home!

「あ」


2019年鑑賞作品

あいが、そいで、こい
2018年 115分 日本 カラー
監督:柴田啓佑 脚本:村上かのん
撮影:神野誉晃 音楽:Less is More
出演:小川あん 高橋雄祐 長部努 古川ヒロシ 廣瀬祐樹 中垣内彩加 山田雅人 吉岡そんれい 水沢有礼 黒宮けいた 寺林弘達 藤井桂 中澤梓佐 武田祐一 五十嵐美紀 石川誠 坂井宏充 タカヨシ 高石舞 宇田川さや香 荻野祐輔 田山由起 中村瞳太 森本のぶ 氏原恭子 カレン 吉田有希 田上雅人 阪本宗久 木村知貴 藤代太一 二ノ宮隆太郎

2019/7/10/水 劇場(新宿K's cinema)
地方の高校生、高校最後の夏休み、友情、淡い恋、海、イルカ、水族館……かなり好きな要素満載だと思うのだが、なんとはなしの中だるみ感を感じてしまうのは、なんでかなーと思う。
年上の女性への叶わぬ恋、優しい友達の突然の死、自分と父親を置いて出て行った母親との哀しい再会などなどエピソードも盛りだくさんなのだが、なんでか緻密さに欠けるというか……逆に、盛り込み好きじゃないのかなあとも思ったり。

何も学君を死なすことまでせずとも、と思う。判る、判るが……この、若い頃の死というものの衝撃、じいちゃんばあちゃん以外で初めて出る葬式が友達のものだという、それがただただ優しい友達の死だったという……でも、際立たないのよ。
だって台湾からの留学生との淡い恋やら、イルカの調教やら、父親の仕事への反発やら、でも自分が何をしたいか判らないやら、そしてこのバカばっかやってる男子同士の友情も、そもそもの始まりの二人のケンカとそのほかのメンツの関わり合いが今一つ曖昧でさ。

高校最後の大事なバスケの試合だった、とか言いつつ、彼らが本気でバスケをやっている場面が一秒も出てこないとなると、そういう真実性というか、言葉の上だけのものになっちゃうというか。
つまりはボランティアに駆り出すための設定だけのもので、そうなると二人のケンカが真実味を帯びてこなくなっちゃうんだもんなあ。

なんてことばかり言っててもしょうがないので、つらつらと行こう。舞台は、この方言はどこだろう。西南の感じは、するのだが。冒頭は先述したとおり、校長室に呼び出された二人の男子のケンカから始まる。正直言ってこの時点で、かなり遊び人風のヘアスタイルと制服の着こなしと喋り方で、とてもそんな、真剣にバスケの最後の試合にかけていた、と思えないのがツラいんである。
ただ単に腐れ縁、会えばケンカという間柄にしか思えない。そういう間柄は魅力的だが、ならば大人になって再会した時もそういうひと悶着があったらいいのに、と思う。もう大人のキャストになると、全員面影なくて、誰が誰やらわからない。

そうだ、冒頭は、大人のシーンからなのだった。いや、高校生時代と入れ子のような感じだったかな。全編、そんな感じ。現在大人の役者たちとそう変わらないような高校生諸君との場面とくるくる入れ子になる。
大人になっている亮が勤めているのは文具メーカーなのだろうか。主力商品は手帳らしく、新しい元号ではなく西暦表記にすることに会議で決定する。平成生まれの新人社員を、バブルを知ってるかどうかとか、昭和の考え方だとか、なんでもパワハラだのコンプライアンスだのとか、いかにもな話題で盛り上がる。

そして亮が思い出すのは、ノストラダムスの予言した大魔王も降臨せず、2000年問題も大したことにならず、ミレニアムという言葉が素通りした、21世紀になったばかりの、高校最後の夏、なんである。
亮はこの年、一生のお願いを連発した。一生に一度、と言わないところがミソかもしれない。幼なじみの由衣花に読書感想文を頼み、地元の先輩であるオッサンに、友達の恋路を助けるという名目でスナックにもぐりこむことを頼み、後はえーと、なんだっけ。

まぁとにかくこんな具合で、かるーい一生のお願いを連発するような、まあ、よくいる田舎の高校生よ。
ちょっと悪ぶってて、つるんでいるのがおでぶちゃんとまじめちゃんという絵にかいたような二人で、だからこそもう一人の堀田とは似た者同士でいがみあっていたのかもしれない。判りやすくモテ系だもの、二人とも。

とにかく、ボランティアすることに、なるんである。亮のお父さんはいずれは水族館に行くことになるイルカを育てての調教、というお仕事、ということなのだろうか。海の中にいけすのような囲いを作って、毎年調教師を目指す学生を呼んで教えている。
他にミカン農家もやっていて、劇中、息子の亮は父親の仕事に興味もないし、みたいにつぶやくし、当の父親も、ことにイルカの仕事に関しては、地元で必ずしも受け入れられてばかりはいないんだ、とこぼす。

このあたりは実際に、舞台になったここでの本音だと思われるのだが、そこも特に掘り下げる訳ではないのが歯がゆい。ヤハリそのあたりは、なかなかそこまで出来ないのかなーなどと思ったりする。
留学生も含めて、イルカの調教を研修する学生を招聘するというのはきっと実際、やっていることなのだろうと思うので、そこんところは、そこんところこそ、緻密に、見たかった気がする。どういうスケジュールで、どういう生活スタイルで、イルカへの調教の授業的なこととか……なかったよねえ、と思う。

だから、盛り込み過ぎだったんじゃないかと思っちゃうのよ。結局メインは、男子たちの友情の方にあって、イルカの調教のためにひと夏ここにやって来た女の子たちは、それって男の子にとってはワクワクする恋の予感であって、……つまりそれだけな訳。
その中で台湾から来た女の子が、美人で、気が強くて、ってなれば、そらー男子たちは、興味ないフリとかするヤツがいたとしても、そらー色めき立つわな。

一番残念だなと思ったのは、四人の研修生の女の子がいて、台湾からの留学生のリンちゃん以外は、一人として詳しく掘り下げられることがなかったことなんである。
ひと夏の恋物語。男子側もきっちり四人そろってて、だからこそ合コンよろしく親睦会を企画したのに、リンちゃんに恋しているのが亮と学、おでぶちゃんの小杉はスナックのお姉さんに恋をしている。

亮といがみあうという点でメインの一人と言いたい堀田に関しては、これはさ私、ホント盛り込みすぎのせいだと思うよ……亮とのいがみあいでキャラが終わっちゃって、わりとイケてる系なのに、色恋系全然、ナシ!!
イルカ調教で今年来ているのが全員女の子だと聞いて色めき立っていたのに、結局リンちゃん以外は顔もろくに映らないって、ど、どうなの。もったいないっつーか、雑過ぎない!
だってさー、学のお葬式に出たあと思しきファミレスの場面でも、そういう扱いじゃ台詞もさばけないって感じで、男の子プラスリンちゃんしかいない、って、よーく考えればおかしいよね。だって一緒に苦楽を共にした仲間の筈なのにさあ。

台湾からきたリンちゃん、という設定は魅力的ではあるし、台湾なまりが可愛いけど、台湾女優という訳ではなかったんだね。そんなところにこだわるのもおかしいかもしれんが、台湾は親日国家だし、ホントに台湾の新進女優さんが来てくれてたら、いいなあと思っちゃったり、したんだよね……。
そもそもオリジナルであるこの脚本の段階で、台湾から来た女の子、というんだから、きっとそれなりの思い入れはあったんじゃないかなあと思ったりする。まあね、まあそりゃ、独立系映画で予算の関係とかもあったとは思うけど……。

そして、リンちゃんは、お母さんを探しに来た、という側面もある。本当に自分がイルカの調教がしたくてここに来たのか、お母さんを探したくて来たのか、という苦悩もあるんである。
しかし、再会したお母さんは、絶対に判ってる筈なのに、「初めてのお客さんです」「お帰りください」と氷のように冷たいんである。それでもいいのよ、全然。言えない事情があって、とか、あなたのことをずっと忘れたことがなかった、とか、そういうのは聞き飽きたから(爆)。
でも、冷たいなら冷たい理由を、やはり知りたい。子供のことなんてもうどうでもいいとか、それでもいいのさ。リンちゃんとおそろいのイルカのキーホルダーを大事に持っていたくせに、お帰りくださいと冷たく言い放ち、なのにその真情が全く明かされないなんて、そりゃないよ。

だから安易に盛り込み過ぎだって、思っちゃうんだよ。つまりはこのショックなシーンを用意するために、小杉がスナックのお姉さん、アケミちゃんにに恋をしちゃったなんて設定にした、って、思われたって仕方ないじゃない。
てゆーか、その通りだよなあ……小杉のアケミちゃんへの恋心はそのきっかけもなーんにも語られないし、ムリがありすぎるんだもの。

恋なら恋、家族なら家族だよ。正直どちらも、特に家族の描写に関してはあまりにお粗末だと言わざるを得ない。恋のためにとりあえず、といった感が否めない。
リンちゃんの研修最後の調教を、規則違反を厳しくせんがために亮の父親が禁止して、それを学のアイディアで堀田の父親である市長をダシにしたりするんだけれど、まさに、これぞ、恋のためにとりあえずの家族愛、だよねー。
ここぞとばかり思いっきり親に向かって頭下げるけど、なんかカンドー的に仕立てるけど、違うよね、違うよ……と心の中で叫びまくってしまう。

正直リンちゃんの調教のレッスンに関しても、亮のお父さんが厳しく指導した場面はなく、ひたすら亮と日本語のレッスンしている場面に終始するし、弱すぎると思う。
勿論、台湾からの留学生、ということで発音を、残酷な小学生からビシバシ指摘されるというのはあるにしても、でも大事なのは、そしてリンちゃんも悩んでいたのは、イルカへの調教の技術だった筈じゃないの??

個人的に一番イラッとしたのは、半世紀前の少女漫画かよ!と思っちゃうような、亮の幼馴染の女の子、由衣花である。
いやー、あれはないわ。寝倒してる亮を「いつまで寝てんねん!」と押し入る、リンちゃんに嫉妬して、ほっぺたしばきたおす(溺れた亮を助けたのに!!)。「台湾に帰るんやろ、だったらもう、私たちのこと、ひっかきまわさんとって!!」ザ・幼なじみの台詞やわー。

そしてなのになぜか最後には、ふて寝している亮をこれまた叩き起こし「いいかげん起きろや!リンちゃん、行ってまうで!」おめーがゆーなー!!!亮はあのお気楽先輩オッサンの軽トラに乗って空港に急ぐも、なんとオッサンは旧空港に到着してしまって、リンちゃんの乗った飛行機を亮は頭上に眺めるという……。
だからここから亮は、リンちゃんに会ってないのだ。月日は流れ、懐かしい友達たちと顔を合わせた時、リンちゃんが彼らの地元の水族館に就職したのだと、こともあろうに由衣花からの情報。由衣花は何があったのやら、シングルマザーでバリバリやっているんである。

高校生の彼らは皆、パンチが効いていたので、正直大人になった役者たちがみんなぼんやり見えてしまう(爆)。リンちゃんは水族館でイルカと共に泳いでいるシルエットで終わるのみである。
まー、大人になった亮が高校生時代の橋雄祐君のインパクトと比べてかなり下がるので、リンちゃんに誰を持ってきても、難しいかなと思う。ネームバリューのある大きな商業映画なら、大人役者と若い頃の役者を分けての描き方は作戦として出来ると思うが、こういうバジェットの作品では、観客側に役との認識が難しいと思う。

いや……そんなこと言っちゃえば、海外の作品を観る時にはどうなんだと言われそうだが、でもやっぱり、それを納得させる役者としてのそれぞれの実力っていうのが、あると思うからさ。★★☆☆☆


愛がなんだ
2019年 123分 日本 カラー
監督:今泉力哉 脚本:澤井香織 今泉力哉
撮影:岩永洋 音楽:ゲイリー芦屋
出演:岸井ゆきの 成田凌 深川麻衣 若葉竜也 穂志もえか 中島歩 片岡礼子 筒井真理子 江口のりこ

2019/4/21/日 劇場(有楽町スバル座)
実績を積み重ねてって着実にファンを増やしていって、ようやく満を持して、ブレイク、というか、実力のある監督しての地位を確立したような気がして、とても嬉しい。
いや、同じEMBUゼミナール制作のアレがめっちゃ大フィーバーになっていたから、そこでずっと作品を作り続けてきた今泉監督の確かな才能と実力に魅せられ続けていただけに、なんかすごく悔しくてさぁ。全然作品も監督のカラーも違うのにね。

しかも角田光代原作とは。あの大人気作家の映画化をゲットしたとは。個人的には彼はオリジナル脚本の力とその圧倒的な魅力こそが素晴らしい人だと思っているので、これで本格的商業映画に打って出る!みたいな感じになるのは若干残念なような気がするが、それこそ勝手な言いぐさということだろう。
今までだって原作モノがなかった訳じゃないし、それらだって見事に自分の脚本の力に引き寄せて来たんだもの。

岸井ゆきの嬢は、最近気になる女優さんの一人である。まぁそんなこと今さら言うなって感じだが、ドラマとか見ないんで、勘弁してください(爆)。
「光と禿」で、一息に魅せられた。カメラと親和性のある女の子。そんな表現は、市川準監督が池脇千鶴嬢に付していた。それをなんとはなしに思い出す。

彼女演じるテルコは恋愛体質、というのとはちょっと違うかな、ただただ一人の人、マモちゃんだけにまっすぐなのだから。
誰かを好きでいなければいられないというのとは違う、マモちゃんに出会う前の彼女が判らないから、あるいは、マモちゃんと出会ってからの彼女だけがすべてなのだから。

ひょうひょうと、自覚なくテルコを自分勝手に振り回すマモちゃんを演じるのは成田凌君。女の子みたいに可愛い顔とその無自覚さ、華奢な体躯。テルコはその美しい手にまず心を奪われているのだが、もうそれ自体、なんの役にも立たない男、という感じが凄く、しちゃう。
そんなマモちゃんを彼は見事に体現している。悪気はないのだ。本当に、テルコに対して悪いことをしているというつもりはみじんもないのだろう。体調の悪い時に彼女を呼びつけるのも、申し訳ないけど来れるんだったら買い物してきてほしい、と、彼は確かにそれしか言っていないのだ。

テルコは意気揚々と、もう自宅に戻っていたのにまだ会社にいるから帰りに寄るね、と言い、何か買ってくる、どころか張り切って味噌煮込みうどんを作り、ごみを片付け、果てはカビキラーまで振りかざしてはいつくばって風呂場の掃除までし出す。
「ありがとう。もういいから、帰って。」そういってテルコを追い出すマモちゃんに、まだ二人の関係性というか状況が判らないからアレだけど、どうもテルコ側の立ち位置というか、マモちゃんに対する感情のありようこそがあやしいなと思えて、テルコの友人の葉子のように、そんなヤツやめときなよ、サイテー、と切って捨てるのに躊躇を感じるんである……。

見事な、脚本だと思う。勿論原作ありきだというのはあろうが、結果的にはすべてが彼ら自身に回ってきて、それがその時々に発せられた台詞をいわば証拠のようにして、そのツケが回ってくるようなんである。
葉子に片思いしている後輩、ナカハラ君、後半登場する、マモちゃんが合コンで出会って好きになっちゃう年上のお姉さまスミレ、が主要人物になるのだが、これが見事に、みんながみんな、片想い、なんである。
なんて世の中上手くいかないんだろうと思うが、そもそもが、みんながみんな、ちゃんと気持ちを伝えてなくて、伝える怖さから逃げて、寂しい時気づいてもらえる存在でいてほしいとか言い訳して、そして壮絶に傷ついている結果なのだ。

そもそもテルコがマモちゃんとこんなに近しい存在でありながら、「大人になったら告白してつきあうとか、そんなんじゃない。いつのまにかそうなってた」とめちゃくちゃ希望的観測でモノローグし、それがそうではないことを突き付けられてあっという間に連絡が来なくなる、そのあまりにもの逃げ腰に、キーーーッ!と思っちゃうのだ。
だってだってだって、テルコはマモちゃんに好きだから一緒にいてほしいと一言も言わず、マモちゃんからそう言われていないことにも目を背けて、結局は傷つくことが怖いのだ。子供より子供だ!そうだ、大人は子供より子供なんだ……。

マモちゃんはテルコに惚れられているのに本当に気づいていなかったんだろう。なんてヤツだと思うが、彼がテルコとは正反対の、一回りは違う、ヒッピー崩れみたいなガサツなスミレさんに恋してしまった時、自分自身が疎ましく思ったテルコのようになっていることに、気づいていない……のだろうなと思うと、痛ましいような愛しいような気持ちになる。
それは、テルコの友達の葉子とナカハラの関係にもピタリと一致し、それぞれが、彼らとは違うと思い込んでいる、真摯な感情で相手に接して、それが伝わらないだけである、と思っているらしいことが、切なく辛いのだ。

おめーら、みんな、おんなじだよ!そんな男サイテーだからヤメときなよ、と言っている葉子がナカハラに対して、マモちゃんとほとんど同じ態度で接していて。
なんで気を使ってばかりなの、そういうところ、苦手、とテルコに辛らつに言い放つマモちゃんが、スミレさんに対して使いっぱしりのようにつき従っている。それが、それぞれ第三者側からはよく見えるのに、本人たちは全然判ってないんだもの!!

原作は未読だけど、それが立体的に、重層的に見えてくるのが、映画のいいところだと思う。勿論、それを立体的に、重層的に書き起こす脚本の才だとも思う。
葉子さんを諦める決意をしたナカハラ君に腹立ちをぶつけるテルコは、彼が自分自身にピタリとリンクしていることに、本当に気づいていないんだろうか。いや、きっと、判っているに違いない。だから腹が立つのだ。

「自分から諦める決心ぐらいさせてくださいよ」と泣き笑いの顔で言うナカハラ君(若葉竜也君、素晴らしかったなー)に、腹立ちをぶつけるテルコの方が完全にコドモで、ナカハラ君は旅立ってしまったのだ。
その後にちょっと、葉子とイイ感じの再会をするシーンがあるから判らないけど、でもテルコはこの“事件”でかえって意固地を固めてしまって、自分は絶対に、マモちゃんを好きな自分から離れないのだと決意した。

でも、テルコはやっぱり、ズルいままである。臆病なままである。マジメなマモちゃんが、葉子さんから叱責されたことでテルコの気持ちを傷つけていることに気づき、もう二度と会わないと決死の覚悟で告げに来たのに、まだ私がマモちゃんのこと好きだと思ってるの?イケメンを紹介してくれるって言ってたから楽しみにしてたのにさぁ、なんて心にもないこと言って、スミレさんとの仲を応援しちゃったりして、バカとしか、言い様がないの!!
どんな形でも、マモちゃんのそばにいたいと、つまりはさ……決定的に失恋して、彼が自分の元から永久に去ってしまうのが、怖いのよ。嫌いになられるより、それが怖いのよ。ウソをついても、彼とつながりを持っていたいだなんて、……思うのよ!!

マモちゃんと会うために仕事もおろそかにして、クビにまでなっちゃって、後輩の女の子から羨望のような憐みのような、何とも言えない表情で見送られた。
結婚が決まっているというその子は、結婚後も仕事を続ける、だって今の時代、どうなるか判らないじゃないですか、と言った。マモちゃんに夢中になって仕事もおろそかになっていたテルコが一時期、彼との結婚を夢想して、いわばそれを言い訳にしていたことに対する強烈パンチだった。

テルコの考え方はかなり、古い、結婚が永久就職だなんて考えるのは、この厳しい時代とアイデンティティを大事にする時代性の中で言うのもはばかられるぐらいなのだが、……でも、意外に今でもそんな感じ、なのかなぁ。
仕事は自分の生活を成り立たせるための手段で、夢だの、やりたいことだのというのは、やっぱりちょっと、甘ったるい考えだとは思う。でもテルコはそうした現実的打算ではなく、人生のすべてがマモちゃんなのであり、じゃあ、かといってマモちゃんがどうかというと、彼も特に仕事に人生を賭けているという訳じゃないのだ。

33歳になったら仕事を辞めて好きなことをする、野球選手、象の飼育員、一体どこまで本気で言っていたのか。笑いながら聞いていたテルコだったけど、実はかなり信じていたんじゃないか。
二人でのんびり動物園で象を見上げて、そんな会話をしていた時、象の飼育員に転身したマモちゃんの、近い未来にいられるんじゃないかと夢想して、テルコは思わず涙をこぼした。でもそれが、最後の幸福な記憶になってしまった。

ガサツなスミレさんを演じるのは、もーこれ以上ないってゆー、江口のりこ氏である。成田君が彼女にホレちゃうのは、なんか判る気がする(爆)。
スミレさんは、テルコがマモちゃんにホレているのを鋭敏な嗅覚で察し、マモちゃんが自分にホレているのも察知して、その上でテルコを妙に気に入り、遊びに誘う。決してマモちゃんは誘わないのに、その度にテルコはマモちゃんを誘い、マモちゃんの恋路を応援するという名目で、決して決して、スミレさんとタイマンしないんである。

マモちゃんが好きだからという理由以上に……、ナカハラ君をまじえたたった四人の、別荘でのバーベキューパーティーで、スミレさんから自分の気持ちを見抜かれたことが、何よりの原因だったように思う。
きっとね、きっと、テルコは自分の気持ちに向き合うのが、それで決定的に傷つくのが怖いんだよ。友達の葉子や、いわば同じ傷をなめ合うナカハラ君には気軽に言えても、いわばライバルのスミレさんに、しかも妙に気に入られて、だからこそ真実を突き付けられて、木っ端みじんにされるのが怖いんだよ。

葉子さんを諦めることにしたナカハラ君のことを、半ば八つ当たりみたいな感じで葉子に告げに行くテルコは、同志打ちのような感じで、もう、ボロボロのケンカしちゃって、物別れになる。
その後、葉子はずっと連絡のなかったナカハラくんの写真の個展を、自ら情報を検索して見に行き、テルコは、前述のようにマモちゃんの真摯で紳士な決心をウソで笑い飛ばし、元の関係を保とうとする。

そして……完全に戯れで言ったであろう、マモちゃんの“33歳からの夢”、象の飼育員になっているんである。
なんということだろう。片想いにもほどがある。ぱたぱたと耳をはためかせる象さんに、どこか呆然とバナナを与えているテルコは、幸せなのだろうか。

東京国際映画祭のコンペティションに出品されたこれが、外国の審査委員長に、なんか凡庸な恋愛映画みたいに言われたらしいことを知って、とても悔しく思う。そもそも、そもそも!!今泉監督はオリジナルの強い個性を持っているんだし、本作の繊細な恋愛模様を、社会派押せ押せのコンペティション作品群の中で評価されるのは、納得いかないのだ。
映画はそれぞれに、味わうべき場所、評価される場所があると思う。若い役者陣が、とてもみずみずしくて、素晴らしかったと思う。 ★★★★☆


i−新聞記者ドキュメント−
2019年 113分 日本 カラー
監督:森達也 脚本:
撮影:音楽:マーティン・ジョンソン
出演:望月衣塑子

2019/11/21/木 劇場(丸の内ピカデリー@)
森監督作品に間違いないことは判ってる、足を運ばない訳にはいかない。でもそれだけに、覚悟が必要なのだ。いつだって、自分の無知無関心に否応なしに気づかされて、打ちのめされるから。
そりゃ世の中はあまりに多種多様な物事に満ち満ちていて、すべてに目を配って正しく理解するなんてことは不可能だ。でもそれを言い訳に、自分の興味あることにしか目を向けなくていいのか、流される情報を漫然と受け取っていいのか、森作品に接するたび、その思いに引き戻される。

そして今回は、その対象が、一人の新聞記者というフィルターを通して、日本という国を差配している政治家、官僚の化けの皮を引っぺがしているのだから、これを無知無関心の言い訳のままにできる訳がない。
私たちが、いや私が、生きている国の話なのだ。なぜ今まで、こんな恐怖政治の元に安穏と暮らしていたことに気づかなかったのか。

ちょっと前のめりになりがちなので、まずは基本情報から行く。そう……今年のひとつの事件と言ってもいい「新聞記者」あれがまず、あった。フィクションとして、劇映画として作られた作品ではあるけれど、現実にかぶせられたメチャクチャうっすい被膜の上に、それをいつでも破り捨ててやろうという気概で作られているのがありありで、本当に衝撃を受けた。今年の映画界のみならず、今年の事件のひとつ、だと思った。
恥ずかしながら、その時に私は初めて、本作の主人公である望月衣塑子という人を初めて知ったのだ。しかしながらやはりあれは劇映画だったし、あくまで彼女と、彼女が接触するトーリ君演じる杉原を通して腐敗しきった政治家、官僚の実態を暴く、というのが主体だったから、彼女自身の凄さは……いや、演じるシム・ウンギョンの熱演もあって充分に感じられたにしても、やはりその実態は判らなかったのだ。

本作に関しても、森監督がカメラを向ける、まごうことなき主人公として強烈な生命力を放つ望月氏ではあるにしても、その目的はあくまで、この国の腐った政治とマスコミとにある。いわば彼女は狂言回しに過ぎないと言ってもいいのに、この強烈な存在感はどうであろう!
そういう意味では、彼女自身の個性の強さに本来のテーマを潰されかねないところを、そこはさすが、森監督の平易な目線と粘り強いカメラによって見事に古だぬきたちの本性を暴いていく。

でも今回は、かなり意外というか、今までは、カメラを通して見つめ続ける、いわゆる水平なスタンスを崩さなかった森監督なんだけれど、クッソ野郎の被写体に対してマーベルコミックみたいなゴリゴリのアニメーションを挿入してくることにはかなりビックリする。
えーっ、こういう、間口を広げるようなことをするタイプじゃなかったよねと思うが、そもそも本作が、劇映画の方の「新聞記者」のプロデューサーによって立ち上げられたことを思うと、なるほど、観る人だけが観る映画に終わってはいけないんだという、製作側の強い信念を感じるのだ。
差し出して、どう思いますか、ではもう間に合わないのだ。このクッソ野郎たちに私ら国民はバカにされつづけているということを、気づかなければいけないのだ。

ここで望月氏が、もはやこれは完全にイジメだよね、っていう、質問の妨害を執拗にされる。このドキュメントが、本作のいっちばんの、いわば……エンタテインメントであるのだ。

菅官房長官!うわっ!彼が古だぬきにしか見えない!!だって彼、望月氏の質問に最初から答える気がない。あのテキトーなあしらい方!!そして何より何より……子飼いに彼女の質問の、もう冒頭からだよ、簡潔にお願いします、質問に移ってください、冷静な声で、全然質問聞いてない、ただただ指示通りに彼女の質問を妨害するためだけの、あのやり方!!
……すいません、私が知らなかっただけで、そらああんな露骨なやり方してたら、誰もが気づく、その気骨もあって彼女は有名人であり、知る権利を妨害する国側に対しての判りやすいジャンヌダルクとして、官邸前のデモでは熱狂的に迎えられるし。

でも……多分、彼女自身はそうじゃなくて、っていう気持があるように思う。
メッチャ精力的に動くし、各地の集会やら会議やらで、本当に彼女はスターなのだけれど、その判りやすい言葉で、問題意識を持つことに導くこと、感情のまま個人攻撃になることではなく、真実の目を持つことを、実に冷静に、だけどパッションを持って伝えることにこそ、真摯な情熱を傾けているように、見えるのだ。

凄く、難しいことだと思う。彼女を、ジャンヌダルクとして持ち上げることはカンタンなんだもの。そして、ドキュメンタリー映画としても、である。
勿論、本作は望月氏の強さの魅力に満ち満ちている。合間の隙間時間ではあるけれど、モリモリ食べるシーンが挟まれるのも印象的である。そりゃああれだけ精力的に動いていたら、女子が敬遠する糖質もメッチャとらなきゃエネルギーがチャージされない。
全然関係ないけど、エネルギーたっぷりのライブをする上原ひろみが休憩時間にほっぺた一杯にスパゲティを頬張っていた様子が思い浮かんだりする。全力疾走で駆け抜ける女性が、ポジティブに食に向かっているのが共通する気がして、思わず頬が緩むんである。

んでもって、弁当を持参したりもしている。ダンナさんが作ったのだという。私より料理が上手、子供の弁当のついで、という彼女の言葉が、全く気後れも何もなくて、これぞ!!と思う。
ダンナさんがまったく登場せず、支えているやらなんやらいうことが出ないのもめちゃめちゃイイ!って思う。私より料理が上手、っていうのだって言う必要なかったと思うけど、彼女の年齢世代(私とそれほど変わらず)だと、ヤハリ価値観的に言わずにはいられないのかなあ。

そういう、世代間価値観というのを微妙に感じる年代だからこそ、あの古だぬきたちとの攻防にも、やっぱりやっぱり、女のくせに、という気持がぜぇったいに見え隠れしているから、見え隠れどころかバリバリだから、だから……余計に腹が立つのだが。
逆に、男性記者はそれが出来ない、なぜか……やっぱり守るべきものを考えがちなのかな……と思うけれど、もし、望月氏と同じように噛みつく男性記者がいたって、あんな露骨な質問妨害は、しないであろう。水面下で接触して、その代わりに……とかしそう。
望月氏に対しては、そんなことはできないということも判っているからだろうし、女性に対する差別意識と共に、彼女が属しているのが東京新聞という、いわばローカル紙であることも、彼らがナメてかかる理由なのかと、ついつい思ってしまう。

新聞の載せ方、その露骨な、官邸との忖度の感覚も、赤裸々に描かれる。読売、朝日、……結構キビしい。毎日は健闘している。判る気がする。
東京新聞は気を吐いている。これはめっちゃわかる。豊洲への移転問題で、真摯に、赤裸々に書いてくれたのは、東京新聞だけだった。東京ローカルということだからとも思ったが、今改めて本作に対峙すると、そこにしっかりとした、取材姿勢があったことを思う。

しかして、その社内でも望月氏は闘いがある。あの質問妨害に関して、社としての対応をしてくれない。抗議以前に記事にもしてくれず、小さなコラムに書けとまで言われ、それさえも採用されない。
その有様が上司とのやり取りまで生々しく描かれるのだから、隠蔽気質がある訳ではなかろうが、それだけハッキリと、真実を追究することの難しさを提示するんである。めっちゃシンプルなこと、めっちゃ簡単なことだと思うのに。

ちょっと前までニュースで頻繁に見かけた籠池夫妻も望月氏の取材対象として登場する。無知無関心な私のような受け手側にとって、ぼんやり受け取っていたニュースでは、彼らは不正をして捕まった詐欺夫婦、ということになっちゃうのだが、こうして改めて事件をなぞり返し、彼らに直接、望月氏を通して森監督のカメラが対峙すると、そういや、そういや……。
最初は安倍総理夫婦の関与こそが問題になっていたのに、いつのまにやら籠池夫妻のうさんくささをマスコミは糾弾し、詐欺事件として逮捕されるまでに追い詰めてしまっていたことに気づく。

そのことを当然のように受け止めていた自分に、それまでの経過を思想誘導されていたかもしれないことに全く気付かなかったことに、戦慄するんである。……こういういうケースは、過去の冤罪(かもしれない)事件でマスコミがまつりあげたことなどで、散々感じていたことなのに、なぜ、なぜ私は……。
こうして改めて見ると朴訥として、陥れられたことにも仕方ないと受け入れているような籠池夫妻、妻は夫を信じ、夫は妻をいたわる、このラブラブ夫婦が、オバカな安倍総理夫人のために巻き込まれ、国の威信のためにマスコミを巻き込んでウソを重ねられて犠牲になった様が、ありありと明かされて、戦慄しか、ないのだ。
マスコミだって、バカじゃない。バカだけど、そういう意味では、バカじゃない。忖度というのが、政治家や官僚の間ではびこっているのなら、まだマシなのだ。マスコミが、マスコミが……最低だ。

そうだ、あの伊藤詩織さんのレイプ事件のもみ消し、あれだって、報道された時にはすっごい印象に残っていたのに、あっという間に忘れてしまう。そうだ、ありえない直前でのもみ消し、相手が政治部記者という大物であったこともあって、報道された時には憤っていたのに、忘れてしまう。
この国民性、いや私こそだけれど、でも何か、何か何か、そういう思想誘導をされている感は、やっぱりやっぱり、感じる。彼女がとてもきれいな女の子だったことも、この日本という国では、古臭い偏見で断じられたことに憤りを感じたことは覚えているのに、フェニミズムを自負しているのに、ああ私は、あっという間に、忘れてしまっていた!!
あの事件もまた、政治的圧力で消されたことが明らかであり、望月氏や支援者たちは伊藤氏を支え続け、今だ争い続けている。自分が恥ずかしくなる。こういう問題こそ、私がめっちゃ憤り続けていることなのに!!と。

……本作は、沖縄の問題、伊藤氏の問題、他にもいろいろ、いろいろ、そらそうだ、望月氏は新聞記者なのだから、多くの問題を抱えて、走り回っている。それらの関係者たちは、必死に心を砕き、これを真摯に発信している望月氏を心から信頼している。
ものすごいことだと思う。ある意味、望月氏は、24時間じゃ絶対に足りない時間を割り振った、その割り振った時間を100%で走り抜けて、彼らの信頼を得ているというのが。ただ知ることだけでも私は出来ていないのに。もう!!

漫画家の友人がね、もうだいぶ前よ、何年も前に、安倍政権の恐ろしさ、表現の自由を奪うのだと言って、そうなのかあ……と思って、それ以来結構気をつけて見ていた気持ちはあったのだけれど、やっぱり私は、根本的に判っていなかったのだ。
今初めて、友人の言っていた真の意味が判った。今更。何年も経って。トランプさんだの北朝鮮だの、判りやすく権力を誇示するのとは違う。でも安倍政権の方が断然恐ろしい恐怖政治だ。国民に、そうと判らせず、判らせないまま国民をナメてかかって、知らない内にあらゆる決定をなす。そのことに気づかない国民。なんという恐怖政治だろう。★★★★★


アイネクライネナハトムジーク
2019年 119分 日本 カラー
監督:今泉力哉 脚本:鈴木謙一
撮影:月永雄太 音楽:斉藤和義
出演:三浦春馬 多部未華子 矢本悠馬 森絵梨佳 恒松祐里 萩原利久 八木優希 成田瑛基 こだまたいち MEGUMI 柳憂怜 濱田マリ 中川翼 祷キララ 藤原季節 伊達みきお 富澤たけし 貫地谷しほり 原田泰造

2019/9/21/土 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
今泉監督に白羽の矢が立ったのが、ほかならぬ原作者からのリクエストだと知って、飛び上がって喜んでしまった。
正直、今泉監督は脚本の才能がずば抜けていると思うし、それもオリジナルの脚本が、しかもしかも緻密な会話劇が書けるめったにない才能だと思ってるので、井坂作品、と聞いた時には、キャストの豪華さも相まって、これで確実に、メジャー監督の仲間入りね!と嬉しい反面、有名な原作者の名前の方が先に立っちゃうよなあ……という気持もあったりしたのだが、そんな思いも吹き飛んでしまった。

やー、嬉しい。しかも井坂氏は「こっぴどい猫」で今泉監督に注目したという。
映画作品が出来上がるまでの年数を改めて思い知るが、それ以降に今泉監督が着実に力ある作品を残し、ファンを増やしていって、本作にたどり着いたのが何よりうれしく、まるでそれを見越したように、彼の才能を確信してリクエストした井坂氏にあっぱれ!と叫びたいのだ。

ああもう、コーフンしてしまった。物語の冒頭、駅周辺の繁華街が写る。この時点で井坂氏が仙台、だということをすっかり失念していたので、あれ?エスパルだ。駅ビルがエスパルって、てことは東北……仙台、あー!そうかそうか!!と嬉しくなる。
監督さんは福島の人だし、クライマックスのボクシングの試合のシーンでは、セコンドにサンドウィッチマンの二人がつくという、仙台のみならず東北人落涙必至、本当に嬉しくてたまらない。

これが三度目の共演だという三浦春馬君と多部未華子嬢。即座に「君に届け」を思い出し、社会人としての、結婚を考える恋人同士としてスクリーンに映る、すっかり大人の役者になった二人の姿に感慨深いものを覚えずにはいられない。
春馬君演じる佐藤はその日、街頭アンケートに立っている。マーケティング会社に勤めている彼は、普段はネットでの収集で、街頭アンケートなんてアナログなことはしないのだが、それには後述する事情がある。

しかしてそこで、運命の出会いをする。駅前は、地元ボクサーがしかも前人未到の、ヘビー級チャンピオンになるか否かの試合の大型ビジョンで大いに盛り上がっている。
そこに、そんな喧騒から切り取られたように、ギターの弾き語りをしている青年がいる。彼は10年後も全く同じ姿でそこに立っていて、再度チャンピオンに挑戦するそのボクサーの試合がまたかかっている。
デジャヴのような、ここまでたどり着いた奇跡のループのような、こんな気分を引っ張ってこれるのは、無論原作の力もあれど、その井坂氏がホレこんだ、今泉監督の、群像劇を描き切れる演出力にあるのは間違いないことで。

そうなんだよね。かなりの人物と人間関係、それは恋人同士だったり夫婦だったり家族だったり、という、社会的というよりは身内的な密接な関係が多く絡まり交錯する。それを縦糸とすると、友人とか学校とか会社とかが横糸となってさらに絡まり合う。
これは、難しいと思う。単純に考えれば、三浦春馬と多部未華子という人気スターを揃えられるのだから、二人のラブストーリーに友人や会社の人間関係を軽く絡ませれば充分に商業映画として成立するところを、そうしない。
原作が、そうじゃないということもあろう、その原作を大事にした脚本があるということもあろう。そして何より……その難しさをさばけると思ったからこその、メジャー映画にはまだ名が売れていない監督の抜擢があったからで。
あーもう、私しつこいね。なんか嬉しくてたまらんのだもの。こういう風に、才能と才能が響き合う、信頼し合って作品が作られるのって、震えちゃう。

でね、だから、春馬君と多部ちゃんは、勿論メインだけど、最初に出会ってからしばらく、春馬君は他の人間関係と共に登場するんだけど、多部ちゃんは、まーなかなか現れない訳。心配になるぐらい。
貫地谷しほり嬢扮する美容師が電話だけで会話する“事務職の男”が春馬君なんじゃないかと心配になるぐらい、この方面のエピソードが中心になる時間帯もある。

春馬君演じる佐藤は友人の織田家族の元によく出入りしていて、イケメンの春馬君に比してわっかりやすい非イケメン(爆。ゴメン!!)の織田=矢本悠馬君が美人妻をゲットして子供ももうけた幸福をかさに、上から目線でアドバイスを授ける……というのは、勿論、後に、この非イケメン(だからゴメンって……)の織田の知られざる一面が、示されるんである。
それが実に、10年後である。佐藤は無論、友人だからそれを知っている訳だし、奥さんだって、だからこそ幸せな家庭を永続出来ている訳だが、思春期になった子供は、反発を疑問の形でぶつけて、昔から親しい“佐藤”(呼び捨て)にその知られざるエピソードを聞かされる訳で。

ああ、もう、分裂気味。本当に、どこからどう語ったらいいか、わからんのだ。群像劇は、難しい!!ちょっと言いかけたけど、あんまり多部ちゃんが出てこないから、春馬君が貫地谷しほり嬢とイイ仲になるシークエンスが出てきちゃうんじゃないかとムダな心配を(爆)。
でも全然関係なかった。全然、でもない。不思議なつながりはある。貫地谷しほり嬢扮する美容師の美奈子が友人として相談しているのが織田妻の由美であり、その声だけの男は実は、ヘビー級世界チャンピオンとなったウィンストン小野であり、佐藤は悩める上司のために彼からサインをもらい、そしてそして……細いかもしれない、弱いかもしれない、つながりが、10年後へと確かにつながっていくこの感じがたまらず、難しいよ、これを描き切るのはホントに!!
20代から30代の軌跡、春馬君も多部ちゃんもそれほど変わらずに描けるのは、確かにこの年代ならではの強みであり、今、この時に、彼ら二人がこの年代で活躍していることも、ちょっとした奇跡だったかも、と思う。

矢本悠馬君は、なんかようやく、年相応の役かもねと思ったり(爆)。いつまで経っても高校生役から、脱したかも、そしてメッチャハマリ役!!
なんかね、今泉作品の初期作品、その魅力を体現していたのが前野朋哉氏であり、私は勝手に、前野氏は今泉作品から羽ばたいたと思っているので(爆)。まぁとにかく、なんかね、キャラクターというか、体形というか(爆)、人懐っこさというか、なんというか、なんともなんとも、前野氏をほうふつとさせるんだよなあ。

矢本君が演じる織田は高校時代のマドンナを射止め、彼女の妊娠を機に、迷わず大学を辞めて結婚を決め、居酒屋で働きだした。そのエピソードは、彼の娘が反抗期に突入し、まぁ判る判る、だらしない子供みたいな父親にイラっとし、母親が出来すぎだからというのも相まってさらに嫌悪感が募った時に、お父さんの友人として以前から親しくしていた佐藤君に、聞かされる訳。
ほくろがチャーミングな恒松祐里嬢は、今年ほんっとうに、“重要な娘役”で見まくっている。文句ない美少女であり、芝居ができる。今後楽しみ。

でね、なかなか多部ちゃんが出てこないな(爆)。その前にひとつ重要なこと。なぜ佐藤が街頭アンケートに出ていたのか。それは、一緒に残業していた上司が発狂して、サーバーひっくり返して、データを吹っ飛ばして、そのまま有給で出てこなくなっちゃって、佐藤にもその責任が多少、負わされたから。
後に、恋人となる多部ちゃん=紗季に10年越しにプロポーズして保留にされ、同棲していたところから「しばらく実家に帰ります」と置手紙された時、部下に街頭アンケートさせたくないから、と佐藤もまた有休を使うシークエンスには微苦笑である。

この時の上司……私、今の役者の中で一番だと言ってしまいたい、はーらーだ泰造!!
まったくのシリアスも出来るし、でもコメディアンでもあるから、原田泰造、という色味を絶妙に残したアイロニーも表現できる。この人は本当に、素晴らしい役者だと思う。

突然、妻と娘に出て行かれた男の悲哀、どうしてか判らず、発狂し、サーバーをぶっ壊し、……でも彼は、悟るのだ。積み重ねなのだと。それを自分は、あるいは男は、軽く見ていたのだと。
出しっぱなしにして、片付けない。何度も何度も言われていた。時には諦めて、片付けてくれていたことも知っていたのに。それだけじゃなかったかもしれない。そういう積み重ねが他にもあったのかもしれない。佐藤は驚くのだもの。そんなことで、と。でも哀し気に優し気に笑って上司は言うのだ。積み重ねなんだよと。

このエピソードはめっちゃ重い。例えばこれが半世紀前なら、女性側がワガママだと切って捨てられるばかりだったろう。てゆーか、そもそもこんな行動にも出られなかっただろう。四半世紀前ならば、こういう行動に出られても、女性側はしぶしぶ帰ってきただろうし、夫が多少下手に出たとしても、基本的には家父長である夫をたてての妥協点を見出しただろう。
でも現代は、てゆーか、ようやく現代は、女性が自分を殺すことを強いられなくなったのだ。ただ、そこに男性側の成長がまだ追いついておらず、表面的には男がなんか可哀想、みたいな感じになっちゃってるのがはがゆいっつーか、悔しいっつーか、だけど。
ただ……それを受けての春馬君や多部ちゃんの世代なのだし、泰造世代、つまり私たち世代が反面教師になっているというのはツラいけど、してください!!と思っちゃう。

佐藤は、紗季と、最初の出会いで充分に運命的なものを感じていたのに、その時に捕まえることが出来てない。運命的な出会いを待ってるのかよ!!と友人の織田から上から目線に失笑されても、でも出会いがないのはホントだからさ……と言い訳していたのに、いざその出会いに遭遇しても、逃してしまう。
ただ!!再会する。まさかの!!である。佐藤は意を決して彼女を捕まえる。しかしそこからいきなり10年後に飛ぶ。

甘い恋愛生活は一切、描写されない。むしろ、美容師とボクサー、ボクサーと出会って生き方が変わるいじめられっ子の難聴少年、勝てないボクサー、再度の挑戦……ボクサーの話ばかりじゃない、織田の成長した生意気な娘、父親への反発、彼女に恋する同級生、その同級生の父親への反発、父親への反発を共有する同士の不思議な化学反応がまたたまらんエピソードで、あら、あららら、春馬君と多部ちゃんはどうしたのー!!と。
改めて、なんと贅沢な作り方かと思う。春馬君と多部ちゃんで充分に売れるラブストーリーが作れるのに!!言ってしまえがスターの二人で釣って、実際は群像劇の魅力を見せる作品になっているのだ。なんと贅沢!!

織田の娘ちゃん、そして娘ちゃんの同級生は共に、グータラだったり情けない父親に対する反発を持っている。なんであんなヤツがお母さんと結婚したのかとか、あんなふうにはなりたくないとか、判りやすく反発する。
社会的弱者に、見えているのだ、彼らには。ことに同級生君は判りやすい。父親はファミレスで注文を間違えられてもいいよいいよ、と受け取っちゃうし、得意先からの電話に、ペコペコしながら応対する。それを苦々し気に見る息子。あんなふうには絶対にならない、と吐き捨て、母親からたしなめられるも、判ってはいない、全然。

織田の娘ちゃんも同じ感じ。グータラで子供のような父親に、子供の頃は友達のように仲が良かったのに、情けない、と嫌悪感を募らせている。
でも、二人が、いわゆるクレーマーな大人に、これこそが子供っぽい大人に遭遇した時に、判るのだ、理解するのだ。受け入れること、自分を殺すこと、いい意味で波風を立てないことが、大人としてカッコイイことだって。
知恵を絞り、誰も傷つけず、標的を退散させる。同級生君の父親役の柳憂怜氏がめちゃくちゃ絶妙で、大人として、同じ大人として、ありがとう!!って言いたくなったし、ホント、そういうことなんだよなって……。

で、これがまさかの、佐藤と紗季につながっていくとは、それはちょっと、予想外だった。
紗季が佐藤からのプロポーズに応えられなかったのは、せっかくお高いレストランを予約して、きっと彼女も予測していたのに、佐藤が後から言うところでは「迷惑かけるかもと思って……」と言い出せず、ムードもへったくれもない駐車場でおずおずと、しかもそういうこと、みたいに、結婚してほしいという言葉もハッキリと言えないままだった彼に、どう表現していいか判らない歯がゆさを感じたから、だったんじゃないかと思う。

この、“迷惑かけるかも”という、相手方がどこにかかるのかが、彼自身が判っていたのかどうか、少なくとも彼女は、プロポーズするってのに、私のことだけを思ってないなんて!!という気持ちはあったろうが、彼女のことを思ってこそ、だったのかもしれないんだよね。
いや、彼が弱虫である言い訳をぼそぼそ言っただけかもしれんが(爆)、でも、ホラ、フラッシュモブは卑怯だ、っていうのと一緒よ。そんなお高いレストランで指輪見せてプロポーズなんてされたら、フラッシュモブほど追い詰められなくても、やっぱ追い詰められちゃうよ。

断りたいまで行かなくても、考えさせてくれ、ということさえ、言えない状況だと、彼はとっさに、気づいちゃったのかもしれない。現代の、青年だからなぁ……ただ、そこまでの考えは固まっていなかったのかもしれない。
あくまで、徐々に、これはやっちゃダメかも……と思っただけなのかもしれない。だからこそ、こじれちゃったんだけれど。

という、気持ちのズレが、全く関係ないように思える群像劇のあちこちのエピソードに見事にリンクして、幸せに収束していくことに、感嘆の気持ちを抑えきれないんである。
つまりさ、優しいのよ、ここに出てくる男たちみぃんな!!自分を主張してカッコよく見せることは、簡単じゃないにしても、そうしたいという欲望はそらあ、男の子にはあるだろう。
でも、優しいのよ。誰も傷つけずに、知恵を絞る現代の男たちに、そりゃちょっとは頼りない気持ちも浮かぶも、その気持ちを尊重して、女のワレワレが力こぶを浮かべたいと、思っちゃう。

気持を整理するために、同棲していた部屋から離れ、しばらく実家に戻っていた紗季。10年前のあの日と同じデジャヴ、元チャンピオンの再チャレンジ、駅前の大型ビジョンに群がる人々、まるでタイムスリップしたかのようにギターで弾き語りをする青年……佐藤は紗季を見つけ、それまでなんとなくモヤモヤしていた気持ちをまとめつつあったのが、彼女を見たとたん、パキッ!とまとまったんじゃないかって、そんな気がした。
追いかける、追いかける。彼女、バスに乗っちゃう!途中、気が付いて、バスの中から彼を見やる。佐藤は、バスで行っちゃう彼女を気にしながら、転んでしまった男の子をほっておけずに、助け起こす。

……ああ、これなのだ。プロポーズの時の彼、織田の娘ちゃんやその同級生が苛立つお父さんの姿は、でもこれ以上ない、優しさの印。もしそれが、自分だけを思って行動してほしいと思うワガママ女ならば、気づけないことだろう。クレーマー男に、男気やカッコ良さを感じるような女になってしまうだろう。
ちょっとね、これって、今まで、描かれない方式な気がしたし、なんか、女としても、ちょっと反省するというか(爆)。

そして、単なるラブストーリーでは描き切れない、群像劇の、しかも10年に渡る重層的なものを、見事に描いてくれた。
照れくさそうに、穏やかにプロポーズを受け入れる紗季ちゃんに、これまた照れくさそうに笑う佐藤。幸せな、幸せな、ラスト。良かった。 ★★★★★


青のハスより
2018年 81分 日本 カラー
監督:荻島健斗 脚本:荻島健斗
撮影:米倉伸 音楽:The Wisely Brothers
出演:栗原類 大友律 渡辺佑太朗 清水くるみ 相良大起 田中志朋 小倉綾乃 RIKACHIN 辻凪子 真砂豪 真舘晴子 渡辺朱音 和久利泉

2019/10/7/月 劇場(新宿K's cinema)
最初から、The Wisely Brothersのライブツアードキュメントと並行して描かれる作品、ときちんと認識して観ていればこんなにも戸惑わなかったとも思うが、でも正直、この構成自体がやっぱり、なんで??という気持は、否めないかなあ。
MOOSIC LABは数多くのトライがなされ、音楽と映画の化学変化は秀作、傑作を生みだしてきたけれど、音楽を担当するミュージシャンをただ並列して描くというスタイルや、あるいはただ単に音楽を担当させるだけのスタイルは、今までは決して、なかった。それをやっちゃいけないという訳ではないだろうが、それをやってしまったら、それこそMOOSIC LABの意味がないような気がし……。

確かに二つの道行であり、二つの旅路であり、二つのロードムービーである。だからこそ、どこかで彼らが行き合い、知り合い、交わることを期待したし、むしろそうでなければおかしいとも、思った。
並列、にはなんの化学変化も生み出さない。それぞれがどんなに魅力的でも、この映画がひとつになるなんの効果も生みださないのだ。いや、これこそが挑戦だと言われればそれまでなのだが……。

劇映画、となる側は、監督さん、プロデューサーさんの映画青年としてのここまでが投影された、自伝のような物語なのだという。役名もそのまま、監督とプロデューサーの名前を引き継いでいる。そう思えば想像しただけでもちょっと赤面するような、自伝スタイルである。
とはいえ、監督の分身を演じる栗原類君は、そのファッション、ヘアスタイル、帽子に至るまで、私たちが見知った栗原類、そのまんまである。

これはどうなんだろうと思うが、栗原類、という稀有な存在をキャスティングしてしまったら、その彼自身を崩すのはそらまぁ、難しいだろうとは思う。栗原類、というものを生かしたいとも、思うだろう。
でもそれが、結局はどっちつかずでパンクしてしまったようにしか思えない。栗原君の芝居は初めて見たが、まぁなかなかに厳しかったし、彼の持つ独特のシャイさが、風貌をそのまま引き継いでいるのにまるで生かされなかったのもあまりに惜しかったように思う。

栗原君演じる、荻島と、プロデューサーの分身、松川、そしてもう一人の三浦というのは、製作担当にこの苗字のお方がいるが、それとは違うのかな??とにかく、三人で突発的に上京した、というのはホントのことらしい。
ホントに一緒の車で、という訳ではないらしいが、待ち合わせた居酒屋で急に盛り上がって、というあたりはホントで、上京して一軒家に共同生活をしたというのもホントなのだろう。

やたら時間をザクザク崩しまくって前後、というより右往左往しまくるのには、けれんというよりは振り回される感の方が強くて、……それは私が頭が悪いせいだろうが……ちょっと閉口したり。
この一軒家に男三人が最初はテンションあがりまくるも、二年後、のクレジットの時点ではすでに、三分割の生活が、何一つ交わらず崩壊寸前である。

これってね、ちょっと魅力的な展開というか、要素なのよ。私も友人と同居生活をしたことがあって、もっとヒドい分裂をしたことがあり(爆)、シェアハウスなどという楽しげな言葉は現実的じゃないことが身に染みている訳で。
いや、シェアハウスは他人同士だと割り切っているから上手くいくんであって、友人同士で楽しかろうと始める同居生活は、シェアハウスとは似て非なるものなり、なのだ。夢を共有していた筈なのに、それがあまりにも薄いすり合わせであり、それぞれの生活を守ることに終始すると、お互いの生活スタイルにイラつくようになる。

ヒモになり果てている松川が最も、この三人の生活を乱している。トイレを立ってしているんじゃないかと、聞き耳を立てて三浦がとがめる描写が繰り返される。出入りする女の子の方がちょっと気を使っている感じである。
三浦は、大量買いしている餃子を、決して荻島に渡さないんである。荻島はバイトに出かける三浦を見送り、ゆうゆうとお茶タイムをし、先輩からギョーカイ仕事を紹介してもらいながらも、そもそも上京した目的……映画の脚本は遅々として進まず、どころか、劇中、一行も、ひとことも、それが示されることは、ないんである。

それもまた、キツいと思う。そもそもこの三人が、どこまで本気で、せめて一本映画を撮りたかったと、夢破れて帰っていく三浦の言葉を反映するまでの関係性を保っていたのだろうと思う。
荻島は途中から、女の影を追い出す。てゆーか、タイトルにもなっているんだから、こっちがメインだと言われればそれまでだが、セイレン、と呼ばれる彼の小学校時代の同級生だという女の子は、荻島に旅先から絵葉書を送り付け続けているんである。ひそかに恋していたんだろう荻島は、そこに深い意味を見出し、上京した先にも届く絵葉書を大切に保存している。

その矢先、まず思わせぶりにそっくりさんが現れ、それをストーカーよろしくつけていったのに快く招き入れられ、「私の曽祖父は、文豪だったんです」とかいって古い写真を見せられ、なんかやたら舞台を整えて、ピアノ教師だという彼女と即興ピアノ演奏をするという、なんか、半世紀前の少女漫画みたいなロマンティシズムに突入するんである。
……後から思っても、この設定って、何だったんだろうと、思っちゃう。タイトルにまでしているんだから、それを言っちゃあおしまい、なのだが、本当に、理解に苦しむ。
後半になって、荻島はホンモノのセイレンと再会し、旧交を温めるのだが、だからといってラブにもいかないし、ソックリさんと三人で会う訳でもないし、なんなの、と思っちゃう。それで脚本を書く訳でもないしねえ……。

で、The Wisely Brothersのライブツアーがこの不可解な劇映画展開と同じ尺と同じ重さで並列されるのだから、戸惑うに決まってるでしょ……と言いたいんである。
独特のファルセットを持つギター&リードボーカル、ドラム、ベースのスリーピースガールズバンドは、なんたって並列に見せるから尺も充分にその音楽的才能も判るし、肩の抜けたファッションと親しみやすい可愛さも相まってとっても魅力的なのだが、なのだが……。
まるで、もうファンでしょ、判ってるでしょ、みたいな、ライブツアーをベタ撮りで見せるドキュメント手法で、いやいやいや、何にも判ってないよ、そりゃ、ファンの人はそういう気持で足を運んだのかもしれんが、私はただのイチ映画ファン、わっかんないよー!!!と心の中で叫んじゃう訳。

これまでのMOOSIC LABでは、そんなことは一度もなかった。まさに、何にも考えずに来た、映画ファン側の素人を、時に優しく、時に厳しく、しかし驚きをもって、知らなかった世界のミュージシャンを、新鮮な驚きをもって教えてくれた。
……私はね、それでこそMOOSIC LABだと、思うのよ。映画ファンと音楽ファンがまさに半々でウィンウィンであればこそ。

彼女たちバンド側の物語が、だから全然見えてこなくって。レコーディングも挟みながらのライブツアーだから、音楽的葛藤だって、もっともっと期待しちゃうじゃない??……それこそベタな期待というか、現実と違うと言われればそれまでなんだけど、お互いを尊重しているメンバーだからと言われればそれまでなんだけど。
でも、サウンドや詩のスタイルは独特でチャレンジングだと思うし、なのになんか、学園祭の女の子たちみたいに、めっちゃ優しく尊重し合ってて、全然ぶつからないんだー……と思うと、一体本作における彼女たちのドキュメントって、なんの意味があったんだろうとかまで、思っちゃう訳。

演奏シーンもそれなりには流すけど、ガッツリ前のめりではない。どちらかというと、レコーディング風景とか準備風景とか、ガールズバンドの穏やかな可愛らしい風景に尺をとってるから、余計に彼女たちの音楽的スタイルや未来志向や……が全然見えてこない。つまり、ファンになれないんだよね。

結局荻島は脚本を書けないまま、松川はヒモを脱してバイトを見つけた程度、三浦は故郷に帰り……だから??と思ったり。
故郷なまりや、音楽側とリンクするのかと一瞬思わせたガールズバーのブルースハープやってた女の子のエピソードも不発に終わり、てゆーか、京都と東京のガールズバーで同じ女の子、同じ会話を配置するしてやったりな構成も戸惑いと混乱を招くだけだったし、構成をジグザグにした意味がほんと、判らんかった、というのが正直なところ。★☆☆☆☆


赤い雪 Red Snow
2019年 106分 日本 カラー
監督:甲斐さやか 脚本:甲斐さやか
撮影:高木風太 音楽:YAS-KAZ
出演:永瀬正敏 菜葉菜 井浦新 夏川結衣 佐藤浩市 吉澤健 坂本長利 眞島秀和 紺野千春 イモトアヤコ 好井まさお

2019/2/27/水 劇場(テアトル新宿/モーニング)
なんかゾクゾクと力作を作る監督さんが、しかも女性監督さんがデビューしている。しかも脚本も共に手掛けているとこれぞホンモノと嬉しくなる。
10年に一本の脚本と言われた、ということは、何かの賞でも受賞しているのだろうか(そこまでは追えなかった)。もしこれが脚本を書いた人と演出をした人が別ならば、その答えは違うものになっているのかもしれない。
というか、答えを出さないし、答えなんかない、というのが答えなのかもしれない。

この場合の答え、とは簡単に言えば事件における真実、という意味なのだが、それも判らないままだし、その事件に関わった人間たちにおける真実、も全て判らないままなのだ。
脚本自体がそういうスタンスだったとしても、演出が違ったら、そこに答えを作ってしまったかもしれないと思ったのだ。あるいは、判らないままにしてはいるけれど、脚本・監督である甲斐氏の中には実は答えがあるのかもしれないと思ったり。

なんだか奥歯に何かが挟まったような言い方ばかり。つまりこれは、ミステリと言っちゃえばそうとも言えるのだ。30年前に起こった小さな男の子の神隠し事件。雪がすべてを覆いつくすかのように降りしきる中、誰かに呼び出されて飛び出していった幼い弟を、兄は途中まで確かに追いかけて行ったのだ。
しかしそこからは何もかもが判らなくなる。弟は本当に“姿を消した”のか。川にはまったのか、あやしい女のアパートの中に入って行ったのか。

これまた幼かったお兄ちゃんが良心の呵責を覚えて記憶があいまいになっている、というテイで物語は進んでいくし、お兄ちゃん自身もそう思い込んでいるのだが、それだって違ったのかもしれない。
なんたって永瀬氏が演じているからもうドシリアスだからそう思っちゃうけど、これだって、実は見ていた、実は知っていたことを、“弟を見失ってしまったお兄ちゃん”のカワイソウさを演じ続けていたかもしれないのだ。と、思ってしまわせるようなオチなのだ。生々しく、エグいオチなのだ。

赤い雪、というのはその事件が起こった冒頭に、お兄ちゃんがいわば心の目で見た、赤く染まる、もうそれは血としか思えない、雪、なのだった。
最初、殺された弟の血がひたひたと階段の上から滴り落ちているのかとも思ったが、それにしてはあまりに尋常じゃない。何かのメタファーなのだろうかとも思ったが、これにもまた、答えは用意されていない。心から流す血なのか、やはりお兄ちゃんが見てしまった弟の無残な姿が映されたのか。

両親は最初から“よそ者”の女を疑っていたし、結果的にはどうやら、弟は彼女(とその愛人)に殺されたのだろうし、彼女はどうやら美人局っつーか、ありていに言えば保険金詐欺っつーか。
そういう事件ってあったよねと思わせる、彼女の周りで次々と“年配の男性”が怪死している、というのが後に明らかになる、のは、若干のベタさを感じもしたが、べったりと塗りたくった赤い口紅が両えくぼで引き上げられるのがくらりとするほど魅惑的な夏川結衣では、これはもう、太刀打ちできない。

30年後に時間が飛ぶ。この事件を追いかけているのはフリーライターの男である。
演じるは井浦新氏。いかにもジャーナリスト魂を感じさせる演じ方だったから、彼が惨殺(!!)され、その運転免許証から、容疑者になりながら黙秘を続けて無罪になったあのあやしい女の手にかかった、哀れな年配男のどうやら息子あたりらしい、ことが示唆されるんである。

これには結構驚く。いや、いきなり佐藤浩市に雪山に埋められちゃうことにまず驚くんだけど(爆)。佐藤浩市!!ビッグネームだよねぇ。そらまぁ永瀬氏も新氏もビッグネームには違いないが、やはり彼らにはどこかインディーズ映画臭が漂うから(爆爆)。佐藤浩市が菜葉菜嬢のおっぱいをもみもみするだけでコーフンしちゃう(オイッ)。
菜葉菜嬢はこのあやしい女の娘で、“アンタは発達障害だから”と教育を受けさせず、押し入れに閉じ込め、暴力も振るうという、虐待のオンパレードを受けてきた。

押し入れから母親の男とのセックスを覗き見る、という画はなんとなーく昭和な雰囲気も漂う……だから、なんてゆーか、私ら昭和の時代には認知度が全然なかった発達障害という言葉を当たり前にさらりと言うことに、若干の違和感を感じなくもない。
30年前って……私が無知だったのかもしれんが、発達障害という言葉って、こんなヒドイ親が言い訳に使えるほどに一般的じゃなかったように思うのだが……。

まぁ、そんなことは、どーでもいい。とにかくこれは、言ってしまえばラショーモナイズということなのかもしれない、と思う。変形ラショーモナイズ。同じ場面に居合わせた人たちの、視点によってそれぞれの真実がまるで違うという。
変形、というのはそのうちの一人、被害者のお兄ちゃんである永瀬氏が、弟を見失った時の記憶があいまい、というか、抜け落ちてる、というか、結果的には無意識かもしれないけれど押し隠していた、ということに尽きるのである。

菜葉菜嬢演じる容疑者の娘は、母親に倣うかのように黙秘を続けるが、彼女はそもそもかなり歪んだ生活をしている。人目のつかない離島、旅館で働いているが客の財布から金をちょろまかしたりヘイキでする。
そんな同僚の人となりをライターの新氏に金を握らされて証言しちゃうのが、イモトアヤコ嬢!メッチャチョイ出演でさらりとフツーだから、見間違いかと思ったが、まぎれもない彼女!!佐藤浩市氏といい、長編デビューに驚くべきキャストの集結。だって佐藤浩市、菜葉菜ちゃんのおっぱいモミモミ(いいっつーの)。

でも、この、30代も半ばで、教育も受けてなくて、人付き合いなんて経験もなくて、……恐らく母親の愛人に、いつの頃からかこーゆー間柄になっていたであろうということが想像される、恋愛やセックスの喜びも何にもないままに、オンナの身体になってしまった菜葉菜嬢のただれ具合があまりにも赤裸々で、もう、どうしよう……という感じなんである。

そーゆー意味合いで言えば、永瀬氏は、確かに長年苦しんではいたけれども、都合よく記憶を封印していた訳で(いやこれも、受け手それぞれに答えは無数にあるのだろうが)、いわば男のロマンチストの勝手さがある訳さ。
知ってるくせに、忘れてるフリしてるだけのくせに、真実を教えてくれ!とドマジに迫ってくるお兄ちゃんに彼女が超絶皮肉な笑みを浮かべて、教えてなんかやらない、とでもいうように逃げ回るのが、この組み合わせ、絶妙!!と思って……。

お兄ちゃんは今、漆器職人として頑張っている。師匠も認める才能を持っている。ゆっくりと絞り出されるねっとりとした赤いウルシは、どうしたって赤い雪を染めた何かを想像させる。
彼はライターから真実を知る最後のチャンスだと熱弁されても、最初はそれをすげなく追い返す。しかし思い直して彼を訪ねる、その心境の変化は……。彼は忘れていた、というか、忘れていたふりをしていた、というか、そのどれなのかによって意味合いは全然違ってはくるのだけれど。

お兄ちゃんは、両親、特に母親からは明確に、可愛がられてなかった、のね。これも後になって明らかにされる、これは“真実”である。弟とはしゃいでストーブの上のやかんがひっくり返って、お兄ちゃんがやけどしたのに、お母さんは弟を心配し、たしなめるだけで、お兄ちゃんには冷たい一瞥をくれるばかりだった。
弟が失踪した時、追いかけていったお兄ちゃんを両親がショックのあまりに責めまくるのは、こういう下地があったというべきなのか。あるいは、これもまた彼の中の少し膨らませられた記憶で、兄弟のどっちに愛情が、どういった形でというか、どういった種類で注がれるかというのは、それぞれに、かなりの差異もあるみたいだし、なかなか難しい問題であることは事実なのだ。

てゆーか、フツーの映画ならば、後にお兄ちゃんが回想する、自分がないがしろにされているこの“記憶”に、そういうことだったのか、なんてかわいそうに!とか思うところだろう。
ただ、本作は、何一つ答えとか真実を明らかにしていないのだ。キレイに言っちゃえば、関わった人々の中にある答えがそれぞれの真実、とでも言えるもので、つまりそれは……すべてがウソだともいえる訳で。

彼が感じたこの疎外感が、実際にはどうだったのか。少なくともこの兄弟は仲が良かった。はしゃいで遊んで、弟が外に飛び出して追いかけていくように言われて素直に飛び出したお兄ちゃんは、必死で追いかけたし、そこは疑いなかった。
ただ……。やっぱりあの女の部屋に入っていたのね、と明かされるオチは、お兄ちゃんの記憶だから、どこまで主観性が入っているか、もうここまでくると怖くて仕方ないぐらいなんだけど。

一番の大事な“真実”は、お兄ちゃんが、お兄ちゃんこそが、先にこのあやしい、しかしめちゃくちゃ魅力的なエロいおばちゃんに招き入れられていたということなのだ。
そして恐らく……うぅ、これはついついそーゆーことを想像しちゃうクサレ外道ってのは判っちゃいるんだけど!!……この作品に答えを求めるのは、間違っているって、判っちゃいるんだけど!!

……クサレ外道は、このあやしくも美しい女が、幼い男の子に性的なアレをしていたんだろうと、ヤハリ想像してしまうんである。
彼女の娘は、「思い出した。あの人は男の子が好きだった」と言った。それは単純に顧みられなかった娘の自分を自ら揶揄して言っていると取ることも出来るけど、違うよね、そうじゃないよね。

弟より先にあんなコケティッシュな女にドアップでチョコレートなんかもらったら、そして「弟がいるんだって?連れてきなよ」と言われて、もう男としてのアイデンティティありありな時期を迎えている彼が、嫉妬しない訳がなく、そしてどこまで彼女にヤラれていたのか……そして弟も……うわーうわーうわー!!
そしてきっと、それを、押し入れから、閉じ込められていた押し入れから、娘は見ていた。だからあんな、メチャクチャ嘲笑した笑みを口の端に浮かべることが出来たのだ。菜葉菜嬢、コワイコワイコワイ!!

でも、哀しい。彼女は結局母親のヒモに身を任せるしかない人生でここまで来た。そしてその、疑惑の母親はどこへ行ったのかも判らない。
それは、お兄ちゃんも一緒である。悲しんで、苦しんでいたのは両親が人一倍、みたいな描写だったのに、ここに取り残されているのは彼一人なのだ。

なぜって、秘密を共有しているのは、彼ら二人だけだから。忘れたふりして、会いたくないのか、会いたくないのもフリなのか、彼は真実を知っているのに忘れているのか忘れたふりをしているのか。
切羽詰まって知りたいと迫って、彼女を殺しかけた。本当に殺したのかと思った。殺しかけたのさえ、彼の妄想だったのだろうかと思うほどに……。

本当に本作には、真実を明らかにする気持ちがない。地団駄を踏みたくなる。明らかに出来る真実などないということを突き付けられている、と、判っていても。 ★★★☆☆


アノコノシタタリ(淫美談 アノコノシタタリ)
2019年 80分 日本 カラー
監督:角田恭弥 脚本:角田恭弥
撮影:春木康輔 音楽:佐藤ワタル
出演:なつめ愛莉 増田朋弥 加藤絵莉 可児正光 石橋侑大 春園幸宏 瀬乃ひなた 中山祐太 石田武久 加藤毅 榊英雄 川瀬陽太

2019/8/31/土 劇場(テアトル新宿)
本作プロデューサーの榊英雄が登壇、との上映前のアナウンスに飛び上がる。なんと!!数年前に彼がピンクを撮っていた時の驚きと嬉しさは忘れる訳ない。それが、今度は企画立ち上げから関わっているとは!
そして聞けば、榊氏の橋渡しによって今回長編監督デビューしたのが、長年、榊作品の助監督として信頼の厚いお方だというのが泣けるじゃないの。こんな話、しかも有名俳優が監督につく助監督で、なんていう話、あるのかと、ああやっぱりこの人は、本物の映画への愛を持っているんだなあと思う。

と、いう、榊氏肝いりの助監督→監督さんな訳だから、これもまた愛を受け継ぐわけである。ピンク映画としては珍しいホラー、しかもかなり本格的な、という本作は、気合の入った特殊メイクだけでも見ごたえ充分。
上映後の登壇で、「幽霊とヤレたらいいなという、男子の妄想で」と語っていたのが可愛らしく可笑しかったが、それは幽霊でもいいからヤリたい(童貞から脱したい)のか、怖いもの見たさなのか、それとも幽霊、というのに具体的なモデルがある悲恋なのか……などと思わずこちらも妄想しかけたり。

そんなことを思わせる、バックボーンたっぷりの幽霊さんを演じるのは、この日の一本めも彼女が主演のなつめ愛莉嬢。正直一本目の彼女は、こういうタイプよくみるブリブリ芝居の女の子で、うーむ、ちょっと苦手、二番手の子の方がクラめでタイプだわとか思っちゃっていたのが(爆。すみません……)、本作では、なんたって幽霊なのだから、そんなに台詞がある訳ではないのが功を奏してか。
などと言っちゃうのは、ピンクデビューだった一本目で、台本の厚さ、台詞の多さに愕然としたという彼女のお言葉から、それじゃ芝居にまでたどり着けないのもムリはないかも……などと、またしても不遜なことを思ったりしたわけだが(爆爆。再三すみません……)。

でも向き不向き、っつーか、役との出会いというかシンクロというか、彼女はこの幽霊役(彼女自身はゾンビと言っていたが(爆)、確かにメイクはゾンビちっくだけど、幽霊だよね。ここはハッキリしとかないと、つじつまが合わなくなっちゃう)がとても向いていた(ヘンな言い方だが)んじゃないかなあ。
幽霊、というか悪霊としての正体を現すまでは、ただただ美少女なだけ。ハダカの美少女、そんでベッドにもぐりこんでペロペロ、ヤラせてくれる。うーむ、ありえねーことが起きるのがピンク映画のだいご味。

ところで、ピンク映画において女優の入れ替わりの激しさ(つーか、賞味期限の短さ)に対して、男優に関しては、大抵見知った顔で揃えられているものなのだけれど、本作に関しては、オネエ系霊媒師というオイシすぎる役でクライマックスをかっさらう川瀬陽太氏を除けば、たまに数本しか観てない私が言うべきではないかもしれんが、新顔ばかり。
大学生という設定だからかな、と思っていたけれど、それもヤハリ、榊プロデューサー、角田監督の人脈からくるキャスティングで、一般映画にも出演経験豊富な若手が集まった、ということなんである。

なんと、頼もしい。近年はそれこそ川瀬氏や吉岡睦雄氏とか、一般と成人の垣根なく活躍する役者さんが出て来たけれど、てゆーか、そこに垣根があることこそが問題なんだけれど。
彼ら以前は当然のように、監督も役者も、ピンクを抜け出してしまえば決して戻らない。監督で言えば周防に黒沢、役者ならば大杉連、公式プロフィルでも言いたがらない、ていうのが通例だったから。

不思議と女優さんはそういうのないよね。むしろこの数の中で勝ち上がってくるというのは女優さんの方が相当厳しいから、それへの誇りがあるのかもしれないなどと思って。
でも、そう、変わってきたのだ。川瀬氏や吉岡氏の下が、育ってきたのかもしれないと思う。こんな言い方はよくないのかもしれないが、意欲ある若手役者たちがカラミも含めて体当たりで芝居に臨む本作は、いい意味で、ピンク的ではない、芝居の強みが大きく出ていたように思う。

幽霊、というか、悪霊の女に魅入られるのが、童貞クンの海斗である。演じる増田君は独特の風貌で、若手演技派!!という感じがする。
彼を取り巻いている大学での仲間たちが、小柄でジャージに重たい髪をうっそうとさせたメガネ男子、悠介と、ジャイアンを大学生にして実写にしたみたいな、コドモっぽくて支配欲が強くて、なのに仲間はずれが怖い、細マッチョ金髪男子、正樹。

悠介は最初から、海斗が引っ越してきた部屋がヤバいと察知し、気をつけろと注意している。が、後にネタバレすると、悠介の兄がかつて住んでいた部屋で、まさにその兄が悪霊にとりつかれ、というか、悪霊に心奪われ、心神喪失、施設に送り込まれてしまったのだった。
後に、なんで判っていたのに言わなかったんだとジャイアン、いやさ正樹から責められるも、悪霊がいるからやめとけなんて言えるかよ、いや、本音はこっちの方だ……自身が認めたくなかった。お兄ちゃんが悪霊にとりつかれたなんてことを、方こそが、本音。
彼はずっとずっと、苦悩してきて、今、自分のプライドを優先したがために、大事な友達を危機に瀕させていることに更に苦悩している。

その点では、意外や意外、ジャイアン、もとい、正樹も同様である。彼こそが後輩……学年は一緒だけど、正樹はダブりまくってるんで……の海斗に事故物件を紹介しちまったんである。
細マッチョで見た目もそこそこ……イケメン系芸人ぐらいにはイケてる彼(判りにくいな)は、まぁどうやらカラミ要員的な要素もあるんだけれど(だって、メガネ男子の悠介君は免除されてるんだもぉん)、その子供っぽいキャラそのままに、友達(と、彼が一方的に思っているフシはあるが)の海斗を心配し、事故物件を紹介した責任を感じ、そして見た目的にはセフレ感満載の恋人に対しても結構マジメな思いを抱いているのが見え隠れしたりと、後半に行くにしたがって、彼の印象はどんどん塗り替えられる。

正樹の恋人、祐里香に関しては、それこそカラミ要員でしかないだろ、と思っていたが、何か不思議と……海斗のお姉ちゃん的雰囲気があり、途中までホントに海斗のお姉ちゃんなんじゃないのと思いながら見ていたぐらいで。
祐里香は社会人、というよりは、就職浪人中、ぐらいな感じなんじゃないのかなあ。卒業してもう在籍していないのに大学に入り浸るのは、かつては同級生だったであろう、ダブってる正樹に会いにきたり、彼の友人たちとつるんだり。

幽霊を除けば紅一点の彼女は、よーく考えてみるとかなり追い詰められていたのだろうと思う。ずっと海斗を心配する立場でいたのに、てゆーか、彼女としてはその立場を表向きは崩さずに、悪霊にとりつかれた海斗、というのが明らかになると、それを小説のネタに執筆しだす。で、正樹と大喧嘩になる。
てゆーか、怒っているのは正樹だけで、「それはそれ。これはこれ。あんたたち学生と違って、食ってかなきゃいけないの」という台詞は……それまでも軽く発せられてはいたように思うけど、ここほど辛辣に響いた場所は、なかった。正樹は何も言い返せなかった。だけど……その報復ということではないけれど、祐里香は悪霊に殺されかけちゃうんである。

悪霊……零奈のそのウラミのスタートは、何にもやる気のないサークルの男子たちが目論んだ、レイプ動画の撮影、なんである。サークルの名は、イベントサークル。イベサーという奴。否応なしに、あの忌まわしき事件がフラッシュバックする。
あれは、大きな会場を借りて、華やかに開催されたイベントの裏で起きた鬼畜の所業だからこそ深い印象を与えたが、……イベサーという呼称が、そういう温床であるというイメージを植え付けたのも事実で、本当に、何とも言い難い気持ちで見てしまう。田舎者で世間知らずだった自分こそが悪い、と泣き寝入りする被害者は多かろう。
しかしまさかその先に、報復した女の子がいたとか、その先に悪霊になっちゃった女の子がいたとか(!)までは考えなかったなあという……。ヤラれた!という気持が正直なところ、なんである。

でもホント、ホントのホントに、零奈が復讐をし遂げたんだ、と思ったら嬉しくて……ダメ??そのネタは、最後の最後に描写される。その直前までは、零奈は悲しき悪霊であり、ただ除霊されるしかなかったような展開だった。
しかして、突然インパクト突き抜けたオネエ系霊媒師(このキャラの作り込みだけは雑だったのは、計算済みなんだよね……)が現れ、友達を助けたいと訪れた正樹と悠介の懇願に折れて除霊に向かう。

力の入った、尺も大いにとって、先述したホラーメイクも真に迫った、まさに大、大、クライマックス。霊媒師さんが零奈の奥底を暴く。それは、彼女にホレてしまった海斗が知りたくなかった……と思うってことは、恐らく薄々感づいていたことで。

零奈はヤラれっぱなしじゃなかった。そのことで心痛めて自殺したんじゃなかった。むしろレイプで彼女の本性が、てゆーか、女としての当然の怒りと防御本能が爆発して、マワした三人をぶっ殺した。
いやあ、なんつーか……同性として溜飲は下がるが、なぜ、なぜ悲しいんだろう。

その後彼女が夜な夜なこの事故物件に現れ、彼女に魅入られる男たちを落とし込む、ただ愛し合うことも出来ず、でも純粋な恋人同士のような時を過ごしているのに、それは、自分が幽霊だから、悪霊だから、続かない。負のエネルギーで相手を縛るしかなくて、破滅しか待ってない。
……なんと哀しいのか。川瀬氏演じるキテレツ霊媒師に見事成敗されたけれど、この対決シーンが、しかもその本格フルメイクのままマジにガチで展開されることに、むしろそんなね、哀しさなんぞを感じてしまったり、してさ!!

物語の詳細とか、キャストクレジットとか、詳しく載ってるのでPGさんにはお世話になっているのだが、本作は載ってない、焦って調べまくったら、今回の特集上映でのR15アダルト版がお目見えだという。
そんな例は、初めてじゃないかなあ。かなり厳しい現状であるピンクとは思うが、こうして常識を打ち破って行ってほしいと思う。まさに一つの映画を作ろうとしている気概が隅々まで伝わってきた。
正直、ピンクは風前の灯火だと思っていたのだが……作り手や演じ手に、こんなにやる気のある若い人たちがいて、それを後押しするベテランがいて……いやー、本当に、そこだけで、感動したなあ。★★★★☆


ある船頭の話
2019年 137分 日本 カラー
監督:オダギリジョー 脚本:オダギリジョー
撮影:ティグラン・ハマシアン 音楽:クリストファー・ドイル
出演:柄本明 村上虹郎 川島鈴遥 伊原剛志 浅野忠信 村上淳 蒼井優 笹野高史 草笛光子 細野晴臣 永瀬正敏 橋爪功

2019/9/29/日 劇場(新宿武蔵野館)
いかにも多才そうな人だとは思っていたが、まさか脚本、演出の才まであるとは知らなんだ。
実は短編撮ってたとか、そういう役者さんは多く、オダジョー氏もその一人だったのねと今更ながら知るが、こんな重厚な話を、しかもオリジナルで執筆し、しかもしかも演出まで……。

これほどまでの企画なら、例えば自ら脚本を書かずとも、誰か名のある脚本家に書いてもらって、とか、あるいは脚本を書いて、誰か名のある監督に作ってもらって、ということだって、出来たと思う。それだけだって、オダジョーの才人ぶりは充分に世に知らしめることが出来たと思う。でも、彼は、作っちゃった、のか!!
クリストファー・ドイルに「君が監督するなら僕が撮るよ」なんて言われたら、そりゃーそりゃー、やらない訳にはいかないだろう。幸福な出会い。このお話を思いついてからの10年という月日も、きっと良かったのだ。俳優としても人間としても充分に熟成された今だからこそ、これだけの演出が出来たのだと思うし。

タイトルの筆文字に椿がぽとりと落ち、血がじわりとにじみ、広がっていく、という始まりに、うーむ、なんかやけにベタに思わせぶりだな、と思ったりして。
いや、なんかイメージとしては、穏やかな船頭さんが、人生の終わりをしみじみかみしめる、みたいな感じなのかなと思っていたので、まさか本当に、そんな剣呑な展開になるとは、正直思っていなかった。

時代は明確に設定はされていないけれど、機械化、文明化の波が押し寄せるあたり、解説では明治から大正といったところか、と記されている。場所も、特定されない。決して都会ではない。
しっとりと濡れたような緑鮮やかな山々に囲まれた中に、とうとうと流れる川は、いかにも日本の川、対岸の人が見極められる程度、大声を出せば対岸に声が届く程度、でも水中を歩いて渡ることはできない程度に太く流れ、小舟を一艘もやった船頭さんが、対岸にいれば大声で呼び寄せて舟をこいできてくれて、渡してくれる。

粗末なバラック小屋に一人起居して、毎日人々を渡す。村の人々はタダで、外から来た人からだってほんの小銭しかもらわない、老いた船頭さんの暮らしはあまりにも慎ましく、ほとんどが村の人たちから渡し賃代わりにもらうイモだの野菜だの、あとは常客である、年若い源三が気にかけてくれて、食事の世話など何やかやと気にかけてくれる。
だから、まさか彼が、時代が変わったらあっさりと態度を変えてしまうのには驚いたが、でも、考えてみれば、今、その時に、調子のいい方についていたヤツなんだな、と思われる。おおっと、いきなりオチバレ、ちょっとタイム(昭和……)。

でね、そう、場所も特定されないんだよね。こんな舞台設定なら、味のあるお国言葉で物語を豊かに彩ることだって出来た筈。てゆーか、その方がありがちというか、何かと得というかさ。
あらゆることを、特定したくなかったのかもしれない。これは、人間の欲望と浅ましさに根差した物語だから。

そう思えば、老人の元にピチピチの謎の少女が流れ着く、というのも、言ってしまえばベタっちゃベタで、エロを含め、何かが起こる予感がプンプンする。
ベタな想い付きなら、長いこと禁欲的生活を送っているこのトイチじいさんが、若き娘に欲望を感じる話にだって、出来る訳だ。でも、そうはしない。

てゆーか、トイチさんはまるで過去も何も判らない。家族も何も判らない。天涯孤独、というよりは、この物語を体現するために、ポツリと落とされた、ただただ船頭であるだけの老人、であるようにさえ、思える。
農業も商人も出来ない、船頭しか出来ないような自分だから、今こうしている……と言葉少なに語るばかりの彼に、きっとオダギリ氏はあえての、バックグラウンドを与えなかったんじゃないかと思ったりする。

そのかわりに、彼が渡す人々にはバックグラウンドが花盛りである。トイチさんの仕事を奪うことになる、ザ・文明開化の橋の建設に来ている男たちは、わっかりやすくえばりくさっていて、トイチさんはにこやかに、自分を愚かな立場に貶めてまで受け流しているけれど、源三のようなワカモンだったら、そりゃカチンとくるに違いなく……。
でも、そうだ、なんとなく、予感はしていた。源三は口では、橋なんて必要ない、トイチさんの船に乗ればいいんだから。あんな橋なんかぶっ壊しに行かないか、と本気とも冗談ともつかぬ口調で、トイチに問いかけたものだった。本当に、いい青年だと思っていたのだ。ただ……何をしているヤツなのかは、後から考えてみればちょっと判然としなかった。対岸を行き来して何か届け物をしたりと、なんかその程度のようにも確かに思えた。

なんたって舞台が、トイチが船を渡す、この川の両岸だけに限られるもんだから、トイチが船に乗せる人々の生活のありようは、彼らの台詞からしか察することが出来ないのだ。
そして、それが明確に察せられなかったのがただ一人、……あれほどトイチと昵懇にして、トイチのことを気遣ってるように見えていた源三だったとは。

さすがオダジョーの人脈だから、結構な豪華キャストな訳よ。芸妓として後輩たちを引き連れて渡る蒼井優嬢なんて、かんっぺきなゲスト出演だよねと思うし、くっきー氏だの河本氏だのは、斎藤工氏に準じる形の芸人抜擢枠??いらないような気もするが……。
まぁとにかく、オドロキの細野晴臣、細野氏の息子役の永瀬正敏(全然似てない……顔の傾向、真逆……)、源三役の息子、虹郎君を見守るように登場するムラジュン、なんで登場するのかよく判らん浅野忠信等々……。

細野氏、永瀬氏はマタギ親子で、永瀬氏演じる仁平の父は夏風邪をこじらせて死んでしまう。そして、その遺体を、これまで命を頂いてきた山の生き物たちに捧げたいというのが遺言で、周りの目もあるから、その埋葬(というか、風葬というか)に協力してくれないか、と暴風雨の夜、仁平はトイチの元を訪れるんである。
その時、謎の少女、フウもその“儀式”に参加する。どこか、巫女のような雰囲気もある。後に考えれば、処女を無残に破られた過去を持つフウは、人間を憎んでいるのか、神を憎んでいるのか、とにかく……少女でもなく女でもないところに引き裂かれているところに、ただよっているのだ。

トイチの船に衝突する形で、かんっぜんに溺死体だと思われる形で登場する彼女は、トイチの、原始的ながら献身的な看護で息を吹き返す。
彼女を見つけて引き上げた時、全体の傷の様子とかを見るために、ためらいながらも衣服を脱がせ、そのあらわな美しい女子の肢体をためらいながら丁寧に拭って、目をそらすように自分の衣服を投げるようにかけた、あの一連のシークエンスが忘れられない。

だからこそちょっと心配したんだけど(爆)、家族の影もないトイチは、娘のように、という感じすらなく、メチャクチャやりづらそうに、ほっとくけど気にしてる、みたいな感じで彼女の面倒を見る。
何かと声をかけてきてくれる源三もまた力になる。そのうち、イヤな話が船客から聞こえてくる。村で一家皆殺しがあったと。娘が一人、行方不明になっていると。犯人も見つからず、連れ去られたんだろうと。

結局、この話が真実だったどうかが、判然とされないのだ。トイチは心配して源三に噂の真相を聞きに行かせるけれど、彼はそんな話は町では聞かなかったと、言うのだ。
ただ、橋が渡って便利になって、多分そのために一気に懐が豊かになったらしい源三が、つまりつまり、トイチと仲良くしていたのも、その時に都合のいい相手だったにすぎなかったのだと判明した源三が、果たして真実を言っていたかどうかなんて、本当に疑わしいのだ。

源三は、橋が出来たとたん、それまでの野良着みたいなボロボロのカッコから、ザ・文明開化のカッコをして、渡し船の仕事がなくなったトイチに恩着せがましく毛皮なめしの仕事なんぞをおろして、めっちゃ横柄である。それでもトイチは、彼だけでなく、誰に対しても、橋が出来ても出来なくても、同じ、腰の低い態度である。
ただ……彼の中にも、悲鳴に近いような妄想が渦巻いている。ことに、橋を作っていた男たちの蔑んだ台詞は、何度も何度も、こだまのようにトイチの身体中を吹き抜ける。

変わらなかったのは、先述した永瀬氏扮するマタギの仁平と、都会から下ってきてこの界隈の貧しい人たちを見ている、橋爪功氏演じる町医者。仁平は橋が出来てからはやはりなかなかトイチの元に行くことがなく、再会したのが橋の上、というのがいかにも気まずそうである。
町医者は、最初から立場が違うのが、良かったのかもしれない。いい意味で鷹揚で、トイチのことを“陽気に”気にかけている。彼はいわば、第三者的視点で、広くトイチを含めたあらゆることが見えていたのかもしれない。

フウは、一度トイチの元を去るも、戻ってくる。彼女に関しても、何があったのか、本当に殺人事件の生き残りなのか、明確にはされない。
なんか、やけにバタくさいカワイイ少年が、森の妖精みたいな感じ出てきて、トイチを悩ませたりもする。「フウは、本来自分の身代わりに死ぬはずだった。お前に災いをもたらすだけなのだ」と囁いて。

……ちょっとこの妖精君の登場はやりすぎだったような気もしないでもないが。ファンタジーに行きそうなのを人生の苦しさな物語に必死に抑えていたのに、彼の存在で結局ちょっと、ファンタジー気味になっちゃってた気がして。

フウに関しては、ただ、フラッシュバックのような回想シーンで、どこかの時点で、彼女の処女が破られ、それが当然、彼女の心を閉じさせていることが示されるんである。だから……それを知っていたのか、知ってはいなかったのか、とにかく、源三は、その横柄な気持ちのまま、カンチガイヤローのまま、フウを犯そうとして……返り討ちに遭う。惨殺される。
トイチが戻った時、血の海である。トイチは野獣のように吠えまくるフウを抱え、自分だって、お前を責められない、責める立場じゃない!!……守りたかったのに、守りたかったのに……。

トイチは誰にも本音を漏らさなかったけど、身体の中に渦巻く不穏な外部からの台詞、信頼すべき人はいたのに、それをより分けられなかったのか、ただ一人、ただ一人のまま、トイチはフウが、いつしか同志、いや分身だったのだ。
今や雪に閉ざされ、ずっと使っていない小舟には雪が降り積もり、それをトイチは血だらけで呆然としたままのフウを乗せて、漕ぎ出す。

カメラが引く、引いていく。まるで中国かアフリカの大河のように思えるほどに、とうとうと下流に……棹さえさしていないのではないかと思われるように、小舟は流れていく。
逃げ出す?死にゆく??老人であるトイチと、凌辱されるしかない少女は、ただ、流れていくしかないのか。その先に希望はあるのか。

衣装、ワダエミ!!もういちいち、豪華すぎる。いやぁ……渾身の一作、だよね。これは人気役者が撮ったとかいうことなしに、評価されてほしい。 ★★★★☆


トップに戻る