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でね、何度もいうが私は歴史に関しては特にバカなので(爆)、あーんなに有名で大人気の新撰組もイマイチよく判ってないの。私の中では、“「蒲田行進曲」の劇中映画”で止まってるの(爆爆)。新撰組そのものだけを描いた作品って、私多分、ちゃんと見てないんじゃないかなあ……。
だからオソロシイことに、本作が私に植え付けてしまったの、新撰組ってこういうこと、みたいな!
それは私が、世間で人気の新撰組に対してボンヤリと感じていた、ドラマティックでアツい男たちではなくて、陰惨で陰湿で身勝手極まりない、ここに入ったらもう地獄、抜けられない狂った組織、なの!これがもう、植え付けられてしまったの!!
新撰組、は歴史的研究が始まったのがかなり後年になってからという話で、今では人気者の新撰組が、それ以前は割と悪者扱いされていた……というのも初めて知ったが(ウィキ知識(爆))。
それはあくまでどこを側面として見るかの話で、まあそれはどんな世界にもあることだし、と思ったが、この組織内での内ゲバ、粛清の事実はその歴史研究の中にも厳然として記録が残っている、のだそう。
そ、そうなんだ……。私が見てなかっただけで、今までの新撰組モノにもそうしたことは描かれていたんだろうか??いや……だってこれはちょっと取り上げただけでも相当陰惨な部分、つーか、もうこの組織の根っこの部分だと思うんですけど!!
これはオリジナルシナリオだというし、内ゲバという部分を取り上げて人間心理に迫るというのは、内ゲバという言葉がまさに生きて使われていた、この製作された時代にはピタリとくるテーマだったのかもしれない。いや、それにしても!!
新撰組の名だたるメンメンを演じる役者たちの、男臭いムンムンとした存在感(存在感、なんて甘い言葉じゃ言い切れない!)に圧倒される。特に、土方歳三を演じる西村晃の、後に水戸黄門を演じたとは信じられない(爆)悪魔の形相にはゾゾゾとしてしまう。
こういう役者たちの面構え見ると、ああ、やはり、今の日本でこんな映画は作れない、と思ってしまう。今の役者さんたちだって素晴らしいけど、でも顔が違うんだもん。
顔、いや、身体、いや、もうそこからむき出しにされる何もかもが!やっぱり今の役者さんはきれいすぎるんだもの!
でも主人公の大川橋蔵は、こんな私でも名前を知ってる押しも押されぬスター、その整った、アイドル顔は登場シーンから、ちょいと女心を刺激されるんである。だからこそ、ああだからこそ、彼こそがあんなにも狂っていくなんて、聞いてないよ!!(そりゃそうだが)。
オチをバラしちゃえば、彼演じる江波は、この組織の粛清の体質に近藤局長に心酔する形で染まっていく。疑惑があっただけでろくに調べもせずに、裏切り者は切って捨てる、いや、切腹を迫り、仲間に介錯という名で殺させる、その、人斬りの役目を買って出るようになるんである。
と、いう意味では判り易い、純粋なワカモンが洗脳されていく、まさにこの時代、いや、製作された時代ね、学生運動やらあさま山荘事件やらで見聞きする、内ゲバ、粛清よ。それを新撰組という時代に移して描いているような面白さかな、などとも思ったりするのよ。
でもね、違うの。更なるオチがあるのよ。いや、ここでオチを言うかな、まあいつものことだから(爆)。
素直にビックリしちゃった。江波は身分を詐称して新撰組隊員としてもぐりこんだ薩摩藩からの間者、いやそれ以上に、近藤や土方たちに殺された芹沢鴨の甥。身寄りのない自分を育ててくれた叔父のかたき討ちだったのだと!
かたき討ち、なんて書くといかにも日本的浪花節で、ああ時代劇やのうと思っちまうが、ここに至るまでの江波=大川橋蔵が、アイドル顔からしっかりすっかり、内ゲバの首斬り役人、局長に心酔し、のし上がっていくための死神と化しているもんだから、ホントにビックリしちゃうの!そんな仮面さえも、恨みを晴らす仮面だったと知って、本当に本当に驚愕しちゃうの!!
あーあ、もうオチ言っちゃって(爆)。でもこの江波が、トップに近づくために、狂っていく演技をしたという、その演技をした大川橋蔵に戦慄を覚えるんである。
ああ、ヤバい、私多分(また出た(爆))彼だって、初見なのにさ!!いかにも田舎の山出しのような風情で出てきて、新撰組に憧れています!入隊させてください!!と突撃してさ。
入隊テストからもう、陰惨なんだもの。木刀で闘わせて、みんなバンバン流血、昏倒して、テストでバンバン人が死んじゃうんだよ!!もうこの冒頭からツカミはOKてなところよ!いやOKじゃないけどさ!!
その時には江波ったら、もう怯えまくっておげーと吐いちゃったりして、隊員たちにからかわれたぐらいなのにさ。
そのからかいに駄々っ子のように反抗して、切腹しかかったもんだから、隊員たちはビックリ仰天、その勇気を沖田総司に買われて、見事入隊と相成ったんであった。
よくよく考えれば、このエピソードで江波(本当は江波じゃないんだけど)のよほどの覚悟が判るんだけれども、この時点では、その可愛らしいルックスもあいまって、ただ純粋に無鉄砲な若者にしか見えないの。ホント、後から考えれば騙された!!という感じなの!
劇中、衆道の標的にされるなんていうシークエンスもあるしさ……。台詞だけのやり取りだけど、ひょっとして江波はカマを掘られた??と思われるやり取りもあったりし!
最初はおどおどしていた江波が、それをネタに冷酷非情に先輩をこきおろす段になって、本当にゾッとする。あんなに可愛い想い人がいて、幽閉されている、梅毒に侵された隊員に対して同情の心を寄せたりしているのに、優しい男の子なのに、本当は……。
そう、本当は優しい男の子。局長のためにと、同期の仲間たちを斬って捨てていくのは、その優しさを一方にしか使えないからなのだ。
この組織の中で、叔父の仇を討つためには、せざるを得ない取捨選択として。
というのはオチで語られ、そうか、そんな事情があったんだ、可愛い恋人が「何か訳があるんでしょう」と涙ながらに彼に迫った時には、こんな陰惨な物語にラブを入れるのはキツいよな、と思ったのに、本当に事情があったのだ。
でもその事情を遂行するためには、彼もまた、言い訳をするのだ。それは新撰組が使っている言い訳……隊規に反するものは粛清する、と何が違うのか。
確かに、局長に心酔するが故に狂っていったように見えた江波が、実はすべて計算済みで、局長の首をとるために、仲間の命を断っていった訳だけど、何かを正義に祭り上げて犠牲を正当化する、何が違うのか。
死に物狂いで命乞いをする仲間を、冷徹な目で斬りおろす。粛清場面はさ、とにかくもう、やりきれないのよ。先述したけど、血は墨汁のように真っ黒で、切腹で武士の名誉だなんて、もうそんなの全然!だって理不尽に死にゆくんだもの。
差料に伸ばす手さえぶるぶる震えて、そして最初に江波が介錯を命じられたシーンは、相手も江波も、正気を失ってて、殺し、殺され、逃げまどい泣き叫び、青ざめ打ち下ろす。
もう、見てられないよ……汗だか脂汗だか、もう、ドロドロ、グッチャグチャ、これはホントに、今の役者じゃ出来ないよ!!
でね、そんな言い様をするとさ、いかにも青臭いんだけど、でもそれを客観的に示してくれるのが、まさに一輪の花、藤純子なんである。
いかにも気弱なていで入隊してきた江波のけがの手当てをしたことで、心優しい彼と思いを通わせる、が、先述のような江波の変化に戸惑い……よりも恐れを感じるようになって……。
正直、こんな凄惨な内ゲバ映画、徹底して男たちの狂った世界を描くのに、牡丹以前の藤純子、可憐な女の子を挿入してくるなんて、甘ったるくなるんじゃないかと、フェミニズム野郎なくせに、こーゆーところは妙にストイックになっちまうんだが(爆)、彼女はまさに、客観的立場でさ。
「江波さんだけは、そんな人じゃないと思ってた!」という台詞の定型は一見、女の子がよく使う、自分勝手な物言いなんだけど、オチを考えればまさに言い当てていて……。
江波は自分のこの先、つまり彼女を幸せに出来ないことも判ってるから、それを思うと、話が佳境に入ってきて、江波が、さと(藤純子ね)を倉庫に連れ込んでコトに及ぶシーンは本当に刹那で、胸がジーンときちゃうんである。
まあ、コトと言っても接吻→倒れ込むというお決まりのパターンだが、がっぷりと言いたいぐらいの口開けたままのかぶりつくような接吻(これはキスとは言いたくない)、目をあけてそれを受ける藤純子、というなまめかしさが、この大スターが二人ともに若い頃なだけに、うおおおお、と思っちまうんである。
そう、……ある意味救い、なんだよね。藤純子、いやさ女はさ……。考えてみれば、男が愛する女を得て、その腕の中で死んでいく、というのは、メッチャ定型さ。
愛する男が斬りつけられて絹を裂くような悲鳴を上げ、格子の隙間から、瀕死の男に手を伸ばす、届かない、届かない、ふっと触れたかと思う瞬間、こと切れる男。バーン!と飛び出して、男にむしゃぶりつき、かき抱く女。
きっと男にとっての幸福パターンなのだと思う。まあ、格子から手が届くか届かないかなんてことをする前に、飛び出してきゃいいだろと思っちまったら、映画美学を否定してしまうのだが(爆)。
いやいやホントあの、手が触れるか触れないかは、美しく涙あふれるクライマックスだったよ!!
今の女の立場からして見れば、伯父の仇という口実、正義を盾にした口実で仲間たちを斬っていった男は、口先だけで正義を気取る男に過ぎず、やーめた、やめた、というところかもしれない。何か事情があるんでしょう、と、人を殺した男に聞く女はいまい(爆)。
伯父の仇にと、関係ない、ある意味自分と同じ立場、同胞を殺し、自らもなますのように切り刻まれて死んでしまう江波は、ただのバカさ。女が男に思う、バカの典型さ。
でも困ったことに、バカもタイプをいろいろと見せられると、女はほだされちまうのかもしれない……。
沖田総司、沖田総司のことを忘れてた!殺人テストの中から江波を見出し、取り立てた沖田総司。組織の闇を、まさか裏切り者だとは知らずに、江波を信用するが故に教えた沖田総司。病に侵された美形剣士。
河原崎長一郎。えっ!彼、こんな美男子だったの……若い頃(爆)。いや、すんません……美形が演じる定番、沖田総司、ぴったりでんがな!
もうね、私の中では、新撰組は内ゲバ、粛清の恐ろしき集団さ……。ああ、どうしよ、新撰組ファンに怒られるよなあ。この印象は容易にぬぐえない。それ位の迫力と恐ろしさ。
現代のいわゆる一般的新撰組ファンが、本作を見たらどう思うのか、気になってしまう!
心理を追い詰める恐ろしさと、刀での流血の皮膚を斬る感覚が伝わるナマな痛さ、それがモノクロの墨汁のように描写されるまがまがしさ。
モノクロとなると、時代劇特有のちょっとしたスローモーなタメの演技も、お約束な感じにならず、本当に、そのタメや間が、裏切や突然の絶命の恐ろしさに100%転換するんだもの!
ああ、とてもとても言いきれない。こんなの見てしまったら、まさに現代、時代劇は死んでしまったと言いたくなる!!★★★★★
「先生を流産させる会」の衝撃はすさまじく、自分の中の良識を疑いながらその年のベストワンに押し上げてしまった。そして今回、この新作に彼の名前を見つけて迷わず足を運ぶ。
通常だったら、ベストセラー小説の映画化、しかも学園ホラーというティーン向けっぽい題材にはちょっと二の足を踏むところでもあったんだけれど、本当に、迷いなくだった。
つまりは私は彼の作品はこれで二本目にしか過ぎないんだけれど、あのまがまがしさは、あの作品だけではなかったのだと、彼の中に吹き荒れているものなのだということを知って、本当に戦慄した。
あの画の、ざらつき。単に色味の問題だけではないと思う。あの、胸にざらざらくる感覚は、まがまがしいとしか言いようがないのだ。
それが、それこそがこの監督さんの個性だというのなら、この人はなんて恐ろしいの!!
そう、ベストセラーと言われても当然無知な私は知らないし、当然読んでもいない訳。本作が小説としては一体どういう感じなのか、こんな狂った映画に仕上がってしまっては、もう想像することも出来ないのだ。
私ゃーそれなりにスプラッタ好きだし、ただ血みどろにすればいいとか思ってるよーな映画はホント、キライなのだ。スプラッタじゃなくても、ホラーというものが、人を怖がらせるというのがどんなに難しいことか判ってない、ていうかナメてる映画がホント、キライなのだ。
でも私の中にある、ある程度の方程式……ホラーの怖さやスプラッタの凄惨さのどれをも、彼のまがまがしさは突き抜けてしまった。
そらー、怖いのだ。人間心理の恐ろしさ=ホラーも、思いつく限りの凄惨な殺し方=スプラッタも、本当に怖いのだ。でも、でもなんだろう、そういうことじゃない、この恐ろしさは……。
何度も言っちゃうけど、まがまがしいとしか言いようがないの。もう何か、そこはまがまがしさに支配されている。どんなに良識のある人間が抵抗しようとしても、逃げられないのだ。
物語としては、スプラッタホラーのいい感じの王道を行っていると思う。大人の子どもに対する容赦ないパワハラ、セクハラ(どころじゃない、レイプ事件)。表面上仲良くしてみせる友情ごっこ。
現代のティーンの心の闇(という言い方自体が使い古され過ぎているけれど)にきちんと焦点を当て、男の子はその中に耽溺し、女の子はその中でもがく。男と女の弱さと強さもうまい具合に描写されている。
……などと思うのは、今こうして思い返して判ったように言っているだけで、つまりはそこんところが、原作ではどういう感じだったのかなあ、と思うんである。
主人公で、この凄惨な一連の事件の主犯(つーか、ほぼ単独犯だが)である湯浅君(野村周平)は、いじめられているような、ギリギリ未満のような絶妙の描写。
トイレから引きずり出される、というところはいかにもイジメの風景だが、彼が引きずり出されるのは奇妙なオブジェの製作現場であり、その最後のピースを湯浅君がはめ込み、やんやの喝さいとなるんである。
んでもって、それ以外、湯浅君がいじめられているっぽい場面は出てこないし、ひたすら凄惨な展開に突入するんである。
湯浅君は、同じ魂を共鳴し合う中村さん(夏帆)のために(いや、自分のためにというのも大前提だろうけれど)、彼女を苦しめたクラスメイト&理事長&教師を戦慄のパズルゲームに陥れるんである。
命の時限爆弾を解くカギは、なぜか自転車に固執して隠されているパズルピース(自転車の鈴自体がそれになることもあり)。それを街中が血眼になって探す、そういうあたりはいかにもティーンノベルのような感覚も起こさせる。
いくら犯人が「ベタに爆発処理班とか呼んだらドカーン!ですよ」と言ったって、フツーは呼ぶよな、などとも思わなくもないんだけれど、でもなんといっても、あの異様な犯人(グループ)の姿、なんである。
湯浅君が連れ出された先にあったオブジェ、ノーテンキなひまわりのキャラクター、そのヘタウマな手作りお面をかぶった異様な姿。
湯浅君率いるその犯人グループがまず最初のターゲット、身重の女性教師を縛り上げ、ついにはそのお腹に天井からつるされた電子レンジを落とすんである。う、うう……フィクションだと判っていてもキツい……。
調理実習の準備をしていたこの女性教師に、その材料のトマトを執拗に口の中にねじ込んだり、卵や皿を投げつけたり、電子レンジにしてもそうだし、このあたりは妙に上手く出来ているんだよね。
なんというか、ドラマティックな画として上手く出来ている。きっとそれは、原作にもあったものだろうとは思う。でもやっぱり、その“上手く出来ている”をまがまがしさが超えていくのよ。
もうこの時点で、その恐ろしさがあった。それは湯浅君を演じる野村君(私、初見。素晴らしかった!)のまがまがしさであり、無論それは、監督さんの演出のたまものであろうと思う。
こういうキャラ、ただ無表情に、自分の盲信する正義を貫く、しかもワカモン、てーのは、まあ、あるじゃない。ありがちだと言ってもいいよね。
だから今の若いモンは何考えてんだか判んなくて怖いとか、そういうありがちなテイストに行きがちな訳。でもこの湯浅君は……。
まあ、単純にそういう定義を出来ない訳でもない。確かに彼は何考えてんだか判んないし、一応用意されている「暴力を振るわれている母親をかばって、父親を殺した息子」という設定も、息子以上にベタに狂っている母親のキャラで、むしろ説得力を(意図的に)失っている。
ほっぺたのデキモノを気にするシーンから始まるこの物語、それを「異物を排除する若者」的に、心理学風に処理することも出来るかもしれないんだけれど、そのツカミのシーンさえ、まがまがしさという感覚でしか説明できないのだ。
そのデキモノが彼に何かをさせるまがまがしさ、そう言っちゃうとまた別の方向のベタかもしれないけれども……。
スナック菓子を無表情にばりばり食べながら、刑事に相対する湯浅君の姿は、ただ「いまどきのワカモン」の恐ろしさではなかった。やはり、まがまがしさ、なのだよ。何と言ったらいいのか……。
確かに、息子ベッタリの母親は異様だし、人体解体図だのが貼られた、妙にカラフルな彼の部屋はこれまた異様ではあるんだけど、そういう判りやすい異様さを、彼が、彼自身が超えているんだよ。
演じる野村君、私は初見だけれど、彼は本当に、内藤監督に出会って良かったと思う!!
対するヒロインは、もう充分に名の売れている夏帆ちゃんである。でも、今まで見た中で、一番グッと来た。いやまー、もう高校生の役って年でもないと思うんだけど(爆)。
それまでも薄々感じてはいたけれど、彼女はもっともっと、キツい役をやりたい子なんじゃないかという感覚が、ピタリとはまってきた。見た目の清楚さからいい感じに飛び越えてきた。
内藤監督とはドラマから二度目の顔合わせだというし、ちょっとこの後の展開が楽しみなんである。
とはいえまー、受け身のキャラではある。学費を弱みに理事長&理事長の弱みをネタにした学生たちに重層レイプ攻撃される
もうそりゃー、女子としてはレイプっつったら相手をぶっ殺すしかないでしょ!と思う訳なのだが、それを代わりに実行しちゃうのが湯浅君となると、なかなか事情が違ってくる訳で。
その事態に気づかなかった身重の女性教師は、湯浅君がいじめられている(かもしれない)ことに気づかなかった女性教師であった。
そこが発端のリンクであった訳だが、身重の女性教師のお腹に電子レンジを落とすというツカミは、ヤハリ内藤監督の前作の衝撃を思い起こさずにはいられず、これは原作にもあったのかなあ、と気になるところ。
で、そう、夏帆ちゃんは受け身のキャラではあるのよね。でも湯浅君によって、強制的に攻撃する側にさせられる。
パズルのピースが見つからなければ、ヘッドギアが爆発してしまうという場面で、湯浅君から二つのピースを渡された中村さんは、それを知らないフリしてしまった。
後に、レイプチームの学生の一人の父親である刑事からそれを糾弾され、それがきっかけに受け身から彼女自身の意志で攻撃側に転じる訳だけれど、あくまで中村さんは、レイプされ、自殺未遂に追い詰められた可哀想な女子生徒、という位置づけなんである。
でもなんといっても、ヘッドギアが爆発し、流血大爆発で死んでしまうレイプチーム二人、その返り血を浴びるそれぞれの両親、の画はすさまじく、受け身なのにいつのまにか攻撃側に回らされてしまった中村さん、という恐ろしさをまざまざと見せつける。
ああ、スプラッタ映画には割と免疫があるつもりだったのに、何か違うの、狂気、いやそんな単純なものじゃない、悪意、そんな可愛らしい?モンじゃない、もうそこに満ち満ちているものから逃れられない感じなの!
空が晴れていても曇っているような、空気がねっとりとまとわりつく感じ。本当にこれは、日本の、どこかの、空間なの??
湯浅君は、中村さんのことが好きだったのかなあ……そんな単純な?感情すら、ここには入り込めない気がする。
ただ確実なのは、中村さんが、消極的で受け身だった中村さんが、湯浅君によって覚醒したという一点であって、それを見届けた湯浅君は満足したように身を投げるんだもの。いや、身を投げるつーか、相手を巻き添えにして、だけど。
中村さんが覚醒した相手は、直接の相手ではない。自分をレイプした何人かの中の一人の、父親。中村さんが殺したい相手なんかじゃない。
その前に、その彼と理事長に斬りつける場面はあるけれど、確かにそこが覚醒の第一段階ではあるけれど、夏帆ちゃんが驟雨のような返り血を浴びて、髪の毛の一本一本に細かい霧雨……じゃない、霧血がまとったあの場面は、なるほど、冒頭シーンに戻っていく思わせぶりをしたくなる、美しさだったのだ。
そうだ、そうだそうだ!本作はさ、そういう作りなのよ!“その時点”からさかのぼって、何十何日前、何日前、何時間前、何分前、とカウントダウンしていく。
一番最初に、そのゼロ地点が示されて、それは、湯浅君が、劇中ではひたすら無表情が怖かった湯浅君が、年相応の男の子の顔になって、驟雨のような血を浴びた中村さんを、女神のように仰ぎ見ている、恍惚と言っていい表情のシーンなのだ。
勿論、冒頭のこの時点では何も判らないのさ。中村さんもうまい具合にうす暗いシルエットにさせて、血まみれなんて判らない。
こういう、クライマックス、あるいはラストに改めて向かっていく構成はメッチャありがちなんだけど、そのありがちさえもカタルシスに感じさせてしまった。カタルシス、なんて言っちゃっていいんだろうか……。
生徒を呼び込むためのキャラクターとしてのひまわりが、恐ろしい殺人鬼のマスクになる、ていうのも、まあ考えてみれば王道かもしれない。私はいまだに「アクエリアス」のフクロウのかぶりものの恐ろしさを思い出すのよー。
一見、癒し系でも、表情が動かない怖さは尋常じゃない。それこそこのひまわりキャラとかさ、今の日本のゆるキャラブームを揶揄しているように思えなくもないじゃない?
どこか無責任な、責任転嫁出来るキャラ。うがって見れば、そんな図式も見えなくもない。
でも、でも、やっぱりそんな単純じゃないのよー!!やっぱりやっぱり、違うのよ。
ひまわりのお面は、これを作ったのは高校生の筈なのに、まるで小学生が作ったかのような幼稚さが、純真さを計算しているようで……。
え?これは小学生が作ったのを飾っていたお面とかいうオチじゃないよね??それありそうだな……そうであったとしても、とにかく、純真さを計算しているという点は、確かにそうだよね?
ああでも、そうやって分析しちゃうと面白くないんだよなあ。後から考えると、この時湯浅君以外のメンバーは、彼に命令されての行動だった。
湯浅君だけが、ただ一人キチクだった訳なんだけど……でも、それがこの時点では、観客には判らない、残らずキチクな“いまどきの若者”としか映らないことが、徐々に事実が明かされてくることによって、マヌケな観客に恐ろしさを、骨身にじゅくじゅくと沁みこませていくのだ!!
最終的に夏帆ちゃんの標的となる高橋和也の、ああこの人の狂いっぷり、役者っぷりを、久々に見た気がする。
彼は狂うのが似合う。そんなこと言っちゃアレだけど、なんつーか、身体能力もイイ感じに動くから、ヴィヴィッドなんだよね。
女の子をレイプしている息子の映像を見てしまって動揺しても、中村さんと闘っちゃうのは、やっぱり人の親、かあ……。もし彼が、他に娘もいたならどう思うだろうか、などと思うのはズルいかな、やっぱり。
その意味では、理事長役の大和田獏が担っていたのだから、そんなイジワル言ったらダメかな。
大和田獏!オムツみたいに爆弾装置をつけられてるあられもない、つーか、情けないことこの上ない姿に衝撃!
顔の判らない制服姿の女の子にペニス突っ込んでみたら自分の娘だった、というくだりは、なんかありそうだし、“突っ込んでみた”場面はきちんと見せず、太ももに流血している描写にとどめたあたりは、やっぱり“ベストセラー小説の映画化”である商業作品ゆえなのかなあ、と思ったり。
でも大和田獏、充分衝撃的だった!これは大和田伸也じゃダメなのよね、なぜダメなのかはよく判らないけど(爆)、やっぱり大和田獏だからなのよん、この衝撃は。うーん、何故かなあ(爆爆)。
いくらラストクレジットの後に「動物を虐待していません」と出ても、イグアナに生餌のネズミを食わせるノーカットシークエンスには衝撃。
そらまあ、生餌は虐待ではなかろう、自然の生態系なのだから……こういうあたりの確信犯ぶりにグッとくるのだっ。
湯浅君に促されて、ネズミのしっぽをつまんでイグアナの鼻先にぶらさげる、しれっとぶら下げる中村さん=夏帆ちゃんの、そう、中村さんなのだ、中村さんっぷりにも衝撃を受けるんである。
ラストクレジットは、夏帆ちゃんが血まみれの制服で狂ったようにダンスダンスダンス!そして最後には、あのイグアナが存在感たっぷりに登場、いい具合に踵を返してのっそりのっそり見切れていく。
なんとなんと、なんか判んないけど(爆)、心をえぐるエンディングなの!!★★★★★
でもね、ホラ、人の不幸を見たがるとか、まあそういうことはある。実際、一本目に観た腰抜け映画(だからゴメンて)で、“脚本家”役の青年はそう言って、シリアスな映画が得意なのだと豪語していた。
実際、全然そんなん感じられなかったが(爆)、でもね、確かにそれはあるんだけど、それをマジにリアルに嫌悪感たっぷりにこれでもかと見せることがいいのかというと、必ずしもそうではない場合もある。勿論それで成功する場合もあるだろうけれど。
最近話題騒然の某ドラマの騒動は、まあ観てないんで無責任なことは言えないけど、いかにもリアルな顔して嫌悪感たっぷりに描いてしまったことが、問題だったんじゃないかなどと思う。
本作はね、確かにすんごく陰湿で残虐で……先述した通りの負のパワー大全開よ。女子のいじめの描写も、ヒロインの自傷行為も、暴力教師が純情女子をレイプする場面も、もうとても正視してられない凄惨なものよ。
でも、ハッキリと、これはフィクションでござい、エンタテインメントでござい、という前提を、見える形で敷いているから、イイんだよね。いわゆる、知ったかぶりにリアリスティックに描いて反発を買う、というみっともないことをしないの。
勿論、いじめの問題も、教師が生徒を理解していない問題も、理解していないどころか攻撃の側に回っている問題も、家族が安住の場じゃない問題も、もう色々、色々、現実の中で見過ごせない要素がしっかりと詰まってる。案外これらは、実にリアルな肌合いを見せる。
でも、やっぱり、フィクションでござい、エンタテインメントでござい、なんだよね。だってまず女子の制服がまるでコスプレ(爆)。
いや、クラシックな、王道な、セーラー服なんだけど、王道過ぎて、今でもこんなんホントにあるのと思っちゃう、伸縮しなさすぎる真白のシャツ生地に紺の襟のセーラー、こともあろうにスカーフは赤!これは大人のおもちゃ屋に売ってるコスプレ制服だろ(爆)。それを裏付けるかのように、プリーツのスカートはありえないほどの超超ミニ丈なんだもん。
そらま確かに現代のJK(使いたくなるのよねー、この略語♪)は制服をより短くする傾向はある。それこそ、風俗を表す映画の役割ではある。ではあるが……通常の状態でぱんつ見えるだろ、ってぐらいの短さはさすがに(汗)。まさに大人のおもちゃのコスプレ制服まんまなんだもん。
そりゃま佐藤監督はピンク出身の巨匠であるが、こういうあたりのフィクション感覚は上手いよなーっ、と思う。
そう、そうそうそう!佐藤監督、なのよね!レイト観れる機会にと思ってチョイスしただけだから、これは嬉しい。
しかもいまおかしんじっ!タイトルでもあり、クライマックスに炸裂する、バケモノみたいな華にとりつかれて、クラス中本能が爆発して殺戮血みどろ、という荒唐無稽なアイディア。
特にこのグロテスクな華の造形とかはいかにもいまおかしんじと思ったが、そもそも佐藤監督は“日本のスプラッター映画の草分け的存在”って、えーっ、そうなの、そうなの?そんなん、知らんかったわ!四天王の中でもなかなか観る機会が少なかった監督さんだからなあ……。
ピンクの監督さんだからという訳でもないだろうが、まあそれも大きいかな、やっぱり。女子たちはきちんと応じて素裸を見せてくれるのが嬉しい。
嬉しい、っつーか、状況的に痛々しいのだけれど……。だって、エロの要素としての裸という訳じゃないんだもん。レイプの場面はエロなのかもしれんが、やっぱり女としてはそれはツラいんだもん……。
そういう意味では、エロ的裸はなかったのかもしれない。凛として女として見せる裸と、純潔を踏み散らされる乙女の裸。……ツラい……。
あ、そうだ、エロ女教師が欲望を爆裂させて男子生徒と絡み合うクライマックスはあったっけ……ある意味それは救いだったかもしれない……。
おぉーい、相変わらずワケ判らんぞ!コーフンした映画だとどうしてもそうなってしまう。反省、反省。
えーとね、ヒロインはこの学校に転校してきたばかりの瑞希(桜木梨奈)。教室でのファーストシーンがいきなり、掃除用具ロッカーに閉じ込められて、尿意が我慢の限界、漏らしてしまうというサイアクの屈辱場面。
でも瑞希はしれりとして、陰湿なイジメ女子チームに乱暴にモップでおしっこしぶきをまき散らす強心臓ぶり。
そんな瑞希に憧れて声をかける、ザ、引っ込み思案女子の桐絵(島村舞花)。薄そうな皮膚、アニメのヒロインみたいな二つ結びのヘアスタイル、後に仲良くなった瑞希に「桐絵はおぼこだから判んないか」「おぼこってなあに?」「処女ってこと」と言われちゃうような、確かに見るからにそんな女の子。
そんな女の子だから、彼女がキチク教師たちにレイプされる場面が本当に辛くて……。
おっと、おっとっと!それ先に言っちゃ、ダメ!でも言っちゃったか!!うーむ、私、ダメダメだな……。
まあとにかく。そうそう、この桐絵ちゃんのキャラ造形は、ホントイイのよ。ただ純な乙女、憧れてる瑞希にキャンキャンついていくだけのキャラじゃないの。
ひそかに片思いしている男子、柴内君(浅田駿)と瑞希が親密に見えて嫉妬して、瑞希が転校する原因になった、前の学校での教師との関係がまだ続いているという手紙を瑞希の自宅に投函して、ヒステリックな母親とひと悶着させる。
自分がその手紙を書いたのだと告白する場面はさすがにヒヤリとしたが、そのことで彼女たちの友情は揺るがなく固く結ばれる。
こういうあたりも、手腕がなければ出来ないと思う。セーラー服女子の友情、好きさ!そしてそこに所在無げにしている男子も好きさ!
そう、三角関係になりそうな男子一人、なんだけど、実際桐絵は柴内君に片思いしているし、柴内君はヤリたい盛りの男子なもんだから、瑞希がヤッてくれそうと思ったのか、そんな持ち掛けをするし、ドロドロしそうな危機感はあるんだけど、そうはならない。
それは瑞希が孤高の女の子であり、桐絵はそんな瑞希と真の友情を得ることの方が柴内君への想いより強いという、確かにおぼこかもしれないけど、こういう女の子世界、好きっ!という乙女だし。
柴内君は、……彼はどうなんだろうなあ。彼もまた、彼女たち同様、孤独の魂を響かせ合う仲間にようやく出会えた、ということなのかもしれない。
三人で力を合わせなければ、この学校で生きていけない、と、ターゲットに見立てたサンドバッグやらに三人してシュミレーション攻撃する場面は、ぱんつ丸見えの回し蹴りってあたりに先述したピンクチームならではのフィクション、エンタメの楽しさがありつつ、でも青春、なんだよね。
でも凄く切ない、もう振り返ることのできない、青春なの……。このシーンの楽しげな三人を見た時に、思わず甘美な胸締め付けられるような思いを感じたのは、無意識に、きっとこれが彼らの最後の幸福な時間なのだと、直感してしまったからなのかもしれない。
三人一緒と言っていたのに、瑞希があまりにもヒドい仕打ちを受けちゃって、あのクールで強い瑞希が戦線離脱しちゃったことが、コトの始まりであった。
正直、ここまで強い強い瑞希だったから、いくらあんなヒドい仕打ちをされても、桐絵を振り切るのが納得いかない気持ちもあったのだが……。
そりゃアソコにカッターの柄を突っ込まれたら(柄よ、柄。……思わずヒヤリとしたけどさあ)、さしもの瑞希も心配する親友をも振り切ってしまうのかもしれないのだが……。
一人草原に躍り込み、絶叫して転げまわる瑞希の姿は悲痛だが、それまでがあまりにも強い瑞希だったから、ちょっと作劇のための戦線離脱のような気もしてしまう。
その後、つかっている浴槽が血で真っ赤に染まる戦慄の場面があり、もうそのあたりからどんどんどんどん、見るも辛い展開になってくる。
柴内君がいつも標的にされている暴力教師コンビ、柴内君に女装させたりする嫌がらせするからゲイコンビなのかと思ったら、おぼこ娘の桐絵を輪姦するというサイアクのキチク。
しかも縛り上げた柴内君の目の前で。彼女が恋する彼の目の前で。ああ、もう……辛いよ、辛い、辛すぎるよう!!
なんでなんで、この時瑞希は戦線離脱してるのと、つい彼女を責める気持ちになってしまう。
ちゃんとね、ちゃんとと言うのもアレだけど、レイプの描写も、このキチク教師たちはキャラを守って、フィクション味たっぷりではあるのよ。それは判るのよ。
でもやっぱり、女子としてはさあ……しかもこの桐絵ちゃんの人物造形、確かにワザとらしいぐらい乙女だったけど、でも本当に可愛いと思ったから、凄く凄く、辛かった……。
キチク教師たちが去り、ボロボロの桐絵は、縛られていた柴内君の縄を解く。
柴内君もボロボロに泣いている。桐絵はそんな彼を殴る。殴られるままの彼。
ヤってよ、もう、私の中は、あいつらの精子でドロドロだよ。ヤッてよ。可愛い乙女の桐絵に、そんな台詞を言わせたく、ないっ!
でも、今の彼女にとっては、彼に突っ込んでもらうことの他、収まる方法がないのだ。彼もまた泣きながら、彼女を押し倒して、突っ込む。二人とも泣きながら、絡み合う。なんて、なんて、悲しいの。
桐絵がフラフラと自失状態で飛び降りたのは、もうしょうがないかなと思った。まさか助かってるとは思ってなかった。
残された二人はそれぞれに復讐に向かった。柴内君とキチク教師二人の殺し合いは、きっと、男子諸君には正視に堪えないんだろうなあ……。
ムスコをカマで打ち込み、えぐり切る。このブツさえなければ、と。何か、原罪、などと言う言葉が頭に浮かぶ、人間の業を、まだ学校というかごの鳥である男の子が打ち破ろうとして、返り討ちに合う悲哀を思う。
そう、返り討ちに合う……教師その2の方、コバンザメの方、ジャージ教師に傘で首筋を刺し貫かれてしまう。
返り血をその傘で防ぐという、ちょっとした小物の面白さで使っているのかもしれないけど、駆けつけた瑞希の前で、血に濡れて昏倒する柴内君は仇を討った清新さにあふれていてひどく美しく、ああ、学ランの血に濡れた青年の美しさ、なのだった。
結局、飛び降りた桐絵も生き残ったらしいし、男の子だけが死んでしまうこの哀しさは、でも乙女に見えて乙女だから強いし、女の子は強いし。男の子がやっぱり、一番純粋なんだろうなあ……。
そうなんだよね、桐絵も、生き残った、んだよね。瑞希が残したんだろうか、病院のベッドの枕元に置かれたグロテスクな華。
微笑み、ありがとう、瑞希、とつぶやく桐絵。華に取りつかれた時の表情は、瑞希のそれよりも“とりつかれ感”が恐ろしく、ちょっと思い出したくない、絶妙のこわばり具合。
これぞフィクションの中のリアリスティック。本作での拾い物は、きっと島村舞花嬢の方であっただろうと思う。
ここまでは先述したようなフィクションありき、エンタメありきの要素がありつつも、それでも凄惨なリアリスティックな残酷な現代描写に圧倒されていたところが、“華魂”に瑞希が取りつかれると、一気にスプラッターは今まで以上に、まさにフィクション全開で花開くのよ。
でもこの華と、ふるえる脳みそと、その脳みそに亀裂が入って爆発しそうな感じは、もう冒頭に示されている。トンネルの中でいきなり全裸の瑞希が頭にグロテスクな華をつけて歩いていく引きのシーンが、冒頭のインパクトから引き継がれる。
瑞希は、太ももに自分で吸ってるタバコを押し付けるという自傷行為をしてる。それが何度も示される。
華にとりつかれるシーンで見せる、いわゆるヘアヌード以前の、ぱんついっちょで見せるそのシーンは、思いがけず小さ目のおっぱいもあいまって、エロというよりは、彼女がそこまで示してきた孤高の、孤独のストイックさがある。
タバコを押し付ける時の彼女の表情は官能に他ならないんだけど、それは子供を堕ろしたという前の学校の教師との何かがあったのかもしれないんだけど、そんなあれこれを想像するよりも、何か孤独、孤独を感じてしまうんだよなあ……。
両親と暮らしているけれど、彼女はたった一人。父親はありがちな父親、「家のことはお前に任せているんだから」と。
しかしこんなセリフも久しぶりに聞いたが。今のJKを抱えている家庭でも、いまだにこんな時代錯誤な台詞を吐くのだろうか??
ドラマチックなまでにヒステリックな母親が不二稿京だということに熱狂!私ら世代にとっては「鉄男」のヒロイン、不二稿京!カンドーッ!すいません、ホントにそれしか知らないもんですから……。
でもあの「鉄男」のテンションそのままに、まさに時空を超えて現れたから、凄い、すっごい、感動しちゃった!!
★★★★★
フランス映画みたいと言ったが、あったよな、このタイトル
と思って、あれ、私観てたっけなと思ったら、しっかり観ていてしっかり載せてた。
うーむ、全然覚えてない(爆)。自分の文章読んでも思い出せない(爆爆)。つまり、自分的にはピンとこなかったらしい。相当名作らしいのに(らしいとか言うなっ)。
でも本作はホント、ホレたなあ。いや、これは紙一重かもしれないとも思った。だって、それこそ“フランス映画みたい”こじゃれた、言ってしまえばゲージュツの、小難しいようなものって苦手なんだもの。だってバカだから(爆)。
このタイトルはヤハリ、あの名作を意識しているのだろうか。確かに男二人女一人のスタイルは似ている……けれども途中もう一人女の子が入ってきて、しかもそれでも関係が崩れたりしない。てかもともと関係って何、っていう彼らで、それが何故だか素敵。
ああ、なんだろう、こんな映画が日本で作れるなんて、本当に思いもしなかった。素敵としか、言い様がない。
でも、さしたるストーリーがある訳じゃない。三人三様のそれぞれの持ち場の事情はそれぞれに描かれるけれど、三人がほんの偶然に寄り集まってからは、突然ふってわいた休日を、お互いに特に気を使うこともなく、しかし楽しげに過ごす、それだけのお話。
あのね、本作の解説がね、ワンシーンワンカット、だったのよ。出た!と思った。ここでは何度も言いまするが、これが苦手、私、苦手。ワンシーンワンカット、長回し、それでゲージュツ語りますみたいな映画がホント、苦手。
でも時々、本当にハッとさせられる作品に出会うと……勿論その人は才能のある人であり……ワンシーンワンカットという手法が、映画を素敵にさせる一つの方法であるということを、教えてくれるんだよね。
ワンシーンワンカットがだれない尺を、この人はきちんと計算している。ライブ感があって、そのくせ計算されていて、額縁の中にきちっと収まることによる、ある種の可笑しさと切なさと心地良さと言ったようなもの……。
いい意味で俳優たちは、その額縁の中で求められる存在であり、それがそれぞれにたまらなくキュートなのだ!!
役者は映画の、あるいは監督のコマであるという言葉を思い出し、それはいい意味でも悪い意味でも使われるけれど、監督が描く絵の中の登場人物が役者なのだとしたら、すごくしっくりと納得出来るんだよね。
そう、なんかね、美術館で絵を観ているような気持ちなの。それも語弊があるかな……つまんなく聞こえるかな。そうじゃなくて、本当にワクワクとする美術館めぐりなの。
連続する絵画のシリーズの中の、その彼らに恋してる感じ。その休日に、その絵の中に入り込んで一緒に遊びたい感じ。三人の中に途中参加した女子高校生がきっとそんな存在なんじゃないだろうかと思う。
ああ、なんかこの作品の魅力を上手く言えないな!でもね、それこそフランス映画みたいと思ったぐらいだから、そんなアカデミックな感じはしたのよね。計算されている感は凄く感じた。でもそれがイヤミじゃないのが凄いと思った。
監督さんのプロフィルを見て妙に納得した。なーるほど、やあっぱり、アカデミックな人だ。文化芸術としての映画を研究した上で創作に入ったパターン。それも早稲田だの大学院だの、凡人映画ファンには恐れおののくネームバリュー(爆)。
まあそれで簡単に反発することもしがちな、ひがみ根性パンパンの下層映画ファンだが(ひたすら卑屈)、でもでも、素敵だったんだからもうあらがいようがない。
何かね、凄く新鮮な気がした。それこそフランス映画ならそんなこともありそうだけど、日本映画でそういう方向から切り込んでくるクリエイターが出てくるとは思わなかった。
日本って、どこかまだまだ現場主義みたいなところがあるじゃない。まあそれで黄金時代を築いたんだからある程度はしょうがないんだけどさ。
でも本当の才能がどこから出てくるかなんて判らない。もし、たとえ、彼がこの一作で映画製作から離れてしまったとしても、この一作を愛しい記憶にとどめたいと思っちゃう。
どんな映画かって、本当にどう言ったらいいのか難しい。先述したけど、本当に、絵画のような魅力なんだもの。ワンシーンワンカットの魅力をきちんと研究して著わすと、そういうことになるのかなと思ったり。
メインは三人。ダルダルにパン屋でアルバイトしているクロは、でもどうやらパン職人になりたいらしい。
いつまでもヒマなレジ係に甘んじているのが不満。サボってタバコをふかし、パンを盗み食いする。客からオススメを聞かれても、「二軒先のジャムパンね」としれりと言う。
もうこの時点から、フランス映画みたい!!と心の中で叫びまくっていた。なんだろう、こういう女の子、こういう台詞、こういうダルそうな、でもチャーミングな感じ、凄く絶妙、なかなか出せないのよ。
メッチャ日本の女の子なんだけど、本当に不思議なんだけど。生意気で、自分勝手で、行動が唐突で、だからといってキラキラ、イキイキというのとはまた違う、テキトーさ加減がいい。
試着した服のまま逃げ出したり、ラブホに一緒に入った男や路上ミュージシャンのお金を失敬したり、かなり危険な女の子なんだけど、そのどれもがチャーミングで何とも憎めない。
ブラスバンドの路上ミュージシャンに、次々に大きなお金を入れて盛り上げてどんどん演奏がハデになった末に、お金の入った缶を抱えたままサッと逃げ出すとか、なんかなんとも可愛いの!
そんでそのままラブホの男とミュージシャンたちとのおっかけっこは、本当に映画黄金期の、スラップスティックな、それでいておフランス的オシャレな、そんな感じなの!!
あー、不思議、だって思いっきり日本なんだよ??バックには日本的オフィス街がそびえたち、ビジネスマンやOLが行きかっている。かといって、彼女が浮き上がっているということもない。自然なの。なんなの、これ!!
そして二人の男たち。一人は割と、日本的湿度のあるドラマの中にいる。
恋人から、「私の誕生日に婚姻届を出す筈だったでしょ!」と責められているカメラマンの男。「あなたが言ったのよ!」と繰り返す彼女に、彼女の言い分は判るけど、ああ……こーゆー女が男に嫌われると言いたげだなとちょっと思ったり(爆)。
でも彼女が苛立ちのままに彼のカメラを床にたたきつけ、それを修理できる店を探しまわるシークエンスがなんとも可愛らしくて好きだなあ。
そしてもう一人の男は、一番フィクショナル。ザ・女優にバラの花束なんぞ差し出してなだめてる。やたらオシャレなカッコしてるけど、後々判るところによると、脚本家、らしい。
いや、脚本家志望??しかしパソコンは使わず、昭和の文豪よろしく原稿用紙にむかってうーんと唸る。しかもしかも、旅館の和室でというあたりの古いこだわり(笑)。
そんな三人は、ほおんとに、なんの接点もなく、偶然の出会い。まあ、脚本家の男がパン屋の娘に「久しぶり!」と声をかけたのはナンパの延長のような。
後に彼女を当て書きに脚本を書きたいと思う彼。カメラマンの彼は、恋人から逃げ出すような恰好でか、撮影の途中に車がパンク、ラブホ男とバンド団から逃げていたパン屋娘と、彼女を助けた脚本家男に拾われる形で合流。
カメラマン男は、かつておじさんが経営していたという、あれは旅館?ちょっと聞き逃した(爆)、学校のような公民館のような、廃墟と化した建物に二人を案内する。
二丁拳銃のポーズでにっかり笑っているおじさんの写真。推理ミステリよろしく本を模した箱の中に隠された拳銃、オモチャと思って脚本家男がバンバン、と遊んでいるうちに本当に銃声。
カットが替わるとしおらしくガラスの破片をほうきとちりとりで掃きよせている。くすりと笑っちゃう。
そんな具合なのよ、もうそんな具合なのよ。この魅力をどう説明したらいいのか困るの、判ってもらえるかなあ!
ああ、でもそうだ、ひとつ、明確なものがあった。ワンシーンワンカットという以上に、いや、その手法を使っての、明確な表現方法。
ここだろ、というところを見せずに、画面の外に、あるいはカットの尺の外に追いやって、次のカットでその結果を見せるやり方。
こういうの、コメディ映画では……優れたコメディ映画では、よくある手法だと思う。優れた、と言ってしまうのは、そういやー、こういう手法、最近見ないな、と思ったから。
画面の外で、あるいはそのカットの後で何が起こっているのか、それを観客に判ってもらえる自信がないのか、あるいはそんな描写を思いつくことさえない作家……つまり、そんな描写を観客に判ってもらえるだけの描写力のない作家ばかりなのか、どっちにしても、なんとまあ寂しい現状なのだろう。
そらー、私は下層映画ファンだが、それでもそれでも、観客を信じてほしいと思う。頭が悪くても、感覚がニブくても、素敵なものは、やっぱり素敵、なんだもの!!
一応、三人のそれぞれを説明してはみたものの、やっぱりやっぱり、あんまり関係ないよねと思うし(爆)。とにかくそれぞれのシーンが素敵なんだもんなあ。
朝食なのかな?あれは。あれは意図的なわざとらしいほどの絵画的構図。きちりと配置された木製のテーブルセットに、撮影用のように山盛りにされたフルーツ。
山に登ろうよ、と脚本男。僕は暗室にこもるから、とカメラマン男。私、山キライ、とパン屋の娘。
しかし次のカットでは三人で山登り。ヒールを岩に打ち付けて折っちゃって、これで歩きやすくなったとスタスタ歩く彼女。替わりの靴を持ってきたとかいいながらモタモタナップサックをイジイジしている脚本男。
オシャレな印象が強いのに、実はアウトドアのシーンがとても印象的で、地球の時間を感じさせる地層岩に三人がたわむれる場面なんか、本当に絵画のようで……。
ああ、もうこんなん、説明するだけヤボだわ!映画を文章で解説するのもヤボだと常々思っていたが、絵画は更にそうだろ!ああもう、ならばどう伝えればいいのか!!
三人がグラサンなぞして釣れそうもない釣りをしているシーン、これまた場面から見切れて女子高生が海に自転車ごとどっぷん。肝心なところを見せない手法に、もうこのあたりからシビれ始めているんである。
それこそ凡百のお話なら、男2人女1人のバランスの中にもう一人女の子が加わったら破綻が生じそうなもんなのだが、このあたりに日本的中性的関係性を感じる。
この四人になってからの、海の見える屋上で手作りパンを食べる、ラジオから流れる音楽に踊り出す、Wiiと思しきテレビゲーム(しかしテレビが奥行き深しアナログっぽいのが風情である)でテニスをしている様子。
そのボールがなぜか窓の外に行き、想像ゲームに四人が興じる様が、なんか、なんとも胸に迫って、可笑しいのに、楽しいのに、ぷぷぷと笑ってしまうのに、なんかたまらず切ないというか、なんというか、永遠のように胸に迫るのだ。
その時だけその他の一切の音が消える。聞こえている筈の海の音も聞こえなくなって、テレビゲームのボールの音、スパン!という作り物の音だけが四人の間を行きかう。それがなんで、こんなに胸に迫るんだろう。ああ、なんでなの!!
女子高生を空港に見送りに行くシーンも好きだったなあ。飛行機が飛び立つのを三人でゆるゆると、しかしぴたりと合った呼吸で両手を振って見送ってるのに、恐らくその彼女、飛行機に乗らずに、いつもの自転車で三人の横を通り過ぎる(笑)。
先述のようにほぼ決まった尺の中でのワンシーンワンカットで、これをきちりと収まらせるライブ感と計算された感がサイコーなの!
脚本家男がまるでゴキブリを退治するかのようにゲットした大きな海老(伊勢海老?)を料理し、男2人が同じタイミングで食べるシーンなんかはさすがに合わせすぎな感じもしたけど、ほとんどが絶妙なセンスで凄く好きだったなあ。
あ、そうだそうだ、食事シーンといえば、パン屋の娘が伯母さん(か叔母さんか判らんが)の家を訪ね、伯母さん、「可愛がっていたニワチャンなの」とシメた鶏を脚本家男に料理して差しだし、ああこれ、ニワチャンの首輪、そのまま焼いちゃった、ああニワチャン……とかワザとなのかなんなのか、言い募って、脚本家男、すっかりダウン(笑)。
お約束な感じだけど、こういうの、好きなの。案外こういうの、出来る人今、少ないんだもの。
シーン全てがそれぞれ凄くチャーミングで、全てを言いたいけど、言いきれないよ!
とにかく本作は美術館、一人の作家の、ひとつのシリーズを、ワクワクしながら見て歩く、誤解を恐れず言えば本当にそんな感じ。
映画は映像だから、動いていることが基本であり魅力なんだけど、それをあえて否定している。そう、誤解を恐れずに言えば、そんな感じなの。
それこそが、役者が監督の描くコマであるということの、いい意味での解釈なのだと思う。動いた先に、止まった絵があり、映像はその連続であり、芸術の先輩の絵画の先の、映像なのだと。
そしてその絵の中に音楽が満ちて、想像の先に絵が動き出す。凡人の、凡百の、バカな観客を信じてくれたと思う。本当に、本当に素敵!★★★★★
確かに山岳映像は素晴らしい。素晴らしいというか驚愕するほどの凄さ。本物の登山家、探検家だって、こんな映像を劇映画という中で撮ってしまうこと……つまり登山のアマチュアであるスタッフ・キャストで作り上げてしまうことにはきっと驚嘆するに違いないと思う。
でもそれは、前作で既に作り上げられてしまった世界であるということが、本作では予想以上に障害になってしまったように思う。
まあ逆に言えば、本作で最初に木村監督作品に接する人にとっては充分にインパクトがあるだろうとは思うけれど、言ってしまえばこの映像を武器にする以外は、ドラマ部分が陳腐……と言ってしまったら言い過ぎか……あまりにもシンプルでちょっと昔臭くて(特に蒼井優嬢演じる愛ちゃんのトラウマのあたりとか)。
確かにこの雄大な、というか過酷な、というか、こんなところにわざわざ出かけていく人間の神経が、私みたいな家大好き人間には信じられないのだが(爆)、そんな中で見ると何となくなるほどと思わせちゃうんだけど、なんか時々ふっと引き戻されるんだよね。
なんか、これなら登山家のドキュメンタリーを撮った方が木村監督、評価されるんじゃないかしらん……これだけ山岳映像が凄いんだからさ……などと思ってしまう。原作があるからそんなことを言ってはアレなんだけど、うーん、なんだろう……。
でもまあ、個人的には松ケンがこういうタイプの映画、役柄に抜擢されるのは嬉しい。最初にキャラクタリスティックな役柄で知られてしまうと、なかなかそこからフツーの役柄に移行するのが難しいと思うんだけど、彼は素の状態で臆することなくバンバン出るから、そんなこともあっさり乗り越えてしまうんだと思う。
てゆーか、素の(宣伝とかでテレビとかに出てくる時ね)の松ケンって、ホント、こういう同じ年頃の役者の男の子たちと全然違うよね。
まず、オシャレじゃない(爆)。そういうことに興味が無さそうだということが判っちゃうあたりがなんともイイ。
いくら役者という職業がどんな人間にもなる仕事だと言っても、普段オシャレな男の子と、松ケンのような完全にニュートラルな男の子とではなんかやっぱり、違う気がする。
ていうか、うん、こういう男の子(男の子などと言っては失礼だが)だからこそ、キャラクタリスティックもフツーの役柄もあっさりと染まれるんだとしみじみと思う。
誰かが言っていた……松ケンと蒼井優は似ていると。そう言われると柔らかそうな鼻の形とか、肌の色や質感が似ている気がする。
松ケンと蒼井優嬢というと「人のセックスを笑うな」が即座に浮かぶが、他で共演してたことあったっけ……?もう即座に即座にあの時のみるめ君が浮かぶのだが、あの作品の時は、蒼井優嬢と忍成君の共演にリリイ・シュシュを懐かしく思い出して、松ケン&蒼井優嬢のカップリングに関しては、まあ劇中も友人以上の展開はなかったし、そんなにグッときてはいなかった。
それだけに今回、何となくこの再タッグは嬉しいものがある……。まあ年恰好から言っても、出会いから言っても、この二人が最終的にくっつくであろうことは予測できたが、しかしまさかの、手を取り合ってぐるぐるまわる、アハハ、アハハと笑いながら。それをそれぞれに固定カメラで映すという、まさかの、コントみたいな、純愛ハッピーエンド。
うっわー、ウソでしょ、超恥ずかしい!!それまでは何とか踏ん張って、いや映像が凄いから、松ケン、純粋でヨイし、蒼井優嬢はそのベリーショートも超似合ってめちゃくちゃ可愛いし、とか気をそらしていたのだが、うーむ、この超絶ハズかしいラストでなんかドーンと奈落に突き落とされちゃったぞ!!
……まあその。そうそう、蒼井優嬢のベリーショート、超可愛い。てか、彼女は何やったって可愛いけど(爆)。
ひまわりのような笑顔というのはこーゆーことを言うんであろう。本当に彼女の笑顔はヤバい。絶対、ぜえっっったい、木村監督はこのかわゆさに純粋にホレちゃってのキャスティングに違いない。
そりゃま実力ある女優さんではある、勿論ね。骨の太さがあることも、これまでの彼女の女優人生を観ていれば充分に判ることだし。
でもかわゆさにホレちゃってだよ。あの、山小屋の屋根にのぼってお布団干してたところから、ワーイ!とばかりにフレアスカートをなびかせながら下のお布団の山にダイブする無邪気さは、そうだ……もうこの時点で気づいていなければいけない、このほっぺたが赤くなるようなワコウドの純粋さに。
こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、この”男勝りの可愛い女の子”のこういう行動や、ラストのアハハ、グルグルといい、木村監督が活躍していた黄金期の青春ドラマの世界かもしれない……いやでも、彼は黒沢作品についていたんだから、そんなことはないか……。
うーむ、そもそもどーゆー話なんだっての。いつも以上に脱線が長い(爆)。まあでも、先述したようにシンプルなお話。
山男のお父さんが、救助活動で亡くなったという母からの知らせ。息子、亨は東京の一流企業で株のトレーダーをしている。人の巨額の金を数字だけで移動させるような仕事に疲れていた彼は、亡き父の遺志を継ぎ、山小屋「菫小屋」(菫は母親の名前)を受け継ぐことを決意する。
そこで働いていた若い女性、高澤愛、そしていつもふらりと訪れて小屋を手伝っているという風来坊、ゴロさんと共に、山小屋の主としての人生がスタート。
過酷な自然環境の中で、自分の甘さ、無力さにさらされながら成長していく亨。一番のクライマックスは、山小屋で脳梗塞に倒れたゴロさんを、救助隊が到着する2時間を待っていたら助けられないと、背負って厳しい雪道、崖道を下山していくシークエンス。
松ケン自身が、役を演じている余裕なんてなかった、素だった、そのままでしかいられなかったと語るこのシーンが、本作のすべての価値観と言えるんじゃないかと思う。
ね?すんごいシンプルな話でしょ……。地元に帰る決意をするまでの、亨の暮らしている、というか働いている場所が、あまりにもザ・大都会の、人間同士の温かみから遠い職種、ザ・エリート、みたいな、あまりにも記号的で、そりゃま山の世界と対比させるには最高に両極で効果的だけど、あまりに極端に両極だから、それこそ陳腐な気がしちゃうんだよね。
後に菫小屋に、就職活動中の大学生が登場、その強気なおおめし君(池松君♪)は、えーっ!あの会社を辞めちゃったんですか!!僕の第一志望ですよ!と驚愕し、しかし彼も役員面接を残すまで進んでるってあたりが、それこそフツーの平凡な一般学生にとってはお、お前ら……とガックリきちゃうのが正直なところでさ。
松ケンの役柄をフツーフツーと言っちゃったけど、この点においては全然フツーじゃないよな……。
実は世の中、中小企業どころか小企業の方がほとんどを占めてるんだよ。数十人の社員で切り盛りしているような企業が、数としてはほとんどよ。まあ、巨大企業は社員数も莫大だから、そのパーセンテージも占めちゃうんだろうけれど……。
なんかね、しっくりとこないの。もしこの亨がごくごくフツーに顧客、取引先と日々、面と向かうような仕事ならば、つまり、ごくごくフツーにやりがいを見出していたならば、どうだったんだろう、って。いや、悩んだ末に山小屋を継ぐことを決意したとしても、あんな、上司の個室で挨拶するだけじゃなくて、同僚からも激励されていっただろう、って。
そしてね、山小屋を継ぐよ、と追悼登山みたいな感じで小屋を訪れた先で、母に言うじゃない。母は、どれだけ大変なことか判ってない、と怒り、亨もまた判ってるよ!と言い返し、結構殺伐とした雰囲気になる。
そこを救うのが、意地っ張りなところがソックリと笑い出す愛ちゃんによるんだけど(こーゆー台詞も、過去の映画で百万回見たように思う。いかにもだよねと思う(爆))、そんならどれだけ彼が大変な目にあい、打ちのめされるのかと思ったら、そうでもない(爆爆)。
いや、そうでもないなんてことはないけど……あのおおめし君の事故、ヘタしたら死んじゃってかもしれないし、役員面接までこぎつけていた就活をムダにしてしまったということもあったし、何より縁起を担いで頂上を目指していた彼を、止め切れなかったことを亨は悔いて、自分の甘さを痛感した訳で。
でもさ、おおめし君は彼らの忠告を聞いたフリしてこっそり出て行った訳だし、誰がどう見たって亨に非はないじゃんか。こーゆー逃げを用意するのは、このシークエンスの場合、逆効果というか、意味がないぐらい、だと思うんだけどなあ……。
なんか全然、豊川悦司のこと言ってないな、これ以上ないキーマンなのに(爆)。でも言ってしまえばキーマンだけに、彼が最も陳……いやいや、そのう、なんだ(汗)、型にはまったキャラ(ひねり出した(爆))のように思う。
彼自身が提案したという、ちょっと関西訛りのざっくばらんキャラは、雪山のシチュエイションもあいまって、あら懐かしい「Love Letter」を思い出したりし(なんかやたらに岩井俊二を思い出す作品なんだな(爆))、そう思うとやっぱりやっぱり、キャラキャラなんだな、と改めて思ったりする。
だって風来坊って、久しぶりに聞いた(爆爆)。まあ、いるんだろうけどさ……。それにこーゆー人がいるなら、フツー、女子的には彼の方に先にホレてると思う。正直、愛ちゃんが亨にホレる要素がピンとこない(爆)。
年恰好だけで、周りの大人たちが結構最初から決め打ちしている雰囲気を感じる……いやそれは、あのハズかしいラストに大人たちが(二人だって充分大人なんだけど、なんかやっぱりその辺は、判りやすく切り離されている感じなんだよね)ほら、やっぱりこの二人でしょ、ってね、あたたかく見守る感じがこれまた陳……いやいや(汗)。
それで言ったら、幼馴染で年齢も同級っぽい雰囲気の新井浩文だってこの場にはいるのに、彼は先に結婚して子供もいて、親から受け継いだ職にいち早く葛藤している、つまり判りやすく亨より人生の先輩で、だから“大人”として見守る側にいるんだよね。
うーん、なんつーか……。まあでも、松ケンと新井浩文がそういう間柄で、結構しょっちゅうツーショットで、人生や悩みを語り合うシーンが設けられているのには萌え萌えであった。
だって、青森男に弱いから、青森男二人のツーショット(萌萌)。この二人のツーショットはありそうでなかったように思う。まあ青森男同士でも、役者としても男としてもキャラとしても全然違うもんなあ、面白い!!
そういやー、亨の死んでしまった父親は、小林薫なんであった。途中、愛ちゃんがここにいる理由を示す回想場面でも登場する、もうけ役であり、何より重要な存在。
冒頭が亨が子供の頃の回想であり、子役にここまでやらすか!という過酷なシーンが既に用意されている。
この冒頭の時点ではサングラスをかけていることもあって、小林薫と気づかなかった。彼の人好きのするキャラが、この役どころだから切れ切れで、十二分に発揮されるというには至らなかったことも惜しいと思ったなあ。
それに、彼が死んでしまった事故で助けられた人が、「軽傷だったから、帰りました」と葬儀にも出なかったことに息子の亨は憤るんだけど、それは観客にとっても凄い引っかかりのあるエピソードなのに、そのことに対しては何の返しもないんだよね。
山小屋の仕事は人の命がかかっている、実際、劇中エピソードで豪雨に動けなくなった女の子を助けるシーンもあるし(ガイドブックは熟読してたのに、という彼女にみんなが噴き出すというわっかりやすいおまけつき)、おおめし君のエピソードは亨を打ちのめし、成長させる重要な場面。
でもその誰もが助けてくれた彼らに感謝し、あの引っかかりエピソードを思い起こさせることはないのだ……。
なんかね、ちょっと気になっちゃったのだ。父は助ける甲斐のない人のために命を落とし、亨はそのことに憤っていた筈なのに、彼が助けた人たちは皆、真摯に感謝してくれる、っていうのが。それじゃ亨の本当の成長、彼の中のわだかまりの解決にはならないんじゃないか、って。
物語がシンプルということ以上に、やっぱり自分の中で色々モヤモヤしていることがあったんだな、と、こう書き出してみると判っちゃったりする……。やっぱり二作目って、難しいと思う。こんなキャリアたっぷり名キャメラマンでも、やっぱり……。★★☆☆☆
いや、ヘタな訳じゃないのよ。本作は石井監督のワークショップから生まれたというんだから(まあそれこそが、本作が作られた経緯、ということなのだろうが)それなりに訓練は積んでいるんだろうし、演技経験もあるらしい子もちらほら。
でも、うーん、なんかツラい!子供らしい演技というのはかくも難しいものかっ。
いや別に、最後までずーっとツラかった訳ではない。なんとなくそのツラさにも慣れ(爆)、最後の演奏シーンでは、こーゆーのには単純にヨワいからさ、ふと涙腺がゆるくなったりもするのだが。
でもねえ、そもそも冒頭が、キツかったのよ。冒頭はこの子供たちが河原でやいやいやってるところ。まさに本作の主人公の子供たちだし、彼らの関係性を示すやり方としては、ツカミはオッケーといったところ、の、筈……芝居が成っていれば(爆)。
ああっ、子供たちだけで芝居を成立させるとゆーのは、かくも難しいものかっ。それを思えば今活躍している子役たちは確かに凄いんだなあ……。
大人たちが絡んでくると何とか見られるようになるのだが、この冒頭シーンは、彼らの頑張りが判るだけに、かなーりキツかった。
しかもやたらと強風だし。……風が収まるのを待つだけの余裕のない作品なのねと……。
だってやたらと強風、凄い気になる。こんな凄い風なら、子どもなら、この風自体に何らかのリアクションをとるに決まってる。風待ち出来ぬのなら、ちらと台本改変ぐらいしてほしいと思うのは、ゼータク??
で、そんなことばかり言っていても始まらないので進めていきますと……。
一応主人公は、タイトルロールにもなっている純一君。両親は共働きなのか、キッチンの上の母親の置手紙でおやつと夕食が示されるだけで姿を見せず、耳の遠いおじいちゃんと二人暮らしのような趣。
タイトルの意味合いは、いつも家の前を通る黒人さんとギャルの二人乗りの自転車。
ハロー!!と声をかけられ、内気な純一君は最初のうちは返せないのだが、友人、学校生活、様々成長していって、ハロー!と返せるようになる。
と、こうして書き起こしてみると、なるほど意味があるように思えるが、見てる時にはこのザ・ガイジン、ザ・ギャルがひどくわざとらしく感じてなんだかなあ、と思ってしまう。
本作には基本、そういう感覚を全般的に感じるんだよね。このおじいちゃんだって、「いずれ判る時が来る」と純一に結構いいことを言うんだけど、演じるのが我修院氏だからなのか(爆)、ただマンガチックだけにしか見えない(爆爆)。
実はね、子供たちに対する明確過ぎるキャラづけが、逆効果に見える気もしたんだよなあ……なんかいかにも、子供映画を作りました、という感じで。
ジャイアンをほうふつとさせるガキ大将、大人の世界にかぶれている子役、習い事ばかりたっぷりしてるメガネデブ、家庭内崩壊に心を痛めている一見そつなく見えるちょいヒネの子、アイドルの夢を追う紅一点のマドンナ、うー、うー、なんとまあ、いかにもな!
そんでもって、それぞれを主人公にしたエピソードを一つ一つ用意する周到さと、そして語り部である純一君が、内気から成長していくってのも、あまりにもいかにもな!!
本作は、子どもに映画を観てほしい、と小学生は無料で見られるんだという。いろいろなカルチャーがある現代だけど、お金のないことで仲間には入れないこともある。本作は無料、一緒に見て、盛り上がってほしい、と。
なるほどと思う。今の子供もきっと、そういうところはあると思う。家庭の事情、あるいは教育方針によって、小遣い事情は大人以上に深刻な筈だもの。
でもそれで、本作を観に行こうって思うかなあ、と思っちゃう。そりゃまあ、本作には巧みに現代の子供事情が組み込まれているけれども、大人が考える巧みさでしかないような気がする……。
本当に、子供たちが本作を観たいかなあ、観て、盛り上がれるかなあ。自分が子供の頃に、これを観たいと思うだろうか。
確かに過去にも子供映画の名作はあったし、子供が夢中になったものもあったと思う。でもそれって、こういうタイプじゃなかったと思う。
それがなぜかと言えば、子どもだって大人だって誰だって同じ。自分の現実を、判ってるよ、理解してあげてるよ、なあんて上から目線で言われたくないってこと!
しかもこのキャラづけの明確さは、所詮子供なんてそんなもんでしょ、という目線を感じなくもない。子供は、いや子供のみならず誰だって、もっと繊細で、いろんなことに悩んでるよ!!
いやまあ、最終的には、この撮影がどんな順序かは判らんが、ワザとらしいキャラ形成から脱出する形で子供たちは次々に繊細な泣き顔を見せ、おおっと思わせるのだが、でもでも、泣き演技で、ってのもズルい!そりゃジャイアンに泣かれたらぐっときちゃうじゃない!!
……うーむ、話の概要を語ろうと思うのに、どうしても元に戻ってしまう。
うーむうーむ、そもそも私自身が石井監督作品と、もともとあまり相性が良くない(爆)だから、今回も監督の名前を見て正直うっと思ったが、子供映画って時々とんでもない傑作が現れるし、なんたって満島ひかりだしと思って。そう!
満島ひかりだし、なのよ!!まあ結果的に彼女は若干、いやかなり、客寄せパンダだったような気もしなくもない(爆)。
ハスッパな教育実習生というのは、なるほどとも思うが、考え付きそうなキャラでもあり、実際、こーゆーマンガとかありそうだよな……と思う。ここでもまた、キャラに固執するあまりの、言ってしまえば安っぽさを感じてしまう。
今まで見てきた満島ひかりの中でハッキリ言って最低レベルだが、中盤、いろいろな問題をあぶりだし始めた子供たちに遭遇していく彼女は、ちょっとだけステキである。
母親の荒れた指にばんそうこうをプレゼントしたいと思って、無意識に万引きしてしまった倉本君の問題に遭遇した時、「よし、飲みに行こう!」とメンメンを誘い、イヤイヤと思ったら、駄菓子屋の店先で、子供たちには勿論ソフトドリンクだが、本当に自分はビール飲んでるあたりはちょっと好きだった。
ハスッパ恋愛事情を学校にまで持ち込んで、ヘタレ元カレとやり合うシーンは、こういうのを今の子供は見たがるだろ、という視線を感じなくもなかったが、実際見たがるのかもしれない……どうなんだろう……それこそ今の子供なら、もう一段階段を登ってるんじゃないの。
なんたって両親の不仲に悩んでいる倉本君みたいな子が……って、そういや、倉本君はそれに悩むあまり、この楽しすぎる現場にいなかったっけ!ううむ、なかなかうまく出来てるのか……。
こうして見てくると、つまりは倉本君が影の主人公さ。不仲の両親、ギャンブル狂いの夫に悩まされているお母さんは、愛しのちーちゃん!!
最近はお母さん役がめっきり増えた……えーっ、まだまだそんなところに収まってほしくなーい!と思うが、でも何やっても可愛いから許しちゃう(爆)。
アンナ先生からもプレゼントは気持ちだと言われて、仲間全員で倉本君のお母さんへのプレゼントを考え出す。それが結局は物語のメインになる。
冒頭エピソードで彼らと出会ったロックな兄ちゃんとの再会で、音楽をプレゼントしようってことになるんである。
習い事を沢山しているメガネデブ君がピアノが出来るってのはいいんだけど、あまりにもちょうどよくギターとベースができる子がいるってのは、あんまり出来過ぎてるんじゃないのお。
しかもジャイアンが、殴るのがリズミカルだからってドラムが出来るって、そ、そりゃないわ!!
まあ、ギターはいいよ。なんたってゲーノー界で仕事してる町田君なんだから。ギターぐらい出来そうよ。まあ、ムリムリ考えればね。
でもベースってのは……。ベースが弾きたくて、工作の時間にボール紙とビニールひもでベースを作った、っていうエピソードが冒頭に出てくるが、この時に既に違和感だったもんね。え?なんでベース??って。
ベースに憧れる、ベースを弾きたいと思う彼の欲求の説得力がなさすぎる。
ベースが弾ける理由付けとしての冒頭エピソードだとは思うけど、それならいっそ、お父さんがベーシストだとか、そこまでご都合主義な方がすっきりするよ。これじゃあ、バンドを結成するための理由付け、まさに理由付け、しかもそれが違和感しかないじゃん。
ワキエピソードでは、紅一点の田中さんがアイドル志望で路上で練習してるところに不良中学生にからまれたりとか、子役として活躍している町田君が憧れのモデルさんに恋しちゃって、取り巻きの男に子ども扱いされてショックを受けるとか、一応主人公の純一は、ずっと恋してるクラスメイトの、そそとした美少女、前田さんに借りたウサギの消しゴムを、ずっと返せない、てか返したくないんじゃないのかしら、そんなことでもんもん悩んでいたりとか、結構それなりの重さのものが用意されている。
でも結果的に、それなりを用意しすぎた気もしないでもない……。ライブ本番の日にオーディションを受けたCMの仕事が受かってしまった町田君が、泣きながら仲間に謝るシーンは確かにぐっとくるし、ここに居合わせたアンナ先生が、凄いじゃない。私もまだ学生、自分で稼いでないよ。と讃え、仲間たちにそう説得するのも素敵と思ったけれど、そりゃいかにもこれは現代的ではあるけれど、これを子供映画として、子どもが共感できる映画として、供出するのかあ、と思って……。
そりゃ現代的ではあるけど、全てをならして、平均的に考えれば、町田君のような存在は、やっぱり特殊だよ。大人の世界、仕事という概念、お金を稼ぐということ、を子供に知らしめたいのかもしれないけど、今ハヤリの子役という世界を用いて、しかも町田君はチャラ男だし、どこまで説得力があるのか。大体、練習シーンが全然切羽詰まってないからなあ……。
そう、こーゆーエピソードを感動的にするには、練習シーンがどれだけ真に迫っているかによるんである。
ロックな兄ちゃん、森岡龍との出会いで借りられることになったガレージは恵まれすぎなのに、集まれることにしか腐心してないもったいなさ。しかも集まれば不良中学生に襲撃されるし。
この不良中学生との何度かのやり取りは、そりゃああまりに体格も違うしそのたびにヒヤヒヤするし。
こんな善良な映画に悪役登場させて、彼等だって子どもなのにどう決着するの、そりゃ悪役だけど、悪役のままじゃ、この子供映画としてのスタンスとしてやばいんじゃないのと思ったら、ホントーにベタに改心させるんだからビックリした(爆)。
いや、ヤバいんじゃないのと思ったんだからそれでいいんだけど、か、簡単すぎる(爆爆)。これが子供映画としてのスタンスなら、中学生の彼らも子供、描く対象として公平であるべきなんじゃないの……。
これじゃそれこそ、大人の悪役がギャグで説得にあっさり陥落しちゃった、ギャグなぐらいに単純で純粋な人柄だった、ってことになっちゃうよ!
そりゃまあ、いくらワルでも結局は子供だから、根は純粋なんだとか、そーゆーことなのかもしれない。
彼らを説得することになる、失恋ばかりを繰り返している純一たちの担任ヘタレ教師が、だからこそ彼らに人生を説得できるのかもしれない。多少単純図式で、逆図式でもいいのかもしれない。いいのかもしれないけど……いいのか、なあ……。
担任役の森下氏は名わき役で、それこそシリアス系は回ってこないお人ではあるけれど、これはどうなのかなあ……。
純一たち子供たちが、大人と変わらない体格と態度の中学生たちに、決死の覚悟で立ち向かっていたのに、実際、小学生にとっての中学生って、それ位の威圧感があるってことは、誰もが思い返せば痛感することだからさあ。一体本作は、リアルにシリアスにしたいの、そうじゃないの??
仕事が入った町田君がギターを脱落してから、その時点でもう観客は、このガレージを貸してくれた兄ちゃんに頼めばいいじゃんと即座に思っているのに、当の彼らがそんな当然のことにギリギリまで気づかないってゆー、作劇のためだけの鈍感さにもイラッとくるし。
砂場の砂の行方とかいうエピソードとか、なんか教育テレビ、社会道徳の時間みたいな感じで、なんつーか……一つ筋の通ったカタルシスからいちいち邪魔される感じがするんだよね。
消しゴム借りたのが実は男の子で、女子チームにピンク色して混じってる坂本君、というオチも、現代的ではあるけど、現代的だからこそ、彼自身のアイデンティティを明確にするべきだと思う。
これじゃ本当に、ただのオチとしてのキャラ、純一君にパチリとウィンクして彼が倒れるだなんて、一番、いっちばん、やっちゃいけないことだと思うんだけどなあ……。
しかもロック兄ちゃんとアンナ先生がイイ感じになるキーワードが、「私、料理作りますよ。かぼちゃの煮つけが得意です!」い、いまどき!
いまだに女の決め手は手料理、しかもかぼちゃの煮つけかよ!!あー、やだやだ、日本は100年変わってねーわ、かぼちゃの煮つけぐらい、てめーが作れ!!★★☆☆☆