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「せ」


2008年鑑賞作品

青春トルコ日記 処女すべり
1975年 83分 日本 カラー
監督:野田幸男 脚本:山本英明 松本功 野田幸男
撮影:山沢義一 音楽:中村泰士
出演:山川レイカ 荒木ミミ 岡田奈津子 佐藤蛾次郎 前野霜一郎 高月忠 花田達 殿山泰司 小松方正 須賀良 土山登士幸 小林千枝 沢まゆみ 三上深雪 小林稔侍


2008/8/26/火 劇場(渋谷シネマヴェーラ)
タイトルからロマポルかと思ったら、東映のマークがバーンと出たのであららら、と。
しかし中身はロマポルより凄いかもしれない!?いやー……というか、なんだこりゃ!!ともう頭の中がビックリマークだらけで、ただただ圧倒される。
ナンセンスも充分にありながら、裸一貫でのしてくる女たちの迫力ったらないんだもの。
女の裸っつーのは実にそれだけで、圧倒的な力を備えていることを痛感する。こりゃー、女優は、脱がない手はないって!?

というか、この作品に出てくるメインの三人の女優さんはみんな“新人”で、その他では全然聞いた記憶のない名前なんだけど(一体その後、どうしちゃったんだろう??)まさに“裸一貫”で生きていくこの女三人のエネルギーがもう、凄まじくてさあ……。

まずね、主人公のクラ子は集団就職で青森から出てくるのよ。下北のナントカいう小さな駅から小さな電車にすし詰めにされて、皆に旗振られて。
辿り着いたのは小さな工場。雀の涙みたいな給料で必死に働くんだけど、夢の都会って感じは全然なくって。
カットが変わると、土手っ原を必死で駆けている彼女、どうしたのかと思ったら、同じ色の作業服の男どもに追いかけられてる。あららひょっとしたらと思ったら案の定、工員の男たちに押し倒されて、引き裂かれて、かわるがわるに輪姦されてしまう。

最初っからさ、哀愁のある、しかし妙にポップな昭和歌謡的な曲が状況説明よろしくかぶさってくるのが、ものすごい独特の雰囲気を与えているのよ。ちょっと、異様なぐらい。この目をおおうような輪姦シーンでも♪花を散らした、ルルルー みたいなさ。もう脱力していいのか笑っていいのか、困っちゃうぐらいなのよ。
でさ、クラ子はそれで逆に開き直っちゃって、水商売の世界に身を投じるというのも凄いんだけど、客を連れ込んでトイレでナニしちゃうクラ子に客の方が感心して、こんなところで働いているよりトルコに行けばもっと稼げる、と教えてくれる。
そしたらクラ子、目を輝かせて、工場の何倍、キャバレーの何倍……とカネ勘定し始めて(男に舐められながら(笑))、もう次には「トルコ女学館」の門を叩いているわけ。

トルコ女学館……そうよ、セーラー服姿でいらっしゃいませ、よ。日本ってのはその昔からコスプレ文化があるのよね。その後も「トルコ密林」でターザン、「トルコ蛸壺城」で乙姫様のような和服姿、とくるんだもん。
クラ子が場所換えして店を大きくするたんびに、そんな具合にコスプレがグレードアップしていくのがまたおかしくてさ!
この「女学館」で、クラ子はたちまちトップに上り詰める。最初こそは田舎言葉丸出しで、「お前、新入りだろ」とすぐに見抜かれるほどだったんだけど、もう最初っからアッケラカンとしてて、裸でゴシゴシサービスしちゃう。

つーか……この映画、クレジットに“性風俗アドバイザー”なんつーもんがついててさ、トルコの描写は、まあ知らないけど、えらく細密なのよ。つまりどうやってどうするかとか(……言えるか!)。
お代官コース(沢山の女の子でかわるがわるサービス)だの、レズプレイのオプションだの、蛸壺城までグレードアップしてくると、透明アクリルで作った滑り台を、女の子たちでアーチを作った中滑り降りるお客さん、その下には足を開いた女の子が股でキャッチする(!)なんて凝りっぷりまで出てくる訳。うう、書いてるだけでハズかしい(汗)。
しかしその中で泡まみれで働いている女の子たちは、まーこれが疑念や戸惑いのかけらもなく、とにかくカネ、カネを貯めることに実にポジティブで、女子高のようにキャアキャア皆で言いつつ、その後ろでは指を舐めて札束数えているようなタフさなのだ。
で、♪女に生まれて、良かったー とまたまたあの哀愁のメロディが……やめれって(笑)。

あ、歌といえば一番繰り返されるのが、♪ナニをするにはカネがいる。カネがあるやつはナニをする…… ていう(笑)。更に、♪カネのない男二人はカマを掘り、女二人はソコなめる、と。
も、もう、ヤメてくれ……なんかスクリーンでヤッてること以上にハズかしいんですけど(大汗)しかも、絶妙な男女のハモリで聞かせるなー!余計にハズかしいわ!
しかしこの歌謡映画よろしきやりかたは、うーん、ホント凄い。

で、クラ子は溜め込んだカネをビニールにつめて冷凍庫にしまいこんでいく。それがどんどん貯まる。
「唯一の楽しみはトルコ」とクラ子をいつも指名してくれる工場経営者の石川をだまくらかして500万融通してもらうも、彼から工場が倒産しそうだから金を返すよう迫られると「500万?何のことだ?社長さんにはスーパーサービス一回10万を、50回で返したっぺ」おいおいおいおいー!!!

このあたりになってくると、クラ子は店だけじゃなく、家にも客を連れ込んでカネを稼ぎ出す。しかも一回30分。同居している同僚に、外の公衆電話から田舎の母親からを装ってかけさせて、寸止めのところで男を追い払うんである。
石川もこの寸止めの悲劇にあい、500万出してこんな中途半端じゃ……と泣きそうな顔を見せると、明日店に来てくれっぺ、とクラ子はあっけらかん。
で、帰っていく社長はらせん階段のところで次の客とすれ違う、と(笑)。で、30分ごとに客同士がらせん階段ですれ違う。最後には筋骨たくましい黒人さんお二人連れまで(汗)。
ところで、この石川を演じているのがなんとなんと、殿山泰司でさ!まあ彼はロマポルにも出ているし、そんな驚くアレでもないけど、しかし、トルコで泡まみれでかなりエロエロな描写が……その年老いた(失礼!)全裸を惜しげもなく……こ、これぞ役者魂。男優も裸一貫じゃなきゃ、いかんわあ。

社長は、自殺してしまった。娘である婦人警官だった弘子が、クラ子が川崎に開いた「トルコ密林」に姿を現わし、自分も身体ひとつで金を稼ぐ、と宣言した。
一方でモモ子というワケアリの少女も登場。雨の路上に半裸の姿で倒れているところを、チンピラの三太が助けたのだ。
しかし彼女を見つけた時、死体だと思って関わりあいにならないように忠告する兄貴分をよそに車から降り、「兄貴、ハクいスケですぜ」って叫ぶと、その兄貴分たち、とたんに車の窓から顔を出す(笑)。
「生きてるのか?」「いや、死んでます!」すると首をひっこめて、車の窓がススーっと閉められ、三太を置いて走り去ってしまう(大笑)。
残された三太、改めて抱き上げてみると彼女の息があることに気づき(最初に確認しとけよ……)「やったー!生きてた」とバンザイして(笑)ホクホクして自分の汚い部屋に連れ込み、喜び勇んでちょうだいにあがるんである。
目覚めた彼女は嫌がる風もなく、ただただ笑って彼を受け止める……彼女は何にも覚えていないし、なんだかちょっと、頭もイッちゃってる感じなのだった。

三太とモモ子、そしてカネがないのにお代官コースで遊んで叩き出されたシローの三人は、モモ子の断片的な記憶から、ひょっとしたら金持ちのお嬢様かもしれない、とその過去を探し出そうとする。まあ、つってもまるで三人デート気分で、あちこち歩き回ってはキャッキャとじゃれあっているってな具合なんだけど。なんかそれがちょっと青春な感じでさあ。
三太とシローは、純真なモモ子を心配する一方で、二人してホレてるみたいな感じなんだよね。そしてモモ子は二人を兄のように慕っている。

後にモモ子の素性が明らかになった時、彼女の記憶の断片は連れ込まれて輪姦された金持ち学生の豪邸だっただけで、彼女自身はバラックみたいな貧しい家に多数の弟妹たちを抱える長女だったのだ。
しかもそれが判った時点で、彼女の父親は飲んだくれて死んでしまっていた。モモ子を見つけ出したその学生たちに取り囲まれて、三太は命を落としてしまう……。
このモモ子は白痴美少女の雰囲気がありながら、一方でママであるクラ子を慕ううちに、彼女もまた女としてのたくましさを見につける。
最後には「どうせ税務署に払うカネなんでしょ。だったらもらうね!」とクラ子から大金を横取りしちゃうまでに成長?するんである。まあ、それはもっともっと後の話になる訳なんだけど……。

弘子がね、クラ子よりどんどん稼ぐようになっていく訳。元婦人警官という経歴が男に興味を持たせるっていうのもあるけど、ガメついやり方でクラ子の客までとっていってしまう。
客から「ママ、ブラシが擦り切れてるぞ」なんて壮絶な台詞があり、弘子の痩せた身体に目じりを下げて、「やっぱりフレッシュなのはいいなあ」なんて言うもんだから、もうクラ子の目がキッとなっちゃう。
後に「女が身体で稼げるのは若いうちだから」とクラ子が幼なじみに向かってしみじみつぶやくシーンもあるし、彼女はその若いうちにとにかく稼いでやろうと頑張ってきたんだよね。しかしクラ子だってまだ充分に若いのにさあ……。

しっかしこのクラ子を演じる山川レイカは、この作品ひとつで姿を消したのが惜しまれるほどの存在感。フランス人形のように整った顔に、ほどよい豊かさの美乳、白磁器のような太もも。その姿で青森訛り丸出しなんだもん。
そして、キッツイ性格は、危機に直面すると大きく見開かれるその瞳の恐ろしさで判る。もう、この目でガンつけまくられちゃ、ひれ伏してカンベンしてくださいって言っちゃいそうだもんなあ。

弘子に取られた客を、これ見よがしに取り返し、その客を骨抜きにして「トルコ密林」を莫大なカネで買い取らせちゃうクラ子。そして今度は千葉に「トルコ蛸壺城」をオープンさせる。
しかし、そこでも弘子を雇うのよね。クラ子は自分に絶対の自信があるから、自分を恨んでいるに違いない弘子を躊躇なくそばに置いていたけれど、これが彼女の誤算だったのだ。弘子はクラ子の自慢の外車に細工して事故死させようとしたり、あからさまに命を狙ってきているんだもの。
しかしそれに気づいているのかいないのか……つーか、この外車を近所の人にノンキに自慢しているクラ子は、ある意味ちょっと天然かもしれん……。
しかもクラ子は絶対、死なないんだよね、最後まで。この事故の時にも、ラスト、炎上した車の中からさえ、その胸に稼いだ金をしっかと抱いてはいずり出してくるんだもん!

弘子の密告で、警察から売春容疑をかけられたクラ子。
ブチ込まれた牢の中で、下着に隠しておいたカネをばらまいて弘子をとっちめさせる場面の爽快さ。だって最初は傍観していた受刑者たちが、カネをばらまかれると途端に「このアマ!」とばかりに弘子に襲い掛かるんだもん。
いやー、トルコ嬢のみならず、女はどこでもことほどさようにタフでがめつく、たくましいのよ(笑)。

弘子はクラ子の幼なじみで彼女にホレている男をくわえ込み、脱税の証拠をつかんで、今度は税務署に売り込んでしまう。
多額の重追加税を言い渡されたクラ子は、そんな大金払えるワケない、もう今差し押さえなさいよ!と吠える。そんなクラ子をほくそ笑んで見ている弘子。
だけど、クラ子の部屋の天井裏には貯めこんでおいた大金がギッシリつまっていて、彼女は頭の中で考えをめぐらすわけ。この妄想がまたおかしくてさ!
ハダカで金を積んだ壇上に立っているクラ子、その頭の後ろには「納税」と大書されていて(!?)「この程度のお金、大したことありませんわ」とホホホと高笑いするクラ子に、「さすがトルコの女王」と税務署員たちが讃えているという……なんなんだ!
しかし一方で、自分が稼いだ金を人に渡したくないクラ子はその考えを打ち消すんだけど、カネを隠している場所を弘子に見られちゃって……。

蛸壺城にね、かつて自分を輪姦したリーダーの男が、地元のヤクザとして現われていたのだ。弘子はその男、竜次をたきつけて、売春容疑をでっち上げたのだった。
でも今のクラ子は、こんな男には屈しない。逆に「青姦した仲でしょ」と自分からまたがっちゃう。
しかし弘子は竜次に、クラ子が貯めこんだ金のことを教え、海外に飛ぼうとしていたクラ子と三人もつれて大乱闘。壁にかけてあった猟銃(!ってなんでそんなもん持ってんの!)を手にしたクラ子の撃った弾が竜次の足にあたり、弘子の頭にも突きつけて脅して追い払う。
血だらけの竜次をそのままにし、このカネを渡してたまるか!と飛び出したクラ子の車を弘子が追う。ガンガンぶつけてくる弘子の車に、負けじとぶつけ返して凄まじいスピードで逃げを打つクラ子。こ、これ女二人のカーチェイスじゃねーだろ!

その前の、部屋での大乱闘からショットが細かく切られ、画面がギュンギュンぐねりだして、もう目が回りだすのだ。ガンガンクラ子の車にぶつけまくり、弘子はハンドル操作を過ってどっかの店に突っ込み、クラ子はガソリンスタンドに突っ込み大炎上!(オイー!!)
しかし、そこからほうほうの体で這い出したクラ子、到着した救急車のタンカに乗せられたところに、ただ一人「あんたは裏切らないわよね」と信頼していたモモ子が駆け寄ってくる。
「ママ、死なないで、ママ!」と泣いていた一方で、先の台詞でニッコリバッグの金を奪って去っていってしまうのだ!!!

それでもクラ子はめげない。救急隊員が治療処置のためにハサミでショーツを切ると、その中に札束がつめこまれていたのだ。
そのカネを大事そうに胸に抱き、海外で整形して出直しだ、とつぶやく。何も整形しなくても……いや、整形して別の人間になるつもりなの?と思ったら、「もっと名器に整形してもらうっぺ」と言ったのだと教えて頂いた(爆)。いやはやそれにしてもなんたるたくましさ!

もう最初から最後まで、目が回るほどの女のたくましさ。
その中で男はといえば、金を吸い取られて自殺するわ、殺されるわ、突然多数の扶養家族が出来て目を回すわ(シロー君ね)、ホレた幼なじみとは一回ヤレただけでポイされるわ、もう、カワイソウで(笑)。しかし確かに、♪女に生まれて良かった のかもしれない?

しかし確かにタイトルが示すとおり、妙に青春、なのよね。年若い女の子たちが一方で友情を知り、恋も知り、へこみ、立ち直り……その規模がスゴすぎるんだけど(笑)。★★★★☆


世界で一番美しい夜
2007年 160分 日本 カラー
監督:天願大介 脚本:天願大介
撮影:古谷巧 音楽:めいなCo.
出演:田口トモロヲ 月船さらら 市川春樹 松岡俊介 美知枝 斉藤歩 江口のりこ 佐野史郎 柄本明 角替和枝 三上寛 石橋凌

2008/5/27/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
「誰も死なないテロ」「大人の寓話」そんな惹句ではまるで計り知れない作品。
予想以上に力作なのでちょっと驚いてしまった。決して多作じゃないし、一作二作ともどの方向に向かうのかというのもまだ見えていなかった状態だったので、相当の気合いが入ったと思われる重さと質量をもった本作には意外な感があったのだ。
でも、監督作じゃなくても脚本参加の作品を見れば、この監督が大いに爆弾を抱えている作家だということは判る。そうか、うかつだった。

紹介にも大人の寓話とされているし、作品自体の語り口も確かにそんな感じ。アーティスティックなコラージュ風アニメーションで導入部を作り、何度となくその手法で補佐的にストーリーを支えていく。あるいは登場人物が回想したりする場面で、バックがそんな風にポップなコラージュアニメになったりもする。
彼らは重い過去を抱えてこの寂れた村に集っているのだけれど、その重い過去、ほんっとうにしんどいほどに重い過去なんだけど、それを極力重く感じさせないように配慮している感がある。
実際、同僚にダマされてレイプ疑惑を負わせられ、5千万もの慰謝料をふんだくられただなんて話、もうただ聞くだけだと重くて重くて仕方ないんだけど、この手法だとスルリと見せられてしまうのね。

という、この男から全てが始まった訳ではないんだけど、ヒロインである14歳の少女、ミドリが「この男がこの村に来たところから始めようか」と語り始める。新聞記者であったその男、水野一八(田口トモロヲ)は、そんな風に同僚の鬼塚(斉藤歩)にダマされて、「鉄格子のない監獄」であるこの要村の「稲穂新聞要村支局」にやってきた。
「警察と新聞記者がヒマなのが何よりですよ」という、どん底に落ちたくなるほど平和な田舎。そこにはやはりトンでもないことをしでかして飛ばされてきたアル中の支局長、遠藤(佐野史郎)と支局員石塚(松岡俊介)がいた。
遠藤は酒びたりになって、仕事なんて全然やる気がない。ようこそ、新聞記者の墓場へ、と水野を迎え、ここは監獄だと言って、厭世的なことばかり口にしている。
石塚の方は彼になにかと世話を焼いて優しくしてくれるんだけれど、ちょっと頼りない感じ。

と、語ってしまうのはちょっと早かったかな。だって、そもそもの始まりは、この村が出生率日本一だというところから始まるんだもの。
引きの画で見ても、ほおんとに、なあんにもないこの村に子供たちがひしめきあって遊んでいるのは、のどかというより、なんだか異様な感じがする。そしてこの物語の語り部である少女、ミドリは、その秘密を知っているという。
そのレポートは校長先生から怒られて、口外したら退学だと脅された。だから、と彼女は有名なキャスターに向けてメールを打ち始めたのだ。

先に語った、この村にやってきた三人目の左遷者、水野は、実は彼女の父親なんである。
そして、この村一番の天才なんだけど、天才すぎて周囲に疎まれ、逆に頭がヨワいと思い込まれていた〆子という女性が、彼女の母親なんである。
そして、この父親は物語の最後には人間に対する、世の中に対する絶望のあまり、ヘビになってしまい(!!)だから、彼と交わった〆子はヘビの卵を“出産”し、なもんで、ミドリは「だから私にはオヘソがないんです」と言う。
そしてそしてこの村には、“人魚の肉を食べてしまって、800年も前から死ねない”という老女も徘徊している。
彼女に言わせれば、生き続けているのも飽きる、のだそうである。
こんな具合に、そこここにファンタジー、というか、そう、ホントにそれこそ寓話な雰囲気が満ち満ちているのだ。

〆子の父親役に、最後のフォークロックの魂、三上寛。
彼自身にも、寓話のイズムが流れている。だからこそ寺山修司は彼を重用したのだし、全編に渡って流れる彼の津軽なソウルは、観る者の心を震わせるのだ。
父ちゃんの本業は、漁師じゃないんだもんね、と〆子に言われて、船の上で誇らしげにギターを取り出す三上寛のカッコよさ!
見た目はまんま、漁師にピッタリなのに、ってところがまた、いいのだ。
彼は、〆子が本当は天才だと判っている数少ない、というか、ひょっとしたらたった一人の人間。
〆子が「壊れた電子レンジから作った」という、魚を呼び寄せる周波数を出す機械で、彼はこの村一番の漁師として認められているのだ。
そしてそのことを、彼は娘に感謝し、誇りにしている。

酒びたりになっている遠藤は、自分が会社にたてついたからだと言っているけれど、本当は違う。
息子を死なせてしまったのだ。
ある日、いつものように酔っぱらってスナック天女に現われた彼、包丁を振り回し、暴れた。そして自分のノドを突こうとする。ママの輝子が静かに近づいて、彼の背後に、心配そうについてきている息子を見た。
息子の気持ちを聞こうとしなかった。ただ理不尽に殴って。そのために、思いつめた息子は死んでしまった。その事実からさえも、彼は目を背けて、だから恐らく……死んでしまった息子は誰からも存在を拒否されて、今までさまよっていたんじゃないかと思う。
いや、彼女の言うように、すっかりどん底に落ちてしまっているお父さんを心配して、ついてきていたのか。
息子は、「死んでからいつでも会えるよ。もうちょっと生きてみるのもいいんじゃない」とお父さんに語りかける。
それ以来、遠藤は酒をピタリとやめた。

この“出生率日本一”の状態を引き起こした男の理想によって、この村にもたらされるセックス礼賛の図、ことにクライマックスの、いぶした媚薬をかがされてところかまわずセックスに興じる群集、というのは、あららこれって最近ソックリの図を見たわと思って……そう、あの悪夢の「パフューム」
でも本作は本当に、純粋にセックスの理想を語っているんだよね。純粋過ぎるから……危ないほどに。
元テロリストで、監獄に入れられている間にドイツの壁もソ連も崩壊してしまった、と語る仁瓶(石橋凌)は、今は単独行動で、停泊している船にこもり、一人黙々と何かを作っている。村人たちはそれは爆弾だとまことしやかにウワサしているけれど、その真相を確かめにいった水野に、彼は打ち明けるのだ。
これは縄文人たちの秘密のカギだと。縄文人たちは現代人の10倍、いや100倍絶倫だった。文明が世界をダメにするのだ。文明の反対にあるのがセックスだ、と。もう、セックスが地球を救わんばかりである。

仁瓶は、未来を作るのは政治でも思想でもない、セックスなのだと言い、一人この孤軍奮闘の革命を温めているのだけれど、でも、セックスこそが人間を救うんだという彼の、どんなにいろんな角度から突っ込まれてもディフェンス出来るほどの論は、立派な思想じゃないのかなあ、と思いもする。
それに、仁瓶が、世界中の争いや、女が犯されることや……と口にした後でのセックスの素晴らしさっていうのも、実はちょっと危ういバランスというか、突っ込まれやすい感じもあるんだよね。女が犯されるのだって、セックスには違いないんだもん。勿論、仁瓶が主張するセックスの意味とは違うけど。
まあ、それだけ彼が純粋だってことなんだけど……。

実際、そんな極端な仁瓶の理想に、「暴論だ」と水野は呆然とし、だって縄文人は弥生人に負けたじゃないか、と反論を試みてみると、それでも仁瓶は余裕の笑みで、君は全然判ってない、とやはりセックスが人間を救うことの“思想”に揺るぎない自信を見せるのね。
「最後に素敵なセックスをしたのはいつだ?」と。思わずひるんでしまう水野。この台詞は……確かに不意打ちというか、思わず自分を顧みてしまう台詞。それは、最後に幸福だったのはいつか?と聞かれているようで。
最終的にはね、ひょっとしたらそれもアリかもしれない……などと、なんだかねじ伏せられてしまうのは、仁瓶の理想があまりにピュアなところに端を発していることと、その思いが、子供の頃から思い続けているたった一人の女性に向けられているから。

「オレは愛する女と、とろけるようなセックスをしたいと、心の底から思ってるんだ」

しかしその女性、スナック天女のママ、輝子はナゾの女、というかちょっとキケンな香りのする女。村の実力者である宮司から「婚約者と夫の二人を殺した、保険金殺人の疑いのある女」と吹き込まれた水野はそれを一時信じてしまうのだけれど、結局はそれは、宮司の嫉妬心からくるデマだったのだ。
でも、水野が輝子の形跡をたどって関係者から話を聞くほどに、ますますその証拠が固くなるように思えて、彼はこのネタをもって本社に戻れる!と意気込んでしまうんである。
でも、彼女はシロだった。結局人が人をカテゴライズするのは、自分の不利益や嫌悪を正当化したいからなのだ。ただそれだけ。そんな“知恵”を持ってしまうからこそ、それはやっぱり文明が発達したからだからこそ、きっと人間は〆子の言うように、どんどんバカになっていくのだろう。
〆子は彼女のことをいい人だと判っている、村でも数少ない人間の一人だった。

輝子の婚約者と夫があいついで心臓麻痺で死んでしまったのは、ある理由があった。それを彼女は言いたがらなかった。
こんな美人が、寂れた町に流れてきたことも、世間の疑いを強くした。
しかも、輝子には不思議な能力がある。霊やその人の背後関係が見えてしまうのだ。水を酒に変えることさえ出来る。

輝子の秘密、それは、尽きることのない性欲であり、彼女の性欲に応え続けた男たちは、生命の力さえ使い果たして、死んでいった。 押さえられない自分の性欲が人を殺してしまうことに絶望した彼女は、自分の性欲を封印するんである。〆子に、絶対に開かない鉄の貞操帯を作ってもらってまで!
そして、性欲を封印してから、輝子にその不思議な能力が宿るようになった。
こういう話は確かに聞く。いや、それはセックスを知ってから性欲を抑えるなんて話はまあ、聞かないから、つまり処女の時には霊感的な、不思議な力を持っていたのに、“女”になったとたんに、それが失われるという話。
そして〆子は、この貞操帯に呪文をかけていた。「アマノイワト」と囁けば、開くと。それを教えられていた仁瓶は、貞操帯にそう、囁く。ぱりんと砕け散る貞操帯。果たして、三人目の男が彼女に挑むことになるんである。

ワイドショーに輝子がかぎつけられたことで、彼女にフラれたことをウラミに思っている宮司や村長たちは、彼女と“キケンな思想を持っている”仁瓶を村から追い出そうと気勢をあげる。
でもそこに、すっかり改心した遠藤が飛び込んでくるのだ。
思えば彼には、水野にはなかなか見えていなかった輝子や仁瓶の真の姿、この村の真の姿がちゃんと見えていたのかもしれない。
宮司や村長に思わずノセられそうになっている村民たちに、お前たちの中にだって輝子に助けられたヤツはいるだろう!とどやしつける。
そうなのだ、人はカンタンに、誰かに世話になったことを忘れてしまうのだ……。でもそれを思い出すことが出来るのも、人間。
輝子達を追い出そうとする一団と、それを止めようとする一団がもつれて、仁瓶の船へと向かう。
容赦なく荷物を運び出す一団をとめようとする一団。そしてあの媚薬に火がつけられ、“セックスしたくなる煙”がそこらじゅうに充満するのだ!

村の全ての人々がセックスしている、「世界で一番美しい夜」
それをあの、800年生き続けてきたおばあがじっと見守っていた。

冒頭のアニメーションで既に、文明が世界を滅ぼす究極の寓話が提示されている。
便利なことが人間を堕落させるんだという結論に達して、あらゆる便利を拒否して、愛する妻とも別れて洞窟にこもってしまった男。
数十年たって、夫に会いたくなった妻が洞窟を訪ねると、もう彼は妻のことさえ判らなくなっていた。
果たしてそれは本当に、彼にとって幸せなことだったのか?

そのアニメーションはそれこそ極論で、本当に寓話って感じなんだけど、でもこの男はそのまんま、仁瓶に転換されているんだよね。
でもこのアニメの中では、“便利”の反対がセックスである、という論にまでは、さすがに発展していない。
その論に発展してしまったことが、この物語を、一方ではちょっと切なくさせている。
彼の愛する女は精力絶倫で、彼女の求める“愛”に応え続ければ、彼は死んでしまう。
そうやって、彼女を愛した男たちは果てていった。
それを世間は、インランな女にとり殺されたと見るんだろうけれど、彼女の愛によって死んでいった男たちは、むしろ幸せだったのかもしれない。

普段からペニスを鍛えて、精進していた仁瓶。そうそう、この描写も最初は??だったのよ。船のへさきで道場着姿の仁瓶、その股間が大きく上を向いてて、そこにヤカンがかかってるって、一体!?って。
で、更に、その屹立した股間で板をバンバン割って(……空手ってことか。いや空“手”ならぬ?)、その時点でようやく彼が、そこを鍛えていることが判る。しっかし、そんな修行ってあるか!
そして更に強力な味方、縄文人の精力剤を手に入れた彼は、自分が死ぬか、彼女が死ぬか、という気合いを持って臨む。

何度も何度も繰り返される、実にオプティミズムなセックスは、仁瓶のまさに理想とするところだったと思う。
だけど、一晩たって朝を迎えた時、幸せそうに仁瓶の腕にすがる輝子に対して、もう彼は息も絶え絶えで腰も立たなくなっている。
それでも彼は、セックスが世界を救うと言うのだろうか?いや、言うのだろう。
オスがメスとの交わりを生涯最後のイベントにしている生物はいっぱいいる。
それを陵辱という形にゆがめているのは、人間だけなのだ。
そして二人は、船に乗って、どこへと知れず旅立っていった。

バカな人間に近づくとかゆくなってしまうという〆子は、しかし水野には、“ちょっと赤くなっている”だけだった。
だから〆子は水野のことが結構好きだったのだ。考えすぎる彼に、「バカねえ」とよく言っていた。
〆子の考えも、ある部分、というか根本的なところでは仁瓶と同じ。文明が発達すればするほど、人間の睡眠時間は減っていった。そうやってバカになっていったんだと。
水野はその考えにはいまいち賛同できなくて、だって人間が高度な知識を得ていったからこそ文明が発達したのに、と思ってるんだけど、というか、それこそがまあ、普通の人間の考え方なんだけど、〆子はそんな彼に、バカねえ、と笑うのだ。

確かに水野はバカだったのかもしれない。人に言われるまま輝子に保険金殺人の疑いをかけたりして。そのことを、実はコイツこそが水野を要村に追いやった同僚の鬼塚にもらしたりして。水野は信頼していたのだ、この男を。
そして鬼塚は、この村で水野に親切にしてくれた同僚の石塚とつながっていた。輝子のネタをテレビに売り、そして水野はついに会社からクビになってしまう。
そのかわり石塚は本社に戻れることになる。何度も水野に謝り、頭を下げる石塚。もしかしたらコイツの方が鬼塚よりもタチが悪いかもしれない。
本当はお前がキライだったのだと、鬼塚に殴り飛ばされ、蹴り飛ばされ、地面にはいつくばった水野はもう……絶望してしまった。
そして、“ヘビになってしまった”のだ!

でもね、そんな彼を見つけた〆子は、自分の身体が本当に、全然かゆくならないことに狂喜するのね。
もはや人間ではなくなってしまった水野は、バカではなくなった訳。
彼は人間のうちではマシな方だったんだろうけれど、人間であるというだけで〆子にとってはバカな領域だったんだろう。〆子にとって理想の男に完成されたヘビ男の彼と、〆子は嬉々としてセックスする。なんという皮肉!
そして彼は、そのままはいずって変電所へ向かった。入り込んで自らの身体を機械に巻きつけ、村中を停電させ、自分も感電して、死んでしまった。

そして時が現代に飛ぶ。村の皆で出生率一番をほめてもらいに首相に会いに行く。最初からそれは示唆されているんだけれど、ラストにそれが実現する場面。
あまた集まった子供たち、首相官邸から迎える政治家たち。もう〆子は身体中がカユくてカユくて大変なんである。
この時点でようやく、ミドリが〆子と水野の間の子供であることが判る。
そしてミドリは、その群れの中から数人の子供たちを引導して外へ歩いていく。
「天才の血を引き継いだみたいです」とモノローグする彼女が手にしているのは、仁瓶が作り出した、皆がセックスしたくなる媚薬から抽出し、分析し、作り出したピンクの粉。
いぶさなくても、これを撒いて漂わせるだけで皆がセックスしたくなる。それを東京の上空に満遍なく撒こうという。まさに、「誰も死なない」けれど、ある意味恐るべきテロ!

仁瓶は言っていた。
「争いが消え、世界中の子供たちが飢えず、女が犯されない、そんな夜がたった一日でもあれば。たった一日でいいんだ!」
セックスしている間に、人間は争いのことを考えない、だろうか。
あるいはその”幸福な瞬間”がずっとずっと続けば……。★★★★☆


接吻
2006年 108分 日本 カラー
監督:万田邦敏 脚本:万田珠実 万田邦敏
撮影:渡部眞 音楽:長嶌寛幸
出演:小池栄子 豊川悦司 仲村トオル 篠田三郎

2008/3/11/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
どうしても好きになれない、忘れたいくらいイヤな映画なのに、その完成度は紛れもなく高くて、そして絶対に忘れられない映画、っていうのが稀にある。
そういうのが一番ヤッカイで。つまんないっていうんじゃ絶対ない。感情は揺さぶられるし、いろんなこと考えちゃうし、凄く刺激は受ける。
つまんないとか、そこそこ面白いとか思ってその後はサッパリ忘れちゃうような映画が世間に垂れ流されている中で、その存在は本当に貴重なんだけど、でもホンットに、「UNLOVED」への嫌悪感ときたらなかった。
この女の、腹立たしさ。その女に振り回される男二人の哀れさ。ボロアパートのみじめささえイヤに思った。
でも捨て置けなかった。ことあるごとに、思い出した。例えばそれこそツマンナイ映画に遭遇することがあると、あの「UNLOVED」は同じようなテーマでこれだけイヤな思いを味わわせることが出来たのに、なんて。

だから正直、万田監督の新作に対して、心から足が向いたかというとフクザツなところで。ま、「ありがとう」は観ていないんだけど、今回の新作はあの「UNLOVED」の流れをほうふつとさせたから。
でも、「UNLOVED」があまりにも自分の中で増幅したせいなのか、なんかシーンごとに、台詞ごとに比べちゃって、衝撃度が落ちていくのを感じた。そういう見方ってサイアク、絶対やりたくないのに。

お尻のポケットに金属棒を差し込んで、何気なく歩いている男。通り行く中年女性に穏やかに挨拶をかわしもした。
閑静な住宅街。ある一軒のドアを開けようとする。開かない。アッサリあきらめる男。そしてもう一軒。そこはすんなり開いた。中に入る男。
子供が帰ったのかと思って声をかけた女性の声が、途切れた。そしてその子供が帰って来る。ドアを開けた小学生の女の子は、その一瞬後、目を見開いてドアから出ようとした。その後ろから彼女のポニーテールを引き込む男の手。
そして、夜になってその家の主人が帰ってきた……。
三人の死体が見つかったのは、実に三日後。その報道を彼、坂口は自宅で見ていた。そして報道機関にメールを送る。俺が犯人だと。逮捕の瞬間を取材に来いと。殺した男性のキャッシュカードで金を引き出し、防犯カメラに顔をさらし、その場で警察にも電話した。

逮捕の瞬間、テレビカメラに向けた不適な笑顔に吸い寄せられた女がいた。
京子。会社では同僚に仕事を押しつけられたり、いいように利用されているしがないOL。まるで人生を諦めきっているようだった。
でもその瞬間から、彼女の人生が変わった。坂口の記事をかき集めてスクラップブックを作るのを手始めに、ノートに連綿と彼の情報を書き綴った。まるでストーカーのように。というか、まんまストーカーだ。
仕事も辞め、坂口の裁判を傍聴する日々。彼に差し入れをしたいと担当弁護士の長谷川にも接触を図った。
坂口の声が聞きたい、それが叶ったら今度は彼に会いに行き、結婚を申し込んだ。彼と自分は同じなのだと、信じて疑わなかった。
後に京子は語る。「初めて夢中になれるものに出会えたんです」と。

そしてそんな京子を心配するうちに、彼女に惹かれていく弁護士の長谷川。この三人が出会ったことで、運命の輪が廻り始める。

「映画史上最高の衝撃のラスト」なんて惹句がついてたじゃない。それ自体、この監督のテイストじゃないなとは思ったけど、しかもそのラストがあまりにも予測できるものだったので、え?どこが映画史上最高なの?と首を傾げてしまったのも事実。
あるいはこのラストに向かって全てが進んでいったから、衝撃度が落ちたのかもしれない、とも思った。「UNLOVED」が、結局は収束などをまるで考えない散文詩的きらめきに満ちていたのだとしたら、本作は心理描写が要になっているとはいえ、まさしく筋立てた小説として成り立っている。
運命の相手に出会った京子の心の変化は、起承転結ということもできる。「UNLOVED」の光子が一貫して、ガンコなまでに、何ひとつ変わらない「誰からも愛されない女」だったのと対照的に。

でも、言ってみれば……そう、比較するなんて無意味なことだと思いつつも、比較してしまうことを許してほしいんだけど、これって「UNLOVED」の裏バージョンのような気もしてるのね。
だってまず男女の構成。一人の女を挟んで、男二人が存在してる。そして彼ら二人とも彼女を欲している。「UNLOVED」ではそれがよりシンプルな形になっていたけれど、本作は殺人犯としての坂口に魅入られる京子、そして彼を弁護する長谷川という、物語ベースにのっとった形をとっている。この時点で散文詩と小説型というスタイルが別れたとも言え、でも本質的にはやはり同じだったのかもしれない。

そして、女がどこか世間から見捨てられている(と強く思っている)というのも。
あのね、私もそんな社交的な方じゃないから……クライ、要領の悪いヤツだから、京子の気持ち、判らなくもない。いや、それどころか、結構判る方だと思う……。ま、家族環境での不運はないにせよ、京子の「皆、勝手に私を見下していて、それに従わないと怒り出す」という気持ちは、……判らなくはないのよ。
そして人生究極の問い、「自分は何のために生きているのか」自分の人生に何かの価値があるのか、という自答も。
ただその気持ちってちょっと裏返せば、自分は世間から見られているほど低い存在じゃないのに、というある種のナルシシズムともいえるような気がするのね。

いや、京子にそんなことを言うのは酷だけれど。会社でも要領よく立ち回れなくて、同僚の仕事を押し付けられたりして。
この同僚というのが、いかにもカワイイ女を演出することの方が忙しいような、ステロタイプのOLで、それもちょっとカチンときたりもする。
でも、「終電を気にしてるの?タクシー代出すから」という同僚の台詞を真に受けて、翌日一万円超のタクシーの領収書を出すあたりが、多分京子が世間から疎まれているのは、そういう部分なんじゃないかと推測される。
そういうね、「間違ってはいないんだけど、イラッとくる女」像が、「UNLOVED」の光子と重なるんだよね。

それは、恐らく光子も、そうした歪んだナルシシズムを持っていたゆえだと思う。やりようによってはもっと上手く立ち回れる筈なのに、自分をガンコなまでに曲げないで、世間の方をマチガイだと思い続ける、恐ろしいほどの自信。
本作でも、もう一人の同僚が言っていた。仕事を押し付けられたら「普通、断わるよね」と。京子が断わらないのは、断われないんじゃなくて、そういう態度に出る相手を、見下している相手を、逆に彼女も見下し返しているからじゃないのか。

そして、一方の坂口。結局坂口は、京子の視点から見つめ続けられることになるので、最後まで彼は受け身でい続ける。それは、「UNLOVED」の男たちも同じで、本作の三番目の人物である、弁護士の長谷川もやはり同じ。京子の“一途さ”にただただ流され続けるだけなのだ。
印象的なシーンがある。恐らく長谷川が、京子の真髄に初めて触れた場面。二人で坂口のたった一人の肉親である兄に会いに行く。
その帰り道、のんびりとした田園風景の中を二人そぞろ歩きながら、しかしそんなのんびりとした風景とはまるで似つかわしくない会話を繰り広げる。「UNLOVED」の嫌悪感に満ちた会話シーンと、唯一匹敵する場面と言える。

京子はここで、これまで世間から無視され続けてきた自分と坂口を重ね合わせる説明をするけれども、長谷川に向けて話しているのはその部分ぐらいで、長谷川が、いわゆる弁護士的見地で「だから坂口は追いつめられて事件を起こしたのか」などと聞いてみても、彼女は「尋問みたいですね」とうっすらと笑ってかわすばかりなのだ。
長谷川は「君は自分の話はするのに、僕の話はまるで聞いていないじゃないか」と言う。この台詞はそれこそ「UNLOVED」を思えば意外なぐらいに直球で、それさえも、あの散文詩では言えてなかったように思う。そういう部分が、本作が物語だな、と思うゆえんなのだけれど……どっちにしろ、この女は人の話など聞いちゃいないのだ。

それは、運命の相手である筈の坂口に対しても同じ。彼女の気持ちは坂口に通じ、死刑が確定しても自由に会えるようにと二人は結婚する。ずっと頑なに心を閉ざして黙秘を続けていた坂口だけど、京子からの差し入れや手紙のやり取りで、彼女が自分と同じ何かを持っていることを感じ取っていた。でもそれは、本当にそうだったんだろうか。
「私には、あの時の坂口さんの表情の理由が判ります」「あなたと出会って、私の人生が価値あるものになると確信しています」「あなたともっと早くに出会っていれば……でも今からでも遅くはありません。二人で何かが出来るはずです」そんな押せ押せの手紙に、坂口も次第にのめり込む形になって、京子との結婚を承諾するまでになった。
毎日面会に来ては、時に坂口の前で無防備に眠りこける京子を、いとおしげに眺めもした。
けれど、本当に京子の言うとおり、坂口と彼女は同じ魂を持っていたんだろうか?

しっかし、京子がこんな手紙を音読しながら書くのが、なんか不自然な気がして見てられない。まあ、こういうところにもナルシシズムが現われているのかもしれないけど。

確実に二人の間に亀裂が入る瞬間が、少なくとも二度、目の前に繰り広げられる。一度目は京子が、公園でブランコをこいだ話をした場面。そんな風に、日常のたあいのない話を坂口に話して聞かせてた。
小さな女の子と競争になって、必死になってこぎ続けているうちに、二人で訳もなくひたすら笑い続けたことを、楽しそうに語る京子に、坂口の表情が曇る。それは、彼が無慈悲に殺した女の子のことを即座に連想したからに相違ない。
そんなことも京子が思いやれないことにも驚くけれど、確かに京子は、坂口が自分とは決定的に違う部分……それは長谷川からも、坂口当人からも口を酸っぱくして言われることだけれど……坂口が平和な親子三人を惨殺したことを、まるで頭に置いていない。

そのことを突きつけられる度に、京子は知らないフリをする。それは、そんなことはささいなことだ、と思っているというよりは、いや、そう思いたい気持ちを持ちながらも、それを言ったらヤボでしょう、みたいな、私たちはもっと高尚な部分で結ばれているんだみたいな、つまり……それを、彼女が忌み嫌う、自分たちを無視してきた世間と同一の事象だと感じて本能的に避けている、見下しているように思えるのだ。
でもそれは、あまりにもあまりにも、避けようのない、本質的なことなのだ。「UNLOVED」が好きになれない理由、光子に嫌悪する同じ理由が、ここにあるように思った。

確かに坂口は、京子と同じだったのかもしれない。でもそれは、京子に出会うまでは、ではなかったのか。
いわば彼女に出会うまでは、自分の起こした事件に対して、あまりにも希薄で無頓着だった。彼は後に、自分が事件に対しての感情が沸き起こらないことに対して、涙を流す。矛盾しているようだけれど、今まではそんなことに気づくことさえなかった。
恐らく京子に言わせれば無粋でどうでもいいことに、だからこそ彼女と同じ魂を持っていたのに、頓着するようになって、坂口は彼女と同じではなくなってしまったんではないか。

坂口が控訴したことを知って、京子は激怒する。なぜ自分に相談しなかったのだと。なぜ長谷川なんだと。死ぬのが怖いのかと。今まで散々自分たちを無視してきた世間を、逆に私たちが無視するんだ、そうして共に闘うんじゃなかったのかと、坂口が反撃する間もなくまくしたてる。
坂口は口ごもりがちに、なぜだか判らない、と言う。控訴したって死刑は変わらない、とやや反撃に出てみる。だったらどうして……と京子が言うと、「君は、僕が死んだらどうするの。あとを追うの?」と坂口は聞いてみる。すると京子はとたんに口をつぐんで、「……どうしてそんなこと、言うの」と涙を流すのだ。
まるで初めて、その事実に気づいたみたいに。

でも、控訴しないで死刑が確定すれば、坂口は確かに、京子の望む彼だったのかもしれない。何も語らず、世間を無視し続けて、それを全うして死ぬ。
思えば坂口が事件後、マスコミに逮捕劇をさらした時からそうだった。不敵な笑みを見せはしたけれど、マスコミでも裁判でも、彼は一切言葉を発しなかった。そんな彼に京子は惹かれ、彼の声を聞きたいと思った。
何度も手紙でそのことを請い、判決の出る最後、言いたいことはないかと問われた彼はひとこと、「ありません」とこの裁判中、始めて口をあけたのだ。あのときの京子の笑顔は、最高の笑顔だった。
つまり、あの時が、ピークだったんじゃないかなって、思うんだよね。
坂口が京子の思い通りになったピーク。

長谷川は京子から「なぜ私のことをそんなに気にするんです。そんなに私のことが大事?」と言われた時、雷に打たれたような顔をした。「そうかもしれない」と。
長谷川はマスコミに、京子が坂口と結婚したことをリークする。そして、そんなことを自分がしたことなどおくびにも出さずに、マスコミから追いかけられるようになった京子に対して、「僕が言ったとおりになったじゃないですか」と言ってみる。
京子は、しかし幸せそうな顔をしていた。「むしろ、こんな事態になったことを感謝しています」と。あの時、マスコミに囲まれても何も答えず笑みをもらした坂口と、やっと同じになれたと。「彼とひとつになれたことを実感しています」と。
そして、「感謝ついでに」と言って、坂口との仕切りのない場所での面会を長谷川に頼み込む。そう、京子は、長谷川が自分への思いのゆえにマスコミにバラしたことなど、お見通しだったのだ。

最後まで愛されない女のまま終わった「UNLOVED」に比して、京子がそれを成就させるのだとしたら、と考えたら、いやそれを考えなくても、坂口が京子の思いを裏切って控訴を決めたあたりから、その“衝撃の結末”はなんとなく見えてしまった。
京子は、坂口を殺すだろう。自らの手で死に追いやらなければ、彼の魂を自分の側に引き寄せることは出来ない。
それは、それまで他人の言葉など全く聞き入れなかった京子が、初めてそれに負けそうになった時思いつくだろう、あまりにも予測出来る結末なのだもの。
「しきりのない部屋で坂口さんと会いたいんです」その願いがかなえられた時、それは起こった。

でもさー、この場面、坂口のためにハッピーバースデーの曲を歌いながら、長谷川にプレゼントした筈の包みを彼のカバンから出して包装紙を破り始めた時点で、長谷川は止めるべきだよね。
まあそこはスルーするにしても、歌が終わりそうになり、坂口のそばで中から出てきた黒いケースをパカッと開けたあたりで、京子が何をしようとしているのか気づいたって良さそうじゃん。何ボンヤリ彼女のしていることを見続けてるの。

京子は坂口を抱き締め、と同時にナイフで彼の心臓を貫いた。
異変に気づいた長谷川が彼女を引き剥がすと、彼女は「一人殺しても、死刑にはならないんでしょ!」と叫び、坂口にもナイフを突き立てようとする。
危うく交わす長谷川。彼女を押さえようとする彼の唇に、ムリヤリ自分の唇を押し付ける京子。
つまり、これがタイトルなのね。衝撃の結末って、こっちってこと?でも、ここで京子が長谷川にキスする理由もよく判らないけど……彼を懐柔させようと思ったのかなあ……。
ようやく警護の者に捕らえられ、引きずられていく京子に長谷川は叫ぶ。「僕は君の弁護をする!」と。
京子は鬼の形相で振り返る。「もう、私を放っておいて!」と。

男は結局は、世間的なイキモノ。あんな坂口でさえ、最後には殺した三人の幻影を見る。
「俺はまた、人を殺します。死刑になった方がいいんです」
こんな台詞、京子と同じ魂を持ったままだったら、出なかっただろう。
一方、女は感情のイキモノ。どんなに社会的なつじつまが合わなくても、そこに目をつぶることで、一切気にしない。
でもそんな風に見ている、男の偏見的な視点とも言えるけど。案外女はしたたかで、社会性も身につけてると思う。だから、この監督の女の造形に腹が立つのかな。でもおかしいなあ、脚本は奥さんが書いているのに……。

小池嬢の演技がかなり表面的なせいもあるんだけど……マスコミに向ける、坂口に準じた笑顔とか。こういうのを自然体っていうのかなあ。彼女の近眼気味の目がギョロギョロしているのが妙に気になる。
被害者遺族が全く出てこないってのもねえ……台詞には出てくるけど。それこそそんなこと言うのがヤボなのだろうか。★★★☆☆


潜水服は蝶の夢を見る/LE SCAPHANDRE ET LE PAPILLON
2007年 112分 フランス=アメリカ カラー
監督:ジュリアン・シュナーベル 脚本:ロナルド・ハーウッド
撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ポール・カンテロン
出演:マチュー・アマルリック/エマニュエル・セニエ/マリ=ジョゼ・クローズ/マックス・フォン・シドー/イザック・ド・バンコレ/エマ・ド・コーヌ

2008/3/4/火 劇場(渋谷シネマライズ)
「バスキア」でデビューしたこの監督のことは、よく覚えている。バスキアとは画家同士の友人であった。画家であることもあって、映画ばかりには時間をさけないのか、寡作の監督。
まず、始まりからして、確かに他の監督と違った感性を感じた。
レントゲン写真を次々にスライドしていくオープニング。
そして、これは北極かどこかなのか、氷塊が崩れ落ちるのを逆回しに映していくエンディング。
「身体は潜水服のように動かなくても、蝶のように自由に羽ばたく記憶と想像力で」生き抜いた男の物語。

こういうテーマの物語を、こんな手法で描いたのは初めて観る。後から考えると、いいのだろうかと思うぐらい。まるで夢のように美しい。
中盤まで、主人公の痛ましい姿さえ映されない。異変から目覚めた彼の、ボンヤリとした視界とモノローグ。彼を覗き込む相手が大写しにされ、まだハッキリとしない視界は紗がかかったような感じ。はい、いいえを示すまばたきはカメラそのものが彼のまぶたとなって瞬間、ブラックアウトされる。それは彼の姿が映されてからも基本的にその視界なのだ。

全てに焦点が合っている訳ではない自分たちのことを、改めて思う。だって、大抵の映画はいつも隅々まで焦点が合っている。でもここでは、ジャン=ドーの視界は、四隅がボヤけている。でもそれって、両目がぱっちり開いている私たちだって同じだよね。
それがなんだか、妙に美しいんである。そして彼は自分の、自由にならない状態を潜水服を着たようだと思い、そのイメージショットも挿入される。されるがままの赤ちゃんのような自分。だけどこんな風に、思いだけは自由なのだ……。

主人公は、突然全身が麻痺し自由を失ってしまった男、ジャン=ドー。まだ42歳。有名ファッション誌の編集長としてバリバリ働いていて、まさに男盛りの彼。妻とは上手く行かなかったけれど、のめりこんだ愛人もいた。その愛人は病に倒れて後は、結局最後まで彼に会いには来なかったけれど。
ああ、そう考えたら、ふと「象の背中」を思い出した。男が病に倒れる。妻は愛人の存在を察知している。同じだ。
そして、本作では会いには来ないけど、病室につなげられた愛人からの電話に妻が出る。しかも彼から席を外してほしいと言われる。たまらない顔をして病室を出る妻。
愛人は、会いたい、あなたがいなければ私はダメと言いながらも、元通りのあなたにならなければ会えないと言った。その愛人に彼は、妻の声を借りて、いつも君のことを想っている、と言う……。

一体、どっちが残酷なんだろう。どっちもどっちだけれど、でも、愛人への気持ちを、つまり妻への気持ちより勝っているという気持ちを、最後まで妻には言わずに生殺し状態にしていいとこどりした「象の背中」と、妻の声を借りてまで、愛人に気持ちを伝えた彼とでは、やはり潔く、リアルなのは後者だって思う。
そして、その愛人は結局は、そう、だって結局は他人なんだもの……会いにくることはないんだもの。

と、なんかいきなりヘンなところから切り込んでしまったけれど。でも本作がいわゆる難病モノと大きく違っているんだとすれば、まずそれは監督の個性である非常に美術的な画と共に、病気そのものや、病気と闘うことではなく、人間との関わり、ことに一人の男が向き合う、女たちとの関わりにあるように思ったから。
それは、彼がバリバリのイケイケであった、健康な状態では、なぜか出来なかったこと。いくらでも声を発し、いくらでも愛をささやくことが出来たのに。
いや、彼はそれが出来ていたように、思っていたのかもしれない。
でも、出来ていなかった。

今、こんな、左目だけが動く状態で、見える右目さえも動かせないという理由でふさがれてしまって、左目のまばたきだけで意思の疎通をする、こんな超不自由な状態で、何もかもが動いて思い通りに出来た健康な時より、一人ひとりの女たちと真正面から向き合えているなんて。
ああでもそれが、自由の不自由さなんだ。何でも自由に出来るから、不快なことからは身体が本能的に横を向く。いつかは解決しなければならないことだと判っていても、後回しにしてしまう。
そして今、身体が動かなくなってみたら、彼は実は、ひとりぼっちになっていたことに気づくのだ。

今は、イヤだという意志を伝えることさえ出来ない。テレビのスイッチを消してくれるなということさえ。脳も聴覚も視界も正常に動いているのに、日曜日はただまんじりと時間が過ぎていくのを待っているだけ、そんな時、テレビは何よりのよすがなのに。
ものすごく、深刻な状態なのに、こんな一見、コミカルな事象を真剣に入れてくることにも、ちょっと驚く。
サッカーの試合を放送していて、今本当にいい場面、点滴を替える医者はそんなことを気にするハズもなく、その大きな身体で画面を隠し、あまつさえ試合のクライマックスに差しかかっているそのテレビを消してしまう。心の中で叫ぶジャン=ドー。ふっと観客が笑ってしまうような場面。

そうなのだ、ジャン=ドーのモノローグは最初から最後まで取り乱しもしないし、かといってヘンに冷静なままでもない。本当に普通に、普通の男の感慨のようなリズムで、今の状況を語っていく。
見えている右目が縫い合わされてしまう時にはやめてくれと心の中で叫ぶし(カメラにかぶせられたラテックスが縫われていく様が、彼の視覚を絶妙に表現!)、美女コンビの理学療法士、言語療法士の二人には、そのチラリと覗いた胸元に釘付けだし。
そして美しい理学療法士が、物が食べられるようになる舌の使い方を自ら伝授するのには、「こんな美女が目の前でこんなことをやっているのに……地獄だ」とごちる。身体がまったく動かない状態なのに、男の精力は絶倫なんである。

そんな具合に、ジャン=ドーの意識は基本的に女性に向けられているんだよね。
勿論、愛する子供たちの髪も撫でてあげられないことに落ち込み、それでも会えることを喜んだり、陽気な友人のせっかちさに心の中で苦笑したりもする。
ことに重いエピソードは、自分が飛行機の席を譲ってやったがために、その便がハイジャックされ、ベイルートで4年もの間、地獄の人質生活を送った男との再会。
その時ジャン=ドーは、彼が帰国した時電話の一本も入れなかったことを、今更のように思い出し後悔するのだけれど、相手はそんなことはひと言も言わない。
ただ、あの時の経験を今のジャン=ドーの状態に重ね合わせ、ただ生き抜く気持ちが重要だとアドヴァイスする。
その彼に皮肉な気持ちなど一切ないけれど、後ろめたさと未来など考えられる筈もないジャン=ドーは、素直になれる訳もない。

ここでもやはり、自由さ故にイヤなことを後回しにしていたツケに直面しているのだ。
帰国した時、電話もしなかった。後でしようと思っていたに違いない。だってやっぱり気まずい。当然そんなことが起こるなんて思ってもいなかったのに、いわば自分が席を譲ったせいで、彼は4年もの間自由を奪われ、恐怖にさらされ続けた。いつだって彼に会ってそのわだかまりを解けた筈だったのに、自由に身体が動いたのだから。
今、自由に動けなくなったジャン=ドーの元に、つまり逃げようもなくなった彼の元に、相手が自ら訪ねてきたのだ。
なんという皮肉。

そして、そう、大分脱線したけど、ジャン=ドーの意識は女性に向けられている。それはなるほどおフランスだなとも思うし(ま、監督はアメリカ人だけど)、彼がELLEの編集長として女性たちに関わってきたこともあるのかなと思う。
ジャン=ドーが回想する、奔放な恋愛の記録。色っぽい期待を抱いて出かけた恋人とのバカンス、しかしそこは宗教の祭りが開かれてて、彼女は彼に「枢機卿に祝福を受けた一点モノの聖母マリア」をねだった。渋りながらも大金を出してやるジャン=ドー。
どうにも気持ちが萎えていく彼は、とてもその聖母マリアの前では恋人とヤる気になれず、別れを告げて外に飛び出す。すると、一点モノの筈の同じマリア像が商店街に飾ってある、というオチ。

彼は今、自由に動けない身体を望みもしないのに教会に連れて行かれて、閉口したりする。たとえジャン=ドーのために様々な宗教の信者たちが祈っても、奇跡など起きない。そう自分の気持ちを伝えると、困惑した表情を浮かべる牧師。
だけどフシギと、そんな風にバチあたりなまでに無神論者の彼だけど、何だかこの物語には不思議な神聖が漂ってる。
この病院を建てたという、王の妾だった王女。その石膏の胸像からジャン=ドーは彼女のことを夢想する。そして当時、ここで奇跡的な跳躍を成功させたというニジンスキーのことも夢想する。このあたりのセンスは、さすが画家のセンシティブ。

そしてなにより、彼を支える美しき女たちは、あの一点モノのマリアなんぞに負けない、聖母性を身につけているのだ。
ジャン=ドーが関わる最後の女性、それは自伝を出版するべく、まばたきだけの彼の言葉を書き留めるための聞き取り手、クロード・マンディヒルだった。

その前に、アルファベットを読み上げてそれに合わせてジャン=ドーがまばたきし、はい、いいえ以外の、具体的な意思の疎通を図る方法を編み出した言語療法士、アンリエットの存在がまず大きかった。
彼女もまた美しい女性。しかしセクシー系の理学療法士よりはマジメな感じ。当然最初は戸惑い、投げ出そうとし、死さえ口にするジャン=ドーとぶつかったこともあったけど、いつでも自分から戻ってきた。

そう、あの場面は印象的だった。一文字ずつ確認はするとはいえ、途中からジャン=ドーが何を言わんとしているのか、単語が完結する前に判っちゃう。
だからアンリエットの顔が段々涙で歪んできて、「……“死にたい”……なんでそんなこと言うの」と泣き顔で飛び出してしまう。
アンリエットの言う、「みんなあなたが好きなのに」という言葉、単なる慰めには聞こえなかった。彼女の言葉なら信じられた。
そんなアンリエットの後継者とも言える女性、クロード。彼女以上にマジメな感じで、こういう仕事を引き受けるだけの辛抱強さを持つ女性。
そりゃそうだ、朝から晩までアルファベットを読み上げて、ジャン=ドーのまばたきを見逃さずに一字一字、文章に起こしていくのだから。

クロードが初めてジャン=ドーの部屋に入ってきた時、彼が言ったのは、パニックにならないで、だった。
彼女が、ちょっとこわばった顔をしていたからだったろうか。この台詞、実際のクロードから聞いたことだったという。
病室ばかりではなく、時には屋外で風に吹かれながら、書き連ねていく。常に自伝を口述しているのではなく、クロードへの気持ちも口にするジャン=ドー。君は優しい、と言ってみる。彼女は微笑んで、おだてにはのらないわよ、と笑う。

ジャン=ドーは、自分が健康な状態でクロードと会っている場面を夢見る。二人の間に並べられたご馳走、テーブルを挟んで繰り返す濃厚なキス。
しかし目の前の彼女とは、最後までプラトニックのまま。
こんな状態でも、彼は男で、ていうか、こんな状態なんて言うの、失礼だよね。むしろ、不快なことからは逃げられていた時より、女性に対してジェントルでダンディーな気さえする。何を想像していたにしてもね(笑)。

だって、家族と会っている時は……そりゃ愛する子供たちと会えるんだから嬉しいんだろうけれど、何だかちょっと、悲しいんだもの。
まだ幼い娘たちは動けないパパに戸惑いがちながらも、ムジャキに遊んでいる。でももう分別も判ってきて、何よりジャン=ドーがこの状態になった瞬間に居合わせた長男は、愛するパパの、自慢のパパのこんな状態に動揺を隠せず、涙をこぼすのだ。
それをジャン=ドーは、表情ひとつ変えることさえ出来ず、でもいたたまれない思いで眺めてる。
でも女たちは、そういう気持ちを押し隠しているとはいえ、女という武器を持って、彼に対して男女の機微を使って対等になることが出来る。それはもう家族の一員である奥さんには出来ないことなのだ……。

あ、でも彼女は奥さんではなかったのかな。劇中、ジャン=ドーの父親が、「彼女と結婚すれば良かったのに」という台詞が出てくるし(それともそれは、彼女のことを指してはいなかったっけか……うろ覚え)、ジャン=ドーも「妻じゃなく、子供たちの母親だ」とモノローグするし。
でもそれって、妻にも女にもなれない一番カワイソウな立場だったのかもしれない。結局人生のパートナーにも、身も心も捧げる恋人にもジャン=ドーはしてくれなかったっていうさ……。

自伝本が出来上がる。その最後の頁に、口述筆記をしてくれたクロードに対しての感謝の言葉も入れた。書評も上々。
でもジャン=ドーは、その時点でもう……瀕死だった。肺炎にかかってしまったのだ。
いくら脳や視覚が正常でも、全身が麻痺していると、自らの異変に気づけないのかもしれない。なんてあっさりと、逝ってしまうの。

ひたすらジャン=ドーのモノローグや、その夢想で進行していく。それは勿論、彼が本当に考えていたことではなかったかもしれない。いや、かもしれないではなくて、完全に監督の想像だ。
でもそれでも。それさえ、言ってしまえばそんなことさえ怖くて出来ないで、ヒューマンな闘病モノに、つまり介護する側の苦悩とかに回ってしまうことが、クリエイターだと言えるのか。
一見柔らかで、美しいように見えて、これはクリエイターとして本当にチャレンジなんだと痛感する。

だってこれを、本当にこういう状態に陥っている人が見たら、ひょっとしたら怒り出すかもしれない。判りもしないのに勝手に言うな、と。
でもそうだとしても、これはそうした状況に陥ってしまった……それは若い人でなくても、老いのためにそうなってしまった人たちに対しても、彼ら自身の気持ちは置き去りにし、彼らを抱える家族の方に容易にシフトしてしまう社会に対して投じた大きな一石だと思うのだ。
どうしても患者の側の気持ちを理解することが出来ないという恐れが、そう、それこそ何もかもが自由に動くからこそ、そこから逃げてしまう、卑怯な自由に転化してしまうということ。

大きく見開いた左目が、時にコミカルな印象さえ与えるジャン=ドーを演じるマチュー・アマルリックが素晴らしい。
えっ、当初はジョニー・デップが演る筈だったって!パイレーツなんたらで忙しくて実現しなかったって!おーい、ジョニデ!なんというもったいない役を取りこぼしたのだ!
でも、正解だったのだろう。フランス人の物語をフランス人で撮る。それで正解。基本をきっちり押さえて、想像の翼を広げた勝利。★★★☆☆


全然大丈夫
2007年 110分 日本 カラー
監督:藤田容介 脚本:藤田容介
撮影:池内義浩 音楽:エコモマイ
出演:荒川良々 木村佳乃 岡田義徳 田中直樹 蟹江敬三 きたろう 伊勢志摩 村杉蝉之介 江口のりこ 小倉一郎 根岸季衣 大久保鷹 白石加代子

2008/2/19/火 劇場(渋谷シネクイント)
鑑賞後、オフィシャルサイトをチェックしたら監督プロフィールに「グループ魂のでんきまむし」の監督って出てて一気にテンションあがったんだけど、あれ?でも、苗字同じだけど名前違くない?巷では本作が監督デビューとなってるし……うーん、どっちがホントなのだろう。気になる。だってあの作品、私の人生でお腹がよじれた映画ベスト5に入る、さいっこうに好きな作品だったもなあ。
と思って色々調べたら、やはり同一人物、名前を変えたらしい。そうなると、なんで名前を変えたのかが気になってしまう。それに、かなり作風というかリズム違ってきてる気がするし。あらたに仕切りなおしってとこなのかなあ。
まあでも、知らないで観て良かったかも。知ってたら相当期待して構えて観ちゃったろうから。

期待して観た、訳じゃないんだけど、でもちょっと期待半分、不安半分ってところは正直、あったかなあ。
ユル騒ぎムービーって惹句がね、なんかちょっとイヤな予感がしたというか。
でも、最終的には割と幸せ気分。ただそれは男主人公の物語の方ではなく、ヒロインの方。木村佳乃演じるあかりの物語が盛り上がってくる中盤から、ラストヘの幸福な放物線が、じんわりと心をあったかくさせる。

でもさあ……基本的なこと。これ、方々で荒川良々の初主演作品て触れ込みになってるんだけど、彼の初主演は「恋する幼虫」じゃなかったっけー?うーん、何、あの作品は封印されてんの?たまーにそういうことって、あるからなあ。うー、それだとしたら、ひどい。「恋する幼虫」大好きなのにっ!
でも本作のラストクレジット、Thanks toに井口監督の名前があったような。しかも伊勢志摩とか同じ大人計画の村杉さんとか、恋する幼虫と共通するキャストも出てるのになあ。うー、そのあたりのからくりがなんか気になるっ!

まあ、そんなことを思ったのも、[恋する幼虫]の荒川良々に大いに驚かされた記憶が今も鮮明に甦るからなんだけど。これぞ荒川良々、この人を主演にする監督の気がしれない!(もちろん、いい意味で!)と凄い衝撃だったんだけど、本作の荒川良々は……比較するなんて無意味ではあるんだけど、なんか荒川良々っぽさが薄れているというか、彼にしては(!?)割とフツーというか??
あの独特のしゃべり口調も本作では何となく押さえられている感があるのは、ただただ荒川良々大全開だった向こうと比べ、本作は性格なりキャラクターなりがしっかりと位置付けられているからだろうか。

いやそれと、彼一人がワンマンで活躍する主演映画というより、彼と同等の比重の登場人物が数多く存在するという点でも、荒川良々が主演として暴走する訳にはいかなかったのかもしれない。
そうだよー、これって荒川良々の主演って感じ、しないもん。木村佳乃も、岡田義徳も、蟹江敬三も、ひょっとしたら田中直樹までもが主演レベルの比重を課せられている。
だから、群像的、という感じなんだよね。最初出てきた時には荒川良々らしいキテレツなキャラだと思えた照男も、多少の性格の悪さはあれど案外普通の青年だったしなあ。

それを最も大きく感じるのは、これで押して行くのかなと思った、照男の夢である超リアルなオバケ屋敷の話が、いつのまにやらどこぞへと消え去ってしまったことなんである。
まあ、あかりに恋をしたことで、もうどうでもよくなったのかもしれないけど、それもハッキリとした転換があるわけじゃなかったし。やたらグロテスクなものが好きなキャラ造形は、確かに荒川良々に振るには面白いと思うけど(というかそれこそ、恋する幼虫からの流れだよなー)、でも中盤からは完全にあかりの方に話を持っていかれるのよね。
でもそれでも、いいのかなあ。これが群像劇だと考えれば。それとも彼は“ホンモノの幽霊”を見たことで懲りちゃって、リアルなオバケ屋敷を作る気がその時点でうせちゃったということなのだろうか。

なんてつらつら書いてるとどんな話かサッパリ判らないので、軌道修正。
照男は、植木屋の作業員として働いている。後に「そろそろ正社員になるか」と社長に言われて驚く場面で判るように、彼は自分では最初っから正社員のツモリだったらしいが、この時点ではしがないアルバイトである。
で、家に帰ればパッとしない古本屋を父親がボーッと店番している。この父子の家庭だというのがまずかなりのしがなさ、切なさ。
帰ってきた照男、調子が悪いから店番を替わってほしい、と父親から言われると、「朝から晩まで働いたんだから、憩うの俺は。憩いまくりたいの!」とキレる。父親はぼーっとしたままただ息子を見つめるばかり。
仕方なく照男は「出前取るよ。すしだよ、上にぎりだよ!」とキレながらも承諾して、上にぎりをほおばりながらエロ本読みつつ店番を交替。この時点では照男は、父親の様子がおかしいことに、気づいていなかった。

ぼーっとしている父親が蟹江敬三だというのは意外なキャスティングだけれど、彼がその後、自分を見つける旅に出て恋を知るウクレレオヤジになることを考えれば、まあアリなのかも。

なぜ父と子の家庭になってしまったのかは判らないが……どうやら父親は心を病んでいるらしいのね。そしてある日を境に部屋に閉じこもって、布団から出てこなくなってしまう。
息子の照男は、とにかくグロテスクなものが大好きで、それで人を驚かせるのが大好き。今日も今日とて、ちっともコワかない怪談話を友人に聞かせ、その話の佳境で二人の座っていたベッドの中からグワッと死体が飛び出てくる!もちろんそれは血だらけメイクをした久信(岡田義徳)であり、彼は「もう来年には30になるんだから」とこうした幼稚な遊びに飽き飽きしていた。そんな久信の「上から目線」の言い様に、すっかりヘソを曲げる照男。

んで、この久信は清掃会社でパートさんたちの管理をしている。パートさんたちは殆んどが女性で、若くて好青年で優しい彼のことを、皆が好いている。だけどそんな彼の「いい人ぶりっこ」を上司は気に入らない……このすっぱり冷徹な上司を演じているのが鈴木卓爾で、なんだかこの童顔はちっとも変わらないなあ。
なんかでも、この上司が言ってること、判るんだよね。久信は確かにいい青年なんだけど……嫌われたくないがために、どんな人にもいい顔をする。そのために努力もしているけれど、つまり誰とも本気で向きあっていないのだ。

彼はパートのおばちゃんに、「○○さん(彼の苗字忘れた)みたいないい人は悪い女にひっかかるから、心配してるのよ。例えばほら、事務のあの女。○○さんに気があるでしょ。気づいてないの?」と言われる。彼はまさか、と受け流すんだけど、気づいてない訳はないんだよね。気づいていて、でもハッキリ断わったりすることができなくて、ズルズルと彼女に期待をもたせて、傷つけてしまう。

新しくオープンしたレストランに行こうという話も、恐らく彼女に合わせてテキトーに答えたのだろう。だけど彼女はそれを楽しみに待って待って、そのオープンの日、「今日なんですけど」ともちかける。すると彼は「あー……でももう食べちゃったしなあ。いや、お菓子だけど。食べすぎちゃって。悪い。また今度でいい?」とあまりといえばあまりの断わり方をする。
ひ、ひどいなー、いくらなんでもこれ、ヒドすぎる……気がないなら、こんな断わり方をする以前に、もっとキッパリ拒絶した方が優しさだよ……。
こういう形で示されると、ほおんと判りやすい。この男、優しそうに見えて実はサイテーの男かもしれないのだ。

そういう意味で言えば、この映画は男の真の価値を見極める作品なのかもしれない。この八方美人の久信に比して照男は、友人に対しても父親に対しても容赦ないし、……しかしそれは、自分の自分勝手さやワガママをまったくかえりみないでのことだから、照男の方がサイアクに見えるのはこりゃ仕方のないことなのだが。
でも結果的に言えば照男の方が、男としては買い、なのかなあ……そこんところは非常に難しい、究極の選択だな……。
ただ、他人には八方美人の久信も照男に対しては厳しいし、その「上から目線」に反発しながらも友人関係を続けている照男は、おそらく彼の八方美人的な面を知らないんであろうというのも、なかなかに深い。
つまり人は、本当に心を開いた人にしか、嫌われるかもしれない面を見せないということなのかな。
そう思えば、照男はあまりに幸せな人だとも言えるのだが……。

そして木村佳乃演じるあかりである。結局この物語は、彼女がさらってしまったのかもしれない。超不器用で、生きていくのに相当苦労しそうな彼女、履歴書を見た江口のりこが扮する女子事務員が「割ときれいめですよね。だけど、マイナスオーラ出まくり」とひと目で見抜いたのは大当たりなのであった。
清掃会社の面接に出かける途中、カップルの旅行者に東京タワーを入れた記念写真の撮影を頼まれた彼女、カメラを縦にしたり横にしたり、なかなか上手く行かないうちに、緊張なのかブルブルと手を震わせて、カメラを落としてしまう。
なんか思いっきり読めるシーンだな……とは思いつつ、その確信犯的なワザとらしさが、逆に彼女のキャラをより痛く感じさせる。

そんなわけで、イカったカップルの女の子に泥水の中に突っ込まれてメタンメタンにされてしまい、泥だらけに鼻血を出したヒドイ格好で面接に現われたのだが、それを上司の代理で久信がウッカリ採用してしまったもんだから、彼女の不器用さが大爆発してしまうのだった。
だって、ティッシュペーパーの取り出し口さえ、開けられないんだから。エレベーターのボタンを勢い良く押して指を骨折する始末だし。段ボール箱を作ることも出来ず、ついには高い機械を危うく壊しかけて、彼女はいたたまれずに、辞めて行った。

……まあ、なんつーか、この「エレベーターのボタンを押して指を骨折」に象徴されるように、彼女に限らず、本作に登場する様々なオフビートなエピソードが、それをやりたいがためにそういうキャラ造形をしたって感もあるんだけどね。
これがキャラがそれぞれに立ちつつも、それぞれにそれなりに面白く進行しつつも、何となくまとまっていく感に欠けるよーな気がする……のは、そのあたりなのかなあと。
例えば、古本屋で緊縛エロ本に動揺した彼女がお茶をこぼしちゃって、慌てて同じ本を探そうとして取り出したのが、さぶ系の緊縛本だったなんていうエピソードとかさ。

おっと、先走ってしまったが、つまり、そう、あかりの窮状を見かねた久信の口利きで、照男の古本屋に勤めることになるのね。それが彼女の転機になる。
思えばもう冒頭から、あかりはホームレスの女性を一心に観察し、彼女の欲しいものを理解してはコッソリ差し入れし(大量のセロテープ!)、その女性をモデルにした独創的なスケッチをあまた描きつらねているシーンから始まり、最後はあかりがイイ人を見つけて終わるんだから、これって木村佳乃の主演なんじゃないの?と思っちゃうんだよな。
あかりがクレパスで、豪胆ともいえるタッチで描く絵は凄い迫力と、それと共に不思議な詩情に満ちていて、描かれたホームレスの女性もとても喜んで彼女を拝むように手を打った。演じる白石加代子はさすがの迫力。

そして、あかりの部屋を訪ねた久信も魅せられて、この絵を古本屋に飾ってはどうかと持ちかけた。それを最初に買いたいと申し出たのが運命の人、湯原(田中直樹)。
この店の常連、ケガか病気か、顔の半分が赤く爛れている状態の彼は、しかし物静かで穏やかな青年だった。壊れた陶器などを直す仕事をしている彼は、あらゆるものを慈しむ人柄で、あかりが犬にかまれて怪我をした指も、自ら栽培している薬草をすりつぶして手当てしてくれた。
もう、いっぺんで惹かれあった、っていう感じだよね……。

湯原の部屋に入り浸るようになるあかり。それまでの、おどおどとした状態を考えるとウソみたい。
二人寄り添って座り、スケッチブックで絵しりとりする場面なんて、ステキ。「エジプトの力士?そうきたか」と湯原は嬉しそうに言い、次の余白に何を描こうかと考え込む。そんな彼を幸せそうに見ているあかり。
練り物が好きな彼女の誕生日に、彼は手作りのチクワを作ってくれる。すり鉢で丁寧にタネをすり、竹串につけてカセットコンロの炎に、彼と彼女、あっちとこっちで両端を持ってかざして焼き上げる。それまでは本当に幸せなひと時だったのだが……。

この頃になると古本屋の仕事にもすっかり慣れ、しかもあかりは文学に造詣が深く、照男もすっかりホレ込む。訪ねてきた久信に、なぜか照男の方が得々と、「あかりちゃん、凄いよ。今日も客から井伏鱒二のナントカのナントカ……とか聞かれて、それはナントカじゃないですか、って」とか、もう荒川良々、何言ってんのか判らない(笑)。
久信は笑って、「テルちゃん、全然、ダメだもんね。読書感想文なんかいつも俺が書いてたじゃん」と暴露すると照男は憤然とし、「そんなことないよ、文学、好きだよ」とムキになったのは、勿論彼女に恋してしまったに違いない。そして勿論、自分のいいところを見せようとする久信もね。

古本の目利きも出来るようになったあかりに、照男の姉は飲み込みが早いと絶賛。こんな超不器用なあかりにも、向いている分野があったのだ。
そして表情も明るくなってきたあかりに、女のカンで彼女は指摘。「なんかあかりちゃん、変わった気がする。恋した?」はじらう表情を見せるあかりと……なぜか照男(笑)。「なんであんたが照れんの」との姉のツッコミに「照れてないよ」と間を見せずリアクションをとる荒川良々、このあたりのリズムはさすがよねー。

しかし、あかりと湯原の間に影が。彼、奈良に引っ越す、というのね。仏像修復の仕事をしたいと。前から決まっていたことなんだと。憤って、彼の作ってくれたちくわを修復中のツボに投げつけて、割ってしまうあかり。彼女、呆然として、「……ごめんなさい」と謝ると、壺の欠片を拾いながら彼、「奈良に来る?」と言ってくれるのだ。
思えば、彼女は今まで散々ヘマをしてきたけど、自分の思い(憤り)がそのままダイレクトに反映して物を壊すなんてことは、なかったんだよな。いつも上手く行かなくて、落ち込んでばかりいた。
でも、このちくわの一撃だけは、まるで彼への思いが通じたようだったんだ……。

てな訳で、最終的には照男と久信の悩みの日々もどこへやら、もうすっかりあかりの話になっちゃった感アリアリ。
しかしその間にも突然出て行った父親が、恋した女性を隣にウクレレを弾きながら「米の歌」を熱唱する姿がテレビ中継されて家族がアゼンとなったり、照男や久信たちが自主映画に熱中するくだりなんかも描かれるのだが。
あー、でもこの自主映画のくだりはどうなんだろう……あまり内容に関係なかったような気がしないでもないような。熱中しているのは演出をしている青年と、カメラ担当のおじさんのみって気もするしなあ。
でも次第にあかりをめぐる恋のさや当てが本格化してくると、演技の筈の照男と久信のケンカがマジになっちゃって、演出の青年を喜ばせる場面なんかも出てくるけど。

あ、それと印象的だったのは、オバケ屋敷を実現すべく、金持ちの伯父さんにスポンサーになってもらうために、照男がプレゼンに行くくだり。
実際、このオバケ屋敷の話はもっと膨らむのかなあと思ってたからさあ……照男の部屋のグロな造形があまりに凝っていて魅力的だっただけに。壁から覗き込むミイラとか、テレビの脇から忍び寄る片腕とか。いやそれ以上に、照男自身の顔を再現したさまざまなグロいグッズが笑える。ボタンを押したら口からピンクのスライム出したりっ。
やっぱりこの辺は、「恋する幼虫」を思い出さずにはいられないんだよね……最後には彼女に首を斬られて、首なし人間として往き続けたあの彼を。
劇中、久信を驚かすために暗闇の中、手に自分ソックリの生首をもってボーッと突っ立ってるショット、一瞬、ホントに首なしに見えて、えー、これ絶対「恋する幼虫」カブってるよな……と思わずにはいられなかったんだもん。

あ、だからまたしても脱線しまくったけど、そう、その金持ちの伯父さんにスポンサーになってもらう話、ね。
脳を活性化するために砂糖を何倍も直飲みして、久信のパソコンを借りてひとつ指で企画書を叩き、緊張しまくりで乗り込んだ照男、しかし黙って聞いていた伯父さんから突きつけられた台詞はこうだった。

「テルちゃんだから、ビジネスとして成立しているかっていうのは、期待してなかったけどさ。問題はそこじゃないんだよ。全然血が通ってないんだよ。こんな冷たい企画書で人の心は動かせないよ。テルちゃんが命がけでやりたいっていうんなら、いくらだってカネは出すよ。今まで一度でも、命がけでなにかをやったことある?それを見せてみろよ」と。

その言葉を受けて照男は、本当に凄いお化け屋敷を作るなら、本物のオバケを見なくちゃダメだとかワケの判らないリクツに至って、幽霊が出るとウワサの汚いアパートの一室にこもり、本当に遭遇し、悲鳴をあげて飛び出し(泣きっ面で走り続ける荒川良々(笑))て以来、もうダメなの。自分の部屋に決壊を張ってブルブル震えて出てこなくなっちゃう。
てゆーか、久信が「ホンモノのオバケが、オバケーって言うか?」指摘するとおり、それがホンモノの幽霊などではなく、照男が飛び出したあと、彼が残していったお菓子やらおにぎりやらをバリバリ食ってる、つまりはホームレスと思しきオジサンなのであった。

ラスト、奈良に越していったあかりと湯原を訪ねて、照男と久信が行く。
「なんで皆、寺とか仏像とか、陰気くさいものを見に行くんだろう」とか、「鹿が臭かったことしか覚えてないよ」なんて言い合ってたくせに、湯原の家で四人で飲み倒し、絵しりとりをしているのがとても楽しそうだし……もはや二人は、特に照男はもう嫉妬する気持ちもないらしい。
それどころか超ヘタな照男の絵を(ラクダを書いたのに、どう見てもヘビかつちのこ)「ボク、好きだな」と言った湯原とすっかり仲良しになってしまう。
照男と湯原が眠りこけた後、久信は奈良漬をほおばりながら、「さすが、奈良だね。奈良漬が美味い」と言うと、あかりはにっこりとして、「それ、うちで漬けたの」と言う。もはやあかりは不器用な女の子などではなく、ここで幸せに暮らしている奥さんなのだ。
壁には、湯原に最初にあげたホームレス女性の笑顔あふれる絵と、湯原をスケッチした絵が飾られている。
そしてあの頃よく聞いていた、雨の音を収めたカセットテープを聞きながら、奈良の夜はふけていく……。

そして、ラストのスライドショーのような男二人の奈良観光は、やけに幸せそうなんだ。
二人の目の前を、鹿の大きな背中が通り過ぎる。
それは以前、心を癒しに温泉につかりに行って、女の子にフラれた時なんかとは、全然違う。
何だか、やけに幸せなのだ。
その幸せな空気は、物語の中盤、あかりに焦点が移ったあたりから醸し出されてくる。
荒川良々も、岡田義徳も、彼女の前座だったんじゃないかと思えるぐらいなのだ。

全編流れ続ける、ウクレレのテーマミュージックの穏やかさに癒される。いや、憩いまくる、かな?
どんなに物語がとがってきても、このウクレレにヤラれちゃうのだ。★★★☆☆


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