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「さ」


2022年鑑賞作品

再会の奈良
2020年 99分 中国=日本 カラー
監督:ポン・フェイ 脚本:ポン・フェイ
撮影: リャオ・ペンロン 音楽:鈴木慶一
出演:國村隼 ウー・イエンシュー イン・ズー 秋山真太郎 永瀬正敏


2022/2/19/土 劇場(シネスイッチ銀座)
いわゆる現代映画というものは、常に本当に今の現代を描かなければいけないように思い込んでいた。本作の舞台は今から20年近く前。それこそふた昔前だなんて、現代映画とは言えないのかもしれない。
それでも2000年を超えている。この感覚は、大人になればなるほど不思議に感じる。20代30代の人たちにとってはきっと、これは昔の物語なのかもしれない。でも時代劇とも違う。日中国交正常化というのがつい最近だったように思えるが、そこからもだいぶ日にちが経っていた2005年はでもまだ、こんな状態であったのだ。

中国残留孤児という言葉をまるでハヤリ物のように聞いたのは、小学生の頃だったと記憶している。あの頃は本当にその意味を知らなかった。ニュースで説明はしていたと思うけれど、ただただ涙涙の再会が報じられるばかりで、それを報じる側や大人たちが、なぁんとなくその事実の明確なところを、伝えづらそうにしていたような気が今となってはしている。
それは当時はほとんど語られることのなかった、中国に対する日本軍の無体な仕打ちであり、敗戦によっておめおめと(中国の人たちにすればそういう表現になるだろう)逃げ去った日本人たちの、その子供が置き去りにされたという事実。

もちろんどうしようもない状態だったというのはそうなんだけれど、彼らの心のどこかに、キチク日本人に対する侮蔑がなかった筈はない。
彼女のためを思って彼女のルーツである日本への帰国を後押ししたに違いない。それは当時は日本の方が豊かで暮らしが良いというのもあっただろうと思う。そしてそれは、財産目当てだのと言われて縁戚鑑定にも苦労する彼らを苦しめることになるのだが……。

という事実も、恥ずかしながら初めて知った。それこそ小学生の頃にニュースで見た残留孤児の彼らのその後を、知ることも、知ろうともしなかった。
優しき中国人家族に保護され、中国人として育てられた彼らは当然、日本語は話せない。なのに、日本人だろと村八分にされる。それもあって養父母は彼ら彼女らを日本に帰らせたのだろうに、日本でも中国人だろと村八分である。

一体自分は何者なのか。何人なのか。どこにも居場所がないのか……。今だったら。その頃から20年近く経った今だったら。ネット社会、多様性、本当に大きく変わった。
一方で共有する価値観や信頼の度合いの低下は明らかに感じるところとなったし、どちらがいいのかと時に思うけれど、どこの国の、性別はどちらで、心身健やかか否かだけで判断されていた、貧しいあの頃が、たった20年前でさえそうであったことを、ああ確かに思い返せばそうだったと思い、麗華がたどったであろう辛い道筋を思うんである。

陳おばあちゃんは、日本に住む孫娘のようなシャオザーを頼って、娘の居所を探しにやってくる。シャオザーは、後に中国と日本のハーフと知れるが、バイトしている居酒屋で、國村隼氏演じる吉澤から訛りから判じてどこの国の人?と問われると厳然と、日本人ですけど、とパーン!と返すんである。
後から知るところによると、彼女の片方の親が残留孤児。そのルーツで彼女もまた日本にいる訳だが、両親は中国に帰っているという。なぜ彼女は日本にとどまったのか。想像に難くないし、劇中でも彼女はかんっぜんに中国人、てゆーかガイコクジン扱い、異邦人扱いと言ったらいいか。

これは日本に限らず恐らくそれこそ中国でも、こうした閉鎖的家父長的アジア地域に当たり前のようにあることなのだろうけれど、この国の言葉を、アクセントさえ完璧に話せなければ、もうよそ者、信頼できない、だから中国人は、てな断じられ方をするのだ。
彼女の方ももう半ば諦めて、仕事を早退する理由をきちんと説明する気も失っている感じがする。本当に急用なのに、大事な用事なのに、言ったって通じないだろというあきらめがありありで、その事態に至るまで彼女がどれだけの経験をさせられたのかと想像すると、もう何も言えなくなる。

そんなシャオザー、いや彼女は日本人、なのだから、初美に娘の面影を見るのが、そのお姿を見るだけで胸がキューンと来ちゃう國村氏、なんである。
奥さんを亡くし、一人娘は東京へ嫁ぎ、だだっ広い一軒家に一人暮らし。彼曰く、こもっているのが我慢ならず、外にフラフラ遊びに出かけている、という。初美のバイトする居酒屋で酔っぱらって眠りこけてしまったのが出会い。

元警察官であるという吉澤は、初美と陳おばあちゃんの事情を知って、麗華の捜索に名乗りを上げる。でもなぜか、吉澤は最初、ウソをついてその渡りをつけた。麗華さんと会ったことがあるかもしれない、と言った。
なぜそんなウソをついたのか。初美に一人娘の面影を見たにしても。彼ぐらいの年頃の大人たちは、この社会的事実に対して贖罪の気持ちがあったんだろうか。

中国残留孤児が発生してしまった経過については、やけに可愛らしくコミカルなアニメーションで示される。
まあ確かにこの経過を実際の映像だのを使ってシリアスに描いてしまったら、戦争映画的それになってしまって、本作の本質を取り逃がしてしまうかもしれない。でもなんだか……日本の責任を、見逃してしまっているような居心地の悪さも感じる。

陳おばあちゃんが言葉も判らない日本、奈良の片田舎で過ごすひとときの生活もまた、どこかユーモラスに描かれ、初美と共に足湯をしながら顔パックしたり、肉屋さんで鳴き声で肉の種類を確かめたり、具合が悪いフリをして救急隊員を騙したり、ふと笑っちゃう場面が数多く用意されている。
あたたかな気持ちにはなるけれど、陳おばあちゃんは結果的には、娘の麗華が、この閉鎖的差別的日本で、ルーツを拒否されて、立ち往生して、哀しき結末に至ったことを知らずに終わるのだ。はたして陳おばあちゃんはそもそも、日本に対してどんな感情を持っていたのか。娘の麗華が日本人であることをどう思っていたのか。

そんなことを考えてしまうのは、陳おばあちゃんが麗華の日本名を知らなかったことが、この捜索をひどく困難にしているという事実なんである。知らなかった、というより、知ろうとしていなかったんじゃないか。
陳おばあちゃんにとって麗華はあくまで麗華、日本人であることは判ってはいたけれど、彼女にとってはただただ娘、そして、だとしたら当然、中国人、なのだ。日本名を把握してしまったら最後、娘は日本人になってしまう、私の娘じゃなくなってしまうって思っていたんじゃないのか。

でもなんか、矛盾バリバリである。それでも娘を彼女の祖国である日本に帰す。なのに彼女の日本名を知らない。きっと、知ろうとしなかった。
この矛盾、葛藤をたまらなく想像してしまう。その結果、陳おばあちゃんは娘を見失った。連絡が途絶え、日本名が判らないことで捜索も困難になる。

奈良の中国人ネットワークをたどって、様々に情報を探す一方、吉澤の警察ネットワークも使って、かつて住んでいたアパートの大家さんなどをたどる。
どこでも得られるのは、縁戚から拒否され、日本語がままならないこともあって仕事も上手く行かず、理不尽な誤解をされて行方知れずになるという、ああ、今の、現代の日本ですら、きっと大して変わらない!!と思われる、排他的社会の現状、なのだ……。

麗華を探して、めっちゃ山奥までたどっていく。麗華が仲良くしていたという聴覚障害を持つ青年が永瀬正敏氏。色々尽力してくれるけれども、結局ここで情報は途絶える。
衛星放送で中国のテレビ番組を受信しているという家族との邂逅が、何とも印象的である。孫娘は全く中国語を解さない。名前を教えることさえ拒否する。そんな孫娘に頓着することなく、祖国をたたえる歌を歌い、踊る老夫婦である。屈託がないのが、複雑な想いを忍ばせる。

結局、吉澤のつたっていた警察のルートから、麗華が孤独死していたことが判る。判るけれども……。
この時点で初美はとてもとても、陳おばあちゃんにこの事実を告げることが出来ず、数日そのままにしちゃってる間に、在日中国人をとりまとめている人から連絡が入る。条件も経過もピッタリ同じ。きっと麗華さんだよ、と声を弾ませる彼に、初美は平坦な声で、ありがとうございます、と返し、吉澤さん、陳おばあちゃんと共に向かうのだけれど……。

結局、なんだか判らないんだよ。一体麗華は本当に死んでしまったのか。もう一つの情報の真偽も、そもそも麗華の日本名は判らないままだし。
麗華は、日本人であることを拒否されたまま、消えた。祖国である筈の日本からもそうだし、辛いのは、愛する母親である陳おばあちゃんが、娘の日本名を知らないってことが、彼女にとってはそれが中国人としての愛情だったのかもしれないけれども、あまりにも切なく、辛い。そのまま何者でもないまま、麗華さんはどこかをさまよっているのだもの。

でもそれこそ、そう……。20年近く経った今の世界では、ルーツがどことか、祖国がどことか、宗教、性自認、自分をカテゴライズする要素は自分が決める、そうでなきゃこの大地に立っていられないという時代になったのだ。だからこそ今、20年前の、ガラケーで、SNSもなかった時代をなるほど眺め渡せるのか、と思う。

初美が説明する気ももはやなく、陳おばあちゃんのために仕事を早退して奔走するのが、日本人ならばこんな事情は理解してもらえないからと、仕事の方を優先しちゃうんだろうなあと思い至ると、うっわ、日本人て、薄情、だから、この日本で、職場で認められようとか信頼されようとかいうことより、家族を大事にする彼らの価値観こそが正しいと思っちゃう。
この感覚は、それこそ映画や、いろんなメディアや媒体で折々感じることで、一体ワレラ日本人は、何のために、何を大切にして生きているのだろうと思っちゃう。

そのあたりのことを、大人となった今では、凄く凄く、もやもやと考える。もちろん本作における、養女の麗華を心配する陳おばあちゃんは本当の子供と同じく、彼女を愛したに違いない。★★★☆☆


さがす
2021年 123分 日本 カラー
監督:片山慎三 脚本:片山慎三 小寺和久 高田亮
撮影: 池田直矢 音楽:高位妃楊子
出演: 佐藤二朗 伊東蒼 清水尋也 森田望智 石井正太朗 松岡依都美 成嶋瞳子 品川徹

2022/1/27/木 劇場(テアトル新宿)
ああやっぱり、「空白」のあの子だったのか。これはヤバい。かの作品では無残に轢き殺されるばかりでまともな台詞さえなかったのに、彼女が本当は何者だったのか、を劇中に充満させる存在感だった。
そのお父ちゃんが古田新太氏で、今回の彼女のお父ちゃんは佐藤二朗氏。なんつーか……奇妙な同じ方向のベクトル。基本のイメージはガタイのいい愉快な喜劇役者、なのに時々、本当に時々、おっそろしい人物となって立ち現れて私たちを震え上がらせる。

佐藤二朗氏に関しては本当に喜劇のイメージしかなかったのが、自身の監督作「「はるヲうるひと」で仰天した。私が観てないだけで様々に演じてきたんだろうけれど、なんかもうそれ以来、彼の中に憎しみと悲哀ばかりをかぎつけるようになってしまって困っている。
そして本作は、まさにそういう男、そういうお父ちゃんだ。「はるヲうるひと」ではザ・悪役で情状酌量の余地もないという感じがあったが(いやそんなことはないのだが、山田孝之氏の演じた人物に比するとさ)、本作の彼は、もうなんというか……。

「岬の兄妹」で突然現れた天才監督、あの震撼の記憶も新しいが、それから3年も経っているのか、しかもこれが、これこそが商業デビュー作であるという。才能ある人でも、その次の一歩はそんなにも難しいものなのか。
「岬の兄妹」が、頭からお尻まで、ぎっちぎちにこの兄妹の行き場のない息苦しさを全速力で描き切ったのと対照的と言いたいほどに、本作はどこかミステリな趣がある。それは予告編の時からそうで、何?どういうこと?何が起こってるの??私ミステリ苦手だけど、大丈夫かなあ、と危惧さえしていた。

「空白」の、最後まで本人の気持ちどころか声さえ聞けなかった女の子と違って、本作の楓は実に力強く、この大阪の下町を生きる女の子である。映画がスタートしていきなり全力疾走、万引きした父親を引き取りに行くという予想外である。
堂に入った大阪弁も可愛らしくもたくましく、このどーしよーもないお父ちゃんに呆れながら、愛してやまないことはもうあっという間に判る。お父ちゃんのふざけたタコ口にぷっと噴き出しちゃう、あのスタートの場面が、最後の最後にあんな反転されるなんて、思いもよらない。

すみません、相変わらずオチバレ女なので、本作が大切に、慎重に構成を組んで進めているのをぶっ壊すのは100も承知なんだけど、作品とひも解くには、そうするしかないんだもの。
お父ちゃんが娘の楓にまことしやかにささやいた指名手配犯を目撃した話、その直後にお父ちゃん失踪、日雇い現場にお父ちゃんの名前を見つけて探しに行くと、赤の他人の若いあんちゃん。

原田智。よくある名前、と若いあんちゃんは言ったが、それほどよくある名前ではないだろう。絶妙な平凡さと言うべきか。何よりお父ちゃんが失踪した直後に、お父ちゃんの名をかたる男である。
そして楓は思い出す。お父ちゃんが言っていた指名手配犯、街中に貼られた手配写真、それがあの若いあんちゃんにソックリだと。

予告編の時点でもそうだったし、実際に本編に接しても、当然お父ちゃんがこの連続殺人鬼にうっかり巻き込まれちゃったんだと思ったし、当然楓もそう思って、同級生の男の子、豊を協力させて行方を探し出す。
豊君が自分に片思いしているのを利用して、時におっぱいを見せちゃったりするあたりにふっとあたたかな笑いを忍ばせるけれど、その場面さえ後にお父ちゃんが犯行現場に思いがけず娘がいて、おっぱい見せていることにショックを受ける、という回収をして、二度目の笑いと共に、慄然とするんである。

この時点ですでに、観客であるワレワレはすべての事情を告げられている。お父ちゃんが目撃したという指名手配犯は、そもそも元からお父ちゃんとの共犯、死にたいと思っている人をSNSで募って、“死なせてあげる”。
この問題は、もうかなり前から、20年ぐらい前からと思うがあって、今ではなかなか話題にのぼらないのは、決してなくなった訳じゃなくて、巧妙に隠されているだけなんじゃないかと思っちゃう。

本作の若いあんちゃん……のちに、まさかの、お父ちゃんの奥さんが通っている病院のスタッフとして現れた時には仰天した。偶然見かけた指名手配犯どころか、お父ちゃんの苦しみを一番近くで見て、同情し、奥さんの苦しみを一番近くで見て、同情し、そして……という人物だった。
こう書いてみて、決して決して、そうじゃなかったんだと思う、思いたい。一番近く、は単なる距離の問題だ。心じゃない。同情という名の、神の視点でみているマスターベーションだ。

つーか、それをド直球に示す彼の性癖として見せるとは思わなかったけど。彼は死体を切り刻み、その動かない血みどろに性的興奮を覚える。動かないことが重要なのだ。
ワケアリ逃亡旅をしていた彼を拾った離島のおじいちゃんが、ならばと緊縛AVを見せると、彼はその中の一場面、本当にぎっちぎちに縛られて動けなくなって、つるされた足の間から、それも真っ白な靴下をはいた足の間から、たらたらと流れる血にくぎ付けになったのだった。

これをただのヘンタイだの、異常性欲者だのというのはカンタンだが、それは個人の嗜好に過ぎない。正直、彼にこうした嗜虐的嗜好性を与え、一方で人助けのためにと殺人を繰り返すというキャラクターにしたことに、ちょっと逃げを感じなくもない。
本当に、本当に、人助けだと思って、いや、思い込んでと言うべきだが、その場合の凶行こそが問題提起になる。なのに彼は結局、サディズムの殺人鬼だったのかという結論に至ると、本当に死にたい人が自分で死ねない場合、という、なんとも言い難い問題を提起していながら、逃げを打ったように感じてしまう。

人間の二面性、いや、それどころかの多面性というのはあると思う。それどころかの多面性、であるんだよ。
このあんちゃんは裏表の仮面のような単純さだ。最初にお父ちゃんに見せていた、死にたいのに死ねない人たちを救済するんだと、真顔で諭していたシークエンスは、この問題の難しさが、それこそ20年経っても解決されないもどかしさを感じていたから、お父ちゃんともどもワレワレもうっかり、聞いてしまったのだ。

ALSにかかった奥さん。自分の本当の想いを伝えることさえもどかしい。家族を愛しているからこそ、自分の意志が伝わるうちに死にたい。生きている意味を見出せない。
同じ病気にかかっている人たちの前向きな姿が逆に彼女を追い詰める。みんながみんな、ポジティブに生きられる訳じゃない。生活環境、経済的状況、家族形態、何より、それまでどういう人生を歩んできたかでも大きく違うだろう。
夫と共に卓球教室を経営していたぐらい、身体を動かすのが好きで、笑顔の絶えない奥さんだった。

でも、でも……ああもう判らないんだよ。たださ、この、わっかりやすいあらゆる条件、そりゃ生きてるの辛いよね、死にたくなるよね、という、判りやすい囲い込みの危険。そしてそれこそ、20年前にはなかったSNSというヤツ。自分の想いを吐き出すためのツール、それでちょっと息がつけるためのツール。
……ではないのだよね。本人のスタートはそういう気持ちだったかもしれない。でもつながっちゃう。うっかり、つながっちゃう。余計な手が差し伸べられる。それを余計と思わなくなる。……そういうことなんだろうか??

奥さんが、本当に死にたかったかどうか、が焦点になると思うんだけれど、本当にこれはまさに、主観的なこと。そして、本当に本当に死にたいと思っていたって、実際その首にロープがかけられたら一瞬にして恐怖が襲い、本当にそう思っていたという自分の気持ちの甘さに気づくってことだって、てゆーか、そっちの方が大いにあり得ること。

本当のところは判らない。だってお父ちゃんはその場面を見る勇気がなくって、あんちゃんに任せてしまった。最後笑ってましたよ、だなんて、絶対に、ウソ。恐怖に目を見開いていたところで終わっていたじゃないの。

先述のように、この後彼は変貌する。奥さんを死なせてあげたこと、当然有料コンテンツですよ、と20万を請求、心が弱ったお父ちゃんにつけこんで、“人助け”に巻き込む。
クーラーボックスに押し込められた数々の切断死体が発覚した頃になってようやく、コイツの性癖を満足させるために、お父ちゃんは、愛する奥さんを、幸福に死なせたと思っていたのが、そうじゃなかったことを知る。
いや、知ったのかは……どこかの時点では、判ったからこそ、ぶち殺すと決心したのだ。だって本作の、冒頭も冒頭、金槌の素振り練習をしているお父ちゃんの後ろ姿からスタートするのだから!!

ムクドリさんと呼ばれる、古い言い方ならハンドルネームであろう、20代半ばぐらいかなと思われる女の子が強い印象を残す。最後の最後、お父ちゃんがあんちゃんと殺し合いの対決をする離島で、あんちゃん彼女のことを殺し切れてないのを、お父ちゃんがとどめを刺す、という重要な役柄を担う。

お父ちゃんとあんちゃんがどこかコミカル、であるのが逆に怖い、“人助け”業務を遂行していた時、死にたいと言って依頼してきたのに、下着姿であんちゃんから逃げ惑っていたのが彼女だった。死にたい筈なのに、恐怖にかられた。
その後、車いすユーザーとなって再び依頼をしてきても、ふてぶてしい態度でとても死にたいようには思えなかった。だからこそ、あんちゃんに首を絞めてもらって死んだ筈だったのが、死に切れてなかったと思うのに……。

この時点ではもう、お父ちゃんはすべてのシナリオを用意して、決死の覚悟で挑んでいる。娘に指名手配犯に遭遇したと言い残したのはもちろん、殺しそこなってそのことがあんちゃんの指名手配につながったムクドリちゃんに接触し、彼女から300万をひきだしたのも大きかった。
でもこの300万というのは、耳にした時から現実味がなかったのは事実。あんちゃんの懸賞金が300万、後に見事お父ちゃんはこの懸賞金を受け取るのだが……。

楓は突然のお父ちゃんの失踪、お父ちゃんの名をかたるどうやら指名手配犯の青年、家族の思い出の場所にコイツが不法侵入しているのに遭遇し、ジャージのズボンをひっぺがして、お父ちゃんの携帯、離島への船の切符をゲット、いやがる豊君を引き連れて、謎解きの旅へ出る。
フツーに考えれば、ここですべての謎が解けてメデタシメデタシとなるところなのだが、そうなりそうなのだが、そうはならない。

お父ちゃんは瀕死の状態で救い出される。あんちゃんは死んでいる。これはのちに、お父ちゃんがぶっ殺したことが回想される。ムクドリさんも死んでいる。これも後に、あんちゃんがツメが甘かったのをお父ちゃんが、ムクドリさんの懇願するままに、首を絞めて死なせたことが明らかになる。
しかし、まずは、それらは明らかにされない。だって誰も見てないから。お父ちゃんは用意周到に、あんちゃんをぶっ殺すのにビニル手袋をしているし、まさか自分の腹を自分でかっさばくなんて、誰も思わないだろう、確かに、そうだったのだが……。

なぜ、なぜお父ちゃんは、またこの仕事を、いや死にたいと思っている人と会って、一緒に死にましょうかと言って、会おうと思ったのだろう。そしてきっと、お父ちゃんはそうするだろうと、お父ちゃんが隠していたアカウントのメモをゲットし、お父ちゃんが再び接触するように絶妙な場所、長いこと使ってなかったレジの奥に忍ばせた楓ちゃんである。
そこまでしなければ、アカウントを目にさらさなければ、お父ちゃんの悪事が世に出ることはなかったのに。

違う、違う。楓は、世に出るとか、そういうことじゃなくって、お父ちゃんの本当の気持ちを、お母ちゃんを殺してしまったならば、何故なのかを、知りたかったに違いないのだ。
それなりに、判ってはいたと思う。でも、許されないことだということは、彼女のような若い世代ならば、こっちとしたって判ってもらわなければ困るのだ。

楓は、お父ちゃんと卓球台を挟んでラリーを続ける。その時点では実に幸福な一風景である。
次第にサイレン音が近づいてくる。お迎えがきたで、と楓は言い、冒頭シークエンスでお父ちゃんが戯れにタコ口でチュパチュパやったのを真似てお父ちゃん噴き出し、ウチの勝ちやな、と言うんである。

生きていく権利、もしかしたらあるかもしれない死ぬ権利、めちゃくちゃシリアスな問題提起に考えても考えても答えが出ない。★★★☆☆


さかなのこ
2022年 139分 日本 カラー
監督:沖田修一 脚本:沖田修一 前田司郎
撮影:佐々木靖之 音楽:パスカルズ
出演:のん 柳楽優弥 夏帆 磯村勇斗 岡山天音 三宅弘城 井川遥 さかなクン 西村瑞季 宇野祥平 前原滉 鈴木拓 島崎遥香 賀屋壮也 朝倉あき 長谷川忍 豊原功補 中須翔真 増田美桜 田野井健

2022/9/7/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
これ139分もあったんだね、全然長く感じなかった!ユーモラスで淡々とした、特段ドラマチックに盛り上がる物語じゃないのに、なぜか最後の最後、ミー坊が、つまりさかなクンがテレビの向こう側から、彼を愛する人たちに対して、そして私たちに対して、自分を受け止めてくれたみんなに感謝をささげた時、なんとも胸が熱くなってしまった。すごくすごく、いいものを見た、と思った。

それにしてもこのキャスティングは天才的である。さかなクンを女優、というか、のん嬢にやらせる、ただ性別を超える、じゃなくて、のん嬢がやるということが、考え付いた人、天才!!と思っちゃう。
確かにさかなクンには、いわゆる性的嗜好がなにかという意味ではなくジェンダーを超える風格と言いたいものがあって、それは彼が大好きな魚たちの中でも見られるような両性性も感じさせつつ、まるごとさかなクンという人間そのものであるという、本当にオンリーワンのアイデンティティだから。
のん嬢がさかなクンを演じると聞いた時のときめきときたら、なかったなあ。そしてその期待を見事にばちこーん!と超えてきてくれた!

さかなクンはその鮮烈な登場の時から、当時、私は魚河岸の新米帳場だったのだけれど、市場のおっちゃんたちが、さかなクンは凄い、と誰もが称賛してて、ロケに来ていた時なんか、スターだったもんなぁ。
大学に行ってないのに海洋大学の教授に迎えられるという、私ら古い日本人の学歴コンプレックスをぶっとばす、“好き”の力の素晴らしさ。

ハコフグの帽子をかぶってさかなクンというキャラクターを完全無欠に生きていて、最初こそ作り込んだキャラかと思いきや、本当にそのまんまのさかなクンであることを現在に至るまで証明し続けていることにも驚嘆するし、本当にこんなオンリーワンな人はいない!
でも確かに、どんな子供時代を送ったら、どんな家族や友人や、どんな出会いがあったら、彼のように好きを貫き通せるのか、と思っていたかもしれない。

でもそれでも。これはあくまでミー坊の物語。さかなクンの自伝エッセイを原作としていたって、彼自身の話ではないのだ。それはのん嬢をキャスティングするという天才的発想の転換から既にスタートしている。自伝は未読だし、興味はあるけれどさかなクンとしてではなく、ミー坊の物語として見たい、見るべきだと思った。

映画オリジナルキャラとして明言されているのが幼馴染の女の子の友人、モモコで、つまりその他の、珍妙キテレツな愛すべき男子たちは実際に沿っているのだろうと思われる。女の子のモモコを、異性間であるけれどもミー坊を演じるのが女の子ののん嬢であるというところに、この関係性を入れてくるところに、本作の大きな賭けを感じもした。
ミー坊がいまいち理解できない、世間での“普通”に外れる二人、シングルマザーで男に振られて路頭に迷うモモコ、そのモモコが頼るのが幼馴染の男の子のミー坊、外から見たら微笑ましい家族のように見えるのに……。

判りやすく、ジェンダーや家族への固まりがちな価値観の視線への目配せや、モモコとその可愛い娘との生活に幸せを感じ始めたところで去られるミー坊が酒を飲んで荒れるとかね。他の展開と比べて、そう、ミー坊があくまでフラットに自分の好きなものを信じ続けて没頭していた展開に比べて、このシークエンスだけが世俗にまみれているというか。
モモコが紹介してくれたセレブ歯医者の水槽プランが、ミー坊が真摯に考えた命の素晴らしさを全否定されて、キラキラの、グッピーとかさ、と言われた矢先の出来事だったというのも、まさしくなのだ。

あれれ、なんか全部すっ飛ばして、いきなり社会人のミー坊の話になっちゃってた。でもここが、まさに転機点だと思うからさ……。
それまでのミー坊は、いや、常にだけど、これは彼の人徳だろう(つまりさかなクンの人徳)、家族にしても友人にしても、恵まれてる、というか、いじめられていると気づかずに一緒になってはやし立てに参加しちゃうミー坊の、彼らには思いもつかない発想に、負けちゃうのだ。

それは、子供の頃のみならず、勉強が苦手なミー坊が、つまりはヤンキー校に進学してからもである。「お母さんがジャーナリズムは暴力に屈しちゃいけない、って言った」と、学校新聞に総長のバイク解体図を載せて、こわーいヤンキー軍団に脅されても、まったく屈しない、てか、怖いという発想さえない。総長が漁師の息子だと知ると、今度一緒に釣りに行こうよ!!と無邪気に誘う始末。
さかなクンは私と同世代っぽいから、こういう、昭和不良描写が懐かしくいとおしいんだよなあ。本当のワルじゃない、自分を表現する場として、不良してるだけ。つまり、さかなクン、いやさ、ミー坊と一緒なのだ。

家族関係が、興味深い。幼き頃は、お父さん、お母さん、お兄ちゃんとミー坊の四人家族だった。高校生になって、お母さんとの二人暮らしになった。つまり、離婚して、お兄ちゃんはお父さんの方に、ミー坊はお母さんの方に、ということだったんだろう。
お母さん常に、ミー坊の味方だった。世間的に見れば風変りなミー坊、お父さんだってミー坊のことを愛していたけれど、愛するがゆえに、というか、愛するが故の、奥さんとは考え方が正反対だった。それこそ世間的に言えば、お父さんの方が“普通”だったのだろう。

そして、なんとビックリ、本人役……というか、さかなクンそのままだけど、町に出現する奇妙な男性、“ギョギョおじさん”である。まんまさかなクンだけど、ミー坊がさかなクンの半生を投じているのだから、このパラレル感は何か……と考えると、なんかすっごく、すっごくすっごく、そうだ、ここだ、ここにこそ、作り手側の想いがあるんだと思っちゃう。

実際のさかなクン、ここでいえばミー坊は、もちろん彼自身の誠実な人柄ゆえだけれど、家族にも友人にも恵まれて、彼のことが大好きな人たちが、世に出るべきだ、知られるべきだと、押し出した結果が、当然の今の結果。
でも、確かにこれは、奇跡的な展開かもしれない。最初、さかなクンが出てきた時、そのインパクトのあるキャラクターにビックリしたし、受け入れがたいんじゃないかなあ、と思っていた。
でも違った。それは、子供の頃からまるで変わらない、そんな彼をみんな好きになる、それが、今、誰もが知るさかなクンに対峙するみんながそうだそうだと首肯するっていうのが、凄いと思う。

でね、ちょっと脱線したけど……”普通じゃない”息子を心配するお父さんだって、正しく息子を愛して、心配しているのだ。ミー坊が捕まえて飼おうとしていたタコを“惨殺”してバーベキューしちゃったり(この場面は残酷なのに爆笑!!)、ギョギョおじさんのおうちに遊びに行くことを禁じるあたりはそれこそ“普通”のお父さん。

タコのくだりは結果的には、ミー坊に、海洋生物大好き、でもそれが〆て食べるということへの躊躇とはつながらない、大好き、尊敬、食べて感謝、もうなんだか、悟りっつーかさ。
お母さんの、深く広い海のような理解と愛情はまさしくミー坊を育てたと思うけれど、一方で、世間的常識でどう見られているかを教えたことになる父親の存在は大きかったと思う。結果的にお別れすることになっても、ミー坊が大人になって、お父さんとお兄ちゃんも一緒にお寿司を食べよう、と言った台詞から、ちゃんといい関係を保ち続けていることが判って、グッとくるのだ。

お母さん、本当に、お母さん!!演じる井川遥氏の海のような広大さ。幼い体いっぱいに巻き付くぐらいの巨大なタコを捕獲し、飼いたい、というミー坊にいいよ、という懐の深さ。
もちろん、飼えなくなったら自身の責任、というスタンスだったろうが、まさか夫にこのタコを無残にたたきつけられて惨殺させられるという、笑うに笑えない(でもちょっと笑っちゃったけど)子供にとっては厳しすぎる儀式。
でもここが、やっぱりデカかったと思うなあ。複雑な想いを抱えながら、それでもその前からタコは大好物だったから、あぶられたたこ足をほおばるミー坊、なのだもの。

小学生の、幼い時間軸も結構尺があって、その中でやっぱり心に残るのは、ギョギョおじさんとミー坊のふれあいである。楽しすぎて、夜遅くまでギョギョおじさんと遊んでしまったミー坊、警察に引っ立てられるギョギョおじさんを、僕が楽しくて時間を忘れたんだから!!と必死に追いすがり、ギョギョおじさーん!!とパトカーを追いかける。

……もしかしたら。こういう人生になってしまったかもしれない。さかなクンの、純粋すぎるがゆえに、風変りなキャラクターを、もちろんそのチャームで家族も友人も愛してやまない訳だけれど、それこそ、“普通”な目で見れば、ヘンな子、ヘンなおじさん、子供にイタズラするかも、そんな具合に排斥され、差別され、関わらないようにされ……。
という、パラレルワールドさながらの、もしかしたらそうなっていたかも、そのギョギョおじさんの生まれ変わりのように、こうなりたかった、いや、こうなってるよ!!という姿として、ミー坊をのん嬢がチャーミングに演じているのが、すんごく、良くってさあ。

音楽と美術は5(てか、もうこの時点で天才……)だけど、それ以外は勉強ができない、というミー坊が進学したのは、先述したように見るからにヤンキー校で、でもそこで、人生の出会いを数々、するんである。
これは有名なエピソード、当時同級生だったという鈴木拓氏の話でも有名だったカブトガニの人口孵化の成功、その鈴木氏が先生役として参加しているのも泣かせる。

幼馴染やヤンキーたちに、実力のある旬の俳優たち……柳楽君、磯村君、天音君といった心躍る配置。柳楽君演じる幼なじみの、ヒヨこと、後に狂犬と呼ばれるヤンキーとしてミー坊と出会う柳楽君が、付き合ってる女の子との食事にミー坊を呼ぶシークエンスが心に残る。
その彼女が「いい年して、魚博士になりたいって」と嘲笑したことで爆裂、何が起こったか判らずきょとんとするミー坊に、いいんだよ、と、あらためてワインで乾杯するシーンが、……好きだったなあ。

試金石というかさ、ミー坊に会ってもらってどうか、という、そこまで明確に思っていた訳じゃなかったかもしれないけど、でも明らかになった。ミー坊を理解できない、バカにするような女は却下、ありえない、っていう。
ミー坊が全く判ってなくて、大好きな魚がオシャレに美味しく料理されているのにワクワクしているのが可愛らしくて、何とも切ないシークエンス。

総長は家業を継いで漁師になり、総長グループと敵対していた籾山は、ミー坊が捕まえてさばいたアオリイカの美味しさに衝撃を受けて、寿司職人の道へ進んだ。アニサキスはアオリイカにはいない。その魔法の文句で、大人になったミー坊、総長、籾山がつながった。
ミー坊は籾山の店の装飾を任され、それを見てのイラストレーターの仕事も舞い込む。お母さんへの親孝行もできた!そして、幼なじみの、高校時代、狂犬と呼ばれてイキってたヒヨがテレビマンになって、ミー坊を召喚。ミー坊をみんなに紹介したいんだよ。ヒヨはそう言ったのだ。演じる柳楽君、超良かったなあ。ヤンキーの鋭さもありながら、笑うとビックリするぐらいクシャっとなってさ。

で、そう……もう我慢しきれずに最初の最初で言っちゃった、ミー坊がヒヨに請われてテレビに出た、みんなにミー坊のことを知ってほしいとヒヨがキャスティングした、その番組、それを見ているお母さん、今は離れて暮らしているお父さんとお兄ちゃん、そしてそして……ギョギョおじさんが!!
アルバイトしているとおぼしき漁港の休憩中の、小さなポータブルテレビの画面にくぎづけになる。これは……すんごい、意味を感じたなあ。あの場面で終わらなかった。一つ、一人、出会いがなければ。ほんの少しの出会いのチャンス、親の認識、自身の覚悟、どれひとつ一個こぼれてしまえば。さかなクン、あんた凄いよ!!本当に、尊敬する!!!★★★★★


殺人鬼を飼う女
2019年 83分 日本 カラー
監督:中田秀夫 脚本:吉田香織
撮影:月永雄太 音楽:坂本秀一
出演:飛鳥凛 大島正華 松山愛里 中谷仁美 水橋研二 浜田信也 吉岡睦雄 根岸季衣

2022/5/1/日 録画(チャンネルNECO)
えっらいヤボなぼかし入れるなあ。そんなん入れるぐらいなら最初からピンクみたいにきれいに隠して撮ってくれればいいのに。ちょい興ざめっす。
とか思うほど、情報入れてなかったので、相当エロきつめの作品だっていうことが。これはテレビ放送に際して入れられたのかしらん。いくらなんでもこんな、「愛のコリーダ」に入れられたみたいに画面の真ん中でっかく大ぼかし入れるなんてこと、劇場公開時にやったのかなあ。まさか。

エロティックサスペンス、といったところだろうか。解離性同一性障害、いわゆる多重人格。ヒロインの中にはプラス三人の人格が住んでいる、と思っていた。実はもう一人いたのか、はたまたそもそもの基本人格が持っていた深層心理なのか。

最終的な見え方としては、もうひとりの人格がいた、それがタイトルにもなっている殺人鬼、と思えたけれど、タイトルの意味合いを考えると、やはり自分の中に巣くう邪悪なもの、というのを、飼う、と表現していると考えた方が正しいような気がしてくる。しかもそれを、四人して飼っていたという風に見える。
解離性同一性障害のイメージは、存在感というか、出てくる率というか、人格の割合に差がある感じがするので、本作の設定のように四つの人格が同等というのは、いかにも物語上でのそれという感じはあるのだが、隠れたもう一つの人格が、四人の中に潜む影のような存在だったとしたら……確かに四つの人格が同等でなければいけないのかもしれない。

原作は未読だからどういう感じになっているのかは判らない。四人の女優が四つの人格をそれぞれに演じる、というのは、無論、一つのイレモノの中に四つの人格がある状態からすれば、リアリティ的にはかなり無理があるが、これが舞台化だったらと考えると、すんなり得心がいく。舞台化だったらその手法は当然、とるだろうと。
そして……まあその、四人の女優さんたちはかなりの舞台芝居っつーか……ありていに言えばクサめの演技で(爆)、でもそう考えればそれもまた、そういう演出だったのかもしれない。だって、クサめの演技の最高峰は、彼女の母親を演じる根岸季衣御大なんだもの。イヤービックリした。厚化粧にミニスカート!年下の恋人役が吉岡睦雄、チュッチュしまくる!!うわー!

……そろそろどんな話なのかってところから始めよう。物語の冒頭は、幼い女の子が男から髪の毛をつかまれている。その男をぶっとばす。
屋上だったのか、男は落下して死ぬ。下半身まる出しにして。つまり、その前に何が行われていたかということは容易に想像ができる訳で。

後から思い返すと、この時の事件を、当の本人、ヒロインであるキョウコは事故だったと思っている、思い込んでいる、と言ったらいいか。
キョウコが口ごもりながら、「あれは本当に事故だったのかなって……」と言う場面が出てくる。観客にいきなり差し出された冒頭のあの様は、明らかにフェラを強要されていた幼い女の子が、男を突き落として死なせた、いや、殺した事件であり、事故なんかじゃなかった。

キョウコのマンションの隣に偶然、彼女が敬愛する小説家、田島が住んでいることが判るところから、物語が滑り出す。飛ばされた洗濯物を取りに訪ねたことで知れるのだが、それがめっちゃセクシーショーツなんである。
田島に気づいてうろたえ、私のじゃないんです、同居人の……と口ごもったキョウコに、まさかそこまでの複雑な事情が絡んでいるとは思っていなかった。同居人というのは、言い得て妙というか、ウソでもなかったというか。部屋ではなく、彼女の肉体に同居しているんだから、確かに同居人と言える訳で。

キョウコの中にいる人格は、キョウコとセックスしまくりのレズビアンの直美。これはヤハリ、過去の忌まわしい記憶から、異性との性的関わりを考えられず、そうなるとその先というか前というか、恋愛も考えられず、作り出された恋愛対象であるのだろうか。
そして、外に男を漁りに行くヤリマンのゆかり。これはキョウコの母親の名前を名乗っているあたりが、キョウコの母親に対する嫌悪感が産み出した人格かと思われる。

そして、いつも人形を抱えている小学生のハルは当然、あの時の彼女である。映画化作品となったここでは、外見はきちんと成長した大人の女で、中身だけが幼い女の子のままなのだけれど、原作は当然、人格だけで書かれていたと思われるし、だとしたらこのチョイスがどうなのか、というのが気になるところである。
幼い女の子のままキョウコの中に住み着いている、というのが自然な形だとも思ったけれど……どうなのだろう。

他人から見えるのは当然、一人のキョウコの外見なのだから、四人の同じ年ごろの女優たちが演じる形では、そのスイッチングの妙味はなかなかに面白い。
そして、キョウコを愛してしまう孤独な小説家、田島を演じるのが、はあぁ、もうこーゆー追い詰められる運命の男を演じさせたら、右に出る者はいないであろうとまで言っちゃう、言っちゃいたくなる水橋研二氏である。
正直、彼だけが湿度の高い映画芝居をしてくれているおかげで、なんとか均衡を保っていると思うぐらい(爆)、人格四人チームプラス楽しそうにキチクインラン母親を演じる根岸季衣サマとゆー女優陣がバクハツしまくりで。

全然売れずに今や絶版という田島のデビュー作は、まるでキョウコの事件に材をとったように思えたが、違うのだろうか。
田島はキョウコの境遇を知る前に、出会った時の直感めいて、このデビュー作の彼女のようだと思った、ってことだよね?キョウコはこのデビュー作だけを読むことが出来ずにいたのだから、その内容が、主人公が、自分を模したようだということは知る由がなかった筈。
いやまあ今の時代はいくらでも内容を調べることはできるけれど、本作の感触では、そんなヤボな感覚は感じられなかった。ただ、キョウコは田島の作風に魂のシンパシィを感じていて、ただひとつだけ、デビュー作だけ読めずにいることを残念に思っていた、というスタンスに素直に思えた。

この小説の主人公のように、私も愛する人に出会えるのでしょうか、そう彼女は田島に言った。いくつもの人格を持つゆえに、田島と何度かの誤解とすれ違いを繰り返した後のことだった。
どうしても彼女が気になる田島、キョウコが怒り狂った母親から暴力を振るわれているのに遭遇、この流れですべて、彼に合点がいっちゃう。
得手勝手な母親が引き入れた男によって幼いキョウコが直面した運命、垣間見てしまった違う人格……でもそれでも、田島は彼女を愛したいと思った。そのことで殺されてもかまわないと。

殺されても、という段階まで行っている。ヤリマンのゆかりが母親の彼氏を呼び出して屋外エッチをしたのち、見知らぬ人格に入れ替わってその男を殺した。
恐らく、もしかして、もしかしなくたって、そもそもの始まり、幼いキョウコがフェラ(だけじゃなかったんだろう)を強要されていた義父を突き飛ばして殺した事件だって、本人が事故だと思い込んでるってことは、自覚がない、記憶がないってことなんだろう。

自覚がない、記憶がないまま、でも異性への欲求が封じ込められたままのトラウマによって抑えられている。レズビアンの直美とのセックスは本編中、煽情的に何度となく繰り広げられるけれど、結局はこれ、同じ肉体の中に宿った二つの人格、つまり一人の人間が妄想セックスしているにすぎない訳で、想像すると切ないっつーか、不毛っつーか。
その妄想セックスをキョウコに横恋慕している、彼女が勤めているレストランの店長が盗み聞きしているのだが、まあ彼は、彼の存在価値はうーん、なんだろう……結局、実はこうでした、というのを観客に示す目撃者でしかなかったのは、もったいなかったかもなあ。

ゆかりが母親の恋人とセックスした後、“殺人鬼”が彼を殺し、物語が一気に展開する。一体彼を殺したのは誰なのか。しかもその母親も殺されてしまう。キョウコはじめ四人の誰かが手を染めたのかと、お互い疑心暗鬼になる中の、田島の存在である。
田島はキョウコへの想いを募らせ、いや、これは両想いだから、お互い近づきたいのに、でも……というところで止まっている。
そしてこの事件。あのキテレツ母親が田島にもインネンつけて免許証を落としてったところから、彼がこの女の死体を発見してしまったんであった。そしてすべてを察したんであった。

田島は、キョウコたちの中に巣くっている殺人鬼を、彼女たちより先に、漠然とかもしれないけれど、察知していたのだろうと思う。その上で、キョウコを(この場合、キョウコたちというべきなのかは難しいところだが……)愛してしまったから、彼女に殺されてもいいという覚悟で、自らを追い詰めて自殺するかもしれない彼女を危惧して、ぶつかっていった。
まあ正直この後は、三人(ハルは小学生だからね)と田島とのくんずほぐれつ、でも人格であって肉体は一つなんだから、冷静に考えればフツーにセックスなんだけど、まあとにかくくんずほぐれつ。

でまぁそう……飼っていた殺人鬼が出てきちゃって、ってことさ。こーゆー濃厚なドラマは夜に行われる。朝の日の光にさらされると、すべてがウソのように思われる。その中で、サイレンが近づくその中で、キョウコはあの小説を朗読するかごとくモノローグするのだ。
あなたの命なんかじゃ、私の愛は満たされない。いや、それは、正しく朗読だったのか、朗読のように見せかけて、彼女の想いだったのか。いや……田島は最初からそう書いていて、判っていたから、キョウコを理解していたから、彼女を愛してしまった時、その手にかけられることを望み、死んでいったのか。

いつでも水橋研二は幸せになれない(爆)。一度でいいから彼が幸せになれる物語を見たいなあって、ヒドい言い方!★★☆☆☆


サバカン SABAKAN
2022年 96分 日本 カラー
監督:金沢知樹 脚本:金沢知樹 萩森淳
撮影:菅祐輔 音楽:大島ミチル
出演:番家一路 原田琥之佑 尾野真千子 竹原ピストル 貫地谷しほり 草g剛 岩松了 村川絵梨 福地桃子 ゴリけん 八村倫太郎 茅島みずき 篠原篤 泉澤祐希

2022/8/28/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
はてさてなぜこの作品が、「ミッドナイトスワン」に続く、などという宣伝文句がついているのか。物語のジャンルも、カラーも、スタッフも全然違う。これが同じ監督さんの次の作品というならまだしも……。
しかもややこしいことに、同時期に「ミッドナイトスワン」の監督さんの新作も出てて、なんかうっかり間違わせて足を運ばせようなんて意図すら感じちゃう。つまりは草g君が出ている、ただその一点だけだというなら、こういうのはやめてほしいなあ。作品に対して不幸だと思う。

物語は80年代半ば。舞台は長崎の片田舎。二人の少年の友情物語を軸に、家族の情愛を、ユーモラスに、情感たっぷりに描く。
これが初監督作品だという金沢氏のプロフィールもなかなか面白く、脚本家としてのキャリアの中の「ガチ星」、ああ!忘れられない映画!この年、ベストワンぐらいに心つかまれた作品だったからとてもよく覚えている。

確かに会話の端々に細かいユーモアやオチがちりばめられた脚本は、「ガチ星」、そしてもともとは芸人さんスタートだったという金沢氏の力量をうかがわせる。
それだけに……主役の少年二人を筆頭に、彼らに関わる同級生や、旅先で出会うヤンキーや、大人たちや……が、その繊細なユーモアを落ち切らせてない印象がどうしてもしてしまう。

いわゆる子役子役した少年ではなく、無名の、これが映画デビューとなる二人を選んだのは、その想いはすっごくよく判る。この雄大な自然の中に、手あかのついていない、まっさらなザ・子供!!を配置してみたい、というのは、本当によく判るのだけれど……。
犬っころみたいに無邪気にはしゃぎまわる、でも子供であることがどうしようもなく彼らのあれこれを阻み、家族である大人たちは彼らを十二分に愛してはいるけれど、結局はその大人の事情で子供自身ではどうしようもない苦行にさらされる、という展開は、これはやっぱり、難しいよ。まっさらな子供たちにそれを表現させるのは、それこそよっぽどの演出をしないと……。

つまり全編、正直ツラいものがあった。別に長回しをしている訳じゃないのに、カット割って割って!と思うようなツラさがあった。

ことに、イルカを見に行く冒険の旅に出る、つまりは二人っきりでスクリーンを任される、放り出される展開、このシークエンスこそが本作のメイン中のメインであるだけに、間が持たないというか、緊張感というか緊密感というか、なんかなくって、ただ配置されて、歩いて、走って、台詞を言って、みたいに見えてしまう。
イルカがいるという噂の島にほうほうのていで到着、どうやらちっとも見当たらないのを、「探すぞ」とこの旅の言い出しっぺであるたけちゃんは言い放ち、従うひさちゃんと共に一時間探し回る、という場面、ただ歩き回って海面を眺めるだけで、ダレることこの上なく、一番のクライマックスであるべきがゆえに、この処理はないなあ……と思ってしまった。

ちょっと説明が足りないので補足。たけちゃんこと竹本は、毎日同じランニングと切りっぱなしのハーフパンツという姿で、その貧乏を暴かれてクラスメイトからバカにされている。
ひさちゃんこと久田は、なんとなくクラスメイトの群れに従っているけれど、たけちゃんの貧乏っぷりを一緒になって笑う気にはなれなかった。だからたけちゃんは、夏休みになってひさちゃんをイルカを見に行く旅に誘いに来た。

ここを中間点として、前半ではひさちゃんの家族、めっちゃ怖いお母ちゃん(尾野真千子)と、キンタマをかいてばかりのお父ちゃん(竹原ピストル)、幼い弟との、みんながどつきまくりの日常を描く。
ああなんて、幸せそのものなのだろう!!この両親、ケンカという名のイチャイチャに他ならないどつきあい両親、それをきちんと子供たちに言葉にして伝える存在がいるのがいい。
父親側の姪っ子、つまり、子供たちにとってはいとこなのだけれど、もう社会人と思しきかなりのお姉さんである彼女が、ちょいちょいこの家族のだんらんにいい感じに参加して、両親の丁々発止に、仲いいなあ、とほがらかに合いの手を入れるのが、まさにそのとおり!!なんである。

一方でたけちゃんの方。ボロボロ貧乏なのは、母子家庭だから。そしてきょうだいもたっくさん。でも不幸感はまったくない。若くして亡くなった父親が漁師だったということは、海難事故に巻き込まれたのか、イイ男っぷりの遺影が、誇らしげに飾られている。
スーパーのパートで子供たちを育て上げる母親は、経済的にも時間的にも大変な状況なのに、朗らかで明るくて、息子が友達を連れてきたことが嬉しくて、それはきょうだいたちもそうでさ。

たけちゃんがクラスメイトからからかわれても超然としていられたのは、そりゃあ自分んちの貧乏っぷりを見られるのはイヤだから隠そうとはしていたけれど、一ミリの疑いもなく家族を愛していたからに他ならなくて。
だから、状況は違えど、この一点でたけちゃんとひさちゃんは、がっつり似た者同士。いわばひさちゃんは自分がそうだということにたけちゃんによって気づかされたのだ。

キンタマをかいてばかりの父親が、たけちゃんからカッコイイお父さんと言われてえーっ!と思ったに違いないけれど、この夏休みが終わり、哀しい事故が起こって、もうその頃にはひさちゃんは、親友である彼の言葉がしみじみと理解できていたに違いない。

イルカを見ることはかなわなかったし、ヤンキーにからまれたり、自転車が壊れたり、さんざんな目には遭ったけど、優しい大人たちにも出会った。優しい、というのは違うかな。理解ある大人。導いてくれる大人。
ヤンキーをぶっ飛ばし、自転車が壊れて帰る手立てがなくなっていた二人を送り届けてくれた青年はぶっきらぼうな無表情を貫き通したし、彼の恋人と思しき女の子は、溺れかけたひさちゃんを助けて、足がつったのはいきなり海に入るからだと、このムチャな冒険ではなく、基本的な、しかし大事な、命を守るすべをシンプルに教えた。

思えばこのムチャな冒険旅を、ひさちゃんの父親、キンタマかいてばかりのお父ちゃんは、きっとすんごく心配だったろうに、お母ちゃんにナイショにしてくれて、こっそり送り出してくれたし、こういう愛情を、大人になってからいかに尊いものだったかに、ようやく気付くのだ。
だからこそ現在の時間軸としての、ひさちゃんが大人になった草g君がいる訳で。

イルカ旅の後、夏休み中をすっかり二人で過ごす。その先に哀しい事故が起こる。たけちゃんのお母さんの事故死。
たくさんのきょうだいたちはやむなく親戚たちに分散される。これまた大人の事情だけれど、大人となってしまったこちとらとしては、申し訳ないけど、本当に可哀想だし辛いけど、自分の能力以上のことはできない、そのことで子供たちを不幸にしてしまうことはできない。でも……きょうだいを散り散りにするってこと、本当につらい。

この事故の直前、夏休みが明けたばかりの頃、ひさちゃんはたけちゃんのお母さんから言われたのだ。あの子に怒られたの。お友達、なんて聞いたから。友達だと思われてるかどうかわからないのに、って。
ひさちゃんは、この言葉にショックを受けた。自分がたけちゃんに友達だと思われていないのかと思った。バカか!逆だわ!!友達だと思ってて、相手からも思われたいけど、自信がないから、確認する勇気がないから……夏休み中をがっつり過ごして、飽きることなく一緒にいられるのが友達じゃないってどういうこと、アホか!!

……でもこの感覚、判るなあ。私は今でも、いまだに、ちょっとそういう思いはある。友人と友達の境目。同じじゃんという人もいるかもしれんが、私の中では、友達、と言うのにも勇気がいる。友達、と思ってもらっているのか。友人という表現なら、広く薄く使える感じがする。
なんでかな。友人知人、という表現があるからかな。ましてや親友、だなんて、怖くて言えない。お互い確認し合わないと自分だけでは言えないし、確認し合うなんてこと、怖くて絶対できない。ああ。半世紀生きても、友達って、難しいんだよ。恋人より難しい。キスやセックスも介在しないから、決定的なコレがないから。

でね、たけちゃんが自分のことを友達だと思ってないんじゃないかって、観客からすれば、アホか!!たけちゃんは友達だと思ってもらいたいがために、大人に強要されて相手が気をつかうなんていう事態が耐えられなかったんだよと、大人だったら、客観的な大人だったら丸わかりに判るのに、そんな具合に妙な溝が出来てしまう。
そんな中でたけちゃんのお母さんが事故死するという痛ましい事態が起こる。お母さんに伴われて参列した葬儀。たけちゃんと無言の挨拶をかわす、まるで大人みたいに。友達問題で気まずくなっていた中で、そしてたけちゃんはこの町を離れることになる……。

そもそも、本作のオープニングは、ひさちゃんの大人になった今の時間軸が草g氏である。本当は小説を書きたい、でも今はゴーストライターとして重用されてる。
売れてる、ことは間違いないけれど、仕事を振ってくれる編集者からは、書きたい、って、純文学でしょ、売れないですよ、と切って捨てられる。ゴーストやれば、百万入るんじゃないんすか、と、何故それを躊躇するのかと言いたげである。

タイトルであるサバカン=さばの缶詰は、たけちゃんがひさちゃんにふるまった寿司ネタであった。ひさちゃんにとって、握り寿司なんてものは贅沢の極み、たけちゃんにしたって母子家庭の子だくさん、寿司なんて、と思われたが、ちゃんと寿司飯を木樽に用意して、ネタはびっくり、缶詰のサバの味噌煮。
お父ちゃんが作ってくれたんだというサバカン握りを、慣れた手つきで軍艦巻きにしてくれる。信じられないぐらいウマい!!と感動しきりのひさちゃん。

寿司屋になるべき!実はなりたいんだ、ひさちゃんは小説家になるべき、なれるかなあ、なんていう、ランニング短パン姿の少年二人が交わしあう。
でもそれが、まさにそれが、今実現してる。いろんな辛い、予想外のあれこれがあったにしても。

現在の時間軸に戻る。離婚してしまったけれど、愛娘とは定期的に会っていて、今、故郷の長崎に帰りたいと思ってる。ゴーストライターではなく、自分の想いを、故郷への想い、家族への想いを書いた、書けた。
たけちゃんと、涙の別れをしたあの時から、どうなったのか、普通に考えれば、子供だし、今みたいにSNSとかないし、つながれてないんじゃないかと思っていたら、つながっていた。寿司屋に、なっていた!メニューに入れているサバカン寿司は不評だなんて、エピソードを入れながら。

サバカン寿司かぁ。なんか試してみたくなった。転勤族チャイルドだった私にとって、異邦人として生きなければならなかった子供時代がめちゃくちゃリンクして、グッとくるものがあった。
あのほんの数年間が、人生を変えるだけの影響力がありすぎで、ちょっとでも違う道筋があったら人生変わったのかもと思うぐらい、……子供って、自分ではどうしようもないんだもんなぁ。★★★☆☆


三大怪獣 地球最大の決戦
1964年 93分 日本 カラー
監督:本多猪四郎 脚本:関沢新一
撮影:小泉一 音楽:伊福部昭
出演: 夏木陽介 小泉博 星由里子 若林映子 ザ・ピーナッツ 志村喬 伊藤久哉 平田昭彦 佐原健二 天本英世

2022/3/11/金 録画(日本映画専門チャンネル)
怪獣ものには本当に疎いので、うっかりこれを観てしまったことをちょっと後悔している……だって、疎いとゆーのにいきなり三大怪獣観ちゃダメでしょ。しかもプラスワンよ。タイトルに偽りアリよ。四大怪獣でしょ。あ、でも三大怪獣、ゴジラ、ラドン、モスラが東宝三大怪獣であるというのは、本作が作られる前にすでに周知の事実だったらしい。へー知らなかった。
プラスワンというのはキングギドラ。なんとこれがデビュー作(という言い方もヘンだが)なんだという。ますますもって、私は疎い癖にレアなものに手を出してしまったらしい。

なぁんとなくキングギドラが新しいイメージだったのは、そういう意味では間違ってなかったのか。てか、ビジュアル自体、私初めて見た気がする。首三本!尻尾二本!!体が黄金色!!!そして空飛ぶ!!!!うーわー、てんこ盛り過ぎる。三大怪獣が完全にレトロに見える近未来。
そうか、宇宙怪獣、だものね。正直言って本作のストーリーつーか、キングギドラがなぜ誕生したのかとか、唐突すぎて支離滅裂すぎてついていけないのだが。三回見直しても、やっぱり判らない(爆)。

ゴジラは大メジャー怪獣だし成り立ちからキャラクターまでなんとなく飲み込めるのだが、ラドンは名前を聞いたことがある程度でよく知らないし、モスラは有名なあの歌のイメージしかなく、平和的な怪獣である、ということを初めて知ったあたり(爆)。
てか、巨大な蛾じゃなかったっけ?本作では幼虫、どちらもありなの?あー判らない。奥が深すぎる。インファント島で平和に暮らす怪獣なんだそうである。

そしてもちろんザ・ピーナッツである。しかししかし、モスラ―やっ♪のあの名曲は歌わないんである。これは、あれかね、モスラ単体の映画じゃないからなのかね。
しかし小美人(これも凄いネーミングだが)としてモスラの通訳に当たるザ・ピーナッツは、モスラ―やっ♪は歌わないが、モスラの、そしてインファント島の、神秘的で宗教的で、世界平和を祈るようなスピリチュアルな歌を次々と歌い上げる。ちょっと、入信しそうになるぐらいである(爆)。完全ユニゾンの小美人、ザ・ピーナッツのインパクトよ!!

てか、なにこれ、どんな話か全然判らんじゃないの。確かに私自身が全然判ってないんだけど(爆)。
えーと、まず地球の異常気象が示されるのね。一月なのに真夏のように暑い。日本脳炎もまん延している。東洋放送の記者、直子は近頃来襲しているという円盤(宇宙船ということだろうな)の調査機関に取材に来ている。半信半疑の彼女を、部外者の脳波が邪魔していると研究者たちは苦々し気に言うんである。

その日は、やたらと流星が観測された。それもまた異常事態の前触れであった。内戦から逃れた小国のサルノ王女が内密に日本に向かった飛行機が爆破される。
その直前、サルノ王女は不思議な声に導かれて飛び降りた。預言者となってあちこちに現れることになる彼女は、自らを金成人と名乗るんである。

ほらもう、ついていけない(爆)。金星がキングギドラによって死の星にされた、金星人が地球に逃れて、もう何千年、金星が死の星にされた記憶を受け継いで今ここにいる、という解釈でいいの?
でもサルノ王女は金星人に思想を乗っ取られたような形だったんじゃないかと思うからよく判んないなあ。金星人は怨念パワーだけで漂っているということ?そこまでシリアスには思えなかったけど……てな具合に、なんつーか、ふわふわっとしてるのよ。

だってセルジナ公国とか言いながら、みんなフツーに日本語喋ってるし(爆)。カタコトですらない(爆爆)。あやしげが造形言語で字幕で出すとか、そういう手間をしようとはしないんだ……という衝撃。
なのになんとなくエキゾチックな雰囲気は醸し出し、王女を亡き者にしようと画策している国元で、あれは国家元首?なんかエマニエル夫人が座るような椅子に鎮座しているのには笑っちゃう。
万事こんな感じで、エキゾチック国の肌の色、ファッション、メイク、なのに日本語(爆)。そして金星人の預言者になるんだもん、もーついていけないよー。

女だてらに(という表現が、この時代にはぴったりだろう。今は差別用語だけど)取材に飛び回る直子、そのお兄ちゃんは警察官。ともにこの不可解な事件を追っている。
彼らは母子家庭なんだろうか。いかにもこの時代のおっとりとした和服に割烹着のお母さん。いい人はいないの?仕事のことばかりね、と心配する要素が昭和ではあるけれど、兄弟が屈託なくやり合っているのをまだまだ子供なんだからとあたたかく見つめているのは、いつの時代もお母ちゃんである。

内密に逃亡してきたサルノ王女のボディガードを仰せ付けられていたのが直子のお兄ちゃん、進藤である。へー!夏木陽介氏だったのか!若すぎて全然判んない(爆爆)。
最後の最後、ラストシークエンスで、ああこれは、「ローマの休日」を模していたんだとようやく気付き、あれこれ思い返してちょっと胸キュンの想いにもひたる。

そう思い至れば、ヒロインである筈の直子が、この当時のキャリアウーマンの理想像をぶち上げて活躍はしているものの、とりあえずそのキャラ置いてみましたというところに終わってしまっているのは、残念と思いつつも、本作はツッコミどころという見どころが満載だから仕方ないかなあ、という気もしたり。
私は金星人、というイッちゃってる王女もしかり、ミニチュア双子で見事なユニゾンと歌声という、改めて凄い!!と感動するザ・ピーナッツのビジュアルと歌声しかり。

しかし何といっても持ってかれちゃうのは、ゴジラとラドンの子供じみたケンカ、なんである。あのねー、私の中では、特についこの間の「シン・ゴジラ」の衝撃もあったし、ゴジラは神聖な、畏怖するしかない怪獣、いやもはや神獣と言いたい存在なのよ。
なのに、なにこれ。ゴジラとラドン、子供のケンカ。ゴジラが岩を拾って投げつけたり、蹴ってぶつけたり、取っ組み合いのけんかしたり、やめてよやめてよー。こんな幼稚なゴジラ、見たくないよ!!

ラドンはあんまり見た経験がないから、うーん、始祖鳥、なるほどなるほど、てなぐらいなのだが、この時代だから仕方ないにしても、ち、チープすぎる(爆)。ミニチュアの爆破とかも、確かに良く出来てるんだけれど、4Kリマスターにしちゃったからかなあ、ミニチュアプラスチック爆破させました、というのが、如実に判っちゃうのが、今回の一番ツラいところだったかも。
ホント、多分画質が良くなりすぎたからなんだよ。明らかにプラモデル、ジオラマ、それも雑なつくりのもの、と見えちゃうんだもの。これはリマスターすべきだったのか。逆に価値を下げちゃったんじゃないのかなあ。

ゴジラとラドンのケンカが、いかにも中に人間が入ってて、フツーにケンカしてるっていう動きを見せるので、これはネラいなのか、笑わせるつもりなのか、でも展開的にはシリアスなんだけどなあ、という戸惑いを常に感じつつ、である。
両者のケンカをなんとか収めて、世界の平和のためにキングギドラと闘おう!とモスラが呼びかけるのを小美人二人が通訳するという場面のシュールさが、本作の最大の見どころに他ならないであろう。

ゴジラとラドンの威厳のなさときたら、後世に伝え続けたいほどのガッカリさである。二人?とも、その顔の表情がまず小学生、ラドンは知らんが、こんな聞き分けのない小学生みたいなゴジラ、見たくなかったわ、と思っちゃう。
そんな小競り合いをさんざん見せられて、まるで神父のような(ふと思いついたけど、まさしく!)モスラの説得、小美人の通訳により、という、荘厳なんだけどシュールで、そしてゴジラとラドンは全然聞き入れなくてという、なにこれ、何を見せられてるの、っていう……。
だってさ、ほんっとうに、この三人?プラスワンの尺がなっがいんだもの。おもちゃの操演を見せられているような危うさに何度ヒヤヒヤしたことか。

それを救うのが、研究者として登場する志村喬。ああ大好き!!彼が登場するだけで、どんなに支離滅裂でハチャメチャな作品でも、それなりの説得力を産んじゃう。
金星人だと言い張る、言い張るという表現は違うけれど、とにかくサルノ王女がそういう状態で保護されて、診察した結果、精神に異常はない。金星人だと言っているのは、金星人なのか、そう言わざるを得ない何かがあるのか、という提示をする。途端に、なんたって志村喬がそう言うんだから、きっと彼女に何かの事情があるんでしょう!!とか思わせちゃうあたり、ズルいよねー。

ゴジラもラドンも、突然呼び覚まされた怪獣で、人間たちにとっての脅威で、実際、金星人に精神を乗っとられた王女は、ゴジラやラドンが出現する危険を予言し、注意を呼び掛けていた。
私ら映画ファンの感覚としても、恐るべき存在でしかない訳よ。なのに本作では、絶対悪のキングギドラが出現したことで、急にゴジラとラドンが頼りがいのあるファイターになっちゃう。なにこれ。モスラがそもそも平和の使者(すんません、先述のように知らなかったんだけれども)だってこと自体、知らないんスけど!!という焦燥もあるし。もうホントにさぁ、ひっどいんだもの、ゴジラとラドンのケンカが。スーツアクター同士のケンカでしょ(爆。私もしつこいな……)。

キングギドラだけに悪を背負わせて、それまでは悪だったゴジラとラドンを更生させる、みたいな図式を感じてしまって、それはつまんないかなあと思ったりする。
ただ、本作でキングギドラがデビューであり、全き悪役としてのキャラクター造形でのデビューだったのだとしたら、ゴジラやラドン、本作では大いに存在感を発揮したモスラが彼らをサポートするのは確かに、確かに!!と思うんだよな。なんか、個人的に、キングギドラ、事情も聞かれずに悪役決定、言い訳無用!!てのが、哀しいかもしれない……。★★★☆☆


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