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「さ」


2020年鑑賞作品

37セカンズ/37 Seconds
2019年 115分 日本 カラー
監督:Hikari 脚本:Hikari
撮影:江崎朋生  スティーブン・ブラハット 音楽:アスカ・マツミヤ
出演:佳山明 萩原みのり 板谷由夏 奥野瑛太 神野三鈴 熊篠慶彦 尾美としのり 渋川清彦 大東駿介 石橋静河 芋生悠 渡辺真起子 宇野祥平


2020/2/23/日 劇場(シネスイッチ銀座)
凄いなあ凄いなあ、こんな才能がいたんだ。海外でその腕を磨きながら、しかし日本を舞台にしてこの力作を作り、一気にその才能に注目が集まったことが、なんだか嬉しい。
ラストクレジットの製作陣にNHKが噛んでいることを知って驚いたが(脚本企画で本作が通ったのだとか)、考えてみれば当然民放の方がずっと保守的な訳で、バリバラという怪物番組を作り出してしまうだけの、マイノリティーをずっと取材し続けてきた実績が確かにあったのだろうし。

脳性まひで車いす生活の若い女の子が主人公。実際の、脳性まひを持っている佳山明嬢が演じる。そもそもハンディキャッパーの役者というのが全世界を見渡してもやはり見ることがなく(私の知る限り、忍足さんくらいかなあ)、そこを突破したことがまず何よりも大きい。
勿論プロの女優さんじゃないし、彼女は通常の社会生活を送っているのだからこの先どうこうは判らないけれど、この役を、文字通り体当たりに演じた彼女に本当に驚嘆したのだ。

正直言って、障害者映画とも言いたくなるような、あるいは難病で死んじゃうとかいうお涙頂戴もの(24時間テレビものとも言うかもしれない……)は本当に好きじゃなくて。
そらま私はハンディキャッパーじゃないから無知な地平で言ってるにすぎないけど、でも健常者に感動されるために人生を送っている訳もないし、通常の生活を同じように送っているんだからという想いを、そういうジャンルものに常々感じていたから……。そして健常者である役者さんが障害者を演じ、なんかよく賞を獲ったりしちゃう、みたいな(爆)。

脳性まひで身体が思うように動かせない人物が主人公の映画と言うと、「オアシス」を即座に思い出し、あれは確かに傑作だったが、空想の中で健常の身体となり自由に羽ばたけるという設定であることを差し引いても、“見事に脳性まひを演じた”ことに対する目はヤハリ向けられていたと思う。
でもそうじゃないのだ。見事に演じるじゃなくて、生活しているのだ。そしてその中の葛藤は、時に健常者のそれと同じものでもあるのに、何か特別のものであると分けたがるのだ。

このヒロイン、ユマにとって、親が過保護であり、いつまでも子ども扱いし、愛情たっぷりなのは判るにしても束縛きついことがナヤミなんである。それだけ聞くと、誰もが共感できるナヤミである。加えて二十歳も過ぎるのに処女である。これもそれほど少なくない数の女子がうんうんとうなずくであろう。
彼女の仕事は人気漫画家にしてユーチューバーの親友のアシスタントという名のゴーストライター。……これはなかなかにシリアスな展開である。共感ではなく、人間ドラマとしてめちゃくちゃ興味を惹かれる。そう、これはまさしく正しきエンタテインメント映画なのだ。

実際のハンディキャッパーが役者として参戦しているし、何か小難しい社会派映画と見られそうになるのを、あっけらかんと排除していくエンタテインメントとしての楽しさがとてもいい。
ユマは母親と二人暮らし。時間をかければいろんなことが自分で出来るだろうに、母親はさっささっさとユマの世話を焼く。それが冒頭のシークエンスで実に鮮烈に描かれる。夏の暑い日、汗だくで帰宅した二人、先にお風呂入っちゃおう!とよつんばいのユマをさっささっさと脱がせる。うわうわうわ、おっぱいに、あらら、パンツも脱がされてちょっとヘアまで見えてる!!

……そーゆー体当たり社会派映画かと身構える衝撃だが、そうではない。そうではないのが、素晴らしいのだ。
でも当然、一糸まとわぬ姿を見せる覚悟がなければこの役は演じることが出来ず、それがプロの役者ではない、自分自身を見せたい、それがこの映画なら出来ると思って参加した彼女だと思うと胸が熱くなる。そしてこの役のオーディションに多くの脳性まひ当事者の女の子たちが詰めかけたと知れば、尚更である。

そうなんだよね。時間をかければ彼女はなんだって出来る。それが次第にわかってくる。恐らく母親はその事実から目を背けていたんだろうことも。
素敵な出会いが次々に起こるのは、この母親の存在と、親友という名のもとに彼女を利用している美少女漫画家の存在である。ある意味どちらも判りやすい、ステロタイプとも言えなくもないが、特に日本はまだまだマイノリティーに対して身内が隠したがる風潮があるし、追い詰められて息子を殺した父親に同情が集まるような本末転倒なところがあるし。
なぜ、自立なんてできる訳がないと思うのか。それは、私たちが持つ“常識”という幅があまりにも狭い、あらゆる人に即していない、それがまだまだ、まだまだ、知られていないからなんである。

「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」で一瞬描かれた、障害者自立の問題は、あの話が何十年も前でそのまま止まっていることを考えても、あまりにも進んでおらず、ユマのように家族の介護がなければ生きていけないと思わされている、親もそう思い込んでいる例がまだまだ大半だろうと思われる。
そこに現れるのが、「私のお得意様」という熟女風俗嬢に車いすを押される、同じ脳性まひの男性で、そうかそうか、「パーフェクト・レボリューション」の彼かあ!あの作品は、原作者である彼自身の思いにはとても共感したが、映画作品としてはかなり稚拙な感じがしたので(爆)、それこそ彼自身が演じれば良かったのに……と、本作と比して思っちゃったり。

ハンディキャッパーの性生活、性衝動、その処理とか、それは恋愛以前の人間の本質としての問題を、障害を持っている人を聖人視して貶める、みたいな、そうして拒絶して、なきものにして、というのを、ホーキング青山氏もそれに対して闘っていたけれども、考えてみれば女の子の側から、フィクションの世界とはいえ、声をあげるのは、初めて目にしたのだ……だから、カンドーしたのだ。

マッチングアプリで様々な男と出会う。その誰もが個性的という名の変人ばかりで、もうその時点で、彼女の身障者だという“個性”がぶっ飛ぶのが楽しい。
もじゃもじゃヘアでおでぶのオタク男子は判りやすい切り口だが、エキゾチックなアフリカンかメキシカンあたり入った男子がサイケデリックなメイクのコスプレで、「写真撮っていいよー」とかクネクネ言うのには爆笑!!
しかしてユマはまだ、その意義に気づかず、無難なイケメン男子と第二段階のデートにこぎつけようとするが、あっさりすっぽかされてしまう。

何より、なぜこんな行動に出ているのかというと、親友の呪縛から逃れて独り立ちしたいユマは、唯一原稿を見てくれたアダルト漫画誌の女編集長から、セックスの経験がない妄想では、いい物は描けない、と言い放たれたからなんであった。
物語の最後に、ユマはこの編集長(板谷由夏。めっちゃカッコイイ)に、自分の人生を変えるきっかけをくれたとお礼に行く。確かにここから、ユマの人生は舵を切ったのだ。

とにかく経験をしなければ、と夜の繁華街の客引き(大好き、イイ人、渋川清彦!!)が手を打ってくれて、すわ処女喪失かと思いきや……。
おもらししちゃったのは、緊張していたのか、身体的なことなのか判らないけど、そんなことで、うっわ、もう萎えたわ、ごめんね、これ以上ムリだわとか言って、セコい値引きで手を打ってそそくさと出て行く、一見はイケメンだけどプロとしてもなってないサイテー男!!……ビンボーくさいこのラブホテルのシーンは、辛かったなあ……。

このラブホテルで出会ったのが、先述した車いす男性と彼をお得意様として、しかし半恋人ぐらいな親密さで寄り添う舞なんである。渡辺真起子、サイコーである。もー、大好きである。もうそこそこイイ年だと思うんだけれど、いつまで経ってもこーゆー役が超似合う。
彼女がユマを、女の子が普通に楽しむべき世界に連れ出す。ユマが思い詰めて家出をした時には「青春だねえ!」とその背中を押し、当面の資金まで用立ててくれる。

彼女の行動はヘタするとこういう物語に登場するイイ人にありがちの、ご都合主義の陳腐なキャラクターに陥りそうなところなのだが、渡辺真起子自身のパーソナリティーが反映されていると言いたいぐらいの、この、せつなを生きているカッコイイ女が、フィクションの中のリアリティと言いたい印象深さで、ああ、彼女でなければこの役をこの言葉をこんなにも説得力あるものに出来ない!!と思っちゃう。

そしてもう一人、主人公以外では本作における最重要人物と言える、ユマを手助けする介護士の青年、俊哉を演じる大東君が素晴らしいんである。なんかいつのまにやらイイ男になっちゃって、いや、本作における彼の演じる男がイイ男なのか、なんかウブな印象を持っていたから、かなり意外で。
正直、ユマが経験を持ちたがっていたし、彼はとてもいい青年、イイ男だから、ユマの相手になってくれないかなとよこしまな妄想欲望希望を持ちながら見ていたんだけれど、一緒にタイにまで行くのに(!)、清らかな関係のままで、うおー!!なんか逆にゴーモンー!!(爆)。

そう、タイにまで行くのさ。パスポート持ってたのかなとか余計なことを思ったり(爆)。だってお母さんとケンカした状態で飛び出したから、そもそも必要なものさえ持っていたのかどうかと思ったし。
お父さんに会いに行った(死んじゃってて会えなかったけど)先で、自分の知らない双子のお姉ちゃんが、しかもタイで教師をやっているという驚きの展開で、パスポート……とったのかな……つまらんことが心配になっちゃう……。

ほんっと、こんなにも、大きな展開になるなんて、思わなかった。正直、ホストの男を頼んですわ処女喪失、というだけでも充分衝撃だったのに、まさかのまぶたの父、そして存在さえ知らなかったお姉ちゃん!!
ユマを束縛しまくっていた母親に、ママが一人になるのがイヤで私が何も出来ないと決めつけてるんでしょ!!的なことを言い放った場面はまさにクライマックス、転換点であった訳だが、その裏にこんなドラマが潜んでいたとは……。

若干、ベタな家族ドラマの要素な気もしなくもないが、逆にね、障害を持つ娘だから心配しすぎてベッタリで子離れできない、などとゆーことこそがベタなのだと切り捨てるために、同じなんだと、一緒なんだと、悩むところなんて、こんなもんだと。逆説的に証明するために、設定したようにも思えて。
ユマがその存在さえも知らなかった姉に会い、彼女は「私は、ユマちゃんのこと知っていた。でも障害があるって聞いていたから、怖くて連絡できなかった」というあたりはユマというアイデンティティ故であるとは思うけれど、本作をすっきり爽快な感動で見られるのは、常に、人間が持つ悩み苦しみは、誰もが大して大差ない、ハンディを持つとかマイノリティーとかいうこと以前に、原始的、根本的なものなのだと。
それを踏まえてないからこそ、本質が見えてこない、差別や優越の意識が産まれるのだと、それも高らかにじゃなく、平らかに、そうだよと、言っている気がしたんだよね。

ユマのママは、自分だけでユマ一人を囲い、父親からの便りも彼女に見せず、いつのまにやら父親は死んでしまっていて……でももう一人の娘のことを、忘れていた訳ではそりゃあない。その胸中を思うと……色んな想像が浮かぶけれど。
長々の家出から帰ってきて、すべてを自分の力で知り得てきた力強き娘の前で、はたはたと涙を落とすママ、そのママを自ら抱き寄せるユマ、まさに形勢逆転、いや、対等、涙がとまらねーんである。

弱かったのはママの方。それを見ないふりして、娘には自分がいなければと言い聞かせて。でももう一人、忘れたふりの愛する娘がいて……。ああ。
そう、もうこの時点に至っては、ユマの障害は物語として全く関係がなくなる。めっちゃ重要である。先述したけれど、だれもが普通に暮らして、誰もが色んな問題にぶちあたって、誰もがそれを乗り越えようと頑張ってるんだと。

ユマの漫画家としての才能が、見出される予感を示しながら終わる幸福なラスト、カルチャーやセクシャルなど、しっかりとエンタテインメントの楽しさ、もうこれこそですよ。メイ嬢のやたら可愛い声にもヤラれたしさ! ★★★★☆


サイコウノバカヤロウ −青森純情編−(発情物語 幼馴染はヤリ盛り)
2019年 分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:小松公典
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:川上奈々美 工藤翔子 辰巳ゆい 櫻井拓也 細川佳央 ささきまこと モリマサ

2020/10/24/土 劇場(テアトル新宿)
「サイコウノバカヤロウ」の一般タイトルで先に一作作られているということを後で知り、えーっそれも観たかったと思ったとたん、あれ、そういえば「自分レンタル」っつーテルの台詞に引っかかったな、聞き覚えがある、ひょっとして……と思ったらなんと偶然、本当に偶然、この自粛期間中にCSで録画しまくって観た中にあったのだ(「レンタル女子大生 私、貸します。」)。うっわ、ラッキー!!

そしてヒロインの川上奈々美、キーマンとなる細川佳央ともどもここ数年の竹洞作品に続投で、端正な見た目とそれに呼応するような繊細な芝居が素晴らしく、それをこのぶっ飛び明るいテルを支える役回りで実に素晴らしい。
テルに扮する櫻井拓也氏も竹洞作品出まくりだよね。まあピンク作品は役者陣はほぼ持ち回りのようなところはあれど、竹洞作品で突き抜けた印象を確かにここ数年受けていたなあと思う。そしてこの愛すべき“サイコウノバカヤロウ”のテルはまさに彼の当たり役なのだ。

竹洞監督がこだわってやまない愛する故郷、青森で本作も撮られている上に、物語のメインテーマが過疎化が進むこの地を宣伝し、人を呼び込むPR映像づくり、というだけあって、十和田湖を筆頭に目にしみる緑の山々といい、素晴らしいロケーション映像である。
毎回竹洞作品ののびのびとした、のどかな、そしてもちろん美しいロケーションには感嘆するばかりだが、本作はそれがめちゃくちゃ際立っている。

早速物語の冒頭から、まあなあんと、ドローン撮影である。それで驚く時代じゃないんだよね。
でもその昔は俯瞰映像なんてヘリをチャーターしてめっちゃお金かかるってイメージだったから、こんな家電量販店で買える手のひらサイズの機械で昔のヘリ撮影に匹敵する、いや凌駕さえする映像が撮れるだなんて時代が来るなんて想像してなかったからさあ。

そのドローンをぼんやりと撮影しているのは、この地にUターンしてきた道夫である。演じる細川佳央氏は、彼はこういう陰鬱な青年がひどくよく似合う。
どうやらなにがしかの事情があって帰って来たものの引きこもり状態にあるらしいのだが、彼の父親もテルの両親も口ごもるばかりでなかなか事情が判らない。

後から思えば、本人にしか判らない道夫の苦悩を安易に語るべきではないという、涙が出るような優しさだということが判る。でも猪突猛進のテルは、なんだよう、教えてくれよう!!ぐらいの勢いである。
そもそも物語の冒頭で、彼の愛すべきキャラは爆発している。道夫がぼんやり飛ばしていたドローンが彼の顔面を直撃したんである。久しぶりの再会に……後から思えばテルの方ばかりがはしゃいでいたのだ。

成り行きでテルを家に招き入れてレトルトのバラ丼なんぞを食わしてやっている道夫は一応話を合わせるものの、どこか腰が引け気味なのだ。
「(ご当地グルメの)バラ丼だって、レトルトだよ。東京でも食えるって」と、久しぶりの故郷と地元の友人との再会にはしゃいでいるテルに水を差すんである。

テルは父親が腰を痛めたから農作業を手伝いに来いと言われて、一時的な帰省であるのだが、実家に帰った途端両親のアンアン言う声が聞こえてきてショックを受け、道夫の家に再び転がり込むシークエンスがサイコーである。
こういう展開はいかにもピンクあるあるなんだけれど、でも両親の、しかもいい年した両親がセックスしているんだということへ衝撃受けちゃうのが可愛い。

家に入れなくて友達の家に転がり込み、ダンゴムシみたいに布団に丸まっちゃう、小学生かよ!!みたいな落ち込みよう、寝床をとられた道夫とプロレスごっこさながらにくんずほぐれつ、なんかアヤしい体位になったところの道夫の父親が顔を出して、す、すまん!!みたいな(爆笑)。
なんかもう……子供か!!って愛しさ。まさにその愛しさでテルは、彼なりに苦悩もしながら、親友、道夫を苦悩の淵から救い出そうと奮闘するんである。

道夫は父子家庭、なのだろうなあ。特に明示される訳ではないけど、母親の影がない。死別したのか離婚したのかさえ明らかにはされない。そんなヤボなことは言わないんである。
一方でテルの方は、先述したようになかなかのお年頃になっても両親はラブラブである。いいことじゃないの、と思う。一般タイトルとなっている「サイコウノバカヤロウ」はまさにテルに対して母親が言う言葉なのだが、それは最高の褒め言葉である。
両親のセックスに子供みたいにショックを受け、親友の危機に子供みたいに使命感を持ち、特に綿密な計画も持たないまま突撃して返り討ちにされ、しょげてさ……。

ところで“自分レンタル”なんだけど、これだと単なる、苦悩する親友を助けるために奔走する話なんだけど、そこには道夫の父親がテルを正式に雇う、つまりレンタルする、という経緯がある。
前作のようにハッキリとレンタル業だったのと比べて、あまり意味がない気もしたのだけれどまあ、気にしない気にしない。

道夫の父親は、道夫が映像の夢破れて東京から帰ってきたから、故郷であるこの地でその経験を生かして映像の仕事をしてもらおうと振ったのだが、それが逆効果だったかもしれないと悔やむ。
東京で大きな仕事をしようとしていたのに、地方でのこんなショボい仕事をお情けみたいに振られて、ますますみじめにさせてしまったかもしれない、と。

それは一理あるかも……と一瞬思いかけて、いまだにそんな、中央集中型の幻想にとらわれているのかと自分をぶん殴りたくなる気持ちになる。そんな価値観は、平成どころか昭和ですたれた筈なのに。
日本中、いや、世界中のどこにいたっていい仕事はできる。それを竹洞作品はいつだってこの素晴らしいロケーションで証明してるじゃないのと。
でも、根強く残る中央主義は、ことに地方で生まれ育つと東京への憧れはハンパなく、夢破れて帰ってくる際のダメージも揺り戻しの幅が大きい。

道夫とテルともう一人、道夫のカノジョであった雅美と三人で仲良しだったあの頃、恐らくテルはひそかに雅美に恋焦がれていたんだろう、もんやり霧がかかったような妄想エロエロシーンが次から次へと用意されている(爆)。
ピンク必須のカラミの尺が、テルの妄想に結構な尺を割かれているところが可笑しくもあり、エロではないところに力を注いでいることへの証明であると思う。
ピンクにおけるエロの意義は難しく、それをここまで突き放して妄想コメディにしちゃうのは勇気がいることだと思う。

いや、道夫と雅美のセックスシーンはある。テルの方が妄想だからこそ、この救いのなさが哀しい。
雅美は道夫が東京に出て行ってしまう時に、行かないで攻撃を仕掛けてひと悶着起こしている。それだけ二人は好き合っていた訳なんだけれど、結局、なんていうのかな、道夫が“大きな口を叩いて出て行った”のにおめおめと帰ってきてしまったことに、雅美は彼に対してどう接していいか判らない、のだ。
そしてそれは道夫の父親もそうだし、彼を知る親しい、この地のすべての人が、そうである。それが先述した、すべての人がもごもご口ごもってしまう原因である。

そこをテルは一点突破しようと奮闘する。その理由は道夫の父親にレンタルされたことだが、むしろそれを公的足がかりに、猪突猛進である。道夫からシャットダウンされて落ち込んだ時、母親からそんなことで諦めるのか、と背中を押されたことも大きかった。
この母親、てゆーか、この両親と一人息子の関係が最高にイイのだ。今でも夫とセックスしちゃうぐらい仲がいい(何度も言っちゃうが、これって理想的だと思う……)母親は、デキが悪いけど常にまっすぐで一生懸命な息子のことを100%、信頼している。

この母親が作った総菜とかを捨てられず、おっそろしい日付のタッパーが冷蔵庫の中に積み上げられているエピソードが印象的に深堀りされるのだが、それをテルは単にズボラでほっときがちな性格だからだとしか思ってなかった。
でも父親がぽつりと言ったのだ。母さんが始末(節約ということだろうな)してくれるから生活できている。テルが東京に出られたのだって、そうだ。素直なテルはハッとしちゃうのね。なんて素直なイイ奴……。私も含めすべての自分のことしか考えられないナマイキな子供たちはそのことに気づければいいのに……。

道夫の苦悩を突破したい。お前なんかに判るかと突き飛ばされて、テルはなすすべもなくなった。だけど母親からこんな風に背中を押されて、スイッチが入った。でも特段、いいアイディアがある訳じゃないの。だってテルだから(爆)。
猪突猛進はそのまま、なんだけど、先述したように本作には大事なメインテーマがもう一つ、ある。この地のPR動画である。一人でアイドル活動している、アイドルというにはトウのたった女の子が売り込んできたり、テルが道夫の父親にハッパかけて共にスポンサー探しに奔走したり、すっごく、頑張るの。

それはさ、道夫がうじうじしているのを喝破すべくの材料よ。誤解を恐れずに言えば、親や他人の心配をエサにしてうじうじしながら生き延びるなんて甘えてるのよ!!
……誤解を恐れずに言えば、よ。そんな単純なことじゃないことは判ってる。ますます追い詰められる人だっているだろう。ただ、その手前なら。救い出せる心理状態のところにいるなら。こんな荒療治だって、愛、なのだ。
そして無事、無事、道夫は彼らの愛によって生還!その感動的場面をちゃっかり映像に残してPR動画に使っちゃうあたりのしたたかな茶目っ気さ!

何より道夫のカノジョだった、今は役場で道夫の父親の部下として奔走している雅美、扮する川上奈々美嬢が素晴らしい。ここ最近、彼女の出演作品を偶然ながら集中的に観る機会に恵まれている。
スレンダーな身体に小さめのおっぱいはストイックな印象を与え、AV、セクシー映像系からの巨乳エロ系参入が多いピンクの中では異質な感じ。

元カレを心配しまくるシリアスパートと、テルの妄想の中に登場するエロエロパートと、双方振れ幅がナチュラルそのもので、素敵である。
こういうのが理想なのよ。レロレロキッスもおっぱい出すのも、ヘア出すのも、何がそんなに問題なの。役者はすべてを見せる準備がある職業で、その上に芝居というとてつもない仕事が待っている孤高の存在だ。
そんなことを、素晴らしき芝居と素晴らしきエロと素晴らしい妄想とバカを見せてくれた彼らに思ったりする。★★★★☆


さくら
2020年 119分 日本 カラー
監督: 矢崎仁司 脚本:朝西真砂
撮影:石井勲 音楽:アダム・ジョージ
出演:北村匠海 小松菜奈 吉沢亮 小林由依 水谷果穂 山谷花純 加藤雅也 趙民和 寺島しのぶ 永瀬正敏

2020/11/21/土 劇場(新宿ピカデリー)
静謐で詩的な矢崎作品の世界は商業エンタメというには禁欲的で、だから直木賞作家作品、キラキラなキャスト達にちょっと不思議な感じがしたのだが、全くだった。
腑に落ちた、という言い方はおかしいかもしれないけれど、そんな気がした。

三人きょうだいたちは中学生だの高校生だの、大学生であったって役者さんたちの実年齢よりかなり離れていて、それは昨今の映画事情ではさして珍しくもないことなのだけれど、本作に限っていえば、それが何か、矢崎作品のリリカルさ、誤解を恐れずに言えばナマな現実というよりフェアリーテイル、でもそのフィルターを通して現実が見える、といった、優しさのベールのようなものを感じてしまう。

それは彼らの両親はもっと顕著である。現在の時間軸での彼らはこんな年頃の子供たちを持つ親の年代そのものだが、物語の大半を子供たちが幼い頃、あるいは、出会った頃さえそのままの彼らが演じているもんだから、その頑張りようにちょっとほほえましくさえなったりするのだ。

彼らはとても幸せな家族だった。だった、と言うべきかどうか迷う。とても辛い事件が彼らを襲い、大事な家族を一人、失ってしまうから。
でも確かに幸せな家族だったし、今そのことを思い出して、幸せな家族だよねと言いたい結末に向かおうとしているのだと思いたいのだ。

現在パートも少し、昔風な感じがする。末娘、美貴のセーラー服、膝上丈の彼女たちがぞろりと長いスカートの不良女子たちに生意気だと呼び出されたり。兄弟二人も懐かしき詰襟ガクラン、私服ファッションもなんだか懐かしき昭和の匂いがする。
そういやあスマホが登場していない。兄、一(ハジメ)の彼女が、母の恋人の転勤に伴って遠くに引っ越し、その通信手段が手紙とイエ電だというのだからこれは確実である。スマホがあったなら、思い合っている彼らの連絡が途絶える筈がないのだ。そしてそんな時代が迎える不幸は……時代のせいではないのだけれど。

兄と弟はせいぜい1つか2つ離れている程度だろう。同じ高校に通っているのだから。モテモテのお兄ちゃんあてのラブレターを預かったりする弟の薫である。自慢の兄ちゃんだから嫉妬も何もない。
でも彼もまた結構優秀な男子である。校内一の秀才女子にくわえ込まれて以降、彼女とセックスしたいがためという訳でもないだろうが、成績が彼女に次ぐ二番。友人たちにからかわれるが、彼に恋という感情は芽生えていない。性欲が先に来て童貞を失って、ずるずると付き合っている。

しかし兄の一は真剣な恋をしていた。突然彼女を家に連れて来た。ひどくべっぴんさんだがアイソがなく、勇んで迎えた母親はぶんむくれたけれど、それは一時的だった。
妹の美貴はそもそもその事実自体を受け入れられず、部屋に閉じこもり、不快な音を立て、ただただシカトしまくった。薫は恋をしている兄を最初、不思議な視線で眺めていた、のは、彼自身、童貞どころか恋という感情さえ知らなかったからに違いない。

複雑な家庭環境に育った彼女、矢嶋さんは恋人の家に行ってふるまうべき態度さえ、身に着ける術がなかった。それが、回を重ねるごとに自然な笑顔を見せ、長谷川家の愛犬、さくらとも触れ合うようになった。
恋の力を弟の薫はつぶさに見て取り感嘆するが、妹の美貴はそうはいかなかった。遠距離恋愛となり、手紙のやりとり、ということになる段に至ってイヤな予感はしていた。

美貴はブラコンという以上の感情を抱いていたのか、それは何とも言い難いところである。少し年が離れて産まれた女の子を、兄二人はもちろん、両親も溺愛して、甘やかされまくって育った。
一人で寝られるようになるにも時間がかかったし、特に長兄にべったりで、次兄の薫のことは、カオル、と呼び捨てにするあたり、同輩ぐらいに思っていたのかもしれない。そういう意味では一は長谷川家の星だったのだ。

冒頭で、“2年間音信不通だった父親から年末に帰ってくるという手紙が来る”というくだりが示されるから、しょーもない父親が女でも作って行方をくらましたか、と思わされるんだけど、トンでもないんである。
この夫婦は見てるこっちのほっぺたが赤くなるほど愛し合っている。幼い頃の三きょうだいがアノ声を漏れ聞いてしまって、美貴が無邪気に問いただしてしまい、兄二人が慌てふためく場面は心が温まりまくる。

魔法、という言葉で多少ぼやかしてはいるものの、ほぼほぼストレートに、愛し合ってセックスしてあなたたちが産まれたんだよ、ということを、朝日きらめく朝食の席で幸せそうに言い聞かせるお母ちゃんと、気まずくしながらも余計な口を挟まないお父ちゃんの姿に、ああ、ああ愛し合ってる夫婦の元に産まれた子供たち、なんと幸せな家族!!と思うんである。

お父ちゃんが行方をくらましたのは……一が、自殺してしまって、その後だった。
その単純な事実だけではない。あまり言いたくないことがある。一の恋路をジャマしていたのは、そう……観客も予想していた、美貴であった。手紙を先に抜き取って隠していた。
「凄くきれいな封筒なの。どこで買うのかって思う。ポストを覗くと輝いてるの」まるで宝物を大事にとっとくかのように美貴は薫に言ったけれど、もちろんそれがどれだけ残酷で、人としてやっちゃいけないことか、やってる時から判っていたに違いない。一が恋人と連絡がとれないことで、どんどん落ち込んでいくのを、美貴はどんな思いで、手元に手紙を抜き取って思っていたのか。

判らない、判らないのだ。美貴は兄を愛するあまり、子供帰りしたり、ヘンにはしゃいだり、ちょっと精神的に落ち着かないさまを繰り返すのだ。
中学(だよね?)を卒業しても、彼女は進学しなかった。その時、大学から里帰りしていた一は不慮の事故に遭って、下半身が動かず、右顔面がぐしゃぐしゃになってしまうという、あまりな不幸に遭っていた。
その直前、一は弟と妹に宣言していたのだ。矢嶋さんに会いに行って確かめる。そのためにバイトをして金をためている、と。その直後の事故だった。

美貴は何故、自分の残酷な仕打ちを次兄に打ち明けたのだろう。いや……打ち明けずにはいられなかったのか。こんな罪の意識を墓場まで持っていくには、美貴は甘やかされ過ぎた、のか。
いや……人間、育てられ方で決まる訳じゃないと思う。人間は人間そのものだと思う。だとしたら美貴は弱い人間だったのか。

美貴に友人が出来る。薫のナレーションによればどうやら初めての友人、らしい。この時点でハッとする。美貴は家族の中にしか人間関係がなかったのだ。そして長兄が恋人、次兄が友人、だったのだ。同性であっても母親は、自分を愛しつくしている存在に過ぎない。
初めての親しい同性との付き合いは、不思議な色合いを帯びる。いつの時代もある、この年頃の女子によくある、友情と恋愛のアイマイさである。てゆーか、相手のカオル(カオル、なのだ……)はその想いを卒業式に校長からマイクを奪って宣言し、美貴は幸福な笑顔を浮かべる。かといって、セックスどころかキスさえしてない。見た目的にはただただ仲の良い友人同士、なのだけれど……。

この友人の家庭環境もちらりと語られるだけだが、ちょっと聞き逃せないものがある。
「8人きょうだいだから、誰が帰ってないかなんて、把握できてない」から、しょっちゅう長谷川家で気兼ねなく夕食を食べていく。そして、「カオルのお母さんは目が見えへんねん」とこの時は屈託なく美貴は言ったものなのだが。

考えすぎかもしれない。目が見えない、ということと、事故で障害を負ってしまった一とつながらせるべきではないのかもしれない。
ただ……盲目で家族を持って、しかも8人もの子供を持ってて、子供が外でお夕食を頂いて一人や二人いなくても気にしてなくて、と見えるカオルの環境。実際には判らないけれど、カオルは親やきょうだい、家庭環境に不満があるようなことは言わないし感じさせないし、それより前の前提として独立独歩、自分が責任もって行動する、誰が好きってのも誰にも邪魔されずに宣言する、みたいな、強さがあった。

サラリと触れるだけってのが、いい。でも確実に、長谷川家のメンメンとはそこが、違ったのだ。目が見えない親を持つ彼女にとっては、障害を持ったことで絶望して死を選んでしまう一の気持ちは弱く映ってしまうかもしれない。決して決して、そうではないんだけれど。
そして彼の死に、お兄ちゃんを深く愛したが故の妹の行動が関わっていたこと。でもだからといって、彼女に責任がある訳じゃない。事故が起きなかったら、彼は彼女に会いに行けた。事故は事故であって、美貴のせいである筈がない。
会いに行けたなら、美貴が手紙をランドセルに隠していたことだって、笑い話になった筈なのだ。なのに、なのに……。

その全てを、愛犬のさくらが見守っている。なんたって、タイトルロールである。本当に素晴らしい“女優”っぷりで、驚くばかりなんである。
ラストシークエンスでは、ヒヤリとさせられる。2年ぶりに帰ってきた父親。音信不通ではあったけれど、ちゃんと生活費を振り込んでくるマジメさが泣ける父親。でも、この辛さから逃げ出した弱さを自身で判っている父親。

そんな時にさくらの様子がおかしくなる。年齢的にもいい年であるから、スクリーンのこっち側の観客も、うっわ、それを見せられるのかよ、とゼツボー的になる。さくらを診てくれていた動物病院はもうなくなっている。「2年もいないからそんなことも判らないのよ!!」とこんな時なのに、お母さんはお父さんにウラミをぶつけてる。
でも、お父さんは、めちゃめちゃこの周辺の、周辺どころじゃない、遠くまで、あちこちの、動物病院、知っているのだ。大晦日だから、どこも閉まってる。でも、だったらこっち、だったらあっち、と、大晦日のしんとした暗闇の中、ぐったりしたさくらを抱いて泣きそうな美貴、薫、奥さんを乗せて、車を走らせるのだ。

本当に、死んでしまってオワリかと思った。ヤだヤだ、と、緊張して身体をこわばらせた。信号無視したことか、スピード違反か、パトカーに止められた。
病人がいるんですよ!!と父親が大声を出した。病“人”じゃないけどなあ……と、ハラハラしながら見守っていると、美貴が、泣きそうになりながら美貴が抱いていた、それまでぐったりしていたさくらが、ぶう、とおならをして、びちゃっとウンチを美貴の手のひらにぶちまけた。そしてしっぽを振り振り、すっかり元気になったのだ。

ああもう!そーゆーお笑いな雰囲気じゃない作品だったのに、でもでも、すっごくホッとしてしまう。人間が死ぬのもイヤだが、今それなりの妙齢の愛猫と暮らしているこちとらとしては、犬猫さんが死んじゃう映画はマジ辛いから。少なくとも人間の勝手な都合で間に合わないとか、手を尽くせないとか絶対ヤだから。

そう思うと、一には、手を尽くせなかったのか、これは彼にとって最上の選択で手を出せないことだったのか。
さくらは一の死を見守っていたのだ。夜中散歩に出て、さくらの目の前で一は、さくらをつないでいたチェーンを木に巻き付けて、首を吊った。それをさくらは見守った。見守るしかない立場にさせられて、その後彼女は“口を利かなくなった”。

言葉を喋る訳じゃない、犬猫は、そうだけど、私の愛猫が“口を利かなくなった”ら、どんなに辛いか、辛い思いをさせたかと、思う。
お兄ちゃんのお葬式で、美貴は完全に壊れてしまって、薄笑いを浮かべ、ふらふらと歩き回り、おもらしまでしてしまう。取り返しのつかないことをしてしまったことを示す、こんな辛い表現があるだろうか。

でも、生きて行くしかないし、誰のせいでもないし、自分の人生は、自分が責任取るしか、ないんだよね。他人の(それが身内であっても)人生に責任があるだなんて、うぬぼれにしか過ぎない。
学生の頃の価値観や立ち位置、スターか、誰にも認識されていない無存在か、それがどんなに意味のないことかは、ほんの10年も経ってみればすぐわかる。
でも、10代、20代前半あたりの頃にはそれが死ぬほどの辛さであり、それを親世代や、大人たちは、なぜ止められないのか。こんなにのんきに生きられてるよということを伝えられないのか。
人生折り返し地点になって(つまり100まで生きようと思ってるさ)、そんなことをつらつら考えたりする。★★★★☆


さくら盃 義兄弟
1969年 83分 日本 カラー
監督:中川信夫 脚本:若尾徳平 西田一夫
撮影:中尾利太郎 音楽:小沢秀夫
出演:高橋英樹 村田英雄 北島三郎 北林早苗 松風はるみ 小松みどり 千秋みつる 山北尚樹 加賀邦男 青木義朗 渡真二 小林利造 上田吉二郎 森山周一郎 野本礼三 榎本良三 武藤英司 杉義一 伊藤寿章 大友純 笹川恵三 持田京子 永井柳太郎 坂野比呂志

2020/6/17/水 録画(日本映画専門チャンネル)
なかなか観る機会が今までなかったけど、村田英雄は任侠スターだったんだなあ。あの独特の濃いお顔がだんだんかっこよく見えてきた。そして高橋英樹が瑞々しく若い美青年の頃の!やっぱりこの中ではひときわのモデル顔(?)。
冒頭は同じ組の幹部と若手といった趣の二人が、自分たちの親分を待ち伏せするところから始まる。あくどいやり口で材木相場で利益を得ている親分を身内の目の届かないところでいさめる目的だったが、この老獪は開き直ったもんだから押し問答、この親分さんはよぼよぼのくせに刀を持ち出して子分たちに斬りかかり、それを必死に止めようとして、で、親分さんはなんか自分であーれーみたいに自分を刺しちゃった。そんなバカな!!

伊介(村田英雄)は新次(高橋英樹)に逃げるように促す。お前は未来がある。この場は俺が収めるからと。そして時間はいきなり飛び、新次は縁日の祭りに幼い男の子を引き連れて遊びに来ている。えーっ、子持ちだったの??と思ったが、後に知れるにお姉ちゃんの子供である。
ここで再会した伊介に言うに、病身の姉が心配でつい里心がついた、というところらしいが、それに返した伊介は苦労をかけたとねぎらいながら、「現場の状況から警察は簡単にカタがついた」えーっ、それなら別にムリに旅に出なくても良かったのに……しかし、あの状況は殺したと疑われても仕方ないような……そんな簡単にカタがつくのか??確かに親分さんの刀で、親分さんしか振り回してないけど……。

割と本作はそーゆー具合に、雑なところどころが気になるが、まあ気にしない気にしない。伊介ももともといた組にはいづらく、今は春駒一家に、しかも代貸までなっているのは、キャリアと人徳がものを言っているのだろう。
しかしここにも不穏な空気が。そもそも新次と再会した縁日で、新次はアコギなイカサマに引っかかっていたおじいちゃんを助けたところを当然インネンをつけられて大立ち回りになる、その時に新次は竜神組の一家ではないかと疑われたんであった。

竜神組というのは、このところ大いにのし上がってきている一派だが、後に伊介が吐き捨てるようにいうところの、「土建屋上がり」なんである。
このところの東映チャンネルを見ていると、侠客、ヤクザ、暴力団、といった堕落(爆)の道筋がよく判り、その中に土建屋だのテキヤだのが仁義や道義を無視した、ビジネスとしてヤクザの世界に入り込んでくる図式が見えてきて、戦後史のひとつのようで、面白いんである。

土建屋でもテキヤでも、それをまっとうな商売としてやっているんなら、伊介や新次のような筋金入りの侠客でも、そもそも住む世界が違うのだから、ぶつかり合いはしないだろう。
竜神組は商売の敵としてまっとうにたたかうんじゃなく、あこぎなマネをして春駒組をぶっつぶそうとしている、その空気がぷんぷんと匂うから、伊介は口を曲げて、あの土建屋上がり、と吐き捨てるのだ。

しかしなんたって途中から入ってきた伊介だから、組の中では微妙な雰囲気である。勿論彼の力量に任せられてはいるのだが、ハッキリと反発してくる男がいる。
名前を言っていた覚えがないんだけど、データベースを信じれば南村という男である。ザ・コワモテである。シマを守るためならイカサマも辞さないとか一見筋の通ることをいうんだけれど、常に伊介に、というか組に歯向かう狂犬のような雰囲気が最初から不穏である。

オチバレで言えばコイツは最初から裏切り者で、竜神組のスパイというか、イヌであり、竜神組が狙っている春駒組の人足鑑札を卑怯な手口で奪い取るために雇われた、ってところである。
口では仁義がどうのと言うけれども、それは竜神組の活舌の悪い(ホント、聞き取れない……)おいぼれ親分の、仁義だのというものは小道具に過ぎない、都合のいいように使えばいい、ってな考えの持ち主なんである。

そのことにより、女たちがことごとく不幸になる。てゆーか、仁義がないことを言い訳に、ちょっとそれはあまりにザツなんじゃないの、という事態が次々と横行するんである。
新次の病身の姉が、新次を探しに来た竜神組の手合いによって刺殺される。えっ!探しに来ただけなのに。そして部屋の中を探しもしないで……てか、彼女は息子を隠すために立ち向かったんだけど、その確認もしないで、カタギの女を殺す??だだだって、冒頭のシークエンスで、この時代にはもう警察が機能しているちゃんとした時代だということは示されているのに、あまりにムチャな……。

もう一人、南村と竜神組の料亭での作戦話をこっそり聞いていた仲居も殺される。「聞いていたな」のひと言でブスリである。そんなバカな!!
そりゃ確かに彼女は新次に関わりのある女で、そのことも知ってのことであろうけれど、先述したように、何もかも無法の時代の話じゃないのに、そんなバカな!!

この女は、先述した新次が縁日で騙されかけてたじいさんを救った、そのイカサマをしていた女である。彼は彼女の顔に見覚えがあった。故郷の大店の娘に間違いないのだ。どうやら没落してこんなことになったらしいことを見て取った新次は、自分の立ち回りのせいで彼女が更に苦界に売り飛ばされたことを知り、自責の念に駆られて、落籍の金を作るために竜神組の賭場に向かう。
えーとー。バカなんですかい。だってあんたが春駒組の代貸、伊介と深いかかわりのある人物だってことは当然竜神組は知っているし、そもそもあんた自身が冒頭、竜神組と間違われてエラい目に遭っているのに、なぜそんな判りやすくワナにはまることをするのだ。

てか、大分展開をすっ飛ばしちゃったけど、そもそもこの竜神組のしでかす作戦は穴だらけとゆーか、そもそもの意味が判らないとゆーか。
縁日のシーンで娘に弁当を届けられていた易者が、春駒組(てゆーか、南村)がイカサマをしていたことを暴くキーマンとして竜神組に雇われるんだけれども、そもそもなんでこの易者じゃなくちゃいけなかったのか、なんとまあ易者の娘をかどわかして言うことを聞かそうというほどの荒手に出ていたのに、次のシーンではあっさり易者は賭場にいて、あれれ……と。

しかも口封じかあっさり殺されちゃうし。だったら娘をさらうなんてことをしたのは何だったのか、そもそもなんでこの易者のじいさんにこだわったのか、訳が判らない。
何度も言っちゃうけど、竜神組の親分さんがあまりに活舌が悪くて何言ってんだか全然聞き取れないんだもおん。恐らく政治家か官僚と思われる人物を接待し、人足鑑札の件を打診する、おぬしも悪よのう、みたいな場面にはその活舌の悪さより容貌の憎々しさが似合ってて良かったけどさ。

そう、つまり、春駒組の方からケンカを仕掛けた、という形が欲しい訳。竜神組の仁義に背いたやり口に春駒組があったまきた!と切り込んでいく形が欲しいのに、なんたって冷静な代貸、伊介は南村やその腰ぎんちゃく(でも何にも知らない)がどんなに焚きつけても、冷静に、これはワナかもしれない、と沈着である。
でもこともあろうに、新次が竜神組の賭場で稼ごうとするんだもんー。これはありえないでしょ。伊介が収めようとしてヒドい目にあうという、クライマックスというか、大いなるきっかけづくりのためだとは思うけど、考えがなさすぎる。

ちなみにこのあたりから、サブちゃんも絡んでくる。彼の役どころは、伊介と新次がもともといた組で、いわば身代わりにおつとめを果たして出てきた下っ端である。だから彼は、周辺から聞きかじって、彼ら二人が、特に伊介が、親分を殺した裏切り者だと信じて疑わない。どんなに誤解だと言っても、聞き入れない。サシの勝負がしたいんだと言ってきかない。
そしてこともあろうに竜神組の客分になっているんである。当然、あのあくどい竜神組は、そのあたりも計算してのスカウトに違いないのだが、それに反してサブちゃんは動かない。自分はあくまで、伊介を倒すのだ。個人的な理由であって、竜神組のためには動かないと。

だから彼は、伊介が手打ちを提案しに単身竜神組に乗り込み、戸板に手のひらをくぎで打ち付けられる(うっわー!!)という非道な仕打ちで突き返されても、悔しそうに見守りながら、手出しはしない。
ただ、こうした経過も見ているし、どうやら自分のカン違いによる逆恨みということがだんだんに判ってくると、この外側の助っ人ともなんとも言い難い独特の立ち位置が、非常なるスパイスを振りかけてくるんである。

竜神組は最後まで汚くて、新次の甥っ子に当たる、つまり殺された新次の姉の子を人質にまでとる。てゆーか、あんな事態の後で、その現場に幼いこの子を残しっきりにしていることが信じられないんですけど(爆爆)。そーゆー雑さがホント、そこここにあるんだよなあ。もったいない。
で、まあとにかく、すべての悪が判明しましたよ。もうこうなったら斬り込みしかないですよ。伊介と新次の道行。伊介を演じる村田英雄の、それまでの抑えに抑え、ガマンにガマンを重ねた思いと、対照的に、ぜんっぜん考えずに雑な考えのもとに雑な結果をもたらしたのに、その瑞々しい若い美貌が故に、神聖な決意に見えちゃう高橋英樹。うーむうーむ!!

でも、二人が敵地に到着し、太刀をカチリと交差させてジャッ!!と同時に鞘を抜くワンカットには、鳥肌ブワー!!!と立った!!めっちゃ、めっちゃ、カッコイイ!!
狭い室内の立ち回りは、まだまだ若いキャリアの高橋英樹より、やっぱりやっぱり、村田英雄が素敵だったなあ。ぴょんとジャンプしてバッサリ斬り下ろす、おおー、エアーヒデオ!!

で、この二人の活躍は凄いから、もう、大抵片付けちゃうの。それを見て、サブちゃんが、この時、とサシの闘いを挑んでくる。もう、誤解は解けているけど、でも、やり合わずにはいられないのだ。
誤解が解けそうになったところだったのに、なのになのに、これはないよ。南村!お前か!!最後まで!銃で撃つとは!飛び道具とは卑怯なり!

慌てて抱き起すサブちゃん(役名言わないままだったな……)駆けつける新次に、虫の息の中伊介がまさかの告白、「太吉(新次の姉の子)は俺の子、ってウソ!何そのどんでん返し!!
いや……思えば、彼女が殺された時、その遺影とのカットバックがやたらしんねりしていたり、太吉がさらわれてからの動揺は尋常じゃなかったり、したかなあ……もう後付けで、ただただええー!!何その最後の告白!!という衝撃でしかなかったんだけど……。
じゃあ、新次が姉を思って、ひどい男だと言っていたのは、伊介だったのか。結婚してた男が去った訳じゃなくて、最初からシングルマザーということか。あっ、そうか、タイトルの義兄弟って、そういうこと!ああもう、何それ、訳判らん!!

展開といいキャラといいスキだらけでなかなか疲れたが、若く美しい高橋英樹と、任侠スターだったことを今更ながら知る村田英雄のカッコ良さにしびれた一作ではあった。 ★★★☆☆


さくら盃 仁義
1969年 82分 日本 カラー
監督:内川清一郎 脚本:山崎巌
撮影:萩原泉 音楽:大森盛太郎
出演:北島三郎 村田英雄 高橋英樹 梶芽衣子 信欣三 北林早苗 笹川恵三 森山周一郎 杉山元 佐々木時義 波多健二 神田隆 天野新士 河野弘 藤田陽一 小桜音次郎 浅井美帆 永尾英彦 望月隆政 藤山竜一 福田英子 数野真理子

2020/6/24/水 録画(日本映画専門チャンネル)
おう!これはサブちゃんの主役だねえ。先に観た「さくら盃 義兄弟」は彼はキーマンではあったけど脇役で、凛々しき高橋英樹が主役だったからなあ。
んで、「義兄弟」ではまだまだ若さだけが先に立つような青臭さもあった高橋英樹が、本作ではまだ若いものの実力と人徳があり、押しも押されもせぬ二代目、宮前大介。
宮前親分が賭場で心臓発作で倒れた時、その賭場を仕切っていた蒔田親分が村田英雄で、宮前組とは懇意にしていた彼が、関東一円の親分衆を束ねる世話役をしていた宮前親分の後に推薦したのが二代目の大介だった。

これからの時代は彼のような若い力が必要と、子分の辰次(サブちゃん)を使って他の親分衆に協力を呼び掛ける。しかし、世話役の名誉と余禄に目がくらんだ悪徳阪東組が大介を陥れようと汚い手を繰り出してくる。
というのが物語の基本だから、一見して高橋英樹の方が主役になりそうなところだが、不思議とそうならない。それは、辰次のまぶたの父親というのが登場するからなんである。しかもそれが、悪徳阪東組のおかかえのいかさま胴元としてである。なんかめっちゃメロドラマになるんである。

サブちゃんは彼本来のキャラクターを生かしたとも言いたい、身軽だがそそっかしく、早とちりして収拾のつかない事態を引き起こしたりするヤツである。でも蒔田親分が彼を伝達係にしたことからも判るように、誠実でまっすぐなヤツなんである。
阪東組の賭場に呼ばれた大介、絶対にワナに陥れられる、それが判って大介は、それでも渡世の仁義だからと、そこは金を捨てる覚悟で臨む。しかし後ろでハラハラしながら見守っている辰次は、どんどん負けていく大介を見てられず、そして絶対にイカサマだと憤って、阪東組の抱える胴元、根岸を告発する。

しかしなんたって腕っこきのイカサマ師だから勿論ボロは出さない。そこが辰次の甘いところなんである。正義の気持ちが抑えきれず、大介を救うどころか途端に斬り合いの修羅場になってしまう。
兄貴分から「最初から二代目は負けるつもりだったんだ」と耳打ちされて、あちゃあ、俺はなんてことしちまったんだ!!と後悔する。後の祭りなんだけど、なんかちょっとバカで憎めない。しかしてその修羅場で大介は阪東親分の弟を斬ってしまい、ムショ行きとなるんである。

つまり、設定的には充分主役となり得た高橋英樹が、お勤めということであっさり離脱しちゃうんである。そもそもサブちゃんは宮前組の人間ですらないんだからここに本格的に噛んでくるのもおかしいのだが、ヤハリ自分のせいで、という気持が抑えきれない辰次は、一度は蒔田親分に盃を返そうとまでする。
しかし蒔田親分はそんな彼の性分を充分判ってる。なんたって村田英雄が親分でサブちゃんが子分なんだからっ。「盃を返すのは許さねえ。二代目が勤めを果たした時戻ってこい」辰次、男泣きである。

悔しいけどやっぱりこーゆーのは、男の美学だなあという気がする。そんな辰次にホレる女がいる。なんとなんと、梶芽衣子である。芸者の梶芽衣子、美し!
梶芽衣子の男勝りな性格がどこかに見え隠れしながら、女の駆け引きでホレた辰次にしなだれかかり、辰次が脂汗かきながらへどもどするのが可愛いサブちゃんである。いかにも酸いも甘いもかみ分けて来た梶芽衣子姐さんは、ウソのつけないまっすぐな辰次にホレちまったんである。

そして彼女は、辰次が探しているまぶたの父親が、こともあろうに敵方のお抱え胴元、根岸であることも知っている。どんな事情があったんだか、生き別れになった父と息子は、それぞれにその証拠のおそろいの根付を持っていて、根岸の行きつけの料理屋の女将がそれに気づいたんである。
辰次がそこでメシを食っていたのはほんのいちげんさんだったんだろうが、宮前組の男が阪東組の持ってる女郎を足抜けさせようとさらって逃げ込んできた騒ぎを、辰次が居合わせていさめたのが発端だった。どんぶり飯をかっ込んでいた辰次が、「なにしやがんだい。噛まねえうちから腹んなか入っちまったじゃねぇかよ」と顔中飯粒だらけにして坂東組のヤツらに凄むのが可笑しい。

そしてそこに居合わせた、阪東組の中では根岸と彼だけがまっとうな人間、結核の妹を抱える輪島という男がいて、本作の中で個人的に最も印象に残る人物なんである。
藤田陽一というこの役者さん、恐らく私は初見だと思うし検索しても同姓同名の誰やらかにやらばかりが出てきてさっぱり情報がないんだけど、濡れたような目をして、無精ひげにふっくらした唇、つまり母性本能くすぐりまくる甘いマスクで、しかも湿度の高いいい芝居をするんだよ!!彼だけ小津映画の芝居してるみたいな!

病弱の妹という弱みを握られ、カネを握らされて大介を殺す密命を言い渡される。ほんっと、阪東はクソである。だから早晩、輪島がこの組を離脱するのは目に見えているんだけれど、病弱な妹、そして渡世の仁義が彼を苦しめている。
その親分は仁義も何もクソな悪徳親分なんだから、とっとと見限れば良かったのに、なんであるが、そこんところが任侠映画の面白さでもあり。

阪東組は、宮前の方からケンカをしかけるという形を何とか作りたいと思ってる。そうして彼らを貶めて、警察や親分衆に知らしめたいと思っている訳である。
しかし、はたから見ればそうして卑怯な手を使っているのは丸見えな訳だし、親分衆は怒らないの……と思ったら、やっぱりそこは案の定、である。だってさあ、心臓発作で床についていた宮前の親分までぶっ殺されてるんだよ。そりゃあ、いくらなんでもだよ。阪東組、バカなの??と思っちゃうよ。

輪島は、その喧騒からしばらく離れている。大介を討つ仕事を根岸が代わりにひきうけ、輪島は妹を療養所に送り届けて、そして……亡くなって、その骨を胸に、帰ってくるまでの時間があったからである。
輪島の存在は、彼以外はきちんと(?)任侠映画の義理人情にのっとったところにあるところから、離れている。彼は人間的な情愛を基本に動いているのだ。死にゆく妹への情愛が基本となり、自分が世話になっている組に対する疑義が産まれ、その組の客人である根岸との出会いが更にその想いを深くする。
根岸は客人であって、この組の所属じゃない。こういうところが任侠という世界の面白さなんだけど、客人という立場は、弱くもあり強くもあって、それを巧みに使って根岸は輪島の手を汚させなかったし、自分の手も汚さなかった。ただ、そのために彼は死んだ。息子の腕の中で。

辰次はさあ、根岸が父親だと、小春(梶芽衣子)から聞いて、問い詰めるんだけど、いっかな根岸はそれを認めないのだ。絶対にそうだと、お互い確信しての猿芝居は、敵味方同士だという無常の状態だからなのだ。でも根岸は客人だし、輪島というヒューマニストもいて、クライマックスは、なんだかなんだか……。
それはそれは、ザ・任侠映画のクライマックス、素晴らしき斬り合い、なんだけど、もはや妹を彼岸に送った輪島は、涙にぬれた目で非道な我が組を見限るし、根岸は息子のために、ああ息子のためによ!!
なんかさあ、最後はまるで、腐女子大興奮みたいなノリになるのよ。血だらけで虫の息のおとっつあんを抱きしめ、頬ずりし、やっと二人っきりだなと。恋人か!もっとしっかり抱いてくれ。笑顔で死にゆくとっつあんに涙ながらにほおずり。恋人か!うわー!!である。何これ、腐女子大爆発!!

蒔田の代貸も哀しい。辰次のお目付け役のような兄貴分として、いつも彼のそばに控えているから地味なんだけど、彼もまた人情派で、むしろすべてを慎重に判った上で爆発するから、もうオワリ、って感じなんである。
彼もまた、濡れた目をした輪島のように、すべてを捧げるオーラをまとっている。輪島が妹に捧げていた想いと違って、彼はまさに仁義に捧げてて。ザ・任侠だが、根底はつながっている。信頼し、命を捧げてもいいと思う相手のためなら飛び込んでいく男の、男の……バカさである。

東映の整然と整えられた任侠映画とちょっと違う気がした。ほんの数本しか見てないからアレなんだけど、ちょっとしたとっちらかりさ、歌手を役者にt使って主題歌を歌わせるってこと以上にドラマティックに仕上げる感じ、美学よりも破たんしてもいいから勢いがある感じというか。見知らぬ役者さんに胸キュンしちゃったりして、面白かったなあ。★★★☆☆


桜の樹の下で
1989年 109分 日本 カラー
監督:鷹森立一 脚本:那須真知子
撮影:林淳一郎 音楽:小六禮次郎
出演: 岩下志麻 七瀬なつみ 寺田農 山口果林 志喜屋文 山本緑 大場順 久保菜穂子 野坂昭如 二谷英明 十朱幸代 津川雅彦 早川雄三 山本勝 仲塚康介 中平良夫 石川知子 斉藤英一 真柴夕李子 佐々森勇二 紫乃ゆう 広世克則

2020/6/21/日 録画(東映チャンネル)
いやー、親子どんぶり親子どんぶり。アダルトでもピンクでもなくても、親子どんぶり映画ってあるのね……。
うーむ、ゲスな言い方をしてしまったが、ヤハリそんな世界を過不足なく描くことができるのは渡辺淳一であり、「別れぬ理由」も最高に生々しかった津川雅彦は、まさに当時、渡辺淳一の世界を満点に演じることが出来る役者だったに違いない。

それに相対するのが、匂うような美しさの岩下志麻と、(新人)付で驚きの一糸まとわぬカラミシーンを、あの色気ダダ漏れ津川雅彦と繰り広げる七瀬なつみである。
今やベテラン女優のこれがデビューとは本当に驚きである。あの、いわば女優としては鬼のような岩下志麻と親子として一人の男を取り合う女の情念を演じてみせるとは。

岩下志麻と七瀬なつみは京都の老舗料亭の女将と、その跡取りとして修業に入った若女将である。津川雅彦は東京のとある企業の社長、遊佐で、足しげく京都に通ってはこの料亭に足を運ぶ。
勿論、女将の菊乃の情夫である。それぞれに当然のように伴侶がいるが、遊佐の方はほんの一瞬帰宅するシーンで、娘から咎められるような視線を浴びながら病身の妻に一声かけるだけ。菊乃に至っては夫と一緒のシーンすらなく、お正月に娘の涼子がひなびた別宅で慎ましい生活を送っている(陶芸でもやっている雰囲気)の父親の元を訪れるだけである。
日本という国は結婚した途端にお互いに恋愛感情を失うというのが長年の文化のように語られ(現代はそうでもない感じだが)、だからこそ恋愛欲を補うために、納得ずくで“大人の恋愛”を楽しむのだが、大人の恋愛、と思っていたのがあっという間に崩される、のは、恋愛が所有欲であることに気づくからなのかもしれない。

それにしても親子どんぶりはダメよネ、と思う。しかして涼子の方から近づいた。まるで無邪気に、大胆に、それが何よりの作戦であることに自身が気づいているのかいないのか。
彼女のことを幼い頃から知っている遊佐は、すっかり大人の女になって美しく和服を着こんだ涼子に目を見張るが、観客側からしたら岩下志麻があまりにも大人の女なので、新人、七瀬なつみは女子大生がコスプレしてるような幼さであり、遊佐が目を見張るのが、……自分の娘と同じ年頃の女の子なのに、このヘンタイ!!とか思っちゃう。

自分の母親と恋のライバルになって張り合うことになる彼女は、燃えるような目になったりもするが、基本的な印象は冒頭の無邪気な女子大生あがりの女の子からそれほど逸脱しない。
まあ、言ってしまえば、岩下志麻に太刀打ちするには難しいよね、という印象なのだが、だからこそなのかもしれない。自分の娘、という以上の小娘に恋人を奪われて、心理が崩壊していく岩下志麻の女の様がなんたって凄まじいから。

てか、遊佐があまりに隙がありすぎるのだ。それでなくても浮気(この場合、愛人二人目も浮気というのだろうか……)がバレるのに態度が明らかすぎる。娘と関係を持ってすぐに、それまではしっとりと大人の恋愛を楽しんでいた菊乃からの連絡に、はたから見てもあまりにも白々しい言い訳を使って避けがちになるんだもの。
なのに別れたくはない。それは友人(野坂昭如だの、二谷英明だの!ゴーカだなー)から、このワガママ者めと指摘されるところである。バーや料亭でのこの大人の男たちの会話は、その内容は自分勝手ながらも(爆)、今ではなかなか難しい、いい時代の身勝手な贅沢さ、といったものを感じさせる。勿論、その代償は予想よりずっと大きく彼を襲うのだが……。

それにしてもなぜそんなにも、涼子に溺れたのか。処女を破ってしまったからなのか。処女だったんだよね。涼子は「母と同じになってみたかった」つまり、女にならなければ、同じ土俵に乗れないから。
つまりこの時点では、母親に対抗するために、母親の恋人であるカネ払いのいいおじ様を、娘じかけで甘えて、とりあえず同じ立場まで行こう、というぐらいの気持ちだったのかもしれない。こんな年になって処女だなんて、といったことも言っていたから、ちょうど女にしてくれるいい相手だと思ったのかもしれない。

でも……遊佐の方が本気になってしまう。勿論涼子も燃えるような女の目を何度も見せるけれど、それは若い故の負けることへの勝気さであり、菊乃の方の、心底女として追い詰められる動揺とは違う。
それにしても男というものはなんと欲深なものだろう。それこそ友人たちにいさめられるように、菊乃をソデにしながらも、彼女とも別れたくないのだ。

誰がどう見たって、それが不倫であったって(不倫という言葉は、こういう渡辺淳一的世界ではちょっとしっくりこないんだよな……ただ、恋愛、なのだ)、お似合いなのは、菊乃とだ。年齢的なもの、大人として生きて来たキャリア、そこから醸し出す同志の気持ち。
でもそれは、言ってみれば夫婦関係に理想的なものだ。お互いの伴侶を形骸的なものにしてしまった二人、いや遊佐にとっては、やはりそこは男だからなのか、より欲望の谷間にはまってしまったのは。

遊佐は、男として失格だよ。両天秤、しかも親子どんぶりなら、あんなすぐバレる態度や行動をとるなんて、信じられない。菊乃が東京の有名ホテルに店を出した。その出資には遊佐が大きく関わっている。つまり、それだけの姦計があるってことである。
なのにその開店パーティーで、涼子との仲を深めちゃってるコイツは、そこまでの間にすっかり菊乃に空々しくなったうえに、バレないとでも思ったのか、迎えに出た涼子と後ろ手にこっそり手を握り合うという、もー!!!なことをしでかし、それを菊乃が目撃してしまう。

この時点では彼女は薄々感づいていたから、やっぱりそうだったか、という目の見開きだったけれど、それでもあんまりだ。本当にそういう関係かと試すように、涼子を遊佐に送らせたりして、哀しすぎる!!
そしてもう菊乃はだんだんと決意を固めて、でも、やっぱり悔しくて、遊佐の前で泥酔して、あられもなく、彼女からのレイプかという迫り方をする。

ひどい豪雨の夜。雨と風の音が閉ざされたマンションの部屋の中にまで荒れ狂う。うろたえる遊佐だが、勢いにのまれてその気になる。もっときつう抱いて!!とかき抱く菊乃。なのに、なのに、なのになのになのに!!遊佐は、勃たないんだよう!!
こんなん、ないわ。この時の菊乃の、ソファのかげからむなしく差し出された手が中空をさまよい続けているのが、たまらないわ。「酒を飲み過ぎた」という言い訳は、菊乃の方がこの逆レイプの言い訳に使いたいぐらい飲んでいる。彼女を介抱して送り届けたのに、こんなの、ないよ。

菊乃が東京の拠点に借りたマンションは、墓地の裏手に面している。そして狂ったような桜が咲き乱れる。桜の樹の下には死体が埋まっている。遊佐がそんな都市伝説をまことしやかに語ったのは、娘と同じ年頃の涼子を怖がらせたいと思った遊び心ぐらいだっただろう。
桜の美しさには、人の狂気が乗り移っている。それは都市伝説に限らず、なにか妙な説得力を持って迫ってくる。そしてそれは絶対に、女の狂気に違いないと思われ。

母親と同じ首筋の位置にホクロがある、もうその時点で親子どんぶりの運命は決定的だった。まるで幼い女の子のように見えた涼子が、そのホクロの存在だけで、急に女になった。
涼子は遊佐の子を妊娠する。情けないことに、途端に遊佐はうろたえる。堕ろすんだろ、という言葉さえ言えないままうろたえる。身体をいたわるような態度を見せながら、産むのか、といううろたえがありありと見えるとは、ホント親子どんぶりするには覚悟が足りなすぎる。
菊乃は当然、娘の妊娠にも気づいていただろう。そうは明確にはされなかったけど。涼子に東京の店を任せて、もともとの京都に専念すると決めたのは、この事実がどの程度作用していたのか。

桜、ああ、桜だ……。夜桜を、菊乃と遊佐は見に出かけた。その時は毎年の行事、いい感じに練れた間柄、今年もこの桜を見られましたなあ、という感じ。
しかし、娘の涼子と“ソメイヨシノよりも淫蕩な感じ”な枝垂桜を、その時は真昼間の健康的な時間帯に行ったけれども、その後ねだられて、角館へソメイヨシノの満開を観に行った。菊乃にナイショの旅行。そして、涼子は女になった。すべての始まりが桜にあった。

涼子の赤ちゃんは流産してしまう。それを聞いたのは、菊乃が転落死した葬儀の後である。菊乃の死の真相は判らない。菊乃自身が決心して、ぐだぐだ言う遊佐にきっぱり別れを言い渡した後だったから、遊佐が未練がましく、自分のせいだ、ということは飲み込みたくない。それ以上に、世間知らずの凶器を振りかざした小娘、涼子が言う、私がお母さんを殺したんや、という自戒もまた、聞きたくない。
遊佐がふと口にしたように、菊乃はただ、桜に手を伸ばしたのだ。ただ、それだけだ。人の狂気が乗り移っている桜、でもただただ、その美しさに手を伸ばしただけだ。そう思いたい。でなければあまりに、やりきれない。

桜、雪、雨……日本の自然の美しさが、情念と絡んで狂おしく描かれる。特別出演っぽい十朱幸代が菊乃の友人として相談相手になり、「女の身体は愛されてなじんで調子が良くなる」なんてさ、なんたってあの女っぽい十朱幸代だから妙に生々しい。
それはちょっと冷たい美貌である岩下志麻とは対照的で、だからこそ彼女のプライドが邪魔する愛憎が哀しく、更になまなましく、……。ああ、こんな愛憎を今の時代望めるのか。いや、望めるのは充足なのか、どうなのか。

涼子は、遊佐に別れを告げる。母は桜の精に連れていかれた。そして母が私の赤ちゃんを連れて行ったのだと。
くずおえるような哀しみを見せるけれど、でも結局は、死んでしまっても生き残っても、女が強いのだ。男は置いていかれる。いや、女側としてそう思いたいだけかもしれない。だって、これじゃ、やりきれないもの。 ★★★☆☆


佐々木、イン、マイマイン
2020年 119分 日本 カラー
監督: 内山拓也 脚本:内山拓也 細川岳
撮影:四宮秀俊 音楽:小野川浩幸
出演:藤原季節 細川岳 萩原みのり 遊屋慎太郎 森優作 小西桜子 河合優実 井口理 鈴木卓爾 村上虹郎

2020/12/6/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
またまた出て来た新しい才能は、なんとスタイリスト出身なのだというから驚く。今やどこに才能が隠れているか判らない。
その監督さんももちろんそうだが、驚くのは企画原案、脚本にも名を連ねている、タイトルロールである佐々木役の細川氏である。役者として大きな武器であるその異形な顔立ちで、圧倒的な熱量で佐々木を演じる彼が企画を持ち込み、脚本まで書いているとは、その多才ぶりに本当に驚く。
そしてその原案は、彼自身の同級生のお話だというのだ。佐々木自身としか思えない細川氏なのに、その友人の話なのか。なんかもう色々驚いてしまう。

現在の時間軸では20代後半、そして10年前は高校生。最終進路を書かされているから高校三年生か。ギリギリ、同じ人物でどちらも演じられる年代である。
そしてその中間の卒業して5年後にも、佐々木と、本作の主人公である石井は再会している。高校卒業時にはなんにでもなれそうだった漠然とした自信が、だんだん下降線をたどっている頃である。

その時石井は、本当は佐々木に会いたかったのか。佐々木の無責任な直感で役者を目指して上京したものの、鳴かず飛ばずの日々を送っていた石井は多少彼を恨んでいたんじゃないか。
そして現在の時間軸ではもうすっかり、すっかり100%鳴かず飛ばずである。役者をやめてはいないものの、単なる自称であり、その実態は同居している元カノから言わせれば、“箱職人”なる地味な工場アルバイトなんである。

そう、元カノである。なのにまだ、石井と同居している。元カノだから同棲ではなく、同居。高校当時常につるんでいたうちの一人、多田と偶然再会し、飲みながらそんな話をする。
多田は鋭く、石井がその彼女にまだ心を残していることを見抜いている。でも、気持ちを伝えることも、そして役者への挑戦も、何もかもを、石井が先送りしていることも厳しく指摘するんである。
だって石井は昔からそうだったから。昔からそうだった、というのは、本作におけるキーワードかもしれない。昔から変わってない。石井も、佐々木も。人間そうそう変われるもんじゃない。でもその中でほんの少し、踏み出す勇気があるのなら。

多田が出席した同窓会に石井が行かなかったのは、自分のこのふがいない現状から思えば当然だったかもしれない。しかしそこに佐々木が来ていたと聞いて石井は驚き、佐々木には会いたかったな……と言う。5年前再会した時とはきっと、違う感情である。
帰宅した石井は元カノのユキに佐々木のことを話す。ほんっと、バカなヤツでさ。佐々木コールでノセられると全裸になって踊り出すんだぜ。教室でも、道路の真ん中でも、どこでも。ユキは目を細めて石井に言った。仲良しだったんだね。だってそんな嬉しそうに話すユウジを久しぶりに見たよ、と。

仲良し。確かに仲良しだった。佐々木、石井、多田、そして地元に残って当時高根の花に恋していたその彼女と首尾よく結婚した木村の四人はいつもつるんでいた。
佐々木の家がたまり場だった。父子家庭だけど父親はほとんど帰ってこなかったから。異常なまでに散らかっているのは男所帯だから、と単純に考えていた。そしてそれは、現在の時間軸の佐々木の暮らす部屋も同様だった。

でも違ったのかもしれない。たった一人放り出された大きな子供だったのだ。しかも恐らくそれは、ずっとずっと長い状態、そうだったのだ。
高校三年生なんてもう、親なんていらねーやと思ったって不思議はない年頃なのに、いつ帰ってくるか判んねえからさ、と口では言いつつ、佐々木は父親が帰るのを待ちわびている空気がアリアリだった。思いがけず友達たちがたむろしているところに父親が帰ってくるとおどおどして、次はいつ帰ってくるのかと問うばかりだった。

夜中に佐々木が寝ている時に帰ってきて、友達からもらったテレビゲームに興じている父親に気づいて、帰っているなら起こしてよ、と言った。責める言葉は一つもなかった。対戦型で出来るからやろうよ、ともちかけて一緒にゲームに興じる。
でもすぐに父親は出て行ってしまうのだ。ああ、佐々木はこんなしょーもない父親なのに大好きなんだ。いや、一人になるのが怖いのかもしれない。どっちもかもしれない。一人が怖いから、友達に来てもらうんだ。そしてスッキリと片付けもしないで、ものであふれかえらせて。

佐々木は絵を描いていた。美術部だったというのが友達とのくだらない勝負に至る会話のはしっこに出てくる。佐々木が死んだ時、鮮烈なタッチの油絵やスケッチが、特にカメラもよらずに画面のはしっこに流れていった。
佐々木は本当は、凄い才能の持ち主だったんじゃないのか。佐々木は自分が無能だと決めつけてた。というより、周囲がそういうキャラとして佐々木を扱ってた。決してバカにしていた訳じゃないんだけれど、愛すべき存在としてなんだけど、結果的にそれが佐々木をそういう閉じた生き方にさせてたんじゃないか。
そういう明確な理由付けが語られる訳じゃないんだけど、佐々木が死んだ時に石井が抱えたモヤモヤを爆発させるシーンで、何かそんな風に思ったのだ。

佐々木は確かにケンカは弱いし、スポーツもからきしだし、ゲームも弱いし。なのにやたらと勝負したがって、悔しがって、そんな佐々木を友達たちは笑っていた。
バカにしてた訳じゃない、とは思う。気のいいヤツとして愛していたと思う。でも佐々木のそんなバカさが、フザけてた訳じゃなく、本気だったと、当時の彼らは思っていただろうか。

佐々木の父親が死ぬ。どうして死んだのか判らない。教師の様子では、なんかよくない死に方だったらしい。しばらく休むと思われた佐々木だが、カラ元気をふりまいて登校してくる。佐々木コールくれよ!!と石井達に請う。
当然出来ない彼らである。どうしてだよ!!と佐々木は吠える。どうして、って……。だったら今まで、佐々木コールで盛り上がっていたのは“どうして”だったのだろう。佐々木の父親が死んだからって急に何もかもの関係性が失われたように感じてうなだれるばかりの彼らを、子供だからとなぜ切って捨てられるのだろう。

佐々木と石井が5年後再会した時、佐々木はなんとまあパチプロで生計を立てていた。高卒でパチプロの男に彼女なんて出来っこない、と自嘲しながら、彼女欲しいなあ!と切実につぶやく佐々木であった。
その後、佐々木は運命の出会いを果たすのだが、カラオケ屋で一目惚れのその彼女に、最後まで決定的な一線を超えることはできなかったらしい。佐々木の死を石井達に知らせて来たその彼女は、佐々木との関係を問われてしばらく天を仰いで悩みながら、「……友達?」と言ったから。

でも悩んだ、ということは、つまりそういう行為的な関係はなくても、きっと心はつながっていたからだと、思いたい。
その彼女は、「こんなに散らかってるのに、平気で私を呼ぶんですよ」と笑った。そして石井達高校時代の友達たちの話を散々聞かされたのだという。だから彼女は、佐々木が死んでいるのを確認し、警察も救急車も呼ばずに、石井達を呼んだのだ。佐々木が会いたいだろう、と思って。

石井も多田も木村も、目まぐるしい生活の中ではきっと、佐々木のことを忘れていた時間だってあった筈なのに、自分たちの知らないところで、常に佐々木は永遠の友達たちのことを、後輩にも片想いの女の子にも、うるさいぐらいに話し続けてきたのだ。
自分とは違って、夢を追っていける友達たち。自分とは違って、彼女を持てる友達たち。結婚して、子供を持った友達たち……。佐々木だって、いや佐々木こそが、才能もあって成功も出来たろうし、人並みの幸せだってつかめた筈だ。

先述のように佐々木は自分のことを卑下していたけれど、普通の仕事になんかつけない、性分じゃない、と言っていたけれど、そうだろうか。
石井が木村から恋の相談を受けた時、佐々木こそが一番口が固いよ、と言っていたことを思い出す。佐々木コールで全裸になって踊る佐々木は、非常なる寂しがりな彼が人を集める問答無用の必殺技だったんじゃないのか。
本当の佐々木は繊細で、優しくて、臆病で、自分自身が好きになれなくて、友達が大好きで、……そんなヤツだったんじゃないのか。

大人になってから10代の頃を思い返すと、その時には気づいていなかったことを色々思い当たる。佐々木自身も、そして石井達つるんでいた友達たちも、その時には気づけてなかった様々なことを、10年経ち、いい加減大人になって、タバコも吸うし酒も飲むし、結婚して子供も持って、となってくると、見え方が違ってくるのだろうと思う。
それが最もハッキリ見えてしまったのは、四人の中で最も佐々木に近い、つまり社会人になり切れず、恋人ともあいまいなまま、自分が本当はどうしたいかが判らなくてあがいている石井だったということなのか。

佐々木の死の知らせを、成就せぬままだった佐々木の恋する女の子から知らされる石井。ユキもその旅行きについてくる。あいまいなままだったユキとの関係も、哀しいけれどスッキリと結末がつく。
当時のマドンナを射止めて、幸せな家庭を築いている木村の家に泊まらせてもらい、産まれたばかりの赤ちゃんを抱かせてもらう。

……このシークエンスはたまらない。反則である。ありきたりな解釈で言えば、死にゆくものがあり、生まれ来る者がある、てことなのだろうけれど、本当に単純に、生のエネルギーを爆発させて、泣きわめく赤ちゃんに魂を揺さぶられるんである。

抱き方が下手とかじゃない。赤ちゃんは泣くものだもの。抱き方が判らないと言って戸惑っていた石井は、泣きじゃくる赤ちゃんにごめんねと言い続けながら、離さなかった。その愛しい生命のかたまりを離すことが出来なかった。
真っ赤になって泣き続ける赤ちゃん。真っ赤になって涙を流す石井。……私は最近、赤ちゃんや小さな子供を見るだけで涙が出て仕方ない。それを、こんな若い世代の才能たちに判られちゃってるとは自分の身がすくむ思いがする。でも頼もしい。こうやって、未来をつないでいけるから。

死んだはずの佐々木が霊柩車から飛び出してくるラストは、もちろん現実ではなく、彼の死によって様々な想いに直面することになった、石井はじめ観客も含めたすべての人たちへの幸せなサプライズだろう。
佐々木ならそんなこともあり得る。佐々木コールで生き返ることだって。でも佐々木は死んだのだ。充分に納得して、死んだのだ。そんな死にかたを、これから私らは出来るのだろうか。★★★★☆


座頭市喧嘩旅
1963年 87分 日本 カラー
監督:安田公義 脚本:犬塚稔
撮影:本多省三 音楽:伊福部昭
出演:勝新太郎 藤村志保 島田竜三 藤原礼子 丹羽又三郎 吉田義夫 沢村宗之助 水原浩一 東良之助 寺島貢 沖時男 堀北幸夫 木村玄 千石泰三 杉山昌三九 日高晤郎 越川一 志賀明

2020/6/14/日 録画(日本映画専門チャンネル)
シリーズの最初のうちは座頭市はあくまで座頭で、居合が上手いというのは語られるも、決してヤクザと言われていた訳じゃなかった気がするが、もうこの頃になるとスッカリ、“座頭なのにめっぽう強いヤクザ”として有名人である。
だからこそうわさを聞きつけて、一人旅の最中にスカウトされる。ライバル宿場町同士の対決の一方の助っ人としてである。市さんは助っ人にはならないとか口では言いながら、客分として招かれるなら、と最初から交渉する気マンマンなのが楽しい。

そのやりとりを、そのまた一方のライバル宿場町の助っ人を探していた甚五郎という男が聞いていて、いかにも血気盛んな浪人三人(プラス彼らの姐さん的お久)をスカウトしたところから話は始まる。
ヤクザの客分システムはそれでなくても日本独特で興味深いところだが、本作ではもうのっけから、ビジネスライクに双方がコトを進めていくのが面白い。

なんたって市さんは「二の膳がつくとはありがたいねえ」とよだれをこぼして、とりあえず客分としてあがるだけと念を押しながらもその話に飛びつくんだから。
しかし、そんな市さんに誤算が。だってだって、これはこれは、市さんの恋の物語じゃないの。それも相手はメッチャ可愛いおぼこ娘、演じる藤村志保の恐るべきかわゆさにドギモを抜かれる。そうだ確かに藤村志保、面影はあるが、あどけなさの残るお嬢様、お美津のメッチャ可愛いこと!!

しかしてヒロインはもう一人いる。このお嬢様が金づるになることに目をつけてしつこくついてくるいかにも玄人女、お久である。
これが、お美津と対照的どころかひっくり返るほど正反対の色っぽいイイ女で、しかし市さんは自分の娘の年頃のようにさえ見えるお美津ちゃんの方にすっかり参ってしまうんだもの。

いや、娘のように、というのは、あながち間違ってはいなかったかもしれない。家族の影など一ミリも見えない市さんだけど、いかにも頼りなくか弱いお美津を守ると決めた時から、市さんの、いやさ勝新の武骨な胸の中に飛び込む彼女の可憐な姿は、恋というより親子の情愛だものなあ。
でもでもやっぱり市さんからは恋の気持ちが濃厚に湧き上がってくるように思えてならない。それはお久のような玄人女に対しては対等に駆け引きできる市さんの、実は泣き所だったのかもしれない。

でも面白いのは、このお久という色っぽい女が、妙にヌケてて、ただただ「チクショウ、チクショウ」と繰り返すような、つまり、自分ではいいアイディア!と思って先走っちゃうんだけど、ずる賢い男どもに横取りされてばかりで、なんだか憎めない姐さんなんだよね。
市さんの力量をあなどった相手方のスカウトマンからの差し金で、姐さんが従えていた浪人三人はあっという間に居合抜きにヤラれてしまう。お久の言葉によれば、その中に彼女のダンナもいたらしい。しかしお久はあっけらかんと、こんな事態に巻き込んだ甚五郎と旅行きを続ける。

宿場同士の喧嘩というだけならコトは簡単だったのだが、先述したように思いがけない可愛いおぼこ娘が乱入してくる。花嫁修業でもあったのか、お屋敷奉公していた先のお殿様に手籠めにされかかって抵抗し、おう、素晴らしい、「かんざしで相手の顔をついた」とは!素晴らしい!!しかしてその時代では当然、無礼者!!という訳で……。
爺やとともに逃げていた彼女だが、そのたった一人の頼りである爺やが斬って捨てられる。その爺やが虫の息程度はあるところに市さんが偶然行きかかる。お美津様を守ってほしい、息も絶え絶えの爺やの言葉を受け取った市さんは、その時点ではどこにいるとも知れない哀れな女の子を守り抜く決意をするんである。

もーその時点で、会ってもいないけど恋だよね!と思っちゃう。運命の出会いさ。そしてまさにこれは、美女と野獣さ。追手は無数に迫ってくる。爺やの死にショックを受けるお美津をとにかく隠してやり過ごすだけでもスリリングである。
いかに江戸で大店の箱入り娘だとしたって、武士のお屋敷に奉公となったら、そんな肩書は通用しない、という時代。花嫁修業という名目だったのだろうが……。

そのリアルな当時と、本作が作られた当時の価値観がせめぎ合うのもまた、面白いのだ。こんなに可憐なあどけない少女が、手籠めにされそうになってかんざしでお殿様の顔を突いたなんて考えただけでも痛快だしさ。
あの無礼者を成敗せよ!という命の元、無数の武士たちが追ってくるんだけど、後半になると、一人のさわやかな武士がね、まあ市さんにさんざんヤラれたというのもあるだろうが、きっと最初から疑問に思っていたのだろう。「なぜ娘を斬らねばならないのだ」「主命だ」「主命か」いかにもくだらない、という口調で吐き捨て、その若武者はそこで踵を返すのだ。

それが追手の動きに影響を与えるという訳ではない、たった一人の謀反なんだけど、それに対して上司たるおっさん武士も、はっと飲み込むような顔をして、彼をとがめるとか成敗することはないのだ。若者が、まっとうなことを言える時代、そんな製作当時の理想を感じたりする。

お美津ちゃんはとにかく、江戸の大店のお嬢様だから、それを知ったら誰もが付け狙ってしまうのだ。
千両箱が五箱はくだらない、と、駕籠屋のオヤジも参戦しちゃう。お久が市さんからお美津ちゃんを騙くらかしてかすめ取って、いち早く江戸への早駕籠で先方へ送り届けちゃおうと思ったところが、そのネタがすっかり駕籠屋にバレちゃったら、そらあその儲け話はもらった!!となるわな。

こんな感じでお久は一見したたかな玄人女に見えるし、金儲けのネタにもがめついのに、えっ?と思うほどヌケてて、あっさり横取りされることが再三で、チクショウ、チクショウを言い続けるもんだから、なんだか憎めなくて。
それは、なーんにも知らないで、命の恩人の市さんの注意も聞かずに、お久に騙されるままに連れ出されちゃうような世間知らずのおぼこ娘、お美津と見た目は正反対のようで、もしかしたら似た者同士なのかもしれなくて。

お久の姦計から救い出されたお美津が市さんに、自分を信じてくれなかったのが情けない、とクダを巻かれると、その時目覚めるのね。正直、あの市さんがこんな、駄々っ子みたいなグチを言うなんてとも思ったが、なんたって先述したように恋する市さんだからさあ。

そしてお美津ちゃんも、世間知らずの自分、信頼するべき人、ということを、この短い期間に急速に学び、反省し、涙を流す。
お美津ちゃんにとって市さんは外見からヤハリちょっと恐ろしい相手だろうし、市さんにとってお美津ちゃんは、見えないけれども、その声、気配、そして……胸に飛び込んだその華奢な身体、柔らかな頬、唇……その武骨な手に、しかし確かなあんまの腕を持つその手指に、そらさあそらさあ、十二分以上に感じちゃったに違いない訳で。

座頭市シリーズがこうして、CSとはいえテレビチャンネルに放映されるたび、しつこいぐらいの、視覚障碍への当時の無神経さ、みたいなものをご理解くださいと前置きされるんだけれど、それを前提に見るたびに、むしろ、なんて、だからこそのそれ以外の感覚の研ぎ澄まされ方、その価値の重さ、むしろ、五感があることが当然と考える向きに高らかに笑い飛ばす素晴らしさがあると思えてならないんだけどなあ。

クライマックスは、ライバル宿場同士の大立ち回りである。市さんはちゃっかりビジネスライクに“自分の相場”を吊り上げて、豪華な二の膳にとっくり酒もさんざんおかわりして、事態に備える。まさかそこに、江戸に駕籠を仕立てて送り届けた筈のお美津ちゃんが捕らえられているとは夢にも知らず、である。
いくらお美津ちゃんへの思慕を断ち切るためとはいえ、江戸に行く駕籠に便乗させてお美津ちゃんを送り出すなんて、ここんとこは市さんにしてはあまりにも不用心だよねと思うが、まー、その後の展開のためと思えばしょうがないか。

草鞋を脱いだ親分さんの元で、市さんの給仕に当たった若者が、妙に心に残る。彼の恋人の名前がやはりおみつで、市さんはもうそれだけで、何か運命的なものを感じたし、この若者が若さゆえの感覚で、市さんに妙になついちゃうというかさ。
でもこの喧嘩は、喧嘩という名の殺し合いよ。市さんはそれが判ってるから、彼に、後ろの方で控えてな、と言う。こんなくだらないことで命を落とす必要はないのだと。そもそもがそういう考えの人なんだけれど、居合の才能と義侠心が、市さんを常に哀しき運命に引き寄せるのだ。

でも今回は、死んでほしくない人は死ななくて良かった。その代わり、死んで良し!な人々は、容赦なく成敗されたのはなかなかだったけど(爆)。
市さんが旅の途中で、旅人たちの言葉を耳にして、両方の親分さんが争うのは勝手だが、どっちも自分たち民を苦しめている。いっそのこと相打ちにならないかな、なんて言ってるのを耳にしていたのだ。ザ・勧善懲悪。こんな具合にかなり言い訳が付されたのが気になったけれど。

市さんは、お美津ちゃんが彼との逃亡の途中で忘れていった手鏡を、何度も彼女に返そうとしたのに、返せなかった、のは、やはりやはり……。恋だよね恋だよ。
だって市さん、こんなセリフまで言ったんだよ。「これ以上一緒にいたら、おみっちゃんを放したくなくなっちゃう」冗談だよ、と紛らしたけど、これは、ヤバいでしょ!!

そしてお美津ちゃんもさ、「奉公をした先で、こんな怖い思いをしたけど、自分の家にいたままだったら、市さんみたいな人には会えなかった」……この台詞もさあ……。
いかにもあどけない幼いお嬢ちゃんだけど、なんたって手籠めにされそうになったなんて経験をしちゃって、しかもその相手の顔をかんざしでぶっ刺した訳で!こんな男、あんな男……このあどけなく可憐な藤村志保からは考えもつかない濃厚な経験を、ああ!!

そしてお美津ちゃんは、市さんと仲良くなったあの若者に託され、無事逃げおおせる。市さんは、お美津ちゃんとその後会う気はないし、お美津ちゃんも段々、そのことが判ってくる。人生を、学んだのだ。
むしろこの若者の方が、「市さん、来ないなあ」なんて無邪気に振り向いている。同じような年頃なのに、女は大人になり、男はまだ少年のまま。いつの時代も、いつの時代もだ!★★★★☆


座頭市千両首
1964年 82分 日本 カラー
監督:池広一夫 脚本:浅井昭三郎 太田昭和
撮影:宮川一夫 音楽:齋藤一郎
出演:勝新太郎 坪内ミキ子 長谷川待子 城健三郎 島田正吾 石黒達也 丹羽又三郎 片岡彦三郎 北城寿太郎 植村謙二郎 浅野信治郎 伊達三郎 天王寺虎之助 水原浩一 寺島雄作 舟木洋一 高倉一郎 林寛

2020/5/20/水 録画(日本映画専門チャンネル)
うわー!座頭市観るのすっごい久しぶり!!このサイトを始めてからはとんと機会がなくて、だったらもう、20年ぶり??信じられない!!一時期は今はなき新宿昭和館で観まくっていたのになあ。いっちゃん最初の「座頭市物語」なんてめちゃめちゃ大好きな作品なのにっ。

とゆー訳で、ひたすら久しぶりの座頭市、そして勝新自体もかなりのお久しぶりである。CS放送の録画は、始まる前にしつこいぐらいに「視覚障碍者に対する差別的な表現がありますが……」と繰り返されて、そういう時代なのだな、いやこれは、やはり選んで足を運ぶ劇場との大きな違いだ、ヤハリ、などと感慨にふけったりする。
しかしそんなことわりを入れたくなるほど、めくら、めくらとビックリするぐらい繰り返される。それは時に普通の呼びかけ、おやあんた、おめくらさんかい、おめくらさんこっちにきなよ、てなところから始まって、市自体も自分のことを、私はめくらでござんすから、と自己紹介のように、そして当然それを利用して相手を陥れるために使ったりする。
そして……なるほどその言葉が市の心とプライドを傷つける場面だって、あるんである。あのことわりがなかったら、私はそんなことまで考えなかったかもしれない。

まるで舞台のようなオープニングである。暗闇の横移動、市が見事な居合抜きを見せる。ああそうだ、市は居合だったんだと20年ぶりに感慨にふける。
物語は市が咄嗟の反応で斬ってしまった名もなき男の墓参りにくるところから始まる。市がその男を斬ってしまったのは……あれは何の戦いだったのかしらん。そこからはじかれたように逃れてきた男が市に遭遇し、普通の精神状態じゃなかったからか斬りかかり、市が反応して斬ってしまった。
市はその男の身元を確かめて小さな田舎町にやってくるんである。後から思えば市は、正義のため、農民たちのためとはいえ、その中には彼のように仕方なしに加わっている下っ端もいるだろうに、斬って斬って斬りまくるのになあ、と……それこそ座頭市ってこんなに斬りまくってたっけ、と思うほどなのに。

まあとにかく、市は墓参りに訪れ、その時彼を案内した娘が思いがけず、その男の妹なんである。思いがけない兄の仇に出会って緊張する娘の、その気配が市に伝わらない訳がない。最初から察してはいたけれど何も言わず市は墓参りを済ませる。
祝いの太鼓と歌、賑わいが聞こえてくる。聞いてみればやっと上納金の金額が達成できたのだという。いかにも貧しいこの農村で、しかも凶作続き、長年の辛苦から解放されて村人たちは皆開放感にあふれている。
市も呼ばれる。さっさと杯を空にしてずうずうしく催促する市に、おめくらさん、いける口だねえと、楽しそうである。市は器用に太鼓代わりの樽も叩いて盛り上がる。いかにも幸福そうに見えたのに。

上納金は千両。それをうやうやしく運ぶ行列。でもさでもさ!木の札にバーン!と「上納金」と示して運ぶなんて、そんなそんな、襲ってくれとゆーよーなもんじゃないの!!
不敵な笑みを浮かべた浪人3人が襲いかかる。奪われた千両箱はしかしその手を滑り、山の斜面を転がり落ちる。追いかけるヤクザ者たち。転がり落ちた千両箱にゆうゆうと座ってたばこをくゆらしているのが市なんだから、そこまでのスリリングな動的展開から急にわびさびみたいな静寂になって、思わず噴き出してしまう。
しかして、襲い掛かるヤクザ者を、またしてもとっさの反応で斬っちゃう市。何が起きていたのかも知らずに……。

この千両強奪が国定忠治の子分によるものだ、とゆーのは、実際の黒幕、あるいは黒幕に雇われた浪人三人がまことしやかにささやいたものだったのだろう。
忠治には市も恩義がある。なんたって忠治は農民を助ける忠義ある侠客である。しかし、いっぺんそう思い込んじゃった農民たちは、そのついた火を消すことができない。知らずに千両箱に座っちまってたことで、市までにその嫌疑が及んじゃうんである。

この事件は、悪代官(あー、懐かしい言葉)が腕の立つ浪人を雇って千両箱を襲わせて懐に入れ、農民たちには言い訳無用と斬って捨ててさらに千両の上納金を収めさせようとする、考えてみればムチャ千万な計画なのだ。
だってだって、そもそもあと千両がムリだろって考えれば、ただ横領するだけで済む訳ない、農民たちからの反駁は必至だし、この騒ぎがお上に知れる可能性も大なのに。
これは……国定忠治とかゆービッグネームを引っ張り出してはいるけど、かなーりムリのある設定じゃねーかと思うんだよなあ。ザ・悪代官の悪者ヅラだけでは引っ張り切れないものを感じる……。

でもまあ、基本的には市もヤクザだし、侠客としてのプライドの物語、というのは一方である。実際、いわばハイエナのようにこの千両強奪事件に欲心を動かしてしまったのは、窮乏極まっていた忠治の子分たちであり、それを利用されてしまったというところなんである。
そして市もまたしかり、である。めくらのくせにヤクザ、しょせんヤクザ、そんな言葉が容赦なく飛び交い、それが判っているから悪代官側に利用される。

ヤクザ、という言葉は、ここ最近任侠物を見ているとかなりランボーなくくりであることを痛感し、しかしそれが、いわゆる庶民の感覚というヤツであることも痛感するんである。
市も忠治も、自嘲気味にヤクザという言葉は使うが、渡世人、侠客、そういう言葉の中に、弱きを助け、強きをくじく、そんな矜持をひしひしと感じ、だからこそ忠治親分もこの貧しさと屈辱に耐えているのであり、市もまた……。

市は忠治親分に会って自らの潔白と、忠治親分のそれも確認、親分たちを逃がし、自分は千両の行方と黒幕を必ずや突き止めると心に誓う。そのため、親分一家が無事逃げおおせるためにと、連れている幼い男の子を引き取る。
この男の子を背負い、市は山道を下る。その間、無数の御用提灯が忠治たちを追っている。闇の中、途切れることない御用提灯の光の列は、思わず息をのむような美しさである。男の子はきれい!!とはしゃいだ声をあげる。

市はそのことで、親分たちの危機を察し、山じゅうにはりめぐらされた鳴子を鳴らして追手をそらすのだが、しかし……一時休憩した山宿で役人たちに追いつかれ、ほとんどの子分を失ってしまうんである。
この時の、逃げてくだせえ!!という子分の叫びの繰り返し、死にゆく子分を打つ手もなく見守るしかない忠治親分の涙目のロングシーンが忘れられず……。

なんでこんなうまく追い詰められちゃったかっていうと、侠客のフリして代官のイヌになってる卑怯な輩がいるからなんである。そんな奴は既に、侠客じゃないんである(怒)。つーか、もう見た目もゆるみきってる小太りの男で、全然侠客っぽくない(爆)。こんなんいかにも雇った浪人たちをさばききれない感満載だわね。
浪人たち、その筆頭格の十四郎は、あら、勝新のおにいちゃんである。キャストクレジットが若山富三郎じゃなくて城健三朗 。へー、こーゆー名義の時があったのねと思う。

彼一人が重用されて、後の二人が捨て置かれているのが、てゆーか、少なくともこの二人はそう感じてしまって、分裂の危機なんである。
そーゆーあたりは、十四郎もまた大した男じゃない、というあたりなんである。太くて長いムチを必殺技に使う彼と勝新とのラストの一騎打ちは息をのむ迫力なのだが、まあそれはまた後の話。

この分裂に市が付け込む。なんたって“めくら”だから、こーゆー、人の心の微細なさざ波さえ、聞き分けてしまうんである。彼らが投宿している宿に市も忍び込み、ザ・シコメの女郎に(大きなほくろに、鼻の下の産毛)「初めて揉まれたぜ……」とゆーシークエンスは思わず笑ってしまうが、フェミニズム野郎としたらどう心を処理していいのやら(爆)。
そりゃ市さんだからめくらめくらと自嘲していてもすべてが判ってるからさ、気を使っていたのに“揉まれ”ちゃって、金まで請求されて、我慢しきれず、「たまには風呂にもへえんなよ」爆笑!!市さん、優しいな……必要な優しさかどうかは別にしても(爆)。

市の居所を知らせているのはいかにも色っぽい、関所破りの女子なのだが、セクシー担当なだけで、イマイチ記憶に残らないので、ここまで忘れていたわ(爆)。市との混浴シーンで、ちらりと見せたおっぱいのふくらみは相当なもんだからドキッとさせたんだけどねー。
このシーンで市が、お湯の中でこよりつくって鼻をほじって湯の中で洗うなんてシーンがあって、うっわ、きったねえ……(爆)。でもこれ、ひょっとしたら市を軽く見てる彼女への優しい示唆だったのかもしれんが。

千両返せの嵐にガマンならなくなった農民たちは、直訴に出かけて当然のことながら投獄、拷問される。老いた庄屋さんもたまらず駆けつけるが同様に投獄。
明日には処刑するという悪代官の通達にもう一刻の猶予も残されない中、市が彼らの前に現れるもんだから、説明も聞かずにフルボッコである。必死に市が事情を説明しようとするも、最後まで言わせずボッコボコである。

しかし、この言葉が市の怒りとプライドに着火した。「俺たちはヤクザの力なんか借りたくねえんだ。このどめくら!」“ヤクザ”も“めくら”も、どちらも彼自身が時に自然に、時には自嘲的にしても使っていた言葉だったけれど、使われ方、というものがあるのだ。
ただ単に差別的表現としてダメだということじゃないということを、冒頭の、“差別的表現”の注意書きからモヤモヤしていた気持ちを改めて思い起こさせた。それを使う人の気持ち、そこに込められる意味合い、なのだということを。当然判っていたけれど、何か……これ以上ない実践例を見せつけられた気がして……。

結果的にはね、千両も取り戻すし、悪代官もぶっつぶすし、結果、忠治親分の濡れ衣もはらすしさ、万々歳だよと言えなくもないのだ。
ただ……本来なら、すまなかったね、市さん、千両とりかえしてくれたね!という晴れがましい祝いの席に、彼は行かなかった。名誉回復が彼の目的ではなかったこともあるけれど……あの、“ヤクザ!”“どめくら!!”の台詞が彼の中に鳴り響いていたんじゃないかと言う気がして、ならないのだ。

ただ一人、ずっと市を目の敵にして、つまり兄の仇だから、アイツこそが悪人!!と先頭切って言っていた妹ちゃんが、市の人徳、働き、私たち農民を救ってくれたことに、こうべをたれる。彼女はだから、悔いているから、民たちの前に彼を連れて行きたいんだけれど、市は、「会わなければならない人がいるから」と言う。
「でも、八木節が始まるまでには帰ってくるよ」あの、今はまるで夢幻のように思えた、千両を揃えられた祝いの宴の八木節、それを遠く聞きながら……いまや千両ではなく、使い手としての闘いをしつこく挑み、もう相手にならずとはいられない十四郎、勝新と富三郎兄弟対決が、もう……すさまじい、ラストのクライマックス。

時間にしては、それほどの尺ではない。しかし、凄まじすぎる。ムチを得意とする十四郎は馬で近寄り、ブン!!とムチで市の首を絡めとる。よーく見たけど、勝新自身のアクションとしか思えず、すさまじいスピードで引きずり回される凄いシーン!!
なんとか逃れ、しかしまた捕まり、ムチを切り、今度はお兄ちゃんが落馬、うっわ、これも、カット割ったように見えない、しかも首行っちゃってるんじゃないのというおっそろしい落馬の仕方!!もー、こわいよ、こわいよー!!本気すぎるこの兄弟……。

そしてラストもラストの、居合と刀のシーンは……これぞ日本映画、チャンバラ、いや、殺陣の美しさ素晴らしさ。市の方は居合だから短い刀身で、長い刀身と、タメというか、もう緩急が鳥肌立つ素晴らしさで、なのにスピードがあって、何これ、ナニコレ!!ですよ!!
で、突然の静寂、突然の静止。先に倒れてハアハア言い出したのが市の方だったからあれっと思ったら、人形のようにひざまずいて動かない十四郎が、半目を開けて頭から一筋の血を流して、そのまま、ゆっくりと、ドサリと地に落ちた。
ああ、これぞ、日本の殺陣よ。しびれる。そこにそれまでの経過の気持ちがあるからこそであり。
そしてそして……遠くに祝いの八木節が聞こえている。それを、砂だらけになって白髪のような頭になった市が遠くに聞く。でも、行くよと約束した彼だけど、決して行くことはないのだ。このまま去るのだ。きっと……。★★★★☆


さよならテレビ
2019年 109分 日本 カラー
監督:?方宏史 脚本:
撮影: 中根芳樹 音楽:和田貴史
出演:

2020/3/5/木 劇場(ポレポレ東中野)
オチバレ承知で言ってしまうが、うっわヤラれた、そういう“演出”だったのか!!と叫んでしまう。だからこそ彼に何度も何度も「ドキュメンタリーって何ですか、現実なんですか」とカメラ(の向こうの監督さん)に向かって問いかけさせたのか、と。
勿論、ドキュメンタリーには違いない。でもドキュメンタリーってなんだろうと。そもそもがテレビってなんだろうというところから始まって、それは最終的にはテレビの抱える闇を探ろうという意図はうっすらと見えてはいたけれど、それを見せるには、“現実”のドキュメンタリーではそこまで降りていくことが出来ないのだと、もう最初っから腹をくくって、というかしたたかに、“テレビ局が作るドキュメンタリー”に仕立て上げた勇気に舌を巻くのだ。

時に揶揄される、“テレビ局が作るドキュメンタリー”の、誘導する演出の嘘くささをあえて最後にバラして驚かせ、しかしならばその中で彼らが言っていたことは果たしてウソだったのか、その演出に乗っかる形だからこそ本音をさらけ出し、闇を深掘りできたのだと思うと、もう本当にしてやられた!!なのだ。

良質で挑戦的なドキュメンタリーを次々作り出す東海テレビが、もうこれは満を持して、ということなのかもしれない。とゆーか、そうか、震災後の“汚染されたお米、セシウムさん”事件は東海テレビだったのかと、今更ながら知り、それ以降のこの局の、担当していたアナウンサーの、すべての局員の苦悩を思い……。
勿論、それが本作の直接の製作理由ではないにしても、テレビとは何なのか、どうあるべきなのかと思い知らされた重い事件だったろうと思う。東海テレビ以外の局だって、その時には他人事ではないと思ったにしても、その想いを持ち続けていられたかどうか。

その不祥事を引き起こした番組の担当アナウンサーで、こわばった顔で頭を下げた男性アナウンサー、契約社員として入りたての若い男の子、そしてこれも契約だけれどジャーナリズム、マスコミを渡り歩いてきたベテラン社員、彼らが“演出”に乗っかった三人である。
勿論、物語のとっぱじめは、局員全員に企画内容を説明し、今度は被写体になることを了解してもらうことに奔走する展開である。勝手にカメラを回したり、隠しマイクを取り付けられたりすることに幹部社員は激昂し、監督とカメラマンは震え上がる。
今後はきちんと了解を得ての撮影ということに決着する段に当たって、それじゃあ純然たるドキュメンタリーと言えるのだろうかという想いが観客の頭をかすめるのだが、それも全て見越した上だったのかと思うと、なんだか悔しくて歯噛みしたくなる。

最初の内はカメラに映されることをテレくさがっていたベテラン契約社員の“演技”も、若い契約社員が監督から金を借りる姿を隠し撮りする様子も、後からネタばらしすれば、指示の上でのことだったに違いないのだ。
つまり……まずは全体の局員の中から、被写体として、本音を言ってくれる人として、魅力的な人物に絞り込んでいく……という、ドキュメンタリーとして想像できる、根気強い撮影スタイルと思わせておいて、実は最初からこの三人と決め打ちして、彼らの立ち位置も、喋る内容も、きちんと指示、計算されたことだったとバラされるラストにヤラれた!!と叫びそうになるのだ。
しかし、本当にだからこそ、まな板の上に乗せられたからこそ、三人三様、失うものがないからこそ、赤裸々な姿を見せてくれる。なんという思い切った、そしてクレバーな演出だろうと思う

もうそればっかり言い過ぎだから、その内容の方に入っていきたいと思う。三人の中でただ一人、メンが割れているというか、“セシウムさん事件”でいわば名を売ってしまったアナウンサーである。いかにも誠実そうな面立ちで、その生真面目な性格は自分で自分を追い詰めるような悲愴さがある。
あまりにも慎重、用意をし過ぎ、そんな彼にもっと自分を出していいんじゃないかと問いかけるインタビュアー側の監督は、局員皆の気持ちを代弁しているに違いない。
結果的にそれが、番組のメインキャスターを降板し、ロケ回りのサブに回ったことで殻を破るという展開が、いやそれは、いくらなんでも最初からのおぜん立てにしれは厳しすぎる人事で、これは奇跡の答え合わせだったと思うが、でも判らない、あのラストですっかりヤラれちゃったからさ!!

でも、“セシウムさん”事件によって、テレビが誰かを傷つけることが、いつか自分が誰かを傷つけてしまうかもしれないという恐れにすり替わって、視聴者に愛されるにしては気真面目過ぎる仕事ぶりになってしまう。
視聴率がライバル各社を追い越せないのは、最終的に“テレビを見るのは高齢者が中心”ということで降ろされることになるのだけれど、きっとそればかりでは、なかったのだろう。
ロケに回され、生活する一般の人たちに強烈に巻き込まれて身ぐるみはがされるような(笑)彼の姿をモニターで眺めている同僚たちは、一様に満足した笑顔になり、これだよ、という顔でうなずきあう。

一人、かなり異色なのが、契約社員として入ってきたおでぶちゃんである。申し訳ないが、もう一目見た時からオタク君ではないか……と思っていたら果たしてその通りだから思わず噴き出してしまった。
自室にまでカメラは侵入、ザ・アイドルオタ男子のクソきったない部屋、“チェキ写真”を分厚くファイリングし、果てはアイドルライブで熱狂し、アイドルと嬉し気に会話し握手しチェキをゲットしてホックホクなんていう場面まで撮るもんだから、これは会社的にはど、どうなの……と思ったりする。

いや、個人の趣味は自由だが、なんつーか……正直にキモいとか思っちゃうんだもん(爆)。
テレビの仕事を志したのも、好きなアイドルに近づきたい、とまで直截には言わなかったものの、そーゆー気持ちは隠しようもなかったし、でもめっちゃ不器用だし、保身に走っちゃって報告を怠ったり、それ故に取材対象を怒らせちゃったり、もうダメダメで、ボロクソに叱られるのもこりゃ仕方ないっつーか、予想通り……1年で切られてしまう。

そんな彼を横目で見ていたのが、個人的にも、見ている観客たちもほとんどが、彼こそが本作のメイン、根幹をなすための人物と思われる、同じ契約社員だけど酸いも甘いもかみ分けたベテラン男性である。
彼だってこのおでぶちゃんが無能(すみません……)なのは充分判っているんだけれど、彼がクビを切られたと聞いて、ちょっと驚いたような、痛ましいような表情を見せる。

意外、と思ったが、彼はもしかしたら、やる気のある若い人を育てるだけの体力がないテレビ局というものに、改めて失望したのかもしれないと思ったり。
それを契約社員だからという言い訳の元、しかも“卒業”なんていう生ぬるい言葉で送り出すことに苦々しい気持ちを隠さないところに、これまで彼が歩んできた、信じる道がことごとく閉ざされる、マスコミ、ジャーナリズムというものを信頼できなくなる歯がゆさ、でも自分はこの世界にこそ光明を見出してきたんだという自負があふれてて、もう、さあ……。

彼の自室にもカメラは潜入する。あのオタクおでぶちゃんとは全く違う(爆)、整然と本棚にジャーナリズム関係の本がぎっしりと詰め込まれている部屋である。……これも演出かもしれないが、彼一人、という印象を受ける。信じることに裏切られたり立ち向かったりしてきた、ストイックな印象を受ける。
民放テレビ局だから、ぜひものと呼ばれるスポンサー企画などもあり、それも彼はなんたってベテランだからそつなくこなすのだけれど、胸に抱えている企画は温めている。それは彼が信念として持っていて、本作の中でも東海テレビとして講演や子供たちの体験教室などの形で何度となく示している、権力の監視、である。三番目の役割として提示されるけれど、少なくとも彼は最も重要視している気合が伝わってくる。

ここで取り上げられるのは、マンション建設反対運動をしていた老紳士がイチャモンとしか言いようのない事由で逮捕された件についてで、共謀罪とテロリスト等……の言葉の使い分けをマスコミがどうするのか、それによって権力者におもねっているのかマスコミとしての矜持を示せるのかが、その言葉の選択ひとつで判るのだと。
……ちょっと、驚愕してしまった。確かに、確かに……テロリスト云々と言われたら、あ、怖いな、それは必要だなと思っちゃうけど、ただ会議しただけ、ただ打ち合わせしただけで、共謀しただろうと逮捕される、なんと恐ろしい……。
その法案の時、凄く騒いでて、もう無知無気力の私は(爆)なーにー、みたいに思ってたんだけど、ああ、私みたいな人間が、こういう恐怖政治をあっさりと受け入れて、真摯な人たちを追い込んでいくのかと思ったら……。

その企画がお堅い幹部たちにはねつけられてなかなか通らない歯がゆさなんかも見せて、だ、大丈夫とか思うけど、それも今のテレビの現状を、自らの恥部をさらすことによって、じゃああんたらは出来てるのかいと言えるだけの矜持が強烈に感じられて、凄い、凄い……と思うのだ。
ある講演会で理不尽に逮捕されたこの老紳士に彼が再会し、マスコミさんが報道してくれたおかげもある、と発言するのを、そのシーンもラストで“偶然の再会で声をかける”みたいな演出を暴露し、それ、言う!?と仰天しちゃった。

でもねこのオチバレは、だけどそこに至る、あるいはそこで吐露される言葉に、気持ちに、ウソはないんだよと。むしろお膳立てされたことですべてを整えてさらけ出すことが出来るんだよということなんだと思って。それをテレビ演出の問題点だとか、身勝手さだとか言うことも確かに出来る。ドキュメンタリーじゃないじゃないかということだって、出来る。
それをすべて了解した上で、むしろ私たちが想像しているテレビというものの演出のしたたかさを二段階的、三段階的に提出することで、その上でより真実に、少なくとも人の心の奥に迫れるのだと、攻撃されるのを覚悟で、傷だらけになることを覚悟で、エンタテインメントとしての目論見さえも視野に入れて、作り上げたってのがね、本当に、本当に凄いと思って……。

今までは、いわば、ベテラン契約社員さん言うところの、“現実としてのドキュメンタリー”に取り組んできた東海テレビさんが、なんていうか、自嘲というか、作戦というか、したたかな演出の中にすべての本音と真実をぶちこんだ捨て身の姿勢が、本当にヤラれたし、圧巻だった。
そして私は……ネット民としては20年以上のベテランと自負しているけれど、今までも信念ではあったけれど、改めて、顔の見えない、何者か判らない、責任のないところから発信することはしまいと、してないけど、改めて心に刻んだ。

ハンドルネームというのすら死語になったネット黎明期の時代から、匿名性というネット特有の文化が通り魔事件のように人を傷つけ、事件を引き起こし、社会を悪い方にしか変えない。
正直マスコミの中でもテレビは違う媒体なのにそれに振り回され過ぎと思うのだが……。議論のできない人でしか、ないんだもの。ネット社会に議論は存在しない、言いっぱなしだから。

議論は苦手だけど、自分の信じることを伝えたいと思ったら……いろんないいところ、便利なところはあるけれど、その点においては、ネット社会というのは、あまりに未成熟、なのに、それをことあるごとに取り上げて、気にするマスコミ、特にテレビ業界というのは……と思ったり。ああだから、さよならテレビ、だったのだろうか。★★★★★


残酷 異常 虐待物語 元禄女系図
1969年 93分 日本 カラー
監督:石井輝男 脚本:石井輝男 掛札昌裕
撮影: 吉田貞次 音楽:八木正生
出演:吉田輝雄 山本豊三 橘ますみ 木山佳 カルーセル麻紀 三笠れい子 丘そのみ 南風夕子 沢淑子 蓑和田良太 山本昌平 林彰太郎 小島慶四郎 唐沢民賢 五十嵐義弘 村田博 上田吉二郎 葵三津子 石浜朗 若狭伸 ジム・M・ヒューズ 沢彰謙 滝譲二 大蛇川 牧淳子 小池朝雄 尾花ミキ 賀川雪絵 阿井美千子 田中美智 中村錦司 矢奈木邦二郎 高木恵子 山下義朗 土方巽

2020/4/22/水 録画(東映チャンネル)
うわー、久々に石井輝男ワールドにすっかりヘトヘトになる。うーむ、しかも三話構成だった。知ってたら避けたかも(爆。書くのが大変なんだもん……)。
元禄という、一見きらびやかな時代に澱のようによどんでいる毒の世界。てか、タイトルが凄すぎる。残酷、異常、虐待物語。どーゆーセンスでこんなタイトルと思うが、まさにその通りだというのが石井輝男のものすごさ。

一人の医師の目にさらされた、情欲、性欲に身をやつす、あるいはその欲に虐げられる女たちの三つの物語である。

まずはおいとの話。後から思えば一話目の彼女はあまりにも単純に男を信じ、バカなのと思うぐらいだが、二話目、三話目と物語が凄惨を極めてくると、彼女の愚かなまでの純愛の気持ちがいとおしく思えるから不思議である。

彼女がホレてしまう遊び人半次はもとから、父親の借金に苦しんでいたお嬢様であるおいとを金づるにするつもりで近づいた。彼女にからませた男たちも無論、半次の手下だった。
彼女のためにとヤバいところから金を借りたと言い、おいとの恋心を巧みに利用して女郎に叩き落すんである。信じられないことだが、おいとはマジに半次が自分のために危ない目に遭ったと思う気持を、最後まで持ち続けていることなんである。

ついに吉原にまで売り飛ばされて、連絡をつけている男たちが最初おいとにからんできた手下たちなのに、なんで気づかないのか、バカなの??と思っちゃう。
べっぴんさんだからお大尽に気に入られちゃうのだが(なんか上島竜兵似……)、そのもともとの贔屓のベテランの花魁、八重垣がカルーセル麻紀!うっわ、彼女のおっぱいを拝めるだけでもカンドーする!!

この吉原の酒席がさー、いかにも石井輝男ワールドというか、おっぱい丸出しの花魁たちがふんどし姿で腋毛もあらわに騎馬戦をするという趣向は一体何なんだ(爆)。まぁ、おっぱい丸出しの女たちはその後もバンバン登場するのだが(爆爆)。

ところでおいとはその腹にややこを宿していた。彼女はそれが愛する半次の子供だと固く信じているんだけれど、なんたってこーゆー境遇に堕ちたのになぜそうと信じられたのか、あまりに不憫だ。
彼女の妹が姉とは違って捨て鉢な現実主義で、半次とも平気で通じており、その現場をおいとが暴くという修羅場さえ用意されている。なのになのに、おいとは半次から「酒の上の出来心」だとささやかれて「俺にはお前だけだ」と囁かれて、ついさっきまで妹を抱いていたその腕で彼女を組み敷いているというのに、なぜそれでも彼を信じられるの……。

しかもさ、夜半に抜け出したことが逃亡を図ったと思われたか、追手がバーン!!とやってきて、なんたってあの八重垣が嫉妬に狂っているもんだから、二人をボッコボコに打擲しまくる。まず吊るすのは基本で(爆)、半次は唐辛子で目を潰され、ややこをその腹に宿したおいとは、それが知れると……もう、やだー……漬物石をバーン!とその腹に落とされる……やだー……。
で、運び込まれたおいとを診療した医師、玄達はその時はなすすべもないのだが、西洋から伝え聞く近代医療を試したい気持ちの彼は、腹をさいてややこを取り出すことで彼女を救えるとも思い、でもそれは自分の欲求を満たすだけとも思い、逡巡するうちに哀れ彼女は死んでしまう……これが、三話目の伏線になっていたとは。

あんなハンパモノの半次がおいとの死を知ってショックを受けるってのはちょっと意外だったが、基本的にはどんなにヒドい話でも、人の心というか愛を信じている部分がある気はする。

そして二話目。おちせの話。個人的にはこの話が一番好きかも。ちょっと、谷崎の匂いがすると思うのは、春琴抄の関係性を、この二人に濃厚にかぎ取れるからだろうな。
しかして春琴ならぬおちせさんは、異常性愛の持ち主。かしずくばかりの手代、長吉に命じては、見世物小屋の小男たちに夜這いをさせたうえでボッコボコに打擲したり、路傍の臭気漂うような浮浪者に襲わせたり、興行中の力士を指名したり。

つまりは、ありきたりの相手ではないことと、それに凌辱されるようなシチュエイションに興奮する、興奮するだけではなく、それがなければ飽き足りないという、長吉が相談した玄達言うところの、「西洋にもそのような記録が見られる」病気、なんである。
まぁ、今の時代に比して言えば、病気と言っちゃうのもアレだが、ここでも玄達が西洋の医術の記録を持ち出してくるところに、彼の向学心……と言えば聞こえがいいが、まあやっぱり、何かチャンスがあれば試してみたいという欲が見え隠れする。

実は本作は、良心的な医者と見えながら……そのままのイメージで終わるにしても、実は医師玄達の好奇心を刺激する案件を基本にしているのかもしれないという感じもする。
おちせさんがこんな性癖を得たのは、ある日見世物小屋で顔面にむごいやけどの跡を刻んだ醜い男に拉致され、実に半月もの間、……言ってしまえば調教されたことが、原因であった。
凌辱されていたのに、その味が忘れられなかった。しかし救い出された時、その醜い男をボッコボコにブチ殺したというあたりが、また病の深さを思わせた。

そのことを玄達の催眠術で知った長吉は、玄達からも愛の力でぶつかれと励まされたこともあって、このぶっとびお嬢様をなんとか治したいと思うのだが……ムリだよね、そらー、ムリだよね。
お嬢様が彼の真摯な思いを利用する形で、「この浮世絵に描かれている者を連れてこい」という、それは“くろんぼ”(彼女の言い方と時代性なので、許してね)。この当時としては、究極の、異形のものであり、……こう言っちゃなんだけど、セックスパワーの最大のものであろう。

それをふすまの陰で震えながら様子をうかがっている長吉の哀れさ。「またあのくろんぼを呼んでおくれな」と、長吉の気持ちを充分に知っていながらおちせは言い、悔しさと情けなさで震えている長吉に対して、「私を自由にしてもいいよ。でも、お前は整い過ぎているから、私は全くその気にならない」とあざけるように言う残酷さ!!

長吉は、長吉は……じっと炎を見つめていた。鉄箸が熱されてる。……ちょっと待て、ちょっと待ってー!!!いや、私の予想を一段超えていた。
彼が自分の頬を焼くまでは、確かに想像できた。でも、そうだ、春琴抄を思い出したのは間違っていなかったのだ。順序が逆だっただけ。だけって、逆が重要なんだけど!!長吉は、私は醜くなった、お嬢様も!!と火箸を持って迫る。佐助までには、従順になれなかったかと思う。

怯えて長吉から逃げ惑うおちせ、そうこうしているうちに、火箸を彼女の首に突き刺してしまう!!!ひどい、ひどいひどいひどい……おちせは長吉にわびの言葉を息も絶え絶えに発するが、どうなんだろうこれは……。
長吉は、おちせの脚を肩にかけて、おっぱい丸出しの彼女を背中にさかさバンザイさせて、荒野の中を行く。凄い画である。そして愛するお嬢様を追って死にゆく……までは映さず、その青白いおっぱいに愛し気に顔をうずめるんである。長吉は、幸せでしたと。

三話目。おみつの話である。これはまあそのう……狂気のお殿様がとにかく強烈である。女どもはむしろ脇役といった感じである。そうか、小池朝雄氏か!もう彼に目を奪われて、女たちもすっごい頑張っているんだけど、彼の狂ったお殿様っぷりにすっかり席巻されてしまうんである。
まず冒頭に、牛の角にたいまつをかませて、赤い着物の女たちの間に放ち、逃げ惑う女たちに「牛は赤いものを攻撃するんだ。脱げ、脱げ!!」と命じ、おっぱい丸出しにさせ、しかしそれでも牛たちは容赦なく突っ込み、次々に突き殺され、お殿様は興奮いたして、自ら矢を放って事態を更に混乱させるという、しんっじられない狂人である。

その中に彼はお好みの女子を見つける。この阿鼻叫喚の中で、牛の前に躊躇なく全裸になり、お殿様の矢に怯えることもなく微笑みを浮かべるコケティッシュな美女である。
さっそく呼び寄せ、さっそく緊縛して吊るし(!)、槍でツーツー切り裂き(!!)なのにこのおみつは、お殿様が見込んだ通りそれに対して官能の声をあげ、私もお殿様のようなお方を探していたのです、と相思相愛である。究極のSM需要と供給の巻である。

そしておみつは妊娠する。もうにやけっぱなしのお殿様である。ワリをくったのがそれまでは寵愛を受けていながら子をなすことが出来なかったお紺。
彼女はその寂しさを愛犬の二頭の狆に愛撫させてまぎらわせていた、といううっわ、エロっ!な描写を、しかも告げ口するために覗き見しているおつきの女がいるという、もー、えげつないことこの上ないのさ。

可哀想なお紺、いたぶられる理由付けがされたようなもので、お殿様の前に引き出され、ひんむかれ、金粉塗りたくられて窒息死寸前である。お紺を不憫に思うベテランお女中が自らの命を犠牲に訴えても、この狂ったお殿様は聞く耳持たぬである。
全身金色に塗りたくられたお紺が、“鏡の間”に愛犬の狆たちと共に放り込まれ、息も絶え絶えに、無数の金色の自分が奥へ奥へと移り込んでいるシュールな美しさがあるけれど、ひどく残酷な画だ……。

でも彼女は訴える。これまでにない趣向をお見せしますと。ただそれには時間が必要だと。
お殿様がそれを受け入れたのは、彼女を完全に見くびっていたからだろう。驚きの結末をみれば、それは明らかで。

玄達が呼ばれる。お紺は玄達が、人間を解剖してみたいという願いを知っていて、それを叶えてやろうという。てっきり、お紺は自分を解剖させるのだと思った。それでお殿様のドギモを抜いてやろうと、自分の命を賭しての復讐なのだろうと。
甘かった。後者は確かに当たっていた。その覚悟は最初からあったのだろう。とっておきの秘密を彼女は持っていた。

お殿様が寵愛して懐妊までさせたおみつは、実は彼の実の娘、双子で産まれた彼女は、“畜生腹”という当時の考え方によって里子に出されていたが、お紺がひそかに呼び寄せていた。しかも、お殿様好みのSM体質を調教してまで。
ってゆーことは、これは長年の計画、復讐のためなのか。うっわ、うっわ!!それは、自分が死んでもいいということも織り込み済みだったのか……。

玄達の望みをかなえさせようというのは、お紺の腹の子を、切り裂いて取り出させるというものだった。お殿様がこの事実に激昂することも予測してのこと。畜生の子供なんぞは、自分が切り裂いて取り出したる!!と……。
玄達は医者だから、一話目にも母体を救うために腹の子を切り裂いて取り出す、という西洋の医術を試したいと思っていたから、ここでそれが試せると思わなくもなかったが、もーその前に、激昂しまくったお殿様は実の娘で愛する女であるおみつをバッサリ斬っちゃうんだもん(爆)。

こうなったら、息も絶え絶えの彼女の腹を切り裂いて(うーむ、ビニール風船を切り裂く感じで、全然生々しさがないのは当時としてはしょうがないのか……)、赤子を取り出すしかないのだ……。
いつしか、倒れた照明の火が徐々に燃え広がり、完全に狂って刀をふりまわすお殿様から、こらまー、完全に人形の赤子を必死に守りながら耐え忍ぶ玄達。あの人形感はなんとかならんのか(爆)。せめてカットを割って、実際の赤ちゃんの動きを映したりさあ……。

時代的な問題もあって、まあいろいろあったが(爆)、エログロ残酷といったら石井輝男、久々でヘトヘトになった。コロナ騒動で家での映画鑑賞は、キャーキャー言うたびに愛猫のえちを抱きしめて、迷惑をかけるばかりだよ(笑)。★★★★☆


山麓
1962年 105分 日本 カラー
監督:瀬川昌治 脚本:松山善三
撮影: 飯村雅彦 音楽:齋藤一郎
出演: 山田五十鈴 笠智衆 淡島千景 扇千景 岩崎加根子 三田佳子 千葉真一 渡辺文雄 木村功 南廣 西村晃 丹波哲郎 沢村貞子 新井茂子 吉川満子 谷本小夜子 八代万智子 愛川かおる 鈴木暁子 杉義一 須賀良 岡部正純 若月輝夫 潮健児

2020/5/3/日 録画(東映チャンネル)
瀬川監督にはつい最近特集企画で出会って、どれもこれもハズレなし、もっと観たい!!と思っていたところだったが、その数少ない邂逅からのイメージでは、軽やかな人間賛歌的な印象があったので、本作にはメッチャ驚いた!
女、てゆーか、母親、コワッ!!山田五十鈴、コワッ!!日本には四姉妹ものとでも言うべきひとつのジャンルがひそかに存在すると思うが、そして本作もそれに連なる素晴らしき秀作だが、しかして本作で一番に君臨する、主人公と言いたくなるのは母親なのだ。しかも若くて美貌の。

登場してきた時、彼女が「ちゃんと手入れしないからよ。お母さんが一番きれいでしょ」と言う、そのお母さん、てのが自分を指していることに気づくまでかなりかかった。四姉妹の内の一人かと思ってしばらく見ていた。
同時代にいれば山田五十鈴が母親役というのはすぐに判ったのだろうが、そう思っちゃうぐらい、美貌の母親であり、その言葉通りその努力には余念がない。

物語の中盤には美容ライトとでもいうのか、赤外線ライトみたいなのを浴びながら小言を言いまくる場面さえ登場する。
「娘よりきれいと言われたい人なのよ。娘の着物を着て、若いもののつけるもんじゃないって香水も横取りして」と口をひん曲げて批判する三女の言い様はまさにまんまなのだ。

キャストクレジットとしては末娘役の三田佳子とその恋人の千葉真一がバーン!とツートップで飾るので、彼らの恋愛物語を主軸にして動くのかと思いきや、他の三人の姉妹のそれぞれ個性あふれる結婚生活も豊かに描かれ、これは当時の若手スターの名前で観客を釣ったのかしらん、と思うぐらいである。
でもってその娘たちの結婚をすべて(末娘に関しては強引に計画中)決めたのが母親であり、いや違った、三女だけはそれに反発して、好きな人と駆け落ちしたのであったが。

とにかくとにかく、母親が言ってはばからないのは、「自分の結婚を自分で決めるのはこの頃のハヤリらしいですがね。それはあんたたちがお父さんみたいなグータラしか見ていないから男を見る目がないんですよ」とか「人生はお金ですよ。(三女が)家にくるのにおせんべい一枚持ってこられないなんて」などとまー、ヒッドイことばかり。
それを黙って聞いてる亭主がなんとなんと、笠智衆でやんすよ!笠智衆だから、まさか彼が反逆するとは思いもしなかった……おっとっと、口が滑った!

落ち着け、私。で、確かに最初は、三田佳子扮する末っ子、雅子の物語から始まるんである。冒頭いきなり千葉ちゃん扮する恋人の信吉からプロポーズされる。躊躇する、のは、彼女自身に結婚とはなんぞや、ということがハッキリとイメージされないからなんである。
それは恐らく、彼女にとって恋愛自体が初めてぐらいの雰囲気もあるし、そして何より……母親が娘たちのすべての結婚を取り仕切りたがり、その中にはハッキリ不幸になってしまった姉がいて、でもとっても幸せそうな姉もいて、母親に反発して好きな人と結婚した姉は幸せそうだけれど貧乏にあえいでいて……みたいな、決めきれないあらゆるパターンがあるからなんである。

それにしても、勝手にお見合いの相手と日取りまで決められ、「もう22ですよ」と母親がいかにもノンビリさんねみたいに言うのにはキョーガクである。時代だな……と思う部分はそこここにあるが、一発目でまずこれが驚愕である。
雅子が躊躇している理由をお見通しで、「今日会ってきたような男は大した男じゃない。出世の見込みもない」と斬って捨てる。コワイコワイ!!

しかして……この母親の言う“出世の見込み”はそれこそ当時の日本社会における出世の仕方の古臭さを思わせる。
むしろ千葉ちゃんのエネルギッシュなサラリーマンはこれからの新時代、充分出世の可能性があると思わせるが、それがこの当時には作り手や観客にどの程度意識されていたのかは気になるところである。

一番の哀しい娘は、長女の菊乃である。長女だからこそ、反面教師も何もなく、親に反発するすべもなく、言われるままに資産家の三つ峰に嫁いだ。
母親にとっては、この三つ峰に嫁がせたことこそが自分にとっての大手柄で、そもそも自分たちの(豊かな)生活が成り立っているのは三つ峰からの仕送りがあってこそで、それを悪びれもせず菊乃に言って聞かせ、妾の一人や二人なんなの、そんなの男の甲斐性でしょう。飛び出してくるなんて、子供じゃあるまいし!!と激おこぷんぷん丸である。

あ、ゴメン、またすっ飛ばしてしまった……この三つ峰っつー男がもー、サイアクで、西村晃、よくぞこの後黄門様出来たわ!!と思う(彼に遭遇するたび、そう思う確率高すぎる……)。
爬虫類みたいなキショさと、カネもっとるでぇ!てな横暴さで、この美しい妻を自信マンマンで手中にしつつ、隠す気もなく女を作り、はらませる。

しかしガマンならなくなった菊乃が興信所を使ってその事実を突きつけても、「ナンボ女つくったかて、妻はお前ひとりや。お前のような妻を誇りに思おとる。」とか、言いやがる。お前のような妻って、どういう意味!!
菊乃が必死に反駁し、「子供を産みたいと思うようにしてほしかった」という台詞の重みをぜえんぜん、判ってない、いや判ってたからこそ、彼は彼でねじくれていたのか。この人の子供を産みたいと思わない=愛してないどころか、憎んでいる、ってことを、このキショい男は判っていたから外に女を作っていたのか。

いや、それはあまりに親切な考えだが、でもふと、心をよぎってしまったのは……菊乃に好きな人がいたことを彼が知っていたことが明かされたからなのだ。なんで別れようとするのか理解できない、みたいにコイツがいうのが、つまりは、その好きな人と天秤にかけて自分と結婚したんだろうということだったのかもしれないと思うと、もしかしたらコイツは可哀想なヤツかも……いやいやいや!!
でも、「いつまでもそばにいろよ、俺の人形……」とデートレイプさながらに犯す西村晃の気持ち悪さに、あり得ないあり得ない、これで10年とかありえない!!と思ったから、菊乃の家出に溜飲が下がったのだが。

でも、この時代だから。女は結婚しなければ生きていけないなんていう時代だから。いや、BGとしてハツラツと働いている末娘に至っては、うっすらそういう考え方がピンときてない時代に差し掛かっているだろうが、少なくとも次女までは確実にそういう時代である。
三女も新時代の考え方(以上にホレた相手がいたということだろうが)で家を飛び出したけれども、夫の薄給のみで専業主婦としてなんとかやりくりしているから、後悔こそしていなくても、誰が幸せかなんて、判んないわよ、と正直な気持ちを吐露する。

三つ峰の元を飛び出した菊乃は、そのはんなりとした和服姿が象徴するように、自分一人で生きていけるような器はない。まずは三女の加奈子のところに身を寄せたのは、彼女が実家から一切を断っているからだ。
勿論母親はそれを予想して探しに来るんだけれど、可奈子のダンナがイイ奴で、ちゃんとかくまってくれる。

しかし手狭なアパート暮らし、菊乃はある日、二人が着衣ではあるけど、なんか濃厚ラブラブな感じをチラっと見ちゃってハッとする。そして自分がうっすら原因になって二人が夫婦げんかをしていることに罪悪感を感じてしまう。
イイのは、加奈子がそれを正直に認め、でも自分たちの夫婦のほころびも認め、お金と愛情と生活の幸福の比例反比例を、菊乃や他の姉や母親とも比較してしみじみと、彼女の若さも正直に出した上で話すところなのだ。
そういう意味では菊乃は確かに10年間、愛のない夫との空虚な結婚生活に苦しんできたけれども、自分自身で勝ち取った結婚生活で、常に相手とぶつかり合って進んでいっているこの妹は、むしろ先輩であり、菊乃はまだまだお嬢様なのだと。
ただ、この愛のない夫っていうのがあまりにキョーレツで、決心して家を出てきた菊乃を執拗に苦しめるのだ。

菊乃には、そもそも好きな人がいた。そしてその好きな人、大津も、菊乃を愛していた。ああ、木村功。もう一発で、涙があふれちゃう。気象庁に勤めている彼は、菊乃との愛が破れ、自ら志願してパキスタンへと転勤した。実に10年、宣言通り、独身のままだった。
後に彼が語る、それは菊乃への復讐だと、菊乃の結婚生活が不幸だと知ってその復讐が果たされたと思ったと、その苦しい10年間は、まるで鏡のように菊乃自身にも反響するのだ。

あのキショい夫が呪いのように彼女の耳元にささやいた、他の男に抱かれても、俺のことを思い出さずにはいられないだろう……という悪魔のささやきが、菊乃を苦しめ続ける。それは、「男はどんなに女を経験してもカイショだと言われるけれど、女の場合は穢れていくだけ」という、昭和な、まさに昭和な価値観が、大津への想いにブレーキをかけるのだ。

現代的感覚からいえばこんなバカなことはないが、確かに私の……そうね、10代ぐらいまでは、そういう感覚ってリアルにあったな、という感じはある。
あるいは、結婚でしか女の人生は決定されないという感覚もあったし、それに対するメリットを感じるか感じないかが価値観として分かれた時代だったと思う、ので、つまりは私のよーな、結婚自体が女にとってメリットなさない!!みたいなフェミニズム野郎を生み出すことにもなる訳で(爆)。

この四姉妹の中で、まだ結婚前とはいえ今は仕事をしていて、結婚後にも辞めないかもしれないという可能性を持っているのは末娘だけなんだよね。彼女がムリヤリ見合いをしたエリート会計士は、ほんっと感じがいいし、なにより彼女にホレてるし、デートもスマートで、日帰りの北海道旅行だなんてカッコよすぎだしさ!!
でも彼が言う、「生活のための共働きで疲弊するのは、幸福な結婚生活とは思わない」という台詞は、あらゆる選択肢をその前に披歴しつつ、つまりは今働く女性である雅子に配慮しつつも、ヤハリ古い時代の結婚生活像を女にやんわりと主張しているように思えてならないのだ。
しかして難しいところである。次女は母親の言うとおりの男と結婚したが、サッパリと気持ちのいい亭主と、ヤンチャざかりの息子二人はただただ可愛いばかりで、彼女は姉や妹の結婚生活の様々を理解しながらも、でも私はお母さんの言うとおり結婚して幸せだったからなァてな感じなんである。

そしてそんな中……大事件勃発、である。菊乃の離縁に対して、あまりにも自分勝手なことばかり言って、娘の持ち物も売り飛ばそうとしているお母さん、いやこの場合は妻か、山田五十鈴扮する滝子に、それまではただただ静かな穏やかな夫だった笠智衆、笠智衆!!まさかの笠智衆の反逆!!
めっちゃビックリの驚きの展開!!このまま娘たちの結婚模様、恋愛模様のわちゃわちゃを一つずつ収束させていくのかと思っていたら!!

娘たちからは、嫌われてこそないけれども、頼りない父親として見られていた。事業に失敗した後は、妻の滝子の陰に隠れて生きてきた。
「あなたは得ね。いくじがないのが優しいと思われるんだから」という妻の皮肉も、娘たちにとってもそれほど違いはないと思われるような父親だった。歯がゆい夫、歯がゆい父親だったのだ。

しかして、いきなりのバクハツである。いきなりのように見えたが、菊乃のことを、その結婚をちゃんと反対してあげられなかったことも心に引っかかっていたせいもあったのかもしれない。
離縁されて送り返された菊乃の家財道具を、自分の当然の権利のように売っぱらう妻に逆上する。いや、キッカケの台詞があったのだ。「あなたは、盆栽いじってりゃいいの、苔に水でもやってりゃいいのよ。」確かにこの台詞にはうっわ!!と思ったが、それまではひたすらザ・笠智衆だったのにバーン!!と盆栽の鉢をたたき割って、出て行ってしまうのには衝撃!!

……彼はね、娘たちに何にも出来ないままだったことが歯がゆくって、でも心配していて、妻にはナイショでこっそり相談にも乗っていた。でも何も出来なくてさ……。
菊乃が、「好きな人の胸に何もかも捨てて飛び込むのが幸せなのかも」と妹の加奈子に言った台詞は衝撃だった。かも、って何よ。幸せに決まってるのに!!それは、彼女たちが両親を見ていて、彼らの間にそういう価値観を見いだせてなかったことこそだと思うし、観客側も当然そう思ってたんだけど……。

このお母さんはね、迷いなく言っていたのだ。若さと美貌、それだけが女の資本だと。マジかと思う。そんなこと言ったら、私をはじめ、資本を持たない女だらけだよ(爆)。
でもマジに、そういう時代が、しかも長く続いたのだ。でもそれを、夫の笠智衆はホントにそう思っていたのか。

そのふがいなさを“戦闘的”(姉たち曰く)な三女からは、「悪かった、悪かったって、まるで罪人みたい」と攻撃される。この三女は最もストレートに思いを口にする。だからこそ母親も、ストレートにぶつかるから、スリリングな場面が頻発である。加奈子のダンナに向かって、「泥棒!いい縁談があったのに」とののしり、ダンナじゃなく加奈子がバクハツして追い出すシーンはドキドキである。
ダンナ、いいダンナなのよ。これだけ言われて、でも怒ってるのは奥さんで、ケンカはするけど、後にノロケのタネになるようなお互いになんにも隠さないストレートなぶつかり合いでさ。姉である菊乃や雅子が憧れるの判るんだよな……。

菊乃が、かつて愛し合った大津と伯母さんの牧子の手引きで再会し(牧子を演じる沢村貞子の玄人女な感じがカッコよすぎる!)、何度も何度も、逡巡する。自分は穢れた女、彼に見合った存在じゃないと。
木村功がさぁ……あまりにも誠実で、なんとも純な男だから、ムズいのさあ。牧子が10年前、菊乃と別れた大津に「遠い星のことを見てるのに、すぐそばの女のことが判らないのか!!」と叱咤し、彼は落涙したという。この台詞、めちゃめちゃ良くない……。
そして菊乃はあんなキショい男と屈辱の10年を過ごし、自身が穢れたと思うのも、ムリないよ……。しかしてその躊躇を突破したのが、マサカの父親の家出!!遺書まで残し、山麓に捜索隊が出る事態になる。

タイトルの山麓って、ここかよ!!いや、そもそも雅子の恋人の信吉が山男で、男女、あるいは結婚生活を山登りに例えたところもあったけれども。でもさあ……ホントに笠智衆、死んじゃうのかと思ったよ。だってあんな老体だし(爆。美しい妻とギャップがありすぎる……)。
でも思いがけなかったのは、そのことに娘たちより誰より大ショックを受けたのが、夫をバカにしくさり続けていた滝子だったことである。「美容のために、お父さんとも寝室を別にしている」と赤裸々なことを三女から言われていたぐらいの……つまりは仮面夫婦だとばかり思っていたのに。

父の行方が杳として知れないモンモンとした時間、三女がバクハツする。「どうしてお母さんはお父さんを幸せに出来なかったの」と。自分だけが幸せになることばかりを、そして娘の幸せという名目でヤハリ自分だけが幸せになることばかりをと、攻撃しまくる三女。
女と結婚という問題提起は本作において徹頭徹尾貫かれるところなのだが、この山の場面でそれが凝縮される。

結婚とは、一番大切なものを全部あげることなのだと。それが愛の最大の表現だけれども、それだけ女が無力になるのだと。そんな価値観が、うんうんそうだねとこの時代に首肯されたのかと思うと戦慄だが、ふと山口百恵の唄の歌詞を思い出すとマジでそうだったんだろうと。
でもそれの見返りは……。ただ、お父さん、笠智衆はさ、逆にその価値観の中で苦しんで、実に20年とか苦しんでさ……。

結果的に、お父さんは見つかって、妻の滝子は思いがけず涙を流す。愛していたんだと、自分自身さえ気づいていなかった夫への愛に気づく。娘たちも皆涙涙である。
一人若くて捜索隊に加わっていた雅子は、お兄ちゃん(誰の??)の五十嵐(丹波哲郎)に、「結婚なんてあんまり真剣に考えると間違える。好きな人がいたらさっさとやっちゃうんだよ。考えるのは後。」とアッケラカンと言われて、目が覚めたようになるんである。

結婚ってどういうものかとか、見合い相手があまりに欠点がない好ましい人だったりとか、お金の苦労と愛情の天秤とか、いろんなパターンが周りにありすぎるから逡巡していた彼女が、この一言でパーン!!と目が覚めるのが気持ちいい。
菊乃もまた、いい意味でしつこく追ってきた大津の胸に、ようやく飛び込むことが出来た。すべてが終わって雅子はオープニングと同じ噴水の場所で信吉と会い、「あなたと結婚することにしたわ。でもまだ先。私たち、いろいろ勉強してから」と宣言する。

勉強、かあ。判る気がする。男女平等、共働き、子供が出来た時の対応、双方の親との関係……ホンット、今じゃさ、全然カンタンに済むようなことが、でもまあ、この当時はその過渡期にあったと思われ、凄い古い価値観と、新時代に思い切って飛び込んでいる世代との、新鮮なコラボレーションで、四姉妹の中でも和服と洋服が普段着の違いとして現れていたり、すっごい面白いんだよね。
女一人放り出されたら生きていけない、という長女と、しっかり社会人の四女の差はまさにこの時代の女の生きる道の差であり、次女、三女がそのグラデーションを埋めているのも、面白かったなあ。★★★★★


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