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「と」


2010年鑑賞作品

トイレット
2010年 109分 日本 カラー
監督:荻上直子 脚本:荻上直子
撮影:マイケル・レブロン 音楽:ブードゥー・ハイウエイ
出演:アレックス・ハウス タチアナ・マズラニー デヴィッド・レンドル サチ・パーカー もたいまさこ


2010/9/12/日 劇場(銀座テアトルシネマ)
「かもめ食堂」「めがね」、と主演ニ作品が続いたから、小林聡美こそが荻上監督のミューズだと思ってしまいそうにもなるけれど、そうだそうだ、思えばもたいさんがずーっと、デビューの時から一作も欠かさず出演し続けていたんだっけ。本作で初めて主演を張るから、そんなこともついつい忘れていた。

そしてそのもたいさんが荻上作品の初主演を飾る記念すべき本作は、しかもなんとまあカナダが舞台!いや、撮影されたのがカナダであって、実際の舞台はアメリカなのかな?あまりそのあたりの説明もなかったようにも思うけれど、レイの同僚のインド男性が「これだからアメリカ人は……」とか言っていたようにも思うし。

でも、なんかあんまりアメリカって感じがしない。いや、アメリカのこともよく判らんけど(爆)。でも、いわゆるキラキラなハリウッド映画で見知ったアメリカみたいな感じはしないなあ。ヨーロッパっぽい雰囲気がするのは、やはり撮影地がカナダだからなのだろうか?

そういえば、カナダ映画のような雰囲気は感じるような。やっぱりなんか違うよね、フランス語も公用語であるカナダとアメリカの雰囲気って。
監督自身はアメリカでの留学経験で、だからいつか北米で映画を作りたいと願っていたその念願が叶ったというけれど、北米という括りでもやっぱり違う気がするなあ。
それとも荻上監督自身がアメリカで感じていたのも、こういう雰囲気なのか、あるいはやはりこれは彼女のセンスなのか。

多分……アメリカ映画(というか、娯楽系ハリウッド映画)における、説明過多な感じが皆無だからだろうというのもあるだろうと思う。不親切のようにふと感じることもあるぐらい、一切の説明を排している。
まさに、いい意味で観客に丸投げである。観客を信用してくれているのかなあ、とちょっと嬉しくなる。

それこそ、監督が留学時代影響を受けたという、アメリカンインディーズの騎手たちは、そうした道を切り開いてきた人たちであり、その洗礼を受けた彼女がこうした映画を作り続けるというのは、さもありなん、なんである。
彼女が挙げるクリエイターや作品は、日本の映画ファンの私もかなり衝撃を受けたメンメンなので、それもまた嬉しくなるのよね。
そして今はそんな風に、海外に留学したり制作経験を持って日本に戻ってくるという、今までにないルートの作家たちがゾクゾクと現われて、まさにジャパニーズインディーズスピリッツの到来って感じで、実にワクワクする!

でね、そう、不親切なぐらいに説明しないってことね。
だってさ、そりゃばーちゃんは、レイが疑うのもムリないぐらい正体不明なところはあるけど、きょうだいたった三人が残されたこの状態だって、それこそちょっと“親切”な映画なら、そもそも母子家庭だった理由から始まり、お母さんが亡くなった時点でそのお父さんも出てきそうなもんであり。

更にお母さんのお母さん、つまりもたいさん演じるばーちゃんが日本人であるというルーツやら、それならそのばーちゃんのお相手、つまりじーちゃんはカナダ人なのか、いやいやそれならばーちゃんがひとっつも英語を解さないのも??だし。
ならば普通に日本人同士の間の子かと思えば、ちらりと映された亡くなる間際のお母さんは、それなりに外国人の顔をしていたし。

このあたりにかなり想像をかきたてる要素があるんだけれど、それをもっともらしく理由づけたりしないんだよね。
あくまでこの三きょうだいとばーちゃんの時間、行間と言いたいほどの間(ま)がたっぷりとある時間だけを丁寧に綴っていく。

しかも後半には、このばーちゃんが、ママが人まで雇って必死に探してきたばーちゃんが、もしかしたら赤の他人かもしれない、と疑ったレイがDNA鑑定してみたら、自分こそが家族の中で赤の他人だった、と明かされるなんていうビックリな展開もあるんである。
しかもそれも、なぜそういう経緯に至ったのか、レイはどこの子で、なぜこの家族にもらわれてきたのか、モーリーの台詞の断片から察するに、どうやらレイの母親が亡くなったことは確実なんだけど、ならば父親は?親戚は?そういうことも全く、どーでもいいじゃん、みたいに触れないんだよね。

血に縛られるのは、それこそ日本人の悪いクセである。実子じゃなければいけない、だから自分の子供を産まなきゃいけない、なんて女が苦しむ不健全な社会を作ってる。それを軽々と飛び越えてくれているのが、なんとも爽快なんだよね。
そう、それこそその血のつながりにこだわっていたレイが、自分こそが他人だと知って落ち込んでいたところに、あのくだんの同僚のインド男性が「それがどうした?そんなことに気付かないぐらい家族だったんだから、充分じゃないか」と、特になぐさめる風もなく、ロボットをいじりながらさらりと言うのが、ああ、なんか凄いイイなあ、と思っちゃった。
インドって大家族なイメージがあるからさあ、家族、っていうイメージが凄く大らかなのかもしれない、と思ってさ。

それこそさ、本当にばーちゃんは、この三人きょうだいのばーちゃんだったのかと、レイじゃないけどふと思ったりもするんだよね。
だって、亡くなったお母さんとはどうやら幼い頃に離れ離れになったらしい。そのシチュエイションだけでもひとつの映画が作れそうなぐらいドラマチックなのに、そんなことをすぽっと放り投げるあたりもひどくストイックである。

もたいさんはただただ寡黙に、ひっそりと、猫のセンセーと共に息をひそめるようにして暮らしているだけである。
それはあくまでレイの視点で、レイがばーちゃんの出自を疑うのを、モーリーや妹のリサは「本当に冷たいヤツだな」「サイテー」とくさすのだ。
しかしそれこそお母さんの亡くなった前後をすっ飛ばして(ある意味そこが一番ドラマチックなのに!!)ばーちゃんがトイレでため息つくところから、レイと同じく私たちも観始めるんだから、レイの疑問もふと、そうかも……などと思うんだよね。

モーリーとリサにとっては、まあばーちゃんは確かに英語も喋れなくて、ちっともコミュニケーションがとれなくて正直持て余しているけれども、レイのような考えを持たないのは、日本から呼び寄せられてから病床のお母さんを献身的に看病している姿を見ていたからというのもあるだろうけれど……。
やっぱり、本当は血がつながっていないレイと、家族としてやってきた経験があるからなんじゃないかと思う。と……だとしたら、それこそばーちゃんが本当のばーちゃんじゃない可能性もあるかもしれない!と思っちゃったんだよなあ。

だってさ、本作って、「かもめ食堂」の中で、台詞の中でちょっと出てきただけだったけれど、エアギターがとても印象的だったでしょ。私、あの作品で初めてエアギターという存在を知ったんだもの。
でさ、そこでもたいさん演じるマサコさんがやろうかしらとつぶやいたのがエアギターであり、かもめファンとしては、本作でもたいさんが。エアギターのテレビ番組に釘づけになっているのを見ちゃったら、そりゃあ、キター!!と思うに決まってるじゃん。

でね、そう思うと……かもめのもたいさんと、本作のもたいさんは、ひょっとして同一人物かもしれない!?なんてさ!随分飛躍した飛躍した妄想だけど、でもそうだったら素敵だなあと思ったのだ。
で、そうだとしたら、まあそれでもこの三きょうだいのばーちゃんになるのも可能かもしれないけど、でもひょっとしたらウッカリ探偵さんのアミにかかっちゃったのかもしれない!?
ばーちゃんが分厚い財布にギッシリとお金を蓄えてて、つまりかもめのマサコさんのように、とりあえず旅を続けていても困らないぐらいの立場なのかしらんと考えたら……!?

まあそこまで妄想するのはしすぎにしても、でも、本当は彼らのばーちゃんじゃなくったっていいじゃん、て気がしたのだ。
「今まで気付かないぐらい、家族だったんだから、充分じゃないか」というあのインド青年の台詞は、実に深かった。それじゃ家族の定義ってなんだろとも思うけれど、それでいいじゃん、と思ったのだ。

レイはロボットオタクの、技術者である。血がつながっていないことを知らない時点から、モーリーやリサ、そして亡くなった母親とも離れて暮らしていた。
毎日同じシャツを着ているのは……それは同じシャツを7枚持っているんである(爆)。彼の悩みのタネは、パニック障害で何年も引きこもっているモーリーと、かなり自己主張が強いリサである。

妹のリサが学校の詩のゼミで一緒になった、アウトロー的な雰囲気の、実際はオレ様と言った方が正しい青年とちょっと恋仲になって、しかしその彼が、レイがいつも覗いていたプラモデル店の店員なのね。
で、リサとイチャイチャした後、ウィンドウ外のレイを見つけ、嘲笑いっぱいにクサす場面はひどく印象的である。
クールな彼、とホレこんでいたリサが、まあその前の時点でチューの後に、もうおっぱいとか触ってくるからヘキエキしていたところにこれだから、「彼には妹がいるの。孤独なんかじゃない!」と吐き捨てて、レイの腕をとって憤然と店を出て行くシーンは実にイイ。

しかももっとイイのはその後で、レイが「オタクにとって一番イヤなのは同情されることだからな」と妹に言い放つのも、なんか妙に微笑ましいんである。
いや、レイの言うこと、凄く判る。本当に判る(爆)。でも、リサの憤りは決して同情じゃなくて、フェイクなのは自分じゃなく(アイツから言われたのだ!)そんなクールを気取ったあの男だってことが一瞬にして判ったからであって……。
そしてなんだかんだ言って、お兄ちゃんをちゃんと愛しているんだよね。

リサがこの、一見クールな青年にひと目惚れした詩のゼミは、自身もかなり入れ込んでいる風なんである。それは、一切言葉が通じないばーちゃんとの関係と、非常に鮮やかに対比させる。
本当に、このゼミでは言葉を尽くすんだよね。まあ、当たり前だけど。教授が、青年の熱さが足りないと言うと、この青年は自分の才能に嫉妬しているんだと真顔で言い、リサも真顔で共感し、自分の詩にも精緻な言葉を尽くして表現を高めようとする。
でもね、でもね……それが、ばーちゃんの寡黙に一撃のもとに負けちゃうんだもの。

お願いがあるならば、心を込めれば通じるとリサに教えたのはモーリーだった。いつも家にいるモーリーが、最初にばーちゃんと心を通じ合うだろうなとは思っていた。
しかしそこからのモーリーの変貌ぶりには、さすがにビックリしたのだ!

予告編の段階で既に、モーリーが実は、類い稀なるピアニストであることは判っていた。今心を閉ざして引きこもっているのは、そんな繊細な感情ゆえなんだろうとも思っていた。
ママの死に誰よりも落ち込み、きょうだいたちから半ばウザがられていた彼。リサなぞ、精神病院に入れるなんてヒドいことまで言った。
しかしモーリーは部屋を片付けているうちに、ママが使っていた古い足踏みミシンを見つけた。嬉々として動かそうとするも、すぐに止まってしまう。

恐る恐るばーちゃんに助けを求めた。言葉が通じないから、身振り手振りで懸命に。それでもばーちゃんは、じっと、まるで爬虫類のように動かない(爆。もたいさんだからさあ)。
諦めかけて、ミシンを退散させようとすると、ばーちゃんは立ち上がった。しぐさで椅子を持って来るように指示し、小さな引き出しを開けて下糸を探し出した(そっか、下糸がなけりゃ、そりゃダメだわ!)。
軽やかに縫い始める彼女に、モーリーは「ばーちゃん……」と感嘆の声をあげる。ここが全ての始まりだった。

「かもめ食堂」や「めがね」からの流れだから、美味しい料理がいっぱい出てくるのかと思ったんだけど、実は手作りの料理はギョーザだけなんだよね。そして、このたったひとつのメニューが、凄く印象的なんである。
その前にね、あまりにもばーちゃんとコミュニケーションが取れないからと、寿司の折り詰めをフンパツして、きょうだい三人とばーちゃんがテーブルを囲む場面がある。
たった一つだけ口にして席を立っていってしまうばーちゃんに、「外国の寿司は食えないっていうのか?」「でも、ママはここの寿司が好きだったわ」と、なんともケンアクな雰囲気になるんである。

この寿司は普通に美味しそうだったし、リサが言うように、娘が死んでしまったことで、彼女は意気消沈していたんだろう。
もうひとつ、レイが気になっていた「トイレから出てくると、深いため息をつく」っていうコトも(これは大オチ!)あるにしてもさ。

ギョーザは、本当に、偶然に作られたのだ。センセーのキャットフードがなくなって、買いに行こうとばーちゃんは初めて一人で外に出た。
奇しくもその日は、ママのミシンで縫いたいものがあるからと、一念発起したモーリーが布を買いに出かけた日だった。
バスの中で高校時代の同級生に出会って無遠慮に声をかけられたモーリーは、発作を起こしてレイに助けを求める。
しぶしぶモーリーを助けに行ったレイ、そしてばーちゃんが一人で外に出たことを知るんである。

このエピソードは、前後に大きな影響をもたらしている。
そもそもセンセーである。ここまで触れる機会がなかったけれど、この猫のセンセー、特に血統書がある訳でもなさそうな、ごくごくフツーの猫である。亡くなったお母さんが最後に「センセーの匂いをかぎたい」と言うところから物語が始まるのが非常に印象的なんである。
私、それを聞いて、メッチャ共感しちゃった!!抱きたいとかなでたいとか、会いたいですらないんだよね。匂いをかぎたい。超判る!!!

匂いって、それこそ家族、だよなあ……言葉はもちろん、抱き合うことすらいらない。
そういやあ、アメリカ……いや、北米映画にはありがちな、抱擁シーンも、本作はなかったもん。まあ、さすがにお互いに匂いをかぎ合うシーンもなかったけど(爆)。
でも、いわば、手作りのギョーザは、画面の外にまでいい匂いがこぼれてきそうだったしなあ!

でね、だいぶ脱線したけど……ばーちゃんがキャットフードを買いに出たついでにチャイナタウンで買い物して、手作りのギョーザがあいまみえるんである。
この時点でレイは、一人探し回って同僚から借りた車を衝突までさせちゃって、自分勝手なきょうだいやばーちゃんたちに、一人おかんむりなんである。
夜中、眠れなくて起きてきて、ビールとポテトチップで空腹をまぎらしていたら、ばーちゃんも起きてきた。
いつものようにトイレの後に深いため息をついて、そして夕食を食べなかったレイにギョーザを焼いてくれる。タバコまですすめてくれる。

ばーちゃんが、あの寡黙で日本のおばあちゃん、って感じのばーちゃんが、たばこを吸うって時点でかなりのビックリだし、それは日本という国を、ロボットオタクの尺度でしか知らなかったレイにとっては殊更だろうと思う。
しれりとビールを飲み、タバコをふかすもたいさんは、とっても“クール”である。

そう、この場面でばーちゃんは“クール”という言葉をレイから教わる。ママもいつも作ってくれたギョーザ、ばーちゃんが作ってくれたそれもきっと同じように美味しくて、それをどうしても伝えたくて、何度も言葉を重ねるけれども、ばーちゃんの表情は変わらない。
レイはグッド、デリシャス、という言葉を重ねた後、「クール!」と親指を突き出すんである。
レイがばーちゃんに心を許した場面であり、そしてばーちゃんのたったひとつの台詞につながる場面でもあるのだ。

そう、たったひとつの台詞、あれは意外だったけど、でもとても良かった。私、たった一つの台詞と聞いて、ありがちに「ありがとう」か、あるいは惹句に使われていた「皆ホントウの自分でおやんなさい」かと思ってた。で、まあ、そこに至るにはね……モーリーがきょうだいの中では一番のメインだからさ。
モーリーがママのミシンで作りたかったのは、なんと、自分がはくスカートである。これはかなりのビックリである。

モーリーが布を買いに街に出た時、バスで行き合わせたかつての同級生に、モーリーのライヴァルだった男子生徒が「ゲイだったのよ!!!」と嘲笑あらわにウワサを吹き込まれて、とたんに発作が起こったもんだから……。
んでもってスカートなもんだから、レイが思ったように観客である私もついつい、モーリーはゲイで、そのことでなにがしかがあって、引きこもったのだと思ってしまったんだけれど、そうじゃない、というんである。ただスカートをはきたいから作って、はいたんだ、と。

そしてその姿で、コンクールにまで出てしまうんである!このエピソードは、そもそも荻上監督の中で最初に存在していたというのは印象的である。ならばいわゆる性同一性障害てヤツ?などと、またまた単純に考えてしまうけれど、そういう単純なモノサシでは図れないものをレイは持っているし、その鋭敏な感覚こそ、彼のピアノの天才肌に通じるんだろうと、素直に思える。
なんか、そういう具合に、世の常識として通っていたヤボなことをことごとく、しかもとぼけた感じでさらりと、崩していくのが魅力なんだよなあ。

レイがもらわれっ子だと知った時、モーリーがまず、彼のそばにいて、皆知っていた、きっとばーちゃんも知っていた、と、彼の性格から考えると辛すぎる事実を、それでもちゃんとレイに伝えていたことを考えると、モーリーは実はとても強い子だったんだなあ、と思う。
彼の奏でるピアノの超絶さ、しかも聞いたことのない新鮮なメロディ、この作品を強く印象付けるこういうセンスが、すごく好きだなあ。

でもでもやっぱりレイが、きょうだいの中では一番手だと思うのは……なんたってこのタイトルだからね!
トイレから出るたび深いため息をつくばーちゃんを気にしていたのは、レイ一人。その謎を解きたいとインド人同僚に聞くと、期待はしてなかったのに的確な答えが返ってくる。
いわく、日本には二種類のトイレがある。しかしそれだけじゃない。洋式トイレは更に、グレートジャパニーズテクノロジーなウォシュレットという最新技術があるのだと。
レイはばーちゃんに直接当たり、ばーちゃんのあの深いため息の理由が、ウォシュレットのトイレじゃないからなのだと理解するのだ!!!

タイトルだし、ラストも、信じられないけどそれが感動的に綴られるし(しかもウッカリ感動しちゃう!!)まさに、トイレット、いや、ウォシュレットなんである!
TOTOの、最新の、いっちばんゴージャスなヤツ!近づけば自動で蓋が開き、自動で水が流れ、洗浄機能も恐らく細かくたくさんあるんであろう。乾燥温風も、これ、あるとないとじゃ値段ぜんぜん違うんだよね。
しめて、3000ドル!ひえっ!まあ、トイレそのものから替えるからにしても……私が洋式トイレにそのままかぶせるタイプで買ったの、2万円もしなかったよ!!
TOTOじゃないけどさ……TOTOじゃないから、ウォシュレットじゃなくて、“シャワートイレ”だけどさ……そう、もう、これって、もはや、TOTO大宣伝映画じゃないのお!

レイはね、この3000ドルという金額に、いちいち突き当たるのよ。実際既に使っちゃったのは、自身こそが他人だと知ってしまったDNA鑑定。
そして欲しいプラモデルのネット販売の値段、これは常に画面を開いては、悩んでいるんである。同僚から借りた車を衝突させてヘコませた修理代も3000ドル、そして……このウォシュレットの値段!

レイが遠ざけていたきょうだいたちの暮らす母親の家に戻ったのは、一人暮らしするマンションが火事にあったからで、その火災保険が3000ドル入ってくるってあたりが、イキよねえー。
そしてもちろん、レイは迷わずそれをウォシュレット購入に当てる。モーリーからは、プラモデルを買うんだろと言われるけれど、ウォシュレットである。でも、ばーちゃんはそれを使うことはないんだ……。

何かの病気なのか、ばーちゃんは倒れてしまうのだ。
モーリーのコンテストには駆けつける。そして、パニックに陥りそうになったモーリーに、強く名前を呼びかけ、レイに教えられた親指を突き出すあのポーズで「クール!」と一発かますんである。
モーリーは見事な演奏を披露し、拍手喝采を浴びる。
でも、モーリーがどういう結果を叩き出したのかもやはり明確にはされず、ばーちゃんの死だけが粛々と差し出されるのだ。
そう、あの冒頭の、ママの葬儀のように、それよりも、あまりにもひっそりと、参列者は、このきょうだい三人だけで。

ばーちゃんの遺志だという。荼毘に伏された灰を、ママの墓にふりかける。レイはばーちゃんにそばにいてほしいと思い、ほんの少しだけ灰をもって帰る。
ウォシュレットが届き、設置される。一人家にいたレイは、同僚の言っていた“グレートジャパニーズテクノロジー”を尻に受け、歓喜の雄たけびを上げる。そのヴァリエーションと、床に力を入れる足の指のアップに思わず吹き出してしまう。
それでも……レイが、言葉には出さずとも(ここ重要!)ばーちゃんに使ってほしかったと思って小ビンに入れた遺灰を抱いて慟哭するのには、もらい泣きせずにはいられない。

場所が場所だけになあ、とふと思った観客の気持ちを見透かされたように、ぽろりと小びんがトイレに落ちる!そして、“グレートジャパニーズテクノロジー”なウォシュレットは、異物を感知すると速やかに自動で流しちゃんである!目の前で灰が流水にぶちまけられるのを呆然と眺めるレイに、こっちこそ呆然!!!

ラストクレジットに合わせて、三人のきょうだいがエッジの効いたエアギターを披露するのは嬉しかったなあ。
エアギターって、そういう意味で言えば実に深いかもしれない。言葉はもちろん、ギターという道具さえなくても、心が通じる。
実際、ばーちゃんと彼らは言葉どころか真に言いたいことだって、いくら“心をこめて”も、100パーセント通じていたかどうかは判らない。
特に、モーリーやリサは、“スーパーリッチ”なばーちゃんの財布から、お金が自分のために出されることでそれを図っていたトコがなきにしもあらずだし(リサは実際、エアギター選手権に出たのだろうか?)。

でもね、いいんだよ。実際は全然通じてなくて、お金を出したのも、ギョーザを出したのも、タバコを勧めたのも、お互いの思惑は全然ズレていても、それでお互いを愛しく思えたんなら、きっとそれが通じたってことなんだろうと思う。
だってさ、言葉上で分かり合えたと思ってても、本心ではどうなのかなんて判らないじゃない。なんかそう考えると、ばーちゃんって、もたいさんって、すんごい、すんごい、深いなあ、って思ったんだなあ。

そしてきっと、ばーちゃんはやっぱり、ウォシュレットがなくてため息をついていたんだろう。
だって、私ももはやウォシュ……いや、シャワートイレがなきゃ、生きていけないもん!!
でも、この装置、諸外国の目から見れば、まずはギャグなんだろうなあ……あのインド人同僚が、マドンナの甲高い声真似して「日本の温かい便座が懐かしいワ」と言う場面が示されなくったって、じゅーぶん感じるもん。でも、使ってみればもう、手放せないのよ!!!★★★★☆


東京島
2010年 129分 日本 カラー
監督:篠崎誠 脚本:相沢友子
撮影:芦澤明子 音楽:大友良英
出演:木村多江 窪塚洋介 福士誠治 柄本佑 木村了 染谷将太 鶴見辰吾

2010/9/15/水 劇場(シネスイッチ銀座)
ちょっと想像と違ったかなあという気持ちは、映画の後にオフィシャルサイトとかいろいろ巡って、原作のエロティックとグロテスクを、性欲よりも食欲、グロじゃなくて笑い、に変えたという一文を読んで、ふと得心が行った。
原作は未読だけど、あの「OUT」の作者であることを考えると、エロとグロこそが、そもそも原作の力そのものだったんじゃないかと感じたから。それこそ、「OUT」だって未読なんだけどね(爆)。

脚本家さんの言う、「今の30代、40代は食欲、モテ欲、ときどき性欲」というのは、この方が女性なだけあって、まあ私も一応女性だし(爆)、判らなくはない。でも、そんなところにリアリティを求めるべきだったのかなあ、と思ってしまう。
だって、その順番はそれこそ、清子がどうしても帰りたがる、溢れかえる物質社会である日本においてこその順番なんじゃないのかなあ、と思うんだもの。

いや、それを言ったら、こんなにも食糧事情の悪い、というか、自ら調達しなければいけない無人島にいたら、余計に食欲が一番になるという向きもあるかもしれないけれど、でもその食欲は生命力ということに置き換えられると、本能的なエロにやはり立ち返っていくものじゃないかと思う。だからこそ原作はエロでありグロだったんじゃないだろうか。

なんかね、エロとグロを違うものに、あるいは順番を置き換えてしまったことで、もう急速に力が弱まってしまったような気がしてならないのよ。
それは、この日本のマーケティングに合わせた選択なのだろうか?いやいやそれは、ちょいと観客を甘く見すぎていないだろうか?

なんかね、こんなに何日も、何ヶ月も、何年も(途中、清子が鏡を見てショックを受けるぐらいだから、かなりの年月が経っているんだろう)経っているのに、Tシャツやなんかはさして汚れてない、というかキレイだし、無精ひげ程度で、髪も伸びないし、かといってひげをそったり髪を切ったりという描写もなく(ハサミはまだしも、電気カミソリは電気がなくなったら終わりだよな)、中国人の一人に至ってはずーっとキレイな金髪のカラーリングが落ちないままなのがすごーく気になっちゃう。
まさかそこんところがボケで、突っ込めという意味でコメディな訳じゃないよね?

冒頭、16人の男たちが全裸の後ろ姿で、横一列で波打ち際から海の中に走って行った時には、それこそエロエロのグログロを期待してたのになあ(って、私、ヘンタイか??)

そう、ヒロインに木村多江を迎えたのは、そりゃー彼女はやたら薄幸なイメージがついていたから、確かに意外だったけど、バツグンに上手い人だから、逆にこのキャスティングには大いに心惹かれるものを感じたんである。彼女なら、そんなイメージなど軽く飛び越えられるだろうと。
逆に、彼女だからこそ、清子だったのだ。現実社会では決してチヤホヤされるようなタイプではない(いや、彼女は美人だけど、いわゆる男好きのするタイプとか、社交的な雰囲気とかじゃないって意味ね)。
16人の男たちから一人ハズれているワタナベから、ここでなければお前みたいなオバサン、相手にされない、とズバリ指摘されているのはまさにそのとおりなのだ。そのあたりの雰囲気が、確かに木村多江はバツグンなんだよなあ。

そして、彼女自身のリアルはすっごく強い人だってことは、この役を演じる彼女を見ていると、なんだか透けて見える気がする。こんなこと言うと怒られちゃうかもしれないけど、この清子像は意外に彼女の中に近い部分があるんじゃないかと思っちゃう。
自分の信念、生き抜くこと、この島から脱出することを決して忘れない。そのためにはしなやかに、したたかに“右往左往”する。
それはまさに女のズルさと賢さと、そして可愛らしさそのもので、これは、こういう無人島モノに似合いそうなエロい女優でもダメだし、清純だけをウリにしている女優でもダメなのだ。

それだけに……彼女なら、その意外性とともに、エロだって、きっとオファーすればやれたんじゃないかなあと思うから余計に残念で……。せめてキスシーンぐらいあってもいいじゃないと思うのに、それすらない。
島でたった一人の女を、男たちの欲望の奇妙なバランスの上で女王様として君臨している(少なくとも最初は)なら、いくら言わなくても判るからっていっても、イコンなんだから、やっぱりそれなりのシーンがないと、なんだかぼやけてしまう気がしてならない。
それに、グロの替わりに笑いにしたというのも……ここらへんで笑えというんだなというトコは確かにいくつか感じられはしたけど、そういう経緯で作られたからかなあ、笑えないんだよね、正直。

笑いって、それこそ笑いこそ最もストイックなものであるんじゃないのかなあ。何かの替わりにすげかえられるほど、単純じゃないと思う。
清子が新しい夫が決まる場所に、気合い入れてエルメスのスカーフを花嫁風にまとって現われるシーンは、花婿候補に立候補する人数がビミョーなことも合わせてコミカルに仕立てているのかもしれないけれど、どうも中途半端な気がして仕方がない……。ギャグならもっと気合い入れてやってほしかったなあ。
でもそれも、無人島という過酷な状況下がバックになってると、ギャグに徹しきれないのだろうか……やっぱり笑いは難しいよね。

この無人島のシチュエイションで、エログロを排除して食欲と笑いにするなんて、テレビ番組の手頃なプログラムそのものじゃないかと思っちゃう。
そしてそんな風に、視聴率ネライでお手軽に作られたものは、大抵ツマラナイんだもの……。

うう、そんな、クサすつもりはないのに、クサしてしまった(爆)。
いや、なんたって木村多江に託しただけあって、清子の立場がどんどん変化していくのは、ホント、面白いのよ。
最初は夫との、ラブラブな結婚記念旅行だった。夫とどれだけ仲が良かったかはさだかじゃないけど、そんなに悪くはなかったんじゃないかと思う。

というのは……無人島について、この状況にひたすら悲観する彼に、ヘビを手づかみで捕まえてきて皮をはぎ「ちゃんと食べないと」という彼女の対照は鮮やかで、そして現代社会に暮らしていれば彼の反応はムリないと誰もが思うところで……そんな夫を頼りない、どころかイラナイと思うのは確かにこの状況下ではムリないけど、パートナーにガッカリするのは、それまでのイメージとのギャップが深いほどにガッカリ度が深いからであってさ。

つまりは、彼は……優しくていい夫だったんじゃないかと思うんだよね。ただ“思いがけず”彼にはサバイバル能力がなく、彼女の方に“思いがけず”それがあっただけ。
これは清子が主人公の物語だから彼は否定されるけれど、彼だって彼女にゲンメツしたに違いないのだ。それは、サバイバル能力ではなく……恐らくは今までは守られてきた方だったのに、立場が逆転すると、こっちの気持ちを理解しようとはしなくなったことに対して。

映画化に際して、清子に共感しやすく腐心したと制作サイドは言うけれども、この最初の時点で、そんな具合で、ちょっと引いちゃったのは確かだなあ。
確かに彼は情けない夫だったけど……。で、夫が「サイナラ岬」から転落死したのは、どうやら誰かに突き落とされたらしいというのが、後に明らかになるんである。

それが明らかになる前に、清子は結構チャッカリと若い男と夫婦生活を送っている。
清子たち夫婦と同時期にこの島に流れ着いた、与那国島での過酷なバイトから逃げてきたという若い男たち。この若者たちに清子はモテモテである。
それは、木村多江のような、美しさをきちんとキープしているプロだからだよなーとか、彼女と同年代の私はついひがみ根性で思ってしまったりもするけれど(爆)、でもでも、こういう状況下なら、性欲バリバリの若い子たちにとっては、40代のフツーの女でもモテモテになるのかもしれない!!とふと妄想がッ。

ていうのを、まさに清子は体現しているんだよな。彼女が「私はこの島のトキ(希少価値)だから、(取り合いになるのも)仕方ないのね」と諦念よろしくつぶやくのも、ギャグになるべきトコなんだろうなあ、後の展開を思えば。でもフツーにそうかあ、などと観客も思っちゃうんだもの。

とか言いつつ、清子の立場の変遷と、それに対応する木村多江の素晴らしさである。
最初こそ、私を誰もが求めているのネと女王様然として、男たちからの貢ぎ物も当然のように受け取っていた(だから、ここらあたりもギャグなんだろうけれどね……)。

同じく漂流してきた、中国人グループのボスにも気に入られる。島から脱出することよりも、この島で秩序を守って平穏に暮らすことを選んだ草食系日本男児たちに憤り、豚を狩り、魚を干して計画的生活を営む中国人たちに擦り寄る清子。
一度は彼らの脱出計画に「ケンタッキー!」と叫んで(中国人たちは、ホイコーローだのチンジャオロースだの、中国料理の数々で誘惑したのだが、清子が食べたいのはケンタッキーフライドチキンだったらしい(爆))、新しい夫を捨てて、ボスに身体も売って乗り込むものの、アッサリ失敗して東京島に舞い戻ってきてしまう。

しかしその後も、「ムリヤリ中国人たちに拉致されたの!」と臆面もなく言い、日本人青年たちのコミュニティに居座るんである。彼らはこの秩序ある生活を作り上げるのに夢中で、もはや清子に欲情も持たなくなっているのに。
その屈辱と虚しさを鋭く見破ったのが、この日本人グループからいち早く抜けていたワタナベで、彼は最初から清子にホレていたとしか思えないなあ。彼女の事を「お前みたいなババア、もう必要ねえんだよ!」と殊更に挑発するように言うのも、きっとそのせいだもん。

ワタナベを演じているのは窪塚洋介で、彼がこんなにイキイキとキャラを生きているのを見るのは、なんだか久しぶりのような気がする。
しかし彼が最も現代日本人青年の脆弱さを、期せずして示していたような気がする。いや無論、そのあたりは計算ずくのところもあったんだろうけれど……。
なんか彼が一番、手足といい体躯といい、華奢に見えるんだよね。いや、意外に男子って、鍛えてないフツーの男子だと、肩幅やお腹とかも薄っぺらいし、手足もただひょろひょろと長っ細いばっかりで、むしろ中年男性の突き出たお腹の方に頼りがいを感じるぐらい、なんか、頼りないんだよね。
女が、ホルモンの関係もあって、脂肪がつきやすい身体だってのもあるかもしれない……自己防衛本能が、もともと女の方が強いのだ。

彼は一匹狼を気取っているけれど、結局ただ孤独であり続けた(だからこそ、心には残るんだけど)。
彼が一人離れて住みついているのがトウカイムラであり、不法投棄のドラム缶が漂着する浜辺だというのは実に象徴的である。
放射線物質かもしれないと、他のみんなは敬遠するんだけれど、一方で外からの唯一のコンタクト地点であることも間違いなく、場所のネーミングも含めて、ひどくスレスレである。
正直、この危険な要素をどこまで掘り下げるんだろうという、期待と不安が入り混じった気持ちがあったんだけれど、結局ウヤムヤで終わってしまったなぁ……。

むしろ、役柄としてワタナベよりもオイシく、演じがいもあっただろうと思うのは、福士君演じるGMである。
与那国島から逃げてきたのは、リーダーである彼の先導であったというんだけれど、東京島での彼は当初、記憶を無くしてただただぼーっとしているだけの印象である。
くじ引きで次の夫に指名され、あまり乗り気でない清子だったんだけれど、記憶がないこと、そんな自分が不安なことをぽつりぽつりと彼から聞かされ、清子さんに自分の名前をつけてほしい、とまで言われると、忘れかけていた?母性本能とやらが爆発!

いやー、判る判る、福士君、恐らく本作の中でいっちばんおいしかったもん!やたら色っぽかったよ!
清子が中国人と共に脱出を試み、つまり彼を裏切って姿を消した後、リーダーだった記憶を取り戻してからの、冷徹な彼とのギャップも、究極のツンデレで、もうたまらん!って感じなのよ!
しかも、クライマックスにはまたデレに戻って、自分の子供を救うために決死の戦いをするんだから!もー、たまらんたまらん!

おーっと!思わずかなり先まで先走ってしまったけれども(爆)。
そう、清子は妊娠するんである。一度は、この村で暮らしていくことを決意して、あらたに、もともとのリーダーだったGMの指揮のもと、秩序ある社会を作り上げようと、それまで崇め奉られていた清子があっという間にお飾り以下に成り下がった。
でもね、妊娠のひとことでもうあっという間に変わっちゃう。あなたの子よ、のひとことでさ。

妊娠が発覚した時、清子はすんごく驚いていたけど、避妊はしてなかったよね?恐らく、外出しさえもさ(あー、ヤだ)。
つまり、年齢的なことを考えてってことだろう……そもそもの設定で、夫と2人、結婚記念のヨット旅行に出かけるなんて、この年頃でそんなことが出来るのは、子供がいないからだったのかも。だから、驚いたのかも。
ということは、夫の方にこそ子種がなかった?そこまで妄想するのはさすがにヤボか……。

でも、男ばかりの中で、妊娠を神聖視しながらもどうにも頼りない彼ら。聖なる洞窟で産んでほしい、準備は整えるからと言われても、きっと不安だったに違いない。
リーダーから宗教パートを任される、うつのようにも、多重人格のようにも、もっと深刻な精神疾患のようにも見えるマンタ(染谷君。ノンセクシャルな雰囲気なのになんかエロっぽくて、彼は素晴らしい!)が、その提案をしたんだけれど、女の本能でか、清子は自身と赤ちゃんの安全を第一に考えて、中国人たちの潜んでいる場所へと脱出するんである。

思いがけず、そこにはまたあらたな漂着者……フィリピンのオミズな女たちがいて、日本語の歌も歌える彼女たちに、清子は心癒される。
しかし、今までこの島でたった一人の女性として、まあ浮き沈みはあったにしてもチヤホヤされてきた清子が、自分以外の女たちに遭遇したら、これまで以上の展開になるのは当然だったんだけれどね。

その中に、日本語が堪能な女性がいて、子供もいるという彼女と清子は心を通わせる。
彼女たちが乗ってきたボートがとてもここにいる全員が乗れるものではないと知った時から、いや、そのことを教えてくれた、女性たちの中でも一番イケイケの女の子が清子に、赤ちゃんを置いていくなら連れてってあげる。替わりにヤン(中国人のボス)の相手をしてね。と、としかさの女たちを置いていく代わりに、自分たちのメリットになる若い男や日本人の清子を連れて行くことを、あっけらかんと示すんである。
清子は言う。「何がハッピーエンドかは、私が決める!」と。それはこの女の子に、これでハッピーエンドだと、美味しいものも食べられるよ、と判ったような顔をして言われたから、なんであった。

この、食に関しての言葉こそが、最初に書いた、食欲こそが一番だというトコなんだろうなあとも思ったけれど、ある意味それをしっかり否定してるじゃん!などと、つい嬉しくも思ったんであった。
まあ、それより大事なのが赤ちゃん、家族という大きなくくりよりも更にピンポイントに絞った、女の母性本能大絶賛みたいな、ひどく押し付けな思考なのは、ちょっとウンザリもしたけど……。
そりゃ、お母さんは素晴らしい。母性は素晴らしい。だけど、今それを、全ての真理の頂点のようには言えないじゃない。いろいろあるんだからさ……。

この状況下では、赤ちゃんのお父さんが誰かなんて判らない。自己保身のために清子は、一度はヤンにあなたの子よ、と言ってみる。
しかし、ワタナベの脱出(実際は失踪かも)によって、諦めかけていた島からの脱出が、ワタナベの申告による救助隊発動で可能かも!とガゼン希望を持った日本人青年チームが、その期待のために今までの秩序が崩れ、中国人たちにを襲ってしまうに至って……清子は、そもそもGMに、あなたの子よ、と言っていた訳だしさあ……。

ソーゼツな殺し合いの中、必死に双子の片方を守ろうとする清子、そして、いつのまにか生まれていた自分の子?の片方をこれまた必死に守ろうとするGM。そして……修理が終わっていたボートに清子はフィリピンの姉御が乗り込み、最後までGMが彼女に渡そうとしていたもう一人の双子の男の子は、彼の手に残された。

漂着していたセクシーガールたちが、フィリピン出身だからというので、チキとチータという女の子と男の子の名前をつけていた。
数年後のテロップの後、すっかり島の秩序が整った中、結局残されたフィリピン女性と日本人、中国人たちの間にあらたな子供も生まれ、染め抜いた民族衣装を身にまとい、この島の王子、チータの10周年聖誕祭が盛大にとり行なわれている。
王子はリッパに挨拶をした後、この島で没した数多くの霊に手を合わせている。あの漂着したドラム缶に、双子のもう一人の女の子、チキの名前と、その母親、清子の名前が刻まれている。

てことは……と、あやうく落涙しそうになっていると、パッとカットが切り替わり、一見してチキだろ!と判る10歳前後の女の子が、都会の橋の上で手持ち無沙汰にしている。
そこに、あの無人島の様子とはスッカリ違う清子が穏やかに笑んで現われる。屋上での誕生パーティーである。チキ(とチータ)を取り上げ、清子のサポーターでありつづけた、あのフィリピンの姉御ももちろん顔を出している。
あの東京島とはまるで様相の違う、ザ・都会のビルの屋上で、チキの誕生日を祝う。そして、清子は「もう10歳なんだね……」と感慨深げに言い、「話したいことがあるの」とついに告げるんである。

結局、福士君が一番オイシかった気がする。基本ツンデレなのもヤバかったし、何より、やたら、色っぽかったんだよね。
強烈なリーダーシップをとっていながら、救助に自分だけおいていかれたかと思ったら(カン違いだったんだけど)、涙ながらに「おーいー!おーいー!」と叫ぶ、あの情けなささえ、母性本能をギュウギュウ刺激しちゃうんだもん。★★★☆☆


時をかける少女
2010年 120分 日本 カラー
監督:谷口正晃 脚本:菅野友恵
撮影:上野彰吾 音楽:村山達哉
出演:仲里依紗 中尾明慶 安田成美 勝村政信 石丸幹二 青木崇高 石橋杏奈 千代將太 加藤康起 柄本時生 キタキマユ 松下優也

2010/3/16/火 劇場(シネスイッチ銀座)
もうね、ホントに何度も言うようだけど、仲里依紗嬢の魅力を一発で見抜けなかった私の目は、本当にフシアナだったよ。「ちーちゃんは悠久の向こう」の時は、ホントにただただ大味なだけな子だと思っていたのに。いや、ていうか、その大味こそが彼女の魅力だと気付いたこと、あの作品こそが彼女の魅力を活かしていなかったこと、ていうか言っちゃうとミスキャストだったこと(爆)を、後々によーく思い知ることになるんである。

ほおんとにね、逆に言うとこういう魅力を持った子は、少ないよ。得がたい魅力なんだよなあ、この大味さは。
そのキュートさにようやく気付いたのは、大泉先生目当てで見ていたサザンのドラマ「波乗りレストラン」あたりからだったというんだから、私もまったく超ニブい。彼女は大味なだけに、涙も気持ちよく流してくれるもんだから、泣きたい場面では思いっきり泣きたい本作のような青春SF映画には大正解。
ホントにね、こんなに素直に涙を流してくれる子にも久しぶりにお目にかかった気がする。素直につられて大号泣しちゃったもん。

もひとつ、この子の魅力はその独特のエロキューション。これは、すっごく大事。エロキューションの独特さはその声を形作る表情にも影響するから、彼女の魅力は確かにその声にも発端があるんである。
キレイな発音の女の子も勿論好きなんだけれども、一番ダメなのは、ひらったく“い”と“え”の区別がつかないような発音をする子で……あれは何なのかなあ。

彼女の喋り方は、舌ったらずのようでそうでなく、平たそうでそうでなく、どこかボーイッシュで、どこかコケティッシュで、何とも魅力的だよね。
そう、彼女の魅力はボーイッシュさがどこかに見え隠れしていること……確かにカワイイ女の子ではあるんだけれどサバサバしていて、だけど男の子っぽいっていうんじゃなくて女の子としての可愛さに対する自負も充分にあって、その自負がハッキリしているから返ってカッコよくて、後輩女生徒たちからも慕われるという……。
いやあ、里依紗嬢に実にピッタリの役柄というか、彼女自身がそのキャラをリードしている感があるのよね。

ていうか、またしても女の子大好き状態に突っ走ってしまった……しかしね、この“後輩女生徒たちからも慕われる”というのは、本作の中で里依紗嬢演ずるあかりがタイムリープして過去へと行き、母親が卒業した中学校で“芳山先輩”の名前を口に出す後輩たちの響きから実に慕っている感じが出てて、いやあ、親子だなあと思わせるんだけれど……でもその慕われ方は、宝塚のお姉さま的な母親=芳山和子と違って、娘のあかりは「立ち姿はかっこいいんだけどねえ」などと後輩から惜しい!みたいに言われる親しみやすさなんである。

このあかりの冒頭シーンは、弓道部である彼女が弓をつがえ、いざ射る!ていうところで指を離すタイミングが合わず、ぽろりと落ちてしまい、あが、とアゴがハズレそうな顔をする。それを除き見ていた幼なじみの男の子が「さっすがあ」とと合いの手を入れるのが可笑しくて。
しかしこの弓を落としたシーンはNGが採用されたというんだから凄い。何が凄いって、その時見せた里依紗嬢の“あがあ”てな顔であり、これがもともと彼女が素で見せた顔だというんなら、ほおんとに里依紗嬢はナイスキャラなんだよなあ!

だーかーらー。油断するとすぐ女の子の話に没頭しちゃうんだから(爆)。ていうかさ……スゴイよね。時かけは四度目の映画化。二度目は若干失速したけれど、あれが失速した原因は、まんまリメイクしてしまったことが最大の原因だったと思われる。
三度目のアニメによる映画化で大いに驚いたのは、タイトルがそのままでありながら、その物語自体はスピンオフのようなものだったこと。
慌てて原作を今更ながら読んでみると驚くほど短くシンプルな物語で、確かにそれを第一回目の映画化ではある意味忠実になぞってはいたけれど、でも映画にする時点でいくらでも膨らませられた。ていうか、膨らませなければ映画の尺が持たないくらい、原作はストイックなぐらいに短かったのだ。

てことはよ。これは本当に……いくらでも料理出来る題材なんだよね。それを思い切ってやってしまったアニメ版時かけが、まさに突破口を開いた。
主人公が芳山和子でないことに最初戸惑いを覚えたけれど、劇中、ちゃんと芳山和子が出てくることに感動し、いわば芳山和子は、その名は映画史における伝説と化した、と思った。
そして本作、アニメ版では主人公の叔母として登場した芳山和子が、今度は主人公の母親として登場する。もっと、直接的な関係だし、冒頭はその芳山和子こそが登場して物語がスタートするのだ。芳山和子!その名前はそう、時空を越える名前の代名詞なのだ!!

ついつい興奮してしまった。ちっとも本題に入らないんですけど。えーとね。そもそも、そう、あかりがなぜ過去へと旅することになったかである。
冒頭、彼女の母親の和子はある実験をしている。シャーレの中の蟻が消えた。彼女は会心の笑みを浮かべる。
ほどなくして娘から彼女の勤める大学に合格したと連絡が入る。飛び出した彼女の目に映ったのは、足をガッと開いて頭の上で丸を作った娘の嬉しそうな姿(こーゆーところが里依紗嬢のステキなところっ)。

和子が作っていたのは過去へと飛ぶクスリだった。和子は幼なじみの吾朗から近所の洋館に住む婦人から託されたという写真を渡される。そこには高校時代の彼女と見知らぬ少年が映っていた。
いや、見知らぬ、と思っていたんだけれど、和子はその写真に吸い寄せられる。フカマチカズオ、消し去られた一片の記憶。その写真を持ってフラフラと横断歩道を渡っていた彼女は車にはねられた。

昏睡状態の母親を涙ながらに見守るあかり(こーゆーところの涙演技が、実にマッスグでいいのだ!)ふと目を覚ました彼女に慌てて駆け寄ると、母親はいかなくちゃ、とつぶやき、やおら身体を起こそうとした。
1972年4月の実験室、フカマチカズオ。そして娘の耳元で何かを囁く。あかりは、我を失ったような母親に必死で言い聞かせた。判った。だったら私が替わりに言って伝えてくるから!と。

フカマチカズオ、あー、深町一夫!この名前もまさに映画史に残る名前だわよねー。初代キャストの役者さんが残らなかったから?いやいやいや……単に役者を引退なさったそうだから(汗)。
とにかく、本作はある意味、画期的に原作を飛び越えた前作のアニメ版より、そう、ある意味オリジナルの前提を丁寧になぞった作品。深町一夫はオリジナルの雰囲気をたたえてステキに年をとり、あのオリジナルの時に既にそうであったイカした未来人としてあかりの前に現われる。
彼らの若い頃、つまり原田知世であり高柳良一である頃をほうふつとさせる若い役者二人が、実にそんな雰囲気を無理なく伝えているんだものなあ。

いやしかししかし、何と言っても本作は本作。だってあかりはよりにもよって時を間違って飛んでしまうんだもの。1972年4月の筈が、1974年2月に飛んでしまう。
のは、あかりが一瞬、やっぱりンなことできるハズないよねー、と思ってしまったことと、一瞬時代を思い違いしたのかも、という思いがよぎったのが……母親が倒れた時、幼なじみの吾朗ちゃんが、1974年の思い出話をしたからだったのだ。
この時点で、その思い出話……吾朗ちゃんが転落事故にあった夜行バスに乗る筈だったのが切符を家に置き忘れて乗れなかったというエピソードが、絶対どっかの時点で効いてくるんだろうと思っていたのに、それが実際に提示された時に、スッカリ忘れていたというていたらく。
涼太が登場した時、彼は確かに秋田から来たと言っていたのに……いやその時点では、あ、と思っていたような気もするんだけれど。

ていうかさ、ていうかさ!なんたってこの涼太を演じる中尾明慶だよねー!里依紗ちゃんが「2010年の技術よ」と彼に携帯電話を得意げにかざす様子がサマになっているように、彼は奇蹟のリアル70年代!
いや−、そうかそうか。妙に癒されるお顔立ちだとは思ったが、この時代にしっくりくる、というか、この時代のお顔立ちだったのね!
拓郎世代の、いや、神田川世代と言った方がいいか(そういうシーンも出てくるし)ウェイビーな髪型をし、しかしそれ以外はほったらかしもいいところで、寝床はおこたで、部屋中にポスターを貼りまくり、未来の大監督を夢見ている映画オタク。

いや、オタクという言葉すらない時代だけれど、あかりが「2010年の技術よ」と携帯電話を差し出した時、ポカンともせず、これが複合通信機器か、今撮っている映画と同じだ、と素直に反応してしまうあたりが、それであかりが未来人だということを受け入れてしまうことが、たまらなく愛しいのだ。
そしてそう……彼のインディーズ映画に出演しているいかにもアングラ女優といったいでたちの隣人が、あかりの時代には“祟られそうなタレント”として有名になっている。
だけど、その話を聞いて「おれは大監督になってる?」と涼太は期待マンマンなんだけれど……あかりはその名前に記憶がないのだ。それはあかりが映画に興味がないってことだけじゃなくて……。

あのね、現実社会ではあかりは、母子家庭なんだよね。母親の大きな愛情に包まれて、そのことにさしたる疑問も感じずに暮らしてきたあかりだけれど、大学に合格した日、母親が別れた父親と連絡を取っていたことを知って驚く。
その名前さえ知らなかった。思えば、芳山和子、という名前をそのまま活かして“時をかける少女”の後継者を探すならば、前作のアニメ版のように独身の叔母を用意するか、一度結婚して離婚するという形をとるか、どっちかしかないんだよなあ。

本作の方が、すんなり考えられる形だったかもしれない。ただ、離婚という形は生々しすぎて、確かに時かけにはいきなりはしっくりこなかったかもしれない。
その点において……四回目の映画化におけるこの設定は実に、絶妙、なんだよね。現実社会でさえ父親に会ったことのないあかりは、過去の世界で、自分とそう年の変わらない父親と出会ってしまう。そこには若かりし母親もいる。

現実世界の自分では、許せないとかいう気持ちさえも起こらないほどに疎遠極まりない父親が、未来への希望で生き生きと光り輝いてそこにいる。そしてそんな父を、若かりし母親がまぶしい目で見ている。
その時から、和子が彼に置いていかれる雰囲気は満点で、実際、彼はアメリカ留学に行く直前で、恐らくこれが、彼女が最初に置いていかれたところなんだろう。
でもあかりが直接彼女から、彼が追いかける夢を応援する気持ちと、何より好きだと言う気持ちをあまりにもまっすぐに聞いてしまったら、何も言うことなど出来ないじゃないの。

でもさでもさでもさ……それでも深町一夫、なんだよね。この時点の和子はそんな男の子のこと、覚えてない。顔も、名前も。ただ一緒に写った写真を見せられて、こめかみを押さえ、苦しそうな顔をする。
和子が薬学部を目指すために遠い横浜の学校を選んだことが、一夫の記憶が彼女の体のどこかに残っている何よりの証拠だった。
これってさ……切ないよなあ。最終的に別れてしまったとはいえ、子供をもうけるほどに好き合った相手がいながら、自分でも判らぬままの、ただただ心の中で秘めている純愛の相手がいるだなんてさ。
それが初恋というものなんだろうとはいえ……そのことを結婚した相手はもとより、和子自身が判っていないだなんてさ……。

でも、それをまさしく、あかりが継承するんだよね。二年も先にタイムリープしてしまったあかりは、高校生になっているはずの(と思うのは勿論、事情を知らないからだけれど)深町一夫を探すために涼太を巻き込む。
フツーに考えればこんなミニスカ制服の(和子たちが着ている、紺サージの膝下プリーツ制服が懐かしいわー)、茶髪(まではいかないにしても、明るめにカラーリングしている)の女の子なんて、どんな時代の男子だって、ムラムラするに違いないでしょ!

でも涼太は、一緒におこたに入って眠り、神田川よろしく一緒に銭湯に行き、あかりが着替えた70年代なミニスカ(……考えてみれば、私服であればこの時代はミニスカ天国だったんだわ)にドキリとしながらも、ちっとも手出しをしない朴念仁なのよ!!!バカヤロー!!
……でもだからこそ、涼太、なんだよね。だからこそあかりは彼がたまらなく好きになる。そして皮肉なことに……涼太の親友が、彼の映画のカメラマンが、あかりの父親だったのだ。

よもや和子は、自分の娘が過去に行って、自分の夫の親友と恋に落ちる(まではいかないにしても、寸前まで)だなんて、思いもしなかった、だろう。しかも自分が託したお願いのせいで。
時々ヒドい映画では、タイムパラドックスをめっちゃそのまんまに放置していたりするんだけれど、本作は、オリジナルからの継承で、きっちりそのあたりはクリアしている。……つまり、切ないほどに、未来に影響ある記憶は容赦なく、情け容赦なく、消し去ってしまうのだ。
オリジナルの時かけで、和子の中から深町君とそれに関係した記憶を消し去ったこと自体、ヒドイ、残酷!と思ったけれど、本作はそれ以上にヒドイと思った、のは……ヤハリ、里依紗嬢の熱演のせいだろうと思う。いや、それプラス、中尾君のそれももちろん。

田舎から夢を抱えて出てきた青年であった涼太は、父親が倒れたという知らせに愕然とする。今まで、自分の夢ばかりを追ってきたこと。でもこの最後のフィルムだけは完成させる、とラストシーンを、自らの手で撮り直した。
あかりを桜並木の下に歩かせて、この下を、一緒に歩ければいいなと言った。再会出来る時、オレは56歳のオジサンだけど、と言って、あかりを笑わせた。
……私ね、それは全然、アリだと思ったのだ。20数年の年の差カップルぐらい、あるじゃんと。でも……そう上手く行く訳は、なかったのだ。

冒頭にもう示されていた、夜行バスの転落事故に、彼こそが巻き込まれるのだということが示唆された時、あかりと共に、観客もまた、ガクゼンとした。
深町一夫と会って、お母さんが伝えたかった「あの時の約束は生きています」という言葉を替わりに伝えて、でもタイムトラベラーであるあかりは、彼から記憶を消されなければならなかった。でも彼女は、夜まで待ってくれという。最後に別れを言いたい人がいるのだと。

勿論、それが涼太。言えそうで言えない思いをお互いに抱えて隣同士くっついて座る、そのやるせなさがたまらない。里依紗嬢がぼたぼたと素直すぎるほどに素直にこぼす、まっすぐな涙がたまらない。
涼太は、秋田に着いたらすぐに連絡すると言った。戻ってきたらもう私はいないんだ……そうつぶやいたあかりが、たまらず彼に追いすがる。その気持ちを汲んだ訳でもないだろうけれど、彼女のおでこに、彼は……恐らく決死の勇気の、正直な気持ちのキスをしたのだ。
……だってさ、こんなことやられたら、もうこれが最後に決まってるじゃん。

もう、この時点でボロボロだったのに、彼の乗るバスが転落事故に遭うんだと判ってしまって、必死に必死に追いかけるあかりに涙が止まらない。
しかも、しかもさ、未来を変えちゃいけないっていう、その一点で動いている深町一夫、いや、ケン・ソゴルが、あかりを有無を言わさず止めに入るのが辛くてたまらない。
だって、だってさ、未来が判るなら、彼女が「どうしても会いたい人がいる」と言った時点で、その相手がどういう目に遭うのか判った筈じゃないのおー。

だって、だってさ……あかりは、帰る為に必要な、母親が作った薬が入った薬瓶をガシャン!と叩き割って、(未来が変わてしまうというのなら)私は未来には帰らない!と叫んで、もう届く筈もない涼太の乗るバスを必死に、必死に追いかけるのだもの。
もう、もう、泣くしかねーじゃねーか!
深町……じゃなく、ケン・ソゴルは非情にあかりを抱き止め、暴れる彼女に手をかざして、記憶を消した。
涙を流して、ことりと道路に横たわるあかり。
ケン・ソゴルは、彼女の落としたフィルムケースの中を改め、手紙を一瞥し、一度は自分の懐に入れたけれども、あかりのポケットに入れなおした、のだ。

これがね……救いのあるラスト、ってヤツなんだと思う。
正直、本作は中だるみするなあ……って感じる部分もなくはなくてさ、ケン・ソゴルがフィルムをあかりのポケットに入れたのも、タイムパラドックスやら、ちょっと甘いんじゃないの、という気持ちが否めなかった。
ただ……あかりが決して、そう、母親のようには愛しい人の記憶をハッキリと取り戻す訳ではなく、ただ……そう、その愛しいという記憶だけを取り戻して、自分でも判らない涙をとめどなく流すのが、もうもう……たまらなく泣いちゃったのだ。

長年会うこともなかった父親と、過去で会ってしまったこともあって久々に再会して、あかりは映写機を借りる。ポケットの中にあったフィルムがどうしても気になったからに違いない。どうしても気になったということは、それだけ彼女の心の中に何かを残していたということなのだ。
そして、フィルムが上映される。一緒に見ていた友人がポカンとする中、ただただ見つめ続けていたあかりは、ラスト、桜の木の中を歩いていく後ろ姿の女の子が自分だなどと知りようもないのに、ただただ滂沱の涙を流すのだ。
一緒に見ていた友達が驚いて、どうしたのと声をかけても、彼女にもその理由が判らない。
ただ、このフィルムを見たいと思ったこと、そして理由も判らず涙が止まらなかったその胸の動悸は、真実のモノだった。

「全く違う人として、未来の君に会いに行く」と言ったケン・ソゴルこと深町君は、深町君として和子に会いに行く。
「深町一夫として会いに来てくれたのね」心底嬉しそうな和子に「似てるね」とあかりのことを言う彼。にっこりと笑った和子に、あの時と同じように、彼は彼女の目に手をかざした。

映画史に残る、まさに映画史に残るあの第一作は、フィルムの手触りを大事にし、SF画面も確信犯的だった。それをある意味キチンと継承し、デジタルであることをその確信犯の強みにした本作であり前作のアニメ作品で、まさに時かけは、真に時をかけたと思う。
そう、原田知世がすべての始まりだったのだ。そして今は役者を辞めていることが妙に深町一夫の信憑性を増す、彼を演じた高柳良一の存在も。★★★★☆


扉のむこう
2008年 108分 日本 モノクロ
監督:ローレンス・スラッシュ 脚本:ローレンス・スラッシュ
撮影:ゲイリー・ヤング 音楽:PAN AMERICAN(マーク・ネルソン)
出演:根岸健太 小栗研人 印南雅子 古澤豪 工藤定次 加納想子 山下香林 松村佳奈江

2010/3/9/火 劇場(渋谷シネマ・アンジェリカ)
これまでいくつか、引きこもりをテーマにしたドキュメンタリーや劇映画の秀作があったので、どこか私は判ったような気になっていたかもしれない。
本作は、引きこもりの当事者というよりは、その周囲に焦点を当てた映画のように見えたので、そんなんでいいのか、などと最初、不遜にも思ってしまったのだった。引きこもり当事者の実情や、その感情や、キッカケを探り当てることが大事なんじゃないか、などと、後から考えるとなんて判ったような気になっていたんだろうと思う。

これはドキュメンタリーではなくフィクションではあるのだけれど、その引きこもりになる少年を演じる子が、実際の引きこもり経験者であることを後に知って愕然とする。
そして、そうした若者を受け入れる施設のスタッフ、つまり自身も引きこもり経験者である女性が、皆に聞かれるけれど、キッカケなどは何もないんだと。そして引きこもっている間は、何かを考えようとしないようにと考えていた、と言葉をつむぐことに衝撃を受けるのだ。
そして立ち直ったのは、ふと、飼っている猫が可愛いと感じたこと。こんなに柔らかくてあたたかで、可愛いんだと感じたこと。そう、“感じた”こと、感じる自分に、気付いたこと。こんな、ふとした、ささいなことを。そう、彼女は語った。

キッカケなんて、何もない。そりゃ、社会学者とかそういう人たちに言わせれば、そこには蓄積された何かがあるのだと言うんだろうと思うけれど、こと当事者たちにとっては、本当にそこには“何もない”んだ、ということを知って、愕然としたのだ。

そして、この引きこもり少年がとても若いことにも。なぜだろう。私は引きこもってしまう人たちは、ある程度年齢がいっているイメージがあった。
多分それは、長年引きこもった末にそうなってしまった、ということで、そうした人たちもまた、その最初はこんなにも、若かったんであろうことに今更ながら思い当たる。

私が“ある程度年齢がいっている”イメージを持っていたのはそれ以外にも恐らく、そう、彼らが引きこもることになる“キッカケ”が、そこにはきっとあったのだろうと想像していたからに違いない。例えば大学受験の失敗や、就職出来なかったりや、仕事場での人間関係に悩んで社会人としての自信を失ったり、だとか……。
でもある意味、そうしたハッキリとした“キッカケ”ならば、立ち直りの糸口もつかみやすい訳で、こんな深刻な事態、引きこもり、ということには逆にならないのかもしれない。
そう、そこにはきっと本当にこんな風に、本人さえも持て余すほど、“キッカケなど何もない”ことから始まったのだ。

とはいえ、一応は劇映画なので、何となくその流れを示唆するような描写は示されている。
主人公の宏は塾に通っている。教卓の前にずらりと列をなす生徒たちは、はい合格、帰ってよし、はい、不合格もう一度、と答案用紙を一瞥しただけでふるいにかけられる。パスできなかった子は、また机に逆戻りしてやり直しである。
講師は不合格だった子に何らのアドヴァイスを授ける訳でもない。一人、また一人と残っている子が減っていく。子供たちが帰っていく階段の壁には勇ましい合格目標が所狭しと貼られている。
外に出ればもう漆黒の闇夜で、子供たちがこんな時間まで“いい学校に入るため”に縛られていることを知る。

とはいえ、これもまたステロタイプな描写ではある。そこでただただ机に突っ伏して眠っている宏が、本当にただ眠いだけである筈もなく、そんな社会に対する反発も感じられはするけれども、だったら彼は、ここに通わされていることに対して両親に抗議すべきなんである。
ていうか……この時に彼が一度も顔をあげないので、これが本当に宏だったかどうかも実は疑問なんである。これは単に、日本の社会の縮図をあらわすために、冒頭に挿入されたエピソードに過ぎなかったのではないか、ここに宏が本当にいたのか?などと……。

宏がひたすら数を数えるのが印象的。家までの歩数をひたすら数える。何百という数まで数える。朝、登校する時、学校までの歩数を数えて到着した途端、きびすを返した。それから宏は学校に行かなくなった。

数字というのは確かにとても象徴的で、テストの点数や、順位や、偏差値や、あらゆるふるい落としの象徴として多用される。冒頭、塾の講師が正解の数だけで生徒を機械的にふるい落としているのが非常に象徴的である。
モノクロの中に浮かび上がった、一見幸福そうな中流家庭もその数の論理に巻き込まれ、こんな事態に陥った、といったら、それこそキッカケを探したがる単純さだろうか。

ただ、これが学校ではなく、塾での描写だということは、ちょっとしたアンチテーゼなのだろうかと思いもする。もはや学校などはいらない。勉強が遅れてしまうからなどとしたり顔で言う生徒や保護者が存在する昨今を、揶揄しているように感じもする。
だからといって、学校を賛美する姿勢もとってはいない。不登校に陥った宏に対して学校は、あるいは教師さえも、心配する風もなく、ある程度期間が経つと、休学にするかやめるか、どっちかの手続きを取ってください、と事務的に書類をよこしてくる。
結局、こんなもんなのか、と思う。金八先生やらごくせんのような世界はヤハリ超フィクションなのだ。来なくなったら事務的な手続きをするだけ。でもそれだけ、学校社会も手が足りないってことなのだ。

最初のうちは自分だけで抱えていた母親だけれど、さすがにもたなくなって、夫にも相談する。しかし、これまたアッサリと彼は退却してしまう。
だってやり方に大した差異はないんだもの。母親は言葉だけだったのだとしたら、父親はそこに暴力が伴っただけ。ドア越しであろうと、外に引きずり出そうと、子供の方に話し合う用意がなかったら同じことなのだ。
父親は「下(二階の部屋から出て)に行って話し合おう」と言うけれども、例え彼が宏を引きずり出すことに成功していたとしても、宏はそこでもだんまりを続けるだけだっただろう。

母親は早くから、第三者に助けを求めることを夫に提案していた。しかし、夫は、あまりにも判りやすい論理でそれを否定した。
ウチの恥を表にさらすのか。責められるのは俺たちなんだぞ。あまり波風を立てるのは良くないと思う。永遠に出て来ないということはないだろう。ほっておいてあいつの気持ちの整理がつけば、そのうち出てくるさ、と。
永遠、というのは英語字幕での表現。実際の日本語台詞ではいつまでも、という程度だったけれど、私は字幕の永遠、という表現を見た時、いつまでも、という言葉がいかにあいまいで無責任なのかを思い知った。
ヘタすれば本当に、宏は永遠にあの部屋を出てこまい。それこそ、出てくる“キッカケ”を失って、というか、そのキッカケを与えられずに、取り返しのつかないことになってしまう、のだ。

きっと本作が何より言いたかったのは、父親が口にした“恥”という言葉に他ならないだろうと思う。この作品の惹句としても使われている。これだけ社会的に認知されていることなのに、いやそんなことを考えてしまうこと事態が、私も恥の意識を強く感じている日本人だということに思わず愕然とするのだけれど……。
でもとにかく、世間に対する恥の方を、愛する息子を助け出すことよりも優先することに、そうさせてしまうがんじがらめの日本社会の恐ろしさに、ただただ呆然としてしまうのだ。

幼い弟がいてね、彼が一番カワイソウだったかもしれない。きっとおにいちゃんがこうなる前も、期待をかけられる長男であるお兄ちゃんがまず一番手で、後回しにされてきた感がある……と思うのは、同じく優秀なお姉ちゃんを持っていた妹である自分のひがみだろうか(爆)。
そんな描写がある訳じゃないんだけど、ただ、お兄ちゃんが引きこもりになると、お兄ちゃんが食卓に来るまで(来る気配は微塵もないのに)大好きなカレーライスを目の前にしたまま、それが哀しく冷めていく(ご飯が明らかに乾いている……)のを眺めるしかなくて。

近所の人なのか、同級生の母親たちなのか、様子を見に来るご婦人たちの描写も挟まれる。つまりさ……いつも仕事で遅い父親は、暴力的に息子を外に出そうとしたあの場面だけで、もう御役御免であり、常に世間の矢面に立たされるのは母親なんである。
でもね、この母親……そんな訪ねてくる友人たちからも身を隠すんだよね。居留守を使うのだ。玄関で息をひそめている。

彼女は今時珍しく専業主婦っぽくて、そうした時点で世間から隔絶されている感はある……なんて言ったら偏見だろうな。
たとえ彼女が仕事に出ていても、こんな具合に勘ぐられたら(勘ぐられている訳ではないと思うけれど、彼女にとっては同じことに違いない)、同じような態度をとっただろうと思う。そしてそれが、息子の立場をますます追い詰めていることを、恐らく彼女は気付いてなくて。
そう多分……この時点で、もはや息子の問題ではなく、自分がいかに社会から身を隠すかという問題にすりかわってしまっているのが、はたから見て明らかで、見ているのが辛いのだ。

そして、学校から休学か退学かを迫る書類が生徒を通じて届けられる。この生徒、学級委員なのか何なのか、さらりと、何も聞かずに、届けるだけ、っていうのがまた、リアルに痛いんである。
つまりさ……学校に行っていなければ、もう存在しないも同じ。“岡田君の家に学校のお知らせを届ける”だけなのだ。その岡田君が学校に来ていないことに対してこの子が、そしてクラスメイトも教師も、そして学校も、何とも思っていないことが切実に感じられて、それが一番ツラかった。

でもね、この書類を見ながら、下の息子に母親が問わず語りに言う台詞が、キツいのよ。「学校をやめてしまって大学に行けなかったら、いい会社に入れなくなるのよ」……うっわー、なんてステロタイプな台詞!でも多分、いまだにこういう価値感が横行しちゃっているんだろうと思うと背筋が寒くなる。
だって、だってさ、いい会社って、何よ。それに、いい会社の先に、何があるの。それが一番の問題じゃないの。いい会社が一番大事なら、そこに自分自身は存在しないじゃない。

まさに今、“いい会社”に到達する前に、息子の宏がそれを提示しているのに、母親の口からはお決まりの台詞が滑り出てしまった。いい会社に入る息子が大事なのではなく、愛する自分の息子であることこそが大事なのに。
でもねでもね、彼女は判っていたに違いない。こんな陳腐な台詞が滑り出たのは、そんな世間に生きてきてしまったからってだけに違いない。
だってきっと、“いい会社”に勤める夫は、息子より世間に対する恥を優先して、いつか何とかなるだろう、と放置した。つまり、見放したのだ。そしてそのまま転勤が決まって、下の息子を連れて去っていってしまったのだ。

この時ね、彼女は宏に、お母さんとお父さん、どっちと暮らしたいか、とドアの外から問うた。宏は、お母さんの文字をぐちゃぐちゃに消していた。それは、お父さん、と答えたというよりも、あまりにキツい返答だった。
でも、そう宏が答えたのに、彼女は彼を手元に残し、下の息子と夫とを送り出したのだ。

そしてここからが、それまでは確かに劇映画という趣が強かったんだけれど、いきなりドキュメンタリーの趣を呈してくる。
実際の施設である「りんごの木」もともとここで暮らしていた根岸君が宏役を演じているんであり、施設長である工藤さんを本人が演じている。つまり、彼が登場し、スタッフの体験談をリアルに聞く段に至って、いきなりドキュメンタリーチックな趣を呈してくるんである。
実はそれまでステロタイプだなと思っていたのは、いや、思わされていたのは、確信犯であったんじゃないか、と思う。

工藤さんが、そして現場が登場してからは、いきなり色合いが変わる。ここで、この作品がモノクロであった意味もふと感じてしまう。そうした劇的な変化をワザとらしく感じさせない、というか。
さすがこの道長年のベテランである工藤氏は、こういう経過を辿ったお子さんはこういうタイプなんですよ、とちょっとビックリするぐらいアッサリ分析する。最初の挨拶だけの自宅訪問から、何気ない、彼自身のボランティア話なぞを織り交ぜ、宏からのリアクションなど期待せず、ただドアの外側から語りかけるんである。

正直ね、この工藤氏の語りは、貧しい国で子供たちがゴミ拾いにイキイキしてる、なんてエピソードなんか、部屋の中に2年近くもこもっている宏に聞かせるのに単純すぎて反発を招くような気もしたんだけど、それこそ、大人のひねくれた感情だってことなのかもしれないなあ。
そう……“いい学校、いい大学”だけの教育を受けてきた子供たちには、こんな世界を知る機会すらなかったに違いないんだもの。

そして最終的には半ば強引に、施設へと連れ出す段になる。この生活よりは明らかにいいと約束する、と言いつつも、それまではドアの外から宏に話しかけていた工藤氏が、部屋に入ってからはかなり強行な態度になることに、若干の恐ろしさを感じなくもない。なんか、宗教的な感じもしなくもないというか……(爆)。
でもそれが、きっと彼らを外に引きずり出すために、必要なことなんだろうと思うのだけれど。

この引きこもりという現象は、日本特有のものなのだという。しかも、それは長男に多いのだと。
長男に期待されるプレッシャー、その長男がこうした事態に陥って、それが恥だと親が思っていると知った時の絶望感。
世間に知られたら恥だという感覚もヒドイと思ったけれど、それでも、というか、だからこそか、彼に手を差し伸べ続ける……いや、精神的な部分は置き去りにして、ただ彼を生き長らえさせるために、食事を、いや、エサを与え続けるのが、それこそが屈辱なのだと思った。

親として、いや、母親として、子供が食事を取らずにいることに対する不安は判るけれど、そのことで母親の責務を果たしていると心のどこかで感じているのが、実に日本的母親だと思って……。
今は仕事を持っている母親も多いけれど、いまだに結婚したら女性は専業主婦で母親業こそが大事で、という風潮が根強く、それが子供を家畜化して知らずに侮辱することになり、そして父親業を奪ってしまう(それを、父親は気付いていないあたりが……)ことになる。
食事を与えられなければ、息子は死んでしまうと彼女は思うけれど、いくらなんでもその前に、動けるんだから、死にたくはない筈なんだから、彼は外に出るだろう。「今、僕は」では、たった一人の母親が死んでしまい、彼は外に出ざるを得なくなったのだ。

実は本作はそここそに焦点が当てられており、引きこもりになった子供やその子供たちを受け入れる施設は、この残念な日本社会の負の産物に他ならないのだと、まさにそこが一番痛烈な批判に感じた。
日本人ではない、外からの目、だというのが、余計に。

ところで、英語題はレフト・ハンディドなのだけれど……これがどういう意味だったのか、すごく気になる。と思って調べたら、不器用な、という意味だった。
器用よりも、不器用な人間の方が、きっとずっと、人間らしい。★★★☆☆


ドリフターズですよ! 前進前進また前進
1967年 81分 日本 カラー
監督:和田嘉訓 脚本:松木ひろし
撮影:中井朝一 音楽:山本直純
出演:いかりや長介 高木ブー 荒井注 仲本工事 加藤茶 松本めぐみ 大原麗子 酒井和歌子 財津一郎 スマイリー小原 小池朝雄 天本英世 鈴木和夫 広瀬正一 藤田まこと 浦島千歌子 藤あきみ 上田吉二郎 なべおさみ 渋谷英男 勝部義夫 伊吹徹 由利徹 関田裕  佐川亜梨 浦山珠実 ザ・タイガース

2010/3/26/金 劇場(銀座シネパトス)
ドリフターズの映画を観るのはこれが最初。同時上映がクレージーキャッツだったのだけれど、正直クレージーの面々はとても芝居が上手くって、こちらはその点見劣りするのは否めない(爆)。後々のことを考えても、クレージーの面々がそれぞれ個性派俳優として活躍していったことを思うと、もうこの時点で差がついていたんだなあと(爆爆)。
まあ、長さんは味のある役者さんになったけど、彼も芝居が上手いタイプでは決してなかったもんなあ。いやいや、勿論、ドリフはドリフで素晴らしいんだからいいんだけど!!

まだシムケンが入る前、荒井注が在籍していた時代のドリフターズ。最年少は加藤茶で、若い頃の彼は結構ハンサムボーイ。んでもって、この最年少がナマイキっぷりを発揮して五人の中では主演級。
それを思うとシムケンが入ってからのドリフは、カラーもメンバーの位置も全く違ったんだなあと改めて思う。
いわばこの中ではアイドル的な存在だった加藤茶が、シムケンが入ってからはすっかり一番の座を追われてしまったのだろうことを考えると、彼はそれでいて結構うまい位置にスライドしたのね、などと勝手に妄想してしまう。
ま、単に相性が良かったのかもしれないけど。

物語はいまや時代遅れとなったヤクザの、その盛大なる解散式である。しがない三下である長さん以下四人、世の荒波に放り出されることを危惧している。
そこへ、真っ赤なスーツに身を包んだヤケに軽い男が、組に入れてくれと乗り込んでくる。これが加藤茶扮するチョロで、彼が長さんたちを引っかき回していくというのが大筋。

長さん演じるアンテナたちが最初につくのが時代劇映画のエキストラで、使い物にならない、と怒られる、っていうのが実に絶妙よね。しかも仲本工事は時代劇だってのにメガネかけたままだしさ(笑)。
彼らを指して言うに、ノッポ、チカメ、デブ、と後荒井注はなんて言われてたっけなあ?

で、使えないトラである彼らはクビになり(とりなした長さんが一番使えないと断じられるのがあまりに切ない(涙))、くってかかったアンテナは監督を川に突き落とす。自身も突き落とされる。
ていうか、この川、そんな溺れるほどの深さじゃないっていうか……一生懸命溺れようとしているような、もうめちゃめちゃ手も足も背中もついてる浅さってのが、そこがツッコミどころにしてなくて、マジで深そうに、溺れているように見せているのが、うう、かえって切ない(涙)。

さて、そんな訳で、その後靴磨きなどしてみるものの結局ダメで、彼らはあのナマイキなチョロを頼ることになるのね。最初は性感マッサージもどきを経営して羽振りが良かったチョロが、手入れが入ってからはすっかり小さくなってしまい、アンテナたちと共に行動することになるんである。
とはいえ、このアンテナたちも何の当てがある訳もなく、何でも屋なぞ始めてはみるものの、そもそも彼らを助けてやるみたいな見下した態度で仕事を回してきたチョロの、その仕事がモノにならないものばっかりなもんな上に、次々とトラブルに巻き込まれてエライ目にあってしまうんである。

勿論、こういうタイプの映画だからきれいどころは揃えている。その中でも、アンテナたちが所属していた黒潮組と太いつながりのあった国会議員、大河内の娘、ミッコを演じる大原麗子のチャーミングなことときたら!
うるさい父親から逃げ出して“1年も失踪中”であるという彼女は、一方で時々実家を訪ねては母親にカネを無心し、気楽に暮らしているというしたたかで奔放な女の子。彼女の企てた狂言誘拐がアンテナたちの運命を狂わせて行くのだが……。

しっかし、しっかし!私、大原麗子ってこういうイメージ 全然なかった!ほら、あの「オオハラ、レイコです」てなさ、ちょっとかすれた、おっとりとしたエロキューションの、大人の女の癒し系なイメージしかなかったんだもん。
こんな美脚バッチリで、くるくると予想もつかない行動をしかけて男たちを翻弄し、シャワー姿やタオル姿を惜しげもなく披露する彼女のなんとまあ、コケティッシュなこと!
いや、タオル姿の下はしっかりガードしていることが判っていても(残念ながら、そのガードがちらりと見えてしまった(爆))シャワーを浴びた後の肌が濡れている感じとか、実―に色っぽいのよねー。
自分の気楽な身分を表現する「家抜き、カー抜き、ジジイ抜き」は、同時上映のクレージー映画でも言われてたけど、ハヤってたのかしらん……。

でさ、時は1967年でしょ。まだ70年代手前とはいえ、やはり鋭敏な感覚が生み出したガールズファッションが実にカワイイのよ。
そう、冒頭、組の解散式でね「ヤクザの解散とミニスカートは当世のハヤリだ」なんて台詞もあり、そしてラストシーン、大河内がスピーチをする場面で「お前(娘)のミニスカートぐらい短くするよ」なんて台詞もあったりさ、そりゃ丈だけ言えば現代のミニスカの方が短いのかもしれないけど、あの当時のワンピのラインでのあのミニな丈は、今のミニスカよりやけにエロなのよねー。
しかもしかも大原麗子の足が超キレイ!私、思わずまじまじと見つめてしまったよ……黒紐を巻きつけたデザインのストッキング?なんぞをはいたりすると、なんかSMっぽくてドキドキしちゃう(爆)。

ま、それはともかく……(笑)てかさてかさ、フツーに考えればこの狂言誘拐事件が最も大きな筋になっていく筈なんだけど、ついでみたいに軽く入れられた黒潮組幹部からの運び屋の仕事で死体を押し付けられてからの顛末が、いきなり、そういきなり、尺を割くという感じだったもんだから、結構ビックリしちゃうんだよな。
だってホント、唐突な感じがしたんだもん。仕事を持ちかけられるのも、死体を押し付けられるのも。狂言誘拐でアタフタしていたところに、突然死体だもの。
しかもさ、この後彼らがいかにしてこの死体を処理するか、という数々のバリエーション。

コンクリ工場に忍び込んで置いてきたら、ストでしばらくお休みだったり。海に沈めようとしたら領海外まで出ちゃって巡視船に見つかっちゃったり(あんなボートでどこまで行ってんの)。道路工事を装って地中深く埋めようとしたら水道管をぶち壊しちゃったり。駅のホームのベンチに座ったまま死んでいる態を作っておいてこようとしたら、タバコの火を借りに来る人がいたり、駅員さんが掃除しにきたり。
しまいには病院の霊安室に置いてこようとする場面、長さんが坊さんで、これがムダにハデでインドの坊さんみたい(笑)、以下三人が看護婦さんに扮しているという、ワザとらしすぎるだろ!というベタな展開。もうこれじゃめっちゃ、ドリフのコントだよなー!
その中で一番笑ったのは、オーソドックスに埋めようとしたら間違って長さんを穴に放り込み「だってヤツのジャケットなんか着てるから」「寒かったんだ!」、まあ、よくここまで並べたもんだと……そうだね、そうだね、これはまさしくドリフのコントさながらなのだね!

そんでもってその死体役、生きている場面ではまさに怪人な、ヤクザというよりマフィアって感じの天本英世が超インパクト強くってさ!
死んでからの方がインパクト強かったかも……手足長くて、黒づくめにアルセーヌルパンの片眼鏡みたいに片眼の黒い眼帯がよく似合う。
そう、手足が長いから、押し込められたトランクから足が出ちゃう。それが怖くも愉快で、いやー、死体役としてこれほど存在感とインパクトとカッコ良さ??を示したのは見たことない!
しっかしホント、死体との道連れの尺の長かったこと!最終的にはズーズー弁の警官、由利徹まで引っ張り出して「チミ、本官をバカにすとるのか?」と噛み付かせる始末(笑)。いやー、チミ、だよ。やっぱり……笑っちゃうよなあ。

まー、つーか、つーかさ。本作の一番は、ザ・タイガースが出演していることっしょ!つか、スター度で言えばタイガースの方が上なのでは……(爆爆)。いやいや、それはジャンルが違うんだから、そんなこと言っちゃいけない!!
でもきっと当時、タイガース目当てに劇場に足を運んだ客は沢山いたと思うなあ。だって今見ても絵になるもん。オーラがあるよね。いや、オーラがあるのはジュリーだけかもしれないが(爆発。大失礼!でも、やっぱり彼は違う……)。

でものっぽのサリーである岸部一徳始め、みんな当時の少女マンガに出てくる男の子みたいに華奢で手足が長くって、色違いのカラフルなサテンのシャツなんか着ちゃってさ、で今のエグザイルなんてレベルじゃ考えられない可愛らしいユニゾンの振り付けで踊りながら歌う、のに、それなのに、すっごいカリスマ性、スター性がビンビンなのよね!
いやー……逆にタイガース出して良かったの。だって彼らは台詞がある訳でもなくて、ほおんとに、タイガースとしての出演。
しかもスターとしてのタイガースではなくって、「今日の出演、タイガース」みたいなさ、酒場だかダンスホールだかの出演バンドなんだぜ?彼らは物語に絡むことなんて一切なく、台詞もなく、ホントに、出演バンドとしての出番だけ。なんて贅沢な!

そういやあ、大河内を演じていたのは藤田まことだったんだよね。いやあ、見ている時は、この人見たことあるなあ、誰だっけ、ぐらいに思っていたから、後から確認してちょっと、ビックリした。
なんかイメージ違う!ていうか、私、この頃の彼の顔は、映画の中に何度も確認してるわあと(爆)。つまり私、今まで藤田まことと気付かずに見ていたのか……どがーん。
それにやっぱり晩年の(と言わなければいけないのが哀しい)藤田まことは、なんか人情派の(いや、はぐれ刑事は見てなかったけどさ)イメージもあったから、こんなしたたかな、マージャンだとウソついて女としっぽりやるようなそんな、どついてやりたくなるようなヤツを演じるっていう感覚が全然なかったんだよなあ……。
いやあ、私、ダメだね、ホント、テレビ的大衆的イメージに感化されちゃって。

大河内が公開捜査に踏み切ったことで、一時はホントの誘拐犯と思われちゃって危機一髪!てなところだったものの、黒潮組とライバル関係だった神風組が勇み足で、アンテナたちが“自首”したところに脅迫電話をかけてきちゃったもんだから、無事一件落着。
てかね、ミッコがこの神風組に誘拐されたくだりも、結構大変だったハズなんだけどなあ。見るからにユルユルな縛り方の縄(てーかあれ、縛ってもいないよな……)にそれこそ大人げなくゲンナリしちゃったのは事実かも……。

ミッコがアンテナたちへの感謝の気持ちを示すために、父親に提案して立派な何でも屋事務所を開設させるも、大河内の押し付けがましいスピーチに、そもそもここに立っていることに疑問を感じていた彼らは逃げ出してしまう。まあ、したたかなチョロは最後の最後まで抵抗していたけど(笑)。
んで、ラストは、男たちが逃げ出したのは海岸。彼らのサテンシャツの色に合わせた流木アート、その逃げ出した男たちを追いかけた三人娘が、今までになく、ひょっとしたら長さん自身の人生でも初めて複数の女性にキャイキャイ言われる(ゴメン!つい大失礼なこと言っちゃった!)場面で、嬉しげな長さん、悔しがって砂浜で子供のようにぐずるチョロ、という場面で終わる。
ご丁寧に大げさなクレーンショットまで用意して(爆爆)。いやあ、凄いなあ。

ひょっとして一番凄かったのは、メンバーたち、ことに一番若手の加藤茶が、絶対的権力を持つリーダーを、エロゴリラだの、顔だけじゃなく頭まで破壊されただの(これはヒドイ……)言いたい放題だったことかもしれない……。
ホントにもともと脚本に用意された台詞なの?とか疑っちゃうわ。

好みとしては、ほんっとに、この時から今までそのまんまの高木ブー、劇中でもブーちゃんと呼ばれる彼に、超癒される!
スリの腕前を得意としている彼なんだけど、実際スるのはしょーもないものばっかり。女の子の化粧品用具とかさ。
しかも自分じゃ得意そうにしているけれど、劇中でふと彼が手を出すシーンは、ぜんっぜん、ただ持って帰ろうか、てな具合に手を出す、つまりはブーちゃんだからスローモーション的でさ(爆)。いやー、なんともなんとも、癒されたなあ。★★★☆☆


トルソ
2009年 104分 日本 カラー
監督:山崎裕 脚本:山崎裕 佐藤有記
撮影:山崎裕 音楽:松本章
出演:渡辺真起子 安藤サクラ ARATA 蒼井そら 石橋蓮司 山口美也子

2010/7/13/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
30代、独身、一人暮らし。一人でいる時間が長くなって、その心地良さから抜け出せない。いや、抜け出す理由が見つからない。
このヒロイン、ヒロコには確かに判るなあと思う部分がいっぱいある。というか、その価値感に対する世間の目にこうして気づくと、そこから“抜け出す”ことへの視線をどうしても感じ、なぜこの生活がいけないのかなあ、とも正直、思いもする。

こういう女、というのはそれまでも映画の中に折々見かけ、そしてそれが不思議と、自分の年齢にやたらとリンクしている感じがしていた。 まあ、ヒロコに関しては彼女よりちょっと私の方が上だけど(……そういうのも、結構しんどくなってきてる)。
それは、自分が自分の年齢を気にして、そういう女が世間からどう見られているのかを気にしているから、そう感じるだけなのかもしれない、けれど。
でも、多分、こうした生活スタイルを持つ女性がある程度まとまって発生してて、彼女たちが初めてこうした年齢にさしかかる、いわゆるムーブメントなのだと思う。
これからもきっと、私は自分の年齢を追いかけるように彼女たちの生活を見守ることになるだろうと思う。そしてそれは、いつでも初めての世代だから、世間の目が気になる、のだ。

化粧もしない、携帯も持たない。家で一人で飲んでいるのが好き。携帯は最近猫のために持っちゃったけど(爆)、このヒロコには私もかなりの共通点がある。すいません、化粧もしません(爆)。
でも、ヒロコの職場みたいにフツーに女性社員たちが華やかにいる場所だと、ヒロコのノーメイクは目立つんだろうけれど、河岸じゃメイクしてない女性も別にフツーに多いんだもん。
私みたいにメンドくさいからしないってのと違って、ヒロコはもっと意識的にしていないことは明らかである。

だって化粧って、キレイに見せるためにあるんだもん。当たり前だけど。キレイに見せるためってことは、やっぱりそれって異性に対してでしょ、ていう一つの結論を決して否定出来ない。
だって、同じ女性同士なら、別に化粧していないから失礼だとか非常識だとかは思わないもんなあ……いやそれも、化粧も社会人の女としての常識、という世代に育った人たちにとっては、マア、とんでもない!というところなのかもしれんが……。
結構私たちの世代になると、私もそうだけど、そこまで女が社会に出て行くためには!みたいな、ウーマンリヴ的なギチギチってないような気がするんだよな……いや、私が単にそうした常識が届かない職場にいるからかな(爆)。

ヒロコのノーメイクが、そうした意味で意識的だと思われるのをしっかと裏付けるのが、彼女の華やかな同僚たちである。
登場するたびに合コンの打ち合わせしかしていないように見える彼女たちは、しかし不思議とイヤミもない。ヒロコに対して「メイクすればいいのに。キレイなんだから」と言う台詞さえもイヤミがなく(そうだよねー、キレイならメイクのしがいもあらあな(爆))、いつも断わられるんだからムダだと判ってるだろうに、毎回無邪気に彼女を誘うのも、イヤミがないんである。

……正直、この描写はちょっと優しすぎるなあ、と思う。まあ毎回合コンの打ち合わせしかしてない(あ、一回だけ、女がマンションを買う話題で盛り上がってたけど)彼女たちが、こんな、ワザとらしいまでに自分をガードしているヒロコと、同僚としての自然な仲の良さを保ち続けているのは逆に不自然に思えちゃう。

……いや、ヒロコが決して頑なだったりツンケンしている訳じゃなくて、つまりは皆と仕事場では仲良くやっているから、なのかもしれないけれども、こうした職場だったら、私ならそれなりに演技しちゃうな、などと思っちゃう。
それこそそれなりにはメイクし、それなりには付き合い、自分のコダワリをここまで目に見える形で貫くなんてことは、恐らく怖くて出来ない、と思う。
勿論これは、キャラとして判りやすい形の造形であり、彼女と正反対である妹のミナの登場によって、ヒロコの内面もあぶり出されてくるのだから、こんなこと殊更に言い募るべきではないのだろうが。

ミナの登場の前に。タイトルのトルソは、胴体だけの彫像という意味。ここでは、いわば女性向けのダッチワイフ(女性向けなのにワイフもないが)。
つまり、メッチャ合理的な“空気人形”なんである。ラブドールといえば、男性のためのそれしか頭に思い浮かばなかったから、この設定は衝撃だった。
しかも、それが手足だけでなく頭さえもないというんだから、更なる衝撃である。
トルソというのが美術用語としてちゃんと存在してて、ヒロコがどうやら芸術系の出身で、元々は被服デザインを志していたことを思えば、妹のミナから突っ込まれて「デッサン用よ」と言いつくろうのも筋は通ってなくもないのだが……。イザという時にはピンと男性器がハネ上がる、つまりはソレなんである。

実は、真正面から捕らえた画では、その“イザという時”は示されないんだよね。ふーふーと息を吹き込んで形をなすその空気人形は、見た目は本当に彫像がそのまま形になっている感じ。
でも、クローゼットの中からミナがそれを見つけて息を吹き込むと、バックショットからぴん、と局部が立ち上がった。彼女はそれを指で弾いて、含み笑いをもらした。
けれど、それをお姉ちゃんに言うことはなかったんだよね。何事もなかったようにそのままクローゼットに返したのだ。ちょっと、意外だった。

このミナは、ヒロコとは“タネ違いの妹”である。この台詞はミナ自身がアッケラカンと口にしたことだったけれど、ヒロコにとってはミナが想像する以上に嫌悪すること、というのは、後に明らかになる。
ミナもまた田舎からこの東京に上京して来て、撮影スタジオなんていう華やかなところで働いている。
グラビアモデルとして登場する蒼井そらが、楽屋でさらりと豊満なおっぱいとくびれたウエストを披露し、ミナならずとも観客も思わず釘づけになる。
ミナの企画がアッサリぶんどられたことをこの売れっ子モデルは知っていて、そんなの私は耐えられないナ、と言う。仕事も男も絶対取られたくない、と。ミナは曖昧な笑みをもらす。

ミナが付き合っているのが、この時カメラマンをやっていたジロウという男で、過去にヒロコと付き合っていた。
姉妹の話の中だけにしか出てこない(撮影スタジオでちらりと存在を示すぐらいで)この男は、その話の内容から“したい時にしか優しくしない、気にいらないことがあればすぐ殴る”という、つまりはサイテーな男である。
ミナはこの男の暴力に耐えかねて、ヒロコの元に身を寄せた。
にしては、相変わらずアッケラカンと姿を現わし、一人の生活を乱されるのをイヤがるヒロコもものともせず、あっという間に自分の化粧品やら小物やらで鏡台を占拠。
部屋中にロープを張り巡らせてピラピラと洗濯ものを吊り下げるありさまで、そうした“貧乏臭い”のが嫌いなヒロコを閉口させるんである。

もうひとつ、重要な物語が並行する。ヒロコとは血のつながらない父親が脳梗塞で倒れた後に、亡くなってしまう。
倒れてからも、ヒロコは一回も見舞いに行かなかった。そのことを、母親経由で進言しにきたミナの言うことも聞かず、そのまま父親は死んでしまう。
ヒロコは一応は葬式に行く用意をするものの、黒のストッキングは伝線しまくっててはけないし、喪服もなんか、黒い上下をあり合わせって感じだし。
しかもそのボタンが取れかけていることに気付いたヒロコは、夏の暑い日差しの中、街かどのベンチに腰掛けて、しばしまんじりとしてて。
そして次のカットでは、彼女のいつもの部屋で、いつも食べている氷あずきをダラダラと口にして、細くあけた窓からぼんやりとベランダを眺めているのだ。

後にヒロコがミナに伴われて実家に帰った時に、母親から叱責されるのは当然のことではあるんだけれど、その時に明らかになるのが、どうやらヒロコがこの新しい父親に、性的陵辱を受けていたこと。
いや、ひとこともハッキリとは言ってない。ヒロコは結局、父親に線香をあげることすらミナに代行を頼んだぐらいだし、わざわざ自分の実父、自分と母親を捨てて出て行った元の父親のことを母親に聞いたりした。
母親は、写真なんかある筈ない、あの人は私たちを捨てたんだから、と言い、亡き夫の、ミナの実父である新しい夫の面影を残すミナに、あからさまに愛情を示すんである。自分がこの夫とデートした時に来ていた浴衣を譲ったりさ。
この母親はいかにも男好きのする女で、ヒロコのようなタイプが最も毛嫌いするであろうことは想像に難くないにしても、なぜそこまで新しい父親を避け、見舞いどころか葬式さえも足を運ばなかったのか……。

ヒロコが母親に「私がどうしてあの人を、お父さんと呼ばなかったか知っている?」と聞いた。それはもう、即座に、知ってるでしょ、お母さん、という響きで、もうそれだけで、ヒロコと新しい父親の間に何があったのか、判った。
一応その前に、この新しい父親が女好きで、ミナはその血を引いているのよ、などという伏線めいたくだりはあったけれども、そんなの、必要なかった。必要ないほどに、さすが渡辺真起子の一言の響きは、完璧だったのだ。

それが明るみにでると、ヒロコが手足も頭さえもないトルソを愛しているのが理屈ではなく本能的に判ってしまって、逆につらくなってしまう。
彼女は“彼”とベッドで愛し合うのみならず、風呂も一緒に入って丁寧に洗い、、休日にはレンタカーを借りて、“彼”と海辺へとドライブにさえ出かけるんである。
レンタカー屋の、彼女にやたらアクセルの位置やらナビやらを顔を窓から突っ込んで教えたがる石橋蓮司は確かにちょっとキモいが、“そんなこと”にまるで犯罪者のごとく過剰に反応するヒロコはやはり、異性に対するトラウマなのか。しかしこれこそちょっと、過剰な描写のような気がするけれど、次のシーンも合わせてどこか……ギャグ的な要素をこめているのかもしれない。

季節外れなのか穴場なのか、奇跡的に誰もいない海辺で、会社や家族に対しては決して見せないであろう大胆なビキニ姿で、トルソ君とともに波間にたわむれる。
次第にテンションがあがって、そのビキニさえも脱ぎ捨て、どうしても浮き上がってしまう“彼”をかき抱いて泳ぐ彼女は、ていうか、その画自体が、彼女の孤独を差し引いたって、やはり思わず笑ってしまう画に他ならない。
いや……彼女は孤独などではないと、私が頑なに思っているからなのか。
彼女に父親のトラウマから、そして付き合った男が同じようにクズだったことから、異性に対して壁を作っているという設定があったり、結局最後にはその壁を自分から破って、メイクをして合コンに出かけることが、彼女の、そして女のあるべき姿だと示していることに対して、ついつい、……やっぱそういうとこに押し込めちゃうのかよ、と思わずにいられないから、だろうな……。

そういう、自分の事情はさておけば、ヒロコが、自分を力で押さえつける手足は勿論、男の顔さえも見たくないと、トルソ君を偏愛する構図は、確かにひどく、映画的である。
ダッチワイフにさえ安っぽい顔をつけて、女が気持ちよがる(それは、おおむね幻想なんだけどね)様を見たいと願う男性とは真逆である。
実際、女性向けにダッチワイフならぬダッチ夫?がない(なくはないんだろうが)のは、結局は女が自分勝手で、自分さえ気持ちよければいいと(!)思ってるからかもしれない……などと、ヤバいことを思ったりする。
んで、更に言えば、真に気持ちよくしてくれる男がなかなかいないから(!!)、余計に偶像の顔さえもいらない、と(……なんか、怒られそう。でも女は基本受け身であるから、不満も抱えやすいと思うんだよなあ)。

ミナがこのトルソを見つけて(その前にお姉ちゃんが慌てて隠していたのは見ていたけれど、その“機能”を知ったのは、この時)、思わず微笑をもらしつつも、それをお姉ちゃんに突きつけてからかったりしなかったのはちょっと意外だったけれど……。
でも、正反対に見えてこの姉妹は、やっぱり姉妹だから、どこかに似ているところもあるからかな、と思った。どこと言われると困るぐらい正反対なんだけれど……。

大体、ミナは恐らく、一人でいるのが苦手なんだよね。だから、男から別れたら、決して上手くいっている訳ではないお姉ちゃんの元にもするりと居候しちゃう。
ミナに関しては単なる性格だと思いつつも、ついついヒロコに自分の世代としての女を見てしまう私としては、この甘え上手で人肌恋しい妹が、そんな世渡り上手な“世代”にも見えてしまう。

ヒロコは、ミナにあの忌まわしき新しい父親の影を見るせいだと思うんだけれど、基本この無邪気で人なつっこい妹に冷たいんだよね。それは、職場では、あれだけ自分のスタイルを貫きながらもそれなりに同僚たちと仲良くやっているヒロコにしては随分と理性を失っているなあ、と思うのよね。
でもね、ケンツクやっているばかりじゃないんだよね。ミナがお姉ちゃんが作ったごはんが美味しいと言えば笑顔を見せ、ミナが母親に彼氏用の弁当を作らせた思い出話なんぞで盛り上がるし、ヒロコが花火を買ってきたのだって、ミナがいるから、だよね?
いや、ヒロコなら一人でベランダで花火もしそうだけど、でもやっぱりこの時は、帰った途端にミナの所在を気にしていたし、絶対、そうだろうなあ。

いろいろぐだぐだ言っちゃったけど、この姉妹の、仲がいいとか悪いとか、相性がいいとか悪いとか、そんなんじゃ説明がし尽くせない、どうしようもなく姉妹、例え半分だけでも血がつながっている姉妹、いや、仮に全くつながってなくったって、姉妹として育った姉妹の、どうしようも縁の切りようがなく、仲悪いとか仲いいとか超越した絆っていうのが、いや、もう突き詰めちゃえば仲いいんだけど、この二人はさ、でもなんか、それがさ、グッときたんだよなあ。
ミナはジロウの子供を身籠っちゃってて、なんであんな男紹介したのよ、とヒロコにやつ当たりをするもんだから、姉妹の仲は一時険悪になる。

でもね、ミナが田舎に帰って子供を産み、女一人生きていくことを決心した時、ヒロコは、ずっと会わずにいたジロウにひとこと意見しに行こうという行動に出るんだよね。
いや正直、この時ジロウのマンションで留守番をしていた、浮気相手というほどでもない遊び相手の一人であろう、あの撮影スタジオでモデルを務めていた蒼井そらが、自分のしたいことがあるなら、堕ろすでしょ。私ならそうする。そういうもんでしょ、ってさ。そんな風にわざわざ言わせなくても、そんなシーンをわざわざ用意しなくても、そんなこと、判ってるよって。
人道的にはどうよと言われても、それが結局は女の足かせになること、そういう選択肢がなければ、女が不利なのは永遠に変わらないじゃんって。

でも……結局は非人道的で、その場合責められるのは女ばかりなのは変わらないのは……どんなにカビくさい価値感だと言われたって、そうなんだから仕方ない、んだよなあ……。
こればかりはどうしても仕方ないことが悔しいけど、ちょっと誇らしいとも思ってしまう自分が、悔しい。
いや、自分は女としてそれを支持することしか出来なくて、自分自身はそんな一歩は踏み出せないけれどもさ。

だから、私はやっぱり、いつまでたっても、まだヒロコのまんまなんである。
ただ、ヒロコもまた一歩を踏み出す。その前に行きつけのバーで知り合った男性と成り行きで一夜を共にし……かけるなんてことはあるけれど、そもそもそんなことは家飲みが日常の女にはありえない。
おかしいじゃんー。ヒロコだって自分ちでつまみを作って(これさえ私はやらんが(爆))一人で飲むのが日常の筈なのに、“行きつけのバー”があるなんて、反則だよ!ないわ!こんな日常を送ってる女にそんなもん(いや……自分だけを基準にしてはいけない(爆))。
まあそれはおいとくとしても(爆爆)、ラストでヒロコはいつもは断わっていた合コンに参加するべく、初めて鏡の前で入念に口紅を塗るんである。
いやー……正直、ここまで同僚がよくぞ辛抱強く誘い続けたと思うが(爆)、それは言うべきではないだろうか??

百戦錬磨の渡辺真起子とがっぷり組む安藤サクラは、まるで彼女と同じぐらいのキャリアがあるぐらいの貫禄。
いやあでも……渡辺真起子はやっぱり女優としてのキモの座り方が違う。彼女のハダカの生々しさに、ドキリとしちゃった。
トルソ相手っていうのがまずすんごい……その画自体、女としては見ててもツライしさ。
それに、彼女ほどのスレンダーで美しい体型を保っている女優さんでも、この年なりにおっぱいは引力を失い、お腹が出てなくても、ビキニパンツの上にほんのちょっとでもたるみが乗っかってたり、ほんのちょっとどころでない、万年キューピーちゃんの私が見ても、ああ、すげえ!と思っちゃうもんなあ……。

なんか、この作品のウリである、光をたっぷりはらんだ美しく繊細な映像のことを、すっかり取りこぼしちゃったけど(爆)。でもそんなことウリにしなくても、充分、女の、姉妹の、生々しさを感じた。★★★☆☆


トロッコ
2009年 116分 日本 カラー
監督:川口浩史 脚本:川口浩史 ホアン・シーミン
撮影:リー・ピンビン 音楽:川井郁子
出演:尾野真千子 原田賢人 大前喬一 ホン・リウ メイ・ファン チャン・ハン ワン・ファン ブライアン・チャン テン・ボーレン

2010/6/3/木 劇場(シネスイッチ銀座)
最初に“芥川龍之介の「トロッコ」が原作”という話があったので、えー?そんな話だったっけ?と思わず読み直してしまった。
そんな話……と言い切るのには、これを“原作”と言ってしまうのはちょっとランボーに過ぎるような気もするのだが、まあ、原作、とまでは言ってなかったかなあ。モチーフ、ぐらいに言っていたかもしれない。
芥川の「トロッコ」は、それまでは恐れを知らぬ少年だったのが、心ワクワクする冒険だった筈が未知の世界の恐ろしさに身をすくませ、泣き叫びながら家路につき、そしてそれこそが確かに冒険だったのだとくたびれた大人になって思うという物語。

その、トロッコに乗っての冒険の部分のみが芥川の「トロッコ」であり、まさにその、少年の豊かな心情の瑞々しい揺れ動きが見事な短篇であるのだけれど、言ってしまえばそこの部分だけ、なんだよね。
本作はそれを、父親のふるさとである台湾を訪れ、自らのルーツや母親に疎まれてるかもしれないという思いや、そして子供の自分にはどうすることも出来ないという歯がゆさや、そして子供の自分にはまだまだ判らない、日本が抑圧していた台湾の歴史や……などという実に壮大な物語に“改変”されているのだよね。ちょっと、驚いてしまった。

それだけに、この作品は見る人やその立場によってそのありようが大きく変化する。日本統治下の台湾の記憶が残る老人たちの述懐は本作の中で非常に大きな存在感を占めていて、問題としても少年の成長譚に比べれば(などと言ってしまったら良くないのかもしれないが)とてつもなく大きくて、そこにとらわれてしまえば、日本の戦争責任の話だけに終始してしまう恐れもある。
いや、それもある意味では正しい見方なのかもしれないと思うのは、私なんかはホントその点典型的な無知な日本人でさ、台湾の日本統治下時代のことなんて、何一つ知らないんだもの。

ニュースなんかでちらり、ちらりと、日本兵に加わって戦ったそうした植民地の人たちの戦後補償の話などを聞いて、へえー、そうなんだ、と思うぐらいの無知。それこそ、へえー、そうなんだ、などと軽く受け流していてはいけないんだけれど、正直なところ、こんな歴史を習った覚えがなく(今の子はどうなんだろう……)これこそが、自国の視点によって歴史が大きく変わって見える、つまりは主観的なだけの歴史認識なのだとしみじみ思う。
隠蔽意識というよりも、もはや自分たちには関係ないのだというような希薄な意識。
命より大事と言ってもいいその土地の文化やアイデンティティを頭ごなしに否定して、日本語を話して日本人になるなら優遇してやる、と奨励したのに、戦争に負けたらそんなことあったっけ?てなぐらいにアッサリ捨て去ってしまう。
しかもそんなことがあったことを、戦後の子供たちである私たちは知らないのだ。

……ていう具合にね、この問題はあまりに重いから、そこにとらわれてしまうと、本当にこれが“トロッコ”ではなくなってしまうんだよね。
でも、もうひとつだけ。私ね、そうした日本統治下に置かれて、日本名まで名乗らせてムリヤリ日本人になれと言われ(なれる訳ないのに!!)、そして捨て去られたというのに、その老人たちが、ただまっすぐに日本を、日本人を憎んでいるんじゃなくて、どこか日本語や日本名に誇りを持っていて、日本語も忘れてなくて、でもやっぱり捨てられたことは恨んでて……っていうのが、凄く、意外だったのだ。
いや、これは日本で作られた映画だから、それが百パーセント彼らの気持ちかなんてことは判らないけれど、でも、こうした問題を持ち込むのなら相当リサーチはしただろうしさ……。
なんかね、韓国とかだと、彼らは感情も議論もストレートだから、とても判りやすいんだよね。でも台湾ってさ……なんか、日本から見た台湾って、今やちょっとお手軽なグルメと癒しの観光地ぐらいのノリでさ、こんな複雑な感情が渦巻いているなんて、台湾に観光旅行に行く日本人たちの、どれほどが知っているんだろうか?などと思ってしまう。
……ああ……そんなことを言い出してしまうと、ほおんと、この問題だけで終始してしまうのだが。

しかし、芥川の「トロッコ」からよくぞまあ、台湾まで行き着いたと思う。キッカケはなんだったんだろうか。それこそ、日本軍が当地に引いたトロッコだろうか。
おじいさんは言う。「日本人の仕事はキッチリしてた」と。そんな厳しい時代でも、きっちりとトロッコの線路をひいて、それが今でも使われている。
お兄ちゃんの敦が父親から託された古い写真は、そのお父さんのお父さん、つまり日本統治下で“日本人となった”おじいちゃんがトロッコと一緒に映っていたものだった。
母親の夕美子は「モウシンさんかと思ってた」とつぶやく。モウシンさんというのは、彼女の夫で、彼女と二人の男の子を残して死んでしまった。
今、彼女は息子二人と共に、彼の遺骨をふるさとに届けにきたのだった。

最終的にはね、見事にあの「トロッコ」の場面、男の子の心情が溢れ出す場面がクライマックスに盛り上がり、まさにまさに、「トロッコ」になるんだけれど、それまでは、息子たち(ことに、長男の敦)というより、母親の夕美子の物語なんだよね。
亡くなった夫は回想などで出てくることもないし、ストイックなまでに、ただ名前と思い出話だけで、しかも彼ら夫婦と息子たちの関係性がどうだったのかも……彼女は多忙な旅行ライターで、息子たちとの関係はなんとなくぎこちないから……ちょっと判然としないんだよね。
彼女の口からも「モウシンさんがいなくなって、どう子供たちに接したらいいのか」と弱音めいた台詞が吐かれるし、しまいには、そもそもこの台湾の地に来たのは、ひょっとしたら義両親か義兄夫婦に子供たちを預かってもらえるかもという気持ちがあったのかもしれない、という気分ももたらす。
それを長男の敦は敏感に悟っていたのかもしれない、と。だから義母は「あなたはとても頑張っているけれども、敦にしわよせがいっているように見える」と一発で見抜いてしまうんだもの。

この夕美子を演じているのが尾野真千子。オノマチちゃんの最近のカンロクっぷりにはただただ驚くばかりなんである。大体が、二児のキャリアウーマンなんていうのを、風貌はそのままのナチュラルさでさらりと演じちゃうあたりがステキである。
しかも夫が台湾人ということで、なにげにそれなりに中国語も操る。本作はおじいちゃん(だけでなく、同じ年頃の老人たちが、何人も日本語を喋るんだよね……)が日本統治下で“日本人にされた”という過去が出てくることもあって、日本語と中国語がチャンポンでやり取りされる。
チャンポンでもお互いしっかり通じている、その時言いたい言葉や表現によって、しっくり来る言語を選んで使っている感じが、凄くリアルなんだよね。
そして、中国語をさらりと喋るオノマチちゃんはとてもステキで、そしてそんな彼女を夫の弟が「義姉さんの中国語は兄さんの喋り方に似ている」としみじみつぶやいたりする。

この弟夫婦っていうのが、また現代の台湾をなんとも象徴しているというか。いや、現代の台湾てのさえ私は判ってないし、単に現代の都会の若い夫婦を象徴している、と思ったのかもしれない。
大都会、台北に暮らす彼らは割ともうミドルエイジの夫婦……30はこしていると思われるんだけれど、子供はいない。
女一人で二人の息子を抱える夕美子に同情して、彼女の子供たちを夫が引き取ろうとしているんじゃないかと危惧する弟の嫁は「そりゃあ、夕美子さんは旅行ライターで忙しいわよ。じゃあ、私はヒマだからいいっていうの」と夫にくってかかる。
……むしろ、私はこの弟の嫁の立場と気持ちが判っちゃうから、ツラいんだよなあ……。一方で夕美子の方は「同じ年頃で子供のいない人をうらやましいと思ってしまうんです」と禁断の胸のうちを義母に吐露する。
特にこんな状況に至っては無理からぬことなのかもしれない。しかも亡き夫は台湾人、同じ日本の地で頼れる親戚がいないのも、彼女にとっては相当キツかったのだろうし……。

でも結局は、海を隔てていようがいまいが、関係ないんだよな。疎遠になる人は疎遠になるしさ……。
ていうかね、子供の方こそが、そうなの。ようやく本題に入ってきたけれども、それこそ中国語なんて喋れもしない、きっと、父親のルーツなんて聞くこともなく死んでしまって、今最も戸惑っているのは彼らであろうという、この頑是無い息子二人なんである。
お父さんの遺骨をふるさとに届けるという名目でありながらも、ひょっとしたらここに置いていかれるのかもしれない、という危惧を、二つ下の弟よりはちょっと大人の思惑が透けて見えてしまう長男の敦は抱えてしまう。
でも、「日本に、憧れていた。このトロッコが日本に通じていると思っていた」というおじいちゃんの言葉を断片的に頭にこびりつかせてしまって、置き去りにされたくない、日本に帰りたい、このトロッコに乗れば、日本に帰れる、と頑なに信じ込んでしまうあたりはやはり子供であり、そして……なんとも痛ましく、ぎゅっと抱きしめてあげたくてたまらないのだ。

私はさ、妹だからさ、まあ下の立場のキビしさ、みたいなのを判っているつもりでいてさ、いやあ、下って結構タイヘンなのよ、などと言っていたりしてたんだけどさ。
これを見ると、確かにお兄ちゃんなりお姉ちゃんなりの立場の子が「泣けばいいと思って」という気持ちが切実に判っちゃってさあ……ちなみにこの台詞は、幼き頃、私がねーちゃんに言われたのだ(爆)。
決して決して、そんな打算的な気持ちで泣いてた訳じゃないのよ!!!と思っても、この、トロッコ、まさにトロッコの場面を見てしまったら、そう言われても仕方ない気がしちゃう。

お母さんの夕美子はね、決して敦に殊更に辛く当たっていた訳じゃないと思うのよ。ただ、確かにこう見ると、下はラクな立場なのかもしれない。少なくとも“下を世話することと、それによる上への気配り”は必要ないんだもの。
ことにこの弟はほおんとに天真爛漫でさ、もうお兄ちゃん、お兄ちゃんで、トロッコで遠くまで来てしまった時も、トロッコに乗せてくれた村の青年が送ろうとしていてくれたのに早く帰りたい気持ちでせいて、あっという間にきびすを返して駆け出してしまってさ。
そして案の定、あっという間に不安と恐怖で泣き出して、そうなるとお兄ちゃんは泣く訳にはいかなくて、もう、もう、あまりにもあまりにも、ケナゲに弟の手をひくのよ。
サンダルの鼻緒が壊れた弟のために、自分のそれを差し出して、自分は裸足で歩くのよ。不安と恐怖で泣きたいのはお兄ちゃんだって同じの筈なのに、こらえてこらえて、歯を食いしばって、うるさいぐらいに泣き叫び続ける弟の手を強引に引っ張って線路を歩き続けるのよおぉ(涙)。

それまでのシークエンスが長くて重かっただけに、これは「トロッコ」じゃねえだろ、と思いかけていたのは事実だったんだけど、でも凄い、見事に「トロッコ」だったよ。
緑がうっそうと茂る森の中、乳のような白い霧が立ち込める。その幻想的な魅惑は例えようもない。
しかし、ここは戦時中、日本の靖国神社やらにタイワンヒノキを差し出すために乱伐採を繰り返された場所で、森は死にかけている。
日本に裏切られた老人の一人が、故郷の森を守ろうと身銭を切って苗木を植えている。その孫が、森が死にかけていたために土砂崩れが起きて両親を亡くし、このおじいちゃんに育てられてさ、日本語もだから、カタコトに出来たりしてね。日本の大学で林業を学んで、故郷の森をよみがえらせたいと願っているんである。
……なんて、なんて……複雑で、ひとことでは言いようがなくて、恨まれて、憎まれて、仕方ないのに、それでも今は力になれてるのかな、とか……でもそもそもそんな事態にさせたのは日本なんだよな、とか……そう、結局ここに戻ってきちゃう。

でも、この弟君が早く帰りたいばっかりに走り出したもんだから、「トロッコ」が始まったのだ。ようやく。芥川の「トロッコ」は、まさにこの弟君の立場だった。
涙を振り絞って走り続けて、家に飛び込んで、母親の腕の中で身もだえして号泣した。子供の権利を目一杯使った。
でも、敦はそんな“子供”につきそった“お兄ちゃん”だったんだもの。うるさいぐらいに泣き喚く弟の手を引く敦に、覚えず目頭が熱くなる。
だってさ、このシークエンスは実に実に丁寧に綴ってくんだもの。弟の号泣もリアルで、どうやって泣かせたのと感心するぐらい。
そしてようやく家につくと、うわあ!とお母さんの胸に飛び込んでしまう弟に、そりゃあ、観客だってイラッとくるわよ。

でもこの経過を見てないと、お母さんは「どこ行ってたの!敦!あんたがついていながら!」とお兄ちゃんを怒っちゃうんだよね……経過を見てないといえど、ほおんとこれって、ああ、お兄ちゃんお姉ちゃんを、こういう観点で簡単に怒っちゃいけないなあ、と、切実に思っちゃった。
だってだって、敦は、敦こそが、もう全身全霊頑張ってたのに!弟はお兄ちゃんに手を引かれて、歩けないよー!と何度もダダをこねて、グズグズしていただけなのに。
……なあんて言うとさ……さっき、私は下の気持ちの方が判るとか言っていたのにアレなんだけど(爆)、でも私がこの場面にいたら、こんな罪なほどに無邪気にお兄ちゃんに丸投げなんて、怖くて出来ないもん(爆爆)。

しかし、つまり、この時点で夕美子も親として成長するんである。いつものように叱りつけた敦から、思いがけない反論をもらう。
「お母さん、僕のこと、いらない?必要じゃない?」こんな言葉さえ、涙をこらえて言うお兄ちゃんに、夕美子ならずとも涙がこぼれてしまう。
あのね、彼はね、お目めぱっちりの弟と比べて、非常に庶民的な顔立ちなのよね。ちょっと離れた一重目に、ちんまりと広がったお鼻も子供らしく可愛くってさ。
登場シーンではなんか、理由なき反抗チックに長髪をなびかせてたりして、その子供らしい風貌が隠れて意味なくナマイキそうに見えたりするんだけど、子供らしい短い髪にすると、ほおんと、子供らしく見えるのが、なんか、いじらしくてさあ。

だから、ようやくお母さんに今までの不安をぶつけたこのシーンに、グッとくるんだよなあ。そんなお兄ちゃんの姿なんか見たことなかったから、お母さんに抱き締められるお兄ちゃんをビックリして眺めている弟の棒立ちの姿もカワイイんだよね。
そう、お母さん「そんなことない、そんなことある筈ないでしょ」と初めてお兄ちゃんの苦しい心情に気づいてきつく抱きしめて、お兄ちゃんは抱き締められ慣れしてないから、腕をぶらんとしたまま抱き締められて、でもようやく声をあげて泣くのがもうもう、いじらしくてさ……。

結局ね、重い記憶を挟み込みながらも、子供の思いは時代を超えて見事に共振して、確かに芥川の、あの心臓の鼓動が聞こえそうな、みずみずしい少年時代へとつながっていくんだものなあ!

それにしても、オノマチちゃんは、デビュー作といい、凄い存在感を示した「殯の森」といい、何とも森の神聖さが似合う女優だこと!
今回は息子たちにその深遠を感じさせるのを任せたとはいえさあ!森ガールなんてなまっちろいものとは雲泥の差があるのさあ!(関係ないか……) ★★★☆☆


泥の惑星
2010年 53分 日本 カラー
監督:井土紀州 脚本:天願大介
撮影:高橋和博 音楽:平山準人
出演:千葉美紅 上川原睦 小林歩祐樹 折原拓也 矢崎初音 小山利英 岩沢秀平 金井俊太郎 勝呂洋平 九十九紘夢 松下仁美 高橋篤弘 杉山真司 井上千裕 佐藤未来 五十嵐彩佳 加瀬愼一

2010/12/7/木 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
そう、もう井土紀州という名前はねえ、私にとって、とっさに、反射的に避けてしまう程、もうほとんどトラウマのような監督さんなんである。
まだこのサイトを始める前、随分と昔、一本だけ観た彼の作品の、あまりの難解さに頭を抱え、しかしその作品は玄人筋には激賞されているもんだから、これが判らない私はやはりバカなのかと奈落の底に突き落とされ……。
今から思えば、“玄人受けする映画”に対してどこかアレルギーがあるのは、この時の痛手が大きかったからかもしれないとさえ思うのは、ちょっと大げさだろうか……。
それ以来、井土監督の作品を観られる機会はいくらでもあったと思うんだけど、もうね、本能的に避けてた気がする(爆)。無意識に視線を素通りさせてしまうというか(爆爆)。

で、そういやあ、その、昔一本だけ観た映画ってなんだったかなあ、と今更ながらに調べて、それが彼の劇場公開デビュー作にして代表作の「百年の絶唱」であったことが“発覚”したんであった。それぐらい、頭から追いやっていた自分の、異常なまでの拒否反応に我ながらやり過ぎだよ、と思ってしまうぐらい……。
でも、そうかあ、「百年の絶唱」つまりそれを、公開時に観てるんだ。しかも場所はあの、インディーズの匂いがプンプンしていた、今は無き伝説の中野武蔵野ホール。思い出がいっぱいつまっている劇場。

しかも、その昔のメモをひっくり返してみると、その時監督が舞台挨拶にも来ていて、私は今回、上映後のトークに来ていた監督を見るのは初めてだと思っていたのに、実に12年前、見ていたんだね……なんとも感慨深い。
しかも「主人公の男にどことなく似ている薄汚れた風貌」とか書いてる(汗)。私、最低(大汗)。
今回目にした監督さんは、私があんなにトラウマを抱えた作品を撮ったとは信じられないぐらい、実にフツーで、こざっぱりしていて、多分、12年前は実際に、今よりずっととんがっていたんじゃないかなあ、などと勝手に妄想したりするんである。

それ以来監督作品は観てなかったけど、脚本作品には折々接していて、そうだ……ピンク映画のクレジットでよく彼の名前を見ていて、その度に過去のトラウマがよみがえってビビッていたような(爆)。しかし観た作品も内容も頭の中から追い払って、全然忘れていたくせに(爆爆)。
んでもって、あの作品って、大好きな佐野和宏氏や葉月螢嬢が出ていて、おそらくそれが足を運んだ理由だと思われるんだけど、ホンットに、覚えてないんだよなあ……。

で、ちょっと話が脱線したけど、そうそう、脚本作品には折々接してて、その印象からも、そして監督作品を観てはいなかったけれど、どうしても聞こえてくる評で(この言い方が、トラウマ過ぎるだろ(爆))、彼がずっとずっと、「百年の絶唱」から変わらぬ自己の世界観を貫いていることを知ってはいたのだった。
で、なんで本作に足を運んだかというと……なんか、さすがにここまでトラウマをひきずると逆に気になっちゃったというか(爆)、きっと、新作を発表すれば、またまた玄人筋は絶賛するんだろうし、観てないことでその論が判らないのも悔しいし(恥)、12年経って、つまりひとまわりして、足を運ぶ気になったんであった。

すげー、前置き長い(汗)。でね、本作は……そんな具合にあまりにも身構えていたので、なんか肩透かしを食らったというか、膝カックンのような、私のあの強烈な思い込みはなんだったの?ていう気持ちがしてしまったのだった。
それもその筈、本作はいわゆる井土ワールドではないことが、もう最初から明らかである上で製作されたものなのだというのだから。
日本映画学校の卒業制作として、いわゆるゲスト監督として呼ばれたのが彼であり、つまり全て用意されたところに、井土監督だけが外部の人間として入り込んで、最初から最後まで戸惑いながら撮ったのだと言う。

と、いうことを知ったのは、たまたまこの日、上映後のトークショーがあったからなんだけど……。
私は正直、トークの前に帰ってしまおうと思ってたんだよね。私は意志が弱いから、作品に対する他人の話を聞いてしまうと……しかもそれが当人だったり玄人さんだったりすると余計に、もう思いっきり影響されて、傾いて、あたかも自分の意見のように書いてしまうことがすんごく怖いからさ……。
でも、ああいう場面で退席するのって、難しいね。もう、作品が終わった時にパッと出てしまわないと、トークが始まってしまうと、客席がシンとしているもんだから余計に出て行きにくい(爆)。なもんで、結局最後まで聞いてしまったのだが。

“自分で企画したんではない作品”“気乗りしない作品”ということを、忌憚なく話す井土監督にこそ興味津々というか、そういう立場に置かれた監督、という姿が実に面白いなあ、と思った。
一方で、後の二人……ていうか、特に一人が、もう思いっきり激賞してて、まさに12年前に私が引きまくってしまったあの様を呈していて、ああやっぱり私はダメだなとは思ったんだけど……。

ていうのも、やっぱりね、その激賞しているポイントっていうのが、これまでの井土ワールドではない、そこを脱したことへの感動、てところが大きいみたいでね、その点は、判らないじゃない。
ここに集っていた観客は、映画学校関連の身内も多そうな雰囲気だったし、実際、自分は監督の作品を観るのは初めてだ、と前置きして質問していた観客もいたしさ。
それって、やっぱり戸惑っちゃうよね……ここに来るには、井土監督ワールドが前提でなければいけないのか、なんて思ってさ……。

ただ、何より一番戸惑っていたのが監督自身であり、自分がこんなにも気乗りしてないのに、人の脚本で撮った作品に、そんなに絶賛されてもどうリアクションしていいのか……みたいな雰囲気だったのが、何かホッとさせるというか……。
いや、実際私自身はやっぱりバカだから、本作に対してもそんなに絶賛されても良く判らないというのが正直なところだし(爆)それが井土作品をフォローして来なかったせいだと言われたらもう一言もないんだけど。
でも、どんな作品でも、一作品として対峙したい、とは思うんだよなあ。

井土作品を観ないままここまで来てしまった理由には、彼が商業映画に来なかったことも一つの理由かもしれない。
どんなにファーストインプレッションで苦手と思っても、商業映画を撮ったりすると、ミーハーな私は好きな役者さんとかを観たさに足を運んだりする。そしてやっぱりガッカリしたりもするんだけど(爆)。実に彼は、それがなくここまで来たんだよね。
話を聞いていると、脚本を手がけ、監督もする井土監督のスタンス、スタンスというか、彼の衝動の中には、商業映画への欲どころか、この役者さんを使ってみたい、とかいう時点で、既にないような気がする。ただ、自分の世界を表現する衝動があるだけ。あまりにもピュアなそれがあるだけ。
本作に関しても、若い人を演出することに関して、その意外性にトークに来ていた二人の監督さんと脚本家さんは驚いていたけれど、本人は淡々としていたのが印象的だった。

で、もう全然内容に入っていけない(泣)。そう、これは青春モノ。農業高校に通う若者たちの物語なんである。
もう、ここまでで力尽きて、内容はさらりと流してしまうかもしれない、私(爆)。
ま、頑張って行きましょう(汗)。脚本は、父親の跡をついで日本映画学校に携わっている天願大介氏。本作がどこまで脚本に忠実であるのかは判らないけど(トークでちょっとはネタ明かししてくれたけど)、「世界で一番美しい夜」で片鱗を見せた、どこか哲学的な論理と人間の本能が、青臭さ真っ只中の高校生たちにまっすぐに投げられて、時折りこちらが身じろぎしてしまう程に純粋である。
しかも農業高校というのがミソで、ヒロインの女の子は、植え替えても土を入れ替えても枯れてしまう苗に、地球の終焉を見て厭世的につぶやくんである。
「人間が地球を破壊した。農業は地球を破壊する行為だ、人間が絶滅すれば、この地球は楽園になるんだ」と。

このヒロイン、アキが、転入生であり、そしてたった一人で天文部を作ったというのも、まるで“時をかける少女”みたいな、異星人的な雰囲気を思わせる。
大体、農業高校に転入ということ自体が異質だ。単なる親の転勤とかだったら、普通高校に行きそうだもの。
そして、まるで未来を予測しているみたいに、地球の終焉を言いたがるのも。そんな彼女だから、同級生の女子からは嫌われていたりするんである。

しかし、主人公は男の子である。ていうか、男の子数人で群れている、未来への希望もなく漠然と生きている男の子たちである。
将来何になりたい?と聞かれても答えられず、しかし一方で、ラジオでハガキを読まれることに夢中になっている友人が、東京に出てお笑い専門学校に入って放送作家になる、という夢を話すと、マジかよ、ムリじゃねえの、みたいな、そんな現実感だけはアリアリなんである。

そんな彼らの、というか、ハルキの前を、アキが通り過ぎるんである。それでなくても女子が少ない、というか、彼らが言うには“可愛い女子が少ない”農業学校で、泥にはまってレンコンを掘り続けるばかりの日々に、もうこのまま、童貞のままなのかとゼツボーしながらの学校生活だった。
グループの中からは、吹奏楽部のサックスを孤高に吹き鳴らす女の子に告白して見事成功し、イチ抜けた男の子もいたけれど、大半はそのままモンモンとしている。
アキに目をつけたハルキに、あいつはお前と違って頭もいいし、やめとけよ、と言う仲間たちを尻目に、ハルキは思い切って声をかける。

もう一人、アキに興味を示す男子がいるんだよね。このグループの中にはいない、ミスター留年と言われている、一体何歳年上か判らない青年。
子供の頃アメリカに住んでいたことがあるという彼は、今年は留学するから、と意気揚揚と言い、つまりは英語だけは完璧なんである。その他が壊滅だから、ミスター留年なんだけど。
シアトルに住んでいたという彼にハルキが、「知ってる。マリナーズのイチロー」と言うと、苦虫を噛み潰したようにミスターは言う。「イチローはキライだ。才能を自覚しているヤツなんて、イヤなヤツに決まってる」

そして、駅前で雨の中延々とヘタな歌をループしている三人組に「すがすがしい!才能がないというのは実にすがすがしい!」と言い放って、三人の仲を分裂させてしまうのにはアゼンとしてしまう。
確かに明らかに才能はないが……明らかに、ってあたりが、ものすごーくワザとな雰囲気もあって、どこまでマジになっていいのか判り辛いところなんだよな。ただ、彼らが持っているのが「私たち、引きこもりでした」というダンボール板だというのがあまりにも笑えないと言うか(爆)。

理解も共感もいらないって言ったじゃない!ととりなす女の子に、本当はそれこそが欲しかったんだ、誰かに判ってもらいたかったんだと泣き崩れる青年。
そして、その青年を良くぞ言った!と抱き締めるミスター。お前が言うな!て感じで、なんともシュールな場面なんである。
しかもミスターはこの後、一体彼はどう追いつめられたのか判らないけれど、学校の屋上から飛び降り自殺してしまうし……。
しかし、彼がこの時屋上の床に殴り書きした言葉こそが、この映画のテーマとなるんだよね。「星座をぶっ壊せ。星と星の間に線を引いて星座を作れ」と。

無論この言葉は、厭世的なヒロイン、アキに向けられたものなのは言うまでもない。実際、ミスターは割と本気でアキが好きだったのかもしれない。
「ライ麦畑で捕まえて」を肌身離さず持っていたミスターは、青春の苦悩を体現した存在だったのかもしれない。そして何に絶望したのか、その本を焼き捨てて、自ら天に召されてしまう。

アキは、テストを白紙で提出して、先生に呼び出されたりしている。「世間をなめちゃダメよ」と若い女性教師がアキを言葉きつく叱るものの、アキはダンマリを決め込むばかりなんである。
「反抗するのもアリかもね」と女性教師はどこかしたり顔で言って、その場を後にする。アキは自分が提出した白紙の答案用紙をビリビリに破り捨てる……。

この女性教師の、彼女こそが若すぎるゆえに、それでも自分の方が大人で、しかも教師なんだからというつっぱり加減も痛々しいが、地球を破壊しているのは人間なんだ、という純粋すぎる厭世観から、純粋すぎる自己嫌悪、自己否定に陥っているアキが示せるのが、白紙の答案用紙提出、ということであるのも、青春の痛々しさに他ならない。
物語の最後、「本で得た知識を言っているだけ。私、変わりたいの!」とハルキにぶつかるのもひどく青臭いが、実際、これぐらいの純粋さを高校生たちは持っているのかもしれない、と思う。

ただね、それ自体を描こうとしていたのか、少なくとも脚本家の天願氏がね、そう思っていたかどうかは大いに疑問というか……。
身体がはまってしまうような、底無し沼のような泥畑の中からレンコンを掘り出す描写の繰り返しは、無邪気な男子高校生に癒されもするものの、その事象事態に大きな意味を感じる。
それは世界の無常観なのか、それとも泥の中からレンコン、というのが、彼らが勃起した男性器に見立てて悪ふざけをする様がまさしくそうで、世界の根源を示しているのか……。

確かに、そうかもしれない。本作では殊更に童貞というテーマがフューチャリングされる。
実はこれも、上映後のトークで、井土監督はそれがテーマだとすら思っていなくて、どうでもいいことだとスルーしていたのに対して、どうしても世間的には童貞であることのテーマ性が重いこと、しかも今は、恥ずべきものである筈だった童貞が、立ち位置になっていると熱く言論を展開しているトークゲストの監督さんもいたりしたんである。
ちょっとこれは、なるほどなと思う部分でもあった。何も変わらない生活、それをそれなりに幸せだと感じているのなら、俺ら、このまま童貞で行くな、と彼らは言ってゼツボー感にひたるんである。

一方、ひたすら孤高の存在を貫くアキに同級生の女の子が「あんた、バージンでしょ。彼氏作んなよ。世界変わるから」と悠然と言ってのける。
彼氏を作って世界が変わるんではなく、この場合はセックスをして世界が変わる、というか、処女喪失して、もっと言っちゃえば処女膜破って血を流すと世界が変わるということであろうと思われ……。
なんかね、やっぱり童貞と処女の価値観や意義って、全然、全ッ然違うなあ、って。

童貞はいくつの時点でも恥ずかしいこと(と、このトークでも、それこそが大事なんだから立ち位置にすべきじゃないと、隠蔽するべきなんだと強調してた)だけど、処女って、ある年齢までは宝物のように大事なものだけど、そこを越えると、童貞である恥ずかしさよりもっともっと恥ずかしい、というか、なんか哀れみの目を向けられるような感じがあるというかさ……。
基本受け身だし、突破される屈辱感がぬぐいきれないセックスでの女の立場を考えずにはいられないんだよなあ。男子が思うようには、その喪失に、こんなものか、とは思わない気がする。

でもね、でもでもでも、確かに世界は変わるのだろう。でもそれはせめて、セックスではなく、恋愛でだと、思いたい、と思うのはヤハリ、青すぎるだろうか?
ラストが、「私、変わりたいの!」と叫んで泥畑に踏みいれていくアキであり、それを追っていったハルキが彼女を抱きしめて泥の中に倒れこみ、キスを繰り返す、のは、キスだけだけど、泥であり、そこから掘り出されるレンコンが象徴する男性器であり、そして蓮は、葉の上に神様が乗っている象徴だしさ。
タイトルからして、最初はその、何もないところから始まった。そして……という含みを覚えるじゃない。それで泥で蓮でレンコンでしょ。しかもレンコンに開いている穴だって……。やっぱりセックスを、根源的なセックスを感じずにはいれらないよなあ。

ハルキがね、いかにもビンボーそうな長屋住まいで、妹はグレていると言うほどでもないけど、学校にも行かずにハデな格好をして友達と遊びに出かけるのが常で、どうやら母子家庭で……という日常であるというのも、ちょっと印象的である。
それに対して殊更に言及する訳じゃないんだけどね。言及しないだけに、凄く意味があるような気がしてね……。
彼が、そう、本当に普通の子でさ、妹に対しても、学校行けよ、ととってもお兄ちゃんでさ、で、帰りの遅い母親に「部活行ったって言っといて」とマンガ読んでる妹に伝言を託すのが、ああ、お兄ちゃんだなあ、って。
その部活というのが、アキが一人で天体観測している学校の屋上なんだけどね。で、初めて天体望遠鏡で見た星に感動して、天体写真の本なんかを見て、母親にも誇らしげに、部活の勉強だよ、なんて言うのが、なんともほほえましくてさあ……。

本作で最も印象的なのは、彼らのグループのうちの一人の男の子が告白し、その後ラブラブになる、前述のサックス吹きの女の子の、その演奏である。
一人、外で練習している佇まい、そのフリージャズも実に孤高だが、物語のクライマックスでその音色が狂ったように、ていうか、狂気そのものになっていく様は圧巻である。
もちろんそれは、プロによる吹き替えなんだけれど、最初はこの女の子自体に吹かせていたといい、予算の問題上、プロットが大幅に変更されたことで、サックスがフューチャリングされ、そして強烈な印象を与えるクライマックスに突入していく。

そもそも、女の子の設定がヤリ投げであったというのは、このトークを聞かなければ知り得ないことであり、本作を観てしまえばヤリ投げぇ?と驚いてしまうのだけれど、屋上に殴り書きされた、星座と星座の間、を思えば、宙を貫くヤリ投げの軌跡に、ナルホドと納得もしてしまう。
人の書いた脚本を監督するのが初体験であるという井土監督が、気乗りのしないまま、つまり、脚本どおりに進めようとしていたところでの不可避のこの転換が、とりもなおさず井土監督らしさの片鱗を出すことになったというのは面白いと思う。

実はね、本作に対してハッキリとしたゆがみ……つまり、それ以外は、多少のきしみは感じつつも、基本的には淡々と青春物語が進行してたんだけど、ミスターが、寄り目に口角をきゅっと上げた奇妙な笑顔を貼りつかせて飛び降り自殺をしたあたりを中間点として、悲鳴のような狂ったサックスのアドリブに、サックスの女の子とその彼氏のキスや、レンコンの収穫や、いろんな、いろんなことがガシャリ、ガシャリとカットアウトされては現われて……ここだけ突然、躍動的なんだよね。

いや、突然じゃないか。ポーコ・ア・ポーコでクレシェンドしていく。ホントに、悲鳴みたい。突然ドラマチックになる、というのは、実際にそんな事件が起こらなくても、こんな青春期にはある気がする。
世界が変わるのは、セックスの経験だけではないかもしれない。ヤリが貫くのは、ペニスやヴァギナや、星座だけではないかもしれない。

果たしてこれで、今後井土監督の作品を観に行くようになるかどうかは……判らないけれども……。
なんか、書くのにも、いつも以上に、どっと疲れた……。★★★☆☆


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