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「お」


2019年鑑賞作品

王様になれ
2019年 115分 日本 カラー
監督:オクイシュージ 脚本:オクイシュージ
撮影:福本淳 音楽:
出演: 岡山天音 後東ようこ 岩井拳士朗 奥村佳恵 平田敦子 村杉蝉之介 野口かおる オクイシュージ 岡田義徳 TERU JIRO ホリエアツシ THE KEBABS ナカヤマシンペイ 日向秀和 高橋宏貴 SHISHAMO Casablanca THE BOHEMIANS 宮本英一 藤田恵名 有江嘉典


2019/9/26/木 劇場(シネマート新宿)
この映画の成り立ちを全く知らなくて、the pillowsという素晴らしいロックバンドのことも全然知らなくて足を運ぶだなんて、彼らのファンにとっては不思議に思われるかもしれない。
でも、原作、企画の、the pillowsのフロントマン、さわお氏の言うとおり、30周年のアニバーサリー企画として、もしこれがよくある、ドキュメンタリー映画として撮られていたら、私のような、単なる映画ファンは足を運ぶことはなかったであろう。

こんなところと例えるのもアレなんだけれど、AKBのドキュメンタリー映画が何篇作られたって、彼女たちのファンでもない、単なる映画ファンはそれが映画だという体裁をまとっていたって、足を運ぶことはないのだ。
“ドキュメンタリーフィルムじゃないよ。俳優さんが芝居をする、普通に映画を作ったんだ!”というさわお氏の喜びあふれる言葉は、それがいかに難しいことか、それを成し遂げたんだという想いが爆発していて、ひしひしと伝わってくるものが、あるのだ。

多分、彼らは私と大して違わないような年齢だと思う。私たちの年代にとって、映画というのは音楽とはまた違って特別で、映画を作ってみたいという夢は、映画が少しでも好きだったあの頃の私たちにだったら、ちらりとでも芽生えていたものなのだ。
だから、the pillowsのことをまるで知らなくても、まずこのスタンス、そしてその夢を叶えたことに、それだけでシンパシィを感じてしまう。

ファンなら必ず足を運ぶドキュメンタリー映画は、確かに無難で、これぐらいの利益、とそろばんをはじくことも出来る。でも劇映画、そしてそれを、the pillowsというバンドの30年を確かに祝うことのできる内容にするには、本当に、大変だったと思うし、そしてこうして、何も知らずに、天音君の主演映画なら行こうか、ぐらいの思いで足を運んだ私のような無知観客を、虜にすることが出来るのだ。

「まん・なか You’re My Rock」で出会ったG.D.FLICKERSといい、ずっと続けて活動し続けている、ベテラン(と言ったらイヤがられるのかもしれないが)ロックバンドというのは、なんてカッコイイんだろうと思う。
休止も解散も一度もせずに、というのがことバンドに関してはとても難しいこととされるし、私のような音楽無知には、そんなのアルフィーぐらいじゃないの、とか思っちゃってたのが、実は実は、いくつもの実力派バンドが、しっかとファンを抱え、活動し続けていることを知るだけでも、この映画に足を運んだ無知観客にとっては、ものすごく意味があると思っちゃう。
……もう、なんか、打たれちゃって、この話題だけで終わっちゃいそうなので、これはなんたって、さわお氏言うところの“普通の映画”なのだから、それをきちんと語らなければ、と思う。

天音君は、「ポエトリーエンジェル」で名前と顔が一致したと同時に、これは注目し続けなければいけない人だぞ、と思わせてくれた人。ついこないだの「新聞記者」の同僚君が素晴らしく良かった。

年若い役者さんほど、メジャーに、メインに、という想いは強いとは思うが、「新聞記者」の天音君に、素晴らしきバイプレーヤーの才能を感じ取って嬉しくなった。
でも、主演作が来た!!となれば話は別である。そらー、嬉しい。だからホントに、企画の成り立ちもthe pillowsのことも何も知らずに、天音君ドアップのポスターを別劇場で見かけただけで、足を運んだのだった。

天音君が演じるのは、登場した時にはthe pillowsのことなど何も知らない、芽が出ないままのカメラマンのたまご、祐介。たまご、までも行っていないか。
叔父の経営するラーメン屋で糊口をしのぎつつ、撮影スタジオの小間使いをしているような感じ。同じ専門学校に行った同期には、スターカメラマンにのし上がったヤツもいる。
ラーメン屋店主の叔父さんを演じているのが、監督も兼任しているオクイ氏だということに、後に知って驚く。なんか、見た目的には俳優一直線、って感じに見えたから。どういう基準か我ながらよく判らんが(爆)。そういう意味ではちょっと、利重さんを思い出しちゃったなあ。

この叔父さんは、俳優を目指してたけど、今は引退してこのラーメン屋を経営している。そのラーメン屋に、父親(つまり叔父さんのお兄さん)を亡くした祐介を心配して引き取った、という図式である。
そんなにバックグラウンドを詰めてはいないけれど、祐介は父ひとり子ひとりだったのだろうか、という雰囲気。父の影響でカメラを始めた祐介。父は、祐介を授かった時にカメラマンになる夢を諦めたのだと聞いている。

そして今、芽が出ないまま、同期に先を越されたまま、こっちが本業、と思い定めている撮影スタジオでも使えない不愛想なヤツと断じられている祐介。
糊口をしのいでいる叔父のラーメン店でも、そういう気持があるから不愛想さは抜けない、ことが、のちにひとつの転機をもたらすのだが、叔父さんも俳優の夢を諦めているし、祐介がひそかに思いを寄せている、叔父さんの劇団の後輩にあたるユカリも劇団を休みがちであるというし、なんとはなしに、祐介の環境は不穏な先行きが漂っている。

でも、the pillowsである。このバンドとの、出会いである。そもそもは、ユカリがファンであったのを目にして、祐介はコソクな想いで聴き始め、ライブに足を運び、彼女と個人的に知り合えることになって、のめり込んだ。まぁ、いわば新米ファンである。
このラーメン店のある場所が音楽スタジオに近く、ユカリもまた、the pillowsと出会えるかもと思って足を運んでいた訳で。なんたって30周年記念企画だから、熱烈なファンであるユカリはもちろん、彼女より二つ年下の祐介だって、産まれる前から彼らは活動しているんである。

そういうミュージシャンが、今もこんなにめちゃめちゃカッコよく、トンがって、圧巻のライブパフォーマンスをする、ということに、衝撃を受ける。いやだって、私らがさ、祐介たちのような年の時に、そういうアーティストって、いなかったもの。演歌歌手ぐらい(爆)、アイドルもアイドルバンド(しか、いなかったもんなあ)も、ほんの数年で活動しなくなっちゃってたもの。
でも、私らが社会人になるのと同時期に、プロになった彼らが、若い時よりどんどんかっこよくなりながら、活動を続けているんだということを、今更ながら知り、時代の変遷と、同世代の誇りを感じて、なんかもう、ホントに嬉しかったなぁ。

祐介は、撮影スタジオをクビになっちゃうんだけれど、the pillowsのライブ会場でアグレッシブに撮影していた虻川に目を奪われ、土下座して弟子にしてもらう。
この虻川を演じているのが岡田義徳君で、彼がまた、メチャクチャ、イイんである。こういう、先輩格の役柄を演じているのを見るのは、初めてのような気がするんだよなあ。なんか、ヤンチャなワカモンというイメージが続いていたから。でももう彼もいい感じのキャリアを重ねてるんだなぁ、と感慨深かったりして。

祐介は、同期がスターカメラマンになっていることを、虻川からも同情めいたからかいをもって指摘され、更に焦る。
せっかく、虻川から、the pillowsの後輩バンドであるTHE BOHEMIANSの撮影を、さわお氏を説得して任されたのに、スターカメラマンの同期が言った「ウケなくちゃしょうがない」という言葉が頭をよぎって、さわお氏のリクエストだった「とにかく、イケメンに撮ってやって」という言葉を忘れ去った……訳ではないんだろうけれど、彼らの顔や表情が全く見えない、アーティスティックな自己満足写真を撮ってしまう。
結果、さわお氏を激怒させてしまい、虻川にも厳しく突き放されてしまう。

ああ、若さ若さ若さ。これってさ、きっと、企画原案を立ち上げているんだから、さわお氏自身がこういう経験に遭遇しているんだろうなあ。自分のチャンスを生かすことに必死になって、本来の仕事が見えなくなってしまう若いヤツらを、でも今のベテランの彼らなら叱責することもできるだろうけれど、ひょっとしたら、苦い思いのまま飲み込んだこともあったのかも……などと勝手に推測して、でも面白いなあと思う。
音楽やってる人って、ただただ音楽やってればいいのかと思ってた(爆。想像力なさすぎ……)。それこそ、総合芸術である映画とは違うんだぐらいの不遜な想いを抱いていたが、音楽もまた、音そのものだけではなく、ライブパフォーマンスであり、詩であり、フォトグラフィーで彼らの音楽や存在そのもののありようを伝えたりする、総合芸術なのだ。
カメラマンとの信頼関係が、これほどまでに重要なのだ。いやー……映画だけで頭でっかちだと、知らなかったことばっかり。

ユカリは祐介にthe pillowsのなんたるかを教えてくれた師匠。淡い恋愛感情は持つにしても、劇中でそれがきっかりと熟成するまでは、至らない。
心臓に欠陥を抱えていて、怖さゆえに薬で散らすままここまできて、いよいよ“胸を開かなきゃいけない”ということに、死ぬほどの苦悩をするヒロイン像、というのは、今時珍しいアナログさと思ったり(爆)。

いや……なんか、具体的な症状というか、病名というか、この手術で命を落とすかも、ということが示されなかったから、なんかちょっと、こーゆーの、昭和だな……とか思っちゃったもんだから(爆)。
ユカリと祐介の恋物語は、祐介が年下であること、カメラマンとして芽を出すことに焦ること、それに対してユカリがハッパをかけるにしても、ユカリが女優としての焦りを持ってる訳じゃないし、ユカリに対する恋心をどうするか、の方にこそ祐介は心が行っているから、ちょっともったいなかったかなあ、という気はしてる。

そう、ユカリがもっともっと、the pillowsに関わるぐらいの、キャリアウーマンなり、表現者であったならば……。病弱で、心臓病で、恋にも臆病で、秋田に帰るとか言い出す、なんて、そりゃあんまりだ(爆)。せっかく、祐介にthe pillowsの魅力を伝える役割を担ったのに、それだけとは……。
まぁつまり、難しさを感じる、そういう点では。30周年、ファンのみならず外部にもthe pillowsのこれまでとその魅力を伝えるための映画、でも、ただただ映画としても成立しなくちゃいけない。the pillows登場人物の成長物語、でもそこに重きを置きすぎると、the pillowsがバックグラウンドミュージックになっちゃう……なんて難しい!!
だからね、だから……ユカリ以外は、めちゃくちゃ、良かったのだ。ユカリ以外はって(爆)。でもねでもね、だって、後輩ミュージシャンたちもめっちゃ豪華!!とかいって、私はGLAYとSHISHAMOしか判らなかったけど(爆爆)。

ラストシーンは、さわお氏にも認められ、the pillowsのライブ写真を個展で披露した会場に、ユカリが現れる。
恐らく、個展ではあえてのモノクロにしているのであろう、アーティスティックなシルエットだのライティングだのは封印し、今にも汗が飛び散るようなthe pillowsのライブパフォーマンスを、しかしてあえてのモノクロである。

……学生時代にね、考古学の(私が恋してた(爆))教授が、なぜ記録写真をカラーではなくモノクロで残すのか、ちょっと正確な記憶ではないと思うんだけれど、カラー写真は、その当時の技術力だということもあるし、その時調査員たちが見ている色じゃないんだと。モノクロが正確に記憶を記録するんだと、そんなことをね、言っていたことを、ちょっと思い出したのだった。
勿論ライティングとかによって、モノクロ写真もまた、撮影者の実際の記憶とは変わっていくんだろうけれど……何か、写真、モノクロ、記憶、色んなことを、思ってしまった。勿論、音楽そのものも、だけれど。 ★★★★☆


お口の濃い人
2018年 95分 日本 カラー
監督:コーエンジ・ブラザーズ 脚本:沖正人
撮影:田中一成 音楽:増井めぐみ
出演: 遠山景織子 織野友貴 草野とおる 宮崎恵治 前すすむ 菅原佳子 城之内正明 相馬有紀実 仁山貴恵 緒方ちか 野辺富三 藤崎卓也 中村史彦 黒田耕平 奈住英治 豊田崇史 桑山元 井上学 松中みなみ 雜賀克郎 岡遼平 椋田涼 杉山裕右

2019/11/25/月 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
オフィシャルサイトがyou tubeの予告編だけという謎の、謎の……ならばわざわざオフィシャルサイトなんか作らんでほしいわ。人物相関図とかキャラ名とか知りたくてあちこちさまよったが全然ダメ。いや、別に特に知りたい訳じゃないんだけど(爆)、あんまり自分的にはピンと来なかったし(爆爆)。
んんー、こういう、オムニバスじゃないけど、ひとつの舞台にいくつもの人間関係を並列にちりばめるやり方だとさ、こーゆーところに書く時に役名も判らないとほんっと、苦労するんだもの。

ピンと来なかった最大の理由は、キャストがみんなそろいもそろって、やたらめったら芝居が大きいこと(爆)。ワザとしか思えない芝居のデカさ。だってあの遠山景織子嬢があんな出来損ないの(汗)芝居をするなんて思えないもの。
そこは演出としての指示があったとしか思えないのだが、クサめのキャラクターたちに冷や汗をかくのと同じぐらい、居心地の悪い気持ちにしかなれない。
あーでも、遠山景織子嬢と後輩の女の子の女子会パートはまだマシなのだ。キツいのはオンラインゲームのオフ会の四人組と、時代遅れのヒッピー系カップル。見た目の作り込みからもうツラい。

えーと、舞台は、ある一軒のバーである。雰囲気はかなり良さげだが、なぜこの一夜に限って、こんなにも事情アリアリなメンツばかりが集まったのやら。
遠山景織子嬢扮するアラサー女子は、派遣社員の仲良し後輩を引き連れて、新規開拓、とばかりにこのオシャレなバーに乗り込む。自分の家に招いて飲み明かすこともしばしばということが会話からうかがえるこの先輩後輩は相当に仲が良い、のだが、それだけに、そう思っていただけに、後に登場する後輩の彼氏、そして後輩の真の姿に、先輩である彼女はショックを受ける訳である。

それは後述……とか言ってると言い損ねてしまいそうなので言っちゃおう。この後輩女子は実は結構売れ線のバンドのボーカル、バーのスタッフの若い男の子がファンで、大興奮していたぐらい。
派遣で働いているのは、社会生活を作詞に反映させるため。お局OLの実態とか……と言われて先輩彼女は敏感に反応する。あんなに仲が良くて、可愛がってて、気の置けない会話が心地よい、何もかも腹を割っていると思っていたのに、という雰囲気が、彼氏の登場によって、後輩彼女がそこまで先輩彼女を重要視していなかったことが浮き彫りになるこのイタさ。

その後ろに陣取るのが、先述のオフ会4人。遠山景織子後一行が何あれ、コスプレ?ハロウィン??と目をむくカッコはゲームの中でのキャラ設定らしい。
コック姿のおでぶさんはしょっちゅう、厨房スタッフに間違われる。そのイトコで引きこもりだという「オッス!オラハナオ!」と繰り返す更なる巨漢君。このオンラインゲームから抜けたことがどうやら事情ありげな、“便所虫”さん、あと一人は彼だけなぜか特に特徴もないまともな人物。
まともな人物なのに特に狂言回しとして切り回す訳でもなく、人数合わせで上手くキャラ設定できなかったような違和感が漂う。

この“便所虫”さんが、後から来るワケアリグループとつながり、カウンターにいる、ヒッピーカップルもまた、そのために来ていることが明らかになる。
ワケアリグループは、身寄りのない恩人の急病のために、闇金から金を借りてしまい、膨れ上がった利子を返せずに期日が来てしまっているというのが、今この場に来ている男とその恋人である。

しかし後から考えれば、結果としてこのヒッピーカップルの、特にあやしげな男の方が闇の世界での力を持っている人物で、闇金男を黙らせてしまうのだけれど、なんか最初からこの仲裁のためにここに現れた風だけど、負債を抱えた男性ともその彼女とも特に知り合いのようではなく、偶然居合わせて、こんなとんだご迷惑、みたいな、そんな具合に収束しちゃって、んな訳あるかい!!とモヤモヤした気分。
絶対事情知ってて、この店にわざわざ来たって会話、してたのに……。ただ単に噂を聞きつけて義侠心を発揮した??んなバカな!!

“便所虫”さんは、この借金をしてしまった男の恋人の、お兄ちゃんである。ここに、闇金と刺し違える覚悟で現れたということらしい。この男と恋人、そして闇金役のやたらシブいイイ男の三人だけが、このオーバーアクション過多過多のキャスト陣の中で、なぜかここだけ、マトモなシリアス芝居である。
これじゃあ、わざわざデカイ芝居をした他の役者陣が浮かばれない。まるで芝居ヘタ組と上手い組に分けられたように感じちゃう。うーむ、意図不明である。

それともこの薄幸のカップルに力を注ぎたかったのか??男は40の坂を超えているけれど、恋人の方は、まぁ、女の子と言うほどではないけれど、10歳は離れている感じ。その年の差の意味合いとかも特に説明する訳じゃなかったもんなあ。
まぁそれを言ったらヒッピーカップルはもっとえげつなく年が離れている感があるけど、特にコメントする気も起らない二人なので(爆)。

音楽を大切にしている感はちょっと、あるんだけど、ヒッピーカップルの男の方、ヒゲとサングラスに隠されているけれど、かなりベテランな雰囲気、当初店に流れていた“タイクツな音楽”にクレームを入れ、ゴキゲンなミュージックに乗せて恋人と景気よく踊り出す。
後に救済した借金カップルの、男性の方がウクレレミュージシャンだということで、彼の演奏に巧みに口演奏でセッションして、大いに盛り上げる。……結局、ここを見せたかっただけのような気もしたり……。

なんかね、思わせぶりに、オーナーをなかなか見せてこなかったり、実際にこんなスタッフだったら即座に店出るわ、というウザ男子スタッフ三人組の、面白いだろ!!みたいな圧をめっちゃ感じる繰り返し押し付けコント的なやり取りは、それが客の前での設定で、これは映画だからさ、コントでも舞台でもないから、やっぱりそこはフツーにウっざ!とか思っちゃって。
ハマらないと、厳しいのよ。笑いたくて対峙するコントやコメディの舞台と違って、映画(あるいはドラマもかもしれないけど)は、難しいよ。そういう気がない人にとっては、ホントの客目線で、もういい加減にして……とか思っちゃうもん。

それなのになぜ、ワザとらしいかわい子ぶりっ子ウェイトレスにはそれを感じないかといえば、それは多分、私が女の子が好きだからさ(爆)。
まー、こーゆーステロタイプの女の子はそれこそ定番中の定番、もう古臭いと感じてもおかしくないし、実際そういう感じは起こさせるのだが、カワイイ女の子のカワイイ声を聞いているだけで割と私は満足しちゃうから。「みんなのミナミだから」てゆーのは、明らかに元ネタありあり過ぎて、センスの問題が……と思ったけど。

「オッス!オラハナオ!!」の巨漢男子は、最初このブリブリウェイトレスに恋に落ちる。まるで初めての恋みたいに。どこから得た知識なのか、セクシーな名前のカクテルを注文するウザさに、ワザとらしい設定だなー……とここまででかなりへとへとになっている分、食傷気味な感じは否めない。
結局あっさりみんなのミナミ台詞で撃沈し、しかしその後すぐに姉御肌の遠山景織子女史に食指を変えるんだから、結構クエないヤツである。引きこもりで、久々の外出という、繊細な設定を今の時代に、こんな雑に扱うことへのヒヤヒヤ感は否めない。実際、共感の感覚はゼロだし。コメディだから許されるってことにも限界があるんじゃないのかなあ。

口が軽いスタッフとオーナーとの確執の語りがさらりすぎて、そんなさらりなら触れない方が良かったんじゃないのという掘り下げのなさとか、これだけの人数とエピソードと人間関係をさばききれたとは言えないもどかしさとか。
正直言って、実力不足としか思えない。小粋に聞かせるピアノ音楽も、結局既成の名曲でお茶を濁して、オリジナルで勝負する気概が感じられない。
これは舞台にかけるべき作品だよね。それを映画でやろうと思うなら、映画ならではのだいご味を考えないと、観客に苦行を強いるだけ。★☆☆☆☆


お嬢ちゃん
2018年 130分 日本 カラー
監督:二ノ宮隆太郎 脚本:二ノ宮隆太郎
撮影:四宮秀俊 音楽:
出演:萩原みのり 土手理恵子 岬ミレホ 結城さなえ 廣瀬祐樹 寺林弘達 廣瀬祐樹 伊藤慶徳 桜まゆみ 植田萌 柴山美保 高岡晃太郎 遠藤隆太 大津尋葵 はぎの一 三好悠生 大石将弘 小竹原晋 鶴田翔 永井ちひろ 高石舞 島津志織 秋田ようこ 中澤梓佐 カナメ 佐藤一輝 中山求一郎 松木大輔 水沢有礼 高橋雄祐 大河内健太郎

2019/10/7/月 劇場(新宿K's cinema)
「枝葉のこと」の監督さんの新作と聞いて、迷わず足を運ぶ。あの作品を観てしまったら、誰もがそうするだろう。
正直、あんな、自身の身体中から血を流すような作品を作ってしまったら、もうその後、映画なんて撮らないかもしれないと、思ってもいた。“なんて”なんていうのは映画ファンとしては失格だが、自分自身をあれだけさらけ出して、ずたずたにして、劇映画“なんて”切り替えて撮れるのかと。

だからちょっと、驚いた。確かに本作のヒロインも、ずたずたである。自分をナイフで切り付けているような女の子だ。
しかし、ナンセンスだったりブラックだったりオフビートだったりするおかしさがそこここに配置され、声をあげて笑ってしまう場面も沢山あるのだ。ものすごく、意外だった。

上映の後、挨拶に来ていた監督が小柄で腰が低くて優し気で、なんだかとってもいい人って感じなのにもビックリした。すべてが「枝葉のこと」でイメージが形づけられちゃっていたから、ごっつくて、怖くて、触れれば切れそうな人なのかと思っていた。
あれま、私、騙されていたかしら。いや、確かにあの時の彼は彼そのものなのだ。そしてそれこそが、“映画なんて”ものの素敵な作り物の素晴らしさなんである。

主人公のみのり。演じる女優さんそのままの名前のみのり。親友の理恵子も演じる女優さんそのままの名前だから、もちろんフェイクだということは判っていても、またまた騙されてしまったという感に陥る。
みのりは誰もが認める超美少女。自他ともに認める、と言ってもいいかもしれない。彼女はきっとそのことに、産まれた時からずっとずっと、苛立っているのだろう。

こんなにキレイな子なのに、劇中一瞬ぐらいしか笑った顔を見せない。友人のヨタ話にふっとほおを緩めた、あの時だけ。笑ったらきっと、めっちゃ可愛いのに。あんなにきれいな顔してるのに。いつもいつもぶーたれている。
そして自分の正義から外れていることが許せない。特に、奥手で内向的な親友の理恵子が、社会の(特に男の)横暴に屈服してしまうのが許せない。自身はいつでも、その横暴に怒り、立ち向かってきたから。なぜ彼女もそうしないのかが、許せない。

本当に、可愛い子である。自他ともに認める、というのは、イヤミではなく、そりゃこれだけ周囲から言われ続けていたら、そう自分で思っていない、と言ったならば、それこそがイヤミなのだろう。
そしてそのことこそが彼女自身を苦しめている、だなんていう設定は、ありそうでなかった、というか、ありそうですらなかったかもしれない。

自分が可愛いことを自覚している女の子、という設定は「おんなのこきらい」「美人が婚活してみたら」などが思い浮かぶが、ことに後者に関しては彼女に意見する親友役の女優の方が明らかに美人で、美人を演じている主演女優さんがイタくみえてしまうというていたらくだった。
それでなくても女優は美人の職業、だなんて言われた時代もあるほど、きれいでカワイイ女優は跋扈しているこの世の中で、明らかに、一人だけが際立って見えるキャスティング自体が難しいのだ。

そしてそれが、本作が見事に成功しているのは……勿論、演じる萩原みのり嬢がまごうことなき美少女であることは無論だが、彼女のワキを固める女優陣……親友、バイト先のオーナー、同僚、その店の常連、伯母に至るまで、ブス、とまでは言わない(爆)、私たちが日常暮らしている友人や知人にいる“程度”の人相(ヘンな言い方だが)を持ち合わせている人たちでしっかりと固めていることこそ。それに驚嘆するんである。

ことに親友役理恵子を演じている土手理恵子嬢は、合コン相手のチャラ男から「あんなチンチクリン」と言われるのだが、これが思わず首肯してしまうような絶妙さで……ヘアスタイルやファッションの地味で重たい感じで演出しているのももちろんそうなんだけど、短めの腕とか、О脚気味とか、“チンチクリン”というのがそそ、そうかも……と思わせてしまうような、つまりは印象的な風貌、なんだよね。
これは美人女優なんかよりもずっと女優としての武器になると思うが、彼女をはじめとして、バイトの同僚の萌といい、常連のおしゃべりメガネっ子といい、絶妙な“ブス”さ加減で、本当にお見事で。ちょっとイイ女だと思うのは、合コン好きのインドネシア料理屋のオーナーぐらいだったかなあ。

で、素晴らしいのは、そんな彼女たちが、みのりのことが大好きだ、ってことなんだよね。親友の理恵子はもちろん、バイトの同僚の萌も、常連の女の子も。
常連のメガネっ子女子なんて、みのりの可愛さを正面切って賛美しながら、それが私たちブサイクを輝かせるのよ!とかワケ判んないことを言いながら、それがなんかナットクさせられるような、本当にみんな、みのりのことが大好きなのよ。

それはあったりまえだけど、カワイイ外見だけで寄ってくる男たちとは正反対である。しかして、なぜ彼女たちがそんなにみのりに引き寄せられるのかもちょっと不思議だったりするのだが……だって始終仏頂面なのは、男の前のみならず、誰もの前でも同じだし、アイソなんて、ないんだもの。
でもそれが、いいのかなあ。男たちはみのりがそういう、アイソのカケラもなく、男に媚びるなんてことは一ミリもないことに気づくと、女の子に優しくすれば応えてくれる、なんてことに慣れ切っていたもんだから逆ギレしちゃうんだけど、女にとってはみのりは……理想像かもしれない。正直に生きたいし、それが可愛い外見をもってそれが出来るんならこんな素晴らしいことはない。
そう、ありそうでなかったのだ。可愛い外見、それを自覚もしている、それを武器にしない、自分の信じる正義をよりどころに生きている女の子、なんて。

ただ……ほころびはある。それは、親友の理恵子だけがなんとなく察していたのかもしれない。二人の出会いは、理恵子が声をかけたことだった、というのは、聞いても意外である。かわいい女の子が好き、今でもかわいいアイドルが好きだという理恵子が、かわいいなと思ってみのりに声をかけたのだと。
内向的な理恵子と攻撃的なみのりの図式を考えると、まるで逆のようだが、もしかしたらみのりは、親友として大切に思えば思うほど、この最初の出会い、理恵子の中に今でもあるかもしれない価値観に、ずっとずっと苦しめられていたのかもしれない。

冒頭が、まるで主要人物と関係ないナンパなグループの海辺での合コン待ち合わせシーンから始まるのが、後から思えば本作のあらゆることを象徴している気がする。登場する男女のカタマリは、それぞれがみのりと接触したりしなかったり、してもかする程度だったりする。
みのりがバイトしている、カフェなのに客たちは名物の和風ラーメンしか頼まないというあたりが、店の傾向を象徴しているような感がある店。“くっそカワイイ”みのりを見物に出かけた、ヒマを持て余した男子三人が、みのりが休みの日にぶつかっちゃって、結局彼女と何も接触せずに帰ってくるのに、このヒマヒマ男子三人の中で、ひとつのゲームが勃発する場面なんぞはその最たるもので、上手いなぁと思う。

みのりを触媒にして、彼女と直接関わっても関わらなくても、特に男子側に、本性が見え隠れしたり、そのことで仲間内での力関係が変わったり、するんである。
そう、このヒマヒマ男子たち……みのりに会いにいこうと提案した後輩男子だけがみのりのことを見知っていて先輩たちを誘うんだけれど、そのことで自身の女子をいじめたキチク過去を、キチクとも思っていないことまで露呈してベラベラ喋る。そのことに先輩たちが憤慨して、ゲームと称して後輩を暴行したおすのだが……もし、先輩たちがみのりに会えていたら、どうなっていたのだろうと、考えずにはいられない。

実際にみのりと会えている男子たち……理恵子が合コンで受けた凌辱に怒りまくってチャラ男にケンカを売りに行った場面、それをハタから見ていた男子二人は、片方は彼女を勇ましく思い、片方はドストライクの女の子に初めて出会った……と叶わぬ恋に自室でティッシュを浪費する。
ラーメンを食べに行ってみのりに出会い、その可愛さにノックアウトされるも、カワイイ女子はそれだけで得をしているからけしからんのだ!!とか主張しだすいかにも非モテな男子たちも面白かったし、店の常連だけど、みのりの可愛さには特に頓着していない、愛妻家、子煩悩というのがありありと見える、でもパチプロという自分の職業を悩んでいるおじさまとか、本当にいろいろと面白く。

みのりも、すべての男に歯向かう訳ではない、んだけど、ただ……。彼女にはどうしようもない過去があって。母親を早くに亡くし、その途端に優しかった父親が飲んだくれのダメ男になった。そしてほどなくして、死んだ。
みのりがあまりにあしざまに言うから、飲んで暴力をふるうとかっていう程度じゃないのかな、暴力がいわゆる“暴力”以外のアレなのかな……とかも思ったが、そうだったらお父さんの母親であるおばあちゃんが、それはあなたのお母さんが死んでしまったから……などとなだめないのかなとも思うし、父親の妹である伯母もまた、みのりのかたくなさをほぐそうとしているし。

……このバックグラウンドがそれほどに明確にされなかったのは、少しウラミとして残るかなあと思う。正直言って、みのりが、ただただ外見のみで判断されて、男たちに立ち向かう話だけでも良かったような気がするけれど、そのあたりは監督自身の家族感覚の想いが、あったのかなあ。

みのりはね、まぁ言ってしまえばツマラナイ女、と切って捨てることもできる訳よ。家にいればスマホでゲームしかしてない。休日は昼過ぎまで寝くさっているのも、遅くまでゲームをしているからで、休日中もゲームしかしてない。
理恵子と外に出て思い付きでバトミントンしたり、座り込んでなんてことない話をしたり、時にはランチや飲みに行ったりするぐらいが、楽しみなのだ。

ここは片田舎、といった雰囲気の土地で、だからこそみのりのような無造作な美少女は余計に目につくのだろう。バイトへの出勤スタイルも、切りっぱなしのデニムのショートパンツからにょきりと白い足をビーサンに突っ込み、ノースリーブから色白の腕をむき出しにしてのてのて歩いて行くという無造作加減。
それでいて、合コンで知り合った男子と、その時セックスしたいという本能に素直に従ってしまった結果、ストーカーを生みだしたりしちゃう。
自覚があるのかないのか、ある筈なんだけど、むしろそれに引っかかった男子に正当性という武器をここぞと振りかざして攻撃するような……同性の目から見ると、なんだかもう、危なっかしくて、うらやましくもないけどうらやましいような……でもなんか、守ってあげたい、というより、判ってあげたい、と思わせるような子なのかなあ。

みのりと理恵子のコンビははたから見ればそりゃあ、みのりがサエない女の子の理恵子を守っている雰囲気がありありなのだ。でも、理恵子は内向的というのはみのりや、観客に思わせる鎧で、彼女は社会的強さを身に着けている、ということなのだ。
東京に行きたい、みのりと一緒なら、と理恵子は最初こそは言うけれども、東京に行って、明確にやりたいことが、具体的に見えているのは理恵子であり、実は、実はみのりには、何一つそれが、ないのだ……!!

……これは、かなり衝撃である。強い女の子、正義の価値観が揺るぎない、クズである父親に憤り、男たちに憤ってきたみのりが、実はその手に、何一つ持っていなかった、だなんて。
決して、おごっていた訳ではない。自分自身が何者でもないことは、判っていた。かわいいと言われ続けることに憤っていたのもその裏返しだった、けれども、でもそのことに正義で対抗していたと思っていたのが、その正義の裏付けになるものが何一つ自分にはなかったのだ、と突き付けられる、これは……これはキツい。

ただそれは、理恵子に象徴されるように、私たちが早々に諦めて捨て去ってきたことであるにすぎない。みのりのことが、うらやましい。カワイイことじゃなくて、全力でぶつかって、そのことに気づいたことが。自分の魅力を嫌悪するその弱さが、いとおしい。
自分をズタズタにした監督が、同じく自分をズタズタにしてる女の子を、でもたまらなく優しい目線で見ていたんだよね、と思うと、なんだかとっても、嬉しくなるのだ。 ★★★★★


大人の同級生(大人の同級生 させ子と初恋)
2018年 82分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:深澤浩子
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:なつめ愛莉 香山亜衣 加藤ツバキ 折笠慎也 細川佳央 津田篤 イワヤケンジ

2019/8/31/土 劇場(テアトル新宿)
自らの製作会社にフルーフォレストフィルムと名付けるぐらいだから、竹洞監督のルーツを強く意識する気持ちは知れようというものだが、大抵は都内の、マンションの一室プラス外、ぐらいで終わるのが大概の、低予算のピンク映画の中で、ことさらに地方ロケを好むというのは、それだけでも凄い。
だってそれだけで予算食っちゃうじゃんと思ったら、本作はまさに彼の地元、実家、実際に劇中で摘まれたピーマンや泥掃除されたネギは、そのまま出荷されたのだという!

つまり、キャスト、スタッフ、農作業を手伝いながらの雑魚寝スタイル、脚本家さん曰く、「農作業の合間に映画を撮った」目からウロコ!!
でもそれがキャスト、スタッフの結束を固くし、このちょっと甘酸っぱい、懐かしいような、切ない、青春を遠く思い出すような、映画が出来上がるんだと思うと、何とも感慨深い。

冒頭は、二組の男女の通学路の道行から始まる。この二組のそれぞれの男女が、この時にはイマイチ見分けがついておらず、まぁ、自転車ですっころんだ、ぱんつまるみえの女子はヒロインには違いなかろうと思ったが、最初連れ立って歩いている男女が彼氏彼女のように見えたので、ちょっと混乱してしまった。
後から整理して考えれば、連れ立って歩いている男女は幼なじみ、本当はお互いに想い合っているんだけれど想いを告げられず、自転車ですっころんだ紅子をこの彼、礼二が助け、紅子は礼二の押しかけ女房のような形で付き合うようになる。

礼二の幼馴染のすみれは、……この時にもう一人男子が登場しているよね?あれ?四人男女のように思って見ていたけれど、違ったかな??三人だったかもしれない……だんだん自信がなくなってきた(爆)。
いや、この時既に、すみれの後のダンナとなる弘嗣がもうかんでいたのかなと思ったのだけれど、結婚した経緯はいわゆるイナカ的年寄り達の紹介の目合わせのように言っていたようにも思うし……あー、ゴメン、よく見てなくて(爆爆)。

で、この舞台になるのが、監督の地元であり、東京に出てフラフラしていた紅子が男に捨てられて舞い戻って来たのが姉夫婦の家、「実家に着払いで荷物を13箱送ったら、塩撒かれた」(爆笑!)とゆーことで、姉夫婦の元に身を寄せる、という展開。
姉夫婦、ことに妹をビシバシ鍛える姉の碧はバリバリの津軽弁、しかし彼女はそれに相当苦労したという。紅子と後に再会する元カレの礼二のバリバリ津軽弁は、演じる折笠氏はネイティブだという!ほう!

わー(私)、とか懐かしいなー。聞き取れる程度にレベルを落としたソフト津軽弁だけど、凄く、いいよね。でも紅子は故郷に帰ってきても、ふるさと言葉に戻らないんだよね。そこは実は、大きな意味があったんだと思う。
都会に出ても、故郷に戻って家族や友人たちと再会すれば、大抵は言葉がもどるもの、だけど、紅子は戻らなかった。

そもそも青森という土地自体、ほんの少し住んでいただけだけど、二か国語を操るように、常から標準語にスイッチ出来る能力のある……それだけ、なんていうか、劣等感も自分のうちにどうしようもなく抱え込んでいる土地で。
紅子がそこまで考えていたかどうかは判らないけど(そんなフクザツなキャラには見えなかったけど(爆))、でもこういう人って、いるのだ。割と無邪気に里帰りして、甘えに甘えて、でも彼なり彼女なりの居場所はここじゃない、ふいっと、また去ってしまう、みたいな。
だから故郷の言葉には戻らない。ある意味、もうここを捨てた人間だから。……それは、決して悪い意味ばかりではなくて。

紅子を演じるなつめ愛莉嬢は、白い肌と濃いめのアイメイクがしょこたんを思わせるような美少女。正直、決して芝居が上手いタイプではないが(爆)、この日の二本目も彼女が主演で、全く違うキャラを熱演していたので、なんてゆーか、こういう熱の入れようこそが、抜擢される重要さなのだと思う。
東京では読者モデルをしている、ということらしい。別にウソじゃないだろうけれど、読者モデルって、プロじゃないし、それだけ聞いたら、そらダメだろ……とフツーなら思うのだろうが、なんつーか、地方にいると確かに「すげーじゃん!!」という感覚には確かになるのかもしれず……。

しかして紅子は同棲していた恋人に捨てられた。しかも浮気された相手が妊娠し、一緒に住みたいからと追い出され、金がないから家具は置いて行けと言われ、結婚祝いを前渡しにしてほしいと言われ、しんっじられないけど、それをすべて紅子は飲んだのだ。
「だって、困ったときは、お互い様でしょ」姉から、それは困った側が言う台詞じゃない、とツッコまれる以前に、あーあー……そうか、紅子はこーゆー女の子なんだ。恐らく自転車ですっころんだ頃からもはやすでに。
でもどこか安心もしてる。この子は強いと。きっと、また傷付いてここを去るだろうけれど、決してへこたれないだろうと。

この田舎町を、膝上のフリフリのワンピースドレスとヒールのカワイイ靴をとっかえひっかえしてさっそうと歩く紅子はもうそれだけで、未知との遭遇である。
居候なのにぐだぐだ寝倒し、お姉ちゃんにひっぱがされて、ダッサイ農作業着に着替えてぶーたれてる彼女と、オトコのためにブリブリのカッコしてスキップしてる彼女のギャップが面白すぎて、そしてそのキャラになつめ愛莉嬢がめっちゃマッチしていて面白い。

対するもう一人のヒロインともいうべき、礼二の幼馴染のすみれは本当にもう、正反対で……。この二人は、決して決してまじわらないタイプ。自分の欲望に忠実で、やりたくないことに対してはあからさまにぶーたれちゃうような紅子。
それに対して、すみれは、礼二言うところの「あいつは、人見知りだからな」というのは確かにその通りなのだが、自分の引っ込み思案を自己嫌悪しながら、判っていながら、「だから逆恨みなの!」と逆ギレする。それも、自覚している……。

この、逆恨み、というワードは、そのハデな見た目と性格で、「ヤリマンだと思ってるでしょ」と紅子がすみれにあっけらかんと言う、まさにソレが示していて、「でもね、私、人の彼氏をとったことなんて一度もないよ」
そう、紅子は実は、愚かなまでに一途な女の子、なんだけど、その一途さに、すみれは結局負けちゃって、片想いだったんだから紅子に取られたもないんだけど、自分が悪いんだけど、だから、「逆恨み」なんだけど……。

うー、判る、判りすぎる。私は完全に、すみれ側である。うじうじして、何も出来なくて、自分の無力さを棚に上げて、光の当たる場所にいる人たちをそねみまくる。
しかしてこの二人が、対照的過ぎるこの二人が、双方ともに“女友達がいない”というのが……。すみれの場合は、そもそも男友達、という価値観もないだろうが……。その二人が、相容れなさすぎる二人が、友達になってしまう、それもかけがえのない!!というのが、本作の最も、じーんとするところなのだ。

一度かりそめに仲良くなりかけるも、それが決裂するのが、紅子が、高校生の時と同じく、押しかけ女房状態で礼二の家に入り込むに至るから、なんである。
うーむ、紅子……なんつーか……ブリブリのカッコでスキップしながら通い妻する描写からなかなかにキビしかったが、確かにコレは、同性に嫌われるわ……。

だって結果的に、寝取った、あれ?この表現おかしいな、礼二には付き合ってる相手がいないんだから、寝とれるワケもないのだが。
あぁ、こーゆー感覚が上手いんだな。礼二に想いを寄せる気持ちは昔と変わりないのに、もはや人妻となってしまったすみれの存在が、そんなねじくれた感覚を引き寄せるのだ。それが、紅子があまりにもあっけらかんと、都会のファッショナブルさをこれ見よがしに振りまきながら来るもんだから、余計なのだ。

すみれのダンナ、弘嗣は彼女のことを深く深く、愛している。礼二とも幼なじみっぽいし、ヤハリ冒頭もう一人の男子がいたんだよね?それが彼だよね??
もう、弘嗣が切ないんだよなあ。愛しているから、セックスで奥さんが気乗りしないこと一発で、察しちゃう。疲れているからかもとか、乗り気じゃないからかも、とか、そんな都合のいいことは思わない。

後に明かされるように、弘嗣はすみれが、礼二にずっと片思いしていたことを知っていたから、だからいつも、びくびくとしていたのだ。あんまり辛すぎる。今もすみれは、ただの幼なじみだからという顔をして、タッパーに自作のカレーやおばあちゃんの総菜なんぞを詰めて届ける。
正直、こーゆー女は私はキライだ。自分に似ていると思うから、余計なのかもしれない。地味なカッコで自分自身を押し込めて、自分でできないことを全部他人のせいにして、でも、判ってるんだ、自覚しているから、「だから、逆恨みなの!!」と言い訳のように叫んで、紅子にぶつかるのだ。

結果として、どうなったんだろうか。紅子が「やっぱり私、農家の嫁にはなれないと思って」と言って突然身を引いたのは、正直本気とは思われなかった。
すみれの想いをぶつけられて、フラッシュバックのように青春時代の思い出と、礼二が、自分と付き合っていた頃に本当は好きな人がいたんだと吐露したことを思い合わせた紅子が、自分はそこまでピュアになれないと、何か自分をある意味卑下して身を引いたような気がして、仕方がないのだ。

いや、それよりは、初めてできた友情を守りたいと思ったのかなあ。そうかもしれない。お互い、不器用な女子同士で、そして同じ人を好きになった同志、なんだもの。
東京に戻ったら、とりあえず劇団の仲間に頼る、という紅子は、決して決して、友達がいないとかフラフラしているだとかいう女の子じゃないじゃんと思う。劇団という仲間の熱の中にいて、紅子を受け入れてくれる仲間がいるんだもの。

それは確かに、特にイナカ方面から見ると、ただ夢に浮かされてフラフラしてて、困った時だけ地元に頼ると、思われるのかもしれない。そういう視点も含めて、監督の愛が感じられるのだ。
困ったときはお互い様、ジョークみたいに言われた台詞が、最後に紅子から、劇団員たちを信頼して発せられるに至って、何ともジーンとするものを感じられるんである。

微妙なラストだけど、すみれとダンナは別れてほしくないなあ。時に愛するより愛される方が幸せな時はあるよ、それこそが愛だと思うことがあるよ。めっちゃうらやましいけど、すみれ!! ★★★★☆


踊る結婚式
1941年 88分 アメリカ モノクロ
監督:シドニー・ランフィールド 脚本:マイケル・フェシア/アーネスト・パガノ
撮影:フィリップ・タンヌラ 音楽:モリス・W・ストロフ
出演:フレッド・アステア/リタ・ヘイワース/ロバート・ベンチリー/ジョン・ハバード/オザ・マッセン/フリーダ・イネスコート/グィン・ウィリアムス

2019/11/25/月 劇場(渋谷シネマヴェーラ)
踊る、とタイトルがつく往時の作品はたっくさん、あるんだろうなあ。フレッド・アステアとジーン・ケリーは学生時代にそれぞれ代表作の2、3本を観た程度。いや、アステアに関しては1本ぐらいしか観てなかったかもしれない。なのにアステアかジーン・ケリーかどちらがいいかなんて話してたんだから困ったもんだ(爆)。
でもこうしてひょんな機会からアステアの作品に接すると、アステアかなぁ、と思う。2本目のくせに(爆爆)。年代もタイプも全然違うスター二人に向かって何言ってんだ(爆発)。

ああでも、でもでも。こんなこと言ったら、長く活躍した人にこんなこと言ったら、ホント失礼なんだけど、アステアはモノクロのイメージ。モノクロ優雅なイメージ。映画が夢だった頃のザ・イメージ。
そしてモノクロの中なのに、その中に想像する色がめっちゃ華やかで、キラキラで、ワクワクしてステージを見上げている。そんな感じ。

はっきり言ってこの手の作品は、アステア(と名コンビのリタ・ヘイワース)のダンスを堪能することだけが目的で、ストーリーなんてどうだっていいと言っても差し支えないところはあるのだが(爆)。
でもさぁ、ダンスの素晴らしさはどんなに言葉を尽くしても、観なければ判らないところだもの。やはりここはストーリーを追うしかないか……(いや、何様よ)。

アステア演じるは、売れっ子の振付師ロバート・カーティス。もう冒頭から振付指導するという名で、踊り子たち(ダンサーというより、この方が当時感が出るわな)をバックに目が覚めるような見事なタップダンスを披露する。
軍隊に入ってからも、小粋な黒人ミュージシャンの演奏にガマンが出来なくなって、しかも謹慎中で押し込められている営倉の中で踊りまくるシーンがあり、それもまた心躍るのだが、ヤハリアステアのダンスは、バックに美女を(しかも超ダンスが上手い)ずらりとはべらせ、その中で一番の美女(さらに超絶ダンスが上手い)を手に取って踊りまくる、ステージングのダンスでこそキラキラと輝くのであり。

それを冒頭の、いわばリハーサルというテイで軽く見せて(軽くなのに)圧倒させ、中盤の軍隊シークエンスではあくまで軍隊を舞台にして、ラブストーリーとしてのドラマをコミカルに見せ、後半は慰問という形で用意されたステージで、圧巻のダンスを見せる!
……そうか、そう考えてみれば、上手い作りなんだ。アステア&ヘイワースのダンスを堪能するだけでストーリーはどうでもいいとかいって、ごめんなさい(爆)。

ロバートが所属しているチームのオーナー、でぶっちょ金持ちフォルムがわっかりやすいマーティン・コートランドが女たらしで、美しい踊り子たちに始終目をつけている。美しい奥様がいるのに、である。
奥様は当然、そんなことは100も承知である。だからダンナが、ウワキ(ですらない、そこまでもいくカイショがない)してるのなんてお見通しで、じゃあそれをどうやって追及しましょう、という点で常に冷徹に現れるんである。

言ってみればロバートだってそんなことは100も承知なんだから、この奥様に疑惑の目を向けられたってヘイキな筈なのだが、そこはなんつーか、シチュエイションコメディというヤツよね、と思う。
マーティンは美しい踊り子、シーラ・ウィンスロップに心惹かれ、彼女へのプレゼントを宝飾店で求める。豪華なダイヤのブレスレットである。ちなみに、結婚記念日であることを運転手から聞かされ、奥さんへの贈り物もついでに求めるが、こともあろうにやっすい孫の手である。孫の手て(爆)。
今回の字幕はフツーに孫の手と訳されていたが、バックスクラッチと言ってたそれって、でも奥さんから追及された言い訳にマーティンは、古代中国明朝の逸品だとか言い逃れていたし、孫の手、というのが当時のアメリカ的感覚でどの程度まで浸透していたのか、妙に気になる……。

奥さんから詰め寄られて苦し紛れにマーティンは、子飼いのロバートを犠牲に使っちゃう。つまり、ロバートがシーラに恋している手助けをしたのだと言って。
シーラはロバートのことをダンサーとして尊敬していて、彼と踊りたいがために振付を覚えられないフリをするぐらいだった。だからこの時点で恋の予感はあったんだけれど、猿芝居に巻き込まれたことに怒ったシーラ、そしてマーティンの奥さんもあいまって、事態はややこしくなる。

ロバートとシーラのツーショットが、売れっ子振付師のラブロマンスとして新聞に出てしまう、のは、マーティンの奥さんの腹いせがしっかり反映されているんである。シーラがこの時点で抱いていたロバートへの想いは、あくまで憧れ程度のものであって、とゆーのは、シーラにはいいなずけがいるんである。立派な大尉殿である美丈夫(という言い方も、この時代っぽい)、トム・バートン。
バカにされたと憤るシーラの意趣返しに、かなり悪ノリでトムは参入。弾が入ってなかったとはいえ、ロバートに銃を突き付けて、俺の女に手を出したのかと脅すっつーのは、なかなかにシャレにならん。銃……アメリカやねと思っちゃう。

んでもって、ロバートは召集令状が来たのを幸い、軍隊に飛び込んじゃう。売れっ子ロバートを引き留めるために、体重が満たないことを必死に立証しようとするマーティンだけれど、ロバートは帽子の中に重しを隠して突破してしまう。つーか、体重測定の貧相な下着姿に帽子をかぶって、執拗にそれを脱がないように抵抗するロバートが涙ぐましくもおかしい。
晴れて軍隊に入隊するロバート。なぜか彼を妙に慕うデブ&チビの同僚が二人。見た目完璧。しかもチビの方は、理詰めなくせに絶妙にネジがユルい。うーん、現代ならコンプライアンスすれすれかも(爆)。

やっぱりね、シチュエイションコメディというか、スタジオコントを堪能しているような雰囲気が満載なんだよね。シーラは婚約者のトムに会いに来る。そこに思いがけず宿敵のロバートがいる。もう、スタートである。
既にシーラへの恋心を自覚しているロバート。それに薄々気づきながらもまだ腹を立てているシーラ。自信満々のトム。ロバートを助ける気マンマンのデブ&チビ。
その間に軍隊生活の狭苦しさに対するコメディシークエンスが満載で、同僚たちはさっさと寝たい就寝時間に、やたらすっころんだり、何度も懐中電灯を借りたり、しつこいぐらいの繰り返しが、お約束!!って感じでさ。つい笑わせられちゃうとき、クヤシー!!とか思ってさ(なぜさ!)。

特に、シーラに会いに行くために虚勢を張って、大尉の制服を盗んじゃう、そしてその後、トム以下、やたら大尉に会っちゃう、盗んだ相手にも会っちゃう!!というシークエンスはベタながらも、最高だったなあ!
みんな、判ってるのに、忖度ってのはこーゆー時に使うのか、予定調和というか。ただ一人判ってないのが、ホントに大尉だと信じ切っている親戚のおばちゃん。尊敬の念を寄せられれば寄せられるほど、ロバート、辛い辛い(爆笑!)。

稼ぎ頭のロバートを失ってにっちもさっちもいかなくなったマーティンが、慰問ステージを企画して軍隊を訪れるところから、一気に物語が展開する。つまりここで、シーラの気持ちが試される訳である。
またしても懲りないマーティンが、美しい踊り子に恋をして奥さんとのすったもんだがある。貧乏くさく、シーラの時に用意したブレスレットを流用したもんだから、それを買い取ってシーラへの愛の告白をしようとしていたロバートだったんで、話がややこしくなる。

もうこうなったら、舞台上での結婚式というプログラムに、本物の判事を呼んで、ムリヤリ本物の夫婦になってしまおう!という、犯罪すれすれのモクロミ。おーい、だいじょーぶかー。
と、本気で思っている訳ではないさ。とゆーことは、シーラはその舞台で思う存分、つまりアステア&ヘイワースの思う存分のダンスパフォーマンスを見せてくれるということだからさ!!

ほんっとに、アステアの燕尾服にはほれぼれとする。彼は舞台映えするというか、言ってしまえば等身でいえばかなり……おおまかというか、頭が大きい、つまりお顔が大きい、しかもあの印象的な大きなお目め、しかしてそのパタリロ的(言い過ぎ!)等身で、CGかと見まごう足さばきのタップダンス。もう見惚れるしかない。
本編くまなく、何かと理由をつけて(爆)、そのワザを見せてはきたが(そもそもあの小粋なミュージシャン団がなぜ突然登場したかもよく判らんかったし)やはり、やはり、ステージを用意されれば、もうもう!!

結婚式のシークエンス、踊り子の美女連も皆、華やかにウェディングドレス。きりっとした軍人さんたちがそのお相手となり、圧巻の群舞。
そして……新郎新婦なのに、まぁまぁ、アクロバティックに、踊りまくること!!もう結末なんて判り切ってるんだから、その先にドキドキすることすらなく、ひたすら二人のダンスを堪能できるこの幸せ。

とか言いながら、ハッピーエンドのラストに、ロバートのコバンザメ(爆)のデブ&チビが、彼らを逃がすための抜け穴を必死こいて、泥だらけになりながら掘っていたのに、アッサリ二人が正式に結婚して旅立ったことを上司から知らされ、目を白黒させるラストは、ああ、いいわぁ、まさに往時のラブコメのラスト、ただ幸せ。★★★☆☆


女の賭場
1966年 84分 日本 カラー
監督:田中重雄 脚本:直居欽哉 服部佳
撮影:小林節雄 音楽:池野成
出演:江波杏子 水原浩一 酒井修 川津祐介 渡辺文雄 南廣 見明凡太朗 角梨枝子 高村栄一 夏木章 津田駿 藤山浩二 高見国一 渡辺鉄弥 若松和子 三夏伸 桜京美 山本一彦 関幸四郎 甲千鶴 北原義郎 中田勉 谷謙一 小山内淳 山根圭一郎

2019/8/19/金 国立映画アーカイブ
一時期、藤純子の女任侠物は観る機会がよくあったんだけど、不思議と江波杏子のものとは縁がなかった。劇場の上映傾向とかもあって、本当にこういうのは縁だと思う。
藤純子はほとんどが壺にサイコロが「入ります」だったが、江波杏子は本作に限らず紙下(手ぬぐい)に花札が「入ります」らしい。絶妙にずらしたアイラインが独特のなまめかしさで、なんというか、幽玄の美しさ。あの唇はヤバい。

しかし本作でなんといっても心惹かれるのは、川津祐介である。勿論、他の作品でも何度もお見掛けする、今も健在の大ベテランだが、こんなに可愛らしい人だったのかと思う。案外年若い頃の作品に、これまた出会う縁がなかったらしい。
江波杏子演じるベテラン胴師、辰造の娘で、彼女自身も腕の立つ胴師だったアキは、今は堅気の恋人も出来て、小料理屋を営み慎ましく暮らしている。川津祐介演じる政吉は辰造の子分だから、彼にとってアキもまた姐さん、な訳である。
アキの店で夫婦で働いているのんべえ奥さん(最高に面白い素敵なコメディエンヌ!)のみならず、もう誰もが、政吉はアキに惚れてるやろ!と判っちゃうような、そんな男なんである。バクチが何より好きで、賭場でならどんなムチャな度胸も出るけれど、例えば交渉事なんかには全く向いてない。つまりなんつーか、たまらなく純真な男、なのだ。

判ってる。彼の恋が実ることなんてありっこない。大体最初から身分というか、立ち位置が動かせっこない。
アキがいくら、堅気になるつもりだとしても、彼女自身が思い知らされたように、「私たちの考え方は、堅気の人たちにはどうしても理解してもらえないことがあるのは、仕方のないこと」なのであり、勿論、アキの未来の幸せはそれなりには示唆されてはいるけれど、それは暗い過去の上に積み重ねられたものなのだ。

という、その事件はもう冒頭に起こっちゃう。ある賭場。かなり大きな花会。胴師をつとめるのは辰造。塚田という辰造の相棒を勝たせるようにイカサマをしたのだと、その日初めてこうした場に訪れた、香取組代貸の立花という男に見破られた。
若く押し出しがよく、度胸のいい立花のことを、座のお歴々は一目惚れに近い状態で気に入り、一方、神聖な賭場を汚した辰造と塚田は追い込まれた。

しかし、もうオチバレで言っちゃうけど、塚田は立花に買収されて辰造にムリにイカサマを仕掛けたのであり、その後塚田が行方をくらますのは、充分な報酬をもらったから、だったのだ。
立花はもっともらしく「辰造さんは潔かった。それに比べて塚田は」と唇をゆがめるのだけれど(よくもまあ、しらじらしく!)、だからこそそれが、アキや政吉に疑念を抱かせることになるってあたりが、立花の浅慮だったということか。

そう考えると塚田が「悪銭身に付かずとはこのこと」とか言って舞い戻ってきて、立花をゆすって追い銭を手に入れるのはいかにも無謀で、立花が言うとおり「おかしな男だ。自分の香典をとりに来やがった」というのはまさしくなのだ。
塚田は……自分の裏切りで死んでしまった辰造、その娘アキに詫びたくて、そして責任を取りたくて、わざわざ舞い戻って来たのだろうか、やはり……。

「まさか辰造さんが自殺するとは思わなかった」というのは、ヤクザがヤクザのままでは認められない時代の潮目であり、だからこそアキは足を洗おうと思い、弟には大学に行かせてまっとうな道を進ませようと思い……。
でも父親は親分衆からの信頼も厚いベテラン胴師を続けているのであり、アキが営む小料理屋だって、辰造が世話になっている親分さんがタダみたいな家賃で貸してくれている店なのだ。
そういう意味では、立花が憎ったらしくアキを追い詰める、ヤクザとカタギの永遠にも思える埋めようのない溝、というのは、否定しきれないものがあるのかもしれない。

立花を演じる渡辺文雄のカリスマ性が圧倒的過ぎて、本当に押し切られそうになる。そうかそうか、渡辺文雄か!!確かに私が知ってる彼をそのまんまぱつんぱつんに若くさせれば(爆)立花になるわ!!
いや、めっちゃいろんな作品で見ているのに、なんでこんなにガツンときちゃうのか……。こういう、強引な男に、女は……そう、惹かれちゃう、からなのよーお!!ワルモンだというのは判ってる。だからこそ最後、アキはコイツを父親を陥れた同じイカサマ(に見せかけたワナ)に引っ掛け、“責任を取らせ”るんであるが、そう……責任を取る、ということをせざるを得ない世界にいることを、彼は判ってたし、だから最終的には潔く……。

でも立花という男は、もっと上手く立ち回れば“新しい時代に必要な男”だったんじゃないかという想いが、どうしてもぬぐえない。父親の仇なのに、アキの弟の広志は巧みな立花の押し出しように若者らしく心惹かれちゃって、オヤジはダメなヤクザだった、立花さんは違う、凄い人だ、オレは立花さんの組に入ってヤクザになる!!とか熱病に浮かされたようになっちゃう。
弟をきちんと大学に行かせて、自分ともどもカタギになると決心していたアキは困惑を極める。でもさ、結局アキも広志も、自分の立場の本当の意味も、覚悟も、まだまだ判ってなかった、ということだったのかしらん、とか思っちゃう。

自分たちの食い扶持を稼いでる店はヤクザからタダ同然に借りてるもんだし、アキはカタギの恋人と結婚することによって、カタギの肩書を得ようとしている……という風に言われるのはアキは心外かもしれないけど、結婚によって全てをリセットさせようとする女の心理は、この現代に至ってすら、まだ有効なのだから困ったもんなのだ。
“永久就職”なんていう言葉は、今はさすがに使われないのだろうが、感覚はまだまだ、残っている。しかもそれがアキの場合は、いわば偽造バスポートが正規に書き換えられるぐらいの意味を持つのだから。

立花がアキの女としての魅力にもクラリときて、それ以上に自分の立場を計算高く上げるために、アキの恋人、ラガーマンの守屋の目の前で彼女を凌辱する場面を演出するというキチクぶりなんである。
てゆーか、アキが守屋のアパートで待っている時鍵をかけてないこと事態があまりにもウカツで、……それはツッコミどころと言ってはいけないのだろうか……。

明らかにアキが力づくで凌辱されている状態なのに、それを目にした守屋は動揺して、一人になりたいから出て行ってくれと、この場面で一番言ってはいけない台詞を口にする。傷ついた彼女を信じてあげるどころか、信じられずに突き放す、という、あり得ない行動。
もー、この時点で私ゃ、てゆーか最初から、スポーツマンを自慢してるけど実際は何にもできないヤサ男だろ!!と思ってたので(爆)、あーダメダメ!!とか思ってたんだけど、……これこそが、カタギとヤクザの埋められない溝、という解釈らしい。

そんなんありー。いっちばん大事なこの場面で、ショックを受けたにしても、ショックを受けたのは愛する人も一緒、というか、彼女の方が大変なんだから、そこを男のプライドをぐっと抑えて抱きしめることが出来ない男なんて、その場で削除だけどね!!
……多分、示されないまでも方向性としてはさ、命をも賭した、父親の仇をとる賭場で見事復讐を果たし、すべてを洗い落とし、身ぎれいになって、守屋と一緒になる、てな未来は示唆はされている。守屋も充分考えて、広志とも話し合って、アキに対する気持ちが変わらないことも確認して、戻ってくる、という示唆はある。

でもーでもでも、あー、こんなこと言っちゃったら、もうミもフタもないけど、守屋は、ヤクザなアキの立場以上に、その闘いの場面を見てすら、ない訳でしょ!
だから、彼じゃないのだ。政吉しかいない。そのすべてを見守り、気をもみ、自分なんぞじゃ力になれないかもとか悩み、でも気になって仕方なく、最終的にはアキ自身が、この場面で頼りになるのはお前しかいないと、命を賭した危険なことだけれど、と信頼を置くのは、そりゃーそりゃー、政吉しか、いないのさ!!

立花を陥れるためにニセイカサマ芝居を念を入れて稽古する二人の、二人っきりの場面に、胸を突かれる。こんなに、こんなに信頼している二人同志なのに、その信頼は片方は思慕で、片方は信頼で、双方100%なのに、相容れない、なんて!!
そして双方、そのズレを判っている、っての切なすぎる!!……ホント、こーゆーのは、任侠映画でしか感じられないトキメキだよなあ……。

見事、立花を陥れる。それは、父、辰造の教え、一度イカサマを見破ったヤツは(てゆーか、立花はお膳立てされたものを指摘しただけだけどね)、イカサマを擬したワナには必ず引っかかる。つまり、うぬぼれだと。
こういう作品があいまいな決着の仕方をしないことは判ってはいるけれど、かなりわっかりやすいサインで立花の目を引く、引っかかっちゃうのには、そーかー、とか思う。

立花は、辰造がそうしたように、拳銃で自らの責任を取る。ドスじゃないあたりが、立花が自慢げに言っていた、旧時代のヤクザではないということかとも思うが、そう、辰造も拳銃で自らを撃ち抜いたんだもんなあ……。
拳銃なんて持ってなさそうな、旧時代の胴師に見えたのに。娘に一片も異変を悟られずに、静かに寝所に上がり、銃声をとどろかせた哀しき父親が忘れられない。

何があってもアキを守るといきごんだ政吉、そして見事立花をハメたアキ、ハメられた政吉、とどろく銃声、静かに門を出て行くアキ……思い通りの結末だけれど、なんとも形容がしがたい。
カタギとヤクザという価値観がある限り、幸福の尺度が、どこまで行っても測り切れない。 ★★★☆☆


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