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「い」


2011年鑑賞作品

イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ/EXIT THROUGH THE GIFT SHOP
2010年 90分 アメリカ=イギリス カラー
監督:バンクシー 脚本:
撮影:音楽:ジェフ・バーロウ/ロニ・サイズ
出演:ティエリー・グエッタ/スペース・インベーダー/シェパード・フェアリー/バンクシー


2011/8/2/火 劇場(渋谷シネマライズ)
このタイトルの意味も全然判らんし、アートはもとより現代アートなんて全然判らん私だが、本作には「何これ、どーいう展開、てか、何??スゲー、面白れー!!」と唸りまくったんであった。
監督、バンクシー。現代アートの世界ではカリスマ的存在だという。元々ストリートアートである彼の作品は今や高値で取引され、名だたる美術館もこぞって収集しているという。
ぜえんぜん、知らない。ホント、私疎い。

この映画、監督がこのバンクシーさんというのは、最初のうち見ていると、なぜ?と思う。だって映像を撮っているのは別の人物であり、彼はまだバンクシーにたどり着いていない。
最終的には神と崇めるほどのバンクシーのことを、映画の冒頭の時点ではこの彼、ティエリー・グエッタは恐らく知らないんである。
いや、私と違ってそこまで疎くないから(爆)、名前ぐらいは知っていたかもしれない。
最初は単なる古着屋のオヤジ、アメリカ在住のフランス移民。趣味はビデオカメラを回すこと。それも節操なく、際限なく、目的なく回しっぱなしの放りっぱなし。
彼がたまたま帰省したフランスで、ストリートアートをやっているいとこを撮影しだしたことが、すべての始まりだったんである。

すべての始まり?結局最後までグエッタにとっては、カメラ、あるいはその映像はただ撮ることだけが好きなんであって趣味なんであって、編集してひとつの作品にするなんてことは、後々バンクシーから言われるまで思いもよらず、ただただテープが積み重なっていくばかりだった。
なんのために?と思うけど、グエッタが言うことを聞くとちょっと判る気もするのね。今この時は二度とは訪れない。だからそれを記録するんだ、と。

平凡な言い様だし、映像や映画に対する時に免罪符とも言えるようなベタな言葉だけど、でもまさに確かに、そうなんだもの。
そしてそれが、今、この時しかない、一分後には警察や建物の所有者によって消されてしまっているかもしれない、という、これ以上なくはかない運命にあるストリートアートを主題にすると、まあ見事なまでに、ピタリと重なるんである。

それを思うと、バンクシーがそんなストリートアートの絶対的運命を理解していながら「そろそろ記録しておいてもいいと思った」と思ったことも判るし、撮っては放りっぱなし、チョイスしなければ永遠にそのまま、というグエッタの手法がまさにストリートアートのその絶対的運命をそのまま示していることも興味深い、というかなんとも皮肉で、そして面白いんである。
そしてもちろん、最初は映像を撮ったグエッタに映画作品にまとめてみろ、と言ったバンクシー、その出来のヒドさに呆然とし、グエッタに別の道を示唆することになるのだが……。

ていう、後段の部分がオドロキの展開になり、え?これって現代アートの、それもバンクシーというカリスマクリエイターを追う映画じゃないの?と驚き……。
でもそういやあ、最初からシルエット状態で折々出てくるバンクシーが、ちゃんと監督の立場で、最初は僕を主人公に撮られる筈だった、でもその撮る側の男、グエッタがあまりに面白かった、彼こそが映画にすべきと思った、とちゃんと語ってるんだよな。
もうそれを忘れちゃうぐらい、前半はバンクシーをメインとしたストリートアートの世界のスリリングさが、グエッタの目を通して鮮烈に描かれていたから、まさか、とさ……。

ていうか、バンクシーである。バンクシー。いやその前に、ストリートアートである。
現代アートに関しては庶民コレクターの側から描いたドキュメンタリー「ハーブ&ドロシー」も凄く面白かったけど、ああいう真摯なコレクターさんにしたって、彼らストリートアーティストにしてはケッということなんだろうな。

でもね、私、正直、ストリートアートってのが理解できなかったのね。単純に、なんでそんなことするのかと(爆)。公共物を汚すのかと(爆爆)。アトリエや倉庫で、紙やキャンバスに描けと(爆)。
グエッタが手始めに、タイルを使って作ったスペースインベーダーを街中に貼って歩くいとこのストリートアーティストを取材し始め、オバマの肖像画で一躍有名になったというシェパード(確かに、見たことある!)が、アンドレ・ザ・ジャイアントの単純化した肖像画を、拡大コピーを含めて大量に作って街中に貼りまくった、というエピソードが語れるあたりに至っては、その思いはまだくすぶっててね。

でも確かにシェパードの、同じものを繰り返し、ということによって、創作者の手から離れて意味がもたらされる、というのはなるほどと思った。でも一方、このアンドレ・ザ・ジャイアントの無数のコピーの氾濫は、これ、一時期東京のあちこちに貼られてた気味の悪い“力士シール”みたいだ、と思って、そんな思いもあってやっぱりちょっと拒否反応はあった。
そう、あの“力士シール”はほおんと、なんだったんだろ……確かに数を重ねるごとに、なにかの意味があるような感じがして、だからこそ気味が悪かった……。

彼らがなぜ、“大人しく”アトリエや倉庫で作品を発表しないのか。それはそれを描く空間こそがまず作品の重要な要素だからである……などともっともらしいことを言うのは、後に監督であるバンクシーのインタビュー記事を読んだからなんだけど(爆)。
実は観ている時にはそこまでハッキリとああそうなんだと思った訳ではなく、そのインタビュー記事を読んで、ああそうか、そんな簡単なことなんだ、とひどく納得した、んだよね。
建造物所有者や、いや主に警察の目をかいくぐって深夜にこっそり作業をする彼らが、そこまでしていわゆる破壊活動(ヴァンダリズム)をするのはなぜなのか。バンクシーが真打として登場するまでは正直、ピンとこなかった。ただ、得手勝手な行動にしか見えなかった。

そりゃまあバンクシーが基本的な作画能力はもちろん、何よりセンスにおいて他のストリートアーティストたちと比べて明らかにずば抜けていて、それこそ東京の街のシャッターや壁に描かれているような汚いスプレー画とは全然違ってさ。
だからたとえ違法行為でも、勝手に描かれてても、これが落書きだと単純に断じられないということはあったけど、でもそれなら余計に、ズルいよな、目的はなんなの?と思うところだったんだけど……。
彼のその“センス”が、無機質や表面だけのきれいさやオシャレで固めている都会を見事に切り裂く絵やメッセージで、本当にドギモを抜かれるもんだから……。
もうこれは、言葉では説明できないのよ、ホント。よく使われるネズミ(ドブネズミだろうな)が都会の皮肉を非常に象徴しててさあ。

でもやっぱり、バンクシーを他のアーティストとまったく違うと定義したくなるのは、彼が都会だけではなく、紛争うずまく危険地帯に行って、分断する壁に、平和を希求する風船を掲げる影絵や、ビリリと破かれた奥に広がる楽園を少年少女が覗いている鮮やかな絵を、兵士たちから銃を向けられながらも、いつものように、都会の深夜のゲリラ創作と同じように、描いたことなんである。
この映像は、グエッタによるものじゃ、ないよなあ……。グエッタはバンクシーの心の懐に飛び込んで、貴重な創作映像をたくさん撮ってるけど、最終的にグエッタは自分自身で一杯一杯になっちゃって、この映画はバンクシー自身のものになるからさ(爆)。

とにかくこの映像を見た時に、アートはアトリエか倉庫で作ればいいとか、公共物を“落書き”で汚すなんて自分勝手で理解できないとか、そういう、単純で卑小な疑問がスーッと解けて、なんかものすーごくカンドーしちゃったんである。
いや、私もえらい単純だけど(爆)。そうか、こういうことなんだって。今、ここに、描かなければいけないことって、そういうことなんだって。

そこで彼らは街と、いや市民と対話し、議論してる。そこに彼が今生々しくいて、こうだろ、って、お前はどう思うんだ、って、そこまでキツくなくても、イイだろ、クールだろ、笑えるだろ、ってそう、言っているんである。
それが今、この時代、この一分一秒に生きている、ただひとつの証。本当にそう思えるほど、その鮮烈なセンスは強烈なの。言葉なんかで、言い表せない。言葉って、空しい。

捕まっちゃって、一分後に消されても、もしかしたら自分自身も消されても、それでも今ここにこのアートを描く意味があるんだって。
それはアトリエや倉庫で紙やキャンバスに向かって描けばいいなんて議論とは全然、全然違うんだって。

ああ、そうかあ。そういう前提があるから、私みたいな頭の悪い観客でも、なんとなくそんな前提が判ってくるから、後半のオドロキの展開がより鮮烈で、とにかく面白いんだよね!
結果から言っちゃえば、グエッタは、現代アーティストになっちゃうんである。それも、あっという間に。
バンクシーの言を待たずしても、「普通、アーティストは実績を積み重ねるけれども」ていう部分をグエッタはすっ飛ばして、もういきなりショーを開いちゃう!個展どころじゃない、ショーよ!
それはバンクシーがそうした大規模で人々のドギモを抜く斬新な個展を“ショー”として開いたのを目の当たりにしたからなんだけど、でもグエッタは何の実績もないのによ!

そもそもそんなことになったのは、先述したけれどもグエッタが撮り続けた映像を、映画にすべきだとバンクシーが言ったもんだから、グエッタは尊敬するバンクシーにそう言われて張り切って編集して、しかしこれがもう狂気の沙汰のシロモンでさ。
大体が、グエッタのやり方が、積み上げられたテープからちょいちょいとつまみあげたものをつなぎ合わせた、という……。それを彼はいかにも「俺のやり方」みたいに、これぞ運命のテープがその中から選び出される手法なんだとでも言いたげだけど、意味のないイメージショットもバンバン入れてる上に、細かくつなぎあわされているだけで、ちょっと観ただけでも確かに狂気の沙汰(汗)。

なるほど、これを見てバンクシーが、コイツに映画を作らせちゃダメだ、コイツはカメラオタクの変人だ、と(実際、その通りのことを言うのよ!)言うのは判るし、この後、バンクシー自身が製作を担当するのもメッチャ判る。
ということは、この後のグエッタの暴走の記録は、バンクシーによる指示であり演出?と考えると、メッチャオモロイんだよなあ。

劇中でも一切顔を見せず、ナゾのアーティストとしての存在を貫いているバンクシーは、しかし思いがけず自分の懐に入り込んできたグエッタの人懐こさに、心を開く。
人懐こい、とバンクシー自身が口にした訳じゃないけど、後の展開を見ても信じがたいほど天衣無縫で、それはアホと言い換えられるんじゃないかってほどで(爆)。
それまで製作スタイルの事情もあってナゾの男を貫いてきて、周囲もその条件下で動いている仲間たちばかりだったから、「グエッタに癒された」と直裁に言うバンクシーの気持ちがなんか、判っちゃうんだよなあ。だからこそ、その後の展開がスゲーんだけど。

まあでも。最終的にバンクシーが、グエッタがアーティストとしてのすべての過程をすっ飛ばして、いわばコソクな手段で成功を収めたことも、その過程でバンクシーが好意で寄せたコメントを上手いこと利用されたり、仲間たちが困ったグエッタを見かねて手助けしたのに、本人は思いも寄らぬ成功にただただホクホクしてたりってことも、いかにも「コノヤロー」みたいに描いてはいるけど、親愛なるギャグなんだよね。多分……。
いや、ラストクレジットに至って、いろんな登場人物の来し方行く末を紹介した上で「バンクシーはもう二度とストリートアートの映画に手を貸さない」とクレジットされるのが、ひえっ、マジかも?と思わせるぐらい、グエッタの世俗的手法による成功物語が皮肉たっぷりに描かれるからさ。

ただ、冒頭、バンクシーが、自分を撮った映画より、その自分を撮ろうとした男を主人公にした方が面白いから、と語ったことを思い出すと……確かに映画的主人公としては、グエッタの愛すべき自分勝手さこそふさわしく、バンクシーはカリスマで先導者で、つまり崇拝は集めるけれど、映画的主人公としての共感の対象としてはちょっと違うのかもしれなくて……。
ミスターブレインウォッシュとして今や有名な現代アーティストであるというグエッタは、しかし劇中では製作はすべてスタッフにやらせ、アイディアは自分自身と言うけれど、バンクシーの目を通しているせいか、そのアイディアもどうにも模倣で貧相に見えてしまうし。

しかしグエッタは、何よりバンクシーに言われてこの道に突き進んだんだという熱い思いがあって、ストリートでの“実績”も、バンクシーをはじめとした取材対象のストリートアーティストたちのまんまイタダキであり、しかもその最終的モティーフが「カメラを持った自分自身」うっわ、社会を意識し、関わるストリートアーティストたちと真逆だわ……。
だからこそバンクシーも他のアーティストも苦々しく思ったんだろうけれど、ある意味グエッタは、自分の地平を切り開いたのかもしれない??

バンクシーの言葉を聞くとね、彼が凄く頭がいいことが判るし、アートってのは結局は消え行くものだと、だからこそ価値があるんだと、そんな風にも思ってるんじゃないかな、とも思ってね。
だからこそ敢えて、あるいは本能的にストリートアートを選び、だからこそグエッタに対して親愛と同時に憎悪……まではいかないにしても、なにか苦々しさ、歯がゆさ、面はゆさ、みたいなものを感じるのかなあ、って。
だってグエッタは恐らく、ストリートアートがなんたるかなんて考えてないし、考えてたら、全財産つぎ込んでショーをやろうなんて考えないだろうしさ……。

でも、バンクシー自身の価値が上がったことによって、最初から消え行く運命にあったストリートアートが“保護”されることになると、最初から保護の対象でもなかったグエッタの作品が、バンクシーの推薦文によって(それはグエッタがおおっぴらにばらまいたのよ!)価値が上がり、保護の対象になり……。
一体アートって、なんだろうと、思う。それこそ「ハーブ&ドロシー」みたいに、ただ気に入ったものを、という境地になれればいいけど、彼らだって、その殆どを部屋の中にしまいこんでた。ストリートでたった数分の命でも、買われて押し込まれるよりましなのかもと考えると……。

なんてぐちぐち言ってるより、とにかく面白いのよ!だって、まったく予測つかないし、グエッタは信念行き過ぎで全然判ってなくってもう劇的展開満載だし!
これほど冒頭示された方針?に観客がそう思い込まされたそこから、えええええ?と思うほど思わぬ方向に行きまくる作品って、ないわな!★★★★★


行け!男子高校演劇部
2011年 85分 日本 カラー
監督:英勉 脚本:池田鉄洋
撮影:藤本信成 音楽:川嶋可能
出演:中村蒼 池松壮亮 冨田佳輔 川原一馬 金子直史 稲葉友 佐藤永典 新川優愛 足立梨花 八木小緒里 西原亜希 千葉雅子 池田鉄洋 和田彩花 前田憂佳 福田花音 小川紗季 大和田伸也

2011/8/9/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
これって、ど、ど、どうなの、と。笑える映画として作ってる気持ちがマンマンなのはものすんごく判るんだけど、ちっとも笑えないのはこの暑さで疲れているからなんだろうか……。
いやいや、でも、「あ、この映画ダメそう……」と思うのって、最初の画一発でそう思っちゃうんだよね。判っちゃうというか、感じちゃうというか。なんというか、第六感みたいな感じで。
で、これは別に関係はないんだけど、そういう映画って、なぜか大抵クレジット後に更にウケネライのワンカットを用意していたりする。「シュアリー・サムデイ」とかも。
本作もそうだったんだよな……。それで、うー、と思った。うー、あの最初の画一発のカンは当たってたのか、と。

あの怪優、池田鉄洋が脚本を手がけた、というのはラストクレジットで知った。監督の名前がなんとなく見たことあるなと思ったら、「ハンサム★スーツ」でだった。
二作目の「高校デビュー」は観てないけど、脚本家のネームバリューで撮られたイマイチ笑えない映画、ってトコは共通してるかも、なんてヒドいことを思ったりする。でもなんでそんなに笑えなかったんだろう……?

こんなこと言っちゃうとこれまたアンマリだけど、その最初の画一発で思わず引いてしまった、主演の中村蒼君のあまりといえばあまりのわざとらしさにあったかもしれない。
いや、わざとらしいなんていったら、これをわざとらしく演らなくてどうする、といったキャラだし設定だし物語なんだけど、こういうオバカな物語、オバカなキャラってのは、観客を笑わせるのが簡単そうに見えて実は難しい、どころか、かなり技術がいるんではなかろうかと思ったりした。

のは、脚本を手がけた池田氏が演劇部の顧問の先生として登場するんだけど、彼もまたアイドルオタクでやる気のないキモい先生、という設定だけで充分な感じなんだけどさ。
でも設定だけで充分でも、演るとなると、やあっぱりそれだけじゃないんだよね。正直、ただギャーギャーとオバカに騒ぐ中村君が一生懸命なだけに痛々しく笑えず、ああ、こういうところにも芝居力って必要なんだなあ、と思う。

芝居力と言ってしまえば、そう、この男子演劇部のメンメンの中で、唯一見てられるのは池松君だけで、でも彼は割とマジメ系の役を振られていたので、逆に彼のオバカを見てみたい気もした。
それこそ先述のラストカットで、ファミレスの可愛いウェイトレスにうっとりしてダーと口からこぼす、なんて一発のギャグが、それまでのマジメさのせいもあってか、ここだけはちょっと面白かった。でも意味ないラストの付け足しだったけどさ(爆)。

なんかね、オフィシャルサイトの解説の冒頭を読んだだけで、ああ私はまさにこれが気に入らなかったのかもしれないなあ、と思った。
“小ネタやギャグをオンパレードでお見舞いし、さんざん笑わせたかと思いきや……”多分ね、脚本を書いた池田氏も、演出した監督さんも、その小ネタやギャグに自信マンマンなんだよ。
それは冒頭、主人公の小笠原ことオガが、女の子にモテる部活はどこかと、花道のように部活勧誘の中を潜り抜けて、サッカーのドリブルだのバレーのアタックだの軽音のドラムまでもそれなりにこなしてしまい、イエーイ!なんて呑気に叫ぶ場面を妙にソツなくこなしている時点で感じちゃうんである。

で、その行きつく先が演劇部で、シェイクスピアも知らないオバカなオガがロミジュリにすっかり感動、ていうか、ジュリエットの可愛さに感動し、ジュリエットー!!と雄たけび、ジュリエット!ジュリエット!!と連呼して入部しちゃうも、ここは男子校なんだから、ジュリエットを演じているのもメイクべったりの先輩男子(のどぼとけで判るよなー)。オガは今度は絶望の雄たけびを上げるんである……。

……まあ、ジュリエットが男だった、というオチはいくらなんでも読める(て言うか見て判る)にしても、オバカ丸出しを一生懸命に体現するために、ジュリエット!ジュリエット!と連呼する中村君があまりに痛々しいのよ(爆)。
可愛いくて表情豊かな男の子がオバカをやればハマるというほどコメディの世界は甘くないということが、如実に露呈されてしまった感じ。
だってさ、彼の相棒として最初からそばにいる池松君が、やっぱり彼は芝居が上手いし、オバカを要求されないにしたって、中村君と並ぶとやっぱり違うからさ、その辛さもあるんだよなあ。

オガが入った途端、部員の大多数を占めていた三年生が引退、二年生もいなくて、いきなりオガは部長に抜擢されてしまう。その理由が「声がデカいから」というのも、特に笑えない(爆)。
現段階でいるのはナルシストの城島(ジョー)と、異様に影が薄い上田(ウエダ)のみ。ザ・作り物なほくろを鼻の下にこしらえて、オレはカッコイイ、と鏡に見とれるジョーと、CGを駆使してまで影を薄くされ、そこにいるのに見えない、なんていうイジメみたいな描写をされるウエダ。
共々、“小ネタやギャグ”なんだろうけど、まったく笑えないのは、私の感性に問題があるのだろうか、うーん……。

別に、差別だのなんだのというカタいことを言うつもりはないのよ。でも、こうした描写を“小ネタやギャグ”程度にしてしまったことが、逆にダメだったんじゃないのかなあ、って……。
それこそカタいことを言うようだけど、ウエダのキャラ設定は、彼自身にとっては結構深刻、だよね?でも特にその後、彼がそれを克服してヤッター!みたいな感じは、ないんだよな……。いや、そんなことを望むこと自体がそれこそベタだしお涙頂戴なクサさなんだけど、でもわざわざ彼のようなキャラを出してくるなら、やはりそれが解消されるカタルシスは期待するし、必要、だよね?

それともあれ?彼が懸垂できるようになったのと、演劇祭で大成功を収めて、女子高生たちから握手を求められるシーンで解決しちゃうのかなあ?
でも、懸垂は、彼はいかにも体力なさそうだけど、悩んでいるのは体力ではなく影の薄さであってさ、なんか彼が懸垂出来たら仲間たちがやけに感動的に迎えるけど、違うような。
それに握手を求められるのも、それで感激するのは、女の子たちにキモイキモイと言われていたタムラあたりだもんなあ。

ああ、もしかしたら、女の子の描写がアイドル的、形骸的なまま終わってしまったことも、なんとなく消化不良だったのかもしれない。
まあ顧問の先生がアイドルグループ、スマイレージの大ファンで、顧問として協力する条件としてオガを仲間に引き入れるも、結局オガは「ボクもスマイレージのファンになります!」と宣言するのに、そんなオイシイ要素をきちんと使う要素がないのもあまりにもったいなかった。
オガは結局、スマイレージのファンになんぞなってやしないじゃないの。せっかく現実に存在するアイドルグループを引っ張り出したのに、もったいなさすぎるよなあ!

それでもオガはなんたってモテたい、うっかり演劇部に入ってもその気持ちは変わらず、女の子大好きで、演劇部の稽古を見に行った女子校で、主役をやっていた子に一目ぼれしてしまう。またしても、ジュリエットー!!!
である。演劇のことなど何一つ判らないから、他校の稽古を観に行こう、なんて話になるんだけど、そもそもそれがなんで女子高だったかっていうのは、あの顧問がスマイレージのメンバーがいる学校をチョイスしたからで、靴箱を怪しく徘徊しているところを生徒に見られ、ギャー!!

……まあその、この稽古見学の場面で、彼らが女子高生を装ってセーラー服姿になる“ワザとらしさ”もまた、正直あんまり笑えず。
そりゃまあ、セーラー服着て股開けるのは男子の女装のギャグの王道だろうが、なんだろうね、難しいね、こういうの。
ただ女装するだけじゃ、やっぱりダメなんだと思う。そこにスリリングや意外性がないと、ダメなんだと思う。こんなワザとらしい女装男子学生、すんなり入れないよ、などとマトモに突っ込まれてたら、ダメなんだよね。
で、この稽古場面「ガラスの仮面」かってぐらい、厳しく指導される(今ふっと言っちゃったけど、色つき眼鏡の厳しい女性顧問と、長い黒髪のヒロイン、って、結構当たってるかも)美少女にオガは一目ぼれする。

んでもって、またしてもあのジュリエット妄想が、実は先輩男子だった冒頭のまで巻き込んで繰り返されるから、しかもかなりしんねりと……いや、丁寧に(爆)だもんだから、ウンザリ、なんて言っちゃいけない!けど、けど……。
バリッと衣装を両側からはがされると、ロミオないでたちに早変わりして「ジュリエットー!!」……この幼稚さを(爆)笑える段階まで引き上げるには、やはり役者としてのキャラ力と芝居力が足りなすぎるのよう。

この独裁顧問から彼女を救い出すため、つまり自由で楽しい演劇を見せ付けるため、彼らは俄然張り切りだす。途中、足をケガしたサッカー部員が入部してきたりなんていうくだりもあり、正直、彼のバカぶりの方が、池松君のサポート(ツッコミというより、こっちの方がしっくりくる)もあってか、笑えるっつーのが主人公にとってはツラいところである。
彼らがいわば、演劇的結束を強めることになる、高齢者施設への慰問のシーン、その前段階の合宿から遭難のエピソードも、今忘れそうになってたほどどーしよーもないので置いとくけど(うわあ、私、サイアク……)。

まあつまり、ね。おじいちゃんおばあちゃんの前で「桃太郎」を演じるのよ。入ってきたばかりのくだんの元サッカー部員のハシモトが、なんと桃太郎の物語を知らず、鬼なのに桃太郎もサルもキジも斬りまくるという大暴挙!
しかし犬役のタムラがなぜか超上手い殺陣を披露し、支離滅裂ながら見事にオチをマーク、それまでぼーっとしていたご老人たちから拍手喝さいを頂戴する。サルの着ぐるみの耳に彼のしているピアスがちゃんとぶら下がっているのがなんとも心憎い。

でもこのエピソードだってさ、おじいちゃんおばあちゃんたちの喜ぶ様も(あるいは引く様も)あまりにおざなりだし、それだけ、って感じで、それは正直、大ウケだったクライマックスの演劇祭でのシーンとさして変わらないんだよね。
その先にあるのは、「握手してください!」と声をそろえて手を差し出す女子高生たちの群れにある訳で、そこにカタルシスを持ってこられるならば、やっぱり物足りないと思わざるをえない。
いやまあ、これはあくまでオバカな展開に大笑いする気楽な映画なのだろうけど、モテたいと思っていた男子高校生がウッカリ入ってしまった冴えない演劇部、だの、虐げられている女の子を救いたい、だの、レベルの違いを見せ付けられる、だの、といったカタルシスに持っていこうとする要素をちりばめられちゃ、なんとなく期待しちゃうじゃん。

あ、でもそうか……考えてみれば、彼らはギャグみたいに、ていうか、呪いみたいに「エンゲキ、ダイスキ」と口にはするけど、結局そういう段階にはあがってないんだよな。
演劇祭のためにカジ(池松君)が書いた「最後の一葉」だって、彼らが演じるのは鉄の棒にぶら下がった“葉っぱ”であり、だからこそ懸垂の特訓が必要だったんであり、てことはつまり、半分はアドリブみたいな、切羽詰った応酬に観客は大ウケであり、それって演劇じゃないよね、と……。
確かにオバカな設定と展開のまま行く本作ならば、この有名な感動作を奇想天外な演出で板に乗せるのはフシギじゃないのかもしれないけど、でもさ、でもさ、でもさ……なあんか、納得いかないんだよなあ!!眠そうな会場スタッフに堺雅人まで用意してさあ……。

しかも大オチが、優等生カジの厳しい父親が、有名俳優、大和田伸也だったってことである。大和田伸也自身が演じる大和田伸也である。
なぜこれが微妙に笑えないかって、大和田獏の方がインパクトがあったから?いやいや!
大和田伸也のホントの息子も俳優やってるのになあ、と思うと、なんともこの設定は微妙である。だって池松君の方がネームバリューも芝居も(!)上かもしれないし……(嗚呼!)。

それにこういう、友情出演みたいなのを、サプライズな展開にまで使うのはあまり好きじゃない。よっぽど上手い使い方しないとあざとい気がする。
「大和田伸也だ!」「カッコイイ!」と演劇部と顧問のメンメンが追いかけていった先に、くだんの女子高生たちの握手攻めがあることを思うと、やっぱりこれは……あざとい、よなあ。
「やっぱり血は争えないな」と言う父親の前で神妙な顔をしていた池松君、という、この二人がやけにシリアスな演技してたから余計にさあ。

タイトルも、どっかのヒットマンガを模倣してるみたいだしなあ。ウケねらいっぽく盛り上がるCMソングやら、本筋とはまったく関係なく、男子校の妄想チックに繰り返される購買部のおばちゃん(つっても若くて可愛いってあたりがズルい)とブチャイクな男子高校生との禁断の?恋やら、落ち着き先が用意されないままノリの要素がばらまかれるのが居心地悪い。
ある程度の期間があるドラマならそれも面白いのかもしれないけど、一日の、ある程度の尺の中でひとつの着地点を見出すことが暗黙の了解である映画(エンタメの場合は特に)の場合は、思いつくままバラまかれるままだったこの“好き勝手”はツラ過ぎたなあ。

それにそもそも、男子だけの演劇部の面白みが、追及されないままだったような?晴れ舞台にマネキンを使う面白さも、葉っぱを演じるアドリブ性に消されちゃうし。
何よりこのマネキンが生じるおかしさ、プールに投げ入れられたままの足だけのマネキン、明らかに「犬神家の一族」であるのも、画面の片隅に控えめどころかうっちゃっておかれるだけだしさ。
こういうのも、小ネタでありギャグなんじゃないの?ベタでもおさえておかないと、本当の小ネタで笑えないよなあ……。★★☆☆☆


イチジクコバチ
2010年 74分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:竹浪春花
撮影:松石洪介 音楽:金山健太郎
出演:水井真希 深澤友貴 川瀬陽太 吉谷彩子 豊川智大 曽我真臣 伊藤猛

2011/1/31/土 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
最初イチジクと聞いて、ああ、あの人間の血の味がするという……と思いかけて、あ、違うや、あれはざくろか、と思い、第一、イチジクコバチという寄生虫の存在自体知らなかったので、それが絵本の形で劇中、説明されると、哀れさを誘う運命にゾウッとしてしまった。
いや、その虫にとってはあくまで当たり前の生き方であり、そんな風になぞ思っていないのだろうが……なんてことを言い出すと、映画のことじゃなくイチジクコバチの話になってしまうが。

でも、この虫の前提があるからこそ効いてくる話である。てか、まさかそれが、あんな残酷なクライマックスに結実するとは思わなかったが、いくらなんでもそれをここで言うのはオチバレにもほどがある。
そう、その小さな虫がどういう虫なのかは、ヒロインのみつが愛読している絵本で示される。イチジクの中で一生を終える雄は、目も羽も足もない(この時点でゾゾッとしてしまった。「キャタピラー」より残酷ではないか)。

そして、雌は雄の尽力で外へ出て行くことが出来るけれども、雄はそのまま、イチジクの中で一生を終えるのだと言う。
ていうか、その姿では外に出ても生きられまい。まさに、イチジクの中で一生を終えるために、神様からそんな姿にさせられているとしか思えない。そして、雌はそんな雄を踏み台にして外の世界に大きく羽ばたくのだ。

思えば生き物の、特に虫の世界にはそういう話は結構あって、それを人間社会の男性の悲哀に例えたりする話もあるけれど、無論、人間社会ではむしろ逆である。男性社会の抑圧に羽をもがれて動けなくなっているのは女の方である。
女性の社会進出などとわざわざ言われるのは、羽ばたく女性が珍しいから、ナマイキだから、そう言われるんである。

……などと、社会党の演説みたいなことを言うのも、勿論この映画に対しては全然違う。
確かに、ヒロインのみつは、今、まさに、身動きが取れない状態である。冒頭彼女は援助交際の待ち合わせをしている。見張っていた父親にコトの直前に現場に踏み込まれ、まさに首根っこを捕まれる状態で家に連れ戻される。
父親は「お母さんと離婚したお父さんとの生活に不満があるのか」と高圧的ながらもどこか哀しげに娘に問う。娘はただ黙って謝り、父親のために食事を作り、父親と一緒にぼおっとテレビをながめている。
学校に行くこともなく、同級生からは父親に監禁されているのだとまことしやかに噂されている。

まさに、羽をもがれているのはみつの方だと思うんだけれど、最終的には彼女は羽を折り畳んでいただけで、いつでも飛べた気がする。
それはあの衝撃のクライマックスを迎えてそう確信出来たんだけれど、でもその前から……父親に監禁されていると思われていながら、実際、一度連れ戻されてからは父親の目を気にして外出することも、勿論“仕事”をすることもなかったからそんな風に見えなくもなかったけれど、指名がくるほど“仕事”はしていた訳だし、“仕事”をしているのは、このぐうたらな父親との暮らしにカネがいるからだろうということは容易に推測出来るのだ。つまり、奥さんにアイソつかされたのもそのせいじゃないかと。

ただこの時点では、ならばなぜ奥さんは、娘をこのぐうたらな父親の元に置いていったのだろうと思っていた。娘を思う母親としての気持ちはなかったのかと。
そんなにヒドイ母親だという伏線も張られていないし。いや、張られていないからこそ……そしてエンコウする娘を心配する父親というのは確かに当然ながらも、ならば働きもせずに呑んじゃ寝の生活を改善しようとしない父親に、薄々その答えは、確かに見えていた。

まあ、この作品自体が“青春H”な訳だし、なのにエンコウでのエッチな場面は、そここそが稼ぎ時?なのに、ほとんど、ないんだよね。
最初にみつが父親から連れ戻された場面では、ゲスト出演って感じの川瀬氏のヘタレぶりが楽しいけれど、つまり父親役の伊藤猛からぶん殴られてオワリだし、一回ぐらい、しかもかなりアッサリとしたエッチシーンしかなかったよね?
この企画で、しかも伝説のピンク四天王の一人のサトウ監督なのに、と思ったりしたものなのだ。

でもそれはやはり、見えないエッチが、みつが父親と関係していたという、最終的にみつの口から語られるだけの見えないエッチが、最も重要だったからだと思うんだよね。
そしてそれは、まさに父親が理性という目がつぶされ、社会に出て行く手も足ももがれてしまったことになったのだと思う。みつの羽はただ畳まれていただけ。

みつがあの童話を愛読し、時にはのんだくれた父親に朗読して聞かせているシーンがひどく印象に残る。あの童話、外国の翻訳モノのような体裁で出てきたけれど、クレジットを見るとやはりオリジナルな創作っぽい。
みつは、狭い自室でぱたぱたと腕を上下させる。ふと部屋を覗いた父親に何をしているんだと問われると、飛ぶ練習、と無邪気に返す。こんなやりとりでは、彼女が父親にそんなヒドイ目にあっているようにはとても思えない。

みつは父親のために卵焼きと味噌汁の朝食をこしらえ(スクランブルともオムレツとも判然としない、不恰好な卵焼きが、その不器用さがなんか泣けるんである)父親のスーツにきちんとアイロンを当て、出かける父親に行ってらっしゃいと玄関口まで見送りにまで出るんである。
後に初体験が父とであったことが明かされても……つまり、性的虐待と、生活の困窮のためにエンコウを余儀なくされた不憫さを考えても、彼女からは父親への無邪気なまでの愛しか感じ取れないのが恐ろしいのだ。
だって「あの人は可哀想な人だから」と父親のために自らを家の中に閉じ込めた彼女が外に出たのは、その父親が同窓会で午前様になり、「お母さんが欲しいか?」とみつに問うた、つまり同窓生とそーゆー仲になったらしいことを知ったからだったのだった。

一晩中居間の床でうたた寝をして待っていたみつ。シャワーを浴びている父親からそんなことを言われ、ハダカの父親にケリを入れて飛び出す。
このシーン、まだ父娘がそういう関係を結んでいることが明らかにはなっていないんだけれど、ヘーキで娘の前に濡れたハダカで出てくる父親に、そういうイヤな馴れ馴れしさは感じたし、そして、だからこそ、その裏切りは哀れだったのだ。

ここまででウッカリ言い損ねていたけれど、もう一人重要人物がいるんである。みつの仕事の仲介人の青年、慎吾である。なあるほど、援助交際ってのは、今はこんな風にシステムが出来上がっているのか、などとミョーに感心する。
みつの様に登録している女の子たちは、このブローカー?からの連絡……実にアッサリとした、待ち合わせ場所と受け取る金額と客の名前だけのメールにこれまたアッサリ了解を返すだけである。
その後、客にハートマークがたっぷりのメールを女の子の代わりに送るのは慎吾の仕事なんである。慎吾はまるで無表情で、死ね、死ね、エロオヤジとつぶやきながら、ハートマークだらけの女の子仕様のメールを客に送信する。

こんな慎吾の様子から判るように、彼にもおおいなるトラウマがある。父親は女を作って出て行き、病気になった母親は不思議な微笑みを浮かべて死んだ。
たった一人になった慎吾の目に映る同級生たちは、なぜか一様に白塗りで、そうじゃない慎吾に嘲笑を浴びせてくる。
このあたりは多分に神経が弱っている慎吾の妄想も入っている感じがするのだけれど、自分たちとちょっと境遇が違うだけで、簡単に誰かを排除する同級生たちの、白塗りの嘲笑いは、慎吾の不安を表わすような揺れるカメラワークもあいまって本当に気味が悪いし、確かに彼の気持ちがなんとなく理解されるような気もする。

そういう排他性は、若い頃には確かにある。大人にもあるけど、大人はそれを外見では判らないようにやるから余計にいやらしい。それは余計にキツいこともあるけど、外見には判らないから、割り切れる強さがあれば、乗り越えられることもある。
でも、中身も外見もやられると……しかも、狭いコミュニティで生きている若い頃は、これがいかに辛いかは判り過ぎるほどに判り過ぎる。
ただ、それはみつに比べると弱い気がするのは、無論あのクライマックスに向かう布石であるのは間違いないだろうと思われる。こんなことで屈する慎吾に、みつの“愛する”父親を殺す権利など、ないのだ。

おっと、おーーーーっと!うっかりオチを言ってしまった!……そう、そういうことなの。
えーと、でもね、そこに至るまでには確かに紆余曲折があるのだ。マージンの入金がもれているということを口実に(なるほど、ここまでシステムが出来上がっているから、仲介人とは会う必要もない訳だ)みつの家を訪れた慎吾は、監禁されているというウワサを聞き、みつが仕事を受けなくなったこともあって気になって家を訪ねるんである。
そしてその何回目かに、あの同窓会の事件があって、みつは裸足のまま慎吾の手をとって飛び出した。初めての、家出だった。
慎吾に靴を買ってもらって、彼が根城にしているカプセルホテルに転がり込んだ。そこから仕事へと往復する日々。

隣のカプセルをとってくれたのに、みつはまるで猫のように、慎吾のカプセルにもぐりこんだ。でもセックスはしなかった。キスをしただけで、慎吾は怒ったから。
それだけじゃなく、笑うなよ、と慎吾は激怒した。それは、微笑んで死んでいった母親のことを思っていたから。その微笑みの理由が慎吾には判らなかったから。
だってだって、父親は女を作って出て行った。母親は不幸だったに違いないのに!って。

……きっと、さあ。ここで明らかになる以上に、慎吾は母親のことが本当に、好きだったんだろうなあ。彼こそ、母親と寝たい人だったに違いないと思う。
ひょっとしてひょっとしたら、彼はその思いを抱えて童貞だったのかもしれないなんてことまで考えてしまう。目も見えず、羽も足もない、自分の足で外に出て行けない、哀しきイチジクコバチ。

彼が、最終的にみつにその姿にさせられてしまう、ナイフで目を潰され、腕と足を斬り落とされてしまうという凄惨な姿になるのは、なんだか妙に穏やかな彼の死に顔を見るにつけ、そうなりたいと思っていた彼の願望をみつが叶えてあげたようにも思えてしまう。
だって慎吾は、みつに惹かれていた。救い出した最初は生きていくために仕事をさせたけど、辞めさせたのはみつのことが本当に好きになったからでしょ。
でも、みつが、女の子が、畳んでいた羽を羽ばたかせて外に出て行くためにやるべきことは……。
そうか、そうなのか、だからカプセルホテルだったのだ。まさに、イチジクの実のように狭い空間がズラリと並んで閉鎖されているのだもの。

お客とのエッチシーンがあまりにアッサリ過ぎ去ったから、この企画なのに大丈夫だろうかなどといらん心配をしたのだけれど。
みつを探し当ててこのカプセルホテルに乗り込んだ父親を慎吾がまず刺し、その後みつがメッタ刺しにして殺した後、血だらけのみつと慎吾が、その血をお互いシャワーで丁寧に流しながら、愛しげに、慈しむように、大事に大事に、セックスするシーンが、エロさというより……いや、ちゃんとエロだったけど、なんか神聖な営みのようで、神様が見ているようで、なんとも言えない気持ちになってしまったのだった。

みつを演じている水井真希嬢がね、もう最初の登場から上唇が下唇よりもぼってりしている、しかも負けじと?下唇もぼってりしているという、もうエロすぎる唇でさ、それでいて瞳はキツネのように細く、しかも離れているのがまたなんともアンバランスな魅力でさあ、そして陶磁器のようなきめの細かい色白といい、なんかもう、ゾクゾクするエロと神聖さを行き来する女の子でさ、タマランったらないのよ。
何者!?この子!だから、この唇に誰か早くキスしてくれ、それを早く見たい!!!と思ってしまった(爆)。だってあの唇はマジでヤバイだろー。

てか、ん?待てよ……彼女のフィルモグラフィーをながめていたら、私、「戦闘少女 血の鉄仮面伝説」で観てる……ひょっとして、ひょっとして、あの、これは誰がやってるの?と私が特定できなかったあの??あのあのあのあのキョーレツな??そういやー、すげー唇!おっぱい薄いけど……とか思ってたような(爆)
ヒヤー!そうかそうか!そうかー……ホント記憶力なくて私バカ!これからは彼女に注目します。てか、もう一瞬で大ファンです。素晴らしすぎます。ついて行きます!!!

んでね、父親を演じる伊藤猛、ベテラン中のベテランの彼がさ、……私、そんなに久しぶりに見た訳じゃないと思うんだけど、なんか、こんなに痩せてた?ガリガリで、頬がこけて、目がギョロリとしてクマ出来てて、なんか死神みたい!(おい)。今にも死にそう!(おいおいおい)。
病気してる訳じゃないよね?心配になっちゃうよなあ……いや、この役にはピッタリだけど……。

でも、イチジクコバチとして認められたのだろう、慎吾は目を潰され、手足を斬り落とされたけれど、この父親はただ、そんな役割も与えられずに死んだのだと考えると、彼のやったことは鬼畜だけど、なんかふと、可哀想と思ってしまうのは……甘すぎるだろうか?★★★★☆


一枚のハガキ
2011年 114分 日本 カラー
監督:新藤兼人 脚本:新藤兼人
撮影:林雅彦 音楽:林光
出演:豊川悦司 大竹しのぶ 六平直政 柄本明 倍賞美津子 大杉漣 津川雅彦 川上麻衣子 絵沢萠子 大地泰仁 渡辺大 麿赤兒

2011/9/4/日 劇場(テアトル新宿)
新藤監督が自ら“遺作”を決めてしまったことが、なんだか悔しかった。いつまでもどこまでも現役バリバリの映画監督として、前のめりに命絶えるまで映画を作ってほしかった。新藤監督ならそれが出来る気がした。
いや、宣言しただけで今からだって判らないけど(と、つい期待してしまう)、でもここまで、実に100の手前になるまでそれこそ前のめりに作ってきた新藤監督だけが、そうした幕引きを許されるのかな、とも思った。

自分の人生の最後はこういう映画、それに満足して幕を引く。それこそケツの青い映画監督には出来ない芸当。
でもやっぱり悔しい。だって日本最高齢監督ではあるけど、世界最高齢じゃないんだもの。でもやっぱり身体が動かなくなるっていうのが辛いのかなあ……。
クリエイターとしての命は、頭がハッキリしてさえすれば、意志力さえあればと思っていたけど、車椅子に小さくなった監督を目にしたらなんだか……何も言えなくなってしまった。

でもそれでも、キレイすぎる。これを最後にするなんて、キレイすぎる。
ていうか、“99歳の映画監督の最後の作品”という触れ込みだけでヒットしているような気もするのも寂しすぎる。
近年の新藤監督のミューズである大竹しのぶは誇らしそうに「99歳の映画監督の作品」とあるテレビ番組で言ったけど、新藤監督の名前は口にしなかった。もしかしたら言ったのにカットされたのかもしれない。
宣伝的には、99歳の映画監督、彼が遺作と決めた最後の作品、というだけで充分刺激的なのだろう。
そんなことが惹句になってしまうのもたまらなく悔しかったし、新藤監督という大きな存在がそんな形容詞で語られるのも寂しかった。

うん、なんだかキレイすぎる気がしたんだよね。それもある。凄く、ある。
新藤監督は近年ですら、口をあんぐり開けてしまうほどのブラックユーモアをあっけらかんと差し出してくるような人だった。年を重ねてくると、人生賛歌を言い出すような、凡百の監督たちとは全然違ってた。
エッチだし、皮肉屋だし、時に冷酷と思えるほどにどん底に突き落とすけど、でもカラリと明るく、胸を締め付ける。
……ああ、そうか。新藤監督はずっと前から、若い頃から、ちゃんと人生賛歌をしていたんだ。辛いと思える作品でもきちんとそうだった。
ならばやはり本作は、彼の集大成なのか。今まで見せていなかった。彼の優しい……ある意味弱い部分なのか。

新藤監督なら、戦争を語るんでも、もっと辛らつに、突き放すように描くのかと思った。
……ていうか……本作のキーワードが断片的になんか、聞き覚えがあるなあと思ったら、監督が弟子のために脚本を提供した「陸に上がった軍艦」にかなり語られているんだよね。
あの時、ああそうか、新藤監督のお年ならめちゃめちゃ戦争体験者なんだと思い、そして彼は結局戦争に行かなかったけど、戦争間際の視点というのがまたひどくギリギリでね。
戦争のくだらなさ、アホらしさを、これは彼でしか出来ないだろうなと思うあっけらかんとしたユーモア(とてつもなく重いんだけれども)で描いてて、舌を巻いたんだよね。

あれはある意味、新藤監督の見た戦争、という半ドキュメンタリーのような様相も呈していて、独特な作品で、非常に面白かったけれども、今思えばこれは……新藤監督自身に撮ってもらいたかったとも思う。遺作を本作にするぐらいなら、そうしてほしかったと思う。
いや、確かに新藤監督自身を客観的に眺めるカメラがあり、その中で新藤監督の戦争を見つめる、だから湿っぽさのない、怖くなるほど戦争を冷たく糾弾した作品が出来上がったのだろう。
あれはあれで正解だったとは思うのだけれど……確かに面白かったし……。

でも、本作を“遺作”として出してきて、ネタ的に「陸の上の……」とかなりカブることを思うと、やはり何かフクザツな思いがする。
戦争を糾弾する、という点では、正直「陸の上の……」の方が圧倒的に勝っていると思うし、新藤監督らしさもあると思う、んだよね。
本作に漂う、湿っぽさというのはいい意味でも悪い意味でも非常に普遍的で、だからこれを新藤監督が遺作とするのが、なんだか悔しい気がしてしまったのだ……。

本作のタイトルであり、ここを基点に展開される、一枚のハガキに書かれた「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので何の風情もありません」という文言も、聞いたことがある気がするから、恐らくこれも、「陸に上がった……」に既に出てきているんだろうと思う。
確かにこの文言は非常にドラマに広げられるので、本作が作られた意味合いも判るし、実際、このシンプルな文面に、前略も、ではお元気で、みたいな後段もない、ほんとに、気持ちをただ書いただけの文面に、ぐっと心をわしづかみにさせられるのは確かなことで……。
妻からこのハガキをもらった、もういい年の兵士が、返事が書きたいけれども、後を頼むと書くだけで検閲に引っかかってしまうから書けないと嘆息、自分はきっと死ぬから、お前が生き残ったら、このハガキは確かに読んだと妻に伝えてくれ、と頼み込むんである。

ところで、“もういい年の兵士”これも「陸に上がった……」で説明されていたけれど、戦争末期で、こんな年の男にもお声がかかってしまう訳。
でもそれで言ったら、その後になって彼の弟が、これはかなり若く見えるんだけど、召集されるのが??と思うが……うーん、どうなんだろう、よく判らない。単なる運なのかしらん。
六平さん演じる、ハガキを受け取った定造の奥さん、友子が大竹しのぶ。この時点でかなりの逆年齢差がありそうな気がするが、大竹しのぶの本来の若々しさでギリギリカバー出来るかな。
それでも、この夫婦の最後の夜、「帰ってきたら、今度こそ子供を作ろうな」……やっぱり大竹さんではムリがある気がするなあ。

その後、定造の戦死が告げられ、年老いた自分たちだけでは生きていかれない、と留まるように懇願された友子は、家族も皆死んでしまって帰るところもないし、とそれを了承するものの、更に一点、この村のしきたりで、長男が死んだ場合は弟と娶わせる、ということに従うんである。
この次男がぐっと若くて、正直しのぶさんとは親子ほどの差では??それはまあ、しのぶさんが、この役柄の年齢設定自体より相当上だろうからな……。
こっちは彼女の年齢をウッカリ知っているからついついゲッと思うけれども、そんなことを気にするのはつまんないことなのかもしれない。
いやでも、今の映像の先端技術じゃ、目じりのしわも、肌のたるみも、首の段々も丸見えなもんだから(爆)。そりゃあ女優さんだから、普通の人よりはずっとケアはいいだろうけれども……。

あー、くだらないことを言ってしまった(爆)。でもね、確かに大竹しのぶが新藤監督のミューズっていうのは、納得なんだよね。
なぜかというと、彼の永遠のミューズである乙羽信子と、頬のふっくらした感じと無邪気な笑顔が醸し出す少女性と、それゆえのコケティッシュさが、似てる気がするからさあ。
まあ、しのぶさんの方がずっと悪女な気もするが(爆)、うん、なんかね、判る気がするのよ。

定造からハガキを受け取ったのが、トヨエツ扮する松山啓太。戦争末期に召集された中年兵士、掃除部隊なぞというショボい部署から、クジでその9割以上が戦地に赴くまえに爆撃で沈没して死んでしまうという、なんとも言い難い、戦争の犠牲になった。
啓太、つまり新藤監督は、驚異的な“クジ運”で、掃除部隊を引き継いで移動し、そのまま終戦を迎えた。実に、100人中、6人の“クジ運”である。

「陸の上の軍艦」を観た時には、新藤監督という才能を神様が残してくれたことに感謝したが、もちろん本人はそんな風に思ってはいまい。
今から思うとそれほどの体験をした監督が、少なくとも「陸の上の……」まで、語らなかった……訳ではないのかもしれないけど、少なくとも作品に反映させることはなかったことが意外のようでもあり、ひょっとしたら当然だったのかもしれないとも思い……。

戦時中、夫が死んでしまって、その弟と結婚する、というのは、恐らくそれほど珍しいことではなかったんだろうと思う。そして友子さんのように、その弟までもが戦死してしまう例も、少なからずあっただろうと思う。
定造さんがのどかなかやぶきの家の前から、威勢良く送り出される。のどかな田舎の風景だけに、行儀よく並んだ送り出しの列は違和感はあるものの、それさえのどかである。
そしてワイパーのようにカットが変わって、定造は白木の箱に入って帰ってくる。その場面も送り出す場面とまったく同じアングルのカットである。時間さえも経っていないかである。
そして、先述の弟と再婚するくだりがあり、この場面は嫁である友子にひたすら済まない済まないと舅が頭を下げるんだけど、でも頭を下げている顔をふとアップにすると、しれっと目線をあげていたりしてアラッ、と思う。
ここはなんだか新藤監督らしかったなあと思う。演じているのが柄本明というのも絶妙だったなあ。

その弟は、大竹さんが相当サバ読んだ役柄としても、しかし相当に若くて、「あねさん、あねさん」と連呼して腰を動かす場面にはかなりドキドキしちゃう。
そして彼もまたあっさりと赤紙が来て、あっさりと白木に入って帰ってくる。このシークエンスも定造さんとまったく同じである。
同じアングルのまま送り出され、白木の箱に入って帰ってくる。いや、入ってない。入ってないのだ。その中には「英霊」とうやうやしく筆書きされた半紙と、なんか葉っぱが入っているだけ。爆撃された船が沈没したと告げられるだけ。

なんかこうして書いているとしのぶさんが主人公みたいだけど……いや、あれ?主人公って、誰なのかしらん。しのぶさんも一方の主演、いや、しのぶさんこそ主演?一応、監督を投影したトヨエツが主人公だと思うのだが……。
クジ運が良くて、生きて復員してきた啓太、しかし家には誰もいなかった。叔父が口ごもり気味に言うことには、啓太がいない間に妻と父親がデキてしまって、玉音放送の後に、遁走したのだという。
この叔父を演じる津川雅彦が、ハデ名漁師半纏なんか着てちっとも深刻じゃなくて、ちょっとホッとする。
もちろん彼は自分の弟がしでかしたこと、そして可愛がっていた甥っ子の境遇に心を痛めてはいるんだけど、いい具合にあっけらかんとしてて、こういうのは新藤監督のキャラっぽいなあ、と思う。

それでいえば、友子に横恋慕している村のまとめ役、吉五郎を演じる大杉漣もまた、もっと言ってしまえばコメディリリーフな役。
彼は定造と彼の弟の三平が出征する時、同じアングルで送り出していた。同じアングルの大杉漣、というだけで、ちょっと可笑しい。
なんであんたは赤紙が来なかったんだ、袖の下を使ってたんだろう、と友子につめよられて、うろたえるサマが怪しい。
定造も三平も死んでしまって、更に舅も姑も相次いで死んでしまって、たった一人残された友子にずっと好きだったんだと言い寄るあたりがコソクである(爆)。
しっかり妻子持ちなくせにっ。でもなんとも憎めないのが、困っちゃうんだよなあ。

そう、友子の舅も姑も死んでしまう。舅の柄本明は、結構カラリとしていて、死んだ時もあまりに唐突で柄本明らしくて?ユーモアと感じなくもなかったけれど、夫の死に悲嘆にくれて後を追ってしまう倍賞美津子はめちゃめちゃ湿度が高かった。
そういやあ、友子にココに留まってくれ、弟の三平と再婚してくれ、と頼んだ舅の柄本明は下げた頭の下でぺろりと舌を出しかねなかったけれど、その時から姑の倍賞美津子のしおれっぷりはヤバかった。
そして三平が死に、自分の夫まで死んでしまうと、もうこの家は呪われているのだと……。
と、直接口では言わなかった。床下のへそくりのありかを友子に知らせたからヤバイと思ったら案の定、静かな夜更けに胸騒ぎを感じた友子がバッとふすまを開けると、ぶらんとぶらさがった裸足の足。「こんな呪われた家からは逃げてください」と書置き。

そんな具合に友子一人になったところに、トヨエツ扮する啓太が訪ねてくる……じゃなくて、その前に。
啓太にも色々あるんである。生き残って復員した啓太は、しかし家の中はがらんどう、すまなそうに家の外で待ち構えていた気のいい叔父の告げたことは信じがたい事実。
先述したように啓太のいぬ間に妻は自分の父親、つまり彼女の舅とデキちまって、終戦を迎えて啓太が復員してくると知ると、すたこらさっさと逃げちまったんであった。

いやまあ、確かに後に啓太が乗り込んだ妻の勤め先のエッチなバーで彼女が必死に弁解するほどに、彼らの中にも葛藤はあったのだろう。啓太が戦死したというまことしやかなウワサも流れたというのだから。
そして後に啓太が語る、「自分も手紙を書かなかった。手紙を書くのは最後の一通でいいと思っていたのです」それは当然、自分の行き先が決まって、つまりどうやら死ぬらしい、という時に書けばいいと、彼は思っていたのだろう。
まさか、100人中6人のクジ運の良さに入るだなんて思わない。しかし彼が書いた手紙は、これから帰るという1枚だったのだ。

赤紙が来てしまった男たちは、もうその時点で一度死んでしまっているのかもしれない。少なくとも、啓太の妻と父親はそうとらえた。啓太がハガキ1枚書かなかったことも追い討ちをかけた。
戦地に行かなくても、残された家族にとっても、その地は確かに戦場なのだもの。
苦しみを共にできなければ家族でなくなるのかも……しれない。そんなこともあるのかもしれない。
戦地の辛さと比べるべくもないけれども、でも、気丈に待ち続けるほどの心の強さを強いられるのも、辛いものなのかもしれない。

啓太の妻を演じる川上麻衣子も、新藤作品連投。これもまた判る気がする。ふっくらとした頬が若やいだ印象を与える、乙羽信子、大竹しのぶに通じる魅力。
似合わない金髪のウィッグが哀しくてね、なんとも。そして彼女は許しを請うていながら、当然のごとく激昂する夫に叫ぶのだ。「戦死すれば良かったのに!」

……啓太は、ブラジルへ行くことを決意する。あの気のいい叔父さんが船を言い値で買ってくれた。
その前に友子の元へ行くんである。タイトルからすれば、これがメインイベントであるのかとも思う。
しかしこちらが予想するような、定造さんが残した一枚のハガキに涙して、戦争へのうらみつらみの気持ちに決着をつける、なあんておとなしくは収まらないんである。

まあ、そんな具合にコトは運んでいた。友子に思いを寄せる吉五郎は気が気ではなくて、頭にてぬぐいをほっかむりして様子を探りにいく始末。判り安すぎるだろ(爆)。
一枚のハガキを渡して帰る筈だった啓太が、何であんたが生きてるんだ!と友子が思いをぶつけたところから、なんかこうズルズルと食事をし、泊まることになる。
翌朝出発する筈が、この吉五郎が嫉妬のあまりにケンカをふっかけてきたもんだから、取っ組み合いになり、まー、二人ともキレイに宙を舞うこと(笑)。
吉五郎はほうほうのていで仲間たちに引きずられて退散、啓太は友子に傷の手当てをしてもらって、……このあたりはかなりヤバい雰囲気だったんだけど、そしてもう一晩泊まることになった。

啓太は彼女に金を差し出そうとした。ブラジルに行くために叔父に船を買ってもらった金。
でも友子は、そんなことでカタがつくとおもっているのかと怒り、散々やり取りした挙句、自分をブラジルに連れて行けと言うのよ。もう、きかない訳。
結婚はできませんよ、と啓太がクギをさす。それでもいいと言う。それを盗み聞きしていた吉五郎(笑)が二人は結婚するんだ!ともうすっかりそんな気になっちまって、蛇の舞なんぞを泣きながら披露する。
ちゃんと村の雅楽隊を伴って。唐突にも思えるこういう展開が、日本的神道的描写とぶつかって、なんとも魅力的に昇華しちゃうのは凄いんだなあ。

すべてを吹っ切って、二人はブラジルに行く筈だった。でもその旅立ちの朝、今までの野良仕事をするカッコとは全然違う、目の覚めるようなモダンなワンピースに身を包んだ友子に啓太は、見違えましたと目を見張った。
あの人がお祭りのつるしで買ってくれたんです、と友子が言った。
その台詞が引き金だったかもしれない。すべてを吹っ切っていた筈なのに、啓太が定造と三平の、形ばかりの白木の箱をいろりに据え、儀式として火を点した。
それに友子は固まってしまった。取り乱し、日を燃え広がらせてしまう。
ごうごうと燃え広がるかやぶき屋根は、定造と三平の出征がぴくりとも動かないカメラで見詰め続けられていたから、静かすぎるたたずまいだったから、なんともなんとも……。

業火が収まり、ぶすぶすとくすぶる焼け跡にたたずむ二人。
啓太は自分を三人目の夫にしてくれと友子に言う。
こんなぼろきれのような女を、と言いながら友子は泣く。倒れこんだ灰の泥の中を駄々っ子のようにイヤイヤしながら泣く。

そしてラストカットは、そのプロポーズで啓太が言った、一粒の麦を植えようと言った、その麦が見事に風に揺れている場面。
種籾をまき、麦踏みをし、たくましく育った金色の穂の中を、てんびんを担いだ二人が泳ぐようにゆく。
りっぱなかやぶき屋根じゃないけれども、慎ましい、二人が生活するだけに十分な小屋の前に、見事に揺れる金色の穂。
二人が暮らしていくには充分な、それ以上の生命力を宿している金色の穂。

ああ、キレイな幕切れ……とまたしても思う。後半、ずっと思っていたのは、友子の二番目の夫となった三平が、なんかカワイソってこと。
友子は老いた舅と姑のことを思って三平と再婚した。三平はあねさん、あねさん、と慕ってくれた。
彼は彼女にちゃんと?ホレていたと思う。いや彼女だって、定造に気持ちを残していたけれど、時間がちゃんとあれば……。
三平はあっという間に死に、その後友子は、啓太が訪ねてきてから余計に、自分は定造の妻だとしか言わないからさ。
定造さんとは、先述した、帰ってきたら子供を作ろうと囁かれる場面、そして出征する定造さんと別れがたく、見送るというよりどこまでもついていってしまう場面など、本当にラブラブな感じでさ。
……ああそうか、なんたってタイトルが一枚のハガキだもの。結局はこの夫婦のラブが一番大きかったのかもしれない。★★★☆☆


癒しの遊女 濡れ舌の蜜
2010年 分 日本 カラー
監督:荒木太郎 脚本:荒木太郎
撮影:飯岡聖英 音楽:宮川透
出演:早乙女ルイ 里見瑤子 佐々木基子 那波隆史 荒木太郎 牧村耕次

2011/4/30/土 劇場(テアトル新宿/ピンク大賞ベストテン授賞式AN)
ベストテン6位作品。本作が永井荷風の「墨東綺譚」が原作となっていることを知って、慌てて文庫を買いに行く。 近代文学を専攻してたなんて言いつつ、学生時代の私は結局、好きな作家しかマトモに読んでいなかったんであった。
作品論はさらりと読んでても作家論には至ってなかったので、今更ながら荷風がとんでもねー女たらしだったことを知る。
おいおいおい、ほぼ一年ごとに女を替えてるじゃないか、生涯何人と結婚して何人囲ってんだよ、ということにいささかアゼンとしつつ、まあそんなことは本作には関係ないのだけれど。

いや、関係なくも、ないかもしれない。荷風の人生にとっかえひっかえ現われる新しい女たちは、ピンク映画界にとっかえひっかえ現われる新人女優たちを思わせなくもない。そしてそのほとんどがいつの間にか姿を消し、また新鮮で新しい女の子が現われる感じも共通している気もする。
そりゃまあ長く活躍する女優さんもいるけれども、ほんの何年か前に新人賞をとって、その年には何本も出演していた女優さんが今では全然姿を見かけない、ということの方が多い気がする。
それは一般的な芸能界でもそうかもしれないけど、ピンク映画界に至ってはさらに顕著な、新鮮な新人女優を求める気風を思わせる。そしてそれは荷風の前を通り過ぎる女たちのように、いかにもはかない哀感がある。

それにしても「墨東綺譚」を真正面から映画化したということに大いに驚いてしまう。しかもピンク映画で、などと言ってしまったらそれこそ差別的であろうが、でもやっぱり、驚いてしまう。
原作小説を読んでみれば確かにピンク映画に相応しい、しっとりとした艶の世界ではある。しかし、しかしである。ほんっと、驚いたなあ……。
数少ない鑑賞経験の中でも荒木監督は鬼っ子というか、なんでもありのピンク映画の中でもどこか収まらないというか、孤高の人という感があって、本作の、大いなる挑戦であるに違いないことをさらりとやってのけるあたりに、またまた大いに驚嘆してしまったんであった。

原作が未読のうちにも驚くほどに当時の雰囲気、昭和の雰囲気をかもし出す。こんな裏町風情があったのかというロケーションにも驚くが、何より驚くのは登場人物たちの古色蒼然(いい意味でね)といった語り口調。
「いいからお上がんなさいよ」「何か檀那になったようだな」「話をしながらごはんを食べるのは楽しみなものね」
こうして文字に起こすとなんてことないんだけど、何とも、あの頃なのだ、昭和、なのだ。なにかこう、タイムスリップをしたような。

それでも驚くべきことには、本作は原作当時を舞台としている訳じゃ、ないんだよね。舞台はちゃんと(ちゃんとというのも何だが)現代。
この物語の語り部でもある作家、大江はさびれかけた成人映画館に通い、秋葉原殺傷事件や結婚式場放火事件など、私たちの記憶に新しい事件が織り込まれる。

成人映画館の老いた映写技師は、原作における古書店の店主と思われるが、原作よりもずっと饒舌である。かなり哲学的な言葉も口にし、膨大な量なのでバカな私の頭ではなかなか抑えきれなかったんだけれど、中でも印象的なのは秋葉原殺傷事件のエリート青年に対する言及である。
彼が堕ちた道筋に、東京にもこんな場所があることを彼が知っていたなら……と。どこからも否定された人間さえも受け入れる場所なのだ、といった言い様はどこか自嘲めいても聞こえるが、でも確かにそうかもしれないと思う。

大江が入ってくると「ネバネバ、ネバネバ」とウヒヒとつぶやきながら出て行く常連客、声をかける人たちは皆同じメンツである。
その中には大江が避けて通る彼のかつての栄光、というか失敗、メディアに出ていた頃を知る人がいて、大江は彼らから罵声を浴びたりもするんだけれど。
確かにこの古びた成人劇場をあの青年が知っていたなら……と思った。そしてひどくノスタルジックなこの劇場は今は、ないのだ。新しくなってしまった。そうした受け皿を失ってしまった。

きっとこうしてこうして、たくさんの受け皿が次々となくなっていった、最後のとりでのひとつだったんだろう。そしてピンク映画界も老舗の新東宝が製作を休止して、危機的状況にあると聞く。
荷風の原作は、駆け足で新しい文化が古いそれを踏み潰していくことに対して、荷風自身の大いなる嘆きが物語全体を覆っていた。その中での娼婦、雪子との出会いは、彼が遊び慣れた、粋で哀感漂うかつての日本を懐かしむような趣があった。

本作が、映画ファンの誰もが居心地の良さを覚えるような、古い劇場の独特の佇まいを残すオークラ劇場のかつての姿を映し出し、現代が舞台なのにまるで昭和にタイムスリップしたような裏町のもの寂しさを映し出すのは、決して偶然ではなかろうと思う……。
ピンク映画という古き良き映画の時代を良くも悪くも映し出した世界が風前の灯であること、それを荷風が新しい文化に古いそれが踏み潰されていく嘆きに投影させているように思えてならないんである。

なんてことを、封切館に足を運びもしない私が言うべきじゃないことは判ってるんだけどさ……。でも、この寂しさがなんとも魅力的だというのは皮肉だろうか?
2010年度の新人賞を受賞した早乙女ルイ嬢が大江の相手となる娼婦、雪子を演じているんだけれど、彼女が素晴らしく素敵なの。先述したように原作そのままの言葉を、その時代を感じさせる雰囲気で伝えるんだけど、それがもの凄くいいの。

もちろん見た目もちょいとベビーフェイスの小悪魔風なんだけど、この台詞回しにはホレた。若い女の子って、発音が平ったくて、“い”と“え”がまざったような発音をする子が多いんだけど、そういう子じゃ絶対、この雪子は演じられない。彼女はその点が実にクリアで、昭和をきちんとほうふつとさせるんだよなあ。
いや、舞台自体は現代なんだから昭和をほうふつとさせる必要はないんだけれども、雨の日、大江の傘の中に飛び込んで彼を古びた二階部屋にいざない、「開けてごらんなさい(茶箪笥の中に)お芋か何かある筈よ」だなんて、現代とはとても思えないじゃないの。
大江も慣れた風に“ご祝儀”を渡し、彼女を抱く。裏町の暗闇にしっとりと濡れたような提灯といい、本当にこれは現代の浅草なの?と目を疑ってしまう。

本作は、原作と同様、大江が執筆を進めている劇中小説も同時進行される。この小説「失踪」のヒロインは里見瑤子で、この日観た第一位作品で同じように里見瑤子と両立ヒロインだった「性愛婦人 淫夢にまみれて」の竹下なな嬢が完全に里見瑤子に位負けしたことを思うと、しっかりタイ張った早乙女ルイの凄さに改めて感服してしまうんである。
しかしそれにしても、やはり里見瑤子は素晴らしい。彼女もまた現代の女として現われるんだけど、なにせデリヘル嬢として現われるからしっかりとそうなんだけど、やはりどこか、何か、昭和を感じる。
ただ彼女の場合、それが、取り残された、薄幸の女としての翳りに見えるのがなんとも味わい深いんである。

原作ではそんな薄幸の女という訳でもなく、たまたま再会した女中であり、主人公の中学教師、種田が彼女におぼれていくというだけの(だけというのもナンだが)話。
でも本作でのその女、スミコは種田のかつての教え子であり、生徒会長まで務めた優等生だったのに、再会した時彼女はデリヘルの客に逆上され、暴力を振るわれていたところだったんである。

まあこの設定はピンクらしい転換と言えなくもないけど、でも優等生からデリヘル嬢に身を落とした教え子に没頭してしまう種田はあまりにリアルである。
種田を演じる荒木太郎監督自身の、いくつになっても変わらない卑怯なまでの純朴めいた雰囲気が、そのリアルさを更に加速させる。
大体、デリヘル嬢というには里見瑤子はトウが立っているし、彼女自身がこれまでの遍歴を自嘲気味に披露する時、不幸な結婚生活の破綻の延長線上にあり、この時が初めてだと言ったから、なにかこう、トウが立った女が今更デリヘルという哀感があった。
でもそれさえも、後にずっとやり続けていたんだと彼女が告白するに至って、それはそれで、更に深い哀感があるんである。

だってそれこそ……どんどん新鮮な女優が出てくるピンク映画界になぞらえられるような気もしたから。
いや、彼女は凄くいい感じで、演技派として、監督に信頼を置かれる女優としてこの業界にきちんと残っているけれど、でも本作が醸す、滅び行くものへの哀歌は、どうしても、どうしようもなく感じたからさあ……。

カラミに関しては、劇中小説の世界である里見瑤子と荒木監督のそれがなんとも味わい深かったなあ。
流されるままにスミコに結婚を約束し、彼女はそれを涙を流さんばかりに喜んで、彼女を苦しめてきた亭主ときっちり別れたのに、種田の方はなかなか奥さんに切り出せない。
別に恐妻という訳でもなく、淡々と普通の生活を送っているんだけれど、だからこそか、非日常的な台詞をどうしても切り出せない。

スミコは種田との逢瀬の度にしっとりと濃厚に肌を合わせ、「私、悪い女よね。略奪愛だもの」と、言葉とは裏腹にうっとりと幸福そうに言う。
演じる里見瑤子はこんな境遇に身を落としても清楚さを失わないし、同情すべき境遇なんだけど、でも本当の悪女というのはこういうものなのかもしれない、と思う。
いや、そんなことを言ってはいけないか。彼女に溺れて出来もしない約束をした種田が悪いんだもの。でも、彼女に出会ってしまったらそりゃあ……そうなるだろうなあ、と女の私でも思ってしまう。この恐るべき邪気のなさは果たして本当に計算ではないのか否か。

彼女の両親にまで紹介され、結婚式場まで決まった種田はいよいよ追い詰められ……式場に火をつけてしまう。そう、あの事件をここに投影している訳なんである。
ずっとずっと後になって、スミコと往来で再会するシーンの、気まずさと一言では言い切れない目線はたまらない。

とはいえ、これはあくまで劇中小説の話で、やはりメインは大江と雪子の話なんだけど、同じなんだよね、ある意味。
雪子も大江に結婚を迫る。迫る、というか、愛の告白のようである。それまではあくまで娼婦と客の間柄だったけど、情交を深めるほどに“だんだん言葉遣いもぞんざいになって、客扱いしなくなった”のだから、彼女の中ではどこかの時点からか、本当のダンナになってくれはしないだろうかという心持ちはあったと思われる。

「あなた、おかみさんにしてくれない」と言う雪子に笑って冗談にしてしまった大江はそれでも、「あと10年若けりゃ……」と口にする。
「あんた一体いくつなの」「もう六十」「六十なの、まだ御丈夫」このあたりも原作そのままの、昭和情緒に溢れた口話の雰囲気を伝えていてなんとも耳に心地良いのだけれど、彼はとても六十には見えないし、六十から十年若くてどうだというのか、という気もする。子供を作れるのか、あるいは財産を残せるのか、何にしても……。

これが彼の言い訳に過ぎなかったことは原作を読まなくても充分読み取れるし、何より原作の活字以上に、本気だっただろう雪子の表情や口調の変遷がなんとも切ないのだ。
そういやあ原作では劇中小説の種田とスミコは、実はそんな、結婚だ何だといったせっぱつまったところまでは行ってはいなかったんだよね。
この映画化に当たって荒木監督が二つのカップルの進捗状況をこんな風に揃えたんだと思うんだけれど、それが凄く、本作の骨組みをしっかりとさせている感があって。

結局雪子と大江はこれっきり。大江が雪子に買い物につきあってほしい、と言われたのに金だけを出したところで、二人はもう会うことはない。
次に訪ねた時に、雪子はもういない。その前に会った時にももう、ずいぶんと時間があいていて、どこかアテツケ気味に雪子は大江の額に止まった蚊を叩いたものだった。そして彼が好きな氷白玉をごちそうした。
こういうあたりも原作にあって、なんとも昭和情緒をかりたてるのだけれど、ここに至ってくるとそれが、彼女の言い切れない女心をじんわりと伝えてて、なんとも切ないんである。

この日も司会として壇上に立った池島監督は、命あるものは必ず終わりがある。それでもピンク映画は生きている!と吠えた。
もちろん、後者にこそ力を込めたけれども、前者の言葉に、本作があまりにも寄り添っている気がして、なんとも言い難い気持ちを覚えた。
成人映画館は、江戸時代から続く悪場所の文化を唯一伝える場所なんだ、という池島監督の言葉は自嘲も含んでいると思うけど、でも確かに、ガラス張りのドーンとしたシネコン、オシャレにキレイに清潔に整備され、ネットでも予約できる全席指定で完全入れ替え制、膝掛けも貸しますよ、なんていう場所で、ヴィヴィッドな“文化”が生き続ける感じは確かにしない。無菌室の中で、免疫力がなくなって、死んでいく気がする。

そりゃあ私はその“悪所”に行く勇気はなかなか持てないけど、本作の中に出てきた旧上野オークラのような佇まいの劇場は、一般映画をかけるところでもこの数年で劇的に、激減した。歌舞伎町の映画街の落ちぶれっぷりには、そこに憧れて上京した私なんぞは本当にショックだった。
本作はそれを、もうどこか達観して、どこか諦念の美学で眺めている気がして……なんだかなんだか、ノスタルジックという以上に、とても寂しい哀感で胸が満たされてしまった。★★★★☆


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