home!

「み」


2003年鑑賞作品

壬生義士伝
2002年 分 日本 カラー
監督:滝田洋二郎 脚本:中島丈博
撮影:浜田毅 音楽:久石譲
出演:中井貴一 三宅裕司 夏川結衣 塩見三省 堺雅人 野村祐人 斎藤歩 堀部圭亮 塚本耕司 比留間由哲 加瀬亮 山田辰夫 伊藤淳史 藤間宇宙 伊藤英明 村田雄浩 中谷美紀 佐藤浩市


2003/6/4/水 池袋サンシャイン劇場
正式公開時には、時代劇、特に歴史が絡んだモノに弱いせいもあってついつい観逃したままになっていたんだけれど。今回はタダ券をもらっての鑑賞。そしたらこれが音が割れ割れでヒドいのなんの。こういう、新聞社主催だったりする上映会って、時々こんな風に上映状態が悪いことがあるんだけど、タダだから文句を言わないと思ってるのかなあ……実際言えなかったけどさ、ぶつぶつ。なので、中盤までは(そーよ、最後までずーっとこうだったのよッ)かなりこの音声が気になり、そのせいで台詞もかなり聞き取りづらくなっていたので、どうしよう、外出て進言しようか、でも途中で出るのもシャクだし……などと思っていたのだけれど、涙ポイントが出るあたりで、もうそんなことはどうでも良くなり、手放しで号泣状態。あー、もう、やっぱり悔しいけど、浅田次郎は泣かせやがる。あとで落ち着いて考えてみると、ちょっと恥ずかしいぐらいに超メロドラマチックだったりするんだけど、でもそれでも、抗えない、泣いちゃう。鼻水ズルズル。

ただ、主人公の貫一郎が死の直前に、その思いを長々と聞かせる場面では、これは多分、小説で読んだなら号泣ポイントだったのだろうと思うんだけど、しかし、これをカメラ目線で語らせるものだから……ここはさすがに、引いてしまった。うーん、この場面で泣きたかったなあ。他でさんざん泣いたから、いいけど。最も泣かされたのはやはり親子の別れの場面。まだ幼子の娘が、おとと、おととと呼びかける声のなんという愛らしさ、ぷっくりしたほっぺに哀しそうなへの字口、しょんぼりと肩を落としたさま。ああッ、もうこの子を見ているだけで、泣いちゃう!親である貫一郎もこの子の前では涙を抑えられないのはもう本当によーく判るのだ。子役の使い方が、上手い。ヘタに喋らせたり台詞演技させようとせずに、ただただこのお父さんが行っちゃ嫌だ、ということを詳しい事情はこの子には判ってはいないんだけど、ただその一点を表現させて、で、それでいて、このお父さんを止めることが出来ないことが、この子にはおぼろげながら判っているという……降りしきる雪、貫一郎はこの子を抱きしめ、さざめ泣く。ああ……。

泣きのポイントを先に言ってしまうと、一体どんな話なのか判ったもんじゃないんだけど(笑)。原作は上下刊の大長編、だというんだから、これを二時間弱の映画としてきっちりまとめ上げて破綻もなく、そしてここまで泣かせてしまうのは、ホント、すごいわ。だって、これ、その前にテレビで10時間ドラマになっているんでしょ?確かに上下刊もあったら、10時間だって足りないぐらいかもしれないもんなあ。

幕末、そして新選組の物語で、貫一郎はその隊員のひとり。しかし新選組がもはや勢いを失っている頃で、で貫一郎は南部藩を脱藩してきた、他の隊員たちから見ればかなりの田舎侍。しかもそのあまりの無邪気な吝嗇ぶりに(というのは矛盾した言い方みたいだけど、彼の様子じゃホント、そんな感じなのだ)、苦笑し、見下す視線もあるのだけれど、しかし貫一郎の剣の腕は本物。厭世的で、もういつ死んでもいいと思っている斎藤にとって、「死にたくありません。生きるために人を斬るのです」と言う貫一郎は理解できず、一度は斬って捨てたいと思ったぐらい、虫の好かないやつである。しかし貫一郎は、田舎の朴訥侍に見えながら、死体を検死して左利きの斎藤の仕業だと鮮やかに指摘したり、実はかなり一筋縄ではいかないやつだということが判ってくる。この時、「(左利きの)斎藤先生の左側には怖くて立てません」とニコニコ言う貫一郎にはついつい噴き出しそうになるのだが、それだけに、彼のある意味で怖さを、感じることにもなるのだ。そして新選組の内部で本格的に分裂が始まり、時代も大きく傾き始める。本物の侍であることを徐々に現し始めた貫一郎に対し、斎藤はその憎しみが嫉妬の感情も含みだし、そして……。

吝嗇の描写はかなり笑わせる。もうニッコニコでお金をせしめ、大金をもらえると判ると、呆然とし、ありがとうございます!の連呼をする貫一郎に、劇中の隊員たちならずとも噴き出してしまう。ことに一番ウケているのが沖田総司で、これを演じているのが堺雅人という意外。でもそれこそいつも穏やかにニコニコしているのが似合っているこの堺雅人、確かに薄命の沖田総司にハマっているのだ。今まで沖田を演じてきた役者のイメージからはハズれるけれど、これもまた正解。

脇役ついでに先に言っといてしまうと、貫一郎の親友である南部藩の幹部、大野次郎右衛門を演じる三宅裕司が素晴らしい。彼がこんなシリアスな映画でシリアス一辺倒というのは本当に、これこそが意外なのだけれど、普段コメディのイメージが強い人がシリアスをやると、そのシリアスさがとてもリアルに響く。それにやっぱり、芝居人、上手いんだよな。ボロボロになって帰ってきた親友、貫一郎に、切腹をすすめることしか出来ない。本当は死んでほしくなんかないのに。でもただそれだけが、武士として誇り高く死ぬ方法だということがいやというほど判っているから……惨めなままで死なせたくない、引き渡したくなんかない、と。

おっと、またしても話を先走ってしまった。その前にツートップの役者のことを言わなくては。貫一郎と斎藤は、この二人が並んで出ているとまさに血筋の良さを感じる中井貴一と佐藤浩市、なのである。あー、私ってば、バカだ。この二人がツートップで出ているというのに、何で観逃していたんだろ。初共演というのは意外ながらも、確かにそれぞれで主役を張ってきた二人だから、そうだよな、とも思える。それだけに、これはとんでもなく贅沢。要所要所で見せる殺陣も素晴らしく、殺陣の専門役者でなくても、これだけのレヴェルの役者だとやっぱりそうした演技力も殺陣の迫力に加算されるものだよな、と「あずみ」のなまくら殺陣を思い出して、感じ入る。雨の中、斎藤が貫一郎に斬りつけるシーンや、幕府に無茶な抵抗を試みて血と汗と埃と、体力の消耗でボロボロになりながらもまさに死闘を繰り広げるシーンや……まさに息を呑むシーンは数え切れず。中井貴一も佐藤浩市もかなり背が高くガタイがいいので、二人が斬りつけると、実に迫力のある重みを感じるのだ。それはテクニックが素晴らしく、スピード感のある殺陣をする真田広之とはまだ違うスタイルで、この作品にはこの重い殺陣がとても効いている。

この作品、つまりはこれは出稼ぎの話で、お父さんが家族のために必死に働く、命がけで働く話であり、「たそがれ清兵衛」と少し、共通点があるように思う。ラブロマンスは本作では妻との結婚前のエピソードになるわけだけど、慎ましやかだった「たそがれ……」と比べてこれが驚くほどにドラマティック。親友とはいえ、南部の幹部である侍から嫁コを奪い取るのだから。いや、奪いとる前にこの嫁コ、後に妻となるしづが逃げ出してきたのだけれど。それにしてもこのシーンは!純白の花嫁衣裳を身にまとった夏川結衣のしっとりとした美しさにただただ見とれてしまう。彼女が貫一郎にひしと抱きつくシーンは、彼女のしなやかで柔らかな身体の感触さえ感じられて、うわあ、とか思ってしまう。この場面以外でも、生活に窮乏した上に、三番目の子供をお腹に宿してしまい、切羽詰まって入水自殺をしようとするしづを貫一郎が止める場面、ずぶぬれになった彼女を水の中で抱きしめるところも、濡れた衣服の下のその柔らかさを感じてしまうんだよなあ……しかも、彼女は新しい命を宿しているという設定だから、そしてあまりに哀しい場面だけに余計に何か、なまめかしくて……。女性陣は他に斎藤の嫁である中谷美紀が出てくるけれど、やはり夏川結衣のこの美しさと素晴らしさにかなうものはない。

ま、でも中谷美紀はとても哀しい役柄で、印象に残る。彼女は旦那の斎藤から醜女、と呼ばれ、しかしとても大事にされている奥さん。しかし中谷美紀が醜女、ねえ……やっぱり本当にブ女をキャスティングしちゃうと画にならないから、なのかしらん。ほがらかで、無邪気で、密使の手伝いをする道の往来で、いきなり旦那のほっぺにチューしちゃったりする(その直後の斎藤、いや佐藤浩市の頬をゆるめた表情ときたら!)。でも、彼女の命を守るために、と斎藤から手切れ金を渡されて、そんなものはいらない、でも今夜だけ、思いっきり可愛がってください、と最後の情事に身をゆだねる彼女は、次に貫一郎に発見された時、自らの命を断ってしまっているのだった……。

斎藤と貫一郎、この二人のシーンで一番好きなのは、新選組がもうどうしようもなくなって、往来にへとへとになって座り込んでて、で、貫一郎がどこからか調達してきた握り飯を皆にふるまう場面。最後のひとつを自分ではなく、斎藤に食べさせ、それを知った斎藤は怒って貫一郎につかみかかるんだけど、もう体力がなくなっているから、二人して倒れこみ……斎藤が、なぜなんだ、きさまは……という感じで問い掛け、そしてこの時だけ、それまで「斎藤先生」と呼んでいた貫一郎、「斎藤さん」と呼びかけて……二人の顔と顔が近付いたあの耽美な画が、この二人だからもうホントに……素敵なのよね。

で、おにぎりは、この場面をも(信じられないことに)切り抜けて、全身血だらけの貫一郎がフラフラになって故郷に帰ってきて、そして次郎右衛門の情けで畳の上で自害する直前のシーンにも出てくるんだけど、おにぎりって、何であんなに、泣かせるんだろ。この感覚って、日本以外で伝わるんだろうか。米、握り飯。これが他の食べ物だったりしたら、外国ではサンドイッチって訳にもいかないし、やっぱりおにぎりでなくてはいけないのだ。なぜなんだろ。「千と千尋の神隠し」もそうだったし。でもね、貫一郎はそのどちらの場面でも、おにぎり、食べないのだ。ホントにね、ごうじょっぱりで。次郎右衛門が彼のためにと握ってやってるあの後姿、とっても哀しかったのに。でも……しょうがないことなんだけど、これが確かにこの時代、この状況、これしか選ぶ道はないし、立派に死なせてやるためには、本当にこれしかなかったんだけど、でも、やっぱり最後にひと目、愛するしづと子供たちに会わせてあげたかった。

この物語は、次郎右衛門の息子で医者になった千秋、そして「いつ死んでもいい」と言いながら、孫を抱える年まで生きた老年の斎藤による回想で語られる。斎藤が熱を出した孫をつれて千秋の診療所にやってきて、飾られている貫一郎の写真に釘付けになる。「私が最も憎んだ男」……とつぶやくというオープニングから始まって、オッと思わせながらも、斎藤にとって貫一郎は、憎むほどに愛していた、生涯唯一の同志、だったのだということが、すべてが語られて、老年の斎藤が再び映し出される段になって、判る。自分も侍として死にたかった、のかもしれない。しかし、いつ死んでもいいと言いながら、本当は死にたくなかったことを貫一郎に見抜かれていたように感じたのかもしれない。千秋は、貫一郎の娘である、そうあの時、おとと、と哀しげに呼びかけていたあの女の子と結婚していた。これを演じているのも夏川結衣。でも丸メガネをかけて、てきぱきと働いている診療所の奥さんである彼女は、しづとは全く違ってとてもポジティブな感じ。それでいて、眠る時には、旦那さんの手を握ってでなければ、眠れない。父を失った後、その父を追うように戦地に行って死んでしまった兄。大切な人を次々に亡くした彼女の心の奥底にこびりついた、寂しさ。この千秋を演じる村田雄浩もイイ。彼は貫一郎のシッカリモノの息子と親友同志だった。つまり、親子ともども親友同志だったわけだ。そして親子ともども、友人が死に行くのを見送るしかなかった。この子供同士を演じているのが、「独立少年合唱団」コンビで、10代役者のツートップと言ってもいい、伊藤敦史と藤間宇宙。泣きながら水盃を交わす二人のシーンには、泣かされる。千秋はここで、親友の代わりに、この妹の兄になることを決意した。そして兄どころかだんなさんになってしまった。「妹を頼む」と言い残して戦地で散った親友の言葉を守り抜いたのだ。

一人一人の登場人物にこまやかな愛情を注ぎ、一つ一つの場面にもやはりこまやかな気遣いを注ぐ、こういう映画が日本人の誇りを思い出させてくれる。★★★★☆


ミッシング・ガン尋槍! THE MISSING GUN
2001年 89分 中国=アメリカ カラー
監督:ルー・チューアン 脚本:ルー・チューアン
撮影:シェ・ツェンユー 音楽:フェイ・リン
出演:チアン・ウェン/ニン・チン/ウー・ユーチアン/リウ・シャオニン/ワン・シャオフォン/シー・リアン/パン・ヨン/ウェイ・シアオピン

2003/5/13/火 劇場(新宿シネマスクエアとうきゅう)
チアン・ウェンのプロデュースによる新人監督の作品。彼もまた新しい作家を育てたいのかな、と思ったら、「太陽の少年」を撮った頃とこのルー・チューアン監督が同じ年代だから……とウェン自身が語っているのを読んでハッと思い出した。そうだ、「太陽の少年」!「鬼が来た!」のあまりの強烈さに気をとられてすっかり忘れていたけれど、チアン・ウェンは「太陽の少年」で監督としてのデビューを飾った人だったんだった。で、私はその時、これまたとんでもない新人監督が出ちゃったよ、と思ったんだった!もうあれから10年近くたつんだもんなあ……そうかそうか。このチューアン監督に関してはチアン・ウェンの時ほどの衝撃はないものの、脚本も自ら手掛け、現代的に、時にはシュールに、勢いよくまとめあげる手腕はなかなか。何たってまだ30歳なんだから。

警官マーがある朝目覚めると、ガンホルダーから彼の拳銃がなくなっていた。そこから起こる大騒動。中国の小さな村。村全体が顔見知りのようなこの土地で、マーは総ての人に対して疑心暗鬼になりながら必死に銃を探し回る。最悪なことにその銃で殺人事件までもが起きてしまう。

どこかラショーモナイズを思わせる心理ミステリー。マーの友人たちは皆、確かに彼のことを親身になって心配してくれているんだけれど、マーはそれももしかしたら演技かもしれない……と疑ってかかっているし、何よりも彼らの言うことが最初と次とで違うからである。それはなぜか。ヤバい色気を放つ、幼なじみの女の存在である。マーの昔の恋人、モン。マーが銃をなくしたのは、その前の晩の妹の結婚式で酔いつぶれた時。モンがこの結婚式に出席していたことを友人たちは隠したのだ。モンは見るからに魔性の女。マーを捨てて他の男と結婚したけれど、別れて帰ってきて、今はこの村の成金風キザ男、チョウのところに居候している。今は結婚して落ち着いているマーをモンによって悩ませたくない、という友人たちの思いやりが、返って事態をややこしくさせてしまったのだ。しかもモンはマーの銃による犠牲者になってしまう。しかしそれはモン自身が狙われたのでは、なかったのだ。

このモンを演じているのが、「太陽の少年」で健康的な(言っちゃえば太目の)ヒロインを演じていたニン・チンで、あまりに面影なく、美女になっていることに驚く。「太陽の少年」ではその役柄のためにわざわざ相当に太った、ということは聞いてはいたものの、そしてそれから10年近くたってこんな美女になっているとは驚きである。だって、彼女がチョウの住む“ホワイトハウス”の扉から最初に顔を出した時、マーならずともドキッとしてしまったんだもん。だって、こんなショボい(失礼!)田舎の村に、こんな浮世離れした美女がいるってこと自体、もはや非日常。彼女が事態をややこしくさせるのは、友人たちが気をまわそうがまわさなかろうが、不可避のことだったのだ。こりゃ根っからのファム・ファタル、トラブルメイカーだもん。

彼女をどこか得意げに住まわせている“ホワイトハウス”の住人、チョウがそもそもは総ての根源。彼が作った出来損ないの密造酒のせいで家族が死んでしまった、と恨みを抱いた男が、復讐のためにマーの銃を盗み出して、チョウを狙った、その弾が身代わりにモンを貫いた、というのが真相。というオチは勿論最後の最後まで譲るわけだが(あーあ、もうネタバラししちゃった)このチョウときたら普段は意気揚揚と高そうなスーツと車でこの田舎町を闊歩しているくせに、事件が起きるととたんに気の小さい、ヒクツな本性をあらわにしてくる。自分が狙われたくせに、「あの女は色々と過去があるから」とモンのせいにし、銃弾の発射された距離や角度でチョウの供述がアヤしいとバレてきて、マーが詰問すると一転、あっさりと白状してしまう。自分が狙われた、と自覚してからはさっそく防弾チョッキを買い、マーにつきまとい、残っている銃弾から何とか自分の身を守ろうとするみっともない男。

モンがマーの銃によって殺された時点で、マーは第一容疑者としていったん捕まってしまうわけで。牢獄に入れられた彼のもとに、息子がやってきて、大丈夫、心配すんな。銃はきっと自分たちが見つけるから。その代り、もうこれからは殴るなよ、と俄然強くなっちまって、父親に対してタメ口である。マーは素直に息子にうなづき、一緒にきていた女房のシャオマンに問う。俺は昨日の夜、出かけたか?マーにしてみれば女房に無実を証明してほしい、と思ったはずなのに、彼女の返答はこうだった。「一度床を離れたわ。どこに行っていたの?」えええ?うっそお、床を離れたのはあんたの方じゃないのお。マーはそれを探しにいっただけでしょ?あの時、マーに抱いてほしいシャオマンを彼は満足させることが出来なくて、彼女は眠りについたあといったん床を離れ、顔と髪を洗っていた。その姿は妙になまめかしく、モンに比べりゃあからさまに庶民的なこの女房が、何だか急に女に見える瞬間で……マーはひとときこの女房をじっと見つめていた。

シャオマンは、モンがこの村に現われてからマーの様子がおかしいことに気づいていて、嫉妬していたし、私はてっきり、この女房がモンを殺したんだとばかり思っていたんだけれど……。モンが死んで、マーが捕まり、しかし犯人はマーではない、とチョウが証言したことでマーは釈放されて家に帰ってくる。マーの顔を覗き込みながらシャオマンは言う。「ごめんなさい……私モンに嫉妬していたの。……モンが死んで哀しい?」マーは一瞬、口をつぐみ、そして「……ああ」私ねー、この時点で、絶対シャオマンがモンを殺しちゃったんだと思ったのよ。だってチョウの証言の、“小柄な男”というのにも、チョウははっきりと顔を見ている風ではなかったから、小柄、というところには女性であるシャオマンは当てはまるじゃない?あー、でもこれは判りやすいひっかけだったんだなあ。私あっさりひっかかっちゃったんだけど。シャオマンは普段は口うるさいけど、ちゃんとマーのことを愛している、可愛らしい奥さんなんだ。殺しなんて、してない。

多用されるジャンプカットと、現代的な音楽のマッチングが非常に印象的な映画。それは冒頭、マーが銃を探し回るところからもうスタートしている。特に、自分を守ってもらおうとチョウがマーを追いかけ回すところ、そしてそのチョウの姿がふっと消え……それはマーの友人たちによって戸口の中に引きずり込まれたからなんだけど……などというスピード感の中にちょっとシュールな感じを織り込ませるのも、上手い。シュールといえば、マーが妹の結婚式に出席した人たちをかたっぱしから洗い出している時、急に、まるでなんの脈略もなく、まるで夢の中のようなシュールな場面になるのは非常に印象的である。あたりはあの田舎町よりもさらになーんにもない、えらく荒涼とした一本道。そこをマーは自転車に乗り、やはり自転車で逃げる一人の男を追いかけている。男は必死になってこぎまくっているのに、マーの方はまるで軽々としていて、それもまたやたらシュールである。一体これは……本当に夢の場面?いやしっかり現実の場面なのだ。この男は結局シロで、持っていた銃は実に精巧に出来てはいるもののオモチャの銃だったんだけれど、その銃がバン!とぶっ放すとマーの腹に大穴が……と思ったら、大穴はシャツだけで、腹が真っ黒にすすけただけであった。その画はでも、まるでマーの腹に本当に真っ黒い大穴が出来て、向こうが見えてしまうとか、そんな感じに思え、ますます非現実的な画。

あるいは、友人たちと共に結婚式当日をもう一度シュミレーションする場面もイイ。こうだった、と言うといきなり赤いクロスのかかったテーブルが出てきたりしちゃうノリの良さ。それもこの、青空の下で、砂煙の舞う中で、実にのんびりとした空気の中で。そ、アセっているのはマーだけで、友人たちはそんなシュミレーションも、何だか楽しそうにやってるんだな。あんまり美味しくなさそうなビーフンを大声あげて売っている男が、なぜかマーの行く先々で現われたり、そこはかとなくオフビート感が心地よく漂う。

銃を盗まれ、それによって殺人事件にまで発展、マーは制服も預かり処分になってしまって意気消沈である。銃は警官の砦だし、制服も、そう。銃も制服もとられてしまったら、マーはさえないフツウのオッサンである。……というのも、ちょっとおかしいのだけれど。だって、マーは銃や制服で警官をやっていたわけではないのだし(だとしたら、ただのコスプレだもん)。でもこれって、かなりの皮肉。彼自身の勤務態度や業績やそんなものは何一つ関係なく、つまり銃や制服によって皆に警官だと認めてもらっているわけ。誰かが銃を盗み、制服でコスプレしたら、そいつが警官とみなされてしまうのだ。マーの友人の一人は言う。「(銃は)普通の人は使い方が判らない。だから、盗みたがる。皆が盗みたがるから、法で禁止しているんだろ」これはこう言いかえることも出来る。「普通の人は(皆が畏怖する)警官にはなれない。だからなりたがる(強くなりたがる)。なりたがるから、銃と制服で区別してるんだろ」

まだ銃には二発の銃弾が残っている。チョウを殺しそこねた犯人は、必ずもう一度襲ってくる。マーは何を思ったのかチョウを村から逃がす。チョウはバスに乗り、郊外の駅のホームに向かう彼は背後から肩を撃たれ、倒れこむ。しかし、チョウであるはずの男、それはマー!驚く犯人は、ああ、確かに小柄な男……私ったら、あっさり驚いてしまいました。思えば予測のつくオチのような気もするけど、ホントそういうのにうとくて、ダメね。でも、このパッと振り向いてそれがマーだった、そのマー、本当にカッコよかったなあ!マーとこの犯人の男の顔のアップのカットバック、惜しげもなくどアップの、その大仰な表情の気持ちいいスリリング。こういうところ、実に気負いのない若々しさで、いい。

ラストもまた、気持ちのいいどアップなんだ。撃たれたはずなのにマーったら、結構平然と立って、そしてカメラのこちら側に“立ち去って”ゆく。確かにマーは立ち去るのに、どんどんカメラに近付いてきて、そしてカメラがマーの顔を大きく捕えられる位置まで来た時、マーは、ぃやったぜいッ!って感じの、くっしゃくしゃの、歯をむき出しにした、もう顔中ガッツポーズっていうように破顔一笑。いやーあ、実に気持ちいいいねえ。かぶさる音楽が、これがまたカッコいいんだ。現代的なんだけど、それ以上にもっと、洗練されている感じ。

「ミッシング・ガン」だなんていうアメリカっぽい単純なタイトルが、ちょっと無粋だった気もするけど?★★★☆☆


ミレニアム・マンボMILLENNIUM MAMBO/千禧曼波
2001年 105分 台湾=フランス カラー
監督:ホウ・シャオシェン 脚本:チュー・ティエンウェン
撮影:リー・ピンビン 音楽:リン・チャン フィッシュ 半野喜弘
出演:スー・チー/ガオ・ジェ/トゥアン・ジュンハォ/竹内淳/竹内康/ニョウ・チェンツー/ディン・ジェンチョン/杉本秀/前田洋子/矢野素臣/半野喜弘/藤田洋

2003/5/12/月 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ)
何だろなあ。正直言って何を言いたいんだか全然判んない。いや、羅列されている要素を見てみれば、判るような気はするのだけれど。高校をドロップアウトした若者たち。ドラッグやクラブやパーティーに明け暮れる退廃の毎日。嫉妬深い恋人との衝突。包容力のある男性への心の揺らぎ。極寒の、異国の地……。でもホウ・シャオシェン監督、私は最初からきちんと観ているわけではないので何とも言いがたいんだけれど、何かどんどん、何が言いたいんだか訳が判らなくなってきている、気がする。「憂鬱な楽園」も本作と似たような戸惑いを受けた……若い人に興味があるのだろうか、とは思うんだけれど、そうした若者文化(という言い方も年寄りくさいが)、ドラッグやクラブやパーティー、といったものがなんというか非常に表層的に流れていって、観てるこっちは何かただうるさいというか、それでもって何を描写したいのか、まるで判らない。

観客も少なかったけど、オフィシャルサイトのBBSの書き込みも異常なぐらい、少なかった。何となくさもありなん、である。彼らの行動に心に訴えるものが、なさ過ぎる。いや、正直な話、何を考えているのかさえ、つかめない。それはいわゆる、“最近の若者は……”的な共感しにくさなのかなと思ったりもするけれど、それとも違う気がする。実はクラブシーンのうるささとか、せつな的な毎日とか、「モーヴァン」にちょっと似ている気がするな、とも思ったのだけれど、確かに「モーヴァン」も共感が非常にしにくい映画だった。でも主人公の強固な、これと決めて進む意志が、不可解ながらも判らせる、ねじ伏せる力があったのだけれど。本作はこのヒロインが10年後から回想するナレーションで綴られており、しかも本人が自分のことを、彼女、と客観視している。語る人自体にこんな風に突き放されてしまうと、ただでさえ判らないのにさらに判らなくなってしまう。

通常の道からドロップアウトしながらも、確かにこのヒロイン、ビッキーはまだまともな神経を持っているのかもしれない。彼女の同棲している恋人、ハオは、働きもせずにブラブラしていて、しかも水商売の彼女の仕事、そしてテレカの穴の間隔にさえ嫉妬する、自分勝手で独占欲の強い男。暇にあかせてDJのまねっこをしてみたり、友達を家に呼んでしこたま飲んで騒いでいたりする。ビッキーはこのハオとことあるごとに衝突するんだけれど、それでも彼から離れられない。ハオは言う。彼女は自分とは違う世界に生きていたんだと。自分の世界に、彼女が落ちてきたんだと。この言葉はなかなか美しい。

全くなんでこんな男にひっかかっているんだろう。美しいビッキーと猿岩石の森脇みたいな顔をしているこのハオの組み合わせはまさしく美女と野獣。見ているこっちがイライラし、さっさと別れちまえ、と思う。ビッキーは家には帰りたくない、その一心でハオから離れられないようにも見える。ビッキーには可愛がってくれるガオという大人の男がいて、彼に相談するのだけれど、やはり家には帰りたくない、の一点張りである。高校の卒業試験の日、ビッキーはハオと一緒にホテルにいた。ハオは彼女に、卒業試験なんてほっておいて、自分のそばにいろ、と言った。彼女はそのとおりにした。そして彼女は高校をドロップアウトしてしまった。彼女にとって家に帰ることは、自分の決めた道を否定してしまうことだ。自分自身を否定してしまうこと。でももはや彼女自身にもハオのことが本当に好きなのか、なぜ好きだったのかさえ判らなくなっているのかもしれない……。

大人の男の出現によって揺らぐビッキーの心。でもこのガオは彼女のことを本当に妹のように思ってくれているだけで、手は出さない。ビッキーがハオとのことに疲れきって、ボロキレのように転がり込んでも、酒をしこたま飲んで甘えて、ソファの上に無防備に寝ていても、ガオは彼女を温かく見守るだけで、何もしない。ガオはどっかの親分さんか何かなのか、子分がいっぱいいるんだけれども、彼自身は出来た人物でも子分どもが使えないヤツらで、彼はトラブルに巻き込まれてしまう。そして……。

まるで唐突に、しかもほんの一瞬、てぐらいに短く挿入される夕張。ビッキーが出会った日系の兄弟が、映画祭の時期だけ手伝いに帰る、それに彼女がついていくのである。ちょうどビッキーはハオとの関係に疲れきっていた頃で、二人の話を聞いてまるでノリのように便乗する。無口な兄弟は出会った頃のハオを思い出させる……などとごち、彼女はしんしんと雪の降り積もる、映画の幸せな記憶に満ちた純白の夕張の町で、はしゃぐ。その時のビッキーは、都会での、ハデな格好とメイクでいつもいつも人工のネオンの中にいた彼女とは別人のようで、とても無邪気に解放されている。

この夕張のカットはこの時点では本当に短くて、一体これが何の意味を持つんだろう?とかなり戸惑う。それ以降も夕張に行ったことがどうにか作用するのかというと、物理的にも、彼女に与える精神的な部分でも、それはまるでなくて、一体あれは何だったんだろう、と戸惑いつつ見ていると、でもビッキーはその直後にハオとの腐れ縁を断ち切ってガオのもとへ行き、ガオを追って日本の、今度は東京まで来た。同じ日本なのにそこはまるで違う世界で、ガオの用意した大久保のホテルは窓の外を絶え間なく山手線が走っている。横浜に行ったというガオは、いくら待っても帰ってこない。見知らぬ人たちがひっきりなしに行き来する中を、彼女もまた紛れ込んで歩く。そしてビッキーは夕張でのことをまた、思い出す。最初に夕張のシーンが出てきてからここに至るまでが本当に長くて、夕張の場面が幻だったんではないかと思わせるぐらいだったんだけれど、やはり彼女の中では幸せな記憶だったんだということが判る。色んな時代の、色んな国の映画の看板を見ながら、そのタイトルを口に出してみながら、純白の静かな町をそぞろ歩く彼女。誰も歩く人のいない、鳥だけが寒そうにトントン、と歩いている白い白い“夕張キネマ街道”が映し出され、そして映画は終わる。

ガオはどことなく、ピーター・チャン監督作「ラヴソング」のパウ親分のようである。ヒロインに無償の愛をそそぎ、そしてどこへともなく姿を消してしまう、優しいんだけれど、またしても彼女を一人にしてしまうという点で、やはり自分勝手な、男。ビッキーは、“誰にもナイショで東京に”という彼の言葉を、これは一人で来い、ということよね、と密かに喜んで東京までやってくるのだけれど、そこに彼はおらず、電車の騒音でホテルでもろくろく眠れず、彼女はただただ一人の孤独をかみ締めるばかりなのだ。しかしだからといってハオはというと、彼女に必要以上に干渉して、所有しようとする男。でもつまりはビッキー自身はどうしたいんだろう。束縛されすぎるのも嫌だし、かといってそばにいてくれないのも嫌。などと自分が考えていることにさえまだ自覚がないほど、混沌とした心のうちを持て余している若い魂。本当に男を愛するほどに、まだ成熟していないのかもしれない、硬い果実。

男を愛することに自覚的で、そして更にそれを自分がより良く進んでいくためのステップにしていた先述のモーヴァンに比して、愛しているのかどうかさえまだ漠然としているこのビッキー。演じるスー・チーは今まで観たどの映画の彼女よりも生々しい。彼女がハオと暮らしていたり、ガオのところに転がり込んだりして、そこで無防備に着替えたりくつろいだりする彼女の描写は、生と性を感じさせる。「クローサー」の時のカッコイイお姉さん、よりずっと幼く見えるのに、女の、セックスの匂いをより濃く感じさせるというのは……。スー・チーはまさしく、ベストアクト。もったいないぐらいに。そういえば彼女、デビューの時はヌードも見せてたし、そんなきわどい映画からのスタートだったのに、その後は一転、愛くるしく清純な美少女だった。しかしだんだんと、驚くほどの匂いたつ美女になり、そして今回、“女優スー・チー”を見せつけるような、女としての心と身体の生々しさを充分に堪能させてくれる。その表情の何ともいえない微細さに、驚くほど。ひっきりなしにたばこを吸っているその姿……せわしなげにたばこに火をつけ、切ないため息のように漏らす煙。孤独と不安を象徴するようなそのたばこがひどく似合っていて、これは新鮮だった。でもスー・チー、たばこが似合うのはカッコいいけど、その真珠のような清らかな歯にヤニがついちゃうから、あんまり、やめてね。横暴な恋人、ハオに愛撫を許す彼女、しかしこのハオ役の男は演技はともかく、ちょっとこれがヘタね。せっかくスー・チーほどの美女を相手にしているというのに!しかし、ふわりと軽い長いウェーヴのかかった彼女の髪をうなじから引き上げて唇を寄せるこのハオに、もううらやましさ爆発。ああッ、スー・チーを下着姿にするだけでたまらんのにー!ホットパンツなんて惜しげもなくはいてくれちゃって、全く相変わらず罪な美脚だぜ、もうもうもう。美脚というのは「クローサー」の時に存分に打ちのめされたけれど、ここでのスー・チーは女としてのリアルな官能にあふれているから、どこか作りこんだエンタメだった「クローサー」のヒロイン像とはまるで違ってて、その生々しさはヤバいくらいなのだ。うん。本当にスー・チーはベストアクトなんだけどなあ。

加えて、スー・チーが少しだけだけど日本語を使うシーンも新鮮。フツウに台湾語をしゃべっている時はどこかけだるげなのに、日本語だと少しはしゃいだような発音になって、確かにハイテンションの時だからそうなんだけど、まさしく無邪気な少女のようで、可愛い。それにしても夕張でのシーンの時は、音楽、静かにしていてくれないかなあ。特にラストカットの、誰一人いないキネマ街道のシーンに、あのクラブ音楽さながらにガンガン音楽がかぶせられるのは正直理解に苦しむ。夕張は、都会との対照で成立しているんじゃないの?

台湾でのシーンなのに、キリン一番絞りを飲んでいるのはなぜなんだろう……どーでもいいことだけど妙に気になるんである。★★☆☆☆


トップに戻る