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「こ」


2013年鑑賞作品

恋も忘れて
1937年 73分 日本 白黒
監督:清水宏 脚本:斎藤良輔
撮影:青木勇 音楽:伊藤宣二 小澤耀安
出演:桑野通子 佐野周二 爆弾小僧 突貫小僧 岡村文子 忍節子 雲井ツル子 水戸光子 小牧和子 森川まさみ 祇園初枝 織田千恵子 小柳みはる メリー・ディーン 大山健二 石山隆嗣 池部萬 若林広雄 伊東光一 葉山正雄


2013/7/23/火 京橋国立近代美術館フィルムセンター
えーっ!何々、このラスト!なんでこんな後味悪く終わっちゃうの!ひ、ヒドい、恋も忘れて、どころじゃない、恋どころじゃないじゃないの。えーっえーっ……。

まさかこの尺でこんな重たい展開が待っていようとは……いやこの時代はこの尺ぐらいが普通で、その中にビックリするぐらい緻密な物語が展開しているから、現代の映画が、いろんな技術や話法が進化しているとはいえ、一方で冗長になっている面もあるよなー、とよく思うのだが、それにしても70分あまりの作品でまさかこんな……。
うー、ここでオチを言いそうになってしまう。いつも言っちゃうけど、あんまりなオチなんでやっぱりうっかり言えない。でも、でも、あんまりなの!!

このタイトルだし、おミズな女性、お雪が主人公だし、用心棒が佐野周二だし、ロマンスがあるんだろうと当然思うじゃない。
そりゃま最初から子供たちの様子はイキイキと描かれるし、最初のキャストクレジットで、この間見た清水作品でも子供らしい闊達な可愛さを見せた突貫小僧、爆弾小僧の二人が並んでクレジットされ、やっぱりこの名前の並びはインパクトあるよなー、と、なんかニコニコながめちゃったりしてたのに、そんなノンキな気分は中盤あたりからしんしんと不安に浸食されていくんである。

正直ね、古いフィルムだし、子供たちの喋り声は早口で、欠損している部分もあって、そこに重要なキーワードが隠れてる感もあって、特に前半部分は状況が見えなくて焦る部分もある。
爆弾小僧扮する春雄が、お母さんがおミズな女であることで腕白小僧どもからハブられていく様を、最初は子供同士の他愛ないケンカのように見せながら、段々と深刻になっていく、その最初って、重要じゃない。
春雄のお母さんが子供たちにどう思われているのか、ていうか、その親たちからどう思われているか、ってのが、この年頃の子供にはストレートに伝わって、まさに村八分にされる訳だからさ……。

多分、ここで聞き取れてなかったのは“チャブ屋”という言葉。解説見て、初めて聞く言葉だと思って検索かけてみたら、おミズよりももっと踏み入った職業だった。
あいまい宿、と言うのなら、そりゃ……身を売る場所、だよね?劇中の描写だけでは、単なるダンスホール、客とダンスを踊り、一緒に酒を飲む、その程度にしか見えないけど、チャブ屋という言葉の意味が理解される当時ならば、その裏にあるものを汲み取れていたのだろうと思う。この母子家庭の状況だってやっぱり意味ありげだし……。

お雪自身は息子の春雄に、ホテルに勤めていると言っているけれど、息子が友達にハブにされているのも知っていて、つまり“まともなホテル”ではないことを息子が知っていることも承知していて、辞めたいけれど、お前を立派に大学まで出したいから、今はやめられないのよ、と諭す。
当時の映画の描写だからそうした場面は出てこないけど、子供の親たちからの進言で遠ざけられ、春雄に父親がいないことを考えるときっと、そうなのだろうな……。

なんかね、それを判んないで見ていたから、凄く納得いかない気持ちだったけど、でも判ってから思うと、もっと納得いかない(爆)。
それは、それが納得ずくである大人の事情に、否応なしに従わされちゃう子供の悲しさ。最初に、台詞が聞き取れないほどにイキイキと、子供たちの様子が描かれたのには意味があったのだ。

これは子供の世界を描いた映画だったのだと、子供たちの、春雄の悲しさ、孤独、表情、たたずまいに繊細なカメラワークを施していく後半に至るにつけ思う。最初のイキイキがあるだけに、凄く、悲しい。
でもそのイキイキの時点で既に、春雄はハブにされてるのよ。ガキ大将の突貫小僧にたてついて、「俺にお伺いを立ててからにしろ」「立てたら、やらせてくれないだろ」「あ、そうか……」なんて単純、純粋な子供同士の会話にふと微笑んでしまってはぐらかされるけど、もうこの時点で、ハブにされてるのだ……。

きっかけは、春雄が彼らを家に招いて、お母さんの香水を振りかけた場面だった。おませな行動につい笑ってしまったけど、これが本当にマズかった。
おミズそのものの匂いで家々に帰った子供たちは、春雄との付き合いを禁じるだけではなく、その母親をくさす言葉までも子供たちに刷り込むんである。

この場面は本当に可愛らしかったし、春雄のために夜遅くまで働くお雪が用意した夕ご飯が「またシューマイか。昨日もシューマイ、今日もシューマイ……」とつぶやく春雄が可愛くもおかしくて。
ちょっと店を抜け出してお母さんが給仕に来てくれるのを喜んで、でもすぐ店に行っちゃって、ちぇっ、みたいにすねるのとか、本当にお母さんが好きなんだなあ、っていじらしくて……。

でもね、春雄にとっては自慢のキレイなお母さん。振袖なのにラフに帯を巻いて襟元もくずしたスタイルがしゃなりとしていて、なんとも色っぽい。
桑野通子が本当に美人で、きっぷのいい美しさでさ。まあスラリと足の長いこと長いこと!(その夭折の生涯を知って、衝撃……美人薄命まんまだわ……)

その姿でマッチをシュシュッと擦り、タバコの白煙をふかす様は、今の世では見られないカッコ良さ。ドレス姿で、ふわりと裾をつまみあげて、ジャズに合わせて軽快に一人ステップを踏んで見せる様もまたカッコ良くて、完璧じゃん!と思っちゃう。
桑野通子がもともと人気ダンサーから女優になった、というの、すんごく納得。サマになってる度100パーセントだもん!
そらー、金髪碧眼の従業員も彼女の色気には負けてお客を取られておかんむり、なんてこともあるわなあ。

見てる時にはピンと来てなかったけど、シューマイ、というのは、ここが横浜だからなんだね。チャブ屋というもの自体が、横浜特有のものであったという。ホント、当時の文化を知らないと判らないことだらけで。
お雪やこの店に勤める女たちは、昔の遊女のような感じで店に縛られている風なんである。物語の冒頭、お雪が店の女たちをまとめて、店のマダムに待遇改善を訴える場面が出てくる。
他の店の条件を例に挙げて迫るも、マダムはさすが百戦錬磨で、彼女たちの要求を一ミリも受け付けない。彼女たちが借金で手足を縛られて、他には行けないと知ってるから。

外には逃げ出さないように見張る用心棒がちらほら。というのも、神戸などの新天地への甘い誘いが絶えないから。
若くて身寄りのない子なんかは、そこに飛び込んでいこうとしてボコボコにされちゃったりする。
「バカだねえ。そこから香港に行って、シンガポールに行って、日の丸を見ただけで涙が出るって言うんだよ」(こういうはすっぱな喋り方がなんともカッコいいの!)
まるでそれは、体よく売られていくのかと思ってドキリとするが、若さゆえの猪突猛進で、そんな暴挙に出ちゃうという意味だったんだろうか……。
何かね、この言葉は、後にお雪が「春雄がいなかったら、私は今頃シンガポールで日の丸を見て涙を流していたかもしれない」なんてことを言うし、妙に生々しいものがあって。そういうこともある時代だったのかなあ……。

でもとにかく、春雄、なんである。仲間たちにハブられて、学校にも行きづらくなって、ズル休みをしていることが、弁当を持たせ忘れて届けてみたところが登校していなかったことで明らかになるんである。
そこから俄然、春雄の孤独が描写されていく。あのね、このタイトルが示唆する、お雪と用心棒、佐野周二の展開は本当にほのかで、それこそ手も握らない。
夜も遅くなった彼女を彼が送り、「灘の生一本」を酌み交わし、春雄の可愛い寝顔を二人で眺めて、彼はそのまま帰るだけなの。
それだけでお互いの気持ちを確かめあってるあたりが逆に凄いと思うけど(今が、言葉や行動に頼り過ぎなのかもなあ……)、後から改めて思えば、佐野周二の登場シーンの尺って、かなり少ないんだよね。

中盤からは、春雄の、子供の世界の残酷さにウエイトが置かれ始めるんである。ガキ大将グループに友達をすべて持っていかれた春雄は、ワヤワヤと騒がしく判らない言葉をしゃべっている子供たちと仲良くなる。
いでたちからして中国人?この“ワヤワヤ”具合の登場シーンが笑いを誘うんだけど、今ならちょっと危険だよなー。だって演じているのはベタに日本人たちだしさ……。

でも、彼らもきっと当時の日本ではハブにされていたと思しきで、だからこそ春雄と仲良くなり、その前半のシーンで、学校をさぼっている春雄が、彼らに教科書を読んでその発音を直してやってるとか、なんか後から思うにつけなんともグッとくるんだよね……。
ガキ大将が率いている子供たちも、春雄が学校を替わった先で友達になった子供たちも、「あいつの母ちゃんはチャブ屋の女だから、遊ばない方がいい」という親たちの入れ知恵をいわば素直に受け入れちゃって、あっという間に春雄は孤独になる。
でもこの中国の子供たちは、そんなこと受け入れない、ていうか、理解の範疇にないというか。そもそも学校を替わらざるを得ないほどハブられるということ自体相当なのに、その先の友達でさえ、ガキ大将に牛耳られるという、この子供社会の狭さと厳しさ。

転校初日の場面が忘れられない。この作品の中で、最もヴィヴィッドに描かれる場面だと思う。
何といっても、それまではザ・撮影所てな画だったのが、ロケーションの開放感が突然開ける。砂ぼこりの立つ道、眼下に広がる住宅街、制服の子供たちが見知らぬ二人を横目で見ながら、足早に登校してゆく。
このロケーションの開放感は、その後、学校の様子が引きの画で描かれるんだけど、広い校庭で体操なんかしているのを、当時としては新しかったと思しきオーヴァーラップの手法で時間軸を表現したりするのが印象的なんである。

春雄にとって自慢の“きれいなお母ちゃん”も、この時には「僕一人で行く。お母ちゃんが一緒だと、遊んでもらえないから」と、駈けてゆく。
転校初日だよ。初めて学校に踏み入る、何も判らない時なのに。親が先生たちに挨拶だのして、ウチの子供をよろしくと言うのが普通じゃないの。なのに、春雄は、一人、駈けて行った。

呆然と立ちすくみ、悄然と来た道を引き返すお雪。春雄が自慢するだけあって、ヒールの高いシャレたサンダルを履き、ノースリで身体にぴったりフィットしたワンピース姿はイイ女。
この時の彼女は、ちゃんと母親していたと思うけど、でもそれは現代から見ればそうだけど、当時は、これは、イイ女、シャレた女、過ぎたかもしれないな……。
そういやあ、春雄の母親を罵倒する突貫小僧扮するガキ大将が、自分の母親はちゃんと丸髷だと、ジェスチャーを加えて言っていた。丸髷が普通の時代ならそりゃキツいわ……。

もうその後も、春雄は孤立しっぱなしなの。先述のように、新しい学校の友達も、このガキ大将の進言で春雄から離れていく。
雨の中、かっぱを着て、学校に行けなくて立ちすくむ春雄の、くるりとした真っ黒い瞳が左右に泳ぐ行き場のない表情、どうしようもなくきびすを返す哀しさが見ていられない。
雨の中、歩き回って、でも結局いつもの遊び場に行くしかなくて、小さな木の船の中で教科書を読み、お弁当を一人食べて、猫のように丸くうずくまっている姿が、もう、見ていられない。

そこにいつものように現れるガキ大将は、やっぱり子供だからなのか、その異変に気づかないの。ここはオレの縄張りだと言っただろうと、足腰も立たないような春雄を追い出してしまう。荷物も放り投げてしまう。
この時の、まるで寝ぼけているような春雄にヒヤリとして、イヤな予感が充満した。雨の中、彼の荷物を放り投げる子供たちに、その仕打ちの残酷さ以上に、今、彼にそんなことしないで、と無意識に祈っていた。

春雄が、まるで電池の切れた人形みたいに足を崩して倒れこみ、それでもようよう立ち上がってズルズルと荷物を引きずって去って行った時、もう確信に近い不穏な予感があった。
当たってほしくはなかった……それ以上に、この時、「なんだあいつ」と、彼の様子のおかしさに気づいていたのに、子供ゆえそれ以上追えず、最悪の結果を招いてしまったガキ大将に、もう、お前のせいだぞ!とついつい思ってしまって……。

ここに、お雪と用心棒、佐野周二のロマンスが入り込んでいる訳よね。店に借金もあるお雪は、身動きが取れない。逃げ出せっていうの、あなたが連れて逃げてくれるっていうの、と、軽い感じだけど迫るお雪に、用心棒も含みを持たせた返しをした。
というのも、この街の稼ぎ時である観光船で来た異人客にお雪がしつこくされて往生しているところに、彼がソイツをボコボコにしちゃって、マダムがおかんむりになった、てな事件があったから。

その後お雪は、もう異人はカンベンと言うし、それはつまり、用心棒の彼にホレたからだよねえ、多分……。
彼は彼女のためにまっとうな職を見つけてきた。春雄のことも可愛く思っていたから、本当に真剣だった。
彼が残した「逃がすことも、連れて逃げることも出来ない。大手を振って、貴方を迎えに来る。」という置手紙にズキューン!!!と来る。この時には、大ハッピーエンドを確信していたのになあ……。

もうこの時にすでに、春雄は雨に濡れて発熱して、肺炎寸前になってるのよ。でも安静にしていれば問題ないと医者は言っていた。
なのに、お雪は店があるから仕事に出なくちゃいけなくて、だから、入院させるためにマダムに借金を申し込んだのに、それまでの態度が生意気、とまではハッキリ言わなかったけど、都合がよすぎるでしょ、とソデにされて、その間に春雄がいなくなっちゃうの!

用心棒の彼がね、お母さんを悪く言う奴なんて、やっつけなきゃいけないぞ、と、あくまで病床の彼を元気づけるために言ったことが、結局は浅慮になっちゃったの!
なんて、なんてこと。肺炎寸前の身体で、かのガキ大将にケンカを売りに行った彼は、まさに火事場の馬鹿力で勝利をおさめ、そのまま、そっくり返ってバッタリと倒れて、そしてそのまま、そのまま……ウソでしょ!

ひたひたと感じていた不安が現実となってしまって、もうアゼン!!自らの存在こそが原因になってしまったお雪はもちろん、春雄をけしかけた形になってしまった用心棒、友達だった筈なのに仲間外れにし続けたガキ大将、そしてその親たち、苦労をわかちあった同僚たち……。
なんたってこの尺だから、春雄が死んでしまってるシーンで判りやすく同僚の女たちが袖を目に当てて泣き伏してるんだけど、あまりに展開が早すぎて信じられなかったし、信じたくなかった。こんな後味の悪い終わり方って、ないよー!!!

用心棒はお雪に、三年間のカムチャツカの仕事を得たと言い、それは春雄が死んでしまったら意味がないだろうと、自分を責める意味も込めて膝をつ1く。
しかし前金を彼女に渡して、足を洗えと、君のためだけじゃなくて、春雄君のためにもだ、と言い残して去る。
……三人が幸せになる結末じゃ、それこそこの尺では不十分だったのかねえ。あまりに悲しすぎて、言葉にならないよ……。★★★★☆


故郷
1972年 96分 日本 カラー
監督:山田洋次 脚本:山田洋次 宮崎晃
撮影:高羽哲夫 音楽:佐藤勝
出演:井川比佐志 倍賞千恵子 伊藤千秋 伊藤まゆみ 笠智衆 渥美清 前田吟 田島令子 矢野宣 阿部百合子

2013/1/18/金 劇場(銀座シネパトス)
今回の二本立ての前に観たのも寅さんともう一本のヒューマンドラマで、その二本目のキャストや人間関係の配置等々、妙に共通するもんだから、なんだかデジャヴのように感じてしまう。
働き者で従順な妻、舅である老父、子供のような頑なさを持つ夫、遠くに住む弟にそれぞれ同じキャストで、ホントヘンな既視感を覚えるんである。
製作年度も似ているし、まるで双子のような……それとも他にもこんなような似た布陣の作品がひょっとして、あるのかな。

こういう夫には確かに井川比佐志はやたらはまってて、監督は彼から浮かぶインスピレーションがあるのかもしれない。従順で、しかししなやかな強さを持つ妻に、倍賞千恵子はさくらそのまんま。
舅に笠智衆ってのは、小津監督への敬愛としか思えないが、それも少なくとも二作品となると、ちょっとズルいような気もしないでもなかったりして。
だって舅がものわかりのよい優しい存在で、姑がいないっていうこの図式、女としてはちょっとさあ(爆)。時々、時々山田作品にイラッとするのは、私のこんな瑣末な根性なだけなんだけど(爆爆)。

しかし本作はその「家族」で見せた、どこかやりきれないようなまでの悲しさはない。悲哀はあるけど、「家族」よりは心をラクにして見ていられる。いや、ただ単に本作では人が死なないってだけのことなんだけどさ(爆)。
だって、だって、だって……「家族」では人が、しかも幼い命が最初に奪われるというやりきれなさで、もう観ている間中、重い石を飲み込んだみたいに辛い気持ちになったんだもの。

本作も、確かに辛い気持にはなるんだけれども。ラスト近くに夫、精一がこぼす「大きなものには勝てないとか、大きなものって、一体何なんだ。時代の流れで仕方ないって、どうして好きな仕事を続けていけないんだ」という台詞こそが、本作を大きく象徴している。
理不尽さに憤りながらもどうしようも出来ない彼の気持はとてもよく伝わってくるし、だからこそ本作は成り立っているんだけれど……そこんところに一抹の甘さを感じたりもする。

だってそんなこと言ったら、古今東西、昔から、失われていく仕事や役割に直面する時、皆がそう思うさ。大きなものや時代の流れが悪と言うことなんて出来ないさ。
もちろん精一だって、妻の民子だって、もちろんもちろん作り手の監督だってそれを承知していることは判ってるんだけど。
それこそ監督なんか結構本気で、失いゆくものへの哀惜を、文明が開けることへの嫌悪とイコールの形で示しているように思えて、そのセンチメンタリズムはちょっと、ちょっとだけ、甘美すぎるような気もするんだよな……。

その、失われる仕事が何かっていうと、石船である。石船。聞いたことはあったけど、見るのは、物語の中に見るのも初めて。何かその響きだけで、失われるものの哀惜のイメージを、最初から持っていた。
埋立地に石を運ぶ仕事。それに気付いてあれれと思う。それって、それって、文明を、文化を、その進化を、後押しする仕事じゃないの。それってつまり、彼らが仕事を進めれば進めるほど、その必要性が失われていく……だって海全部を埋め立てる訳にはいかない訳だからさ……そんな悲しいまでの矛盾が最初からあったんじゃないの。

そうか……甘美過ぎるなんて単純に思ってゴメンナサイ(爆)。
でもそう考えると、確かに上手いんだよな。彼らが仕事を失う、その直接的な理由は、資本のある大きな会社が繰り出す巨大な船の機動力。まあそれは、大都市広島での話にしても、彼らの住む小さな瀬戸内海の島でだって、やり手のところは中規模ではあっても新しくて性能のいい船を新調し、バリバリやっている。
精一は古い船を修理するカネさえも捻出できず、姉や弟は、このあたりが潮時じゃないか、広島に渡ればいい仕事はいくらでもある。広島の向島にある造船所なら、船を作る仕事だし、島という環境も似ているし、いいんじゃないかと勧めるんだけど、精一は……。
恐らく、言われれば言われるほど、自分の力不足を責められる気でもするんだろうか、本当に、子供みたいに、当り散らして、女房にも当り散らして、もうどうしようもない訳。

そうそう、キャスト布陣がソックリと言ったけど、その中にもう一人いるのだ。渥美清。いわずと知れた山田監督の大隠し玉。
まあ、とはいえ、「家族」ではほんのオマケ的なゲストだったけど、本作では大きなメインキャストである。解説では精一の友人ということになってたけど、見てる限りではそこまでの親密度はあまり感じなかったなあ。
渥美氏演じる松下はトラックで魚を売り歩いているんだけど、あまった魚を彼らのもとに届けてくれるのね。まあ奥さんがアイソ良く応対するってのもあるし、舅も鷹揚に彼を迎えるし、精一がいつもイライラしていてマトモに松下に相対しないってのもあって、精一の友人だなんて全然、考えもしなかったんだよなあ。
だから正直、松下はなんでこんなに親しげにこの一家に出入りしてんの、奥さんに横恋慕してんじゃないでしょうね、なんかアブナイ雰囲気になったらヤだなあ、なんて見当違いのことを思ってた訳(爆)。

その設定ならば、確かにそんなこと、ありようもないのだが。
でもさ、松下が細君を亡くしているなんていうくだりも語られたりし、しかも彼はここが在所じゃなくて流れ者でしょ。まあ渥美清だから、西の訛りも出ないし、そんな流れ者で細君を亡くした独り者なんていうと、ゲスなこっちはついついいらん詮索を(爆)あー、サイアク(爆爆)。
でもこの、妙に細かい設定、せっかく渥美清だし、メインキャストの一人だし、ってのはあるんだろうけど、な、なんか、深読みさせる要素が多すぎないかぁ?

結局精一は広島に職を求めて、この島を出ることを決意する。それを決意するまではホンット、ムカつく子供じみたヤツでさ、でも彼自身も充分判ってるってことは、そりゃ、そりゃ、判ってたんだけどさ……。
修理費の莫大さに打ちのめされ、それでも諦めきれずに荒海の中仕事に出て、でもやっぱりエンジンがイカれて、ひどく憤って帰ってきた夜。
家族に当り散らす精一をいさめた松下をも怒鳴り散らしたことを後悔し、風邪をひいたという松下を見舞いに行くくだり。
民子を伴って紹介された造船工場を見学しに行き、「ウチのものと相談して決めると言った」「うちの者って?」「バカ、お前のことだ」なんか、なあんか、ズルいよ!こんなの!メッチャツンデレやんか!
あれだけ怒鳴り散らして、女は男の仕事に口出すな、なんて、ベタに古臭いけどこれ以上カチンとくることないってな台詞吐いてさ、もー、私ならこんなこと言われたら即離婚だわ!(てか、だから結婚がムリとかいうあたり……)なのに、なのに、こんなこと言われたらさ!もうさ!!

うー、ツンデレにヨワすぎる(爆)。でもね、そこからがもっとしみるの、切ないの。
決心した精一は、このボロ船での仕事納めだと、あいさつ回りを兼ねた最後の仕事に出かける。
正直、このシークエンス、彼ら死んじゃうのかと思った。いや、私も極端だけど(爆)。それまでもそれなりに彼らの仕事は描写してたけどさ、でも断片的だったんだよね。
ここに至って、まるでドキュメンタリーのように、生々しく、荒々しく、ホント、ドキュメントタッチでカメラが引き、近づき、やるもんだから、驚いちゃったんだよね……。
それもヤハリ2年前のドキュメントタッチ映画「家族」のひとつの成果かなあなんても思ったり。

しかも彼らの仕事をじっと見ている、いつも仕事についてきている下の娘。彼女の目の前で大きな岩がショベルカーでガッツンガッツン石船に積み込まれ、肝が冷える。そのカッティングはいかにも、この幼い娘がふと目を離した隙に、その石の中に無残に飲み込まれそうにしか思えないんだもの!
もうその後の、嘆き悲しむ両親と、悲しみながらも夫婦を叱咤する舅、なんて画が浮かんでしょうがなかったよ!……って、それってそのまんま「家族」だっての。
おいおいおいおいー、ここでどんだけこのタイトル口にしてんの。それだけインパクトが強くて、その後でこれ見ちゃうと、っていうのはあったかもしれないなあ(爆)。

でもね、本作に対する、「家族」をおいといての印象は、あ、ちょっと「裸の島」みたい、ということも、あったのだ。やってもやっても報われない過酷な労働に従事する夫婦、みたいなね。
あの作品でも哀れ子供が死んでしまうし、その思い込みもあったかもしれないなあ。実際は、ひたすら無口、てか台詞が一切なかったかの作品と違い、本作は大いに喋るし大いにぶつかる。そこはさすが山田作品としての会話劇の上手さがある。

その最も大きなクライマックスが、先述したあの台詞、この大好きな仕事をなぜ手放さなくてはならないのかと精一がつぶやき、民子が何ともいえない、泣きそうな表情を浮かべる場面。
ここに至るまでに精一は、これまでの夫婦の、家族の場面をフラッシュバックのようによみがえらせる。ホント、死ぬ前に見るようなフラッシュバック、しつこいけど、だからまたしてもなんか心配しちゃうんである(爆)。

今は尾道に暮らす弟も一緒に仕事していて、今はオンボロだけど、新調した船で晴れやかな祝いを開き、皆はしゃいで酒に酔い、海に飛び込んだりした。
民子が船舶免許を取るために学校に通い、精一も勉強を見てやり、一緒に勉強する奥さん同士で励ましあって、見事合格、も、驚かせるためにわざと演技して、コイツう!と大輪の笑顔で小突かれるとかさ、もうなんか、ほっぺたが赤くなっちゃうような、一緒に苦労しながらもだからこそ幸せだった回想の連続なのよ。
ほっぺたが赤くなっちゃうなんて表現をついつい使っちゃうあたりがどうにも私もアマノジャクだけど、「裸の島」の連想からのギャップなんだから、そこんところはカンベンして(爆)。
でも、だから、やはり山田監督は基本は楽天的だし、ていうか、映画は楽天的な、というか、希望の持てるラストを持ってこなければという信念が、あるのかもしれないなあ。

そのまさに結実したラスト。舅は姉家族もいるんでこの島に残り、精一家族は島を離れる。松下が子供たちに紙テープを配っている。
「あれ!この人たちったら、自分の子供を忘れてるよ!」その子供たちが同級生の上の娘が、舅、つまりおじいちゃんにぎゅうっと抱きついて離れない。
その前のシークエンスで、おじいちゃんは孫娘に、自分が生まれ育った島をよく覚えておけ、とふうふう言いながら山に登った。この時も、じいちゃんと孫娘、どちらか崖から転げ落ちて死んじまうんじゃないかと、こうなると私、単なるアクマかも(爆)。
で、娘はメッチャ抵抗するのね。行きたくないと。おじいちゃんといつも一緒にいたから……と周囲の涙を誘う。

別にさあ、別にさあ、ならばさあ、この上の娘はじいちゃんに預けてもいいのに!と思ったり。だっていつもじいちゃんと共に留守番して、小学校にもすっかりなじんでお友達もいるだろうし、何もそんなムリクリじいちゃんを一人にせずとも……。
いやいや、それこそ単純な言い様だ。家族は家族、父母に妹までいるんだもの、そこから引き離すまでの理由は……でもそれは本人に聞かなきゃ判らない。彼女はじいちゃんと一緒にいて、友達とも離れたくないという気持ちが、ひょっとしたら両親や妹と一緒にいることより強いかもしれないじゃないの!
……と、現代の映画、あるいは社会なら、そういうトコに突っ込まないと、っていうのがありそうだが、現代なら、ね。

それがあるんで、華やかに紙テープを陸と船で持ち合って、さよなら!さよなら!!と前途に希望を大きくふくらませて旅立つラストでも、なんか、なんか、含んで思ってしまう訳! ★★★★☆


ごくつまの恋
2013年 75分 日本 カラー
監督:石川均 脚本:石川均
撮影:斉藤幸一 音楽:
出演:七海なな 大口兼悟 坪谷隆寛 黒石高大 東尾真子 鈴木隆仁 酒向芳 真理アンヌ 仁科貴 小沢和義

2013/4/15/月 劇場(池袋シネマ・ロサ/レイト)
これを選んだのは何となく失敗したかも……(爆)。いやいや、この3本の企画上映に気付いたのが、もはや2本目の最終日だったからさあ、その中では2本目が観たかったかも……いやいや(汗)。
でもそれでも、この監督さんの名前に見覚えがあったから、足を運んだんだが、どこで見覚えがあったんだか……やっぱりピンクの監督さんだったから、そこでの見覚えだとは思うんだけど。

でも本作は……うーん、何がキビしかったのだろう。単に私の好みの問題ってだけなのが大きいかも。任侠モノは好きだが、ゴクツマは何となく肌が合わなくてロクに観てないのだ。
ロクに観てないのにアレだけど、ゴクツマは任侠じゃないような気がしてる。ていうか、私が任侠に求めるのは古臭い様式美なのかもしれない。
ゴクツマは女を通して実に人間くさい世界を描いているからこそ、男の世界の任侠のキレイごとにどこかでウソくささを感じていたところにスカッとヒットしたのだろうし。

って、本作とは何の関係もないけど、でも何の関係もなくもないかも(どっちだ)。
基本的にはね、本作は極道だの、タイトルどおりごくつまだのと言いながら、純愛物語だと思う。
そのごくつま、ヒロインの葉子は自分を敵方のヤクザの手に落として愛する夫を逃がし、しかしその夫は彼女の背中に親分の苦手な、まさに蛇蝎のごとく嫌う蛇の見事なイレズミを彫って彼女の操を守る。
そしてその彼女の元にひょんなことから放り込まれる素人青年は、世界の違う女だと知りながら惹かれ、それこそまるで少年のような恋心で手も出せない。

こういう話は割と好きな筈なんだけど。基本、頭の中に、これはゴクドーモノだというある種の期待感があったのがマズかったのかもしれない。
極道モノと言っても、葉子をとらえているその組は、「来年には景気も良くなって、皆顔をそろえる」と自信満々に言っていたのに、「……景気が良くなると思ったんだけどなあ」と、つまんない引っ掛けで素人を脅すぐらいしかアガリのないシケた有様。
組員もほんの2、3人で、その親分さんは、先述した、女の背中に蛇のイレズミがあるだけで、しぼんじゃって、ヤレない情けなさなんである。

考えてみれば、このショボさを笑い飛ばせれば面白がれたのかもしれないし、本作自体、そういうネライはあったようにも思う。
ただ、葉子や彼女に恋するケイジは大マジだし、葉子の元にようよう帰ってくる彼女の夫も大マジなんだもん。
あ、この夫は仁科貴で、彼のイイ感じのイケてなさは、実に貴重である。ケイジが「葉子さんのだんなだっていうから、どんなカッコイイ人かと思った」と直裁に言うぐらい、冴えない男。
一瞬、温水さんかと思った(爆)、仁科氏のことは知ってたのに(爆爆)、実際、仁科氏は、温水さん街道まっしぐらかもしれん……。いやいや、いやいやいや!考えてみれば川谷拓三かッ、そうだッ!そうだ、ソックリ!!

ちょっと脱線してしまった。ところでこのショボい組を率いる親分さんというのがね、小沢和義で、私、お兄ちゃんの仁志氏の方かと思ってずっと見ちゃってた(爆)。
いや、なんか久しぶりに見たせいもあったと思うんだけど……なんか似てきてない、お兄ちゃんに。
こういうオールバックで、ザ・ヤクザ、っていでたちを、意外に(ホント意外に。それこそお兄ちゃんならねえ)見てなかったせいかもしれないけれど。
でも考えてみれば、まさにこのショボさはお兄ちゃんの方ではなく、和義氏の方こそなのかもしれないなあ。

彼は葉子に岡惚れしていたんだろう。この場合、岡惚れという表現は合っているのだろうか……判らないけど。
葉子の夫を本気で追いきらないのも、彼女が夫を逃がす替わりに我が手に入れば、という気持だったに違いない、のは、まあ探すのは後でいいからと、事務所に連れ込んで一発ヤろうとしたシーンで判る。
で、あのていたらくである。ヤレもしない女を、しかし手下の手前や彼女に惚れてることもあって放り出す訳にも行かず、流行らないスナックのママとして飼い殺しにする。
それも、地上げに抵抗してカネをふんだくろうというハラのスナック。そもそも地上げがヤクザの仕事だろう……情けない限りなんである。

そんなところにケイジが転がり込んできたのは、警備員のバイトに入っていた会社が倒産して、ムダ働きに肩を落として帰ってきたら、同棲していた彼女が他の男とズッコンバッコン。
……て場面は彼は見なかったけど、まあとにかく寝取られたのに「彼女の気持ちを尊重しよう」「ところでたまっている家賃はどうする」なんてことをことごとく飲み込んでしまったからなんであった。

いかにもアヤしげなシケた雀荘で巻き上げられてしまったケイジが放り込まれたのが、葉子が飼い殺しにされているスナック。
妖艶な彼女にひと目でマイッちゃった彼は、立場も、ここがどういう場所かも忘れて、なんか夢でも叶えたかのように、バーテンダーの衣装をひと揃え、カクテルやおつまみのレシピ本を買い込み、嬉々として精進する毎日。
葉子から「私はウィスキーが好きなの。それも自分でついだやつ」とダルそうに言われてその場はショゲても、案外立ち直りが早い。

解説では彼女が年下だから云々とか書いてたけど、見てる限りでは彼がそれを意識していたとは思えず、むしろそれこそ「ごくつまの姐さん」と判ってからは、余計にひるんでいたように見える。
そうなの、そう見えちゃうんだよね。実際は、脚本上では、ケイジの方が年上で、ってことが、彼を奮い立たせる一因になったんだと思うのね。
だって彼、なんか突然葉子ちゃんとか言うしさ。それが突然と思えたのは、見てる側に、年下だとか年上だとかいう彼らの中の認識がピンときてなかったからだと思うんだよなあ。

ケイジはいっとき、自分がなぜここにいるのか忘れかけて、バーテンダーの仕事にまい進していたんだけれど、ある時、あの親分さん……鬼島が店を訪れる。
ところで、先述でも親分と言ったが、本当に彼は親分なのかしらん。いや、まあ、その、威厳がないと言ってる訳ではないが(爆。ちょっとあるかも……)、葉子とヤろうと事務所に連れ込んだ時、来年には皆顔を揃えると言った、それがそうそうたるメンバーって感じを含んでいたし、さ。
ひょっとして彼は、なんかつまり……取り残されちゃったんじゃないか、って。鬼島の、充分ヤクザとしての迫力はあるんだけど、どっかツメが甘いというか、組員にさえあの蛇の弱みを握られて影でコソコソ笑われちゃうような情けなさがね、そんな悲哀を感じさせるんだよなあ。

でも、そう、ケイジがすっかりこの生活を楽しんでいた時に現われる鬼島は、まさにヤクザの恐ろしさだった。ケイジの手の甲にアイスピックを突き立てて、オメー、自分の立場判ってんのか、とすごむ。
だけどその内容は……「葉子は俺のことをなんて言ってる。特に何も言ってない訳ないだろう。恐ろしい男だと、毎日泣いてるだろう」とケイジの手にアイスピックを突き立てて凄むんである。

……アイスピックを突きたてていなければ、こんな情けない発言もないし、鬼島がケイジに“バックから葉子に突き立てて、チンコが入ってる画を携帯で写真に撮れ”なんて脅すその内容のバカバカしさ、っつーか、前段を観客は知っているからこそ、バカバカしさ以上の女々しさ、情けなさに、なんか彼がカワイソーになる訳で……。
でもね、ケイジは鬼島が蛇が嫌いだとか知らなかった筈、だよね?私の記憶(これが危ういのだが……)では、組員しかその秘密を知らない筈だったと思うのだが……。
まあともかく、ケイジが鬼島に、葉子のスナックに放り込まれたのは事前にチェックした彼のデカチンを買われたからだし、まあそれ以前にケイジのヤサ男ぶりってのもあったんだけどね。

ケイジが葉子に言い寄れたのは、鬼島からの脅しが半ば後押しになってのこともあるし、物語のちょっとした箸休め的な存在の、“スナッカー”による荒らしもあるだろうと思う。てゆーか、正直このスナッカーの方が、ケイジが葉子と結ばれたきっかけになったと思うしなあ。
店の二階の雑然とした中で、一瞬は葉子の背中の彫り物にひるむものの、「葉子ちゃんの全てが好きだよ」。
その時のケイジ=大口兼悟氏の菩薩のような(って、男の人に対してはヘンかな)微笑みは女としてはズンと来たなあ。マジ後光さしてたもん。

でも彼は、葉子を、その手に出来ない。戻ってきた夫に、さらわれてしまう。
いや、ね。ずっとずっと、きっと夫が帰ってくるだろうと思ってたさ。いくらケイジと葉子が心を通わせても、葉子の幼い娘とケイジが仲良くなってさえ、さ。
シークエンスの区切りのお約束のように、葉子がスナックから帰宅する途中、「この角を曲がれば、あの人が待っている……」とモノローグ。
正直、ね、この繰り返されるシークエンスがどの程度マジなのか微妙っつーかさ。そもそも形として相当ベタだし、段々、これがギャグとして最終的に処理されるのかもと思ったもん。
……まあそれは、それこそ単純に、葉子とケイジのハッピーエンドを予測してしまった、からなんだけど。

葉子の夫を演じる仁科氏は、やっぱりさすが、なんだよね。「すぐに戻るつもりだったけど、脳梗塞になってしまって」、言葉が不自由だという設定を与えられていることもあるけど、でもそれだけじゃない。
彼が登場すると、それまで葉子が夫を待っているという描写が、先述のように、どっかギャグなんでねーの、とか思っちゃってたのがキレイに払拭されて、ああ、この人を葉子は愛していて、だから逃がしたし、背中にあんな見事なイレズミも入れさせたんだと納得しちゃうのだ。
だからケイジが「あんなイレズミ入れさせやがって」と殴りかかっても、ムダなのだ。最初から勝負は決していた。愛に恋は勝てないんだもの。

ところで、葉子の母親としてチラリ出演なのが、真理アンヌ様である。本当に偶然、ついこの間、彼女の若かりしエロ美しいお姿を拝んだばかりで、この偶然にビックリである。年代的には監督さんにとってのミューズだったのかなあ。
鬼島を納得させるための指詰めが、“指の形のウィンナー”レシピだったり、その場面でアッサリ騙されるのもアレだったけど(蛇のシャツ着てたにしてもさあ)。

鬼島が執着していた、“背中の蛇の刺青の女(葉子)に突っ込むデカチン”の写真……「そんなんでいいんですか!自分のプライドじゃないですか!!もっとちゃんといいことをして、この街を良くして下さいよ!」とめっちゃまっとうなことをケイジに言われて、実際は彼の逃げの口上だったのに、鬼島ったらあっさりしょげちゃって、そのまま彼を行かせちゃう。
まあそれまでに、鬼島のショボさの伏線はそれなりにはあったけど、でも、でもどうなんだろ……コレをヤクザものと思うから甘いと思うのか……。

でも、ラストシークエンスはなかなか素敵である。特に、マジックミラーになっているバンから葉子を探して必死に覗き込むケイジに、車内からそっと手を伸ばす葉子、の画は、やあっぱり、さすが、男と女を撮ってきた監督さんだなあ、と思う。
これは、画的にはクライマックスの、演歌的激しさの海岸で、ゴロゴロ砂だらけになりながら思いを確かめ合うドラマチックなシーンより、グッとくるんである。
だってこれが結末、結果、動かしようのない最後の答え、葉子は夫を選び、ケイジに「強くなれ。ケンカなんかじゃなくて、自分の思いを貫くことだ」とまっすぐ目を見て、アドヴァイスし、去っていく。

それを受けたラストが、元カノを寝取った男が「家賃、まだなんすけど」と卑しく近寄ってきたのを、有り金をぶつけて、殴りつけて、終わりというのは、まあなんつーか、若干の、えー、そこすか、という気持を感じないではないというか……今後も弱そうだなあ、彼……。

メインの葉子とケイジが、いまいちピンと来なかったのが……うぅ、それを言っちゃったら、ホントにミもフタもないけど、小沢氏や仁科氏がさすがすぎたんだもぉん。 ★★★☆☆


言の葉の庭
2013年 46分 日本 カラー
監督:新海誠 脚本:新海誠
撮影:音楽:KASHIWA Daisuke
声の出演:入野自由 花澤香菜 平野文 前田剛 寺崎裕香 井上優 潘めぐみ 小松未可子

2013/6/4/火 劇場(TOHOシネマズ渋谷)
新海監督の新作のこと、全然知らなかったんで、テレビのほんの小さなスポット紹介に驚いて慌てて観に行く。ここんところ新作映画ばかり追いかけて少々お疲れ気味だったんで、そろそろ古い映画でも観ようかなあ、と思っていたんだけど、そんな気持ちも吹っ飛んでしまった。
彼は元からその映像美は言われているけれど、それにしても見るたび、驚くべき進化を遂げて、ただただ驚くばかり。これがデジタル時代なのだと言ってしまえばそれまでだけど、やはりこれは絵心、詩心がないと作れないものだと思う。

これまで彼は光のアニメーション作家だと思ってて、とにかく光の美しさ、漏れ出る繊細な光が孤独や闇や、田舎町の寂しさや……とにかく、目に感じている光がこれだけ多彩であることを、彼の作品で知った。
世の中にはこんなにも、いろんな光があることを、知った。そんなことは、ぼんやりと暮らしていると、実写映画では、到底判らないことだった。

今回もその光の魅力はもちろん健在なのだけれど、それ以上に、きっと今回は、これが彼にとっての挑戦だったんじゃないかと思われる。
水、というか雨、いや、水の表現のための雨、と言った方がいいような気がする。
ドギモを抜かれる。なんという、透明感。キラキラのみずみずしさ。こんなの、現実の世界だって見たことない!

実写映画の監督、あるいはカメラマン、あるいは照明作家たちは、こぞって嫉妬するだろう。
信じられない。あんな透明なものを、あんな透明なままに、どうして描写できるの。
季節は梅雨。雨が多いのは当然だけど、パッとイメージする湿気で重たくて憂鬱な季節、どんよりとしたグレーの空気、じゃないの。
シーンの転換ごとに現れる、水面近くにまで垂れ下がった緑はその水気で重たく、みずみずしい緑をゆさりと揺らす。
あの葉の繊細さ、緑、湖面の透明なキラキラ、場面転換で何度見ても息をのむ。一体何たることなの!

しかも新海作品は、映像美だけではないのだ。ていうか、これだけ現代のアニメ作家の中で特異なとさえ言いたい、頭一つ抜けた技術力を持ちながら、映画作家としての特異ささえも持ち合わせているのだ!!
彼の過去作品、残念ながら最初に認められた作品はいまだ未見なのが悔しいが、観る機会のあるそのどれもが、私の心をキリキリと絞めつけた。

その繊細な絵心、技術がそれをサポートしているのはもちろんなんだけど、それを忘れ去るぐらいの、豊かな抒情性。
しかもかなり思い切ったドラマチックを持ってくる度胸。本作でも、クライマックスは、一歩間違えればベタベタな盛り上がり。
男の子が告白する。年上の彼女はそれをいなす。彼が出ていく。しんとしずまりかえる部屋に取り残された彼女は、一瞬で立ち上がり、蹴散らし、部屋をはだしで飛び出す。

一気に追いかけてくる、大仰ともいえるピアノ、胸にわだかまった思いを、お互い叫ぶ。涙を流して叫ぶ。
ゴウゴウの雨。彼女は彼に飛び込む。涙を流して抱き合う。
……こんな展開、度胸がなければ出来ない。いや、これこそが自信か。彼はドラマチックがどういうことかということを、知っているのだ!!

実はね、いわゆるドラマチック、ドラマとなる物語が現れる前に、その世界観に魅了されたし、心のどこかで、この世界観のまま終わってほしいような気がしていた。
雨が降りしきる六月。雨の午前中は授業をサボって、新宿御苑のあずまやで靴のスケッチをして過ごす少年。
ある時からそこに居合わせるようになった、年上の女性。ビールとチョコレートの組み合わせにコイツヤバイと思いつつ、彼女は飲んだくれのようにも見えず、何か心惹かれていく。雨が降っている朝を心待ちにするようになる。彼も彼女も。

この、彼。高校生なのかと思っていた。15歳だと明かされた時には、かなりビックリした。
靴職人をこころざし、独学で靴づくりをしている男の子。両親は離婚して母子家庭だが、母親は恋愛体質&子離れできず、この彼のお兄ちゃんが家を出てカノジョと暮らすと言ったことに腹を立て、「じゃあ、私もカレシと暮らすから!」と家を出ていったきり。
物語の間、この母親が戻ってくる気配はないが、だからといって殺伐とした雰囲気が漂わないのが不思議である。

兄弟はこんなことには慣れっこになっていて、弟は器用に夕食を準備するし、社会人の兄はおかずプラスワンにコロッケを買ってくる。
今は両親が離婚してるとか母子家庭とか父子家庭とかが、不幸の象徴にはならないんだろうし、ある意味これが、日本の一つの普遍的な形なのだろうと思う。
それを、こんな風に、帰ってこない母親さえチャーミングに映し出す、さらりと描写する手腕がさすがだと思う。

それにしても、靴職人、である。なんという、美しい響きだろう。それだけで、なんだかうっとりしてしまう。
いや、確かに彼が言うように、商業主義の今の日本で、靴職人というドリーミーなカテゴリが現実味があるのかという問題はある。彼はその夢を口にすることを、子供の夢物語と言われるのを恐れているし、実際、大人はそんな風に言ってしまう向きがあるだろうと思う。
でも先述したけど、彼はとても15歳には見えない大人びた雰囲気で、でも改めて考えてみると、じゃあ何歳に見えるとか、何歳からなら大人なのだろうとも思う。
彼が年相応の15歳の、高校一年生の少年に見えるのは、その肩書がハッキリした時からなんである。

学校にいる彼、そしてあずまやで出会っていた年上の女性が、実は彼の学校の古典教師だと知った時から、である。そういうことなんだなと思う。
年齢だの大人だの子供だのというのは、そうした方が何かと都合のいい、いろんな条件を当てはめた時に起こることで、そうすることで見えてくる単なるイメージに過ぎないのだ。
きっと彼のような15歳は、いるのだろうと思う。子供とか大人とか、そういうことじゃなくて、彼自身として成立している、男の子。

だからこそ、彼だからこそ、実は彼の学校の教師だった彼女と、恋愛……まではいかない、いやそれこそそういうカテゴリが無粋だと思える、心の交感がなしえたのだろうと思う。
雨の朝だけ会える、何という抒情性。靴職人を目指す男の子と、人生の歩き方を忘れた女性、なんと心に染み入る出会い。
そうか、“歩き方を忘れた”だから、靴職人なのか、とも思うけれども、でもそんな後付け的都合の良さなんて全然、感じない。

しとしとと降る雨、緑のつややかな日本庭園、あずまやで、10も年上の女性の足をそっといただき、計測するなんて場面だけで、女子的には死にそうになる。
ああ、……ありのままの自分をなんのてらいもなく受け入れてくれるのは、年上の大人の男なんかじゃなくて、こんな、男の子なのかもしれない、などと夢想してしまう。

でも、実際、彼女は劇中、結局辞めることになってしまったことを、かつて交際していた職場の先輩の男性に、その後始末を頼む形で相談したりしているし。
なんか、どうやら……単なる推測だけど、ベランダに出て彼女の電話に応じているこの先輩男性は、そのくもりガラスの窓の向こうには家族がいるんじゃないかという雰囲気があるんである。

でもそんなベタなドロドロは示さない。ただ彼女がモノローグするのは、ストレスから味覚障害になって、ビールとチョコレートの味ぐらいしか判らなくなったことを、そこまで追い詰められていたことを、「あなたは信じなかった」と吐露するだけである。
でもそれが大きいんだよね。結局大したことじゃないと思っていたのか、やっかいなことに巻き込まれたくなかったのか、彼女が職場に行けなくなり、結局辞めることになっても、「(味覚障害が治って)良かったじゃないか」ぐらいなモンだった……。

15歳の彼は、学校中のウワサになっているこの女教師のことを、彼だけが知らなかった、んだよね。
後から友人の年上の彼女から聞く、三年生女子のカレシがこの女教師に横恋慕して、プライドの高いこの三年女子はあらぬことを言い触らして、周りも巻き込んでいやがらせしまくって、ついに追い出しに成功したんである。
梅雨があけてすっかり彼女と会えなくなっていた15歳の彼が学校に出たとたんに遭遇するこの事実は、彼と彼女の関係や、年齢や、そんなつまらない社会の仕組みを否応なく突きつけてくる。

辞めるために、つまり身辺整理のために出てきた彼女を取り巻く、彼女を慕い、この事態に怒りを覚えている心ある生徒たち。でも彼らは、彼女を救うことが出来ないのだ。
それは、15歳の、高校一年生の生徒として、義憤に駆られて三年生の教室に乗り込んでボコボコにやられることになる彼にしてもそう。
あの雨の降りしきるあずまやでは、一人の、ただ一人の、彼だったのに、学校に行って、生徒として彼女と対峙すると、ただ力ない子供になってしまう。

あの世界観に酔っていたから、彼女が仕事をさぼっている理由だの、実は生徒と教師の関係だの、なんていうのは、どうでもいいというか、むしろ、クサいな、ぐらいにちょっと思ってた。
でもこのシークエンスが挟まれることで、あの世界観に酔っていた自分こそが子供じみていたことに気付いた。
あのままで、いられる訳がないのだ。梅雨はあけるし、仕事をしていなければ生活はできない。アニメーションの世界だから油断していた訳ではないけど、あまりにもあまりにも、雨と緑と透明な世界が美しかったから……。

最初に二人が出会ったとき、どうやら彼が生徒だと感づいた彼女は、万葉集の歌を謎解きのように残す。兄に聞いても「そんなことは、母さんに聞けよ」その母親は年下の恋人のところに行ったきり帰ってこない。
結果、これが万葉集の歌だということ、返歌があることも、すべてが判ってから、彼女が教師を辞めてから明らかになる。
雨が降らないと会えなかった、でも会いたいと足を運んだ先に彼女はいて、そして……嵐のような雨が襲ってくる。

雨宿りのように駆け込んだ彼女の部屋で、ひと時過ごす時間はとても幸せだった。
彼が作るオムライス、彼女が入れるコーヒー、まだ乾かないシャツが乾く間、静かに過ごす時間の中で、彼は「ユキノさんが好きなんだと思う」と口にした。
彼女は頬を染めたけれども「ユキノ先生でしょ」といなし、実家のある地方に帰ることを口にする。

そして、あの先述のクライマックスである。彼女が意を決して追いかける、までは想像できたけど、踊り場で足を止めていた彼が、それまでとても15歳には見えない落ち着きを見せていた彼が……。
いやでも、その直前に、あの三年生たちにケンカを売った時に、ああ彼も、いわゆる15歳なんだと思って……その続きだったのかもしれない。

自分のことを知っていたくせに。靴職人になるだなんて、しょせん子供の言うことだと思ってたんだろ、自分のことは何も言わないで、言わせるばっかりで、あんたなんかキライだ、キライだったんだ!!と……涙を流して、吠えるの。
本当に、ビックリした。彼女の追いかけ、大仰に思えるほどのピアノ、これは年の差カップルが一気にラブになる展開とか、メッチャハズかしい期待で見てたから……。

でもね、それをぶつけられた彼女が、ゴウゴウの雨でちょっとした声じゃかきけされるような中で、彼女もまた吠えるように、彼に助けられていたこと、歩けなかったんだということ、歩き方を忘れてたんだということ、それをあの場所で取り戻していたんだと、彼に負けない子供のような号泣で、彼の首っ玉にかじりついて、ワンワン泣きながら、言うのだ。

あまりにも突然のように盛り上がるクライマックスで、なんか不意打ちみたいにどーんと突き飛ばされるように、カンドーしてしまったんである。涙が、あふれた。
なんで、なんでなんで。なんかさ、彼女が、そんなこと思ってないとか、きっと靴職人になれるよとか、そんなこと一言も言わずに、つまりある意味、彼の問いかけに答えることなく、会話になってなく、つまりつまり、大人として子供に接するんじゃなくて、同じように気持ちをぶつけて抱きしめあってワンワン泣いたことが、なんか思いもよらぬ方向から球が飛んできてホームランみたいな、そんな感じがしたんだ……。

そしてそれは、ここまで丁寧に描いてきた二人の関係性そのもので、だからこそ、二人はいったん別れるけれども、きっとこのままじゃ終わらない、と女子的期待を持たせてくれた。
いや、それは女子的期待にすぎないかもしれないけど(爆)、でもある意味、男女としては何もなく、別れていった二人が、彼が進級し、季節も変わり、あの重たくゆっさりとしていた緑の枝は枯れ枝に雪を積もらせ、雪のあずまやで彼が彼女からの手紙を、古典の教師らしく、きまじめにきれいな文字の手紙を開き、一層大人びた表情を見せた彼が、彼女に会いに行くことを、心の中でつぶやいた時、ああ、良かった、良かった、と思った。

これが、恋未満に終わった風景としても、それはそれで確かにとても美しいんだけれど、一つの作品なのだろうけれど、彼が15歳の少年で10以上年上の女教師という、判りやすい障壁、世間的なカテゴリとしてここまで語ってきたんじゃないということを、示してくれた気がしてさ、エンディングテーマの後なのに、またひとくさり、泣いちゃったんだ……。

そう、そうそうそうそうそう!エンディングテーマ!私もうもうもうもう、ビックリしちゃった!!
だって大江千里氏の「Rain」!!えーっ!なんでなんで!って、なんでってこともないけど、当時、まさに、当時のファンだった当方としては、もうびっくり仰天!
てゆーか、彼の声じゃない、今を時めく実力派、ハタなんとやら。いやいや失礼、秦基博氏。え?彼がもともとカバーしてたの?と思ったら、本作のために、なんだという!

えーっ!!!ということは、何何何、監督の意向?ビックリ!いや、コーフンし過ぎだが……だってこの曲って、シングルカットされていた訳でもなかったし(多分(汗))、アルバムまでチェックしてるファンしか知らない曲じゃん!
しかしこれが、びっくりするぐらい、この作品世界に合ってて……千ちゃんの曲にはよく出てくるけど、改札とかさ、新宿御苑に直結する自動改札を抜けるところが何度も活写されるところにピタリでさ、それ以外にも、細かい心情描写とかもういちいち、まるでこの曲からこの作品が生まれたんちゃうのと思うぐらいの寄り添いっぷりなんだもの!!!

……新海作品は、音楽のシンクロ率も素晴らしくて、本作のピアノのキラキラ加減はそのまま水の透明感に反射していたし、そうそうそう!私が大好きな、大、大好きな「秒速5センチメートル」の山崎まさよし氏のあの名曲、月キャベ以外には使ってほしくないと思っていたのに、あっさり陥落してしまった、あの感動を思い出してしまった。
やっぱり、総合芸術を作る人は、目も耳も肌感覚も文字間隔も何もかも、研ぎ澄まされていなければダメなのね、この人はホント、そういう人、なんだ!!もー、カンドーしたー!!★★★★★


殺しの烙印
1967年 91分 日本 モノクロ
監督:鈴木清順 脚本:具流八郎
撮影:永塚一栄 音楽:山本直純
出演:宍戸錠 小川万里子 真理アンヌ 南原宏治 玉川伊佐男 南廣 久松洪介 緑川宏 荒井岩衛 長弘 伊豆見雄 宮原徳平 戸波志朗 萩道子 野村隆

2013/4/3/水 劇場(キネカ大森)
後からデータベースのあらすじをチェックして、えーっ、こんな話だったっけと。いや、こういうデータベースは時として決定稿前のシナリオを元にしていることも多いらしいという話を聞いたことがあって、時にホンットに違う話じゃんと思うこともあるんだけど、今回は私、観てる時にどうもよく話が判らなくてさ(恥)。
いや、宍戸錠扮する花田が“NO.3の殺し屋”だってことは判ったが、NO.3……微妙なランクだな、というのが後々効いてくることも判ったが、最初に写真で提示されたのは標的じゃなくて、護送する相手だったの、ああそうなの……あれ、私カン違い、してないよ、ね?

ていうか、観ている時には完全に、車に乗せたこの人が標的だと思ってたし、後から実はこの人がNO.1だとか言って出てくるし、でも本当にその男だったか、何せ顔覚えの悪い私は自信ないし、2は誰だ、3は誰だ、俺も昔はランクインしてたとか言ってつきまとう男はやたらビビリで頼りにならないのか、あるいは花田をかく乱するための存在なのか、うーむ、うーむ、判らん!と思っちまうのは、やっぱり私の頭が悪いんだろうな……。

うーん、ちっとね、寝不足だったんで(サイテーの言い訳……)。いやでもね、でもねでもねでもね、そうか、これ、鈴木清順の映画じゃん(判ってなくて来てるあたり……)。そーなれば、内容よりもとにかくカット、カット割り、構図、キザでスタイリッシュな台詞回し、それで充分、それこそを堪能するべきな訳だからっ(ひたすら言い訳……)。

でもそれこそ私、あまり鈴木清順観てないんだな、と改めて思う。モノクロの鈴木清順は観てない気がする……いや多分……いやいや、観てるかもしれないような気もしてきた(汗)。
まあそれはともかく(何がともかくだ)。鈴木清順っていえばさ、やっぱり日本式極彩色のモダニズム、様式美の権化、ってイメージがあるじゃない、やっぱり。モノクロのそれこそ様式美だと、また違う人がそれこそランクインしそうな気がするからさ。

でもやっぱりメチャクチャカッコイイ。宍戸錠=殺し屋、上物のスーツにサングラス、よく手入れされた武器、さっそうと乗り込む当時の車のシャレてること(今の車より、なんとも粋に見えるのよね)。
それに男も女も、脱ぎっぷりのいいこと!それこそ今更だけど、宍戸錠のセクシーさを初めて見た気がしちゃう。ほっぺたがふくらんでいるだけが宍戸錠じゃないと、今更ながら知ってしまってドキドキ。
筋肉だけがつくような身体作りじゃないの。リアルなストイック男の体つきで、エロい肉厚さ加減なの。
メシの炊ける匂いに興奮するという性癖も、奇妙なエロさ。炊飯器に顔をくっつけて、生真面目な顔でスーハーやる!

で、女優もすべからく脱ぐじゃない。かっこよく脱ぎ捨てるじゃない。おっぱいなんて小さかろうが関係なくスパスパと脱ぐじゃない。ちゃんとベッドがあるのに、用意されたカラのベッドを虚しく映し出しながら、部屋の中にしつらえられたらせん階段に女をからませてセックスする訳。
からませて、って感じなの。そう、これぞ清順ズ様式美。カラーの極彩色のイメージしかなかった自分がホント愚かに思える。肌の濃淡が無機質ならせん階段や、部屋の造作をスタイリッシュに、これぞスタイリッシュに、そしてエロく映し出す。こおんなに宍戸錠ってオレ様セクシーだったのね!と、今更ながらドキドキなんである。

ところで、“女”などと言ってしまったけれど、この相手は奥さんである。でもイマイチピンとこない、のは、やはり、彼女は花田を敵に回す側の殺し屋だったから、なんである。
ランキングされている殺し屋たちは恐らくフリーだろうと思うんだけど、その殺し屋たちと“組織”と呼ばれる側、このあたりが、そのテの映画を見慣れていないおバカさんな私がごちゃごちゃになっちゃうからダメなのね。
しかしこの奥さんは本当に花田を愛していたのか、ただ陥れる為に一緒にいたのか。仕事の以来をしてくる薮原という男のところにいた女はこの奥さんであったようにも見えたんだけど、その辺がスミマセン、ねむねむ頭で……(爆)。

しかし重要なのはもう一人のヒロインの方、なんである。この奥さんもキーマンではあるけれど、脱ぎっぷりもいいし、ファッション雑誌を繰って、目ん玉飛び出るような金額のミンクのストールを、ハダカにまとうシーンなんてさ、グー、グー!グーッ!!!よ。こういうの出来る女優、なんで今いないの!!
でもそれ以上に、フェロモン全開、釘付け、全てをさらってしまう、女の私ですら、彼女に出会ってしまったら、尻の毛抜かれるどころじゃない(爆)魂を丸飲みされてしまうであろう、女、美沙子。扮する真理アンヌの、美しさ、魅力、いや、魔力は、もはや人間とは思えない!!

ヤバい、ヤバいよ、何彼女、何者なの。花田が彼女と出会ったのは、ある雨の日。豪雨なのにコンパーチブル。危険を脱した花田がその彼女の車に転がり込んだ。
全身びしょぬれ。水も滴るナントカとはいうが、不必要なぐらいに豪雨にさらされている彼女の美しさは戦慄するほどである。
美沙子は個人的に花田に、ある外国人を殺してほしいと持ちかけてきた形だったけど、それもまた“組織”の差し金だった、らしい。
チャンスは3秒、神のワザを持つ花田だから自信を持って受けた。なのにふいに紛れ込んだ一羽の蝶。罪のない一般女性を誤殺してしまう。それは最初からの目論見だったの?

美沙子の部屋には花田が思わず「まるで墓場だ」と唖然とするほど、蝶の標本が壁一面だけじゃなく、天井からもずらりと吊り下げられている。美沙子は二羽の小鳥を籠に飼育しているんだけれど、そういえば美沙子のコンパーチブルに乗せてもらった時、フロントガラスに吊り下げられた可愛らしい小鳥のマスコットが、パッと死骸に変わって、花田のみならず観客もギョッとする。
そうした夢とも現実ともつかない場面は、美沙子の登場から途切れなく綴られる。一体美沙子は何者なのか、何を考えているのか、花田のことをどう思っているのか、いやそもそも彼女は花田に最初に会った時言ったのだ。私は死ぬことが夢なのだと。
男を知っているのかと聞いた花田に、男は嫌いよと即答した彼女、花田は、それは夢も希望もないなと、実にマッチョな返しをしたんだけど、それに対して怒ることもなく発したのが、この言葉だったのだ。

今から思えば、花田はそれでこそ、彼女に魅せられたのかもしれない、と思う。目的は一体何なのか、花田に死んでもらうことなのか、意味など排除したようなモダンな構図の中に持ち込まれて、画面の片隅で美しい幽霊のように口角をかすかにキュッと引き上げて微笑みの形を作る彼女は、ゾッとする美しさ。
そういう場面が立て続けに示され、彼女の美しさの奥でピンボケのように据えられる宍戸錠が、それ以外の場面ではメッチャセクシーでクールでカッコイイのに、彼女の前ではすっかり奴隷になってしまう。

つまりこれは、宍戸錠が壊れていくということこそが魅力の映画なのかもしれない。NO.3の殺し屋として信頼も自負もあった男が、どうしようもない恋心によって崩れていく。
だって言っちゃえばさ、パンツいっちょにまでなるんだよ、ブリーフいっちょだよ!なんだか色々追い詰められた花田は(やっぱりよく判ってないあたり(爆))、防波堤でもう死ぬかって、バトルになる。それで、敵の目をくらますために色々脱ぎ捨ててブリーフいっちょのセクシースタイル。

てゆーか、そんな生き死にをめぐる攻防で、NO.1と凄まじく緊張感を強いられる、奇妙な同居生活がコメディリリーフのように挿入される。
腕を組んでトイレに行ったりとかさ、ふっと笑わせたりしちゃうんだけど、なんかね、このシークエンスはコミカルなんだけど、なんか、女は入れない、男同士の友情、なんて言い切れない、それ以上の、同志、運命の絆、なんてものを感じたなあ。
うらやましいと思う一方で、子供じみた純粋さにケッと思うこともなくもないけど、やっぱり、ちょっとうらやましいかもしれない。
最後、彼らが、ボクシングのリングなんていう、それこそ男二人しか入れない聖域で相打ちになるんだもの。勝手にやってろ、と逆ギレしたくなるぐらい、美しき男同士、同志、やんか。
だからゴクドーもチンピラもマフィアも、男でしか成り立たないんだよな。ゴクツマはカッコイイけど、やっぱり女の性ありき。それナシではありえない。それが凄い、悔しい。

でも、ちょっと、ちょっとだけ救われるのは、このNO.1との対決に花田が玉砕覚悟で訪れたのは、いたぶられて殺されたと思っていた美沙子に“お前が死ぬ時に”会わせてやると言われたからだった。
ノスタルジックなカタカタフィルムに映し出される、全裸でいたぶられる美沙子、ガラス板にブチュッとおっぱいがおしつけられる美沙子、炎に焼かれてゆがめる顔さえ恍惚に見え、そのフィルムの、つまり幻の映像に、映し出されたカーテンに、空を切って、抱きしめて、身もだえする宍戸錠の、幻の女に恋焦がれる男の超絶セクシーマッチョに、倒れそうになる。
判んねー、判んねーとか言っていながら、結局ヤラれてるあたり(爆)。

そして照明が点滅する中、俺がナンバーワンだ!と、ボクサーのインタビューに感化されてここまで出張ってきた花田は叫ぶ。ここまで散々、ナンバーワンは誰なんだと、ナンバー2は、ナンバー3はと言うシークエンスがあって、私ね、それは、何か、皮肉な、あるいは詩的な、描写なのかと、表現なのかと思ったの。
結局ここには誰一人いないんじゃないかとさえ、思ったのよ。殺し屋のランキング自体が幻でさ、花田一人が、幻想の中に生きているような……だって鈴木清順的様式美だもの。そう思っちゃったって、不思議はないじゃない?

その様式美の中では女は、いや、美沙子は美しくて、美しくありすぎて……。最後、相撃ち状態で朦朧とした花田の前に現われた、包帯姿の彼女、それまでのツンとした美しさがあったから余計に、これぞツンデレだよね、という……。
でも花田は撃ち抜いてしまうのだ。彼女だと判らなくて。そして自分こそナンバーワンだと吠えて、でも彼も、倒れてしまう。

判んないとか言いながら結局、ヤラれてるし(爆)。いや、とにかく宍戸錠&真理アンヌにヤラれたのよ。ホント、こういう役者、いや、こういう男と女、今いない!!!!! ★★★☆☆


こわれゆく女/A Woman Under the Influence
1975年 155分 アメリカ カラー
監督:ジョン・カサヴェテス 脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:マイク・フェリス/デイヴィッド・ノウェル 音楽:ボー・ハーウッド
出演:ピーター・フォーク/ジーナ・ローランズ/フレッド・ドレイパー/レディ・ローランズ/キャサリン・カサヴェテス/マシュー・ラボルトー/マシュー・カッセル/クリスティーナ・グリサンティ/ドミニク・ダヴァロス/アレクサンドラ・カサヴェテス

2013/8/30/金 劇場(早稲田松竹)
あまりにも有名な伝説的カップル、ジョン・カサヴェテスとジーナ・ローランズの、あまりにも名作の誉れ高い本作を今更ながらの鑑賞。
慣れない映画館、慣れない客層、なんだかまるで上京したての頃のウロウロしていた自分を思い出すような。
だって名画座で洋画を観ること自体、一体何年ぶり??というぐらい久しぶりなんだもの。なんだか本当に偶然のようにして足を運んだ。

この作品って、どういう評価のされ方をしているんだろう。いや、なんか言い方違うな。どういう風に観るのが正解なんだろう。
映画の観方に正解なんてない、受け取る個人ごとに答えがあると判っていても、そんな風に臆してしまう、怯んでしまう。
だってさ、この伝説的カップルって、そして本作って、玄人受けするというか、エッジの効いた方々に(という言い方自体古いが(爆))ウケがいいというか、そんな感じがしてて、だから余計に私なんぞが入っていけない雰囲気があって。
だから今更足を運んでしまった、そう運んでしまったなんて言い方をしちゃうぐらい、臆してしまうの。私が感じた戸惑いのままで正解なんだろうか、って。

あとからデータベースのあらすじなんぞをなぞっても、何の意味もない。そこに答えはない。
てゆーか、一体彼女は本当に“こわれて”いたのか。それすら断言できないような気がする。
むしろダンナの方が壊れてたような気がする。あるいはそれを同情の目で、ご機嫌伺いのそういう問いかけをする周囲こそに、作り手は皮肉の目を向けているのか。

そのどれもが本当のような気もするし、どれも違う気がする。
ていうか、ジーナ・ローランズも、ピーター・フォークもそんなことを考えて演じてない。まあそりゃ役者さんなんだから、作り手の思う通りに動いたってトコなのかもしれないけど、そういう感じもない。
まるでドキュメンタリーかと思うぐらい彼らに肉薄するカメラは不安定に揺れ動き、彼らがそこに不安なまま右往左往しているようにさえ、思える。

ピーター・フォーク、そう、ピーター・フォークなんだもんね!“ウチのカミさん”に翻弄され、ガクガクと“ウチのカミさん”をゆすぶり、ついには大きく振りかぶってビンタをかますピーター・フォーク!
“ウチのカミさんがね……”と言っているピーター・フォークの影も形もなく、そこには粗暴と言えるほどの男臭い、一人の土木作業員がいるだけ。
え、彼は現場監督なの?データベースによると……ただの一人の作業員のように思えたけど……。

そう、粗暴と言えるほどに男臭い。あんまり学が無さそうな(爆)男。だから彼が妻のメイベルに対応するやり方が、あまりにも行き当たりばったりで、考えてなくて、なんだか見ているとイライラするところもあって。
もうちょっと系統だてて考えて、対応してあげれば、妻があんなに壊れることなかったんじゃないかって、思っちゃう。
ただ、そういう男ならばきっと、“系統だてて考えて”妻を精神病院にブチ込んだまま、もうコイツはダメだと“冷静な考え”で斬って捨てたかもしれない。
彼は妻を愛しているから、一緒に壊れたのだ、というのはありきたりな落ち着き先だろうか??

その妻、メイベルがジーナ・ローランズで、タイトルロールでもある“こわれゆく女”。このタイトルがね、私には躊躇させるひとつの要因だった。
壊れる女、壊れていく女は映画における格好の客引き要素で、日本映画でも頻繁に取り上げられる。そういう作品にはかなりのパーセンテージの高さで好評価が与えられ、私はイライラしていた。
日本映画は特に、壊れる女に白痴美を見たがる。壊れる女こそ美しいと言いたいんじゃないかとさえ思う。

そこには女を下に見たがる家父長制度マンマンの日本が見える、とまで言ってしまったらさすがに言い過ぎかもしれんが、とにかく、壊れた女は美しい、みたいな風潮が凄く、ある気がして、好きじゃなかった。
んでもってそういう役どころはまた、賞レースに強いというのも更に、好きじゃなかった。男の下で美しく壊れてゆく女が、芝居ができるということなのかよ、なんてさ。

もちろん、その中には好きな作品だってある。本作でちょっと思い出したのが、「おかえり」だった。
壊れた妻と一緒に、その向こうの世界に一緒に行った夫。それだけを取り出してみれば、まんま同じかもしれないとさえ、思えた。それはいくらなんでもランボーな言い方だが(爆)、だからこそ、違いが良く見えてくる。

ジーナ・ローランズが演じる“こわれゆく女”は、壊れる女の美しさは、ない、まあ、ない。まるでない(爆)。
アメリカ人特有の大げさ気味な表情が、“こわれゆく”となると更にエスカレートするもんだから、日本人であるこちらの観客は勿論のこと、劇中の同じアメリカ人たちでさえ、彼女の家族でさえ、どうしようも対処のしようがない、といった態度を見せる。
それがね、面白いんだよね。判りやすく暴れるとかもまあ、あるけれども、感情の起伏の激しさを、女が乱れる美しさの中に見せたがる日本と違って、ジーナ・ローランズときたら、目ぇ見開いて子供のように駄々っ子な表情で抗議して、とても美しいとは思えないんだもの(爆)。
それこそ子供のようにブッブーなんて唇鳴らして、苛立ちを表現したりしてさ。

劇場内にね、時々そんな彼女の様子に笑い声が起こったりしたのね。終盤の、精神病院から戻ってきた彼女が自制しきれなくて、元の自分が漏れ出てくるという緊張感あふれる場面でさえも!
凄くヒヤヒヤしたけど、それがその観客さんにとっての正解なんだろうし、なるほどという気がしたんだよね。
最初から最後まで、メイベルが本当に“壊れた女”かどうか、私にとっても定義しがたかった。彼女は全然壊れてなんかなくて、この狭い村社会、このコミュニティーからはみ出しているだけなんじゃないかという気がしていた。
外の社会と接していて、そして彼女を愛しているダンナこそが、その定義の板挟みになって壊れていくことを、つぶさに見せている気がしたから。だから……。

ただね、メイベルが“感情の起伏をコントロールできない”とか、いわゆる大人として事態に対処できない女だということは、物語の冒頭から、ある意味懇切丁寧に描写されている。
子供たちを母に預け、今夜はダンナと二人きりでゆっくり過ごす。子供を送り出す時に裸足で飛び出してくるあたりで、顕著である。

そうした、見た目で判りやすい“奇行”は後半、彼女が精神病院にブチ込まれる直前、学校に送り出した子供たちに会いたくてたまらなくなって、往来に飛び出す場面で鮮やかに示される。
道行く人に執拗に時間を聞きながら、応えてくれないことにキレながら、都会の、自動車がひっきりなしに行き来する往来で、まるでティーンエイジャーのようにヒラヒラと薄い生地のミニスカートに、痩せた生足を寒そうにむき出しにして。
そう、ティーンエイジャーじゃないから、その痩せた生足はちっとも色気を感じさせず、何か痛々しい年いった女の足で。

でもね、そうやって、懇切丁寧に彼女が壊れていることを提示されても、彼らの周囲の“常識人”たちがご親切に忠告してくれても、やっぱりやっぱり、メイベルが異常だとは、思えなかったんだよなあ。
それは、先述した“奇行”描写に常に子供が関わっていることを思うと、こういうあたりが上手いってことなのかな、と思う。
子供たちはママが壊れているなんて思ってない。世界一のママで、愛している。それどころか外の子供たちもそう思ってない。

よその子供を預かることになるという重要なエピソードで、預けに来た生真面目そうな父親をフレンドリーに招き入れるメイベルを、この父親はうさん臭そうに、というかあからさまに迷惑顔を見せる。
彼はこの後仕事の予定が詰まっているから、メイベルの申し出はまんま迷惑なんである。だったら振り切って帰ってしまえばよかったのに、子供とコスプレごっこをし出すに至ってついに彼は怒り出す。
君は異常だ。私の子供が心配だから、連れて帰る、と。子供たちはすんごく喜んで、楽しそうなのに。

そこにメイベルの夫、ニックが帰って来て、何をカン違いしたものやら、このマジメなお父さんをぶん殴っちゃったりしたもんだから、余計に事態がややこしくなる。
しかもニックは自分の母親、つまりメイベルにとっての姑をつれてきていたりしたものだから、余計に余計に……。

この出来事が決定的に、メイベルを病院送りにする訳なんだけど、一体、彼女のどこが問題なのかなあ、と思っちゃう私はアホなんだろうか……。
確かに追い詰められればメイベルはヒステリックになって自我を失って暴れ、暴言、ならまだいい、意味不明なことまで口走っちゃうけど、それはあくまで追い詰められれば、なんだもの。
そこが現代社会の、しかも都会の、つかず離れずの人間関係というヤツなんだろうか。それを揶揄しているってことなんだろうか。

そう、脱線してたけど、思い出した。ニックと二人きりで過ごすはずの夜の話だったのに(爆)。
ニックは往来で水道管破裂の事故に遭遇しちゃって、結局帰れないのね。
ニックの妻のメイベルが、精神不安定というのは仲間内では有名な話。というのも、この後示されるように、ニックは現場作業員を大勢引き連れて家に帰ってきたりするから。
でまあ、この甘い夜になる筈だった日、ニックからの電話で今日は一人きりと悟ったメイベルはフラフラと夜の街に出て、美中年をひっかけ、お持ち帰りする訳。
でもこの美中年をニックとカン違いしだし、誘われてここまで来た美中年はすっかりとんだとばっちりでそそくさと逃げ出す。

で、その後、ニックがお仲間引き連れて帰ってくる。メイベルはハイテンションに仲間たちにハグやキッスの雨あられで、急ぎスパゲティの用意をし出す。
後に、精神病院から退院してきたメイベルの出迎えパーティーに、「スパゲティだけはゴメンだ」と彼女の父親が言うシーンがあって、その時の周囲の凍り付きようったらなく、それってさ、母から娘に引き継がれた、とりあえずスパゲティなら簡単にドーン!みたいなことだったのかな、と余計な推測しちゃうと、なんだか可笑しい。

このお仲間たちとのスパゲティランチで騒動が起きる。メイベルは夫の仲間たちの名前を積極的に覚えようとし、その中で盛り上がって、のど自慢の男がイタリア民謡に美声を発揮し始めたあたりから、雲行きが怪しくなる。
ていうか、ダンスしましょうよ、とメイベルがハンサムガイの手を取ったところでダンナであるニックが豹変。豹変、したように見えたなあ。
お前は仲良くしたいだけなのかもしれないが、皆は誤解する。あいつは誘われたと思っていた、と。
そ、そ、そ、そうかなあ??ここでつまずいちゃったらもう、どうしようもないんだけど、この時の唐突なニックの怒りように、メイベルが傷ついちゃった気持ちの方が、女としては理解できるからさあ……。

このスパゲティランチシーン、長いテーブルのお誕生席と末席に、ニックとメイベルがそれぞれ座っている訳さ。で、お互いウィンクとか顔の表情や手の動きとかで、メッセージを送り合ってる。
凄く判り合ってる夫婦に見えたのに、あんなことになっちゃう。でも、つまりはそれだけいまだラブラブな夫婦だから、ニックは妻が色目を使う(いや実際は、そんなつもりはないにしてもね)のが許せなくて、一気に沸騰しちゃう。そんな風に見える。
ニックがメイベルの精神異常を認めたがらなかった、というんじゃなくて、彼も子供たちと同じように、ただメイベルが好きだっただけ、と思うのは単純すぎるだろうか……。

メイベルを手におえない、と彼が感じて知り合いのドクターを呼んで彼女と対峙し、精神病院送りをなんとか納得させるシークエンスと、半年の入院から帰って来て、メイベルが何も変わっていない、ただただ自分の中の本当の自分を抑え込もうとしているというシークエンス。
この二つこそが大重要過程で、で、その二つとも、メイベルは、つまり演じるジーナ・ローランズは、ちっとも狂っているようになんて、見えなかった。

入院前のシーンでは、ここでは言っちゃいけないことをガマンできずに吠えまくるニックの母親の方がよほど狂気だったし、彼女が退院してきたメイベルに、良かった、嬉しいわ、などと大人の対応をしてくるから余計にゾッとした。
退院を祝うサプライズパーティーに、同僚の妻だけとか、もう手当たり次第に呼び寄せたことがひんしゅくを買って、身内だけのお迎えになったとしても、そしてニックが病院まで出迎えなかったことを非難されても、一体何が問題なの?形式ばって、彼女がどう思うかおエラく分析なんかしちゃってさ!と思った。

でもさ、結果的にはどうだったんだろう。メイベルの中には身内にこそしがらみがあったんだから。
ニックが責められたのは、あくまで常識的に考えれば、ってこと。メイベルにとっては、身内だけの出迎えが良かったのかどうか。
この最大のシークエンス、本作の意味を決定づけるシーンで、メイベルは、きっとすんごくすんごく、テンション上がったに違いないのに、抑える。抑えまくる。
そのことにニックが気づく。物陰に彼女を連れていって、本当の自分を出せという。そのわりに、本当の自分を出したメイベルに、身内からの冷たい視線に耐えかねるように、彼らを帰らせるし、ほおんと、ニックは系統だってない、行き当たりばったりの愛、なんだよね。それは愛に違いないんだけども……。

子供たちがさ……天使なんだもん!!半年も母親から離されていた子供たち。この退院パーティー騒動の後、壊れたママに制裁を加えようとするパパに、やめてやめてと、もうくらいつきまわる。
子供は寝てろとぬいぐるみのように抱えて二階の子供部屋に放り込まれても、何度も何度も、ママ、ママ!と叫んで階下に降りていく。

もとよりメイベルの狂乱を信じていない(と私は思うのだが……)ニックは、このすったもんだの挙句、メイベルに子供たちを寝かしつけることを頼む。
穏やかな笑みに戻ったメイベルが一人一人の幼子を寝かしつける、特に男の子ふたりの「ママ、大好き」「ママ、愛してる」の、お鼻の先に、唇に、チュッチュッチュッチュッチュッチュッチュッの優しい無数攻撃には無条件降伏、陥落して萌え死に!!!
ああ、もう、これじゃもう、これじゃキマリじゃん!ああ、男の子、ああ、ママっていいなー!!

ただ一人の女の子、ムスメちゃんは、当のメイベルから、「あなた(ニック)に似てきている。パパっ子ね」ともう断定されて、そりゃあ父親はムスメちゃんラブだからさ、そっちの担当になる訳だけど、お兄ちゃんたちにくっついて歩いてママに付き添ってたこと、二人のお兄ちゃんはママと恋人のようなラブな信頼関係をやり取りしたこと、を思うと、ムスメちゃんの心境やいかに(笑)。
いやでも、やっぱりでも、私はママにはなれないままここまできて、そうなるとムスメとしてのこの子の心中をこそ思ってしまうよ。

だってね、子供たちが、愛するママがいない間にニックの、父親稼業に付き合わされて、えれー目にあったりしてるんだもん。
ムリヤリ海に連れてかれて、なのに水着はNG。ノリノリで水着に着替えたムスメちゃんの幼児体型のぷっくりお腹が愛しすぎる……。
子供たちと自然に遊ぶことが出来なくて、一緒してくれた同僚の作る砂のお城に行きたがる子たちを、プチ拉致よろしく強引に両脇に抱えて波打ち際まで連れてくる。仕方なしに父親に付き合ってる風情の子供たちがやるせないよーっ。

結局はメイベルは本当に狂っていたのか、あるいは本当に狂っていたのは誰なのか、という方向に行くのか。
前者が正解なら、あのラストは、「おかえり」の希望にあふれたカサヴェテスバージョンであり(もちろん、本作の方が先なんだけどね!)、後者が正解なら、……彼らは時代を待つしかない、ということ、なのだろう、かな。

判らない。メイベルのように、どこか自己を失うってこと、あるんじゃないかと思う。メイベルの、テンションを制御する力を持たないってことも、それこそが正常なんじゃないかと思うと、冷たい周囲の視線こそが恐ろしくなる。先述した、都会の雑踏で時間を聞きまくるシーンなんか、ほおんと判りやすいもの。
メイベルは愛すべき女性。ニックもそれに気づいたからこそ、中の自分を解き放て、と言った。
そう言ったくせにその後、解き放っちゃった妻にうろたえる彼にええっと思うけど、それこそが愛、ゲーノー人みたいに簡単に離婚はしないのだよ!!

1975年の作品。今考えてみると、メイベルは精神病とか、狂ってるとかじゃなく、ひょっとして発達障害という可能性があるんじゃないかと思ったりもする。
彼女を彼女として受け止め、愛し、向こうの世界に共に行ったニックと、夫婦の子供たちは、最初から彼女が、狂っているんじゃないと、本能的に確信していたからじゃないかと、思う。

簡単に障害とか言っちゃうのも良くないのかもしれないけど、今こうしてこの時代に観ることができる意味合いは、そういうところにもあるんじゃないかと思う。
精神病院に半年も入れられて帰ってきたメイベルが、自制は覚えたけれどそれだけで、中身が何にも変わっていなかった、というオチづけは、精神病院という場所や、精神治療ということに対する作り手の反発心を覚えさせ、実際、あの当時(少なくともあの当時、ね)、どれだけの効果があったのかも疑わしいし、きっとメイベルのように、本当に壊れた人がどれだけいたのか、簡単に分類されただけなんじゃないか、って。

それにしてもあの姑はコワかった。このヨメは恐ろしい。孫たちは私が守るから、この狂った女をさっさと入院させてよ!と、化粧ノリの悪い、しかも厚化粧で、しかもしかも、無表情の鉄仮面で。
で、ヨメが戻ってくる段に至っては、誰よりも良心ヅラして迎える。これが冷静な、常識人だというなら、私は姑にはなりたくない!(いや、なんかそれは違うか……)

子供たちを介して、穏やかな夫婦関係を取り戻した二人が、お互い協力して寝所を整えだすところに陽気にラストクレジットが流れ出す。これはハッピーエンドとか、明日への未来とか、感じるのは単純に過ぎる?
でも、それでいいというのなら、いい。あっちの世界に行くことこそが、それこそが幸福なのだと、しかもそれが、普通の日常のことなのだと、(当時の)社会こそが画一化された異常さなのだと、そう言い切れるのなら、いい。

私にはその勇気は、きっといまだに、ないけれども……。★★★☆☆


渾身
2012年 134分 日本 カラー
監督:錦織良成 脚本:錦織良成
撮影:松島孝助 音楽:長岡成貢
出演:伊藤歩 青柳翔 甲本雅裕 財前直見 井上華月 笹野高史 中村嘉葎雄 長谷川初範 宮崎美子 中村麻美 隆大介 粟野史浩

2013/2/3/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
この監督さんは「白い船」の印象があって、生真面目な、まあ言ってしまえば優等生的映画を撮る人って感じがあった。いやそれは別にクサしてる訳じゃなくって、そういう作家も必要だよな、という印象。やたらトンがったり、暗い世相を切り取りたがったり、そういう作り手が多いからさ……。
こういう作り手って、いそうでなかなかいない。誠実で、良心をまっすぐ感じる作り手。で、本作でも見事にそれを裏切らなかった。裏切らなさ過ぎて、ちょっと照れてしまうぐらいに。

フィルモグラフィーを改めて見てみると他にもちょいちょいと観てはいるんだけど、そうか、あのスマッシュヒットを飛ばした「RAILWAYS」は彼だったのか。
観よう観ようと思いながらなんかタイミングが合わなくて逃してしまったことが今更ながら悔やまれる。あのテーマならば彼の良心と誠実と商業性が、幸福な形で合致し、ヒットと評価につながったんだろうと思う。そうか、わさおも観なかったな……。

本作はそういう意味で言えば、作り手としての意欲を感じさせるテーマ性がある。この監督さんだから作家性、って感じではないし、なんたって原作があるし、なんだけど、相撲、それも古典相撲を取り上げるなんて、やはり商業映画としてはそれなりのリスクはあるように思う。
原作を未読だからアレだけど、少々人間関係に感傷的な部分を持ち込むことによって、メロドラマから引き込むちょいとあざとくもあるような手法によってある意味“商業性”を獲得した感はあれど、何気にじりじり公開期間が長くなってるから、これは成功したんじゃないかしらん。

うだうだ言ってるのは、まあ、その感傷的にベタに泣かされたからである。つーか、号泣である。あー、ハズかしい。ハズかしいなどと思うのは、そのワナをはっきりと感じたから、まんまとハマってしまった自分がハズかしいんである。
うー、でも、そーゆーことを考えて映画に対峙するなんてつまんないよなと、久々に思う。メロドラマでも、単純でも、ワナでもなんでも、気持ちよく泣ければいいじゃないの、と。

古典相撲そのものだって充分魅力的だし、感動的だし、何も親に勘当された息子だとか、若くして死んでしまう若妻だとか、その忘れ形見を親友であるヒロインが慈しむだとか、親友への思いも一緒に、二人が一緒になるだとか……もう、メッチャ、メッチャ、メーッチャベタベタなメロドラマを入れ込まなくったって、と思う訳。
当然そこには大人の涙腺を緩ませる必殺兵器、子役とゆーやつが送り込まれ、そのつぶらな瞳とぎこちない台詞回し(これが絶妙な上手さなのが憎たらしい!)で見上げられたら、もうそれだけで涙ドバーじゃないのよ、ズルい!
涙の導入部がソレだから、その後いくら涙がドードー流れても、それが古典相撲の荘厳さへの感動なのか、何が何だか判んなくなっちゃう(爆)。相撲場面がスゴかっただけに、そんなまやかしされちゃうの、なんかもったいなーい!!

……まあとにかく。あ、監督さんって、生まれ故郷の島根にこだわって映画を作っている人だったんだね。「RAILWAYS」さえもそうだったんだ。それを知ると、優等生的だのなんだのと言っていたクセに、パーッと好感触に思っちゃうあたり私も単純すぎる(爆)。
でも、そういう作り手って、やっぱり応援したくなる。東京の、都会の映画ばかりだったり、他の土地に乗り込んでいって見当違いに荒らしまくったり、そんなことにちょっと疲れていた部分も、あったからさあ。

主役を張る彼は、初めて見る。最近色々と席巻しているEXILEの役者パートの青年。いい意味で毒もなく、現代に生きる普通の青年のナイーブさが好印象。
正三役大関(劇中ではショウサン大関と略される)に抜擢される役どころだから、見事な肉体、そして「しこもいい」と村の古参からも目を細められる、力士役にとって恐らく最も難しいしこを、実に美しく見せてくれる。
いやー、中学高校時代、大相撲がかなり盛り上がっていた時代、地元からも沢山名力士が出ていた時代、結構私も熱心に見ていたからさ(照)。しかし好きだったのは郷土も何も関係ない、美男力士の寺尾だったりしたんだけどさ(照照)。

まあとにかく、あのしこの美しさには感動したのよ。相撲場面は、何たってこのテーマを持ってきただけあって臨場感に気合が入りまくっててさ。
観客(というか力士のサポート陣営)が塩をまるで雪のようにぶちまけまくる、もう、食塩袋をそのまんまぶちまける、こんなん、大相撲では見たことなかったからさ。座布団が舞うよりも、ずっとずっと、凄いよ!こんなん、ホント、初めて見た!!
土俵下にはそれこそ雪のように塩が積もって、力士の髪にも雪のように積もる。同じ“神聖”なものである酒を何日も前からかっくらってフラフラになったサポート陣営とか、とにかく、なんかもう、凄く、ワクワク、どころじゃない、血がたぎるの!

……て、ところに至るまでには、もうとにかくメロドラマがてんこ盛りなのだが。
主人公の英明は、結婚直前にドタキャンして他の女の子と駆け落ち同然に島を出てしまった人物。劇中ではこの程度にしか語られないので、島の人たちから白い目で見られるのも仕方なかんべよ、と思い、どっかの時点でその時の事情が明かされるのかと思ったが、そんなこともなく、それだけが消化不良だったかなあ……。
後でオフィシャルサイトの解説を見てみると、“親が決めた婚約者との縁談”をブチ切ったというのだけれど、そんなこと、劇中では明示してない、よね?ただ結婚直前にドタキャンしたというだけで……。
こういう古い文化と家系が脈々と生き続ける場所では、そういうこともあろうが、劇中の感覚だと事情がつまびらかにされないから、なんか彼がホント単なるワガママで、長年の恋人をソデにしたのかとか思い、ずっとしっくりこない気分があるんである。

ちなみに、その駆け落ちした相手、まあ恐らく、ちゃんと長年付き合ってきた相手、そして病気を得て、赤ちゃんを産んで間もなく死んでしまうのが、中村麻美。
なるほどなるほど、「白い船」のヒロインだもんなと思い……こんな重要な役なのに、オフィシャルサイトのキャスト欄に彼女が紹介されてないってどーゆーこと!おいおいおいおいー!!!
……うーむ、確かに、私が先述したように、彼女、麻里役は、メロドラマパートだからなあ。しかし彼女がいなければ、ヒロイン、伊藤歩が演じる多美子の存在理由自体がないじゃんかよ……。

親友の麻里が死んで以来、英明が親から勘当されていて頼る者がいないこともあり、島の女性たちとローテーションを組んで、この父娘の面倒をみるのね。
彼は島の人たちから冷たい目で見られていたこともあったから、仕事を得ることさえ容易ではなく、多美子が母親の知り合いに頼んで口をきいてやったということもあった。
この母親が初恋だったという工場のおやっさんは、それじゃ断れねえなあ、と言いつつ、きっと彼がこんな風につまはじきにされていることを、憂えていたんだと思う。恐らく島の他の人間もそう思っていたんだろうけれど、それを打破するキッカケがつかめなかった。“初恋の人の頼み”という言い訳が、功を奏した。
英明の誠実さは小細工なんて必要とせず、島の男たちを納得させていく。しかも英明がそのために仕事以外に打ち込んだのが、島の古典相撲。まだ生きていた頃の奥さん、麻里も、それを嬉しそうに親友の多美子に話していた。

本作のひとつのクライマックスは、英明が正三役大関に選ばれることであって、しかもそれは20年に一度の遷宮相撲、まさに力士生命を考えると一生に一度のチャンス。
心技体を重んじる力士、しかも最高位の正三役大関。英明の“過去”に彼をよく知らない座元のお偉いさんたちが、お約束な感じで難色を示すも、御大、この人が出てくれば問題ないでしょ!という中村嘉葎雄が、彼は立派な男だ。私は責任を持って彼を推挙する。どうか了承してもらいたい、と最初に頭を下げるんではなく、すっくと立ち上がって、頭を上げて、言い放ち、そして、頭を下げるのだ。
同じ思いながらも座を取り持つためにペコペコとしていた笹野高史も慌てて頭を下げる。かくして英明は、誰もがまさかと思った名誉ある正三役大関を勝ち取ったのだった!!

……まあ、やっぱり、色々とトバしている感じだけど。いや、ね。本作、かなり丁寧に、親切に、詳細に、解説モノローグが差し挟まれるのよ。相撲の原点、隠岐古典相撲を描く映画としての気合が、肩に力入りまくってる、って感じなの。まるで学校向けの教材かなんかの作品みたいにさ。
伊藤歩のナレーションで、この隠岐の古典相撲の歴史から謂れから、丁寧に解説される。確かに判りやすいんだけど、その感じが劇映画としてはなんとはなしにむずがゆいのも事実で、ちょっともったいない気もしちゃうのね。
そんなことをするのなら、メロドラマなんか排除して、その歴史や謂れを観客に伝えるべく、物語の中に織り込む手段を模索した方が良かったんじゃないかって思ったり……。
本作はね、確かに泣ける、泣けるのよ、号泣よ。でも先述したとおり、その入り口が“子役”であり、“死んでしまった若妻”であることを思うと、なんか悔しいし、もったいない気がどうしてもしちゃうんだよなあ……。

とはいえ、それで号泣してるんだから、こんなこと言っても効かない(爆)。英明の晴れの舞台に、ずっと勘当し続けで、孫にも会っていなかった彼の両親、そんな具合でそりゃあ出てこれもしなかったであろう麻里の両親が顔合わせして涙涙、そして当然多美子の両親も加わって、利発な娘の琴世ちゃんがそれぞれに可愛らしく挨拶するもんだから、まーそりゃー、ジジババたちは目を細めて、いや潤ませて、一気に関係修復。
ていうか、この場合、全ての橋渡しとなる多美子の存在こそが超重要なのよね。正直、リアルに考えれば、多美子はあまりに出来すぎた女性で、ヨメとしても、死んでしまった麻里の親友としても、そしてもちろん琴世ちゃんの新しいママとしても、そんな上手くいくかよとついイジワルに思っちゃうんだけど(爆爆)。
うー、でもそーゆーこと思うから、いけないんだよな(爆爆)。最初に、こういう良心的な作り手も必要だと、言ったばかりじゃないのお。

まあだから……それがちょっとムリがあるようにも思うから(爆)、だから、古典相撲そのものの感動に集中してほしかったと思う部分も、あるんだわな。
それにね、英明と対戦する座元の大関、彼の父親がとらずの大関と言われた、つまり対戦する相手が見つからないほどの強さを誇った伝説の存在で、その息子も強くて、この相撲のために大阪での仕事を辞めて島に戻ってきたというほどの設定でさ、氏子側から力士を出さなきゃいけないメンメンは震え上がる訳。
二代続けて取らずの大関は不本意だろう、と相手を慮ったのもあるけれど、それよりも、やはり、座元に対するプライドが大きかったと、思う。

この、相手の親子、父親の隆大介のホンモノ感、息子役の粟野史浩氏、すみません、知らなかったんだけど、父親役の隆氏に妙に似ていて、なんかそんなリアリティもあるし、そんな伝説の二代目っていうオーラがバンバン出てて、な、何者!?と思ってしまった……。
この古代相撲は二番とって、一度目勝った相手は二度目は負ける、それで遺恨を残さないのがルール。でもそれって、一番目で勝った方が勝ち、っていうのは、暗黙のルールじゃないかと思われる。
大関同士の結びの一番に至るまで、ちびっ子力士から始まって、300もの取り組みが夜を徹して行われる。その、一大イベント、なんて言い様じゃ言い切れない特別感にザワザワと気分が高揚する。
物語の最初からそれはもう提示されていて、時間をさかのぼる形で人間模様が描かれていくんだけど、正直、そんなモンもどうでもよくなっちゃう。神が宿る、神聖なる儀式、日本人であることを、誇らしく思う、妙なる瞬間。

……なんてことに紛れちゃうからさ、だから集中描写にしてほしかったんだけどさ!メイン家族以外の、ちょっとしたオマケ的キャラの描写こそがくすぐる、琴線をチョイと震わせるってのは、映画の常じゃないの!
英明のサポートについている清一役の甲本氏、メッチャ、メッチャ、いいの!彼の生来の不器用な可愛らしさは数々の映画で発揮されていたけれど、改めて、キュンとしちゃったなあ!
相手は財前直見。同世代、お互い独身役で、特にその理由も言われず(独身であることに理由なんてないけど!……ついつい、日本的風土が色濃いこんな映画だと、先に言っちゃう……)、なんかそれが、お互い思い合ってたのに、こんなにも長い間、十数年、いやもう、数十年かもって間、言えずに、どつきあう関係を続けてきたのかと思ったらさ!

特に、甲本氏が、イイんだよなあ。20年に一度の大イベントで、それを理由に二日にわたって酔っぱらって、その勢いでやっと告白。酔っぱらった勢いに他ならないんだけど、でも本気で言ってる、本気で口説いてるんだと、長年の付き合いだから伸江(財前さん)もそれが本気だと判って、一緒してた多美子も判って、なんかもう、ステキに固まっちゃう。
しかしこの場面、あの、英明、麻里、多美子の両親が集う、メチャメチャ感動的な場面の後、そのメンツがそっくり残ってるところで繰り広げるって、ど、どうなの。なんか後ろの両親ズがぽかんとしている感じに見えちゃって、勝手に心配しちゃったよ!

まあでも、でもでも、そんな色々あったけど、でも……まあ号泣しちゃったのは否めないし(爆)。
とにかく相撲場面はとにかくとにかく素晴らしく。相撲の全ての過程を見せてくれる。呼び出し、行司、それは大相撲のそれとは全然違ってね、観客が塩を巻きまくるボルテージのように、めちゃくちゃエネルギッシュ、エンターテインメントなのよ!

それは、その場面だけじゃなくてね、その場面も、その場面こそそりゃー、メッチャビリビリ来るんだけど、それに至るまでの、儀式が、いちいち素晴らしくて。
もうそりゃー、さかのぼっちゃえば、英明が正三役大関に推挙されて、地元のお偉いさんが夜の闇の中次々と車をつなげて訪れる様とかさ、だったらお膳が足りないでしょうと伸江が駆けつける感じのナマさとか、化粧回しをつけて練り歩く荘厳さ、いやその前に、夜明け前の取り組みを家族や地元の人たちと共に、時にザワザワと、時にしんみりと待つさま。
そしていよいよ取り組み。最初はドラマチックな引き分け、取り直し、そこまでにもたっぷり時間をかけて、でも二番目は実力者にねじ伏せられてしまった英明が、呆然とした様子で土俵に戻り、倒れこみ、血走った目で相手をねめつけながら、気を失ってしまう。

病院で目覚めた彼は悄然とするしかない、でも多美子は、皆が誇りに思っているよ、そう言ってくれたよ、と説き、幼き娘もニコニコとそう繰り返す。
それでも当然そんな素直に受け入れられない英明だが……そこに、病院の外に練り歩きが通りがかる。担がれた相手の力士、英明の四股名を誇らしげに叫ぶ。
後ろには、英明のサポート軍団も嬉しげに行進している。共に、誇らしげに英明の四股名を叫ぶ。この場面の英明、多美子、そして琴世ちゃんは、割とほんわりした対応だったけど、こここそが、涙ドバー!号泣必至!の場面だったと思うんだけどなあ。

「隠岐諸島出身の現役力士、隠岐の海も特別出演」てのがまた、いいじゃないの。ホント今は、日本人力士自体が少なくてね……またそれは、別の話になるんだけれどもね。 ★★★☆☆


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