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「し」


2014年鑑賞作品

色道四十八手 たからぶね
2014年 71分 日本 カラー
監督:井川耕一郎 脚本:井川耕一郎
撮影:清水正二 音楽:
出演:愛田奈々 岡田智宏 なかみつせいじ 佐々木麻由子 ほたる 野村貴浩


2014/10/21/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
以前、渡辺護監督作品を初めて観たぐらいの時、最初のピンク映画を撮った……などと書いちゃったのは思い込みの間違いだったみたいだけど、それでもごくごく初期の、黄金期を立ち上げたお方には違いなく。
その他の監督……若松孝二監督にしろ高橋 伴明監督にしろ、ピンクから“足を洗う”形になっていったのと比べて、ほぼほぼ彼は、ピンクにとどまり続けていた、から、その他の監督たちより一般的な知名度が落ちてしまうのかもしれない。

それでも最近は、一般映画の方に行っていたんだね。見覚えのあるタイトルもあって、役所広司が注目された作品なんてのもあって、私、全然知らなかった。
そんな渡辺監督が、彼を敬愛するピンク映画ファンの自主製作の形で担ぎ上げられ、本作の準備の段階で倒れ、帰らぬ人となった。つまり、遺作にもういちど、ピンク映画に戻ってくる形になったかもしれないのだ。

いや、企画、脚本に名を連ねているのだから、そうなったとも言えるのかもしれないが。それをネラっていた訳でもなかろうが、どっちにしろもうご高齢の伝説の監督を担ぎ出した彼らにとっては、近い思いはあったに違いない。
そしてもしかしたらもうそろそろ、ピンク最後の日も近いのかもしれないと……。などと部外者の人間が言うべきではないけれど、何にだって最初があれが最後があるように、やはりそれは近づいている気がする。
製作数が減少すれば、そこで働く人たち、監督もスタッフも役者も、次の身の振り方を考えなければならない。昨今見られる製作会社の設立、独立映画への参入の形は、やはりもう後戻りできないそれを示しているのだもの。

映画は一本一本、ただ一つのものだから、こんな感傷に流されてはいけないよね。でも、この企画は、日本のエロの文化の、最もアイデンティティを発揮できる、古典とも言うべき、伝統とも言うべきモティーフだったから余計に、原点回帰や、懐古の情感を感じさせて、なんだか切な哀しい気持ちになったりもした。
それは、春画、そしてそこから派生する四十八手という性技。春画は明らかに日本の古典美術として価値のあるものだけれど、ネタがネタだけにやはり、隠匿……は言い過ぎにしても、隠された芸術、という感がある。
でも構図にしたって絵の完成度にしたって、他の日本画、浮世絵にも劣らぬ芸術性があるのに。

なんだか、そういうところ、ピンク映画に似ている気がする。明らかに、確実に、日本映画史の隆盛に刻む作品を残しているのに、やはり隠匿、隠された、アンダーグラウンドであるというところが。
でもだからこそ人は惹かれるし、人間、いや生きものにとって避けては通れぬ、どころか、惹かれてやまないアイテムなんだもの。

この日、オマケ上映されたドキュメンタリーの一部で、そうかそうか渡辺監督は、谷ナオミの緊縛ものを撮った人なのかと思って!それならやはり、何本かは観ていると思う……。
緊縛もまた、日本の誇るべきエロ文化、エロ芸術の最高峰だもの。緊縛映画はやはり、ある一定期間に作られた映画で最高峰が出尽くしてしまった感があり、もう望めないのかなあという気がしてる。その世界を極めたのが渡辺監督だったんだね!
そしてやはり、そうした、エロ文化の、古典として、連綿と続く、決して現代の風潮としてさげすまれるような軽さじゃないものを、選んだのだ、と思って……。

でも、勿論、ピンク映画はいつだって、いやいつだっては言い過ぎかな、まあでも大抵は、今の現代社会を映し出す鏡であると思うから。
本作は、古典への懐古、回帰と、現代社会の融合の面白さがあるのだと思う。タイトルからすれば、完全に春画の世界よ。
そんな資料画もふんだんに出てくる。残念ながら天下の映倫にしっかと審査されてるから局所はボカシ満載だが、そのボカシをピンクのふわーっとグラデーションにしてるあたりが遊び心である。

タイトルであるたからぶねは、その中の一手。男の股に斜にまたがった女が、その手前の足をぐいと持ち上げ、たからぶねに乗った弁天様が、男の足を帆に見立てているという構図である。
チラシやポスターに使われている宣材写真も、後半、ヒロインのダンナが夢に見る、妻の弁天様の姿で、男の足を持ち上げながら、慈悲深い笑みをたたえていて、これだけ見れば一体どんなヒーリング、スピリチュアルピンクなんだと思ったぐらい。
それをいいい意味で裏切って、現代社会の偽りだらけの夫婦関係を揶揄しつつ、セックスと愛の関係というこれまた原点回帰を、しかしアッケラカンとしたコメディの中で見せてくるんである。

なかなかピンクを観れないので、今回のヒロイン女優さんは、恐らく私、初見である……ピンク映画ほど、若手トップがくるくるとすげかわる業界もあるまいな……いやAVも、一般映画も、ゲーノー界も似たようなもんかな……。
でも、他の役者陣、彼女の夫、彼女が不倫している夫のおじ、そのおじの妻、更に言えば冒頭、そして折々に挿入される、春画の世界を時代劇よろしく再現して見せる、遊女のような女と、彼に夜這いする間男も、みんな見知った、ベテラン陣だからさあ。
ピンク映画も歴史を重ねて、確かに若手トップはどんどんすげかえられていき、そのまま消えてしまう女優たちも少なくないけれど、熟女トップとなり、ワキに回り、キャリアを重ねていく女優たちの年輪が、これがまたとても魅力的になっていき、それが本作で見事に、まるでお手本のように示されているのよね。

夫が若い女と浮気している苦悩の熟女、佐々木麻由子は、もう佐々木麻由子だから熟女!!であり、その浮気相手に、そうとは知らずに“勢力のつくニンニク味噌”の作り方なぞ伝授するんだけれど、「爪が伸びてる。あれじゃハンバーグはこねられないでしょ」とダンナの胃袋をつかむ女房としての不信感をあらわにする。
でも、佐々木麻由子!!なんだもの。そもそも彼女がそんな、糠味噌くさい女である訳がない。ダンナの書斎に飾られた若い頃の写真は、はっとするほどの色っぽいブロマイド、勿論今でもその色気は変わらない。
叔父の奥さんであるという立場の岡田智弘の目線は、憧れの年上の姐さんに対するそれに他ならなく、それがこの奇妙なカルテット、いや、ヒロインの千春言うところのスワッピングと相成っていく訳なんである。

そう、佐々木麻由子だからさ、ベテラン夫婦でも、ここに子供がいるという雰囲気にはやはり、ならないのさ。
ピンク映画だと、なかなか子供付きの設定にはならないよね。そうなると難しくなる……そのあたりがピンクのネックかもしれんとは思うが、ただやはり、女が、やっぱり出来れば子供が欲しい、という気持ちが捨てきれないのを、この熟しきった熟女の佐々木麻由子姐さんに、実に上手く投影しているのが、たまらんものがあってね……。

千春は若くて魅力的な女。夫の一夫に対しては「セックスの時には明かりを消して」なんていう、ウブな女。
しかし不倫相手である一夫の叔父、健次に対しては、一夫に見せている無造作なストレートヘアにエプロン姿とは一変、セクシーなウェービーヘアに濃い化粧、セクシーなミニスカート姿で、展開上、同じ女なんだよな、その違いに驚かせているんだよな、と判ってはいても、本当に別人で、女ってマジコワイ!と同性にさえ思わせてしまう!

セックスの嗜好の違いで女が豹変するのはまああるとは思うが、ていうか、それは男女関係なくあると思うけれど、女ってやっぱりバケモノだよな……と思う。
特に、女としてのアイデンティティがまだ定まっていない若い頃ほど、この豹変の恐ろしさにゾッとするんである。

うん、だからこそ、むしろ本作は、彼女に翻弄される他3人のベテラン俳優たちに楽しませてもらえるんだよね。
この若い女に溺れる健次=なかみつせいじは、彼もまたなかみつせいじでしかあり得ない。もうシリアスとか、ムリだもん(爆)。
春画の性戯四十八手の写真集をお宝で持っていて、千春に仕込み、彼女はことに、たからぶねがお気に入りなんである。

春画の世界の時代劇的描写として挿入される、ほたる(この改名より、元の葉月螢の名前の方が素敵だと思うんだけどなあ……)と野村貴浩がこの四十八手を追求しようとして、筋違いを起こす、それが現代のこの二組の夫婦にも投影されて笑いを呼ぶ。
そうだよな、たからぶねなんてそれこそ、男の方の柔軟性がかなり要求されるもの……。「私は軽業師じゃないんだよう」と間男の責めにブリッジしながら耐えているほたる嬢の可笑しさよ!しかし腰をぎっくりとやるのは男の方だという更なる可笑しさよ!!

体位の豊富さはセックスの豊富さと思いがちだけれど、実はそうじゃない、という皮肉にも感じなくもない。ウブに見せてダンナを燃え上がらせたり、開きかけた足を閉じてじらしたり。
そんなことも結局は、四十八手の延長線上に過ぎない、単なる思い付きのテクニックで、この二組の夫婦がそれ以外の部分、勿論、感情という部分で狂っていくと、ホントにこの思い付きのテクニックが哀しく思われてくるのよ。

んでもって、そういう場合の哀しさは、滑稽さとなり、なんだか笑っちゃう方向になる。それを最初から確実にとらえてて、四人が全面対決、修羅場となるべき場面でも、こんな悲しいスワッピングもないんだけど、なんか笑っちゃうんだよ。
だってそもそも、隠れてウワキしていたそれぞれの伴侶を嫉妬させようと、禁欲期間まで設けてあいつらの前でセックスしてやろう、と画策した一夫と敏子(佐々木麻由子姐さんが演じる健次の妻)なのに、当の二人は全然見てなくて、もっと刺激的なエロエロ始めちゃうんだもの!イヤミったらしく奥さんが用意した健次のバースデーケーキを生股でしゃがみ込んで、それをじらしまくってナメナメさせるんだもの!
最初から浮気相手に見せつけるためにと乱交を画策した、つまり相手を愛しているからこそそうするしかなかった彼らが、勝てる訳、ないんだもの……。

千春のダンナ、一夫を演じる岡田智弘、ちょっと年取っちゃったな(爆)。どこかボーヨーとしていながら、身体は無駄なく引き締まっていて、そのギャップが時に怖いぐらいな妙齢の男として魅力的だったんだけれど、でも本作は、そういうどこかヌケたところのある男の役柄だから、それでいいのかもしれない。
夫婦生活の冒頭から見せる、紙相撲に興じるシーン、手作りの力士の、まわしに赤い絵の具を丁寧に塗りたくる千春のにんまりとした様子が妙になまめかしい。

どこかのどかで、幼ささえ感じるこのシーンが、後半、それぞれの浮気が発覚し、妙に居直った千春、その彼女に負ける形になる一夫、となって、その後急に場面が一転、情けない男同士が紙相撲の力士となって、トントントン、トントントンと女たちの拍子に合わせて畳の上を小刻みに移動する。その可笑しさ、哀しさ。
女の掌の上で踊らされている、という意味あいなんだろうか。そう言われれば、男の足を帆に見立てて、男の身体=たからぶねにどっかとまたがる弁天様は、監督の見立てる女というものなのかもしれない。

でも千春も、その浮気相手の健次も交通事故で死んでしまう。四人で乗り込んでいた車で、それぞれにいちゃいちゃしていたのに、運転席と助手席の二人が死んでしまったんである。
成仏なんてさせてあげない、と敏子は夫の骨箱を蹴散らかし、一夫に挑みかかる。その一夫の瞼の中に浮かぶのが、弁天様になった千春。

慈悲深い笑みをたたえて、男の足を持ち上げている弁天様だ。

さっき、途中まで言いかけてなんか脱線しちゃったけど、子供がいないのは、健次に子種がないから、なんだよね。若干ズルい設定と思いつつ、「それでも奇跡が起こるかもしれないと思った」とニンニク味噌をはじめとした勢力がつく料理を夫に食べさせ続けた敏子の女心が、女には響くんである。
男が父性を獲得するのは子供が出来てからだろうが、女は哀しいかな、もうこれは、先天的な本能としてムリヤリ与えられているところがあるからさ……。ダンナの胃袋をつかむとか、この設定は若干前時代的だなとも思うが、それも充分踏まえての、女の哀しさなのだと思う。

若い愛人で充分堪能した後の夫が、義務的に妻の要求に応え、馬乗りになってあえぐ妻に「うん、うん、イイよ。でもなんか、心臓マッサージされてるみたいだな」と言うシーン、まさにその通りの体位で思わず噴き出しちゃったが、でもこれって、哀しいよ。
妻は必死なのに、必死だからそう言われてマジにとって、あなた、死なないで!なんて抱きついてさ……。コメディと判ってても、なんとも女として見につまされちゃって、笑えなかったなあ……。

で、そう、これは渡辺監督の最後の監督作品とは、ならなかった。愛弟子に後を託し、その愛弟子の監督デビュー作となった。
……言っちゃいけないことだけど、やっぱり渡辺護演出で観たかった気がする。いろいろな意味で、ね。★★★☆☆


思春期ごっこ
2014年 90分 日本 カラー
監督:倉本雷大 脚本:マキタカズオミ 倉本雷大
撮影:中澤正行 音楽:
出演:未来穂香 青山美郷 川村ゆきえ 逢沢りな 伊藤梨沙子 荻野可鈴 井之上史織 本宮初芽 浅見姫香 タカオユキ 真山明大

2014/8/26/火 劇場(新宿武蔵野館/レイト)
うーん、ちょっと、違うかなあ。少女モノはハズせない、大好きな世界。本作もポスタービジュアルで一発で惹かれて来たけれども、ちょっと、違うかなあ、というのが個人的な印象。
それはあくまで、私が勝手に持っている少女世界のイメージ、いや違うな、ある種の法則のようなものという方が近いと思うんだけど、それと“ちょっと違う”という印象なのだった。
それはひと言では言えない部分なので、多分それをこれからダラダラと書くことになるのだろうけれど。

ダラダラ書くことになるかもしれないから、まずはアウトライン。絵を描くのが好きな鷹音と本を読むのが好きな三佳。
三佳のすすめで美術学校への進学を目指す鷹音、三佳は作家の夢があり、卒業生で憧れの作家、奈美江が図書館で司書をやっているのに遭遇して狂喜する。

そのあたりから、二人の親密な関係が崩れ始める。憧れの作家と会う時間を優先する三佳にイラつく鷹音。
しかしその作家、奈美江はもう書けなくなっていて、読み聞かせの題材に三佳のお話を使ってしまい、三佳は深く傷つき、鷹音はますます奈美江を許せなく思い……。

そう、ポスタービジュアル。またしてもの「スクールガール・コンプレックス」のお人。なんだか最近の少女モノは、彼関わりばかり遭遇する気がする。
確かにポスタービジュアル、この時点でのイメージはピタリと来ていた。高校生じゃなくて中学生という設定も良かった。
高校生になると、やはり少し、少女の季節からは、ずれる。それはそれで、好きな季節でもあるんだけれど。
あ、そうか、少女モノはほとんどが高校生モノだから、その中で私が持っていた法則とのズレもあるのかもしれない、かなあ。

この日、うっかりトークショーに遭遇したことも、そのズレ感覚を誘ってしまったかもしれない、などと思う。
他情報に凄く左右されやすいから避けて通るんだけど、連日トークがあって、しかも上映前ときたら避けようがなかった。
この日の登壇は、出演者の一人ではあったけれども、完全なワキの子であった。というのは作品を見てから判ったことで、トークを聞いている限りでは、彼女もまたメインの一人として出ているような雰囲気があったんだけど、全然そうじゃなかった。
メインはあくまで二人の少女。鷹音と、彼女が恋する三佳の二人、そして彼女たちの関係を揺さぶる大人の女性。

それならそれでいいんだけど、鷹音と三佳は決して二人きりで親密な親友、という訳じゃなくて、外見的にはある一つのグループでつるんでいる。
つまりこの日、トークに来ていた、荻野可鈴嬢はそのうちの一人であり、監督さんがプロデューサーさんに「凄くカワイイ子がいますよ」と紹介された子なんであり。
しかも監督さんは、可愛い女の子だけで映画を作りたい、という気持ちを語っていたんであり、となると、実際の作品を見て何となく、あれっと思う気持ちは否めなくなっちゃう。

いや、可愛い女の子だけ、という部分は確かに合ってる。合ってるけれども、集めた可愛い女の子が、お顔に焦点さえ合わないほどのワキに追いやられる。
つまり“グループの中の一人”という位置づけさえ曖昧になりそうなほどの影の薄さで、だったら最初から鷹音と三佳の二人の仲良し、にしとけばよかったんじゃないかと思うほどなのだ……。

女の子が、特に中学生の女の子がグループでつるむというのは基本なことで、確かにその中で親密度がそれぞれに違ってくるし、決してこの構成がリアルじゃないという訳じゃない。
でも、鷹音と三佳は、というか特に鷹音の方は、三佳以外は見えていないし、同じグループの友人も、その他の同級生と変わらぬ接触の仕方のように感じるのが気になるんである。

学校ってさ、そういう関係性で自分たちの立ち位置を保っている、凄く繊細な場所でさ。
これが恋の物語なのは判るけど、それに集中すればいいことなのかもしれないんだけど、学校を舞台にしているなら、そこはちょっと気になっちゃうのだ。

まあそれだけ、私が可愛い女の子を数多く、ちゃんと見たいという気持ちがあるせいかもしれんが……。でも優れた、いや私好みの(爆)少女映画は、やはりそーゆー部分もきちんと押さえていると思うんだよなあ。
言ってしまえばワキでもう一つぐらい見せるエピソードを作っちゃうぐらいの。まあそれが、私の好みの世界ということになるのかもしれんが……。

でもうーん、そういうことではないのかもしれない。やっぱり、法則、かもしれない。
私ね、勝手な感覚なんだけど、女の子同士の恋、いや恋未満かもしれないし、恋と定義するにはまた違う、一段上野、崇高なものでさえあるかもしれない、と思う世界に、大人を入れたくない、って気持ちがあるのよ。てか、本作を見て、そんな自分の気持ちに気づいた(爆)。
女の子の世界は、いわば天上の世界。奇跡の季節。現実を生きている大人の世界を入れ込みたくないのだ。

勿論彼女たちだって現実を生きている訳だし、学校という、現実の枷の中でもがいている。でも、学校という“籠の”中の鳥であるからこその、非現実である美しさなのだと、私は勝手に思っちゃうんである。
確かにこの構成は凄く上手いと思う。高校生ですらない、中学生の彼女たちにとって大人の女性、しかも彼女たちと同じ年頃に作家デビューしたなんて女性は、彼女たちのいわば未熟さと対比させるのに格好の存在だもの。

しかも外部の人間。これが学校の先生だったとかいうのならまた事情は少し違ってくると思うんだけど、図書館の司書という、完全に外部の人間。
つまり社会の中の大人。少女が太刀打ちできない立場の大人。そして後には、社会や大人の世界を残酷な形で見せることになる大人。
確かに上手い、少女の傷つきやすい、外界に触れたらすぐに風邪をひいてしまいそうな季節には格好の題材。上手いんだと思う。

でも……うー、つまりこれは完全に、完ッ全に個人的好みの問題だな。私は囲われた、籠の中の鳥の少女の美しさを見たいらしい(爆)。
あー、ヤだヤだ、そうらしい(爆爆)。美しい彼女たちが世間の大人の風にさらされた途端に、少女世界の美しさが損なわれる気がしちゃうだなんて、こりゃイカン傾向だよなー。

とか言いつつ、なんとか反駁したい。何か、何か違う気がするんだもの!
私は女子校の経験はない、だからこそこんな世界を勝手に夢見て憧れるのかもしれない。つまり私こそ、現実性がないのだ。実際の女子校経験者に言わせれば、何言ってんだというところなんだろうと思うのだ。
でもでも、映画なんだから夢を見させてほしい。しかも私、フェミニズム野郎だし(爆)。

つまりフェミニズム野郎は、世界は女だけで、いやもっと言っちゃえば女の子だけで、更に言っちゃえば可愛い女の子だけで(この価値観は監督さんと共通していると思うんだけど)、作れちゃう、作るべき、それが理想(ならば私は死ぬしかない(爆))と思ってる訳さ。
かといってじゃあ、奈美江が介入しない、鷹音と三佳の世界だけならいいのかというと、それもちょっと違う気がする。
のは、鷹音の三佳に対する感覚が、女の子世界の中でふわりと産まれる、かもしれない、先述したような恋とはまた違う次元の感覚じゃない、完全にフツーの恋愛、完全にフツーの片思いであるから、なんだろうと思う。

それがなぜいけないかって話なんだが、うーん、難しいな。私の夢想の世界の話になっちゃうから(爆)。
こんなこと言っちゃうとアレなんだけど、女子校の中で発生する恋愛、あるいは恋愛未満か恋愛以上か、恋愛の枠を超えた何かか、そんな特殊な感情は、やっぱりやっぱり、フツーの異性同士の恋とは違うと思うのよ……。

そんなことを言っちゃったら、異性同士の恋がフツーなのかという差別論的なことになっちゃうんだけど、そうじゃなくて、女子校という籠の中にいる季節だけ芽生える美しい時間というか。
彼女たちはきっとこの世界を出れば、それこそ“フツー”に恋愛して、“フツー”に結婚して、そんなことを予測させるというか。

でも鷹音の三佳に対する感情は、きちんとした恋、ヘンな言い方??もっとハッキリ言ってしまえば、鷹音はビアンだろうと思う、そういう、きちんとした恋、きちんとした片思い。
いや、もっと言ってしまえば、異性同士の恋愛の感覚を、そのままここに持ち込んでしまったという違和感を感じちゃうのだ。

鷹音がビアンなのだとしたら、語るべき世界はまるで違う、深刻な、社会派になるだろうと思う。そうではないのならば、やはりスタンスが違うような気がしてしまう。
鷹音のキャラ設定は、卒業して、三佳と離れ離れになったら、普通に男の子と恋をしたりする、ようには見えないのよ。いや別に、それがいけない訳じゃないんだけど(爆)。
うーん、難しいな。女子校という世界の、女の子同士のラブって、多分に理想化された部分があるから、難しいな……。

それに、先述したけど、何より大人の女性、奈美江の介入がうーんという感じなの。
奈美江の勤務する図書館での、大人パートはしっかりと描かれ、つまり映画としては実にしっかりとした構成。
奈美江は自分が作家であったことを殊更にひけらかしてはいなかったのに、三佳によって明らかにされ、書けない自分に改めて直面して、でもかつての栄光を捨てきれないことをナマイキな後輩に冷たく指摘されたりして、追い詰められる。
自分に憧れてくれている女子中学生の創作を盗作し、なのにそれを手直ししたからとか言い訳するサイテーの大人を演じて、更に三佳を絶望に落としちゃう。

……こうして書いてみると凄く良く出来てる。凄くちゃんとした構成。なのにー、なーぜー(♪若者たち)私は気に入らんのか……。
だからー、つまりー、やっぱり少女たちだけの世界を見たかったのよ、それだけっ(爆)。大人世界が介入するだけで、純度が下がる気がしてしまう。
いや、大人はいていいのよ。それこそ大人が全然いなかったら、おかしなことだもの。でも介入はしてほしくない。それが私の中の少女モノの法則なのか……。

書いてるうちに、自分自身がヤになってきた(爆)。あとは散見された感慨を色々。中学三年生の、もう夏になって進路を決めるなんて随分ノンビリしてるなあ、と思ったり。
この学校は美術部がないのかな?鷹音は放課後、三佳をモデルに絵を描いているだけで、特に指導を受けている様子ではない。そんな状態で三年生の夏になるまで何もせず、そっから美術系学校への進学に動くとは、いくらなんでもノンビリすぎないか……。

まあフツーに普通高校に行こうと思っていたのかもしれんが、それでなくても彼女たち、全然受験生っていう趣がないんすけど。
まあそれこそそんなこと言ったら興ざめだけど、誰一人として、受験のこと口にしないよね。キャイキャイと女の子同士のカワイイ戯れしてるだけで。
進学の設定入れ込んでくるなら、なんたって中学三年生なら、そのあたりのリアリティぐらいはほしいと思う。三佳なんてホントに本読んでるだけじゃんか(爆)。

そう、本、本読んでる。だからこその奈美江との出会いな訳だが、ちょっと気になる同級生が出てくる。
同じ本好きとして認め合い、鷹音との決別後は仲良く図書館で向かい合って本を読んでいる。そう、もう奈美江のいない図書館でね、そういう間柄の、おはぎさん、という可愛らしいニックネームの女の子。

つまりは三佳にとって、鷹音とも奈美江とも勿論違う、真の価値観を共有する友達、という結論なんだろうが、おはぎさん、ちょっとズルいと思う。そーゆー場合は、あんたこそが鷹音とバトルやるべきだったと、籠の中の彼女たちを見たかった不毛フェミニズムおばはんは思っちゃうんである。
鷹音が真に嫉妬すべきは、おはぎさんであるべきだった、いや実際そういう結果になったのだから。
言ってしまえばその方が、もっと少女の残酷な季節になったと思う。大人が相手じゃ、基本勝てない。だからこそ鷹音は玉砕してしまったとも言えるんだもの。

三佳の作品を盗作した奈美江はその後、謝りたいという口実の元、結果的に三佳につきまとうようなことになって、三佳を事故に遭わせてしまう。
そのことに激怒した鷹音は、奈美江を自分のアトリエである美術室に引きずり込んで、アンタのせいで私たちの関係は壊れたと散々に罵倒し、「帰れ!」と鬼の形相で追い立てる。

この時の鷹音、演じる未来穂香嬢は凄い迫力だが、おめーが連れ込んだのに、まるで勝手に来たかのように帰れ!って……。
ここで失笑してはいけないのか……。これをツメの甘さと言ってはいけないのか……思わず笑っちゃったんですけれど……。

奈美江が中学校時代に出した、タイトルにもなっている「思春期ごっこ」という本、その内容が、三佳が読み進めるとともにまるでモノクロ映像のように再現される。
彼女たちの制服より、やはり懐かしい風情のセーラー服で、まさしく私の好きそうな、女子校の中での恋の話。
三佳は興味津々で、奈美江にこんなことがあったのかと聞くが、フィクションだからと奈美江は返す。

このあたりも、気になる。実際はどうだったのかと。劇中小説ではあるけれど、その世界の方が、私の法則にあいそうだからである。
奈美江が在校時代、そうした感覚の持ち主だったのだとしたら、と思ってしまう。奈美江がどういうインスピレーションで、この物語を書いたのか。
あるいは作家になりたいという夢や、文章を書くことが好きだったこと、つまり三佳に通じる部分をきっと持っていたと思うけど、何一つ描かれないからさ……。
あくまで、才能を失った哀しき大人、それによって子供を傷つける大人としてしか。
彼女が同じ学校の卒業生であり、彼女たちと同じ問題を共有していたのなら、そういう設定を持ってくるのなら、もっと面白い展開になったような気もするのに。

自分の作品を盗作された三佳は、奈美江のことを尊敬していた筈なのに、「最近、本読んでますか?古いんですよ、感覚が」と涙ながらとは言え、ヒドいことを言う。小説でも映画でも、今のものを読まなければ感覚が磨かれないと。
奈美江から薦められた小説を喜んで、読むのが楽しみと満面の笑顔を見せて鷹音をイラつかせていたのに。

三佳の言い様は、一方では正しく、痛く、でも彼女自身が奈美江から薦められた小説を、つまり自分が読んだことのない“古い”時代の小説を、読むのが楽しみと言っていたし、やはりそれも正しい感覚なのだと思うし、思いたい。
奈美江の今の職は図書館の司書なのだし、書架にはないしまい込まれた本を、三佳は奈美江に頼んでいたじゃないの。

あ、でもそれは、鷹音のための美術の本だったか……美術は古い時代を参考にしてもちっともおかしくないのになあ。
いや、文学だってそうな筈だけど、美術よりは新しく、そして次第に新しくなっていく芸術は……映画も、その中では古いジャンルではあるけど、その過程にあるから判る。新しいものを摂取しないと感覚が鈍ると言われる、もどかしような、納得できないような気持ち。

学校のプールはメッチャ必須アイテムで、女子校だから、生理だと言ってカンタンに休むのかなあと思いながら見る。
しかし、今でもあんなぼったりとした水吸いそうなスクール水着で、しかも胸に手書きの、しかもやたらでっかい名札つけるなんて、あ、アリなの。

それ以外はナントカのみ込んできたけれど、さすがにこればかりはボーゼンとしてしまった。いや、今でもあると言われたらアレなんだけど……半世紀ぐらい前の、しかも小学生チックみたいと思って……。
誰もいないプールに二人きり忍び込み、しかも盗んだ相手の水着、なんてエロチックな要素を持ってくるのに、これじゃあんまり台無しのような気がしちゃう……。

冒頭の、女の子グループでやたらはしゃいで、狂ったようにはしゃいで、屋上で輪になってキャイキャイぐるぐる回るシークエンスは、なんだったんだろう……。
いや、なんだったんだろうということでもない、それが女の子の季節ということだというのは何となく推測できるが、でも結局、鷹音と三佳の世界だけだったしなあ……。
いやいや、あの制服は、奈美江の書いた「思春期ごっこ」の中の世界か??でもその世界も二人きりだったしなあ……。<> なんかね、あれ、「眠り姫」そしてその原作にあった、トランス状態で屋上でくるくる回る女の子たちのシークエンスをふと思い出したりした。
そんな、理由もつかない、時には狂気じみた女の子の季節は、奥が深くて、かつて女の子だった私ですら、判らなくて、だから魅力的なのだ。

ところで鷹音役の穂香嬢は、加藤ローサにやたら似ている気がして仕方ない……ちゃんと若い頃の、ローサ嬢に。★★☆☆☆


シネマパラダイス★ピョンヤン/The Great North Korean Picture Show
2012年 93分 シンガポール カラー
監督:ジェイムス・ロン/リン・リー  脚本:
撮影:ジェイムス・ロン 音楽:
出演:

2014/3/26/水 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/モーニング)
メディアが取り上げたがるような狂信的、あるいは抑圧的な国、北朝鮮ではない、普通の人々の姿というのは、近年のチャレンジングなクリエイターたちによって徐々に私らの目にも触れるようになってきた。
特に日本においては“在日”の人たちとのかかわり、そこから生まれた映画監督、ヤン・ヨンヒ氏 によって、まさしく“普通の北朝鮮人”たちが描かれ、絵空事のようでしかなかったかの国の人々がそうではないんだと、当たり前だけど普通に生きてる人間なんだということ(まあ、普通、という定義もかなり振り幅が大きいにせよ)判るようになった。
んだけど、それはやはり、彼らの身内の人たちであり、家族としての心情は描くことができるけれども、そこから切り離された、本当に市井の、北朝鮮の人々、ではないのかなという気もする。

本作に取り上げられるのは、決して平均的な北朝鮮の人々でないことは判ってる。映画人として育てられるエリートたち。生活ぶりも私たち日本人と変わりない、のが、あの国にとってはハイクラスなのだろうと思う。
それこそヤン監督の作品に出てきた“普通の北朝鮮人”たちは、彼等よりはちょこっと下のレベルのように見えた……本作の彼らと比べれば。

気密性の高そうなマンションに住み、オシャレなコートやブーツに身を包み、何よりお腹が三段腹(爆)の食いしん坊のユンミちゃんは、それこそそれこそ私ら扇情的なマスメディアが流す、骨川筋衛門みたいな貧しき人々とはあまりにも一線を画している。
裕福、と言っていいと思う。ピアノも流麗に弾くし。あ、でもそういやー、ヤン監督の甥っ子も流麗にピアノを弾いていたっけか……。

ま、とにかく。これは北朝鮮の映画業界事情、なんである。それだけでも映画ファンとしての興味がわくってもんである。
その昔、金正日が寅さんファンだという話を聞き、あんな人情に篤い映画が好きなのに拉致とかするのかと衝撃を受けたが、元々金正日氏自身が、映画監督を志したほどの映画好きで、劇中でも“偉大なる将軍様が自らご指導した大ヒット映画”という作品が出てくる。
巨大な絵画にその撮影風景が描写されていて、ああやっぱり鬼畜日本兵なんである。ああ、やっぱり。あのカーキ色の軍服。

金正日(どころかお父さんの金日成も)が寅さん好きだという話は、かの国の、こうして映画を志す彼らには聞こえているのかなあ。ていうか、そもそも寅さんを彼らが見たことあるかどうかさえ……ある訳ない気がする。
役者の卵である若い彼らは、「他の国では名声を得るために役者になりたいと思う。それはエゴだ。でも私たちは、将軍様に喜びをささげるためなのだ」と誇らしげに言うんである。そして二言目には将軍様の偉大なるご指導のおかげで、である。

……でも、一昔前の私ならば、そんな彼らを本当に気味悪く思い、洗脳されていると思い、つまりは“普通の人間”とはとても思えなかったと思うんだけど、“二言目には偉大なる将軍様と付け加える彼ら”に、それって単なる口癖というか、決まった挨拶のように聞こえてくるんである。
突き詰めて、本当に将軍様がそんなに偉大だと考えているかとか、そういうことじゃなくて……いや、実際、恵まれた彼らは本当にそう考えている部分はあるだろうけれど、洗脳とか、そういうことではないような気がした。

確かに彼らは普通の人間なのだ。“普通”の価値観が違うだけで。
彼らはきっと、いや絶対に、寅さんは見たことがないと思う。彼らが見下して言う、“名声を得るために役者になる”ハリウッドだのなんだのの映画だって観たことがあるかどうか。
いや、さすがにそれはありそうかな。だってエリートなんだもん。いやでも、どうだろう……。

彼らのこの言葉を聞いた時、疑問、というか知りたいと思ったのはその点だった。本当はあんたら、ハリウッドスターとかのファンなんでしょ、とぱっと思い、……いや、観る機会自体、与えられているんだろうか、と思った。
劇中描かれる製作現場は、まるで50年前の日本映画界のようである。戦意高揚映画が強要された時代が、日本にもあった。それがいまだにあの国では続いているんである。
いまだに、カーキ色の日本兵が、あの国の映画には欠かせないんである。寅さんに行きつくまでには何百年かかるのか。

中韓に糾弾されまくる、かつての日本軍の鬼畜っぷりは、もうそりゃあ反論のしようもないんだけど、ここで描かれる日本軍、というか日本人への嫌悪の描写が、何かこう……懐かしいと言ったらアレなんだけど、本当に戦意高揚映画の時代で止まっている気がして。
今、超情報化社会で、ほんっとうに、生身の悪意をぶつけられる時代で。でもやっぱりこの国はちょっと離れてて、“日本軍に立ち向かう愛国心あふれる我が国民”の定義から先に進めないのだ。
祖父母から話を聞き、日本憎しの教育もきっとその頃から変わらない。まあそれは中韓も似たようなもんだけど、北朝鮮はやっぱり何か、時間が止まっている気がする。映画と言えば自国の映画しか知らないんじゃないかと思ってしまう。

正直、ね。本作に関しては、やっぱりドキュメンタリーとしては弱いかなと思ったのだ。
ドキュメンタリーはなんたって、いかに切り込むかが大事。だからこそ身内の強みのヤン監督の作品は迫力がある。
本作は、あの北朝鮮の、しかもエリート界に切り込んだ、もうそこまでで力を使い果たしている感がある。

そりゃ仕方ない。あの国だもの。ありえない条件、強制がつけられるんだもの。
エリートたちが養成される演劇映画大学に切り込もうと思うのに、校舎は改修中だと言って入れない。数か月たってようやく撮影が再開されても、まだ改修中だというんである。
思わず観客から笑いが漏れたほどに、ウソに決まってる。しかし学内の撮影が許されないって、どんな秘密がそこに隠されてるのか逆に知りたいじゃなの……やっぱりコワい、北朝鮮(爆)。

仕方なく課外授業や学生の私生活にシフトしたことが、本作の成功の要因だったかもしれない。
そう、ドキュメンタリーとしては弱いかなと最初思ったのは、やはり北朝鮮のドキュメンタリーだと思えばこそで。
んでもって、北朝鮮の映画界なんて、興味あるじゃない。そこにはなかなか切り込みきれないところがあったからさ……。

エリート学生たちと並行して、売れっ子監督の撮影現場も描かれる。リアルに北朝鮮映画界を描いているのはこっちの方だと思われ、先述したようにザ・戦意高揚映画なんである。
しかし面白いのは、エキストラに実際の軍人の若者たちを使っているのに、ちっとも危機感のある画が撮れないこと。ゆるくて、笑顔を浮かべちゃって、ベテラン監督、すっかり怒っちゃうんである。
彼こそが、祖父母に話を聞き、自分も鬼畜日本兵を学校で教えられたと語る人物であり、その彼が口角泡を飛ばし、若き軍人の演技指導に頭を悩ませる場面は何か微笑ましくもあり、滑稽でもあり、悲しくもある……。
青筋を浮かべさせるために、息を止めて頭を下げさせる場面なんか特に……。

ちょっと意外だったんだよね。軍に従事している若者なんて、それこそ愛国心バリバリだと思ってたし、それはエリートコースの映画演劇コースの学生たちにしたってそうだと思ってた。
いや、そうなんだろうけれど、そういやあ彼らからは“鬼畜日本人”に対する言葉は聞かれないんだよな。いやまあ、この作品の作り手が日本とはかかわりのない国のお方であるから、そんなことに重要性を感じずに切ったのかもしれないけれども。
でも、日本兵に立ち向かう映画のエキストラとして駆り出された若き軍人たちが、放課後のじゃれあいみたいに笑顔を見せるのは意外だった。最終的には熱血指導によって熱き場面が撮れるにしても、あくまで演技指導によって、というのが意外だったのだ。

学生たちに関しては、その要素さえない。劇中、彼らが製作する短編は、“世界最高の制度”と彼らが自負する無料の医療制度を題材にしたものであるという点は、充分に愛国心バリバリではあるけれど、そもそもそこにテーマを持ってくるという時点で、あ、鬼畜日本人相手じゃないのね、などと思ってしまう。
しかも、予防注射が怖くて逃げ回るお兄ちゃん、というコミカル要素を充分に盛り込み、教師たちからの細かい演技、技術指導が入るにしても、本当に楽しそうで、それこそがかなり意外、だったのだ。

まあそりゃね、このテーマも、撮影の感じを見ても、やっぱりひと時代、ふた時代昔って感じがするよ。なんかこーゆー映画、というか画というか、50年ぐらい前の日本の白黒映画で、フィルムセンターとかで観た気がするもん。
そんな映画を撮り、ゆくゆくは戦意高揚……いや愛国映画を撮り、それが芸術、思想、哲学として彼らは誇らしく生きていくのかあ、と思うと……。

いやいや、やはり私はヘンケンがやっぱりやっぱり、入り込んでいる。なんたってこの作品は、厳しい条件と検閲が入っているのだ。彼らが見ていること、学んでいること、作っていることが、この他にはないと、どうして言えるのか。
そういやー、かつて北朝鮮製の特撮怪獣映画がちょっと話題になったことを思い出した。そういう映画だって撮っているなら、家族ドラマも、ラブストーリーも、ひょっとしたらホラー映画とかだって撮っているかもしれない。判らないじゃないの!

ヒロインであるユンミちゃんは、先述したようにちょっとぽっちゃりめ。ダンス授業に朝からブルーになり、「もうお腹いっぱい」と朝食は控えめ……いやでも、かなり多彩に食卓に載っていましたけれども。黄身はやめとくとか、ホント、日本のティーンみたいだよねー。
美しく足が上がる同級生に比して、申し訳ないけどついつい笑っちゃう彼女のヘタレっぷりは、それこそ一糸乱れぬ軍隊行進やらマスゲームのイメージがある私ら観客をほっこりとさせてくれる。そうそう、先述した若き軍人たちも、一糸乱れぬからは程遠かったもんなあ。

もう一人、男の子側にも一人フューチャリングされている。お父さんが現役監督、お母さんがインドネシアの首相に謁見したこともあるほどの大女優。
将軍様に喜びをささげるために、役者になると言ったのが彼。愛国心といい役者のバランスを聞かれてお母さんは言う。いい役者になることが、愛国だと。

ところどころに見え隠れする、北朝鮮という不思議でコワイ国の、“普通の人々”、それが一番見えたのが、このお母さんの台詞だった気がした。
彼自身は、案外純粋に、将軍様を信奉しているのかもしれない。将軍様に喜びをささげることを、本気で目指してるのかもしれない。そんな感じが、なくもない。
でもこのお母さんの、この言い方が、含みというか、真実を感じさせたんだよね。実は愛国だの、将軍様なんてどうでもいいと。いい役者になることだけを目指せばいいと。芝居を愛すればいいと。
……判らない。本当の北朝鮮演劇事情、映画事情は、この規制された中からはとてもとても見えてこないからさ。でも、このお母さんの言葉からは、何かそんな風に感じたんだ……。

興味としては、役者もそうだけど、技術スタッフを志す学生たちにも話が聞きたかった。役者とか監督さんは、やっぱり思想が絡むじゃない。
短編映画を作る過程で、カメラの構図や照明にも細かい指導が飛んでいて、なかなか興味深かったからさ。
まあ合間にちょいちょい停電が入る当りが北朝鮮で(爆)、ユンミちゃんのマンションでも停電は起こるんだけど、めったにないのにとか言いつくろうのがちょっと可愛かったりして(だって、学校の授業中にも起こるんだから、めったにない訳ないじゃん!)。
技術以前の問題じゃん!と思わなくもないんだけど(爆)、でも、デジカメで撮っちゃうのも映画になってしまう現代日本の、いい面もあるけど、こういう、映画を作る幸福が、うらやましい気も正直、したんだよなあ。

正直全然関係ないと思った課外授業、スケートシーンだが、これが妙に青春ぽくて、可愛かった。
一応こじつけっつーか、様々な見識を、みたいなものはあるんだけど、ただ普通にスケートじゃん!それも、国家代表スピードスケートチームの練習をどかして、本当にただ青春のキャーキャースケート。
年若い男の子と女の子がカジュアルな普段着でリンクに降りて、ふざけて突き飛ばしたりして、一列に手をつなぎ合って、おいっ。
でもこれが、なんとも可愛らしかったんだなあ。映画がどうこう、国家がどうこう、使命だのなんだのじゃなくて、ここには確かに青春があった。いや、あるんだもの。 ★★★☆☆


しびれくらげ
1970年 94分 日本 カラー
監督:増村保造 脚本:増村保造 石松愛弘
撮影:小林節雄 音楽:山内正
出演:渥美マリ 川津祐介 田村亮 玉川良一 草野大悟 根岸明美 笠原玲子 平泉征 金子研三 内田朝雄 近江輝子 中田勉 甲斐弘子 中原健 松村若代

2014/8/21/木 京橋国立近代美術館フィルムセンター
うわー、まだまだ私の知らない世界があったあった!渥美マリ。多分どっかでは観ている筈。名前も聞き覚えがあるような。
しかしこのタイトル(「でんきくらげ」も観たかった!)にものすごいインパクトを覚えて足を運んだら、“軟体動物シリーズ”って、何それ!しかもそれがこの、渥美マリの代名詞って、何、何それ!!
ああ、まだまだ、まーだまだ私の知らない世界があるんだなあ……。“和製ブリジット・バルドー”とはまあ、まさしく!もう冒頭のエロエロショーからしてもう、釘づけだもんなあ。

しかしこのタイトルの意味は全然判んなかったけど(爆)。“軟体動物シリーズ”なタイトルをつけることだけに意義があったのかしらん。それが始まった「いそぎんちゃく」(いいタイトルだなー)の頃にはタイトルの意味が反映されていたのかしらん。
うーん、気になる気になるー。いつまで経っても、どこまで行っても日本映画とはなんと奥深いことよ……。

そう、冒頭のエロエロショーなの。いかにもエロい豪奢な洋風寝室セットで、やたらアクロバティックに足を開いたりなんだり、それがスケスケの白の総レースランジェリー!
これはストリップショーだろー、と思ったら、そのスケスケ総レースからは脱がない。観客もテーブルにやけに紳士然として座っているお歴々だし。

あれっ、と思ったら、「今日の私、どうだった」「見事なもんだ。立派なファッションモデルだよ」
えーっ!!!あの見せ方はどー見たってエロエロストリップショーだろー!めっちゃ股開いて見せてたやんか(爆)。
でも後から考えると、結局このみどりは一流のモデルにまではのぼり詰められなかったんだし、なんたって親父はストリップショーの楽屋番だったんだし、最初からちょっとした伏線があったのかなあ。
で、そこのストリッパーたちは渥美マリと違ってちょっとだらしなくお腹出てたりする(爆)。

いやいやいや!やはりこれは、渥美マリという稀有な女優の見せ方に違いない!いや、場末のストリッパーたちがお腹出てることの対比じゃなくて(爆)。
いやー、タイトルじゃないけど、ホント、しびれた。フィルモグラフィーを見ると、ばーっと活躍してこつ然と姿を消す、まさに伝説の女優の足跡そのもので、その間にこんな脱ぎっぷりの良さと、それのみならず、暴れっぷりの良さを見せつけられたら、とても忘れられない!

彼女のエロキューションはこの当時の女優さんに散見される感じで、やはりそれは時代とかハヤリとかいうものかもしれないと思う。
アンニュイでぶっきらぼうで、それこそブリジット・バルドーと言われるぐらいなんだから、フランス映画のそんな感じを日本に焼き直したような発声。
それがちょっと芝居がヘタみたいに見せなくもないんだけど(爆。どうなんだろう……)、なんとも、イイの!この時代のカッコ良さっていうのかなあ。

ファッションモデルの世界というのもあるけれど、その文化が後に大いに評価されている70年代、バツグンのスタイルの渥美マリが着こなすファッションはどれもこれもエロ可愛くてサイコーなんだもの!
ヴィヴィッドな柄のワンピースやツーピース、明快な色と形のファッショナブルな靴、エロエロなランジェリーやハンドバッグなどの小物に至るまで、私みたいな不毛な女も思わず見とれてしまう素敵さ。
その美脚をモロに出して、気が強くタンカを切りまくる渥美マリにクラリとしまくる。ああ、現代が癒しのエロの檀蜜なのだとしたら、当時は気の強いエロの渥美マリだったということなのかもしれない!

でも、確かに気が強いし、タンカも切りまくるんだけど、ツメが甘いというか、つまり情にモロくて、単純で、見切りが甘くて、そこがまた可愛いのよ。
だってさ、ヤクザに脅されて渡した100万という大金を「信用出来ない。受け取りを書いていきなさいよ」と、そこまではシッカリしてるのに、同じく飲んだくれのどうしようもない父親を殺しかけたという境遇を聞いてアッサリ「あんたを信用するわ」お、お、お、おいー!!!
みどり、万事この調子なんだもん……。すんごくしっかりしてそうに見えて、こうだもん。失笑しかけて、いやしかし……と難しいライン。

みどりのこのツメの甘さは、とんとだらしのない父親を、口先、いや手も足も出る厳しさでボロクソに言いながらも、でも父親だからとどうしても見限れない、そんな情の深さにあるんである。
だからこそヤクザの言い様を信用しちゃったし……でもそのヤクザの言い様が真実だったってあたりが、愛すべき本作の甘さであるんだけどさ!!

うーむ、もう少し整理してから語るべきよね(爆)。そうそう、大事な人物を忘れてた。みどりをモデルとして育て上げ、それは床の上でも(古い言い方……)てな、繊維会社の若きやり手、山崎である。
彼の恋人であるみどりは、この会社の仕事を独占してるもんだから仲間たちからやっかまれるんだけれど、「モデルなんて仕事はせいぜい数年、私は彼と結婚するためにお金をためてるの」と言ってのける。
仕事を独占しているという気の強さと、この乙女な台詞のギャップ、しかしこの台詞を言っている彼女は同じように気の強さを持ち続けていて、モデル仲間たちが鼻白むのが、どっちの意味でなのか。

うーん、この意識の持ちようは、現代ならばちょっと作りにくい女性像かもしれないなどと思い、だからこそ彼女のそんなツメの甘さ、乙女さが、大胆なエロとあいまって魅力なのかもと思う。
彼女に強烈な反発心、ライバル意識をぶつけて、山崎に接触して仕事を横取りしようとする他のモデルたちの方がよっぽど今の世に近くて、この当時は、いくらファッションやカルチャーが先鋭的になっていても、基本保守的だったのかなあ。

勿論そのギャップがあってこその魅力だし、ホントにね、渥美マリがね!そう、特に特に、先述した、どーしよーもないお父ちゃんとのやり取り、関係性がサイコーなの!
女と酒にだらしなく、それが故に会社のカネを横領しての前科まであるどーしよーもないお父ちゃん。その間に女房にも逃げられた。
そんなどーしよーもない父親を、みどりは口では罵倒しながら、捨てられずにいる。いや、口どころか手でも足でも罵倒しながら。

もう、サイッコーなの!このお父ちゃんとのやり取り!本当にクソ親父で、全部自分の情けなさ、身の程知らず、虚栄心のせいなのに、全部人のせい、それどころか、「なんて冷たい娘なんだろう」と、娘のせいにするクソ親父なの。
でもみどりは全然負けてない、どころか、言い負かしまくってる。死ねばいい、自殺したいなら見物しててやるから死になさいよ、なんて言い放ってお父ちゃんをゼツボーに陥れる。

それどころかあの足蹴!すごっ!!思わずうわっ!と声が出ちゃった!!めっちゃ足蹴!!強すぎる!!エロと同時に、アクション女優でもあるんではないか!
「うるさい!近所迷惑になるじゃないの!!」とこのクソ親父に繰り返し怒鳴る、あんたの声の方がうるさいっていうあたりの微笑ましさ(笑)。

しかもさすが役割を心得ている。いつもやたらセクシーなカッコなの(爆)。思いっきりブラとパンツだけとかで取っ組み合う。おいおいおい、最初のうち、この親子そーゆー関係になるのかと思っちゃったよ(爆)。
でも全然そうじゃないの。勿論、渥美マリのセックスシンボルなキャラもあるだろうけど、お父ちゃんに対してすっかり心を許しているというあらわれに見えちゃう。

お父ちゃんはなんたってエロ親父だから、娘のグラビアを見て「イイ身体してるな。娘じゃなかったら口説いてるんだけどな」なんて言うんだけど、娘じゃなかったら、なんだよねと思う。
このどーしよーもない親父を演じる玉川良一が面白くて素晴らしすぎる!!このお人も、きっと私何度も見ているんだろうけれどちゃんと認識していなかったんだろうなあ。
本当に、もう、もう、みどりが言うようにたたっ殺しても全然いいよ!と思うクソ親父なんだけど、なんか……憎めなくなっちゃうんだよなあ。

で、そう、みどりは、自分が稼いできたお金を、取っ組み合いの末奪われたり、何よりこんなクソジジイとぼろアパートに一緒に住んでること自体、全然冷たい娘なんかじゃない。
だってエリートサラリーマンを恋人に持ってるんだし、それなりに稼いでるんだし、いつだってこんなところ出ていけるのに!

しっかしねー、このエリートサラリーマンは、冒頭さっそくみどりをヒドい目に合わせる。会社の契約をとるために、アメリカの大手会社の社長と寝てくれと言うんである。それがぼくたちの未来のためなんだと。
めっちゃ毛むくじゃらのヘンダーソン社長の満足そうなスヤスヤ顔に、思わず微笑ましく笑ってしまう。みどりはシャワーでごしごしと神経質に身体を洗いまくり、その後山崎に激しく愛してもらう訳だが……。

確かにこの山崎は冷徹なエリートサラリーマンであったと思うけど、実際どこまでみどりを“利用”している意識があったのかは、判然としないというか、そこまできっちり描く気もないんじゃないかというか(爆)。
山崎はみどりを愛していたと言い、だけどあのだらしのないクソ親父によってそれが破たんしたという図式。
実際、スナックのママにいい顔したいために、グラビアに出ていたみどりをダシにして、美人局から始まってヤクザに着け狙われ、「いずれはウチの婿、私の息子じゃないか」と山崎にカネの無心をしに行くなんて、もうこの先が思いやられる。

しかもヤクザ!山崎がみどりに、父親を捨てるか自分と別れるか、と迫ったとしても、一般常識的に言えば仕方ないと言えなくもない、てゆーか、それこそ山崎が「君は古いな」と言うように、こんな場合は父親をすっぱり捨てたって全然おかしくない。
つまりは山崎は決して冷たい男って訳じゃなかったんじゃないだろーかと、現代の感覚では思うし、むしろヤクザである健次があまりに甘くて、それこそみどり並みにツメが甘くてビックリしちゃうもんだからさ(爆)。

そうそう、健次、きゃ、キャーッ、田村亮である!!私案外、田村亮に遭遇することがなかった!!メッチャ甘いマスクーッ!!
アニキがみどりを上玉として目を付けたのに対し、クソ親父が山崎に借りて100万円のオトシマエをつけたからと、これ以上彼らから手を引いてくれないかと、ヤクザらしからぬ懇願をする。
アニキあっさりそれを承諾するも、そりゃヤクザなんだからそんなカンタンに行く訳もなく、またクソ親父が彼らの手に落ちた時、健次はアニキの意向を無視してみどりたちを助けるんである。

あ、あ、あ、甘いーっ。みどり以上のツメの甘さ、ってか甘甘1000パーセントの田村亮っ!
最終的には気持ちを通じ合わせたみどりと健次は画策し、アメリカ人社長に女を与えて契約をとったスキャンダルで山崎を脅して大金を得、二人の未来を感じさせるラストにはなっているのだが、そもそもこんな結末になりえるのかっ。

エリートサラリーマンとしての命を賭けたこの秘密の計画を、ボコボコに殴られてあっさりテープレコーダーに向かって白状しちゃう山崎は、あのクソ親父と同等じゃないの……。
しかもその脅しにあっさり1000万円の小切手を渡しちゃう会社の上層部も……うーむ、現代ならとても通りそうにない展開だわ……それまでが、ファッションモデル界とヤクザ界で結構厳しく描写していただけに。

まー、こーゆー甘さがいいのかもしれんけどねっ。だってアニキからの命令だけどホレたみどりを陥れることが出来なくて、プールで泳いだりクラブで踊ったり、青年らしい甘いデートを重ね、しかもその先に“モノにする”(アニキの命令ね)ことさえ出来ずに……つまり、押し倒したところで拒否られて、キスひとつ出来ずに、あんたが好きだから出来ないとか言って、あの展開なんだもの!!
だってだって、テープレコーダーに吹き込ませるまで、みどりと山崎のチョメチョメ(古いっ)を彼は見守っていた訳でしょ。

そもそもこの一連は、みどりの山崎への復讐、つまり彼への思いを断ち切るためのことであって、最後の最後、ギリギリまでみどりは、山崎を愛していると言っていた、きっとそれはウソではなくてさ……。
オエラ方を前に怖いものなんかない、と、いつも通り強気のタンカきって、好きな人が出来たから未練なんかない、と健次の腕をとって見せる、だなんて、とてもそれ通りには受け取れないよ。

そりゃラスト、あんなに執着していたお父ちゃんさえ捨てる雰囲気での出直しを感じさせるみどりと、彼女にホレちまってヤクザから足を洗うためにこの1000万円の小切手が必要な健次の未来は、感じさせなくもないけど……。
二人の魅力的なツメの甘さが、どこかせつなく信じきれないラストになるとはなんと皮肉な!!

でも本作の魅力っつーか、見て良かった!ポイントは、みどりとお父ちゃんのソーゼツで爆笑の親子関係であり、二人ともメッチャ真剣な親子ゲンカだからこその可笑しさで、本当に最高なの!
あれ、お父ちゃんマジでカドに頭ぶつけてケガしたりしてんじゃないかと思うほどのソーゼツさ!お父ちゃん役の玉川良一、メッチャ最高!!
こういう、カットやスタントで逃げられない役者の芝居、いやホンキが、作品自体のどうこう関係なく、ああ、見て良かったと思える映画の醍醐味なんだよなあ!★★★★☆


シュトルム・ウント・ドランクッ
2013年 137分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:山田勇男 高野慎三
撮影:四宮秀俊 音楽:珠水
出演:中村栄美子 寺十吾 廣川毅 吉岡睦雄 銀座吟八 小林夢二 上原剛史 海上学彦 礒部泰宏 松浦祐也 川瀬陽太 天野天街 流山児祥 佐野史郎 あがた森魚 井村昂 山本浩司 宍戸幸司 白崎映美 つげ忠男 原マスミ 知久寿焼 山本亜手子 藤野羽衣子 川田夏実 宮内健太 三田地茜 石川真希

2014/8/26/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
いつもの感じで、カタカナタイトルは外国映画に違いないとスルーしてたら、予告編でなんとなんと、あの山田勇男監督の新作だということを知った!それが上映終了一週間前であった!!
もおー、なんということ!!ユーロスペース作品は他でなかなか予告を観られないんで、うっかりするとこーゆーことになる!
……うーむ普段の情報収集不足(つーか、まったくやってない(汗))をこーゆー時に後悔するが、しかし何とか間に合って良かった!

良かった、とは思ったが、舞台設定のみならず、こりゃーホントの史実モノだということが次第に判ってきて冷や汗ダーラダラ。
それでなくても歴史は苦手だし、実際に起こったことを題材にした作品は、うっかりしたこと言うとホンキでとんちんかんなことになってしまう。
私はホントにアホだから、何度もそーゆー恥をかいてるから、殊更に及び腰になってしまうんである……そーゆー作品だと知っていたら……いやでも山田監督ならやはり足を運んでいたか……だって、そう、10年ぶり、なんだもの!!

10年ぶり、10年ぶりだよ!!10年も経ってしまうと、どんなに大好きでも、なんだか忘れてしまうよ(爆)。
そのフィクショナルな、モダンな、ノスタルジックな世界感、カラフルなのに夕日のようになぜか寂しい。そんな印象は覚えていたけれども、10年経っての新作は、それを躍動的に、愛すべきバカものども、といった雰囲気で、まさに駆け抜ける勢いで描いていくから、10年の歳月を埋めるなんて余裕は全然、なかった。
でもこの、夕暮れの公園で、紙芝居を見ている子供の頃のような……って、さすがに私はそんな時代じゃないが、そんな虚構のデジャヴを感じるような、切ない別れが待っているのが判っている感覚は、後から思えばうん、確かに山田勇男の世界、だったのだなあと思った。本当に、後から思えば、なんだけど。

そう、私はちっとも余裕がなくて。これはどうやら史実モノらしいと気づきはじめ、歴史苦手でもさすがに名前だけは聞いたことのある大杉栄が出てきてその確信を得ると、そのことばかりが気になるていたらくなんであった(爆)。
そんで今になって慌てて、大杉栄周辺をウィキペディアなんぞで調べちまうハズかしさ。そして衝撃。大杉栄の最後の愛人(というか妻というか)、本作のクライマックスというべき、大杉と共に連行され、殺害される人物、フェミニズム野郎としては当然知っておかなければならなかった人物、伊藤野枝。私の猫の名前と同じ(爆)。

なんて言ったら失礼なのかもしれないけど、猫に名前をつけた時、様々な方面から、どこかで聞いたことのある名前、どこからとったのか、小説のヒロインの名前だっけ?と結構聞かれて、私自身は完全に自分のインスピレーションでつけたと思っていたから否定し続けていたんだけれど、ひょっとしてひょっとしたら、私、どこかで彼女の名前を目にして記憶に残っていたんだろうか……ひょっとしたら、そうなんだろうか……。
彼女の生き方は、ヘタレフェミニズム野郎の私が崇拝してやまないそれであって、歴史の時間は突っ伏して寝てばかりいた私でも、ひょっとしたらどこかで引っかかっていたお名前だったんだろうか!

……すみません……すっかりアホな個人的感慨で進んでしまいました。まあつまり、この程度の認識なもんですから(爆)。
大杉栄を崇拝するメンバーを持つ、このギロチン社というのも当然実在する集団なんだけれども、その詩的なネーミングが山田監督の世界観にマッチしてて、歴史苦手な自分としては逃げたい気分もあって(爆)、フィクションかなあ、とずっと思っていた。
テロ、ではなくテロルと言うだけでノスタルジックを感じてしまうのはいけないのだろうか。大正モダニズムが、こんなヨタものたちのはぎれをかきあわせたようないでたちに、洒落た趣を与えてしまうのは皮肉なのか。

前作がもう10年前になってしまう、山田監督の「蒸発旅日記」で、美しき芸名を与えられた銀座吟八は、病弱さを首に巻いた鮮やかなネッカチーフ(と言いたい)で繊細に表現し、妙に色っぽい。
主人公はこのギロチン社を立ち上げた中浜哲(寺十吾)なんだけれど、彼もとても魅力的なんだけれど、ここに集まった、「この世をクビになった人間が集まっている。」という“シャレた理由”でギロチン社とつけられた、そのメンメンは皆とても魅力的でね!でも総じてみんなヘタレなんだけど!!

その中でもヤハリ、見知った顔ということもあって、吉岡睦雄氏に目が行くんである。彼が演じる和田久太郎は、良かった、ウィキに載ってた(爆)。主人公の中浜哲は載ってなかったのに(爆爆)。
ストリッパーとの恋や、淋病のための湯治は、リアルな話だったのかあ。そうしたエピソードが残されていて、それをこの、どこか息詰まるお話の中の息抜きのように描かれるのが、ちょっとホッとしてしまう。

吉岡氏は、ピンクの作品性を評価された時代に活躍を始めて、ピンクは下降線をたどってしまっているけれども、皮肉かもしれないけれどだからこそ、その才能をピンクのみならずの方向に無理なくスライドしてきて、本当にこれからが、これからこそが楽しみな役者さんで。
この、決してイケメンじゃない、どこか貧乏くさい(失礼!)面立ちが、なんかやけに切なくて、だから本作にピタリとくるんだよね。この切ない恋の幕切れもさ……。
それで言ったら、このギロチン社のメンメンは、総じてそういう印象がある。先述した銀座氏も当然、ピンク界での活躍からもう一人、松浦祐也氏も、皆そんな印象がある。

何かね、「トキワ荘の青春」を思い出した。全然関係ないけど。あの時、当時は小劇団の俳優たちを映画に、それもメインキャストで出すなんてことは、本当に驚くべきことで、随分話題になったもんだから。それを思い出した。
あの時の、この映画のために実在の人物を、本当にそこにその人物として生きているように存在する、しかもなんだかとてもチャーミングに、というのが、本作の彼らと凄く似ている気がして、思い出しちゃったのだよね。
今トキワ荘……のキャストを見返すと、現在の映画やドラマでも堂々活躍しているそうそうたるメンメンでさ、本作の彼らの今後を同じように夢想してしまうんである。いや、それだけのホープたちであるよ、きっと、絶対!!

……なんかそんな具合に、何とか作品のナカミ自体から逃れようとしている自分を感じるが……あっ!でも!!本作は確かに、主人公はギロチン社立ち上げの中浜哲だけれど、ヒロイン、てゆーか、不思議なヒロイン、時空間を旅する、彼女自身が「私、幽霊だもの」と言って男たちをケムにまく、色気がありそうでない、なさそうである、中性的のようで、女そのもののようでもある、エミルという女性こそが、物語をけん引するのだよね。
女はいつだって現実的なモンだけれど、こと本作に関しては、男たちが現実の中で倒れゆき、エミルはその中を軽々と浮遊する。でもその軽々のイメージと反して、いつも悲しげである。

これは、私のよーな歴史無知はこうして後から調べないと全然判んないことなんだけど、エミル、その名前、そして時空を超えて宗一おじいちゃん、と呼ぶ、宗一は大杉と伊藤野枝が連れ去られた時にいた大杉の甥であり、エミルっていうのは、エマ、大杉と伊藤の間の娘の名前ではないの……?
ただ、史実上はその宗一も大杉らと共に殺された筈であり、でもそんなことを言ってしまえば、時空を超える、という映画的フィクションそのものを否定することになるからアレなんだけど……。

あー!!!だから、何もなしに対峙するのって、ホント難しい!映画、いや映画のみならず、ひとつの作品には何もなしに対峙して、その作品世界に耽溺したいと思うけれども、こうして時代をきっちりと年月日まで区切って描いていかれると更に難しい……。
山田作品でそんなことを気にしたくはなかったけれど……気にさせるような作風ではない筈なんだけれど……。

でもね、そんなことに悶絶しつつ、時に眠くなりそうにもなりつつ(ゴメン!だって、やっぱり歴史モノは苦手意識があって……)、何より魅力、本作の魅力そのものだと思ったのは、このギロチン社の男たちのヘタレっぷりなの。
びっくりするぐらい、計画に失敗し続ける。彼らは一応テロリスト集団よ。こうして後から思い返して書いてみてビックリするぐらいなんだけど(爆)、そうなのよ。テロルなんていう抒情的な響きに騙されそうになるけど、テロよ、テロリストよ。
でもことごとく失敗するんだもん。それもことごとくアホみたいなんだもん。

単純に怖気づいたり、ドスじゃダメだ、ピストルじゃなきゃいかん!と手に入れたのに、銃口がカラスの糞にやられたり、仕切り直してみたら一発目が安全のための空砲だったために軽傷しか与えられない、ああハズかしい。
手製の爆弾を作ってみても、送り付けた相手が留守だったり、投げ入れても不発だったり。
そのたんびに捕らえられてメンバーがどんどん減っていって、当然彼らはメッチャ落ち込んでどんどん悲壮感が増していくんだけどさ、そのすべての失敗があまりに軽率っつーか、アホらしいもんだから、深刻さよりも、哀しき可笑しさで、それが積み重なっていくことによって、哀しさの方が勝っていくというような、不思議な逆転現象なの。

彼らの間を軽々と行き来し、時空も飛び越え、幽霊だから、と純真な彼らをビビらせるエミルという存在がいるからなおさら、この世界を変えるには国家を倒すしかない、という純真というか単純というか、そんな思想でコケまくる彼らがなんだかたまらないのだ。
ホント、あまりにコケまくるから、ギャグかと思ってしまうぐらい。段々、苦笑が失笑に、愛情をこめてだけれどそんな具合になってくるぐらい。
つまり、見てられなくなるの。彼らは真剣なのに、どんどん滑稽になってくるから。

エミルは一体何者だったんだろうと思うけれど、天使のような、神のような、全てを見通す……生きたくもないのに永遠の命を授けられた哀しさのようにも。
だって最初と最後には現在軸で宗一じいちゃんと対峙するけど、なんたって宗一は、まだ幼い子供だったのに虐殺された訳だし、そしてエミルは……これはさすがにフィクションだろう、それともそんな風説があったのだろうか??

ギロチン社のメンメンが何一つなしえなかったテロル、エミルがそのテロルを、まるで映画のように、本当に映画のように!暗躍し、人知れずワルモノ(この場合は、単純に定義されるという意味でよ!)を颯爽と始末していく、だなんて。
でも悲しさが残る。だって人が死ぬ。誤解も含めて、時代の誤解も含めて。
何かの正義を信じ、それが成し遂げられるテロルという行為は何か、少年の夢のようにも感じ、それが失敗したからまだ救いがあるけれども、でも、なんだろう……。
正義を信じることができるということさえ、今は夢の夢、勿論その先のテロルなんてものがないからこそ平和なんだけれど。

金持ち相手にエセ正論=つまりは恐喝かまして活動資金を巻き上げ、すきやきをほおばったり。それに対してマジメに懐疑的になる向き、単純にやってやった!と同調する向き。
前半戦のこのあたりから、少年のような彼らの、少年社会には既に確かにあったであろう、一心同体、主義主張すべて共有していると思っていながら、実はそうじゃない、アイデンティティがその底でふつふつとたぎり始めている、それに気づくのに少年時代が長すぎて遅すぎる彼らにたまらなさを感じるのだ。
女ならば、そう、エミルならば、もう判っていた筈。彼らにそばを出前しながら、判っていた筈。過去でも現代でも、そばを出前しながら。私は幽霊なのよと、言いながら。

今改めてウィキ(またしても……)を色々見ちゃうと、私のよーな、何も判らん歴史超無知が見ちゃいけないのかと思っちゃうけれど、でもそれはやっぱり、ダメだよね。だって山田勇男作品なんだもん。そういうことじゃないと思うもん……。
でも今は、それが単純に、純粋に、出来ないことが哀しい。この時代背景が強すぎるというのもあると思うけれど、恐らく作り手が思う以上の腰の引け方を、観客側がしちゃう、そんなゆがんだ情報化社会になってしまった。私の気にし過ぎかなあ。★★★☆☆


ショートホープ
2013年 76分 日本 カラー
監督:堀口正樹 脚本:堀口正樹
撮影:中澤正行 音楽:Otoji+Ray
出演:竜跳 鳥羽潤 中村麻美 芹沢礼多 佐藤恒治 小林麻子 岸部一徳

2014/8/24/日 劇場(ユーロスペース)
一見とても意欲的な社会派ドラマに見えるんだけど、いや、作り手側にしてみればその通りの製作意図なんだろうけれど、様々に記号的なことを使っているだけに、その掘り下げの部分において小さく小さく、気になるんである。
いやまあ、実を言うと、個人的なことだが、いろいろ忙しさもあって、いろんな邪念が頭の中を駆け巡りながら観ていたとゆー、サイアクの観客だったんであるが、そういう時こそ、そんな邪念を吹き飛ばしてくれる映画を望んじゃうんだもん。

解説を読んでいたら、またしてもウッカリ3.11以降における監督の考え云々、みたいなものが目に入ったので慌てて目をそらしたりする。私自身、3.11バカになっているのを自覚しているので、出来ればそういうところからは離れて、純粋に映画に対峙したい。
本作は、まああらすじをざざっと語ってしまえばこういう話。未婚の母から里子に出されていた、蒲田に住む小学4年生の和也。子供が出来なかった里親の元に赤ちゃんが誕生しちゃったもんだから放り出される。

その先の実母の死。殺風景な部屋に残されていたのは母親のヒモの男。担任から追い掛け回されて、和也は母親が働いていて自身の記憶もうっすらとある、横浜のフランス座に行くことを決意。そう、母親はストリッパーだったんである。
そこで父親の情報を得、会ってみると権力をかさにしてけんもほろろの地元政治家。和也は一言も発することが出来ず、蒲田に帰って来て、乗れなかった自転車の練習をする、でオワリ。

ちょっとざざっと過ぎたかしらん……。でも、あらすじを追うだけでも充分社会派になりそうだったのに、なぜ心に響かなかったのか。
まあそれはアホな私側が原因だってことは充分に考えられるんだけど(爆)、なんだか色々引っかかってしまうのよ……。

まず、ちょっとこの子の芝居が(爆)。いやそれを言ってしまったら(爆爆)。今の子役さんは皆巧いし、彼だって下手だということではないと思うんだけど。
うーん、台詞のせいなのかなあ。一つ一つにカタチを感じてしまうというか、すっと心に入ってきてくれない。
彼のキメ台詞というか、作品のキメ台詞であろう、「それって、愛じゃないの?」てゆー、愛という定義を、観客に投げかける。
それはそんなことは愛じゃないよ、いや、愛なんてこれがそうだと言うことは出来ないよ、という大人側の葛藤を感じさせてこそだと思うんだけど、このカッチリとした台詞を投げっぱなしで大人沈黙、みたいにするから、なんか見てる方が恥ずかしくなっちゃうんだもの。

そしてそもそものこの設定。子供が出来ないゆえに里子として受け入れた里親が、実子が出来たら里子に愛情を持てずに放り出す。こういう事例はあるのかもしれないけど、こんな風にあっさり、社会派的図式の中にフィクションとして入れられるとなんだか受け入れがたい。
確かに日本の実子至上主義に関しては反発を覚えるけれど、里親制度に関しては、凄く真摯に審査してマッチングしていると思うし、こんな風な描き方をされてしまったら、それでなくても里親制度は実子至上主義の日本の中でなかなか定着していないのに、あまりに侮辱的な描写だと思ってしまう。
いや、実情を知っている訳ではないのにエラそうなことを(爆)。でも、母子家庭、里親、実子と里子への愛情の違い、といったことを、この最初の時点ですっかり記号的に感じてしまって、正直心が離れてしまったのを感じていた。

和也自身がどう思っていたのかが判然としないのも、彼にイマイチ感情移入できない原因である。
赤ちゃんが産まれるまで里親は彼に“親”としての愛情をそそいでくれたのか、あるいは彼も里親に“親”としての愛情を感じたのか。
更に言えば、子供が出来ない里親に里子に出されたということは、かなり幼い頃に里子に出された彼が、実母に対する思いはどんなものなのか。
母親を訪ねた先のフランス座で、「お前はここの女たちの天使だった」と残された館主(岸部一徳)は言い、柱に刻まれた身長のキズなぞを見せてくれる。

曲がりなりにもそれなりに母子二人暮らせていて、女たちにもかわいがられていた和也が、どういう経緯で里子に出されたのか。
和也の実母に対する記憶はうっすらとしたものだけれど、決して悪い記憶ではなさそうなことを考えると、実母がストリッパーだったこと、そして何より未婚の母だったことが、イコール里子という結論になされたみたいで、これまたあまりにも単純に過ぎると思ってしまう。育てられる環境ではないと判断されるまでには、行かないんじゃないかと思う。

和也は母親に対しては何の疑問も持ってなくて、それどころか、かーちゃん、かーちゃんと親しげな呼び方をしている。
自身がこんな境遇になって父親を探すことに執着する訳なんだけど、母親に対してはどんな気持ちを持っているのか。里子に出されたことを恨んでないのか。
恨むほどの気持ちを持っていない、という訳でもなさそう、どころか、母親に対してはそれこそ愛情と呼べるものを持っているらしいあたりが、和也のキャラクター設定がどうなっているのかがイマイチ判らない、曖昧で、共感しにくいんだよね……。

そして、ストリッパーというのも。ストリッパーというのはこれぞ記号!という判り易さ。娼婦かストリッパーか、てな記号の両巨頭であると言ってもいいぐらい。
娼婦としてしまったら、まあ性犯罪的なコトに引っかかってくるかもしれないし、劇中では、ヒモの良輔が、彼女はダンサーだと言っていたし。

でもだからといって、ダンサー、つまりはショービズ、エンタテインメントのプロとしての矜持があるという描写をしているかといえば決してそうではなく、やはり場末の、潰れかけたストリップ小屋で身を持ち崩した女、というコトなんだよね。
やはり女だからさ、同じ女として、彼女がどういう人物だったのか。なぜストリッパーだったのか。その仕事に対してどういう思いだったのか、どう子供に思われていたのか、恋人の男にどう思われていたのか。そういうことが気になる訳。

それにさあ……これだけ陳腐な(言っちゃった!!)記号をちりばめていながら、この可哀想なストリッパーの女(これこそが記号だよな)の最大の記号、親やきょうだいに関して全然触れないよね。
まあ、里子に出すってことはそのあたりを当然スルーするだけの事情があるってことなんだろうけれど、あまりに記号、記号で押してくるから、この最大の記号をスルーすることが、単なるウカツに思えてしまったりして……。

そして和也はフランス座に向けて、つまり横浜に向けてひたすら歩く。真夏の灼熱の太陽の中、汗で髪の毛をびしょびしょに濡らしながら。
本作で唯一(爆)心惹かれた、少年の無造作な長髪が汗に濡れる様である。この描写には確かなリアリティーがあった。

そんな具合に萌え萌えしていたら、中学生と思しき、これまた青臭い少年二人の、いじめっ子といじめられっ子の、これまたメッチャ記号的なキャラ登場に心が折れてしまう(爆)。
財布からお金を取られた上に、自転車の後ろに乗せて走るとか、しかも二人、一人対一人、って。記号的なのに、現実的じゃない。たった一人のいじめっ子にこのいじめられっ子が逆らえないというのが、雰囲気からもイマイチ感じられない。

イジメの問題もまた社会派には大きなアイテムで、イジメという子供同士の世界からさえはじき出されている和也に当て込むには、大きな意味があるのかもしれないけど、そもそも和也が子供として、学校とかでどういう生活をしていたのかもわからないし、担任が来ていたということは学校には行っていたんだろうし……。
まあ、はっきり言っちゃえば、このイジメの図式を出してきたことの意味が、判んない訳。社会派映画としての記号、もう、メッチャ記号よ、その要素としてポンと置かれたようにしか思えない訳。

まあ、ここで、和也が自転車に乗れない、てことを示す意味だったのか??まさか……、その意味はラストに取っておくとして。
で、横浜に到着。ホームレスのおっさんに生きる意味を教わったりする……のものね!ホームレスなのに割と若くてこぎれいで、つまり画面に耐えるだけの状態。甘い!
……正直ここで、本当にそう、思ってしまった。この暑さ、渇きにも飢えにも限界だった和也が、自動販売機の横に座り込んで、買っていく大人たちを一瞥するシーンの後にこのシークエンス。
親切にしてくれるのは、カネを持ってない方の大人……社会派というより浪花節なのではないだろーかと思ってしまう……。

で、フランス座到着。本作中で最も有名俳優である岸部一徳。幼い頃の和也を覚えていて、優しく接してくれる。
和也もその名前を憶えているぐらいだから、じゃあ結構物心がつく以上までここにいたのか……なぜここを去って、里子に出したりしたのか、蒲田に行ったのはなんでなのか。
「またパクられちゃったよ」とこのおじさんは言うから、パクられたことで女たちは散り散りになったのか。そんなことを想像するけれども、そんな想像を観客が必死にするのは親切すぎる気がする。

ここまで先述したけれども、物心つくまでは手元で育てていた和也を、母親に対してはネガティブな思いもない生活をしていた和也を、里子に出す事情がどうにも想定できないのが、なかなか感情移入できない理由なのよ。
全てが記号的過ぎて。ストリッパーで里子でなんでか判んないけど死んじゃって。死、というのもメッチャ記号的だしなあ。

そして突き止めた父親ってのが、これが最大の記号、笑っちゃうほどのキャラクタリスティック。
フランス座に母親が残していた遺品、大切にとっておかれた写真とたばこのショートホープ。ショートホープってのは当然、小さな希望てなところとかけているんだろうが。
その写真が、街中に貼ってある政治家のポスターの顔と同じことに気づいた和也、これまた偶然に、痴話げんかしているカップルの、女をおろしたドライバーの男がその政治家だと気づく。
女についていく。政治家は大臣の娘との結婚が決まって、長年の恋人であるこの女を捨てようとしている、といったところである。

……この設定に、いつの時代だよ……とげんなりしてしまう。いや、いつの時代も政治家っつーのはこんなもんなのかもしれんが、実情は知らないからさあ。
“政治家ってのはこんなもん”という、まさに記号よ。こういう政治家像、それこそ往年の映画でいくら見たか知れない。

「あの女はそうやって男にたかっていたんだ」「お前も騙されて巻き込まれたんだ」本来ならばサイテーの男!と憤ることによって、映画と観客の一体化が図られるんだろうと思うのだが、あまりにも古臭く、クサいので、聞いててモゾモゾと身の置き所がないんである。
捨てられる恋人として登場する中村麻美嬢も、妙齢の女優としてイイ感じにキャリアを積んでいるのに、これじゃあまりにどうしようも出来ない(爆)。

中村麻美演じるマリは、カメを飼っていて、エサのナメクジを子供に集めさせている。それを受け取っている場面を和也が見ている。このシチュエイションは面白いと思ったが、結局はなんだったんだろうという気が(爆)。
「もう死んだから、必要なくなったの」とナメクジの入ったビンを捨て、「カメをホルマリン漬けにしてもらったの」とフランス座に和也を訪ねてくる。
しかし、ホルマリン漬けになった筈のカメは、和也がそれを叩き割ると(なんで?)のそのそと動き出す。そのカメを携えて和也は夜の橋の上に向かい、引きの画面で川の中にカメを落として逃がしてやる。

……うーん、このエピソードは本気で意味が判らない。自由になったという意味なの?
確かにその前に、担任から言われて和也を探しに来たヒモの良輔が、ヒモもそこでじっとしているのは同じだ。でも好きでじっとしているからカメとは違う、なんて知ったような口を叩いてマリを怒らせたが、この台詞の応酬も、一見深遠な意味がありそうでそうでもないような気が……(爆)。
大体、見るからに自然に生息していた訳じゃないカメを川に放すなんて、今、色々ニュースで問題になってるやんか……。

そもそもこのヒモの良輔がねー。それこそ“一見”魅力的なキャラなんだけど、一体なんなの、って感じ。
ヒモってのは女の金を使ってギャンブルしたりするんじゃないの、と言うマリに、違う、ヒモは何もしないんだと。ただただ楽屋で彼女の帰りを待って、家でもじっとして、何もしないんだと言う。
その上で、じゃあ良輔がなぜヒモになったのか、和也の母親とどういう風に出会ったのか、それこそ“愛”があったのか、愛し合ったのか。何にも、なあんにも、判んない!!一体、何なの。何だったの。

確かに冒頭、残された二人、和也に良輔が言う、「俺たち、同じ穴のムジナだろ」というのは、判る。それこそ、数少ない、説得力のある台詞だ。
でもそれっきりなんだもの。この二人の間に信頼関係が芽生える何かがあった?ないよ。全然ない。
それはある意味、愛という、大人が使う空虚な言葉を探し求めた和也に、究極の現実を突きつけたということなのかもしれないけど、それもまた、観客が“親切”に妄想したことに過ぎないもの。

それにそもそも和也を探しに来た良輔は、なんで横浜ナンバーの軽トラに乗ってたの?彼の手持ちの車じゃないの?いかにも良輔の乗ってそうなショボさを醸し出す軽トラだったのに、ナンバー見た途端にガクリときちゃう。
蒲田から乗ってきたんなら横浜ナンバーはおかしいよな……。横浜までは電車でそっからレンタル?でもレンタルするにはおかしな車種だしなあ……。

結局、最後のシーン、乗れなかった自転車を、一人公園で練習する和也の姿を描きたかったということなんじゃないのかしらん。つまり自転車にさえ乗れなかった少年の成長をさ。
それで言えば劇中、フランス座で岸部おっさんが突然回し始めるエロフィルム、翌日和也は異変を感じてパンツの中をのぞき、可愛いおしりを丸出しにして流し場でパンツをごしごし手洗いする。つまり夢精したんであろうというシークエンスがある。

確かに少年の成長譚としては魅力的なシークエンスだけど、ここだけ浮いている感じがするし、いかにもという感じもする。異変を感じてパンツの中をのぞき、パンツを手洗い、その一連が、いかにも、なのよ。
ここだけ浮き上がって、このシークエンスを入れたい、そのための作劇、なんとか入れ込み、という気がしちゃう。それが故のストリッパーという設定から始まったのかもしれないとか思っちゃう。そこからのどんどん記号の羅列だったのかもと思っちゃう。

少年モノはさ、ホントに色々秀作があるから難しいよ……。ちょうど去年の今頃観た「あかぼし」の秀作っぷりを思い出すと、やっぱりその差異を感じちゃうよ。
むしろ手を出すには難しいジャンルになったと思う。子供を出すだけで社会派が作れる時代は、終わったのだ。★☆☆☆☆


新・平家物語
1955年 107分 日本 カラー
監督:溝口健二 脚本:依田義賢 成澤昌茂 辻久一
撮影:宮川一夫 音楽:早坂文雄
出演:市川雷藏 久我美子 林成年 木暮實千代 大矢市次郎 進藤英太郎 菅井一郎 千田是也 柳永二郎 石黒達也

2014/5/17/土  京橋国立近代美術館フィルムセンター
歴史モノはとにかく苦手なのだが、市川雷蔵だとゆーので思い切って観に行く。しかし彼はデビュー二年目で若すぎて、後の代表作からイメージされるような端正で憂いのある感じとはあまりにも違ってて、一生懸命スクリーンの彼の顔を凝視して、市川雷蔵……なんだよね……と自分に言い聞かせた(爆)。
役柄ということもあるのだろうが、あまりに眉毛がアヴァンギャルドなまでに激しすぎて余計に……しかし平清盛はあんな眉毛をしていたということなのだろうか……。何か、歌舞伎か文楽人形のような眉毛。

そうか、歌舞伎。うーむ考えてみれば、市川雷蔵はもともと歌舞伎役者であった。当たり前かもしれないが、その前にも何代もの市川雷蔵が存在する。けれども彼以降は出ていないのは、市川雷蔵といえばこの映画俳優の市川雷蔵として完璧に認知されてしまったから、なのかなあ。

まあそんなことはどうでもいい。そう、デビュー二年目、若い若い市川雷蔵は、これまたイメージと違ってめっちゃ元気、めっちゃ青臭く、めっちゃ正義やら正しい道やら真実やらに悩み、そして愛を信じる、もうなんつーか、見てられないほどの若き青年、なんである。
イメージイメージと言ったけど、それはつまり、私が数少ない鑑賞経験で勝手につけたイメージだわな(爆)。そうか、市川雷蔵はこんな若々しい、躍動感があり、ちょっとウザイぐらいのエネルギーあふれる役を演じていたのか……そもそも市川雷蔵ミーツ平清盛ってだけで、意外すぎるもの。

なあんて、歴史苦手なんだから意外過ぎるもなにも判ってないんだけど(爆)。だってさ、ご丁寧に本編がはじまる前に、当時の時代背景をクレジットとナレーションのダブルできちんと説明してくれて、ふんふんなるほどと思っているのに、結局、物語中ずーっと頭の中で勢力図の確認に苦慮してるんだもの。あ、アホすぎる私……。
えーと、貴族と朝廷と寺社の三つ巴、平清盛は貴族に使われる武士であり、そこから武士の世の中への礎を作ったこの時代、その立役者である平清盛、よね。

貴族というのは武士である清盛たちに対する形で、そのマロな恰好もあって判るんだけど、朝廷……えーと、平清盛の実は父親かもしれん、という白河上皇はこっちよね。
おいおいおい、おめー学校で何習ってたんだよ。いや特に日本史は本気で寝てました、スイマセン……日本人失格だな……そら大河ドラマが苦手な訳だ……。

それでも松ケン好きだから、あの低視聴率にあえいでいた「平清盛」だって頑張って見てたのになあー。つまり判ってなかったんだな(爆)。おおー、出てきた出てきた海賊討伐の話。そこで止まってちゃダメだってば、もう。
でもそこはさすが名匠、溝口監督な訳だから、繊細な人間ドラマが素晴らしいのよね(と逃げる)。ま、そもそも足を運ぶ後押しになったのは、そーゆー解説がなされていたから(爆)。
先述したけど、青年らしく若々しくウザイほどに悩みまくる平清盛=市川雷蔵の、まさに青春物語なんだもん。頭だけで悩まずに、身体もじたばたして悩むからね、この人(笑)。ホント、市川雷蔵のイメージになかったなあ。

その悩みの元となる、アイデンティティの不明に悩む、その母親。白河上皇のお手つきの白拍子、しかし生臭坊主を引き込んでいたことが判明し、月足らずで生まれた清盛が、その事実を知った時、一体俺は誰の子なんだと悩みまくる。
そらまーそうだ。一般社会だってこらー悩む事例なのに、貴族や朝廷の横暴に腹を立てていた武士の清盛、つまりそれだけ武士であることに誇りを持っていたのに、母親は上皇お手つきのフーゾク女、自分は尊敬していた父親のタネではなく、院政トップの人物か、あるいは間男の坊主か、どちらともつかぬというんだもの。

フーゾク女などというのはちょっと言い過ぎだが(爆)、でもこの母親の描写はそうとしか言いようがない。
みやびやかなお引きずりの姿で、しかし中はおっぱいの谷間をぎゅっと寄せて見せるだなんて、そんなん、初めて見たよ!!えーっ、あんなスタイル、そもそも和服でアリなの!!
しかも彼女、それをホントに、最後まで通す!上皇お手つきを鼻にかけて気位の高いのを前面に出していた時はまだ判るけど、その夫を離縁し、しかしその元夫が亡くなったと知って弔問に訪れる時も、豊かなおっぱいの谷間は健在!衝撃!!

暑い季節に舟遊びも出来ない、こんな貧乏ぐらしに20年も我慢した、と、幼い子供もいるのだからと追いすがる清盛を振り切って、彼女は三行半を突きつけて去っていく。
最後の最後、彼女が元の白拍子に戻り、その元締め的存在となって、お偉いさんたちにはべりながらあでやかな野の宴席で鼓なぞ打っている姿を清盛たちが眺める。
「母上はあの世界で生きるのが幸せなのだ」と、皮肉でもなく清盛がつぶやく。なんとまー、衝撃のキャラクターよ!!

そんな衝撃母上がいるからこその、清盛は地に足の着いた女性に心を奪われたのか。
父親、忠盛の実直さを買って、何かと後ろ盾になってくれようと動いた結果、公家としての立場まで追われてしまった藤原時信、その娘、時子。
自ら糸を染め、機を織り、布を作る。清盛にお酌するその手は染料に染まったままで、「すぐには落ちないものですから」と悪びれないというより、誇りにまっすぐ立っている。
これは男社会の、立身出世やらプライドやらの物語だが、もう既に女たちは、本来の女たちの姿でそこにいることを、なんだか嬉しく思う。
まあそう思えば、あのおっぱい谷間の母親だって、自分らしく生きるために正直な強さを持った人だと思えばそうなのかもしれない。時子だって、プライドだけでは生きていけないことをまっすぐに見つめての、この飾らない誇り高さなのだもの。

そうか、当然の様に、これは清盛親子以下、男たちの物語だと思っていたけど、見ようによっちゃあ、意外にそうでもないのかもしれないなあ。
だってさ、実際、時子が言うように「働かなければ生活できない」のだ。清盛が、水に足を浸して、美しい糸を染め上げている時子の瑞々しい生き生きとした姿を見て心奪われ、素晴らしい趣味ですね、などと見当違いのことを言った時、時子は怒るでもなく、ただ清冽に言い放った。趣味なんかではありませんわ、と。
男たちはプライドのために戦い、女たちは生きるために働く。そんな図式が見えてくる。あの薄情な母親だって、つまりはそういうことなのだもの。

海賊討伐から帰ってきた夫や息子や兵士たちを、彼女は迎えなかった。歌合せの会に行っている、と聞いて清盛は勿論、夫の忠盛ですら後に妻を控えめにいさめた。
しかし彼女は、あなたのことを頼みに出かけたのだと言う。しかし義侠心のある時信が忠盛の功績を汲んでやるべきだとか進言しちゃったことが裏目に出て、お偉いさんを怒らせちゃって、まああの人は余計なことをするわと、彼女はおっぱいの谷間をあらわに愚痴りまくる。

正直、彼女の登場シーンであるこの場面では、「あなたは白河上皇から私を賜ったのだから、いくらだってうまく立ち回っていい暮らしができるのに」と言う彼女のことを、さすがにイヤな女だなーっ、と思ったもんだった。
でも後からいろいろと思うにつけ……“働かなければ生きていけない”のだもの。男たちはいつの時代も、プライドだけを頼りに生きている。それを汲んでもらって生きていく糧を得ようとする、そんなところが、今の時代にさえも、残っている気がする。

いざとなればフーゾクでもパート主婦でも、という本気の覚悟が、男たちにはない気がするのだ……。
勿論、それ以外の、もっと大きなものを持って生きている、それでこそ男でありサムライだということも言えるのだし、実際、若き清盛の信念を持った突き進み方は、映画のカタルシスとしても最高なんだけど、うーんと思わず考え直しちゃうと、つまりは世の中って、そんな風に男と女が振り分けられてきたんだなあと思ったりもしたんであった。

いやいやいや、そんな風に考えてしまっては、映画がとんとつまらなくなる。そういう男たちの世界があるからこそ、面白いのだから!
生きるために、というところから外れてはいるけれど、実際カネを稼いでいる商人として登場する伴卜なんぞは、そういう意味では男ならではのキャラである。
ハイリスクハイリターンを狙う、ハイリスクではあるけれど、自分の直感を信じていて、絶対に成功する、という野心がある。怪しげできらびやかな唐渡りの品物をどっさり所有していて、野心たっぷりなのを隠そうともせずに清盛に近づく。
実際、彼の目は確かで、清盛は純粋すぎるところはあるけれど、確かに確かに、大きな仕事を成し遂げるだけの器と思い切りがあった訳で……それはちょっと後述。

もう一人面白い男は、嫁となる時子の弟。登場からもう、バクチ好きで、闘鶏にと家の鶏をこっそり持ち出して、しっかり者の姉の時子に叱られちゃうようなヤンチャな男の子。
恐らくそんなところにつけ込まれて、三つ巴のもう一つである寺社のぼーさんたちにケンカを売られる。これを見ちゃうと、お寺やお坊さんに対するストイックでありがたいイメージがぶち壊されちゃって、日本人として何をよりどころにしていいか判らなくなっちゃう(爆)。
もう、権力保持することにギッラギラで、刀より数倍殺傷能力ありそうな豪快なヤリをオー!!と突き出す群衆があまた。このエキストラ(爆)迫力は凄すぎる。こういうスペクタクルは、CGの水増しでは得られない!!

でもこの数の迫力を、父を亡くした怒りと悲しみで立ち向かった清盛は、蹴散らしちゃう。うーん、このあたりはさすがに伝説モードな気もするが(爆)。
でもアレかね、坊さんやら檀家やらにとっては、神聖なる神輿の、神聖なる鏡や屋根のシンボルに弓矢をブチ込まれただけで、もうアヘアヘって感じなのかね。
確かに清盛の弓の腕は見事だったが、あの数百と思われる殺気立った坊さん集団が、それだけでアヘアヘと撤退するとは……。
それだけ日本人の信仰は深く、それを踏みにじった清盛は、トンでもない不心得者、それだけ時代を変える力を持った男だったということなのかなあ。

とにかく群衆の画の力が凄い。デジタルリマスター版なんだそうである。今回、日本の初期カラー映画という企画で、本作がそもそも、今まで、どんな色彩で観られていたのか。ネットでデータ検索すると、出てくる写真はセピアモノクロだったりする訳で、どんだけ迫力が蘇ったんだろうと思う。
群衆、一般民衆は、それこそ男も女も生きるために働いている。冒頭シーンは、世の中の動乱に翻弄されながらも、そんな噂話をしながらも、活気ある市を立て、ウチは貧乏なんだから大目に見てよ!とか言いながら強盗のごとく奪い取るような、そんなたくましい人間の姿なのだ。
薄汚れていて、着物もすすけてしわしわでぼろぼろで、ちっともみやびな時代の風情じゃない。
思わず、大河ドラマのすすけた画面を汚いと酷評されたことを思い出す。何を言ってるのだ。そもそもこの名作があるのだ。これを見よ、これを見よ!!★★★★☆


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