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偶然/
1981年 119分 カラー
監督:クシシュトフ・キェシロフスキ 脚本:
撮影: 音楽:
出演:ボグスワフ・リンダ
つくりとしては、どこか実験的な趣のある作品。現代におけるそうした映画を色々と思い出すことが出来、その先駆的な表現に驚く。三つのエピソードのその度ごとに主人公は同じ場面……今発車しようとしている列車のホームに駆け込んでくる。老婆にぶつかり、その老婆が落としたコインでビールを飲んでいる酔いどれにぶつかり、何とか列車に追いつこうと必死に走る。三回に一回だけ、最初だけ彼はギリギリ列車に追いつくことが出来る。ワルシャワ行きの列車。彼が自由になるための切符のはずだった。
このポイントごとに戻されるこのシーンは、しかし昨今のゲーム的感覚の映画にあるような、リセットして人生を選択しなおす、というものではなくて、彼はすべてを、人生として経験していく。同じように見えるこの駅の場面は、少しずつディテールを違え、彼は最初はつきとばさんばかりに酔いどれにぶつかるのに、次の時には、そっと彼を手でよけるようする。飛び乗ろうとする彼を止めた駅員と乱闘になって保護観察処分になった二回目と違って、三回目はやはり列車には乗れないものの、遠くで彼を見ている駅員に会釈するようにして去っていく。血気盛んな青年だった彼が少しずつ大人になってゆく。
国と時代が色濃く反映されるこの物語。共産主義。党。地下組織、地下大学。若者たちは反体制の運動に価値を見出す。しかし、彼が最初に選んだ自由への道、その所属した組織は、それとは真逆な立場にいる。彼は取り締まる側の人間であることに、取り締まられる相手である彼らの主義主張を聞いて疑問を感じ、その組織から離れていく。恋人が彼を裏切り者、とののしって、離れていったことも大きな原因だった。正義として大きく盛り上がる彼らも、そしてその彼らの主張を同じ若者としてまっすぐに受け止める彼も、やはりどこか、幼い正義感、幼い価値感と思える部分がある。本当に何かを変えられるのは、そうしたところではやはりないのだと。
彼は、何かを目指して、何かをやりたいと思っていたのでは、なかった。彼の使命は医者になること。それは父親の希望だった。しかしその父親が死ぬ間際、「ならなくてもいい」と彼に告げたことで、彼の大いなる回り道が始まる。しかしこの、ならなくてもいい、というのは、本当に「医者にならなくてもいい」という意味だったのか?最初、彼はそうとって、そしてのちには、「まともな人間にはならなくていい」という風に言い換えている。彼のトラウマ、覚えているはずのない出生時の記憶。冒頭、すでに指し示されているそれはかなりショッキングな画で、引きずられていく怪我人の、その血がべったり床に直線を描いている。その手前に、震える血だらけの足。戦時下、軍人だった父親が家におらず、彼の母親は自力で病院に行くものの、そこで力尽き、彼が産まれた時には、死んでしまっていた。フラッシュバックのように現われるこの悪夢の映像は、彼を何度となく苦しめる。
ある意味、そうした苦悩を抱えた彼の方が、どこか時代の熱に浮かされるように地下活動をしている若者たちよりも、真の苦さを知っていたような気もする。日本でのかつての学生運動が、過去となって語られた時にも似ている、このやるせない気持ち。結局は何かを生み出せたということではなかったんではないか。彼もまた、組織を離れてからは彼らと一緒に地下活動をするのだけれど、彼の最初の、裏切り者としての経歴が、そのあとずっと彼の足を引っ張り続けることになる。どんなに懸命に彼らと一緒に活動しても、彼はいつでも裏切り者になってしまうのだ。過去は、洗い流せない。どんなに駅の場面にリセットしても、戻らないのだ。彼らから見れば、彼はどこか生ぬるいお坊ちゃん。真に自分たちの仲間になれる男ではない。でも自分の生きる道を探して必死にあがいている彼の方が、やはり何倍も彼らよりも何かを判っている。
大きなゆるゆるのバネが、階段をつぎつぎと降りていくという、あの他愛のないおもちゃ。彼はそれを笑って眺めているけれど、その動きが止まり、ゆるゆるとその場にとどまっているのを、ヘンにまじめな顔でじっと見続ける。流されるように動いていく、そして止まった時は、どこに行くでもなく、ゆらゆらと迷っているかのようなそのバネは、流れに任せて生きていく人間そのもののように思える、私には。じっと見続ける彼は、何を考えていたんだろう。
彼が保護観察処分を受け、無償の労働をしていた時、その仲間が掘り出したタイムカプセルには、若々しい希望が書かれたメモが残されていた。一度は掘り出されたその紙の裏に、それらが全て成されなかったことが、示されていた。思えば、その若々しい希望も、どこか世間におもねった、記号的な希望に過ぎなかった。大臣とか、首相とか。具体的な何かが見えない若い時に、憧れていると思い込みがちな、青さ。タイムカプセルは、大抵、成されなかった苦さを再確認することしか、できない。
何度も引き戻される、スタート地点。最初は偶然だったことが、彼自身の手で必然に修正されていく感覚。そして、列車の窓から手を伸ばして握り合う、駅での別れもまた、何度も何度もインサートされる。人の出会いと別れが、彼の運命を、彼が自ら選び取るそれを、少しずつ変えてゆく。
彼は試されていたのだろうか。いや、人間は皆、こうやって試されているのかもしれない。こんな風に、はっきりと、同じスタート地点に戻されるわけではないけれど、きっと何度も、今までの苦労が無になった、と思えるような形で引き戻されて、でもそれは、今までやってきたことが本当に自分のすすむべき道だったのかということを、もう一度考え直させるチャンスなのだ。後戻りではなく。今の時代は、そういった意味でこの作品を切実感を持って眺めることが出来る気がする。
本当に自分が望んでいること、なのか。
望まれていること、なのか。
望まれていると思い込んでいること、なのか。
そういったことを。
彼が医師の道を中断したのは、「ならなくてもいい」という父親の言葉があったからだ。彼は「使命感を失った」と言って医大を休学する。なるほど、使命感を失ったのだろう。父親のために、という使命感。父親は彼がそういう意識で将来に進もうとしているのを感じての、危惧だったのではないか、と思う。本当の使命感では、ないから。彼は真の使命感を探すために、大きな回り道をしたのだとも言える。活動家の彼女ではなく、同じ医学を志す恋人のもとに、戻ってきた。彼女との間に子供が出来、頭を抱え込んだように見えた彼が、実はその喜びに有頂天になっているさまは、まるで今までの出来事が単純に若気の至りだとでも言いたいぐらいに、彼の中でのいわば平凡な人生の幸せを象徴している。でも、なぜ、なぜそれがあんな形であっけなく裏切られるのか。
という、ラストに行く前に。ひとつ印象的だったエピソードがあった。彼が地下活動中に、幼かった頃の友達に出会う。その友達は母親を亡くし、とむらいのため姉とともに帰国していた。引きとめ、話し込む三人。ふと眠り込んだ彼が目を覚ましたのは、友達のむせび泣く泣き声でだった。姉の胸に顔をうずめて、母の死を哀しむ友を、じっと見つめる彼。
自分が産まれてきたことで、死んでしまった母。父親から妻を奪ってしまった自分。だからこそ、彼は父親の言うとおりにしなければならないと、そこにしか自分の存在価値はないと、思い続けていたのかもしれない。だから、ならなくてもいいと言われた時、彼は解放の喜びよりも、自分を失うことの恐れをこそ、強く感じたのではないか。
どこに行っても、自分が決定的に役に立つ場所がない。医大で勉強に邁進していた彼は、つぶしがきかないのだ。そして医学に本当の意味で使命感を自らの中に見出していたことを、彼はまだ気づいていないのだ。まだどこか、何かを、恐れている。
自分の知らないうちに母は死に、そして父の死にも、その愛情からくる死への悼みを感じる気持ちの余裕など、なかった。だからこんな風に素直に哀しむ友を見て、彼の気持ちが揺れているように見える。そしてその弟をやさしくなでながら彼と目が合う友の姉と、何かを感じてしまうのも……。でも、この姉と彼との関係は、ギリギリのところまで行きながら未遂に終わる。それはどこか、彼の母親への思慕をギリギリ、間違いの起こらないところで止めたようにも思える。
彼は使命感を取り戻し、立派な医師になる。しかしかつての仲間はまだ活動を続けている。中立の立場をとる彼。そのせいなのか、あの呆然のラストは……彼がかつて一緒に地下活動をしていた学部長の息子が逮捕され、学部長の代わりに外国へ講義に出かける彼の飛行機が、突如爆発し、かけらが空から降ってきて……映画は終わる。なぜ?なぜ彼が死ななければならないのか、と呆然とする。
セックスのシーンが生々しくて。特に彼が後に妻となる彼女とするセックスが。一度目も、二度目も床でやったね、と言ってゆっくりと反復運動をし始める彼の下の彼女が、みるみる顔が上気していって。そして彼女は彼の子供を宿す。何だかそれが、非常にリアリティがあるというか……現実の、生殖としての人間のセックスの生々しさを感じて。勿論、彼は彼女を愛し、子供ができたことも喜んで結婚するんだけれど、何かそれが、いつまでもノドにひっかかったホネのように気になってしまった。いろいろなことを、暗示しているような気がして。
ワルシャワとパリ。その二つのキーワードは、束縛と自由の象徴だったのだろうか。そしてキェシロフスキ監督も、ワルシャワからパリへと、渡った。★★★☆☆
渋谷にたむろする若者たちのテキトーなノリ。その中に白痴みたいにいつもヘラヘラ笑っている少年、カネシロは在日韓国人。いや、彼自身「僕、韓国人」と言っているし、彼の両親も「韓国人が日本で成功するには……」と語ってたりするから、日本に住んではいるものの、血自体は純粋な韓国人なのかもしれない。韓国人というだけで小突き回され、いじめられて育ってきた彼。気の強い姉、そして両親からは、やられたらやり返しなさいと喝破されるものの、彼にはそれが出来ない。彼にとってはあきらめることこそが武器だったのだ。
……という、カネシロを演じているのが市原隼人。冒頭のCDの万引きシーンで即座に「リリイ・シュシュのすべて」を思い出し、体は大きくなったけど、顔とぽよんぽよんした感じは変わらないなあ、などと思う。そうだよね、まだ若いんだもの、だってまだ16!うーむ、そうか、まだそんなに若いのか……いつも顔ではヘラヘラ笑いながら、内面に複雑なアイデンティティを抱えているであろうこのカネシロは難しい役である、とは思うんだけど、これは脚本に問題があるのか話自体に問題があるのか、あるいは市原君に物足りなさがあるのか……何かやっぱりちょっと、判りづらいのだ。彼の行動というか言動の変遷が。
でもこうやって想像で補える分、彼はまだいい方で、それ以上によく判らないのがヒロインである中島美嘉扮する由美である。まず、彼女が強迫性障害だというのが判らない。彼女の性格は確かにちょっとエキセントリックなのだろうけれど結局はそれだけで、冒頭医者に行っているシーンと、ラスト、頭の病気だから病院に行かなきゃ、と言って席を立つシーン、わざわざ頭とお尻に入れているんだから重要な点なんだろうとは思いつつ、そのことが彼女のキャラクターなり物語に影響を与えているかというと、どうもそうとは思われない。確かに中島美嘉はとても存在感があって、監督曰くの“暗くて美しい”魅力を放ってはいるものの、……あるいはワキでなら充分光るものを感じさせるんじゃないかとは思うものの、主役の一翼を任せるには、実力不足の感が否めない。顔の暗さの割に声が高いのも、どうも気になる。由美の暗さに対しての、カネシロ君のヘラヘラした明るさが対照であり、しかしその内面は由美はよく判らないけれどカネシロ君は暗いものを抱えている、のだから、こういう部分で引っかかるものを感じるのはツライのだ。飛び蹴りのシーンは面白いけど……男と反対方向に別れて、途端に男を追いかけたと思ったら見事な飛び蹴りをかます、しかも引きのカットは鮮烈。車がフツーにぶーとか横切ったりするオフビートが可笑しい。
仲間たちと遊んでいる場で、一人くちゃくちゃとガムを噛みながらにこりともしない由美にカネシロは頭からドリンクをぶっかける。「君、暗いよ」と。ヘラヘラ笑いながら。由美はパチンとカネシロの頬を殴り「何あんた、狂ってんの」カネシロはやはりヘラヘラと笑いながら「僕、韓国人だから」すると由美は少しも動じず、「何それ。そんなことがあんたの武器ってわけ。くだらない」と言い放つ。
良かったシーンといえば、ここだけだって気がする。シーンというか、台詞が。カネシロの言うこの切り札は、彼自身が誇りを持って言っているんじゃない。長年このことを理由にいじめられていた彼は、自分が韓国人だということが、相手をひるませることになるんだという哀しくネガティブな考えにとらわれている。正直、観客の意識もまだまだその程度のところにあり、彼が「僕、韓国人だから」と言ったとたんドキリとするし、これが確かにきめ台詞のように思えてしまう。しかし彼女が「そんなことがあんたの武器ってわけ、くだらない」と断じるその台詞の方が断然カッコいいきめ台詞なのだ。カネシロの言葉より数倍、ハッとさせられるのだ。
ただ、由美自身が、そう言い放つだけのキャラというかバックボーンを持っているのかという部分がやはり気になってしまう。このシーンでの中島美嘉は確かにそう言うだけの説得力はあったし、カッコよかった。でも、彼女が何を抱えているのか、ずっと苦しんできたカネシロと対抗できるぐらいの苦しみなのかというのがやっぱりよく判らないのだ。ただ、彼女の魅力というのは、そういうあえて明らかにされないミステリアスな部分にあるのかもという気も確かにするのだけれど。
カネシロ君の姉であるナナコがこの物語のキーパーソンである。演じる矢沢心に凄みがある。彼女は美人とか可愛いとかいう類の女優じゃなくって、そこが強みなんだけど、何だか迫力があるというか。この気の強い、何の悩みもなさそうだったお姉ちゃんがどうして自ら死を選んでしまったのか(しかしあんな浅そうなリストカットで死ねるとはどうも思えないけど)あえて(?)明らかにはしていないものの、それをねじ伏せて有無を言わせないだけの力が彼女にはあるのだ。このあたりが中島美嘉と違うところかなあ、と思う。
彼女が死ぬ前にカネシロ君はこの姉と数年ぶりに偶然出会い、彼女の部屋を訪ね、セックスの話なんかして、二人して下着姿になって……ということは、これは、やっぱり、ひょっとして……ヤッちゃった?そのものずばりの描写はないものの、そう想像させるには充分の忙しいカッティング。写真をどっさり出してきて、仲のいい友達の話を嬉しそうにする姉の頭をカネシロ君はど突き倒す……彼にはそれが愚かに見えたのか、幸福そうな姉がねたましかったのか判らない。怒った姉は弟にケツキックを何度もかます。腰から下のショットで、パンツ姿の姉と弟のこの攻防が、可笑しさよりもどこかうすら怖さを感じさせる。そしてその直後、ナナコは手首を切って死んでしまうのだ。
この物語が動き出すのは、ここから。カネシロ君はお姉ちゃんに祖国を見せてあげたい、と由美を協力させて病院から死体を持ち出してしまう。彼自身も行ったことのない祖国、韓国。死体は飛行機に乗せてもらえないだろうから、と博多から出ている釜山行きの船を目指す。チーマーのタローも運転手としてカネシロ君に(強引に)付き合わされることになる。しかし船もまた、そう簡単に乗れない。死体をこっそり運んでくれる船との闇取引のため200万円が必要になったカネシロ君はボロい質屋に押し入って強盗を試みる……。
監督自身が、韓国への船が出ていた山口県下関生まれであるということが、この物語の全ての始まりになっていることに気づく。突如としてロードムービーの趣を呈するこの物語自体が、監督の心の旅なんだろうということに。万引きもするしカツアゲもするけれど、それはナナコにきれいな服を着せてやるためだったりするわけだし、カツアゲも(全てとは言わないけれど)紳士的である。クライマックスの強盗にしたってナイフをちらつかせるものの、最終的には「200万円ください!」というカネシロ君の訴え、その理由を質屋のおじいさんがきちんと聞いてくれて、その上で出してくれた(と思しき)展開である。
ちょっと出来すぎな気もしないでもないけれど、このシーンは質屋のおじいさん、大滝秀治がさすがなので、納得させられてしまう。このマイペースベテランの余裕に、カネシロ君である市原隼人も繊細な演技で対抗する。まさに新旧で、これはなかなかいいシーンなのだ。
ナナコは時々、目覚める。目覚め、隣に座っている由美と会話を交わす。これは由美の中での白昼夢であるのか、あるいはカネシロ君のそれであるようにも思えるのだけれど。ナナコは「あの子とヤッたの?姉としては聞いておかなくちゃね」などとアッケラカンと言う。この「姉としては聞いておかなくちゃね」という台詞は、カネシロ君と下着姿で一緒にいたあの部屋でも発せられていて、弟を思うお姉ちゃん気質の、少々強引な母性(姉性?)がこのよく判らない物語の中で数少ない共感できる部分になっている。カネシロ君が死んでしまったお姉ちゃんに祖国を見せたいと思ったのだって、こういうお姉ちゃんだったからこそなのではないかと思うし……自分の弱みを見せないで、弟のことを心配していたお姉ちゃんに対する贖罪の気持ち。がんばりすぎた姉は、本当はがんばることを止めることが出来た弟より、か弱かったのかもしれない。
カネシロ君が由美に話して聞かせる、家族を置いて日本に渡り、そこで別の女に子供を生ませちゃった“ひどいおじいちゃん”と、その別の女との子供が男の子だったことから、伝統に従って自分の大切な部分を自ら縫い付けてしまった“ぶっとんだおばあちゃん”の話。その話、だけでカネシロ君はそれ以上語らないけれど、このことこそがカネシロ君の中の闇に違いない。
祖国のおばあちゃんやその家族たちにとって、このおじいちゃんから連なるカネシロ君一家は、もはや日本に魂を売り渡した鬼畜日本人であり、しかしカネシロ君は小さな頃からずっと、韓国人であることを最もネガティブな方法で思い知らされてきたのだ。双方から否定される辛さの歴史に、家族を裏切ったおじいちゃんの血を受け継いでいるということ、その罪の意識を、もしかしたら当のおじいちゃん以上に彼が感じているということ。彼の両親もまた離婚し、大切な家族を崩壊させてしまった。そして死んでしまったナナコに彼は、生きているうちに会えなかったおばあちゃんを重ね合わせていたのかもしれない。やられてもやり返せないカネシロ君は、優しい子なのだ。
タローを刺し(殺し?)てしまうラスト(冒頭)の意味がよく判んないなあ。これもまたポップさの表現なのだろうか?何かこういう部分が空回りしている気がして仕方がない。あ、もひとつ。羽毛飛び散る中で、ケチャップとマヨネーズを撒き散らす蒼井優は、これもまたワケが判らないけど、ちょっと魅力。★★☆☆☆
特にハゲ鶴のエピソードはもったいない。ハゲ鶴は、この作品の中で最も映画的にキャラの立った男の子。みんなより頭二つは大きいひょろりとした体躯に、つるつるの頭。あれは剃りあげている訳ではないのか……彼はその頭にとてもコンプレックスを持ってて、というのも子供の残酷さで彼はそのハゲ頭をさんざんからかわれ続ける毎日だし、しかも先生までハゲ鶴、というあだ名で呼ぶ始末。しかも彼がそんな風に目立つもんだから、優勝を狙う集団体操で彼だけがハズされ、どうしても出たい、という彼に仕方なく帽子をかぶせるエピソードはあまりにも……。でも彼は、そうやって自分自身のアイデンティティを否定され続けたことに意を決して反発し、来賓たちがいる前でその帽子を投げ飛ばし、みんなと違う動きをして反旗を翻すのだ。そして優勝を逃し、彼は「学校の名誉を汚した」と仲間たちから村八分にされてしまう。
これは昔なら特にそうだし、中国というお国柄なら更にそうであろうと思うけれど、こうした横並びの精神に、個性ある者がこんな風に理不尽に、簡単に潰されてしまうという怖さ。しかも最も怖いのは、子供たちまでもがそれに影響され、横並びこそが正しいことなのだと思い込んでしまう怖さなのだ。子供時代の情景としてやんわりと描かれてはいるものの、この怖さというのは現代でも確かにあって、危惧されている怖さなのだ。若い教師はみんなに仲間はずれにされるハゲ鶴に心を痛める。彼もまた、学校の名誉の方を重んじて、一人だけ飛び出ているハゲ鶴をハネようとした一人なのだけれど、それが間違っていることを彼は学ぶのだ。大人になっても学ぶべきことはたくさんある。ここは学校で、子供たちだけではなく、教師である大人も、子供たちによっていろいろと学んでゆく。教師もまた、恋もすれば間違いもおかす、一人の人間なのだと。
ハゲ鶴は、そのハゲ頭を生かして、演芸大会でハゲ将校の役を演じ、見事アイデンティティを取り戻す。コメディリリーフであるその役を、息子の頭を剃るなんてゴメンだと最初に役を振られていた子が父親の反対で降り、「校長の息子だからソンをしてる」主人公の男の子、サンサンが頭を剃られそうになるんだけれど、ここでもメンバーからハズされていたハゲ鶴が、自分にやらせてほしい、と決死の思いで申し出るのだ。まさに演芸大会というのは、ハゲ鶴が台無しにした集団体操とは180度その意味をたがえる、個人の個性こそが大事な場。彼はそこで見事役を演じきり、観客の拍手喝采を浴びる、んだけど……この場面、彼が光り輝く最も重要な場面、何とその芝居のシーンはものの数秒で終わってしまい、ハゲ鶴がみんなから姿を隠して男泣きに泣く場面にすぐさま切り替えられてしまうのだ。そして大人のサンサンのナレーション(彼が子供時代を回想する、という構成)で、「最も美しい男の子の姿を見た」とか解説されても……。ハゲ鶴が自分のコンプレックスこそがかけがえのない自分自身なんだと自覚する、ここは本当に大事な場面なのに。映画は映像で説得力を持たないと意味ないのに。
皆に仲間はずれにされるハゲ鶴に心を痛め、彼の申し出に喜んで賛成する若い教師、蒋先生。彼がそんな風に柔軟な心を持てるのは、今、恋をしているからなのだ。この芝居にも、彼の想い人をマドンナとして出演させようとするのだけれど、二人の仲を反対する彼女の父親によって阻まれてしまう(その危機をハゲ鶴の見事な芝居で切り抜けるのだ)。得意な横笛でいつも妙なる調べを聞かせているこの先生、「最近、先生の笛、上手くなった」と彼が恋をしていることを敏感に察知する子供たち。この彼女、白雀はいいとこのお嬢さんで、貧乏教師の蒋先生とはつまり、身分が違う、というのだ。サンサンは二人の連絡係として奔走する。そうと知っている彼女の父親はサンサンを追い返そうとするも、サンサンは子供ながら見事な機転で首尾よく先生の手紙を渡したり、なかなかにカッコイイのだ。しかし、結局は二人は結ばれずに終わってしまう。サンサンはそれを、彼女の手紙をなくしてしまった自分のせいだと(しかしこの手紙をこっそりと読む場面、あまりに子供らしくて本当、可愛い)落ち込むんだけれど、そうではない。大人の世界はずっと複雑で、子供には判らないいろいろな問題があるんだということを、今のサンサンには知る由もないけれども、そうなのだ。今のサンサンには判りたくもないんだけれども……。他の人と結婚した白雀の婚礼の行列に遭遇したサンサンが、彼女を拒絶し、走り出す。あの時の白雀のあまりに哀しそうな顔が、どんなにか蒋先生への想いを伝えていたか……背を向けて走り出したサンサンには、この年頃のサンサンにはまだまだ判らない。
でも、サンサンもまた、淡い恋をしている。隣村からわざわざ通ってくる転校生の女の子、紙月。受け入れる校長先生は何かと彼女を目にかけて、それは普通じゃないくらいだと囁かれる。紙月のお母さんは父親のない子を産んでしまったことを恥じて、すぐに自殺した、という。そんな事情の紙月が、地元ではいじめられたりなんだりと上手く行っていないことは容易に推察でき、だから隣村の学校に通いたい、というわけだけれど、隣村から彼女の申し出を聞きにきたこの校長は、「お母さんに似ているね」と愛しげに彼女の頬に触れるのだ。この時に、気づいても良かったのに……私はついついアブノーマルな方向に考えてしまったダメな奴(笑)。つまり、紙月の父親はこの校長なのだと。そのことをこの校長は否定も肯定もせず、結局は明らかにされずに終わるのだけれど、でもそうなんだろう、と思う。自分の夫が浮気したかもしれないことにうろたえる奥さんが、でもおばあさんも死んでしまって独りぼっちになってしまった紙月を不憫に思って優しくしてあげる描写などに、凄いな、と思う。
サンサンは紙月が腹違いの姉妹かもしれないという事実に直面して取り乱す。彼にとって父親は校長先生で、怖い存在で、紙月の、死んでしまった母親やいまだ知らない父親に対する思慕のように、純粋に親を慕ったり、好きだと感じられないでいる。でもこの場合やはり哀しいのは紙月の方で、彼女はそれを喪失しているから、いわばその喪失感を埋めようとする思慕の念だから、それはあまりに哀しく、切ないのだ。サンサンは感情もまた成長の途中にある。父親を単純に好きだとか尊敬できるとかまではいかない、まだまだ子供。プロセスを省略して大人にならなければいけない紙月とは違って、ちゃんと子供としての気持ちをゆっくりと成長させていける恵まれた立場。だからこそ、一足先を歩いている(それは危なっかしげな足取りだけれど)紙月を淡く恋慕うのだけれど。
彼の友達であるお金持ちのお坊ちゃま、小康もまた、急激に成長を強いられた男の子。隆盛を極めていた時、彼は皆の憧れの自転車を乗り回し(でもお坊ちゃまを象徴するものが自転車って……あまりにささやかで、なんだかやっぱり切ない)、演芸大会でもサンサンと共に主役の一方を担い、優等生で、先生からも一目置かれる存在だった。しかし、父親の事故であっという間に没落し、学校をやめなければならなくなる。そして彼の父親は一度は次の事業に成功しかけたものの、それもまたささいな不注意であっさりと再転落。学校に行きたいと切望した小康の願いは届かず、彼は学校の前で、かつての学友たちの前で、玩具や文具を売るようになる。お金をあげようとするサンサンに、「ほどこしはいらない」「僕の分まで勉強しろって言ったろ」。サンサンはひったくるようにその対価のアメをつかんで走り出し、顔中ぐしゃぐしゃになるまで泣いて教室に戻る。勉強できない小康のために、父親の大事にしていたノートを使って教科書を書き写し、こっぴどく怒られる……などなどの場面もとてもとても泣かせるはずで、実際私の涙腺も緩みかけたのに、またしてもどんどこ話は進んでいくのだ。おおーい、待てよお、どうしてもうちょっとゆっくり語ってくれないの!
というのは、この泣きのエピソードが語られている中で、サンサンが突然、倒れてしまうから。え?え?と思っていると、何とサンサンは不治の病に冒されている、というのだ。正直、小康のエピソードをもう少し観ていたかったこっちはどうも中途半端な思いを抱きながら見守っていると、ナレーションのサンサンが言うように、ここからは彼の父親、校長先生が主人公となるのだ。ちょっと渡辺篤史に似ている気がするこの校長先生は、体面を重んじるような大人のズルさを、まあ普通程度には持っている人間。息子も学校の体面に利用するような、それを“校長の息子だから仕方ない”と諭すような、ある意味正直に大人の弱さを息子に見せている人なのだけれど、それだけに、親子の愛情を示すのが不器用な人でもあった。しかし死ぬかもしれない病にかかった息子に、彼はなりふり構わず奔走し(それにしても、明らかに息子に丸聞こえの中で、「患者を救うのが医者の仕事だろ!」と絶叫しちゃダメだよー)サンサンは、「このままずっと病気でいたい」と願うのだ。そうすれば、ずっとずっと、優しい父親でいてもらえるから。でもこの優しさは、あまりにも哀しく切ない優しさ。それを欲する男の子の無邪気さもまた……。でも、サンサン、それは違うの。いつだって、お父さんはサンサンに対して、これだけの愛情を注いでいたんだよ。病気になったからじゃなくて、愛しているから、病気になってこれだけうろたえたんだということ。でもきっと、それを知るのは、サンサン自身が父親になる時。ずっとずっと後になる。
つまりは、サンサンは助かるのだ。息子をおぶって、高名な医者を探してさまよう父親。まるで偶然のように漢方の名医に行き当たり、苦い苦い薬を処方してもらう。サンサンを介抱する女性教師が、「私も苦い薬を我慢して飲むのよ」と言う。彼女も、難しい病気に冒されていたんだろうか……。「みんなをずっと見ていたいから、私も我慢して苦い薬を飲むの」自分が治りたいとか、長生きしたいから、ではなくて。皆を見ていたいから。皆があっての、自分だから。暗にそう言っている気がして、何だか心がほあっとする。こういう気持ちを持っていたら、きっと世の中、人間同士、全てが上手くいくような気がする。とても単純なことだけれど、でも大事な大事なこと。
サンサンが治った時、その証拠としての、元通りの色の息子の尿を、屋根から放尿されるそれを、嬉しげに顔に浴びる父親の姿に思わず笑いつつも、ああ、これ以上の親の愛情の描写はないかもな、と思う。親は、子供の汚物も汚物とは感じないって、言うから。ここまでの愛情って、いわゆる恋愛感情では到達できないものだろうな……やはりうらやましい気がする。
あー、やっぱり3時間、欲しかったな……全然退屈なんてしなかったと思うのに。ホント、もったいない。★★★☆☆
でも、でもさあ、何で?だって前作、前々作で原監督、一般的な評価をすっごい上げたじゃない。それなのにどうして監督外されちゃってるの?確かにクレしんはそうした評価から外れた、アウトローなところが良かったのかもしれないけれども、逆に言うとそのアウトローが評価されたわけで、今回の映画を観ると、完全に子供におもねっちゃっているって気がするよ。評価されたことで、今までは野放図だったのがアニメーションは子供のもの、と方向転換させられたんじゃないかと思うぐらい。そういえば本作の公開の直前に「子供に見せたくないテレビ番組」としてクレしんがトップをぶっちぎっており、ま、これはテレビの方だけど、でも、ああ、クレしんらしい、クレしんを本当に面白く理解できるのは大人だもんねー、などと悦に入っていたりしたんだけど、でも、だからって子供におもねるようなことなんて、してほしくない。今回は「子供にも判る面白さ」みたいな、テレビでの宣伝もそんな感じで、私は非常にガックリしてしまったのであった。
水島監督といえば、実に秀逸な二本立てだった'99年の一本、「クレしんパラダイス!」は確かに素晴らしかったんだけど……。今回は、今まで原監督が育ててきた水島監督をひとり立ちさせた、ということなのかなあ。でも、ギャグといいなんといい、どうも間が悪い。いきなりシリアスアニメ風の画になる部分などはクライマックスでウリなんだろうけど、これまで原監督版で見てきた、いきなり根性漫画風とか、あの爆笑にちっとも近づけないのはなんでだろ?やっぱり間が違うのかなあ。しんのすけが繰り出すお下品ギャグも、春日部防衛隊の皆とのお尻での会話とか、あるんだけど、間延びしているというか、どうにも笑えない。今まではそんな単純なギャグでも、充分なタメと瞬発力があったから、もう笑いのツボを刺激されまくっていたんだけど、今回はどうしてもどうしても、それがないのよお。
しかもたった1日、というタイムリミットを最初から設定されている。まあ、夕食までに帰るぞ、という目標に過ぎないから、タイムリミットというほどではないんだけど、でもその時点でこれまで何作か続いた感動路線はちょっとムリなのかな、という気はしてた。タイムリミットにどうしても気をとられてしまうから。ひとつ、挿入されることはされるんだけど……ひまわりが両親からはぐれてしまって、それを父親、ひろしが必死に探し回るというもの。たった一日の物語の中で描かれるものだから、はぐれてから見つかるまではほんのちょっとの時間だし、しかもこう言っちゃナンだけど、結局それだけの話、なので、いくらひろしがシロが見つけてくれたひまわりと対面して涙を流しても、こんなことでシンクロして泣くわけにもいかない。こんな中途半端な感動?場面を入れるぐらいなら、入れなきゃ良かった、とさえ思う。
まあ、でもクレしんのいいところは別に感動路線にばかりあるわけじゃない。そのスピード感と、スピード感に負けないぐらいの、スパイスの効いたギャグにお腹を抱えられれば、私はそれで充分に満足だったんだけど。たしかにスピード感はある。何かあらゆる手を使ってさまざまなスピード感を演出してくる。ロードレーサー、遊園地のジェットコースター、そしてあれはテレビでちらっと見たことがあるんだけど、何か未来系の乗り物で、ハンドルつきの立って乗るやつとか。このムチャクチャな状況の中でしんのすけが初めて自転車に乗れたりもするんだけど、何かそーゆー挿話って、あー、いかにも子供寄り、って感じ。ま、何たってクレしんだから、今まで自転車に乗れなかったよーな子供がはじめて乗れるようになって、それであそこまで乗りこなすかい!などという無粋なことは、ま、言わないけどさ。
謎の組織と謎の陰謀を追って、野原一家が春日部から熱海まで大激走する。野原一家の“何か”が盗まれて、それを組織が取り戻すために彼らを凶悪犯一家として指名手配してしまったのだ。せっかく豪華焼肉を用意していたのに……ならば、夕飯までにこのトラブルを片付けるぞ、オー!てな具合で野原一家は一致団結。実は盗まれたのは、彼らの声。頭の中の想像を現実のものにしてしまう夢のマシンを動かすための、暗号として使われてしまったのだ。それも朝の何気ない会話が。
この会話シーンを再現するために奮闘する野原一家はなかなかの見もの。何たってシロのワン!にひまわりのたあい♪までもが参加するんだから(それにしてもホント、ひまわりは天才赤ちゃんよね)。最終的にはしんのすけのすかしっぺが……うーむ、今回は、これぞクレしんには重要なしんのすけのお下品ギャグが、ことごとにスベリまくるのはなぜなんだろう。同じすかしっぺギャグ?でも、タメと間で大いに笑わせてくれた前々作とはやっぱり違うんだもん。
いつだってしんのすけと行動をともにする春日部防衛隊、でも彼らは指名手配された野原一家に恐れをなして、そして脅しとエサに屈して最初しんのすけを裏切ってしまう。このくだりもね、今までの春日部防衛隊を考えるとやっぱりちょっと、理解しがたい。まあ、その中でも一番の弱虫のマサオくんが発端になったとはいえ、あの俗世間のこととは隔絶されたようなボーちゃんでさえそれに引っかかったなんて描写、私としてはなんとしても許しがたい。ま、確かに最初にそこから脱却するのはボーちゃんなんだけど……でもボーちゃんのこの悟った魅力、今回はホント、なかったなあ。クレしんの子供キャラが単なる子供ではないことを最も如実に示すのがボーちゃんだから、これもかなり、不満。
あ、そうそう、笑えない中にもたったひとつ、ちょっとウケてしまったところがあった。敵地、熱海に行くために、野原一家はヒッチハイクするんだけど、オゲーな女装姿のひろしのヒッチにキュキュー!と止まってくれたのは、これが……なんとまあ、ゴルゴ松本みたいな風貌の、マッチョな男。ひろしが自分は男だ、妻も子供もいるんだ、と言っても、知ってたよ、余計燃えるね、などと言って、そのつぶらな瞳でじっとひろしの顔を見つめたままなんである。おーい、前見て運転しろよお!ここだけは、何か絶妙な間で大笑いしてしまった。しかもこの人、やたら腕の立つ人で、野原一家を危機から救ってくれちゃったりして、何か、イイ人なんだもん。これでイイ人ってあたりが余計に可笑しいのよね。
それと、もうひとつツボなキャラが、総ての発端となった、野原一家の家に押しかけてきた男。もう最初からしんのすけに「ヘンな顔のおじさん」と言われていたぐらいだから、これは絶対、絶対、スティーブ・ブシェミがモデルになってるんじゃない?顔もソックリだし、何たって「ヘンな顔」と言われるのは、あの「ファーゴ」そのものだもん。少しだけ、ほんの少しだけだけど、大人をニヤリとさせる部分を残してくれたかな、と思う。
この組織のメンバーの中に、ヤリ手の女の子が出てくるんだけど、彼女はシブい上司にホレてて、でもこの上司は妻子持ち。しかし、まるでこの一行こっきりの文章そのままに、この設定は一場面のみでさらりと流される。え……と思わず絶句。そんなんで終わらせるぐらいだったら、言うなよお、って感じ。だって、だって、だって、今までクレしんのいわゆるゲストキャラが繰り広げるこうした恋物語はとっても秀逸に切なくって、こんなのコドモに判ってたまるか!と胸をきゅーんとさせられたのに、やっぱり、やっぱり今回のクレしんは、何か甘い。いいところでちゃんと踏みとどまってくれてない。
今回、予告などで観ててヒヤっとしたのは、ぶりぶりざえもんが出るらしい、ってことなのであった。塩澤氏が急逝してから、ぶりぶりざえもんの声は何たって彼以外考えられないし、絶対もう、出ないよね、残念だけど……と思ってたら、出てくるらしい、んでうろたえてたんだけど、正確にはぶりぶりざえもんではなく、しんのすけが夢想した結果、野原一家も含めてそこらじゅうの群衆がおしあいへしあいぶりぶりざえもんになるという、もー夢のような?(いや、悪夢か?)画で、そういうことなら、ちょっと、嬉しかった。だって、しんのすけにとってやっぱり、ぶりぶりざえもんは忘れられない大切な存在なんだなあ、と思ったから。こおんなにたっくさんのぶりぶりざえもんを観ることが出来て、ちょっと泣き笑い。
まあ、あの……確かに観た後焼肉食べたくなっちゃって、翌日さっそく焼き肉屋に行っちゃったんだけどさ(笑)。
でも、もう原監督は登板しないのかなあ。そうだとすると来年からは……どうしよ。★★☆☆☆
そりゃまあ、そんな風に悔しがるのは贅沢というものなのかもしれない。だって、本当に中盤までは、彼女、大活躍なんだもの。ま、ある程度はスタントを使っているんだろうけれど、彼女の顔が見えている部分でのアクションも、かなりサマになっている。開脚が得意だという彼女に合わせて足技のアクションが多くふられているんだそうだけど、これが本当に大正解。だってだって、彼女のなんという美脚!もはや限界ギリギリの超ミニから、同色のサポーターも丸見えに惜しげもなくさらすのだから、ああ、もう、見とれちゃうー。他の二人のアクションがどちらかといえば少年っぽさや男性っぽさを感じるのに対して、スー・チーのアクションは、確かにスピードは二人と同等なんだけど、このあきれるほどに長くて美しい美脚がしなやかに宙を描いているから、とてもフェニミンな魅力。こういうアクション女優はなかなかいませんぜよ。その初アクション挑戦に悪戦苦闘したスー・チーがね、インタビューで、ミシェル・ヨーがいかに凄いか判った、って発言してるの。いやー、スー・チー、偉いなあ、こういうこときちんと言ってくれると嬉しくなっちゃう。
ああ、ホント、それにしてもスー・チーのなんという美しさよ。彼女がスクリーンにお目見えした時、うっわ、何というキュートな美少女だろ、ともうメロメロだったんだけど、その美少女からこうも匂やかな美女になるものなのかしらん。美少女っていうのはそこだけで完成されるから、それが美女というほかのカテゴリ(上の、ではなく、ほかのよ。美少女のかわいさを持つ人は、年をとってもかわいいんだもん)に移動するというのは、これがなかなか難しいものなのだ。本当にね、驚いちゃう。顔は確かにあの美少女だったスー・チーなのに、このセクシーさは何なんだ!っていう……彼女を美少女たらしめていたのは、その顔のパーツの絶妙なアンバランスさにあったんだけど、これは美少女でも美女でも有効なんだなあ。この点、やっぱり彼女と、「猟奇的な彼女」で美少女に大変身したチョン・ジヒョンって共通するものがあると思うんだな。
思わずスー・チーにばかりスペースを割いてしまった……だって彼女、本当に美しいんだもん。正直あとの二人はあんまり私の目には入っていなかったりして?いやいや、そんなことはない。妹役のヴィッキー・チャオ、可愛かったもんね。そうかそうか、彼女「少林サッカー」のムイ、こんなに可愛かったっけ?ああ、そうだそうだ、そう言われてみれば、確かに可愛かった。「少林サッカー」はその内容のあまりのキテレツさに気をとられて、こんな美少女が出ているのをうっかり見逃していたんだわ。いかにも妹っぽい容姿ながら、実は姉役のスー・チーと同い年で、ヴィッキーの方がちょびっとお姉さんだったりするんだ。びっくり。だって、スー・チーが、これがまたお姉さんフェロモンびんびんなんだもん。以前はスー・チーこそが、妹っぽい可愛さだったのに……おっと、またスー・チーに戻りそうになってしまった(笑)。幼い顔して実はちゃんと大人の女性であるこのヴィッキーが、なかなか繊細な女心をかもし出しているな、というのは、彼女は敵対する女刑事(カレン・モク)と同性愛的な感情を共有するわけで、こりゃあ確かに、ただの小娘じゃなかなか表現できる境地じゃないよね、と思うんである。うーん、いいわ、美少女が強い女と修羅場において同志的な気分からそういう艶めいた感情を生み出すっていうのが。
ここで、美少女と美女、とアッサリ書けなかったのは、カレン・モクってやっぱり、あっさり美女とは言えないものがあるんだもんな……というより、彼女の魅力はそんなところにはないから。確かに彼女、美女でもないし可愛いというわけでもないし、ことさらにチャーミングというのとも違う。でも不思議に吸引力のある女優というか……彼女の良さというのは何だろう、きっぷかな。ずっと彼女を観続けてきて、何でこの人が重用されるんだろうと思いもせずに受け入れてしまっていたあたりも今思えば不思議だし、そして彼女の魅力が何だか今頃になってようやく判ってきたような気がするような、これこそ“女優”ってことなんだろう、な、うん。それにまんまキャッツアイな二人より、頭の良さとカンの鋭さで二人を追いつめるこの女刑事の彼女の方が、ずっとカッコいいのかもしれない。
ITとアクションを駆使する、というのは現代のアクション映画には不可欠だとも言えるけれども、それが美女になっただけでこうまで魅力的か、という驚きがある。真っ白なパンツスーツに身を包んで、巨大オフィスに一人乗り込んでくるスー・チーの、そのしなやかな美女が、モニターでチェックしている可愛い妹のサポートをばっちり利用して、かすり傷ひとつ追わずに、敵の裏をかきまくってばったばったと倒していく。そして逃げる時も華麗そのもので、その白いスーツをバリッと破り捨て、ワイヤーで窓からひゅーんと飛び出す……確かにこういうアクションは、男性がやっているものを何度も見てはいるんだけど、これが、これが美女だからいいのさあ。いろいろつきつめればムリがあるのかもしれないんだけど、合成映像とか、ワールドパノラマとか、畳み掛けるように見せられて、やっぱりハマっちゃう。美女に倒されるのが無骨な男どもっていうのが、また更にイイのよね。ある意味、女の究極の夢よ。男にとってもそうかも?
そしてこの冒頭のスー・チーの大立ち回りにかぶせられるのが「クロース・トゥ・ユー」。びっくりだけど、これがもんのすご、正解なのだわ。血なまぐさいアクションに、このカーペンターズの名曲がかかってしまう魔法。アクションにありがちなサントラにしてたら、ここまで印象的な美しいアクションにはなり得なかった。この曲を手がかりに女刑事が殺し屋姉妹を探している時も、この女刑事に興味がある妹は、CDショップで彼女に試聴のヘッドフォンをニッコリと手渡す。流れてくる「クロース・トゥ・ユー」にハッとする女刑事。この曲は本当にマジック。こんな穏やかな曲が画面のスリリングさをいっそう際立たせてくれるんだもの。
まあ、なので、このヒロイック・ヒロイン、スー・チーが、こともあろうに好きな男のために戦線離脱しようとするというのがちょびっと残念だったんだけどさ。その姉のあとを引き継ごうとこの妹は一人奮戦するんだけど、如何せん未熟な彼女は結局姉に助けられてしまう。ここで言う妹の台詞がイイのだ。「男に守られる人生なんてイヤ!」と……いやー、まったくだよね、と思いつつ、でもこの彼女の台詞は、彼女が同性愛の気質を持っているからでもあるのかな、やっぱり。でもこの同性愛の気質というのも、女一人気丈に生きていく点で共通しているこの妹と女刑事が、正と悪という正反対の位置にいるからこそ生まれる、やっぱり同志愛的なものに近いと思うけれど。でも確かに、男に守られる人生なんて、イヤだよ、ね、ね、ね?
この女刑事の助手についている男の子がカワイイのだ。彼女がこんなんなんで、こんなカワイイ子なのに彼はからわかれるしかないんだけど、そのからかわれようがカワイイのだ。退屈を紛らわす質問ゲームで、初オナニーはいつだとか、それを最後にしたのはいつとか、そんな彼女の質問に大真面目に答えちゃってさ。それにしても昨日、だなんて、それは彼女をオカズにしたんじゃないの!?だってこの子、やっぱり彼女にホレてるよねー?このデキる上司に対する憧れの方が大いにあるのかもしれないけど、それもまたヨシなのだ。
美しき姉、スー・チーは妹を守るために、刺客が入り込んでいるのに、警察に追われている妹の逃げ道を指示するのとその刺客との攻防を同時にやって、そんなのやっぱりムチャで……命を落としてしまう。姉の指示が見事成功して(追っていた女刑事に向かってさえぎられた踏切の向こう、手を拳銃の形にしてバイバイする妹のカッコよさ!)妹はルンルン気分で家に戻ってくるんだけど、姉はすでにこときれている……。妹はもう、これ以上はないってぐらい、彼女の嘆きが雨を降らせたんじゃないかってぐらいに、涙涙で嘆き哀しんで、姉の残したビデオレターにまたしても泣きじゃくって、決意するのだ。復讐戦を。
で、その復讐戦がクライマックスになるわけ。なるほど、弔い合戦ほど盛り上がるものはないからとは思うものの、ああー、ほかにどんな理由をつけてもいいから、スー・チーもまぜてクライマックスやってほしかったよお。そりゃ、ここにスー・チーがいたら、妹と女刑事の艶めいた感情のやりとりのジャマになる、それは判ってるんだけどさあ、ううう。情報戦のかく乱には自信のある妹だったんだけど、敵の方にもそのエキスパートが入って、事態は混乱の一途。最初はパソコンによる指示だけと言ってこの妹の側に回った女刑事はこの事態に、実動部隊として参戦。かくしてこの二人のコンビによる、スー・チーの美しく華麗なアクションとはまた違う、必死の、死を賭した、傷だらけの、流血の、アクションが展開されるのだ。クライマックスの中にも更なるクライマックスがあって、追い込まれた畳敷きの部屋(!)に待っているのは我らがスター、倉田保昭。ここで刀アクションがああー!このシーンの撮影だけに2週間かかったというすさまじい戦闘、女二人はともに白装束に身を包み(まさしく、弔い合戦)このプロ相手に二人がかりで立ち向かう。白い衣裳に流血がヤバいくらいに映える。刀だけではなく、竹だの何だのも乱舞し(しかし、あの刀を切りつけている細竹を束ねた奴……普通ならあの役割はわらの束よね?)、刀の構え方はちょっとフェンシングギリギリだけど、やはり刀の形に留まっているのは、倉田さんのおかげよね、やっぱり。
イメージする女の暴力やケンカと明らかに異なるから、カッコイイと思えるんだろうな、きっと。ヒステリックじゃなく、スタイリッシュ。でも邦題、電脳天使とかの方が良かったな……クローサーって、訳判んないもん。★★★☆☆