたならばそれは自分のせいなのだと、そう静かに言うんである。喜平はますます、気に入らない、とごちる。彼にとって純粋に愛し合う二人など、あってはならないのだ。

梅は喜平の子をはらんでいる。しかし子をはらんだ女などジャマだとばかりに、岩との仲を引き裂いた伊右衛門に喜平は梅を押し付ける。しかしそれでいて子を産んだあとの梅とヤリに、五日ごとに喜平は通ってくる。まさに、鬼畜である。伊右衛門は梅を形の上では後妻に迎えたものの、岩を思い続ける気持ちは変わらない。伊右衛門を慕っている梅には指一本も触れず、邪魔にされている赤ん坊を不憫に思い、慈しむ伊右衛門はまるで……そう、その赤ん坊に岩を見ているようでもある。

伊右衛門が不幸にならないようにと自ら身を引いた岩は、そのことを又市らから聞かされ、怒り、狂う。静かに彼への愛を抱えて生きるつもりだった岩にとって、愛する人の幸せが自分の幸せなのだと、どこか言い聞かせていた節のある岩にとって、その事実は確かに、正気を失うほどの狂乱だったに違いない。岩は又市とともに知らせに来たあんまを狂うままに打ち殺し、家中を破壊しまくって、駆け出してゆく。その先は……愛する伊右衛門のところへである。
梅と喜平のむつごとを邪魔せぬよう、子を抱えて凪いだ川で夜釣りをしている伊右衛門の元に、その川の中にぼうとたたずむ岩は、まさに狂女そのままに乱れた髪で、しかしあっけにとられるほどに美しい。伊右衛門は、ちらりとその姿を認めただけで岩だと判る。これがニクイというか……伊右衛門が片時も岩のことを忘れたことなぞなかった、こんな風に会える日をきっと夢見ていたに違いないことが判るのだ。

四谷怪談に不可欠な、岩が伊右衛門に言う「恨めしや」という言葉は、ここでこの京極版岩の口からも語られる。しかしその意味するところは、これまでの恨めしやと、驚くほどに正反対なのだ。愛していると同義語ともいえるその言葉は、しかしやはり恨めしやでなければいけない。岩が恨めしいと思っているのは、自分がこれほどまでに幸せを願っている伊右衛門が不幸であることに対してであり、そんな状況であってもやはり自分の愛するあの伊右衛門だということに対してであり、自分がどうしても彼のことを愛している事実が変わらないことに対してであり……そして最も、一番は、幸せになるために自分を忘れてほしいと願っていた伊右衛門が、彼女と同じように思い、そして同じように自分を愛し続けてくれていた、ということに対してなのである。ネガな要素をふんだんに含んだこの愛していると同義語の恨めしやは、愛していると単純に同義語には出来ないほど、もっともっと愛そのものの情念にあふれていて……抱きしめあう二人のそのほとばしりには、圧倒されて、しまう。

笑うということを知らなかった伊右衛門が、笑う、いや、皮肉混じりな嗤う顔を見せるのは、岩との愛を全うするために、鬼神となって、返り血を浴びた……その時である。生きるも死ぬも変わりはない、と言って岩を抱きしめた伊右衛門が、この世ではなくあの世で岩との愛を成就させようとしたのは明らかだった。この点はオリジナルに忠実に……伊右衛門は岩をその手にかけたんだろう。そのむくろを衣装箱に入れ、その上に端座して彼は討つべき敵を待つ。喜平を、そして自分の子をジャマとばかりに死なせた梅を斬り殺す。梅はちょっと可哀想な気もしたけれど……彼女は伊右衛門を恋い慕っていたわけだし。でも伊右衛門にとって、岩との愛以外はもはや何も、ないのだ。その点で伊右衛門もまた鬼畜だったともいえる。岩との愛を成就するためにジャマなものを、全て斬り捨てたのだ。なるほど、愛は残酷なのに違いない。純愛とは、それ以外いらないと全てを切り捨てることなのだと考えたら……こんな残酷で、そして純粋なものはない。

伊右衛門側の物語と同時進行で語られ、喜平に最初に復讐を遂げんと斬りつける直助(池内博之)の物語も壮絶で、忘れられない。伊右衛門に協力を請うため、自分の顔の皮をひんむく彼の心情のすさまじさは圧巻である。彼は妹を喜平達一味に陵辱された。しかし妹がその後自害したのはそのことを悲観したのではなく、妹にホレていた直助が清めるためだといって妹を抱いたからだというのである。人を不幸にするのを喜びとしている喜平に、切り札としてそれを投げつける直助は、喜平に斬られることこそが本懐だと言って……その刃に嬉々として倒れるのだ。池内博之、入魂の熱演。この場面は彼がまさに主人公、さらった。

岩の美しさを最初に認め、いい脇役であり続ける又市に扮する香川照之は、最後の場面まで二人を見届けるイイ役。しかしみょーに気になるのは、相棒のあんまとの関係?蒸し暑い雨の日、裸同然の姿で上に乗りかかってあんましてもらうこの二人は……相手が六平さんっつーのもやたら肉体!だし、何だかヤバい雰囲気だなんて感じるのは……間違ってる?

どこか舞台調を思わせる小雪の言い回し(なんじゃ、なんじゃ、とか。)がちょっと気になった、りして。★★★☆☆


悪い男 /BAD GUY
2001年 103分 韓国 カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:ファン・チョリョン 音楽:パク・ホジュン
出演:チョ・ジェヒョン/ソ・ウォン/チェ・ドンムン/キム・ジョンヨン

2004/3/2/火 劇場(新宿武蔵野館)
息も出来ない、衝撃だった。まるでハンマーで頭をガツンと殴られたような。こんな衝撃は「魚と寝る女」以来かも、と思ったら、同じ監督だったとは、キム・ギドク!もうダメ、負けた。何ということだろう。だって、こんなのありえない。そんなはずない、そんなはずないと思うのに、どうしてこの二人を愛として、愛としてしか受け止めることが出来ないの!だってそんなはずないじゃない。理不尽に騙されて、娼婦として売り飛ばされて、絶望のどん底に突き落とされて、めちゃめちゃに陵辱されて。なのに、そんな境遇に堕とした男を激しく憎むと同じく激しく愛するなんて、そんなことありっこないのに。そしてそんな男がその彼女に対しての純粋な愛に苦しむなんて、そんなことありっこないのに。そう、確かにこれはファンタジーに違いない。だけどファンタジーの中にも理想があり、真実はあるんだ。この二人を演じるチョ・ジェヒョンとソ・ウォンのすさまじいまでの気迫の演技はまさに真実で……これに対して異議をとなえることなんて、できっこない。

冒頭、いきなりなのである。いきなり、やられてしまうのだ。可憐な女子大生のソナ。手には西洋美術史の厚いテキストを持って、恋人を待っている。そのソナを雑踏の中に見つけて目を見張るハンギ。ちょっとダウンタウンの松ちゃん入っているような、坊主頭に日焼けしたハンギは、一見して裏社会に生きている男だと判る。引き寄せられるようにソナの座るベンチの隣に腰をおろすハンギ。しかし汚いものでも見るかのように席を替わられ、待ち合わせしていた恋人とイチャイチャするソナ。ハンギは突然、暴力的に彼女の唇を奪う。顔を押さえつけて離さない。ソナの恋人が殴りつけても引き離そうとしても、離れない。騒然とする雑踏。

こんな、冒頭シーンがあっていいんだろうか。予告編で見た時からショックだったけれど、本編で見てもやはり呆然としてしまう。アップを多用して細かく刻んだカットのリズム。ソナがハンギにツバを吐きかけるまで、まるでガガガッ!と刻まれて、取り残されてしまいそうになって焦るぐらい。これで、わしづかみにされてしまった。
ハンギは憤る。まさに、理不尽に。それは今から思えば、あの一瞬でソナに惚れ、彼女が運命の女だと悟ったからなんだけれど、この時の彼にはそれは判らない。ただ、侮辱されたという思いに憤るだけである。ハンギはソナをワナにはめる。本屋で彼女の目の前に大金の入ったサイフを落とす。彼女はついついそれを懐に入れてしまう。まあ、ちょっとこんなことしちゃう彼女もなんだなとも思わなくもないけど(その前に画集のページ破ってるし……これは物語のキーとなるから仕方ないけど)そのことで彼女は脅され、高利貸しの契約にサインさせられてしまう。そして返せない彼女は、娼婦に身を落とすことになる。

みるみるうちの、まさに悪夢の転落。ソナは……やはり処女だったのだろう。「自分には大好きな人がいる。その人に最初に抱かれたい」その台詞で、判る。街角でラブラブなデートをする彼女は確かにそんな風にウブな感じだったけれど、やはりそうだったのだ……でも、その願いは叶わない。ソナの恋人は何だか歯ごたえのない男で、ソナのその必死の思いを汲み取ってやることが出来ない。そしてソナは……奪われてしまう。
客に服をはがされて、ハダカにさせられるソナ。強烈な恐怖と恥辱で、固く丸まって抵抗するソナ。彼女が客に指名された最初と、二回目までは、さすがに見ていられない。あまりに、残酷で。あまりに、理不尽で。吐き気がしてしまうほど、あまりにもひどかった。泣き叫ぶソナ……まるでレイプ、いやレイプそのものの、画だった。
そんなソナをマジック・ミラーのこちら側からハンギは見つめているのだ。ずっと。
なんなの、こいつ!?と思う。いや、思っていた。でもそのハンギの表情がいつも何か……見守るといったらヘンなんだけど、何か哀しさに満ちていて、その矛盾に、心の居心地をどこに持っていったらいいか、判らなかった。ソナが慣れるまで、無理矢理ヤろうとする客を排除したりするハンギに、確かにソナをこんな境遇にしたのは彼なのに……何だか憎みきることが出来なかった。

ハンギを憎みきることが出来ないのは、その大きな理由は、彼自身はソナに手出しをしないということにある。実に映画の最後の最後まで、ハンギはソナとセックスすることはない。
思わず、こいつ不能?と思ってしまうほどなのだけれど、客と寝るソナを目に焼きつけて他の女に激しく挿入する場面が出てくるから、そういうわけではない。
つまりはこれは……究極の、本当に究極のプラトニック・ラブの物語なのだ。
ハンギは見つめ続ける。女になってゆくソナを。
実際、ソナは……確かに娼婦に“堕ちて”ゆくわけだけれど、どんどん綺麗に、どんどん魅力的になってゆく。なんという皮肉なことか。ハンギの世界に近づいてゆけばゆくほど、手出しが出来ないような凛とした美しさをたたえてゆく。
ソナは脱出を図ったこともあったけれど、連れ戻されて、そして腹をすえた。なら、その金を返せばいいんでしょう、と思ったのか。最初はおとなしめの衣装に身を包んで椅子に座ってじっとしていたのに、次第に、大胆になってゆく。光沢のある、露出度の高い扇情的な衣装とカラフルなウィッグ、派手なメイクで輝いてゆく。その目線だけで客をとりこにし、同じ店で働く先輩に、泥棒猫と攻撃されるほど。お兄さん、お兄さんと客引きしたりと、玄人の技を身につけてゆく。
本当に、ソナは綺麗。一番最初の白いミニの衣装もロリ風ですっごく可愛かったけど、そう、美少女から美女に変身してゆくのだ。そのしたたかともいえる強さにはただただ驚くばかり。

韓国は風俗がずいぶん大胆に許容されているんだ、と驚く。この風俗街。ガラスケースの中にお人形のようにきらびやかでセクシーな格好をした女たちが男たちを待ち構えている。その板ガラスからひらひらと手を振り、お客の手をとり、金を稼ぐ。
このショウウウィンドウのような浮世離れした風景は、まるで……ある意味夢の世界のようだ。
ソナはしかしまさに地獄に突き落とされているし、逃げられないし、そこの女主人もかなりコワい人なんだけれど、でもその一方で母親のような慈愛にも満ちていて、どつく先輩たちも姉のような雰囲気もあって、不思議な共同体を構成しているのだ。
そして、いつもハンギがソナを見つめ続けている。ハンギの子分のミョンテはソナに岡惚れして、客として彼女と寝たりしているけれど、ハンギは彼女に触れようとしなかった。しかしある時、ハンギはソナの部屋に入ってきた。彼女を押し倒し、その胸に顔を押し付けたけれど、でも何もせずにそのまま安心したように眠りについた。戸惑うソナ。ソナはそのままハンギのかたわらで夜を明かした。
彼女の中の、何かの変化が見えてきた気がした。

ハンギは子分の罪を自分がかぶって、刑務所に入ってしまう。それまでの前科を考えると、極刑はまぬがれない。ソナは動揺する。世界一憎い相手が死ぬ、そのことに、狼狽する。
ソナは、その子分、ジョンテに連れて行ってもらってハンギに面会に行く。彼にぶつけた言葉、「私をこんなにして自分だけ死ぬなんて無責任じゃない」そして「あんたが死んだら、私はどうすればいいの!?」……泣き叫ぶ。
ソナはハンギを愛してしまったのだ。……なんということだろう!そして……なぜそのことを、私は受け入れられるのだろう?
ハンギは本当にヒドイ奴だ。死んだってかまわないぐらいのことをした男なのに、なぜ、なぜソナの気持ちが判ると思ってしまうのだろう?

これは、ストックホルム症候群に当たるのかもしれない。それを題材にしていた「完全なる飼育」、でもその映画シリーズに結局はその愛を信じきることが出来なかったのに、本作ではそれを、なぜか、なぜだか100パーセント信じることが出来るのだ。
作品の持つパワーの問題も大きいけれど、ひとつ、決定的に違う要素として、本作ではハンギがソナを抱いていないことが大きいんじゃないかと思う。
勿論その一方で、ソナは心ならずも多くの男性に抱かれ続けて、これ以上はないぐらい深く深く傷つくのだけれど、でもハンギに対する奇妙ながらも深い愛情が芽生えてしまい、それを観客に納得させてしまうのは、やはりその部分なのではないかと思うのだ。
他の男に抱かれるソナを見続けて、ハンギもまた深く傷ついている。
そう仕向けたのはハンギ自身なのだから、そんなこと言えた立場じゃないのはそうなんだけれど、腹をすえたソナがどんどん綺麗になっていくものだから、ハンギの傷を納得させられてしまうのだ。

それまでは、セックスを知らなかったソナ。好きな人にまず抱かれたいという思いも断たれてしまった。そんな彼女にとってセックスは、愛情表現ではもはやなくなってしまったのだ。このとき、ソナを抱く中にハンギも混じってしまっていたら、ソナはハンギを愛することなどなかっただろう、やはり。残酷な運命の神様が愛させた男は、自分に手を出さない。ソナにとってハンギを愛する手段は、彼の前で他の男とセックスすること、だったのかもしれない。そしてハンギを罪悪感で深く傷つけ、もっともっと、自分を愛してもらう手段なのだ。
実際の犯人であるジョンテが自首したことによって、刑務所から出てきたハンギ。ジョンテはハンギを深く崇拝していたから、なんだけど、でもジョンテもミョンスと同じようにソナに惚れていたんだろうと思う。いや、ミョンスよりもきちんと(?)した意味で。ハンギを前に泣き叫んだソナを見て、彼女の気持ちを察したんだろう、だからジョンテはハンギを救うために自首したんだろうと思う。
出所したハンギはソナの部屋をマジックミラーでのぞく。いつものように。ろうそくを点して見つめているハンギにソナは気づく。鏡を叩き割るソナ。
世界で一番憎み、そして一番愛している男の頬を、右、左とソナは殴りつける。泣きながら。ハンギは彼女をふいに強く抱きしめる。嗚咽をおさえきれないソナ。

……凄い、シーン。胸が熱くなる。なんでなの、だってソナは……ハンギにひどい目にあわされたのにと思うのに、胸が熱くなって熱くなって、たまらないのだ。そんな自分に腹が立つほど。
ハンギはソナをもとの場所に送り届ける。最初に会ったあのベンチ。あの時と同じように二人並んで座る。膝だけのスカートからのぞくソナの足。最初はまっさらで、清らかに美しかった足が、今は痛々しくもアザだらけになっている。ハンギは彼女にわびるかのように、彼女をおいて、去ってゆく。

ハンギは荒れる。彼女を失ったことに、その予想外の哀しみに狼狽するかのように荒れ続ける。そしてこの映画でたった一言の台詞を搾り出すように口にするのだ。「ヤクザ風情が愛だなんて!」と……。
そうだ、それまでハンギは一言も発していなかったんだ……。
「幸福の鐘」の時に、その台詞ナシの意図があからさまに判ってしまってちょっと興ざめしたものだけれど、本作のハンギは、それこそがまさにハンギで、だからこそその一言に、鳥肌が立って、脳天を突き破ってしまった。
ハンギの喉には深い傷跡が刻まれている。このヤクザな稼業で負った傷なのだろう。
そういえば、言葉を発しない、顔(首)にキズ、というのは、「魚と寝る女」で既に見られたファクターだった。
その一言も、ヘンにうわずったようなヒューヒュー声で、彼が声を発するのが大変だということが、判る。もともと無口な性格でもあるんだろうけれど。
でもそれでも、彼はそのことを言わずにいられなかったんだ。
本当の、本心は、ソナに対する愛の言葉だったのかもしれない。愛していると、叫びたかったのかもしれない。
でも、自分にはそれを叫ぶ資格があろうはずがない……。
でも、ソナは戻ってきた。この娼婦街に。
それは今やソナはあの純真でウブな女子大生には戻れないということでもあるんだろうけれど……ハンギの元へと、帰ってきたのだ。

最後のシークエンス、ソナはハンギとともに軽トラであてどなく旅をしている。立ち寄った漁港でハンギはソナに客を与え、それが終わると二人寄り添い、果てしない道へとトラックを走らせる。
これを切ないと言っていいのか判らないけれど、最上に究極に切なくやるせなく、こみ上げるラストシーンだ。プラトニック・ラブというものが存在するとしたら、こういう形なのか。そして思う。相手を養うこと、食べさせることが愛情表現の一つだとしたら、ソナは確かにハンギに愛情を示しているのだ。大概の場合、男の専売特許と思われているその表現を女がする場合の、……究極のそれ。

ソナが本屋で破りとるエゴン・シーレの画集の1ページは、一糸まとわぬ男と女が絡み合うように抱き合う絵だった。何かそれは、ウブなソナの中にある陰と、そこからの運命への転落を予期させるものだった。彼女自身が一糸まとわぬ姿になると、どこか痛々しいまでの華奢な体と薄い胸で、特に最初に白いロリ衣装でショウウィンドウに固まって座っている彼女は、育ちの良い、おびえた白猫そのものなのだ。でもミニ丈のすそを懸命に引っ張る、そのあらわな太ももは豊かで、既に官能的だった。

これがファンタジーという証拠とでも言いたい印象的なシークエンスがある。逃げ出したソナが露出過多な、寒そうな格好で歩いているのを、後ろから上着を着せ掛けてくれる女性がいる。その女性は砂浜で写真を破いて埋め、海の中へと入ってゆく。ソナがその写真を掘り起こしてみると、顔の部分だけが見つからない、カップルが寄り添う写真だった。それをソナは大事に持ち歩く。そしてソナは後に、それが自分とハンギの写真だということを知る。
あの時、あの女性は後姿のまま、静かに海に入っていった……ソナとハンギの目の前で。
不思議な、らせん。
あれは、ソナ、だったの?ならばソナはあのラストシーンを迎えた後、どうなるの……?

マジックミラー。その中で点される火。画面の手前に向かってカッターナイフでギリギリギリ、と切られたガラス。それで刺される男。色とりどりの娼婦の衣装。カラフルなウィッグ。どしゃ降りの雨。お人形を飾るような、ショウウィンドウの娼婦街。
なんという、鮮烈なビジュアル。「魚と寝る女」で既に敬服していたけれど……更に更に進化を遂げている。
そして、退廃的で粋で、たまらなくシブい音楽も素晴らしいのだ。
「韓国の北野武」?もはや下降線をたどってしまっている北野監督とギドク監督を比べるなんて。もはや北野監督はギドク監督の足元にも及ばないよ!失礼だけど、そして悔しいけれど、本当にそうだよ!!★★★★★


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