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「す」


2010年鑑賞作品

スイートリトルライズ
2009年 117分 日本 カラー
監督:矢崎仁司 脚本:狗飼恭子
撮影:石井勲 音楽:妹尾武
出演:中谷美紀 大森南朋 池脇千鶴 小林十市 大島優子 黒川芽以 安藤サクラ 風見章子


2010/3/23/火 劇場(渋谷シネマライズ)
なんか凄く、矢崎作品だなあと思った。原作は江國香織というビッグネームではあるけれど、それを知ってビックリしたぐらい、彼らしさが光っていた。
劇中、瑠璃子の夫の聡が彼女を形容して言う台詞がある。「あの人は現実味がないから」それは原作にもある台詞なのかもしれないけれど、そしてこんなことを言うと語弊があるのだろうけれど、ひどく矢崎監督的だと感じた。
そして恐らくそれが、ある意味表面的な表現であり、その裏に隠されたひそやかな感情が生々しく息づいていることも。

この四人のキャストを見た時からこれはキた!と思った。千鶴嬢は前作「ストロベリーショートケイクス」からの続投だから、さぞかし監督の覚えがめでたかったんだろうと思う。そりゃそうだ、そりゃそうだ♪
しかし彼女、なんか太った?……訳でもないのかな。首から下を見れば別に太ってない。でもなんだかほっぺただけがぱっつんぱっつんになってて、あれ?ちーちゃんだよね?と何度も見直してしまった……。
うーん、うーん……お年頃なんだろうか(いや、それなら逆か)。そりゃもともとふっくらとしたお顔立ちが可愛い女の子ではあるけれど、なんだかちょっと心配(爆)。
劇中、グルメが大好きな彼女、三浦に「そんな感じする」とややツッコミの聡に「それって太ってるってことですかぁ?」と冗談半分気味にやり返す場面があるけれど、それが本気半分のように聞こえる(爆)。ううむ、彼女の舌足らずな魅力たっぷりではあるのだが。

でも、そう……まさにこのやり取りに象徴されるのだろうと思う。聡が三浦に惹かれていったのは、かなり彼女の強引なアプローチがあったからではあるけれど、彼の「(妻は)現実味のない人だから」の台詞とは、確かに三浦は対照的なんだもの。
大学のダイビング同好会のOB会で再会した三浦は、まるでそこで出会うことをずっと待っていたかのように彼に積極的にアプローチした。強引で、よく笑い、よく食べ、ダイビングに誘うあたりも、普段こもってテディベア制作にいそしんでいる妻とはまるで違う。
夫婦の間は2年もの長き間セックスレスだったのに、聡はついに三浦と肌を重ねてしまう。そこで三浦がつぶやく「何か怖い。段々良くなる気がする」て台詞も、まるで瑠璃子とは違うんだもの。

セックスレスになってしまったのは、“段々良くなくなって”聡の方が妻から離れていったからなのか。いや勿論、彼だけの問題ではあるまい。そうだとしたって、それを受け入れてしまった彼女の方にも原因があったに違いない。
でも、ちまたで耳にするセックスレスの夫婦、というのはこんな感じに熟成?されていくものなんだろうか……?
いや、セックスレス、という定義を大前提にするとただ俗っぽく、生々しいだけなんだけれど。
実際はセックスがないということが問題なんじゃない。言ってしまえば会話が少ないことだって問題じゃないかもしれない。そんな関係でだって、お互いつながっていると満足している夫婦はいるに違いない。

二人がお互いの心に踏み込む部分で、あまりに希薄だということなのだ。そう、それは端的にこんなところに現われている。それは冒頭、聡に朝食を供する瑠璃子。「今日は卵焼きなんだ」「別なのが良かった?」「いや……」
ラスト近くになり、二人の心持ちが大分違ってくる時になって、瑠璃子が彼にポーチドエッグを供すると「これが食べたかったんだ」と聡は喜ぶ。瑠璃子は「良かった。私たち、心がつながっているのね」と微笑むけれど……。
いや、まだまだ二人の心はつながってなどいない。だったらなぜ食べたいものを言ってくれなかったのか、などと瑠璃子が詰問することなど、ないんだもの。

そう、実際、なぜそう言わなかったのか……。きっとそうやって夫婦の会話というものは発展していくものだろうに、聡は奇妙なほど瑠璃子の問いかけに「ふーん」「そうなんだ」としか返さない。しかしその単純な返事も、殊更にそっけなくならないように努めているようにも思える。でもそれはやはり……あまりに希薄で、見ていてハラハラしてしまう。
そして聡は自分の時間は自室にこもり、鍵までかけ、大音量で音楽を鳴らしてテレビゲームをしている。瑠璃子が聡に連絡をつける時には、一緒の家にいるのに携帯電話を鳴らすのだ。
それを聡の妹から「おかしいよ」と指摘されても瑠璃子は「でも便利よ」と微笑む。瑠璃子がそのことを「おかしい」ことを判っているのか……いや、聡は多分、判ってないと思っているからヘイキなんだろうけれど、きっと充分に彼女は判っていたに、違いない。

そして、聡が三浦と出会った様に、瑠璃子も春夫に出会う。瑠璃子のテディベアの個展、最終日にギャラリーが閉じた後訪ねてきたのが彼だった。
そのシーンはまさに恋愛映画のロマンティックさが充分だった。まるでスローモーションを見ているような気さえした。ただでさえ中谷美紀の、それこそ現実離れした色白の肌が冴え渡る美貌が、そんな雰囲気を醸し出しているんだもの。
最初から彼は吸い寄せられるように彼女の瞳を見つめていた、と思うのは、単に彼のどアップがカメラ目線で捉えられているだけなんだけれど、それを受けるこちらもどアップの彼女の揺れる表情が、この瞬間に恋に落ちたことを語ってあまりあった。

無論、大人なんだからそのことをいきなり確認したりはしない。その後、偶然(てあたりはなんだか偶然過ぎるけれど)レンタルショップで再会した二人、その二回目の再会の帰り道、人気のない小道で彼は彼女にキスをする。
「ずっとこうしたかった」「ずっと……?」「個展で会った時からずっと」
その台詞を聞いて目を見張り、ひらりと自分から彼の唇を求める瑠璃子が鮮烈だけれど、そんな描写さえ唐突で、さらりとしていて、そしてさらりと離れ「帰らなきゃ」と言う。
この「帰らなきゃ」という台詞はその後、二人が彼の部屋で逢瀬を重ねるたびに彼女の口から発せられる言葉である。
最後には「この部屋は居心地が良すぎるから、帰らなきゃ帰れなくなる」とまで言う。でも、居心地が良すぎても、彼女がそこに安住することはないのだ。

一方の、聡である。最初こそはイケイケドンドンな三浦に戸惑い気味だったけれど、キスをしたのも彼の方からだし、セックスだってそう。
そもそもいくら戸惑い気味だからといって、彼女からの食事や旅行の誘いに結局は応じてしまうというのが、彼のホンネのところである気もする。
結局旅行は瑠璃子と二人旅行の態にして、ダイビングスポットで三浦と落ち合うという、そっちの方がよっぽどタチが悪いというモンである。
まあこの旅行先にヤキモチを焼いた春夫も追いかけてきて、二組のカップルはそれぞれに肌を重ねるんだけれども……。

観ている時にはふんわりとした矢崎節に揺られてあまり感じなかったけれど、こうして筋を取り出してみると、なんかずいぶんだよなあ、と思わなくもない。夫婦旅行にそれぞれの不倫相手が待機していて、それぞれがセックスしているなんて。
ていうか、観ている時も、殊に三浦のキャラにはちょっと疑問を抱えていたのは事実。演じているのがちーちゃんだから、なんかぐいぐい見せられちゃうけど、「ちょっとキモチワルイですよね」という彼女自身の台詞のとおり、いきなり男の会社に弁当持参で昼休み押しかけてくるなんて、ナイよなあ、と思う。これが手作り弁当だったらもっとイタイが……。

春夫の方は常に彼女の夫の存在を気にしているし、自分が恋人と別れたら瑠璃子さんどうする?などという駆け引きめいた言葉まで口にするけれど、三浦はある意味奥さんのことは“当然のように”口にするだけで気にしているそぶりさえ見せないし、この関係の延長線上にどうなるかということも気にしているそぶりは見せない。
それは……どうなのかな。春夫の方はこの時点で恋人がいるから、いわば客観的に自分を見られるのだろうか。でも三浦は……うーん、まあでも、判る気がしないでもない。こういう女の子、ていうか、女の心理っていうのはある気もする。
奥さんのことを気にしていないというのもある意味ホントかもしれないし、勿論気にしているのに隠しているというのもホント。
奥さんのことを気にするということは、彼との未来を考えるということで、「先輩と一緒にいたい」という一点のみで突き進んでいる彼女にとって、まだそれはそれこそ現実味がないというか、今考えるべきテーマではないんだろう。
でもそう考えると、真に現実味がないのは三浦の方、なんだよね。それってひどく皮肉……。

ちーちゃんは別におっぱいくらい辞さない女優さんだし、セックスシーンが一つの重要さを持っている映画なのに出さないのは、同じく恋人とセックスする中谷美紀が出さない前提、だからだろうなあ……。

この二人の“不倫相手”の存在は、聡と瑠璃子という夫婦の関係性をあぶり出すものに過ぎないという気もしている。
瑠璃子が制作途中のテディベアを、そのままに放り出している。このふんわりした可愛いベアを作る過程を丁寧に見せるのも非常に印象的なのだけれど、それは……特に彼女がベアの目を入れる時。ボタンの穴に太い針で糸を通して、頭の後ろに突きとおして縫い付ける。
それまでも淡々と制作過程を見せてはいるんだけれど、ふとヒヤリとしてしまう。そして首や胴体や手足がバラバラに縫製されないまま置かれたテディベア。聡はそれを見やりふと目をそらす。訪ねてきた聡の妹がそれに触ろうとすると瑠璃子は鋭く「触らないで!」と制する。

……あのね、こんな場面があったんだよね。瑠璃子が担当の登美子の話をしている。恋人からプロポーズされたんだけれど、以前男にウワキされたことがある彼女は結婚なんて考えられないんだと。
その話題に聡はいつものようにあたりさわりのない返答を返すんだけれど、瑠璃子が「私は聡がウワキしたら刺すわ」とさらりと言う。彼は思わずぎょっとしたように妻を振り返る。彼女はいつものようにさらりとした顔をしている。

聡はなんだかね、まるで奥さんに対して怯えているようにも見えて、それは瑠璃子も言うんだよね。ちょっと腕をとるだけでも、部屋で彼に寄り添っても「え、何」と身体を引き気味にする。
それは三浦との関係以前からそうで……ていうか、お互いに秘密の恋人を持つようになってからの方が、不思議に夫婦の距離が近づきつつある感じもした。それは本当にささやかな感じではあったのだけれど……。
一体、聡のあの怯えにも似た態度はなんだったのか。ずっとセックスレスだった二人、いつか奥さんからそれを切り出されることを恐れていたのか。なぜそれを恐れるのか。彼女に対して欲情がわかないことがさらされるのが怖かったのか。
いやそんな生々しい理由は、この雰囲気からは決して匂ってはこない。そんな具体的な理由じゃなくて、ただただ……離れるままに任せてしまった二人の心がそう簡単に寄り添うには、あまりに難しいということだけかもしれない。

瑠璃子の方は決定的な展開を迎える。そもそも春夫と出会ったのは、彼の恋人の美也子がどうしても欲しいとせがんだ非売品のベアを、瑠璃子に直接交渉に行ったからだった。
つまりそれだけ、春夫と美也子はラブラブだった筈だし、瑠璃子と春夫がこんな関係になってもなお、春夫は美也子との別れをしばらく考えていなかった、のは、それだけ恋人に対しての愛情も失われていなかったからだろうと思う。

ていうか、最後まで失われていなかった気がする……。途中春夫は「どういう旦那さんなのか見たい」という理由で四人での食事を提案するのだけれど、かいがいしく春夫に取り分けてやったりする美也子はとても幸せそうだった……。
この美也子を演じる安藤サクラがまた、良くてね。彼女のこれまで演じてきたキャラからすれば、ちょっと意外なほどのいじらしい女の子。
最終的に春夫にフラれ、急に驚いて駆けつけた瑠璃子に踏み切りのところでテディベアのナナちゃんを突き返す。
「自分だけが孤独だと思わないで」と低くつぶやく。正直この台詞は、ていうか全編、恐らく江國節とでもいうんであろう台詞こそがかなり非現実的な感じもするんだけれど、この時の安藤サクラ、ダークグレイのテディベアの手をつないでぶら下げ、キャリーケースをころがしている彼女は、なんかホントに負の迫力があった。

瑠璃子は春夫に愛している、と言うけれども、それでも愛している、と言うけれども……でも、夫の元に帰ってゆく。
夫の方はというと、……彼もさ、それこそ奥さんとの旅行先で三浦とセックスしたり、三浦とデートした高級レストランへ結婚記念日に瑠璃子を連れて行き、三浦から受け売りのウンチクをそのまま披露したり、改めて考えてみれば随分と厚顔無恥なところがあるのよね。
それでも……そう、それでも、直前また三浦と激しいセックスをしても、その時彼は、まるで決死の覚悟のように三浦を抱いた。
彼女が「もっとくっついて。全部くっついて」と幸せそうに喘ぐのとウラハラに、その“くっつき”ようはなんだかそれだけ……彼の中での変化を感じさせた。
帰り際、また、と手を振る三浦に、彼はまた、とは返さなかった。ただ無言で頷き返した。

聡が表階段の螺旋をゆっくりと登っていく。するとそこに瑠璃子がいる。
「どうしたの」「ただここにいただけ」おかえりなさい、と瑠璃子は一度は言うけれども、彼の腕の中に“入って”「ただいま」と言う。
「帰ってきたのは僕だよ」そう戸惑う聡は、どこかへ行っていたのかと問う。「そう、どこかへ言っていたの」彼女は彼の顔を見上げる。
「聡は?」まるで何もかもを見通しているような目だった。
「……もうすぐ帰ってくるよ」そう、彼は言った。彼の予感はきっとこれだったのだ。

ラストシーンは、瑠璃子と聡が登美子の結婚式に向かう場面。瑠璃子は彼女が欲しいと言っていた、白いペアのテディベアを箱に詰めている。
……あのね、二人の部屋には所狭しとテディベアが置かれているんだけれど、その中に二体のベアの手がネクタイでつながれているものがあったんだよね。
それはロマンティックで素敵にも見えたんだけれど、瑠璃子と聡があのダイビング旅行に行った時、二人が旅館のベランダから見下ろした海岸に、足を結びつけた心中死体が上がっていたのだ。
あの時無言で見下ろしていた二人は、それぞれ何を思っていたのか。瑠璃子は「恋がない」家の中にこの上ない寂しさを感じていたのだし、もしかしたら、ひょっとしたら、ちょっとした憧れを持ってそれを見下ろしていたかもしれない。
そして聡は……「ウワキしたら、刺すわ」のあの言葉に怯えていた彼は……。

でも彼もまた「もうすぐ帰る」と瑠璃子に言ったんだもの。瑠璃子は春夫に「嘘をつくのは、その相手を守りたいから」だと言った。ウソのない春夫との関係は確かに激しい恋で、とても素敵なものだったのだろうけれど、瑠璃子は守りたい相手を選んだ。
春夫に「……ひどいな」と唇をゆがめられても。そしてその春夫に「それでもあなたを愛しているわ」とさえ言っても。

近所のおばあさんちの犬とのシーンが印象的だった。瑠璃子が通りかかるたびに牛乳などをあげて頭をなでる。おばあさんはヘンクツっぽくて、彼女を見かけてもピシャリと窓を閉めてしまう。
ある日、いつものように瑠璃子が犬の頭をなでると……動かなかった。死んでいたのだ。おばあさんは彼女を見かけ、「ちょっと」と初めて声をかけた。
そしてシーンが替わると聡がこのおばあさんの家の庭を掘っている。動かなくなった犬を抱いてかたわらに佇んでいる瑠璃子。犬を横たえると、一緒に瑠璃子もまたその穴の下に寄り添うように横たわった。

その後、おばあさんの家を訪ねる瑠璃子。悲しむことなんてない、とおばあさんは言った。
そして庭に生えているトリカブトでかつて夫を殺したなどと、本気とも冗談ともつかない話をした。
二つ並んだ骨壷の片方は砂糖入れで、コーヒーにひとさじ、砂糖を入れた。
「なぜ殺したんですか?」「寂しかったからかな」「今は寂しくないの?」「寂しいよ。一人だって二人だって、寂しいもんなんだよ」

ある意味、瑠璃子は聡を殺しそこねた、のかもしれない。
劇中、聡の実家から送られてきたジャガイモの芽が出て、その芽を大量に育てて食べさせれば、毒を持つソラニンで殺せるんじゃないか、などという話が出てくる。
それを義姉から聞かされた聡の妹は、お腹壊す程度だよ、と笑い飛ばすのだけれど、それに対して瑠璃子は「そうなんだ……」とガッカリしたような顔をするんだよね。寂しさから人を殺す、伴侶を殺す女のヘンリンを見てしまった気がした。
でも、そう、このおばあさんの言葉が、瑠璃子をある意味納得させたのかもしれないと思う。
一人でも二人でも、寂しいもんなんだと。

見え方は凄く凄く静謐だし、二人の住む部屋はとても可愛くてオシャレで、一見、オシャレ映画のように見えなくもない、んだけれど、全てがドアで完璧に閉じられているその家は、実はとても孤独で……ただそのドアが開け放たれた時、この上なく風通しが良くなるのだ。
共通の記憶をもつよりも、その記憶を思い出すことが大事。
瑠璃子が言ったこの台詞が、夫婦であることの一つの価値感を表わしていたのかもしれない。
そして不思議と……恋をすることの、素敵ささえも。 ★★★☆☆


スープ・オペラ
2010年 119分 日本 カラー
監督:瀧本智行 脚本:青木研次
撮影:柴主高秀 音楽:稲本響
出演:坂井真紀 西島隆弘 加賀まりこ 平泉成 萩原聖人 鈴木砂羽 田山涼成 余貴美子 塩見三省 草村礼子 嶋田久作 菅原大吉 品川徹 田村三郎 森下能幸  入江若葉 藤竜也 北村海歩 コミアーナ鈴木

2010/10/13/水 劇場(シネスイッチ銀座)
スープ・オペラって、やっぱり、アメリカのソープ・オペラをもじっているんだろうなあ。専業主婦が昼間ヒマしながら見るメロドラマ。
別にヒロインのルイは仕事もしているし、ヒマしている訳ではないんだけれど、昼メロのような恋にさえ免疫がないという感じはしてる。
父親はいなくて、母親は彼女を産んで早くに亡くなり、母親の妹である叔母のトバちゃんと30半ばまでずーっと二人暮し。
穏やかで問題のない日々に幸せを感じてる。ずーっとこの生活が続くんだと、思ってた。

と、いう設定自体に、多分に少女マンガチックなものを感じるのはどうしてかしらん。決して、少女な年代じゃないのに(爆)。
ああ、そうか、この彼女を少女の年代にしてしまえば、まんま少女マンガとして成立してしまうからなのだ。
本に囲まれた夢見がちな少女。恋愛なんて未来の果ての、憧れとさえ言えないほどに淡いもの。
親友のような叔母さんと森のおうちで暮らしてる。ことこと煮込んだ透明なスープさえあれば、日々幸せ、なんて。

そんなことがにわかに信じられてしまう程に、ルイって、一体過去に恋愛したことがホントにないんじゃないかという雰囲気をかもし出しているんだよね。
いや、演じる坂井真紀は百戦錬磨だけれど、でも彼女自身、不思議に年をとらないからなあ。見ようによっちゃあ、童女のように見えてしまう。
その、恋愛に不器用、というより、恋愛に無縁な彼女と仲がいいのが、もう既婚者ながらもそれまでにバリバリ恋愛をしてきたような感じのする鈴木砂羽だというのも、もうベッタベタに対照的で。

彼女たちが一緒に昼ごはんをとるシーン、恐らくまとめて撮られたんだと思うんだけどさ(爆)、小さな竹製のお弁当箱を二段に重ねて、ちっちゃく口に運んでいる坂井真紀と、カツカレーかな?あれは、をガツガツほおばりながら親友を叱咤激励する鈴木砂羽ってのが、印象的でね。
でもこの場面、鈴木砂羽がスプーンに乗っけた量は、威勢の良さと対照的にとても控えめなのも妙に気になるんだけど(爆)。
まあ、仕方ないかあ、口に頬張っちゃっちゃ、台詞も言えないもんね。この場面、かなりの会話の応酬だし。

ていうかさ、こういう設定、というか、こういう手触りの映画、なんか最近やたら見るような気がするんだよなあ……。
料理をやたらフューチャーするのは、確かに最近のハヤリかもしれない。それに対して孤独な妙齢の女性を組み合わせる、というのも、「食堂かたつむり」あたりでものすごーく見た覚えがある。
んでもって、そのヒロインが一緒に暮らしている女のベテラン(決してオバサンとは言えない(爆))が、恋に目覚めて彼女の元を離れていくのもやけに符合する。
恐らく、このお母さんなり叔母さんなりが、ヒロインの元を恋を理由に離れていくのは、でも結局、ヒロインが一人立ちするためであろう、ってあたりも、似てるんだよね。
本作では、鈴木砂羽演じる親友の奈々子がハッキリそう口にしているし。

加賀まりこ演じる叔母のトバちゃんが突然、結婚宣言して家を出て行き、ひとりぼっちになったルイの元に、トニーさんという初老の男性と奈々子の勤める編集部のアルバイト、康介が同居するようになって、話は転がり出す。
正直、この展開自体、どこを切り取ってもかなりファンタジーで、冷静に考えてみると、ふと赤面してしまいそうにもなるのだけれど……(爆)。

そもそもこの叔母のトバちゃんが結婚する!といってルイに紹介したのが、ふた回りは年下だろうと思われる萩原聖人演じる水谷医師であり、ルイの「あなたが還暦を迎える頃、トバちゃんはたっぷり80代なんですよ!」という台詞を待たずとも、この展開を起点にされるのはキツいな……と思うんである。
いや、ね。そりゃ、夢よ。女にとっては。男はいくらだって若い女を嫁御に出来ることに歯噛みしながら、女は頑張って生きてきたんだから。
でもね、これってやっぱり……リアルじゃないよ。夢だけど。汗をかきかきトバちゃんとラブラブしてる萩原聖人、カワイイけど、でも、リアルじゃないよ。

そう自嘲気味に思うのは、これまたつい最近、そうした設定のカップルを見てしまったからかもしれない。
「オカンの嫁入り」 あの時は、それをまず受け入れるところからでしか、物語が展開しなかったし、相手の男の子が天涯孤独だというシバりで何とか受け入れられたけどさ。
水谷医師のそうした家族背景は全く描かれないし、ただただ笑顔で、ただただ汗をかくばかりで、ただただラブラブなばかりだから、ああ、これはファンタジーという出発点で、展開もそうなのかな、と、思っちゃったかもしれない。

実際、ルイが同居生活をすることになる男性二人も、大きく年上と、大きく年下で、しかも大きく年上の方は実は父親かもしれないし、大きく年下の方は過去の恋人からセックスレスが原因でフラれているというご丁寧な設定つきで、つまり彼女にとって二人とも、ちっともオオカミじゃないんだよね。
そういやー、三人の同居生活を聞いた奈々子が「3P!?エロいねー」などと誤解極まりないことを言うんだけれど、まあ、奈々子の思い込みの方が、まだ世間的には自然と思えるんである。

なんかね、つまり、この二人の男性の造形って、メンドくさいことがイヤな30代シングル女にとって、ものすごーく、都合がいいんだもの。
一人でいるのは寂しいし、自分をそれなりに好きになってくれる男性の空気も欲しい。でも、ガッツリ恋愛とか、セックスとか、結婚とかいうことになると、ちょっと待ってと言いたくなる。
しかもそれを、仕事に生きるキャリアウーマンとかじゃなくて、というあたりはリアルである。つまり……判っちゃうんだよね、ルイの求める、毒にも薬にもならない男の理想形がさ。

ルイは劇中、康介と親密になり、彼に、調査旅行に一緒に行こうと誘われる。仕事なんて、休暇とればいいじゃん、と。
確かにルイの図書館での仕事は、編集長になるという夢のある康介から見れば、給料も安いし、誰でも替わりがきく、ちょっと休んでも誰も困らないぐらいに思うんだろう。そして多分それは……ルイにとっても図星なんである。
だからこそ、ルイは怒る。図星だから。傷ついたから。
ホントは彼女にとって、仕事はそんなにも、しがみつくものじゃないんじゃないかなあ、と思う。薄給なあたり、自分と似てるから、なんか、判る気がする(爆)。
休めないとか言いながら、本当は休んでも誰も困らないんじゃないかと思うところも、でも休んだら、それだけで仕事を失ってしまうんじゃないかという恐怖も、判るからさ……って、それは私だけだろうか(爆)。

これをね、それこそもう社会的にもガッツリ地位を固めた男が、お前なんかが休んだって誰も困らないだろ、女の仕事なんてそんなもんだよ、オレについてくればいいんだよ、という感じになると、もうダメな訳。
ダメっていうか……世間一般的には、そのケースの方が多いから、女は仕事を辞めざるを得ないし、あるいは逆に、男との関係を続けられなくなるのだ。てか、それって先進国では恐らく日本だけだよなー。
本作では、康介との関係はまだ決着がついていない。突っ走って彼女の気持ちを傷つけたことを知った康介は、頭を冷やしてきます、と一時ルイのもとを離れる、という状態のまま、ルイが一人になったまま、物語は終わっているから。
甘いなー、と思いつつも、確かにそれが、女が求める、男に判って欲しい形、なんだけどさ……。

ていうか、そうそう、メインはトニーさんである。藤竜也演じるトニーさんは、トバちゃんが去って一人になってしまったルイの元に「猫を追ってきたら、入ってきてしまいました。とてもいい庭だったから、スケッチしていました」とひょうひょうと言うんである。
一度は驚いて、彼を追い払うルイだけれど、その後、お礼という名目でお手製のお弁当を携えて現われたトニーさんに、陥落してしまう。
このお弁当も美味しそうだけど、ルイも御用達の、近所のお肉屋さんのハムカツがやたら美味しそうで、もう、映画の帰り、早速買ってしまったよ!(……ハズレだったけど……(爆))。

正直、実はこのトニーさんが、トバちゃんによって“もしかしたら父親かも……”と手紙をもらってやって来たという事実を知った時、ちょっとガッカリしたんだよね。ああ、やっぱり、そういう整合性があったんだ、って。
いや、さ。今まで散々、こんな女に都合がいい、ファンタジックな設定ってないよ、とか言っていた癖に、実際ナゾが解かれるとガッカリするって、つまりそのファンタジックを信じたかったんじゃないのよ(恥)。
うーん……確かに信じたかった。「猫を追ってきたら、入ってきてしまった」という彼の言葉を、信じたかった、のだ。

そうそう、この、半ノラ状態の猫が、全編登場するのよね。最初、ルイとトバちゃんの飼い猫かと思ったんだよなあ。茶トラの、のっしりと存在感のある猫。
冒頭、まだ何にも起きていない時、「何の問題もない、穏やかな日」とつぶやいて、休日を楽しんでいるルイの足元の靴脱ぎ石の上に、気持ち良さそうに日向ぼっこをしている猫。
そう、こんなにくつろいでいるから、飼い猫だと思ったんだよね。そして、即座に思ったのだ。猫と暮らし始めたら、もう女はお一人様大決定だって。

だって、猫のツンデレはパートナーとして最高なんだもん。猫に全てを捧げちゃうんだもん。主従関係がハッキリしている犬とはそこが違うと思われる。それは私がそうだから、余計にリアルに実感するのかも?いやいやいや……。
でも、そう……そこが不思議と犬とは違うところのような(爆)。でも、クレジット上もこの猫はノラであり、この庭でくつろぐのが日常だとしても、せいぜい半ノラ程度なのかなと思われる。
そこんところも、ルイの、男を迎え入れるのは躊躇するけど、でも一人は寂しい30代女、てな、微妙なさじ加減をひどく象徴している気がしてさあ。

で、多少脱線したけど、藤竜也である。彼は、反則だよねー。いい感じに年を食ったことで警戒感を抱かせない一方、だけど履き慣れたジーンズと、ハデなアロハの下の真っ白いランニングシャツがまぶしく感じるほどにはセクシーさを充分たたえていて、だけど無防備な可愛さがやっぱりあって、みたいなさ。
あれだけ危険な色男だった彼が、ある年齢からおじさまの可愛らしさを出して来たのが、自然だったのか、意図的だったのか??(意図的ってことはあるまいが……)もうたまらなくキュンキュンきちゃうのよねー!

この役柄はまさにそれがドンピシャである。実は彼は、ルイが自分の娘であるという確証などないし、つまり確証がないだけ、恋多き男、だった訳である。
実際に劇中、色っぽい奥さん(余さん、魔性の女の外見なのに、メチャ可愛いのが凄い!)に居所を突き止められて、ハムカツを口にくわえながら隠れる場面なぞもあり、しかもこの奥さんはたった7年前に結婚した相手だというんだから、プレイボーイっぷりが判るってなもんである。
しかもルイのような存在は彼女だけでなく、「どうやら、俺は子供が出来やすいらしい」……オイオイ。

トバちゃんが、一時里帰りをしたことで、トニーさんは、自分が用なしだとカン違いして、黙って家を出てしまうんである。
そこからが、ルイと康介の展開になる。康介を演じる西島隆弘君は凄く良くて、「愛のむきだし」で突然抜擢された時には何、何?と思ったけれど、彼の人好きのする特異な個性は、非常に得がたいんだよなあ。
実際、彼はそれなりにカワイイけど、でも別にイケメンとかではないと思う。その、一瞬ツクリモノかよと思うぐらいの笑顔が、地顔と思うぐらい板についているからこそ癒されるし、だからこそ、彼が不況から編集部のアルバイトをクビになって傷ついた時にもその顔を崩せなくて、笑顔のまま涙を流すのが、その涙がスープにぽちゃんとこぼれ落ちるのが、何とも母性本能をくすぐるのだよなー!

そう、彼が笑顔だけを武器に、という感じでルイの家に「ボク、こういう古い家に住むのが夢だったんですよー」という台詞ひとことで転がり込んでくるのが、トニーさんの「じゃあ、住んでみるか!」の後押しがあったにしても、やっぱこの笑顔に、この子はイイ子かも……と思わせてしまう錯覚があったんだよなー。
いや、実際イイ子ではあるんだけれど、でも彼も、この男尊女卑の日本に生きてきた男子だからさ……。
トニーさんが出て行って、ルイと二人っきりになって、トニーさんの口利きで肉屋のアルバイトを順調にこなしていた康介は、アルバイト代でルイに夕ご飯をおごる。
店を出ると、雨が降っている。いい感じでお酒が入ったルイは、構わず外へと走り出す……。

正直、この後の展開は、予想されたのだ。康介はルイにたまらず告白し、「言っちゃいけなかった」と後悔する彼に「どうして?好きって言われて、悪い気がする人はいないよ」とルイは大人の反応を示す。
だけど、一緒に家に帰って、ずぶぬれで、一度はおやすみ、とそれぞれの部屋に帰っても、一瞬後、二人して同時にドアを開けてさ……まあ、そうなっちゃうのは、目に見えてるよなあ。

だってやっぱり、酒が入ると、どうしてもそういう垣根は低くなっちゃう(爆)。
でもね……一夜明けて、寝返りを打ったルイが目の前にいる康介にうろたえた表情を見せるのと、一方の彼の方は、それまでのニコニコとはまた違った、本当に満ち足りたニコニコで彼女を迎えるのが対照的なんだよね……。
彼はね、今までは出来なかったけど、出来た。それはルイだからだ、と言うけれども……そんな単純なことじゃない、そんなロマンティックなことを信じられるほど乙女じゃない、んだよね、ルイは……。
あ、そう考えると、ルイはそれなりに恋愛経験は踏んでるのかなあ。そうだよな、そうじゃなかったら、この時単純に喜びそうなもんだもん。
男の勃起なんて心理的タイミングに過ぎないんだということ、この時のルイの表情では、充分判ってるように思えたもんなあ……。

そんな、ルイにとっては都合のいい、サラリとした男たちと対照的に出てきたのは、奈々子の担当する売れっ子恋愛作家、井上豪なんだけど、これまたヤリすぎなぐらい、対照的っつーか……。トバちゃんが読んで涙していた本の著作者、という入りで出てくるんである。
実際の平泉さんは、決してこんな、ギラギラの性欲男ではないと思うんだけど、てゆーか、こーゆー役柄の平泉さん自体初めて見るのでかなりうろたえたんだけど、奇妙に髪がツノ状におっ立ってる様もキショくて(爆)、もー、どーしよーって感じなんである。

気に入った女の子の顔を見ていないと執筆出来ないという、もはやビョーキ的な女好き。奈々子に拝み倒されて顔を出した食事会で、このセンセーにルイはひどく気に入られる。
奥さんに逃げられたもんだからもう頼みはルイしかいない!と、締め切り間際でせっぱつまった奈々子がゴーインにセンセーを連れてきちゃう。
その時、康介が出て行った後で、入れ替わりのようにトニーさんが戻ってきてくれている……羨ましすぎるシフトである。
無事原稿を書き終えたセンセーは、君にそばにいてほしい!と迫る。トニーさんは「俺の娘をお前なんかにやれるか!」と激昂するんである……。

ルイの暮らす古い家の近くにね、閉じたっきりの、さびついた遊園地があって、節目節目に、そのメリーゴーラウンドの前で、バンドネオンのソロから始まり、最終的には、バイオリンやオーボエも加わった演奏がしのびやかに繰り広げられる。
さびついた遊園地、というモノ自体が、夢見る期間が長すぎてしまった、取り残されたオトメを思わせて、何とも……気恥ずかしいような、取り残されたような、哀しいような、本当に、何とも言えない気持ちにさせるんだけど……。

その遊園地のメリーゴーラウンドに向かって、ルイは通りがかりにいつも、回れ!と叫ぶ。それは、本当に最初の頃から。穏やかで何もない時間が幸せだと思っていると、観客に思わせていた時から。さびついた自分のオトメの時間を、回れ!と……。
正直後半、彼女の周囲の人物が全員集合して、メリーゴーラウンドが回り始め、皆で手をつないで踊る段に至っては、やっぱちょっと、これは痛いかなあと(爆)。

不思議の国のアリスは、少女でなければいけないんだなあ、などと、思った。アリスは少女だから、夢の国を経ても、それは大人への階段ということに出来るから。
ルイが康介に躊躇したのは、やっぱり彼が、ある種、アリスだったからでしょ。ひとまわりは違うんだもの。でも、ふた周りは違うトバちゃんは、恋に飛び込むことが出来たのに。女は最初の恋と最後の恋にしか、打算もなしに飛び込めないのかなあ……。

仕事のミスをルイのせいにしたり、そもそもこの仕事に人生の疑問を持っているらしい図書館の館長を演じる塩見さんや、オネエ系のやたら当たる占い師さんとかワキも面白かったけど……。
なぁんとなく、ね。こういうパッケージって、あまりにも最近多いせいもあるから、素直に受け止められないって感じかなあ。
うーん、でも、阿川佐和子氏原作の映画化は初めてだって言うし、原作はまた、違ったテイストなのかなあ。しかも、タイトルにもなってるスープには、それほど比重はなかったような……(汗)。

そりゃあ、ラストも、一人になったルイがスープを食べるシーンだけど。それは、結局は一人になってしまっても、スープがあれば大丈夫、という最初の前提に行き着いたということ?
ただただ寂しいようにしか見えないのは、本意じゃない気がするが……そんなに、女一人って、見てられないほど寂しいの??シングルベテランの阿川さんがそう結論付けてるとも思えないけど。

洋裁屋の設定は素敵なのに……叔母さんが何かしているシーンも全然なかったのも、もったいなかった気がする。★★★☆☆


scope
2010年 84分 日本 カラー
監督:卜部敦史 脚本:卜部敦史 堀井威久麿
撮影:堀井威久麿 音楽:Yuko Sonoda
出演:金倉浩裕 今村祈履 森崎元太 染井ひでき 英昭彦 安東恭助 藤岡範子 桜井淳美 小栗銀太郎 河崎卓也

2010/5/23/日 UPLINK FACTORY(モーニング)
あまたある、一本の長編映画を撮りたい、という第一回作品に接するたび、この人の第二作を観ることがあるだろうか、と考える。
もちろんあらゆる作品があるんだけれど、この一本だけで終わるかもしれないという気迫からか、重いテーマを選んでくる作家さんが少なくない。もちろんそこに気迫以上の作り手の才覚を感じることもあるのだろうけれど、果たして感じたからといって、その後につながるとも限らないのが現実の厳しさであるのは言うまでもなく。

本作は、そういう意味では、とても難しい立ち位置にいるように思えた。ハイリスクなテーマ選びはしかし、大きな破綻がなければそれだけで高い評価を得られやすいようにも感じた。そして、だからこそそれが危険なんじゃないかということも……。
本作は、なんだか結構評判が高そうだし、確かにそれに値しうる冷静かつ繊細な画作りや演出の力も感じる。
でも……このハイリスクなテーマ、それを選んだだけでよくやったと賞賛されそうなテーマを果たして、納得させるだけ斬り込んだだろうかという気もしてしまう。

確かに主人公の孤独は、監督自身が、当時の追いつめられた自分が投影されているのかもしれないと語るほどに張り詰めている。こと、彼のやったことを脇に置いてみれば、自分がこんな境遇に身を落とされたら、こんな深い絶望と孤独で死んでしまいたいと思うかもしれないと思う。
そう、脇に置いてみれば、彼のたたずまいもやりきれなさも、非常にスクリーンから湧き出してくるのだけれど、でも、脇に置く訳にはいかないのだ。だってそれこそが……この映画を成り立たせている全てなのだから。

彼は、性犯罪者である。
集団強姦の加害者である。
数年の間服役し、出所したばかり。
今の世はscope法なる新法律が成立し、彼の所在はインターネットで公開され、警察のみならず全ての人の監視下にある。
しかも、もう二度と同様の犯罪を犯さぬよう、女性に触れただけで吐き気(劇中の刑事はアクソと発音していたように思ったけど……悪阻なのだとしたらつわりの意だから気のせいだろうか……)をもよおし、つまり二度と女性とセックスなどできなくなるように薬物治療された上での出所となる。

このscope法に関しての倫理観は、冒頭男女二人の刑事(だと思うが)が非常に判りやすい、言ってしまえば凡庸な議論を示している。
もし本当に近い将来、こんな法律が導入されるのだとしたら、こんな型通りの議論が繰り広げられるのだろうと思いもする。
いわく、これは許すべからざる犯罪で、こんな犯罪を犯した加害者を一生に渡って許す訳にはいかない、と、そんな犯罪に結びつく快楽を再び与えてはいけない、と。

一方で、それは人間性を奪い取ることではないのか、そこまで出来るのは神だけではないのか……いや、劇中ではそこまで極端なことは言っていないけれど、でも逆に、そこまで言っちゃって良かったとも思う。
「加害者にそこまでする必要があるのか」程度の表現では、強姦という鬼畜の犯罪を、そんな型通りで平凡な議論で終わらせるなんてと感じてしまうもの。

いやそれは、やはり私が女だからなのだろう。ていうか、この設定の映画は、だからこそ女性は作れまい。どうしたって冷静になれる訳がないんだもの。幸いにもそんな経験をせずにきたにしても、それが肉体の死以上に辛い魂の死だってこと、判るもの。
彼が集団強姦した女の子は、事実を知って逆上した父親によって刑事告訴をしたために、逆に彼女の方がさらし者にされて、自殺してしまった。
レイプされた時点でもう、彼女の魂は一度死んでいたに違いないのに。いやだからこそ、死んだ魂がもう一度死ぬよりも、肉体の死の方がずっとマシだったに違いないから……だから彼女は死を選んだのだ、きっと。
それは父親が思うより、ずっと穏やかな心持ちだったかもしれないのだ。

……なんてところまでオンナは妄想してしまうから、このテーマでちょっとやそっとの掘り下げじゃ、満足するわけにはやはり、いかない。
大体「そこまでしなくても」と言うのが女性刑事で、「君自身が被害者だったら同じことが言えるか?」と諭すように言うのが男性刑事、という時点で、女がヒステリックに反応することを牽制しているように思えなくもない。
いや勿論、これが逆の割り振りだったら私もっと文句言ってるけどさ(爆)。

いや、そんなことはいわば、どうでもいいのだ。……どうでもいいというのは、ちょっと言い過ぎにしても。それこそ女だから、想像だけでもレイプの苦渋に耐え切れないから。だからこそ、その加害者である男性を主人公にした、彼がシャバに出て、しかもこんなヤッカイな法律にジャマされて自由に生きることが出来なくなる彼が紡ぎ出す物語がどんな風になるのか、興味があった。
でもね、結局、出所してからの彼の人生、だった気がするんだよなあ。
性犯罪者、というよりも、ただの犯罪者。監視されて、差別されて、親にも見離されて、自分自身を捨てて他の人間にならなければ生きていけない一人の男。

そうなっちゃうとね、別に性犯罪者じゃなくてもよくなっちゃうんだよなあ。
彼がもう行き場がなくなって、本名じゃどこも雇ってくれないし、親にも見離されてね、離島に旅立つ訳よ。
そこで偽名を使って、小さな工場で働き始める。人事担当の工場長はじきに彼のバックグラウンドに気づくんだけれど、そのことを飲み込んだまま彼を使い続ける。
というのも、この工場長には飲酒運転で人を死なせてしまった過去があって、そんな彼を昔馴染みである社長が救ってくれた時の台詞が忘れられなかったのだった。
「罪を憎んで人を憎まず」そう言って、社長は工場長を雇ってくれたのだという。別所君(ここでは偽名を使って高木だが)も自分と同じなんだと、つまり誰かが救ってあげなきゃいけないんだと言う。

……勿論飲酒運転も許すべからざる犯罪で、ことに近年はその厳罰化が叫ばれている犯罪である。
でもね、だからこそここでそれを持って来るのは違うし、ズルいと思うんだよ。世間的に厳罰を求める声が盛り上がっている、いわば……ヘンな言い方だけど、注目されてる犯罪だから、おいそれと残酷度が違うとか、言えない。
でもね……やっぱり根本的に違うんだと思っちゃうのは、それは私が女だからなのか?飲酒運転とレイプ犯をくくって、おんなじだ、というのはあまりに乱暴ではないのか……。

いや、別に、同じだと言っている訳じゃないんだけど。ただ、犯罪を犯した者同士として、世間からつまはじきにされる者同士として、工場長は彼の孤独がよく判ったし、生きていく術を与えたいと思った。
その気持ちを感じて、彼もまた生きていこうと思った。それはいい展開だし、必要な展開だと思ったけど、でも、工場長が言うならまだしも、彼の方が「自分と同じような境遇の人と出会うのは初めてだった」と言うのは……そう言わせるのは……やっぱりなんか、素直に飲み込めなかった。

同じような境遇、そりゃそうなのかもしれない。飲酒運転もレイプも同じような犯罪?犯罪は犯罪、そうなのかもしれない。
でも……私はこの台詞を聞いた時点で、それまで抱えてたモヤモヤも含めて、あ、やっぱりダメだ……と思ってしまった。
そりゃあ、性犯罪者が服役後、容易な人生など送れはしないだろう。現代はこんなscope法なんて法律はないけれど、でもなくたって、人の口に戸は立てられない。あっという間にこんな状況になってしまうだろう。
つまりね、このscope法というのもこの作品の独自の立ち位置ではあるんだけれど、そんなものがなくたって、全然、同じような状況に彼らは追いつめられるだろうというのが想像出来るからさ……。

そう、だって彼が性犯罪者、いや、もうメンドくさい、つまりはレイプ犯だってことへの掘り下げが、なかったんだもの。
ただ、なにがしかの犯罪を犯して、出所後も世間の差別に苦しめられている男、って画でさ、そんなのは、言っちゃえばいくらだって、あるじゃない?同じ境遇に身を落とした経験のある年配者が救う図式だって、正直とても見覚えがあるのだ……。
彼がなぜそんな、集団レイプなんて鬼畜の犯罪を犯したのか。その時の心情はどうだったのか、その後、そのことについてどう考えているのか。一切、明らかにされないんだよね。

ただでさえ彼はやたら寡黙だし……。でもそれじゃあ、でもそれじゃあ、この設定にした意味が、全然ないんだよ! 男の本能、出来心、なんでもいいよ。そんなことさえ、提示されないんだもん。
ただ彼は、その時の映像を悪夢のフラッシュバックのように思い出すだけ。まるで、そう、彼自身がこの時から傷ついていたかのように……そんなの、ないじゃん!
集団強姦っていうのも、なんか逃げに感じるんだよね。単独犯じゃない、つまり彼は勢いに任せて巻き込まれただけみたいな風情にも、そのフラッシュバックからは感じられなくもないんだもん。
そんなの、そんなの、ズルいじゃん!それこそその根本を解明できなければ、いくらこんな厳罰の新法律が成立しても、何の意味もないじゃん!

……すいません……あまりにベタに、真っ当に腹を立ててしまいました。やっぱこの設定じゃ、女は作り手側にはなれないなあ。この部分はいくら掘り下げても掘り下げきれない、つまり、別の映画になってしまう。心理学の映画になってしまうんだもん。
本作はね……ちょっとした純愛映画なんだよね。このテーマを掲げてそれは、それこそそっちの方がハイリスクだと思う。そっちの方が、挑戦だと思う。ああ、そっちかあ、つまりそっちがメインだったのかなあ。

まあだってさ……このscope法ってのも、なんか近未来アニメチックな感じがしなくもなかったんだよね。番号をイレズミされた右手の甲をバンソウコウで隠したりしてさ。
その近未来さで、ハイリスクから逃げる感じも正直したんだけれど……。

でもやっぱりそれ以上に、この純愛ヒロインの方が、現実味がなかったかなあ。聾唖の女の子っていうのは、あまりにもあまりにも……こういう場合のヒロインとして用意されすぎじゃないのかなあ。
登場シーン、筆談のシーンも用意されているけれど、それもちらりと示されるだけで、彼女の明確な言葉はついに示されない。もちろん言葉なんてあやふやなもので、それこそそんなものはこの“純愛”には必要ないのかもしれない。
でもねでもね、……それを成立させるために、言葉で追いつめない、つまり、多分男性が一番嫌いな、言葉で責める女性、を廃して、言葉を発せず、己の感覚だけを信じて男を愛する女、として聾唖の彼女を用意したように見えて、なんかそれは……気分が悪かった。やっちゃいけないことのように感じたんだよね。

だって、いくら聾唖の女の子だって、そして彼のことがとても好きだからって、彼が集団レイプの犯人の一人だと知って心穏やかでいられる筈はない。
“いくら聾唖の女の子だって”なんてことをついつい言っちゃったけど、女の子であることに、聾唖だろうが健聴者だろうが、違いがあるのだろうか?

彼女が入社してきた彼を一目で気に入った描写も、そしてその後、かいがいしくお弁当なぞ作ってきたりする描写も、極端に感覚的で、“彼のことを感覚的に信頼してるから、レイプ犯だと聞いたって気にしない”とでも言っているように思えてしまう……。
いや、あまりに言いすぎ……だよな。でもねでもね、あれだけ自分勝手な母親にないがしろにされてさ、特に望まないままに工場の跡とり息子との婚約が成立しているほどの、つまり超受け身の人生を送っているのに、なんでそんな急に、彼に対してだけ積極的で、盲目的に信頼すんのよ、と思っちゃう。
それこそ、五感以外が働くから、なんてことは、絶対言ってほしくないが……。

結局ね、レイプ犯にしても、聴覚障害者にしても(同列に語っている訳ではないのよ)、その彼らがその立場で何を考えてここまで来たのかが見えないもんだから……キャラ設定だけで置き去りにされてしまっている気がするから……モヤモヤが残ってしまう、のだろうなあ。

彼女の婚約者である工場長の息子がね、なんたって彼女にホレてるから、まあそれなりのアクションを仕掛ける訳。
この息子は、わっかりやすく彼に対して敵意と嫌悪感をむき出しにしている。それは、勿論ムリもないことで、ちっともこの息子が責められるべきじゃないんだけれど……ちょっとこの息子を演じる役者さんの芝居が……ちょっと、ちょっとだけ、モタモタと見てられないもんだから(いや!そういう演出なんだよね!!)なんかどっちにも加担できないっつーか(爆)。
でさあ、ついには、ルンルンと彼の弁当を作っていた彼女に嫉妬してむしゃぶりついた結果、卵焼きを作っていた熱いフライパンで彼女から殴り返されてしまうんである。
ズボンのベルトをかちゃかちゃと外そうとしていた時である。つまり、婚約者とはいえ、レイプしようとしていた時であって……。

でね、彼女はこの衝撃的な事件の後、彼の元へと向かうのだ。雨の中、ずぶぬれになって、工場で残業していた彼に、あれは母親からの虐待の傷なのかなあ?それともそれこそこの婚約者からの?……生々しい傷を見せるのだ。
そして彼は彼女を後ろから優しく抱きとめる。……って、あれ?女性に触れるとそれだけでオエーッとなるんじゃなかったのかよ……まさか真実の愛に触れたらそれは解消されちゃうとかいうんだったら、ホントやめてほしいのだが。

でも……なんか、そんな感じっぽいかなあ。逆上した跡とり息子はミイラ人間のように顔の半分に包帯を巻いて、鏡にナイフを突き立てたりしている。こりゃー、絶対どっちかが、あるいはどっちもが刺されると思っていたら、案の定、ていうか。
彼の方が刺されなかったのは、刺される寸前に交わして、跡とり息子の方を刺しちゃったのか、とにかく彼女だけが息絶えてしまう。
島をあとにする決意をした直後、彼女がついてきてくれて、彼女がそばにいてくれるなら、この後の人生もなんとか生きていけるかも、ときっと思っていたに違いないのに。

正直、ここでカットアウトなのかと思っていた。そして、ここでカットアウトならば、そりゃないよとも思っていた。
しかし場面は続く。やさぐれたボサボサ髪だった彼が、髪をすっきりとまとめ、きっちりとスーツを着てある一軒家を訪れる。
物語の冒頭、出所したばかりの彼が足を向けて行けなかった場所。彼が仲間たちとレイプした上に、さらし者にされて死んでしまった女の子の家。

実はね、さらしものにされて自ら死を選んだ、っていうのは、この時点で明確にされることなんだよね。
君を刑事告訴したことを後悔している、と予想外の告白をした、女の子の父親が吐露したことで判るのだ。
もちろん父親は、彼を許すことなど到底出来ないし、だからこそ出所してこんなに間があいてから謝罪に来た彼を、言下に否定するんだけれど、でもね……彼が来たことで、つまり自分こそが娘を追い詰めたことを省みることでスッキリしたと、言うのだ。
一応見送りに出た玄関でも、彼に背を向けたまま、目を合わせはしないけれども。

……こういうタイプの映画だから、こういう場面は必要だとは思う。思うけれども……でも、彼のその時の衝動がまるで解明されないままここまで描写されると、なんか段々彼が、“大した犯罪もしていないのに、理不尽に追いつめられている”とでも錯覚しちゃいそうでさあ……。
だからね、それだけリスキーなのだ。この犯罪の動機を突き詰めようとしたら、こんな構成の映画は出来ないし、じゃあ、それに固執して彼らの出所後の動向や心理状態はどうでもいいのかといったら、それこそが現状では確かに大切で……。
それを全て一個にして、2時間前後の映画に収めるっていうのは、相当のベテランだって難しいと思う。確かにチャレンジは必要なことだと思うけれども……。

キャストの中では、台詞が殆んどないながらも、主人公の金倉氏の演技だけが唯一安心して見られた……といったら、怒られるかなあ。でも、本作にやたらハラハラしたのは、その要素も大いにあったように思う。★★☆☆☆


ずっとあなたを愛してる/IL Y A LONGTEMPS QUE JE T'AIME
2008年 117分 フランス=ドイツ カラー
監督:フィリップ・クローデル 脚本:フィリップ・クローデル
撮影:ジェローム・アルメーラ 音楽:ジャン=ルイ・オベール
出演:クリスティン・スコット・トーマス/エルザ・ジルベルスタイン/セルジュ・アザナビシウス/ロラン・グレビル/フレデリック・ピエロ

2010/2/8/月 劇場(銀座テアトルシネマ)
予告編で、アラ、クリスティン・スコット・トーマス久しぶりと思い、その緊迫感あふれる彼女の演技の片鱗に惹かれて劇場に足を運んでみたら、彼女がフランス語を喋っていることにまず驚いてしまった。
ていうか、フランス映画だし。え?そんなことも知らなかったのは私だけ?フランス語が堪能なだけじゃなく、モハヤフランス在住でダンナさんもフランス人の方だなんて……へえー、とついつい驚きつつ、そして知らぬ間に彼女がなにげに年をとったことにも感慨を深くする。

そう……作品を観るチャンスがないからなだけなんだけど、彼女を最後に見たのはいつだったか……本作は特に「幼い息子を殺して15年服役していた女」という設定なもんだからやさぐれてるし、確信犯的にノーメイクだし、余計に老けて見える、のよね。
落ち窪んだ目が逆に、アイメイクを間違って施しているみたいにやつれたクマを増幅させてて痛々しく……ていうか、彼女自身が「私に近づかないで!」オーラを強烈に放っている。

劇中、彼女が扮するジュリエットは周囲の人々のあたたかさにも触れ(無論、冷たい視線を向ける人も少なくないのだが)徐々に心を開いていくものの、基本的には心はまだまだ閉ざしたまま、なんだよね。
ムリもない。そう、彼女が言うように「私の心が判ってたまるか」(ま、そんな言い方じゃなかったけど(爆))というところなのだろうから。

でもね、そう……意外だったのは、私はこれを、親子の物語だと思っていたのだ。なにがしかの理由で息子を殺してしまった女の、母親としてその息子と永遠に向き合う親子の物語だと。
確かにその要素はあるし、ていうか最後までジュリエットは、この15年間そうだったように愛する息子のことを片時も忘れることなどないのだけれど、でも、この物語が示しているのは、語りたいことは、そうじゃないんだよね。

冷たく言っちゃえば、……所詮息子は死んじゃって、もうこの世にいないってことなのだ。
もちろんジュリエットの中に生き続けることは無論としても、これからの時間を生きていくジュリエットの人生に関わることはもう、ない。
子供の頃のおぼろげな記憶しかない、年の離れた妹やその家族、そして新しい恋の予感を感じさせる男性がまずジュリエットとぶつかり、突破口を開いた。
そしてこれからきっと出会っていくであろう、彼女を理解して受け入れてくれるたくさんの人々、あるいは拒絶する人々でさえ、彼女の人生を豊かなものにしていくのであろうと思う。皮肉かもしれないけど、それは15年前の彼女には得られなかったことかもしれないのだ。

だってね、別れた夫は、裁判で、ジュリエットに不利な証言をしたという。
そりゃあ、自分の息子でもある子供を殺されたんだから、そして、離婚はこの事件の前だったというし、もはや心は離れていたのだろうとは思うけれど……でもここで、家族の一人である夫が支えなければあまりにキツイではないか。
……ていうか、離婚してしまっているのだから、もう家族ではないのか……つまり夫は息子の家族であることを、妻のそれより優先したのか。いや……そう考えると確かに彼の選択はムリはなかったのかもしれないけれども。

この事件の詳しい事情は本作の中で語られることはないから、夫のとった行動がジュリエットに情状酌量の余地を与えず15年もの長き間収監されたからといって、決して責められることではないとは思う。
ただ……そうなると誰からも見放され、服役した15年間面会に来る人もなかったジュリエットがあまりに哀れで。

そう、ジュリエットのホントの家族、両親や妹も、面会に来ることはなかった。出所する数ヶ月前まで。
でも、その数ヶ月前、ようやくといった形で面会に訪れた妹にも、この15年間大いなる葛藤があったのだ。

……ホントにね、あくまで出所してからのジュリエットの人生の物語、なんだよね。
まあ語られる時間軸からいって当然といえば当然なんだけど、でも、親子の物語だと思っていたから、意外だったんだよね。
本作の主軸は、姉妹の物語、なのだ。そう、15年の間離れ離れになっていた姉妹の物語。

10歳近く年が離れている雰囲気、だろうか。妹のレアは大学教授となり、ベトナムから女の子二人を養子に迎えて、何不自由ない生活に見えた。
出所したてで野暮ったいカッコにスッピンの姉に比べて、キャリアも妻や母としての立場もまさに脂がのっている30代のレアは光り輝いて見える。
だからだろう、姉を自分の家に迎えた妹に「福祉事務所が勝手に連絡したの。私は何も頼んでない」とジュリエットが頑なな態度をとるのは。

見るからにマジメそうなレアが、こんな境遇の姉を放っておけなかったというのはあるとは思う。結局は世間体だと、ジュリエットもそう思ったからこその、頑なな態度だったんだろうと思う。
でもジュリエットの15年が彼女だけが知る辛い15年だったように、レアにとっても、ジュリエットとは全く違う意味合いで、とても辛い15年だったのだ。

だって彼女は、お姉ちゃんを愛していたんだもの。

幼かったレアが、どこまで事件の詳細を知らされていたのかは判らない。なんたって両親はレアを「一人娘」として育てていたというんだから。
恐らく両親のそんな態度にこそレアは傷ついていたに違いなく、でも両親を愛しているからこそ、思い通りにふるまうしかなかった。
でも記憶にあるお姉ちゃんのことは変わらずに愛していて、日々日記にこっそりと合えなくなってからの日数を刻んでいた。
そのことはきっと……両親に言うことなど出来なかっただろう。そんな風に推測される場面はほんのちょっと、レアがジュリエットに、数字だけを刻んだ日記を見せる場面だけなんだけど、そういう描写もレアの奥ゆかしさと心の底に秘めた愛を感じてジンとする。
「私のことなんて忘れてたでしょ」と自ら言っていたジュリエットは、その日記帳を黙って見つめていた。

本当にね、ちょっとずつなんだよね。姉妹が歩み寄るのも、心を見せ合うのも。それはレアもまたジュリエットとは全く違うスタンスとはいえ、この15年を辛い時間として過ごしてきたからこそ、そう出来たんだと思う。
そりゃあ無論、ジュリエットの苦悩は凄まじいものではあるんだけれど、でも……同じ時間、同じ理由を元にして、妹も苦しんでいたことを、きっとジュリエットはここに至るまで想像もしなかったに違いないんだもの。

レアが夫婦共に問題ない健康体であるにも関わらず、実子を持たずにベトナムから養子をもらっていることに、ジュリエットは思うところがあって問うてみるんである。
レアはおずおずとした態度ながらしかしハッキリと「産む気にはなれなかった」と答える。ジュリエットは予期していたように「私のせいね」とつぶやき、レアはそれに対して反論することが出来なかった。

こういうタイプの物語なら、きっとジュリエットがしでかしたことは、やんごとなき事情があるに違いない、と思いながらも、ストイックというか、じらすというか、ほおんとに最後の最後までその事情が明らかにされないからさあ。
……でも、それは正解、なんだよね。だって、確かにその理由は想像がついたし、確かに確かに想像どおりだった、けれども……それを前提に、最初に掲げてしまったら、それは結局、言い訳になってしまう。そういう理由で我が子を手にかけていいんだという、結論になってしまう。
それは絶対言っちゃいいけないことだし、ジュリエット自身も、ていうか作り手自身がそれを判っているから、“前提”にしなかったんだよね。
私は息子を手にかけた。捕まって服役するのは本望だったと言ったジュリエットの言葉は、強がりではなく真実だっただろう。
それが彼女の貫いた愛だったんだけれど、でも、何があったのかは、最後の最後まで言わなかった。でも言わなかったからこそ、愛を言い訳にしているんじゃないということを、まさに彼女は示したのだ。

……でも確かにこれは、今の倫理社会や医学問題に照らし合わせても、一概に答えの出ない問題で、この是非をここで議論してしまうと、本当に果てしなくて、映画の本質を逸脱してしまう。
映画の本質と、死んでしまった幼い子供の命を天秤にかけるのかと言われればキツイけど、それこそキツイいい方だけど、これはフィクションだから。
……ただ、恐らく、似たようなことは現実に起こっているフィクションなのだけれど。

最後の5分まで、その“真実”はとっておかれる。ジュリエットが大切に持っていた息子から贈られた詩。
レアの家庭に迎えられたばかりのジュリエットが、レアのおしゃまな娘が自作の詩を披露しようとして激しく拒絶したその理由が、ここで明かされるのだ。
母の手にかけられた息子は、最後まで母を愛していた。大好きなママと呼びかけられた愛情溢れる詩が彼女の手元にずっと置かれていたことで、ジュリエットもまた当然、息子を溢れるほどに愛していたことが知れた。いや、そんなこと、最初から判っていたんだけれど……。

ジュリエットは医学研究者だったんだよね。既に前兆のあった息子の病のことを、早くから知っていた。痛さに泣き叫ぶ息子を見ていられなかった。遅かれ早かれ死神が息子を迎えに来るのなら、少しでも苦しまないうちに楽にしてやりたかった。
クリスマスの夜、二人だけで過ごした。歌を歌い、はしゃいだ息子。注射をしてどうなるのかも、ちゃんと息子に説明した。そして……朝まで息子のそばから離れなかった。

それが明かされるのが、最後の5分なのだ。息子からの詩が書かれた、息子の検査結果が出た用紙をレアは友達の医者に分析を頼んだ。
薄々感づいてはいただろうけれど、姉がなぜ息子を手にかけたかの理由を知った妹は慟哭し、なぜ頼ってくれなかったのかと姉を責めたけれども……その時、最も頼るべき夫でさえジュリエットを見捨てたのに、なぜ彼女を責められるだろう?

あのね、レアのダンナは結構、冷たいんだよね。いや、それは勿論、ジュリエットを主軸に考えているからだってことは判るのだ。だって……“最後の5分”などを考えもしない普段の私たちならば、レアのダンナと同じ態度をとってしまうに違いないんだもの。
いつまで彼女の面倒を見るんだとあからさまにメイワク顔をし、なぜ息子を手にかけたのかを執拗に聞きたがり、子供の世話を任せるのを「自分の子供を手にかけた女だぞ!」とありえない!てな態度で、その妹である自分の奥さんがいかに傷つくかを想像することも出来ずに言い放つ。
そう、レアがどれほどの覚悟を持って15年の刑を終えた姉を迎えたのか、もうちょっと想像してみてくれてもいいのに!と思うけれども、でも、それこそレアはダンナにそんな話も出来ないままだったことは劇中の夫婦の会話から推測されるし、大体が、彼の態度はまさに、フツーに一般的な私たちの態度に他ならないんだもの。

だって、私たちは、我が子を手にかけた親の報道がなされる時にいちいち(という言い方がヤだけれども)、何か事情があったに違いない、気の毒に、なんて思う?思わないよ……いつだって、“イマドキの親は”(イマドキって言葉は、いつの時代も囁かれるのだ)と思って、自分はそうじゃないと思って優越感を含んでその親を心の中で“心地良く”糾弾してるよ。
そうだ……いつから私たちは、こんなに冷たくなっちゃったんだろう?他人の犯した罪を、自分の正当化に使うようになっちゃったんだろう。

ジュリエットが恋の予感を感じつつも、やはり臆して遠ざけてしまう相手、妹レアの同僚であるミシェルは、ジュリエットが息子を殺したことを知ってもちっとも臆さなかった。
ていうか、パーティーの席、ジュリエットの謎めいた存在感(突然現われた美女)を興味本位で詮索したがる輩に、その事実をジュリエットがまっすぐに伝えると、その輩も、そして眉をひそめてその輩の悪酔いっぷりを眺めていた周囲も、ジュリエットの“返し”が特上の冗談だと思っちゃったんだよね。「これは一本とられた!」てね。
でも、それがホントなんだと判っちゃったのは、ミシェルだけだったのだ。彼もまた家族を亡くしていた。事故でだったけれども、それ以降人生観が変わった。
刑務所での教官の経験で、彼らと自分とが紙一重であることを悟ったとジュリエットに語り、だから君の言うことが本当だと僕は判った(というか、信じるよ)と彼は言った。もともと好意を寄せられていることを知ってはいたけれど、これでぐっと距離が近づく二人。

でもね、決定的とまではいかないのが、本作のストイックなところなんだよね。確かにジュリエットは、本当に、ちょっとずつではあるけれど、15年後の新しい人生に踏み出す用意を整えていく。
でもね……なんたって15年であり、その15年前におきた出来事があまりに辛すぎるし、出所してからも……父の死を知り、母はボケちゃって娘たちを冷酷に遠ざけるし、辛いことばかりが襲うのだ。
だからなのか、ジュリエットは彼女を100パーセント理解してくれそうなミシェルでさえ、なかなか受け入れ難いままなんだけど、でも、この先の予感は確かに感じさせるんだけど。

いやむしろ、恋なんてヤハリ、二番手三番手よ!ジュリエットを理解するレア、そして娘たち、そしてそして、嫌悪感を隠さなかったレアのダンナさえもさ!
娘たち、ことに物心つき始めた上の娘は、自分がどういう出自であるかも判ってるし、そして……なんたって素晴らしいのは、子供の本能的な直感で、ジュリエットが信頼に足る人だと長女が感じることなんだよね!
最初こそ、あまり喋らないおばちゃんに不思議がってたけれど、おばちゃんに本を読んでもらいたがったり、ピアノを教えてもらって楽しげだったり、何より「おばちゃん、大好き!」
そして、そんな娘の態度にダンナも留守番を任せるようになって、おばちゃんと一緒に夜を過ごせることに「最高!」と無邪気に喜ぶ……子供の混じりっけのない感情の真実味には勝てないよなー。
しかもこの子が、ベトナムの過酷な状況からホントの両親と暮らせない立場であることを考えると……しかも、彼女自身がそのことを幼いながらもちゃんと理解してるんだもの。

うん……ホントに、これが過去の親子の物語ではなく、未来の姉妹の、そして家族の、そしてそして、ジュリエット自身の人生の物語であることに、凄く希望を感じる。そしてその未来に引導を渡したのは、母親を愛して愛して天国に召された、幼い息子に違いなくて。

でも何があっても、そう人生は続くのだということ。★★★☆☆


スプリング・フィーバー/春風沈酔的夜/SPRING FEVER
2009年 115分 中国=フランス カラー
監督:ロウ・イエ 脚本:メイ・フォン
撮影:ツアン・チアン 音楽:ペイマン・ヤズダニアン
出演:チン・ハオ/チェン・スーチョン/タン・ジュオ/ウー・ウェイ/ジャン・ジャーチー/チャン・ソンウェン

2010/11/26/金 劇場(渋谷シネマライズ)
このロウ・イエ監督作品は今回が初見だということに、なんとまあ、もったいないことをしてしまった!という思いを抱く。「ふたりの人魚」は普通に見逃してしまったのだが、注目を浴びた前作「天安門、恋人たち」は、その政治的な匂いに怖じ気づいて、もう最初から排除してしまっていた。
ダメなんだもん、ニガテなんだもん、歴史とか政治とかって。こういうところが、いかにもバカな女って感じがして自己嫌悪にもなるのだが、ああ、でも本当、見ておけば良かったなあ。

「天安門……」でも濃密な恋愛の描写があるということは聞いていて、未見のままではあったけど、それがすごく意外な気はしていた。あの激烈な天安門事件をテーマにするだけで大変なのに、そこに恋愛なんて絡めさせられるのかと。その重いテーマに吹き飛ばされてしまうんじゃないかと。
いや、それ以上に、中国という規制の激しい国で、濃密な恋愛を描く映画が作れるのかという意外さの方が大きかった気がする。
そう、未見のままだったけど……チラリと見た映像は、その意外さに大いに驚かされるものだった。

でも、それってひどくうがちすぎな、ナマイキな見方だよね。見てもないのに、というのもそうだし、天安門のような激動を現代の日本人である私たちが想像出来ようもない、というのもそうだし……。
そして、知りようもないからではあるんだけど、そんな中で吹き飛ばされないだけの濃密な恋愛が出来る自信がない、というのが、現代日本人の、大いなる悩ましきところであろうと思う。

本来、どんなことにだって負けないぐらい、青春期の恋愛というものはパワーがあるものなんだから、それこそ天安門事件のような大きな出来事の中に放り込んで、逆にそのパワーを比較して見せつけることだって可能な筈なんである。
だけど、今の日本はラッキーなことに、平和だから……平和だから逆に、恋愛のパワーを信じられないでいる、というのは、実はとても不幸なことなのではないのかしらん?
いや、もちろん、平和であることほどにありがたいことはないのだけれど、生存本能の根本である恋愛のパワーが失われていることへの危惧は正直、感じてる。それこそ草食系男子じゃないけどさ。それが、勝ち取った平和によって侵食されているなんて、実に皮肉ではないか。

本作は、天安門事件のような大きなテーマを掲げてはいなくて、ちょっと驚くほど、普通に、都市に浮遊する大人たちの恋愛を活写しているんである。
いや、普通、ではないか。メインはゲイの青年たち。いやいやそれを、普通ではない、と言っていること自体、実は保守的なのはワレワレ日本人の方ではないか、と思う。
日本だとゲイの恋愛物語だとゲイだけの物語、になっちゃうよね。怖じ気づき、あるいは過剰に美化して、隔離してしまう。しかしここでは、ゲイとストレートの恋愛や夫婦関係が、なにごともなかったように行き来する。
いや、それでも、夫や恋人を“寝取られた”女たちは、その相手が男性であることに驚愕するのは、日本も中国も同じことかとも思うんだけれども、それにしても、非常にニュートラルである。

私ね、中国の映画でこんなにも赤裸々な男性同士のラブシーンを見ることが出来るなんて、思いもしなかった、などと言ったらそれこそ不遜なんだけれど。でも、本当にびっくりした。
もう、なんか、ホントにやってるんちゃう、というぐらいの生々しさ(私、最低……)。「ブエノスアイレス」も香港とはいえまあ一応は中国映画だけど、そして中国、じゃない台湾人監督として世界にはばたいたアン・リー監督の「ブロークバック・マウンテン」でも、充分に男性同士のラブシーンが赤裸々だと思っていて、よもやそれ以上のものが、しかもずっとずっと自由が制約されている純粋な中国作品から出るとは思ってなかった、のだ。

ホント、不遜な考えなんだけどさ……でも、逆なのかもしれない、と思う。自由が制限されているからこそ、自由への渇望がある。自由への爆発がある。
ロウ・イエ監督は前作によって中国当局から5年間の映画制作を禁じられている状態でゲリラ的に撮影し、カンヌに出品までし、そして結果を残してしまうという無謀なことをやってのけた。
中国による検閲に腹を立てながらも、そのことを世界に知らしめられたのが良かったと、高らかに言ってのけた。
ノーベル賞を受賞した劉暁波氏の映画だけは撮りませんよ、と冗談を言ってのける余裕まである。ここまでの、製作欲、製作熱がはたして今の日本にあるだろうか。

そして、今の日本の男優で、これだけのラブシーンを演じられる“イケメン”はいるんだろうか、などと思う(イケメン、と持ち上げるほどに安っぽくなるから、この言葉はキライなのだ)。いや逆に、それを撮れる監督がいるだろうということ、だろう。
実は「ムウ」で、それが期待できたんだよね。演じる玉木氏も山田氏もやる気満々だったと聞いている。
しかしそれが、何に怖じ気づいたか避けられたことで、何の意味もないフニャフニャの作品になってしまったことを思い出してしまった。
そう、実は、自由を保障されていることが、より自由な作品を撮れるというわけではないのだ。マーケティングとか、余計なことを考えて、怖じ気づいてしまうことの方が、クリエイターとしては不幸なことなのかもしれない。

と、なんかつらつらといつものように書いてしまった。作品のことに、行かなければ。
ラブシーンは鮮烈だけど、でも実は彼らは自分自身であることを確認しきれないでいる。セックスに耽溺すればするほど、もっともっと浮遊してしまう。
舞台は南京で、大都市であるここでは、普段はそんなに自由に対する制約を感じることはないんじゃないかと思われる。
いや、それこそ映画のような表現活動をしている人たち以外は、そんなことを本当に感じずに、あの天安門事件さえも忘れて暮らしているのかもしれない、と思う。
そう、ここには中国だからということを忘れてしまうような、大都市の人間たちの浮遊性という普遍が見事に活写されてるんだよね。

もう冒頭から、青年同士のラブアフェアが描かれる。森の中の小さな小屋でのひと時。刹那の求めあいの密やかさと濃厚さに、思わず息を詰めて見入ってしまう。もうこの時点でのまれてしまっている。
二人のうち片方のワンは、結婚している。しかもかなり、しれりとしている。ゲイの恋人、ジャンを妻に紹介しようとしている。ジャンを家族同様に妻が思ってくれれば、今後の関係が作りやすくなるじゃないかと。

ジャンでなくたって、観客の側だって、何を日和見主義なことを言っているのか、とボーゼンとする。しかも二人の想像以上にこの妻は強敵で、既にこの時点で探偵に尾行させているんである。
その相手が男だということまでは想像の外だったらしいけれど、「普通の女なら気づかなかったでしょうね。でも私は気付いたの」と言うぐらいだから、ワンも隠しおおせる自信はあったのだろう。
当然のように泥沼が繰り広げられ、そもそもワンのそんな気持ちをどこか懐疑的に見ていたジャンは、次第に彼から気持ちが離れていくんである。

で、そんなジャンが次にくっつくのが彼らを尾行していた探偵だっていうのが、驚きなんだけどね!この若き探偵、ルオにも工場に勤めている可愛い恋人、リー・ジンがいるし、彼女とのセックスシーンもちゃんと?用意されている。
つまり、ルオにしてもワンにしてもバイセクシャルだということであって、そうしたことが特に前提もなしにさらりと描かれること自体に驚きを感じてしまう、だなんて、ホント、日本の方がよっぽど保守的だなと……。

まあ他の国の映画事情にそんな詳しい訳じゃないからアレなんだけど、でも日本て、こうした性的アイデンティティもそうだし、障害者と健常者の間とかにもギッチリ壁を作っている印象があるよね。
自分の周りには同じような人間しかいない、それこそが平穏で平和なことだ、みたいなカン違いを強いられている気がしてならない。
ワンもルオも惹かれるゲイのジャンがそれだけ魅力的だということかもしれないけれど、でもその乗り越え方はひどく鮮烈なんである。

ワンの妻は判り易くジャンに対して嫌悪感をぶつけ、職場に乗り込んでわめきちらし、果ては彼を殺しかけもする。
一方で、リー・ジンは泰然と受け止めるというか……ショックは受けるんだけれど、なんていうか……水が流れるような、そんな印象を受けるんだよね。上手く言えないんだけれど……。
ジャンとルオとリー・ジンが共に過ごす時間は、それまで順繰りに関わる人間が入れ替わって描かれていく中で、その一つであり、尺も特に長くはないんだけれど、なんだかとても……印象的なんだよね。

そもそもこのリー・ジンは、ルオ以外にもちょっと淡く、薄く、恋愛の匂いがある。未遂どころか未満ですらないぐらい、淡いんだけれど。
それは彼女が勤める工場の工場長との間柄。仕事終わりに食事をおごってくれたり、コピー商品を作る工場はたたんで正規品を作る工場を立ち上げるから、また働いてほしいとわざわざ事務室に呼び出して言ったり、そして頭をなでてみたり……。
まあ、ヘンなことはしないんだけど、でも工場長がリー・ジンに好意を持っていることは明らかであり、リー・ジンがそれをどう思っていたのか……嫌だとか、迷惑だとかは思ってなかったと思うんだよね。

それは誰かが密告したのか、不法労働の摘発を受けて工場長が文無しになってしまった時、リー・ジンに言い寄っていた弟子格の男が簡単にこの工場長を見捨てたことに、彼女がひどく憤っていたことで何となく察せられるというか……。
リー・ジンが恋人のルオに対して、彼が学校を卒業してもなんかフラフラしていて、会えばセックスだけだというのも、不安というか、ちょっと頼りなく思っていたのかもなあ、というのは、ずっと大人の男性である工場長に対しての彼女の態度で何となく察せられるというかさ。
ただ、言葉に出して言う訳じゃなくて、ホント全然、明確ではないんだよ。でもね、何かそう思わせる雰囲気があるんだよね。

そう、明確な言葉っていうのは、本当に全然、発せられない。唯一、ワンの妻だけは、夫に対する憤りや浮気相手のジャンに対しての爆発を言葉にも明確にするけれど、彼女の言葉にしても行動にしても、どこか昼ドラ的である。
それもひょっとしたら、計算なのかもしれない、と思う。一人はそういう人物がいないと物語が成り立たないから、つまりは彼女は狂言回し的な存在なのかな、と思う。

色々あって、ワンから離れたジャンがルオと出会って情をかわし、ルオが心配する恋人のリー・ジンと共に逃避行よろしい小旅行をする場面。
ジャンとリー・ジンはそりゃあ当然、お互い何だこいつ、という感情を隠しきれなくてぎくしゃくとしているんだけれど、ある場面をきっかけに、ふたりは、いや三人は、奇妙なまでに心を通わせるんである。
そのある場面というのは、リー・ジンが目撃するジャンとルオの濃厚なキスシーン。明らかに、二人が関係を結んでいる、ここだけのことじゃないんだと思わせるだけの、恋人の、それなんである。

かなりバコバコとしたエッチシーンもあるのに(うわ、私、サイテーな言い方……)、このキスシーンが一番、ドキドキする、のは、リー・ジンがふと覗き見てしまうという状況でもあるからだろうと思う。
彼女はワンの妻のように、それを問い詰めることが出来ない。そういう女の子なんである。女の殆んどがリー・ジンの方こそに感情移入すると思う。そう、男が思うほど(爆)女は、気が強くないのよ……。
しかしリー・ジンが見てしまったことを、ジャンは気付いた。ルオの方は気付いていないってあたりが、ワンもそうだしさ、女心がジャンは判っちゃうんだよね……。

夜中に抜け出したリー・ジンを、ジャンは追いかける。カラオケルームで泣きながら歌っている彼女に寄り添う。そっと手を握る。
「こんな風に、彼の手も……?」何も言うことが出来ないジャン。
でもね、この場面、不思議なんだけど、本当に不思議なんだけど、ジャンとリー・ジンが魂からつながった、友情以上の絆を結んだ感じがしたのだ。同じ男を愛した同士としての。
どちらが勝っている訳じゃない。実際、ジャンもこの後、ルオの元を離れるし。

その後ルオもこの場に合流して、リー・ジンはルオともジャンとも歌い、踊る。そして三人が寄り添う小旅行の描写は、短いけれども魂を共有した奇跡の一瞬を感じさせて、寒々しい光景なんだけれど、それだけにひどく、美しいんである。
でも、本当に一瞬で……リー・ジンは、二人が車を止めて買い物に出た隙に、何を思ったのか姿を消してしまう。
何を思ったのか……ただ、たばこを買いに出たジャンを追いかけるように車から出たルオを見つめていた、リー・ジンのなんともいえない表情が、言葉以上のことを語っていた気が、した。

その前にね、ワンが自殺してしまったシークエンスがあるのね。ジャンが離れてしまったワンは絶望して、一人、戸外で手首を切って自殺してしまうんである。
そのことを知ったジャンが、ゲイバーで女装姿で泣き崩れているのを、ルオが抱きとめるシーンは印象的である。
ていうか、ジャンがこのゲイバーのスター的存在であり、インパクトのある女装姿であまり上手くない歌を披露する場面がショーアップして描かれ、それにこそルオがうっとりと聞き入っていたりするのが、結構衝撃なんだよね。
ジャンを演じるチン・ハオがスッキリとした美青年であり、女装しても女性には決して見えない二の腕の素晴らしい筋肉だったりしてさ。
いやつまり、女性に見えない女装こそが、恐らくこの世界の一つのジャンルというか、ステイタスなんだろうなというのは、最近なんとなく判ってきたことでもあるのだよね。

ワンがその世界にどの程度足を踏み入れていたのかは判らずじまいなんだけれど、ルオに関しては結構知った風であり、仕事として尾行していたジャンを最初からそういう対象で眺めていた節もある。
そしてこのゲイバーに集まるドラァグクイーンと思しき客やステージダンサー、軽やかにイケイケのマイクパフォーマンスをするオネェ系の司会の男性といい、本当にここが自由が規制されている国である中国なの??という驚きを禁じえないんである。

いや実際、今や世界に経済力をとどろかす中国は、市民生活の点においては自由を謳歌しているんだろうと思う。
当局がこれを、知ってて見逃しているのか、あるいは本当に目が行き届いていないのかは定かじゃないけれど、市民たちは自由を謳歌していると思っているからこそ、クリエイターたちが直面する自由への制限を、実は気づいていないのかもしれない。最近、いろんな事件への中国市民のリアクションを聞くと、そんな風に思ってしまう。
こうして、自由の国と変わらぬ自由をクリエイター達が示し、しかしそれが保障されているものではないのだということこそ世界に示された時、当局はどう行動し、そして中国国民はどう感じるのだろうか。

リー・ジンが離れたことでルオとケンカ別れし、都市に帰ってきたジャンは、旅行会社に勤めていた時のさっぱりとした青年の姿を捨て、見るからにチンピラのような、胸元を開けたアロハシャツの格好で街を闊歩している。
その前のシークエンスで自殺したワンの妻から斬り付けられ、頚動脈から大量の血を流して路上に倒れたシーンがカットアウトしたから、すわこれは死んだか、と思ったが、どっこい生きている。
首に生々しく残った傷痕を隠すためのように、電気ハリで流れるような花模様を藍一色で掘り込んでいる。あらら、まさにチンピラだなと思うが、でもその花模様はとても美しい。

ジャンが帰る先は、ワンが彼に会いたくてずっと待ち伏せし、来ない彼に絶望して自殺した、もともとの高層マンションである。
そこには、あらたな恋人が待ち受けている。あのゲイバーの踊り子の一人だったよね?“彼”は……。
見た目は女性そのものの“彼”は、今までの相手とは明らかに違う、のは、何か意味深いものも感じるけれども……リー・ジンとの邂逅も影響しているのだろうか、などと……。
掘り込まれた刺青にきれいね、とニッコリ笑い、愛撫を仕掛ける恋人に、ジャンはどこか遠くを見るような目つきである。みんなみんな、遠くに行ってしまった。

中国では国民的作家であるという郁達夫(ユイ・ダーフ)のフレーズが、シークエンスの節目に、流麗な明朝体で画面の半分近くを覆う。非常に印象的である。
この大都市に、現代の地球に、浮遊する男と女を詩情豊かに彩り、こんな作家が国民的であると認められていることと、自由への規制がなされている中国という大国のアンビバレンツを感じずにはいられない。
物語の冒頭、象徴的に現われる、雨に打たれる水に浮かんだ蓮の花の、宗教的であり、かつ、諸行無常の美しさは、でも、不思議とどちらの中国に対しても、しっくりとなじみ、ささやかに、禁欲的に、でも曲げない自我を示してたたずんでいた。★★★★☆


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