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ラスト・プレゼント/
2001年 112分 韓国 カラー
監督:オ・ギファン 脚本:パク・チョンウ
撮影:イ・ソッキョン 音楽:チョ・ソンウ
出演:イ・ヨンエ/イ・ジョンジェ/クォン・ヘヒョ/イ・ムヒョン/コン・ヒョンジン/キム・スロ/キム・サンジン
困ったことに、ケナすほどの欠点を見つけられないのよ。カッティングやカメラ含めてとても上手く出来ていると思うし、何より役者の熱演が素晴らしいと思う。でも、そうやって物語の方で盛り上がれば盛り上がるほど、つまり、泣かせるぞーッとしているのに気づいちゃうと、意識的にシャットダウンしてしまうのだ。むしろ、全然泣けるとか思いもしないで観ている映画、そして淡々と語る映画だと、自分の方で勝手に盛り上がって号泣しちゃうことが多かったりする。そうか、絶対泣けるんだ!と期待したのがマズかったのか……力入っちゃってたもんなあ。かといって、もう一度観てみようとは思わないんだけど……。ぴあの出口調査の第一位につられちゃったのよね。でも、「クラヤミノレクイエム」もやっぱりそれが一位でつられたんだけどものすごくハズしまくったし、あの結果は私とは相性が良くないのかもしれない……。
なぜ感動できなかったのかをつらつら考えていくうちに、二つの映画がキーワードになるかな、と行き当たった。これ以降、“言い訳”をその二つの映画によって綴っていこうと思います(笑)。その二つの映画は、「ピーピー兄弟」と「阿弥陀堂だより」。どちらも私の大好きな五つ星映画。無論、本作とはまったく関係はナシ。実は本作は、観るのを避けていたのだ……というのも、お笑い芸人の話、というのが「ピーピー兄弟」とカブっている気がして、で、最近秀逸な韓国映画を観るにつけ、凄い大好き!と思うほどに何か嫉妬めいた、負けた!みたいな感情を持ってしまうのが否めなくて、何で、別に対抗することなんてないのに(笑)。だから、本作を観て凄い感動しちゃったら、「ピーピー兄弟」が大好きだったことが薄れてしまう気がして怖かったのだ……ホントに。
勿論、本作と「ピーピー兄弟」は物語もテイストも何もかもぜっんぜん違う映画なわけで、そんなことを思う私がアホだったわけだけど、お笑い芸人の映画、というのが私の中で「ピーピー兄弟」で完成されちゃってて、泣き笑いしてしまう感覚、笑いながら泣いちゃうから、より感動が強まる、みたいな感覚を本作に期待してしまったのだ。でも、それは、笑えなかったのは(えっと……笑えなかったよね?周りからすすり泣きは聴こえてきたけど、笑い声は全然なかったもん)韓国語が判らなかったり、あるいはお笑いのテイストがちょっと日本と違うせいもあると思うし、韓国の人たちは、お笑いの部分できちんとウケているんだろうと思うんだけど。だって、やっぱりこの部分で笑えなきゃ、それに対比する形での感動だから、意味ないよね?でもやっぱり欲を言っちゃうと、彼らの芸人としての、プロとして舞台に立っている部分で笑わせるだけではなくって、素の部分での笑いも欲しかったりしちゃったのよね。それは多分に「ピーピー兄弟」に私が影響されているせいがあるだけ、なんだけれども。お笑いってさ……あるいはただ単にコメディ映画って言ってもいいと思うんだけど、人生の悲喜こもごもというか、何かマヌケなことやっちゃって、笑いながらもそこに何か胸つまるものがあるというか、ただ感動ってものと違ってそういう魅力があると思うのね。で、本作は、舞台以外はすっかり感動モード。ちょっとこれが私にはしんどかった。
ことに奥さんが……何かピリピリしている奥さんにちょっと引いちゃった部分があったんだ。もちろんそれは、彼女自身が夫の邪魔をしたくなくて、自分の病気のことを知られたくなくて、隠しとおすためにワザと辛く当たったわけで、これは感動に値するに違いない。その理由は判る。確かに判るはずなんだけど、でも神経質にピリピリしている奥さんに、それは夫に対して演技している切なさと判っているはずなのに、ついついこちらまでピリピリしちゃって……うーん……こんな風にこの奥さんの造形とかキャラクターとかやり方とかに、ちょっとずつちょっとずつ自分の中で反発するものがあるのが積み重なっちゃったのが、感動をジャマしてしまったんだと、思う。物語の冒頭で、この夫婦、何か倦怠期ムードで、奥さんはこのうだつのあがらない亭主にイライラしている。この倦怠期のムードがいつから発生したのか判らないんだけど、彼女が自分の病気に気づいた時、それを気づかれないように、今までの雰囲気を保とうとしたわけで、えっと……ということは、彼らの気持ちは離れてたの、離れてなかったの?という……。彼が子供の命日を忘れてたりとか、少なくともこの彼は彼女の病気に気づくまで、この倦怠期ムードの気分のままだったわけで、で病気を知ったとたんいきなり夫婦愛に目覚め、というのが、あら、あらららら?という気がして……それにこの夫婦愛の描写、男性が突然、もの凄く感情豊かになっちゃったりするのにも思わず引いてしまったのだ。
それに彼女、ご主人がクラブの仕事をしたりするのを叱咤して、勿論ご主人のこれからを慮ってのことだっていうのは判っているんだけど、TVプロデューサーの奥さんに根回ししたりするのが今ひとつ共感しにくい。彼女は、彼が人を笑わせることが大好きで生きがいを感じている、そんな彼が大好きだったわけでしょ?どこでだって、別にクラブでだって、それをまっとうできれば良かったんじゃないのかなあ?勿論、彼女の気持ちは判る。自分がいなくなったあとのご主人が心配で心配で、そういう行動に出たのは凄く判る。でもこの、「私がいなくなったら、あの人どうするのかしら。私がいなくちゃあの人はダメなのに」という、このどこから出るんだ、その自信は?というのにも引いちゃったし、それにこの根回しというのがね……甘いかもしれないけど、こういうの嫌いなんだもん。それにこれって、本当にご主人が喜ぶ方法かなあ?勿論、隠しとおすつもりだったろうし、実際、この件については隠しとおしたんだけど、何かそうやってちょっとずつちょっとずつ彼女から心が離れていってしまう。
彼の才能を信じていたんなら、あるいは、人を笑わせる、そのことこそが彼の生きがいだと理解していたんなら、スポットライトを浴びることが、そうして生活を安泰にさせるのが、それほど意味のあることなのかなって。それは彼女が安心して死ねるからという理由からきてるんじゃないのかな、なんて思って……。あのね、この部分も、「ピーピー兄弟」があるから、なんだよね、実はそう思っちゃうのが。「ピーピー兄弟」は、いいように利用されてしまうテレビ界に決別して、実家の葬儀屋を継いだんだけど、彼はどうしても人を笑わせることがしたくて、葬式にきた人たちの心和ませるのに笑わせたりしてて、そのことに気づいた奥さんが、この人は人を笑わせる仕事をしてなきゃダメなんだ、と自分が相方になって老人ホームとかで夫婦漫才を披露して歩く、とそういうストーリーだったのよ。私これにね、つまり場所はどこでもいいんだと。笑わせる相手も誰でもいいんだと。自分を見失わない場所で、人を笑わせることを生きがいにするこの真正のお笑い芸人の彼にとても感動したからさ、そしてこの奥さんにも。だからついつい本作と……ね。
本作の夫婦は子供を亡くしてるんだけど、このことがどこまで物語に作用しているのか、というのにもちょっと疑問だった。夫婦の話だし、若いうちに男性の方が勘当されてまで(彼女は身寄りがない)結婚したわけで、子供がいなくちゃちょっと不自然かな、とも思うんだけど、子供を亡くした設定にしてまで、“二人”にこだわるかな、というのが……。子供を亡くすこと、あるいは得ること、その点でものすごく感動したのが「阿弥陀堂だより」だったんだ。子供を得ることの大切さを教えてくれた。なんか本作ではこの亡くした子供が二人にどう作用しているのか、あるいは作用しているのかどうかもあやふやだったのが、ずっと引っかかってしまって。確かにポイントで子供のお墓は出てくるんだけど、ポイントだけなのが、余計にその作用の有無が気になってしまう。で、「阿弥陀堂だより」では、年月を重ねた夫婦の、その何をするでもなく判ってしまうその絆が、お互いを思いやる気持ちが、たまらなく泣かせたもんだから、つまりはそれこそ私にとっての近年これほど泣いた映画はなかったんじゃないかと思うぐらい号泣した作品が「阿弥陀堂だより」だったんだけど、そこでの夫婦の造形と本当に対照的で。そりゃ、別の作品なんだし、夫婦のあり方なんていろいろあるわけだし、違って当然なんだけど、やっぱり年月を経た夫婦の絆(それを感じさせる役者も凄かった)には若い夫婦は勝てないな、というのが……。
若い恋人のラブ・ストーリーならば、確かに今の韓国映画はまさしく無敵。でも、夫婦の話になるとちょっと弱い感じがする。若者のラブストーリーは薄い?……うーん、そこまでは言わないけど。で、実はね、確かに今のラブストーリーの韓国映画は素晴らしいんだけど、それに疑問の余地はないんだけど、でも、それしかない、と思ってきちゃったのもまた事実なのね。勝手を承知で言うと、そろそろ飽きがきたかな、なんていう……。韓国映画のこの路線が日本で当たるというのがあって、そういう作品ばかりを輸入しているのかもしれないけど。本作は夫婦だけど、この若い二人、の基本ラインは変わってなくて、だからついつい全然関係ない「阿弥陀堂だより」なんかを持ち出したくなったのだ。
自分が病気じゃないと言い張る彼女を彼が無理矢理抱きとめ、二人号泣しながら抱きしめ合うとか、彼がスターの仲間入りをしたと確信できる舞台を、客席から朦朧としながら見る彼女と舞台の彼とのカットバックとか、こんなに感動的なはずなのに、何で私、こんなに距離を置いて、冷静に観ちゃっているんだろ?しかも二人の演技、掛け値なしに素晴らしいのに……。この、「それは誰か他の人なの。私じゃない」と言いながら引きつったように泣くヒロイン、イ・ヨンエの演技はまさしくものすごく真にせまってて、この作品中で最も迫真の演技といっていいほどの場面なんだけど、この台詞は彼女のアドリブなんだそう。凄く、意外だった。というのも、この台詞に、信じられないほどの強靭な精神力を持つ彼女の隙間が、弱さが、やっと垣間見られた、と思ったから。彼女は、本当にそれが他の人だったら良かったのにと思ったから、そんな台詞が出たんじゃないんだろうか。イ・ヨンエが演じる役の中でそう感じて出た言葉なんじゃないかな……。
彼女が死ぬ前に、残していく彼を心配して、色々と注意事項を言う場面、きちんと帰って寝てね、とかちゃんと食べてね、とか、そういうことを、で、彼、君の願いはそれだけかい?とニッコリ笑って言うのね。私、ここで彼女が、私に気にせず再婚してね、というような言葉を言うかな、と期待しちゃったのね、勝手に。というか、当然言うと思った……勝手な言い分だけど、残されていく彼がこんなに心配なら当然出る台詞だと思ったんだけど、それが出たら感動できるような気がしたんだけど。
細かいことを言うと、医者の造形なんかにもちょっと引いちゃうところがあった。妻の病気に取り乱してくって掛かるご主人に、いくらそう思ってたって「それならあなたは何をしたんですか」なんて、あんな言い方、するかなあ?医者ならもっと、それこそ人の気持ちを思いやって、このご主人の気持ちをくんだ言い方をするんじゃない?それに、いくら本人の希望でも、瀕死の患者を家にアッサリ帰しちゃうのも??だったけど、韓国では望みのない患者は家で最期を迎えられるように、帰すことが多いんだって。でも、家族に全然意向を聞いてなくて、本人の意思だけでもそれってアリなの?うーーーん……あ、でも、あのサギ師の二人は好きだったな。若手お笑い芸人に売り出してやるって持ちかけて金を騙し取ろうとする奴らで、奥さんにとりいろうとしたらサギだってばれて、でもその場で彼女が倒れちゃう。彼より先に、この奥さんが瀕死の状態なんだってことを彼らは知ってしまって、カネを用意してきた彼に「いいかげん目を覚ませ。奥さんが死にかけているのに!」と告げるのだ。二人のうち手下の方のでぶっちょの彼が、特に人のイイ奴なのね。芸人の彼から奥さんが死ぬ前に会いたがっている人たちを探してほしい、と言われて、兄貴分の方は渋っているんだけど「人を騙すより人助けの方がいい」なんて言うんだもん。
でも彼らがそうして探した昔の同級生や先生たちは、これは死ぬ前の人に会わせない方がいいだろうっていうぐらいにヤサグレちゃってたり、自分は会わない方がいいと言ったりで、なかなか連れてこれない。加えて、必ず見つけてほしいと頼まれていた初恋の人、というのが見つからない。実はこの初恋の人というのが誰あろう、彼女が結婚したお笑い芸人の彼、だったわけ。それが判るのは、彼女の親友だったでぶっちょの女の子。絶対に成功してみせる、と言っていたその子は今は屋台でタイ焼き焼いてて(韓国にもタイ焼きって、あるんだ……)だからどうも会いづらい、と言っているんだけど、彼女だけは会いに来てくれるんだよね。ここだけはちょっと泣いちゃった。もうすぐ死んじゃう彼女をガッカリさせないように、この子もまた自分は成功しているんだと演技して、再会もそこそこに帰る、その帰り際彼女をぎゅっと抱きしめて「頑張るのよ」と……友達の描写は、純粋に感動できる。思わず自分にホッとしたりして……。
で、そう、この友達だけが彼女の初恋の相手を知ってて、だからここで「彼と結婚したのね」と。でも、なーんかこれ、ちょっとコワいな、と思っちゃ、いけない……よね?でも、あの思い出の品の紙切れとか大事にとっているのって、彼と結婚できたから良かったけど、そうでなかったら、かなり凄い描写というか……。でも、彼との交際のなれ初めは、ケンタでバイトしている彼女を彼が見初めて、彼の方からアタック(キャー!赤い薔薇の山!)ということだったでしょ?でもここまでずっとずっと好きだった彼女、とても偶然とは思えない……ということは、彼の住んでいる近くでわざわざバイトしてたとかそういうことを想像しちゃうんだよね、どうしても。彼女の得意な編物も、気持ちを編みこんでいるっていう表現でしょ?やっぱり。それを形見として残していくのはうーん……やっぱりちょっとコワい。勿論、彼女をずっと忘れない思い出なんだけど、一生、縛られてしまいそうで。
イ・ジョンジェは「イルマーレ」「純愛譜」に続いて三度目のお目見え。繊細で自然な演技をする人だと思っていたけど、コメディアンという設定と、シリアスなメロドラマということもあって今回の彼はかなりドラマティック。どちらにしても非常に上手くこなす役者さん。そしてこの映画はヒロイン、イ・ヨンエなくしてはあり得なかった、彼女のピンの主役映画と言ってもいいぐらいで、あの可憐な美人女優がブスに見えちゃうというのが凄いんだけど……本当。ロングスカートにぺったん靴にソックスなんていうダサダサな格好が“似合う”というところまで演じきってて、女優冥利に尽きるんじゃないかなというか、これは間違いなく彼女の代表作のトップに君臨するに違いない。★★★☆☆
その流れの中で彼女が手にした小さな拳銃。そう、この流れだし、日本だし、手の中にすっぽり収まるような銀色の拳銃がまさかホンモノだとは彼女でなくったって思うまい。彼のマジなうろたえに彼女は気付かない。あくまでこの戯れの延長だと思っている。彼女は笑いながら引き金を引く。そして……。
なぜ本物の拳銃がここにあったのか。そしてそこからカラーが一転して、彼女が自分のこめかみに引き金を引くまでの決心にいたる描写に、前半ひきつけられただけの吸引力を持てないのが少し……やはり時間の問題かな?でもこのあっけなさがイイんだけど。★★★☆☆
画面の手触りが、とても好き。粒子の粗い柔らかさで、光が滲んでいる。コミックスではどこかスタイリッシュだった鎌倉の街も、映画では古い家や寺に彼らは住んでいて、木目や土の柔らかさが心地いい。ヒロインの里伽子は映画では老舗料亭の娘ということになっているので、落ち葉がざわざわと音を鳴らす庭で、振袖姿の彼女が和服を着てお茶をたてるなんていうシーンもある。三人の若手女優が和服姿で勢ぞろいするラストには、ちょっとサービスっぽさが感じられもしたのだけれど……どちらにしろ、こんな空気は原作にはない。
ピアノと月の映画なのだ。映画で出てくるピアノと月は、私にとってはパブロフの犬。もう、それは、無条件で好きなのだ。ドビュッシーもサティも大好き。原作でも勿論出てくるけど当然、演奏が聴こえてくるわけじゃない。月も、その冷たい光がふり注ぐわけじゃない。でも、映画ではそのどれもが惜しみなく満ち溢れている。そして水。私は、海や清流にもヨワい。夜の海が怖い、でも目をそらさずにはいられない、そう言って、その魔力に引き込まれてしまうトラウマをもった里伽子と藤井。月の満ち引きは海のような広大な水たまりをも荒れさせ、当然、人の理性も狂わせる。ドビュッシーの「月の光」のメロディーは、穏やかな冒頭から、心かき乱すような旋律へと移り変わり、しかしやはり聞き入られずにはいられない美しさなのだ。まるで夜の海そのままに。その上にぽっかりと浮かぶ月そのままに。かたや若々しいインディーズミュージックも多用されているだけに、そのきらきらしたピアノの旋律がいっそう魔の魅力を増す。
6人の男女の恋模様が複雑に交錯する原作を、時間的に限界のある映画でどう描くのか。それは原作ファンとしてはやはり最も気になったところだった。視点を里伽子、高尾、依里子と変えて折り重ねながら綴っていく手法を映画もそのまま踏襲していて、この、少しずつズレながら判っていくのが映画にも意外にハマっている。どの場面にも鎖がつながっていくようにこの6人のうちの誰か、何組かが居合わせていたり、目撃していたり、その少しずつバトンタッチしていく様子が、パズルのような面白さ。不思議にご都合主義に感じないのは、その面白さがとぎれることなく、まさしく流れるように綴られているから。
ブレザーにプリーツのミニの女子、学ランの男子と、制服もきっちりコミックスどおり踏襲しながら、しかし、意外にも原作がほぼ忠実に通されているのは里伽子の視点からなる第一エピソードだけで、2、3と進んでいくうちに、原作にはないテイストがだんだんと多くなってくる。この映画だけの言葉と世界に支配されていく。いつしか原作を心の中で無意識になぞることもなくなって、ここだけの「ラヴァーズ・キス」が確かに出来上がってゆく。もしかしたら、里伽子と藤井のカップルは軸に過ぎなくて、彼らの周りで揺れている片思い軍団の四人を、この映画の主人公だと位置づけているような感覚。実はそう思ったのは……この里伽子と藤井を演じる二人、平山綾と成宮寛貴がどうにもこうにもピンとこなかったから。特に里伽子なんて、これは相当難しい役だと思う。心の弱さを必死に隠してる女の子を、この平山綾が演じ切れているとはとても思えないんだもの。成宮寛貴にしてもその点は同様で、宮本亜門、蜷川幸雄に鍛えられたとは思いにくいというか……。それは多分に、原作であるコミックス特有の感情描写の激しさがどうしても頭にあるせいだというのは判っているんだけど。でも、里伽子は平山綾にはやってほしくなかった……正直。私の希望としては、三輪明日美ちゃんとかにやってもらったら、どんなに良かったかと、思う。ただ単に、個人的趣向だけど。
しかし、依里子役の宮崎あおい嬢は外見も含めてまさにぴったり。彼女は別に勝気なイメージがあるわけではないけど、あの素晴らしい目力とたたずまいで、揺れる気持ちがしっかと表現できるまさしく全身映画女優なんだから。彼女が美樹の、里伽子への想いに気づく場面でそれが最も良く示されている。ただ立ちすくむ彼女のインサートショット、それだけで、里伽子にじゃれあっている美樹が、確かに里伽子のことが好きなんだと観客もそう確信させられるのは、これは本当に凄いと思う。そして美樹役の市川実日子。彼女は外見は原作のキャラとは似ていないんだけど、彼女も、想いがその「怨」のこもった目に刻み込まれて、美樹そのもののドンピシャリ。もう、この二人は文句はまるでない。そのまま本当に依里子と美樹なのだ。
意外だったのが鷺沢高尾で、キャスティングされた石垣佑磨は、どちらかといえばオオサカ(緒方のことだ)のイメージに近いあっけらかんとコミカルな演技を見せる。原作の繊細な高尾ちゃんが好きだった当方としては相当に戸惑うものの、このキャラの思い切ったコメディ展開が新鮮で、緒方とのやりとりがまさしく漫才風のテンポの良さで、このやや重いテーマを持つ話に軽やかな風穴があく。彼が実際にピアノが得意で、劇中のピアノ演奏も彼の手によるもの、というのがまたいい。そしてこの高尾は映画では寺の息子という設定になっていて、それもまた彼のトボけた味わいに磨きをかけてくれるのだ。彼、「仮面学園」でヒロインのいい相棒だったコでしょー?あの貢役、私相当お気に入りだったのよ。彼女とのボケ、ツッコミみたいな関係が凄く上手いコメディリリーフで。ここでもそうした彼の才能は大いに発揮されてて、相手がいて光るタイプなのかもしれない。ちょっと注目しちゃうぞ!
この高尾に恋する緒方を演じる阿部進之介は、関西弁とデカイというのは原作そのままだけど、原作よりはるかにハンサム君で、結構これも意外な感じである。でも彼のその長身のイイ男ぶりが、ちっちゃなあおいちゃんとカレカノに見える親友同士となり、これがとってもチャーミング。双方失恋してしまったこの二人が「あの夕日に向かって走るんだ!」「夕日なんてありません!」なんてやりとりするのが、たまらなく可愛くて好きなんだなあ。
原作との微妙な違いでもうひとつ。1年生の設定だった依里子と緒方が2年生になっていること。果たして後輩の立場で高尾を好きだった緒方が、映画では彼らは同級生ということになっている。そして緒方は映画の最後には、この鎌倉の地を去って行く。これも原作にはなかったこと。いわば同士であった緒方に去られて、高尾もまた里伽子と同様一人になってしまう。……実は、この“一人になる”というのが、原作を読んだ時にはあまり気づかなかった切なく痛いポイントで、小笠原に旅立ってしまった藤井を見送った里伽子が、一人落ち葉の敷き詰められた道を歩く後姿が(これも映画のみ)、彼女の一人を痛烈に感じさせたのだ。原作では「夏休みになったら会いに行く」だったのが、映画では「いつか、会いに行く」に変わっており、そして季節は……秋になってしまっているように、私には見える。映画での里伽子は老舗料亭の娘であり、つまりは後継ぎであり、彼女がもう鎌倉に戻るつもりはないであろう藤井を追って小笠原に行くというのは、考えにくいのだ。だから、藤井に、何があったのか、どうして小笠原に行ってしまうのか、その理由を「いつか、話して」のそのいつか、も、何だか私には遠いことのように思えてしまう。そして緒方もまたこの土地を離れていく、というのが、みんなが一人ぼっちになってしまう、一人で生きていかなきゃいけない、と言われているような気がしてしまう。
「害虫」ではピアノの上手い女の子だったあおいちゃんが、ここではお姉ちゃんのピアノに幼い頃は触ることさえ許されなかったヒネた妹を演じる。そのお姉ちゃん……里伽子ももうピアノに触ることはなくて、音はすっかり狂ってしまっている。依里子はそのピアノに座ってデタラメに鍵盤を鳴らす。すっかり狂って歪んだ音を立てるピアノは、この姉妹の関係そのままだ。依里子が好きなのは、里伽子の親友の美樹。美樹が好きなのは親友の里伽子。依里子の親友の緒方が好きなのはこれまた同性の高尾。高尾が好きなのは同様に藤井。彼らは皆、里伽子と藤井が運命的に惹かれ合うその場に居合わせて、自分の片思いのねじれた気持ちを震わせる。まるで狂ったピアノのように。里伽子と藤井は似たトラウマの持ち主で、それはお互いに打ち明けることはない。ただ、似た魂を持っているということを、本能的に察知するだけ。しかし、周りの四人は、この二人の秘密を知ってしまっている。知っているのに、それを知らない同士の二人の恋愛を止めることが出来ない。知らなくても、感じあっているから、それで二人は充分なんだ。これは、嫉妬するよね。好きな人のことなら何でも知りたい、はずが、そうでなくても、心から響きあっているんだから。だから、秘密を知ってしまっている四人の方こそが二人に嫉妬してしまうのが、判るんだ。
依里子が用意していた、あの「テンペスト」の楽譜、最後に姉妹関係を修復した里伽子に手渡されていたけれど、本当に里伽子にあげるつもり、だったのかな……。美樹にあげるつもりじゃ、なかったのかな。里伽子への思いを募らせて、CDでこの曲を聴いていた美樹。それを見つめていた依里子。でもこの描写で、依里子の中の美樹への想いが、想い続けては、いるんだけど、少なくとも希望が、はっきりと断たれているようでなんだか切ない。彼女もまた、一人になってしまう、んだね。みんなが一人になってしまう映画みたい。
里伽子と藤井が短い恋愛期間を刹那的に楽しむ場面に、長い長いエスカレーターにぴったりとくっついて座り込んでいる場面があって、何だかそれが妙に印象に残った。長い長いエスカレーターというのは……及川監督の「日本製少年」にも出てきたような記憶がある。長くて長くて、いつまでも終わりそうもないけど、“時”と同じように、二人を否応なく時間の流れの彼方へ追いやってしまうエスカレーター。彼らの笑顔が、一緒にいられる幸せに輝いているほど、そのエスカレーターの長さが切なく感じてしまう。
この主人公カップルは結構ドキドキのキスシーンを見せてくれるんだけど、他の二組はあまりマトモに見せてくれない。あおいちゃんと実日子さんはホッペにちゅーどまりだし。あううう、ちょっと見たかったなあ、美少女同士のキスシーンをさ(思いっきり個人的趣味じゃ)。でも、ここで美樹に完璧に失恋した依里子が、緒方の胸の中で泣いちゃう場面は、原作でもそうだったけど、何かきゅーんとうるっとなってしまうのよ。映画では原作にあった「最初にお前におうてたら……」という緒方の台詞はないんだけど、でもそういう雰囲気を感じさせるというか。このデコボコ親友同士、何かホントに好きだったなあ。クラシックなヘルメットかぶって二人乗りするまるっこいバイクも可愛くて。画になるんだよね。微笑ましく。
ところで、おーい、BBS、どしたあ、歯ごたえないなあ!私いつも映画を観たあとはオフィシャルサイトのBBSでいろんな人の感想を読むのが好きなんだけど、みんなナリミヤ、ナリミヤ言ってんじゃないよー、もう。彼のファンが彼がカッコいいって、そればっかり書いてるんだもん。吉田秋生のファンが書き込んでいるんじゃないかって思ったのに、それが全然ナシ。うー、確かにこのアイドルサイトのノリの掲示板だとちょっと書き込みづらいような気も……。えー、でもこれって、アイドル映画扱いなの?なんかヤだなあ、そういうの……別に、アイドル映画好きだけどさ……それにしても……。
「多摩川少女戦争」で失礼にも力石!と心の中で叫んでしまった播田美保女史(うーん、女史、というのがピタリとくる)が、看護婦さんで出てくる……というのは聞いていたんだけど、想像以上の強烈さ。あの振り返りざまのニヤリは夢に出てきそう……ホント、凄いわ。あ、そういえば、「多摩川……」でも出てきた魚肉ソーセージまるかじりが、本作では藤井役の成宮寛貴で受け継がれ(?)てる。うーむ、監督は魚肉ソーセージがお好きなんだろうか……。★★★☆☆
山崎努は鉄工所の叩き上げ。それしか知らない。別にそう言わずとも、判る。一人娘の結婚式に、その日のギリギリまで何食わぬ顔をして仕事をしていること、それだけで彼が愚直なまでの職人だと判るのだ。
部屋中に貼られた表彰状みたいなものがなくったって(でもこのカットはほうかさんらしい、生真面目さね)、彼が自分の仕事に誇りを持っているのだというのも判る。でもそれはこの日に限っては確かにええかっこしいだったのだ。彼だってこの日ばかりは仕事を休みにしたかったに違いないのだ。
その日は娘の結婚式の日。
従業員に言われるギリギリまで仕事をして、急いで礼服に身を包み、亡くなった連れ合いが眠る仏壇に手を合わせて彼は家を出た。その袖に洋服メーカーのラベルが貼ったままなことも気付かずに……。
電車に乗る間際に駅員から「ラベルが……」と言われ、向かいに座った子供もじっと彼の袖口を見ている。式場にたどり着くとウェディングドレス姿の娘が待っていた。バージンロードを歩くため腕を組んだ娘に聞く彼。「ラベルって……何だ?」
娘は視線を落とす。袖口のラベルに気付く。とってやる。しかしそれだけではなかった。ジャケットのしつけ糸もとらずにそのままだったのだ。娘はブーケで隠してしずしずと祭壇に進む……。
やはり他の若い監督たちの中にあっては、ほうかさんは保守的な方向に行ったかなという気もしないでもないけれど、だからこそ返ってこのきっちりとしたテーマと作りと語り口にホッとする。何か、古きよき松竹作品、みたいな。★★★☆☆