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「か」


2010年鑑賞作品

海角七号/君想う、国境の南/海角七號
2008年 130分 台湾 カラー
監督:ウェイ・ダーション 脚本:ウェイ・ダーション
撮影:チン・ディンチャン 音楽:リュ・ションフェイ/ルオ・ジーイー
出演:ファン・イーチェン/田中千絵/中孝介/シノ・リン/レイチェル・リャン/リン・ゾンレン/マー・ニエンシエン/ミンション/イン・ウェイミン/マイズ


2010/1/13/水 劇場(シネスイッチ銀座)
ライブシーンでは結構うるっと来たくせに、結局観終わった後は「……ありがちだったかもなあ……」と思ったのは、つい最近、それこそ似たような設定の映画を観たからだろうか。そう、戦時中恋に落ちた二人が、戦争が終わって離れ離れになり、片方が死んでしまった後、その募る思いを綴った手紙を娘とか孫とかが見つけ、その別れた恋人の行方を追っていく、みたいなさ。
そうそう「アンを探して 」よ。あれでなくてもこういう設定って一つのジャンルと言ってもいいぐらい、ありがちだよなー、などと思っちゃう。まあ、ひとつのジャンルならそれはそれでいいとして、ならばそれをどう見せるかが問題なんだよね。

なあんか凄く、冗長な気がしたんだよなあ。ひどく、長々と感じた。それこそクライマックスのライブシーンに至るまでにひどく長かった。
本作はそれが、日本にヒドイ目に合わされた筈の台湾を舞台にした、日本人の恋人同士の物語だってところが意外というか画期的にしても、それにしても長かった。

ていうか……なんか不思議な気がしたなあ。例えば彼の方が兵士として台湾にいたのは判るけど、彼女の方はなんで?しかも彼女はこの地に残る……てことは、元々台湾に在留していた日本人?ならばどんな事情で日本人の彼女が台湾にいたの??
遠い昔の恋人同士の二人の話は、ただただ彼が彼女に募る思いを綴る手紙が朗々と語られるばかりで、ちっとも事情が見えてこない上に、この手紙というのが彼の主観的感情が暴力的なほどに押し出し強く語られるばかりで、正直印象的だったり美しかったりする言葉もあんまりないし……聞いてて疲れるばかりなんだよなあ。
それを読んだ友子は、とても切なくて美しかったと言うけれど……うーん、そうかなあ??

ていうかね、そうそう、それこそ「アンを探して」のように、この手紙に関わる親族が登場するならまだいいんだけど、宛て先不明になってしまったこの手紙を読むのは、宛て先人の女性と同じ名前の友子であり、そしてそれを勝手に開封してしまったのは、配達すべき手紙を自宅にうっちゃっておいているグータラ郵便配達員のアガなんである。
最終的におばあさんとなった友子さんにやっと届けられるものの、彼女の口から何かが語られる訳でもなければ、お顔さえも拝見できない……。
うーん、まあ、ね。意図はなんとなく判るのよ。彼ら二人の恋は、あくまでもう過ぎ去った思い出で、しかも片方は死んじゃってて、どうすることも出来ない訳でさ。そういう意味ではストイックとも言えるんだけれど……。
手紙の冗長さと押し付けがましさになかばヘキエキとしていたもんだから、このアッサリ加減には、なに、それオチ?ぐらいに感じちゃったんだよなあ。

ていうか、そもそもメインはこの手紙の物語ではないんだろうし。あくまで進行されるのは現代の恋物語。
そのおばあさんの名前と同じ友子という女性が、台湾で鳴かず飛ばずのモデル稼業をしてるんだけど、実質裏方の雑用係。もうヤだと日本に帰ろうとしていた矢先、通訳の仕事が舞い込む。
小さな田舎町の海辺のイベントに日本の歌手、中孝介が呼ばれ、その公演の前座に地元のバンドが出演することになる。その一連の通訳やサポートを任されたのだ。
しかしこの田舎町はチンピラみたいな実力者がハバをきかせてて、至極くだらない見得を張って村長を半ば脅しにかかってこの前座バンドの話をゴリ押ししたんであり、オーディションに集まってくる輩も正直、もういかにもイナカモノって感じで、子供たちは縦笛持って押し寄せてくるし(爆)もうどうしようもない訳。

そんな中、その実力者の息子のアガは、台北からついこの間帰ってきた、元ミュージシャンだった。元ミュージシャン……そうつまり、挫折したのだ。15年も頑張ったのに、芽が出なかった。
それでクサって、父親がムリヤリもぎ取ってきた郵便配達の仕事もテキトー極まりなく、配達する気もない手紙を段ボール箱に放り込んでしまう。しかしその中に、彼が目を止めたのが……宛て先不明で局戻りになっていた、“海角七号”行きの小包みだったのだ。
思わず開けてしまうアガ。そこに綴られているのは日本語だったから彼は読めなかったけれど、セピア色に変色した手紙と写真についつりこまれて、手元においたままにしてしまう。

一方の友子である。選ばれたバンドメンバーはコネだらけで、“フルートが吹ければベースが弾ける”なんていうありえない抜擢をされたり、教会の賛美歌の伴奏でやたらテクニックを披露するスカした小学生の女の子が参加していたり、かなり波乱の予感。
そのベース担当は交通事故に遭って参加が困難になり、そのかわりになったのが、月琴で人間国宝であるボーじいさん。しかもそれが、アガの郵便物の未配達を見逃す代わりにだっていうあたりが(爆)。

そう、このおじいちゃんは郵便配達員で、くしくも友子がスタッフとしてついていた撮影隊のバスに轢かれて足をケガしてしまったのだ。
もともと彼は、自分は人間国宝なのに、人前で演奏する機会さえ得られず腐っていたんだよね。だからそのチャンスがロックバンドだろうと、触ったこともないベースだろうと、飛びついちゃう。
弦の数さえ違うんだから上手く行く筈もないんだけど、それでも舞台に立つことに執着する彼には……時にタンバリンを手にして憮然とした姿にふっと笑っちゃったりもするんだけど……素晴らしいんだよね。しかもクライマックスでは、彼の専門の月琴でアンコールを先導し、グッとさせるんだもん!

このおじいちゃんのかわりにベースを担当したマラサンが、意外に本作の中で最も印象的だったかもしれないなあ。
新作のお酒を売り込むことに必死な彼は、そのエグいあざとい営業の仕方で疎まれたりもするんだけれど、本当に一生懸命なもんだから、徐々に受け入れられていくんである。
最もそれが顕著なのが、彼が売り場を確保している海岸沿いのホテルの受付嬢で、最初は、ていうかずっと不信感丸出しなんだけど、彼が頑張った末に大口の注文が入った時、まるで当事者みたいに喜んで彼に知らせに行くのね。
で、彼も思わず彼女を抱き上げて喜んでさ、でももちろん、まだそんな仲じゃない、ていうか、犬猿の仲ぐらいだから、慌てて、ゴメン、なんて手を離すのが、なあんか、少女マンガみたい!ちょとグッときちゃったんだよなあ!!

つーか、メインはアガと友子なんだけどさ……。アガに共感するに至るまではなかなか難しいトコがあるからさあ……。だって、都会で失敗してクサっているにしたって、とりあえずココに帰ってくるしかないんだし、しかも手紙を配達しないなんて絶対やっちゃいけないことじゃん?……などと、そんなめちゃめちゃ道徳的なことを言っても仕方ないんだけどさ(爆)。
それに正直、二人が恋に落ちる様も見えにくいんだよなあ。ホント正直、友子の酔った勢いの誘いでヤッちゃったって気がしちゃう(爆)。

まあそりゃあ、それまでお互い衝突する場面はあったさ。ていうか正直、曲も演奏も仕上がらないことにイラだった友子がアガに当たり散らすっていう感じだけだったけど……そう、正直それ以上の感覚を感じなかったのが大きかったかなあ。
憤然として帰国しようとしていた友子が、アガの父親から誘われた知人の結婚披露宴になぜ出席しようと思ったのか、その披露宴で酒で目が据わっちゃって、アガの家のガラスに靴を投げ入れてぶち割っちゃったりしちゃってさ。そしてその結果、二人は半ば酔った勢いで結ばれるのだが……。

だから正直、メインの二人よりは、ワキのいろんな人たちの恋エピソードの方が面白かったかもしれない。一番好きだったのは、ドラム担当でアガの旧友であるカエル。友子からはビジュアルが大切なロックバンドにはありえない昆虫のような顔、とあまりにヒドイことを言うんだけど、すごく人間的でイイヤツなのよー。ドラムテクもバツグンだし!
とはいえ、彼が岡惚れしている雇い主の奥さんに言う「カエルはメスに複数のオスが乗って交尾して、だけどケンカしないんだ」というリクツは、彼がカエルと呼ばれているからっていうのはあまりにランボーなリクツじゃないのかなあ。
しかしそれで根負けしてしまう奥さんもどうかと思うけど!?正直このカエル君と、彼が岡惚れしている奥さんと夫との今後の方が気になっちゃうよなあ。

だからね、先に言っちゃってたけど、結局グッときちゃうのはライブシーンなんだよなあ。
まずね、中孝介がリハーサルシーンで、肩の力が抜けていながらもさすがのパフォーマンスを見せ「力を抜いて歌ってもいいんだ……」とアガの目からウロコが出た模様なんである。
実際、ほんのちょっとの出番にも関わらず、中氏のパフォーマンスは圧倒的で、そう、圧倒的、というのが、パワフルである必要がないんだというのが、素晴らしかった。
彼の前座であるアガたちは、最初こそ圧倒的なパフォーマンスで観客を引き込むものの、2曲しか練習していないからアンコールに応えられないと思いきや、ここでカッコイイ!国宝おじいちゃんがポロリポロリと月琴を紡ぎ出す。

ここからが、本当、感動的だったなあ。
正直さ、手紙云々なんてどーでもいいっていうか(爆)。
だって多分、私だけじゃなく、あのナイスな国宝おじいちゃんがいつ本領を発揮して感動させてくれるかって、皆思ってた筈なんだもん。
中氏が登場しなくても、ガナリまくるロックバンドが、華やかかもしれないけど、全ての人の心を揺さぶるかといったら……大いに可能性は低いんだもん。

ぽろり、ぽろりと紡ぎ出す弦の音色と、意外なほどにじっくりと待ってくれる観客。
“今はこういう時代だ”とか、実は人を信じていないだけなんじゃないのかなあとか思っちゃうのね。

かつての恋人同士と違って、というか、教訓にしたのか、二人は、というかアガは、日本に帰国するという友子を抱き締め、行くな、あるいは自分が一緒に行くと囁く。
ここでようやく、過去の恋人たちと並行して描かれていた意味を思うけれど……そう、去るのが女で、残された男が意外や女を追いかける、それが新時代だ、ていうのがね。
でも、正直二人の恋はあまりに刹那で(だって言っちゃえば、一回勢いでヤッただけだもん(爆))。これ以降の展開にはあまり期待できないんだよなあ。
だって、この状態で二人で日本に行けば、彼は単に彼女のヒモじゃん(爆)。
それともこのステージを評価されて、ミュージシャンとして日本に招聘される??そこまで良心的に考えるのもなあ……。

ただね、おじいちゃんが口ずさんでいた野ばらが日本語の歌詞であり、それをラスト、地元の言葉で歌うアガとともに中氏がユニットするのが、それこそが、大きな意味があったのかもしれないと思うんだよなあ。
おじいちゃんが日本語で口ずさむほどに身にしみて覚えていたのは、もちろん日本軍による占領時代があったからに違いなく。
だけどそのことを本作の中ではひとことも触れないのが、なんだか返って居心地が悪く感じてしまうんである。

アガ役のファン・イーチェンは妙にオシオ先生に似てる……などと言ってはいけない?うーむ、なんか凄みの効いたハンサム。
そして友子役は、聞いたことのない日本女優、田中千絵。いやー、ビックリしたな。こんなスタンスを持った女優さんがいたとは。
「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれてるって?スゲエ!そんなに好みの女優さんではないとは思ったけど(爆)。でもスゲエ!ていうか、トニー・タナカの娘さんってのが結構ビックリだったけど(笑)。★★★☆☆


カケラ
2009年 107分 日本 カラー
監督:安藤モモ子 脚本:安藤モモ子
撮影:石井浩一 音楽:ジェームズ・イハ
出演:満島ひかり 中村映里子 永岡祐 光石研 根岸季衣 志茂田景樹 森岡龍 春謡漁介 大堀恵 尚玄 かたせ梨乃 津川雅彦

2010/4/9/金 劇場(渋谷ユーロスペース)
監督が奥田瑛二氏の娘さんだということをまるで知らずに観たけれど、そんな先入観なんて全然必要なかった。知らなくて良かった。
でも知った後は、次女のサクラ嬢が女優として斬新な才能を発揮しているのに続いて、お姉様の方はまた違ったクリエイティブな才能を持っていることを知ってひどく喜んでしまう。いやー、さすが奥田氏のお嬢様方、と思う一方で、いやいやこれは、親の才能ばかりの話じゃない、ゆくゆくは彼女たちは親を凌駕してしまうかも!と気が早くも嬉しくなる。

だあってさ、今はホントに二世ゲーノージンが腐るほどいるけど、その中に本当に才能を感じさせる人たちがどれだけいるのか。サクラ嬢はもう最初っから、何だこの女の子!とビックリ仰天させられたし、このモモ子監督は父上の元でしっかり修行した腕の確かさを示しているように思えた。
それにねー、やっぱり女の子同士のラブはやっぱりやっぱり、男性監督では出来まいよ。いくら奥田氏とはいえね!だってこの感覚が本当の意味で判る、のはやっぱりやっぱり、女の子なんだもん。
このモモ子監督が、実は次女のサクラ嬢より美女で(爆)、一見彼女の方が女優向きにも見えるあたりがイイんだよなあ。
そしてそんな美女監督が、こんな柔らかで、そして結構ドライで、なおかつ生々しい女の子映画を作ってしまうんだもの!

女の子同士の、ちょいレズ的な映画、ふと「blue」を思い出したりもしたけれど、あの映画は確かにちょいレズなだけで、そんな季節は女の子には確かにあって、つまりそれが、まぶしくはかなく苦く切ない青春の一ページとして過ぎ去ってゆく、みたいな感があった。
でも本作は、片方がもう最初っから狙い撃ちの、真性レズビアンの女の子。それでも彼女、リコは、「男とか女とか関係ない。ハルちゃんだから好きなんだよ」とは言うけれども、でもリコが元々女の子しか愛せないタチであることは、彼女がそうした店に出入りしたりしていることからも判るし、何よりハルから「男と関係持ったこともないくせに!」と痛烈に言われるところからも判る。
でもね……ハルは確かに真性レズビアンじゃなかったけれども、そんなリコに、つまり「ハルちゃんだから好きだ」というリコに絡めとられるように恋に落ちてしまう、のだよなあ。それが最終的に一生ものの恋にはならないにしても、女の子はそういう可能性を秘めているのだ。

まあこれは、桜沢エリカのコミックスが原作になっているというから、どの程度まで原作に忠実なのかは判らないんだけれど……ただ、映画としての、ビジュアルとしての、演者の間の取り方とか、独特のものを感じるんだよね。
見ようによっちゃあ、かなりドロドロした展開にも見えなくもないんだけれど、……だってリコはハルに恋するあまり結構強烈に立ち回るし……でも、なんというか、カラリとしているんだよなあ。

画の切り取り方の独特さかもしれない。リコがハルに声をかけるシーン、二人の顔のアップが切り返される。リコがココアを飲んでいるハルに声をオフにして「ココア?オイシイ?」と問い掛ける。釣り込まれるようにしてハルはリコにうん、うん、とうなずく。
色白でぐるりと目の大きいリコが、その目を見開いてハルに離れた場所から問い掛けるのがなんか、スクリーンのこちら側まで思わずつりこまれてしまう。オフビート、というまでには極端ではないんだけれども、かなり大胆に接写し、そして大胆に切り返す。そのリズムに思わずつりこまれてしまうのだ。

そうしてリコはハルととりあえず“知り合い”になるけれども、もうその最初から彼女への興味がどういう種類のものなのか隠そうとしない。
「だって女の子の方が、すべすべして柔らかくて気持ちいいじゃない?」ナンパしていると言っている訳ではないけれど、もうこの台詞だけで明らかだった。
ハルには彼氏がいるし、女の子を恋愛対象として見ていた訳でもない。だから普通に考えれば、リコから渡された電話番号に連絡などする筈はなかったのだが……。

でも、ハルの付き合っている男の子は彼氏、ではないんだよね。だって二股かけてるんだもん。しかもそれがハルも知るところで、ハルが突然彼の部屋に訪ねたりすると「連絡してから来いよ。ニアミスだったぜ」と悪びれもしない。
ハルには彼女と別れた、とメールする一方で、仲良く往来を歩いていたりする。それを問いつめると「向こうから会いに来ただけ」としれっと言う。
そして“とりあえず”セックスする。“彼女と別れた”という時点で、ハルはつまり“彼女”ではない訳で……完全に二番手。ていうか、セフレ。

ハルは、恐らくリコから言われるまで、この彼氏と“付き合っている”と思っていたんだろうけれど、違うよね。セフレだよ。ハルはリコと知り合ってようやく気付く。「付き合うって、何?会ってセックスするだけじゃん」と。
ならば本当に、付き合うってなんだろうと問われれば、多分この時点でもハルは答えられないんだよね。
ただ、リコといる時間は違った。たわいのないデートとハタからは見えるかもしれないけれども、お互いが寂しい相手を求めて“付き合う”のならば、ほんの数十分凸凹を埋め合うセックスは、その後もっと寂しくなってしまうだけだ。そのことにきっとハルは気付いたんだと思う。

ちなみにね、ハルは大学生、リコはもう仕事をしていて、指やらおっぱいやらといった、いわば事故や病気で欠けた部分をホンモノと見まごう技術で補うパーツを作る仕事をしている。
繊細な指先で集中して耳の薄さなどを調節しているシーンは、観ているこちらの耳がかゆくなりそうなリアルさである。
結婚式の指輪の交換のためにつくった指に新婦が感激したというエピソードなども挟まれ、彼女の仕事はとても充実しているように見える。

確かに、充実しているのだろう。そしてその仕事場に最も多く置かれているのが女性の乳房で、それは恐らく、乳がんによって失われた部分を補うため。
それは、まさに、判りやすく女性の性を失い、それをニセモノで補うという作業で、結婚式の指輪の交換の指のようには単純に喜べないことかもしれない。勿論、たとえニセモノでも戻ってきてくれたら嬉しいものではあるけれど……。

リコのクライアントの中に、レズビアンたちが集う店で偶然出会った中年女性の山城さんがいた。同好の志とでもいうように、彼女はそれ以降リコにまとわりつくようになる。確かにリコは患者のためなら全身全霊心を込めて作るけれども、でもそれは決して“愛”ではないのだ……。山城さんはそれをリコの愛と受け止めたがるけれど、そうじゃない。
でも女性の乳房は、誰かの愛を求めるために、得るために、どうしても必要なパーツなのだもの。キレイごとなんか言えない。男は勿論、たとえ相手が女でも、そして子供を成したりしたら余計に、女性の乳房は、愛を得るために不可欠なものなのだ。
……それを思うと、失われた乳房の“替わり”がズラリと並んだリコの作業室はあまりに辛く哀しい。

そう、山城さんを演じるカタセリノは本当に印象的なんだよね。作られた乳房として披露するのは、継ぎ目を描いただけで彼女自身のおっぱいだろう。豊満なおっぱいも年相応に引力に逆らえず、容貌も年相応に衰え、それでも若い女の子に恋して、かなり見苦しく彼女を引きとめようとする。
あるいはこれが、リコの将来の姿かもしれないと思うとツライものがある。まあレズビアンだからそうなるという訳では勿論なく、今の世の中、こういう境遇に陥る人たちはたくさんいる訳でさ……。
ただ、リコが女の子への思いを、つまり男が介在してくることにあからさまな嫌悪感を示して突き進むから、しかもそれが成就されるというのがなかなか想像しにくいから、辛くなっちゃうんだよね。

リコの男への嫌悪感は、勿論好きな女の子をセックス行為だけで占領されてしまうというそれであるんだけれども、でもリコの中には一家言があるんだよね。
こういう仕事をしているせいなのか否か、男と女の違いを染色体で説明する。エックスエックスが女、エックスワイが男。ワイが介在することで男が生まれる。
この男社会の中では、まるでエックスとワイが一つ対になっていなければ不完全だ、ワイがなければ立ち行かない、と思われているようだというのが、リコにはガマン出来ないのだろうと思う。だって、エックスエックスで女ならば、女だけで成立するじゃん、って。それで何か不都合があるの?って。
正直、リコの気持ち、ちょっと判る気がするんだよね。この染色体の構成を知った時、私も同じようなことを思った気がする。だってこの場合、Yは絶対的に劣勢じゃん、って。それなのに、なんでこんなに女が単純な力の元に虐げられるの、って。

まあ本作は、そこまでマッチョなことを言っている訳ではないのかもしれないけれど。ただ……リコはハルにしつこく言い寄る彼氏に「キンタマついているのがそんなにエライのか!」とソレを蹴り上げるしさ。
そしてこんな台詞も印象的だったのだ。「月がまんまるなのは一日だけだよ。それ以外はずっと欠けてるんだよ。欠けてる月もキレイだよ」って。
月って、まんま女性を指すよね。たった一日だけでずっと欠けてるってこと、それはつまり世の中の立ち位置としての女、というどうしようもない劣等感を指しているように思えてならない。
でもそれでもキレイだよと。むしろ、欠けていることを自覚できるだけ、女は幸せなのかもしれない、なんてさ。

でもハルはそこまで、リコの意図していたかもしれないところまで、汲んでいたかなあ……。
リコと心を通わせて、「これは友愛のキスじゃないよ」というキスをされ、そして自分の中の“女の子に恋する心”も呼び覚ます。幼い頃麻酔の注射を打った時、感覚のない自分のお尻を触って、男の人はこんなに柔らかいお尻を触れるんだと思ったと告白した時、リコから“友愛じゃないキス”をされた。
それをすんなり受け止め、彼氏とも別れてリコがハルの部屋に転がり込む形で一緒に暮らし始める。ハルが大学の友人たちとの集まりで遅くなった時、ヤキモチをやいたリコがその店に乗り込んできた。
その後、二人は気まずくなり、連絡をとらなくなった。しばらくの後、ハルから会いたいと電話が入る。その時リコは山城さんにお茶に呼び出されていた。
ハルからの電話に舞い上がり、自転車で駆けつけるところでカットアウト。そして最後はハルが自分の部屋を雑巾で丁寧にふき上げ、窓から吹き込む風が部屋のノートやらをバサバサと飛ばすのを見やる場面でエンドなんである。

ハルの場面は恐らく……時間が経っているよね。ラストクレジットの前、ブラックアウトしてハルの声と思しき叫び声がつんざく。あれは……うーん、なんか、いろんな意味を感じさせるけど、とりあえずはリコとはハッピーエンドは迎えられなかった気がしてる。凄く、哀しいけれど。

リコはね、普通の?家庭に暮らしてるんだよね。クリーニング屋を営む両親、「親は汚れをキレイにして、私は足りないものを補う」と似た血を引いていると言う彼女が、その両親を誇っていることがよく判るんである。
そして同居している「ちょっとボケてるの」というおばあちゃん(だけど志茂田景樹!)にハルとの“友愛”のキスシーンを見られても、決して“ボケてる”理由だけじゃなく動じないのは、家族として信頼しているからなんだよね。
両親を演じるのが光石研と根岸季衣なのがまた、説得力があるんだよなあ。それでもリコが自分を鎧の中に隠すように、地味な黒づくめに自転車で移動しているのが、何とも悲哀を感じさせてね……。

リコは化粧っけがないし、ハルもスカートをガンとしてはかないし。何よりリコがハルを見つけたのは、ココアの泡が産毛の処理をしていない鼻の下におひげのようにくっついたからなんだった。
彼氏から、ヒゲぐらい剃れよと言われていたのか、気にしていたハルに、私だって剃らないよ、とリコは言い、産毛があるからこそ泡がつくハルをたまらなく可愛く感じて恋に落ちちゃったのだ。
劇中、ハルが彼氏と惰性のセックスをする場面、ワキの処理をしていないハルの、そこが大写しになって、覚えずドキリとさせられた。これはやっぱり……そんな前提があるからだよね?
鼻の下のうぶげが前提でコレとはかなりダイタンにやっちゃった感もあるけれど……でも、人間同士愛し合うのに、「女なんだからムダ毛処理ぐらいしろ」てのは、何それ、マネキンとセックスしてろって言いたくなる……かもしれない……ワキゲは完璧に処理するのは難しいからなあ(爆。そーいう問題じゃないって!)

ムダ毛処理しないダボダボパンツルックの満島ひかりはこの役にピッタリ。彼女はほおんとに、旬の女優だわよね!
リコ役の中村映里子の色白と対照的に地黒っぽく、それもあってスカートなんか似合わない、と思い込んでいるんだけれど、劇中、一度だけピンクのミニスカワンピースを着る。
あのカッコは絶対、リコに見せたいと思ったに違いないんだけれど、結局はそのシーンは実現しなかったのか、スクリーンには現われないままである。

なんかね、イヤな予感もするんだよね。リコはハルからの連絡に有頂天になって急ぎ自転車で向かう。その途中でカットアウトするんだもの。
そしてハルが部屋を、そう、リコと一時過ごした部屋を床から何からキレイに拭きあげている場面でブラックアウトしてラストクレジットになる。
ブラックアウトの中、ギャーとも聞こえるハルの絶叫がかぶさる。……これじゃ、リコがハルに会いに行こうとする時、死んじゃったみたいじゃない??いやいやいやいや!それはうがちすぎ、だよね??

ベタだけど、リコがハルに嫉妬めいた思いをぶつける居酒屋でのシーンが鮮烈だった。
周りにいる客がエキストラと判っていても、「私だってハルちゃんにいっぱいキスしたい」と絶叫するリコを、見て見ぬ振りするサラリーマンたちに、見てるこっちがドキドキしてしまう。それぐらい……彼女たちのリアリティは徹底してた。★★★★☆


神様のくれた赤ん坊
1979年 91分 日本 カラー
監督:前田陽一 脚本:前田陽一 南部英夫 荒井晴彦
撮影:坂本典隆 音楽:田辺信一
出演:桃井かおり 渡瀬恒彦 曽我廼家明蝶 河原崎長一郎 吉幾三 嵐寛寿郎 吉行和子 小島三児 鈴木伊織 樹木希林 正司歌江 楠トシエ 森本レオ 天草四郎 日野道夫 小林トシ江 武知杜代子 志麻哲也 泉谷しげる 成瀬正 片桐竜次 小松政夫

2010/4/1/木 劇場(銀座シネパトス)
桃井かおりのノーブラに思わず萌える。いや、いやいやいや、そこから切り込んでどうする(爆)。いやーでも……いい感じに女盛りに差しかかってきた桃井さんの、今も昔も変わらぬあの喋りに感激する。
そして、実はあまり若い頃の彼を見たことがなかった渡瀬恒彦の、これも今も昔も変わらぬひょうひょうとした明るさと色気に惚れ惚れとする。
若い頃からこれほど印象が変わらない二人というのも、珍しいかもしれない、などと思う。

彼、晋作は彼女、小夜子のヒモだというけれども、彼女の方もちっとも芽の出そうにない女優への夢を追いかけていて、オンボロアパートで、二人とも大したレベルの差はなさそう。
いや、ヒモだというのは何かの解説で読んだのかしらん。彼はプロレスや芝居でサクラの掛け声をかけるという、どーしよーもないヤクザな仕事で食い扶持をなんとか稼ぎ、しかしどうやら夢は漫画家らしいんである。
しかし彼が漫画を描いているところは、冒頭にほんのちらりと示されるだけで、その後の展開が怒涛のごとくなのでスッカリそのことを忘れているぐらいなんである。
正直、それが自分の夢なんだというほどの気迫も感じられないし。いや、それはきっと……本当にここまでいくらやってもやっても、彼の方もやはり芽が出ないから、なんだろうな。

小夜子のことは好きだけれども、さりとて彼女から赤ちゃんが出来たと言われればまだまだ覚悟が出来ている訳もなく、及び腰になるばかり。
かといって彼女から、なら未婚の母でもいいなどと言われるとそれはそれでうろたえるていたらく。
彼女の方はそんな具合にシッカリしているようにも見えるけれども、エキストラのような役も満足にこなせず、ひと言もらった台詞もアッサリカットされるといううだつのあがらなさ。
どうやら二人とも夢がかなうことはなさそうな感じ。

そう……小夜子が一生懸命に練習していた幻の台詞「私たちが考えていることって、おんなじなんじゃないかしら」が、本作の中でその後、二度出てくる。
一度目は、晋作が彼女とのエッチを期待して口にし、肩透かしをくらう場面。そして二度目は……今度こそ二人の気持ちが本当に“おんなじ”になるエンディング、きびすを返して二人走り出す場面である。そしてそれが“神様のくれた赤ん坊”なんである。

でもこのタイトル、本当にあの男の子のことを指していたんだろうか?だって“赤ん坊”というにはちょっと大きすぎる……10歳そこそこという感じだもの。
この物語の始まりが小夜子の妊娠騒動だったから、てっきりそれが“神様のくれた赤ん坊”なんだと思っていたら、生理が遅れただけの早とちりだったのだ。
でも小夜子はしばらくそれを晋作に隠している。というのも、予想外の事態が起こったから。
そう、その10歳そこそこの男の子は晋作の昔の女の子供。その女、明美の隣室だというオバチャン(いや、イメージでそう言っちゃったけど……当時の樹木希林も相応に若いわよね(爆))が、明美が自分に子供を預けて男と南米にトンズラしたんだと言って連れてくるんである。
明美の手紙には、父親の可能性がある五人の名前が書かれ、そのうちの一人、唯一都内に住んでいたのが晋作だったのだった。

確かに明美という女と関係はあったけれども、突然のことでうろたえ、当然小夜子はブンむくれて部屋を出て行くし、他の四人を訪ね歩いて本当の父親を探し当てるしかないと晋作は決意する。
無関係を決め込んでいた小夜子も、何気なさを装ってついてくる。いや、本当に彼女にも別の目的があったのだ。
父親候補の男たちが、東京より南に点在しているのは偶然というには都合が良すぎるような気もするけれど……ていうのは、小夜子がきっとずっと知りたいと思っていた自分のルーツ、女手ひとつで育ててくれた母親のルーツと、まぶたの裏に焼きついたままの、古い家並みの隙間から見える白い小さな可愛いお城がどこなのか、どこから見た景色なのかを知りたかったのだ。
それがほんの思いつきのような気持ちだったのか、実はずっとわだかまりを持ち続けていたのか……。
小夜子の母親は三年前に死んだ。そしてこの旅で、彼女の知らなかった母親の驚くべき秘密が明らかにされるんである。

そうなんだよね。一応メインはこの男の子、新一の父親探しだし、次々と登場してくる父親候補たちは一様に個性的で、これだけで充分作劇出来るのに、いわばウラ展開ともいえる小夜子の自分探しの旅(まさに、文字通りの意味での)が重厚とも言えるほどなもんだから、新一君の父親探しがなかばコメディリリーフのように思えるぐらいなのだ。
だって小夜子の母親は、女郎さんだったんだもの。

桃井かおりの世代の母親、となると、遊郭とか女郎とかも範疇に入るのね、というのがまずちょっくら衝撃だったりもする(爆)。
だって、小夜子はそこまでの展開を予想なんてしてなかった。母親は女手ひとつで自分を育ててくれて、父親は事故死した。そう聞かされていた。
実際、最も新しい記憶である尾道で、母親は美容室に勤めていたんだし、小夜子の青春もここで花開いた。初恋の相手が経営している理容室で、あの頃と同じようにドキドキを隠しながらうぶげを当たってもらったりした。
そう、この時点ではよもや、そんなシビアな展開が待っているとは思ってなかった。
母親の生家を訪ねた。崩れかけた、タイムスリップしたかのような場所から、耳の遠いおじいさんが出てきた。母親が移った土地と、その勤めていた店の名前を教えてくれた。
「オオノロウ」音だけじゃイメージがつかめず、旅館か中華料理屋かと思っていたら、遊郭の女郎屋だったのだ。

……てな展開をどんどん追ってっちゃうと、ホントに小夜子の、桃井かおりだけの話になっちゃうから(爆)。
そう、そうなの、基本、この男の子、新一の話なんだから。彼はこんな事情で大人の間を行ったりきたりするからムリないんだけど、ぜえんぜん、喋らないんだよね。劇中台詞は二言三言ぐらいじゃないかなあ。
ジャイアンツファンのこの子が、ライオンズ選手のサインボールなんていらない、王選手のがいい!と言うあたりぐらい。
笑顔を見せることもほとんどない。そう、それこそこのあたりのくだりで、ようやく晋作に心を開いてニッコリするぐらい。
でもそりゃ当然だ……だって今自分を連れ歩いている大人たちが、自分をジャマだと思っていることを判らない筈がないんだしさ。
実際、列車の中で突然いなくなって、違う車両できびしい目つきで車窓の外を眺めていたりする。
その時小夜子は「この子は大人になったら、この旅のことをどう思い出すのかな」とつぶやいたけれど、このまま行ったら、ただ苦い思いで思い出すだけだった、だろう。

そう、この時点では、二人に心を開いているハズもなかった。でも、ほだされるっていうんじゃないけど、彼らの距離は近づいてくるのね。
小夜子が母親の過去に呆然とし、母親と同じように客をとってみようと思ったのか夜の街角に立って、傷ついて帰ってきた夜、長いこと倦怠期だった晋作と久しぶりに愛しあった。
あの場面、一緒の部屋の晋作がいないことに気付いた新一が、そっと小夜子の部屋の前まで抜き足差し足歩いていって、ドアが開かなくて、そのドアの前に寄りかかる場面。
あるいは、小夜子が旅館でテンションがあがって女中さんと飲み明かし、窓からげええとやっている(ヤメろよ……)。そんな彼女の背中をさすり、タオルを差し出し、水まで持って来る出来の良さは、そりゃまあ……ソウイウ母親だったのだろうけれど。
でもこの時から小夜子は確実に、この子の不憫さに真正面から向き合うようになるし、それは彼女自身の、隠された不憫さと共鳴し合うものがあるから……そう、この頼りない同棲カップルのところにこの子が来たのはつまり、運命だった、のよね。

ていうか、ていうかさ!いやだから、父親探しがメインなんだって!だってそれこそがメッチャ面白いんだもの!
最初は尾道。尾道というだけでテンションあがる。大林映画と「東京物語」以外で尾道を見たのは初めてのような気がする。
チャーミングな坂道をちゃんと見せて、その途中に風情のある旅館がある。
最初の父親候補は市長選真っ最中。突然の言いがかりめいた話にも意外に動じず、それどころか「兄弟、兄弟!」とアッケラカンとしてる。きょ、兄弟って……つまりそういう意味すか?(汗汗)
東京にいた時代は何人もの女と遊んでいたから、イマイチ覚えがないんだと彼は言う。ならばと突っ込みかけると、引っかかったなとばかり、その頃にはもうパイプカットをしていた、ここに証明もある。そうでなければもたないからな。という訳で、キミは対立候補の陣営からの脅迫だろう!と言われてブタ箱にブチこまれてしまうんである。
実際は晋作をとりついだ秘書こそが真犯人?で、シェンシェーの名前を語っていたんであった。養育費という名の大金をせしめた晋作と小夜子は、これがカネになるらしいことを知って今後の旅の方針が大きく変わる。
ということは、この時点で二人は、この子を誰かに渡すつもりはなくなったのかもしれないなあ。

次の候補者、二人目が一番、サイコーだった。だって吉幾三よ!なあんて予想外のキャスティング!ちゃんとなまってるし!だけどこの土地(どこだっけ……とにかく東京よりは南だ)でこのなまりは絶対おかしいけど(笑)。
結婚式当日に思わぬ事実を聞かされた彼は、最初こそただのゆすりだろうと(まあそうなんだけど)冷や汗ながらも高飛車に出ているんだけれど、ちょっと強く出られると突然縮こまり、しかも“養育費”はたった5万というケチさ!
業を煮やした小夜子がこの事実を暴露してやれと、新一の手を引いて披露宴でスピーチを始めると、彼より彼の父親が青くなり、箸袋に大金を約束するむねを書いて彼女に見せると、まー、さすが桃井姉さん、いたいけな新妻になまなましい話を暴露しようとしていたところを見事に方向転換、“亡くなった女友達の忘れ形見”というしんみり話にまとめあげ、彼はお堅いからきっと童貞ですヨ!とそれはちょっと言いすぎだわよ!
若き日の吉幾三の可愛さ、と、そしてやっぱりこの頃からあるアヤしさ(でかいサングラスが似合い過ぎる……結婚式の紋付き袴でそれをかけるかよ)に大喜びしちゃう!

三人目の候補は、うだつの上がらなかったもと野球選手。ライオンズバーで働いている。
私、ライオンズが元々九州にあったなんて知らなかった。スター選手を輩出したこともあってライオンズ人気が高いという地で、昔の栄光もどこへやら、経営者でもなくただの従業員として、ライオンズのユニホームを着て立ち働いている男に養育費を払う余裕なんてある訳がない。
それどころか、晋作がライオンズを悪し様に言い、新一ともどもジャイアンツを褒め上げたせいで、客たちからしめあげをくらって早々に立ち去るんである。
そしてこの夜、母親の過去を知って、つまり父親はひょっとしたら、どことも知れぬ客の一人かもしれないと思い悩んでヘコんでいた小夜子は、晋作と久々に燃えちゃうんである。
そして晋作は小夜子に、産んでもいいよと言うのだ。彼女が、ゴメン、あれ、早とちりだったと告げると、彼はホッとした顔をするでもなく、ただ彼女の肩をぎゅっと抱き寄せたのだった。

そして四人目。最後の候補者。ここで出張ってくるのは男ではなく、女。候補者は既に死んでしまっていて、その奥さんが二人の相手をするんであった。
かつては極道であっただろう、てか今も充分その雰囲気を伝えている名家、高田組。
奥さんを演じるのは吉行和子で、確かに若いけどビックリするぐらい変わらない。ピシリと背筋が伸びていて、鳶の現場でも凛と指図をする彼女に、晋作も小夜子も、一応型どおりの台詞は口にするものの、養育費を脅し取る気持ちも萎え気味な感じである。
しかし思いがけず、向こうからアッサリと引き取りますと言われ(その前に、仏壇に向かってひとしきり夫への悪口雑言(爆))、しかも、同じような例でこれまで何人も引き取っているんだというおおらかさ、てか、豪傑。
新一もその子供たちと楽しそうに遊んでいて、ここなら幸せになれるね、と晋作と小夜子は辞するのだが……。

ここに至って、小夜子の“自分探しの旅”が、確かに意味があったのかも、と思った。
大人は子供をどうせ判ってないんだからと軽んじるけれども、小夜子が新一ぐらいの年だった頃の風景を彼女は強烈に覚えていて、ずっとずっと、その場所がどこだったのか、知りたかった。
あの頃遊んでいた場所……駄菓子屋や、角を曲がったタバコ屋や、赤いポストも鮮明に覚えていたのだ。
そして、古い家の狭間から見える小さな白いお城を、ついに見つけた時、その頃と同じ目線から眺めようと、小夜子は道に腰を下ろした。
晋作も、小さな新一さえも彼女に倣って可愛いお城を見上げた。

新一ももちろん、この旅のことを思い出すに違いない。でもその思い出す場所が、一緒に旅した晋作と小夜子の元でなのか、そうじゃないのかで、大きな違いがある。
でも、あんなおおらかな気質を持った高田組ならば、新一だって充分幸せになれたと思うけれど。
きっと、晋作と小夜子は、自分たちが幸せになるために、きびすを返したのだ。
「忘れ物をしたような気がする」とつぶやいた晋作に小夜子が、そう、こここそが一世一代の名演技(いや、定義としては演技じゃないのだが)「私たち、考えていることはおんなじじゃないのかな!」
同じなの、同じなの!それは勝手なようだけど……いや、勝手なんだろうけれど、それでいいんじゃないの。

誰かの幸せは、きっとその誰かにつながる幸せにつながっているんだと思うよ。

……なんか……涙。やん。年?(爆) ★★★★☆


カラフル
2010年 123分 日本 カラー
監督:原恵一 脚本:丸尾みほ
撮影: :大谷幸
声の出演:冨澤風斗 宮崎あおい 南明奈 まいける 入江甚儀 藤原啓治 中尾明慶 麻生久美子 高橋克実

2010/8/25/水 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
待望の原監督の新作。タイトルが地味っつーか、ネラッてないなあと思う一方で、予告編で既に、非常に凝った心理描写をのぞかせていて期待を抱かせた。
クレしんを離れてからかなり間をおいて、やっと長編を作ってくれた前作から更に重いテーマ。前作はまだ、夏休みの子供向けみたいなイメージがあったから。
本作はそれでも、売れっ子役者を声優に配しているし、主人公は中学生だし、そういう色がなくもない。タイトルもヘンに凝ってないし、似たマーケティングは感じるんだけど、これはかなり重い。

だって、アイデンティティの話なんだもの。人生の、一生かかっても解けないアイデンティティの話。しかも、この主人公は一度その重い絶壁にぶち渡って、自ら命を断ってしまう……一度、死んでしまうんだもの。
カラフル、は地味ながらも勿論重い意味がある。キレイな色も、汚い色も、人間は持っていていい。カラフルでいいのだと。

この世によみがえってきた真は最初、自分が自分自身に戻ってきたことを知らない。前世に重い罪を犯した彼が、輪廻のサイクルに戻るために、命を断って魂が抜けた少年の身体に送り込まれて、“修行”をしているんだ、と思っているんである。
いや、それは確かにそのままそうであり、つまり真の犯した罪が自らを殺したこと、つまり自殺であることを、最終的に彼は思い出すことになる。自らの犯した罪を思い出すことも、この“修行”の大事な一環だった、という訳なんである。

だからこそ真をこの“修行”に導いた案内役のプラプラも、情報をあまり彼に教えることが出来なかったし、そして……この表面上の情報の外にこそ、真のアイデンティティの大切な部分があったというところが、この物語の大きなキモである。
つまり、真は自分の悲惨な状況に傷ついていて気がついていなかったけれど、闘い続ける彼を見つめ、それによって励まされていた女の子がいたことや、少しバリアを外してみれば、ささいなことなんて気にしないざっくばらんな男の子だって同級生の中にいたってこと。

それだけ抜き出して考えてみると、確かにこれって実に教育的な物語なんだよね。確かに夏休みの子供たちのために作られた、みたいなさ。
でも、そのために真が一度、自ら死を選ばなければいけないっていうのは、フィクションとしてもやはり重くて見ていて辛い。それが、恐るべきことに現代の日常なのだということに思い当たると、更に気が滅入るんである。

そして、“一度”などと言ってしまったけれど……実際、真はまさに“一度”死んで生まれ変わるのだけれど、でも実際は、死んでしまえばそれっきり。
気付かずにいたけれど自分を理解していてくれたかもしれない女の子や、友達になれたかもしれない男の子の存在すら知らずに子供たちは死んでいくのだ。

これってつまり、まさに人生の縮図なんである。私はね、中学生って本当に大変な時期で、家庭でも学校でも追いつめられた真が、半ば衝動的とはいえ自ら死を選んでしまった気持ちを、幼いからとか、命の重さをまだ判ってないとかは、思わない。私たち大人より、ずっとずっと辛くて厳しい時を過ごす、特に今の時代はそうだと思う。

でもね……それが辛いのは、経験値がないからなんだよね。大人になっても、家庭でも職場でも追いつめられる状況は変わらない。陰惨さは、大人も子供も変わらないのだ……残念ながら。
でも、経験値が上がると、逃げ場を見つけることもできるし、ちょっと落ち着いて見回してみれば、こんな風に、判ってくれる人を見つけることも出来る。つまり“こんなこと”で死んでしまうのは、バカらしいのだ。

元の自分を思い出さないままの真が「よっぽどひどいことしたんでしょ」という“犯罪”は、自殺。自らを殺す殺人が最も重い罪である、というのは、実にキリスト教的だなあと思うんだけれど、今の時代はそれこそ、強く生きろとか、負けるなとか言う以前に、こういう認識を植え付ける方が確かに有効かも、という気がしている。

一度魂が天国に行きかけた真は、“修行”のために自らの身に戻されても、その肉体は他人だと思っているし、何ひとつ思い出せないんだよね。
だからひどく不遜な態度をとって、それまでの内向的な真を知っていたクラスメイトはひどく狼狽するし、何より彼を心のよりどころとしていたクラスメイトの唱子は真君らしくない!を連発するもんだから、すわ正体がバレたかと焦ったりもするんだけれど……。

この唱子を演じるのが宮崎あおい嬢だというのを、ラストクレジットで知って大いに驚く。こう言っちゃナンだけど、実に“イジメられやすい”キャラを、そのキャラクターデザインに見事に沿って体現ならぬ、声現しているもんだから、驚嘆してしまう。
今までと違う真君を心配して、家に見舞いにまで来る彼女を、うっとうしがる彼はたわむれに押し倒し、「メガネはずしてもブスだな」なんて、あまりにもヒドいことを言う。そう言われても仕方ないようなキャラで(爆)、なんか身につまされちゃう(爆爆)。

このキャラ造形、そしてあおい嬢がどもり気味に“声現”するのも痛々しいぐらいリアルで、凄い思い切ったよなあ……と思うのだ。
やっぱりさ、なんだかんだ言ってアニメの女の子のキャラって、どんなに秀作で、どんなにリアルなものでも、女の子のキャラはやっぱりさ、それなりに可愛かったもの。なんか、私を見ているような気がして、何とも胸が痛かったなあ……。
彼女が最後まで、しきりに、真君を心配しているのを、「好きとかじゃなくて、同志って感じ」などと言うのが、もちろんそれはそうなんだろうと思うんだけれど、やっぱりちょっと、イケてない自分を押し込んでいるんだろうなあ、って気がしてさあ……。

一度死を選んでしまった真は勿論壮絶な状況におかれていた訳なんだけれど、彼のそれが、イジメでというよりは、密かに想いを寄せていた後輩の女の子がウリをしていた現場と、母親が不倫をしていた現場とを同時に遭遇してしまったことが一番のキッカケであることを考えると、やっぱりなんか、男の子っぽいなあ、という気もしてしまうんである。

女の子は恐らく、こういう理由では自殺しないと思う……いや、それは極論だけど。でもね、私は唱子が、「今は殴られたり靴隠されたりした前よりマシ。透明人間だから。誰も気にしない」と言った時、うわ、強いな、と思った。だって、それって、ある意味、殴られたり靴隠されたりするよりキツいかもって、思っちゃったから。

いや……そんなこと、そこまでの経験をしていないのに言うべきじゃないけれども、でも、真が追い詰められたのは、出来のいい兄にバカにされ、父は貧乏くじばっかり引いていて尊敬できないし、母は不倫してるし、そして自分は……そのどれもの存在感にすら、勝てない、いてもいなくてもいい自分でさ。つまり今唱子が置かれてる状況にこそ、彼は耐えられなかったんじゃないのと思っちゃったから。

誰かに存在を認めてほしかった。それは、真が初めて出来た友達に、そのたった一人の存在で、音を立てて人生が変わってしまったことで、実に明らかなんだよね。
本当に、鮮やかだった。プラプラが呆れるほど、ささいなことで、彼と一緒の高校に行こうと、ガゼン受験勉強を張り切りだす。
それまでは、成績も悲惨だったから、受けりゃ入るような最底辺の私立校に行くつもりだった。
なのに、そう、プラプラに言わせれば、“肉まんひとつ”でいきなり変わったのだ。
靴の安売り店で仲良くスニーカーを買った帰りに寄ったコンビニで、フライドチキンと肉まんを分け合った時から、真は受験勉強に邁進しだす。

いや、その前に、その早乙女君と偶然出会ったニコタマで、彼が“受験勉強から逃げるため”とかつて存在した路面電車、“玉電”の足跡を辿る旅につきあったのが始まりだった。
いや、偶然ではなかった。“基本情報”で、死ぬ前の真が後輩のひろかに思いを寄せていることを知った彼は、その生前の記憶に吸い寄せられるように、天真爛漫な彼女に惹かれる。ニコタマに行ったのはひろかを追っていったのだ。

ひろかがウリ、つまり売春をやっているのを少年らしい潔癖な正義感で止めようとするも「ひろかが欲しいものは、三回すれば買えるんだよ」とか、「大人になったらじゃなく、今欲しいの!」とか「真君だったら2でいいよ」などと言われて、すっかり意気消沈してしまう。
“生前”の真がここまで勇気を出して行動したとしても、この時点でやっぱり結果は同じだったろうと思われる。違うのは……それまでの“基本情報”では出てもこなかった唱子が、真とひろかが一緒にいるところを見て心配するものの、いかにも同性に嫌われそうなひろかのことをしかし唱子は「真君がいいならいいんだけど。私、あの子のこと、嫌いになれないから」と言うことなんだよね。

唱子のような女の子が最も嫌うタイプかと思ったから、この台詞はちょっとビックリしたんだけれど、よく考えると確かにそうかもしれない。
唱子が嫌うのは当然、自分をいじめるようなヤツらだろう。ひろかは自己顕示欲が強くてイラッとするほど女の子女の子してるけど、他人を傷つけることはしない。ていうか、そんな余裕はない。
時々自分の汚さにどうしようもなく気がついてしまって、どうしようもなく傷ついてしまって、「ひろか、キレイなものが大好きなのに、なぜか時々壊してしまいたくなるの」と自分でも自分を持て余して大泣きしてしまう。

唱子とは全くキャラの違う、相容れない女の子ではあるけれど、でも、唱子が彼女のことを嫌いになれない、と言うのが判るんだよね……すんごくこのあたりの繊細さが素晴らしいんだよね。
友達になれるとか、気が合うとか合わないとか、そんな単純なことじゃないんだ。人間ってさ、だから、そんな簡単に死んじゃダメなんだよ。

いや、やっぱり真の家族のことに言及しなければならない。それこそ“基本情報”では、いくら“修行”とはいえ、とても愛着を持つのは難しいメンツだった。
でもそう……“基本情報”つまり、目に見えることだけで、一体何が判るというのか。いや、確かに真が一度死んでしまうまでは、“基本情報”とそれほど変わりはなかったのかもしれない。
出来の悪い弟をバカにして、最近は会話もない兄。真の生還後は不倫もやめたけれども、真に対してまるでハレモノに触るような母。妻の不倫も知らず、出世も出来ないノーテンキな父。確かにその通りだったのかもしれない。

四人家族でテーブルを囲む場面は、真が息詰まるのも判るほどにぎこちない。しかし、真が覚えていないだけで、それ以上に家族は崩壊していたんである。
残業ばかりの父親は帰りが遅く、兄は塾通いで、家族でテーブルを囲むなんてことすらなく、それどころか母親は出来合いのおかずでお茶を濁していた。それは無論、不倫にうつつを抜かしていたからに違いなく……。

兄が相変わらず無口なのは、いきなりおしゃべりになったら真が不自然に思うかもしれないから、という配慮だった。彼が医学部に志望を変え、浪人まで覚悟してそれに本気になったのは、出来がいいから冒険してみようってんじゃなくて、弟の奇跡の生還に心を動かされたから。
残業ばかりで帰ってこれなかった父親も、努めて夕食に顔をそろえるようになった。
成績は悪いけれども小さい時から絵だけは上手かった弟のために、実技重視の芸術系高校を探して来たのがこのムッツリ兄だと知った時、真ならずとも、観客たちもハッと胸をつかれたのだ。

真はこの直前まで、なんたって自分が真自身だと思ってなかったんだから、絵を描くのが得意だっていうのも、完全にひとごとだった。
でも、何くれと世話を焼く母親に、不倫の記憶で嫌悪感を抱き、“母親ぶって”と辛く当たるあたりから、真が、以前の真なら、そう思っていることを抱え込んでいたであろうことを、だからこそ自ら命を断ってしまったんであろうことを考えると、そう、段々と……真が傍若無人になればなるほど、これは真自身だからじゃないの、という思いを強くしていくんである。

元の真には出来なかった、全てをさらけだすことは、確かに一度死ななければ出来なかったのかもしれない。あるいは、一度死んだ気にならなければ、出来ないのかもしれない。
母親に辛く当たる真にプラプラは厳しく言うけれども、でもこれこそが通過儀礼なんだよね。
プラプラは、自分の罪を思い出せず、神様からこのお役目をおおせつかった。つまり永遠にさまよい続けている。真にとっての恩人、水先案内人だけれど、真が自らの罪と自らの存在を思い出し、取り戻した時、プラプラの記憶は彼から消されてしまうのだ。ご褒美として。なんと、切ないのだろう。

うっかりスルーしてしまったけれど、本作の一番のクライマックスは、兄が見つけてきてくれて、母親が下見までしてくれた、その芸術系高校ではなく、初めて出来た友達と一緒に行きたい、と都立高校の受験を家族たちに宣言する場面である。
初めて出来た友達だと、今まで自分はバリアを張っていたからだと、吐露する真の時点で、胸にグッとせまる。
だってだってだって、初めて出来た友達って言葉、こんな重いもの、ないよ。友達と、なんてことないことではしゃいで、そんな学校生活を送りたい、本当にそれはささやかなことで、家族が探してきてくれた、真の未来に通じる学校の方が彼にとってはいいんじゃないのと大人ぶったことも思っちゃうんだけど……だって家族は、真の才能を認めているってことなんだから……でも、こんなささやかなことが、どんなにかどんなにか素敵で、大事なことなんだもの!

涙をボロボロ流しながら、しぼり出すように言う真に、観客は勿論ウルウルだし、そして母親も涙を流し、お兄ちゃんが二人にティッシュを差し出すのも泣けるんだよね!
そしてぐつぐつ煮立った鍋を真によそって、彼がそれをふーふーしておいしそうに食べる姿にまた涙をぬぐうお母さん。
それまでは、バターを塗ったトーストも、真の好物のケチャップ味のハンバーグもむげにされて、父親と出かけた釣りに持たせてくれた弁当も手をつけずにスナックなんか食べてさ、そんな描写が続いていたから……殊更に胸に迫る。

あ、そうそう、真が神社でチンピラたちに絡まれてボコボコにされ、倒れていたところをお兄ちゃんが見つける場面もあってさ、真を背負ってハアハアいいながら走るお兄ちゃんの場面に、もうこの時点で、冷たいお兄ちゃんなんかじゃないって判ってたけど、判ってたけど……ヤバかったなあ!

でもだから、だよね。大怪我をしてしばらく寝たっきりの真が、相変わらずお母さんの手料理を無視するもんだから、観客側にさすがに、ダメだよ、真……という気持ちが芽生えてきて、このあたりのじわじわとした変化が上手いんだよなあ。
真が早乙女君と出会って、唐突と思うぐらいにいきなり中学生らしくなるのもやっぱり同じことでさ、中学生の男の子の緩急は、まさに人生が変わる大波だからなんだもん。

10年前に森田芳光の脚本、中原俊監督で既に実写での映画化されていたことは知らなかった。これはちょっと観たかったなあ。
クレしんの声優メンバーが、応援さながらにそろって出演していることが嬉しい。気鋭のアニメ作家のもう一翼、今敏監督の訃報が同時に聞こえてきたことが、なんとも感慨深かった。原監督には、もっともっと精力的に作り続けてもらわなければいけない、のだ。 ★★★★☆


借りぐらしのアリエッティ
2010年 94分 日本 カラー
監督:米林宏昌 脚本:宮崎駿 丹羽圭子
撮影: :セシル・コルベル
声の出演:志田未来 神木隆之介 大竹しのぶ 竹下景子 三浦友和 樹木希林

2010/7/25/日 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
今ふと、タイトルを入力してみたら、ああそうか、この音だと普通は仮り暮らし、になるんだなあ、と思い当たった。ここが最終地点ではない、仮り暮らし。
最終的にはアリエッティたちは長年住み慣れた地を追われる訳で、それは人間に見つかった時には否応なくそうなるというのは、ずっと判っていて恐れていたことで……と考えると、長年住み慣れてはいても、仮り暮らし、であったことにも間違いなかったのかなあ、と思う。
そのあたりももちろん、充分考えられた上でのこのタイトル、なんだろうなあ。

それにしても借りぐらしとは上手いことを言う。人間の生活からちょっとずつ必要なものを“借りて”暮らしている小人たち。
実際には返す訳ではないんだからちょっと違うよなとも思い、そのあたりがお手伝いのハルさんが「泥棒小人」なぞと呼んでしまうところでもあるのだけれど。
でも勿論そのハルさんだって、本気でそう思って怒っている訳じゃなく、小人が本当にいたんだと少女のように興奮しているだけなんだけれど。

角砂糖一個、ティッシュ一枚なんていう、絶対に気づかれないような量をちょっと“借りて”しまえば、一年やそこら生活できてしまうのだから、借りる、ぐらいの表現でいいのかもしれない。
そして、彼らは人間に見つかってはいけないということを強固な掟にしているけれど、一方の人間は代々、薄々気づいているのであり、そして多分……小人たちの方も気付かれているのを代々、薄々、気づいている、と思う。
少なくとも、アリエッティのお父さんは気付いていたと思う。彼はひょっとしたら最初から人間を、いや、ここに住んでいる人間をある程度信頼していたんじゃないのかしらん?だからこそ彼らの一族だけが。ここに残り続けていたんじゃないのかしらん?

おっとっと、また大分先走ってしまったけれど。あのね……最近の宮崎駿氏のヒューマニズムが、説教じみた傾向にいく感じがちょっと苦手だったんだよね。でも本作はなんか久々にホッとしちゃったなあ。
これは監督は宮崎氏ではないんだもんね。脚本は手がけてるけど。やっぱりその辺の違いってあるのかなあ。もしかしたら同じ脚本でも、宮ア氏自身が手がけたらそういう傾向をやっぱり強めて描いてしまうのかもしれないと思う。

だって、物語中にそういう傾向がない訳ではない。アリエッティを見つけてしまった翔は、君たちは滅びゆく運命だと言う。
正直この場面は、なぜ彼がわざわざこんなことを口に出して言うのか理解に苦しむ印象もあり、かなり唐突感があったんだよね。
つまり、自分たちの生活を優先する得手勝手な人間たちが、そうやって弱い種族を滅ぼしていくんだという戒めを示していたのかなあと思う。
そしてそれを、宮崎氏自身が演出したら、もっとこの部分を強調していたような気もする。でも本作ではちょっと唐突な感じがした……のが、返って良かったのかもしれない。

アリエッティはそれに対して、私たちのことなんか何も知らないくせに、絶対仲間たちが生き延びている、私たちはそう簡単に滅びたりしない、と毅然と言い放ち、翔はそんな不用意なことを言ってしまったことを後悔する……。
翔が心臓の病気を患っていて、難しい手術に不安を抱えているといっても、アリエッティにこんな残酷なことを言うだけの動機も感じられないし、やっぱり先の台詞は唐突感があったんだよなあ。それこそ、宮ア氏がどうしても言いたかったことなのかも知れないけど(原作に実際にあったらゴメン!)。

なんて思うのは、この小人世界の魅力自体が、もうそれだけで、ワクワクと心躍るものを感じたからに他ならないだろうなあ。
いつの時代の子供たちもきっと、小人の世界があると信じ、その世界を想像して胸を躍らせるだろう……なあんて思うのは、私自身がそうだったからなだけだけど(爆)。
私世代の人ならきっと、共感してくれる人も多いんじゃないかと思うんだけどさ。佐藤さとるが描いたコロボックルの物語。私はあのシリーズを、本作を知った時即座に思い出しちゃったのだ。

本作は思いっきり日本の舞台で、人間たちもみな普通に日本人なのに、そこに“借りぐらし”をしている小人たち、その女の子の名前がアリエッティというのもなあ、と思ったり……。
まあ、元々が外国文学が原作で、だからだろうとは思うけれど、ならば日本を舞台にすることとそれは相容れるのか?などと思うのは、やはりやはり、佐藤さとるの世界にどっぷりつかった子供時代を過ごしたからだろうと思う。

コロボックルはめっちゃ日本だし、そしてアリエッティたちのように、他に仲間がいるかどうかも判らない孤独にさいなまれることもなく、見事に一族の社会を形成し、それこそ“借りぐらし”ではなく、全て自分たちの中でまかなっていた。
それでも、いや、だからこそ、時分たちの世界を守るために人間の味方が必要だと感じて、せいたかさんとおちび先生という“味方”を長年かけて選び出した……。

私は、今から思い返してみても、あの物語は児童文学ではあったけれど、緻密で、社会性もあって、そして児童文学には必要不可欠なポジティブさがあって、素晴らしかったと思う。
そしてそれを思い出してしまうと……アリエッティたちの暮らしや考え方がやっぱりなんだか……それこそ翔にああ言われても仕方ないような、後ろ向きな感じに思えなくもないかなあ、などとも思ってしまう。

いやいや、それこそあの佐藤さとるの世界からは50年も経っていて(!そんなに経ってたか……)あの世界ももしかしたら今描いたら、こうなってしまうのかもしれない。人間の世界に踏みにじられて、自分たちで社会を作り出していたのが、借りぐらしをせざるをえなくなっているのかもしれない。あの時のコロボックルたちがもしかしたら、アリエッティ一族につながるのかもしれない……などと考えると、やはり秘密を隠しておける余裕のある社会など、今は失われてしまっているのかもしれない、と思う。

しかし、今古い古い佐藤さとるの本を、もうすっかりパリパリにセピア色になってしまったものを引っ張り出して、子供の頃には読まなかった、巻末の“大人の評論家による解説”なんぞを初めて読んでビックリした。
ちゃんと、佐藤さとるの世界に比して、この原作、メアリー・ノートンの「床下の小人たち」に言及しているじゃないの!うっわ、ザワザワッと鳥肌がたった!
でもそれは、影響関係などとは違う、全く違う描写力に言及しているのもウンウンと頷けるものがあった。それにしてもコロボックルシリーズも、こんなに昔だったのね……。

さて、話を戻す。とはいえ、アリエッティたちの暮らしは、非常にクリエイティブである。お父さんはどうやら電気関係や工学系に明るいらしく、彼らの暮らしはちゃんと電気も引かれているし、移動のためのさまざまな仕掛けも用意されている。
ここで、彼らが“狩り”に出かける……つまり、必要なものを人間たちから“借りる”(ここにもダブルミーニングが隠されているのだろうか?)時に、滑車などを巧みに使ってアドベンチャー映画よろしく、人間たちの大きな世界を跳躍するのは本当にワクワクする。これってホントに、原始的なワクワクだよね。そう、ガリバー旅行記って感じだもの。

初めて人間の暮らす家に足を踏み入れたアリエッティが「なんて大きいの」と言葉を漏らす、その言葉のシンプルさが、非常なるシンプルさが、いいんだよね。だって、角砂糖ひとつが、彼女のひとかかえあるんだもの。
落ちていたまち針を拾って、「お前のはじめての戦利品だな」とお父さんに言われて、意気揚揚とスカートに刺す、アニメーションで、まち針をあれだけずしりとした感触で描写するのは、さすがジブリだなあと思う。もうそれだけで、ワクワクしちゃうんだもの。

さすがジブリといえば、彼ら目線の、虫たちや猫やカラスの迫力の描写にも感嘆せざるを得ない。やあーっぱこれって、培われたものだなあ、と思う。
特に昆虫の細密さ、それをアリエッティたちの目線でとらえる迫力には、思わずこっちが身を引いてしまうぐらいである。
アリエッティがダンゴムシをなでて丸まって、彼女にとってはバレーボールぐらいの大きさのダンゴムシをぽんぽんとしょざいなげに投げ上げる場面なんて、その場面自体はアリエッティが思い悩んでいるところなんだけど、そんなことを忘れてしまって思わずほおーっと見入ってしまったよなあ。

ていうか、アリエッティと翔の関係だよね。この緑豊かな別荘に、心臓の弱い翔は手術前の静養に来ているんである。
その冒頭で、もう彼はアリエッティを見つけちゃってる。猫のミーヤがくさむらの中を一心に見つめているのに気付いて、彼女を見つけちゃったんだよね……。
この時アリエッティは、私はあの男の子を見たけれども、自分は見られていない、と両親に言い張るけれども、実際は半ば気づいていたんじゃないのかなあ。

その後、“狩り”に出かけた時、まんじりともせず起きていた翔が彼女に声をかける。狩りが失敗したどころか、人間に気付かれた事実が判明して、穏やかに暮らしていたアリエッティ家族は途端に家移りと、それ以上に命の危機にさらされることを決意する。
自分の失敗に落ち込みながらも、翔の優しさに触れ、人間が皆危険だとは思わないわ、と言うアリエッティに父親は、お前は家族を危険にさらしているんだぞ、と寡黙な彼にしては珍しく語気を強め、彼女はただ黙り込むしかないんであった。

哀しいことに父親の言の方が正しくてさ。翔は確かに優しくて賢い男の子だけれど、ドールハウスの台所をプレゼントすれば喜んでもらえるなんて、単純に考えたりしてさ。そりゃあ彼にしてはそっと取り替えたつもりでも、小人たちにとってはどうなのか……までは思わなかったのかなあ。
実はこの場面も、ちょっと唐突感を感じたところでね、そりゃまあ、お母さんはひどく驚くものの、結局は素敵なキッチンに夢見ごこちになるんだけれど。

でも、アリエッティはもちろん、冷静なお父さんは、この事態をもって家移りをハッキリと決意する。家探しをしている途中、いることさえ期待していなかった仲間のスピラーに出会い、新しい家を手配してもらえたんである。
そんなことをしている間には、うすうす気付いていたハルさんによる小人捕獲騒動が勃発、お母さんがとらえられてあわやという事態なんぞもあって、でもそのことでアリエッティと翔はぐっと心を近づける。
翔は自分の行動が彼らを追い詰めたこと、本当はアリエッティを守りたかった、それは、自分が弱い存在だから、滅びるのは自分かもしれないから……なんてやりとりがあって、そしていよいよ、アリエッティたち家族の家移り、別れが訪れるんである。

水の、あるいは液体の描写がとにかく素晴らしかったなあ。アリエッティたちにとってはひとしずくがとても大きい。
お茶を入れたりスープをよそったりするのも、ポットから出てくるのは、ジョーッて感じじゃなくてね、注ぎ口からシャボン玉のように膨れ上がるひとしずく、なのよ。スープもそうだし、涙でさえ、そうなのだ……。
涙が膨れ上がるシャボン玉のようなひとしずく、っていうのは、これはすんごい、画になるんだよなあ……まさに、女の子にはこういう風に涙を浮かべてほしい、っていう、少女マンガの究極の姿なんだもん。

病弱な男の子というキャラの翔は、正直それ自体、ちょっくらズルい気もしたけれど、それを演じるのが神木君となっちゃ、そりゃあしょうがない(爆)。イメージ的にもピッタリだし、何よりジブリアニメに愛されている男の子だからねえ。
なんかそう思うと、当て書きされてるんじゃないの、というぐらいに思っちゃう。そしてもしそうならば、翔は無事手術にも成功して、大人になって、いつかアリエッティと再会する、なんて妄想をたくましくしてしまう。

猫のミーヤに導かれてアリエッティの船出を見送る場面、翔は「今度こそ受け取ってくれると嬉しいんだけど」と角砂糖を渡し(なんて粋なプレゼントなんだ!)、グッときたアリエッティは、彼のてのひらに髪留めがわりの洗濯バサミを落とした。
そして、翔のひとさし指を抱えて抱き寄せるようにして、感謝を示すアリエッティ…………いやー、いやー、グッときたなあ!これぞ少女マンガちゃうんかい!

その場面を、彼ら家族を新しい場所へといざなう孤独なスピラーがじっと見つめていて……最初は人間ってことで、敵か!と矢をギリギリとつがえたりして、でも、アリエッティと彼の様子が違うと感じて、何か、複雑な顔で見守るのが、まだ少年のような様子の彼だから、なんか切なくも可愛くてさあ……。

ローリエと赤紫蘇のはっぱを抱えて、お母さんの誕生日プレゼントにするアリエッティ。ドールハウスに残った小さなポットの中のハーブの香り。“借り”たクッキー、アリエッティにとってはひとかかえもあるようなそれをすり鉢で崩していたり、小人世界のトキメキがなんとも素敵で。
正直、あっという間にアリエッティたちがここから離れなければいけない、という苦悩に落ちてしまって、そのテーマで見続けなければいけないのが、もったいない気がしたというか……。もっとこのお伽噺のトキメキを感じていたかったなあ。

アリエッティを演じる志田未来ちゃんが、意外に達者な声優っぷりで、ビックリしたかも(爆)。★★★☆☆


渇き/BAK−JWI/
2009年 133分 韓国=アメリカ カラー
監督:パク・チャヌク 脚本:チョン・ソギョン/パク・チャヌク
撮影:チョン・ジョンフン 音楽:チョ・ヨンウク
出演:ソン・ガンホ/キム・オクビン/シン・ハギュン/キム・ヘスク/オ・ダルス/パク・イヌァン

2010/3/11/木 劇場(新宿武蔵野館)
予告編からオーラ出まくりで、もうゾクゾクしながら劇場に足を運んだ。そして観終わってみても確かにその期待を裏切らないオーラだ、とゾクゾクだったんだけれど、観ている時、ああそうだ、これは「オールド・ボーイ」の監督さんの作品なんだよな、と思い出しつつ……。
そして彼が、その「オールド・ボーイ」もそうだし、「復讐者に憐れみを」やなんかで、もう救いがないったらない映画を連発していたことを思い出すと、本作のテイストはなんだか意外な気もした。

いや、でも思い返してみると、その救いのない展開の中に、絶妙なギャグはいつでも効かせていたんだよな。でも終わってみればそんなことが頭からすっ飛ぶほど、あまりにも救いようがないので(特に「復讐者……」はヒドかった……)なんとも残酷な作風に思えていたんだけれど、実はそんな緩急には充分に長けていた監督さんだったのだった。

そう、本作はまず、救いがないとは思わなかった。確かに彼女までもがヴァンパイアになって、生き血を求めて楽しげに殺人を繰り返す後半に至っては、そりゃあその殺される人たちにとっては救いがないことこの上ないんだろうけれど……なんたってヴァンパイア映画ということもあって、フィクション味がたっぷりだから、そんなにもやりきれない思いにはならずに済んだのだ。

そう、正直嫉妬する気持ちが大きかった。韓国映画の秀作を観ると必ず思うことだけれど……なぜこれを日本映画でやれないんだろう、って。
本作に関してはヤハリ、こういう映画にスッパリ脱げる若いスター女優がいなければならない。脱げる女優さんがいない訳じゃないけれど、“若いスター女優”となるとかなりキビしくなってくる日本映画の現状においては、難しいに違いない。大体、若くなくったって、脱がないもの。いや別に、女優のヌードを見たい訳では決してないのだけれど……。
男優の方ならね、こういう役をぜひにやってみたいという人はたくさんいるだろう。でもその男優の体の下に上手におっぱいを隠してたら、こんな映画はオーラを放たないのだ。いや、だから女優のおっぱいを見たい訳ではないんだけれど……。

どうも、話がそれてしまう。そう、これはヴァンパイアの話、なんだよね。さっきフィクション味がたっぷりと言ってしまったけれど、“原因不明の感染症”という、現代に不気味に暗躍する数々の新しい病を想起させるあたりは、なかなかに現実味を感じさせる。
神父のサンヒョンは、その病のワクチン開発のための実験体として身を投じる。敬虔な神父だった彼は、いつもいつも瀕死の患者のために祈りを捧げることしか出来ない現状に無常感を感じていたのだ。自分は人を助けることなど出来ないのだと。
決して自殺願望がある訳ではない、と彼は医者に誓っていたけれど、実際はどうだっただろうか。敬虔であるが故に無力な自分に絶望していたんじゃないだろうか。
まさかその自分が、肉欲に身を焦がすことになるとは思わずに……。

ヴァンパイアが血を欲する、という設定から既に、確かにダイレクトにセックスの暗喩とも受け取れるんだよね。
だってヴァンパイアは確かに恐ろしいけれど、どこか魔的に美しい男性であり、欲しがる血は穢れない処女の血が最上だったりするんだもの。それって、誰だって、アレを想起するよなあ。貫通した時に流す処女の血が、一番穢れなく美しく、そして美味である、と……。
そこまでロコツに言わなくても、例えばキリストが最後の晩餐に口にするワインは血の代わりであり、彼が処女懐妊の末に生まれたことを考えると、その裏返しの、悪魔の代名詞とも言えるヴァンパイアが欲する血は、その処女を突破したそれと想像したってフシギはない訳でさあ。

……いやいやいや、ここは別に宗教学の議論をする場ではないのだが(爆)。たださあ、こういうのもやっぱり日本じゃしっくりこない感じはするんだよね。いや、それ以前にヴァンパイアの物語自体がもう西洋のものだと思っちゃってて、日本でソレをやろうとするとパロディか少女マンガ的なものか、なんかそんな照れ隠し的な世界になりそうな気がして。
でもそれは、西洋だからってんじゃなくて、日本におけるキリスト教が、あくまで一般的に言えばまだまだ“フィクション”の領域を出ないから、なんだと思うんだよなあ。決して、日常に根付いてはいない。だからパロディかマンガになっちゃうのだ。

アジアの世界観にヴァンパイアの物語がこれほどしっくりくることに最初は驚いたんだけれど、でも韓国ではキリスト教徒が第一派ぐらいに多いことを考えると、全くフシギではないんだよなあ。
そう……敬虔なソン・ガンホがヴァンパイアとなり、肉欲に堕ちていく自分にガクゼンとしていく様は、ひどく色っぽい。彼には毎回驚かされる。顔立ちは韓国の人特有の味があり、そしてどっちかっつーとゴツい大工系なのに(爆)、まあ、なぜなぜ、こんなにも色っぽくなってしまうのだろう!
いや、そういう彼へのイメージが先行しているから、ギャップが余計に効いてしまうのだろうとも思うのだが……しかし彼が彼女のおっぱいに必死に目を背け、しかし震えるほどにそれを欲している様は、もうもう、たまらなく色っぽいのだよなあ!

で、そうそう、とにかく話の筋をと……。ほとんどの被験志願者が死んでしまうというそのワクチンの実験に、彼は一度死亡が確認されたにもかかわらず息を吹き返した。
まさにキリストが復活したかのように、彼を生き神のように崇める熱狂的な世間。ことに不治の病を抱える子どもの親たちのすがりつきようにサンヒョンは困惑していた。
その中に……決して“子供”ではない、いや確かに母親にとっては“子供”に違いない、まー、見た途端におめー、さっさと死ね、と言いたくなる、甘やかされまくって育った青年を引き合わされる。
その母親であるオバチャンの登場がまたキョーレツで……病気の子供たちの前で慰問よろしくヘタなマジックなど披露していたサンヒョン、ガラス窓の向こうからイノシシのように突進してくるオバチャン……、こ、コワすぎる……こんな具合にギャグ的要素は実に満点なのよね。

で、その青年は偶然にも、サンヒョンが孤児だった子供時代、ほどこしを受けた家の総領息子、ガンウだった。
その彼には妹がいた筈、とサンヒョンが言うと、その側にいたやつれた感じの女が皮肉めいた笑みを浮かべる。妹ではなく、サンヒョンと同じ孤児だった女の子、テジュを、彼らが哀れんで育ててやった。そして今は彼の妻だという……。
その話っぷりからして、彼らがいかに彼女を蔑んで、妻だの嫁だのといった存在以下の、はしため程度にしか考えていないのだと、そうサンヒョンも、そして観客もそう思っていたのだけれど。

ほどなくして、サンヒョンとテジュはわりない仲となる。それはサンヒョンが敬虔で禁欲的な神父から、快楽を求めるヴァンパイアに変貌したからなのか、ただ単にテジュの、哀れに虐げられた人妻の中に隠された色香に気付いてしまったからなのか。
テジュとガンウは夫婦生活があるようには見えなかった。テジュ自身も、自分は彼らの奴隷なのだと言った。寒がりのガンウの単なる温湿布代わり。アイツの自慰を手伝わされさえするのだと。
そしてテジュの内腿には見るも無残な傷が無数にあった。テジュの魅力に溺れていくほどに、サンヒョンは彼女がそんな境遇に身を落としていることが許せなくなってくる。そして、してはいけない決意をするのだ。
それが、彼女を救うためだと、つまりは正当化し、自分に言い聞かせていることだということは、どこかで判っていたのに。

ちょっと、ラショーモナイズな要素も隠されているんだよね。傍目には確かにテジュは、このベッタリ親子に虐待されているようにしか見えないのだ。
本当に身体が弱いのか、ただ単に過保護な母親にイイ子イイ子されているだけなのか判然としない青っちろい顔のガンウは、アホウみたいに青っ洟を垂らしたりするもんだから、怒り心頭に達してたまらずに彼を殴ろうとしたテジュの気も萎えてしまう。
でもって自慰も手伝わされているなんて聞いたら、コイツはソッチの方も不能で、ホントに彼女は奴隷としてこの家に仕えさせられているだけじゃないかと思ってしまうのだ。
でもそこんところが実に巧みでさ……大体彼女は、自分から言うように本当に処女だったかも判んないし。だって後半、ガンウが死んでサンヒョンと思うように会えなくなると、友人の夫とだってバコバコヤッちゃうんだもん。んでもって最後にはサンヒョンに、「仲良しの私たちを引き裂いたのはあなたよ、悪魔!」とまで吠えるんだもの。

……おっとっと、またしてもかなーり先走ってしまったが。結構ね、サンヒョンとテジュがラブラブな関係になる場面は尺をとっているし、かなりきわどい描写でドキリとさせつつも、その一方でクスリと笑わせる場面も沢山用意されているんだよね。
いきなりドギモを抜いたのは、生き血を渇望し、師匠の神父に事実を打ち明ける場面。傷を負ってもすぐに治ってしまうもんで、それを説明するのに、左胸をグサリと切り裂き、そこから神父に手を入れさせる場面。
目が不自由な神父だからより判りやすいように、ということにしても、これは「あまり心臓をつかまないで下さい」という台詞で笑わせるためとしか思えないっ!

この神父は後に、人生の最後に夜の闇の中でいいから海辺に行きたいと渇望し、サンヒョンの生き血をもらってヴァンパイアになりたいと願うのだけれど……。
サンヒョンがこれを残酷に拒む意味を込めて、替わりに彼の心臓をえぐって生き血をすすったのは、決して血に飢えていただけではないと思うんだよなあ。そうして永遠の命を与えたい相手は、たった一人しかいなかったってことなのだと思うのだ。

だーかーらー。ギャグ的な場面が沢山あるということを示すためだったのに、また深入りしてしまった。
だからね、サンヒョンとテジュがラブラブになっている間は、そうしたお気楽な場面がたくさんあるのよ。いや、割と深刻な場面もあるかな……。
とにかく、まずテジュが「ヴァンパイアって意外にカワイイのね」と言った、ポットに血を詰めて持ち歩き、スポーツドリンクのようにゴクゴクと飲む場面。
ていうか、彼女はサンヒョンがかなりオデブな植物状態の患者の点滴を抜いて、流れ出る血をチューチュー吸っているところを見て驚愕して逃げ出したんだけど、これもかなり笑えるよね(爆)。しかもサンヒョンの言い様が「彼は人を満腹にさせるのが好きだった。だから彼に意識があったら、きっと喜んで血を飲ませてくれたに違いない」いやいやいや!
……こーゆー脱力な会話がなんともヤラれるのよね!しかしそんなことも忘れてしまう程、最後にはすっかり燃え尽きてしまうのだが……。

そうそう、キリスト教文化が根付いている韓国だから、日本と違って違和感がない、みたいなことを言ったんだけれど、でもそれでもね、前半と後半では全然色合いが違うんだよね。
そもそもテジュはキリスト教徒ではない。だからサンヒョンの苦悩を鼻で笑っているようなところがある。彼がヴァンパイアだということに驚き、一度は相当に怖がりながらも、私もヴァンパイアにして、と戯れごとめいていながら言っていたのはヤハリ、キリスト教徒じゃないから、だと思う。
いやそれ以上に、神様なんぞ信じるほどに気楽な人生を送ってきていないからかもしれないが……。

なんかね、キリスト教を信仰する文化って、唯一神、つまりヒーローを信じられるほどの純粋さを持っている文化って感じがするんだよなあ。国の指導者(大統領)がイコールヒーローだったり、そのヒーローが失墜するとビックリするぐらい落胆したり、非難ゴウゴウに攻撃したり。
サンヒョンは一神父に過ぎなかったけれど、奇蹟の生還を遂げてから神様に似たような扱いを受ける。ヴァンパイアになったことが肉欲へと向かわせたってことが大前提ではあるんだけれど、その扱いへの息苦しさが、テジュに溺れていくことになったような気もしてさ。
でもサンヒョンは、人を救えないことに苦悩して、つまり神様のように奇蹟を起こせないことに苦悩して被験者になったとも言えるんだから、それって勝手な物言いのようにも思えるけれど、それこそが人間ってことなのかもしれない。

ていうか、まーそんな、深刻な話ばかりじゃなくてさ。なんたってヴァンパイアモノなんだからさ。いや、見え方は決してそうは見えなくて、実は王道の、ファムファタルにはまって落ちていく男の物語であり……。
だってガンウだってつまりは、この女を妻にしたからこそ殺された訳だし、ガンウの母親だって、この家に集まるマージャン仲間だってさ……。
だからだからつまりね!また話が脱線しそうになったけど、つまりは“ヴァンパイア映画”としての、エンタメ性も充分なのだ。サンヒョンからヴァンパイアだと告げられた最初の場面では、それを証明するためにテジュを抱いてひらりと空を舞う。まさにこれって、ハリウッド映画さながらな、ロマンチックさである。
よもやこのワイヤーワークがその後、彼女が生き血を求めるために自ら車にぶつかり、運転手を誘い出して森の中に引きずり込んでぶっ殺す場面にそのまま転用されるとは思いもせずに……。

だからだからさ!なんかいちいち脱線しますけれども……。うー、でもでも、つまりは……テジュが虐げられていると思い込んだサンヒョンは、半ば彼女に言い含められる形でガンウを夜釣りに誘い出して殺してしまう。しかしその後、ガンウは夜な夜な二人の前に亡霊となって現われるのだ。
この場面は、実は本作の中で最もキョーレツかもしれない。つまり、彼が一番オイシイ役だったかもしれない。
ちょっと市川染五郎似のヤサ男であるガンウが、ずぶぬれになって青っ洟垂らして(たかどうかは……私の勝手な思い込みかも(爆))腹いっぱいに水を飲んでパンパンになって、ご丁寧に重い石を抱えて二人の前に、しかも全開の笑顔で現われる。
いやこれは幻影だ、いくら遺体が上がっていないといっても、彼は死んだ筈だ、と二人は必死に自分たちに言い聞かせてムリヤリ肌を重ねるけれども、その身体の間にずぶぬれで石を抱えて笑顔全開のガンウが挟まっている!!!お、お、お、お前!市川染五郎!(違う!!)オイシすぎだろ!!

いやでも……一番強烈なのは、ていうか一番哀れなのは、やっぱり生身の人間、息子を溺愛したガンウの母親。
彼女は息子を亡くしたショックのあまり身体が動かない状態になるんだけれど、あくまで身体が動かないだけで、意識も何も正常らしいのだ。
らしい、というのは、徐々にそれが明らかになっていくからで……。愛する息子を殺したヨメとその間男に、まさにブタのようにエサを流し込まれて養われている彼女の苦悩は、本当に後半にならないと判らない。そう、彼女が正常な意識を持っていることが、かなり後半にならないと気づかないのだ。
そして、気付くとゾッとする。だって彼女のその動かない瞳の前で、見るもおぞましい殺人やセックスや、何より……吸血行為が行なわれていたんだもの。

一度はテジュの暴走を殺してしまうことで食い止めようとしたサンヒョンだけれど、絶望的に彼女を愛している彼は、一度殺したテジュを自らの血でよみがえらせてしまう。
つまり、彼女もまた不死身のヴァンパイアとなったのだ。もともと残酷な気質を持っていたテジュは、生き血を求めるため殺人を繰り返し、ついには友人たちまで手にかける。
……こんなシーンでさえ、ギャグ要素が挿入されているんだよね。死体の頚動脈をすぱっと切って夢中になって血を吸っている彼女、そのうち血が出なくなって、傷口をぱんぱんぱん、と叩いてみたりしてはまた吸い付いたりして……肩こりじゃねーってーの!

それを見てサンヒョンが冷静に、というか呆れ気味のような風情も漂わせて、「心臓が動いてなければ、流れなくなる」と言い、「足首を切って逆さに吊るせば、重力で血が下に落ちてくる。それでも全部はムリだけれど」とか「殺してちょっと吸うだけじゃ、人命軽視に当たるんじゃないか」とか、正当なようで滑稽な論を展開するもんだから、笑っていいのかどうかさえ、困ってしまうのだ。
だってサンヒョンは、このやたら血に飢えた恋人に困惑気味で、彼は彼で自殺者志願者を利用したり、一人の人間から出来る限り血を採取して冷凍保存したりしてしのいでいるんだというんだから、その並々ならぬ努力に涙が出ちゃうってなもんである。
いやいやでも……点滴チューブや血液バッグをチューチュー吸う姿はギャグにしか見えなくて(爆)、それなのにこの作品がオーラバリバリなのが、スゴイところなんだよなあ。

それはやっぱり、ポイントはキッチリ押さえているからだろうと思う。彼がヴァンパイアになるくだり、いかにも醜悪な感染病を思わせる気味の悪い無数の水疱にゾッとして、それこそ肌が粟立ってしまう。
つまりは人間がこういう症状に対して、偏見的な生理的嫌悪があるのだと突きつけられて、この時点から気持ちに負い目をもってこの作品に対峙し続けるところがあるのだ。
サンヒョンの苦悩に対してもフィクションだと思いながらも何となくシンクロしてしまうのは、こんなちょっとズルい作劇にあると思うんである。

そして、生き血を吸えば、その気味の悪い水泡はスルリと消える。このあたりはまさに映画のマジック、スマートなCGの使い方である。でも、水泡が消えたことにホッとしてしまう自分に、またしても嫌悪感を感じるんである。
……ヤハリ、この映画のテーマは、ひょっとしたらここにあるんじゃないかとさえ思うんである。

最後の最後、サンヒョンは不死身のヴァンパイアが死ぬ唯一の方法、太陽を浴びるために、逃げ場のない砂漠にテジュと、そして彼女の義母であるガンウの母親を連れていく。
この期に及んで、というか、まったく予期していなかったんだから当たり前なんだけれど、テジュは抵抗しまくる。トランクに身を隠すもそのカバーをサンヒョンに海に投げ捨てられ、諦めたかと思いきや、サンヒョンがおもむろに車をズルズルと移動すると(ヴァンパイアは怪力でもあるのだ……これもギャグ的シーンを数々生み出している)車の下に潜り込んでいたテジュが苦々しげに身体を起こしたり。
こんなせっぱつまった状況においてもしっかり笑いを取りながら、しかし確実に完璧なエンドに向かっている。

そう、これぞ、ヴァンパイアの伝説そのままの、忠実な再現。太陽の光を浴びると、塵となって消えていく。それを、まさに、神の怒りの炎に焼かれるかのごとく、皮膚が焼けて炎をあげ、絶叫しながらテジュはサンヒョンにしがみつき、そして二人はしっかりと抱き合いながら、真っ黒コゲになる。ガンウの母親が動けない身体のまま、その壮絶な最期をまっすぐに見詰めている。
そして最後、テジュが夢遊病を装って深夜の街をハダシで駆け回っていた時、サンヒョンと行き合い、彼に貸してもらったぶかぶかの革靴が、黒コゲの彼女の足首ごと、ポトリ、ポトリ、と片方ずつ、落ちた。
思えばあの時、全ての悲劇、いや、二人にとっては幸福かもしれない、物語が始まったのだ。

……こう思うと、あまりに救いがないことにこの監督さんの「親切なクムジャさん」を避けてしまったことが悔やまれるなあ……でも、「サイボーグでも大丈夫」でも一度落ちちゃったしなあ……難しいっ!!それとも「サイボーグ……」は日本のアイドル的女優映画ってことで、手を抜かれたか!?★★★☆☆


川の底からこんにちは
2009年 112分 日本 カラー
監督:石井裕也 脚本:石井裕也
撮影:沖村志宏 音楽:今村左悶 野村知秋
出演:満島ひかり 遠藤雅 志賀廣太郎 岩松了 相原綺羅 菅間勇 稲川実代子 猪俣俊明 鈴木なつみ 牧野エミ 工藤時子 安室満樹子 しのへけい子 よしのよしこ 並樹史朗 山内ナヲ 丸山明恵 目黒真希 森岡龍 廣瀬友美 潮見諭 とんとろとん

2010/5/11/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
早くも客が呼べる女優に成長した満島ひかり嬢。彼女をはじめて見た「愛のむきだし」の時からもの凄いインパクトだったけれど、本作でまさに、ひとつの役を生きた彼女を見た、と思ったなあ。
物語もキャラにも色濃くユーモアが漂っていて大いに笑わせてはくれるんだけれど、でも腹の底から佐和子に入っているって感じがした。それまでしょうがない、しょうがないと諦めていた彼女が、「頑張らなきゃ、しょうがない」という“しょうがない”に切り替わった時の、あの心からの叫びには、ドリアンナンタラも三代目カンタラもとても叶わないド迫力があった。
女がホンキになると、どんな偉大な詩人よりも素晴らしい人生を語るんである。そしてそんな女には、どんなにヒネたおばさん連中だってついていくんである。

そうそう、これね、予告編から印象的だった木村水産の社歌、その脱力っぷりといい、漁師ではなくあくまで水産物加工の工場というルーティンの仕事にダルさを感じている感じといい、そしてシジミ一品しか取り扱っていないショボさといい(もちろんそれが、一品だけという誇りに後々変わっていくんだけれどね!)「おじさん天国(絶倫絶女)」を即座に思い出しちゃったんだなあ。そう、「おじさん天国」の久米水産は、イカオンリーだったのよね。
そう、もう社歌オンリーでそう感じてた。どーしよーもない歌詞をダルソーに歌うあたりとかもさ。私、いまだにあの「おじさん天国」の「ナーイスカンパニー、久米水産」という脱力歌詞が口をついて出ることがあるもの。

そう、脱力、だったのだ。あくまで最初の歌詞は。大体がもう潰れかけた工場、愛社精神なんぞカケラも持っていないオバサンたちがそんな社歌に身が入る訳もなく、張り切って歌っているのは「三ヶ月先は厳しいです、残念です!」とそんな台詞さえ張り切っている経理のオジサンだけ。
でもね、でも……新たに作り変えられた社歌を歌うオバサンたちは、目を見開いて、腹から声を出して、まるで叫ぶように歌ってる。
しかもその歌詞が振るってる。「来るなら来てみろ、大不況。その時ゃ政府を倒すまで」そして倒せ!倒せ!セ・イ・フ!と絶叫する。
更に「ダメな男を捨てられない。仕事は基本つまらない」き、基本、つまらない、って(汗)。「中の下の生活。所詮みんな中の下。楽しいな、楽しいな」……(汗汗)。

とうとう言ってしまった、と思った。仕事は基本、つまらない。所詮みんな、中の下。確かに日本人はペシミスティックなところがあるけれど、ペシミスティックを外に向けて殊更に言い放つ一方で、実は言うほどじゃないんだと、心の中のもう一人の自分が優位に立つ、みたいなさ、同じぐらいのレベルの他の人間に比べれば、自分が優位に立っている、みたいなさ、なんかヒクツな葛藤を繰り広げているようなところがある訳よ。
でもね、ズバッと言っちゃうんだもん。中の下、そして仕事は基本、楽しくない!この台詞は凄いなあと思っちゃったなあ。確かに仕事は基本、楽しくないさ(爆)。

外界向けには、自分が楽しいと思える仕事じゃなきゃ人生の意味がないぐらいに、求人雑誌の写真なんてバラ色の笑顔の写真に溢れているけど、本当にそう思っている人間がどれだけいるのか。
しかも本作のシジミのパック詰め工場なんて(なんて、などと言ったらそれこそ怒られるだろうが……)どこに楽しさを求めたらいいのか、っていうような、成果の見えない仕事だもの。
そして世の中の仕事なんて実は、こことさして変わらないんだと思うんだよなあ。だからだから……ここでは、フクザツなペシミスティックで、自分の方がマシだなんて計算する気持ちなんて、どっかに吹っ飛んじゃうのだ。

この若き監督さん、短篇を始めとしてもう数々の実績や評価をもらっている人だということで。でも実質的商業映画として世に打って出たこの作品が私は初見。うーん、こういう時は、そうした過去作品を見ていないのを悔しく思っちゃう。“こういう時は”っていうのは勿論、作品にホレこんでしまった時よ!
最初はね、ちょっとネラいすぎかなあ、って気もしてたんだよね。ヒロインのキャラ造形。登場シーンでは彼女が派遣社員だってことまでは明らかにされてなかったけれど、「上京して5年、5つ目の仕事」というだけで彼女の世渡り人生が察せられたもの。しかも、今の彼氏は5人目。彼女はひとつことが一年持たないのだった。

東京での生活で象徴されるのが、しょっちゅう通っているらしい腸内洗浄。ストレスから便秘になるのか、もう常連って風情で、力の抜き方も慣れましたね、と褒められるぐらい。
……てな、もー、どーしよーもないトホホな女の子なんだけど、もう冷め切ってるのだ。それはサッパリしてるとかいうんじゃなくて、諦めきってる。彼女の口癖は「でもそれって、しょうがないじゃないですか」であり、その言いっぷりもやたら乾いている。
そう、その言いっぷりがね、このしょうがないもやたら繰り返すし、最初のうちは、なんか、ネラいすぎだなあ、と思ってたんだよね。

腸内洗浄の場面でも「昔の彼氏の思い出も吸い取ってください」なんて冗談が、彼女の雰囲気からそれと受け取られなかったのか、あるいは最初から冗談じゃなかったのか、看護師さんに「そういうのは吸い取れませんから」とたしなめられる。
「ハイ、スイマセン」と向き直る彼女は、それにヘコんでいるような表情も見せず、目を見開いて飄々としていて、なあんか、この時点では、ネラったオフビートを延々見せられるタイプの映画なんじゃないかと(そういうのって、あるじゃん)ちょっとヒヤリとしたりもしたんだよね。

でも、見事だった。見事にこのキャラを貫きながらも、貫きながらも、彼女は成長していったんだもの。これには驚いた。しょうがない、を連発していたのは、それが人生の処世術であるまでに追いつめられたからに違いない。
田舎に帰る直前の職場では、「使えないクズが」と上司から吐き捨てられるような立場の派遣社員。でも誰の目から見てもクズなのはこの上司の方なんだけどさ。
そう、そんな具合に世の中は理不尽なことに、彼女も「しょうがない」で順応してきた筈だった。でも職場の先輩は、「しょうがないって、何よ」と彼女の諦めの良さを指摘する、それっておかしいよと。

見た目的には、ダルそうに仕事をしている彼女たちと別に変わりはないようなんだけれど、佐和子が彼女たちと違ったのは、人生全てがしょうがない、と片付けてしまっているところ、だったのかもしれない。
皮肉だけれど、同僚たちは仕事に関してはそうでも、恋愛や、最終的な人生に関してはそこまで諦めていない。ただそれは……仕事なんてこんなもんと思っているのは、クズだと陰口を叩かれても(この場面では佐和子しか聞いていないけど、そんな風に言われているのは絶対、判ってるよね)平気でいられるのは、そんな奴らに人生を査定されたってヘでもないからなのだ。
佐和子が後に一緒に仕事をすることになる、シジミ工場のオバチャンたちもそうだと思う。でもそこから先がなかった。自分自身でクズな人生を変えていくことが、そのキッカケがなかった。

佐和子は職場恋愛をしているんだけれど、その課長である健一がまたどーしよーもない男なんである。パッと見はヤサ男。エコにうるさいってあたりも、まあ昨今の草食系男子ブームなら許せる。ニット編みが趣味なのも草食系……かもしれない。
しかししれっと幼い娘を引き合わせて、そもそも子持ちだってのもバツイチだってのも知らないしさ。その上、君のお父さん、倒れたんでしょ、一緒に田舎に帰って会社を継ごう!子供は田舎で育てたいし……などと、一人で勝手なことばかり言ってさ。

ちょっと待ってよとさすがに佐和子が押し留めると、「佐和ちゃん、俺のこと好きじゃないの?」うっわ、サイテー……こういう男、マジ、サイテー!
自分からは彼女に好きだよ、とか、この子の母親になってほしいとか言わないで、既成事実をとりあえず作ればオッケーみたいな展開なくせに、女には承諾を強いるなんてさ!!
この時の予感は正しく、彼はまさにその後サイテーな行動に走るのだが、でも佐和子は確かにこの時点まで、彼のことが好きかどうかさえ自分自身判然としなかったのだ。子供だって苦手だったし。

この課長、この課長よ!私、予告編の時に名前を見た時から、えっ?と思っていたのよ!ずっと探し続けていた遠藤雅ッ!
いや、単に私が見逃していただけなのかもしれない、とは、彼のフィルモグラフィーを見て思ったけど、確かに私が観る機会のなかった作品が多かったけど、でもやはりチョボチョボな感じの出演頻度だしさあ。
私ね、彼を最後に見た(と自分で思ってる……実際はその後も観ている作品はあったみたい)のは「WiLD ZERO」で、それまでにも間があいていたし、「二十歳の微熱」の時からヤラれていたから、ほおんとに、消息を探しまくっていたんだよ。

当時は検索しても全然引っかかってこなかったし、なんか、上海エキスプレスでバイトしながら役者してるなんて情報だけでその後ぷっつり途切れてしまったから、ホントに役者辞めちゃったのかも……と失望してたんだよ。
そんで本作の予告で、かなりメインの役だからこの名前が出て、えー?同姓同名かなあ?とか思ってたら、明らかに見覚えのある面影でさ!
いやいや、確かに私が彼の出演作品を観る機会がなかっただけかもしれない(しつこいが)、しかし……もー、ビックリしたよー!
しかも“ある時は役者”であって、本業はバーのマスターだって!?そりゃー、見つからない訳だよ!!もー、いつかそのバー行ってやるっつーの!

……ちょっと興奮してしまった……でも、ものすごーく久しぶりに見た(だから気付いてないだけってのもあるが)彼は、とても達者でふてぶてしいほどの魅力をたたえた役者さんになってて、なんかすごーく嬉しかったんであった。
いや、優しいお顔はあの時から変わっていないんだけどね。だから、ああー!!!と思ったんだもん。いやー、嬉しかったなあ。でもね、このキャラはサイアクだけど(爆)。
まあ、佐和子は最初から見抜いていたけどね。つまんないオモチャを作って(あ、玩具会社ね)クビになった彼は、僕はエコライフが理想だからと、佐和子の深刻な事情も顧みず、勝手に押しかけ婿になることを決めちゃってさ、この場合、佐和子のみならず連れ子である加代子ちゃんもたまったもんじゃないっつーの。

この頑是無い子が、お父さんが浮気相手と(まあこの場合、佐和子とまだ結婚してないんだから浮気と言えるかどうかは……)出て行った時「だからお母さんも出て行っちゃったんだよ!!」と叫ぶのはあまりにもあまりにも悲痛だった。
この場合の「だから」は、彼が、全てが「佐和子が悪いんだ」としたこと。どー考えたって勝手に押しかけて、自分では何の努力もせず、東京に憧れてタイクツしてた若い女の子に誘惑されたおめーが悪いに決まってんでしょーが!
百歩譲って佐和子に非があるんだとしたら、あんたが執拗に「オレのこと、ホントに好きなの?」という問いに佐和子が応えられなかったことにあるんだけれど、だって実際、佐和子はホントにあんたのこと好きになってはいないんだもの。

ただ……好きになりたいとは思っていた。これってさ、これって……すんごい、切実、じゃない?好きって、簡単に言うけど、すごく責任の伴う言葉なんだもの。
ことに今の佐和子の状況じゃ特にそうでさ。しかもこんな、ホンットにテキトーな男、惚れたはれただけで一緒になれる訳ないよ。
だって佐和子の状況が状況であり、しかも向こうさんは子連れであり、しかもしかも……佐和子は若気の至りでテニス部のキャプテンと駆け落ちなんてしちゃう形で町を出て、こんな田舎町では皆から白い目で見られているんだもの。

でもね、そんな風に佐和子が突っ張って町を出たのには理由があった。小さい頃に母親を失った佐和子、父親が職場のパート社員の女性を連れ込んでコトに及んでいた。それを目にした佐和子は後ろも振り返らずに出て行った。「お前にも新しいお母さんが必要だと思って」と焦って言い募っていた父親を振り切った。
新しいお母さん、その言葉は、子持ちバツイチと知らずに付き合った課長からも発せられた。そんな立場になれる訳ない。だって自分がそれを振り切ったのだから。
でも、この男の勝手で幼い女の子を連れて自分の田舎に帰ることになってしまった。そして更にこの男はこともあろうに浮気相手にそそのかされて東京に戻る際、娘を置いていってしまうんである。

……まあさすがにさ、最初は連れて行くつもりだったんだけど、この娘が動こうとしなかったのと、浮気相手である佐和子の友人(てか、ライバル)が、もういいじゃん!と彼を引っ立てていったもんで、彼はあきらめてしまったんであった。
……そんなことぐらいで娘を連れて行くことを断念する時点で信じられないけどさあ。すべてをやみくもに佐和子のせいにするこの二人に、もはや瀕死の状態の佐和子の父親が立ち向かう。何が悪いんだ、佐和子の何が悪いんだ!!と。

……私はね、この時……やっぱり女は愛嬌なのかな、と思ったよ。そんな佐和子のように恋愛経験はないけど(まあ、佐和子は捨てられてばかりだけど(爆))、媚びを作れない感じ、判るなーって思っちゃったもん。
佐和子がね、一生懸命加代子ちゃんの目線になろうとして、不自然な赤ちゃん言葉なんか使ってさ、でも、それもメンドくさくなって、女同士として接し始めた時から、佐和子と加代子ちゃんが同志になったのが、凄くステキなんだよなあ。

なによりイイのは、佐和子が「どうせあんたもそれほどでもない人間なんだから」とズバッと言うところ。「だから、頑張らなきゃしょうがないのよ」と。
これってさ、誰一人知った人がいないという状況は、子供の方が明らかに、もう大人の百倍ぐらい大変なんだもん。 でもね、この時点で佐和子をすっかり信頼している加代子ちゃんが「判った!」と返事して保育園に飛び出していくのが、泣かせるんだよなあ。
外からはね、駆け落ちに失敗して帰って来た、また男に捨てられたんだと、佐和子は散々に言われてる訳。もうハタから観ているこっちが、冷や汗タラタラなわけ。でもそれを、佐和子は「だったら男に捨てられたことのある人はいますか!?」と絶叫しちゃうんだもん!

そう、もう、やるしかないと。父親が瀕死の状況でやるしかないと佐和子が開き直って、パートのおばちゃんたちの前に立ったあの場面は、もう、忘れられないなあ。
そもそもね、彼女はこの中の誰かが、飛び出した時にブリーフ姿の父親が焦って「新しいお母さん」と紹介しようとした人ではないかと思っていてさ。
で、おばちゃんたちは、突然戻ってきてよろしくなんて言う、都会からの出戻り娘に反発アリアリな訳。もうね、迫力満点なんだもん。ザザーッと出勤してきて、スリップ姿もあらわにまったく臆せずにガバッと作業着に着替える。
そしていっそ気持ちいいぐらいな、陰口(てか、メッチャ表向きだけどさ)を叩く。それまで、しょうがない、しょうがないとかわしてきた佐和子だけれど、この狭いコミュニティではそれではどうしようもなくなってくるんである。

……そもそも、佐和子には、飛び出した時に目に焼きついた「新しいお母さん」の残像があって、パートのおばちゃんたちの中にそれを探すんだけど、コレと思った人は違って、すんごい反発されるのね。この女狐!とか言われちゃう。
確かに佐和子が目星をつけた人は記憶の人ではなかったらしいんだけど……でもその人が、佐和子が爆発した時に、最初にコイツやるな!て笑顔を見せてくれるのだ。
そう、佐和子が、「確かに駆け落ちしましたよ。カッコ良かったんですよ。表面上は(!!)18歳だったし、青春だったんですよ!私なんて大した女じゃないんですよ!中の下ですよ!でもみんなそうなんですよ!」と、もうもう、まくし立てた時、おばちゃんたちは、それまでただただオロオロしていたばかりの佐和子の豹変に目を丸くするんだけれど、この彼女だけは、にんまりと笑ったのだ。

それにしてもこの場面は凄かったな!満島ひかり嬢の渾身の力がこもってた。メチャクチャカッコ良かった。「がんばんなきゃしょうがないんですよ!」と吠えた彼女はその後、病床の父親から加代子ちゃんを使って「チューさせたんだから、お金ちょうだい」などと凄いことを言わせる(これは笑った!)。
「そのお金で会社を立て直してみるんだ」なんて言うから父親は目をむき「世の中そんな簡単なものじゃないぞ」と彼は忠告するんだけれど、佐和子はニッコリと笑ってこう言うのだ。「知ってる。お母さんが死んだ時から」って。

お父さんは当然何も言えなくなるんだけれど、でもこの時のお父さんも笑顔になった。「アイツ、なんかカッコイイな」そう言って「でもオレは金がないから、弟、貸してくれ。公務員の弟!」ここも思わず噴き出しちゃったよ!
でもこのおじさんもいいんだよね。人が良くてさあ、でも酒好きで(なのは、この家系みんな。佐和子もいつもいつも発泡酒飲んでるし)酒を飲むとすっかり下ネタに走っちゃうあたりがオヤジで(爆)。
「女はみんなウソばっかりつくんだ。ホントのことを言うのはヤってる時だけだ。そうだろう?アンアン言ってる時だけだ……いや、それもウソか」などとノリツッコミするのには思わず爆笑!

……て、大分話が脱線したけれど、そう、あの吠えた場面で、佐和子はすっかりおばちゃんたちの信頼を勝ち取ってしまうのだよね。佐和子が「新しいお母さん」未遂になったと思った人が、一人でいた佐和子につつつと寄ってきて「あんた、開き直ったね。カッコいいよ」とほめてくれる。「でも私は新しいお母さんじゃない」と。
それでも「せっかくだから抱いてやるか」!!でもそんな台詞にね、佐和子は彼女の胸におずおずと顔をあずけ、今にも泣き出しそうな顔でつい「お母さん……」とつぶやくのだ。
彼女は「だから違うって」と返すんだけれど、この時の佐和子はそうじゃなくて、きっと幼い頃のお母さんに抱かれた頃を思い出していたんだろうなあ。思えばその時からずっとずっと佐和子はその愛情に飢え続けてきたのだ。

さーて!そこから佐和子は快進撃!しじみを売ることに全力を傾ける!
頭をバリバリ掻きむしりながら机に向かって書きなぐる佐和子を、おばちゃんたちは恐る恐る見ている。東京に5年もいたんだから、きっと凄い策があるんだよ、とヒソヒソ話し合っている。
しかしそのノートに書かれていたのは、あの凄まじい社歌の歌詞だったのだった(笑)。そして音楽経験のあるおばちゃんを巻き込み、「男に捨てられたことのある人!」と問い掛けて手をあげさせ「なあんだ、皆同じ」と笑顔を見せる。
ここであのおばちゃんが「私と月島さんは違うけれど」……この台詞は、お父さん、つまり彼女たちの社長が亡くなった時にも発せられて、どうやらこの二人以外はみーんな社長と関係があったらしいという衝撃の事実が判るのだが(!!!)

まあそれはとてもいいシーンなのだからここでは後回し。
あの凄まじい新社歌で心をひとつにした彼女たち、そして、それまではそっけなく、生しじみのラベルが貼られただけの商品だったのを、おばちゃんと加代子ちゃんのツーショットにして、愛情たっぷりと銘打ったのぼりを作り、スーパーに山積みにされたしじみは売れる売れる、飛ぶように売れる!
佐和子はあの経理のおじさんに聞く。「どのくらい行きましたか。二倍?三倍?」「二倍弱です!」……この現実的な感じが好きッ!でもいきなり二倍弱に飛躍するって、凄いよ!あんなわずかな投資でさあ!

しかしそこで、お父さんがついに亡くなってしまう。危篤の知らせに駆けつけた佐和子は「もうちょっと頑張れないの」とくしゃくしゃの泣き顔を見せ、お父さんの弟であるオジサンから「皆に知らせたか?」と言われ「あ、忘れちゃった!ごめん……」こんなところにもちょっと笑わせる要素を入れてくるところが凄い。
そして葬儀。遺言どおり川に遺骨を撒きに行く前、おばちゃんたちから呼び止められた佐和子、「私たち、皆あんたの新しいお母さんだから」この力強い言葉に佐和子は泣き崩れ、観客もすっかりもらい泣きするのだが「……てことはやっぱり皆……」としゃくりあげながらも佐和子がおずおずと聞くのには爆笑!
「いや、皆じゃないよ。私と月島さんは違う」出たーっ!でもね、「皆本気だったんだよ。しょうがないよ、社長がいい男だったからいけないのさ」そう、しょうがないのよね、もうっ!

河辺でいざ骨を撒かんという時に、あの男が帰ってくるんである。その時、おばちゃんたちは季節はずれになったでっかいスイカに皆してかぶりついている画もやけに可笑しいのだが。
あの男、そう、佐和子はずっと男に捨てられ続けてきたけれど、佐和子を一旦は捨てた5人目の男は、結局佐和子の同級生のあの若い女に捨てられた。
東京に行きたいという甘い言葉に乗った彼女を連れて行ったけれど、結局はラブホ止まりで「つまんない。東京も同じだね」と吐き捨てられてしまった。
……この台詞もキョーレツだったなあ。そうなんだよね、東京というだけで何かがあるように期待してたって、何にもない。自分自身が何かしなければ、どこに行ったっておんなじなんだもん。
勿論彼女はそんな自業自得なことなど思ってなくて、思いがけずつまらない東京にガッカリしているだけなんだけどさあ。

でもそこで、あのしじみのパックに目を落としてうなだれている彼は、佐和子が一人、田舎で頑張っていることを知るのだ。そうか、つまり、東京まであのパックは売れに売れて目にするところまで来ているんだもんね!
彼はさ、甘い考えで佐和子にホイホイついてきてさ、エコエコと口では言いながら、堆肥(まあ、糞尿ね)ひとつ撒けない腰抜けでさ、佐和子から「エコに逃げないでよ」って言われてさ。
そうなんだよなあ……エコって佐和子が撒く糞尿みたいに、臭くて重くて大変なんだよ、そもそもは。キレイごとじゃないんだよ。仕事も基本、つまらないんだよ(!)

そこからこの男は女にそそのかされて逃げ出してきて、でもそれが判って戻ってきた。おめおめと、ではあるけれど、でも一度ぐらいは許してやりたい。だって佐和子は玄関のカギを開けて彼を待っていたんだもの。
それでもやっぱり爆発して、こともあろうにお父さんの遺骨を彼にぶつけて!!怒りを爆発させる佐和子。スイカを食べてたおばちゃんたちが画面の右上、とおーくの方からわらわらと、あららら、と見守っているのがやたら可笑しい(爆笑!)

この時の佐和子も絶叫しまくっているんだけれど、ここではなんか可愛いというか、いじらしかったなあ……「あんたのこと、好きになりたいんだよ!」って。
佐和子はね、お父さんからあんな男とは別れろって当然言われててさ、加代子ちゃんもかわいそうだけど施設に預けて、なんてさ。
でも佐和子はそれを拒否したのだ。私、決めたんだ、あの人と結婚する、って。この発言にはお父さんのみならず皆が口アングリでアゼンなんだけれど、でも「頑張らなきゃしょうがない」と思い定めた佐和子の決断はやっぱりカッコ良かったなあ。……でもこの時点で彼のこと、まだ本当に好きじゃないってあたりが切ないけど(爆)。

でも大丈夫だよね。だって加代子ちゃんがいるし。加代子ちゃんがさあ、子供を殺す継母のニュースなんかを見て「……殺さないよね」とつぶやくのがあまりにせっぱつまっててさあ!
でもね、このあたりになると子供が苦手だった佐和子も、なんたって母親がいないという共通項もあるもんだから、なんかシンクロしちゃってさ「一緒に寝ようよ、お願いだから」と言っておじけづく加代子ちゃんを不器用に抱き上げるあのシーン、じーんとしたなあ……。
それ以降二人はもう親子、いや、同志。いまだに加代子ちゃんが「新しいお母さん」と呼びかけるのを「新しいはよそうよ」と苦笑する佐和子、っていうのがなんとも可愛いのよね。

で、まあ、そうそう、もう遺骨をぶつけまくって彼に怒りをぶつける佐和子に、骨!骨!と叫んで慌てて駆け下りてくるおばちゃんたち。
すんごい笑っちゃうんだけど、なんかもう……この時点で、あ、大丈夫、と思ってしまった。そう、このクズ男だけど、もうきっと大丈夫だよ。加代子ちゃんもいるしさあ!

思えばスイカって……佐和子が男運が悪い理由を同僚から聞かれて「私がスイカみたいなおっぱいじゃないからじゃないですか」などとトンチンカンな返答をするところにつながっているのね。
あの時は何でそんな突拍子もないことを言い出すのかしらと思ったけど。そして実際、いきなり巨大なスイカが畑に出来ているのも突拍子もなかったけれど、その突拍子のなさは全編通じてこの作品の魅力なのだよね。

あー、しかし、面白かった!正直滑り出しの感じはちょっとどうなのとも思っていたけれど、なんか久々に、人生讃歌な映画を観たなあ、って感じ!★★★★★


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