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階段の先には踊り場がある
2022年 132分 日本 カラー
監督:木村聡志 脚本:木村聡志
撮影:道川昭如 音楽:dezimoe
出演:植田雅 平井亜門 手島実優 細川岳 朝木ちひろ 安楽涼 松森モヘー 地道元春 益山U☆G 長野こうへい 高橋良浩 つじかりん 寺田華佳 浅森咲希奈 須田マドカ 苅田裕介 大山大 野島健矢 異儀田夏葉 藤田健彦 湯舟すぴか 山口森広
それすらも、計算だったのだ。趣向を凝らし、洒落た、新鮮な、大学生の青春模様を切り取っていく、と見せながら、いやそれも確かにそのとおりなのだが、実はひとつの重大な物語があって、交じり合わないと思われた二つのカップルが、じりじりと交差していき、えーっ!そーゆーこと!!と驚いてしまう。
ヤラれたヤラれた。最初からしっかりと伏線というか、シーンの中でさらりと見せていたあれこれがそういうことだったなんて、なんという手練の技よ!
いつものようにすっかりオチバレで言っちゃうが、二つのカップル、すっかり同じ時間軸のそれだと思っていたのが、違ったんである。
見せ方が、ものすごく上手い。洒落た趣向と笑っちゃうほどに不毛な恋人たちの掛け合いについつい笑わせられて、てゆーかそれ自体がとても魅力的だから、まさか違う時間軸の二つのカップルだなんて思いもしなかったのだ。
そう、見せ方が上手いのだ。同じ大学構内。一組は職員同士のカップル。後に訪ねてくるかつての同級の悪友たちとの会話で、二人はこの学校の卒業生で、当時から付き合っていたことが明らかになる。
という設定だったから、同じ学校内の、職員カップルと学生カップル、だと思わされた。思いこんじゃった。えーっ、私だけが気づかなかった訳じゃないよね??凄く巧妙だったもの!
実は、職員カップルと学生カップルは、学生時代を同時期に送っているのだ。つまり、職員カップルが今の時間軸と据えると、学生カップルは職員カップルからすると過去回想の形になり、職員カップルの男性の方の滝と、学生カップルの女性の方のゆっこは、話をしたことすらなかったけれども同じ舞踊科に在籍していた。
話をしたことすらなかった、というのは、滝が圧倒的な実力を誇っていたから。やっぱ滝すげーな、と同級生たちが羨望のまなざしだったから。
中盤以降になってくると、こうした、ゆっこも交えた同級生たちの会話シーンも見えてきて、あれ、ここで言ってる滝って、あれ、ゆっこがいる、えーっ、どーゆーこと!!と、相変わらず達者な会話劇に酔わされながら、一方で謎解きに苦戦するという、アホな私にはかなり難しい作業で。
ゆっこは舞踊科で、特待生候補だった。別れた後もなんでか一緒に暮らし続けている先輩と、先輩に恋するゆっこの友人との三角関係は、先輩君がのらりくらりの天然ぼっちゃんで、双方の女の子と延々とかわすやり取りは、彼が真実悩みぬいて口にしている言葉なだけに、単純な答えが欲しい女どもは、彼が好きだからこそイライラしっぱなしなんである。
本当に、この会話劇、脚本の上手さにうなる。なぁんか今泉脚本みたい!!と思ったら、ENBUゼミナール、これは社風ならぬ、ゼミ風なのだろうか??
いい意味で、イライラするのよ。全然焦点に近づかない。シンプルに判定すればいいことだと一方は(観客も)思うのに、そのシンプルに合点がいかない彼や彼女が、なんとかその気持ちを説明しようとするんだけど、ふわふわと、全然焦点に近づかない。この面白いイライラ、判っちゃうイライラがたまらなく上手いんだよね。
それはもう一組の、職員カップルもまた同じ。職員カップルの方が顕著かもしれない。そこには、結婚、妊娠、それに対する男の弱腰があり、ほんっとに、イライラ!
こんな男とは別れちゃえ!!と思うのだが、この弱腰には、深い深い事情があったのだと、しかももう一組の学生カップルが絡んでいるんだと次第次第に判るに従って、うわーっ!!とヤラれちゃう。
そういう意味では、ヴィヴィットな大学生の三角関係であった、ゆっこ、先輩、多部ちゃんのシークエンスが、つまりは過去の時間軸、言ってしまえば回想であったこと、今の時間軸では先輩や多部ちゃんがどうしているかすら判らないこと、が最終的に判っちゃうことに、ボーゼンとするんである。
多部ちゃんを演じる手島実優嬢、本作が今泉脚本のような達者さを思わせると先述したけれど、それこそあーっ!「猫は逃げた」のあの子じゃん!!と私にしては珍しく一発で判ったのは、まさにあの作品での彼女をそのまんま思わせる、三角関係の後から入り込んだ三番目、もう壊れている筈の二人なのになんだかまだつながってる、そして何より自分が好きな男がその解決を全然する気がなくて、モヤモヤ悩んでばかりいる、てのが、そのまんま!おんなじ役やん!ぐらいに思ってさ!
面白いなあ。そして、おんなじ立場でおんなじ達者な弁舌で彼を追い詰める様も、ほんっとに、こないだ見たわ、とデジャヴを思わせるぐらいなんだもの。こんなことって、あるんだなあ。
今は職員である滝は、かつて特待生として留学を決めたほどのスター学生だった。ゆっこはじめ舞踊科のみんなが、彼にはかなわないとため息をついた。
なのに、致命的な怪我で滝は入院、ゆっこにチャンスが巡ってきたんである。
観てる時にはまさかこの二人が同じ時間軸でライバル同士だなんて思わない。いや、ゆっこが先輩に弱気に言うあれこれも含めて、本当に、雲の上の存在だったのだろう。
滝の代わりだなんてムリだと、そして一方で先輩が多部ちゃんと、と思ってくると、ゆっこはこのチャンスを棒に振ろうとする。
このあたりに至ると、彼らの三角関係は、友情の感情が絡むから青春のややこしさが絡まりまくり、微笑ましいイライラに満ち満ちているのだ。
こんな感覚、感じたことない。ここまではこと男どもに関して言えば、おっまっえー、しっかりせぇよ、シンプルな正解出せばいいだけやんけ!!とイライラしていたのが、この時、この時だけは、先輩、良かったなあ。
演じる平井亜門君は、まぁ何とも、そら二人の女の子に恋されちゃうの判る。なんつーかね、なんだろう、中性的、可愛い顔立ち、なのにそうね、ちょっとだけ節くれだった指の長い手が色っぽかったりするのがズルいというかさ。
何よりズルいのは、彼は確かに、いつでも真摯に正直だってことなのだ。ゆっことの関係性も、彼女への感情も、好きだと言われて揺れ動いちゃう多部ちゃんとのそれも、女どもからハッキリしてよ、と責められても、判んないんだよなあ……と頭を抱えちゃう。
自分の感情をハッキリ定義できないことを正直に言っちゃうなんて、やりたくても出来ないよ。だって子供か、って思われちゃうのが怖いんだもの。
だからこの先輩は、二人の女子から好かれてしまうのかもしれない。そしてだからこそ、もうどうしようもない。
この関係の中で二人の女子同士の間で修羅場にならないのは、そのことを彼女たちが判っているからだと思うし、何よりゆっこは、滝を踏み台にして留学のチャンスを得たということで、大きな波に揺られ、彼女だけがものすごく、ものすごく、大人になるというか、美しくなるというかオーラを放って滝の今の時間に追いついて現れるのだ。
そう、この段になると、さすがの私もようやく事態が呑み込めて、そういうことなのかと。
渋るゆっこを先輩が説得しても彼女はこのチャンスを棒に振ろうとしていたのに、先輩はゆっこの荷物をムリヤリ学内に運び込むことで彼女を送り出したのだった。
一方で滝はケガで入院、今につながる小心モードですっかり落ち込む滝に、港は寄り添い続ける。それが同僚となった今も続いているのだが、そう、この時の自信喪失が今もずっとつながっていてね。
まぁ結婚というのは判りやすい恋人の結論だけれど、それから逃げているからという単純な理由だけじゃなくって、なんていうのかな……。
先述したように本作は、不毛な会話劇の達者さが魅力なのだけれど、学生カップルの先輩の方が、自分自身の心に純粋に向き合って、本当に答えが出ないことを正直に吐露しているのに対して、同じように見えて正反対の滝なのだ。
すっかり見えているくせに、相手が求めている言葉も、自分自身の中にある答えもすっかり判ってるくせに、大人になったズルい視点で判らないフリをする。いや、違うな、先送りをしちゃう。
先送りなんて、何の解決にもならない。逆に自分自身を、そして相手を苦しめるだけなのに、きっとそれも判っているのに、答えが出せない滝の弱さは、やっぱりその原点であるゆっことの対峙でしか、解決できなかった、ということなのかもしれない。
滝が、職場の先輩から手渡された、凱旋公演のポスターを貼っている時に、ゆっこが現れたのだった。ゆっこを演じる植田雅嬢の変遷が素晴らしい。
先輩といる時は可愛い後輩、踊っている時はオーラ放ちまくりのダンサー、巡ってきたチャンスに滝に対して申し訳なくて、恐る恐る見舞いに訪れる時の、弱々しいながらもなんか妙に大人の女の美しさ、そして何より、凱旋して帰ってきた、オーラバリバリのスターダンサーであるたたずまい……。
本作は、キャストが時間軸もギザギザだし、関係性をワンカットの会話の応酬で見せ切るというとんでもないヴィヴィッドさで、何度も何度も驚かされるのだけれど、最後の最後、問題が勃発した当時は顔を合わせることも、言葉を交わすこともなかった二人が、西日に眩し気にしながらぶつけ合うラストシークエンスが何より、見ごたえがあるのだ。だってそこには、二人が置き去りにせざるを得なかった、答えを出したかったあれこれが、あるから。
ゆっこがあの時、先輩に恋焦がれるゆえに、演劇のことなんてなーんにも知らないのに演劇科に移籍していたらどうなっていたのか。ゆっこがキャッツを語るに、「動物の中で猫が一番好きだから」「演目じゃなく、劇団ですよ、下北沢あたりの」と、すぐばれるウソをついて、教授を失笑させちゃう。
教授はまあ、そういう例も、いくらでも見知っていたってことかもしれないな。ゆっこの場合は幸運だった。その恋する相手が、ゆっこの才能を本人の浅はかな判断でふいにするべきじゃないと思ったから。いいヤツだったから。
本作でいっちばん、心に刺さったのは、滝がゆっこに言った台詞だった。今の時間軸での台詞。スターダンサーになって、大学に凱旋してきたゆっこに、自分に対する憐みをどう返していいのか、うっとうしいと言ってしまったらアレだけど、彼は言ったのだ。
たかがダンサー、それが自分(滝)の人生をどうかするとか思わないでほしいと。
ちょっと言い回し違ったかもしれないし、たかがダンサーという表現も誤解を招くのは本意じゃないんだけれど、でも、なんだって、そうだよね。
たかが会社員、たかが芸能人、たかが政治家、たかが社長……エトセトラエトセトラだよ。ただ、そこまで言っちゃったら、逆に価値観、インパクトが薄まるというか。なかなか難しい問題ではあるんだけれど、このシーンではそれがバチっとハマった。みんなが幸せになってほしい。★★★★★
小川淳也議員の強力な対抗馬(というよりむしろ、勝てるはずもない、天敵というより小川議員が捕食されちゃうような(爆))である平井卓也議員が後に言うところの、PR映画だと中傷してくるのもある意味ではやむなしかもしれない。
だって「なぜ君」を見てすっかり小川議員のファンになって、全国から手弁当でボランティアが駆けつけるよな自体は、ちょっと異様だもの。本当は、地元選挙区にこそ、こんな風に応援すべき政治家を見出しすべきであり、その努力を私たちがしているのかと言ったらはなはだ疑問である。
でも、それこそ平井議員が鷹揚に言った、それで政治に興味を持ってもらえるなら、というのが皮肉にもドンピシャだったことを、平井氏は判っていたのだろうか。
本作は去年末の選挙で奇跡の大逆転勝利を収めたことで、継続的に小川議員を撮影し続けていたからこその続編の緊急製作、緊急公開となって、ホントについこないだの選挙のことだからめっちゃヴィヴィッドな訳なんだけど、先述のように本当に恥ずかしながら政治に関心がない恥ずべき人間の私は、こんなドラマが起こっていたことを、知らなくて。
小川議員の活動する選挙区を強力に支配する平井議員は、三世議員、地元の新聞社と放送局のオーナーという、マスコミもすっかり抱き込んでの、地元企業もすっかり手名付けての、そして古い体質である島しょ地域の保守気質をがっちりつかんでの、“パーマ屋のせがれ”である小川議員なんか勝てる訳のないベテランなんである。
しかも新しく創設されたデジタル庁の大臣に就任、大臣という肩書がどれだけ地方保守気質に強力な影響を及ぼすかは想像に難くない。出入り業者に対する恫喝音声がすっぱ抜かれ、そのタイミングで監督さんが取材を試みる、というスリリングな展開にも、さっすがベテラン政治家、余裕しゃくしゃくで応対し、作品は拝見できてませんが、キャッチ―なタイトルでいいですね、これで政治に関心を持ってもらえればいいんじゃないですか、と穏やかに柔らかに対応、後から思えば単なる弁明に過ぎないスキャンダルへの説明も、うっかりそうか、そういうことだったのねと丸め込まれそうになる上手さ。つまり、先述した、“それぞれの政治家さんに当たって行けば”と一瞬思わされかけたのだが……。
いわばこれが、言質になるというか、平井議員は“一介のドキュメンタリー映画”がこれほどまでの影響と、彼のグレーな部分を追及する大きな力になるとは思ってなかっただろうと思う。
確かに映画というメディアはテレビ、新聞、雑誌に比べれば、わざわざ足を運ぶ人に対してしか発信できないのだから、弱いメディアだと思われがちだけれど、だからこそである。ただ見流し、聞き流しではない、わざわざ足を運ぶからこそ、影響が大きいのだ。
それがアイドル的とらえ方をされようと、平井氏が言った、政治に関心を持ってもらえれば、というのを、テメーの首を絞めることになるとは、思わなかっただろうと、ナメてただろうということなのだ。
ほぼほぼ一騎打ちとなる選挙戦で平井氏が恫喝そのもので、本作の撮影チームをにらみつけてPR映画だろと、そんなことが許されるのかとマイクでがなりたてる、ヤーさんさながらの用心棒に撮影を妨害され、「報道ではないから」と、映画なんてただのクソ娯楽メディアだといわんばかりに門前払いする、それらが逐一カメラに収められ、映画作品という、半永久的に発信されるメディアとして告発されることの恐ろしさを、ナメてかかってる彼に、でもそれこそが今までの政治だったんだと、痛感する。
あんなに穏やかに鷹揚に取材に応じていた平井氏が、理解ある大人の対応を見せていたのが、結局は映画を見る気もないし、見てもないのにPR映画だと唾棄し、その影響力をナメてかかっていたことに、メチャクチャ溜飲が下がる。
でも一方で、先述のように、私たちは自分たちの住む選挙区で、小川氏のような政治家を見つけ、あるいは育て、この国の腐った政治を変えていかなければならない、ということなのだ。
結果的に平井氏が負けたからこそ、この一連の、彼の腐りまくった言動が生きてくる訳で、それが緊急製作、緊急公開につながったのだと思うと、本当に震える思いがする。
ゆすりまがいのパーティー券購入強要の通知、しかも参加人数と合わないというあたりの姑息さは、バレれば一発政治資金違反なのに、しれっと、こちらが作った文書だという証拠はない、と逃げを打つ。こういうことが、保守、いやさ自民党の選挙のあちこちで起こってるんだろーなーと思うと本当にゾッとする。
地元企業に勤めるメンメンは、そう、きっと、私のように政治に関心のない、会社に命じられるまま投票して、しかもその言質を取られるということが、それがどんだけ、アイデンティティを侮辱しているかということを、気づかないままな私たちこそが、恐ろしいのだ。
それにしても、小川議員の魅力には改めてヤラれてしまうんである。「なぜ君」を見ればそりゃあ、全国からボランティアが集まり、まだ投票できない若い世代が街頭演説にはせ参じ、この人を勝たせてあげたいと熱狂するのは無理からぬことである。
いかにも党員たちがお義理で盛り上げている平井氏陣営、ただその数が尋常じゃないのでどうしても圧倒されるんだけれど、その数でさえ、小川陣営も着々と増やしていく。
この選挙戦の中で、平井氏の暴言スキャンダルがあり、小川氏の方も、彼が信じる、野党で手を組むべきという思いが暴走しちゃって他野党の出馬取り下げを強要したと炎上したり、もう思いもよらぬことが次々と起こる。
一方で、小豆島のガッチリ固まっていたと思われた保守的傾向が、ほころびを見せ始める様、小川氏個人への尊敬や期待はそうした保守のお年寄りたちにもあるものの、でも投票はね……と口を濁していたのが、表立っては言えない、音声を変えて応じたインタビューでその複雑な想いを吐露してくれたり、どんどん風が変わってくる。
コロナ禍、菅政権の早々の退陣、一騎打ちだと思われたのに他野党からの出馬で票を食い合うことになる懸念、もういろいろ、いろいろ、思いがけないことが起こりまくる。
小川氏の選挙を手伝いにやってきた女子チームが、選挙が楽しいから、こんな楽しいことみんなやればいいのにと思ってるから、と、まるで学園祭の準備をしているかのように楽し気に作業しているのが印象的で、象徴的であると思う。
よく見る選挙事務所の風景、筆文字で書かれた必勝とか、そういうのを一切排除、柔らかなパステルカラーで統一しつつ、その中にはナマな、市井の人の、小川氏にほれ込んだ人たちの声が貼りめぐらされる。
プロのカメラマンやデザイナーが参加したSNSの写真や動画による、ひっきりなしのメッセージの配信。平井氏のようなベテラン保守議員にはきっと、思いもよらぬことなのだろう。選挙に勝つには地盤、組織票、選挙活動なんてまあ見せとけばいいかぐらいだったんじゃないの。そう思っちゃう。地元企業の揺るがない票数に絶対的安心をしていただろう。
でもさぁ……いくら後で言質を取ったからって、誰に投票したかなんて、判るはずもない。だからこそ、自由が保障されている。なのに、それでも、今までの日本はがちがちに保守で縛られてた。特に地方は、公共事業だのなんだの、政治家先生に頼らなければ生きていけないと思い込まされていた。自分たちの生活よりも、自分たちの生き方こそが大事なんだという当たり前のことに、目くらましされ続けていた。
「なぜ君」の影響力も当然凄かっただろうけれど、そこにSNSの成熟が合致した、そのナマな時代の変化の瞬間を見た、と思った。今までずっと、ことに私ら中期昭和世代は、親やその前の初期昭和世代が持っている、とりあえず自民党という保守的な考えに違和感を感じながらも、野党は自民に吠えているだけ、としか見えない、誰もその根本をひも解いてくれない、と思ってた。
そして政治家さんじゃなくて党を選ばなくちゃいけないという歯がゆさから、どうせ何も変わらない、どうせ自民党、私らが生活していくには私らが頑張って行くしかないと思っていたし、正直今もその考えはそんなには変わらないのだ。
ただ……やっぱり出会いだと思う。映画ファンがうっかり、映画の一ジャンルであるドキュメンタリー映画として彼に出会った。ドキュメンタリー映画というのは実に難しいスタンスだ。ジャンルとしてはそのまま真実を映し出しているように見えるけれど、決してそうじゃない。「君はなぜ」はそういう側面の方が強かったけれど、本作に関しては、いい意味で演出側のしてやったりが見える。
平井氏のヤーさんまがいの用心棒に撮影妨害されたり、PR映画じゃないかという中傷に断固抗議したり、もちろん本当に怒り心頭、こんなことは許されないという思いでしている、それはそうなんだけれど、絶対、ぜえったいに、これはもらった!とガッツポーズしたに違いないよね。
ドキュメンタリー作品において、もちろん真摯に怒り、抗議し、これを世間にしらしめなければという正義感がなければいけない訳だし、クリエイターとして平井氏の言葉は絶対に許しちゃいけないことだ。
まさにそういう場面なのだけれど、本作が小川氏という稀代のエンタメ要素を持つ清廉潔白すぎるにもほどがある政治家さんを被写体にした時、当然発生するこの、映画の神様が用意してくれた奇跡さ。やったった!!と思ったに違ないことを考えると、なんかニヤニヤしちゃう。
「なぜ君」でも、こっち側視点の物語を見たいと思わせる、妻と娘二人、家族を選挙に使うということへの批判を、妻、娘ではなく、自分たちの名前をアピールして応援するというやり方に変えるというシークエンスは、なんか逆に、この猪突猛進でハラハラしちゃうけど、この人じゃなければ託せないことがあるんだよね!と信じている彼女たちの想いがなんかもう、最高でさ!
小川氏はうっかり見た目もイケメンさんだし、スレンダーでスタイルも良くて、だからこそ「なぜ君」の被写体として映って、ある意味見当違いのファンも増やしたのかもしれない。
でも「なぜ君」からつながる、実質は中立の立場である老練な政治ジャーナリストや政治記者たちが、あまりに純粋すぎてあまりに猪突猛進な小川氏を心配して、熱くなりすぎちゃう彼をどうどうとなだめたりして、小川氏がスミマセン……と謝ったりしてなぁんかもう、すっごい理想、と思っちゃうんだよね。
平井氏の息がかかった地元マスコミが、中立の立場であるべきマスコミが、あからさまに小川氏を貶める記事とあからさまに平井氏を持ち上げる記事を掲載する様を淡々と映し、本当に、ほんっとうに落胆するし、平井氏を糾弾する以上にこれを描写したことこそが本作の大きな働きだったと思う。
たかが映画、そう思っていたのだろう平井氏だが、変わる、変わるよ。確かに肌で感じている。恐らくそうした保守政治家が軽んじていた若い人たちが、SNSというツールを通して、リアルに参入してきたことを肌で感じる。
今、この作品が生々しく公開されたことの価値、後々になってきっと語られると思う。それが楽しみでならない。★★★★★
オチバレというかそもそもの設定なのだから言っちゃって構わないと思うが、原作、脚本を担うバカリズム氏が演じる升野という人物は(この役名こそが、彼の本名なのだという!)、みさと銀行に勤める女性行員という役どころだし、制服も着て、メイクしている描写もあるんだけれど、女装という感じすらしない、バカリズム氏が女性行員の制服を着ているという風にしか見えないのは無論、狙いなのだ。
声だって全くそのままの男性の声で、ことさらに女言葉を使う感じもない……いやそれは、そもそもの女言葉というのがリアルな女性そのものとしてはアンリアルなのだから、そこが妙にリアリティがあるというややこしい結果になっているのが面白いのだけれど。
で、そう……ドラマ版ではどうだったのかは判らないけれど、映画となる本作では、この不思議なキャラクターはきちんと回収されている。
女子行員グループの中でも一番のお姉さん格である小峰、みなから小峰様と崇め奉られる、姉御肌の彼女の結婚式、皆で記念写真を撮っている時、升野はふと気配を感じる。自分とそっくりの男性、見てはいけないものを見た、と思いながら吸い寄せられるようにその男性に近づく升野。
そうすると、すっと合体してしまう。記念写真には升野の姿はなくなり、つまり彼女たちの中に、最初から升野はいなかったことになっているという、ちょっと背筋がゾクリとくるようなオチなのだ。
気楽に面白く観られる、と言ったけれども、この視点、というかカラクリというか、に気づいてしまうと、やっぱりいろいろと思うところが出てきてしまう。
微妙に年齢のずれる女子行員たちは仲が良くて、基本、愚痴である会話もライトで、いい感じに脱力していて面白いのだけれど、これを、升野という、バカリズム氏自身を投影した一人の男性、芸人である男性が、いわば妄想の形で、OL達の楽屋を覗き見ている妄想の形で描いていると思ったら、そうかそうか……と思っちゃったりする。
銀行の内部のあれこれが興味深いエピソードで描かれ、例えば強盗が入った時の訓練だの、年末のお客様へ渡すカレンダーの用意だの、綿密な取材に基づいているんだろうということは充分に感じられるんだけれど、でも彼女たちの造形というか関係性はきっと、男性側から見た、女性たちが築く関係性の七不思議みたいなスタンスがあるんじゃないかと思ったりする。皮肉じゃなくて、本当に。
実際は、こんな風に微笑ましく仲が良い職場なんてめったにないだろう。彼女たちが絶妙のバランスで成立しているのは、それこそ升野がいるからなんじゃないかと思っちゃう。
升野はこのグループの中で中堅の立ち位置にあり、年が近くて価値観の合う、一番仲がいい真紀ちゃん(夏帆)とも、時に距離を感じたりするのだ。価値観が合う、と言っても、月曜日がだるいから休みにすべき、ならば火曜、ならば水曜、だったら週休6日ね、なんていうじゃれ合いのような会話で盛り上がる程度の価値観である。
一番年若の紗英ちゃん(佐藤玲)と真紀ちゃんと一緒にジムに行くと、すっかりさぼっている二人と違って真紀ちゃんはまじめに通っていて、違うステージに上っていて、たくさんの顔見知りも出来ている。
それを寂しく思う二人だけれど、違うシークエンスでは、紗英ちゃんは海外採用枠のソヨンちゃんと意気投合して、升野はそれを優しい先輩の目線で見守っているけれど、ここでもうその輪から脱落しているのだ。
小峰様とほぼ同期と思われる酒木(山田真歩)、このあたりは升野以下にとってはヤハリセンパイで、どんなに仲良くっても、どっかに一線があって、敬語だしさ。
酒木は小峰の結婚式で、登場する前から感極まっちゃって涙涙。付き合い長いから、というその一言で、升野たち後輩が知らないあれこれがあったんだろうと推察される。
一見していつも集まるこの5人のグループは、年齢差を感じさせない仲の良さには見えるけれど、無能な上司、デリカシーのない上司を共に敵に据えることによって結束を固くしたにしても、そのスタンスがキャリアによってかすかに違ってくるのが本当に上手いというか、絶妙なんだよね。
小峰と酒木の年配コンビは、見ている時には一緒に盛り上がっているように見えたけれど、場面場面をふと考えてみると、あの上司は確かにムカつくけど、今回の経緯はこうだから、という筋をきちんと通す余裕がある。
一番年が若い紗英ちゃんも不思議とそこんところは共通していて、事実はこうなのに、なぜ升野や真紀ちゃんが自分の発言にヘンな顔をするのか不思議でしょうがない顔をしている。
升野たち中間世代の気持ちを判って合わせてくれる余裕がある上の世代と、無邪気でまだまだ学生気分から抜けていないような下世代。
でもそう思うと、升野たち世代が一番厄介かもしれないと思うが、そもそも升野は架空の存在……それこそタイトル通りの存在なのだから、と思うと、これって世界観、メチャクチャ深いじゃん!!と思っちゃう。
だからこそ、真紀ちゃんのキャラ造形が上世代でもなく下世代でもなく、職場だけではないところに自分の生活を確立している、という存在として重責を担っているのか、と思う。
本当に、後から思えば、升野だけが空虚なのだ。みんなで攻撃する矛先を見つけて愚痴で盛り上がることで、職場環境を整えることにこそ腐心している。真紀ちゃんもそれに乗っかっているけれども、彼女には別の生活スタイルがある。
升野の休日は高校時代の同級生とランチをしながら、ゆるくダべる程度。時にはそれさえ妄想で、部屋の掃除もテレビを見ながらの腹筋もランチも、すべてできなかった、と述懐する。
そもそもの設定を知らないで観ていたけれど、このあたりでさすがに、アヤシイぞと思い始める。だってそもそも、男性性全開のままの女子行員の見た目だったから。
彼女たち5人のグループに出たり入ったりの外からのメンメンである。いっちばん私の心をつかんだのは、当時は彼女の存在を知らなくて、「新聞記者」、「ブルーアワーにぶっとばす」と、立て続けに私の心をわしづかみにしたシム・ウンギョン嬢。
その2作とも全然違う印象、もうとにかく、このソヨンちゃん役、可愛い可愛い可愛い!!!なんという可愛さだ……。正直もっとツッコんだエピソードが欲しかったが、まあ彼女の可愛さだけでいいやと思っちゃうほど。
日本語ペラペラ、歓迎会のカラオケでも感動的な歌声で中島美嘉を歌うソヨンちゃんに皆うっとり。とにかくいい子で特に年の近い紗英ちゃんはマンガの趣味が合うことを知って大喜び、犬夜叉の全56巻を貸してあげる!と盛り上がるのをはたで聴いてる升野は国際問題を心配する。ソヨンちゃんのロッカーの扉の開け方にも気を使って言えない。
こうしてみると、言えない、言わないのは升野だけ、なんだよね。この仲良しグループに同調して楽しくやっているように見えて、本当の自分を見せることが出来てないのは、升野だけ。そらそうだよね。虚構の存在なんだもの。すべてが終わって思い返せば、それがすっくり、判るのだけれど。
こんな具合に、同じ制服に身を包み、一見して同じ仲良しグループの中の彼女たちに見えて、その外の行員たちにこそ、縮図が見えるんである。男性行員は彼女たちの格好の標的だから形骸化された、それこそキャラクターとしての見え方だけれど、数少ない、彼女たち5人の他の女性行員たち。
同じ制服を着て、近いところにいるかおりん(三浦透子)は、登場数も多いし、彼女たちのグループに入っているような、行動を共にしているような錯覚を起こす。
でも彼女はやっぱりはっきり外にいる。それが明確に示されるのは、一見してバカバカしい部分ではあるんだけれど、実はそれが重要なのかもしれないと思わせるシークエンス。
坂井真紀扮する小野寺課長がそれまで使っていた印鑑ケースを升野におろしてくれる。というのも、アスパラのベーコン巻を模した食品サンプルの印鑑ケースに目が留まり、うっかり可愛いですね、と升野が言ったことから、それを、好意に受け取って、新しいのを買ったから、と譲ってくれたのだ。
新しいの、というのがエビフライ型だというのがまた可愛い。可愛いのよ。私は即座にそう思った。あのアスパラベーコン巻印鑑ケース、超ほしい!!と思った。
なのに升野は、うっわダッサ、と思い、でも課長からいただいたしと思い、仲間たちがうっかりダサいと言わないように根回しする。このシークエンス、えーっ、可愛いじゃん。なんでなんでと、私自身が傷つきながら見守っていた。
そしたらね、かおりんが、可愛い、と言ったのだ。何の迷いもなく。私はもう、ひざを打つ勢いで、そうだよね!!と思った。升野は、そっち側かよ?と心中つぶやき、ゆるゆると彼女から離れた。
微妙に年齢や思うところは違うながらも、なんとなくいつも一緒にいる5人の周囲に、仲はいいけど、あれ?なんか違う、という人たちがいて、さらにその外に、はっきりと先輩たちがいて、でもその先輩たちは、そんなぐだぐだな、あまあまな“OL生活”を抜け出した超パイセンたちってことなのかもしれないのだ。
升野たちがだっさ、と思う食品サンプルの印鑑ケースにアイデンティティと安らぎを感じ、愚痴を言うことも許されず、顎を上げ、さっそうと仕事をしている小野寺課長。彼女にとっては、上司への愚痴で盛り上がれる彼女たちが微笑ましいのかもしれない。
主な舞台となる女子更衣室で、コンセント争奪戦とか、上司のお土産査定とか、くっだらないことでゆるゆる盛り上がっている彼女たちグループの背後に、そこには加わらない行員たちが見え隠れしているのが、気になっていた。
つまり升野たち5人はまだまだ……正直ね、窓口に、良くない言い方だけど、花として、お飾りとして配置される意味合いが大きい銀行窓口。だからこそ、ラブリーな制服を着ていない、キャリアアップした坂井真紀がいるのであり、印鑑ケースがダサいからと笑ってる場合じゃないのだ。
本作はグループ内で一番の年かさ、小峰様の結婚で幕を閉じる。小峰様はイラッとくる上司に対して、思いもかけぬ奇策で意趣返しをしたり、小峰様!!と仲間たちからあがめられる、でもからりとして素敵な先輩である。
その彼女の結婚が本作の幕引きであることが、まだまだかな、という気がする。そらまあ仕事を辞める訳じゃない。でも、辞めないですよね?と後輩から聞かせる時点でまだまだだなと思っちゃう。そして、結婚したい、結婚出来るかなとか、結婚も年功序列だとか冗談めいてでも彼女たちの間で交わされるのも、いまだにそんなこと言うの……と思っちゃう。
まぁそもそも、この設定が平和過ぎて、昭和っぽいというか、昭和でもないんじゃないかと思っちゃった部分はある。それこそ男性の平和な妄想のような。
社員食堂に評点つけたりとかは、正直私の判らないところ。日本のほとんどが、社員食堂なんてない中小企業だろと思っちゃう。貧しい弁当抱えて通ってますよ。インスタント味噌汁常備してますよ。それは私のヒガミ??
升野の妄想世界だと判っていても、彼女たちがあまりに些末なことで、男性上司に対して“イラッとする”というのが、判る部分ももちろんあるけれど、いくらなんでもそんなことではさ……と思う部分も結構あって。
このあたりのさじ加減は難しいなと思う。さらりと笑えればいいんだけど、実際に厳しい風当たりで働いているサラリーウーマンとしては、なかなか……飲み込み切れない部分も多いよね。
本作に対して、そこまで突っ込むべきなのか、ってのは確かにある。気楽に楽しめばいい、めちゃくちゃチャーミングな作品だし。
でもだからこそ、こういう風に見られているんだ、まだまだ女性の社会進出はこの程度なんだと、これが社会の目なんだと逆に証明されちゃったような気もして、そう、だから逆にキツいというか。軽く楽しめればよかったと思うんだけれど……。★★★☆☆
考えてみれば私、鈴木清順作品あんまり観てないんだよなあ。リアルタイムで追いついたのは「ピストルオペラ」だが、すっかり怖気づいてしまった。年食った今となっては半ば諦めもあってついていこうという気にもなれるのだが……。
意味はないと言いつつ、ストーリーを一応追ってみたり。時は禁酒法時代。浪花節語りに血道をあげる男、海右衛門にショーケン。海右衛門が一目ぼれする芸者、小染に田中裕子。海右衛門の浪花節の兄弟子に柄本明。海右衛門が逃げ出した旅回り一座の女将に樹木希林。小染のダンナに梅宮辰夫。彼らから逃げ出した先のアメリカで出会う伊達男、ガン鉄に沢田研二。ガン鉄の子分に平田満。タイトルロールのカボネにチャック・ウィルソン(なつかしー!)とゆー、目もくらむような豪華なメンメン。
キャストの説明で舞台、時代、世界観はなんとなくつかめるが、それを予測不能にするのが鈴木清順。これぞ清順映画と言いたい美学たっぷりの、いい意味でのカキワリチックな画作りに存分に酔わされる。
だって、舞台はサンフランシスコだけど、百パーセントスタジオで撮ってる、ということを逆に誇りをもって感じさせるツクリモノ感がたまらない。
沢田研二と田中裕子、夫婦共演が興味をそそられる。まだ結婚前だけれど、彼らが出会った寅さん映画で、そらージュリー、田中裕子にホレるわ、めっちゃ可愛い!!と、なんだか彼らの恋愛進行形がスクリーンに刻み付けられているみたいで、めっちゃ興奮したもんだが、本作は実に微妙な位置。
まだ前妻とは離婚していない。つまり不倫関係状態の時。このキャスティングは知ってか知らずか、みたいな。役柄の関係は恋仲関係ではないけれど、凄く近しいところにいるから、すんごく考えちゃう。
今も素敵だが、この当時の田中裕子の、背中もあらわにしちゃうような匂やかさ、お顔が純和風で少女のようなのがギャップ萌えっつーか、なんとも蠱惑的でゾクゾクしちゃう。
昔の恋人に浮気がバレて、見せしめとして入れられたというタコの刺青は、海右衛門と出会った冒頭では、卑猥なものだというように、光り輝くという手法でボカされる。最後の最後、クライマックス、実にカッコよくその背中をあらわにして愛しい海右衛門を助けるという場面までとっておかれるんである。
主演のショーケンがね!!私、あんまり彼の出演作品を観る機会がなかったんだよなぁ。それをこんな、異質な世界観の作品で観ちゃうと、もうなんつーか。
一言で言ってしまえば、アホな男なのよ。時代遅れの浪花節に命をかける。一目ぼれした小染に命をかける。難しい事情を理解する頭がなく、アメリカに渡ってもはかま姿で町中で浪花節をうなる。絶対に理解してもらえると信じてる。
そんな海右衛門をガン鉄は呆れつつ心配する。この地にも多くの日本人はいるけれど、浪花節なんて古臭くすたれたカルチャーだと。
そして、最先端のアメリカンカルチャー、ショータイムを見せるんである。陽気なビッグバンドジャズ、セクシーなダンサーたち。しかし海右衛門には今一つ響いてない感じ。
ジャパニーズカルチャーかぶれのダンサーの女の子が、サムライがいた!と海右衛門に一目ぼれし、押しかけ女房みたいになる。
最終的に海右衛門は、彼女、リリアンのことを愛していたのか。やっぱり最後の最後まで、少年のように愚直に、小染だけを愛していたんだろうなあと思うから、なんだか彼女が切ないのだ。
ガン鉄が斬って捨てた浪花節だけれど、ブラックミュージシャンたちが面白がって伴奏をつけたことで、言葉は判らずとも気持ちが伝わる、まさにラップのカッコよさに昇華する。
これは、これはさ!本作が製作された当時は、ラップってのが、あったのかもしれないけど、日本ではまだ全然知られてないし、なのにこのカッコよさよ!
英語じゃなくても、てところが重要なのよ。私らアジアの片隅に生息しているやからが、意味が判んなくても英語の曲をカッコいいと思ったり、気持ちが伝わると思ったりするこの気持ち。
もちろん、世界が狭くなった今ではそんなことは自明の理になったけれど、この当時はその価値観を披瀝すること自体、勇気どころか思いもつかないことだったんじゃないのかなあ。
そう、あらすじを追っても仕方ないと思うのは、まさに愚直、徹頭徹尾、ショーケンが浪花節をうなり続けることこそが、本作の白眉だからなんである。小染の三味線があれば、一層ノリノリである。
小染が不慮の事故で死んでしまった後、リリアンやジャズバンドのミュージシャンが弾いてみたり、なかなかに興味深い画が見られるけれど、やっぱりやっぱり、小染の三味線でなければいけない。粋にぐいと襟を抜いた、芸者姿の小染でなきゃ。
後半、慣れない洋装で胸にアンコを入れ、見よう見まねでガニ股で歩く小染は可愛いが、つまりそれだけ、似合わないってことなのだ。
現代は違うし、こういう考え方は差別的狭量的なのは判っているけれど、ふと、立ち返って、アイデンティティというか、民族的自覚というか、そんなことを思ったりする。
それを思うと、ガン鉄を演じるジュリーはまさに、まさに!すべてを超越している。ザ・ジュリーな、斜めにかぶった帽子、ひと声で判っちゃうジュリーだけのあの声。
サンフランシスコの裏社会で、確かにまったき日本人だし、日本人として差別されているんだけれど、違う、違うんだよなあ!やっぱ、ジュリーなんだよ、それ以外の何物でもないというか。英語は喋ってるけどめっちゃジャパニーズイングリッシュで、そこはめちゃめちゃ日本人で、でもジュリーなんだよ。
ジュリーとして、この時代の、カポネが君臨する、禁酒法時代のサンフランシスコで、日本人だけど日本人じゃないような、異質のカリスマとして、生きて、闘ってる。それは、彼自身が常に、そうであったこととリンクする気がしてしまう。
ショーケンも型破りな存在だけれど、本作に限って言えば、ザ・日本人を体現している。究極に体現しているからこそ、逆にヘンなのだ。それが、可笑しいし、何かの真実を示している気がする。
だって今の、というか、いつの時代もかもしれない、日本人は、こんなに、浪花節とか、自分が日本人だということを、言ってしまえば妄信的に表現することなんて、出来ないよ。自信ないもん。
ああでも、海右衛門もまた、浪花節から離れた時があったのだ。だって小染が死んじゃったから。最愛の人、そして自分の浪花節につけてくれる三味線を弾いてくれた人だったから。
なんとまあ、海右衛門はチャップリンを模して街角に立つんである。ニセモノだよ、ニセモノだよ!!彼を糾弾するのは、ああこれは、きっとこの当時も、そして今も差別意識の象徴として存在する、KKKを即座に思わせる頭巾をかぶった集団。
ああ、今も今も、本作が叫ぶメッセージはきっときっと届くのだ。今こそ、この鬼才の、奇才の作品を世界に知らしめたいと思う!!
……なんかコーフンして、途中で止まってしまった。えーとなんだっけ(爆)。ああ、そうそう、禁酒法よ。裏社会でこっそり酒を融通するにはどうしたらいいか、海右衛門がもともと酒屋の息子で、酒を造れるってところも相まって、日本酒が通用するのか、通用するとして、取引の駆け引きはとか。
その中で白人至上主義がしんしんと横行している世情が、清順流に、シリアスポップに描かれるんである。
ほぉんとに、カットの美学っていうか、画面の割りかたというか、現実的な描写からどんどん離れていく、舞台美術の世界になるラストシークエンスに至るともう、独特過ぎて、冒頭にも言ったけど、ストーリーを追うのが無意味なんだよね。
中盤まではね、先述したような、いい意味でのカキワリ感があったにしても、それなりに、今起きてる、つまり、映画として成り立っていた。でも、それを、ラストシークエンス、てゆーか、冒頭からラストに至ってじわじわと、確信犯的に放棄していった、ってことなのかなあと思う。
本作は、ピカレスクロマンと判りやすく分類される作品なのだろうし、確かにそのとおりだし、当時のバラエティ的人気者、チャック・ウィルソンをメインキャストに迎えたり、きらびやかな作品だというのは確かなんだけれど、なんだろう……。
当時、リアルタイムで観ていたらこんなことは思わなかったのかもしれない。でも、多様性だのアイデンティティだの、英語圏カルチャーに盲目的ではない時代になったこともあって、なんかいろいろ、考えてしまう。
私、ストーリー、途中で放棄しちゃったね。でも、だって、そんなことじゃないんだもの。最後の最後、海右衛門が切腹する、さんざん試みて、結局みっともない感じになっちゃう。それを介錯するのが最後の恋人、リリアンなんだけど、みっともない感じになっちゃうから、介錯まで至らない。
美しき?ジャパニーズカルチャーが、実はそうじゃない、エラそうに語る浪花節があっさりチャップリンにとってかわるように、怖くて怖くてたまらない、切腹なんて本当はしたくないのだ。
冒頭に示されていた、モノクロの、この当時に最先端であっただろうアメリカンカルチャー、楽し気なアトラクション、それがラストには、すっかりカラフル、オールカラー、切腹した海右衛門を、苦しむ彼にショックを受け、サムライやめた!!とリリアンは叫んで、メリーゴーランドの馬に倒れ込む。
ぐるぐる回るメリーゴーランド。全然楽しくないけれど、楽し気に回り続けるメリーゴーランド。
今、世界に観てもらうべきなのは、清順作品のような気がしてきた!クロサワを過ぎ、キタノも過ぎ、現代作家にあらゆる才能が認められているけれど、今、改めて提示すべきは鈴木清順のような気がしてきた!!★★★★☆
「BLUE/ブルー」はただただ愛しさにあふれていたから、うっかり吉田作品だということが頭から抜け落ちていたのかも。そして本作は……愛しさで始まり、怖さがじわじわとクレッシェンドされ、バクハツした後にまた愛しさが待っている。それはちょっと、哀しい愛しさ、みたいな……。
前述のように「空白」みたいにビジュアル的にもおっそろしい展開になるんじゃないかとビビりまくっていたから、あ、そういう方向ではなかった……と妙にほっとして、でもそうして思い返してみれば、まごうことなき、愛しさと怖さの絶妙ブレンドフルパッケージなのであった。
ムロツヨシ氏と岸井ゆきの嬢ダブル主演。ムロ氏扮する田母神(たもがみ)が周囲から神と呼ばれるのは、お人よし過ぎるから。彼自身だってそんなことは判っていた。生活力も責任もない元同僚に、頼られるまま金を貸し、保証人にまでなっていたことが後に彼の首を絞めることが、田母神のキャラクターをよく示している。
お人よし、優しい、その仮面をかぶっていればいい人でいられる。軽く見られていても、嫌われるよりはいい、そう思っていたことを、自覚だってしていたんじゃないのか。
そんな田母神と合コンで出会うのが、コールセンターで働きながら夢は人気ユーチューバーであるゆりちゃん。ゆりちゃん、と、ユーチューバーネームでしか呼ばれなかったことに気づく。
もちろん、名前自体が優里(ゆり)であって、間違ってはないんだけれど、ゆりちゃんねるのゆりちゃんでしかなく、クッソ面白くない素人動画を上げ続けて、登録者数が伸びないのはおろか、こきおろしコメント満載だった頃のゆりちゃんと、たまたま知り合った人気ユーチューバーとのコラボで瞬く間にスターダムにのぼりつめたゆりちゃんとは、結局は同じだったのだ。
画的に花を添えるアシスタント的な立場でしかなかったのだから。そしてそれは、田母神さん同様、彼女だって重々判っていたに違いないのだ。
ゆりちゃんは、最初からあまりにも無防備というか、ナメられていた。冒頭が二人が出会う合コンシーン、酔いつぶれるゆりちゃんを田母神さんが介抱する。他のメンバーの会話から、二人が明らかに数合わせであることがしれる。
いや、最初は田母神さんだけが明らかに、と思っていた。ゆりちゃんは少なくとも若い女子だしそれなりに可愛かったから。でも他の三人の、いかにも女子力を前面に出して合コンにサムライのごとく臨んでいる子たちに比べれば、ゆりちゃんはそっち方面のやる気がまるでなかった。
なるほど最初から、ゆりちゃんと田母神さんは周囲からの評価は同一だったのだ。
ただ、ゆりちゃんは若くそれなりに可愛く、後にカン違い的とはいえ売れてっちゃうのに対し、田母神さんは最初から冴えないオジサンだったから、彼ら自身は、特にゆりちゃんは判っていたのに目を背けていたのかもしれないその事実に、観客もまた目くらましをされていたのだ。
つまり、田母神さんがキレちゃうことによって物語が大きく展開していく訳なんだけれど……。見ている時にはね、ちょっと違和感を感じてはいたのだ。素人くさい動画、編集はなんとか出来てもテロップが上手く入れられないんですぅ、と田母神さんに相談を持ちかけるゆりちゃん。企業PVを作ったりする仕事をしている田母神さんがちょいと手伝ってくれるだけで、ゆりちゃんはまさに、彼を神のごとくあがめた。
タイトルにもなっている神という言葉が……確かにこの時には彼女はマジに田母神さんを神だと思っていただろうに、イケイケユーチューバーやイケメンデザイナーに出会ってしまうとあっさり彼らにその最上級呼称を鞍替えさせてしまう。
そのあまりにものあっさり感が、違和感だったんだけど、ゆりちゃんもまた、自分が何者でもない、周囲から軽く見られていて、うっかり人気が出たのも運よく才能のある人とつながれたから、というのが判っていたからだろうと、後から考えたら判るのだ。
だから、あんなに判りやすく手のひらを返した。田母神さんとつながっていたら、上には上がれない。だって田母神さんと私は同じレベルの……底辺の人間だから。
絶妙のキャスティングなんだよね。ムロ氏とゆきの嬢。設定されるキャラもそうだけど、年恰好の絶妙な離れ具合、親子というには……でもそう言ってもおかしくないぐらいの離れ具合。
もしかしたら恋の予感もあったかもしれないけれど、特に田母神さんの方は決して決して、怖気づいちゃって、自分に自信がなさすぎて、神と呼ばれる仮面の下に縮こまっちゃって、それをつかみに行けないタイプ。
一時期はゆりちゃんだって田母神さんに対してそれなりの可能性を持った感情は抱いていたに違いない。たまたま田母神さんが多忙で関われなかった動画が炎上、撮影された店が休業に追い込まれた。田母神さん行きつけの店だったから彼もまた責任を感じ、ゆりちゃんもすっかりしおれて、だからこう……。
でもそんな、弱い心につけ込むようなことはしなかった訳だが、後から考えれば、つけこんじゃえば良かったのかもしれないし、示談金を払ったなんてことを後から恩着せがましく言うぐらいなら、すべてをオープンにして対等になれば良かったのだ。
ああ、考えてみれば、この二人は、結局何一つまっさらにお互いをさらしていなかった。皮肉なことに、それが出来たのは、完全に決裂してからだった。いがみ合い、罵倒しあい、あんたなんて大っ嫌い!!と言い合うに至ってからだったのだ。
そうか、だとしたら、むしろそうなってからの方が、判りあっていたのかもしれない、なんて思ったりする。おたがいを大っ嫌いと言えるってことは、遠慮がない、百パーセントないってことだ。
ゆりちゃんはすっかりバズってスターダムにのしあがって、バカにしていた同僚を尻目に退職届をたたきつけてやったあの場面が頂点だっただろう。でも売れっ子の世界は意に染まないことを笑顔でやらなきゃいけない世界。批判的コメントや登録者数の伸び悩みや広告がつかないなんて悩んでいた時は、結局は趣味の延長線上だったからこそ、田母神さんと楽しくやれたのだ。
結局はただの素人、今売れているのはちょうどいいアシスタントとして使われているだけ。判っているからこそ、ゆりちゃんは、それでもその位置から滑り降りたくなくて、いきなり田母神さんに冷たくなった。売れっ子たちに見限られたくなくて、田母神さんを斬って捨てた。判っていた筈なのに。
そう思うと、田母神さんこそが一番判っていなかったのかもしれない。ゆりちゃんに見限られた理由も、無責任なお人よしであることが一人の人間を自殺に追い込んだことも(前述した、金をせびられ保証人になっていた元同僚)そのために自身の首が回らなくなったことも、優しそうに見えて、神のように見えて、結局は誰のためにも、特に彼自身のためにまったくなっていなかったのだ。
恋の一歩手前まで行くだけに、ゆりちゃんに裏切られた後の田母神さんの変貌、というか、逆ギレならぬ本ギレっぷりは、本当に辛い。判るけど、田母神さんのこれまでの好意を踏みにじるだけでなく、動画の中で古臭い、キモいとこき下ろすゆりちゃんに激高するのは判るけど、それを告発するためのチャンネルを開設し、それまで以上にダサさと古臭さを発揮して世間も職場もすべてを敵に回しちゃう田母神さんが哀しすぎる。
シニア向けの仕事をしているからセンスが古いとか、人気ユーチューバーたちにさんざんこき下ろされる田母神さんだけど、でも、いつの時代も、その時に最先端な、おしゃれでスマートなものって、そっちこそが絶対に古びるものなんだよ。
田母神さんが地道につけたクレジットはシンプルで普遍的で、きっとずっと後になって見ても、すんなり見れるいい意味でのオーソドックス。ゆりちゃんが売れっ子ユーチューバーとしてサイン&握手会に臨んだ時、こんなものは残らないものだよ、と自嘲的にファンの子に語ったのは、今彼女が作っている動画に、それがないから、今におもねてしかいないからってことを、判っていたからじゃないのか。田母神さんと作っていた素人くさい動画が後にまで残るとまでは思ってなかったにしても、それでも……。
自殺した元同僚の借金の保証人になっていたこともあって、すっかり売れっ子になったゆりちゃんが、田母神さんがこれまで協力してきたことを、彼自身の好意の言質を盾に、ボランティア扱いにしてはばからないことが着火点だった。もうそれ以降は見るに堪えないというか……。
でもね、もうひとり、謎のユーチューバーがいるのよ。これがね、冒頭なの。冒頭も冒頭、仮面をかぶって、一人の男を男女カップルがぼっこぼこにしているのをこっそり動画に撮っている。
この時には、ボッコボコにされているのが田母神さんだというのは、そもそも田母神さんがまだ登場していないんだから知る由もなかった。本当に、後半も後半のシークエンスになってから、この場面に戻ってきた。
田母神さんとゆりちゃんの攻防に便乗しようとした、仮面をはいでみればひょっとしたら中学生かもと思われるような幼い男の子。ゆりちゃんが動画撮影中に遭った事故で瀕死の重傷を負った病室に入り込んでずうずうしく動画を撮るような臆面のなさ。
ゆりちゃんが人気ユーチューバーに乗っかってから急に人が変わったり、ゆりちゃんが重体に陥っている病院でさえ、神妙な顔して撮影をしているその二人組の彼らのデリカシーのなさだったり。
私たちがちょこっと思っている、ユーチューバーというものに対しての……つまり、最も新しい職業が故に、実体がよく判らないのにやたらキラキラ最先端である彼らへの恐怖というか、異星人感というか、つまりは嫉妬なのかもしれないけれども、それが、ゆりちゃんや田母神さん、そしてまだ考えも浅いであろう幼い男の子を通して私たちにダイレクトに伝わってくる。
それこそ、本作を何年後かに見れば、当時最先端のオシャレな編集をした動画がひょっとしたら古臭く見えているのかもしれないと思ったのと同様(むしろ劇中のユーチューバーの感じは一時代前のものだという意見が多いみたい)、YouTubeなんてそんな人生を賭けるほどの大したもんじゃない、なにアツくなってんの、ということになっているのかもしれないのだ。
そういう意味では、本作はかなりチャレンジングかもしれないと思う。まさに今、子供たちの夢の第一位はユーチューバーであり、テレビよりもYouTubeを誰もが見ている時代。でもそうなったのはほんのこの数年であり、本当にこの後、どうなるのかなんて、誰も判らない。
田母神さんの後輩で、ゆりちゃんを人気ユーチューバーに橋渡しした梅川(若葉竜也)が、一番、現代社会におけるリアルに人間臭い、サイテーなヤツで、めちゃくちゃ印象に残る。
田母神さんにはゆりちゃんのことを、ゆりちゃんには田母神さんのことをこきおろし、俺は判ってるから、説教しとくよ、そうだよねー!!みたいな。
面白いのは、そのことによって二人が仲たがいしてるんじゃなく、二人ともコイツのそーゆー本性を判っているということなのだ。てことはさ、二人とも、実際は田母神さんがゆりちゃんのことを、ゆりちゃんが田母神さんのことを、梅川がまことしやかに証言するようなことを言ってないってことを、判ってた、確信してたってことでしょ。
まあ回数を重ねてさすがに……と思ったのかもしれないけど、この事実こそが、ゆりちゃんと田母神さんが……まあ結果的には大嫌いと言い合ったまま別れ、ゆりちゃんは大やけどでベッドの上、田母神さんは逆恨み男子に刺されて血だらけで往来をフラフラ、という、この後どうなるの!!というラストになっても、究極に判りあった二人、という、かすかな希望を感じさせたのかなあと思う。
きっついわ、もう単なる感想文なのに、それだけで息絶え絶え!!だからこそ吉田作品はやめられないんだけど、覚悟がいるんだよな、もう、でも、やめられん!!★★★★★
個人的に、とても重要なテーマが、少なくとも二つある。それも大きな感慨深さを抱かせたゆえんである。
独り者の私は、老いた先の(長生きすると決めている!)身体が動かなくなっての、その死に際について考える。一人きりで命尽きるのは当然のこと、早いうちから福祉とつながり、腐臭を放たないうちに発見してもらうことが最大の目標である。
そしてそれは、本作のように隣三軒両隣が筒抜けのような、昔ながらの貧乏長屋(まさしく!)スタイルだったら、福祉とつながってなければ、と考えることもないのだ。
松ケン演じる山田は、まさにそんな長屋にやってくる。そして彼が幼い頃に両親が離婚して、顔も覚えていない父親の孤独死が、役所から伝えられる。それこそ腐臭で通報され、暑い夏なこともあって、見るも絶えない姿で発見されたと。
それでもその父親が、不幸であったかどうかなんて、誰も判らない。孤独死、という言葉は、死ぬ時には誰かそばにいなければ、一人で死ぬなんて不幸だ、という決めつけがあって、先述のように私は、そのことに反発し続けてきた。
かなり先走り気味に言っちゃうけど、山田の父親は、決して不幸ではなかったと思う。現場に立ち会った役所の担当官が、きちんと片づけられ、ベランダでは植物を育て、風呂上がりの牛乳を飲んだ後があって、丁寧な暮らしをしていたんですね、と言うのだから。
胸がいっぱいだと、ついつい先走ってしまうが、先走りついでにもう一つ。そう、もう一つの私個人にとっての重要なテーマ、特にこの排他的な日本社会への絶望を感じる時に必ず考えてしまうこと。
なにか一つでも、どんな小さな間違いさえも犯してしまえば、この日本という国は許さない、存在さえ亡き者にするぐらいの、その社会性だ。昨今は流行みたいに多様性が叫ばれるけれど、その中に犯罪を犯して収監され、罪を償い出てきた人たちは、含まれない。
いわゆる前科者と呼ばれる人たちは、どんな事情があろうが、刑務所では模範囚だろうが、その中で、あるいは過程で考え方、生き方を見つめなおそうが、この国の社会、世間というものは、決して許しはしないのだ。
最近はそのことに問題提起は成されているし、実際、ここ数年の映画でも、「すばらしき世界」とか、そのテーマを扱う作品も増えてきたように思う。
山田はある罪を犯して、出所後、ある片田舎の塩辛工場に職をあっせんされる。ささやかな貧乏長屋もそこの社長が紹介してくれたものだ。しばらくの間、山田がどんな罪を犯したのか明かされないし、あっせんされた貧乏長屋に暮らす人たちがことごとくワケアリなのも、じわじわと判ってきたり、判らなかったり、といった感じである。
貧乏長屋といえど、トイレも風呂も各戸についているし、なかなかいい物件、と思ったら、隣の島田という男がトントンとドアを叩いてくる。給湯器が壊れているから、貸してくれないかと。強引に押し入って、もうそれ以来当然のように入り込み、一緒にご飯を食べ、ビールを飲んでくつろいでいく。白米も味噌汁もビールも、山田の用意していたものをちょろまかす図々しさである。
事情が事情、一人静かに生活したかったであろう山田のことを思えば、うっわ、私だったらマジ耐えられない、てか、山田だって本当にそうだったろう、困惑していたし、最初の最初は本当に、ドアをバチッと閉めて追い出していた。
でも、クソ暑い休日の昼間、ぐったり昼寝している山田を心配して、「死んでるのかと思った。隣人が熱中症で死ぬとかやだからね」と自家菜園のきゅうりとトマトを放り投げるように置いてった時から、山田は島田を、表面上はうざがりながらも、あの時を境に、心を許したんだと思う。
みずみずしいきゅうりとトマトに無心にかぶりつく山田の姿に、命をつないだ、それは身体だけじゃなく心も、と思った。
「かもめ食堂」の最初から、食の魅力には間違いない荻上作品。本作のそれは、究極のシンプルライフ、炊き立ての白いご飯におみおつけ(この場合は味噌汁と言わず、おみおつけと言いたくなる)、社長から頂くイカの塩辛。もうそれだけで充分!
山田の風呂上りからの食事に島田が強引に割って入る最初のシーン、山田が風呂上りに牛乳を飲んでいるのを、子供みたいだね、と島田は笑った。でもその後は、二人はこのささやかな夕餉に発泡酒のレギュラー缶をかわし、ご飯おかわりしないって言ったじゃないですか!なんて山田が島田に怒ったりしてさ。
島田を演じるのはムロツヨシ氏。彼と松ケンというのも新鮮なカップリング。ムロ氏の、ユーモラスだけど、だからこそその中に、っていうのが絶妙に……。
彼は自分の事情をそんなに語らないし、ただ、不器用で、人に騙されてきて、今だって何か仕事についている様子もなく、野菜を育てて取りあえず自給自足(米と味噌汁は山田から調達)という彼の、いかにもな不器用な生き方が、その哀しみが、ちょいちょい、どころか、常に透けて見えちゃう。
島田が、実は自分には息子がいて、とうっかり言いかけたり、豪雨と雷に子供のように怯えたり、幼なじみだという僧侶がそんな島田をぶっきらぼうながらもいい距離感で見守っていたり、ひょっとしたらとんでもなく壮絶な人生を送ってきたんだろうことを、思わせる。
島田が、山田に、ただ単に隣に越してきたというだけじゃなく、直感的に、捨て猫が拾い主になつくように、入り込んできたのは、本当にそういう本能だったのかもと思う。
後に山田の罪を、人を騙してお金をとったんだという告白を聞いて、島田は一時離れてしまうのだけれど、それを、その理由を正直に、ゴメンね、と子供のように謝って、風呂に入っている山田に一生懸命に告白するのが泣かせる。
この時点に至るまでには、本当にいろいろあって、山田も島田の気持ちが判ってて、わざと黙り込んで、島田にビックリを仕掛けて、風呂の中で笑ってるんである。このシーン、凄く好き。本当にほろりとくる。
ビックリ、というのは、山田の父の遺骨が、高級いかの塩辛の陶器のつぼに入れ替えられていることであった。孤独死した父親の遺骨を引き取りに行けと、島田が山田に厳命したのだった。ダメだよ、山ちゃん、と。島田がそんな道徳的なことを言うだけのどんなバックボーンがあったかなんてことは言われないんだけれど、なんだか妙に説得力があったのだ。
そして山田は役所に赴く。会議室のような雑然としたところに、同じように連絡をしても引き取りに来ない、あるいは身元さえも判らない無数の遺骨が保管されている。この時、島田の後押しがことさらに重い意味を持って胸に響く。遺骨を引き取る、ただそれだけのことが、こんなにも……。なんと言ったらいいか……。
そうだ、島田がね、山田の罪を知って怖くなって一時期遠ざけてしまった、そのことを謝ったシーンで、言っていたこと、その言葉が凄く胸に迫ったのだ。彼は、山田と隣人として知り合えたことが嬉しかったと。
そして、「自分が死んだ時、一人でも寂しいと思ってくれる人がいればいいと思ってるんだ」そして、「山ちゃんは僕が死んだら、寂しいと思ってくれる?」
……ああ、ああ!!私はこの気持ちを忘れていた。いや、忘れていたフリをしていた。本当は、本当は、腐っても時間が経たないうちに見つけてもらう、世間様に迷惑をかけないで死ぬ、そのことよりも、それは二番目で、やっぱりやっぱり、これが本音だったのかもしれないと、思わされた。誰か一人でもいいから、私が死んだら寂しいと思ってもらいたい。それが本音だったのかもしれない、って。
だから、だから、島田は山田に、顔も覚えてないかもしれない、憎んでいるであろう父親の遺骨を引き取りに行けと、きっとだからこそ、そう言ったのだろうと思う。
うっわ、松ケンとムロ氏の共鳴、チャーミングなエピソードが良すぎて、たっくさん素晴らしいキャラとシークエンスがあるのに、全然言い足りない!!
えっとまず、山田をこの職場に受け入れてくれた塩辛工場の社長さん。演じるは緒方直人。罪を犯しても、真面目にやれば更生できる!と、わっかりやすくヤボに声をかけるのが、昭和だなー、逆効果でヤバい結果にならなきゃいいけど……とヒヤヒヤしちゃう。
でもそこを絶妙に緩和するのが、何をするでもない、相談に乗る訳でもなく、ただ、仕事に対して、焦らず丁寧に、とだけ声をかける、先輩女子社員、演じる江口のりこ氏である。
作業中のみだから最後までマスク姿で、いやそれでも当然彼女だって判るけど、でも本当、最初から最後まで、山田の隣で作業して、目線と少ないアドヴァイスだけなんだけど、判るのだ。社長が、彼女には全部話しているから。信頼しているから。というのがさ……。
いろんな形がある。その人を理解し、支え、耳を傾けるには、いろんな形がある。職場においてもこれだけ対照的だし、そして貧乏長屋、ハイツムコリッタには、島田のみならず様々に個性的な居住者がいる。
満島ひかり氏演じる大家さんは若くして癌で亡くなった旦那さんを今も思い続けながら一人娘を育てている。山田が父親の遺骨を、不法投棄にならない方法として粉々に砕いているところに遭遇し、お葬式を出しましょう、と提案する。
その一方で彼女はこっそり隠し持っている、夫の遺骨の一部(きちんと樹木葬にして供養している)を、……あれはご自愛、でしょうね……カリカリと口にしながら……なんである。
そして吉岡秀隆演じる売れない墓石販売の男とその幼い息子、その息子と大家さんの娘が川っぺりの不法投棄置き場で宇宙人と交信する不思議な場面。そこから山田は扇風機をゲットして、暑い夏をなんとかやり過ごすのだが、ここに捨てられているのはほとんどがアナログな電話機。
大家さんの娘は宇宙人と交信するんだと言っていたけれど、墓石販売の男の息子は、そうだったんだろうか。
ここも父子家庭、見るからに。丘の上の富豪の奥さん(トイプードルを抱いた田中美佐子氏。ぴったり。)が、「犬用のお墓を200万で」買ったという話を、彼らがそのお祝いにとこっそり営んでいたすき焼きパーティーに、その匂いを嗅ぎつけて島田が、そして山田、しまいには「半年も家賃滞納して、すき焼きですか。」と乗り込んできた大家さんが押し掛ける。娘にお椀と生卵を家から持ってくるように命令してまで。
この一連の押しかけに、目を白黒させながら何も言えない吉岡秀隆氏が可笑しすぎる。でもなんか、最終的にはなんか、いい感じの和やかなすき焼き飲み会になってるのがいいんだよなあ。
そう……山田が“会った”、島田言うところの、「二年前に死んでるんだよ。もう今夜眠れないよ」という、先住の隣人の話で盛り上がる。島田はひたすら怖がってるけれど、長年住み続けている墓石販売の男も大家さんも、思い出話に花を咲かせ、会いたいねー、今度は私のところにも来てって言ってよ、なんてさ。
この貧乏長屋がなんだか非現実的というか、のどかにヤギとか飼ってて、メェーとか鳴いてるこの子を散歩に連れ出したりして、こののどかさと、各人が抱えている辛さの過去の時間軸の、平行線でもなく、交わることもなく、っていうのがいいんだよなあ。
最後のキャストクレジットを見て、誰もが、えっ?どこに薬師丸ひろ子氏出てた??と思って……数分考えただけで、すぐに判っちゃうぐらいの、あの声のインパクト。ぴろこの声の存在感。
山田の父親の携帯に残された履歴の番号は、いのちの電話だった。そのことに山田はショックを受けた。父親が孤独死だったのが、より決定的にされたと。自殺だったんじゃないかと。
最初の最初に私はこらえきれずに言ってしまったように、私は、私はそうじゃなかったと思うから。孤独死という言葉が独り歩きすること、死のあり方、人生のしまい方、誰かに看取られるとか、迷惑をかけないとか、もう言いたいことが多すぎて、こーゆー作品に接するとマジ大変なんだけど。
でもね、もう、やめとく。山田の父親のお葬式をしよう、大家さんがそう言ってくれてのラスト、凄く凄く良かった。野辺送り。この表現がピタリとくる、葬列、というのもなかなか今ないもの。
それを、ピアニカ、縦笛、バケツを叩いたりして、素朴な楽隊でそぞろ歩く。これ、自分の葬列でしてほしいと思っちゃった。エンディングノートかなんかで、そんな業者に頼んで、と託したくなっちゃった。
私と同世代だから、なんだかもうすっかり、白髪や枯れっぷりを見につけちゃってる緒方直人氏や吉岡秀隆氏に感慨を覚えずにはいられない。でも、だからこそ、私も彼らのように、あるいは彼らが演じる役柄のように、下の世代に、助けになるように伝えたい。なんて、思ってしまった。★★★★★
地方都市、ことに古き良き温泉街が陥りがちな、シャッター商店街、若者の流出、というある意味ベタな、ずっと語られている問題提起。今こそ自然豊かなこの地の良さを発信しようとする姿勢、図らずもコロナ禍によって都会信仰が急激に薄れ、地方移住者が増加したというニュースも聞くし、まさに今打って出るべきテーマ性。
あるいはそういったものを真面目に並べすぎてて、ザ・ご当地映画って感じはちょこっとしたけれど、誠実な映画に好感度は高い。
主人公の賢司を演じる松本氏や元カノ、碧海役の小柴嬢、賢司に想いを寄せる旅館の若女将、日菜実役の大原嬢等々、私にとってお初な若い役者さんばかり。あ、大原嬢は伊集院さんのラジオでレポーターやってた?言われてみれば、覚えがある!声だけしか知らなかった!!
ほかにも、SUP(スタンドアップパドル)のアウトドアガイド会社を経営している夫婦、つまり中堅どころな役者さんお二人もお初であった。私、全然知らんなあ。
この地に移住してくるイラストレーター、音葉という妙齢の女性、誰だっけ誰だっけ、と見ている間中悶絶していたが、そうか、前田亜季氏か!
いかにも運命的っぽく賢司と出会うが、年が離れているということはまああるにしても、最初から、そういうことではないな、彼女はこの地に、あるいは賢司に、さざ波をたてる存在として来たんだと思わせる。
まぁ最終的に、音葉と、賢司の元カノの碧海、賢司に片思いしている日菜実とが三つ巴状態で、アイデンティティに悩みまくる賢司をそれぞれの考えと立場で叱咤激励する形になるんだよね。
碧海と日菜実が共に賢司にホレていることを考えると、音葉もまたそのケがなくもないのかなとも思わせるが、どうなんだろう……。賢司に対する三人の女たちの、ハッキリと違うスタンスこそが大事だったんであって、色恋感情は関係ない、とまではいわないけど、ここでは重要視してなかったんじゃないかなあと思わせる。
賢司は今の時点で、誰にも恋愛感情を抱いていないし、そんな余裕がないというか、あるいは鈍感というか、まあやっぱり、余裕がないんだな、それどころじゃない。恋愛をするには、自分自身に余裕がなければ出来ないと思う。
今、賢司は母親を亡くしたばかり。母子家庭だったこともあって周囲は心配し、まだ若いんだから、この地にとどまらなくてもいいんだとか言ったりして。実際、元カノは東京に出ていったし、逆に、東京に出て行ったものの、親に泣きつかれたという言い訳で戻ってきた友人もいる。でもその友人も結局は逆で、都会になじめず戻ってきたんである。
そういう風に……いいにつけ悪いにつけ地方から都会に出て行くスタンスは、地方都市には絶対にある、エピソードは無限にある。
だから、賢司にそれがないのが、出て行かなかったし、出て行く気もなかったし、それを、我慢しなくていいんだよ、と言われることに賢司が戸惑う、っていうのは、凄く判るというか……。
私はさ、親の転勤でいやおうなしに転々として、つまり、故郷というものがなくて、幼なじみとか、地元とか、っていうのがなくて、すっごく、憧れた。まぁ大人になってみれば、そういうものがわずらわしかったりもするのかなと見えてくる部分もあるし、それがまさに、本作の中の元カノ、碧海に託されているようにも思ったし。
そして最初に登場するのが移住者である音葉、つまり本作のテーマ性を決定する登場の仕方、いわばヨソモンである彼女から物語が展開する、ってのが重要なんだよね。
世界中を旅してまわった、という彼女の存在は、この地から出たことがなかった賢司を大いに驚かせるし、さらに彼女が旅先で出会った風見なる男性、青木崇高氏が扮するからもう見るからに自由奔放、コスモポリタンてな人物が登場すると、賢司のみならず、地元愛にいわば縛られている日菜実や、地元を否定して都会に出た碧海や、都会に負けたことを隠したがる陵介やらの感情を軒並み揺さぶるんである。
そう、もう、あらゆる選択肢、というかあらゆる人生のありかた、誰もが途中経過だし、どれが正解ってんじゃない。それこそひと昔前ならば、音葉や風見のように、海外一人旅で自身を磨いていく人たちはただただヒーローのようにあがめられただろう。
賢司がこの地にとどまり続けていることに、変わらなきゃいけないんだろうか、と思い悩むのが判る。その単純図式が確かに、ひと昔、ふた昔前にはあったからだ。それは、地方:都会、都会:海外、みたいなおっそろしく単純かつ愚かな図式。
それは本当に、最近まで、近々まであった。コロナは忌むべき感染症だったけれど、それがSNSやらオンラインを、それまではどこか否定的に語られていたそれを一気に肯定させた。
賢司の悩みは、結局は完全に解消される訳じゃない。幼い賢司を助けておぼれ死んだと聞かされていた父親が現れ、その展開は若干、スラップスティック的ながちゃがちゃ感があってしばらくは落ち着かないものの、この父親にしても、同じなんだよね。
かつての、これまでの、価値観とは違う、生まれ育ったこの地にとどまるのか、出て行くのか、とどまるにしても、出て行くにしても、その理由、経過、すべてが違う。
確かにこの父親のその理由も経過も、かなりぶっ飛んでいて、薄々判っていたにしても、賢司が即座に受け入れられないのは当然だ。だって彼が、一番動かなかったんだもの。
それもまた、一つの選択肢なのは、こうしてそれぞれのキャラクターの、それぞれの人生を照らしてみれば判ることなんだけれど、死んでしまったと思っていた父親、それは周囲の人間もそう思っていたのが突然現れるんだから、動揺するに決まってる。
かつての妻の死を、親しくしていて連絡を取っていた地元友人から知らされ、地球の裏側からやってきた賢司の父親。後半のシークエンスは、特に後半のクライマックスは、父親とのぶつかり合いである。
でも賢司はそもそも穏やかな性格、彼にずっと片思いしている日菜実ちゃんから言わせれば、なんで怒らないのよ!!とゆーところで。実際、女どもからやいやいせっつかれなければ、賢司は突然やってきた父親と、対峙できなかったかもしれない。
生きているってことは、なんとなく察してた。事故で死んだと言い聞かされていたとしたらその理由は何なのかとは思っていた。そんな中で母親が死に、父親が突然訪れて……。
こん展開はあまりにドラマティックすぎて、音尾さんだから顔面強烈だし(爆)、まぁなかなかキツいものがある。
てゆーか、正直、賢司がね、まぁ判るよ、そんなやいやい、これからどう生きるんじゃいとか言われても困るわ、これまで通りテキトーに生きていくわ、って、私だって言うと思う。
でもそれにしても、何だろうな……テキトーに生きていくわ、というだけの気概もないのだ。彼以外の、特に女性キャラがしっかり粒立っているから、賢司、おーい!!と思ってしまうが、焦るな焦るな。そーゆー子なんだから、長い目で見てあげなければ!
まじでそーゆー子なんすよ。後半のシークエンスでたっぷり、たっぷりたっぷり、アウトドア映画、ヒーリング映画をエグイぐらいに押し出してくる、見てるだけで疲れる(爆)。
賢司にとってのホームグラウンド、母なる川、箒川。サップのガイドをしている川の、源流を見てみたいと、思った。その意識に至るまで、父親とのぶつかり合いがあった。いい意味で、判り合えなかった、ということでいいと思う。親子であっても他人だし、他人だからと割り切れれば友好関係を築けたかもしれないけど、そんな簡単なものじゃないのだ。
最終シークエンスは、なんとかかんとかすべてを飲みこんだ賢司が、彼を心配してくれた女子三人と共に、賢司が考え抜いて到達した場所、行きたい場所、そこから始まる場所に赴く。
この展開はまさしく地元映画、ヒーリング映画、一歩間違えれば宗教映画になりそうなところかも。箒川の源流にたどり着き、特に重要な語り合いをするでもなく、ただただ、そう、ただただ、山深い、木々深い、落ち葉を踏みしめ、軽くクライミングよろしく川場、岩場を通って、ゆっくりゆっくり、たどり着く源流。
賢司が結局、彼の中での正解を得ず、いわば先送りにして、見守る三人の女性たちにうんうん、イイよイイよ、と言わせちゃうラストなのが、これは実際スゴいことなんじゃないか、って。大体がさ、結論を求めるじゃない。それ前提じゃない。でも違うんだよなあ。
賢司がさ、この先どうするのか、特に後半のシークエンスでは、彼自身の葛藤も感じられたからドキドキだったけど、コイツ、結局っつーか、つまりは、っつーか、ズルいズルい!結局女に全部決めさせてるっつーの。
あ、それって、そもそものメインテーマ、死にゆくお母さんに、自由に生きなさいと言われて、それが自分じゃままならないもんだから、女たちに託したってことじゃないの。はーい、正解!!
地方再生、そのディスカッションなどはまだまだ、前時代的なベタ差が感じられる。それこそせっかくのコロナ禍を抜けて、まさに音葉が言うようにネットさえあればどこででも働ける状況で、地方都市がどう魅力を提示できるかという発展的展開まではなかなか感じられなかったのがちょっと残念だったが、それこそそれは、これからのお話、なのだろうけれど。★★☆☆☆
それを思えば、その現代への橋渡し的な感じで、更に若造っぷりを発揮する里見浩太朗氏である。クレジットを見た時この三並びに仰天した。
里見浩太朗!!映画で彼を観るのは私、お初かもしれない(いや、いつものように覚えていないだけかも……)。テレビドラマのイメージが強いし、すっかりベテランになってからの彼しか知らないような気がする。
めっちゃ若造!!なんつーか、面影ない!いや、確かにそのお顔立ちは里見浩太朗サマそのものなのだが……なんつーか、青い!
“売り出し中”の、まぁつまり虎の威を借りる狐的なチンピラさ。てろってろの派手で無粋な着流しで、他の賭場の親分さん相手にキャンキャン吠えてるだけなのに、自分が優位に立っていると思っている浅はかさ。こんな里見浩太朗、 見たことない!
その、他の賭場の親分さん、千場正五郎親分を演じる辰巳柳太郎が素敵すぎる。これぞ人望のあるザ・親分さんであるのが、もう一目でわかっちゃう。
つーか、敵対する大宝寺仙蔵親分に扮する富田仲次郎(初めて聞いた名前かも……だから相変わらず、忘れてるだけかもしれんが)のわっかりやすい悪人ヅラとベタに対照的すぎるんだけど!出っ歯だし!!
この仙蔵っつー、親分と呼びたくない男がつまり、まーこーゆー任侠映画ではお約束で現れる、義侠心よりも虚栄心をあらわにするクソ男。
それが経済成長をしていく時代に合致して、政治家と結託しちゃう、その流れが続いていくと、土建屋となり、暴力団となり、という仁義なき戦い的な昭和ヤクザに突入していく訳で。
その始まりっつーか、古き良き任侠精神が失われる、その切なさを本作は描いていると思う。しかも、映画黄金期からテレビにとって代わることを予感させる、テレビ時代のスター、里見浩太朗氏が、こんな銀幕&歌謡スターに囲まれてのクソ生意気なワカゾーとして現れるなんてさ!!
村田先生扮する御所車宗四郎はムショ帰り。愛する女(色っぽい芸者さん)を待たせまくってようやくの再会だったのに、あっという間にまたしても義侠心で罪をかぶって、よよと泣きすがる女を振り切って出ていくとゆーラストである。
通常のフェミニズム野郎である私だったらばっきゃろ―!!というところだが、ことこの当時の黄金期任侠映画には腐女子スタンスですっかり甘甘である。
途中全部すっ飛ばして言っちゃうと、もーこのラストがさいこーなんすよ。あんなにバカみたいにいきがっていた青臭男の源太郎=里見浩太朗が、御所車=村田先生を、あ、アニキ!と呼び、嬉しいぜ、俺たち義兄弟だな、と返し、ああ腐女子はもうどっかーん!!
彼らの恋人たちはすっかり置いてきぼりなのにどーでもいいと思っちゃう私はおかしいだろ。普段のフェミニズム野郎ならありえないわ。
てか、話が判らなすぎだろ(爆)。えーとね、最初はお祭りのところからだった。喧噪の中、幼い男の子が車に轢かれた。後からの会話でも、そもそもこの当時の自動車がいかに貴重なものだったか=裕福な、幅を利かせているヤクザの仙蔵親分であり、明らかに自動車側に非があったのに、警察さえも相手にしない。
この時、けがをした男の子に真っ先に駆けつけていたのが正五郎親分であった。今は落ち目と源太郎からは揶揄されているのは、後々明らかにされる、実は正五郎親分と源太郎は親子だったという複雑な確執ゆえだとは思うんだけど、源太郎がその事実を知っていたかどうかが微妙で、知ってたとは思うんだけど、観客側にはいきなり提示される感じだったしなあ。
村田先生演じる御所車はたまたま仙蔵の客分だった時に抗争があり、一宿一飯の義理だけで正五郎方を襲い、彼の右腕的子分を殺してしまい、正五郎親分にも後遺症が残るほどの重傷を負わせた。
しかし裁判の席で、正五郎親分は彼に殺意などあろう筈がなかったとかばった。実際は、殺すつもりで、つまり一宿一飯の恩義というものを過剰に評価して斬り込んでいった御所車は、ひどく感じ入った。刑期を終え、正五郎親分の元にこうべをたれた。あなたのところにわらじを脱げばよかったと。
正五郎親分の元にいて、兄貴分を御所車に殺され、失意のまま兵隊生活を標榜していたのが、サブちゃん=喜三郎である。舞台となる時代の、戦争、志願しての兵隊生活が、ほんの一瞬だけれどモノクロームで示され、しかも登場してしばらくは喜三郎は兵隊さんのカッコしてたりするから、妙に生々しい。
なんたってサブちゃんだから、戦地で歌う。でもモノクロでたった一人で、誰も聞いてなくて、むなしい中の叫びだ。
モノクロームはもう一場面あって、それは先述の、御所車が正五郎親分方を襲った場面と、その後の裁判の場面。つまり、すっかり過去の、清算すべき、ここを乗り越えて進んでいくんだという意思表示だったと思うと、やっぱ戦争があったからなと思うとグッとくるものがある。
そして、そうそうもう!!梶芽衣子!!ヒロインー!!メッチャキレイ、めっちゃ可愛い!!幼い弟が車で轢かれて、骨折させられたのに車の賠償請求されて、そしてなぜかその賠償請求してきた三下の源太郎と恋に落ちるという、なんじゃそりゃ(爆)。
本作は、っつーか、この当時の仁侠映画はそーゆーのマジ多いけど、なんでそうなるの、いやいやこの相手は好きにならんでしょ、年恰好と美男美女はピッタリだけどさあ!!みたいな……。
源太郎は確かにさ、ただいきがってて、梶芽衣子演じる佳代子の元に車の賠償請求に行って、その時に一目ぼれということだったのかなあ。まあそれはいいよ。
でも問題は佳代子側である。彼女にとっては源太郎はただただにっくき相手に他ならない。それ以外にブレようもない筈。だって、賠償金をねん出するために芸者になり、仙蔵親分の欲得ずくでスケベジジイの政治家に手込めになりそうになり、それを助けてくれたのだって御所車だった訳で、いっこも源太郎にホレる要素はないのに、好きだとか言われるとなんか急にほだされちゃうのはなんなの……。
まあそりゃ、仙蔵親分の浅はかなやり口の下で動かされていた源太郎の哀しさはあったにしたって、そんな事情を彼女がくむ訳もないんだからさあ。
この二人ほどではないにしても、御所車と喜三郎の和解もなかなかである。喜三郎にとって御所車は、兄貴を殺され、親分に重傷を負わせた仇。
兄貴の墓参りに来ていた彼と鉢合わせ、すわ!となるものの、なぜかそこに馬が登場(なんでや!)喜三郎が馬に乗って御所車をバンバン攻撃(逆にやりにくそう)、御所車がその馬に飛び乗り、二人乗りして疾走(なにこれ!!)崖に至って、二人ごろごろごろ!!(馬はどーした!!!)アハハハ!と笑い合い、とりあえずの休戦となるのだが、もうここで和解したも同然である。
よくよく後から考えれば、喜三郎のキャラというか、存在どころはちょっと微妙というか……。
村田先生と共に歌謡ポップスターとして登場し、設定的にはかなりいいところにいたのが、敵方との攻防により殺人を犯しちゃってさっさと退陣、コレ(小指=恋人)もいた筈なのにその存在さえスルーされ、結果的には村田先生と里見青年の萌え萌え任侠教育ってことだったのかしらんと。
正五郎親分が死んでしまうのが、やっぱりクライマックスかなあ。公共工事の裏取引のために佳代子をスケベ政治家に差し出したのを御所車が救い出して……ていういざこざあたりからヤバくなりはじめた。
正五郎親分が御所車が駆けつけるまでなかなか死なず、駆けつけてもなかなか死なず、告白を終えておやぶーん!と呼びかけてこら死んだか、と思ったところでまた一度目が明くとか、これは、ギャグなのかと思ったりしちゃったところが可笑しかったが。
そして、お決まりの討ち入りとなる訳だが、先述した通り、この時御所車、源太郎それぞれの恋人がいる訳でさ、ことに御所車に関しては、つい最近ようやく出所、長いこと待たせた恋人によよと泣きつかれ、もうどこにも行かないでと言われた矢先で、義侠の心でまたしても、である。若く、そして正五郎親分の後を継ぐべき源太郎の身代わりとなって、である。
源太郎には当然、美しき梶芽衣子=佳代子がすがりつく。無論、無論ね、御所車がこの場のすべてをかぶっていくんだからさ、もうここで、いいじゃない。すまねぇ、兄貴、でいいじゃない。
別にさ、源太郎が一緒に自首するって訳じゃないのに、追いすがる佳代子を振り切って、兄貴と共に、やたらドラマティックな引きのアングルで、先ほどアニキ!!兄弟!!と言い合った萌え萌え二人が道行くって、エロすぎるだろ!!そして女は置いてきぼり!!ギャー!!萌えるからいいけど!!
まぁ色々私もおかしいんだけど(爆)、ぴっかぴか美しき男気村田英雄先生に、やっぱりヤラれたかもしんない。★★★☆☆