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「と」


2014年鑑賞作品

共に歩く
2013年 81分 日本 カラー
監督:宮本正樹 脚本:宮本正樹
撮影:千葉史朗 音楽:藤野智香
出演:小澤亮太 入山法子 河井青葉 長島暉実 日向丈 染谷俊之 朝加真由美 螢雪次朗


2014/4/13/火 劇場(シネマート新宿)
全て監督自身の体験を元にして、なんてことをオフィシャルサイトで読んでしまうとどうにも書きづらいな。ええ、ほんとに全て?この三件とも?
だったら何も一本にぶち込まないで一本ずつ作ればよかったのになあ。「過去のトラウマから感情を抑える事が出来ない女性と、それを支える恋人」、「アルコール依存症の父親の影響で自傷行為を続ける子どもと、その母親」、「物忘れが激しくなった認知症の妻と、困惑する夫」(まんまコピペ(汗))そのどれもが、一本ずつの映画にするだけの重いテーマじゃないの。
確かにその三本の人間関係はそれぞれリンクしあっているけれど、その三組を絡ませ合うことで生まれる化学変化とまではいかない……というか、一本に仕立て上げるためのムリヤリリンクに思えちゃう。

正直、ね。三組を一本にしちゃったことで、そのどれもが上滑りのような気がして仕方がないの。うーむ、だから、「監督自身の体験を元にして」ということを聞いちゃうとこういうことホント言いづらいけど、だってそう思っちゃうんだもん。
感情を抑えることが出来ない女の子は、ただ唐突にその状態を見せるだけで、え?いきなり何何?と戸惑ってしまうし、その彼女を“支える”恋人は彼女からかかり続ける電話を「出ると余計ややこしくなるから」と出ず、帰れば当然彼女ブチ切れ。それじゃ、ただのキレる女に、まあまあと怯える男にしか見えない。

うーむ、それまでの経過が何もなしにこうだと、彼にも彼女にも共感も同情も感情移入も全く出来ない。
そりゃまあその後それなりに、彼女の子供の頃の家庭環境やらが回想されるけれど、そこが彼女の突然キレる状況に直結するだけの説得力はどうしてもないと思うんだよなあ……。なんか彼女の迫真の演技を見せるためだけの場面設定に思っちゃう。
確かに迫真の演技ではあるんだけど、それを見せれば見せるほど、だからどうしてこうなったんだよ……と心の中で嘆息してしまう。

と、一組目でもうすっかり疲れてしまって、二組、三組目を記す意欲が若干失われてきたが(ダメダメ)。
とにかく三組共に言えるのが、これだけシリアスさの印象を植え付けることには腐心しているのに、解決があまりにあっさりと単純に行われてしまうこと。
言ってしまえば三組ともども、今の状況を見つめ直し、受け入れ、相手を信頼することによって事態の改善を図る、といったところなんだけど、そりゃまあ、そうよ。まっとうに、そうよ。
確かにそれを受け入れるところまでが一番大変な、長い道のりなのかもしれない。でもそうか判った、それを受け入れれば上手くいくのね、とばかりにその途端に三組とも笑顔で抱き合っちゃうのが、えええ、そ、それはあまりに簡単すぎないかと唖然としちゃう。

なんか説明不足のままキモの部分に行ってしまったが(爆)。あのね、なんか……道徳のビデオ見てるような感じ、と思ったのよ。小学生の頃見せられた覚えのある道徳のビデオ。
何らかの問題提起、シリアスな状況、双方の話し合い、よりよい未来に向かって歩いて行こう、みたいな結末……。20分かそこらの、道徳ビデオみたいな気がした。
これが道徳ビデオなら、よく出来た作品と言えたかもしれない。でも映画作品として提示されるとしたら、あまりにシンプルすぎないだろうかと思う。
ええっ、そんなに人生って簡単なの?と、こんな経験をしてない私でさえ、思ってしまう。

だってこの作品のテーマ、“共依存”という言葉を、先ほどの青年は教え子の小学生から聞いて、こともあろうにウィキペディアで調べるんだもの!!
この場面にはあぜんとした。いやいいよ別に、ウィキペディアで調べても。私だって同じ立場ならそうしたかもしれない。
でもそれを、その場面だけで示して、ああ判ったとばかりに彼、恋人に向かって、俺たちは共依存の関係なんだと、オメーは小学生から教えられたくせに、しかもウィキペディアだけの知識のくせにしれっと言いやがって。
しかも共依存だということが判っただけで解決、みたいな、これからは俺も言いたいこと言うから、みたいな、そ、それだけでこの関係は解決する訳!?そんなあ!

……まあこのカップルのことはおいておこう。三組のうちで結構一番矢面に立っちゃうから、ついついここを基準にしてしまう。
先述した、共依存という言葉を彼に教えてくれた小学生は、母子家庭で、離婚の理由は父親のアル中。
常に自分のお腹をこぶしで叩いているこの子のことを、担任の若い女教師は「ヘタに関わると面倒じゃないですか」といかにもな今時のワカモン対応。
こういう描写をしかも“若い女の子の先生”にフッて、子供たちをよく見ている男性教師、という立場に先ほどの青年をあてがうのもイラッとくるが、こーゆーところにいちいち目くじら立てるのはいかにもフェミニズムオバサンだからやめておかなければ(とか言いながら、しっかり言ってるし(爆))。

しかもね、関わることを恐れてるくせに、“相手がふっかけてきた”ケンカなのにこの子の親をわざわざ呼び出すっつーのが解せない。これじゃただ単純に、この母親が一人悩んでいる息子にイラつくための材料作りにしか思えない。
正直、なんでこの母親がこんなにもイライラしているのか判らない……というか、それこそ説得力、だよね。
アル中のダンナと別れたのは、この息子がお父さんから逃げようと言ったから、ということが後から明かされ、つまりそれまではこの母親はアル中夫を“私が支えなければ、あの人はもっとダメになってしまう”とゆー、何十年前だよ、というメロドラマの世界に陥っていた訳で。

後から考えれば、夫と別れたのは息子がそう望んだからであり、だから息子に辛くあたるという図式なのかもしれないけど、これは明確には判りづらい。
「私がいなければお父さんはもっとダメになっちゃう」という台詞は一応あったけど、彼女がそこまでホレきっている、つまりそれこそ“共依存”よね、そんな風には感じられなかった。

これはやはり、尺の問題も大きいと思う。三組を一本にしちゃったからだよ、と思う。
彼女は劇中、養育費の催促のため、元夫と再会する。このシチュエイション自体、あまりにメロドラマチックすぎてビックリするぐらいだが、こともあろうに夫は「もう酒はやめた。やり直してほしい」とこれまた超絶メロドラマな台詞を吐き、まだそんな気持ちにはなれないと常套句を返した彼女は、彼がトイレに行っている間に……こういう状況を与えること自体、ありがちすぎるのだが、彼のバッグの中からウィスキーの小瓶を見つけてしまう。

う、うわっ、これを陳腐と言わずしてなんという(汗)。アル中の男がウィスキーの小瓶を持ち歩いている、しかもこんな場面に、元妻とよりを戻そうとする場面に入れてくる、これを陳腐と言わずして何と言う!!……うわー、いまだにこーゆー解説的場面を平気で入れてくるなんて信じられない。
舞台ならまだしも(いや、舞台を軽視している訳じゃなくて、目で見て判りやすいのが舞台は重要じゃない?(汗))なんか疲れちゃったなあ……。

そんな元父と母親の関係に心を痛めている子供に、担任ではないが気づいてしまったキレキレ彼女の恋人の青年。「自分と同じだと思うんだよね」……うーわ、きた、これはダメだよ……。それを言うなら、言っちゃうなら、しっかりそれを示さねば。
あーあ、思った通り、台詞上だけで終わっちゃった。俺もこういう家庭環境だったから、判っちゃったんだよね、みたいな。あーあ、ヤだヤだ。こういうの。いろんな意味でヤだ。

一つは、そういう辛い経験がなければ教師になれないとでも言いたげなこと。二つは、それが言葉上だけで、彼自身にどんな過去があるのか、これは先述しまくりだけど、尺上の問題もあって、まさに口先だけの軽々しさで終わってしまうこと。
それは後に、彼が恋人にそんな過去を明かす場面で、更にそんな寒々しい思いを重ねることになり、なんでそんな事態になるのかと(爆)。
そんな彼のトラウマを全部示したうえで、恋人に対して辛い思いをしているがごとくの描写のようで、いやいやいや、全然判んないってば!

三組目は、熟年夫婦。あのキレキレ彼女の両親である。両親に全くかまってもらえなかった子供時代の彼女のトラウマ。「子供なんか産みたくなかった」とこれまた判りやすい台詞を浴びせられる回想場面だが、まあ確かにこの台詞は子供にとってキツイに違いない。
この母親が、若年性アルツハイマーになる。財布だの指輪だの通帳だのを置いた場所を忘れ、そのたびに夫を疑い、ケンカになり、夫は疲れ果てる。そしてたった一人の娘に助けを求めるんである。

そうした途中経過の間に、彼らがずっと恋人気分で、外で食事をしてきて子供にはコンビニ弁当かなんか与えて、ないがしろにしてきた過去が回想される。
夫大好きなこの母親は、自分と夫だけにケーキと紅茶のセットを用意し、幼い娘を毛虫を見るかのような目で追い払うんである。
……コンビニ弁当の場面はまあまだしもと思ったが、いちごの乗ったケーキを二ついそいそと用意する場面は、うーん、ちょっとやり過ぎかなあと思っちまった。

いや、現実にそういう親はいるのだろう。でも他のいろんなシチュエイションも含めてくると、こういう、言ってしまえばマンガチックな判りやすさがガマンならなくなってくる。
いや、マンガチックなどと言ってはいけない。マンガは今や、しっかとしたメディアなのだから!でもまあとにかく……そういうことなのよ(理由になってないな)。

この彼女の幼い頃だから、両親も相応に若いはずなのだが、そのまんま螢雪次朗と朝加真由美である。若干紗はかけてるけど、かなり、割と、まんまである。
……うーん、ここは若い役者に任せても良かった気がするが、そうなると彼女の両親ということが判りにくくなるのか??それこそ三組も同時に一本に仕立てたことが原因だよなあ……。

実際きっと、こういう理由で子供をないがしろにする両親はいるのだろう。恋愛の延長線で結婚があるのなら、それはある意味当然の帰結かもしれない。
しかも近現代になるに従って生活が豊かになり、子供を育て、家族を養うことが自然命題に“ならなくて済む”世の中ならなおさらなのかもしれない。
それこそそれこそ、平和なワイドョー的にもそんな話題はことかかない。大家族が家族愛として成立しない、そのことを面白がってしまう時代。

母親がアルツハイマーになって参ってしまった父親、そして母親も娘に会いたがり、あのキレキレ彼女は意を決して両親に会いに行く。
「どうして私を愛してくれなかったの?」母親は率直に応える。「私は定雄さん(夫の名前ね)が大好きなの。ごめんね」
父親はその率直さにうろたえるけれども、彼だってつまりはそうだったわけで。
いや。そうかな。父親の方は、日本の伝統的な父親像そのままに、子育ては妻の仕事と考えていたのかな。確かにそんな感じの、家に仕事を持ち込んでくる描写もあったけど、そこらあたりも突き詰め不足なんだよね。

母親は明確に、夫ラブで、それは夫に対していまだに名前にさん付けするところからも明白で……と言ってしまうのは、いかにも日本的かな。
子供が出来ると日本の夫婦はお父さん、お母さんと互いを呼ぶようになってしまう日本。でもそれを揶揄しているかというとそれもまた明確じゃないんだよなあ。

正直父親のキャラづけは、妻に対しても娘に対してもあいまいだと思う。言ってしまえば、日本の父親像ってこういう感じだよね、という風味。まあそれだけに、この奥さんの夫ラブが際立つのかなあ。
実際、登場するたびにファッションがしっかりしてて、家の中でこんなしっかりファッションするかなあと思うのだが、そこんところは、いつまでもこの奥さんは女、夫に対して女、ということなのかもしれない。
確かにそこだけは凄く明確に伝わってくるし、だからこそ同じ女としてなんか生理的に、同族嫌悪のような、なんとも言えない気分になったのも事実。

でね、彼女はしばらく自分の症状を受け入れられなくて、最愛の夫すら疑い続けるんだけど、娘が訪れて話し合った途端、悟りを開いちゃう。「どこに置いたか判らなくなるのは、私の病気のせいなのよね」と、ニッコリ。
おいおいおいおいー。だって彼女、自分の病気のことは、知らなかった訳じゃないじゃない。ダンナと一緒にお医者さんに聞いて、一緒にショック受けてたじゃない。
まあそれだけで単純に受け入れられないということ、それはそうなんだろうけれど、それが翻ったきっかけが上手く飲み込めない。

いやそりゃー、娘と再会したことなんだろう。それは確かに奥さんも望んでた。でもねでもね、なぜ奥さんがそれまでないがしろにしていた娘と会いたいと思ったのか、そこんところがピンとこないのよ。
会って嬉しそうではあるけど、私はダンナさんが好きだから、ゴメンね、と悪びれもなく言う彼女に娘に会いたいと思った理由が感じられない。

お父さんの方はまあ判るけど……でもその理由も、自分が先に死んでしまったら、お母さんの面倒を見てほしいというこれまたミもフタもない理由であって。まあそれだけこの夫婦がラブラブだということなんだろうが、見てるだけではそこが明確じゃないといか……。
それこそさ、お父さんの方もはっきりラブラブで、娘に対して曖昧な罪悪感なんか持たずに、何かあったら俺の愛する妻を、お前娘なんだからよろしく頼むな、ぐらいの方がインパクトあって良かったよ。

なあんかさ、この父親像、言っちゃ悪いけど、男性作家の言い訳じみてるよ。それはこのお父さんだけじゃなくて、言っちゃえばすべての男性キャラ、それこそ両親の不仲に苦しむ小学生男子にさえ言えることだよ。まああのアル中さんは判りやすく抜きにしてもね。
彼ら殊勝な男たちが、啓示を得て、こうべを垂れて、怒れる女性たちにこうしたらどうですかとおずおずアイディアを提示する。女たちはそれまでの強硬な態度を恥じてそれを受け入れる……。
ないないない、女はそんな、従順じゃないよ!てか、最初から判ってる。判ってるもの。ウィキペディアで調べたことを得々と教えられて、そうか、そうだよね、ゴメンね、なんて言うかっ!

しっかしやっぱりあのキレキレ彼女に、監督は一番力入れてたんだろうなあと思う。意味不明なぐらいキレキレだったもん。
やたら洗いかごの中の食器を叩き割る。クローズアップする割れた食器がいつも同じデザインのものだってのが、まとめ撮りが判り過ぎる(爆)。いやいくらなんでも、このデザイン食器にこだわっていたと解釈するほど優しくなれない(爆爆)。

ジュエリーショップに勤める彼女の後輩と思しき女の子が、あまりにも唐突に「先輩、彼氏いるんですか?写真見せて下さいよー!」と言う場面にも凍りついた。
ザ・休憩時間、ザ・先輩女子の彼氏を詮索するキャピキャピ女子、「カッコイイー!私なら絶対浮気心配しちゃいます!!」
百万回聞き覚えのあるこんな台詞を、その後の展開に特に影響させずに挿入してくる無神経さが信じられない。無神経さの対象は、つまり彼が思っている、一般的な女に対する感覚なのだよ。判ってるのかなあ。 ★☆☆☆☆☆


友だちと歩こう
2013年 89分 日本 カラー
監督:緒方明 脚本:青木研次
撮影:藤井良久 音楽:coba
出演:上田耕一 高橋長英 斉藤陽一郎 松尾諭 山田キヌヲ 水澤紳吾 野沢寛子 林摩耶

2014/4/17/木 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷/レイト)
オムニバスが何より苦手でまず逃げちゃうし、近頃はレイトが殊更にキツくて(年のせいだな……)本作はギリギリまで迷ったのだけれど、緒方監督を見逃す訳にはやはりいかない、と足を運ぶことを決意。
てゆーか、それ以前に緒方作品、私結構見逃しあることに気づいて呆然。うっそー……短編が主とはいえショック。久しぶりの緒方作品だと思っていたのになあ。

しかも見てる間中、ずっと田口浩正だと信じて疑わなかったメイン四人のうちの一人が田口氏ではなかったことにもショックを受ける(爆)。うそぉ、だってソックリじゃん!
落ち着いて考えれば年代的にも違うのだけれど、あまりにもソックリで、キャストクレジットで田口浩正とゆーお名前が出てこないことに首をひねり続けていたから、マジで呆然。
うーむ、この松尾氏だって、私はいろんな作品で見ている筈なのに。でもここまでメイン級でがっつり見たことはなかったのかもしれないけど、がっつり見て疑いなくソックリだなんて、なんとゆーこと。いや私はもともと人の見分けが苦手な方だから……ゴメン。

なんて話はまあ、どうでもいいこと。本作はオムニバスだけど、一本の作品として仕上げることが出来そうな連結具合。
メイン四人と言ったが、主人公をあえて一人あげるなら上田耕一氏演じる足の悪い独居老人、富男。
寿命が延び、様々な生き方が模索される現代の世で、簡単に老人なんて言ってしまうのもアレだが、男性諸氏は特に、連れ合いをなくして一人になると一気に老ける気がする。女性諸氏は逆ってあたりが(爆)。
だからこれは、女性に置き換えては成り立たない話なのだ。女たちは多かれ少なかれたくましく、しぶとい。彼らは彼女たちを一見して弱く憐れんでみても、実際には全く真逆なんである。

で、まあちょっと脱線したけど、富男の友人もまた独居老人の国雄。連れ合いを亡くしたことを明言するのは国雄の方だけだったと思う。
第四話のエピソードで、もう女房のところに行きたい、時が経てば落ち着くと言われたけれど、いまだにダメだ。今では年恰好関係なく、道行く女がみんな女房に見える、とまで言っていたから。
それで言えば、主人公と言えるならこっち、の富男は、恐らく彼も死別組じゃないかと思われるんだけど、そうしたことは一切口にしないんだよね。彼はそうした状況じゃないんだろうか、いや私が聞き逃しただけか??

ふと気づいたんだけど、男性の役名がファーストネームで呼ばれるというのは、これが案外珍しいんじゃないかと思う。
こうして書いている時いつも、男性は苗字で記され、女性は下の名前の方で記される、んだよね。映画自体を見てる時にはそれはあまり感じないし、気づかない。
でもこうして文章に起こしてみると、女性だって苗字で記せばいいんだけど、そうしてみるとそれまでの慣例に慣れてしまっているせいか、男性のことを書いているような違和感を感じてしまう。

実はそのことに、恥ずかしくもフェミニズム論者の私はちょっとイライラしていたのだ。そういう小さなことも、女の扱いの差に表れる気がして。
でもこの二人の老人は、お互いをファーストネームで呼び合い、苗字自体が明かされない。
まるで小学生の友達同士のようだけれど、彼らがいつからの友人なのかは判然としないし、この団地で独居同士になってからのような雰囲気もある。

彼らは友人だけど、することといったら一緒に煙草を買いに行くだけである。第一話の「煙草を買いに行く」がまさにそれである。
ひどく辺鄙なところにあるらしい二人の住む団地から、何もない道をひたすら歩いて歩いて、煙草を買いに行く。
共に足の悪い二人は遅々とした歩みで、「あ、虫に抜かれた」とこぼしたりするが、途中、「前に、四階から飛び降りた子だよ」という松葉杖の若い女の子と道行きを共にしてからは、「いいケツだな。触りたい」「エロジジイめ、俺はなめたい」「エロジジイ」とささやき合い、俄然歩みも早くなるのが可笑しい。

ところで、本作は「独立少年合唱団」「いつか読書する日」以来の脚本家、青木氏とのタッグなんだそうである。
先述したように私は緒方作品見逃しまくりらしいのだが(爆)、緒方監督の中にはユーモアやウィットがあると思うんだけど、「独立……」や「いつか……」そして本作にも感じる死生観はならば、青木氏の方に内包しているものなのかな、と思う。
それに本作はオリジナル脚本、だよね??ならばそれはもっとずっと、痛切に感じるなあ。主人公が男性の独居老人というあたりも痛切に、などと言ったら差別的だろうか??

四階から飛び降りた女の子に、きっと自殺未遂だったんだという憶測から、「あんたのことが好きだから、俺より先に死ぬなよ。好きって言うのは人類愛だ!」と叫ぶ富男に少年的ロマンチシズムも感じるが、彼の中にある身近に存在する死がそう言わせる感もあるし。
確かにこの女の子はちょっと翳はあるけれども、彼女が言うように「酔っぱらっちゃって、ふっと、わっと飛び降りちゃったんです」」というのが本当かもしれないじゃないの。
でもそれに対して老人二人が言う、「若いってのはいいな。俺たちはふっ、とかわっ、とか出来ない。身体が動かないから」というのが笑わせもするんだけれど。

だってやっぱりこの第一話から、死生観は濃厚なんだもの。財布を忘れたという常習犯の国雄を帰らせ、女の子とも別れてひとり煙草を買いに行く富男は、妄想?にとりつかれる。
処刑台、と書かれた道しるべ、用意された首つり台。なぜおまえだけが生き残ったんだという天の声。
静まり返った荒野の中に紛れ込む富男は、一体何を経験してきたのだろう?連れ合いが死んだとか、そんな状況よりさらに過酷なものだったのか。今の世ともなると、戦争で生き残ったとかいうのもちょっと違うしなあ。
そしてこの場面から印象的に現れるヤモリと、その動きに合わせるようなドラムビート。
ヤモリ、だよね、第二話の表札にも貼りついていたし。家を守るヤモリ、そういう象徴は死生観のネガティブではないとは思うんだけれど……。

そして、もう一組のメイン男子二人は、ぐっと若くなるけど、やっぱりどこかに死生観がただよう。うん、やっぱりやっぱり、男子と女子はちょっと違うのだ。
私が田口浩正と思い込んでいた(スイマセン……)松尾氏と、彼の友人役で斉藤陽一郎氏。斉藤氏はそれこそずっと見ていた人なんだけれど、「恋に至る病」以来 、すっかりホレボレである。
本作でも実にチャーミングで、彼が北海道出身だからというんじゃないけれど、その細身の長身、ボヤき気味の表情、人懐っこい雰囲気、何よりチャーミングなところ、なんだか大泉先生との相似をやたらと感じてしまうんである。
友人が突然、元妻に会いに行きたいという第二話。そうイヤー、二人の役名はトガシとモウリで、これは苗字だよね、やっぱり。苗字で出会う二人と、下の名前で出会う二人は、やっぱり違うかもしれない。

本作の冒頭は、この若い二人の方から始まる。若いっつっても、もう40近辺だけど、二人とも何の仕事をやってるのか判らない、かなりカジュアルな私服の状態。
富男が煙草を買いに行く途中によく立ち寄るオープンカフェの、この二人も常連なのだろう。“音”に関する認識の違いの議論で、水だけで延々粘るこの二人に、クールなウェイトレスはついにブチ切れて、その水をじゃばじゃば注ぎ続き、こぼしてやるんである。
この冒頭シーンでもう、男女の位置関係が示されているのが爽快だけれど、結構こういう図式はありがちでもあって、これは逆に、男の純真さを示すものにもなってくるから要注意?なんである。
しかもモウリの「怖いものを見に行く」という道中に付き添うために、トガシは仕事を休んだというんである。それが第二話「赤い毛糸の犬」

「怖いもの」というのは、10年前に捨てた嫁さんの今の生活である。なんで嫁さんを捨てたのか、明らかにされる理由に呆然とする。
「金を落としてしまって、叱られるんじゃないかと思って」!!!
そこにあったかもしれない生活、それが「怖いこと」だとモウリは言う。実際、行ってみたら当然、後釜はいるし、7歳の娘がいて、その種は当然モウリでもないし、半年前から付き合いだしたという、そのくたびれた男のものでもない。
感傷的な10年を過ごしただけのモウリにはうかがい知れない「怖いもの」がそこにはあったのだ。

「赤い毛糸の犬」てのは、7歳の娘が無邪気に遊ぶあやとり。こんなクリエイティブなあやとりがあったことは知らなかったし、二本の赤い毛糸の間を尻尾を立てて走っていく犬に、勝手にロマンチックな男の勝手さが込められている。
淡々とカレーを盛り付ける奥さんに、男はさぞかし怖いだろうけれど、でも当然だもの。「あんたは死んだことになってるんだから、今更困るのよ。ちゃんと死んでよ」最高の台詞!

元ダンナと今ダンナが直接話す勇気もなくて、いかにもチャラ男なトガシを通訳のように介してやりとりする場面は切なくて可笑しくて噴き出す!
そうか、このくたびれた今ダンナ、「ぼっちゃん」の主役やった人!そう言われれば!でも全然雰囲気違う!さすが役者!!
みんなでカレー食べ始めて、「この空気に耐えられない」とトガシに連れ出された彼が、「早く戻った方がいいよ(オメーが連れ出したのに、勝手だなー!!)あいつ、性欲強いよ」と言われて顔色を変え、全速力で駆け出す場面が!!
だって引きの画面、ゆるやかなカーブを描いた道をロングストライドで駈けてく彼、超早い、早すぎる!あっというまに、カーブの向こうに消えていく!
涙が出るほど一生懸命な気持ちが伝わる!爆笑!(いや、伝わるのに、なんでよ(爆))

で、第三話「1900年代のリンゴ」で、本格的にこの二組が交わるんである。このエピソードでは「冷蔵庫の後ろに落ちていたミイラ化したリンゴ」をとろうとして背中を痛め、動けなくなった富男の叫びを聞きつけて、「初めてトミちゃんの部屋に入ったな」という国雄の、ソロの冒険からスタート。
いつものように「財布を忘れた」から、富男のお金を預かって煙草を買いにいくのだけれど、途中ワンカップの誘惑に負け、酔った足でワカモンの自転車にぶつかりそうになり、土手を転がり落ちる!

このエピソードでは、動けなくなった富男を見つけ出した国雄、あっちの足を立てて、こっちの腕を上げて……という、あやつり人形のようなやりとりがなんとも可笑しく、こういうのをコメディに出来る時代になったのかと、いいような悪いようななんて気分にもさせられるんだけれど。
んでもって、転がり落ちた国雄と、動けないまま眠ってしまった富男は共に夜を明かしてしまって、その事態に観客側がええっ、と動揺してしまう。
だって富男はまあともかく(でもあの状態で、部屋で一人で夜明かしするのもやっぱりアレだけど!)、土手を転がり落ちた国雄がそのまま夜を明かしてしまったというのは!!

国雄を探しに出た富男は、土手の下に足だけ見えている国雄を見つけて驚愕、声を絞って呼びかけると、膝を折り曲げて返事をする、のに笑っていいのか悪いのか(爆)。
富男だって足が悪いんだから、段ボールで滑り降りて助けに行ってもどうなるものやらと思ったら、ここで共に死のう、自分の戒名は考えてあるんだ、クニちゃんのも考えてやるよ、って!

畳職人だったという彼の戒名と共に画面いっぱいに明朝体で戒名をしるし、ぎゃーていぎゃーていはらぎゃーてい、と慣れた様子で念仏唱え出す。
明朝体の戒名、それも大工だの畳職人だののテイストを、枠だの水平だのと生真面目に取り入れてさ、緑いっぱいの中に倒れ込んだ老人二人の引きの画に、笑う訳にもいかず(爆)。
結局力を取り戻した二人は必死に土手をよじのぼり、通りがかった顔見知りのトガシに救いを求めて生還を果たす。

そして第四話「道を歩けば」今思い出したけど、それぞれのエピソードの間には、一年後とか一か月後とか、最後は一週間後だったかなあ、あったんだけど、その経過を全然考えないで見ていた、アホな観客でゴメン(爆)。
で、そう、最後最後。第二話でこれぞ大メインであった田口浩正激似の松尾氏は、あの二話で登場は終りだった。でも、四話では彼こそが、見えないながらも強い印象、いわゆるキーマンとして物語をけん引する。

例のカフェで富男と国雄はトガシと再会、あの時はありがとな、年金入ったからコーヒーおごるよ、というと、トガシは浮かない顔である。
モウリからなんか送ってきた。遺言かもしれない。こんなの開けれるかよ、そのまま捨ててやる、とか、なんともいくじなしのトガシと問答している富男と国雄。
ハタで聞いてた、あの水をジョボジョボこぼしたクールなウェイトレスがびりりと封筒を破き、バン!と中身をテーブルに置く「いくじなし!」
言ってみれば脇役である彼女までもが、登場する女たちは皆、男たちのいくじのなさにイライラしているのだ。死ぬ気がないなら生きなさいよと、そう言っているのだ。

その“中身”は波の音、ただそれだけだった。オムニバスの形式をとってはいるけれど、そこからはずれていた冒頭のモウリとトガシの会話……音の存在は耳の存在によってしかあり得ないという、トガシのクールな論に、モウリは執拗に反対し続けた。
「俺がそこにいなくても、波はざぶーん、ざぶーんと音を立ててるだろ、そこにテープレコーダーを置いて、そこを離れて、回収して、部屋で音を聞いたら……」と、トガシにしてみれば幼稚な反駁を、彼は実行に移して、きったない字で茶封筒にレコーダーごと入れて、送り付けてきたのだ。

この第四話は、それまで以上にコミカルな色合い。だってトガシを演じる斉藤陽一郎の、これは遺書じゃないかというビビり具合が可愛すぎるんだもん。
でも、最終的にはどうだったんだろう。第一、いまどきカセットテープのテープレコーダーというだけで懐かしすぎた。確かに彼らの年代だったら、私の年代なので(爆)青春時代はカセットテープであり、カセットデッキであった。
そして、その波の音を聞いたクニちゃんはここは房総半島だと判じ、でも自らは同行せず、トガシに同行させるのは富男だけにする。うーん、クニちゃんの過去がちょっと気になるこの含み。

結局、モウリが見つかることはない。この年の離れた“友だち”は、まるで、というか、まんま青春映画そのもののように、波打ち際で波が来た来たとはしゃぎ、どこにいるともしれない、どこにもいないかもしれない友達を探しに行く。
どこにもいないかもしれない。ここにも強く死生観がただようのに、それは脚本家氏だけの領域かもしれず、この、淡くても明るさを残す雰囲気で終わったのは、脚本家、監督、そして観客にも決着の余地を残したのだろうかと思う。
観客によって映画が完成する、そのことに映画ファンはカタルシスを感じるけれど、ひどくひどく、責任重大な気持ちがするのは、やはりいつもは無責任に、ノーテンキに映画を観ているってことをつきつけられるからだろうか。

あれ、楽しい映画だったことは確かなのに、なんか慎重に、シリアスになっちゃった。これもねえ、年のせいかもねえ(爆)。★★★★☆


ドライブイン蒲生
2014年 89分 日本 カラー
監督:たむらまさき 脚本:大石三知子
撮影:たむらまさき 音楽:ヤマジカズヒデ
出演:染谷将太 黒川芽以 永瀬正敏 小林ユウキチ 猫田直 平澤宏々路 鈴木晋介 足立智充 田村愛 吉岡睦雄 黒田大輔

2014/9/3/水 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
難しい。何が難しいんだか判んないけど、難しい。これは本当は一体どんな物語だったんだろう、などと考えてしまう。
本当は、だなんて。物語とゆーのは受け止めた人の数だけあるものだし、そんなことを思うことは、つまり受け止める自分に自信がないだけなんだけど。

でもこれが芥川賞をとった(こーゆーアカデミックなものに弱いというのも問題なのだが……)作家さんの、しかも“最高傑作”などと言われたら、“本当は……”なんてことをついつい考えてしまうじゃないの。
常々、原作と映画はベツモンと思っているが、それを今までとは違う意味で考えてしまう。“本当は”どういう物語だったのか、と。
それは映画となった本作では、なんだか私、ちっとも判んなかったんだもの……。

本作は、名匠からインディペンデントまで伝説の作品を支え続けた名キャメラマン(カメラマン、というより……)、たむらまさきの初監督作品、というのが最大の触れ込み。たむらまさき、とひらがなで言われると、んん?と思うが田村正毅と言われれば、そりゃ見覚えある名前に決まってる。
ざっとフィルモグラフィーを眺めてみても、震えるような才能と刺激的な作品ぞろいで、……正直それだけで良かったのに、などと思ってしまう(爆)。
充分なキャリアがある老(ゴメン……)キャメラマンが、70の坂を超えて(ゴメンゴメン……)処女作を撮るってのは最近のハヤリかなんか?いや、確かにK氏とはその作風も全然違ったけれども……。

真っ先に感じたのはね、たむらまさき=田村正毅と判って、その感覚が線でつながった、という感じだったんだけど、青山真治監督作品と初めて出会った「Helpless」、その時の戸惑い、だったのであった。
あの時も、これってつまり、どういう物語なんだろう……とまだ青臭く若かった私は(と、言い訳(爆))大いに戸惑ったものであった。
きちんと筋立てはあるのに、それさえ見えないぐらいに、何が起こっているのかよく判らなかった。いや、もっと直截に言ってしまえば、何を言いたいのかが判らないというか(爆)。

硬質な、強化透明プラスティックのような、真空の水中のような(なんじゃそりゃ……)、そんな画の感覚はよく覚えている。本当にその時に、同時に田村正毅というキャメラマンの名前も刷り込まれた記憶がある。
そう、それ以前の巨匠たちとの仕事よりも、若い才能あふれるインディペンデント作品によって、未熟な私は出会っていたんであった。

奇妙なぐらい、その時と同じ感覚を味わった。いや、本作に関しては、筋立てはよく判る。てか、なぜ「Helpless」の時にそれが判らなかったのか今では不思議なんだけれど……青山ワールドに飲まれていたのかなあ。
確かに青山監督にはそういう、いわゆる才能があったと思う。そしてあの、90年代という気分も。

本作に真っ先に感じた、「Helpless」の印象は、そうした90年代の気分につながるものだったように思う。原作者の伊藤氏は私とほぼ同い年なことを知ると、その印象は案外間違ってないのかもしれない、とも思う。
ヤンキーというのが“純粋に”存在したのは80年代までじゃないかという気がするけれど、だからこそ90年代の気分で見ると、なんとはなしにもの悲しさが付きまとうんである。
本作はどこの時点から“あの時代”を眺めているんだろう。主人公姉弟を演じる染谷君、黒川譲が今の時間軸で実際の年齢、そこから10年前を見ているのだとしても……それでももう2000年に突入しているが、現在の時間軸そのものが、現代そのものかどうかも判らない。

枝毛だらけの茶髪にそぐわないセーラー服の姉、短ランボンタンのいきがってる弟、でも舞台がどこの地方か特定できないから、時代もどこかあいまいであるのかもしれないと思う。
ドライブイン蒲生というのは、彼らの父親が営むさびれたドライブイン。ドライブインというのは確かに懐かしい響きだけれど、蒲生、ってのが名前を示しているとは思ってなかった。埼玉の地名の蒲生かと思ってた(爆)。

だってイイ感じにハズれた地方、団地の疎外感、こーゆー、はじき出されたヤンキー姉弟の物語に似合ってる感じがしたからさあ。だからそれが名前だと知った途端に、ちょっとガクッと、ホント、勝手になんだけど、したのは事実かなあ。
だってつまりそれは、彼らはこういうヤンキーが今の時代生息を許されているさびれた地方、ということではなく、やさぐれお父ちゃんの血筋がどうなのか、てことの方を重視しているんだもの。

いや、別にそれでいいんだけど(爆)。なんとなくね、地方を転々としてきたこちとらとしては、こういうタイプの店、特にドライブインなら、当然地名をつけそうな気がしていたから。
それを、ファミリーネームをつけるっていうのは、それだけの思いの深さがあって、だからこその本作なんだと思い返せばナルホドと思うんだけど、見てる時にはなんかピンと来なかったんだよね……。

確かに、「蒲生の家はバカだ」という台詞は何度なく繰り返されるし、確かに確かにこの姉弟は頭良さそうには見えないし(爆)、ドライブインを経営しているお父ちゃんも、雨が降っただの、風が強いのと言っては店を閉めて昼間から飲んだくれている。
確かに“かすけた”一家ではあるんだけれど、比較対象がないせいかなあ、そのことを彼らが痛切に思い知らされる感覚がないせいなのか、その哀切さがいまいちピンとこないのが原因だったのか……。

そりゃ黒川嬢、染谷君がそれぞれヤンキーティーン時代を演じているんだから、そこに同世代を組み合わせてしまうとそれなりにキツいものがあったのかもしれんが。
なんか、これが当時の彼らですよ、と差し出されているだけのような感じがしちゃって。なんつーか、……特に黒川嬢はコスプレめいて見える(爆)。キビしい(爆爆)。
ヤンキー役は、彼女のたっての希望だったんだって?判る気がするなあ……正直、今まではなんということもない女の子の役が多かったし、そういうイメージもついちゃってた気がする。
彼女主演の新作が荻生田監督だと知ってたら見たかったのに、黒川嬢にピンと来てなかったからスルーしてたことを今知ったりして(爆爆)。

確かにそうした気合は感じるが、そもそものキモである、父親に対する反発心がナゼなのかがよく判らないもんだから……。
いや、言われてみりゃ、そうだろうとは思うのね。なんたって飲んだくれで、全然客の入らないドライブインで、ちょうど彼女は反抗期なお年頃だし。
そりゃまあ、こんな父親はホントの父親じゃないかもしれない、いつかホントのお父さんが迎えに来るんだ、なんていうファンタジーを、冗談めかしてでも思って、幼い弟に吹き込んで、家庭がわやくちゃになる、なんてことはまあ、ありそうである。
後から思えばそう思うのに、なんで見てる時にはしっくりこないんだろう……。

先述したけど、青山監督風であり、90年代の気分、なんだよね。いい意味でも悪い意味でも、状況説明をしたりしない。演者たちの、芝居ですらない、たたずまいや空気感、いわゆる“映像の行間”というようなものを大事にするというか。
それは玄人さんにはよーく伝わるようで、青臭く未熟な私が困惑した「Helpless」も、そりゃー、判ってる玄人さん、判ってる映画ファンさんたちは熱狂してたんであった。
で、私も年をくったら判るようになると思って頑張ってきたけれども、それこそ蒲生家以上にバカだったらしく(爆)、今こうやって、悶絶している訳さ……。

お姉ちゃんが飲んだくれ父親に反発しながらも、父親の死後に彼と同じように二の腕にイレズミを入れようとしたり、本当の父親は別にいるかもしれない、という幼い願望を自分自身にも持ち込むかのように、若気の至りでしょーもない男の子供を作って今、悩んでいたり。
確かに弟君の言うように、お姉ちゃんは「親父に似ている」んであり、弟自身はなんちゃってヤンキー(先輩に指導されて制服改造している……)である分、臆している部分がある、んであろう。

後から思えば、そうした先輩(最近大お気に入りの小林ユウキチ氏!)とのやり取りや、その先輩とお姉ちゃんとのエッチ、常連客で横柄なちり紙交換の男、それらがメニューもはがれかけ、客が入っているのを(ちり紙交換以外は)見たことないドライブンの中でそれなりに丁寧に描かれているんだから、ちゃんとした観客なら読み取れていたのかもしれない……。

アー!!こーゆー、自己嫌悪的な振り返りは、ヤだ!!だってさ、そもそも“姉と父の板挟み”の弟の図式が、それほど明快じゃなかったウラミがある。その図式はかろうじて判るけれども、それだけ弟がこの父親を“嫌いじゃなかった”のも、明快じゃなかった気がする。
このあたりが小説、それもこういう純文学系では難しいところで、“好きって程じゃないけど、嫌いじゃない”感覚を、90年代気分の中で流されていくと、それでなくてもこの年頃の男子はそういう感情発露が明確じゃないんだもん、マジで判らんよ!

このやさぐれ父を演じる永瀬氏の出演は、相米監督時代からのたむら氏とのつながりでの、まさに映画ファン垂涎のアカデミックなつながりなのだが、私のよーな、相米作品自体苦手とか恐る恐る言っちゃう(爆)ヘタレは、それ自体で腰が引けちゃう(爆爆)。
なんか永瀬氏、みょーに黒髪が不自然に多い気がするんだけど、これは役作り??

んでもって、こんなやさぐれ夫、そして子供たちに妙にクールな母親像が魅力的な筈なんだけど、特に掘り下げず、すんごいワキ扱い、なんだよね。
それが“本当の”物語の中でもそうなのかもしれないけど、でもそここそがやっぱり、媒体の違い、なんだよなあ。
映画に際しては、まず一段階目の受け手としての作り手のフィルターがかけられる。そこでの母親像となっている、んだと思うもの。いや、こればっかりは、それこそ原作を読まなければ判らない話なんだけど……。

父親は死に、あれほど毛嫌いしていた父親の死に、お姉ちゃんは案外ショックを受けている様子……てのも、そうかなという程度ではあるのだが……。
父親と同じように入れ墨を入れて、父親に怯えていたちり紙交換の男が横柄になったことに激昂し、何かしらん、涙を流す、と。
この一連のシークエンスの“何かしらん、涙を流す”ってトコ、セックス相手である、ユウキチ氏のエロいいじくりに笑いながら、次第に泣き始める、っていうスタンス、まさに役者の見せ所だが、そのスタンス自体がかなーり予測できるものだったので、逆にガックリくる気持ちは否めない。

……本作は、旬の役者である染谷君が客引きパンダとしての(ヒドい言い方だが)役目を担っていると思うけれど、実際は、お姉ちゃんを演じる黒川嬢こそがけん引しなければならない展開であるんだよね。
確かに傍若無人、あいつは本当のお父さんじゃない、という言い分はすべてがデマカセ、今セックスしているからと弟を追い出す。
残ってた花火をやろうと誘い、弟の手元でチャッカマンをつけてヤケドさして爆笑。そんなお姉ちゃん。

でもそのヤケドにふーふー息を吹きかけて上目づかい。……この思わせぶりなシーンを妙に長く映し出したのは、弟君がお姉ちゃんに女の色気を感じさせるというものだったのだろうか……でもあまりにカチッとした構図すぎて、しかもその構図がめっちゃ長くて、ふーふー長すぎて……正直なこと言うと、もうこの時点で、お姉ちゃんのキャラに付き合うの、やんなっちゃった(爆)。
これがなければ、そこまでは思わなかったかもしれないと思う、お姉ちゃんヤンキー、弟に迷惑かけるだけ、案外乙女チックキャラ、てのが。

うがって言っちゃえば、つまりはお姉ちゃんはお父さんを嫌いながらも、好いてた、時代や構成や物語が違っていけば、キンシンソーカンだってありえそうなぐらい。
でもそんな切ないアブなさは、感じられなかった。どうしてなのか、蒲生家以上にバカなアタマな私がここまで一生懸命考えて言ってみても、バカだから判る訳ない(爆)。

個人的には、最近フツーにフツーの映画の、フツーにキーパーソンになってくれる吉岡睦雄氏の登場が嬉しい。
言ってみれば、本作のもっとも要となる人物。お姉ちゃんのアイデンティティの不安定さの先にある、うっかり子供作っちゃったけれど暴力男な上に、相手はバカ家族だからと、子供を奪い取る権利が当然あると思っている男。
まあ正直、ここまで見ている感じでは、どっちが子供の幸せなのか判然としないっつーか、子供自体もどっちでもいいって感じに見えるっつーか。でもそれこそが原作にもある味かもしれないという雰囲気も感じさせるんだけど、既に最初からこの調子なんだから判る訳ない(爆爆)。

結局はアレかなあ、黒川嬢も染谷君も、加えて言えば永瀬氏も母親役の猫田氏も、別にそんなカスけてないんだもん。ロクにドライブインも経営してなくても、ボロ長屋に住んでても、制服を整えて学校に行かせられるし、キレイな病院に入院できる。
いや、そのあたりはあ日本社会のヘンなギャップであり、その面白さが出れば良かった??でもそれは、色んな不満の先の、ひとつの要素にしか過ぎないからなあ……。★★☆☆☆


トワイライト ささらさや
2014年 114分 日本 カラー
監督:深川栄洋 脚本:山室有紀子 深川栄洋
撮影:安田光 音楽:平井真美子
出演:新垣結衣 大泉洋 中村蒼 福島リラ つるの剛士 波乃久里子 藤田弓子 小松政夫 石橋凌 富司純子 寺田心

2014/11/30/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
大泉先生が出まくりなのは嬉しいことなのだが……嬉しさがだんだん微妙な心持になっている今日この頃。
「ぶどうのなみだ」は最初から観る気がどうしても起こらなくてスルーしてしまった。思いっきり二匹目のドジョウの匂いがしたからではあったが、本当にそうだったのかどうかは判らない。でも本当にそうだったら、あの手の大泉先生はあまり見たいと思わない……。

本作の解説で、大泉洋=演技派俳優になってて、そういう立ち位置になってるのか……と思い、更に微妙な心持になってしまう。
出まくりの映画が揃いも揃って”泣ける”ことをウリにしているのが、私の微妙な心持の源になっているのは間違いない。

いや、大泉先生ご出演の映画ばかりではなく、今の日本映画が総じてその傾向にある、ことに気づいたのは恥ずかしながら、ほとんど映画は見ない、つまりテレビの宣伝でその存在を知る客観的な立場の人からの指摘で、だったんであった。
つまり私は、大泉先生には、演技派俳優という言われ方をして、泣ける映画に出る役者、にはなってほしくないのだ……勝手な言い草だけど、「探偵はBARにいる」の大泉先生を見た時、こういう彼を見たかったと思った。現代の寅さん。その人柄が、役者その人を滲み出させる形で愛される役者。

まあそれは、確かに私の勝手な言い草。でも、泣ける映画偏重は確かにそうだと思う。
でもね、本作は決して泣ける一辺倒の映画ではない筈、なのは、ちゃあんと、”笑って泣ける”と解説に書いてあることからも判ること。なのに刷り込まれるのはやはり泣ける映画としての情報しかなく、それってかなり問題だと思うんだよなあ。

もう見飽きた、観客が泣いている様子を赤外線カメラで映しているあのテレビ宣伝。加えて大泉センセは番宣大好きだから、やたらと作品情報も入ってきちゃって、もう観た気になっちゃうあたりも困っちゃう。
だから正直、泣かせどころが何となく判っちゃって(いや確かにキモのキモの泣かせ部分はさすがになるほどなあとは思ったけど)、泣くもんかと身構えてれば、このすぐ泣くババアも泣かずに観終ってしまう。
そんな風に身構えて映画を観るなんて一番イヤだけど、さらりとノープラン?で観ることが出来ないんだよう。

なんとなく二の足を踏んでいたもうひとつの理由は、この”泣ける”映画を、深川監督なら合格点で作っちゃうんだろうな、という確信があったから。ヘンな言い方だけど……確信があったなら、安心感があろうものなのに。
いや、安心感は、ある。凄く確実なの。でも、ここ数年、ずうーっと、その安心感、合格点からは先に行かないような気もしている……。

それはこうした、安定感のある企画を任されているせいもあるだろうけれど、なんだか少し寂しい気もしてる。
それこそここ最近の大泉先生のイメージを見事に裏切らないキャラクターを演出していて、一部のスキもないぐらい。
ガッキーさん(さん?)が初めての母親役、というのも、あの可愛らしい彼女から見事に可愛らしい母親を引き出して、観客をメロメロにしてしまう。

私、一体何に文句をつけたいのか、自分で判らなくなってきた(爆)。
原作とのテイストの違いはどの程度だったのかな、と考えてみたりする。
この原作小説はミステリとファンタジーの融合、らしい。まあ本作も、それを踏襲していないこともないけれど、どっちかというとミステリの部分はほぼ、感じられない。ファンタジーとノスタルジーの融合、という感じ。
このサブタイトル、というかメインタイトルだよな、先に来ているんだから……がどういう経過を経てつけられたのか判んないけど、特殊な撮影技術でまるでミニチュアのように見える不思議な世界観が、トワイライトという言葉が醸し出す、現実と夢、あるいは異次元の合間のような不思議感を感じさせるからさ。

まあ、最初から行きましょうか。てか、もうそれこそ、情報は流布しまくっているけれど、それはあくまで現時点での話だから(爆)。
売れない噺家のユウタロウ、新妻のサヤと産まれたばかりの息子、ユウスケを残して突然の事故で死んでしまうところから話は始まる。

まさに落語の枕から話し始めるがごとく、「もう私はこの世のものではございません」と語り出すユウタロウ。殊更に過剰なくるくるパーマのキャラは、いかにも大泉センセに課せられるキャラで、実はこれが、最後まで案外とこう……個人的には違和感であった。
こーゆーところで笑わせる下地を作っているのかもしれんが、大泉センセに更にくるくるパーマを課す、というのは、ちょっと古い手法のようにも思うしなあ。

天涯孤独だと聞かされていたのに、葬儀にユウタロウの父親が現れ、更に子供を引き取りたいと申し出たもんだからサヤは仰天。
更に仰天することには、ユウタロウの師匠が突然、「オレだよ、オレ」とまさにオレオレ詐欺のように(爆)、ユウタロウを名乗ってきたから。
幽霊になったユウタロウが見える人間に乗り移れる、というのは、この時点ではまだ判っていなかったけれど、息子のユウスケが自分と夫でなければ抱っこをされても泣いてしまうことを知っていたサヤは、かなりスピーディーにこの事態を受け止めるんである。

本作のウリはとことん、この乗り移り、つまり大泉センセの芝居をいかにして役者たちが完コピするかにあって、それこそ泣けること以上にそれを宣伝していたかもしれない。
その点で面白がれれば、何もそんなにケンツクいうこともなかったかな、と思ったり……。でもやっぱり泣ける泣ける、とうるさいからさあ(爆)。

やはりその中で重要視されたのは、一番意外性のある富司純子であったろうとは思うし、富司さんにこんなことやらせて……みたいな大泉さんへのツッコミがそれこそ宣伝のウリだったとも思うけれど、富司純子ならその程度のことは軽くやってのけるわよねーっ、大女優だからどうのって、逆に判ってないわよねーっ、と思ったりするんである。このぐらい、彼女なら当然でしょ!!

個人的には一番お上手だと思ったのは、一応イケメン俳優部類に属するらしい中村蒼君で、これで彼は決してイケメンではないことがバレてしまったんじゃないかと。いやいや(爆)。
今はなんでもかんでもイケメンイケメン言い過ぎだからさあ。レベルがユルすぎるっつーか。いやその、あれ?どんどん失礼なことを言ってる気がしてきた……。
大泉センセが言うように、確かにだんだん、「エガちゃんみたい」な身体表現になってきてはいるが(爆)、彼が一番、よーちゃんに見えたなあ。

まあ世間的なウリとしては、子役のダイヤ君、演じる寺田心君が、ママが働くスナックのカウンターに腰かけてオレンジジュースを飲みながら、つまりユウタロウになっている、というシーンが可愛くて可笑しくてイイ!というところだとは思うが。
それにしちゃー、シングルマザーとしてダイヤを育てているエリカ=福島リラ嬢は全然宣伝上に乗っかってこなかったよなあ。まあそりゃ、"乗り移り演技"に苦労した俳優陣、そしてそれらがそれなりに有名役者であることを考えると(その場合、カワイイ子役はその布陣にスンナリと加われるんである)、ハブられるのはしょうがないのかもしれんが。
でも、宣伝で全然見なかったせいか、私的には福島リラ嬢は凄く新鮮で、良かったんだよね。まあ、彼女の存在自体、不勉強なもんで初見で、誰誰??という気持ちがあったせいもあるんだけど……。

電車の中で泣き出して止まらないユウスケに怒鳴りつけるオッサン客、小さくなってしまうサヤを、そのお客ともども一喝して助けてくれたのがエリカだった。
ダイヤ君が喋らないことでネグレクトと疑われている場面に、ユウスケの健診で遭遇したサヤは、友達になってほしいと必死に頭を下げる。
ぽん、と投げてくれたエリカの勤めるスナックのライター。勇気を出して訪ねていったら、中村君扮する、サヤに岡惚れしている駅員、佐野を紹介され、サヤは傷ついてしまう……友達になりたいのはエリカだったのに、そしてまだ夫を愛しているのに。

「いつまでも死んだ旦那にこだわるのか」エリカさんの言うことは判るし、今後のサヤの行く末にも関わってくる問題で、サヤに対して愚直なまでにまっすぐに好意を示す佐野の存在は、その行く末を充分に予感させる……と思ったが、全然そうはならないのが、あれっと、思ったり。原作ではどうなのだろうと思うのはルール違反、かなあ……。
映画の尺では収まり切れない部分はあるとは思うけど、ただこの佐野が、一番ユウタロウのことが見えていた男だったこと。「見えすぎて、普通に挨拶するぐらい」というユウタロウの台詞でちょっとクスリと笑わせるぐらい。

だからこそ最後の最後にとっておいた存在で、しかも妙齢の男性、しかもしかも、サヤに好意を持っている男、となると、そんな風に道筋をつけるのかなと当然、思うじゃない??……なんかそれを、巧妙に、というか、確実に避けているように、思えるのは、うがち過ぎかなあ??
サヤに対する好意は確かに凄くまっすぐで、こんな風に人に想われたい、と思うぐらいだけど、やっぱりちょっと気になるのは、佐野にはユウスケの存在、つまり彼女がシングルマザーであり、そうなるまでの過程がなにがしかあった筈、という点に至るまで、まったくもって目に入っていない、ようにしか見えない、というところ、なんだよね。

勿論、子持ちの女だからしり込みするような男なんて願い下げだし、そんなことは全く問題なしにサヤに恋しちゃうんだったら最高な訳だし。
でも……ほんっとに、佐野にはユウスケが目に入ってない、よね。言及もしなければ、声をかけるとか、勿論抱き上げるとかもしない。出会いのシーンで、大きなベビーカーに往生しているサヤを駅員として助けているんだから、確実に認識している筈なのに。

まあそのう、やはり世間的な目線としては、子持ちの女が普通に恋愛する難しさ、があるからさ。ミキテがネット上とはいえバッシングされた話を聞いて、やっぱりいまだにこんな古臭い価値観があるのか、と思った。
それだけに、佐野君の目に赤ちゃんが全く入ってきてないのが、なんだか悲しい気がした……尺的な問題があったのかもしれないけど。

でも、まあ、メインはそこではない。あくまで乗り移りの描写は、クライマックスの乗り移りの前座に過ぎず、"笑わせる"シークエンスに過ぎない。
過ぎない、かあ……やっぱりついついそう書いちゃう。やっぱりやっぱり、泣かせることが大メインのように、感じちゃうよね、やっぱりさ。

ユウタロウの父親から逃げて、小さい頃過ごしたこのささらの街にやってきたサヤだけれど、ついに探し当てられてしまう。
ちゃんと話せば判ってもらえると、最後の別れ(とサヤは思ってた)をしたユウタロウに許可を得て、対峙するサヤ。

ユウタロウの面影を残す赤ちゃんについ心を乱されて、抱き去ってしまう父親。監視していたご近所さんともども、慌ててサヤは追いかけるが、車で走り去られてしまう。
そこに意味不明のメールが、父親の携帯から届く。まあ、そろそろ種明かししてもいいでしょう。ユウタロウが最後の最後に乗り移ったのは我が息子、産まれた時から自分が見えていたのが判っていたけれど、さすがに赤ちゃんに乗り移るのは……とここまでは戦力外通告だった訳だが、緊急事態……いや、そう思ったのは観客側。いやいや、バカな私だけ??

連れ去られたことで慌てて息子に乗り移ったのかと思ったら、そうではなかった。ずっと絶縁状態だった父親に「抱かれたいと思ってしまった」という理由こそが、前述した、さすがに予測できなかったキモのキモの泣かせ部分であり、赤ちゃんの動きに合わせて大泉センセのモノローグもじっつに上手いこと重ね合わされている。
……うーむ、でも、こーゆー上手さって、昨今の、例えば赤ちゃんが出てくるCMとかで、しっかり示されちゃってるものだから、なかなか難しいんだよなあ。

それに、ここで明かされてくるユウタロウの親子関係、家族関係の”秘密”が今一つピンとこないのが最も、ツラいのよね。
ユウタロウは、父親が自分と母親を捨てた、と言っていたけれど、過去を明かされると、そこまで言うのにはあまりにもしっくりこない、というのが正直な感想。
父親はただただ仕事人間だっただけで、しかもそれは、よくある接待続きのサラリーマンというんじゃなくて、現場で泥だらけになって働く、つまりは見た目にも生真面目さアピール満載で、あれれと思っちゃう。

このアピールは当然、観客に対してのイメージ付けが第一に含まれていると思うし、ユウタロウがそこまで父親を憎むことへの違和感にもつながってしまう。
まあ、病気の母親の最後にも居合わせなかった、ということなんだろうけれど、サヤに天涯孤独とまで語っていた印象では、父親は家には寄り付かず、愛人の元に入りびたりで、ぐらいまではマストで、妻と子供に暴力をふるうとか、暴言を吐くとか、そういうのが追加要素で当然ついてくるぐらいだと思ってたからさ、かなり、はぁー??という印象なんである。

……だって、ユウタロウが噺家を目指したきっかけが、かもしれない、という濁し方ではあったにしても、父親に寄席に連れて行ってもらって、父親が笑っていたから、という記憶にあったのだとしたら、余計じゃない。
しかもしかも、ユウタロウが絶縁状態にしたいとまで思っていた父親が、彼の寄席を見に来ていて、その差し入れをユウタロウは拒絶していたりしてさ。おいおいおいおい、話が違う?よー!と思っちゃう。めっちゃ愛情ある父親じゃん!

その回想の映像を、成仏直前のユウタロウが走馬灯を見るかの如く寄席の席で涙を流しながら見ているのはさらに解せないよ。これじゃまるで、自分は知らなかったけれど、父親に愛されていた、という雰囲気じゃん!違うじゃん!
……うーむ、なんだろ、この違和感。どーにもこーにも、底上げが薄い気がするんですけど!!


ユウタロウがサヤに、「ちゃんとユウちゃんが見えてるもん!」と言われてハッとした顔をした、凄い意外そうな顔したじゃん。あれってさ、それなら乗り移れるんじゃないの……とふと観客側は思ったが、それじゃハチャメチャコメディ路線になっちゃうか(爆)。
でもさ、見える人間に乗り移れる、というのが最大のコンセプトだったからさ、なんか思わず妄想しちゃった。ハチャメチャコメディから、ハチャメチャエロにも行けそうな可能性も(爆)。いやだから、妄想すぎるっつーの。

ユウタロウに乗り移られる富司純子をはじめとしたサンババがキャラの最前線なのだろうし、ワカモンとのバトルがそれぞれ楽しいけれども、それこそ予想の範囲内に終わっちゃったかなあ……。
個人的には「子供を産んでいなくたって、可愛いのは判るもん!」と駄々っ子のように言う藤田弓子さんが、まさに自分の先の姿なので(爆)、こんなフワフワババアのまま終わっちゃったのが、なんか先の自分を否定されているようで、痛かった。ああ、それはまさに、自分勝手な物言い!★★★☆☆


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