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「せ」


2015年鑑賞作品

青春群青色の夏
2015年 115分 日本 カラー
監督:田中佑和 脚本:田中佑和
撮影:福田陽平 音楽:34423
出演:遠藤耕介 金田侑生 上川雄介 中村唯 生沼勇 湯原彩香 睡蓮みどり 山田篤史 鈴木太一 寺内康太郎 白石晃士 高崎二郎 屋根三郎 川連廣明 小河貴資 原元太仁 松下恵子 松田祥一 網川凛 一ノ瀬ワタル 土谷恵一


2015/9/8/火 劇場(テアトル新宿/レイト)
園子温監督の推薦文がハクつけてると思ったら、この監督さんは園監督に師事しているお人なんだという。そ、それじゃ意味ない。しかも宣伝材料これだけだし。
しかしかの孤高の作家、園子温ですら、子飼いの人物に対しては甘くなるのか……などとついつい意地悪な言い方をしたくなる。

いや、ただ単に好き嫌いの問題さ。映画なんてなんだってそうさ。でも、初長編監督なら、「全員無名、完全無冠」なんぞをウリにせずに、ちょっとした役者を配するぐらいの気合を見せてほしかった気がする。
まず入り口が、めっちゃ身内映画で外から入りづらいったらない。いや、別にそんなこと判らずに足を運んだんだけど、もう客層からして完全にそうで、ひるみまくってしまった。
時々あるのよ、インディーズの限定公開で、行ってみたらパンパンの満員。そこここであいさつの嵐。うわー、これ全員身内だろ、っていう……。

それでも作品自体が勝負してくれてれば何の問題もないんだけど、「全員無名、完全無冠」って、自虐じゃなしにむしろ誇らしげに掲げてるってあたりが、正直イタく思えてしまう。
凄く囲われてる気がする。スタッフも役者も何もかもが、自分の気心の知れた仲間たちで作ってる、って、自主映画かよ!って。あ、でもまさにそうなのかな……。

色々とクサしまくりそうで怖いんだけど(爆)。まず、その長さにかなりへこたれる。上映後のやたら盛り上がりまくってるトークショーから逃げ出して劇場を飛び出してつい声に出ちゃった「……ながっ!」は、外にいた劇場スタッフさんに聞かれちゃったかもしれない。
身内映画の上に尺まで長いとは、自己愛映画と言われてもしょうがないではないか。しかも本作の内容自体が監督自身の体験をもとにして書かれたなんて言われたら……。

他人の青春時代を長々と見せられるほどキツいものはない。勿論これが、誰もが体験するような、普遍的なものへと昇華しているのならいいんだけど(と、解説にはいかにもそうなっているように書かれているんだけれど)、見せられてる感、満載だよね。
いや、映画なんて結局はそういうことだ。それをいかに映画マジックを駆使して、普遍的なものだと思わせられるかどうかが勝負なんじゃないの。
大体、盛り込むエピソードが多すぎる。「初恋、失恋、家出、進路、援助交際等のキーワードが散文詩的に散りばめられ」??いやいや、散文詩て(汗)。意味判らんよ、投げっぱなしなだけじゃないの??

うーむ、どうも口が悪くなってる。好き嫌いの範疇を超えてるかも(爆)。いや、劇場でチラシを見た時にはグッと来そうな気がしたのよ。
凄く、画がキレイだった。いや実際の作品を観てもそれは感じた。台湾の青春映画みたいだった。光が濡れたようににじんでいて、特に夜のシーンは夢のようだった。
昼のシーンも、夏休みというどこか白昼夢じみた雰囲気が良く出ていて、このバカ高校生たちのバカ騒ぎが、ちょっとしたおとぎ話に見えなくもなかった。

うるさいばかりの、この音を消せば(爆)。いやーもう、うるさいのよ。特にガングロ女子のゴロカノ(ゴローの彼女)。こんな役名なのは最後にオチがあるからなんだけど、そのオチは正直かなりできそこないな感(爆爆)。
今時ガングロかよと思ったが、監督の年齢から逆算して青春時代はガングロ女子だったんだろうか??彼女がバイトしているのが日焼けサロンだからなどとゆーのは、作劇というより理由づけにしか思えない。
しかもこの女子がうるさいったらない。ウンザリの半分は、彼女のほぼほぼ意味のない騒音に他ならない。それが青春だというんなら、もう私はお手上げだよ(爆)。

なんか良く判らなくなってきた。キャストの関係性をざざっと並べてみよう。主人公はなぜかおかっぱ頭の耕介。そこに転がり込んでくるのが小学校時代の同級生の真太郎。彼がひたすら片思いしているのがマキちゃん。このマキちゃんが最後まで登場しないのが、やたら露出しまくりの本作の中で逆にわざとらしく感じてなんだかカユい(……なんでも理由付けてクサしている気がする……)。
真太郎のマブダチがゴロー。その彼女のガングロ女子、ゴロカノ。ゴローの親父さんはカフェを突然日焼けサロンにリニューアル。「これからは黒だろ!でも今は白!」と言って自身は日焼けを良しとせぬ。

真太郎が「ドラマみたい」な現場に遭遇する、色白ギャルのハルカ。年上の恋人のところに両親が踏み込んで仲を引き裂かれ、その後彼女は街中でエンコウ……まではいかぬ、生脱ぎパンツを売っている。
ちなみに真太郎が転がり込める環境にあるのは、耕介の家は母子家庭で、母親は実家に帰っているから。姉は酒飲みで突然の居候もウェルカムOK。後に姉の恋人もさらりと絡んでくる。

真太郎に憧れているぬるい感じの男子、ヒロトはあまり意味ないキャラクターのような。こーゆーところで無駄に尺を伸ばしてる気がする。
未成年のくせに真太郎が入り浸っているさびれた居酒屋。マスターに将棋で勝てば、一生飲み放題だという貼り紙。常連客の男は一度も勝てない。
真太郎のツケを後に彼の親父さんが払うというエピソード。エラソーに入り浸って飲んでるくせに、無銭かよ……。

そもそも父子家庭である真太郎が、家出をした理由がイマイチ判然としない。親父さんは失業中らしいが、ハローワークに行く日を置手紙して出て行った真太郎との仲がそれほど悪いようには思われない。そして後に、失恋こそが家出の理由だったみたいに明かされると(多分。なんか眠くて……(爆))、マジで意味判んない!と思っちゃう。
しかもそんなこっちの気分を抑え込むように、諦めないうちは勝ちなんだよ!とか、やたらと熱く耕介に対してブチあげるもんだから、いやいやいや、こっちの疑問が解決してないんですけど……と思っちゃう。

耕介も事情もよく判んないんだよね。彼は真太郎やそれ以降ゾロゾロ入り込んでくる輩たちに、卒アルを物色されて勝手に「一番かわいい子」を初恋の相手だと決めつけられ、ワケ判んない勝負を挑まれてしかもズルで負けちゃって、その相手と連絡を取れとか言われてさ、そのたびに激昂しながらも、彼らのムチャぶりに従っちゃう。
一体耕介は何をよしとしているのか、さっぱりわかんない。百歩譲って、真太郎の剣幕に押されて、マキちゃんを忘れられるまでいていいよ、という理解を示すところはいいとしても、その後ぞろぞろ現れる真太郎の仲間たちに押されまくるのが、全然理解できない。

劇中の感じでは、連絡を取れとムチャぶりした相手が耕介の初恋の相手のようには思われなかったんだけど(勝手に決めつけたようにしか見えなかった)実際にそうだったの??だとしたら、かなりの説明不足だよ……。
しかも、その相手と会う約束をなぜドタキャンしたのか、これが本当に好きな相手だったっていう感触を観客側がきちんと得られたのなら、怖気づいたのかなと思えなくもなかったけど、それが全然、なかったからさあ。

そんで耕介行方不明事件になって無駄に騒ぎまくる訳。……なんかさ、大事な感情の部分を描き込み不足で、男同士の対決だとか、行方不明で探しまくるとか、そーゆー、判りやすいイベント的場面ばかりに力を注いでいる気がする。
だから、心が離れちゃう。騒がしく盛り上がる場面ばかりなんだよ。それが青春!みたいな。心が動かない。
それこそ、真太郎が恋するマキちゃんが現れないまま、彼の恋心を聞かされても、なかなか心は動かない。肝心な相手を出さないという戦略は、結構使われる手法だけれど、それはやはり技術がないと出来ないと思う。心を動かす技術がないと、出来ない。

そんで、七夕の飾りにつるされたマキちゃんのお願いごと「ゴローちゃんと云々(忘れた(爆)」に真太郎が動揺して、そのマキってのが実はゴロカノの名前だったというオチを示されると、マキちゃんを登場させたなかったこと、ゴロカノの名前を出さなかったことがそーゆーことだったのかと思って、ガックリしちゃう。
そもそもそんだけ好きな子の字も判んないのかよ。てか、不特定多数の人が吊るした短冊で、マキってだけでなんで特定出来るんだよ。ゴローだから?ゴローってのもありがちじゃん……。

エンコウ生パンツ女子のエピソードは、この仲間たちで固めた作劇の中ではかなり浮いた感じがある。そもそも真太郎とヒロトが原チャリ2ケツして遭遇する、女子の両親が怒鳴り込む場面は、真太郎が「ドラマみたい」とつぶやく時点で、もう作り手自身の自爆じゃんと思っちゃう。
観てる誰もがそう思うから、先に言っちゃった、ってイタすぎる。それがギャグになればいいけど、彼女のエピソードはムダにシリアス度があって作劇も、受け取るこっちも正直持て余し気味である。
そもそも真太郎がなぜ彼女に執着して、ソックリのスマホを作って入れ替えて渡してまでコミュニケーションをとり続けたのか、フツーに考えればこの子にちょいとホレちまった、という展開だろうと思われるが、最後までマキちゃん命の真太郎は微塵もそんな雰囲気を出さない。そのあたりはフツーの作劇に陥らないストイックなのかもしれんが、ならばなぜ彼女に執着し続けるのかが、判らんのだよ。

いやそれが、青い時代の青年のキモチなのかもしれんが、そんな風に優しく考えてあげられるよーな行間を彼からは感じられない。こういうところこそが、大事なんじゃないの。マキちゃん命なのに、ちょっとこの娘が気になる、みたいな。そういうつもりで作ってたんだとしたら、これは失敗、だよなあ……。
エンコウ、生パンツ、てな、現代の社会事情を入れ込んだぐらいにしか見えない。てか、やっぱりそれ自体古いアイテムだし。監督の青春時代のアイテムなんだよね、やっぱりさ。

サイトの解説では、あたたかく見守る大人たち、的な書き方してるけど、それも、全然そんな風には見えなかったなあ。特に日サロのオヤジなんて、ちょっとギャグかまして観客を笑かす目的にしか見えなかった。
先述したけど、カフェから日サロ、の設定が、ガングロ女子、そして息子もまたガングロ男子にする面白さだけのことにしか思えなかったし……。
そもそも、たまたま母親がいない間に転がり込む、ていう設定が、B級マンガのそれ程度で、ちょっとねえ、と思ったし、酒飲みの姉ちゃんの描写も、大人げなさすぎる(爆)。

一人も共感できるキャラがいないのがツライんだよ。私的にはやはり、女の子で一人でも共感出来たら良かったなと思ったんだけど、酒飲み姉ちゃんは、同じ酒飲みとしては推奨できないし、ガングロ女子は論外だし。
パンツ売りの少女は、どうやら仲を引き裂かれた男を本気で好きだったらしいんだけど、それ自体が観客にピンと来ず、赤ちゃんを産みたいと言われて困ってんだよネというこの男に真太郎たちがイカって戦いを挑み、逆にボコボコにされるという、なんかもうありがちな、全く役に立たない男の正義で、ホントウンザリしてしまう。

百歩譲ってこの子の気概を買うにしても、だったら最初から言ってもムダな男にわざわざ告げたりせずに、自分一人でカッコよく決断して、カッコよく産めよ、と思っちゃう。
この子のキャラを女から見れば、絶対にそうする。役立たずの青春男子に入り込むスキなんて与えないよ。甘いんだよなあ、こーゆーとこが、ザ・男子はさあ。

まず、基本として、魅力的な、チャーミングなキャラ、あるいは役者がいないとツラい。おかっぱ頭の主人公、耕介はその可能性は充分にあったけれど、主人公というよりは狂言回し的立ち位置で、その髪型も最終的に、今まで言わなかったけど、ヘンだぞ、と真太郎に言われるオチのためだけだったように思っちゃう。
つまりは真の主人公は真太郎だったと思われるのだけれど、この真太郎はちょっとねえ(爆)。いや、すんません、単なる好みの問題だろうけど(爆爆)、先述したように、押しつけがましく恋はなんたるかの主張(というか説教)してる時点でもうダメだし、芝居が暑苦しい(爆。いやこれは、脚本の問題だろうか……)。
そして、ワイシャツが微妙にワンサイズ大きいのはネライなのか……?この微妙なダサさは、決して真太郎のキャラには合わない気がするのだが……。なんか、とにかく、そういう部分がいちいち、ツメも甘いんだよう!!

タイトルは素敵だと思ったが、そのタイトルの感じは全くなかった。群青色はどの辺にあるの?そんな深味はどこにも感じられなかったが……。
そして尺の長さを一番感じたのは、彼が最後、ひたすら走ってゆく場面、ご丁寧にカットを変えて、そこまでするか、長いよ、長い!!なんかナルシスにしか見えない!!★☆☆☆☆


セッション/Whiplash
2014年 107分 アメリカ カラー
監督:デイミアン・チャゼル 脚本:デイミアン・チャゼル
撮影:シャロン・メール 音楽:ジャスティン・ハーウィッツ
出演:マイルズ・テラー/J・K・シモンズ/メリッサ・ブノワ/ポール・ライザー/オースティン・ストウェル/ネイト・ラング

2015/7/31/金 劇場(渋谷シネパレス)
もうすっかり外国映画はご無沙汰で、アカデミー賞の情報なんかもとんと入ってこないもんだから、当然ながらの全くのノーマーク。本作はピアノの先生にお勧めされての鑑賞。誰かからお勧めされるのが外国映画だったら、観るようにしているんである……そうでもしなきゃ、外国映画を観る機会がほんっとになくなるから。
音楽ネタだということで先生も生徒さんからのお勧めで観たらしいので、お勧めされた時はこれがアカデミー賞がらみとかは全然知らなかったし、思わなかった。先生の言う、「観た人たちは結構賛否両論というか……それぞれ感じ方が違うのが面白いから」どう思ったのか感想を聞かせてとゆーんである。
あらあら、それはどういうことかいなとますます興味を感じ、公開開始から大分たっていたが、ギリギリって感じでレイトにかかっていたのを見つけて滑り込んだ。

まさに狂熱といった107分があっという間に過ぎ去った。そして、そうか、そういことかと思った。いや、上手く言えないけれど……本作に対してカタルシスを感じるのか、否かというか。あるいはもっとクリアに、これを是とするか非とするか、というか。
本作は、音楽が楽しいものであるという、音楽を愛する大概の人が抱く甘い夢想を完璧に打ち砕いてくる。音楽の才能がある人は、偉大なミュージシャンや作曲家は、音楽を愛し楽しんでいるからその高みに上り詰めたんだと、どこかで思っている。
いや、映画を観終わった今でもそれを信じているし、信じたいと思う。ていうか、そんなことは常識中の常識で、その価値観が揺るがされるなんて思ってもみなかった、んである。

まあ、判り易い例でいえば、のだめである。あまりにも作品カラーが違いすぎるんで引き合いに出すのもアレだけれど(爆爆)、どんなに練習が厳しくて、競争が激しくても、その根底にある、音楽を楽しみ、愛する気持ちは共通認識としてすべての登場人物にあって、それを受け手も当然の共通認識として持っているからこそ、楽しめるし泣けるし感動する。
それが音楽というものが持つ当然の価値観だと、ずっと思ってきたのだ。そこがスポーツや、学業の分野と違うことなのだと。

でも考えてみれば、いわゆる芸能分野でそういったドロドロした足の引っ張り合いや競争社会が描かれることを考えると、音楽はまさに芸能の一部なんであって、そんなあまっちょろい価値観を持ってちゃ進めない世界なのかもしれないんである、たしかに。
でも私たち音楽を楽しむだけの側にいる凡人たちはどこかで、音楽というものが天から授けられる崇高な芸術で、だからこそそれを操る才能のある人たちは深い愛と楽しみに満ち溢れていると、そう、どこか思っていたのかもしれない。

物語は有名音楽学校に入ったばかりのドラマーのニーマンが、学内きってのバンドを指導する名物教官、フレッチャーに翻弄されるという流れである。
フレッチャーは名物教官というより鬼教官、いや、私の感触でいえば、悪魔教官である。いや、そう確信したのはラストのラストに至ってであった。そこに至るまでは、確信が持てなかった。

才能ある学生をピックアップし、育て上げるためにパワハラなんて言葉さえ吹き飛びそうな、差別用語を駆使した(まさに駆使したという感じ!!)罵詈雑言と、ビンタは当たり前、椅子さえ投げつける暴力行為で、これは恫喝だろうという指導方針でぶつかってくる。受ける生徒は打ち勝たんとするために、手が血だらけになり、ドラムまでもが血だらけになるまで叩き続ける。
観客である私はそれこそ、先述したような音楽に対する価値観を持っていたもんだからただただビックリして、受け入れがたくて、いやきっと、音楽に対する愛や情熱がこういう形で現れるんだ、きっとこの人は本当に音楽を愛していて、生徒を育て上げたいと思っているんだと思い込もうとするものの、そんな観客の内部葛藤が次々に打ち砕かれるすさまじさなんである。

まず、テンポに対する異常なまでの正確さへのこだわりである。ちなみにこの学校はジャズ系の音楽学校で、それこそクラシックのそれだったら感情や、いわゆるセンスがある程度左右される部分だと思われる。音楽学校といえばクラシックのイメージがあったから、まずこのテンポに対する異常なまでのこだわりに、意外性も含めて圧倒されてしまうんである。
チャーリー・パーカーやらの有名ミュージシャンの名前を挙げ、神業とも思える早いテンポとその正確さを求める。そう、だからこの時点では、ジャズの音楽学校というものへのイメージが膨らんでなかったこともあって、この教官を否とするのは、私自身の無知のせいなのかもしれないと思ったし、実際、この教官にスカウトされて邁進するニーマンの態度にも、それを感じたのだ。
ニーマンには私たちが抱く音楽への純粋な気持ちに通じるような、この教官に認められたいという純粋な向上心が確かにあったと思う。それがいつから傲慢さにとってかわったのか、あるいは最初から音楽など愛してなかったのか。

受け取り方が分かれるとすれば、このあたりなのかなあと思う。後から落ち着いて考えてみれば、フレッチャー教官はただただ悪魔なだけで、いやもうちょっと親切に解析してみれば、分裂気味の悪魔で(爆)、本当に音楽を愛している部分はほんのちょっと残してはいるものの、後は成功神話に取りつかれたただの悪魔なのだ。
いや、成功神話に取りつかれた、とするならば、それもまた親切な見方だろーか。ただ悪魔と考える方が、観ている側としてはスッキリする(爆爆)。ただ、甘いのかもしれないけれど、音楽を愛し楽しむ凡人としては、音楽をなしている人が、そんな人だとは思いたくないのだ。

劇中では生徒への理不尽なまでの指導法で自殺にまで追い込んだという咎で、フレッチャー教官は辞職に追い込まれる。ちなみにニーマンはその前に追い詰められまくって、退学の憂き目に遭っている。
失意の中、ニーマンがアルバイト生活を送っている中で、街中で目にしたジャズバーのライブ告知に目が留まる。サプライズゲストにフレッチャー教官の名前があるんである。

サプライズにされるほどの人物なのだということをここでさらりと示すと同時に、しっとり大人の空間で3ピースバンドの一人として、アプライトピアノを穏やかな表情でとても楽しげに軽やかに弾いている彼は、とてもあの悪魔教官と同一人物とは思えなかった。
それだけではなく、バンドを指導中、不慮の事故で亡くなったかつての教え子を悼んで、学生たちの前で涙を流したりさえするんだもの!ツンデレじゃないけど、そんな思いがけない姿に、ああやっぱりこの人は、音楽を愛する天から祝福された人なんだ、などとついつい思ってしまうのだが、そう思ってしまったことが是か非なのか、間違いだったのか否なのか、そこんところが、賛否の分かれるところなのだろうと思う。

判らない、もう判らなくなってしまう。個人的好みで言えば、私はこの教官が大嫌い、この教官に認められないことが才能がないことだと言われるんなら、それで結構!!と思っちゃう。いや、私はただ見ているだけの、音楽をただ平凡に愛する一人なだけだけどさ。
でもニーマンだって、言ってしまえばそれだけの人、だった筈じゃないの。なのにこの鬼教官にスカウトされたことで舞い上がってしまって、全てを失ってしまう。将来への野望も、恋人も。

いや、このニーマンに対しては、ちょっとズルいぐらいの、それもやむなし、みたいな設定が用意されているんだよね。まあ映画だから、登場人物のバックグラウンドは当然必要よね、と普段の私なら思うんだけど、本作に関してはちょっとズルいような気もしてしまったのだ。
物語の冒頭から、一人練習室で一心不乱にドラムを叩き込むニーマンは、その後、フレッチャーに声をかけられるシーンにサクッと連動することで、音楽を愛する気持ちというよりも有名になりたい、偉大なミュージシャンに肩を並べたいという野望タップリな若者に見える。

その後、家族たちとの食事会で、兄弟や友人たちの判り易い経歴……体育会系のMVPやらにニーマンは吼えまくる。所詮は第三部リーグで、プロになれる訳もないんだと。
ニーマンの気持ちは判る。文化芸術系というだけで、単純な頭の良さや単純な体育会系よりも下に見られる歯がゆさは、確かにある。文化芸術系は、ゲーノー関係の軽さと同等に見られて、スターにならなければ所詮はシュミでやってると思われがちなのだ。

考えてみれば、今までの文化芸術映画が一つ頭が抜けなかったのは、ここが原因だったんじゃないかと、今まで考えもしなかったことに思い至った。
これまた全く作品カラーが違うものを持ってきてアレだけれども(爆)、「スウィングガールズ」「書道ガールズ」、あるいは近作では「幕が上がる」がもう一つ突き抜けなかったのは、どこかにそんな、他分野、特に体育会系に対するコンプレックスがあったからなんじゃないのかなあと。本質が全然違うのに、私たちだって体育会系と同じだけの努力や苦労をしているんだと、必死に訴えかけて、受け入れられもしない痛ましさがあった。
そして、体育会系から文化芸術系にシフトしてきた人たちに、さすが鍛えられたメンタルをお持ちとか言われることに、文化系女子である私はどうにも歯がゆい思いを抱いてきた訳だ。それってつまり全否定じゃないのよ、と。

ちょっと、個人的な思いでかなり脱線したが(爆)、そんな、いろんな思いがうずまいちゃうのよ。
ニーマンがフレッチャーに指導されたその内容は、体育会系、の中でも、一番ダメな部分、心理的操作、というか、心理的ダメージを植え付けるやり方だった。差別的な罵詈雑言はもとより(これは様々なバリエーションがあって唖然とするぐらい豊富なのだが、胸が悪くなる言葉ばっかりなので、列記する気になれない……)、実際はニーマンを買っているのにわざわざ他の学生を連れてきてほめあげるといった、ルール違反の心理戦もやってのける。
その学生があんまり可哀想すぎる……とゆーか、そういうあれこれで、自殺する学生が出たんだろう、表面に出た事件だけでは済まないに決まっている、この悪魔教官の元では!!

あらゆるコンテストで優勝するし、学内でも一目置かれている様が歴然のフレッチャー教官、生徒たちも下っ端のバンドで活動するより、フレッチャー監督に見いだされたいと願ってる。
冒頭のニーマンだってその一人なことは明らかだった。練習室で一人、必死にドラムを叩き続けて、フレッチャーがドアを開けて入ってきた時、驚きとは違う頬の紅潮が確かにあった。

小さい頃の写真が出てくる。父親に褒められていた時の写真。ドラムが好きで、のめり込んだ。その頃は確かに、純粋な音楽への情熱であった筈。
しかしジワリと示される、天才筋ではないという環境へのコンプレックス。フレッチャーはニーマンに、両親の職業を聞く。音楽をやっていたのかという切り込み方で。悪魔教官は表情も変わらないけれど、あの時ニーマンに与えた印象は、自分は血統からは外れているというコンプレックスではなかったのか。

いつも父親と一緒に行く映画館の売り子である女子大学生に好意を持っていて、勇気を出して声をかけてデートまでこぎつけるのに、フレッチャーに見いだされ、いや、見いだされというか、心理戦に落とし込まれて、恋人なんて持ってる場合じゃないと思い込んだニーマンは、彼女に冷たく別れを告げる。
後に、何もかも失ったニーマンが、しかし思いがけず再会したフレッチャーから再起のチャンスを与えられ、彼女のことを思い出し電話を掛けるも、当然のごとくカレシがいることが判明してケチョンとなる描写は、ちょっと判り易すぎるかなあ、と思う。
恋愛が、てゆーか女子がこういう使われ方をするのは、ちょっと好きじゃないと思っちゃう。だってつまりは女子が蚊帳の外、なんだもの。この音楽学校の中でも女子はほとんどいない。いても、「君は美人なだけでメインなのか」とかフレッチャーに言われる場面のみで、まあそれが、今の音楽業界、いまだにの現状を示しているのかもしれないけど……。

ひとつ、飛ばせないエピソードがある。ニーマンが退学に追い込まれた大きなエピソード。それまでも、恋人に傲慢な態度で別れを告げるまでに洗脳されていたニーマンが、主奏者の座を奪われることを恐れて起こす大事件。
コンテスト会場に向かうバスが事故って、レンタカーで向かうもギリギリで、しかもスティックを忘れてしまう。
フレッチャーから非情にダメをくらうも食い下がり、車まで戻って向かう途中に案の定のクラッシュ!横転した車の下から這い出て、血だらけでステージに這い上がり、しかし当然のごとくのボロボロ。

こんな状態でも認められるためにステージに立とうとするニーマンにも唖然としたが、それを止めないフレッチャーにも唖然とし、そんなニーマンに冷たい視線を送るフレッチャーに更に唖然とする。
そしてこの印象は、最後まで変わることはないんである。フレッチャーにつかみかかって殺してやると叫んで、全てをぶち壊してしまうニーマン。ここですべてが終わったかと思っていたのに……。

伝説になりそうなラストの“セッション”シーン、これが邦題のゆえんだろうけれど、こーゆー安易な邦題の付け方で平凡化させ、私みたいな偏向な観客を遠ざけるのだ……というあてこすりは置いといて(爆)。
でもヤハリ、これを是か非かとするのには悩んでしまう。フレッチャーが新たに職を得たバンドのドラムを担ってほしいとニーマンを誘って、のこのこ現れた彼は、全くのオリジナル新曲が唐突に始まったことに動揺を隠せない。フレッチャーはにやりと、「(パワハラを)密告したのはお前だな」と耳打ちし、平然と指揮を続けるんである。
この瞬間、今まで迷っていたフレッチャーへの判断がハッキリと“悪魔”と確信し、演じるJ・K・シモンズのシワシワフェイスと妙に細マッチョな身体が、悪魔にしか見えない(爆爆)。

涙を流していったんは袖へと引き上げていったニーマンが、父親に温かく抱擁された後、決意を持ってステージに戻り、自らのドラミングでバンドを見事に引っ張りまくって演奏を率いる。
怒り、罵倒し、ナアナアの指揮しか出来ない教官までをもその熱いセッションに巻き込む最後は、確かに圧巻、なのだが……。
いったいこの教官をどう位置付けていいのか!ああ、その悩みだけで、ただただ悩みまくってしまう!!音楽という甘美な響きの大好きな芸術は、こんな毒をはらんでいたのか、結局は人間が作り出したものであり、毒しかないものなのか、天から降ってくる美しき芸術なんて、ないのか!!

でも、悔しいけど、悔しいけど!!フレッチャーが指揮するジャズバンドの演奏はカッコ良すぎる。それを見る(聴く)だけでも、価値があると思っちゃう。
その演奏の正確無比なカッコ良さ……それは正確無比という言葉では上手く説明しきれない、幾何学的な情熱といった、もうとにかくカッコ良さにはシビレまくり、それを私たち音楽ファンが享受するためにはこんな裏事情が隠されているのかと思ってしまうと……それこそ洗脳なのかもしれんが……たまらなくなるのだ。★★★★☆


先生と迷い猫
2015年 107分 日本 カラー
監督:深川栄洋 脚本:小林弘利
撮影:月永雄太 音楽:平井真美子
出演:イッセー尾形 染谷将太 北乃きい ピエール瀧 嶋田久作 佐々木すみ江 カンニング竹山 久保田紗友 もたいまさこ 岸本加世子

2015/10/13/火 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
猫大好き、イッセー尾形大好きとくれば、これは観ない訳にはいかないっ。
最近はちょっと“合格点な映画”ばかりを、しかも量産するイメージだった深川監督が、イッセー氏を主演に迎える、ということだけで心躍った。それだけで普通の映画に収まらない感じがして、本当にワクワクしたし、猫!とくれば!!
まあ実際の印象としては、やはりちょっと合格点な映画かな……という感はしなくもなかったけれど、でも猫とイッセー氏が主演、というだけで私は満足なのであった。

猫とイッセー氏が主演、そう、猫も主演、だよな、これは。なんたってタイトルロールを二人(?)が担ってるんだもの。
そしてこの猫はいわゆる地域猫。今は野良猫と言わずに地域猫と言う時代。でも劇中での彼女は、野良猫扱いだった。
彼女?だよな、多分。みんな女の子の名前つけてたし。そう、みんな、である。彼女はただ一つの名前は持たない。ビューティフルネームの歌詞には当たらない、オンリーワンではないんである。ミィ、ソラ、タマコ、ちひろ、でもそう呼ぶ誰もにとっての、オンリーワンなんである。
この不思議。地域猫、という言葉が出てきたのは嬉しかったが、野良猫という語感の自由な魅力はやはり捨てがたいと思う。
でもでも、野良猫、という言葉を吐き捨てるように、唾棄するように言う人はいるのだ。だから、だから……。

あぁ、なんだか、いろんな思いが湧き上がって、何から話していいか、判らない。
私はマンションの一室で猫と住んでいる。決して、飼っているのではない、住んでいるんである。つまり彼女は外へは出られない。ミィ(とりあえず、この名前に統一)のような、自由と様々な人との触れ合いは得られないんである。
しかも、彼女を迎え入れた時にはマンション側に何の問題もなかったのに、突然理事会決定で、このマンションはもとからペット禁止!!メーワクなんですヨ!とか言いだして、息をひそめて暮らすようになってしまったんである。

コンパニオンアニマルの時代なのに、心の支えにしている年寄りが多いマンションなのに、と憤るものの、禁を犯している側は強く出られない。ペットのいる所帯は相当数いる筈なのに、みなひっそりと声を潜めて暮らしている。
なんかそれがさ、それがさ!!一方ではペットブームとか言われているもう一方の哀しき闇のようで、ペットブームなんてものじゃなくて、本当に心から愛して一緒に暮らしているのにさあと思って……。

ああ、そんなことも、興味のない人にとっては戯言なのだろう。そもそも、こーゆー映画は、興味のない人は足も運ばないのかもしれない、などとも思う。あるいはそれこそ、犬派だ、とか言うような人はさ!
……なんかさあ、猫好きは犬好きに比して、あまり人間的に持ち上げられない気がするのは、ヒクツな考え方なのだろーか。でもだからこそ、イッセー氏が似合うんだよね。ヘンクツな校長先生のそばに、すり寄ることもなく泰然とゴロゴロしている猫、というのがさ。

それを言ったら、彼の奥さん役のもたいさんもそうだ。本作ではもたいさんにしては珍しく(爆)おだやかな猫好きの奥さんとしての、もう死んでしまったその人としての、穏やかな回想しか出てこないけれど、それがなんか、もったいない!!もたいさんのどこかブキミな存在感こそが、猫にとっても似合っているのにさ!!
でもホント、もたいさんといえば猫よね、と思うのは、様々な作品で彼女と猫のコラボが描かれたことはあるけれど、やはり決め手になったのは「トイレット」かなぁと思う。
孤高、という点で、彼女と猫はとても似ている。それはイッセー氏もそうだと思う。それは伴侶がいるとかいないとか、そういう部分ではなくて、存在としての孤高、なんである。

そもそも犬じゃ地域犬も、今じゃ野良犬も存在しえないし、猫というのはそういう意味で本当に、稀なる存在だと思う。
本作はその野良猫、地域猫、の違い、というか、共生していくこと、という現代の問題を、それこそ“合格点の映画”として盛り込んでいく。そこが、少々優等生的というか、つまらないかなぁ、とついつい思ってしまう部分でもある。

“野良猫”にエサをやる身勝手な人がいます、即刻やめてください、みたいなチラシに傷つく女の子や、“野良猫”を無差別に段ボールに入れて川にぶちこんで殺しちゃうニュースや、そしていなくなったミィを心配して先生がたどり着いた先が保健所で、そこには近々殺処分されるであろう猫たちが不安げに鳴き、あるいは何も判らずにまったりとして、とにかくゲージの中にぎっしりといる。
それは、地域猫ではない、“野良猫”だから、通報されたり捕獲されたり、つまり住民たちがメーワクだからという視点で、“駆除”された猫たちなのだ。
まるでゴキブリみたいに……などといったら、ゴキブリならいいのか、とか、その人たちは言うのだろうか、まさか……。

……どうも私情が挟まってしまう。修正修正。これはイッセー氏と猫がとてもチャーミングな映画なのだから!
概要、といってもここまでの感じでなんとなく判っちゃったような(爆)。イッセー氏が演じるのは校長先生と呼ばれる、つまりその役職でキャリアを終えて、今は暇つぶしに翻訳のアルバイトをしているヘンクツ老人。
老人、だなんて、イッセー氏に対して言うだなんて(汗)。でもいつのまにやらすっかり白髪になったイッセー氏にひえっと思い、でもそれがまた、なんともチャーミングなのであった。

ふんぞりかえって、というか背筋を伸ばし過ぎてそり返って道を歩いていく、ヘンクツ老人がなんともイイのよー。こういうキャラものを彼に解釈させて演じると、本当にピッタリなんだもん。
それがね、リアルなイヤミにはならないのよ。それは勿論、深川監督自身の持つあったか作風も関係してはいると思うけど、やはりそこは、絶妙なキャラクターとリアルさの距離の取り方だと思う。
一人芝居で演じるような、コミカルさを貫徹するんじゃなくて、時々ふっと笑ってしまうようなおかしみがありながら、だからこそ真摯な本音に触れるとふと泣きそうになってしまう純粋さ。これはまさに、イッセー氏のチャーミングさにおいてこそ、得られるものなのよね!!

彼が一人暮らししている一軒家に訪ねてくるのが、三毛猫のミィなんである。複雑な模様を持つ三毛猫だから、ダブルキャストにするとすぐにバレるわよ!とイジワルな気持ちでずーーーっとその模様を追っていたが、見事に一貫していた、ことは、オフィシャルサイトでも確認した。
凄い!!しかもあまちゃんで、夏ばっぱ(宮本信子)と住んでいた猫だとは!!あの、お腹の大きかった三毛猫ちゃんでしょ!うわ!!

2010年生まれだと言うから、それなりにオバサンになっているんであろう、このミィは、恐るべき堂々たる演技を見せてくれる。彼女になんらかの女優賞をあげたいぐらいである。
校長先生は、写真が趣味。役所のワカモン、ここんとこ出まくりの染谷君が、町の歴史として重要だとデータの取り込みにやってくる。
彼は後に、ボケ気味の祖母を抱える、しかも猫アレルギーというキャラ付けをされ、おばあちゃんが徘徊した先が猫だらけの車修理工場で、迎えに行った彼が悪態付きまくりなのを、そこの経営者の嶋田久作がおっとろしい圧をかけておばあちゃんをかばう、という……。ほら、こーゆーとこが、“合格点の映画”“優等生的”だということなのよ……。しかもご丁寧にも彼は再登場し、地域猫の何たるかをご教授したりするんだもんさ……。

ドキュメンタリーでなら、確かにこういう要素を当然盛り込んだ映画は存在するから、これを有名なキャストを配した商業映画できちんと盛り込んで描写することは、意味のあることなのかもしれない。
猫好きにとっては当然の常識でも、ニュースで散々やってるじゃんと思っても、知らない人は当然、知らないのだから。でも、猫好きじゃなければやっぱりこの映画は見ないと思うんだけど……。

基本的に毒のあるもたいさんですら、おだやかイイ人の回想で収まってしまった中で、そしてこの合格点、優等生スタイルの映画の中で、ちょっとした闇を感じた人物は一人、いた。
ランドセルを背負った小学生の男の子。ぱっと見は、なんてことないイメージ。でも彼が校長先生に発見されたのは、じぃっと何かを見つめていたから。その先には「猫が死んでる」血を流して動かなくなっている白猫がいた。

実は、この白猫が本当に校長先生が言うように「出血がひどかったけど、生きているよ」というのが本当だったのか、確かに獣医に持ち込んだけど、白猫を抱えた先生に黙ってついてくるこの子が、何を考えているのか……。
つまりは猫を心配しているようには見えなかったのがブキミだったし、抱え上げた白猫はピクリとも動かなかったからさ……。
その後もずーっと、この白猫の再登場を待っていたんだけれど、結局はそのままだった。かなり、気になったんだよなあ。

だって、ミィがいなくなって、校長先生はじめ、町の人たちがみんなして協力して探し出して、その先にこの子が現れるんだもの。たった一人で、神社の境内で遊んでいて、ミィを探してたどり着いた先生に発見される。
その前に、観客側にだけ示される、この子の一人遊び、偶然拾ったのか、隠していたのか、さび付いたカッターナイフをもてあそんでいる様子が描かれるのだ。
これはどういうことなんだろう、彼がやったのか、それとも犯人が捨てて行ったのを彼が見つけたのか……後者はあまりに親切すぎる説のように感じ、だから本当にゾッとしたけれど、だからといって、この闇を抱える小学生男子を殊更に掘り下げることはしなかった。

ただ、校長先生がいつも道行く時に挨拶をしているシスターの元、つまり彼は施設の子供、家族がいない子供ということなんだろう……そこに、送り届ける描写で印象を与えた。
それもまた、どこか、現代社会を刻印する、という感じに見えて、ただ単にイッセー氏と猫を見たかっただけのこちとらとしては、少々の鼻白み感はあったけれども……。

いや、言い訳をさせてもらうと、さ。いわゆるフツーの家庭環境にないから、道を踏み外す、とでも言いたげなこの描写に、それって逆に差別じゃないの、ちょっと古臭い考え方じゃないの、と思ったから……。
むしろ、一見恵まれた家庭環境にある子の方が道を踏み外す、あぁ、でも、それこそ凡百の描写なのか、ある意味この、ふた昔前ぐらいの少女漫画的な、それこそ孤児院、みたいな??描写の方が新鮮なのだろうか……いやいや!
ちょっとね、この猫殺しシークエンスは投げっぱなしで終わってしまった感がある。いや、基本的にほのぼの感の漂う本作の中で、ひとつ闇のギャップを放り込むという点でキーポイントだったのかもしれないけど、ナゾの部分が残されたままだったから、ギャップの違和感のまま終わっちゃったかなあ。

つーか、旬な役者がぞろぞろ出てるのよ!旬すぎて、逆に新鮮味がないのが残念なぐらい??
校長先生の写真のデータを取りに来る役所の職員が染谷君。シャカシャカ音が漏れるイヤホンってのは、20年ぐらい前のアイテムじゃないのと思って逆に古い(爆)。
かすれ声が清純派をジャマするところが素敵な北乃きい嬢は、どうやら大学を休学したままらしい、クリーニング屋の娘。らしい、というのは、校長先生の圧に負ける形で勝手に告白したことなのだが、それがのちに特に生かされることがなかったのは、もったいなかったかなあ。
彼女がたむろしている雑貨店の店主、ピエール瀧は、それこそ旬な役者な配分の印象。いかにも人当たりい感じなのに、迷い猫のポスターを貼りに来た校長先生には突然に冷たい反応(爆)。こんな具合にところどころ、作劇のためのムリを感じたりもするが……。

作劇のためのムリは、バス停でちひろ(つまり、ミィの別名)を可愛がっていた女子高生が最も、かなあ。
命を救ってもらった、死のうと思って道路に飛び込もうとしたら足元にまとわりついてくれた、というのは、さすがにアレだと思う。まず、死のうと思って、の手法の選択が、それまで悩んでた風を出す割には発作的すぎてムリがあるし、そんなピリピリ感を出してる相手に、足元にまとわりつくかぁ?と思う。
まとわりつく、という描写、てことは、リラックスして甘えている、ってことでしょ。死のうとしている人間に?突然??あ、ありえない。このシークエンスは最も、ウソくさかった、かなあ。ウレ線のティーン女優さんを売り出す理由だったりして……。

探し回る。とにかく探し回る。その間に、校長先生のいろんな人となりが垣間見える。
きぃちゃん演じる卒業生に送った色紙の、「愛感同一」の意味が、アイキャンドゥイット、だと校長先生であるイッセー氏自身がぶっきらぼうに、照れくさそうに投げつける場面はサイコーだった。こーゆーところがもっともっと見たいんだよ。

翻訳を依頼された編集者に、暇つぶしを提供しただけだと言われて、そんなことは判ってる、それを君が忘れてないか確認しただけだ、と、きちんと椅子に座って電話をかけるシーン、相手から無情に電話を切られる段まで、切なさとかわいらしさと、そして……やっぱり切なさで、胸がいっぱいになった。
それはきっと、もたいさん演じる亡き妻がいたら、絶妙にツッコんでくれたに違いない。そう思うと……生きてる設定の、毒のあるもたいさんが見たかった。それを演出する深川作品として、見たかったよ!★★★☆☆


先輩と彼女
2015年 103分 日本 カラー
監督:池田千尋 脚本:和田清人
撮影:音楽:茂野雅道
出演:志尊淳 芳根京子 小島梨里杏 戸塚純貴 水谷果穂 渡辺真起子

2015/10/19/月 劇場(渋谷TOEIA)
うぅむ、どうしてこの映画を観てしまったのかという思いがついついひた走る(爆)。「東南角部屋二階の女」の池田監督の新作ということが一応足を運んだ理由だったが、彼女はあの作品以来、全く目にした覚えがなく……と思ったら「夕闇ダリア」があった。でもあの時も、あ、そうなんだぁ……ぐらいな記憶が。
つまり私にとってはあまり得意でない監督さんのイメージだったのだが、「東南……」の玄人評価が高かったもんだからついつい(爆)。イヤね、私(爆爆)。
どこか文化芸術の香りがするような記憶がなんとなくしていたが、本作はメッチャ王道の、こんな王道が今時あるのかと疑いたくなるような少女漫画片思い系ラブストーリー。今一つ名前を刻まぬままここまで来た文化芸術系の監督さんが手を出しそうにないと思えたのが、逆に興味をそそられたのかもしれない。

劇場は、めちゃくちゃJKな雰囲気でいっぱい。観終わって出てきた女子高生(女子中学生かもしれない)は、「センパイ、センパイヤバい」とハートマークが100個ぐらいつきそうな勢いでため息をつき、それを聞いた、これから見んと待機中の女の子たちは、ヤバい、センパイヤバイんだって、と興奮MAXなんであった。
あぁ、こんな風に素直にラブなティーンエイジャーだったことが、私にも確かにあった筈だが、しかしこーゆーストーリに素直に没入できていたかはさだかではない(汗)。

女子高生グループと一緒に来たのか男子高校生たちもわらわらと現れ、なんだかなぁ、みたいな顔で小突き合っていたのが可笑しかった。実際、観終わった後も、これを男子が観たらどう思うのかなぁ、という興味で頭が膨れ上がっていたから。
少女漫画は正しく女子向けではあるけれど、やはり正しく優れたエンタテインメントは、その垣根をちゃんと超えてくれると、私は思っているから、だからうぅむ、と思ってしまったんである。

少女フレンド系は、ティーンエイジャーの頃も接する機会がなかったから、そもそもの世界観が慣れていないのかもしれない。一口に少女漫画と言っても、そしてその恋の世界に一定の傾向はあるにしても、やはり出版社なり、雑誌なりの違いはあると思う。これ、ホントに現代の少女漫画なの??と思うぐらいの、誤解を恐れずに言ってしまえば内容のなさ(爆)。
この原作は2巻だというんだから、恐らく映画化に際してそれほど削られた部分はないと思われる。このことは映画と原作の関係においてとても大きくて、結構壮大なストーリーになりがちなコミックスの世界を映画化すると、原作ファンからクレームバリバリになるのは、主にそのあたりだからさ。

ざっと情報を眺めてみても、かなり忠実に描かれている感。えさをやるのがスズメから猫になったぐらいなんじゃないだろーか。猫の方が画的にも映像的にも、絶対にイイに違いない!!
しかし後半、猫がいなくなったことを軽く心配したままそのまま姿を消してしまったことには、かなりな憤りを感じたけれども。猫好きを敵に回したな、オーイ!!

しかし、2巻かぁ。久々に聞いたな、そういうの。昔はそんな風にコンパクトにまとまっている漫画が多かったのに。
ことに少女漫画、中学なり高校なり、限られた時間を描く、しかもラブストーリーとして描くものは、無駄に長々とせずに、こうしてギュッと詰まったものの方が、ことに映画化に際しては向いていると常々思っている。昔から思っているのは人気を獲得した連載物よりも、優れた読み切り作品を発掘した方が、絶対に映画向きだと思うんだけれども!!
……とゆーのは個人的、かつては私も少女漫画ファンだった向きとして思うことであり……。

本作はそういう意味では、原作情報をチェックしてみても、それほどはしょり感はなかったんじゃないかと思われる。
しかし、公式サイトのテキトーさにはアゼンとする。映画紹介が「あらすじ」と「キャラクター相関図」しかなく、キャストごとの紹介さえないというのが信じられない!!
あらすじて!!イントロダクションに毛が生えたようなもんじゃん!!……なんか、製作側の愛が感じられないんだよなあ。そういうのって、結局は見る側に伝わっちゃうものだよ……。

で、まぁ、素直な感想から言うと、正直にこっぱずかしい、のは恐らく、というか確実に年のせいであり(爆)、でも一番大きいのは何より、主人公の二人が私的にはイマイチ魅力的ではなかったからだと思われる……。
特にヒロイン、りかのバカっぽさにはかなりヘキエキ。高校に入っての一番の目標は甘い恋、と言い放った時点でもうダメだと思ったが、いやいや、これはまさに恋がテーマなのだからと思いなおすものの、まさにキャピキャピという音がしそうなブリブリぶりに腰が引けまくる。

うーむ、うーむ、うーーーーむ、この子に読者の女の子たちは本気で共感するんだろうか??いや……やはりここがコミックス原作を実際の女の子が演じる時の難しさなのだろう。
顔の半分ぐらいの大きな瞳で先輩に恋する女の子は、キャピキャピ、ブリブリしてないと逆に不自然なのだ。しかしこれを実写にすると、そのまま実写にしちゃうと、これほどツラいとは……。

いや、まさか作り手側もそんなにバカじゃないさ。りかがこんなにバカっぽいのは、後に「顔が変わったね。大人の顔になった」と別の先輩のお母さんから言われる場面、つまり苦しい恋をすることで成長した彼女との対比を見せるためだったのかもしれない。
実際、先輩に本格的に失恋した先のりかはちょっと別人のように落ち着いた、魅力的な女の子になっていくから、まさにそうだったのだろうと思う。ここに至るまでに劇場を出なくて良かったと思った(爆)。正直、ここまでがツラかったなあ……。

それは、りかの親友である木綿子が、理知的な魅力ある女の子であるがゆえに、余計に際立っちゃうことも大きかった。大体ヒロインとその親友はあらゆる対照的な組み合わせになるけれども、木綿子の方がよっぽど素敵な女の子なんだもん(爆)。
彼女が選ぶてっちゃん先輩(とゆーか、彼の方からの猛烈アプローチだが)の方が、その明るい性格と、木綿子の評価する「周りが見えている」気遣いとで、よっぽど素敵な男の子なんだもん。

えーと、なんかいろいろ脱線していますが。軽く整理すると、りかが高校に入学、甘い恋をしたいとワクワクしながら部員勧誘の波を歩いていると、地味に座っているだけの男子二人に捕まっちゃう。
その名も、「現代文化調査研究部」活動内容はほぼダベリに等しい。今日は寿司部、明日はタマ部。その名の通り、てっちゃん先輩の握る寿司をみんなで食べてダベり、タマという名の猫に餌をやってダベる。オセロをやったり、クロスワードパズルをやったり。

おいおいおいーー、と思う。これで部費が出るのかと、マジに突っ込んじゃう。出ないだろ、この部活に部費は!!そんなマジメに考えちゃいけないのか?いやいや、そこは高校生活の部活というファクターに対しては凄く大事な部分だろ!!
実際、木綿子はこの部活は兼部でメインはバレー部に所属し、それは後の進学を考えてのことだというし、みの先輩も受験生だからと日々参考書を手にしている。
つまり進学校。進学校でこんなどーでもいい部活に入ってたら、今の時代、学力だけじゃ通らないんだからさ……。まさに、皆で遊ぶためだけの部活のように思えちゃう。それとも恋をするためだけの??

原作ではそのあたりはどういう感じに描かれていたのだろうか……。結果的にはみの先輩は見事受験を突破するし、みの先輩あこがれの葵先輩は、その大学の法学部に在籍していて、進路相談会に招聘されるほどの才媛。
つまりこの学校は進学校、なんでしょ??うーむうーむ、少女漫画相手にこんなツッコミは良くないのかもしれないが、でもそういうことを言ったら逆に公平じゃない気がするし!!

ヒロインのりかだけがバカっぽく見えるもんだから、このあたりのレベルバランスがイマイチ判んないんだよね。
つーか、一人美女で才媛、な葵先輩の存在はズルい、というかかなり好きになれないタイプ。りかのバカっぽさもイヤだが、本気でバカなのはコイツの方だと思う。なんかどんどん口が悪くなってるな、私(爆)。
この、実体がないに等しい部活に、まるでただ一人のOGのように皆の記憶に残っている、記憶だけじゃなくお手製のクッションに、「先輩伝説」と呼ばれる定期テストの模範解答まで残しているという、しかも料理も上手いと言われる完璧美女の存在。つまりは、ミューズ、なんである。

新入部員として入ってきたりかと木綿子、てゆーかりかは、いたたまれない思いになる。この時ばかりはりかに共感してしまう。だってこの部活自体理解できないのに、この部活でラクに遊んで法学部に入っちゃうような、しかも美人で裁縫も料理も出来て、なんて女に共感できるか!!
いや……別にひがんでる訳じゃない、多分(爆)。でもそもそも、美人で才女という以前に、クッション作って料理も上手くて、という描写を現代でもするのか……と落胆しちゃうのよ。いや、変わらないのだ、それこそ女の子たちの意識も案外変わらないのだ。手芸に料理が出来るのが、恋の魔法だと思ってるのか!!

……フェミニズム野郎降臨してしまった。いけないいけない。でもさ、高校を卒業して大学生活送ってて、後輩たちの部室にやっほー、とかやってくること自体、あんまり好きになれない。
高校の部室に来れば憧れの先輩だけど、大学では一年ボーズな訳でさ。なんかそういうの、好きじゃない。ここに来れば先輩ヅラ出来る、みたいな風に感じちゃう。
高いアイスとか差し入れする場面、りかが用意した安い棒アイスを出せなくなったことも相まって、凄くイヤな気分になる。ここはまんまと作り手にノセられてるが(汗)。

浮気性の恋人のことを後輩にグチり、それでその後輩、つまりみの先輩が彼女に岡惚れしちゃう、という設定は、その後も彼の気持ちを知りながらべったりな葵先輩の“スキのない女くささ”にヘキエキしてしまう。
10代のうちの年の差は大きいから、りかも、りかに問われる木綿子も「素敵な女性」として、かないっこない、と思う訳なんだけど、全然そんなことないよ。
彼女自身もそう言うように、全然子供なんだ、いくつになっても、人間の永遠の課題。あの年になれば大人になれると思うのに、そこにたどり着いてもいつでも子供。

てか、“センパイ”が全然出てこないじゃないの!!えーと、JKたちがキャーキャーしていたのは、原作世界よりも、彼に対してだったのかもしれないなあ。
現代イケメン街道王道の特撮系男子。唇が厚すぎる感がちょっとアレだが、完璧な茶髪ハラリなヘアスタイルに、窓枠に腰かけたり、酔っぱらったりかを背負って送って行ったり、りかのあごをクイと持ち上げてキスしたり!!少女漫画の中の王子様をまんま体現してくれる。
壁ドンの次はあごクイ??いやそもそも、女の子のあごを持ち上げてのキスは、私らの時代、つまり軽く半世紀近く前(爆)からの王道中の王道でしょ!!つまりはそれは、男主導の、女が隷属するラブシーンなんだけどね!!

……とまたまたついついフェミニズム野郎(爆爆)。でもさ、それこそ壁ドンもそうなんだよなぁ……と思ったり。
まぁ、結果的にはこのあごクイキスシーンから付き合い始めた二人は一度、みの先輩の葵先輩への想いが断ち切れないことにりかが耐えきれなくなってしまった破たんする。
その後、かなりな期間を経て、みの先輩がりかの存在の愛しさに気づいてアプローチしてくる、という展開なのだから、結果的には女の勝ちかな??うーむ、私の論点は結局はそこなのだろーか……。

りか、木綿子、みの先輩、てっちゃん先輩のほかの部員がほぼほぼエキストラ扱いなのがかなーり気になった。そんな扱いするぐらいなら、最初からこの四人のみの部活動にしちゃった方がマシだった気がする。
全然エピソードに絡んでこないで、イベントごとにワイワイ騒ぐだけ。それはないわ。いやでも、こーゆー扱いは少女漫画ではわりとありがちで、原作自体でそうだったのだったらどうしようもないが、だとしたら映画の時点ですっぱり切ってしまった方が良かった気がする。

マトモな大人キャストは、てっちゃん先輩のお母さんで、すし屋の女将である渡辺真起子のみ。素敵。彼女はいつでも素敵。彼女が出ているだけで安心感があるし、先述した、りかが大人の顔になった、と言ってくれたのが彼女であり、大きな役割。
高校卒業後は地元を離れて修行に出る息子が、“寿司部”の時には見事に寿司を握っている、という状況は母子家庭なのだろうか??どちらにしても、てっちゃん先輩、そしてそのお母さん、そしててっちゃん先輩の彼女となる木綿子、彼らはとても好感度大。彼らの物語が別で観たかったぐらい(爆)。★★☆☆☆


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