home!

「く」


2007年鑑賞作品

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ歌うケツだけ爆弾!
2007年 102分 日本 カラー
監督:ムトウユージ 脚本:やすみ哲夫
撮影:梅田俊之 音楽:若草恵 荒川敏行 丸尾稔
声の出演:矢島晶子 ならはしみき 藤原啓治 こおろぎさとみ 真柴摩利 林玉緒 一龍斎貞友 佐藤智恵 戸田恵子 来宮良子 此島愛子 ゆかな 折井あゆみ 大島麻衣 今井優 嶋村カオル 樹元オリエ 若菜よう子 瀬那歩美 倉田雅世 松山鷹志 西村朋紘 江川央生 長嶝高士 後藤史彦 大西健晴 福崎正之 山中真尋 高城元気 幸田昌明 河野裕 浦野一美 野呂佳代 玄田哲章 小桜エツ子 京本政樹


2007/5/10/木  劇場(錦糸町楽天地)
原監督が勇退?して以来、毎年足を運ぶべきかどうしようか悩むんだけど、今年足を運んだ決め手は、予告編で、あらちょっと久々に泣けそうかもしれない……と思ったからだった。
シロのけなげさとゆーのはそれでなくてもクレしんの感動ポイントの一つだし、そのシロが久々に活躍する(ここんとこ、結構シロが置き去りだったからなあ)のならちょっと観てみたいかも、と思わせた。
相変わらずゴールデンウィークが過ぎてしまえばガラ空きの劇場で(だからGWが明けた週にはスパッと終わってしまうから焦る)観る。ちょっとだけ泣く。ちょっとだけね。だからここ数作を担当しているこの監督の評価はまだまだ先への持ち越し。来年は悩まずに来ようかと思うぐらいにはなれたような。

ただ今回はなんか、あからさまに泣かせに来ているような感じもしたんで、ちょこっと涙をこぼしながらも心の中でガード機能が働いたのも事実なんだけど……。
盛り上げる音楽とか、かなりヤボだった。でもシロを心配し、何が何でも守ろうとするしんのすけの、抑制の効いた演技?(いや演出か)は、いつもおバカなしんのすけとのギャップで母性本能を刺激するのには十分だった(大体、クレしんの泣かせのポイントはここなのよ)。

ま、今回も荒唐無稽でおバカな物語展開。ただいつもいつもスケールだけはデッカイのも劇場版クレしんの醍醐味。
だって今回は、いきなり宇宙から始まっちゃうんだもん。宇宙人がとんでもねー破壊力の爆弾を作って、狂喜乱舞しているという場面、しかしこの宇宙人、“ケツだけ星人”とゆーのがその名の通り?あまりにもユルユルの、出来損ないの水虫みたいな脱力キャラで、こんな危険な爆弾を作ったというのにまるで悪の匂いが感じられないんである。
そこは恐らく確信犯的……この爆弾をめぐって攻防戦を繰り広げる人間の方こそが欲や見栄に支配されて、マトモな人間としての愛や感情が見えなくなってしまうという皮肉なんである。
それはまるで、あくまで平和利用のために発明されたダイナマイトが、結局は戦争に重用されて発明者のノーベルが心を痛めたような、そんなことまで思い浮かべちゃうのは、ちょっとうがち過ぎかしらね。

このケツだけ星人は、別に地球に爆弾を落とすつもりなんてなく、あくまでウッカリ落っことしてしまった、という趣なのだ。あの感じじゃ、そんな悪を行使するアタマがあるようにも思えないしねえ(笑)。
それが証拠に最後の最後、大団円のラストクレジットで、幸福な日常に戻った野原一家と共にたわむれているショットも用意されているんだもの。
んで、この爆弾は何かイキモノにビタッとくっついてしまう特性があるのか、シロのお尻にオムツのようにはりついて取れなくなってしまう。
その時、野原一家はお父ちゃんのひろしが勤続15年の休暇を会社から頂いて、沖縄旅行の真っ最中だった。
ビーチでは相変わらずエロガキのしんのすけとエロジジイのひろしとがビキニ姿のおねいさんたちに鼻の下を伸ばし、みさえからどつかれているといういつもの光景が繰り広げられていたんだけど、その得体の知れないものがシロのお尻にくっついちゃったことで、この穏やかな家族にまたしてもトラブルが襲うんである。

既にサザエさん状態で、当然いつまでたってもしんのすけは5歳だし、いつまでたってもひまわりは0歳なのであるが、ひろしが勤続15年だという設定はなかなかに興味深いものがあったりして。
じゃあひろしとみさえは彼が就職してから4、5年で結婚したのかしら、そして待望の第一子が今から五年前に生まれて……などと夢想したりする。しかしひろしが現在35歳で勤続15年というのは、高卒にしても大卒にしてもちょっと計算が合わない気がするのだが……前倒しか遅れてかで休暇をとったのかなあ。ま、どうでもいいけど。

この爆弾を追うのは、宇宙監視センターUNTIと美人テロ集団「ひなげし歌劇団」である。UNTIは「ウンツィ」と読み、とーぜん野原一家には散々「ウンチ」と言われ、その筆記体の黄色いロゴもまんまウンチを思わせるのだが、その名称は「Unidentified Nature Team Inspection」だとゆーのだから恐れ入る。
ご丁寧にもSF映画よろしく、カシャカシャカシャッとこの長い名称が組織の壮大な建物をバックにクレジットされるという、この辺のミョーなこだわり方は、「クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦」の「SML」(せいぎの、みかた、ラブ)のバカバカしさと通じるものがある。って、前作でも言ってたな、私。もはやこれはクレしんのお約束かあ。

彼らは宇宙からの侵入物を探査して、地球を守る活動を行っているという。それだけ聞けば平和活動をしているようにも思えるのだが、長官、時雨院時常(しぐれいんときつね。凄い名前だ)のひどく冷徹な、人を見下したような態度といい、軍隊さながらの統制された隊員たちといい、どうにもキナ臭い連中なんである。

ちなみにこの時雨院を演じるのが、今回唯一の豪華ゲストと言える京本政樹で(相手方の戸田恵子はま、本職だからさ)、これまではその時ブレイクしている人を毎回ゲストに呼んでは、場面にも登場させていたのに、今回は封印なのね、と思う。そういやー、その時の人たちは、IZAMといい波田陽区といい、皆その後、ひっそりと消えて……はいないけど、そんな感じになっちゃったもんなあ。ま、「爆発!温泉わくわく大決戦」の丹波先生だけは別格だったけど。
京本政樹はハマってたなあ。野原一家からウンチのカンチョウと呼ばれるたびに(ウンツィの長官ってことね)、眉間にギュッと深いしわを刻んで、「ウンツィ!」とツィ!の部分を強調して訂正し、ついには、チッと舌打ちをもらすばかりになるんだけど、この舌打ちがまた……彼の静寂の声とともに、響き渡るのよ。もう一人のゲスト、戸田恵子演じるお駒夫人のテンションの高さとは対照的なんだよなあ。

そのお駒夫人とゆーのは、ひなげし歌劇団のトップスターである。このひなげし歌劇団の描写はリキ入ってはいるんだけど、見てて結構キビシイものを感じるのはナゼだろうか……。
お駒夫人が高らかに歌う音楽も、宝塚風のものをきっちりと作ってはいるんだけど、なんかどっか薄いというか、すきま風を感じるような、音の厚さを感じないのよね。それはこのアヤしげな集団の薄っぺらさには似合ってるといえばそうなんだけど、いくらなんでもそこまで計算して作っているとも思えないのだが。
それにこのハデさは、あくまで劇場用の見せ方に過ぎないような気もしたしなあ。

一番の白眉は、野原一家が羽田からカスカベに帰る、高速道路での追っかけっこ。ハデで巨大なトレーラーがバカッと開いてステージが現われ、お駒夫人のバックには華やかなダンサーがズラリと勢ぞろいし、横付けにした野原一家にきらびやかなレビュウを見せるという荒唐無稽さ。んで、しんのすけに金ぴかのカンタムロボを差し出し、それとシロを交換しようと持ちかけるんである。
ここでしんのすけがお駒夫人の化粧のノリの悪さに気付き、「おばちゃん、本当は38歳ぐらい?」などと図星をさす場面は、女心としてはかなり痛いものがあるのだが、このシーンがきっちりとクライマックスにまで伏線が張られているんだからなあ。

お駒夫人よりは、彼女を盲目的に崇拝して守っている、三人のエリートたちの方が強烈だったかも。
いや、外見はフツーの?巨乳美人おねいさんなのよ。んでピンク、黄色、空色の、レオタードにヒラヒラのスカートをつけた、特撮の女の子みたいなカッコをし、声をAKB48の子たちがやっているというのは、いかにもオタク心をそそられるというトコだろーか。
華麗に舞い、志穂美悦子張りの?アクションを展開するのはまあいいのだけど、彼女たちはバイクにまたがって疾走するのね。一見カッコイイんだけど、バックショットをしつこく入れてくるのね。風にスカートがなびき丸見えになった、どっかりとまたがったお尻と、そこから伸びる当然大股開きの太もも、という三人のバックショットが何度も……。
当然ひろしもしんのすけもその光景に「おぉう!」と狂喜するわけなのだが、うーむ、これは子供たちを連れてきたお父さんたちへのサービスショットなのか?結構強烈な画なんだよなあ。

シロに張りついた爆弾は、地球ひとつを破壊してしまう程の威力を持っている。しかしこれがどうしても取れなくて、時雨院は、シロ君を自分たちに預けてくれないか、と言う。それがどういう意味か……地球を、そして人類を救うためにシロごとロケットに乗せて宇宙に飛ばしてしまうということなのだ!
あまりのことに、声も出ないひろしとみさえ。しかし彼らにはどうすることも出来ず、地球の平和のためにと言われればそれに従うしかない……。しかしそれをしんのすけにどう説明すればいいのか。
この場面は、大人にとって、そして親にとっては本当に苦しい場面で、子供はいつでも大好きなものへの愛情や正義を信じていればいい、というかそうすべきなんだけど、大人はそれだけじゃどうしようもないことに直面して、それを子供に言って聞かせなければならない場面が出てくるわけで……。
ひろしが、自分たちのためにシロに死んでもらうしかないとしんのすけに言わなきゃいけない、あまりにも苦しい場面に、見ている大人たちはシンクロしてしまうんである。

しかし、当然しんのすけがそれを素直に飲むわけがない。この場面はね、凄く丁寧に、琴線に触れる作りになってる。
しんのすけが、大好きなアクション仮面のビデオに釘付けになっている。CMになって、ひろしがしんのすけに恐る恐る話しかける。しかししんのすけはCMだというのに画面に釘付けのまま、振り返らない。
しんのすけのバックショット(ひろしの視線の角度)からカメラアングルが切り替わり、テレビ越しにひろしの苦悩した顔が捉えられる。しんのすけのまゆげだけがテレビから見えていて、まだしんのすけの表情は判らない……実に細かい、計算された画作り。
何度めかの呼びかけにしんのすけはまだ振り返らずにひとこと、切り裂くように言う。「シロをどうするの」そしてキッと振り返り、「シロはどうなるの!」ひろしはそれにハッキリ答えることが出来ずに口ごもってしまう。

この場面は、後にシロがいよいよUNTI側に引き渡された時にも繰り返され、まるでブレないしんのすけのシロへの愛情に心打たれる。
その時にはひろしもみさえも腹をくくり、奇蹟の野原一家としてUNTIたちに立ち向かうことになるのだが、この時点ではひろしもみさえも、シロは可哀想だし辛いけど、人間のために犠牲になってもらうのは仕方ない、と思ってるんだよね。
そして見ている大人たちも、可哀想だけどしょうがないよな……と思ってる。それが大人の常識だと思ってる。
しかししんのすけはエロガキでマセガキだけど、違うのだ。シロを守る!とUNTIやひなげし歌劇団の手を逃れて必死に逃げるんである!

ここで同行するのがいつもの仲間たち、保育園で一緒のカスカベ防衛隊。今回はしんのすけと一緒に追っ手を逃れるこの場面以外、彼らの活躍が殆んどないのも残念なのだけれど、この少ない登場シーンでもさすが愛するボーちゃんは哲学的なステキなことを言ってくれるんである。「逃げるしかないと思う。地の果てまで」ああッ、ボーちゃん、やっぱりボーちゃんはボーちゃんなんだよなあ!
ただね……子供にとってどんなに必死に逃げても、地の果てどころかこの街からさえ出られないっていうのが切ないのよ。ボーちゃんが言った言葉があくまで文学的で、結局は実現不可能なことを示してもいて、余計に切ない。

結局しんのすけは、ポケットに入っていたお土産のちんすこうをシロと一緒に分け合った後(これがまた、ジンとくる!)、疲れ果てて橋の下で寝入ってしまう。シロはしんのすけとの楽しかった日々を思い浮かべ(エサを横取りされたことや、おねいさんに気をとられるしんのすけをまず思い出しちゃって、その悪しき思い出を必死に振り払うのが(笑))、涙を流し、寝入っているしんのすけに背を向けて、自らUNTIに向かっていくのだ。
そのシロの自己犠牲の姿、ここが予告編でも使われてて泣けそうだと思ったシーン、泣けるのよ。でね、そこにはひろしとみさえも駆けつけてて、しんのすけの無事な姿にホッとしながらも、やりきれない思いで捕らえられたシロを見やっている。

しんのすけが目を覚ましたのはUNTIの巨大な施設の中だった。シロはどうしたの!とここでもしんのすけは繰り返し、ひろしは苦しそうに、シロは家族のために……と口ごもると、「シロは家族だぞ!」としんのすけが言い放つ。
この時にね、いつもはガミガミと怒っているみさえが、その目がスクリーンから見切れたまま何も言えずに黙っているのが、ただ諦めてなだめることしか出来ない夫と対照的に、何かの決意を固めていた時間のように思えるのよね。
だってやっぱりそこは、子供の願いを何よりも優先させてあげたいお母さんなんだもんさあ。
それにシロが家族だ、と言われてひろしもハッとするし、大体家族での沖縄旅行に何の疑問もなくシロを連れて行っている事実が何より物語っているよなあ。しかも「あんたはこれからぬいぐるみよ!」と言い聞かせて手荷物にさえせずにさ。そりゃとんでもないマナー違反なのだが、こういうところもちゃんと伏線になっているんだよなあ。

そしてこっからは奇蹟の野原一家ファイヤー!なわけである。ロケットに閉じ込められているシロを救出に向かう。
監視員に何度も何度も体当たりする野原一家はそのしつこさがギャグなのだけれど、しんのすけがその隙をついて滑り込むショットを、角度を変えてしかもスローモーションまで使って何度も示す、どこか昔のドラマっぽい懐かしい手法は、ここだけではなくてあらゆるところで使ってる。なんかこの監督も任されて数作たって、やりたいことをガンガン出してくるようになったのかな、と思う。
しんのすけがシロと喜びの抱擁を交わしたのもつかの間、ひなげし歌劇団が突入してきて、ひろしとみさえは撤退を余儀なくされる。「必ず助けにくるからな!」と言い残した二人は、ロケットを飛ばさないようにと時雨院に直談判しに向かう。
んでもって、突入してきたお駒夫人とシロとしんのすけは、このロケットに閉じ込められてしまうんである。

あ、唐突に思い出した。そういやあね、シロに張り付いた爆弾は、今売れているお菓子のCMの音に凄く反応してたんだよね。だからいずれはこれがキッカケで外れるのかと思ったら、それは何の伏線にもならずに最後までスルーされてしまった。
ううう、一体何だったんだ。それとも最初はなんかの伏線であったのが削られて、この部分だけが残ってしまったということなのか?気になるよお。
シロの爆弾が外れたのが何のキッカケだったのか、とにかくぶわーっとふくれた爆弾はシロを弾き飛ばし、替わりにお駒夫人の頭に装着してしまう。
それがさー、お駒夫人とこの狭いロケットの中で追っかけっこしてる時にさ、お駒夫人の服の中に入り込んだと思ったしんのすけが、「凄い、ジャングルだぞ!」って、オイオイオイ!いいのか、これって一応ゴールデンウィーク、子供向けの映画だろ!と焦って、劇中のお駒夫人も顔を真っ赤にして慌てふためいたら、しんのすけとシロは彼女のうずたかく盛り上げられた髪の毛の中から顔を出し、「ここがジャングルだぞ。どこだと思ったの?おばさん」……もー!しんのすけは絶対判ってるくせに!このエロガキ!これはちょっとキワドすぎるだろー!

一方、時雨院に直談判しているひろしとみさえ。このクールな指揮官は、ひろしのような行き当たりばったりの計画性のない人間が大嫌いだと、冷徹に言い放つ。今回のテーマはここにこそあって、全てが計画通りに進んでいく人生にこそ意義があると、時雨院は言うんである。
確かにここでのひろしには何の勝算もなく、腕っぷしにも頭の中身でも時雨院に勝てるとは到底思えないもんだから、確かに時雨院の言うことには一理あるなと思っちゃう。でもそれはね、やはり現代まで脈々と続く現代社会への皮肉なんだよね。大人になるまでの完璧な計画。いい学校を出ていい会社に入れば完璧な人生が待っている、みたいなね。

ひろしは「ここだけは鍛えられないだろ」と男の急所をついて時雨院を倒す。時雨院にとっては「卑怯な!」手ではあるんだろうけど、自分の計画だけを重視して、助けられる筈のシロやしんのすけや、ついでにお駒夫人の命など微塵も考えにないこの男の方がよほど卑怯なのだし、後に「計画通りに行かないから人生なんだろ!」と、勝利を手にしたひろしが時雨院に言い放つ言葉こそが真実なのだものね。
それに、時雨院の人生よりも、ひろしの人生の方が100倍は幸せだ。思えばそれってあの大傑作「オトナ帝国の逆襲」での名台詞「俺の人生は無駄なんかじゃない、家族がいるし、あんたに分けてあげたいくらいだぜ!」と通じるものがあるんだよなあ。

この時雨院とのバトルでは、最先端マシンをおちょくるひまわりの活躍なども面白いのだが、もう疲れてきたので(笑)割愛。結局タイムリミットが来て、しんのすけたちを乗せたロケットは発射されてしまう!号泣し、「しんのすけ!」と叫ぶひろしとみさえ。思えば観客を泣かせることはあっても、この二人が(涙ぐむ程度はあっても)こんなに号泣したことはなかったような気がするなあ。これもこの監督のやりたかったことかしらん。
しかし、そこで終わるワケがないのがしんのすけ。大体、ロケットが発射されてもまるで焦っている風もない。シロはいままで支配されていたオムツ型爆弾から解放されて、今までのガマンがたまりにたまってお漏らししてしまう、と!どうやっても開かなかったロケットのドアがスルーッと開くのだ。
ううーん、このあたりの単純さはまあ、アニメだからよしとするのかなあ。しかしもうロケットは、大気圏を突き破るべく突き進んでいるんである!

と、お駒夫人の頭に張りついた爆弾が大膨張を始める。その爆弾に押し出される形で、三人、外へ弾き飛ばされてしまう!ええーっ!?一体どうなっちゃうの!?
はるか上空では、ロケット爆発、その遠い光が地上にも届き、ひろしとみさえはもう大号泣。しかしその時、お駒夫人からの携帯電話がかかってくる。そこから聞こえてくるのはしんのすけの声!
お駒夫人のハデなマントがパラシュート替わりになって、それにしんのすけやシロも捕まって、降りてくるのだっ。
「ここに降りて来い、しんのすけ。とうちゃんが、絶対に受け止めてやる!」叫ぶひろしに、しんのすけは何の迷いもなく疑うこともなく元気よく返事して、ひろしに向かってシロとともにジャンプ!ひろしは背中をすりむきながら二人をしっかりと受け止めるのだった。みさえと共に大号泣。ひろしはいっつも最後はビシッと決めてくれるのよねー。
お駒夫人はというと、ロケットの中でのしんのすけとのバトルでその厚化粧がすっかりとれちゃって、助けに駆けつけたひなげし歌劇団から「誰?」と言われる哀れさなのだが……。

時雨院はしれっとひろしに、お見事、と声をかけるのだが、哀れ時雨院、シャンパンの中に偶然入った下剤によって(この偶然も話せば長いのだが、メンドくさいので割愛)ああ気の毒、クサーイものをお漏らししちゃうんである。「じゃがいも小僧(しんのすけのことね)」たちを心配していたUNTIの面々、そのひとりが、長官の愚かなクサさにうっかり顔をゆがめながら、「野原さんたちをお送りしてもよろしいでしょか」と。
実は彼らはイイ奴だってのが、また子供向けって感じに一見、見えながらも、でも結局、リーダーシップのある指導者についていっていると思ってたはずが、その化けの皮がはがれた時、心の底に隠し持っていた各々の正義が顔を出すということは、きっとあることなんだよね。それも現代社会のあちこちに潜んでいることだと思うしさ。

シロはしんのすけにとっては家族であり、大事な友達。しんのすけが声を大にして言ったことだった。
それを照れ隠しみたいにラストシークエンスで、「シロ?うーん、妹?」などとみさえにはぐらかしながらも、仲良くシロを散歩に連れて行く。平和な日常へと戻ってゆく。

ところでね、ついにぶりぶりざえもんが、出なくなったのね。あれ……前作では出ていたような気がしたけど、違ったかな。あの時から、声を失ってしまったぶりぶりざえもんが、それでも毎回あらゆる形で登場して、今回はどういう形で出してくるんだろうという楽しみもクレしんに足を運ぶ理由のひとつだっただけに、ああ、ついにぶりぶりざえもんがクレしんから姿を消してしまったんだなあ、と。いつかは来ることだと思ってはいたけど……。★★★☆☆


黒帯 KURO−OBI
2006年 95分 日本 カラー
監督:長崎俊一 脚本:飯田譲治
撮影:金子正人 音楽:佐藤直紀
出演:八木明人 中達也 鈴木ゆうじ 大和田伸也 小宮孝泰 小須田康人 阿南健治 須藤雅宏 諏訪太朗 近野成美 深澤嵐 吉野公佳 白竜 夏木陽介

2007/11/8/木  劇場(銀座シネパトス)
なんでまたこんな映画が(こんなってのもなんだけど)作られたのかどうにもナゾだったりするのだけれど。なんかポスターも銀座にそびえたっている宣伝塔も、妙に異彩を放っていたからさあ。一体どこの国の映画?ってぐらいの異彩。
だってメインキャストとして顔を出している三人が三人とも全然見たことないし、なんかやけにストイックな雰囲気は伝わってくるものの、意図やターゲットが全然判らん、みたいな。いやそんなことを目的に映画が作られるわけでもないんだろうけど、ちょっと戸惑った。
ただ、その異例な感じがなんかヘンにアンテナに引っかかっていたのは事実。そしてなんといっても長崎監督の新作ということが足を運ばせた原因。長崎監督、私数本しか観ることが出来てないんだけど、勝手にストイックなイメージがある。それと重なったということもあった。

で、後にこの映画の成り立ちとするところ……企画者で武術監督でもある西冬彦氏が、チャウ・シンチーとトニー・ジャーに奇しくも同じ時期、なぜ日本には空手の映画がないんだと、空手映画が観たいと言われたことに譚を発し、自身の短編映画が発展することになったことを知り、大いに感慨深いものを感じるんである。
そうかそうか。そう言われればカンフー映画があるのだから空手映画もあっていいに違いない。しかも空手を映画にするならば、確かにカンフーのように娯楽アクションにしてはならない。それが第一歩であるなら尚更、空手の真髄を、精神を、映画というエンタメの中に魅せなければならないと思った彼の思いは正解で、その短編映画を見ていなくてもそれが長崎監督にも引き継がれていることは、大いに納得できるんである。

軍人がひたすら民衆を圧していた時代。その権力を利用して女に溺れ、事業に手を出していたような裏側が描かれていく。その時代の陰謀に、山奥で静かに修行していた空手家たちが巻き込まれていく。
空手の精神が民衆たちに受け継がれ、広がりを見せていったその元々の始まりをこの映画が描いているという趣なのだけれど、空手家としての存在価値を決するための命を賭した戦いって、なんかマンガみたいだな、と思う。
いや、マンガみたいな、なんて言うのは失礼か。仮にその展開がマンガみたいであったとしても、それが勿論そうは見えないのは、この空手家たちが、ホンモノだからなんである。だからこそ顔を見たことなぞないのである。しかもそれが三人もいるんである。
三人のメインキャストが、誰一人知らないってのはある意味衝撃である。これが外国映画ならそれもあることかもしれないけど、日本映画で、ワキには夏木陽介だの大和田伸也だの白竜だのといったコワモテ大御所クラスがバンバンいて、しかも彼らはこの顔も知らんメインキャストたちによって命を落としていくのだ。なんと思い切ったことを!

それなりにある程度は演技が出来る人を選んだという趣なのかと思ったら、本当に、真の武道家であるという観点からのキャスティングであったことを後に知り、それも驚くこととなる。精神を鍛錬している人というのは、演技という未知の領域にもこうして腹を据えてかかれるのだろうか。
特にプロデューサーから「あの人の目はヤバイよ。相当、修羅場をくぐっている目だ。あの目は大観だよ」と言わしめたという、大観役の中達也の殺気みなぎる存在感には圧倒される。もう一人の、というかこっちこそ主役である義龍を演じる八木明人が、甘いマスクの若い青年だから余計にそう感じる。
しかし当初は、彼ら二人がどっちの役を演じるかは決まっていなかったというんだから更に驚く。どう考えても中氏が大観だろうと完成されたものを見てしまえば思うのだけど、実際役柄ではない、インタビューなどの彼を見ると別人かと思うほどの優しい笑みを浮かべているんである。うっ。プロデューサーの目って凄いかも……。

静かな山奥、老空手家英賢の元で修行を続ける三人、義龍、大観、長英の道場に、憲兵隊がやってくるところから始まる。国が一丸となって戦っている時に、丸腰で相手を倒すなんてことをしているとは何ごとだとか因縁つけて、これからここは憲兵隊に明け渡せ、というんである。この道場の伝統ある来歴や、高い位のお人からのお墨付きなど、武力と権力をかさにきているコイツらに通じるわけもない。
ならばと剣を持った彼らにその身体ひとつで勝負することになった義龍は、師匠の教えの通り、白竜演じる谷原をひたすら受けだけで倒し、「止めを刺せ!生き恥をさらさせるつもりか!」という彼をただ見つめることしか出来なかった。
その後、英賢が死去。再び憲兵隊がやってきて、今度は軍のために空手を教えてほしいと言う。道場からの道すがら、若い兄妹が義龍に刃を向けた。「父の仇!」谷原は屈辱を受けたと感じて自害したのだ。義龍は彼らの刃に自らをさらし、がけの下へと転落した。

一方の大観は、最初から義龍のことを甘いと感じていた。そして大和田伸也演じる郷田の私欲の陰謀に乗る形で、次々と強い相手を倒していく。オレこそが師匠の伝統の黒帯を継ぐのだと信じて疑ってなかった。黒帯を託された長英は、そんな大観をハラハラと見つめていた。
義龍は貧しい農民父子に助けられていた。こんな静かで穏やかな生活が彼には似合っているのかもしれなかった。しかし父親がイカサマ賭博に引っかかって多額の借金を作ってしまったことで、美しい娘、花を連れて行かれてしまう。
娘を、イカサマの賭博の借金で連れて行かれるなんて、うーん、実に時代劇。幼い弟の、「どうして強いのに悪い奴らを倒さないんだ!」という台詞も実に時代劇。
師匠の教えが頭に引っかかって、どうしても手出しが出来ない義龍だけれど、お姉ちゃんを助けに行くんだ、という幼い弟の姿に、あの仇討ちの兄妹の影もよぎり、彼女の救出に向かう。そこで義龍は大観と再会。くしくも軍の陰謀にこのイカサマ賭博を開いていたヤクザたちが加担している図式だったのだ。義龍は悪漢たちを倒し、捕らえられていた娘たちを連れて逃げる。追いかけてくるヤクザ、そして軍人たち。いよいよ義龍と大観が決着する時が来た……。

義龍、大観、長英は、実にそれぞれが対照的な三人である。このうち三人目の長英は、自分は他の二人に比べて力量が劣る、先生に教わる資格はない、などと落ち込む場面もあり、何より登場そうそう軍人によって切りつけられてケガをし、その腕前を披露することはほぼないに等しい。
しかし彼は全てを見届ける観察者であり、価値を見極めるジャッジでもある。ある意味神の目線も持ち、一番重要な役どころと言えるのだ。ほぼ空手のワザは関係ないともいえる彼だけが、役者を本道とするお人(ゴメン、知らんかった)。でも、初段の腕前を持つ真の空手家もである。やはりそこをボカしてしまうと、ホンモノにならないという意図があるのだろうな。

そして残りの二人が、この師匠の遺志を受け継ぐかどうかを戦うことになる。二人は共に師匠を尊敬はしているけれども、片方の大観は、師匠の、「空手に先手なし」つまり、先手をうっていはいけない、突いてはいけない、蹴ってはいけない、という先制攻撃を封じる教えに疑問を感じ続けている。
先生は自分より弱い相手に勝って何になると言うけれども(勝つことだけを前提にしているあたりが凄いけど、確かに彼はそれだけ強いのだ)、それも判るけど、大観の言う、戦う経験を積まなければ強くはなれないというのも充分に判るのだ。
いや、むしろ彼の言の方が判る。判る、というのはつまり、彼は私たち一般的な意識に近い。師匠は空手を思想として考えているけれども、彼はアスリートなのだ。ある意識を正として映画の中に据えなければいけないという図式では、彼は確かに冷酷で悪者になってしまうけれども、自らを高めることを一番の価値とし、それ以外に気をとられることのない彼のアスリート気質は、決して間違っているものじゃないし、むしろ男気溢れるものなのだ。世が世なら、彼はきっとアスリートとして大成しただろうと思うのだけど。しかし時代が悪すぎた。

彼と対することになる義龍とは、外見からして全く対照的である。ちょっと大観は悪者フェイスなんだよね。自分の信念に揺るぎないというのが、自信家、野心家という方向に行ってしまうような。義龍との違いを際立たせるために生やしたというおひげが、中氏の視線の鋭さを際立たせ、違いどころか全く異質のオーラを放っている。
「芸者にお酒を勧められ迫られる大観。だが、酒も女も初めての彼は動揺してしまう」というシーンがあるけれど、決して動揺しているようには見えない。ただこんな世界があるのかと思いながらも、真っ直ぐに正した背筋を崩さないだけ。そのまま酒をあおり、女を抱く。大観に扮する中氏のビリビリするような“男”に芸者の方が参っているように見える。

一方で師匠の教えを引き継ぎながらも、その意味について真の答えを見いだせず悩み苦しみながら、大観との対決でその真実を悟る義龍。つまり大観がいなければその答えに到達することは出来なかったのだし、途中の行動も迷いだらけで一貫性がなくって、かなりハラハラとさせられるんである。ま、それをこのちょっと古くさい甘いマスクが全て物語っているとも言えるんだけどさ。
彼はつまり、私たち一般的な人間の弱さを代弁しているとも言えるんだよね。尊敬している人間の言葉は信じたい。でもそれをまだ自分のものにすることは出来ていない。自分だけの信念を掴みきれていない。

だから師匠は黒帯を継がせるのは義龍だと思いながらも、それをまだ決めかねていたのかなと思う。だって最後の二人の闘いまでは、他人との対決によって自分の強さを磨いていく大観の自意識の方が凄くハッキリしてたし、潔いものを感じたんだもの。
ただ時代が時代、それが権力者に利用されて道場の乗っ取りや、汚い商売へとつながっていってしまったけれども、長英がそれを指摘して大観をいさめても、彼はひるまなかった。そんなことはオレには関係ない。ただオレは、強いヤツと対戦したいんだと。それだけなんだと。
まさにアスリートのシンプルな欲望はストレートに伝わったし、だから大観こそが、時代の犠牲者であると感じた。彼がいくら、自分が利用されていると自覚して受け入れているとしても、そのことによって彼は悪者になり、最後には撃ち果ててしまうのだ。

師匠の黒帯を継がせるジャッジは、長英に託されていた。郷田の命の元、次々と道場破りをする大観は、ついにこの土地の一番の実力者をも倒した。大観はその時、彼の門下生の前で容赦なく打ち込み、最後は急所を攻めて、相手はあえなく絶命した。長英の制止も聞かずに。
長英は強い憤りを感じて、お前には先生の黒帯を継ぐ資格は断じてない、と斬って捨てる。ムリないことだとは思う。しかし大観の微かに傷ついた顔(本当に微かになんだけど……それだけにグッとくる)と、何より義龍が冒頭、自分から攻撃を仕掛けないながらも勝ってしまって、止めを刺せと言われても出来る訳もなかった谷原が、後に自害したという事実が、暗く大きくのしかかるのだ。

それは、この時代だからなのかもしれない。武士の情けなどという価値観が成立するのは、この時代だからなのかもしれない。
確かに門下生の前でブザマに惨敗した彼が“生き長らえて”この後どうやって余生を過ごすのかを考えるとやはり、厳しいと考えざるを得ないのだ。もしかしたら大観の判断は同じ空手家として最大限の配慮だったのではないかと思えてしまうのだ。
人間としては間違っていたのかもしれない。だけど、最後まで自分自身の信念を持つことが出来ずに迷い続け、大観との一対一での戦いでようやくそれを得ることが出来た義龍を思うと、大観の存在の方が大きかったのではないかと思う。そしてなにより……義龍もまた大観に“武士の情け”をかける形になったのだから。

ま、だからこそ最終的には正を得る義龍が、甘いマスクでなければならないのかもしれないけどね。
20年前ぐらい、こういう顔のカンフースターいたよなーなどと思ってしまう。何度も挿入される、エノコログサの中での瞑想シーンが、美しく、女心もそそられる。
そんな、母性本能をくすぐる一方で、実は凄く強くて、でもその強さを出すことにまた悩んでしまうというメンドクサイヤツ。仇討ちの兄妹に自ら刺されてしまう人のいいヤツ。別に彼が殺したわけじゃなく、生き恥をさらされたと思った相手が勝手に自害しただけなのにさ。
ま、それが彼に、空手家としてのあらゆることを考えさせることになるのだが……。

でもこの事実に遭遇した時、彼とクライマックスで決することになる同門の大観は、最初から見切っていた。というか、義龍が師匠の教えをクソまじめに守って、受けだけで谷原を退けた時から、コイツサイテーなヤツだと思っていたのかもしれない。真剣勝負で戦わない相手に負ける屈辱を、アスリートの大観は何より判っていた。空手家としての思想ではなく、アスリートとしての美学を判っていたから、生き恥をさらすなと言う谷原の言葉も判ったから、それを言われる前に、道場破りをした相手を仕留めたのだ。

確かに大観は、それはやりすぎたのかもしれないけど、逆に義龍はやらなさすぎた。「己の技を全力で向けるべき相手は己のみ」と教えた、つまり自分自身を高めるためだけに必要な師匠の教えは、だからある意味残酷なものだということを、この時点で二人は判ってなかったのだ。相手に攻撃しない義龍も、相手のプライドを守るために命を奪った大観も、師匠の真の教えよりずっと甘いということなのだ。
だって二人とも、見方が違うだけで、相手のことを思っているってことなんだもの。
師匠の極意の方が、人間としてはずっと冷たい。それは、他人からの目を全く考えないという、まさにこれが極意である。つまりそれは絶対的な孤独であり、他人を傷つけないことを選択して自分が傷つくことより、アスリートとしてのストイックを追及することより、ずっとずっと辛くて厳しい道なのだ。

それを、この映画が最後まで描けていたかは判らない。最後、二人は世紀の対決を決するけれど、それはまるでノスタルジックな映画のように白黒で、作務衣だったはずの義龍が突然空手着になってたりと、突然現実味を失うのだもの。
しかも泥だらけになった二人が、どっちが勝ったのかも傍目には判らずにヘロヘロになって二人仰向けにぶっ倒れ、色が取り戻された時……義龍は作務衣に戻っていて、そして周りには真っ赤な曼珠沙華が咲き乱れているのだ。死に花と呼ばれている彼岸花が。

それを丘の上から人々がぐるりと取り囲んで見ていて、彼らはこの戦いに利害をかけているはずなのに、決死の闘いに打たれた様にひたと動かない。ちょっと浪花節かなと思うけど、ジャッジの長英が師匠の黒帯を義龍に手渡すと、彼は大観の胸にそれを置き、手を添えさせるのだ。
そしてエンディングを迎え、義龍と長英がこの地に小さな道場をかまえ、弟子たちが多数押しかけた、というナレーションがかぶせられると、最初に出てきたのはこの古ぼけて白茶けた黒帯を締めた、死んでしまった筈の大観であり、それを受け継ぐように、真っ黒な黒帯をしめた義龍が型を披露するんである。
師匠は言っていた。自分より弱い相手に勝って何になる。戦うのは己のみ。それは一生のうち一度出会えるか出会えないかだ、と。
この時二人は、お互いを一生に一度出会える己だと感じていたに違いない。

そもそも空手が中国→沖縄へと渡り、沖縄伝統の武術として花開いたってことさえ知らなかった。んでもって、千葉ちゃんが型を決める時にハアーってやるのは、誇張じゃないのね。那覇手に伝わる息吹(いぶき)と呼ばれる呼吸法だということで、この映画の冒頭にもちゃんと出てくる。
中氏曰く、黒帯は三年ぐらいでもらえるけれど、それはスタートに過ぎないんだという。作品中の白茶けた古い古い黒帯びは、その経過を物語っているんだ。★★★☆☆


クローズZERO
2007年 130分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:武藤将吾
撮影:古谷巧 音楽:大坪直樹
出演:小栗旬 山田孝之 やべきょうすけ 黒木メイサ 塩見三省 遠藤憲一 岸谷五朗 桐谷健太 高岡蒼甫 渡辺大 深水元基 高橋努 鈴之助 遠藤要 上地雄輔 伊崎央登 伊崎右典 大東俊介 橋爪遼 小柳友

2007/11/4/日 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
この原作のことはホントに知らなかった。まあ年代的にも性別的にも?離れているしな、とか思いつつ、映画化に当たっては原作前夜の、原作で描かれなかったエピソードを作り出しているという……とかいうのも、原作自体を知らない、興味ない(ゴメン)婦女子にとっては関係ないことだし。
原作の主人公が登場する前の物語を作り出したというのは、上手いやり方なのかもしれない。原作と違うとか、ガッカリしたとかを回避しつつ、そのカラーは表現できるっていう点で。ファンが多いコミックだから、配慮する部分があったのかもしれないけど。
でも、前夜エピソードとはいえ、このコミックのサワリというか、成り立ちをちらりとチェクしてみると、主人公が転入して来て鈴蘭高校をあっというまに席巻するくだりは、なんだか似ている。
異質なものを排除しようとする本能的な反応と、一方で魅力ある同性と認めるとストレートに魂を響かせるこれまた本能的な欲望、それが男の子世界ってヤツなのかもしれない。

鈴蘭高校に3年生になって編入してきた滝谷源治(小栗旬)。彼の目的は、カラスの学校と呼ばれるここ鈴蘭で、テッペンをとること。彼の父親はヤクザの親分。その父親でさえ取れなかった鈴蘭のテッペンをとったなら、父親を越えられる。
「テッペンとったら、約束どおり、あんたの首をくれよ」
父親と、そう約束していた。つまり、父親の組を継ぐための条件。
アツく、スタイリッシュなケンカ物語に見えながら、王道である男の子の父親殺し、父親越えがそこにあることに気づく。実はこういう“お約束”はこの物語にずっと横溢していて、画はワクワクするほどの唯一絶対であるのに、それを固めているのは親子や友情の絆という、浪花節とも言えるほどの基本的なお約束なのだ。
奇をてらっているものが何もない。枠を超えるものも何もない。その潔さが凄い。いわば、物語の枠ががっちりと収まっているからこそ、表現が何のジャマもされずに軽々と超えられる、ということなのかもしれない。

大体、父親を越えたいと思うこと自体が相当な浪花節だし。そんなこと思う男の子が、今の世の中にいるとは思えない。いや、逆か。そんなことを思わせる父親を持つ男の子が、今の世にいるとは思えないってことか。
つまり、源治は凄く幸せなヤツなんだよね。越えたいと思う父親がいるなんてさ。
ひょんなことから源治に協力することになって、彼にホレこんだチンピラの片桐(やべきょうすけ)。源治を救うために全てを彼の父親に打ち明けた時、源治に後を継がせるつもりなんですか、と問う。
源治のことが好きだから、ヤクザになってほしくなかった。しかし父親は笑いを含んで言うのだ。鈴蘭のテッペンをとったら、俺の後を継ぐなんて言わないだろうよ、と。
浪花節だよねー。やっぱりさ、ある意味ありえない世界だよね、これって。男の子の、そして男の理想の世界。
父親は、息子にこんな風に思われたいって思うだろうし。そしてガクランはその父親の世代のものだし。これは案外、大人に希望と郷愁を感じさせる世界なのかもしれない。

源治は、鈴蘭のテッペンに一番近い男と呼ばれる芹沢多摩雄(山田孝之)との戦いを最終目標に据え、校内の地盤固めに奔走する。芹沢と間違えてウッカリ源治にケンカを売って仲間をボコボコにされて以来、妙に気が合ったチンピラの片桐をアドバイザーに、仲間意識が強く他者には服従しないと思われた牧瀬(高橋努)や、したたかな伊崎(高岡蒼甫)までもを取り込んでゆく。
ことに伊崎を取り込む段は、どんなにボコボコにされても何度も立ち上がり、向かっていく姿で彼の心を溶かすなんて、なんて浪花節。
ただひとつの誤算は、中学時代からのマブダチである時生が、芹沢側の、しかも強固な相棒についていること。そして時生の心臓が爆弾を抱えていること……。

そして、年下ながらもその“男”にホレこんだ源治が、自分の組と敵対するヤクザ組織の親分の息子であり、自分の親分である矢崎(遠藤憲一)から源治のタマをとれ(つまり、殺せ)と命じられた片桐は苦悩する。
もともと彼は、源治の親父さん、滝谷(岸谷五朗)に心酔していたのが、彼から拒否されて意地になり、敵対する組に入ったのだ。それが滝谷の、ヤクザなんかにならずに真っ当に生きろというメッセージだとは気づかずに。
そう、滝谷は息子に対しても、「鈴蘭のテッペンとったら、継ぐなんてあいつは言わなくなるよ」と見越していたのだ。
かくして源治と芹沢の対決、時生の手術、そして源治を殺すことが出来ない片桐が矢崎から死の制裁を受ける三つのクライマックスがぶつかりあう。

それにしても、三池監督がこんな風に若い女の子に人気の俳優使って、若い女の子がカッコイイ、と言って観に来る映画を手がけるようになるとはついぞ思わなかった。いや出ている俳優が人気系なだけで、そのナカミはやはり三池節。未成年(という設定)なのに酒はかっくらうは、未成年(という設定)なのにタバコバンバン吸うわ、ウリのリアルなケンカ描写よりソッチの方が心配になるというのは逆に可笑しく、ラストに「これはフィクションです。未成年が飲酒喫煙することは法律で禁じられています……云々」という注意書きに思わず苦笑がもれてしまうという徹底ぶり、そのあたりはさすが三池監督抜かりなし!といったところなんだけど。
しかし休日の朝イチとはいえ、ヤンパパが5歳くらいの幼児と共に観に来ていたのには驚いたなあ……パパさん、何度も子供連れて外出てたよ。いくら「12歳未満は保護者同伴」つったって、未満過ぎるだろ……。やはりそこは、人気系俳優が出ている娯楽系作品、という仮面がウッカリそういうミステイクをさせてしまうのだろうか。だって三池作品にその客層は絶対あるわけないもん。

でもそうやって、三池作品をあるカテゴリーに閉じ込めて、オタクファンが喜んでいた節はあったのかもしれないなあ。だってこのハードボイルドともいう世界、この画的なカッコよさはそりゃ女の子にだって、子供連れのヤンパパにだって訴えるものがあるに違いないもの(まあ、5歳は早すぎるが)。
なんかね、久々大仰なこの興行形態と人気のある若手をメインに据えたキャスティングに、ふと「アンドロメディア」の大失敗を思い出してしまったもんだからね。そりゃ大昔過ぎるんだけど、おいおい三池監督ーと思ったことを鮮明に覚えているもんだから、ちょっとヒヤリとしちゃったんだよね。それにここ最近の強固なタッグである脚本家のNAKA雅MURAや、これまた三池作品といえば、の音楽の遠藤浩二が外れているのも気になったし。
でも杞憂だった。容赦ない“激痛映画”といえば、三池映画の右に出るものはいないんだもの。この人以上に身体的痛さを描ける人はいないんだもの。

の、一方で、でも確かに、ある種の口当たりの良さという手心は加えているのかもしれない。だって、驚くべきことに、これだけぶん殴りまくって、半殺しにしまくって、あるいは手術の成功率が30%の難病を持つ男の子がいたり、しかもヤクザが「下の者にしめしがつかないから」と、チンピラを背後から撃つ場面さえあるのに、ただの一人も人が死なないんだもの。
この最後の二例に至っては、そ、そこまでして死なせないか!と三池監督の確信犯を確実に感じちゃって、なんか笑っちゃった。
ホント、浪花節が入りまくってんだよね。だって非情に徹したらこれほどコワモテはいないエンケンに(素敵!)ヤクザの親分やらせて、こんな温情を持たせるんだもの。しかもハッキリ言って、彼がそんな温情を選択する理由なんて別にないんだよ?

それに手術の成功率30%の時生だってさ、だったらなぜそんな設定を用意したのかっていう話じゃない。この「ほら、誰も死ななかったでしょ」というある種のオチを完璧にするためとしか思えない。ギリギリギャグを回避している……いや、もはやこれはギャグなのかもしれない、監督は、ギャグだと思って作っているのかもしれない。
三池作品特有の、ハードボイルドの中にふっと入り込むギャグシーンとは別に、案外最初から最後までギャグの心を持って作っているのかもしれない。それは、ある意味この作品を完璧にする意味で、いい意味で。

だってまず、こんなガクランの高校生なんて今、いないよね。いや私はこれを見て改めて、やあーっぱ、ガクランよねーっ!と萌え萌え炸裂だったのだが。ホントこれを見ると、ブレザーの制服のなんと生ぬるいことかってね。
ブレザーじゃ、不良やハードボイルドは生まれっこない。真の秀才や体育会系も生まれない。やっぱりね、私は古いのかもしれないけど、ブレザーには軟派しか感じないんだよ。久々に硬派を感じて、ゾクゾクしたなあ。
硬派ってのは、文系にも理系にも体育会系にも通じる魂のようなもの。男の子なんだから性欲やモテたい欲もあるのは当然だけど、それとは別に、全く別格に、そうした魂が宿る場所が、ブレザーじゃ、私にとってはありえないのよ。

で、だから、割とギャグ、というかゆるい描写がケンカシーンの合い間合い間にキチンと挟められてくるのよね。普段クールに決めてる源治がお酒を呑むとやたら泣き上戸になったり。
一番笑ったのは、コワモテの牧瀬が女にメチャ弱いトコ。硬派に見えて合コンと聞くと目の色変えてビシッとスーツ着て現われ、しかしずーっと汗ビッショリで、女の子ににじりよって「あなたを見ているだけで出そうです」って、おいおい!「出そうって……何が」「それを言わせるんですか」言っちゃダメダメ!
しかもこの場面、女の子を落とすためにワザと片桐にケンカを仕掛けさせるんだけど、思いがけずルカ(黒木メイサ)が片桐にフォークでぐっさりやっちゃってさ、牧瀬、「バカ!名前を呼んだら、俺たちがグルだってバレちまう!」そこまでフルに言うやつがあるか!(爆笑)
作戦失敗したおわびにソープに連れて行ってやる、と聞いた牧瀬、ソープだけで興奮。「ソープ、マジっすか」と三度も聞き返し(お約束ギャグ!)、ついには妄想だけでモラしちまう……男子、妄想しすぎだよ。源治が急遽買ってきてやったおばちゃんのパジャマみたいな花柄ネルのズボンが!!(大爆笑)
って書いてると、なんか牧瀬ばかりがオマヌケなギャグを任せられている感じがするけど(笑)、片桐も結構オマヌケシーンはあるんだけど、牧瀬の印象が強すぎて。でもイイヤツなのよ。義侠心に厚く、一度源治にホレたらとことんついていくアツいヤツ。

そして、芹沢を演じる山田孝之。やっぱり山田孝之は凄いわ、凄い役者だわ。私は彼がなぜメインストリームから出てきて、今に至るのか不思議でしょうがない。口当たりのいい映画に出ている彼に、素晴らしいと思いつつも歯がゆくて仕方がなかった。本作の予告編、そして三池監督に彼が演出されるということに、震えを感じた。山田君、いったんアンダーグラウンドに落っこちてくれないかなあ。誰か彼をアンダーグラウンドに蹴り落としてくれないかなあ(笑)。もっともっと刺激的な監督と組んでほしい。こんな陽のあたるところにいるのはもったいないよ。
私は彼の暗い瞳にどうしようもなく惹かれるのだけど、今回その瞳に初めて光が宿ったように見えたのだ。その据わった、半開きの瞳に。
彼は主人公の小栗君に比べて背も小さいし、容姿も地味だけど、「怪物」と言われるだけのオーラをその低い姿勢からビンビンに放っている。入り込みすぎて、怖くなるぐらい。
彼にもギャグなシーンは用意されているんだけれど(手下たちを並ばせて、巨大ボールを蹴りこむ人間ボーリングの場面とか)、他の俳優がそういうシーンではここはギャグだと認識してやっているのを感じるんだけど、彼に関してはそこでもやっぱり芹沢に入り込んでいる気がしちゃうんだよね。贔屓目に見すぎかなあ。

冒頭シーン、芹沢は割とオマヌケである。芹沢との喧嘩を申し込みに、片桐以下数人のヤクザが鈴蘭に乗り込んでくるんだけど、その時彼は別の場所にいて、替わりに芹沢と間違えられた源治がこのヨワいチンピラたちをボコボコにしてしまう。
階段に黒いガクランが鈴なりになって転入生の源治を見守っている、その鈴なり状態が、こういう画は見たことなかったなあ、とガクランフェチの私はこんな画でクラッときてしまったんであった。
芹沢はというと、免許も持ってないのにバイクにまたがり、つまり運転の仕方が判らず、とりあえず、車に頭から激突してからヘルメットかぶり(これもギャグなんだけど、山田孝之だからなあ)目をつけられている刑事からの追跡をふりきるも暴走しまくった挙げ句に鈴蘭のグラウンドに突っ込んできて、激突してようやく止まれるという……で、ここが、芹沢と源治の出会いの場。 ところで山田君、ガクランの下のアロハのあいた胸元からちらりと……ほお、胸毛があるんだね(爆)。

別に鈴蘭のテッペンをとったからって、何が変わるわけでもない。いわばそれは、運動会で一番をとるとか、球技大会で優勝するとか、そういう意識と似た、“頂点を取りたい”という欲望に過ぎない。そのために人脈を広げたり、コネを使ったり、心理戦を仕掛けたりという頭脳ゲームはあるにしても、根本は変わらない。それは、言い方は悪いかもしれないけど、実に男の子な世界。
だから、ゲームを複雑にするための要素としてだけ取り込まれる女の子が、大して魅力を発揮しないのも、最初から決まりきっていることだとも言える。

源治とライブハウス(?バー?)で出会うルカ(黒木メイサ)。ここで歌も歌っているシャンである。敵方に捕らえられた彼女たちを救出に行くシーンが、明らかにそれを物語っている。ここでは彼女を助け出すことが重要なのではない。芹沢の手下が暴走してこんな自体を引き起こしたことを、彼が知らなかったことと、これが引き金になってついにトップ争いが勃発することこそが重要なのだ。彼女自身の存在が重要なのではない。
そのためには女の子は美人でスタイルが良くて、主人公との出会いでまず友好的で印象的でなくてはならず、物語を盛り上げるために、一度はその関係にヒビも入らなくてはならない。牧瀬を取り込むために彼女を利用して合コンを仕立て上げ、その猿芝居がバレた場面がまさにそうである。
クライマックスの、芹沢と源治の抗争シーンに黒木メイサの歌がかぶさるのは、なんでよ、いらねーよと思ったけど、そうやって彼女の立ち位置を思うとなるほどとも思うんだよね。
まあ、もともと三池監督は女性を描けない人だし(爆。いい意味も含めてね!)「アンドロメディア」が失敗したのはむべなるかな。

ルカの拉致事件に際し、源治と芹沢という二つの構図に、外の組織であるナントカ会(名称忘れた)が絡んでくるのはよく判んなかったけど……ただ、メンツを潰された彼らが牧瀬の耳を差し出せと言った時に、俺の両耳でカンベンしてくれねえか、と言った源治=小栗君のカッコよさはピカイチだった。
でね、ここでもやっぱりお約束は健在でね、そのオトコに敬服したのかこのナントカ会のボスは「そんな汚ねえ耳、いらねーよ」と見逃してくれる。いやそれともここは、源治の力量の程を試すためにワザと引っ掛けたのかもしれないけどさ。

不敵に見える源治だけれど、伊崎がヤラれ、誰にやられたかを源治を慮って言わなかったことで、彼の心が一度折れてしまう。これもちょいと浪花節。
誰彼かまわず向かっていき、ムダなケンカばかりしかける源治をいさめる牧瀬、「そういう問題じゃねえだろ!」とキレる源治に、「そういう問題なんだよ!今あんたが負ければ、俺たちは潰れる(いや、ちょっと表現違ったな。忘却)。もうそういう段階に来ているんだ!」というシーンは、牧瀬のそれまでのユルいギャグのオマヌケが吹っ飛ぶカッコよさなんである。
「今のあんたにはついていけない」捨て身の牧瀬のこの台詞が、源治の目を覚まさせる。関係修復させる方法がまた、いいんだよね。「俺とタイマン張ってくれねえか。そしてもし俺が勝ったら……また俺についてきてほしい」
女には絶対言ってもらえない口説き文句だなあ……(ため息)。

思わせぶりな“別格”リンダマンは、結局ラストを持たせるための存在って感じもしたかなあ。ラスト、芹沢と時生に見守られながら、まだテッペンには届かない源治がぶち当たる壁、そしてラストクレジット。

片桐がゲンジに言う、お前たちみたいに真っ直ぐに生きたかったという台詞が、この世界の全てを言い当ててる。「ゲンジ、飛べ!」と、彼は遺書(にはならなかったけど)と言い残すのだ。そのとおり、ゲンジはラストクレジット、まだまだ崩せない壁、リンダマンに向かって飛ぶ。

黒い男たちが立ち並ぶ宣材写真はカッコいいが、その中に女(黒木メイサ)は入れないでほしかったなあ。★★★★☆


クワイエットルームにようこそ
2007年 118分 日本 カラー
監督:松尾スズキ 脚本:松尾スズキ
撮影:岡林昭宏 音楽:門司肇 森敬
出演:内田有紀 宮藤官九郎 蒼井優 りょう 塚本晋也 平田満 妻夫木聡 大竹しのぶ 平岩紙 宍戸美和公 筒井真理子 馬渕英俚可 高橋真唯 中村優子 近藤春菜 箕輪はるか 武沢宏 峯村リエ 徳井優 平田満 しまおまほ 川勝正幸 しりあがり寿 俵万智 河井克夫 庵野秀明

2007/11/22/木 劇場(シネカノン有楽町1丁目)
松尾監督の前作、「恋の門」であら?と思ったもんだから行くのを悩んでいたんだけど、なんたって芥川賞候補の作品(しかも本人の!)というネームバリューに負けて(弱すぎ、私)足を運ぶ。
ちょっと、驚いた。「恋の門」で抱いた疑問などキレイに払拭されて、というか、あの作品の影を殆んど感じない快作。
いや、確かにこれが松尾スズキらしさなのだろうという、「大人計画」的な脱力気味のギャグや言い回しもふんだんにある。でも、それだけで押して観客が置いてきぼりにされていた感があった前作と比べ(ま、単に私の頭が古くてついていけないだけだったのかもしれないけど)それらのギャグがギャグだけで終わらず、きちんとヒロインの抱える弱さや、あるいはストーリー自体の伏線となってる。
で、ガゼンシリアスに盛り上がっていく後半からは、そうしたパズルが次々組み合わされていく展開に目を見張ることになるんである。

精神病棟のキッチュな人々、カラフルな画面といい、サイコチックな不条理さで押していく展開といい、何となく「サイボーグでも大丈夫」を連想させたんだけど、何より違うのは、かの作品が結局終わってしまえば、韓国らしいロマンチックラブストーリーだったことである。
韓国って、ラブストーリーを語るための背景として、設定探しをしているような感じがあるというか。ま、ギドク監督やチャンドン監督のような作家性の強い人もいるけれど。一般受けするものに関してはそんな感じがする。ま、そんなことはどうでもいいけど。

で、本作に関しては、ラブな場面がありそうで、ない。いや、全くないと言ってもいいぐらい。
ヒロインが今の恋人にアイソをつかされたことに気づくのは、この閉鎖病棟で正気を取り戻していく後半になってようやく。だから、前半は彼女はまだ彼に対してラブな気持ちを持ち続けているとも言えるんだけど、でもやっぱりそれは依存心で、彼が海外ロケに出ていると知っただけで取り乱すことでも明らか。
彼女の人間としての破綻が、今この状況だけにあらず、実はもっとずっと前から、前のダンナが自殺したと知らされた時、いや、勘当された父親が死んだと知った時、いやいや子供を堕ろした時、いやいやいや前のダンナと別れた時……とどんどんとさかのぼっていくのだ。

最初は、普通の人に見えた。冒頭は、彼女、明日香が風俗ライターとしての仕事に奔走している姿が描かれる。取材するエンタメ業界人はまさに怪人そのもので、対照としての彼女が実に良識ある人間に見える。
後で考えると、この時に観客に対して、彼女は普通の人間なんだ、という刷り込みを与えていることが判る。
実際、明日香がまるで突然、といった具合に“五点拘束”で抑えられてクワイエットルーム=女子閉鎖病棟の隔離個室で目覚めた時は、え?なんで?と思ったものなのだ。

本当にそれは、唐突に時間が飛んだ。ただその前に彼女の見ていた夢?妄想?な映像は気になっていた。
取材中、バラエティ番組の構成作家をしている恋人の鉄雄=てっちゃんから届いた「仏壇返ってきた。デカすぎるよ」のメールの意味不明さと、銀色の巨大な仏壇の上に仁王立ちになっている青いワンピース姿の彼女、そして「ゲロでうがいしてるよ」と聞こえてくる台詞……ただただ???だったのだ。
これが松尾スズキの不条理ワールドか、また悩まされるのか!と身構えたのだけど、これ以降は不条理要素は一切出てこない。
ただ、面会に来たてっちゃんは色々つながれてる明日香に「レクター博士っぽいね」と不自然にテンション高いし、ミョーな患者たちを見て「もう頭、燃やしませんから、ってなかなか聞けない台詞だよね」とヘンにはしゃぐもんだから、明日香は自分が彼の中でさえオカシイ人たちに分類されていることに危惧を抱くのだが……でも実際そうだったのだ。

てっちゃんを演じるクドカン。彼の歯並びの悪さが、これ以上なく活かされたキャラ。っていうか、こんな味噌っ歯じゃなかったよね?(もちろん塗ってる)それが最初は勿論、ギャグとゆるさになる(お尻も出すし)んだけど、クライマックスになってくると、キッチリシリアスになるんだから凄い。
なんかよそよそしいてっちゃんは、何かを隠しているようだし、明日香もここに来る以前の記憶がなんだか思い出せないこともあって、展開が進むうち、観客も、その不条理要素のことを一時忘れてしまうのだ。

でもそれは後に明らかになる。一見普通に見えた明日香、この精神病棟に入れられたのは、ただ病室に空きが出来やすいからという理由だと思っていた、つまり、ちょっとしたマチガイによってここに運ばれてしまったのだ、と。
自分はおかしくなんかないということを早く証明してここから出なければ、と思っていた明日香が、実は、というかやっぱり普通なんかじゃなかったことが、じりじりと明らかにされていく。
ナースステーションの奥のドアからしか、外には出られない。用がある時はノックしてください、と看護師(平岩紙嬢。この狂気の中に絶妙なバランスで立っている正常さ)が言ったとたん、椅子を振り上げてガラスに打ちかかる患者。「ちなみに、強化ガラスです」と彼女はニッコリと笑う。この紙嬢と内田有紀のやり取りはかなり面白い。

ねっとりとした流動食を、「ハンバーグとごはんと味噌汁に、スピード感を加えてます」と説明するのも可笑しいが、「あ、鼻水は連想しない方がいいです。割と近い味なんで」ううう、やだ、やだ絶対……。
次に出てくるのは、微妙にピンクの流動食。「見た目はアレですけど、パンとミルクと苺っていう、可愛らしいもので出来てます」か、可愛らしいって……。
で、もうお腹もすいてるし、早くこの状況から脱したい明日香が意を決して一口……「ウマイ!意外にウマイ!」意外にってところに思わず笑ってしまう。
「もう終わっちゃった!」かくして明日香は、めでたくクワイエットルームから一般病室に移るんである。

そしてこの病棟には、見るからにおかしい人もいるけれど、明日香と同じように一見普通に見える人たちもいる。
明日香は彼女たちと同志的な絆を結ぶんだけど、結局はやっぱり彼女らもここに入ったのはマチガイなんかじゃなくて、必然なんだと、ここには人生に疲れた、悲しい人たちが集まっているんだと、最後の最後の最後に、思い知らされる。
そう、そこんとこも「サイボーグ……」とはハッキリと違うところなんである。主人公以外のサブキャラにも力を注ぐ。しかも、それがこの限られた尺の中でも中途半端にならず、キッチリと成立している。
その中でもしっかりと描かれているのは四人。その他にも印象的なキテレツ人たちはいるけれど、それはあくまで彩りとしての位置にストイックに徹底されている。

まずは蒼井優演じるミキ。明日香の病室を最初に覗いた彼女。その顔の半分だけで、相変わらずビリビリくるような美少女で、しかもこの役のために減量したという身体は、痛々しいぐらいに細くって……元々細いのに……しかしそれが、更にヤバイほどの刹那的美少女度に拍車をかける。
その透けるような白い肌と、黒い瞳、ひっつめたドレッドヘアが壮絶なほどに美しく、どこか感覚的な女優と思われている彼女の、そのセンシティブを自分から作り上げているプロフェッショナルを真に感じさせる。
だって、その造形以外は、ホントにナチュラルに芝居をするんだもの。ちょっとビックリするぐらいの繊細さ。それは元々彼女に備わっていたものだけど、それをフツーのものとして今まで見ちゃっていたことに今更ながら気づく。

この驚くべき繊細さは、勿論、彼女が驚くべき計算に基づいて外に出しているものだということにも、今更ながらに気づくのだ。
例えば、こんな大げさな場面でもね。明日香がヒドイ仕打ちをされた西野さんに殴りかかろうとした場面、止めに入ったミキを逆に殴ってしまう。驚きの表情を浮かべるミキ。
その後、またクワイエットルームに逆戻りする明日香を、初めてここに来た時と同じように覗き見するミキ=蒼井優の、つと流れ出る涙に、うわっと思ってしまうのだ。
その後に、ミキの嘆願でクワイエットルームを出られるようになった、などと明日香のモノローグでわざわざ言わなくても(言わなくて良かったような)、判るのだ、この表情一発で。

そしてまさにその蒼井優の驚異的なセンシティブに、計算づくの舞台芝居で勝ちにいったのが、大竹しのぶ。だって私、彼女が予告編で「生きるのって、辛いことよ。アハア!」と奇声をあげるシーンを見て、これは夏木マリだとばかり思ってたんだもの(爆)。
徹頭徹尾、キテレツ人間、この病棟の危険人物。どうやら元AV女優らしく、それも皆からのケーベツの原因らしい。娘から“勘当”されたという彼女は、他人の不幸話に同情する(フリして面白がる)一方で、自分をカワイソがってやたらと身の上話をしたがるのもうっとうしい女。
新入りをカモにして恩を売っては金を貸し、病室に忍び込んではコソ泥を繰り返しているという西野を、貫禄タップリに“わざとらしく”演じる大竹しのぶは、圧巻。

こんな芝居めいた大竹しのぶも、繊細な蒼井優も、そしてヒロインの内田有紀も、皆結局は同じ、この汚れた世界で生きていけない苦悩を抱えている同志なんだけど、生きていける人にも様々なタイプがいるように、生きていけずにこの閉鎖病棟に来た人たちにも、様々なタイプがいるということなのだ。
「明日香は私と同じ、マトモなのにこの病棟に入れられた」と言うミキだって、本当はそうじゃない。明日香にだけ教えてあげる、とミキが耳打ちする。「私が一食食べたら、どこかの国で一食食べられない子がいる。そのシステムに気づいただけ」と、自らの拒食症をそう説明する。
正常に見えていたミキが、その危うさを見せる唯一の場面。自分も明日香も、外の世界では生きていけない、マトモじゃない人間だということを判っている筈なのに、そう言わない、言えないだけ。怖くて、言えないだけ。

そのことを、言ってみれば自分に何のメリットもないのに明日香に気づかせてくれる西野は、最終的に考えれば明日香にとって、恩人なのだ、と思う。
だって、やっぱり明日香と同じように何かの間違いでここに来たと思われた、マトモな人だと思われた栗田(中村優子)が、その冷静な立居振舞で西野にカモにされることもなく、医者である夫の嘆願で病院を出ることになったというのに、明日香が退院した日、彼女の目の前で、その夫に付き添われて救急車で運ばれてくるのだもの。
「これ(書いてもらった他の患者たちのアドレスなど)は、病院を出た後にすぐ捨てるの、この世界はそういうことなのよ」、と言っていた彼女、つまりそう達観するまでにこの病棟のことを知り尽くしていたわけで、だけど器用に立ち回れるからこそ、自分自身に向き合うことが出来なかったわけで……。

「生きるって辛いことよ!」とまるでシェイクスピアの舞台のように大仰に言い放った西野が、大仰でも何でもない、本当にその真の辛さに向き合っていたんだということが判るのだ。
この病棟に収容された人は、その後も自殺未遂を繰り返してここに戻ってくる、と言われる。でも明日香はきっとそうはならないと思えるのは、この危険人物によって真正面からそれに立ち向かえたからなのだよね。

この時、明日香はすべての記憶を取り戻した。無意識に忘れたいと思っていた記憶。
西野は、明日香の部屋の荷物を漁り、てっちゃんの手紙を見つけ出す。明日香から逃げる形で海外ロケに行った彼の手紙を、明日香の目の前で、皆の目の前で読み上げる。そこには明日香忘れていた、というか忘れたかった過去が満載だった。
そのシーンまで、明日香の過去は語られなかった。前にダンナ(塚本晋也、怪演)がいたことも、別れたことも、彼との間の子供を堕ろしたことも、勘当された父親が死んだことも、良かれと思って送った仏壇が返されたことも、その仏壇を銀色に塗りたくったてっちゃんと弟分の小物と大ゲンカ……の筈酒を飲んだ勢いでいい気分になって、そしてどうやら途中から眠剤まで呑んじゃって……こんな自体になっちゃったってこと。

最初は、原稿の締め切りが迫ってて、なかなか書けなくて、飲んじゃって……てなことだったハズだった。ただそれじゃ、色々とつじつまが合わなかった。
なぜ睡眠薬を大量に摂取したのか。そんなに大量の睡眠薬がなぜあったのか。一階にいた筈なのに、なぜ二階で意識を失っていたのか。そして何より、一度は内科に運ばれて胃洗浄されたのに、そのままそこで入院とならずに、精神病棟に運ばれてしまったのはなぜか……。
そんな、いわばミステリの部分が、一見ユルいギャグ映画に見えるこの映画を、硬派なヒューマンドラマにしていくんである。

普通の人に見えていた明日香が、実は過去の汚点にとらわれて不眠症になり、心療内科に通院していたこと。急にやる気を出して立ち直ったかに見え、そのために飲まないままの睡眠薬がたまった状態になっていたこと(あ、そういやこういうの、「逃亡くそたわけ」でもあった)。
元ダンナと父親の死で、あっという間に精神バランスを崩してしまったこと。それは、元ダンナとの離婚事由と大して違わない、酒をかっくらって自堕落な生活をしているという、自身の自分勝手さが招いたことだということが、次々に明らかになるのだ。

元ダンナは、明日香の元に一通の手紙を送って、その後自殺した。「明日香、残念だ」たったひと言、便箋の真ん中に書かれていた。
その言葉が何を意味するのか。明日香が中絶したことを彼が知ってしまったのか、あるいは明日香と一緒に死のうとしていたのに(明らかではないけど、二人最後の旅行は「まるで心中の道行き」のように描かれる)それが出来ずに、明日香から冷たく突き放されたことなのか。それとも……。
この「心中未遂旅行」のシーン、旅館で、一芸のつもりで口の中にはめこんだコップが取れなくなり、ドン引きの明日香に助けを請うダンナは滑稽な筈なんだけど(うう、塚本監督……)、なんか哀しくて、かわいそうで。

そういう意味では、松尾監督は結構シンラツなのかもしれない。人生の苦悩に直面しているヒロインを、距離を持って見つめている。演じる内田有紀は、特に妄想部分(しかしこここそが、明日香の本質を射抜いているのだが)ではかなりブッ飛んだ演技を披露しているし、それに沿えば、キッチュな作品に仕上がりかねないのだけれど、最終的に一人の人間を深い部分から見つめた作品に仕上がっているのには大いに驚いちゃうのだ。
明日香はどこで、真の人間というものに目覚めたんだろう。てっちゃんがどうやら自分から逃げて、海外に行ったんだと自覚した時から?

確かにこのシーンは印象的。事情を説明に来た部下、小物(妻夫木君、嬉々として演じてる)が繋がった眉毛で必死に説明を試み、しかし明日香の替わりにフーゾク記事を代筆したなどと言うもんだから、明日香はその記事のサムさに、持病のじんましんが再発。
あわやクワイエットルーム再送かと思いきや、彼女は必死に正気を保ち、アピールし、ズバッと脱いで小物に自分のじんましんの写メをとらせ、理不尽に監禁拘束する病院の実体をネットに流す、と看護師たちを脅すのだ。
病院の方針に従うしかなかった患者たちに、明日香は拍手喝采を浴びる。ミキなどまるで自分のことのように誇らしげに、「明日香、カッコよかった。おっぱいもキレイだった」と言い、明日香はすっかり自信を取り戻して「否定しません」とニッコリ笑う。
すっかり皆のヒーローになってしまった明日香を、ミキがどこかヤキモチを持って見つめているのも印象的なんだけど、それは本当に一時だった。直後に、西野による、あの事件があるわけで……。

この場面でまさに明日香と対決姿勢になる、明日香から「ステンレスで出来た女」と言われる冷たい看護師を演じるりょうも素晴らしいのね。
どこか、患者側の世界に行きそうな危うさをその内に秘めつつも、鋼鉄の女であるところがさすがの絶妙。過去に死にかけたという、患者に刺されたボールペンの傷痕が首筋にくっきりと残るのが、凄い迫力。彼女の冷たさが明日香のファイトを燃やす。

もう一人印象的なのが、マイマイ(高橋真唯嬢のことだッ)演じるセレブ患者、サエちゃんである。
これまた壮絶なまでの美少女である彼女がその美貌をキープしつつ、ちょっと知能に問題アリそうなキちゃってる女の子を、それだけに……つまりダブルに異質なだけにこんな変人ばかりが集まっているところでさえ孤独に陥っている、つまり絶対的孤独の渦中にいる女の子を、さりげなく演じている。
彼女は明日香に対して、他の患者たちにはしない信頼を示したんだよね、多分。それは、彼女に次いで二番手ぐらいの引っ込み思案と思われるミキが、最初から明日香に興味を示し、明日香が他のグループに引き抜かれると嫉妬の視線を飛ばしていたのが代弁している気がする。
最後までサエはそれを明らかにすることはないんだけど、でも退院が決まった明日香に、自分の描いたスケッチを渡す、それが凄く丁寧に描かれたスケッチなのね。
それを……仕方ないんだけど、ここでの生活を断ち切るために明日香が、ためらいながらも皆の寄せ書きの色紙と共に捨てる場面で、ああ、外に出て行ける人と、そうじゃない人の違いが、ここにあるんだと思って……。凄く、切ないわけ。

で、その直後に明日香は慕っていた栗田の再入院を目撃し、そして脱走した患者がたくましく自転車に乗っている姿を見る訳でしょ。
明日香は大好きな人と、というか、自分を守ってくれると思っていた人との幸せを犠牲にして、自由を手に入れた。栗田は夫によってこの病棟から出してもらって、今も彼によっかかってる。残酷だけど、そういうことだと思うんだよね。

でもどうなんだろう。そんなことがあっても、このダンナが栗田を愛して守り続けるのなら、その方が幸せなのかなあ。
だって明日香は外に出る自由への代償に、大好きなてっちゃんとの別れを決意した。そりゃ、てっちゃんが自分と別れたがっていることを知ったからだけど、もしそうじゃなかったら、彼が変わらず自分を愛してくれていたんだったら、栗田みたいに?
一体どっちが幸せなんだろう……。もう明日香だって、いい年なんだもの。それってつまり演じる内田有紀だって、ってことであり、そのまんま自分に返ってくることなんだけど(爆)。

明日香がてっちゃんに別れを切り出すシーンは、彼女の自立への第一歩を促がす場面でもあるけど、辛い。
「私、うっとうしかった?そう言ったら、別れてあげる。そのかわり、退院の申請、出してほしいの」
てっちゃんは最初、「うっしっしー」などとゴマかすんだけど、明日香の真剣なまなざしに、
「うっとうしかった。うっとうしかったよ」と繰り返す。
「フー……」と大きく息を吐く明日香。
それは、彼の長年の鬱積だったのか、それとも明日香への思いやりだったのか。

終わってみれば、たった14日間の物語。そこには人生の全てが凝縮されていた。そしてスタートへ。★★★★☆


トップに戻る