home! |
7月24日通りのクリスマス
2006年 108分 日本 カラー
監督:村上正典 脚本:金子ありさ
撮影:高瀬比呂志 音楽:服部隆之
出演:大沢たかお 中谷美紀 佐藤隆太 上野樹里 阿部力 劇団ひとり 川原亜矢子 沢村一樹 YOU 小日向文世 平岡祐太 増元裕子
今回の役どころは、もういい年なのに、いまだに王子様を待ち続ける、恋愛に夢見る夢子さんのサユリ。大好きなマンガ、「アモーレ、アモーレ」に出てくるリスボンの街を自身が暮らしている長崎に見立て、王子様のホセに恋い焦がれる。
なのに本人はボサボサ髪にメガネの地味な女で、自ら恋愛に飛び込むような努力など思いも寄らない。大学時代から思い続けていた照明デザイナー、聡史が里帰りしていることを知り、胸をときめかせるサユリは、地味な自分を変えるべく、奮闘する。クリスマスまであとわずか……。
なんつー、物語なのだが、サユリはさすがにさあ……。中谷美紀じゃ、ムリがあるのよ。どんなに彼女が今旬の女優で、演技が上手くても、そういう部分じゃないムリがある。
嫌われ松子にはなれても、このサユリにはなりきれない。ブスで(とはまあ言ってないけど)地味で、少女マンガの世界の、恋に恋する女の子のまま20代も後半突入なんて、ファンタジーにしたって彼女じゃ説得力がなさ過ぎる。
実際、こういう女の子って確かにいるのよ。そして大抵は、現実に目覚めて王子様ではない男性と一緒になる。サユリに恋する森山がそう言うように、そのリアルな物語の方で最近はラブストーリーが形成される。それこそがキュンとさせる。
でも逆に、昔からの女の子の夢を叶えて、その恋に恋した地味な女の子が、少女マンガと同じように王子様と結ばれる物語にドキドキさせようってんなら、中谷美紀じゃ絶対に、ダメ。だって彼女は根本的にそういう女の子のこと、理解できるタイプじゃないんだもん。
だから、こうなっちゃうの。シリアス系の、泣きのシーンとかで演技的に上手くこなすトコが逆に浮いちゃって、彼女自身の夢見る心が成就されるドキドキが得られないのよ。
それに、この彼女に対して、王子様となる聡史が大沢たかおというのもちょっと微妙な位置。確かに彼は陰影のあるイイ男だとは思うが、今の中谷美紀のスター性に対して、ちょっと落ちる。それに陰のある、というところが、どうやらロマンティックコメディを目指しているらしいこの作品にはジャマになってしまう。だって、日本のヒュー・グラントを捜して、なんで大沢たかおになるのよ。
しかもその中谷美紀がそんな具合に、何でもこなせるわよ、みたいに地味な女の子を演じている時点でちょっとイヤミだし、その彼女がずっとずっと憧れ続けてきた男性が彼だというのが、ぴたっとこないのだ。
サユリは、自分が地味な一方で、美青年でモテモテの大学生の弟、耕治のことは自慢なんである。しかしこの耕治の新しい彼女というのが、まるで自分を鏡に映しているみたいな地味な女の子で、サユリは落胆する。自分自身を改めて見せられてしまったみたいで。
その時点で彼女は聡史との再会でウキウキで、メガネもはずしてオシャレして変身して行ってたのに、結局はこうだ、と言われているみたいで。
一方、喫茶店をやっているサユリの父親も、新しいガールフレンド、海原との関係にヤキモキしている。
見るからに百戦錬磨の恋をしてきたコケティッシュな女性で、耕治が地味な女の子とつき合い出したことに「たまにはサラッとお茶漬けが食べたくなるのよ」なんて解説するもんだから、この父親「お茶漬け……」と自分を省みたりしてしまうんである。
果たしてこのワキの二組のカップルもまた、クリスマスまでにその関係が成就するんだろうか?
ところでさあ……「電車男」で成功した手法だからってわけでもないのかもしれないけど、画面にいちいち描き入れてくるんだよね。
サユリの内面を表現している、っていうつもりなんだろうけど、王子様の王冠だの、お姫様のティアラだのさ。そういう、少女マンガな世界のキラキラをアニメーションでかぶせるっていうのもねえ……。まあ判りやすいし、正直ありがちだけど。
これも全部そういう世界で性根入れて、演技も全てそんな感じに大げさにまとめちゃってれば(何度も引き合いに出すけど、今年のベスト作品のひとつ、「ラブ★コン」はその性根が座ってたのよ)ズバッとハマるんだけど、うっかりシリアス方向を狙ったりするもんだから、見てるこっちは凄く座りが悪いのよ。
そういう意味で、非常にバランスが良かったのが、サユリの父親のガールフレンドを演じるYOUと、サユリを思い続ける森山役の佐藤隆太。
YOUはYOU自身の魅力をそのまんま出して、サバサバしてるのにオバサンぽさがみじんもない、可愛くて色気のある海原を、肩の力を抜いて演じてる。そう、この作品は肩の力を抜くことこそ必要だ。中谷美紀は、ここでも役に入り込もうと肩に力入りまくりで、だからなんか、違うなと感じちゃうんだろうと思う。
佐藤隆太演じる森山は、サユリの幼なじみで彼女のことなら何でも知ってる。書店の地下のコミックスペースを任されていて、自身もマンガ家志望。でもサユリが少女マンガの世界(それもふた昔ぐらい前の)を夢見たまま大人になっちゃったことにやきもきしている。自分の気持ちを何度言っても、サユリはそれをはぐらかすどころか、意味が全然判ってないのだ。
という彼らは、ピンでも魅力だし、顔を合わせてコンビで掛け合いをすると更に魅力的である。森山は何かっちゅーとサユリの父親の喫茶店、本田館に入り浸っているからね。もう勝手知ったる、って感じで。
で、サユリが聡史と再会してウキウキなもんだから、もう苦悩しまくってるわけ。そんな彼をひたすらからかう海原。今ごろはキスぐらいやっちゃってるかも、やっちゃってないかも、などと引いては押してあおりまくり、「もうさあ、もうさあ、めくるめく官能わけ」とダメ押しして、森山を発狂寸前にさせる。
この辺の言い様なんか、そのまんまYOUで、アドリブじゃないかと思っちゃうぐらいだよなあ。ユーモラスでとてもキュート。彼女は脇をしめる、という役割をキッチリこなしている。
佐藤隆太は明るい純粋さをまっすぐに届けることの出来る役者で、それこそこういうキャラにはひっぱりだこなんだけど、そのキャラが立つ位置のバランスが上手いんだよなあ。
彼に関してはワキというよりは、サユリの恋を浮かび上がらせるメイン寄りのキャラなので、軽くなりすぎず、ヒロインに対する真摯な態度も見せて、それが彼の恋心の切なさと重なって、上手い。
聡史をあくまで王子様として見続けるサユリに、「最近は、ずっと側にいてくれた男の子と結ばれるって結末もあるよ。むしろその方が多い」と自分をアピールする森山。「そういうの、いいね。そうなったらいいのに」とまるで森山のことを想定せず、無神経に返すサユリに森山はため息をつく。
「やっぱりお前は何も見ていないんだな」
森山はサユリに分厚い本を手渡す。ページの隅にはカワイイパラパラマンガが描かれている。王子様に憧れ続けた女の子が、でも王子様が去ってしまって、そこにニット帽をかぶった男の子(森山ね)が手を差し伸べているところで終わっている。
「ここから先はお前が決めてくれ」
観客の誰もが、サユリは森山と結ばれた方がいいのにと思ったんじゃないの。少なくとも観客の女性は、佐藤隆太にこそキュンときて、恋したと思うよ。だって、この映画の中ではかつての憧れの人、聡史は結局、人間として咀嚼し切れてないんだもん。
東京で成功した照明デザイナーとして、サユリからは勿論、大学の後輩からも(正確に言うと、ここの卒業生は聡史の元カノなのだが)スーパースターみたいに見られることに困惑する聡史。君は今の俺を知らない、と聡史から拒絶されて、サユリとの仲も一度は危機を迎える。
サユリはそんな、スーパースターじゃない彼でもやっぱり大好きだと再認識して、ハッピーエンドを迎えるんだけど……でもやっぱり、聡史の実体は、森山ほどには見えてこない。結局、サユリのフィルター越しにしか聡史の人となりが見えないから、どうしてももどかしさが残ってしまう。
その点、森山はダイレクトに見えてくるんだよね。サユリへの思いや、彼の切なさが。だからどうしても魅力に差が出てしまう。
聡史から、今の自分を見ていない、と言われたサユリは、必死に彼をつなぎとめようと、ずっと好きだったと言い募る。自分の憧れた世界を必死に話す。長崎をリスボンに見立てていたというサユリに、「ない。そんなの、ないんだよ」と思わず割って入る形で断じる聡史。
それは、サユリが作り上げた彼の理想の幻影を否定するのも同じ言葉なのだ。
サユリは、聡史がそのことで真に苦しんでいたことを知る。
今の聡史は、スランプに陥ってる。確かに東京で成功はしたけれど、その事務所を飛び出して独立した後は泣かず飛ばずだった。本を著わして地元のサイン会のために帰郷したけれど、誰もが何も知らずに自分を成功者として迎える。サユリもその一人に過ぎないのだ。
サユリにはそんな具合に何も見えていない。でも、森山から「ずっと側にいてくれた男の子と……」とアピールを受けるトコで、自分から世界を閉じてここまで来てしまった女の子なら、そういうありえない鈍感もあるだろう、と納得できなきゃいけないんだけど、中谷美紀がそんなことに気づかないわけねえだろうとか思っちゃうわけ。
そうだったら、もう逆に、「好きでいてくれてありがとう」てなシーンのひとつぐらい、欲しいよな。結局サユリは森山からの気持ちを漫然と受け止めるばかり、っていうのがね、ここに人間対人間が作り上げた気持ちの絡み合いや関係性が何ら見られないのよ。
そりゃ、彼は片思いの一方通行で、だからこそ切ないという見方も出来るけれども、結局サユリは恋のみが人生の教師だとでも言わんばかりに、「自分も苦しんだ」みたいな顔して、弟のカノジョに対しては説教してみたりしてさ。そんなんで共感できるわけねーだろー。
阿部力が「自慢のハンサムな弟」というのも微妙である。
その彼女となるメグミには上野樹里で、一瞬もっさりとした「飾り付け前のもみの木」に見えるほどのダサい女の子に設定されているのも、こんなカワイイ子がそりゃムリがあるに決まっているんだけど、彼女はそういう雰囲気を無理なく作るのが上手いんだよね。さすがコメディで鍛えられてきただけあるんだなあ。
メグミは耕治の赤ちゃんを宿して、二人は学生ながら結婚することになるんだけど、サユリは、メグミは耕治にあまりに釣り合わない、と言って反対する。涙まで流して取り乱して。それは、自分が聡史に釣り合わないことに直面する恐怖から、八つ当たりしたに過ぎないのだが。
しかしそんなメチャクチャな姉ちゃんの気持ちも汲んで、メグミは、いや上野樹里は、ちゃんと切なくも見せるんである。正直、結婚式での、牧師の前での誓いのシーンになって、「誓えません」なんて言うなんて、少女マンガ的世界にしたってあまりにムリがあるに決まってんのに、すんなり見ちゃう。逆にムリを感じたのは、その場で花嫁よりもヒロインに仕立て上げられる(ありえない!)中谷美紀の方なんである。
実際、中谷美紀はあの「嫌われ」でも、コミカル演技で魅せていた訳ではない。演出はコミカルだったけど、その中で彼女は女優として松子を生きて、それこそがスリリングだった。むしろ、コミカルに見せているところ……顔をひょっとこに見せたり、教師時代のエピソードの時にマイム風に身をしゃちほこばらせるのなんかは、浮いてたんだよね。
メグミと耕治の結婚にサユリが大反対して、「何であの子なのよ。いつか、後悔する。絶対にボロが出るのよ!」と言った言葉がメグミの胸にずっと引っかかって、だからこんなコトになるわけなのだが、これもちょっとヘンだよね。
だってサユリと違って、メグミは耕治の前で全然無理なんかしてなかったじゃん。そのまんまの彼女で、だからこそ耕治も好きになった。お茶漬けって意味じゃなくてよ。
なのに、メグミがサユリの言うことをもっともだと受け入れちゃうのもちょっと解せないよね。
まあ、いまだに耕治の前では緊張する、釣り合わないんだ、と言うのは初々しいけど……妊婦なんだからさあ(爆)。
そしてこの場面、メグミにサユリは、釣り合わなくったっていいじゃない、と今更ながら言い、そんな彼女に海原はキラキラの靴を手渡す。それはサユリが聡史との出会いの時の、思い出の靴。大学の演劇部時代、小道具係だった彼女が、聡史に言われて照明に映えるようにスパンコールで飾り付けをした靴。それをサユリは、聡史を振り切るために捨ててしまっていたのだ。
あれはシンデレラの靴をイメージさせているんだろうなあ……。うーむ、正直、ちょっとサムい。
その靴をはいて、サユリは聡史を追って教会を飛び出すんである。
ここまできてアレなんだけど、聡史がサユリを好きになる過程が全然見えてこないんだよねー。
まさしく、少女マンガのヒロインの目からの視点でしかない。
サユリとの出会いは、ドジばかりで落ち込んだサユリが路面電車の電停にぼんやりと座っているところを、聡史がライトを照らしたのが始まりだった。
「笑った方が可愛い」その時、サユリは聡史にひと目惚れした。
しっかしこの台詞……いつの時代だよ!こんなモテる男が、小道具係の地味な女の子に、この時点では個人的な興味も好意も抱いていない(としか思えない描写)状態で、そんなメンドくさいパフォーマンスをすること自体にあまりにムリがあり、それこそ少女マンガの夢の世界に生きる彼女の妄想としか思えない。
しかもこの台詞を、再会した時も繰り返すんである。ムリの二乗である。
帰郷した聡史がなぜサユリを誘い、どの時点で好きになり始めたのか、まるで判らないの。キッカケになりそうなシーンはある。母校でライティングのアドヴァイスをするシーンで、舞台上のサユリが照らされるトコとか。まさしくヒロインがごとくスポットライトを浴びる彼女の姿を、まじまじと見つめる聡史。
でも、ココこそがそうだとばかりに、しつこくカットバックするだけで、前後のフォローが固まってないから、凄い押しつけがましく感じるだけなの。それに、彼、今まで地味なカッコばかりだったサユリが聡史とのデートにオシャレしてきたことに関しても、何の驚きもリアクションもなかったじゃない。だからここでいきなり印象づけようとしても、ムリがあるんだもん。
聡史とのデートの場面は、どれもこれもとってつけたような感じばかりを受ける。石畳を二人でステップを踏むシーンなんて、唐突でワザとらしいばかりで、ハズかしくて見てられない。二人の気持ちのシンクロが感じられないのが、意味なさすぎ。
それにクライマックスの、聡史がサユリのために用意したイルミネーションが点灯するシーン、これがもっと感動的にならないとねえ……。
聡史を追いかけてきたサユリが、上手くこの場で会えるのは出来すぎだろー。
だって聡史は、森山からサユリを迷わせるなとか言われて(ちょっと違ったかな)帰ろうとしていたんでしょ?
それとも、ここ(二人の出会いの場所の電停)にいればサユリが現われるはずと思って待ってたの?
うがってんなー。そりゃその通りになったけど……。
ちょっとフクザツな人間関係も示されるんだけどね。サユリの先輩である聡史の元カノ、亜希子と聡史がやけぼっくいに火がつきそうにもなる。
聡史は彼女のこと引きずっていたみたいだし、亜希子はダンナとの会話があまりにかみ合ってなかったし。そんで、上手く行っていない聡史に仕事の斡旋などもして、アピールする気満点なんだもん。
しっかし、この亜希子が、サユリの職場の上司の妻であるという人間関係はどーなのよ。なんでこんな関係になるの?サユリは亜希子のコネで会社に入ったとか?でも市役所なんだよね……それともサユリが上司と亜希子を引き合わせたとか?うーむ。
なんかねー、「ブリジット・ジョーンズの日記」のような作品を日本で作りたかったとか言ってんだけど、どの要素さえもクリアしてないよー。
まあそりゃ、物語自体が違うからだけど、でもブリジット……を目指すなら、まず基本、ヒロインが自分を徹底的に叩きのめさなきゃいけないのよ!
最後にパンツいっちょで雪の中を走ってくぐらいね!
ところで、サユリの妄想世界に登場するポルトガル人親子がいるんだけど……。
これが最も最悪!
ワザとらしい上に、彼女の恋を応援している感じなど微塵も感じられない。そういう親身な雰囲気があれば、全然違ったのに。
ただ妄想をコミカルに見せるだけで挿入したって感じでさあ。「君なら出来るよ!」って毎回台詞同じだし。感情入ってないし、サムいし、何なの?って感じよ。
ああ、でもこれって、「電車男」を受けてこその設定なのかなあ。主人公の恋を応援するバーチャル。今気付いたけど。
ラストは、本田館に戻ってきた二人に、耕治とメグミの新婚さん交えての大団円。お父さんは海原に、「こんなお茶漬けの僕ですが、結婚してくれませんか」とプロポーズし、彼女は「どうしようかなー」なんてはぐらかしながらも、「よろしくお願いします」とこちらもハッピーエンド。
最後の最後のシーンは、サユリと聡史がいつか行こうと約束したリスボンの街に降り立つ場面。これはひょっとして新婚旅行かいな。
なんか結局、サユリは、親の気持ちも自分を好きでいてくれた幼なじみの気持ちも判らない、自己中な女にしか思えんかったな……。
地味な学生時代から、女をとっかえひっかえするホストへと変身した劇団ひとりは、あまり意味がなかった……もったいない。
それにしてもこの原作、芥川賞作家!?ホント!?この話を書いた人が?直木賞ならまだ判るが……少なくともこの話だけは、あまりに大衆すぎるだろー。★★☆☆☆
正直、観ている間はちょっと、滅入っていた。今の時代、子供を描く映画は、どうにもこうにも救いがない。なぜこんなに救いがないんだろう。子供って、こんなに辛く厳しい季節なのかな。
いや、それは確かにそうなんだけれども。ささいなことも、子供の頃にはひどく辛いし。
でもそんなことじゃ、追いつかないことが、日本のいろんなところで起きている。
少なくとも、私たちの時代には、子供は無邪気に子供でいられたように思う。その中での悩みや苦しみは辛かったけど、それは無邪気であるゆえの苦しみだったように思う。
無邪気ですらいられないって、苦しい。
でもこれから待ち受ける厳しい未来のために、子供のうちから鍛えられなければいけないのだろうか。
この街は、埋め立てられた新しい土地と、そうではない古い土地からなっていて、それぞれをオキ、ハマと呼んでいた。
新しい土地のオキを、ハマの人たちは差別していた。何を考えているか判らないとか、粗野だとか、そんな風に断じていた。
シュウイチとシュウジの兄弟は、ハマで育つ。両親はどことなく、あたりさわりのないといった雰囲気で、優秀な兄、シュウイチの将来に期待をし、小さな頃から理屈めいた質問ばかりしてくるシュウジを疎んでいた。
難しい質問というわけではない。人が誰も、疑問に思うことだ。「人間は、なぜ死ぬの?」
難しくはないけど、答えの出せない質問でもある。両親はあいまいにごまかし、兄のシュウイチは、「そんなこと考えてたら頭壊れるぞ」と言った。
シュウジは、この兄の答えに最も満足した。のは、なぜだったんだろう。それだけ重い問題だということを示唆してくれた兄ちゃんはやっぱり凄いと思ったのだろうか。そしてその答えを避けた両親を軽蔑したのだろうか。
しかしそんな尊敬すべき兄は、弟を蔑む一方で、優秀な成績はカンニングによるいつわりだった。しかも同級生からイジメを受けている場面を弟に目撃されてしまう。その時、シュウジはうつむき、見ないふりをした。自慢の兄ちゃんのミジメなところなんか、見たくなかったのか。
でも、シュウジは一方で、その優秀な兄の足跡に悩まされ続けている。中学で生徒会長だった兄を知る担任から勝手にクラス委員長に抜擢され、「お兄さんには負けていられないだろ」などと決めつけられる。両親は兄の優秀さで満足していて、シュウジには何の期待も抱かず、それどころか兄の邪魔をするなとロコツに言う。
でも多分、シュウジの方が、人生や社会の、一筋縄ではいかない深い部分を早くから見ていた。あの問いかけからそうだったように。
小学生の頃、シュウジが出会った、オキのチンピラだった鬼ケン。悪いウワサが絶えなかった。連れている女も、ミニのチャイナドレスからにょきりと太ももを出した、いかにも水商売風だったし、その死に様さえも、憶測を含めて揶揄された。
でもシュウジがひと時対峙した鬼ケンは、何かが違ったのだ。
道端で自転車が壊れて往生している彼を、トラックで通りかかった鬼ケンは拾ってくれた。一本道をメチャクチャ暴走したり、目の前でその女の股に手を入れたりした。それでも助手席でぐっとこらえていたシュウジに鬼ケンは別れ際、「泣かなかったな。結構根性座ってるんやないか。今度また乗せたるわ。(女をぐいとアゴで指し示し)あいつ抜きでな」とささやく。
鬼ケンは、シュウジを試したのだ。どうしてそんなことをしたのだろう。自分たちを差別しているハマの子を。
シュウジは、いろんな大人に、その目つきや態度のナマイキさを言われる。あのいけすかない(ほっんとに!)担任も、彼を半殺しのめに合わせた新田というヤクザにも。でもその目に鬼ケンはホレこんだのかもしれない。差別され続けてきたオキの人間である自分たちの歴史を、彼なら変えてくれるのかと思ったのかもしれない。ずっとそんな人を探し続けていたんじゃないのか。彼は、少年期の予感めいた、心のざわめきを覚えていられる人だったんだ。ほとんどの大人が忘れてしまうそれを。
オキにポツンと立っている鬼ケンが女と住む家は、その湿地の中に浮かんでいるように、暗い群青に包まれて、孤独だった。
車を暴走させながら、鬼ケンが繰り返していた「アホどもが……」という言葉が、この後の展開の全てを象徴していた。
鬼ケンはその後ほどなくして、何かのトラブルに巻き込まれたのか死んでしまい、そしてシュウジは中学生になる。
彼は一人の女の子と出会う。エリという、謎めいてクールな女の子。
オキに新しく出来た教会に、彼女はまるで住みつくかのように入り浸っていた。湿地の暗闇の中に佇む教会は、鬼ケンの家そのままだった。その教会の神父が殺人者であるというウワサを聞きつけたシュウジは、友人とともに胸をときめかせていた。
いや、ウワサというか、そのことを興奮を持ってシュウジに吹き込んでいたのは兄のシュウイチである。
シュウイチの、神父が殺人者かもしれないということに関する入れ込みようときたら凄かった。図書館で過去の新聞を調べて同じ苗字であることまでつきとめ、「人を殺すのってどんな気分なんだろう」と恍惚とした表情で、弟にむかって、いやあの目は誰に向かってでもない、夢見るように語っていた。
彼は誰かを殺したかったのだろう。直接的にはその時いじめていた相手をだったんじゃないかと思うけど、彼の精神がそこまで大きく闇を抱えたのはそれだけじゃないように思う。
弟を、恐れていたんじゃないかと思うのだ。
幼い頃、自分が揚々と披露する知識に、弟は思いもかけない質問を浴びせ、答えられない兄は沈黙するしかなかった。あるいはそんなこと考えたってしょうがないだろ、バカだな、みたいな態度で接しても、そのことに答えを出せない自分に弟は気づいていたんじゃないかと、彼は思っていたんじゃないのか。
人を殺すことを夢見る高校生を演じる柄本佑、というのは、「17歳の風景」を思い出させもするけれど、直接的な方法で手を下してしまって苦悩する「17歳……」と、放火という、死に向かって苦しむ人間を想像の中に落とし込んでしまうような方法を選んでしまう彼とは、かなり、違う。
誰かを殺すまで思いつめた気持ちというより、思い通りにならない自分を、殺人というカタルシスに転化させたいという欲望だから。しかもホントの殺人の話を聞いて、最初のウキウキした欲望がどっか行っちゃって、ビビッて、直接その欲望を果たすことなど出来るわけもなく、放火という間接的な手を下す。
この柄本佑もそうだし、メインとなるシュウイチとエリを演じる手越祐也と韓英恵もそうなんだけど、どこか焦るような早口で、ぶっきらぼうに、演技っぽい話し方をしないのが、不思議に潔くて清潔で、息苦しい若さを感じる。
シュウジはエリに惹かれるような形で教会に通うんだけど、一方で神父と、聖書の教えに心酔してゆく。ほんの冷やかしで友達とともに訪れた最初、エリが彼らを敵視し、「ハマが勝手にオキを差別している」と言った時、神父は「どうして」と、彼らに繰り返し問い掛け、シュウジはそれに答えることが出来なかった。その時から、今までは兄の答えのようにとりあえず棚上げしてしまった質問の答えが、初めて自分に向かって投げかけられたことで、彼の中で変わったものがあったんだ、きっと。
他人にゆだねちゃいけないのだ。自分で答えを出さなきゃ。
聖書の教えには、答えがあるようでない。あるとしてしまえばラクだけど、シュウジのように真実の答えを求める子にとって、それが真の答えじゃないことは判ってる。
それは、導いているだけ。答えじゃないのだ。答えは自分で出さなきゃいけない。
でも、一生かかって、やっと出せるかもしれない答えを、出さなきゃ出さなきゃと、彼は焦りすぎたのだ。
大人になれば、判るの。逃げることも、手段の一つ。卑怯に見えるかもしれないけど、今出せる答えじゃないこともあるんだもの。
そこから一生逃げたとしたって、責める人なんか誰もいない。
でも、判るんだ。10代の頃って、答えを出せない自分にひどく失望するってことも。
大人になれば、答えも、あるいは答えを出せないことに納得できることも判るよ、ってことを、受け入れられないことも。
シュウイチは、シュウジが教会に傾倒していくのを見咎め、あいつは殺人者なんだぞ、といましめる。シュウジは彼が殺人者だということに懐疑的で、ならばとシュウイチは弟とともに教会に乗り込む。神父が語り始めた過去は、予想もしないことだった。
神父は、殺人者ではなかった。殺人者は彼の弟。でもそう追いつめたのは彼だった。弟の愛する人を、神父は妊娠させた。シュウイチの期待する言葉を言うためか、「乱暴した」という言い方をしたけれど、どうやら彼女の心ごと奪ってしまったらしい。
弟にとって、その方がレイプよりも辛い。
もともと彼女の両親は、弟より高学歴である彼のことの方を、気に入っていた。
でもそれで彼女も彼女の両親も彼を憎んだっていうのは、娘を高学歴の男に心変わりする愚かな女にさせたからなんだろうか。
彼の弟は、苦しんで苦しんで、憎んでいるのは当然兄だけど、彼を殺してしまったら殺人者である自分も含めて誰もいなくなり、両親を哀しませると、そこまで思い悩んで……彼女と彼女の両親を殺してしまった。
そんな告白を聞いて、シュウイチは固まる。そして本当は嘲笑しながら言いたかったであろう「人殺し!」という言葉を、怯えたような笑いにごまかしながら浴びせ続けて、逃げるようにその場を去るのだ。
やっぱり、シュウイチはシュウジを恐れていたんだと、確信に近く感じる。
それは、後々シュウジがこの神父の弟に出会い、「お前は俺と同じだ」と言われるシーンで決定的になる。
このシーンは、ホントに怖かった……この神父の弟を演じるのは加瀬亮。彼は全身浸すように役の重さに没頭するから、本当に本当に怖い。私、今一番凄い役者は誰かと問われたら、そりゃ好きな役者さんは沢山いるけど、間違いなく加瀬亮だと言うだろう……そこまでやったらメインを食っちゃうよと思うぐらい、彼の気迫のオーラは凄い。
面接室のガラスに、どん、と手をついて、まっすぐにシュウジを見据えて、「同じだよ」と言う加瀬亮、本当に心臓が止まるかと思った……。
シュウジはまるでこの言葉に魅入られるかのように、殺人に加担してしまう。でも、決して決して同じではない、と思いたい。けれど……。
でもね、同じではない、と思いたかったのは、シュウイチの方だったんじゃないかと思うんだ。
神父の話を聞いた時、彼がことさらに怯えたのは、実際に殺人の話を聞いたからじゃなくて、自分も弟に殺されてしまうんじゃないかと、思ったからじゃないかって。
そこまで思わなかったにしても、幼い頃から死のなんたるかを見つめていた弟を、畏怖の目線でとらえていたのは事実。
自分が抱いていた殺人に対するカタルシスみたいなものが、事実の凄みの前にあっさりと崩壊して、でもそれを認めるのがイヤで、そして……怖くて、壊れかけた彼の自我は、放火という方向に走ったんじゃないのかな。
弟は幼い頃から、死の真実に向き合おうとしていた。なのに自分は……。
でも、そんなにも死の真実に向き合ったことが、シュウジの悲劇だったように思えて仕方がない。
オキで頻発する放火事件の犯人がシュウイチとさだまるまで、シュウジの友達が疑われていた。というのも、彼の家の食堂が、オキの再開発を手がけるヤクザどもを受け入れていたから。
シュウジは、友達へのイジメをとめることが出来なかった。そのことに悩んでいた。兄が捕まり、その矛先が彼に向いた時、その友達もアッサリと彼をイジメる方向に向かう。自分の家庭が放火犯に疑われた辛さを判ってるはずなのに。
「殺すなら殺せよ。でもその時は絶対お前も一緒に殺してやる」シュウジが、“かつての友達”に向けた獣のような目に、心臓が縮まる思いがする。
自分も止めることが出来なかったから……、でも、この友達という定義のあまりのはかなさには、自分も少なからず覚えがあるだけに、胸が痛くてたまらない。
ひとつ歯車が狂うと、どんどん落ちていってしまう。たったひとつ欠けただけということに出来ない。兄が犯罪者になれば身内みんなが責められ、友達も友達じゃなくなって。
友達って、簡単に言えはする。ホント簡単。絶対になれない血縁関係や、努力と時間が必要な恋人や夫婦関係とは明らかに違って、ことによっちゃあ、何秒かさえあればすぐなれる。それこそ恋人を断わる時によく言う“お友達”ってヤツもそんな程度の意味。
でも、“本当の友達”は、一生かかって、一人できればいい方ではないのか。
友達の定義って?こんな風に、アッサリと、あっというまに存在定義が消滅してしまうのに。
私たちの多くは、そんなアイマイな友達に囲まれて、とりあえず満足している。
そんな、アイマイな友達がいる世界の方が、幸せなのかもしれない。それがいざというと、こんな風にあっというまに裏切られると判らないままなら。
イジメの描写は、どの映画でもそうだけど……ホント、滅入る。
その陰湿さももちろんそうなんだけど、直接手を下してなくても、こちら側ということに安心して、安住して、無邪気に嘲笑しているのが、たまらない。
主人公であるシュウジとエリの二人は、友達というわけではない。
お互いに淡い思いを抱いてはいるけど、幼さもあって、恋人までもいかない。
エリは、最初からトンがっていた。校則で禁止されているロングヘアーのポニーテールを、担任から何度厳しく注意されようと毅然としていた。「校則を守るのは生徒の義務だ。守らないヤツは学校に来る資格はない」と言う担任に、「でも義務教育だから」と敢然と反論する彼女はカッコ良かった。狭い価値観の中でえばりくさっている大人をやっつける痛快さがあった。
担任にいざ髪を切られんとする時、意を決して止めに入るシュウジを拒絶するかのように、自らそのポニーテールを切り落とし平然としているのも、メチャメチャカッコ良かった。
でも、彼女はシュウジを公然と批判していた。彼が委員長に推されるのをたった一人反対した。「キライだから」と。教会にひやかし半分で来ていたハマの彼に対する反発だった。
でも、シュウジはそんなエリにどんどん惹かれてゆく。
エリの過去は壮絶だった。一家心中でただ一人生き残ったのが彼女。そこまでは周囲にも知られていた。でももっと彼女には辛い過去があった。それはエリの住む家がオキの買収にあって、この地を去らねばならなくなることで明らかになる。神父を通じてシュウジに知らされた、死んでしまった両親の弱さにずっと苦しめられた幼少時代と、ひきとられた今の両親、その義父であるおじによるイタズラ。
イタズラ、程度に描写は終わってたけど、つまり、最後までヤラれちゃってたのかもしれないし。
オキの買収が決まり、エリは、他の立ち退く同級生たちがあたりさわりのない挨拶をするのに反して「みんな大嫌いです。ハマもオキも全部燃えちゃえばいい」と、しかしクールに言い放つ。
シュウイチがつかまったことで態度が豹変した、シュウジの友達に対する痛烈な皮肉でもあった。
シュウジの一家は離散してしまう。いつもいつもジグソーパズルばかりして、家にはいても家族に関する意識が薄かった父親は、シュウイチがつかまったことでアッサリと姿をくらましてしまう。穏やかな家庭がよりどころだったような覇気のない母親は、これまたアッサリと自我を崩壊させ、もう一人の子供であるシュウジのことなど目に入らない。誰もいなくなった家を出るのも、“家出”というのだろうか……あの、神父の弟との邂逅にショックを受けた後、シュウジはまず、鬼ケンの女であったアカネと大阪で会う。
彼女は、オキの再開発をしているヤクザの女に収まっていて、少し前、教会の買収の場に姿を表わし、久しぶりにシュウジと再会していた。
アカネは再三、シュウジが鬼ケンのことを覚えていることを嬉しがっていた。最後まで、何度も何度も。
アカネは本当に、鬼ケンのことが好きだったのだ、きっと。彼と大して変わらないようなヤクザの女に納まっていても、鬼ケンとは全然、違う、確かに。
アカネの今の男は新田という、一見マジメそうな男。でもひどく凶暴で、誰も止められない。アカネも、そして騙されて監禁されている少女も、彼から逃げられないでいた。
アカネは強そうに見えたのに、こんな暴力的な男に握られている。鬼ケンはその点、きっと彼女に優しかったんだね。
「鬼ケンのこと、覚えててくれてホンマ嬉しいわ。ありがとう」って、本当に、何度も何度も、最後まで言ってたアカネ。
シュウジはアカネに、セックスさせて、と言い、彼女はそれを受け入れてくれた。しかも避妊ナシで。
初めての相手なんやなあ、と責任重大だってことにちょっと困った顔をしながらも。この時、今までただのアバズレに見えていたアカネが、急に、大人の女に見えた。
でも、彼女は、自分にホレていると言っていた新田に実は蹂躙されていた。だから彼女は愛してくれた鬼ケンを覚えていたシュウジに感動したのだし、彼に身体を与えたのも、だからだと思うのね。
シュウジは、横暴な新田を殺した……いや、殺しかけた。最終的に手を下したのはアカネだった。
彼女にうながされ、シュウジはその場を逃亡する。
シュウジは東京に向かう。
エリに会うために。
いつも走っていたエリ。走ることが大好きだったエリ。まるで彼女に追いつこうとするように、彼も彼女を追いかけて走っていた。でもエリは、オキの再開発を手がけるヤクザのトラックに轢かれた後遺症が一生残る体となってしまっていた。
「誰か私を殺してください」そう、エリは商店街のシャッターにこっそりとラクガキしていた。携帯の番号とともに。
それを見つけたシュウジは、「誰か一緒に生きてください」、そう答えのように書き込んだ。
その時は、シュウジ自身が主語になっていると思っていたの。でも違ったんだね。あの時、神父の弟に出会った時から、シュウジは自分の最後をもう定めちゃってて、誰かエリと一緒に生きてくださいと、見知らぬ誰かに懇願していたように思う。
彼女がまるで無造作にシュウジをラブホテルに連れ込んだのは、どういう意味だったのかな。
最終的に、二人が最後までいってしまったのかは、判らない。自分から連れ込んだのに、エリは彼に手を握られただけで固くなって背を向けた。いや、シュウジだってそんなつもりで手を握ったわけじゃなくて、本当に思わず、だったんだけど。
「シュウって、つながっていたい人なんだ」どこか、揶揄するように言ったのに、シュウジは素直に「うん」と答える。
「本当にエリのこと、大切に思ってる」そうシュウジは言う。でもエリはそれを素直に受け取ることが出来ない。多分同じような台詞で、彼女は大人に蹂躙されてきたから。
でも、シュウジはこんな台詞、初めて言ったに違いないんだ。
使い古された言葉も、初めて言う時だけは、真珠のような真実の輝きを持っている。
その輝きを受け取れるなんてこと、経験できる人は、そういるもんじゃないんだよ。
そんなまっすぐな言葉に身をよじるエリ。シュウジは「……ゴメン」と彼女の拒絶にひるんで身を離そうとする。その瞬間、エリは彼の上着のすそをつかんだ。それはその後見せる、涙がこぼれる彼女のアップより、ずっと彼女の気持ちを伝えていた。
二人は、故郷に帰る。シュウジは、住む人のいない家に戻った。そして火をつけた、んだろう。二人乗りして過ぎ去る二人のバックに煙が立ちのぼる。
そうやって、何もかも消し去ることが出来れば。でも、パトカーが押し寄せてきた。シュウジはエリにイタズラしたおじを刺してしまっていたのだ。彼はそれがバレたんだと観念する。でも果たしてそうだったんだろうか。
どこか、やぶれかぶれになってしまった彼は、エリにナイフを当てて警察を挑発した後、そのナイフをふりかざして警官に向かって走ってゆき……射殺されてしまう。
それにしても、未成年だし、走っていっただけなのに、射殺するかなとも思うんだけど。
悲痛な叫びをあげるエリ。そしてフェイドアウトし、時が流れる……。
立ち退きを迫られていた教会は、まだそこにある。神父は花に水をやりながら誰かを待っている。駈けてくる幼子は、じきに罪を償って出てくる母親と、今はもういない父親の子供であるという。って、てことは!オーイ!そんな一回で!しかも、中学一年生で子供作ったか!いや、そんなことで興奮するなって!
そして、エリもこの故郷に戻ってきてる。松葉杖なしでは歩けなかったはずの足は、ひきずりながらも、着実に大地におろされている。
この、海を埋め立てて強引に始まった土地の歴史が、ゆっくりとではあるけれど、動き始めたのを感じる。
この土地で育ってゆく子供たちの力で。
なんか、SABU監督はジャニーズ好きなのかなあ。今回の抜擢には少々疑問が残る気もするんだけど……結局は韓英恵や柄本佑が彼のレベルにまで引き下げられてしまった感もあるし。こういう、この年にしかない映画を撮りたいって気概はすんごい伝わるけど、シリアスモードのSABU監督は、うーん、こういうのは他の監督さんでもいいのに、というのが正直なところだったりして。あっかるくてハチャメチャな唯我独尊のSABU作品がやっぱり観たいな。★★★☆☆
うー、こんなにカーリングって、カッコイイの。知らなかったよ。全然知らなかった。
以前、ニュース情報番組で、トリノ直前に、カーリングのことを、一見してあれがスポーツとはどうも思えない、と笑いながら言ったコメンテーターがいてさ、こんな無責任なヤツがこういう番組で意見を言うのかと、すんごいムカッときたんだけど、一方、でも私も知らないもんな……と。どういうものなのか、全然。
多分、このコメンテーターと同じく、私のイメージでも、なんかコント的な、ブラシゴシゴシのダサいイメージがあったんだよね。ルールも知らずに。
でも、全然、違うの。なんというカッコよさ。そしてクール!
確かに肉体的なスポーツのイメージとは違うけど、こんな知的な競技をヘンな偏見で排除していたとはなんという不覚!
映画のアングルの魔法もあるけど、低い姿勢で、ストーンをじっくりとすべらすカッコ良さには、もおおお、しびれる!
そう、これはアングルの魔法だよね。下からあおるようなショットはもうホントにゾクゾクする。
北海道に住んでたのに、カーリングの町、常呂町なんて全然知らなかった。
不思議だよね、なんで一般的には決してメジャーじゃないこのスポーツが、しかも北海道の中でもこの町でだけ盛んなのか。
村おこし的なことで導入したにしても、地元民がここまで皆してやってるなんて、他の町でこんなん、ある?
専用のスポーツセンターがあり、小学校の授業でまであるなんて、凄すぎる!
その常呂町で、四人の女の子が出会い、カーリングに挑戦するんである。
いくら常呂町がカーリングが有名、といっても、ヒロインの和子のように、小学校の授業でやった程度で、興味もなく、でも地元出身のスター選手に盲目的に憧れてる、なんてのがリアルなトコなのかもしれない。
一方で、美希のように、小さな頃から将来を期待され、その重圧のためにとっつきにくい性格になったコもいる。
和子はその、憧れているスター選手、マサトに声をかけられ、女子チームを作らないかと持ちかけられて有頂天、彼に指導してもらえるなら、とメンバーをかき集めた。で、最初から決まっていたのがこの美希。つまり彼は孤立している彼女のためにチームを作ろうと思ったわけね。
そんなこととは露知らず、そしてマサトにコーチしてもらえるはずが無精ひげの漁師のオッサンがコーチだと知っても、試合にマサトが来るのなら、とめげず、和子はチーム名をシムソンズと命名し、練習に励むこととなるんである。
そんなこんながありながらも和子が練習にガンバルのは、このなーんにもない田舎町で、ただ流されてしまうのが耐えられなかったからだ。
この町にあるのはホタテとタマネギだけ、なんてごちて、郵便局か、信用金庫に勤めて、幼なじみと結婚して、子沢山で……なんて10年後が容易に想像できる虚しさは、ジョーク交じりに描写してるけど、これって結構リアルな“恐怖”であり、どこかにあるキラキラを信じたい、という彼女の言葉って、夢見がちのように聞こえながら、これがかなり切実なんじゃないかと思うのね。
そのキラキラがカーリングだった。いや、常呂町で育ったとはいえ、いやだからこそ、身近にありすぎて、彼女の中でのカーリングのイメージは、無知な私とそう変わらず、泥くさいものだったんだと思う。でも彼女の中の何かが、きっとキラキラはこれだ!と信じさせて、彼女自身で本当のキラキラにしていく。もおー、輝いているんだ。
カーリングが、少なくとも日本ではマイナースポーツだということを十分認識して(しかし今やトリノでの健闘ですっかり人気になっちゃったけど!)、そして劇中の彼女らも最初は素人だという設定のもと、教育ビデオよろしくきっちりと解説してくる。だってこれはカーリングを描く初の映画であり、そこにはカーリングを紹介する義務が発生するわけなんだもん(誇り高き義務だね!)。
和子と親友の史江はルールもサッパリだったんだけど、ウッカリ?声をかけちゃった菜摘がカーリングの基礎ビデオを持参、それを見ながらの彼女らの絶妙の合いの手が上手くて、これが説明的にならずに、こちらにルールを叩き込ませるのが上手いんだよね。
これがなきゃ、試合のシーンのみならず、練習のシーンでだってこんなにドキドキしないもん。
さてと。ヒロインの和子を演じる加藤ローサは、正直かなりのオーバーアクションで、それは監督の意図だとは判っているんだけど、最初はかなりハラハラ。でもこれは狂言回し的な意味合いがあったんだなと気づく。
そのオーバーアクトをキャラクターとして一貫して通してきたから、逆にしっかりとした芯が出来てゆく。それをやり通すだけの、ティーンエイジガールのパワフルさがあってこそだし。
そう、彼女のこのパワフルによって、他のキャラが立ってくるのだ。
で、他のキャラなんだけど、彼女も含め、女の子たちがもおおお、可愛くて可愛くて。
順番に行こう。和子と幼い頃からずっと一緒だった親友の史江。演じるは「フライ,ダディ,フライ」でもメッチャ可愛かった星井七瀬嬢。
ああ、なんとゆーカワユさよ。彼女、ちょっと前まで子役の延長のような面はゆさがあったんだけど、最近は実にイイんだよね。ティーンの女の子の素直な可愛さをピュアに出してくる。あの人なつっこい笑顔がたまらん。
そして弟妹がたくさんいて、農牧業の手伝いに追われている菜摘を演じる高橋真唯ちゃんが一番のお気に入りだ。え?「苺の破片」に出てるって?あれ私大好きでDVDまで買っちゃったんだよ……え?何役で?ゴメン、小市さんに見とれてて、全然気づかなかった……じゃなくて!
とにかくこの真唯嬢はキャラも実にイイ。常呂町が生んだ伝説のカーラー(カーリング選手、ということね)ガミさんに憧れ(夏八木勳!)ビデオを見ちゃあ、「シブイ……」とうっとり、彼が練習を見に来たら興奮しまくりでジャージにサインをせがみ、彼が常呂町のカーリング場の氷を作っていると聞けば、またしても「シブイ……」とためいき。そういうアンタの趣味が渋すぎるって!
ああ、でもそんなところがカワイイのだ。メガネからコンタクトにしたら実はカワイイとかいうベタな展開も許す!しかも彼女、宣伝でテレビ出演してた姿を見たら、劇中のキャラと全然違って、やけに妖艶な雰囲気でビックリ。こりあー、今後要、要チェックではありませんか。
そして一人、カワイイというよりはクールな美貌の美希役、藤井美菜嬢は、観ている間中ずっと、なんか伊藤歩に似てるなあ、と思ってたんだよね。風貌もそうだけど、しっかりとした演技も彼女をほうふつとさせる。
彼女だけがなかなか笑顔を見せなくってさ。孤高のカーラーで、でも孤独で、とにかく勝つことだけに価値があるんだと叩き込まれてきた。でもあの強引なヒロイン、和子に、楽しんでやろうって、チームじゃないかと言われて最初は反発するものの、でも心の奥底ではカーリングを好きだからこそ今まで止められずに来たわけで、だから、本当に長い長い時間がかかったんだけど、その彼女が笑顔を見せた時が、ふんとにもう、涙腺の蛇口が神様の手によってひねられたワケさあ。
そして彼女らのコーチである。大泉大先生。そもそも鑑賞動機の大前提は彼の出演にあったわけだけど、あまりにカワイイ女の子たちに心躍らされて忘れてた。
なんてね、ウソウソ。彼、良かったな。無精ヒゲな感じは、どうでしょうのロケが佳境に入った頃を思わせたりして、なあんてね。
つまりは一見して、サエない漁師のオッサンよ。若いのに、若く見えない。気楽な高笑い(春三笑いだッ)が更にオッサンくさい。でもそのゆるゆるの、やる気のなさそうな態度の裏には、カーリングに対する熱い情熱が隠れてる。
やっぱりこういうよーちゃんが好きよ。いやだってさ、今出てるドラマ「小早川……」は彼が出演する意味が見い出せないんだもん。もう今やあの内容を見続けるのが耐えられなくて、ビデオに撮りはするものの、早送りしてよーちゃんの場面だけ拾ってる状態。
なんかキャラが似合わないなあ(特にあの気取った髪型)とか、彼でなくても成立するよなあ、とか、このキャラがいなくても話進行しちゃうしなあ、とか、とにかくもう歯がゆくってさ。
役者としての幅を広げるのも大事だと思うけど、それは自身のキャラをこうして生かした中でも出来るんだもの。
実際、本作も、シリアス部分はキッチリと見せられるんだし。
何かね、ヘンな例えだけど、森繁久彌は何に出ててもまず森繁久彌であることが前提であり、エノケンなんかもまた然りだと思うんだけど、そうでありながら、まるで足かせがないかのごとく、自在に演じているじゃない?
私は、彼にそんな役者になってほしいと思う。それはたぐい稀なるキャラクターを天から授けられた役者にしか許されないことで、彼にはそれがあるんだもの。
このコーチは、かつて実力のあるカーラーだった。でも連覇を重ねていたチームが、二位に甘んじてしまった。それは、黙っていれば判らなかった違反を、彼が正直に告白したから。
とにかく勝つことだけに意味を見い出していた当時のチームメイトや周囲から、「常呂町の恥さらし」と呼ばれ、それ以来カーリングから遠ざかっていた。
でも、常呂町の伝説のカーラー、ガミさんは、「お前は誇りだ」って言ってくれる。カーリングを愛しているからこそ、それを裏切ることは出来ない。それこそが本当のカーラーの姿。
それにしても彼はなぜこうも子持ちの役が多いのだっ。「パコダテ人」、「六月のさくら」、「おかしなふたり」、本作と、知ってる限り、映像作品だけでもこれで四回目だぞ!しかもその殆どがシングルファザー役というのも気になる……。
それにしても、シムソンズ、が実はシンプソンズ、のつもりだったっていうのはホントなのかなあ。
「お前ら、それpが抜けてるぞ」とコーチに言われて、ええ?と目をむく彼女たち。そうだとしたらかなりオマヌケ……カワイイけど。
それにしてもさー、彼女らが試合の時着てた、白のトップに赤のチェックのハーフパンツといういでたち、スコティッシュでメッチャ可愛いよね、もお!
まあ、最初の小豆色のジャージ姿も可愛かったけど(笑)。
でもさあ、でもさあ、最初はストーンを満足に投げることも出来なくって、すべって転んでばかりだったからさあ、上達して、投げるようになることが出来るだけで、胸が熱くなっちゃうんだよね。
しかも、その間もずっとずっと楽しそうなんだもん。美希が仏頂面でも、それでも皆でいることがたまらなく楽しそうなんだもん(はあー(涙))。
最初はね、和子はお遊びのつもりだったから、練習もろくろくせずに惨敗した。でも本気じゃなかったはずなのにその負けが悔しくて、そして10年後の自分をまたリアルに想像しちゃって……せめて一勝したい、そうでなきゃ前に進めない!と決意するのだ。
そのためには勝つことにこだわりを見せる実力者、美希と、そしてコーチの存在が絶対必要。
和子は美希を口説き落とし、そしてコーチ料と練習場代は、手作りのオニオンスープを北見の駅前で皆で売って稼ぐ。
でもさ、コーチが用意してくれたブラシは、絶対あれ、「拾った」わけはなく、彼が彼女たちのために用意してくれたんだよね!ああいうのが泣けるんだよなあ。
そして、練習場を夜に使用させてもらうかわりに、ここでのバイトも紹介してくれる。
そしてそんな彼女たちを、経験からくる直感で、結成時から追い続けるスポーツ記者(松重豊。彼はホント、脇をキッチリ固める役者。いつかどっかの助演男優賞とってほしい)。
カメラマンである助手の山本浩司はいつ見ても、以前ウチの会社にいた男の子にソックリなんだよなあ(笑)。
練習試合で念願の一点をとったと思いきや、それは美希の反則によるもので、それに気づいたコーチは激怒。
勝ちにこだわる美希と、カーラーとしての誇りを重んじるコーチ、そして和子に引っ張られる形で親にナイショでカーリングを続けてきた史江の反発やなんかも引き出されちゃって、シムソンズは解散の危機に陥るんである。
でも、和子と、そして菜摘はあきらめきれないのね。それぞれ懸命に美希、史江に声をかけるんだけど、なかなか振り向いてもらえない。
ことに、あのシーンはもう、涙ボロボロ。親の意向で受験勉強に専念する史江、菜摘が訪ねていっても会わせてももらえない。二階の史江の部屋の窓に向かって菜摘が叫ぶ。声をかけてくれてありがとう。私、変わったよ、って泣きながら……確かに菜摘は変わった。以前は友達もいない、引っ込み思案のメガネの女の子だったんだもん。
この二人の行動が、史江、美希の心を少しずつ溶かす。
ある日、海岸を訪れる和子。もう半分アキラメムード。ここは四人三脚のトレーニングに明け暮れた場所。海に向かっておたけびをあげる和子に、ムクリと起き上がったのは菜摘、そして史江、信じられない、と共に言いながら、「判るんだよ」とニッコリする和子。まるで確信していたみたいに。
史江は、「あたしたちが生まれた年の、この五円玉の表が出たらカーリングを続ける」と言う。放り投げる。海に落ちてしまう。そこに現われたのが、なかなか声をかけられずに三人の後ろにいた美希!海に落ちた五円玉を拾い上げた彼女、それを覗き込む和子。本当は裏だったのに……「表だよ!」狂喜する四人。和子はコッソリ「ウソツキ」と美希をつつく。あのルール違反事件の時、嘘をつくのは止めよう、信頼しあおうと言ってきたけれど、これが最後の、そして最良のウソ。ここから四人は一心同体少女隊(古いっ)なのだっ!
北海道大会に出場したシムソンズは、念願の一勝を勝ち取り、それどころか以降、怒涛の快進撃を見せ、なんと決勝にまで進んでしまうんである。
しかしここで思わぬ事態が。なんと大泉先生、じゃなくて苗字あったけどなんだっけ(笑)、コーチが失格してしまうんである。長いこと競技生活から離れていたので、コーチの条件に制限があったのを知らなかったためのミス。
彼女たちは大事な決勝をコーチなしで戦わなければならなくなる……。
青春モノにはつきものの、甘酸っぱい恋の匂いと共に、失われる恋も運んでくる。
和子は、カーリング場に一人いるマサトに声をかけられる。彼女はずっとずっとあこがれていたこと……彼と並んでストーンを投げることを頼んでみる。その二つのストーンが一瞬だけ触れ合う、という画を、「なんか良くない?」なんて史江たちとキャイキャイ言いながら夢想してた。
でも、ストーンはひと筋の隙間を保ったまま、触れ合わないんだ……。
その時、和子は知るのだ。恋にさえまだ届いていなかったようなマサトへの憧れは、彼が美希の恋人であり、彼女を一緒にカナダ留学に連れて行こうとしている、と知ったことで終焉を迎えることを。
カーリング場を出ると、美希がいる。
「なんか、投げたくなっちゃって」そう美希は言うけれど、マサトと待ち合わせをしていたのかもしれない。
和子はニッコリ笑って、「中で待ってるよ。美希の大切な人」と言い残して自転車をこいでゆく。
夜の闇の中……彼女の頬に幾筋もの涙が流れて……そうしたら、向こうから、史江と菜摘が自転車をこいでやってくる。
二人は和子の涙に気づくんだけど、何かを言おうとした瞬間、空から純白の、羽根のように軽いモノが降ってくるんだ。
「初雪だ!」
初雪降ったら、きっといいことがある。そう言い合っていた。そう、これから大事な大事な決勝戦があるんだ。
ああ、なんか、こんなささやかなシーンにもじんわり涙が出ちゃうなあ。
決勝戦の途中にね、和子、美希に言うのだ。マサトと一緒に留学するんでしょ、と。美希なら絶対オリンピックに出られるよ、と。
美希だけは、小さな頃からやってきて、飛びぬけて上手くて、私たちとは違う。こんなところに彼女を縛りつけておくべきじゃない。和子の言葉にはそんな思いが垣間見える。
それは強豪相手に苦戦しているさなかだった。美希は和子の言葉に驚きながらも、彼女に向き直ってこう言うのだ。
「私、このチームでオリンピック行きたい」
もちろん、それが叶うということを知っているからなんだけど、この台詞で、もう涙があふれちゃってあふれちゃって。
他のこの手の映画と違って、最後、勝利のカタルシスでは終わらない。
ギリギリ追いつめられて、一発逆転を狙うんだけど、敗れてしまうんだよね。
でも、初出場で優勝しちゃったら、それは出来すぎであり、この先にソルトレークシティオリンピックがあると知っているからこそ、この検討の末の敗戦が心にしみるんだ。
だって、彼女たちに老獪な作戦や守りなんてなかったんだもの。コーチがいなかったこともあるけど、ゼロじゃない可能性を、そして仲間を信じてのラストのストーンは果たせなかったけど、これしかなかったんだもの。
だから、後悔はない。泣きくずれる仲間を和子は抱き起こす。笑おう、ね、笑おう、と言って。
敵チームが拍手を送る。会場内にシムソンズのコールが響き渡る。泣き笑いの顔で四人、手をつなぎ、歓声に応える彼女たちに涙がとまらないよ!
勝つことこそが目的だった美希や敵チーム、そのコーチに、楽しむことの大切さを教えてくれた。
よーちゃんファンで埋まってるかと思ったけど、多分それは舞台挨拶のみで、こんなにカワイイ女の子が四人も出てるから、おじさま、お兄様系、しかも一人、が多いのね。(笑)。
いいんだけど、こういうのが、もっとも口コミが広がりにくいのが気になる。よーちゃん人気で語られるのも避けたいし……まあ、トリノオリンピックですっかり人気者になったから杞憂だろうけど、ぜひ、ぜひ大ヒットしてロングラン上映してほしい。
四人の女の子が何かの目標に向かって頑張る本作、「リンダ リンダ リンダ」と拮抗する、四人少女モノ(んなジャンルはないけど)の傑作の双璧と呼んでしまおう。
少々のオフビートが絶妙な「リンダ、……」と、シチュエイションでしっかりと決め込んでくる本作、甲乙つけがたし!
とかいいつつ、これがデビューの監督さん、ドラマの演出家さんなのかあ。
この作品だけじゃ、ちょっと図れないな……。
テーマも展開もシッカリあった上での映画だから、演出や作家としての主張がどこまであったかは微妙だし。うーん、次作を待ちたい。
あ、そうそう、彼女たちのクラス担任が、“森崎先生”!なのが、嬉しかったな。冒頭、いきなりなんだもん。笑っちゃったよ。★★★★★
んで、まずは舞台背景なぞをひもとく。つーか、観てる時には全然判ってなかったけど。あくまで後からの復習。
えー、時は日中戦争の直前。日本がまだアメリカと同盟関係の頃だったのですな。
こっからは受け売り。「1842年に清国とイギリスで交わされた南京条約により、上海港が開港され、イギリス、フランス、アメリカ、そして日本が、この地に租界を設けた。租界は第二次世界大戦開戦まで中国の治外法権地域だったこともあり、多くの文化が上海に流れ込むことになる。ジャズや映画など、当時の先端文化や様々な娯楽が集まり……」ほほお。
まあ多分、授業で習ったんだろうけど、確実に寝てたな。
えーと、だからホント真田氏が出てなきゃ、観に来てないタイプの映画なんである。
うう、真田さん、素敵っ。真田さんが一人カッコイイじゃないのお。そうよ、日本の映画俳優といえば、ケン・ワタナベではなくて彼なのよお!
真田さん扮するマツダが現われると、日本軍が侵略してくると囁かれるナゾの男。いわば悪役。美しい悪役。
はあー、なんて素敵なのかしらん。ガチンコでやりあうレイフ・ファインズと全然ひけをとらんのよね。まあ、レイフ・ファインズは盲目の役なので、分が悪いということはあるのだが、それにしても真田氏は実に素敵。
背はちょっと低いけど、体全体の美しさ、ことにその背筋の美しさはやはりアクションをやっていたからなのよねえ。はあ、ホレボレ。日本人の役者として本当に誇らしい存在。
全編流暢な美しい響きの英語で、日本語の台詞はたったひとつ。「(車を)止めろ!」これがなぜかゾクッとくるんだわ。
レイフ・ファインズとはシェイクスピアの舞台の関係で面識があり、打ち上げに呼ばれて一緒にカラオケまでやったという仲。ビックリ。真田さんとレイフ・ファインズがカラオケ!?何を歌うんだろ。
でも、いいな。だからこそあのしっくりくる感じがあったのかあ。
こういう縁は嬉しい。また二人を同じスクリーン(あるいは舞台!)で見てみたい。
真田氏が演じるマツダは、結局何者だったのか。何の仕事をしているのかとか、明かされることはない。しかし恐らく日本の軍とか政府とかにより近い存在で、ありていに言えばスパイだったのかなあ。
彼が現われるところに日本軍が侵攻してくる、と恐れられていた男である。
などとゆーことは、レイフ・ファインズ扮するジャクソンは、彼と親しくなってから、ずっと後に知ることになる。
ジャクソンは、盲目の元外交官。ベルサイユ講和条約の場にも列席していて、中国とアメリカの間の軋轢を止めた伝説の人物なのだが、今やお荷物状態になっている。
彼の盲目の原因は後になって語られるのだけれど、登場の状態で既に、彼がこのことによってかつての地位をすべり落ち、今や投げやりになっていることが判る。
そんな彼が出会うのが、ロシアからこの上海に亡命してきた、没落貴族のソフィア。これもまた時代背景が重要になってくる。
当時、ロシア革命が起こり、経済的平等が確立、それまで贅沢な生活をしていた貴族たちは、他国への亡命を余儀なくされたんである。そしてこの上海で、かつてでは考えられない貧しい暮らしをしている。
っていうのも、この一家はプライドが高く、こんな貧しい吹き溜まりにいても、働いて稼ごうとか、ぜーんぜん思ってないんだもん。
彼らの糊口をしのいでいるのは、ソフィアがホステスをして稼いでいるから。夜の世界で男たちに身を任せている(いや、ダンスするぐらいだが)彼女を、家族はあからさまに軽蔑している。ばかやろー、おめーらはその金で食ってけてるんだろーが。
こんな場面が、彼女の、そして彼女のような立場の没落貴族たちの様相をズバリと描写している。彼女の働く店で、かつて同じ貴族だった青年と再会するんである。
たまらない目をして近づいてくる青年。あの頃のように、彼女の手に敬愛のキスをする。
「よくテニスのお相手をしてもらいました。覚えていますか」「いつもあなたに負かされていたわね」そんな会話を交わす。
でも今や、一方は飲み屋の雑用係で、片方は男とダンスしてチップをもらう夜の蝶なのだ。
当時の優雅な回想が、やりきれなさ、切なさに拍車をかける。胸かきむしられる悲哀!
ある日、いつものように投げやりに飲み歩いていたジャクソンは、彼が追い剥ぎに狙われていると察知したソフィアによって助けられた。その声だけで彼は感じたのだ。彼女が理想の、夢の女性だと。
ジャクソンには夢がある。それは理想のバーを作ること。そこには店を象徴するような女性が必要。それが彼女だと直感したのだ。
その店を実現する一方で、彼らの事情や刻々と変化する情勢が描かれていく。
といっても、ジャクソンの方はあまり描かれない。彼を形成しているものは全て過去のバックグラウンドであり、それが彼の、どこかうらぶれた寂しさを強調している。
かつては名うての外交官だったのに、今や盲目で家族も失い、ただ生ける屍となっている、みたいな。
一方、ソフィアの方は今こそが戦いである。彼女は確かに伯爵夫人だけど、家族の中では異端者なのだ。
それは彼女がホステスに身を落としてる(いやだから、てめーらのためなのにさ)ばかりではなく、つまり、家族にとっては彼女だけが外から嫁いできた一般人だからという目線をどうしても感じる。
彼女自身だっていいお家柄だったとは思うけど、つまり彼女は他人、私たちとは違うの、みたいな。
夜中稼いでくるソフィアのための、ベッドさえない。彼女は家族たちが起き出してベッドが空くと、ようやく眠れるんである。
しかも許せないのは、「悪影響があるから」と仕事に行くために着飾るソフィアから娘のカティアを遠ざけること。「あなたのようになったらどうするの」!!!
カティアが少女らしい興味で母親の口紅を塗ってみたりすると、もー、目をサンカクにとんがらせて、「母親としてよく平気ね」!!!
キー!腹立つー!!!
特に亡き夫の妹、グルーシェンカが、腹立つのよー!カティアに対しても、「兄によく似ている」なんてさ、つまり大事なのはこっちの血だってことだよね。キー!
でもね……最後まで見てくと、ちょっと考えが変わるのよ。確かにグルーシェンカが一番、ソフィアにヒドいことを言ってた。でもちゃんと、“言ってた”のだ。最初からある意味素直に、それを口にも態度にも表わしていた。それにカティアのことは本当に愛して、可愛がっていた。心配もしていた。他の冷たい視線を送るばかりの家族たちよりマシだった……いや!
冷たい視線を送る家族は、まだ良かったのだ。クセモノは叔母である。
妹とか母とかよりは少し客観的な位置にいるせいなのか、ソフィア母子に対してさりげない親切をくれるので、特にカティアはなついていた。それは、母親を悪く言わない唯一の人だったからこそなのかもしれなかったのに。
なのになのにコイツ、最後に手ひどく掌を返しやがるんだよー!
まあ、それは後にとっておいて……。ジャクソンの事情をサラッといくと……彼がなぜ盲目になったのか。
彼の脳裏に繰り返し悪夢の日が甦る。暴徒によってまず家を焼き払われ、娘以外の家族を失った。それでもまだこの愛する娘がいればと、彼の生きる唯一の杖であった。しかしまたしても暴徒が彼らの乗ったバス(だったかな)を襲った。結局それで愛する娘は死に、彼は視力を失った。
目が見えないことは、愛する娘を失った原因でもある。だから彼の今の状態は、それだけでツライ過去を思い出せと言っているのと同じなのだ。
目が見えないからこそ、彼には他の四感でいろんなものが“見える”。周囲が役立たずの自分を見放していくことも、彼には見えている。
そんな彼に声をかけたのがマツダだった。様々な価値観を共有し、魂を近しく感じた。
ジャクソンが夢をかなえて店をオープンするのにも、マツダはさりげない力を貸してくれた。例えば客に軍人や政治家を入れて、ただの酒場じゃない雰囲気を作りたいと言うのにも尽力してくれた。
でも恐らくそうやって協力しながら、マツダはそれを利用して裏の顔で活動していたと推測される。
物語の最後、動乱の中、それにも加担しているだろうと思われるマツダとジャクソンは決別する。マツダはジャクソンを安全なところに逃がそうと群衆をかきわけやってくるのだけれど、ジャクソンは拒否する。もう二人は会うことはない。別の世界の人間だったのだ。
でもね、この決別も、儀式に過ぎないよね。ジャクソンにだって判っていたはず。子供の頃のように無邪気には付き合えない。いや子供の頃だって、本当に打算のない、純粋な友情なんてムリなのだ。
だからといって、それがウソの友情というわけじゃない。心の中で別の部分を隠し持っていたとしたって、そしてそれを薄々感じていたとしたって、人は自分を判ってくれる友達がいなければ生きられない。
ただ、お互いの立場上、これ以上はムリだった。逆にここで決別したことで、二人の友情は保たれた。
そしてマツダは、ジャクソンに最後の贈り物をするのだ。
そして、ジャクソンとソフィアである。彼は、その見えないからこそ見える感覚で、ソフィアの声を聞いただけで、求めていた女性だと判った。「バーの女性には、色気と悲劇性のバランスが重要。彼女にはそれが備わっている」だとマツダに説明していた。
いや、彼女には最初から惹かれていたのだよね。ソフィアはちょっと話をしただけで自分を店のマドンナにしようだなんてジャクソンに、戸惑い、せめて触れてみたらと言ってみる。でもそんな誘いにも、ジャクソンは乗れなかった。まるで子供のように怯えて、その手をおずおずと振り払った。
彼女とも、友情の部分があった。いや、それだけで付き合っていきたいと思った。また失うのが怖かったから。
決してプライベートには踏み込まない、という条件で、あくまで仕事のパートナーとしてつきあっている二人、でもそんな条件づけは、二人がお互いに必要としあっていることを、図らずも映し出す。
でも彼女の娘、カティアが、その壁を取り払う。彼の失った娘を思わせる晴明なまなざしを持つ賢い娘。
臆せずジャクソンに話しかけるカティアに、彼は今は亡き娘を重ね合わせる。三人で散歩する、戸外で演奏されているブラスバンドに耳を傾ける。ひとときの、穏やかな時間。まるで何の問題もない家族のような、幸せな時間。
一度だけ、二人はキスをする。それがポスターに使われているキスシーン。でもそれは、自暴自棄になったジャクソンが酔った勢いでソフィアを強引に抱きしめ、キスする、ほんの一瞬のこと。基本的には二人はとことんプラトニックに、お互いの苦悩を共有しながら距離を縮めていく。
しかし、二人に別れが迫っていた。日本軍侵攻を前に、持たらされた話。カネさえ用意できれば、元の優雅な生活を取り戻せる新天地へと脱出出来るのだと。
カティアのためだと言われて、ソフィアは苦悩しながら、その話をジャクソンにぽろりとこぼした。というのも、カンの鋭いジャクソンが、彼女の様子がおかしいのを指摘したから。
それは彼との別れを意味することだから、ソフィアはオーナーである彼に相談はしなかったのだと思う。でも結局は聞いてしまったジャクソン、運命を受け入れて、彼女に金を渡す。
今更だが、触れていいかとジャクソンは言う。そっと両の手で彼女の顔を包み込む。「今まで知らなかった。あなたがこんなに美しい人だったなんて」
でも、別れではなかった。だってあのクソ家族、ことにソフィアとカティアに優しくしてくれていた叔母でさえ、掌を返しやがったんだもん!
あの叔母は許せん!表面上は彼女たち母子のことをかばってて、二人も唯一心を許していたのに、心の底ではオミズな仕事をしているソフィアのことを真に軽蔑していたのだ。なんてこと!
「あんたがあんな仕事をしていたこと、向こうに行ってもすぐに判ってしまうわ。一緒に来たって何にもいいことはない。」
ふざけんなー!ソフィアがそんな仕事をするしかなかったのは、お前らが食うためだろー!しかもこのパスポート代だって……。ちょっと待った。それも最初から彼女の分を省いた金額で言ってたの!?ま、まさか!
彼らにとっては、やはり貴族である夫の血をうけついだ娘だけが大事なんだ。ソフィアだけをこの地に置き去りにして、母と娘を引き離そうっていうんである!
でも、マツダからの最後のプレゼント、それが、「あの伯爵夫人をほんの数分前、外で見かけた」という言葉だった。
「あなたはあの伯爵夫人と幸せになるべきだ」そう言って、教えてくれた。
家族と共に上海を脱出しているはずのソフィアが、一人残されていることを知ったジャクソンは、荒れ狂う群衆の中、杖も失って港へと向かう。ムチャな……。
その頃、ソフィアを港へと先導していたのは彼女たち母子と親しくしていたユダヤ人のサミュエルだった。
彼はとても強い人だったんだよね。この上海の地でもユダヤ人は不当に差別されていたのに、「私には生活をすることで精一杯で何も聞こえません」と笑顔で、大家族と共にたくましく暮らしてた。
彼らと付き合うことを、家族は敬遠していた。しかしソフィアとカティアは親しく付き合い、そのことがこのラストへとつながってゆく。
サミュエルは、カティアを取り戻すべきだと、部屋で一人泣いていたソフィアを連れ出す。自分たち家族と一緒にマカオに行きましょうと。ソフィアは勇気をもらって立ち上がる。
そして、港でジャクソンとも合流する。カティアはいわば、騙されてここまで来てた。お母さんは港で待っていると。でもここにもいない。母がいないまま船が出てしまう。不信感を募らせていた矢先だった。ソフィアがカティアを見つけて駆け込んでくる。そしてジャクソンも!
カティアはいつも、蘇州への船旅を夢見てた。ジャクソンと会った時も開口一番、蘇州へ連れて行ってくれる?とせがんでいた。まだその約束を果たせてなかった。ジャクソンはカティアに一緒にその船旅に行こうと呼びかける。ソフィアも声を限りに叫ぶ。
そしてサミュエルが有無を言わさずカティアを船から引っ張り出し、カティアは母親の胸に飛び込んだ。
グルーシェンカがね……悲痛に、悲痛に叫ぶんだもん。泣きながら、カティアの名前を。ああ、彼女は本当に姪っ子のカティアのことを愛してたんだなと思うのだ。そうすると、あのイヤミも悪口も許せてしまうのだ。
思えばソフィアはこのグルーシェンカに、自分に何かあったらカティアをよろしく頼むと言っていた。懇願してた。他の誰でもなく、このグルーシェンカに。ソフィアも判ってたのかもしれないなあ。
そして彼らはサミュエル家族とともに、マカオへと向かう船に乗り込む。肩を寄せ合い、手を握り合い、まるで始めから家族だったように身を寄せ合う三人。
これもね、決してハッピーエンドではないのよ。マカオにも日本軍はいるし、そのうちに第二次世界大戦もはじまる。アメリカは日本の同盟国ではなくなるし、もっと辛い現実が待っているのを私たちは知ってる。
でも、あの選択が希望だと思いたい。三人が新しい家族となったことが、全てを乗り越える力となるように。★★★☆☆
んで、本作に関しては、ネームバリューがなくても脚本が読める役者とか、会話劇をこなせる実力のある役者とか、それを重視してキャスティングしたっていうんだけどさあ、そんな彼らがこんな寒すぎるんじゃ、結局は意味ないじゃん。
ネームバリューっていうのは、それだけのオーラがあるってことでしょ。それは演技力とかいう部分を越えた、感性の問題でしょ。
確かに日本はメソッド式演技とかあまり浸透してないけど、舞台ならまだしも映画はもっとサムシングや感性がモノを言う世界であり、昔の映画スターは「シェイクスピアやチェーホフを知らない(これもプロデューサーの言)」素人から始まった。でもその中にスクリーンを満たす感性を見い出したからこそ、プロデューサーなり監督は起用したわけじゃないのかなあ。
それこそが、日本映画の強み。昔ほどそうした眼力のある製作者はいないのかもしれないけど、そういう方法で素晴らしい映画俳優や作品を生み出せる日本こそが凄いのだ。
……などとぐちぐちと関係ないことを言ってしまったけど……だって正直、この中でマトモに見ていられるのは一人か二人、やはり一番安心して見ていられるのは金井君。彼だって舞台で鍛えられたってわけじゃない。いきなり映像からデビューした人である。経験というのはやはりそれだけのものがあるのね。
デビューの「ズッコケ三人組」から見てるから、なんか感無量。あの時は美しい青年になるかもと思っていたのになあ(爆)。
登場人物は9人、プラス1人。この1人が全てのナゾであり、キーパーソンであり、疑問点でもある。
彼らは高校時代、共に汗を流した野球部員。ギリギリの人数にもメゲずに頑張って、あと一歩で甲子園だったんだけど、決勝で敗れた。
あれから7年。お世話になった監督も今や鬼籍に入り、久しぶりに皆が顔を合わせたのは山奥の洋館。思い出話に花が咲く中、皆で埋めたタイムカプセルを開けるという本日のメインイベントとなる。人数分のカギがついたその箱は、打順の順番でかけたはずだった。しかしその順番が狂っていた上に、鍵穴は9つではなく、10個あった。
しかも、皆の記憶は少しずつ食い違っている。それを考え合わせると、ここにはいないもう一人がこの野球部にはいたらしいのだ。しかし9人が9人とも、それを思い出せない。
苛立ちや気味の悪さが吹き上がる中、写真やスコアブックを取り出してナゾを解明しようと試みる。その10人目とは……。
という内容。回想シーンを除くと完全に一室での密室劇で、台詞劇である。こういう思いっきり舞台みたいな内容だと、役者が固くて動きが流れないと、すんごくキツいのね。
謎解きが佳境に入ってくると、観客もそっちに集中し出すからまだいいんだけど、中盤まではとにかくキツい。
というか、寒い。9人もいるんだからキャラ付けをハッキリさせなきゃという意図が、逆にワザとらしいキャラを作り出してる。
ことに、常にエロのことしか頭にない細井のワザとらしさは、いたたまれない。
白いウィッグに軽薄なファッションと言葉遣い、つまりはイロモノとして設定されるキョロもキツい。舞台ならまだ何とかハジけようもあるが、映像ではよほどの個性がないと、外見の作りこみだけでは見てるこちらが凍っていくばかりなんである。
言ってしまえば咀嚼されきっていない。だから彼の躊躇や恥ずかしさを感じてしまって、こっちが恥ずかしくなってきちゃうのだ。
そんでもってね。密室劇として上手く出来てる、とは言ったけど、根本的な解決はなされなくて、結局放り出されてしまう感があるのは、ひょっとしたら大問題なのではないの?と消化不良に陥るのも事実。
結局はね、この10人目っていうのはエースピッチャーだった。最初はスコアブックに代打で現われて三球三振する、つまりはヘタッピなヤツで影が薄いから、皆の記憶に残っていないんじゃないのかと思っていたのが、その代打はやはりヘタッピな(しかし野球バカの)カバオだった。
食い違う記憶を突き詰めていくと、その存在はどんどん、いつも一緒にいた、忘れるわけのない、重要な人物であるらしいことが判ってくる。準決勝に登板して、ボールが当たって大怪我をしたと思い込んでいたピッチャーの教授(金井君)の記憶は間違っていて、大怪我をしたのはここにはいない、そのエースピッチャーの武田だったのだ。
その時の怪我のせいでか、彼は意識がないままベッドに横たわっている。ラストにはその彼を9人がきっちり正装して見舞い、今度こそタイムカプセルを開けるというシーンが用意されているんだけど、彼らはなぜ、そこまで武田を思い出せなかったのかが結局は解明されないんだよね。
一人か二人ならまだしも、全員が記憶から排除していたんだから、当然、ああそうだったのか、と納得させるだけの理由を用意してくれているハズだと思ってたのよ。
しかし結局、放り出されたまま、しかし画的にはやけに大団円で終わってしまうのでビックリしちゃうのだ。えー?つまりミステリのために排除したぐらいなだけなの?って。
彼があの試合で重傷を負ってしまい、意識が戻らないままだったから、それが彼らのトラウマになって、意識的に記憶から排除したということなのかなあ。そんな含みはあるけど、そう断定されるわけじゃないし、全員が忘れていたっていうのはあまりにムリがあるし。
かつてのマネージャー、末広ちゃんと結婚していまだにラブラブである桐山(どこか段田安則風)は、この場でもカノジョのことで頭がいっぱいなのね。んで、彼女がかつて野球部の誰かに告白してフラれたらしい、ってことを聞いて取り乱す。
実はその告白した相手は武田なんだけど、最初、皆は彼のこと忘れてるから、広末涼子命で早稲田に2浪までして入った速水ではないかと言われるのね。しかし彼は広末しか頭にない。だから末広ちゃんを振ったんじゃないか……というアイマイな推測もやはり間違っている。彼自身はそんな覚えは最初からなかった。
しかし涼子ちゃんを追って早稲田に2浪して入ったって……彼女、早稲田に入ってからそんなにちゃんと通ってなかったよな……2年もいたっけ?まあいいけど。
そしてこの速水と、教授と呼ばれる豊臣は秀才コンビと呼ばれていた……という話に、キャプテンである坂本が割って入る。いや、秀才トリオと言われていたはずだったと。
速水も教授もコンビだったかトリオだったか思い出せない。ここには野球部全員集まってる。秀才といえばこの二人ぐらいしかいないんだから、コンビだろうと言うんだけど、何かしっくり来ない。
キャプテン坂本は、この疑問点に一番こだわっている。9人しか映っていない写真で、坂本の後ろから彼の胸をモミモミしている手を発見すると、「俺のおっぱいモミモミしてる。これが10人目だ!」と更に張り切る。その後、この10人目は「モミモミ」と呼ばれて話が展開する(ビミョウにサムイ)。
この手だけが見えている写真はかなりゾクッとするものがある……心霊写真みたいなんだもんー。
コワモテの鬼塚はイラついて、そんなことにこだわってないで、タイムカプセルもさっさと壊して開けちまえばいいじゃないかと言う。しかしこの鬼塚、クールに見えるけど仕切りたがりでおだてに弱いもんだから、じゃあ鬼塚の仕切りで準決勝戦を再現してみようとかノセられると、それまでがウソのように乗り気になっちゃう。
段々と気味の悪い雰囲気になっていく謎解きを、ただ一人嬉しそうに眺めているのが宜保霊治。もうあからさまに宜保愛子をもじってる。霊感商法で稼いでいるという彼、ロングヘアでニタニタとしていて、これもかなり外見で固めていて、見ててツラいものがある。
こういうキャラを持ってくるなら、武田君の生霊ぐらい感じとってくれないと、いる意味がない。
一人、この状況を楽しんでいるキミワルサも、外見の作りこみ以上のものは伝わってこないし。
あっと。ところでね、この彼らのプロフィール、ラストクレジットで語られる皆の現状は、最初に語られる彼らのそれと違うんだよ。
最初のは武田の夢想したものなのだとプロデューサーは言うけれど、それって何の意味があるのかなあ……それともこのやりとり自体が、武田の夢の中で展開されているというわけでもないでしょ。でもそうとでも考えないと、劇中、彼らは今の現状を踏まえた会話もしているわけだし、ヘンだよね。
ラストクレジットで示される彼らの現状もガーッと駆け足すぎて、あれ?これ何?言ってたのと違う……とか思ってるうちに流れちゃって、そこまで思いをはせることが出来ない。うう、意味ないじゃないのお。
まあ、とりあえず、それはいいや。どうしても武田が思い出せない彼ら、野球部はこの9人に決まってるだろ、打順も変わるわけがないと、最初は言い張っているのだよね。
しかし彼らが言っているのは、最後の試合である決勝戦の打順だったんだ。鍵穴の順がその決勝戦の打順ではないこと……つまり彼らの高校野球の最後の打順じゃないということを、おかしいと思わなくてはいけなかったのだ。
でも、彼らの言ってる感じでは、この打順でずっとやってきたはずだと思い込んでるみたいなんだけど……まあそうしないとミステリにはならないわけだが、後から考えるとやはりムリがある。
だってさあ、タイムカプセルはいつ埋めたの?カギをかけたのはいつ?武田が意識を失う前ってことじゃないの?
予選大会が始まる前?てことは、それまではその打順こそが“決まってる”ハズだったのに、なぜそれを忘れちゃうのよ。
なぜ、準決勝で優勝候補にあれだけ粘ったのに、決勝ではボロ負けしたのか。
そして準決勝の、やたら時間がかかった回のナゾは、その回で武田が大怪我をしたからなんだけど、なかなかそこまで記憶がたどり着けない。
大体、彼らのいるこの場所自体が、凄く不思議なんだよね。何の脈絡もなく、レストランでもない山の中の洋館ってのが。誰が用意したのかも判らない豪華な料理も。しかもなぜかエレクトーンが置いてあるってのは、まあ特に意味はないだろうが。
最も判らないのは、マネージャーであった末広ちゃんに電話がつながらなくなってしまうところである。
スコアブックをつけていたのがカバオではなく、末広ちゃんだったと判明。彼女が最後までマネージャーを続けていたという記憶さえ皆と食い違っていた桐山は、意気揚揚と奥さんである彼女に電話をかけるんだけど、「おかけになった電話番号は……」が流れてしまうのだ。
でね、このシーンが一番顕著なんだけど、9人が二つ以上のグループに別れた時に、画面から見切れる人たちの処理が、今ひとつ上手くないんだよね。
話題が切り替わって今まで見切れていた人たちに振られると、その前までしていた動作を延々と繰り返していた、というちょっとマヌケな印象を与える。
この場面、電話がつながらないことにショックを受けている桐山をほっといて、そのナゾを他のメンメンが議論してる。そしてややしばらくの後、「桐山、まだ電話かけてんのかよ」とくるのよ。この台詞も説明っぽいしさ。
しかもこの台詞がかけられるまで、桐山は背中を見せてずっと動かないままなのも気になる。
役者の動きの流れの悪さには、役者だけではなく根本的な、動かし方の問題があったのかも。密室劇ならもうちょっと見せてくれないと、それこそ密室劇の意味がないよなあ。
おっと、話が飛んじゃったけど、で、なぜ彼女に電話がつながらなくなったの?意識が戻らない武田が、意識レベルを超えて皆に作用したってこと?うーむ。
確かに冒頭、最初に登場するのはこの武田なんである。誰よりも早く到着し、しかもテーブルには何も用意されていない状態。てことは、この彼が不思議な力で用意したのだろーか……。
大体、この洋館も不自然だしね……彼が召集してたりして。実際改めて確認したら、誰が幹事で皆を集めたのか判らなかったりして。
そこまで芸を細かくしてくれていれば、つじつまの合わなさも受け入れられたのに。
あ、でもサイトでは、「差出人不明の手紙によって集められた」って書いてる。うそお……そんなこと、言ってたっけ?聞き逃したかなあ。
でも、もしもそうなら、皆もっとそのこと自体を不思議がってもいいのに、まるで前から決まってた予定みたいに最初から和気あいあいとしているのは、ヘンじゃないの。
それにこれだけ会話を繰り返して、理詰めでナゾを突き止めていくのに、肝心なところは急にファンタジーっぽく処理されてしまうのも、かなりの消化不良である。
……まあ結局、ファンタジーだってことなんだろうけど。
武田に対するトラウマというには、あまりに不自然に記憶がモザイクになっている。それに対する疑問も残る。
それもファンタジーで片づけられてしまうのかなあ。
でね、あれだけ鬼塚がこだわっていたタイムカプセル、確かにこれこそが最初から皆が楽しみにしてて、中身を見たいと思ってたんだけど……ラスト開けられるその中身は、何の意外性もなく、感動的でもなく、あまりにも凡庸なの。
ボールに書かれた寄せ書き、武田が書いたのは「絶対皆で甲子園に行こう」。うっ、あまりにも意外性も何もなくて、拍子抜け。
心を打つには、ほんの少しの仕掛けが必要なんだよなあ……。
この日、ミニ舞台挨拶で、監督と共に予告編を手がけた方が来ていた。そうそう、本作に足を運んだのは、この予告編のテンポの良さに惹かれたからなんだよな。
内容はミステリーだけど、そう表現しようかどうかと悩み、結局人間ドラマだからそのカラーは排除した、という。確かに予告編からは、劇中にあるような深刻さは響いてこない。だからこそ惹かれた。「運命じゃない人」みたいな上手さのパズルゲームかと思って。
それは当たってなくはなかったんだけど……役者のキビしさが一番、予想外だったな。
当時流行っていた、ってことで取り入れたんであろう「だっちゅーの」とかもビミョウに寒くて、これまた予想外にツラかった。★★★☆☆
それでも確かに、この映画の中で彼は、最後には違った顔に見えた。とても微細な変化ではあったけれど。
16歳の彼が、19歳を間近に控えた少年を演じるというのはどうなのかなという危惧も、実際にその年頃の役者が演じていたら、それこそもっと演技的にカッチリしたものになっていたと思う。柳楽優弥という少年がもともと持つ、柔らかさや戸惑いが、実際お姉さんたちの心をグッと掴むものになっていて、奇しくもこのキャスティングはちょっと奇跡的に成功している。
しかも周りはメジャー系カッチリ演技をするキャリアを持った人たちで固められていて、彼らと柳楽君の繊細さのギャップが非常に対照的なのも、ギリギリのバランスで功を奏した。
夏木マリなんてジブリを経たからでもないだろうけど、外見からキテるすっごい造形的な演技で、もはや美輪さん方向に行ってるし。年下の恋人をはべらせてはいても、どことなくジャンヌ・モローになれそうで違うなーっていうような(笑)。
エリカ嬢は今出なきゃいつ出る!って感じでちょっと出まくりすぎだが、一つ一つ確実にこなしてる。確実だからこそ破綻がなさ過ぎる気もする。でもだからこそ、揺れる感性の柳楽君とのギャップがいいんだろうな。
初めての恋にどうしていいか判んない男の子と、ついこの間ツライ恋を経たばかりの女の子。そんな女の子だからこそ演技もカッチリしているわけだし、男の子の演技は揺れるわけだ。そしてリアリティを醸し出す。
舞台は米軍基地があり、古きよきアメリカに憧れた時代を残す福生。それでいてなんだかあたりが寒々しく寂寥感があるのは、それが冬を迎える季節だからというだけではないだろう。
柳楽君演じる山下志郎が、友達のマッキーとともにビデオ屋に駆け込むシーンから始まる。もう一人の友達の尚樹がオネエサマな恋人のヨウコに「ヘタクソ」と言われて落ち込み、自殺しようとしているのをエッチビデオで特訓して救おうというんである。
ベッドの上で男子高校生がプロレスさながらにくんずほぐれつしているのがおかしく可愛く、そしてこの時点で友人二人は本気すぎる恋に既に苦しんでいるけれど、志郎はまだ、それを知らない。
このワキエピソードである、マッキーと尚樹がヨウコをめぐるバトルは、男の子の純粋な本気と、純粋な友情が痛ましいほどに真剣で、なんだかジンとくるものがある。
それも高校を卒業して大学なり社会人に踏み出す季節を挟むと、友人として距離も出来てしまい、恋人の気持ちも量りかねて、そのつかめない距離で、尚樹はあがく。マッキーは友達の恋人を好きになってしまった後ろめたさから、わざわざ遠くの大学を受けたわけだしね。
志郎に至っては、そんなドロドロに足を突っ込むにはまだ行っていない。いや、最終的にはその中に入れてももらえない。彼はまだ、自分の力で奪い取りたいと思うほどの、本当の恋をしていないから。
でも、ラスト、彼は奪い取りたいと、思っただろうか。力が及ばないから、諦めるしかなかったんだろうか。
などと、早くもオチバレな話をしてしまうんだけど。そう、これは志郎が本当の恋をして、そして失恋するまでの物語。とか言いつつ、冒頭とラストで連環される次の恋への予感も描かれてはいるけど……って、この描写はちょっとヤボだったな。彼女を思う切なさが半減されちゃうもん。
志郎が恋したのは、ちょっと年上の大学生、乃里子。高校を卒業して大学に行く気も起こらず、ガソリンスタンドで働き始めた彼の下に、新しくバイトで入ってきたのが彼女だった。
だけど志郎はその前、彼女のことを見かけていた。自転車に乗っていた彼の前に飛び出し、危うくぶつかりそうになって交わした彼女は、今度は一台の車の前に仁王立ちになった。そして、降りてきた男の頬をしたたかに打った。涙を浮かべて。
そんなオトナな場面を最初に見せつけられていたから、志郎と乃里子がイイ仲になっても、もうその時点で二人の立ち位置は決まっているのよね。
乃里子は年下のカワイイ男の子をちょっと翻弄する感じで、好きだなんて言葉も平気で口に出す。志郎のハイカラなグランマとも親友みたいに仲良くなり、二人の仲は急速に近づいていく。
そうそう、志郎はこのアメリカかぶれのグランマにレディーファーストが基本原則のジェントルマンを叩き込まれてるのだ。彼の女の子に対する紳士的な優しさっていうのは、単に恋愛ゴトに慣れていないってだけではなくその基本があるから、ちょっと女の子をクラッとさせもするのね。
そして一方、乃里子もグランマと“ガールズトーク”を重ねるに従って、恋愛について深く考えるようになる。
最初にグランマと乃里子が邂逅したシーンからもう、印象的だ。グランマの経営するバーを訪れた乃里子、もう夜も遅いから客の誰かに送らせようというグランマに、「いますから!ボーイフレンド、たくさん!」と思わず言ってしまう乃里子。するとグランマは、「ボーイフレンドっていうのは、寝た男にだけ与える称号なんだよ。そんなこと言うのは、この口か!」と、彼女の口をぐいぐい掴みかかっちゃう。
もう最初からその調子で、遠慮なんか全然ないグランマと彼女、すっかり仲良しになっちゃうのね。
だからこそ、見透かされる。志郎のことは本当に大好きになったけれども、その心の内側に消せない人がいることも。
でもそれは、乃里子が最初にグランマの中に気づいたことだった。グランマにも消せない人がいた。今は50も年下の「若い必需品」を連れているというのに、ずっとずっと忘れられない人がいた。
という、この「若い必需品」を演じているのがチェン・ボーリンで、ひょっとしたら本作の中で、彼が一番良かったかもしれないなあ。
結構映画出まくってるのに、私、彼のデビュー作しか観てない。でもその輝きはちょっと忘れられないものだった。80年代アイドルをほうふつとさせるような彼は、それこそその時代のアイドルがファンに対して示す誠実な愛情のように、紳士的、かつまるで童貞のような純粋さでグランマに寄り添っている。
女にとって、これほど理想の必需品はない。今の男の子じゃダメなの。アイドルでも恋人がいるようなヤツじゃ。50歳離れた恋人というシチュエイションは、全てのファンの恋人であるという価値観なのよね。
結局、彼女を送っていってあげたのは志郎。自転車を押しながら、彼女のバッグを持ってやる彼。「こんな風にいつも女の子のバッグ、持ってあげたりするの?」と乃里子は問う。
思いがけない問いかけに、志郎は今までのことを思い出す。グランマに叩き込まれたそんなジェントルマン思想によって、今までは女の子から誤解され好意を寄せられるか、気持ち悪がられるか、どっちかだった。「彼女はどっちだろう」と志郎は別れ際、彼女にバッグを渡しながら考える。
見つめ続ける彼の視線に気づいたかのように、乃里子は振り返り、笑顔で手を振る。その完璧な笑顔に呆然とした志郎は、彼女が背を向けてからやっと手をあげる。
ああ、ここが恋に落ちたポイントだっていうような、ベタだけどとっても初々しいシーンなのよ。
乃里子は志郎へ傾いていく気持ちを、グランマに「ガールズトーク」する。志郎は、「どうして女の子は自分の恋愛の経過を人に話したがるんだろう」などと思うんだけれど、そうやって女の子は自分の気持ちを固めていくのだ。消せない人を、消したいから。
決して、二股をかけたわけじゃない。志郎のことを好きだったのも本当だ。グランマが心の中から昔の恋人を消しきれなくても、マイクのことを愛しているように。
それに、志郎との時間は本当に楽しくて愛しくて。車の助手席じゃなくて自転車の二人乗り、一緒の音楽で飛び跳ねて歌いまくったり、彼女の作ったオムライスを食べさせあったり、どこかおままごとめいてはいるけれど、一番初めにしたようなこんな恋、もう一度したかったって気持ちを、「逃げ」だけだなんて、どうして断定できるだろう。
まだ恋の気持ちがほんのりと萌えかけている状態の時、グランマにハッパをかけられるような形で、志郎は乃里子にキスしようとした。おずおずと、確かめるように。乃里子は少し迷ったようにうつむいて、「いや」と言った。ジェントルマンを叩き込まれている志郎は、それ以上強引には行けなかった。
「イヤよイヤよも好きのうち、だなんて、ノーミーンズ!」と強く主張していたグランマが脳裏に甦ったから。
しかし、それがくつがえる時がやってくる。乃里子が元カレに合い鍵を返しに行くのに同伴した志郎は、二人の間に流れる空気にのまれて一人帰ってきてしまった。
その志郎を追いかけて、雨の中ズブ濡れになった乃里子が「信じらんない。どうして帰っちゃうの。何で何にも言わないの。何考えてるのか全然判んない」とヤツあたり気味に志郎を叱責する。一方志郎も「判んないのはそっちだよ!」とやり返す。
柳楽君が修羅場だったと述懐した、このどしゃぶりの中の白熱したシーン。しかし苦労しただけあり、短いけれど珠玉の場面だ。
これぞ、映画の醍醐味。文学に勝つにはココしかない。彼の真っ直ぐで純粋で、てらいのない「好きだよ、君が好きだ」には胸をつかれる。
彼の気持ちに気づいていながらも、都合のいいカワイイコぐらいに思っていたかもしれない乃里子の、その台詞を言われた表情もバツグンにイイのね。志郎に頭を預けるように顔を埋める彼女を、おずおずと、しかし確かな優しさで受け止めて抱きしめる志郎の成長ぶりには、まるで母親のように胸が熱くなっちゃうんだよなあ。
このシーンで苦労したからこそ、今度こそのキスシーンがキッチリいくのよー。「泊まってく?」と恐らく勇気を振り絞って言ったであろう志郎に「イヤ」と一旦は拒絶したように見えた乃里子、でも「たった一人の人にだけには、イヤはイイと同じ意味なの」と言う。
そして、柔らかなキス。このキスシーンがね。キスシーンで終わってたけど、あの台詞ってことは、泊まったんだし、やはりヤッちゃったのかなー……そういう匂いはなかったけど、少年の成長物語なわけだし、その後二人は半同棲のような感じになって、乃里子は「19になったら一緒に暮らそう」とまで言うわけだし。などとオバサンはついついヤボなことを考えてしまうんである。
でも、その蜜月は長くは続かなかった。
まずキッカケになったのは、グランマの提案でドライブに出かけた富士山である。グランマの店に飾られてあるダイヤモンド富士の写真。それは、年に二度しか見られない、富士山の頂きから登る朝日。
その場所は山中湖だということを、乃里子は知っていた。グランマはその場所を知らずに、間違った場所からその朝日を一人、眺めていたのだけれど。
乃里子を後ろから毛布ごとそっと抱きしめてくれた、優しい男の子とは違う男を、彼女は思い出していた。つないだ手をほどいて、グランマの元に駈けていく。
朝日が登る前の、ひんやりとした薄墨色の風景が、何かの前兆を伝えてた。
後に、志郎と会わなくなったことをグランマから心配された乃里子、そのことには直接触れずに、こう言った。
「不二ちゃん、ゴメンね。私、あの場所が違うって知ってたのに、言えなかった」
「泣きたかったら、泣けばいいさ」全てを飲み込んで言ってくれたグランマの前で、懐かしいメロディに包まれて、乃里子は泣いた。
あんなにも一緒にいたのに、あれから乃里子は志郎の前に姿を表わさなくなったのだ。試験を理由にバイトも長期休暇をとった。どことなく違和感を感じながらも、ジェントルマンな志郎はただ彼女を待つしか出来なかった。
それでも、グランマの店でやるクリスマスパーティーには来ると言ったから、その時に渡そうとプレゼントも買っていた。あれはおそらく、リングだったんじゃないだろうか。
でも、そのパーティーにも現われなかった。
「サイズが合わないのに、うっかり買ってしまうこともある。お前は返品されたんだよ」
乃里子の迷っていた気持ちを知っていたグランマはそんな風に言い放つ。
でもそのシーンにかぶせて、雪の中、懸命にタクシーを拾おうとする乃里子の姿もカットバックされてたんだよね。つまり彼女は来ようとしていたんじゃないの?でも来れなかったことが……結局は彼女の決心を固めてしまったのかもしれない。
「あんな女、二度と顔も見たくない」なんて強がる志郎に、「良かったじゃないか。やっとそういう相手が出来て」とグランマ。「そういう言い方するなよ!」と志郎は激昂し、グランマの過去の恋人のことを持ち出して八つ当たりする。傷ついた顔をしたグランマの替わりに、マイクが志郎を強く諌める。
愛する人の中にある傷ごと愛せた時に、本当の恋は成就するものなんだろうと、優しい優しいマイクを見ながら思う。
でもね、グランマの恋愛観にまるまる賛成できるわけでもないんだけどね。失恋をしたから本当の恋が判るというわけでもないんじゃないの……言いたがるよね、大失恋の後に大恋愛してる(と思ってる)人って。
実際は人それぞれなワケだしなあ。でもグランマのようなタイプの人って、そういうウンチクを言いたがるよなあ、と思う、実際。
そして乃里子もそんなグランマと気が合うような恋愛体質っぽいし、自分より経験のない年下の男の子に、ウブな癒しを求めて、ちょっと傲慢な結果になるあたりも似ている。
男は優しいだけじゃダメだと、グランマは言った。確かにそうかもしれない。乃里子に対して元カレの矢野は、合い鍵をどうするつもりなんだよ、と無神経な言い方で傷つけたくせに、彼女が志郎と一緒にいるところを目撃して、自尊心を傷つけられる形で嫉妬し、志郎の家にいる彼女の元に押しかけた。
「優しい人よ。あなたみたいに部屋にズカズカ上がりこんだりしない」と言いつつ、志郎の家なのにこの元カレを部屋に上げちゃう乃里子は、ヨリを戻そうと言われた彼に「今更、遅いよ」とか言いつつ、抱きしめられてんじゃないっ!
なんて具合に彼女を奪い返しちまった元カレはズルいけど、そのタフさがなければ恋愛で勝利することは出来ないんだろう。でも、キズついた乃里子にとってただ優しいだけの志郎は必要だったし、優しくすることしか出来ない志郎は、だからこそいとおしい存在だったのだ。
そして、別れ。彼女を信じて信じて、待って待って、でも心のどこかできっと判ってた。
乃里子は、バイトを辞めることを告げにくる。志郎とは一足違ってすれ違った。
ロッカーに、手紙が置かれている。二人きりの時間を初めて過ごしたロッカー室。そしていろんな感情をぶつけあった思い出の場所。
彼と過ごした時間がいとおしかったこと。一緒に暮らそうといった約束を果たせなかったことを詫び、そして、「大好きだったよ」と。
志郎はその手紙を握りしめて飛び出す。
所長の自転車を借りて。「まだその辺、歩いているはずだ」と貸してくれる所長=大泉センセはカッコイイが、足を踏まれてカッコ悪い。ボソッとカッコイイ、カッコワルイとつぶやく佐藤二朗との掛け合いはこんなシリアスな場面でも実に楽しい。
でも、自転車なんだもん。彼はいつだってそうだったけど。医大生で車持ちで、元カノと浮気するようなヨユーのある男にかなうわけないんだもん。
全速力で自転車をこいでいった志郎の視線の先には、その彼の車に乗り込もうとしている乃里子がいた。
改めて見れば、彼女はいつもこんな風に完璧にオシャレだった。キレイにカールした髪、キッチリしたメイクと、どこか大人びたファッションは医大生の彼に合わせるためだったのか。
声をかけることも出来ずに、呆然と彼女を眺めやる志郎。走り出した車に弾かれたようにもう一度追いかけ出す。でも、自転車で追いつくわけない。
途中からは、車を追っているというより、追いつけない彼女の幻影を、楽しい思い出の中の彼女を追いかけているみたいだ。
そしてその気持ちがコントロールを失った時、疾走していた自転車はカーブを曲がりきれず、フェンスに激突する。そのフェンスに掴みかかって、獣のように咆哮、慟哭する志郎に、もらい泣きせずにはいられない。
いつもグランマが欠かさず持っていて、志郎にも度々くれた明治のミルクキャラメル、昔から変わらない懐かしいデザインの箱に書かれた文句に、志郎はふと目を止める。
「滋養豊富、風味絶佳。まるでそれは……」
恋、ということなんだろうか。だからそれをグランマは、いつでも小さなバッグにしのばせているんだろうか。
女の子がどんな年になっても手放さない、大してモノも入らないような小さなバッグに忍ばせているのは、こんな願いのような恋、なのかもしれない。
この映画に足が向いたのは、当然大泉センセのご出演があったからである。監督……ではそんなに興味は沸かなかったから。映画は本作で、二作目の中江監督、正直「冷静と情熱のあいだ」は今イチだった、のは、ケリー・チャンが主な原因ではあったんだけれども。
その大泉先生、本作ではちょっと新しい魅力である。コメディリリーフという点に新しさはないけれど、それがピンではなく、相手がいて掛け合い漫才のような面白さを出してくるのは、初。
メイキングでは相手役となるガソリンスタンドの部下役、佐藤二朗氏と息を合わせるための打ち合わせに余念がなかったようで、夫婦漫才さながらである。まるで風景のように流される風味なのが、返って可笑しい。そんな、物語に影響を与えないカルイ脇役も初ではないかと思うのね。
ホント、意外に新境地なのよね。その組んだ相手、佐藤二朗氏が良かったんだな。だって、大泉先生自体のカラーは変わらない。彼の喋くりをより魅力的にする、ボケ味が冴え渡る佐藤氏が素晴らしいの。
恐らく最も力を入れたアドリブの部分を、オフられてんのがまたイイ。テーブルの下でこっそり手を握り合う志郎と乃里子の間で、オフられた二人が丁々発止。
このアドリブ会話は実に聞きたかったけど、彼らのやりとりがあるからこそ、二人の恋のワクワクが映えるんだもの。
あ、でも、ピンで笑わせてくれるシーンもあるの。「お昼行って来まーす」とミニ自転車を窮屈そうにキコキコこいでいくよーちゃんは、やけに可愛くて、笑ったもん。
こんなワキなのに、クレジットは驚くべきことに主役の二人の次、三番目なんだよね。フジテレビ、よーちゃんを優遇しすぎで怖い。売れてるうちに使い倒して後は冷たくされそう。
全編を通して柳楽君のナレーションで進行していく。これがとてもいいのね。てらいがなくて、繊細で、静謐で、実にイイ。
それを後押しするのが、ニギヤカそうに見えてどこか切なさをたたえた舞台設定。志郎が働く、グランマ言うところの「流れ者の行き着く、ガッスステーション」(思いっきりイングリーッシュ)は、「バグダッド・カフェ」を意識したというだけあって、実際、誰が立ち寄るんだよ、ってぐらい、周りは枯れた田畑が果てしなく続く、現実から切り離されたような寂しさで、でもそこだけがポカポカと暖かいのだ。
やっぱり、志郎の次の恋の予感は、いらなかったな……冒頭で既に示しているぐらい重要視してるけど、これじゃ劇中の二人の恋の切なさが半減しちゃうじゃん。
志郎が通い出す自動車学校の送迎バスの中での出会い、彼は乃里子を奪って行った男に対抗するために免許を取ることを決意したんじゃないかと推測されるんだけど、その中で新たな恋の予感に出会うというのは、やっぱり陳腐すぎないかい?★★★☆☆
本作もまた、男は最後まで女に指一本触れない、ルコント監督らしい映画だ。今回はね、前に感じたようなヤな感じは受けなかった。
男と女、それぞれに閉じこもっている感じがなくて、お互いに絡めあう光線を出していたからかもしれない。しかもそれが交差するようで交差せず、完璧とギリギリのバランスで押し引きし合う。
女をサンドリーヌ・ボネールという、その手綱をしっかり手元に引き寄せているベテランが演じているというのも大きいかもしれない。「仕立て屋の恋」で一心に男の直線の愛情を受けていた彼女が、15年(!あれからそんなにたつのかあ……)を経て、それをたぐりよせて絡め合わせる手管を身につけていた。
だから今回は、ルコント監督のインタビューなんかは極力見ないようにした(笑)。これだけボネールが女の、理由を言い切れない気持ちの複雑さを咀嚼してやってるのに、監督が見当違いのこと言ってたら、ヤだもん。
まあだからといって、ボネール演じるアンナが本当はどう思っていたのか、全てが真実だったのかなんて、判んないんだけどね……。
まず、アンナがドアを間違えるところから始まる。精神科医に予約を入れ、診察を受けに来た。しかもそうした医者にかかるのは初めてだから、税理士の部屋と間違えても、精神科医の部屋はこんなもんかと、そのおかしさに気づくこともなかった。
夫と上手くいかないことを一方的に喋ってくるアンナを、税理士のウィリアムは離婚問題を抱えたクライアントかと思って、部屋に招きいれた。
でもどうもおかしい。問題は夫との夜の生活がないことや、そのことに対する不安の問題にシフトしてくる。
どうやら同じ階の精神科医、モニエ先生のところと間違えたらしい……しかしそれを訂正する間もなく、彼女は次回の予約の日時を勝手に指定し、行ってしまった。
不自然といえば、不自然なんだよね。医者らしいことをひとことも言わず、目を丸くして聞いている彼に何かを質そうとするわけでもなく、しかも予約の日時を勝手に指定してくるなんて。
しかもこの“診察”が二回目に突入しても、ウィリアムは本当のことが言えない。というか、彼が「僕は医者じゃない」と言ったのにアンナが「そうね。セラピストが全員医者とは限らないわね」といった調子で、まるで頓着せず、彼が訂正する間もなく帰ってしまうのだもの。
もしかして、彼女は最初から判っていたんじゃないかと、ちょっと思ったりもする。
しかし三回目の“診察”に、アンナは来なかった。もともと間違えていたのだからとウィリアムは思うも、彼女が気になって仕方がない。
最初の予約を入れているはずのモニエ先生のところで、連絡先を聞き出そうと思った。守秘義務で教えてもらえなかったけど、ちょっとしたスキにこっそりメモをとって電話をかけてみる。すると、流れてきたのは天気予報である。
本当に、アンナの言うことは事実なのだろうか。夫との生活がないこと、その夫が他に男を作れと言うこと、その夫を彼女が殺しかけてしまったこと、更には……彼女の母親が父親を殺してしまったこと。
悩むウィリアムをモニエ先生は誘い出し、ちゃっかり診療代やランチをごちそうになって、アンナは最初からワザと間違えてキミのところに来たんじゃないのか、と指摘する。
でも、その後ちゃんと夫だと名乗る男が出てきたりしたしなあ……まさかそこまで彼女の演出だったとしたらコワすぎる!
そのモニエ先生のおせっかいな伏線が、観客のそういう想像をけん制するものなのか、はたまた示唆するものなのか?
そして三回目の“診察”。アンナはやってきた。もう税理士だということはバレていた。
「謎の人物に秘密を知られたなんて、レイプされたみたい!」と事実を告げなかったウィリアムに怒って出て行ってしまった彼女だけれど、四回目、また彼女は現われた。
精神科医じゃないのを判っていて、アンナはその後も予約を入れ続け、“診察”は続いた。
そしてその内容はどんどん赤裸々になり、エスカレートしていく。本当に全てが真実なのか、彼女の中の妄想が広がっているんじゃないかと思うほどに。
「税理士だと判ってからも、予約を入れ続ける」その時点で、二人の関係は個人的な親密になっていることが観客側からも判るんだけど、二人ともそれに気づかないフリでもするかのように、今までの形式を変えずに“診察”していることが、ひどくスリリングなのだ。
形式はセラピーでも、前提が違ってくると、どんなに形式が同じでも、そこに流れている感情は明らかに違う。
アンナは夫を愛していると言うけれども一方で、もう子供も作れないし……と女の哀しさを吐露する。このあたりが彼女の本音なんじゃないかって気もする。子供に慰めを持っていくことが出来たら、ラクになれるのに、と彼女は思っているのだ。
でももしそれが出来たら、その時点で夫への思いが冷めていくであろうことを、彼女は気づいているだろうか。
子供を産むのが難しい年齢になってしまった自分、夫は自分に欲情できなくて苦しんでる。お互いにそんな欠陥を持ち、歪んだ愛情を共有することによって結びついてる。歪んでいるから、絡まって、その愛情は容易にほぐれそうにない。
たとえアンナがこの“ニセ精神科医”ウィリアムを好きになってしまったとしても。
二人が惹かれあったのは、どの時点からだったんだろう。いや、最初からだったのかもしれない。少なくともウィリアムはアンナの赤裸々な話に、そしてそんな話をする無防備な彼女に釘づけだった。
“診察”という名目と“診察室”という密室が、全ての障害を取っ払う。たとえそのドアの外に、オールド・ミスの秘書が聞き耳を立てていても。
そう!この秘書がね、いつでもいるのよ、ドアの外に。そりゃー、ヘンな間違いは犯せないわよ。
アンタ、ちょっとは気をきかせて早めに帰るとかしろよと思うんだけど、でもだからこそいいのかもしれないとも思うんだよなあ。
この秘書の存在が、二人のプラトニックを完璧に仕立て上げる。話している内容はプラトニックどころじゃないんだけど。
しかも、アンナの服装もどんどん大胆になってくる。決して胸は大きくないけど、あんなロコツに胸元を開けられるとそりゃドキリとするわさ。
狭い部屋の中でバレエを踊ったりもする。高々と足をあげる彼女にただ見惚れるウィリアム。雨に濡れそぼってきたりするのも、やけに扇情的である。
そして、部屋の電気を暗くしてほしいなんても言うんである。まるで、××××ん時の台詞である。
その薄暗い“診察室”で、ソファベッドに細い肢体を無防備に投げ出し、たばこをくゆらして彼女は話し続ける。ウィリアムはただただ、彼女の話をじっと聞くばかりである。
こんなイケイケの状態でなぜ行かん、ウィリアム!とか思うんだけど、そりゃ出来ない。こんな状態でも、外には秘書がいるんだもの。
来客を告げるためウッカリドアを開けた秘書は、その暗さに驚く。そりゃそうだ……男と女が二人、こんな薄暗い密室にいたら、やることはひとつだ?(いや、そうでしょ)。
この秘書、お茶くみをさせられることにもおかんむりである。来客にお茶ぐらい普段出すだろうに、「ここはカフェじゃないのよ」とこっそり文句を言ったりする。
アンナの目的が税の相談じゃないことを知ってて、そして本当の目的がウィリアムであることも察知してのことだろう。なんたってこのオバサン、若い頃には“強烈”で、ウィリアムのお父さんとイイ仲だったらしいんだから……。
ウィリアムはね、一方で別れた恋人との微妙な関係も継続しているんだよね。その元カノのジャンヌは、今スポーツマンと付き合ってる。ウィリアムにこれ見よがしに紹介したりする。ジャンヌは、ウィリアムの頭デッカチで理屈っぽいところがヤだったらしい。
このジャンヌとの関係が、フィジカルとメンタルの対照をよりくっきりと浮かび上がらせる。アンナと喋っている時に、既に感じてはいたことなんだけどね。
アンナは夫とのセックスについての関係、つまり、肉体的なコトを喋ってる。しかも話は夫を殺しかけたことや、母親の父殺しにまで到ってくる。
でも、その場面は一切明かされない。後にアンナの夫が現われて、この部屋の窓から見えるホテルに部屋をとり、アンナとの一夜を見せつけるなんていう場面まで出てくるけど(このあたりはホント、「裏窓」風だ)ウィリアムがどういう光景を見たのかも、示されない。
徹底的にウィリアムと、観客の頭の中で想像され、そしてそれはウィリアムのアンナへの思いという、精神的な部分へと向かっていく。
で、話を戻すけれど、この元カノのジャンヌ、ウィリアムと別れても彼と会い続け、時にはセックスしたりもするんだよね。「ほんの火遊びよ」と言うけれど、本当にヤだと思って別れてたら、会い続けたり“火遊び”をしたりするだろうか?
それに彼女、このスポーツマンとも結局別れるんだよね。「世の中に男は沢山いるけど、本当に合う男はそれほどいないのよ」とウィリアムにぽつりともらして。
それがウィリアムだったことにジャンヌは気づいたけれども、時は既に遅かった。
ジャンヌはリクツじゃなく、ただ肉体そのもので愛してほしいと思ってたんじゃないかって、思う。でもリクツ=精神があるからこそ、彼のことを愛していたんだと気づいたのかもしれないのだ。
そして今、ウィリアムはその精神と肉体のはざまで、波に浮かぶ小船のように揺れ続けている。
ウィリアムは、冒険家になりたかったとアンナに語る。それは明らかに肉体的なものへの憧れだ。自分にそれがないのを、向いてないのを知っていたから、だからこそ憧れる。
アンナが最初に、ウィリアムに語っていた言葉を思い出す。「夫は私に触れようとさえしない。キスや抱擁、身体の重みがないのが寂しい……判ります?」
肉体の接触が、ただ肉体の欲望を静めるために行うのではなく、精神的なものをはらんでいることを彼女は示唆する。セックスがセックスそのものではなく、愛情に結びつきやすい女の、これは女性的な感覚なのかもしれないけれど。
アンナの夫は、勃たないことに劣等感を持ってた。事故以来、どうしてもダメになってしまった。妻に対しての気後れや屈辱が、歪んだ形での愛情に発露し、彼女が他に男を作ったり、目の前でヤッたりすれば、自分の欲望が復活するかもしれないと思い始めた。
でも、彼女の言うささやかな身体の触れ合いの重要性に気づいていれば、そんなことなんの問題もなかったのに。男はとにかく勃つことばかりを気にするんだもの。
ウィリアムは、ジャンヌが指摘したように、とにかく理屈の中で生きてきた人なんだよね。
彼はこの税理士事務所で育った。父親の後を引き継いだのだ。狭い廊下にドアだけがひしめく。確かに間違えそうではある。
この閉塞感が非常に非現実的なんだよね。まるで箱庭のよう。子供の頃の彼は、きっとロクに外に出なかったんだろうと想像される。事務所の中でコレクションしたおもちゃがひしめいているのが、そんな想像をさせる。
その反動で、冒険家になりたいとか思ったんじゃないかとも思う。でも多分、この箱庭が居心地良かった。この中で考えることにそうそう逸脱はない。人間関係も狭い。だから彼はそこから抜け出せずにいたのだ、多分。
そして、アンナが現われた。「よく左右を間違える」ような頼りなさげな彼女に惹かれた。子供の頃から知っているこの場所で、ウィリアムは左右を間違えるなんて絶対にしない。でも恋では、左右を間違えるなんて、そんなことしょっちゅうだ。それを、アンナは体現していた。
アンナは言う。「夫は他の男とヤれというの」
ウィリアムはどぎまぎしながら言う。「でも、その相手に本気で恋に落ちたら?」もちろん、自分のことを想定している。だってこの夫はセラピーに通っているその医者と妻がデキていると思っているとか、彼女が平然と語るんだもん。
それを判っていながらアンナはかわす。「まず相手を見つけないと」もおー!絶対、判ってるくせに!
時には日曜日に電話がかかってきたりした。「日曜なんだからまさかネクタイはしてないわよね」
してるんだってば……ウィリアム。彼はずっとコレできたんだもの。でもそう彼女に言われると、タイを外すんだよね。タイをしていないウィリアムを秘書がしげしげと見つめる。そんな姿は見たことがなかったんだろう。
そして、次にタイを外すのは、彼女と再会する時である。どのくらい時がたっているんだろう。
アンナは夫と別れ、新天地を目指すことをウィリアムに告げた。
あのたっぷりの間は、絶対にウィリアムに引き止めてほしかったに違いないのに、やっぱりウィリアムは何も言うことが出来なかった。
ジャンヌに再三、自分の気持ちを指摘されていたのに、思いに背を向けることが誠実だとでもいうように、何も言わずに来た。
恋人と別れたジャンヌが部屋に来ていた時である。電話が鳴った。留守電になった。
アンナだった。今空港にいるんだという。ウィリアムへの感謝の言葉をのべた……またたっぷりの間をとって。
ジャンヌは席を外す。彼女は同じ女だから、アンナの気持ちが判ったんだ。彼女がこの電話に出てほしいって思ってること。
そしてこの時ジャンヌは、自分がまだウィリアムのこと愛していることにも気づいた。でもウィリアムがアンナを愛していることも再確認してしまったから、いさぎよく席を外したのに、まあったくもう、ウィリアムのバカはやっぱり電話に出ないの!
これでもう終わりかと思いきや、ウィリアムはアンナの行方を探し出してしまうんである。アンナが「行くとしたら南」と言っていたことだけを頼りに。このあたりはルコント監督らしいファンタジー。
バレエ教室の先生をしているアンナ。そこにメッセージが入る。アンナがそのメモを見つめて驚いた顔をする。
そして、とあるビルに入っていく。あの事務所とソックリの間取り。そこに、タイをつけずにラフなスーツ姿のウィリアムがいるのだ。
彼女を探し当てた名目は、部屋に落としていったライターを返すこと。ここに新しい事務所を構えたのに、彼女への愛の言葉はまだ、ない。キスも、抱擁さえもない。
また前のように話が聞きたい。そう言うとアンナは微笑んで、以前と同じようにソファベッドに横たわる。タバコをくゆらす。カメラのアングルが切り替わり、その部屋を真上から覗き見る格好になる。
アンナは、いつも直角にモノを配置するキッチリ屋のウィリアムを、軽く揶揄したことがあった。こうして天井目線で見ると、本当にカクカクにキッチリしてる。
でもそのキチンの中の、直角に置かれたソファベッドに彼女が横たわると、キチンとしているだけに、その意味合いがぐらりと変化する。
ウィリアムが灰皿を取って、彼女の横たわるベッドに腰掛ける。少なくとも距離だけは以前よりぐっと縮まった。だってウィリアムはそれまで、自分のデスクの椅子から動くことはなかったんだもの。
大人の恋とウィットと駆け引き、そして神秘において、カンペキに答えを出した映画。★★★☆☆