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衣裳哲學
1993年 20分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:
撮影:山田勇男 音楽:チカフミエ
出演:小林由起子 押部麗央
少年は部屋の中では、裸。一糸まとわぬ生まれたままの姿である。その少年を母親が横抱きにしてお尻ペンペンてなことをする場面から始まるこの物語?は、禁断の森へのいざない。少年のヌードは、幼児性をかすかに残してはいるものの、そのすらりと伸びた足の美しさにうろたえ、筋肉のつかないやわらかい皮膚の下に、これから隆起していくであろう筋肉を夢想すると、今の美しさを余計に愛でる気持ちが起こる。母親は少女のような女。紫色のデザインの和服をしどけなく着て、髪もモダーンガール風で、色っぽくほつれている。この少年を産んだようにはとても思えないほどに若いのだが、しかしやはりこの少年の母親なのだろうと確信させるものは一体なんなのだろう……。学校から帰ってきて服のままで居眠りをしている少年を、この母親はじきに脱がせてしまう。……その少女のふくよかさと大人の女のしなやかさを持ち合わせた母親の手のエロティックなこと!
少年はゆで玉子をむく。つるりとあらわれた白いむきみのゆで玉子。そこにぽたぽたと落ちる赤いものは、少年の出した鼻血。白いつるりとしたゆで玉子、そして赤い血。小さな鼻から血をひとしずくたらした裸身の少年。その連続ショットの完璧さにクラクラする。別のショットでは母親がこのゆで玉子に可愛らしく、そしてなまめかしくかぶりついている。あのしどけない姿で。これにもまたクラッとする。血は絆、そして愛のしるし。女の出す血ははっきり愛液だが、男が出す血でそれを暗喩ではなく直裁に感じさせるには、やはりこの年頃の少年しかない。一年でもプラマイがあってはいけない。
少年を送り出す時、母親は玄関で白いハンカチをひらひらと振る。いつまでも振る。これは何故か、何だか、ホラー並みに、怖い。少年は二度ほど振り返って、そして駆けて行く。少年はこの母親に、あるいはこの古びた洋風の家に、見えない鎖でつながれているかのようだ。囚われの身。しかしだからといって彼がこの家や母親から逃げ出したいとか思わせるわけではない。彼は母親に自ら自分の裸身をすすんで捧げているようにも見える。……もてあそばれるために。彼が学校に行くために身につける服は、お定まりの白いワイシャツにつり半ズボン、白いハイソックス、といったいでたちで、このハイソックスを母親が少年にはかせている場面は、ひどく倒錯的である。いや、このスタイルだけで、倒錯的。彼は10歳をようやく過ぎている頃、ぐらいだろうが、それはこうした姿を無邪気に捉えるには少々過ぎていて、だからと言って大人の衣服を着られる年でもない。その揺らいだバランスが既にたまらなく倒錯的、官能的。
少年は母親に白く半透明な羽を背負わされる。それはまるでギプスのようですらあり、少年はそれをつけさせられるのをひどくいやがる。その羽はあたかも少年のトラウマのようで、彼はそれを地面に叩きつける夢想も起こす。しかしその大きな羽をとりつけられた少年の裸身の美しいこと!もはや、呆然とするほど。母親が指先でもてあそんでいるのは、鳥の白い羽。しかし少年にとりつけられた羽は鳥というよりは、昆虫の羽根。半透明さは、脱皮の前後を思わせる。鳥の羽と昆虫の羽根……この鳥は、この羽化したばかりの昆虫を“食べて”しまうつもりなのだろうか!?そう、ちょうどあのゆで玉子をがぶりとやったみたいに!
8ミリの映像の色合いが、この作品世界に見事にはまっている。これほど肌色を美しく見せるのか、触感すらも感じさせるほどに柔らかく映るのか……と、本当に感動。それはもっぱら少年の裸身の美しさに捧げられているのである。皮肉めいたタイトルも素敵。すべての構図に心が騒ぐ、のぞいてはいけない小部屋をのぞいているような、どこか見せ物的な味わいもたまらなく蠱惑的、魅惑的な一品。★★★★★
画面を動かさずに(フィックス、っていうのかな?)ひたすら見つめ続けるシーンは「フレンチ……」の時にも印象的に残っていて、それが奇妙な緊張感と乾いたユーモアに包まれているから、こっちとしてはクスクス気分で楽しむことが出来るのだ。それがもっとも顕著だったのは、ヒロインのなつが同僚の木村に告白されるシーン。トタン板でくぎられたぼろっちい病院のバス亭で、木村が最初は彼女と離れて座り、立ち上がって何となく歩き回り、なにげなさそうに彼女の隣に座っていきなりキスしようとし、そして「いや、実は、好きなんだけど」だなんてぎこちなく告白するのだ。この時、その区切られたトタン板で、彼ら二人の、ちょうど頭だけが見えている状態というのがそのクスクス感をさそい、ひたすらそのフィックスが崩されることがないのにも気づかず、というかここで動かされたら、その微妙なクスクス感は出ないんだろうな、やっぱり、というのを感じさせるのだ。
未歩子さん、しかし、随分、痩せた?本作で気になったのは、彼女の口元の深い笑いじわ、なのだ。「さゞなみ」の時にはまるで気づかなかったのは、あの作品ではあまり笑顔を見せなかったからなのかなあ。でも、「さゞなみ」の時は、その少女のようないたいけさがとにかく印象的だった彼女が、ここでは少しだけ髪ものびかげんで(本当に少しだけ、だけど)顔がきゅっと細い分、目もやや大きく見え(まつげが細かく多くて、横顔で見ると実にふちどられている、って感じなのよね)、くちびるのふっくら感にもあらためて目がいく。びっくりするほどスレンダーな体。あ、今回の相手役、西島秀俊とは、そのスレンダー同士のバランスが面白いと思ったことからの起用だったのだとか。しかし西島氏にもっとも驚いたのは、普通に明るいこと、ってそりゃ失礼か……。でも、今までとかく暗めの役柄ばかりだったのが、新婚の妻とラブラブなんだけど、その一方で女たらしで浮気ばっかしてて、ヒマありゃ女をくどいてる(とりあえずのキスは当然!)っていうんだから、もうビックリしちゃう。これが、新鮮!最後までずっと、西島氏があー!?としつこく驚き続けちゃったもん。しかし、彼のそうした“普通の上手さ”に改めて気づくことにもなったんだけど。それに、素敵だったわ。ラブラブのなつ役、未歩子さんに嫉妬しちゃうぐらい。
アイディアがまず、面白い。愛し合う二人は痛みを共有する、って書くと、何か宗教っぽい言い回しだけど、実際としての、痛覚を共有するのだ。あ、でも発想としては、その宗教っぽいところからのような気もするな。だって、何かうさんくさい神父(緒方明監督!)が結婚の誓いとしてそう説く回想?部分が出て来るんだもん。でもこれ、一卵性双生児の双子に見られるといわれる症状も彷彿とさせるよね。どちらにしても、そして二人が連想するのも、それは運命の二人、という証し。浮気性ではあるけれど、妻を一番に愛しているダンナの涼と、その涼に“いきなりキス”で(それは彼の定番の落としテクニックであったわけだが)落とされ、涼がいなくちゃ死んじゃうぐらい彼のことが好きななつ。なつが涼と出会ったのは、彼女が看護婦として働いていた病院でだったことを考えると、痛みの歴史はここから始まっていた?
しかし、この痛覚の共有について、ある男、今はホームレスだけどかつては民俗学の研究をしていたという人物が、その現象によって一族だけで構成されるある小さな村が滅びた、と語る。……実はね、このくだりがどう作用しているのか、ラストに至るまで判らなかったんだけど。この痛覚の共有が彼らだけではなく周囲にまで広がって全滅しちゃうのかといえばそうでもないし。ラスト前、なつが妊娠したことに大喜びする涼が、しかし一転「ちょっと待て。出産って……痛いんだよな」というところから始まり、なぜか自分が死んでしまう、絶対に!とまで思い込んじゃうんだけど、これもまた謎なのよね。しかも、なつも否定しないし。なつからその話を聞いたことで連想したせいなのかなあ。うーん、判らない。でも、とにかく涼もなつも死ぬことなど、ないのだ。ラストはなつの出産の痛みにシンクロしているらしい涼が上下白の下着?姿でいじめられっこのような泣き顔で疾走しているシーン。ナイスだね!
そうそうそう!この涼、ナルシストなんだか何なんだか、ハダカシーンやら、ぱんついっちょシーンがやたらとあるんだけど(メンタル面でも、「俺、東大出てますうー!」てな台詞があったな。)、で、西島氏の締まった筋肉質の身体にはかなりのオドロキがあったりするんだけど、それよりも何よりも、そ、そのハデなパンツは君、……一体、何ごとッ!?ウエストラインが黒の帯状で、生地が紫っぽい柄のパンツ姿の西島氏には、う、ううっ……体は美しいけど、そのパンツ姿は美しくないよう……あのパンツは一体誰が選んどるのじゃ。まさか、なつが?ひええ。
なんてことは、無論、全然関係ない話なんだけど……で、そう。痛みを共有する二人。しかしこれって、結構セックスを思い起こさせもする。そういえば涼が浮気した女がSM女王様で、ピシピシ打たれる彼が、その痛みがなつに伝わっていることでバレちまうと焦る場面とかあるし。それに二人が大喧嘩するシーン……それは片想い同盟が彼らの家に押しかけて、何だか訳のわからない散会の仕方で辞した後、勃発するんだけど(という、喧嘩する原因もよう判らんのだけどね)もう家じゅうひっくり返すぐらいの大騒ぎで、(冷蔵庫まで傾いてる)で、結果は痛覚を共有する二人なので、ケガも全く同程度なわけで(ということは、痛覚だけじゃなく、外科的ダメージも一緒ってことなんだよね。不思議……)お互い同じ部分に出来たキズやらあざやらを並べて写真に収めるじゃない?あれも、そういうセクシャルなエロティックを思わせる。
……でも、思わせる、だけで、感じさせる、ってんじゃないんだけど。だって、二人、あくまでもラブラブバカップル、って感じなんだもん。ま、そこがいいんだけどね、可愛くて。だってさ、冒頭シーンからして、なつが冷蔵庫の中に隠れて、見つけてくれない涼に「新婚なら、見つけてくれるハズでしょ!」と怒って出てくるっていうんだから。でもね……冷蔵庫って、確か中からは開かないって聞いたことがあるんだけど。だから、そういう遊びをするのは危ないって。
しかしその時、涼は浮気相手を連れ込んだところで、コトにおよぼうと相手の女は既に下着姿。で、その最初の浮気相手として出てくるのが、あの朝ドラ「さくら」の高野志穂!実は、観ている時は全然気づかなかったんだけど、私(あいかわらずっす(笑))。おっどろいたなあ。驚くキャスティングはいっぱいあって、監督陣が役者としてたくさん起用されているのがかなりビックリなんだけど……先述の神父役の緒方明監督のほかにも、メインの役としてなつの会社の社長役で廣木隆一監督、お医者さん役で篠原哲雄監督、イッちゃってる画家役(怪演!ホントに目がアブないよ(笑))で原一男監督……凄いわ。あ、それと、キャストじゃないけど、撮影が平野勝之監督なんだよね。これがちょっと驚いた。でもこのプライベートビデオ風の感じが、確かに、平野監督らしさ、かなあ。
中でも印象的だったのは、廣木監督演じる吉田社長なんである。彼には恋人がいる。それが、あの藤間宇宙君!吉田社長の最初の登場シーン、手編みと思しきカラフルなマフラーを巻いててなつに「お似合いです」とちょっとからかい気味に言われるんだけど、そのマフラーを編んだのがこの宇宙くん演じる美少年で、編物上手の彼は登場シーン、いつでも編み針を動かしているのだ。この社長が突然倒れてしまい、元看護婦であるなつは適切な処置で即、救急車で運ぶのだけど、その社長につきっきりになっているのがこの少年。お見舞いに来たなつに出すお茶菓子を「ダッシュで行ってこい。3分で」なんて社長に言われて、スナオにそれに従う少年、……何か微笑ましいというか、テレちゃうな。なつに「俺はやっぱりあいつがいなくちゃダメなんだなあ、って……こういうの、判る?」って、社長は言う。なつはちょっと考えて「ゲイってことですか?」社長、「そっちじゃなくてさ……」この社長が言いたかったのは、それは愛だって、ことなのかな……新婚気分と運命の相手ということでどこか浮かれ気分で……つまりは不安定ななつに対して、そんなことを諭したのかもしれない。
そんな、涼となつの間を試すようにして勃発する片想い同盟の襲来。そのメンバーは、予備校講師である涼に恋するぽっちゃり(というよりは、ふとっちょ!?なんか、「ごめん」の福俵さんが成長したみたい)女子高生の小山直美。涼から「大山直美?」と名前を間違われちゃうのが、確かに小山というよりは大山だよなあ、という(大山のぶ代を思い出させる?)、しかしそこが、コメディリリーフにされちゃう、切ないポイントなのだ。そしてなつに告白して玉砕した木村。演じる鈴木卓爾は……えーと、失礼を承知で、彼はフラれキャラよね(笑)でも好き。結婚したいタイプだ。そしてもう一人が、なつの弟の秋男。演じる唯野友歩君は名前からも判るとおり、実際も唯野未歩子嬢の実弟。オドロキ。決して顔が似ているわけじゃないから、そんなこと、全然判らなかった。しかし劇中で見せる姉弟の実に仲良さげな感じは、実際もそうなんじゃないかと思わせるような自然さ。
で、この秋男が誰に恋しているかというと、彼はこのお姉ちゃんだ、と言ってはいるんだけど、やっぱりこの直美が好きだったんだよね?確かにお姉ちゃんが好きだったのかも、と思わせなくもない部分もあるんだけど、でも、結局この秋男が好きになってしまった直美が「お姉さんを好きでもいいから、私、秋男さんを好きでいてもいいですか」と決死の覚悟で問いかけると、自転車をかなぐり捨てて、彼女をぎゅっと抱きしめるじゃない?あのシーン、凄い良かったよねー。単純だけど、ああいうの、それこそ、ぎゅっときちゃうの!
主人公は涼となつの二人なんだけど、この秋男が影の主役というか、物語の進行役を担っている。というのも、彼はちょっとオタク入っているパソコン小僧で、常にノートパソコンを携帯してて、それがなんとまあ、自転車に搭載して、行く先々で自転車にまたがりながらこの彼らの恋愛模様を取材?している、とこういう訳なのだ。彼が打ち込んだ、どこか恋愛指南を思わせるキーワードが、プライベートフォト風の登場人物たちの写真とともにカラフルにコラージュされて、ウェブ上に現われる。つまりは、彼が、というのではなくて、彼が作るウェブ画面が進行役。センスのいい画作りで、キッチュで楽しく、題材の割にはミョーに静かな物語進行のほどよいスパイスになっているのだ。しかし彼、このウェブを今どきソフトじゃなくて、HTML文書で、別画面で確認しながら作り上げているっていうのが、イイね。アナクロなオタク気質っぽくて。
秋男はこの姉夫婦のことを、理想的なカップル、恋愛の理想系として解析?する、そのためにこのウェブを作り上げているみたいなところがあるんだけど、ということは、この弟君、姉というより、この涼が気に入っていたのかもしれない。写真のコラージュ、というのも、もっぱら人物写真専門のカメラマンである涼の仕事をほうふつとさせるし……涼はこのカメラマンの仕事にはあぶれてて、もっぱら女を口説く小道具として扱っているようなフシもあるんだけど。でも涼がなつをヌードに撮る、ということを凄く熱望してて、で、死ぬと思い込んだ涼に根負けした彼女がそれを許すんだけど……。なつはヌードどころか自分を撮られたり、自分の料理を撮られたりすることを極度に嫌っていたんだけど、涼は、彼の愛情表現は、まさしく表現行為のこの撮影、にあったんだよね。その一点を避け続けてきた二人は、決定的なところでやっぱりすれ違っていたのかなあ。でもこの場からいきなり駆け出す涼と、追いかけるなつ、そしてなぜか歩道橋から身を投げようとするなつを止めようとして一緒に落ちてしまう二人!?なんなんだー!という展開の後、涼はなつにシンクロする痛みにこらえながら、今まさに子供を産まんとしている彼女の元へと疾走するのだ。愛よね。★★★☆☆
深刻な役とはいえ、静の役。そして、豊川氏のように外見からせめていくことが出来ない彼女の役は、ひょっとしたらこの彼よりも難しい。私はこの美里役、柳愛里がやったらどうかしらん、などとも思ったのだが(それも結構面白いし、ハマる気がする)。江角マキコで正解だった。彼女はやっぱり映画の人、スクリーンでこそ美しい女優なのだ。少ない映画出演作はどれも(あ、でも「恋は舞い降りた。」は観ていないのだけれど……)、非常にスクリーンに映える、スクリーンに息づく女優であることを痛感させる。テレビにばかり持っていかれるのが歯がゆく悔しい。彼女、今年の女優賞取るかもしれない。篠原監督も、「幻の光」からスタートした彼女について、こういう役こそ彼女の持ち味だと言っているし。
篠原監督といえば……長編デビュー作の「月とキャベツ」に心酔した私にとって、いけないとは思いつつ、篠原監督に対する先入観みたいなものがずっとあって、ちょっと違った感じの方向に行くと、らしくないとかナマイキなことを思っていたりしたのだけれど、(それこそイメージに似合わず)精力的に映画を撮っているこの監督をなんだかんだ言いながらずっと追って行くにつけ、この人は実は大人の映画が撮れる人なのかもしれないとようやく思えるようになった。そう思えるようになったら、俄然、これからの作品も楽しみになった。それは無論、本作品の静謐な痛ましさがとても印象的だったから。
芥川賞作家、柳美里の、彼女の身に本当に起こったことを、自分自身を見つめながら書き続けている「命」シリーズの映画化。すでに四冊出ている原作の方にも強烈な興味があるものの、この人って、何か見るからにあまりに重そうで、読んだら引きずられそうで、怖くて、手が出せなかった。映画化作品を観て、とても良かったと思いながらも、いまだにそんな怖さがつきまとってしまう。女であることの強さと弱さがあまりに赤裸々で、人間であることの自覚と自己嫌悪があまりに痛烈で、……だから、原作ではきっともっとそれが重くて辛いだろうと思うと手が出せないのだ。……なんて思う自分がナサケナイと思いながらも、この映画を観ての感想文が色々と綴られているオフィシャルサイトを見ていたら、さらに暗澹たる気分になってしまったのだ。案の定、女は子供を産むべきだというような論が出ていたから。
それが女にしか出来ない女の幸せだというのなら、
ならば、子供を産めない女はどうする?
子供を産む気がない女はどうする?
女、いや人間失格なのか?
いつでも女はこうした存在論にさらされている。男は決してさらされないのに。
ただ、本作には女のこうしたジレンマみたいなものも、ちゃんと含まれている気がする。というより、含まれていると感じたからこそ、それが活字で責め立てられる原作に手が出せない、なんていう感情が生まれたような気がするのだ。母における子供への血のつながりの重要さは、時に残酷にもなる。“子供を生むのが女の幸せ”……つまり子供にはその女の幸せの重荷が負わされるから。豊川氏の演じる東氏のように、父親は比較的誰でも、それこそ思いさえあれば許容されるけれども、母に対する純血の視線は厳しい。絶対とも言えるほどに。女にとっての子供は、必ずしもいいことばかりじゃない。
本作にも描かれている、柳美里氏の親子関係なんて、まさしくそんな複雑さ、厳しさが現われている。彼女が小さい頃から繰り返してきた自殺未遂に神経をすり減らしていた母親、そして父親を捨てた母親に対する美里の、母娘としてのつながりに自己嫌悪をも含んだ憎悪の心。美里が妊娠したと知った時、それが不倫の子であっても「これであの子は簡単には死ねなくなる。女は子供を持ったら死ねないのよ。バンザイ!」と叫ぶ母親(樹木希林、凄い)、それは歓喜にも悲痛にも聴こえる。血のつながった親と子の愛情って……そういう愛という感覚って、素晴らしいとか何とか、そんなもろ手をあげて賛辞すればいいだけのものじゃなくって、ポジ、ネガどちらも含む、全てを共にしなければならない人生そのものの過酷さなのだということを、思い知らされる。もしかしたら……ポジ側にいることだけでも許される父親と比較して、母親の方がいいというのなら、人生の過酷さを自らのものだけではなく、子供でもう一度経験できるという、それはどこかマゾヒスティックな欲望なのかもしれない。
お腹の子の父親である男が煮え切らなくて、一人この赤ちゃんをどうしようと途方にくれる美里。自然と、吸い寄せられるように、10年間を共にした昔の恋人、東由多加のもとを訪れる。しかし彼は末期癌に侵されていた。……何という運命の皮肉!しかしその運命の皮肉を、東氏は運命の奇跡としてとらえようとする。彼しか頼る人がいなくて、子育てを共にしてくれないかと言う美里に「昔の男によく言うね」と笑いながらも、彼は自分の命と赤ちゃんの命がすれ違うことに芝居人ならではのドラマティックなものを感じたのか、それを承諾する。「あなたが一人で子供を育てているのなんて、想像できないからね」こうして美里と東は共に二つの命がすれ違う瞬間に向かって、絶望と希望がないまぜになった濃密な時間に足を踏み入れることになる。
東は、確かにこの生まれてきた丈陽の実際の父親ではないけれども……真実の父親となったんだろうと思う。彼自身の意志の強さで。あるいはここが、女では、母親では真似の出来ない男の、父親のうらやましさ。先ほど、それが楽観的過ぎるような物言いをしてしまったけれど、血のつながりに縛られている女、母親にはなかなか真似のできないこの男、父親というのは、とてもうらやましいし、凄いと思う。女と男って、不思議に役割を分け合っているものなのかもしれない。死に近づく壮絶さが「千年旅人」の時の彼を思わせる豊川氏。思えば「千年旅人」は、他の男との子供だと思っていた娘が、実は自分の子供だと判る男の話で、裏返しになるような本作と、不思議な符合を感じる。
先ほど江角マキコを美しいとホメまくったけれど、豊川氏も美しい。彼が彼女に呼びかける「あなた」の響きの美しさが、優しくてたまらない。丈陽を抱き上げ、美里の母親に、「赤ちゃんなのに長くてきれいな指をしているでしょう」と言い、母親が「その長い指で女を泣かさなければいいんだけど」なんて言うくだりにはちょっと笑ってしまった。というのも、豊川氏自身が実に美しい指の持ち主であり、彼自身は知らないけれども、東はその男っぷりの良さが女を引きつけ美里を悩ませたのだから(別れのシーンの黒ブリーフがねえ……)。豊川氏と江角氏は、実に画になる。どの場面においても、パズルのピースがピタリと合うように完璧に美しく、画になる。東はどんどんやせ衰えて、顔色も真っ白になって、命の火が小さくなっていくのが目の前で展開されているという感じなのに、それもまた美里といると不思議に美しい二人になる。
雪の中、生まれたばかりの丈陽を連れてのお宮参り。黒づくめで長身の豊川氏と和服姿が美しい江角氏、そして赤ちゃん。写真にも収められる彼らは、雪もあいまってそれこそ奇跡のような美しさを感じる。父親と一緒に来ていた小さな男の子が走り回るのを見て号泣する東。彼の感情を高ぶらせたのも、この雪のせいかもしれない。丈陽が生まれた時、雨が雪に変わった。東はこの雪が自分を迎えにきたと思ったら、赤ちゃんを連れてきた。そして東が死んだ時、真白い雪が降りしきっていた。……雪が死者や生者を行き来させる、だなんてまるで怪談みたいだけど、怪談に出てくるぐらい、そうした感覚って確かに昔から本能的に持っているものだということ、かな。
母親学級で幸せそうな他のママたちとは対照的に「楽しいことは、何もありません」と泣き伏してしまった美里(この場面の江角氏、素晴らしかった)が、しかし丈陽を産み(出産シーンは実際のものを撮ったらしく、実に生々しい)、東の命の火がだんだんと薄らいでいくのを支えながら丈陽を彼と共に育て続ける。もう本当に長くはないと悟った東が「僕が死んだら、あなた、生きていられないでしょ。後を追うでしょ」と美里に言う台詞は、……こんな壮絶な言葉、初めて聞いた気がするけれど……ある意味、究極の口説き文句じゃないかと思うんだけど……でも美里は、死ぬことは出来ない。出来なくなってしまった。母親になったから。果たしてそれが単純に幸せなだけでいくかどうかは判らないけど、彼女の母親が言うように、確かに母親は、死ねないのだ。ああ、でも何となく判る。例えば仕事でノイローゼになってしまった父親が自殺する例を聞くことは良くあるけれど、母親の自殺ってあんまりない。あるいは、それより先に子供を殺してしまうのかもしれない。母親としての自分を抱えたまま、死ぬことが出来ないから。母親と子供のつながりの絶望はそこにあり、希望は共に生きていくこと。あまりに両極端だけれど、それが父親と母親の決定的な違いなのかもしれない。
筆文字のクレジットがちょっと野暮な感じがして、気になってしまった。★★★★☆
私は、いわゆる仏教的寛容や許しの観念が、生活の中にある程度は残っている日本においては、そういう思いが少なくともこうした映画が作られるアメリカよりは存在するんじゃないかと、存在していてほしいと願いにも似た思いを持つのだけれど、それもまた、甘いのかもしれない。優しさを他人に求めるなんて、その方が残酷かもしれない。だけど……。この映画では、一人息子を殺された両親が、犯人を憎んで憎んで、極刑に処してほしいと願うのだけれど、その願いが叶えられそうもないと知り、その犯人を自らの手で殺してしまう。犯人が息子を殺したこと、この親が犯人を殺したこと。やっぱり、それはやっぱりその殺す行為は、殺人の罪は、同じことなんだと思えてならないのだ。被害者の親が犯人の死を願うことが正当な権利のように言われがちなことに、私はどうしてもどうしても、首肯できない。その立場になったことがないからと言われるのも承知の上で、やっぱりそれは……人の死を願うことは、少なくとも正義ではない、と思う。
本作の中の犯人の描写には、それを誘発させるものが数多くあり、ちょっとそれはフェアじゃないなと思わなくもない。つまり、彼は金持ちのボンボンで、ワガママなまま大人になったという感じであり、妻を寝取った男を短絡的に殺してブチこまれた後も、親によって多額の保釈金を積まれて大手を振ってシャバに出てきて、平気な顔で女をナンパしている、みたいな。たった一人の息子を殺された両親にとって、留置所に入れられていないだけで納得がいかないのに、こんなヤツではそりゃ殺してやりたくもなるってもんである。しかし、本当に彼を殺しちゃうという段になって、このワガママ男の心のうちが見え隠れしてきて、チクリチクリと苦い針を刺してくる。
彼は本当に本当に、妻を愛していたのだ。そして子供たちを。そんなボンボンに育ったゆえに夫婦間にいろんな確執があって別れてしまったのだろうけれど、自分の真情を判ってもらおうと妻の元に通う彼が頑なに妻に拒絶され、しかもその妻が若い男をかこっており、しかもその若い男が妻との間に立って彼女と話さえもさせないとくれば……だなんて、考えてしまうのは、やはりあの写真のせい。このボンボン=リチャードが殺した若い男=フランクの父親、マットが、リチャードのバスルームで見てしまう写真である。リチャードと妻のナタリーがこれ以上はない満面に幸福の笑みを浮かべて抱き合っている写真。その他にも、壁一面に、子供が描いたものと思しき画がところせましと貼ってあるのだ。
ナタリーと愛し合っており、子供たちにもなつかれていたフランク。けれども彼はやはりまだまだ若く、彼女への思いも彼女の家族との決断も固まるには至っていない。うるさい母親の気持ちをそらすために、「ひと夏の恋だから」などとごまかしている状態なのである。それに対して、どんな悪辣野郎だったとしたって、家族と元に戻りたいと真剣に思いつめているリチャードを、どうして責めることが出来るんだろう?確かに彼は愚かだった。銃なんか持って押しかけて、ハズみで人を殺しちゃうようなことして。でも、愛する妻と話もさせない男を心底憎いと思ったこの時の彼の気持ちを否定することなんて、できっこない。だってこの時点では彼女への思いはリチャードの方が勝っているのだもの。もちろん、ナタリーの気持ちも大切なことではあるのだけれど……。
カンタンに銃を持ち歩くことが出来、カンタンに人を殺せてしまうこの銃社会に対して改めて脅威を感じてしまう。もちろん人を殺すのは銃ばかりではないし、安全神話が崩壊しているこの日本でも、感心するぐらいさまざまな方法で人が殺されているわけだけれど。でも、こんな風に一瞬で人の命を奪ってしまうのは、やはり銃だけだ。一瞬の迷いや早まった心がその引き金を引かせ、一瞬で命が吹き飛んでしまう。そしてその一瞬で、その殺人者の人生もまた吹き飛び、被害者、加害者双方の家族の心に一生の傷が残る。リチャードがフランクを一瞬で殺してしまったのと対照的に、マットはリチャードに執拗に弾を何発も何発も撃ち込む。そのどちらの描写も、銃自体を憎む心になりそうなものだけれどな、と思う。アメリカは……なぜ平気で銃を持っていられるのだろう?銃は人を殺すことしか出来ない道具なのに。
一人息子を殺され、それまではこの年でもかなりラブラブな夫婦だったのに、急にお互いの心が見えなくなる二人。息子の死をお互いのせいにし、昔のことまで引っ張り出して大ゲンカしたあと、二人はふと我に帰って、抱きしめあう。それは、本当に皮肉なことなんだけれど、息子の死によって、こんなにも長い間一緒に暮らしてきたこの夫婦が真に判り合えたということで……。その絆を強固にするために最後に締めるネジが、このリチャード殺しなのだ。マットは、計画よりも早くリチャードに銃弾を撃ち込んでしまったことを「待てなかった」と言ったけれど、あの写真が彼の心に生じた迷いを振り切るためだったような気がしてしまうのは、それこそ甘いのかな……人って、人の心って、そんな単純なものじゃない。単純な悪人なんていない。それをかすかに匂わせる苦いラスト。でも、かすかに、ってあたりが現代のアメリカの限界なんだろうか。
咳一つ出来ないようなシンと静かに張り詰めた中に展開される物語は、ミステリかサスペンスかといった緊張感に満ちている。ことにこの両親、それも母親役のシシー・スペイセクの張りつめようは尋常ではなく、この薄い色の金髪が年をとってヘナッとなってて、青い冷たい目に、やせぎすの体も、全身思いつめてて、怖いぐらい。彼女自身がすでにサスペンスになってる。ちょっとハスッパな感じのマリサ・トメイも、このシシーに引きずられるような感じで、意外にシリアスな演技を上手くこなしている。役者の相乗効果。
この「イン・ザ・ベッドルーム」というタイトルは、舞台となったこの海沿いの穏やかな港町で盛んな、ロブスター漁にまつわる話から取られている。寝室=網にかかるロブスター。二匹でいっぱいで、三匹は入れない。三匹になると、一匹はその立派なはさみがもげたりしてしまう。……はじき出されるのは、はじき出されるべきなのは、本当は一体誰だったんだろう。いや、はじき出されるべき人間なんて、いないはずなのに、結局、二人が、はじき出されてしまった。寝室は一人では広すぎる。★★★☆☆