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「と」


2013年鑑賞作品

東京家族
2012年 146分 日本 カラー
監督:山田洋次 脚本:山田洋次 平松恵美子
撮影:近森眞史 音楽:久石譲
出演:橋爪功 吉行和子 西村雅彦 夏川結衣 中嶋朋子 林家正蔵 妻夫木聡 蒼井優 小林稔侍 風吹ジュン 芽島成美 柴田龍一郎 丸山歩夢 荒川ちか


2013/2/5/火 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
「東京物語」を観たのはもう随分と昔で、名画だからその場面の断片はその後もいろんなところで目にはしたけれど、その一度観たっきり、再見することは今までなかった。
苦手だったんだよね。まだ私は子供で、こういう“名画”の良さが、ちっとも判らなかった。古い日本映画に慣れてなくて、その台詞回しや口調を咀嚼するのも難しかった。

いや、今だって“名画”の良さが判るような大人になったのかと言われればウーンと冷や汗だし、あの頃上手く咀嚼できなかった独特の台詞回しは、主演の笠智衆独特のものによるものが大きくて、今思えばいきなりあの笠智衆にぶち当たってその味わいを判れと言われたって、ヤハリ子供には難しかったんであった。
あの出会いが小津監督に対するトラウマを引き起こし、それが解消されるのは随分と後になってから、ひょっとしたら最近ぐらいなんだけど(爆)、その上で再見しておけば良かったかなあ、と思った。こんな作品が出てくるのならば。

こんな作品。……山田洋次監督ほどのお人が、巨匠と呼ばれて一番似つかわしい人が、オマージュ作品を作るなんて、と思った。だって小津監督とは、全然個性が違うじゃない。いや、個性が同じとか似ている作り手なんて、いないけど、でもやっぱり全然、違うじゃない。
……その後小津作品を見るにつけ、「東京物語」で感じたとっつき辛さは(いや、今観ればきっとそれも解消されるんだろうと思うんだけど……)感じなくなっていって、まさに見事な劇映画の作り手だと判り、それは確かに山田監督もそうなんだけど、でもやっぱり、さあ……。

なんかね、こう言うと言い訳してるみたいでアレなんだけど、ていうか言い訳なんだけど(爆)、「東京物語」の詳細は、覚えてないからさあ。本作を見ると、何たってオマージュ作品、下敷きにしてるというんだから、もう、ソックリに見えちゃうのね。
だって基本となる展開は同じじゃん、それは、さすがに判るから(爆)。老夫婦が東京の子供たちを順繰りに訪ねて、忙しい子供たちは表面上は会えて嬉しい顔を作りつつも、あからさまにメーワクそうにされる連続の物語、という……。

で、ベースは同じだと、過去見たオリジナルが本作を見るにつけ、侵食されているのか、なんかもう、ホントにソックリに見えちゃう。ていうのは、台詞がね、なんか古臭い(爆)。今まで山田洋次監督の映画で、それこそ過去作品、古い寅さんでだって、こんなこと思ったこと、なかった。
なんか、ヘンなの、違和感なの。例えば蒼井優嬢が彼氏のお母さんと話す場面、普通に敬語なのに最後に突然「大丈夫よ」とか言う。まあそれが、古臭いって訳じゃないんだけど、なんかそういう台詞回しは確かに「東京物語」の時代の映画にはあって、それは不思議に違和感は感じてなくて、時代が違うから異世界の物語みたいに子供の頃の私は見ていたからなのかもしれないけど、判んないけど、なんか、そういう、違和感が、もう、全篇を通してあって、凄い、困った。

何度も言い訳のように言うけど再見してないからアレだけど(爆)、「東京物語」のシナリオ、あるいは台詞回しをかなり踏襲しているんじゃないかという気がした……少なくとも、現代を鮮やかに映し出す山田監督の言葉じゃない、気が、したの。……思い込みかもしれないけど。

ふとね、まるで方向違いのことなんだけど、思い出した。「サイコ」がリメイクされた時、ガス・ヴァン・サントは、台詞はもちろん、カット割からその尺から何から何まで、全部同じに撮ったことを、思い出した。オマージュというものが、相手が巨匠であればあるほど、難しいってことを、あの時思った。
ガス・ヴァン・サントが何を思ってそんな手法をとったのか判らない。でも、どう撮ったって、オリジナルに勝てる訳がないほどの作品をリメイクする時、もうそうするしかないだろ、って気持だったのかなって。
まさか山田監督がそんなナゲヤリな気持ちであったとは思えないけど……ていうか、彼の場合、別に撮らされた訳じゃなくて、彼自身が撮りたくて撮ったんだろうからそんな訳、ないんだけど……。

そんな風に思ったのは、何より、橋爪功の笠智衆ソックリ演技、なんである。ちょっと、ゾッとした。いや、ソックリぶりが、というよりは、そんなことを彼にやらせることが。
橋爪氏がどう思って演じていたのかは知らないけど、彼の飄々としたキャラなど大気圏外に吹っ飛ばされて、その独特の台詞回しが何より、身ごなしも、笠智衆そのものだった。
そんな風に見えたのは、私の目が単純なせい??でも、橋爪氏はもっとチャキチャキ、ステキな俳優さんだよなと思っちゃったよ……。

「東京物語」で一番印象に残っていたのは、ていうか、忘れようとしても到底忘れられない強烈な印象だったのが、長女役の杉村春子。思えばそれ以降、どの映画の杉村春子にもヤラれまくっていたよなあ……本当に凄い女優さんだった。
まあ、それはさておき、美容院のシーンも覚えていたから、本作の長女役の中島朋子の美容院が現われて、ああ、ホントに「東京物語」なんだ、と思った。そして改めて見ると役名もほぼ踏襲しているし、ああやっぱりそうなんだ……と思う。

ただ私、本作では大きな役どころとなるつまぶっきー役の印象がない……と思ったら、オリジナルでは戦死している(爆)。なんと(爆爆)。
まあ現代じゃ戦死という訳にはいかない。てか、その未亡人となるのが原節子、うぅーむ、こ、これはキャスティング的にも役目的にも、お、重い(爆)。
結果的に現代に生き続けるつまぶっきーに大きく役目を負わせることになり、原節子の役どころとなる蒼井優嬢にもまた。あの、小津アングルのシーン、片手を目に押し付けるようにして泣くところとか、めっちゃ原節子まんまだよね。ここもソックリさん。

……なんか、「東京物語」との共通点ばかりで話が進んじゃってアレなんだけど、ベース自体がそうだと、そうならざるを得ないというか……。
でもね、実はそれ自体にも違和感はあったんだよね。現代に置きかえて家族の物語を作ったというけど、そうかなあ、と。何度も言ってるようになんか気味悪いほどソックリだし。
そもそも今の時代、いくら老夫婦とはいえ、子供たちの都合も聞かずに漫然と上京してきて、行き当たりばったりに今日はこっち泊まろうとか、するかなあ、と思って。
「東京物語」の時代の事情はそらまあ、判らんさ。あれを観た時には確かに、忙しさを理由に老いた両親を慇懃無礼に邪険にする子供たちに肝が冷えたさ。

でも今は……。いや、この老夫婦、私の両親と同じ年頃なのよ。まあだから、子供たちの年齢も私とどっこいよ。だから、なんか、えーっ……と思うの。
こんな、子供たちに全て決めてもらえる、子供たちのところに行けばなんとかなる、豪華ホテルに泊めてもらえても、部屋で着替えることも出来ずにボーッとするしかない、なんて、現代の60〜70代の夫婦、そんなアナクロニズムじゃないよ、と思っちゃう。
まあそりゃー、それは人にもよると思うけど、少なくとも68歳の現代の女性が、正装は着物姿、娘とさえこまかな意思疎通が出来ておらず、東京に出ての予定はダンナの旧友との再会以外、自分の予定も行きたいところも何にもない、なんてさ!豪華ホテルで出てくる御馳走にまごまごして「色々説明されたけど、難しくて。」なんてさ!
……いや、全てのこの年代ががっつきオバチャンではないけど、でも、でも、なんか、やっぱり、時代錯誤、ていうか、まんま「東京物語」の老夫婦まんまなんだもん!!なんか現代のこの世代をバカにしているように思っちゃう。

……なんだろう、何か、とにかく、違和感なの。だからこそ、メインであるつまぶっきーと蒼井優嬢と、この夫婦の邂逅は、それを感じずにいたかった。
先述のように、違和感はアリアリだった。ただ、オリジナルではつまぶっきー演じる昌次が戦死していて存在しないということが、本作にとって有利に働いて、こと昌次に関してはそうした台詞回しの古臭さやキャラ設定の違和感を感じないんだよね。
昌次は舞台美術の仕事をしているんだけど、定職って感じじゃなくて、まあ両親や兄姉から見ればフラフラしているように見える。
冒頭、両親を迎えに行かなくちゃいけないのは品川駅なのに東京駅に行ってしまって、口うるさい長女には「あんたはホンットに役に立たないんだから」と言われ、それはそれ以降も口癖のように言われるんである。

でも実際は、老いた両親の来訪に、自分たちの都合を優先してメーワク顔をし(……まあだから、先述のように、なんの計画もせずに来ちゃったこの両親自体がね、アレなんだけど……)、荷物のようにあっちこっち移動させる彼らとは、昌次は明らかに違う。
確かに突然お姉ちゃんに、両親をどっかに連れてってやれと言われて困惑もするし、特に気難しい父親とは、幼い頃から期待されていないことをありありと感じていたコンプレックスもあってメーワク顔ではあるんだけど……。

でも明らかに、違うんだよね。観ている時には「東京物語」をハッキリ思い出していた訳じゃなかったからアレなんだけど、でも昌次だけが違う気は、確かにしていた。台詞回しが、違った。彼だけが、現代に生きている感覚があったんだよね……。
彼の恋人であり、原節子役を担わされる蒼井優嬢は、彼とつながっていながらも、先述のようにやはり、やはり、時空が違うの。橋爪さんの笠智衆と対峙する原節子でなければ、ならないから。

カタい父親から今後の展望の見えない職をクサされて、今の時代、どんな仕事だって、そんなのあるのかと反論する昌次。時間と身体の空いた時に飛び込みで手伝いに奔走する昌次の仕事は確かに定職とは言い難く、いくら先の見えない現代であっても、父親世代からはテキトーにフラフラしているだけに見えるんであろう。
まあそこんところはリアリティがあるっちゃある。ベタだけど、いつの時代も父親ってのはそーゆー頭がある。それこそが、オリジナルにいない昌次の存在こそが、現代のリアリティを示しているというのも皮肉だが。

そして、昌次の存在、彼の仕事、先の展望はないけど、情熱を持ってやっている、それでしか支えられない芸術の仕事は、彼の仕事は舞台関係だけど、もちろん映画にも通じ、そこには山田監督自身の情熱や、スタッフへの思いを感じるんである。
……だから何度も言うように、オリジナルにはないそこだけが、現代のリアリティを感じるというのは、なんだか、何とも皮肉にも思えちゃうんだけれども。

ところで、本作は、あの震災があって、撮影予定が延期されたんだという。シナリオも、書き直されたという。あの震災が製作に影響を受けた映画は数々あるけれど、……難しい、んだよね。あの震災は、あまりにも大きすぎた。単純にシナリオに手直しするぐらいじゃ、どうしようもない、んだ。
……そう思うのは、不遜、だろうか。私自身は別に被災した訳じゃない。でもやっぱり、思っちゃう。製作延期までして、作り直されたシナリオは、震災のことを言及する部分は、なんとも付け足しのようにしか、思えなかった。
昌次が紀子と出会ったのは、被災地のボランティア現場。それは「役立たず」とののしられるばかりの昌次が、実際は志の高さや優しさを持っていることを示すし、それはもちろん紀子もそうだし、というのはある。

そしてもうひとつ、父親の周吉が、亡くなったかつての同僚に線香を手向けに行くと、未亡人となった奥さんは母親を震災の津波で亡くしたという。
父親は戦争中、沈没した船から骨も戻ってこなかったという彼女は、「今頃海の底で会えてるんじゃないかと思うんですよ」と言う。
双方共に、深いエピソードではある、けれども、ここまでのソックリオマージュ、それ故の違和感、現代のリアリティを唯一感じたと思った次男にとってつけたように付されるボランティアエピソード……なんかね、なんか、震災のことに触れなければおかしいみたいな、なんか言われる、みたいな、そんな、そんなことを思っちゃう私が、おかしいんだろうか……??

震災後、今こそクリエイターにとってオイシイところ!とばかりに、ジコマンヒューマンが次々と出てきてもう、ホントに、ヘキエキしたのだ。だから、だからこそ、山田監督には、こんな片手間みたいな扱いしてほしくなかった。ガッツリ行ってくれて、それに対してヤだと思った方がなんぼかマシだったよ……。

ラスト、妻を亡くし、財産荒らしのような形見分けだの、今後の“老人の一人暮らしを子供としては放っておけない”という偽善めいた押しつけだのを振り払う父親。そんなうるさい子供たちは忙しさを理由にあわただしく島を後にした。
残ったのは次男と、急死した妻がことのほか気に入った次男の恋人。優しいけれどどこか頼りない末っ子を心配していた母親が、息子曰く“トシヨリに好かれる”というドンピシャの恋人をいたく気に入り、こんないい娘がいるなら大丈夫、と上機嫌、その後、倒れて帰らぬ人になったのであった。

ツレに去られて呆然とし、しばらくは息子の恋人の存在など認知する余裕もなかった父親が、彼女に頭を下げて、妻の形見の時計さえ差し出すシーン。それこそ忘れてたけど、形見の時計もオリジナルにあったのね。
このシーンはまさしく小津そのもの、有名な低く仰ぐ小津アングルの基本形、会話シーンで人物を真正面から切り取ってカットバックするのもこれぞ基本形で、まさに笠智衆と原節子のカットバック。
そして先述したように、片手を両目に当てて慎ましやかに泣き伏す様はまんま、メッチャ、これぞ、原節子なんすよ。

……現代で原節子が出来るのが蒼井優だと山田監督は思ったんだろうし、「おとうと」(あ、考えてみればあれも市川昆版が下敷きにあったんだっけ……)での彼女の素晴らしさもあっての起用だと思うし、まさに、まさに、なんだけど、ここに至っても、私は、やっぱり、やっぱり、なんか、色々、気に入らない(爆)。
単純に、山田監督ともあろう人が、小津オマージュを、しかもこんなにマンマにしてほしく、なかった。

やっぱり一番イラッときたのは、“現代の老人”をあんな、何の計画性も持たない、何にも出来ない、子供に疎ましがられるだけの存在に仕立て上げたこと。
冒頭、タクシーに乗って地図を必死に説明する母親に「おばあちゃん、ナビに入れたから大丈夫だよ」と運ちゃんに言わせる。今の68歳、それぐらい判ってるだろ!おばあちゃんと言わせるのも、いかにもおばあちゃんスタイルなのも、なんか、なんか、気に入らない!
まさか瀬戸内海の地方から出てきたから、そんなことも判らないとかいう設定?それこそ時代錯誤じゃないのお! ★★☆☆☆


東京に来たばかり
2013年 100分 日本=中国 カラー
監督:ジャン・チンミン 脚本:ジャン・チンミン
撮影:釘宮慎治 音楽:ウォン・ウィンツァン ウォン美音志
出演:チン・ハオ 倍賞千恵子 中泉英雄 チャン・チュンニン ティエン・ユエン 窪塚俊介 風間トオル 小市慢太郎

2013/11/17/日 劇場(シネマート新宿/モーニング)
なんか、中国人監督の映画に倍賞千恵子が出ている、本当にその興味だけで足を運んだから、まさに僥倖であった。
ああ、なんかもうずっとずっと胸がじーんとしてしまって、胸がいっぱいになってしまった。良かった、良かった、とても良かった。
もーう、一館で朝だけなんて、なんてもったいないの!!とか言いつつ、私だって、“中国人監督の映画に倍賞千恵子が出ている”、つまり一種のキワモノを覗きに行くような気持だったから、大きなことは言えないが、つまりはそういう扱いだからこそなのだろうが、もったいない、もったいなーい!!
こんなに素直に“いい映画”を言える作品は滅多にないよ、久しぶりにそう思った。

こういうものに出会うとね、日中関係とか、お互いに嫌い合ってるとか、結局は理解できないんだとか、あるいは何かにつけてネット上に氾濫している、お互いを悪しざまに言い合っていることってさ、やっぱりその人たちはこうして直接相対していないんだ、だからなんだ、って本当に思った。
それはずっとそう思ってはいたんだけれど、やっぱりそういうのに遭遇するとイヤな気持ちになるからさ、私だって、そっちが嫌いなら結構!ぐらいな気持ちになったりもした。
でも、対人間として、直接触れ合えば、絶対にそんな風に思わないんだ。歴史を知ることだって大事だけど、ひょっとしたらもっともっと大事なのは、やはりこうして、直接人間として出会うことなんだって、それをあっちから言ってもらえて、本当に、本当に嬉しかった。

とはいえ、主人公の留学生、吉流君は最初はヤハリ、ザ・東京の激しさに戸惑う。
留学生、と後にアマ大会に出た時に紹介されるけれど、学校に行っている訳ではなく、彼の目的は囲碁の修行。仕事を紹介してくれる筈の知り合いは、「日本人は適当な理由で断るんだ」と、もう最初からどんづまり。
金を借りて囲碁をする気はないと、吉流は一人、東京の雑踏にさまよい出る。
通勤を急ぐOLにどしんとぶつかられて、持っていた碁石が散らばる。それを拾ってくれたのが、老婆、五十嵐君江との出会い。

この五十嵐君江が、倍賞千恵子。老婆、そう、老婆なのよ!!大体が、五十嵐君江という役名だって、劇中ロクに出てこない。
吉流はずっと彼女のことをおばあちゃん、と呼んでいるし、彼と親友になる君江の孫の翔一は、なんたって孫だから、彼にとっちゃ本物のおばあちゃんである。

そう、そうなの、倍賞千恵子、登場シーンから衝撃だった。野菜の行商のおばさん。そのカッコのみならず、もう、ホントに、老婆、なんだもの!!
でもそうだ、彼女は確かに、本当にそのまま、年をとっていった。年齢のままの、倍賞千恵子だった。
それって、そういう女優さんって、ホント、いないんだよね!!本当におばあさんをやれる人。昔は若い時から老け役やって、そういう専門の女優さんがいたもんだけど、最近は本当に難しくなってしまった。
で、仲間の行商のおばさんたちに交じっても、そのまんま行商のおばさん。いやあ……衝撃だったなあ。
でもそこはそれ、さすが倍賞千恵子、さすが女優。正体が知れてピシリと和服を着こなすと、かつて名人とうたわれた、女流棋士の品のあるたたずまいになるのだっ。このギャップの魅力!!

……あまりにも倍賞千恵子が素晴らしいので、ついつい先走ってしまった。
いや、倍賞千恵子のみならず、主演の吉流を演じるチン・ハオ君も素晴らしい。なんか見たことのあるお顔のようなと思ったら、
「スプリング・フィーバー」の彼!そ、そうか!! 最初はタイトルのとおり「東京に来たばかりです」を連発するだけで、あとは先輩に教えられたとおり、“大きな声でハイと言う”ことを実践するしかない吉流。
でもその場所は仕事の当てがなくて困っていた彼に、おばあちゃんが紹介してくれた場所。「ホテルの清掃の仕事なんだけど」という言葉だけだと、単純にシティホテルか、少なくともビジネスホテルぐらいと思うあたりが、安穏と暮らしている日本人の浅はかさ。
そうか、カプセルホテル。これってひょっとして、日本ならではなのだろうか。日本の、大都会ならではなのかもしれない。
蜂の巣みたいなカプセルホテルの造形は、そりゃあ中国人青年にとってカルチャーショックに違いない。

と、いう経験も、監督自身のものによるんだという。本作が日本の、日本人の描写に違和感がなく、それを中国人の視点で描くという新鮮さが魅力的であるのは、監督自身が8年間の長きにわたって映画を学ぶため、日本で留学していたから!!
そうか、そうかそうかそうかー、だからここには出会った日本人だけではなく、日本、というか東京やその近郊、そこに自らのホームシックも重ね、日本の里山風景が、日本人だってこんなに叙情豊かに描けないよ、というものがあってさ。なんか、理解があって、共感があって、愛がある、感じがしたんだな。
日本を日本としてだけとらえるんじゃなくて、中国人としての彼のフィルターを通して、ゆっくりじっくり理解した日本は、私ら日本にとっても思いがけないことの連続なのであった。

個人的に嬉しかったのは、このカプセルホテルの常連客を小市さんが演じてること。もう、超嬉しい(涙)。やっぱり素敵(涙涙)。
最初こそ、「シーツ替えておいてくれって言うたやんか」と声高にクレームをつける怖さがあるんだけど、……あ、そうか!考えてみればこの登場シーンから関西弁だ!!

特に彼の人となりを解説される訳じゃないんだけど、コテコテの関西弁で、吉流君が囲碁が強いと聞き及び、カプセルホテルの狭い通路にロールの碁盤を敷いて勝負を持ちかける。
カプセルホテルのやっすい寝間着姿の男たちが、最初はその蜂の巣から顔を出し、次第にわらわらと見物に集まって、黒山の人だかりになるのが楽しい。
「お前、めっちゃ強いやんか」と小市さんがストレートに賞賛するのが、凄い楽しい♪もう個人的にキャーキャー言っちゃう(爆)。

この小市さん演じるお客さんは、本当に囲碁が好きで、後に吉流の大会もニコニコ見物に出かけるし(小市さんだから、もうニコニコなのよ!!)、“おばあちゃん”に遭遇して、「五十嵐先生やないですか!僕、大ファンなんです!!」と興奮するという好感度ハイレベル。
あー、もう、小市さんが出てくるだけで嬉しいのに、なんだかなんだか、もっともっと嬉しい!!!

……てか、小市さんはあくまでワキキャラだから。もっと重要な人をさっさと言っとけ、っつの。
そう、ちょっと先述したけど、おばあちゃんの孫の翔一。妙におばあちゃんが彼に冷たいのが何故なのかは、最後の最後の最後になって明かされるんだけれど、まあ最初からハデなナリとチンピラ系で問題抱えてそうな雰囲気アリアリ。
錦糸町のボウリング場で働いているから遊びに来いよ、と吉流に声をかけ、あっという間にへべれけに飲み明かしてマブダチになる。
台湾人の美人な彼女がいて、その彼女を巡ってなのか、コワいお兄さんたちとひと悶着。腹をグサリとやられて、血だらけで吉流の下宿に転がり込む。

「俺、人を殺した」ということがバレるからなのか、いやその彼女=奈菜子を守るためなのか、……まあ、後者だろうけど、頑として病院に行きたがらない。テキトーな市販薬でまぎらして、結構長々と元気でいる(爆)。
最終的に死んでしまうんだけど、吉流や奈菜子が彼を案じて、病院に行け行けと説得するんだけど、随分長いこと元気だからさあ。千葉のおばあちゃんのところに帰っても、みこしまで担いじゃって(爆)。

その間、吉流はアマチュア囲碁大会に参加、見事決勝まで進出する。考えてみれば、吉流君に対して、おばあちゃんも翔一も何をする訳ではないんだよね。まあ確かに、一度は危機を救うけど。
この囲碁大会の予選中、順当に勝ち進んだ吉流に、中国でプロ資格を取っていたんじゃないか疑惑が浮上。それはネット上で人違いされちゃったからなんだけど、失望した吉流が棄権しようとしたところを、翔一が“理事長”に電話をかけ、そしておばあちゃんがその理事長に会いに行くことで見事嫌疑は晴れる。

このあたりで翔一、あるいはおばあちゃんが何者であるかがうっすらと知れてくるんだけれど。つまりはそのための展開上の障害であるだけで、吉流君が彼らの尽力で資格はく奪されずに済んだことを知ることもないしさ。
そう、何をする訳でもない。まあおばあちゃんは吉流君に仕事を紹介してくれたけど、言ってしまえばそれだけとも言える。
何をする訳でもないけど、それ以上に、普通の人間同士の親愛が、彼らには最初からあるのよ。
それは、吉流君がそれ以外のところで肌身に感じる、東京の、あるいは日本人の冷たさと結構あからさまに対比させてもいる。
カプセルホテルのスタッフなんて、そのあたり明確、それこそ、日中関係、って感じだもん。だからこそ、そのお客と囲碁を打って一気に気持ちが交わるのがスリリングなんだよねっ。小市さーん!!素敵っ。

……また、ついつい脱線してしまったが。そして、そうそう、なんといっても、このおばあちゃんが暮らす千葉の里山の風情が素晴らしいんである。
確かに千葉は東京の隣接県だけれど、行商に来れる距離ではあるんだけれど、その彼女の道筋は、月島行のバスに乗ったり、築地市場に隣接する勝鬨橋を渡ったり、もう私にとってはめっちゃなじみがあってドキドキしちゃうんだけどっ。
あ、そういえば……ずっと公衆電話、だった。劇中で特に言及はされなかったけど、監督自身の体験を投影していることも考えれば、その時代を描いていたのかな、きっと、そうだ。
だって行商おばさん専用列車も、今はないというし……でも今年初めまで運行されていたなんて、知らなかった。少なくとも私は、こんな行商おばさん、見たことなかった。知らなかった。監督にとっての青春時代の風景だったんだ、きっと……。

そして、そう、千葉の里山の風景、ね。千葉、ということさえにわかに信じられないほど、美しい里山の風景。
君江おばあちゃんの家は、立派な冠木門があって、広い縁側に囲炉裏も立派で、いくら田舎の一軒家とはいえ、とても立派なことに、最初から気づくべきだった。
“中国人の描く日本”だと、どこかでやっぱりなめてかかってた。彼は日本を日本人以上に理解してくれている人だったのに。

囲碁の名門の家なのだった。おばあちゃんの息子、翔一の父親に当たる人物は、不慮の交通事故で若くして死んだ。
おばあちゃんに教え込まれた翔一は、小さな頃から才能を発揮していたけれど、高校生の頃嫌気がさしてやめてしまった。それは、いわゆる思春期のモヤモヤに過ぎなかったんだろうか。
のちのおばあちゃんは、彼の父親が、いつかあいつはまた囲碁を打つようになると言っていた、と明かし、翔一は顔をゆがめる。
ずっとずっと、彼はもう一度囲碁を打ちたかったのかもしれない。だって吉流君とあっさりマブダチになったのは、やっぱりそういう運命だったんだと思うもの!!

翔一を演じる中泉君は、ああ確かに何となく見覚えがある……色々見ている、デビューの主演作 も見ている筈なのだが、あまりに前過ぎてよく覚えてない(爆)。
判りやすいイケメン君なのだが(ある意味これだけホントのイケメン君は、案外珍しいかも)そのせいなのか、もう最初から刹那な空気をバリバリ感じさせて……。
死ぬかもしれない、この傷を抱えていたら死ぬかもしれないというのをやたらと長々引っ張るからちょっとギャグか、とか突っ込みたくなるところなんだけど、彼の刹那な色気が、ああ、彼はきっと死ぬ、死んでしまうんだと、思わせるところがあった。

彼が命を懸ける台湾人の彼女、演じるチャン・チュンニンが美人でね!!キレイな女優さんは数々あれど、本当に、ほんっとうにきれい……と呆然と見惚れてしまうような人は、久しぶりだった。
吉流君が働くカプセルホテルの受付嬢が、まあ彼女も美人ではあるけれど、ちょっと、まあそのう、お顔が大きめというか(爆)、ハッキリしすぎたお顔立ちだからさ(爆爆)。

吉流君はこの彼女にちょっとホレちゃってて、彼女が金持ちジジイの腕にぶら下がって歩いているところに遭遇しちゃったからショック受けちゃって、なんてエピソードがあるんだけど、奈菜子=チャン・チュンニンがあまりにキレイだから、この受付嬢の立ち位置はちょっとキツい。
大体、「私、中国人なんだよ」とわざわざ明かしてくれなくても、思いっきり中国訛りで、判るさ、そりゃあ(爆)。
いやさ、ずっとそんなこと言わないからさ、それどころか吉流君に「笑わないでね。中国風の餃子を作ったの」とお弁当を差し出すぐらいだから、これは色々マーケティングの事情とかで(爆)、日本人キャラだけど中国人スターを使わなきゃいけないのかな、と思ってた訳さ。そういう訳じゃ、なかったんだね……うーむ。

吉流君は、決勝で敗れてしまう。その生中継を翔一とおばあちゃんは見ている。見ながらその石を並べている、まさにその時に、翔一は倒れた。
吉流君はね、集中して打っていると、鼻血を出しちゃうの。この決勝のシーンで、翔一が倒れるのと呼応するように鼻血が出る。そして負ける……。
この時、能楽堂のような高貴な会場に奈菜子が来てて(あ!小市さんも来てるのよ!!!)、観客を映したカメラに翔一は釘づけになった。本当に、本当に愛していた、大事な彼女だったのに……。

吉流君の鼻血、あっ、これって呉清源だっ、て思った!!てゆーか、中国から日本に来た囲碁打ち名人、そりゃー、呉清源を思い出すでしょ、と思った。なあんて言いながら、あの映画を観てなきゃ、呉清源の存在自体、知らなかったんだけどさ!!
でも、それこそ呉清源は、対人間として、両国の理解を深めた人だったと思う。きっとそんな人が沢山いるのに、積み重ねているのに今でもまだ……。
でもそれしかないのだ。時代が変わるごとにリセットされても、それでもあきらめずに、人の心を信じて、判り合うしかないんだ。

翔一が死んだことを、おばあちゃんは決して吉流君に言おうとしなかった。実家の長野で療養させてる、そう言うばかりだった。
でも、決勝で負けて、おばあちゃんに挨拶に行った時、彼女が喪服だったから、もう、判っちゃった、と思った。でも彼は、判ってなかったんだなあ。
おばあちゃんがこの地を去ることになり、吉流君と一席設ける。近隣の人たちが続々集まって見守る。
大体が、設けられる場所からしてひどく改まった、神聖チックな場所である。……吉流君は、このおばあちゃんが、あるいは翔一も、ただならぬ碁打ちだと、判っていたのかなあ。

恋人が死んだことを察知して、この場に現れた奈菜子は、そりゃもう女の直感だから、全てが判ってる。
判ってても、観客も判ってても、おばあちゃんが彼女のために、翔一の遺骨をとっておいたことには、胸をつかれたなあ……。小さな骨箱を奈菜子の胸に押し付けて、さあ……。

奈菜子とおばあちゃんのシーンは、ほんの数シーン。いっかな病院に行こうとしない翔一を説得してほしいとこんな郊外まで訪れる奈菜子は、そりゃまあカタコトだし、なんか、どうなの、と思わなくもないの。
でもそこは、相手が倍賞千恵子だし、それにチャン・チュンニン嬢も、翔一を愛した女として、そこに生きていたと思う。彼女がいたからこそ、吉流君も翔一と友達になれた。友達……生涯の親友になれた。
翔一が頑固だからこそだと吉流君は言い、奈菜子は後に、おばあちゃんのことを、翔一以上に頑固な人だと、一目で判った、と言った。
現実の話としては辛すぎるけど、これを武士道を貫いた、そんな理想のエピソードだと思えば、美しいと思えるのかもしれない。

吉流君は、奈菜子に聞いて翔一の死を知っていたけれど、おばあちゃんは彼に最後まで隠し通した。隠し通したかった。
1年後、吉流君に奨学金が降りたことを知らせに、転送に転送を重ねた日本棋院からの通知を持っておばあちゃん=名人、五十嵐君江は彼を訪ねる。
一年前、決勝で対戦したチャンピオンとも親交を深め(窪塚俊介君、なんか貫禄出た!)、苦労せずとも碁が打てる誘いも受けていたのに断っていた吉流君、おばあちゃんの知らせに心から喜ぶ。
このシーン、電話がかかってくる日中交流学校みたいなところで、電話の会話がそのままスピーカーから流れてしまってクスクスみんなが笑うのも微笑ましいし、吉流君はとっくに翔一が天国に行ったことを知っているのに、「今日、翔一は来れないのよ。」というおばあちゃんの言葉にだまって頷くのとかがもう、たまらないのよ!!

あの日、翔一が死んだことを奈菜子に聞いて知ったその日、吉流君は慌てて、もはやがらんとした彼らの家に駆けこんだ。
幼い頃の翔一の写真などを眺めているうちに、ほの暗い板の間に、翔一が現れた。
碁盤もない、ただの板の間に打たれた布石。「お前、臆病だな」と笑って翔一が差した最後の一手は、吉流君が決勝で負けたその一手を、翔一の手で差し直したもの。

ああ……。このシーン、さあ。まあ確かにベタよ。ファンタジー感動モノとしてはベタベタよ。でも、ここまで丁寧におばあちゃんと吉流君と翔一の関係を、関係なんて明確じゃない、空気を、気持ちの触れ合いを、……それが信頼という名前に変わることさえ、遠慮がちな、そんな関係性を、もどかしいほどゆっくりじっくり描いていたからさ!
そりゃまあ、翔一の刃傷沙汰とか、美人彼女とのゴタゴタとかは、ベタベタさ。でもそれがあってなお、それがあるからこそなお、この三人の関係が凄く繊細で、それなのに運命的で、胸が詰まるのだ。

おばあちゃん=名人五十嵐君江が、それをしっかり観客に示す形で終わるラストが、また、なんともいい。もちろん吉流君はそれを知っているけれども、“おばあちゃん”の手前、知らないフリをしている。
そしておばあちゃん=五十嵐君江は、囲碁会館に静かに入っていく。小市さんもいる!!名人に直立して、頭を下げる初老の諸氏たち。
おばあちゃん、いや、名人、五十嵐君江は、ぴしりとしたグレーの着物が良く似合っている。しずしず歩いて行って、大きく示された碁盤をひとしきりみつめて、目を赤く涙で潤ませるのが、ああ、これが、人生を刻んだということなんだと、胸を熱くさせずにはいられない。
この境地にたどり着くためには、それだけ人生を重ねなきゃいけないのだ。生きなければいけない、ちゃんと、生きなければいけないのだ!!

何より囲碁、その美しさ。中国よ、ありがとう。この美しき文化。結局はなんでもかんでも、中国何千年の歴史にはかなわぬ。そのプライドがあってこその、共作であろう。
悔しいけれど、嬉しい。そこに、古くからその文化を取り入れ、熟成させていった日本へのリスペクトも感じられるから、嬉しい。

倍賞千恵子が書いたという、日本語題字がまた、美しい。もうこんな最初から、本作は理解し合っている、と思う。嬉しくて大好き。ありがとう。★★★★★


東京の英雄
1935年 64分 日本 モノクロ
監督:清水宏 脚本:荒田正男
撮影:野村昊 音楽:早乙女光
出演:藤井貢 吉川満子 桑野通子 三井秀男 岩田祐吉 突貫小僧 市村美津子 横山準 近衛敏明 出雲八重子 松栄子 水谷能子 御影公子

2013/7/11/木 京橋国立近代美術館フィルムセンター
清水宏監督特集。なかなか足を運べなくて、ようやく3本目。そしてサウンド版体験二回目。
一時間余りの尺の中に10年の時を超えて見事に、壮大な家族の愛憎(いや……やはり愛情と言いたい)物語が描かれていて、スゲーッと思う。
だってお互い連れ子同士の再婚、ダンナがインチキ会社をほっぽらかして失踪、ダンナ側の連れ子である長男君こそが、きれいごとだけでは三人の子供を育てることが出来なかった継母である母を理解し、愛し、最後には実の父の罪を糾弾、追い落とす。
しかもその間、母の“裏切り”に傷ついた妻側の連れ子二人はグレて、その弟の方が命を落とすのが、この不実の継父が原因、なんだもの!

えーっ!こんな複雑な家族ドラマ、現代なら描くのに軽く3時間はかかるでしょ!
だけど端折ってる訳でもないし、心理も細やかに描かれているし、一人一人の心情には丁寧に寄り添い、それでも60分余りでドラマは作れちゃうのよ。
そう思うと、なんか当時の技術の方が優れているように思っちゃう。いや実際、そうかもしれない。作家性という名のもとに、どんどん尺が長くなって、もう4時間だのなんだのなんていう長尺で驚かせちゃおうなんていう向きもあって、疲弊してたから、ホント、こういうワザには溜飲が下がる。

この長男君の長じた方は、サウンド版初体験の「大學の若旦那」主演だった藤井貢氏で、当時の役者さんはメイクの仕方とかかなり似ている向きもあって、それでなくても顔覚えの悪い(爆。それで映画ファンとか言ってるんだから……)私にはツラいものがあるのだが、さすがにたて続けなんで判った(爆)。
彼は苦労した継母のために、きちんと大学を卒業して、新聞記者になって、と成功街道を歩む訳だが、その象徴として、オーダーメイドのスーツを仕立てる場面がある。
これこそ何といっても時代、良き時代、今はスーツをオーダーメードで仕立てるなんて、おぼっちゃましかやらないだろうが、当時はこうした洋装だけでなく和装も当然オーダーメードであり、人生の節目として必要な儀式だった。

そう、この物語のキーポイントとなる、一番下の妹が嫁入りする場面でも、まず反物をソワソワと選ぶシーンから入るんだもの。その結婚は破たんしてしまうんだけれど……まあそれは後述するけれど。
でね、この長男、寛一を演じる藤井氏は、その洋装で、ハットなぞもかぶって颯爽としているんだけれど、どう見ても和装体型なのよね。つまりいい感じに腹が出てる(爆)。
いや、このかっぷくの良さこそ、和服が常であった日本人の体形であって、実に理想的なんだけど、だから洋装だとただの小太りのおじさんに見えるんだよなあ(爆)。

そういう意味では、母の“裏切り”に勝手に傷ついて家を出てしまった弟のやせぎすの身体に、「今じゃ相当の顔役よ」と妹が言う、つまりチンピラスーツは良く似合っていて、小太り兄さんと対峙する場面はなかなか悲哀があったりするんである。
で、その妹もすらりと背が高く、それこそ母が「あの子は洋装の方が似合ってね……でも、奥さんは和服の方がいいからと……」と女中さんを相手に思い出話の途中で、辛い過去を思い出して口ごもる。

そう、本当に、洋装の方が似合うんだもの。当時はくるぶしまであるようなロングスカートの時代だけど、それでも彼女の腰高の、すらりと足の長いスタイルは際立っていて、中盤、当時の風俗を示すように入れ込んでくる(それを新米記者の寛一が取材する訳)松竹歌劇団の華やかなレビュウガールに彼女を抜擢してあげたくなるぐらい。

実際の彼女は、劇中明確には言わないけれども、いわゆる立ちんぼ、ってことなんだろうなあ。
先輩である銀座の名物美女の家に入りびたり、あるいはあれは居候?タバコをぷかぷか吹かすこの先輩に寄り添って、「私も同じ種類の女よ」と呆然とするお兄ちゃんの前で言ってのける。

と、……なんか前段階全部すっ飛ばしちゃった。やばし。仕切り直し。
そうそう、最初は子供時代なのよ。この子供時代がなんとも魅力的なのよ。
寛一の少年時代を演じているのは突貫小僧、よく聞く名前だよなと思ったら、次男を演じているのは爆弾小僧(ここでは横山準という役者の名前)。
爆弾小僧って、突貫小僧と間違えてるでしょーとか思った無知に赤面し、そもそも突貫小僧=青木富夫だということに今気づいたことが本当に恥ずかしい(爆爆)。子役から名優、生涯現役の、奇跡の先達なのにっ。

しかし爆弾小僧ってのも凄い芸名だなー。何にしてもこの子供三人はすんごく、良いのよ。そもそも突貫小僧の小生意気っぷりが、冒頭から観客の目をくぎ付けにして引っ張っていくんだもの。
膝丈ズボンのはなたれ小僧たちが、土管に座って足をぶらぶらさせて集まってる。遠くに往復の列車が何度も行きすぎ、時にバンザイをしてみたりして見送る。
もうお父さんが帰ってくるからと、一人、二人、姿を消す。それが画面固定でオーヴァーラップで消えていく手法で、ほおーっと思う。

後半に出てくる、今はすっかり定番の(いや、今は逆にやらないかもしれないけど……)事件を、工場で刷り上がる新聞記事を映し出すことで示す場面とか、なんかこのあたりが起点になっているんじゃないかと勝手に思ってワクワクする。
あるいは「大學の若旦那」もアメリカ映画に影響されたというし、若き監督が意欲的に取り入れたのかなあ。そう思えば、どちらもいかにも、アメリカ映画っぽい描写。

そうそう、この三人の子供である。お父さんの帰りが遅いのは、ばあやが言うには「お偉くなったから」であり、後に女手一つで三人の子供を育てることになる継母がクラブの仕事で遅くなるのを「きっとお母さんは偉くなったんだよ」と義理の弟、妹に言い聞かせる長男君の、マセガキだけど純粋ないい子っぷりが泣かせるんである。
大体、この最初の対面で、いきなり弟に鉄拳をかまし、父に叱られると、「だって、寛一君とか、君とか、他人行儀なんだもの」か、カワイイ……。
この弟もそういう意味では相当ませているような気もするが、とにかく寛一のまっすぐ素直な性根がカワイイんである。
父親が疾走し、貧乏長屋に移り住むことになった一家、母親が子供には言えない仕事で遅くなって、幼い弟妹が寂しくて泣いてしまうと、長男君までつられてエーンエーンと泣いてしまう可愛さに、笑いながらもなんか涙っぽくなってしまう。こ、これが青木富夫なんだね!カンドーッ!

父親がやっていたインチキ事業が、純金だの株だのを買わせて配当金を約束する、つまり資金を集めるだけ集めてトンズラこくという、まさに今もズルズル“継承”されている手口でさ、なんとも言いようがないって感じなんだよね。
しかもこの父親はいかにも事業者然としていて、あまりに悪びれなく、それにも驚いちゃうし……。
だって彼らの子供時代にも、息子が寂しがっているとばあやから聞けば、「今の仕事が落ち着いたら後添えをとも思っているんだが……」と言った次のシーンで、もう新聞に「妻募集」この見出しにはかなり愕然としたけど(爆)。
しかも漢字だらけの広告内容は臆面もなく、金銭的なこととか、自分アピールしてるし(爆爆)。
まあ……これもアメリカ映画の影響かも。でも漢字で書くとなんかヘンなんだよね。文化の違いだよなあ。

で、そこに二人の子連れでやってきた後妻。あれ、そもそもなんでお互い連れ合いがいないのかしらん。
そうか、こーゆーところを突っ込みたがるから、現代ではドラマが無駄に長くなるのか。当時なら、どうして、なんていくらでも理由はありそうだから(戦争とか、病死とか)、勝手に推測してオッケーというおおらかさがあるんだろうな。

この後妻のお母さん、何となく見たことあるような……気のせいかな。このお顔立ち、なんか他の映画で見たことあるかもしれない。
娘の結婚の際に、子育てのためにやむを得ずしていた仕事がバレて、嫁ぎ先から帰されてしまった。弟も恋人に、家族から交際を反対されて、その事実を知ることになった。

妹はさっさと姿を消してしまうからまだアレなんだけど、この弟、いかにも青臭い弟の方は、世間の噂を頼りに母親が働いている大人の社交場に押しかけ、お姉さんたちにほほえましく見守られた末に、ついに母親と対峙、涙を流して、「こんなことをしてまで、大学に行かせてなんてもらいたくなかった」と訴える。
母もまた涙涙で、しかししおれてはおらず、「お前が、母親の私がこんなところにいる筈がないというのなら、息子のお前がこんなところに来る筈がない、それは私の息子じゃない」と涙ながらにも言い放つ。
このシーンの、じっくりと二人の顔のアップをカットバックにして、サウンド版だから彼らの声は聞こえないんだけど、ものすごく心揺さぶられて、役者の、芝居の原点、あるいは映像の、演出の原点というものを、感じさせるエモーショナルだった。

豪邸から貧乏長屋に引っ越して、三人の子供を育てなければならないという時に、長屋のおかみさん連中から「私たちとは品物が違うね」とウワサされる。
そんな彼女が、新聞の求人欄を眺めながら、ホステスには年がいきすぎてる、女中は子供がいると住み込みはできない、事務員には履歴書がなくてはならない(英語字幕ではエデュケーションとされていた……つまり履歴書=学歴ってことなのね)云々と悩んでいる。
時代が違えど同じ女として、そして私は経験がないけれども子供を抱えた女として、なんか今も昔も大して変わらなくて、なんか暗澹たる気持ちになっちゃうんだよなあ。

妹、弟は、大人になってから母親の秘密を知ったけれど、長男君は、子供の頃から知っていたんじゃないかと思う……そんな気がする。決して彼は、言わなかったけれど。
妹、弟が相次いで出て行って、長男一人が残って、大学卒業、就職。母親はようやく仕事を辞められると、経営していたクラブの女の子たちに、借金も棒引きにしてやって、幸せな奥さんになるのがいいよ、と送り出したのだった。

クラブに勤め、その後自分の店を経営するまでになった彼女の努力と才覚は称賛されこそすれ、責められるものではない筈、と思うのは、現代だからなのかな。
なんかこの弟と妹の反応だと、まるで春を売っていたように……そうなのかな。勤めていた時はやはりそうだったのかな。

クラブってどんなところ、と幼い子供たちに聞かれて、「重役さんたちが、相談事をしたり、休憩したりするところよ」と説明したのは確かにその通りだけど、でもやはり、やはりやはり……。
長男君は、早い段階からすべてを知った上で母のそばにいて、彼女の実子たちがアイソをつかして出ていった、その傷心を誰よりも判ってて、何よりそんな目に合わせたのは、自分の実の父親であり……。

こ、この複雑な中の、純粋な愛情を見よ!!!もちろん、母親側からもその葛藤は合わせ鏡のように一致していて、それは一見して同情や気遣いのようにも見えるけれど、違うの。そこには10年を超える親子関係が確かに存在していて、だからこその切なさでさ……。

チンピラになっちまった弟が、チンピラとして雇われた先が、相も変わらずインチキ投資会社をおこしていた父親で、思わぬ悲劇の再会で、グレても純粋な弟は、この仕事を断ったため、仲間から裏切の制裁を受けて、死んでしまうんである。
死んでしまう!ま、まさかこんなシリアスな展開が待っているとは!!途中まではさ、そらま、弟妹は出奔したけど、ちょっとしたグレ加減で、お兄ちゃんが新聞記者になって、当時の風俗である松竹少女歌劇団のレビュウを見せたりさ、なかなか楽しかったから……。
その延長線上のように、銀座をそぞろ歩く噂の女からつながって妹が出てきたから、油断してたのよ。まさか、こんなシリアスなことになろうとは……と。

あの時、自分が腹を痛めた息子から、こんなことをしてまで、大学を出してもらいたいとは思わなかった、と言われた台詞を返すように、母親は、自分の父親を追い落とした寛一に、旦那様に申し訳が立たない。そんなことをしてほしくて、大学を出したんじゃない、と泣き伏す。
追い落とした、そうなの。この作品の一番のクライマックス。自分たち家族を捨てて失踪した父親、という以上に、人々を騙して逃げた父親。この時から、寛一はそういう意識を持っていたように思う。

息子としてではなく、新聞記者として、インチキ事業者の父親に会いに行くこの場面、相対する部屋を隔てたガラスドアの向こう側で、とりまきたちが今にも飛び込もうとする動きを見せるスリリング。台詞が声で聞こえないのに、このドッキドキはなんたること!
子供の時から目の当たりにしてきた父親のインチキを、大人になった、しかし父親の子供である立場で責め立てる辛さは、血のつながらない家族への愛情につながっていて……。
それはこの時代における、新時代、新しい価値観を示すためだったのかもしれないんだけれど、今だってこんなこと、きっと出来ない。これは人間としての、崇高な、意識の高みなんだもの。

全てが明らかになり、母親は泣き伏す。この期に及んで、旦那様に申し訳ないとか言う、当時の女の立場に戦慄する。
寛一も泣きながら、これが父親に対する親孝行なんだと、……確かそう言ったような気がする……(すいません、うろ覚えで……)。
義理関係、実子実親関係を縦糸に、社会描写に翻弄される彼らの心理を横糸にして見事に織り交ぜられ、こ、これが60分あまりの作品なの!と驚きに満ち満ちた作品。なんで東京の英雄なのか、やっぱり判んないんだけど! ★★★★☆


図書館戦争
2013年 128分 日本 カラー
監督:佐藤信介 脚本:野木亜紀子
撮影:河津太郎 音楽:高見優
出演:岡田准一 榮倉奈々 田中圭 福士蒼汰 西田尚美 橋本じゅん 鈴木一真 相島一之 嶋田久作 児玉清 栗山千明 石坂浩二

2013/5/12/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
単なる(などと言ってしまったらアレだが)ファンタジーだと思っていたので、この大マジに驚いてしまった。
いや確かに、ファンタジーには違いない。いわゆる架空の時代を突き進んだ日本という舞台、なんだもの。
本作が既にアニメ化されていることをうっすら知っていたせいで、余計にそう思い込んでいたところは、あるかもしれない。ついでに言えば、監督さんはああそうか、「GANTZ」の。それを知っていたらひょっとして私、スルーしてしまっていたかもしれない。
いや別に「GANTZ」が悪い訳じゃなくって、そう、本作は「To be continued」になってなくてホントに良かった(爆)。ホンットにシリーズが苦手なんだもの。
原作はもうすでに何冊も出ているまさにシリーズ作品で、だからアニメも続く訳で、本作もその恐れがあった訳なんだけど、とりあえずひとつに収めてくれて、あー良かった(爆)。
もちろん原作ファン、アニメファン的にはアレかもしれんけど、映画は基本、まず一本はひとつの完成形で見せてほしいと、思っちゃうの。

でね、そう確かにこれはファンタジーではあるんだけど、それこそ同監督の「GANTZ」が画的にも展開的にも全きそうであるのに対して、本作は、なんか、何とも、ホントっぽいんだよね。
勿論、今の日本で本という表現の自由が犯され、その自由を勝ち取るために人が死ぬほどの戦闘が繰り広げられるなんてことはない。確かにない。それこそファンタジーと言ってしまえばそれまでなんだけど……。
それこそ、ね。これをアニメで見てしまえば、もちろんアニメだからこそ出来る迫力や、いい意味での大げさ感はあると思う。でもやっぱり……こう言っちゃナンだけど、本当に火を噴く機関銃や、血をふいて倒れる肉体や、コンクリートに蜂の巣のように銃弾が貫かれたり、そうした、“痛み”の映像は、やっぱりやっぱり映画(この場合は実写という言葉は使いたくない、なぜか)の魅力だと思うんだよな。

アニメではいくらでも残酷なシーンは描けるけど、でもそれはやっぱり、絵の具で描かれた血であり、……いやまあ、映画だって単なる血のりだけど……でもやっぱり、違うと思うんだ。
劇中でね、残酷系の本を愛読していた少年が犯した殺人がキッカケで、やはりそうした本は取り締まらねばならぬという大きな展開になることを思うと、余計に、活字、アニメーション、実際の人間が演じる映像、といった関係を考えてしまう。
全てが表現の自由であり、何一つ糾弾されるべきものはないと思うけれど、やっぱりそれぞれに特性があって、社会性があって、どう開かれているか、あるいは閉じられていることこそが魅力だったり、あると思う。

実はね、こうして羅列して考えてみると、活字は確かに一番、アブない面もあるのかもしれない、と思う。客観としての二次元を持たないから、いかようにも自分向きのモノに変換できる。
でもそれこそが活字の、本の魅力であり、読者の数だけ世界観が広がる場所なのだ。どんなに後出のメディアである映像やアニメが頑張っても、基本、活字に勝てないのはそこにあるし、だからこそ本作にはリアリティがあるんだよね。

そう、単純に考えれば、アニメーションや映像の方が残酷や不埒を伝えやすそうなのに、あくまで本だというのが、ね。これこそのリアリティ。何ともホントっぽい、って言ったのは、だからこそ。
本作の舞台設定、こんな時代になってしまったという経緯を示す冒頭、昔っぽい映像の作りも上手くって、ああ、そんなことあったっけ……んん?などと騙されかけてしまった。
“平成”の年号の替わりに掲げられたのは「正化」。そこで、あ、これは架空の日本の物語なんだ……とようやく気付くオバカさん(爆)。

でも、本作の核になっている「メディア良化法」は、そういうさ、似たようなバカな規制が取りざたされて、表現者とお上とでケンカ状態になったこと、あったじゃない。だからやけに既視感があって……。
もうホントに社会に関心がないもんだから(爆)それがその後どうなったのか、あんまよく覚えてないんだけど(……サイアクだな……)そういう記憶があったから、凄くリアリティがあって、こういう世界になっていてもおかしくないかもと、この平和ボケした日本にいてさえ、そう思わせちゃうんだから、スゴイんである。

まあいつものように、大分前置きが長くなったけれども(爆)、基本的には主人公二人にときめいてしまうんだなーっ(ここでハートマーク使いたいっ)。
ヒロインは榮倉奈々ちゃん。もう、めっちゃキラキラ。
高校生時代、大好きなシリーズ本の最新作をメディア良化委員会の特別執行部隊、という名の有無を言わせぬ無法戦闘隊に奪われそうになって、抵抗して、そこで助けてくれたのが、お上にたてつく唯一の自営組織、図書隊の隊員だったのであった。

このキーポイントになるシーンには、いくつもの大事な要素がある。女子が胸キュンする“王子様”との運命の出会いだって、バカにしたもんじゃない。
女の子はそんな“夢みたいなこと”に本気になって、それで自分の人生を切り開いたりする。乙女の恋にはそれだけのパワーがあるのだ。

彼女が読みたくて読みたくて、執行部隊に抵抗した本は、言ってしまえばそれこそ単なるファンタジー本だっただろうと思う。
その中に描かれた、ファンタジーならではの冒険につきものの残酷描写(というほどでもない、つまりは冒険描写だ)と共に、落ちこぼれもヒーローになれるんだという描写が引っかかったという部分は、愛読者である彼女が「だから面白いのに」と単純に憤慨する以上に、いや、単純だからこそ根が深く、これが根っこになっているからこその、リアリティなんだよね。

そしてもちろん、ここで彼女と彼が出会う……そろそろいくらなんでも名前を出しておかなきゃ後々メンドクサイ。
当時高校生の彼女、笠原郁、のちに彼女の鬼教官となる図書隊員、堂上篤。
本を守りたい、あの人のような図書隊員になりたいと入隊してくる笠原に、この出来事が軽率だと問題視されて、それ以降はクールな上官に徹している堂上というこの、女子的にはたまらんツンデレ関係!

めっさ恥かしいけど、あー、ヤだ、ジャニーズにときめいちゃった(爆)。いやいや、彼は「天地明察」でもすっごく良かったし、代表作であり、彼のマジなアクションマスターぶりを発揮したという「SP」の誉れも高いから、別に軽視していた訳じゃなかったんだけどさあ。
本作は、てゆーか、この役はヤバかったなあ。やはりそうした彼の肉体の下地があるってのがまず、ヤバいのよね(爆)。
素人目にはどこからスタント入ってるかとか判らないけど、まあ彼は全然入れてなかったのかもしれんけど、奈々ちゃんは入れてるだろうけど……とにかくとにかく、その固く締まった感が、ほかの男子と全然違うんだもの!
彼と同僚の田中圭はお気に入りだから見逃すとしても(おいっ)、笠原と同期で何かと対立する手塚を演じる福士蒼汰君なんかさ、もういっかにも、今の若い子の棒っきれみたいな細さでさ、細いだけで細マッチョですらなくてさ、それで、若きエリートとか言われても、ちょっとなあ、と思っちゃうんだもん。

でね、これはちょっと関係ない話なんだけど……私、榮倉奈々ちゃんのファーストインプレッションは、こともあろうに(?)「僕は妹に恋をする」だったの!
相手はマツジュンさ。彼だって別に背が低い訳ではないだろうけれど、奈々ちゃんが高すぎるのさ。
切ないクライマックスで、お兄ちゃんが妹を背負う場面で、奈々ちゃんの足が地面につきそうになってるのが何とも興ざめっつーか、ガッカリで、稀代の美形のマツジュンでもダメなら、もうジャニーズで奈々ちゃんに太刀打ちできる奴はいねーなと思ってた。

そして岡田准一の登場なのであった。もうしょっぱなから笠原から堂上はチビと呼ばれるのであった。もちろん鬼教官だし、笠原はあくまで陰で愚痴っていただけなんであった。
でも彼女のあけっぴろげな性格ゆえにあっという間にバレちゃってからは、もう犬猿の仲。私を助けてくれた王子様には憧れても、堂上教官は大っ嫌い!の筈だったのだが……。

すらりと背の高い奈々ちゃんと、背はそこそこで固く締まった細マッチョの岡田君。同じく背が高いスタイルの良さであっても、「デカイ女」的に言われちゃうような、つまりは庶民的なあっけらかんとした明るさを持つ女優と言ったら、奈々ちゃんしかいないんではなかろーかと思われる。
彼女と仲良しで同じように背が高くスタイル良く、可愛い可愛い長澤まさみちゃんも、ちょっと違うんだよね。こういう、いじりたくなるような奈々ちゃんの魅力とは違う。
いやだからさ、あのファーストインプレッションの奈々ちゃんが、あの映画は暗かったからさあ、あの作品は私、かなり好きではあるんだけど、先述した、“背負って足がつきそうな”ってトコがどうにもこうにもギャグでさ、困っちゃってたのよ。

その思いがあるから、今回のこの二人のキャスティング、なんでも某有力雑誌のアンケートでこの二人を演じてほしい一位同士だったという!
そのぴったり感も当然あるんだろうけど、私的には、そう、奈々ちゃんが、ジャニーズのイケメン君をチビ呼ばわりし、嫌い、だけど、段々と……てのが、何より萌える、萌えるのよーっ!!

……すいません、コーフンしてしまいました。えーと、なんかこれじゃ、全然話判んないけど、もう体力なくなってきたから適当にスルーするの、許して(最悪だなー)。
もちろん基本、というかクライマックスは良化委員会の検閲執行部隊と、図書隊との激突。
かつて起こった、真犯人グループが特定できずうやむやになってしまった、ある図書館での無差別殺戮、焼き払い事件。
その“真犯人グループ”として切り離される、つまりクライマックスでの再登場にて、ある意味アクション要員、盛り上げ要員として用意されている、鈴木一真以下の右翼的グループが、見た目にもストイックに黒スーツ黒ネクタイだったりして、なんか、ね。
判りやすいクレイジーな敵役でさ、正直、物語の本質をそらせたような気がしないでもないんだよね。まあそりゃあ、この場面はワクワクはしたんだけど……。

良化委員会との闘いも激戦だけど、そこはなんつーかね、紳士協定っつーか、お互いそれぞれの“法”を示しあって、敬礼して、始まる。
充分ドキドキの展開ではあるし、笠原に扮する奈々ちゃんの無鉄砲さがライバルの手塚を改心させたり、何より堂上の笠原に対する心配以上、愛情未満……未満かどうかは微妙だが(キャー!)を示したり、中盤は何かね、リアリティはありつつ、やはりちょっとお休み的な雰囲気なんだよね。

でも真実の戦闘、良化委員会以上に手ごわい相手、愛国という名のやっかいな思想を持った相手との対峙。
本をめぐる攻防のバランスを取っていたカリスマ人物の死去により、私設歴史資料館、そして良化委員会の不正の証拠があるとされるその蔵書をめぐって、良化委員会の死闘をさらに超えた事態に発展。図書隊の創設者と彼を護衛していた笠原が誘拐されちゃうんである。

この事態に至るまでに、お上から息がかかった警察とのやりとりとかもあってさ、ギリギリのバランスをとっていた対立関係が崩壊することは必至だったんだけどさ。
ただ、笠原は純粋な猪突猛進の思いしかなくて、かつての堂上のように、良化委員会が本屋さんで検閲している現場に乗り込んじゃったりするしさ。
つまり、なんていうか、ヒューマンストーリー的なぬるさがあったんだよね。正直、あんな厳しい描写と展開になるなんて思わなくって……。
本当の本当のクライマックスでは、敵方の右翼チームはかなり赤裸々な感じでバチバチ撃たれて死んじゃうし、えっ、えっ、いいのと心配になるぐらいだった。日本映画じゃ、なかなかこんなムチャはないじゃない……。

でもさ、この場面さ、図書隊の御大である石坂浩二を必死に守って敵の銃弾に対抗している笠原、いやさ奈々ちゃんのところに、すっと現れて、トントンと何気なく彼女の肩を叩く。何気なくよ!!
切羽詰まった彼女がその通りの顔で、何よ!と見ると、鬼の堂上教官、いやさ、岡田准一、いやさいやさ、マツジュンならぬ、オカジュンー!!!
……恥ずかしながらこのシーン、この肩をトントン、死ぬかと思うぐらい萌えました(爆)。

ここまでうっかり言いそびれてたけど(なぜここまでうっかり!)、彼らのコスチューム、自衛隊を思わせるストイック、そして何より、奈々ちゃんの微妙、絶妙に膝上のタイトスカート、いや、あれは微妙に巻きスカート!
ヤバッ!膝上丈でもヤバイのに、ちょっと倒れて膝崩れると、太ももが、そしてその奥がーっ!
我ながらコーフンし過ぎだが、しかし彼女のような健康美人が無意識に(多分。無意識じゃなかったら、素晴らしすぎるぞ!)見せてくれるチラリズムは、はあぁ、素敵すぎるっ。

……奈々ちゃん賛美ばかりで、もうすっかり途中崩壊だが(爆)いやでももちろん、濃い目のイケメン、小柄マッチョの岡田君がいてこそよ。
戦闘が終わり、無事だった笠原を堂上教官が思わず抱き寄せるシーンは、その後の彼の「これはなんというか、父親のような気持ちで……」なんてベタな言い訳なくしても、充分萌え萌え。
堂上教官を超えて見せます!なんていうこれまたベタベタ、超絶ベタベタなセリフも、奈々ちゃんだからこそ素直にグッと胸に迫り、その涙目と、最後までストイックを崩さない岡田君のお顔にも泣かされるんである。あー、ヤバイヤバイ、なんかすっかりハマッちゃってて、なんかハズかしい!

途中、事態が激化するのが、内部にリークしたヤツがいるらしいとかいうから、え、え、誰誰、誰が裏切り者なのーっ、となんかムダな心配しちゃったよ。
え、いないでしょ、裏切り者、メインのキャストで明確にされなかったよね、ね?立ち位置的に堂上の同僚の田中圭あたりかと思って、ヤだ、ヤだ、とハラハラしちゃったよ!
あー、良かった、彼最後までいい人で(爆)。あまりにもいい人フェイスだから(いや、それが地顔だっつの)、なんかもう、ホントにハラハラしちゃったよ!!

それで言ったら笠原の親友、柴崎を演じる栗山千明嬢も思いっきり私的リストに入ってて(爆)。だあって、だってだって、あんだけの美貌で主人公の親友とか言っちゃったら、そら疑うだろ!(不毛すぎる考え……)。
柴崎自身の気取らない魅力は充分出ていたとは思うし、親友思いの彼女はとても素敵で、だからこそ、観客に余計な労力使わせるなよ……と勝手に思っちゃう(爆)。本当にうっとりするぐらいキレイなんだもん。

本作の最大のポイントはなんといっても、今はもういない児玉清の登場であったろう。この闘いの、つまりは自由の、表現の、思想の、人間的尊厳としての象徴として写真だけで出てくる、もう故人となったカリスマ的人物。無類の読書家として有名だった彼だからこそ、価値がある。
そして冒頭にバーンと出てくる「図書館の自由に関する宣言」は、もちろん劇中の図書館にうやうやしく掲げられるし、彼ら自由を守るために命を賭する図書隊員たちの礎になる訳なんだけど、これが、原作者の創作ではなく、その昔、実際に「日本図書協会」なる団体による綱領であった、というのには感激、感激、大感激!!これぞ日本の自由の礎よ!!

だからって訳じゃないけど、ちょっと、ちょっとだけ、中国の文革、あるいは天安門事件、なぞを思い出してしまった。
架空の、ファンタジーとして描ける日本は幸せなんだろう。でも重要な部分をあいまいに逃げてきた気もする。そんな気もする……。 ★★★★☆


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