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「ほ」


2008年鑑賞作品

ホームレス中学生
2008年 116分 日本 カラー
監督:古厩智之 脚本:後藤法子 古厩智之
撮影:藤石修 音楽:上田禎
出演:小池徹平 西野亮廣 池脇千鶴 古手川祐子 イッセー尾形 宇崎竜童 黒谷友香 いしだあゆみ 田中裕子


2008/11/4/火 劇場(渋谷アミューズCQN)
正直、この映画化の話を聞いた時には観る気があんまり起こらなくて……というのは恐らく、やっぱり同じ理由でスルーしてしまった「陰日向に咲く」と同様(ま、あれはオムニバスが苦手ってのも理由にあったけれど)、あまりにも原作が有名すぎて、しかもその著者が芸人さんだからこそ、本人によって世間に語られすぎているから。

かといって原作を読んで映画と比べるまでの気も起こらず、またもスルーする気マンマンだったんだけど、メガホンが古厩監督だと聞いて、一気にその気がひっくり返った。
古厩監督!悩める青少年を取らせたら天下一品の古厩監督!彼がメガホンをとることになったなんて、どんな経緯なのか知りたいけれど、まあとにかく古厩作品ならば間違いはない、と大いなる確信を得て(結局私、あらゆる意味で偏見マンマンだよな……)劇場に足を運んだという次第。

まあ、小池君はね、たぐい稀なる美少年だし、このあいだの「KIDS」はアレだったけど、「ラブ★コン」でホレまくったので、彼を見られる喜びは大きかったけど、でもやっぱり大いなる人気者だし。誰もが言うようにモデルとなっている著者には似ても似つかないし(爆)。それにいくら彼が背が低くて童顔だからって、中学生ってのはあんまりだと思うし(爆爆)。
と思っていたら、最後の条件だけは、オドロキの裏ワザが待っていたんであった。彼と共に父親から家族解散を言い渡される三兄姉弟、小池君も含め、あとの二人も脅威のサバ読み!

いくら童顔だからって(ここは小池君と同じ)、背も低いからって(ここも小池君と同じ……)池脇千鶴嬢が高校生だなんてそりゃあんまりだし、お兄ちゃんを演じるキンコンの西野君は、年若い役を演じる要素を一つも満たしていない……。
しかし恐るべきことに、小池君やちーちゃんはまだしも、そのムリがあるハズの西野君も、大学生のお兄ちゃん役が全く違和感ないんであった。す、凄い、皆でサバ読んだら、怖くないってか?

でも、小池君をはじめ、人気者を揃えたとはいえ、これは意外にナイスキャスティングだったかもしれない。
まずやはり、ネイティブの関西弁を喋れなければ、この世界のリアリティは出ないし。そしてやはり……中学生が主人公になる場合、リアルな年齢の役者を持って来るとしたら、よほど達者な子でなければ、この映画の世界を任せるのは難しい。必要以上にシリアスになっても困るし。
世には達者な子役はたくさんいるけど、ネイティブ関西弁で、世間的に人気もある子役というくくりを与えられちゃったら、やはり難しいんである。で、苦肉の策で?(いや、確信犯で!)小池君がキャスティングされたら、もう姉や兄も、設定上の年齢を超えざるを得なくなるわけであり……でもこれが、結果的には大成功だった訳よね。

ことに私的には、ちーちゃんがお姉ちゃんを演じてくれたのは嬉しかった。彼女のネイティブ関西弁を聞けるのが、嬉しい。
やはり、スクリーンで彼女と出会った「大阪物語」の鮮烈な印象を思い出してしまうし、そこで彼女のおかんを演じ、「東京(在住)のおかん」と慕っている田中裕子が、いわば間接的なおかんの役柄として登場することを思うと、かなり感慨深いものがあるんである。
そして、キンコンの西野氏は、その端正な容貌は印象的ではあったけど、役者としてどうとか考えたこともなかった。のが、これがイイのよ。一番の泣かせどころが、彼と小池君との牛丼屋のシーン。「オレだって、しんどいわ。しんどいから、一緒にいるちゃうんか!」これは泣いた。

まあ、つーか、物語を追わなくちゃね。でも、物語に関して言や、それこそ著者の田村氏がテレビのバラエティで散々語ってて有名すぎるじゃない。
突然家が差し押さえられて、父親から「はい、解散!」と言われたこと。公園でホームレス生活をし、水道の水で腹を膨らましていたこと。豪雨は体を洗うには最適だけど、思うように降り続けてくれず、「降るなら降る!降らへんなら降らへん!」と天を仰いで叫んだこと。一度街中で自転車に乗った父親とバッタリ会ったけど、元気か!と言われただけで去っていったこと。ごはんをずっと噛み続けていると、“味の向こう側”に到達して、ふっと味が沸きあがってくること。

……等々は、本当にいろんなところで聞いたし、さすが芸人さんだから、話も上手くて、衝撃的ながらも笑っちゃったりした。
でね、映画となった本作では、その部分は田村氏の喋りの面白さ、衝撃を超えることはないのよ。
私はそのことに、あれ?とちょっと焦りを感じた。というのも、なんたってタイトルはホームレス中学生。そのホームレスって部分だけで展開していくもんだと思っていたから。
過酷な路上生活、それを中学生が強いられるところこそ、それこそ電波少年的なものかと思っていたから。

本作は、ホームレスではなくなったところからこそが、メインなんだよね。いや、最終的には、幼い頃母親が亡くなって家族の心が崩壊したところから、僕たちはホームレスだった、と上手いまとめ方をしているけれど、でもやはりホームレス脱出以降の、彼らのあがき、悩み、なんだよね。
そもそもこの三きょうだいが周囲の人々の尽力によって、小さな借家で共に暮らせるようになるまでは、ほんの一ヶ月足らず。
ホームレス生活というよりは、外で過ごした一ヶ月という感じで、季節も夏でそれが可能だったし、ホントに過酷なホームレス生活をしている人たちからは、カンタンにホームレスと言うなと怒られるのかもしれない(実際、そんな風に言われたみたいな話を聞いたような気も)。
それこそ、ねえ。吾妻ひでおのように、本格的にホームレスを体験しちゃったところから這い上がった人もいる訳だし。

でもなんたって、彼らは中学生、高校生、大学生。一番上の大学生のお兄ちゃんだって、父親から家族解散を言い渡された訳で、今や彼が長子として弟と妹のことを見なければならず、こんなしんどいことって、ないのだ。
それでも彼は、弟と妹に、高校や大学進学を諦めないように諭す。それは、自分が大学まで行ったことに対する気後れがあったのかもしれないけど、でもこの状況での彼の決心は並々ならぬものがあって、なんかもう、それだけで、涙がこぼれるのだ。

親のいないきょうだいが生活に窮する厳しさに涙した映画といえば、「赤い文化住宅の初子」もあったけど、やはりこれが本当にあった物語なのだと思えば、思い入れも深くなる。
彼らを心配して借家を見つけてくれた親友、よしやの両親や、彼らが相談をつないでくれた民生委員のおばちゃんやら、そして若くて美人の先生までもが優しくて、こんなにイイ大人ばかりが揃っているのがほんまかいなと思うぐらい。

まあ、この映画が、どこまで原作に沿っているかは判んないけど……ただ、悩める青少年を描写することこそに手腕を発揮する古厩監督だから、むしろそうやって周りを固めることによって、いたいけな少年を追いつめる後半戦こそが、胸に迫ってくるのよね。
いきなり放り出された時が、夏休みの最初だったし、彼はなんとなく、公園で生活して、時にはお兄ちゃんのバイトしてるコンビニに行って期限切れの弁当をもらったりして、水道水を5分以上飲み続ければお腹はいっぱいになるし、とにかく、どうにかしてしのいでいたのだ。
お決まりの、自販機の下やつり銭口を探ること、つり銭の取り忘れを狙うことなども欠かさなかったし、しまいには雑草やダンボールまでも口にした。

でも正直、そうした過酷な“ホームレス”描写は、それほどでもなかったんだよね。
まず、小池君は美少年のまま、髪もガビガビになる訳でもなく、着っぱなしのTシャツもそれほど色も変わらず、何より、クサイ、と遠ざけられることがなかった。真夏に屋外で着替えナシっていったら、そりゃあ、相当クサくなるに決まってるのに、そういう描写がなかったのがちょっとね……。

ただ、“ホームレス”である前半戦には、それほど力を入れてないな、っては思ってた。田村氏がバラエティで言い倒していた聞き覚えのある言葉が満載だったし。
むしろ、このゆるさは計算づくだったのかもしれない。一見してキビシそうに見えるのはホームレス生活だけれど、真に厳しいのは、雨露をしのげる住居を得てから、心が追いつめられるようになってからなんである。
それまで彼は、一日一日を過ごすのに必死で、ナゼこんな状況になってしまったのか、今、自分はこんなことでいいのか、などと悩む余裕すらなかったのだから。

でもね、そんな風にイイ人な大人たちが、彼らのために尽力してくれるのは、感動的だった。
バッタリ出会った親友のよしやに、意を決して、家がなくなったこと、ごはんを食べさせてもらえないかと言った彼、よしやは驚きながらも、勿論快く迎えてくれる。
狭いアパートには幼い弟妹たちがひしめき、弟二人は友達と同じ坊主頭でじゃれあっているのがなんとも可愛らしくて、きっと彼もまた、今離れている兄と姉のことを思っていたに違いない。

温かで清潔な風呂で存分に垢を流し(この美少年のヌードシーンはたまらん!)、何より温かな手料理の夕食は……ここはね、殊更に、クロースアップ、スローモーションを多用して、サックリと揚がったメンチ、つややかなご飯の一粒一粒、ワカメがおどる味噌汁に至るまで、彼がかぶりつき、頬張り、すすり上げるその目線のままに、こんな平凡なお惣菜が、まるで至高の食卓のように示されるのよ。
もうね、もう……ほおんとに、平凡な食卓なんだけど、美味しそうで美味しそうで、たまらないの!
それはこれ以降、一日の食事をたった300円でまかなう生活となる三きょうだいが、炊き上がったご飯の香りに群がるシーンにもつながるし。何より、気力を失って家出してしまった彼が、迎えに来たお兄ちゃんに奢ってもらった、七味と紅しょうがたっぷりの、生卵を落とした牛丼の、箸でまぜまぜする超クロースアップショットが、勿論おいしそうでたまらんのはそうなんだけど、おいしそうであればあるほど……涙がこぼれちゃうのだ。「おいしいやろ」というお兄ちゃんの言葉が、余計にそれを加速させて。

でもね、その時にも、彼は泣かないんだよね。そして、家に戻って小さなテーブルの上に乗せられた、お姉ちゃんが作ってくれた塩むすびをほおばる時も、泣かない。
ちょっとね、ここで泣いてくれれば、もっと号泣が加速ついたのに、とちらっと思ったんだけど、でも、これもまたきっと、確信犯なのだろうと思い直した。
だって、泣きで泣かせるなんて、カンタンなんだもの。実際、よしやのオカンのはからいで、お兄ちゃんとお姉ちゃんが呼び寄せられて皆でごはんを食べた時、お姉ちゃんは、「こうしてまたきょうだい三人でごはんを食べられるなんて思ってなかった……」と泣き、単純な私は当然もらい泣きをしたんだけれど(それはやっぱり、ちーちゃんと田中裕子、というのも大きかったんだけど)、主人公の彼が最後まで泣かないことは、途中示唆されるものもあって、ああやっぱり、彼は思うところがあって最後まで泣かないんだよね、と思い至ると、やはりグッときてしまうんであった。

それは、大好きなお母さんが亡くなった時のこと。まだ幼い彼は、死というものが判ってなかった。泣き崩れる父や兄や姉を、ぼんやりと見つめてた。
父から、ガマンしないで泣いていいんだぞ、と言われた彼は、首を振ってこう言ったのだ。「イイ子にしていれば、お母さんはきっと戻ってくる」
その時の、何ともいえない父親の顔もたまらなかったけど、真剣にそう信じている、桃のようなふっくらした頬の幼い彼こそが、たまらなかった。
成長するに従って、どこかでそれが、間違いだということに薄々気付いていたんだろうけれど、それを決定的に突きつけられたのが、彼らきょうだいのために尽力してくれた民生委員、西村のおばちゃんの突然の死。
お母さん、お母さん……と泣きじゃくるおばちゃんの娘の声に、彼は今度こそ悟ったのだ。
自分のお母さんも、もう二度と戻ってくることはないのだと。
その時から彼は、自分に向けられる優しい視線に耐えられなくなった。
で、学校に行かなくなり、フテてしまい、家を飛び出すんである。

このあたりでもね、コミカルな視線はまだ、あるのよ。彼が壊してしまったお姉ちゃんのスクーター、10キロ程度しか出ないそれに、彼女は怒りもせずに乗り続けてる。
そんなお姉ちゃん、「10キロ女」というあだ名をつけられ、「狙われているみたいでコワイ」と同級生にウワサされてた。
弟である彼がそれにいたたまれなかったのは、自分が壊してしまったことではなく、自分ひとりが、この状況にいたたまれない弱さを持っているってことだったんだろうな。
でもさ、お姉ちゃんが怒らなかったのは、こうやって一緒にいられる嬉しさの方が大きかったからだものね。
銭湯に一緒に行くシーンとかも、大好き。外のベンチで弟が出てくるのをアイスを食べながら待っているお姉ちゃん。
「こうやってあんたと銭湯の前で待ち合わせしたり、もらったお菓子を分け合ったりしたこと、ないやろ。そういうのが、嬉しいんや。今までで、一番嬉しい」
夕暮れが差し込んで、ベタな場面だけど、二人が可愛いから実に画になる。

このきょうだいたちは、それぞれほんの2、3歳しか違わないんだろうけれど、10代のその差はやはり、大きい。姉や兄が獲得している余裕や優しさを中学生の彼が持てないのは、ある意味仕方ないことではあるんだけど、そのことに、同じく解散させられた同志であるのにと、苦悩する彼の気持ちも判るだけに、キツい。
自転車を駆って、彼は海に出た。一体、何時間走ったのか。
毛布をかぶって自転車をこいでいたところを、補導されてしまった。
お兄ちゃんが迎えに来て、頭をさげた。牛丼をごちそうしてくれた。お姉ちゃんにはナイショだぞと言って。そして、あの感涙の台詞を言ったのだ。
「オレだってしんどいわ。しんどいから、一緒にいるんやないか。ちゃうんか。」

電車で来たお兄ちゃんは彼に、ここから帰れるな、とまず言い、そして、言い直した。「帰るも帰らんも、お前が決めることや」と。
それは、単純なようだけど、本当に大事な言葉だったんじゃないだろうか。
だってそれは、彼を大人として扱っているってことなんだもん。兄が弟を心配して、全てを指図するんじゃなくってさ。

思えばそれまではそういう、兄が全てを差配する場面が数多くあった。それはムリなかった。こんな異常事態だもん。むしろ、心細かった弟である彼は、それがありがたかった。
でも、どんな状況でも、子供は、人間は、成長するのだ。こんな過酷な状況でさえ、成長期の彼は、アイデンティティを求めて、あがいていたのだ。
それを、親でもない立場のお兄ちゃんが、でも今や、弟と妹を導く責任感を持って、そんな台詞を言ったことが、泣けてさあ……。
更に泣けるのは、お兄ちゃんが電車の窓から、弟が自転車を疾走させているのを見ることなのだ。
あーこれは本当に……映画的表現でさ。家に戻ってのおにぎりも感動したけど、やはり躍動感があるこのシーンは、グッときたなあ。

ラストはね、今の田村氏につながっていく。吉本卒業公演の舞台にコンビとして立つ彼、客席にはお兄ちゃんとおねえちゃんが笑っている。
こういうの、弱いのだ。彼らは笑っているのに、こっちは泣いちゃう。
「お母さんを笑わせたように、人を笑わせる仕事についた」なんてナレーションが、ジャマになっちゃうぐらい。そんなん、見れば判るわ!泣くのジャマせんといて!なんてね。

この奇想天外な父親に誰をキャスティングするかも大きな部分だったと思うけど、イッセー尾形というのがピッタリすぎて怖い(笑)。でもこの父親には切なさもあって、またそこがイッセー氏にピッタリなのよね。
ホームレスになる前、夏休みに一緒に映画に行こうとした女の子との淡い恋が、それきりになっちゃったのがもったいなかった気がしたけど、まあこの展開じゃしょうがないかあ。★★★★☆


ぼくたちと駐在さんの700日戦争
2008年 110分 日本 カラー
監督:塚本連平 脚本:福田雄一
撮影:瀬川龍 音楽:志田博英
出演:市原隼人 佐々木蔵之介 石野真子 竹中直人 麻生久美子 石田卓也 倉科カナ 加治将樹 賀来賢人 冨浦智嗣 脇知弘 小柳友 豊田エリー 水沢奈子 成嶋こと里 森崎博之 ガッツ石松 掟ポルシェ

2008/4/18/金 劇場(銀座シネパトス)
ブログの映画化って全然想像つかないし、知らない監督さんだし、正直経歴見ても触手が動かなかったし(爆)、「ココリコミラクルタイプと時効警察のスタッフが」とか言われても双方見てないし(爆爆)。
ホントに、もリーダー出演ってだけを目当てにして全く期待してなかったんだけど、これが意外や意外の?拾い物。いやー、楽しくてほろっときて、何より面白い!

最近はすっかりノスタルジック流行りでさ、しかもそれが、必ずムリヤリ泣かせる方向に行っているのが正直ウザくて(という言葉は好きじゃないけど、この場合、本当にそう言いたいぐらい)仕方なかったもんだから、この楽しさ、面白さには大いに溜飲が下がる。
確かにクライマックスではちょっとホロリとさせられるし、お決まりの難病の少女なども出てくるんだけど、この難病の少女だってしっかり元気になっちゃうんだし、ホロリときて終わりかと思ったら、またまたぼくたちと駐在さんの“戦争”の第二シーズンが始まるのだし、全然ノスタルジックになんてひたらせないのよっ。

あー、でもこんな田舎町のこんな男子高校生は、確かにもう存在しないのかなあ。見渡す限りの田園風景、どこまでも続くウンザリするほど果てしない道路、この道を伝ったら、アコガレの都会に行けるかも、などということすら考えない、今のこの時間を、仲間たちと楽しく過ごすことを、ほんっとうにしんっけんに考えてる、バカヤローな男子たち!
時は1979年。共通一次にインベーダーゲームの年。劇中、「夜までやってる便利なスーパー」としてコンビニエンスストアがようやく登場するものの、それは現代のようにすっかりマニュアル化されたコンビニである筈もなく、田舎のオバチャンが近所のパートの延長線上で働いている、小さな雑貨屋に毛が生えたようなもん。オバチャンの作るソフトクリームはでろでろだしさ。

ああ、そうそう!この“田舎のオバチャン”、主人公、ママチャリの母親として登場する石野真子が凄く良くってねー。彼女は自分の息子が出来がいいとか悪いとか、悪いことしてるんじゃないかとか、全然気にしてないの。「何かやるなら、上手くやりなさいよ」ってな自由奔放さ。
かといって、ほったらかしてる訳じゃない。心配はしてるんだけど、信頼してるんだよね。本当に悪いことをやることはない。あの子にはあの子の信念があって、一生懸命にやってるんだって。
そして、彼女の働いているコンビニには、太川陽介のポスターに続いて、“石野真子”のアイドル時代のポスターがどーん!と張られ、彼女のヒット曲もバックに流れているのだっ!こういう遊び心がすっごい、好き!

おっと、なんか最初から脱線してしまいましたが。だからね、これは決して出来がいいとは思えない高校の、男子たちの、700日に渡る駐在さんとの“戦争”の、その1シーズン目を描いたものなのね。
クライマックスが終わってからは、ラスト前、駐在所の赤ランプを盗んでの、その第二シーズンも示唆される。
赤ランプを盗んだ、ってことが、そこまでのイタズラの中でも最大の悪いことではないかと思われる程度なので、決して“戦争”とか、不良と警察の攻防戦とか、ぜえんぜん、そんなんじゃないの。

そもそもこのバトルの始まりは、原チャリでのんびり田舎町を走っていた彼らの仲間のうちの一人が、坂道でスピード違反をとられちゃって、停学をくらったからなのね。
ぜっんぜん車なんか走ってない、のどかすぎる田舎道。ちょっと急な坂道をそのまま走っていったら、そりゃ少々のスピードも出るってなもん。
ホントに、ほんのちょっとのオーバーだったのよ。でもそのヒマヒマな道路に、ヒマヒマな駐在さんは、ギッチリつめてて、もう容赦ないのだ。
そう、こんなノンビリした雰囲気なのに、そこに赴任してきた駐在さん一人が、まるでオニのように厳しいの。

これを演じているのが佐々木蔵之介でね、彼はホントに、緩急自在だよなあ。なんかノンビリした役がお似合いなのかな?と思ったら、こんな心底イジワルな駐在さんも似合っちゃう。
しかも彼にはやけに美人の妻がいて、その妻とのエピソードがまた熱くてドキドキさせちゃうんである!

というのはまあ、後述で。主人公のママチャリにはね、市原君。ほかのみんなが男の子っぽい自転車に乗ってるのに、彼一人だけ母親と共用でママチャリだから。
「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」でズリ下げズボンがどーにも気になって仕方なかったもんだから、70年代のガクランの夏バージョンの、ちょっとベルトにこだわるぐらいの適度なダルダルさが、あー、やっぱりこの程度が好きだなーと思っちゃうのは、やはり古いのだろうなあ。

彼は厳しい駐在さんにイカッてはいるけれど、その駐在さんを困らせるためのアイディアを次々に考え出す、つまりは遊び上手な男の子で、どうやって楽しく友達との時間を過ごせるかを、第一に考えているんだろうと思われる。そのための、駐在さんは格好の材料だった訳で。
原チャリでスピード違反で捕まったんなら、自転車で同じスピードを出してやろうと画策する。でもね、自転車も軽車両だから違反は違反だと言われ、じゃあ、ただ走ってやる!とムチャなことを言い出すのだ。
スピードガンに測定されるためには、一定の金属がないとダメだからと、吹奏楽部から借りたでっかいホルンやら、ベルリラやら、どこから持ち出したのか鎖帷子の鎧やらで身を固めるおバカ。
言い訳が凄まじい。「葬式に行く」てんだもの!つまり音楽葬で、鎧は「フォーマルがこれしかなかった」って、んな訳けないだろ!大体、鎧がフォーマルて!(爆笑!)

そんな具合に、実にナンセンスなイタズラを駐在さんとやりあっていた男子たちなんだけど、ちょっと背伸びして行った喫茶店の美人のウエイトレス、加奈子さんに皆してホレてしまったことで、大きく方向転換する。
だってこの美人、駐在さんの奥さんだったんだもん。しかも、夏休みに遊びに来た奥さんの妹がこれまた美人で、本気でのめりこんでロミジュリの真似事をするヤツまで現われる。
姉妹は一階の縁側にいたのに、仲間の肩車で二階を覗き込んで、駐在さんに水ぶっかけられ、あえなく撃沈(笑)。

でね、この奥さんが明かす、夫の駐在さんとのロマンスがイイんだよね。あんなオニみたいな、ちょっとのことも絶対許さない駐在さんが彼女を落としたアツいエピソードがさ!
このおっとりした美人の奥さん、なんともともと暴走族だったっていうんだから!「マッポといつもやりあってた」なんていう彼女に、「か、加奈子さん!?」目を丸くするママチャリ。
そう、当時から駐在さんは真剣勝負だったのだ。彼女たちを、いや彼女を更生させたくて、ムチャをして突っ込んだ。加奈子さんと一緒に乗っていた仲間を大怪我させて(死んじゃったんだっけ?)しまった。彼は加奈子さんの仲間たちに土下座して、彼女を脱退させてほしいと頼み込んだのだ。
「あの時の彼、カッコ良かった」と、今はすっかりおっとり美人の奥さんに収まった彼女はうっとりと言う。そして、君たちのことも心配してるのよ、と。君たちとのこと、ホントに楽しそうに話してるわよ、って。
ママチャリは、何か駐在さんの弱みを握ったような顔をするんだけど、でも彼は、そのことを誰にもらすわけでもないのがイイのよね。

SM雑誌を派出所にこっそりしのばせようとして失敗したママチャリが、加奈子さんの目の前であられもないタイトルを音読させられるのには爆笑。
これが一番好きなエピソードかも。しかも、ヤラしいページがパリパリにくっついてるんだもん!それは、エロガッパこと石田君演じる西条のシワザなんである(笑)。
あるいは、ほんとマンガみたいに巨大な落とし穴に駐在さんを落としたり、それに対して駐在さんも負けてなくて、彼らが「ゴムそば」と呼んでるワゴムみたいな焼きそばに、一皿一ビンずつコショウをぶっこんだり、もうほんっとに、子供のケンカそのものでさあ。
その度に我らがもリーダー扮する寺島先生(心の中では、森崎先生!と叫んでしまう)が駆けつけては、生徒たちを叱咤する。それがもう、ほんっとに森崎先生そのものでさあ。しかも口ばっかりで、学校で叱り直すなんてこともなく、そのまま放置プレイってのが、実にテキトーでステキなのよねえ。

まあ、駐在さんと男子たちの“抗争”はちょっとしたジャブで、この物語のテーマというかクライマックスは、それほど駐在さんは関係ないのだよな。
ちょこちょことね、小学生の女の子が絡んでくるのだ。ママチャリたちと遊びたがってるミカちゃん。彼らの通う高校のプールが夏休みの間は市民プールになってて、イの一番にこの子がやってくる。でも彼女はなぜか、プールに入るのを母親から止められてしまう。
男の子たちの悪巧みを嗅ぎ取って、「私にもさせてよー!」と言うと、エロなことしか考えていない西条は「そんなイヤラシイことを言うもんじゃない!」って考えすぎだってば(爆笑!)
このミカちゃんはね、本当に随分前、ママチャリと西条が出会うキッカケになった子だったのだ。

こんなコワモテしてて優しいヤツなのだ、西条。突然の雨に病院の時間に間に合わなくなりそうだったミカちゃんをおぶって、通りの向こうで傘をさしていたママチャリを見つけて声をかけて、走って彼女を送っていった。
そして、西条が思いがけず入院。それは彼のエロエロゆえで、テニス部の女の子たちのランニングに……つまり、スコート姿の息をあげている女の子たちにすっかり鼻血ブーになった彼は、ガードレールに突っ込んで自爆、骨折して入院してしまったのね(ホント、バカ……)だ。
そして、先天性の心臓病を持つミカちゃんが、手術をすれば治るのに、やっぱり幼さゆえの恐怖が先にたって、なかなか手術の承諾を得られずにいるのを知るんである。

西条はね、花火を見せてあげると、約束しちゃうのよ。
隣町の花火大会。こんな体の彼女、外出許可は勿論出ないし、そんな人ごみの中を、観に行ける訳もないのだ。
西条はそれまでのヤンチャも手伝って、隣町の花火大会から花火を盗み出して、彼女のためだけにあげてやろうなんて、ムチャなことを思いついちゃうのだ。
でも、彼自身は動けないのに。でもでも西条は恐らく、動けなくなる前から密かに計画を練っていたんじゃないかとは思う。あるいはアイディアマンのママチャリを信頼していたのかもしれないけど。

でもそれは、今までのお遊びのようなこととは段違いの、難しい計画だった。イタズラじゃ済まされない。ヘタすれば、停学どころか退学、少年院行きの、前科者になってしまう。
だってまず、窃盗だし、花火は免許がないと扱えないんだもの。

ママチャリも最初は躊躇する。ムリだと思う。それまで駐在さんとやりあってきたことは、確かにそのつど真剣ではあったけど、やっぱりお遊びだったのだ。
でも西条は真剣で、ママチャリはそういう意味での真の真剣になったことがなかったから、躊躇したんだと思うんだよね。
つまり、今まではホントにヤバイ橋を渡ったことはなかった。いつでも「だって、こうだもーん」という、逃げを打つことばかりを考えて、駐在さんと犯罪スレスレといえど、やっぱりお遊びを仕掛けていたんだもん。それが駐在さんの方が一枚上手で、お遊びじゃ済まされなくなっていたとしたってさ。

でも西条は、最初から一人、本物のヤツって感じだし、そんな逃げを打つなんてこと、いつも考えていなかったんだと思う。
その時、大切に思うものを守ることだけしか、彼は考えてなかった。
そんな彼に、ママチャリも、そして駐在さんも、あるいは間接的に花火師の親方(竹中直人)や、あるいは恋に目覚めてしまったグレート井上青年や他の仲間たちも、引きずられてしまったんだよね。

もー、この花火を盗み出す計画のドキドキときたら、今までのナンセンスが吹っ飛ぶスリリングなのだ。
まず、仲間で唯一の後輩、ジェミーにセーラー服を着させる。「どうして僕が女装なんですか?」と言う彼だけど、この子が登場してから、え?この子、男の子?と何度も胸が平らなのを確かめてしまったほど、声も高いし女の子顔なのよ。うっ、一体この子、何者っ!?
なんか当時のアイドルに憧れてるのか、ジェミーです、よろしくう、てな感じでウィンクして舌出して、妙に顔作るしさあー。
で、セーラー服の似合うこと、似合うこと。ヘタな女子高生よりカワイイ。「昔から女装がハマるんですよね」と、メイクにも気を使う。てゆーか、どんどん化粧が濃くなっていってるって!

で、なんで彼に女装させたかっていうと、ブラジャーの中に二つ、花火の玉を盗もうってのだ。
「花火の玉が入るような大きなブラジャーなんてありませんよお」という彼に、ママチャリの頭にピカーンとアイディアが。
向かった先は、バレンタインデーにチョコをもらったきり、返事が出来ないままでいた学校一番の巨乳の女の子、和美の家。うっ、まさか……。
「今日、隣町で花火大会だよね……だから、ブラジャー貸して!」
って、おいおいおいおいおいー!!!だからって、だからって何よ!それで貸してやる和美も和美だが!
せっかく好意を寄せられてるのに、恋愛より気の合う仲間たちと楽しくやることが優先なのだ……ある意味切ないかなあ。

でね、新聞部の取材を装って花火氏の親方にインタビューしている隙に、まんまと花火を盗み出すことに成功。「さっきより胸がでかくなっているな」とジェミーのおっぱいを不思議そうに見る親方を何とかすり抜け、上手くいったかと思いきや、駐在さんに見つかってしまうのだ!
これで捕まったら少年院行き……しかし、人ごみで騒ぎが起きる。駐在さんが駆けつけるとそれは、ワザと喧嘩を売って自らをボコボコに殴られながら、注意を引いてくれた孝昭君。一度はこの計画に不参加かと思われた彼が、ママチャリたちの窮地を救ってくれたのだ。もー、皆して浪花節である。

ミカちゃんとの約束の時間ギリギリに、ママチャリたちは何とか自分たちの町に帰ってくる。いよいよ花火に火をつける……とそこに、またしてもあの駐在さんが!
捕まってもいいんだ、この花火は上げなきゃいけないんだ!と、ママチャリは、初めて本気の顔をした。そしてたった二発だけど、心のこもった花火が打ち上げられた。ミカちゃんと西条が、笑顔で病院の窓からそれを見てる。

手錠をかけられるママチャリ、ジェミー、ふとっちょ千葉君。西条の病室に行く。顔をゆがめる西条。でもね、駐在さんが皆を屋上にいざなうと、そこには、まさに、まさに花火大会、無数の花火!
ちょっとー!駐在さん、やりやがったな!
「だから、お前たちが花火を上げる必要なんてなかったんだ」と少し照れたような駐在さんっ。
でも部下が持ってきた領収書に目をむいて、「花火ってこんなに高いのか……ボーナス二回分吹っ飛んだ」とつぶやくあたりが、もう(笑)。
しかもね、ママチャリたちに「親方が、花火代はもう貰ってるからって」ということで、盗難事件にもならなかった彼らは無事無罪放免。ママチャリが「取材費」として渡した三千円を手にニッカリ笑ってる竹中直人っ!

あー、なんか胸がいっぱいになっちゃった。夜空に無数に上がる花火に幸福感いっぱい。
そして、第二章を暗示させて終わるのも効いてるし。

あまりに面白かったからこのブログ、一瞬チェックしようと思ったが……いまだ続いてて、14章500話!?一生終わらんわー!★★★★☆


僕の彼女はサイボーグ
2008年 120分 韓国=日本 カラー
監督:クァク・ジェヨン 脚本:クァク・ジェヨン
撮影:林淳一郎 音楽:大坪直樹
出演:綾瀬はるか 小出恵介 桐谷健太 遠藤憲一 吉高由里子 阿井莉沙 佐藤めぐみ 斎藤歩 田口浩正 ドロンズ石本 リュウ・ヒジュン 水野花 近藤海斗 大和田唯斗 中上海輔 菅野友輝 松本莉緒 六平直政 蛭子能収 手塚とおる 納谷六朗 伊武雅刀 寺泉憲 遠藤憲一 竹中直人 吉行和子 小日向文世 喜内琉斗

2008/6/29/日 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
サイボーグだし、韓国の監督さんだしで、私はてっきり「サイボーグでも大丈夫」のリメイクだとばかり思ってたら、全然違った。しかし、なんですかね、韓国ではサイボーグばやりなのかしらん。それともこういう部分も、日本のロボットアニメとかの影響?

いやいや、ロボットと言っちゃあいけないんだろう。劇中でも“彼女”は(役名、なかったっけ?)ロボットと言うなと言っているし。でも逆に、じゃあ私はサイボーグですとハッキリ言うこともしてないんだよね。ただナノテクノロジーとか人と同じ生体皮膚だとかは言ってるけど、大体私、ロボットとサイボーグとアンドロイドがどう違うのかよく判んないしな……。
でも、この違いを言っていないあたりが、ミソなのかもしれない。だって、1年後、彼に再会しにきたと思ったら、その一年前の彼女は人間だったのだもの!?
なんて書いちゃうと凄い誤解を受けそうだが……ここには遠い未来で絡み合った、切ない恋の物語があって、いわば綾瀬はるか嬢は一人二役を演じている格好。でもそれが、主人公のジローを演じるこいでんにも、そして観客にもラスト近くになるまで判らない辺りがなかなか粋である。

でも確かに時間のカラクリで、何かが起こっているとは思ったんだよね。メインの時間から一年前、ジローがその一年前を回想する形で物語は始まる。
冴えない大学生の彼は、自分の誕生日を自分で祝うという毎年のイベントを行っていた。自分のために贈り物を買い、自分のためにレストランで食事をする。「おばあちゃんが、誕生日に麺類を食べると長生きすると言っていたから」とスパゲッティを一人寂しくすする、なんか返って自分自身が寂しくなっちゃうような日。

でもその日だけは、違った。デパートの中でジローは奇妙な女の子を見つけた。自分のために買ったフィギュアの人形(あれは、綾波レイだろう!)ソックリの、そうSFなボディスーツまでカンペキにソックリな女の子が自分の方を見てニッコリ笑いながら、通り過ぎたのだ。
???思わず目をパチクリさせるジロー。その彼の目の前で彼女が試着室に入り、しれっとワンピースを着て、裸足のまま彼の前を通り過ぎる。そしてショウウインドウのマネキンの靴も失敬して、通りに出た。思わずついていく彼は、彼女に釘づけになりすぎて、街灯にボコンと衝突してしまった。

更にレストランにも現われる彼女。次々にメニューを頼んで、「2005年のボルドー!?」となぜかもの凄く感激して、もりもり食べて、もりもり飲む。そんな彼女をジローはただただ呆然と見つめていた。
店を食い逃げしてダッシュする二人。レストランの支配人と警官から追いかけられる中、中華街を通ってリンゴを盗み食いし、歌劇団のステージに踊りこむ!そしてひたすら走り続けた。

そして彼女はなぜか、ジローの家を知っていて、その窓ガラスに石を投げ入れる。「この家に住んでいた人、ムカツクの」どうやら彼女はそこの住人だった男にフラれたらしいのだ。
「私に、キスしたくせに。私のこと、食べすぎだし、嫉妬深いんだって。それにパンチが強すぎるって言うの。もう歩く姿を見るのもイヤなんだって」みるみる涙ぐむ彼女。
こんなハチャメチャで、くるくる表情の変わる女の子なんて見たことないって顔で呆然と、しかしもうどこか惹かれ始めているジローは見つめ続ける。
そして、もう行かなくちゃと、彼女は風のように去って行く。後ろ姿を見られたくないからと、目をつぶっていてと彼に言って。
自分は実は、100年も未来から来たんだと。ビックリした?と言う彼女に、ジローは笑ってうなづいた。勿論、その時に彼がそれを信じている訳もなかったのだが……。

と、いうのが導入部。その一年後にサイボーグとして現われる彼女がまさにサイボーグで、必要な時以外は無機質な無表情であることと、この一年前の彼女との相違を、進行していく物語を見ながら、その理由を必死に考えていた。
ひょっとしたら彼女自身に何かが起こって、人間だった彼女がサイボーグとして生まれ変わって再びジローに会いに来たのかな。いやいや逆で、この一年後の彼女の方が彼女の時間軸の中では最初で、まだカラッポの器であるサイボーグである彼女がジローによって感情を満たされていって、一度未来に帰り、今度はカンペキな人間に近い状態になった彼女がもう一度彼に会いたいと戻ってきたら時間を間違えて一年前に行っちゃったのかなとか、凄い色々考えたのだ。

まあ最終的にはこの後者の考え方の方が時間軸から言えば近かったんだけど、まさか一年前の彼女と一年後の彼女が、別人物(別サイボーグ?)だとは思いもしなかった。
でも後者の考えの方がやはり最初から強くて、だって彼が自分のために買ったフィギュアと彼女が同じカッコをしていたから、きっと一年前の彼女の方が後なんだろうなっては思ってて。
でもそれだけだと色々と浮かぶ疑問が解決されなくて、モンモンとしていたら、予想外の展開が待っていたのだった。

と、まあそれはまた後の話。でも確かにこういう映画は日本ではなかなか作れないというか、作る発想が浮かばない、と思う。いわばSF少女アニメを実写で行こうという感覚。
綾波レイそのものの女の子がそのままスクリーンに出てくるなんて思いもしなかったから、思わず目をパチクリしちゃったもんなあ。
途中、マネキンの服を失敬した彼女が、そのマネキンのフリをしてショウウインドウでじっとしているシーンさえある。こういう発想も……なんというか、懐かしい感じ。バブル期のトレンディドラマ時代だったら、日本でもアリだったかも?

でもそれが、綾瀬はるか嬢によく似合っているんだよなあ。サイボーグの無機質な感じも、そのギャップでハチャメチャな女の子も。
ジローにとっては一年前の、よく食べよく笑いそして泣き出しさえする彼女のイメージが焼きついているから、一年後に現われた彼女がロボットチックな無機質さを持っていても、それもまたハチャメチャな彼女のひとつの魅力としてとらえて、ますます惹かれちゃうような感じなのよね。
しかもなんたってサイボーグなんだから、力もメチャメチャ強く、サイボーグなのにロボットダンスが上手くて!?(このヘンはギャグ的な気分があるのかしらん)彼の中で、彼女のギャップという魅力はどんどん膨らんでいくばかり。
ひょっとしたら、一年前の、人間“だった”彼女だけでは、ジローは彼女を好きにならなかったかもしれない。そして突然去っていった彼女が、きっと一年後の誕生日に再び現われることを彼はなんとなく予感してた。でもそれは、別の、人間でさえなく、サイボーグだったのに。

というのは、ずっと後に語られる。そう、確かに100年も未来から来たと一年前の彼女が言ったのは本当だったのだ。
その時はもちろんもうジローも死んでて、そしてその彼をずっと見守り続けたサイボーグである彼女も機能を停止していた。しかし不思議なことに、生身の女子高生である彼女が、そのサイボーグにソックリだったのだ。
不思議な運命に惹きつけられた彼女は、高値でそのサイボーグを落札する。ちなみにこのオークション会場でエルビス・プレスリーロボットも出品されているのはなかなかセンスが効いている。プレスリーの生存説が実はロボットだった!?なんてね。

そのサイボーグに刻み付けられていたジローとの時間を、彼女は疑似体験し、のめりこんだ。まるで自分が体験しているように思えた。だからジローにどうしても会ってみたくなった。本当はそんなこと、やっちゃいけない。だからせめて、と彼がサイボーグとの時間を始める一年前に飛んだのだ。
でもそれも、かなりやっちゃいけないことだし、かなりムリのあるタイムパラドックスってヤツが、このあたりからどーにもこーにも気になり始めるのだが……。

というのは、そう、ずっと後の話なのだ。もちろんそんなこと、メインの時間のジローは知らない。
でもこのサイボーグの彼女が未来からやってきた理由は、彼女によって明らかにされる。それは未来のジローの指示。ジローの前に、車椅子に乗って半身不随状態の彼のスライドが現われる。最初にサイボーグの彼女に助けられた場面、一年後のレストランで銃を乱射した男の、その弾に当たってしまったというのだ。
そして、彼女の来た未来の時点で、ジローが死んでいるらしいことも、彼女の台詞の端々で察せられてしまう。一応、彼女は未来のことは話せないと言っているのだが、サイボーグのクセに、結構そういうミステイクをおかすのよね。それともそれも含めて、計算どおりなのかしらん?

ジローは、たった一人で寂しく死んでいった自分を想像してむせび泣く。そんな女々しい彼を彼女は叱りつけるのだが、しかし自分の死を想像したにしても、こんな大学生の男の子が突然メソメソ泣き出すのは、ちょっと描写としてはおかしいよねー。なんか思わずここは引いてしまったのだが、ううむ、これは日韓の価値観の差なのだろうか??
そういやあ、このサイボーグの彼女がどこまで意図的だったのか……最初、その未来の年老いた彼自身からのメッセージは、まだこのサイボーグの中身はカラッポで、これから君と一緒にいることで、どんどん学習して人間に近づいていく、っていうことだったじゃない?
で、勿論ジローも、そして観客もそう思って、いわば少女の育成シュミレーションみたいな萌えも夢想し(爆)、彼女が彼によって満たされていくというちょっとした脳内エロ状態で(爆爆)見守り続けるのだけど、実際はそうじゃなかったんだよね。

もう彼女は完成形だった。ずっとジローのそばにいて、死までをも見届けて、「優しい人だった」という言葉も出るぐらい。自分は永遠に年をとらないまま、愛しい人が老いて、命枯れ果てるまでそばにいたのだもの。もう中身はフルで満杯になっている筈なのだ。
少女育成だと思ったのがマチガイで、なんたって「猟奇的な彼女」の監督さんなのだから、強い(そしてキュートな)女の子が好きってだけなのね。
監督が言うには、「社会の制約の中で苦しむ男が願う理想の女性像。強くて、一方で愛らしい女性」なんだという。何となくM的雰囲気も……。

だから、ここにも見逃せないタイムパラドックスが……ここにいるサイボーグの彼女は、若き彼の元につかわされた時からずっと彼が年老いるまでそばにい続けて、その未来からやってきた??ああうう、これぞ典型的なタイム・パラドックス。一体彼女はどこの時点で生まれたの?と。
まあ、それに関しても一応は答え?が用意されてはいるんだけど……彼女は一度、胴体からまっぷたつになってしまう。そうまでして、ご主人様の危機を助ける。その彼女を何とか再生出来たのが今のサイボーグ。
んん?それじゃ、やっぱりもともとのオリジナルのサイボーグの彼女がいつ生まれたのかが、タイムパラドックスの闇の中……。

などということを気にしていたら確かに進まないのだけど。でもさあ、老いた彼が身体が不自由になっててさ、それを助けるために未来からサイボーグの彼女が派遣されてきて、でも時間は必死に元に戻そうとするから、きっと君はどこかの時点で大きな災難にあうだろうと予言してるじゃない?
つまり、タイムパラドックスのことはこの物語自体がしっかりと意識しているんだよね。でもどんどんそのことを気にしない方向にいっているのが(爆)。だったら最初からそんなこと示唆しないでよ……。
だあって、サイボーグ&生身の女の子である綾瀬はるか嬢のハチャメチャぶりは、とってもキュートなのに。もうタイムパラドックスもなにもかもどーでもいいから、そんなこと気にせずにその魅力に浸らせてくれたらいいのに。

彼女はつまり、ご主人様を守るためにやってきたのね、まずはその前提。だから授業に遅刻しそうになるジローを背負って光速ダッシュしたり、ナンパした女の子から殴られた彼を見て、その彼女を噴水に投げ込んだりする。
後者に関しては彼が彼女に嫉妬してほしくてやったことなのだが……。しかしいわばそうしたギャグ的なアクションが、ムチャクチャなサイボーグである彼女のキュートさを際立たせる。お酒を飲んですっかりのぼせあがり、赤い顔してくるくる首を回すあたりも(笑)。

でももっと、大きな理由があったのだ。自分を助けるためではなく、他人を助けること。残酷な事件や事故が多発して、若い命が奪われたことに心を痛めた優しい青年のジローは、彼らをを助けたいと思った。だからサイボーグである彼女を未来から派遣して、トラックの事故にあった幼い男の子や、火事にあった少年たちや、立てこもり事件のあった女子高で救助にあたらせるのだ。
まるでスーパーマンのように強い彼女にますます彼は惹かれる訳なんだけど、それは未来の自分が指示したことだし、それに……彼の気持ちは判るけど、これもタイムパラドックスを考えたら絶対にやっちゃいけないこと。
だって死ぬ運命にあるハズの人が助けられたら、生まれないはずの子孫が出てくる。これまた典型的なタイムパラドックスで、時空の問題がぐっちゃぐちゃになっちゃうんだもん。
んでもって、ここで悲惨だった筈の事件が悲惨じゃなく終われば、未来の彼はこんな風にサイボーグの彼女を派遣しようとも思わないわけだし。ああー!だからタイムパラドックスなんだってば!!

気にしないようにと思ってもやっぱり気になっちゃう……まあいいや。でね、ついに究極の事件が。まるで地獄絵図のような大地震。未来の彼が言っていた災難というのはこのことだったのか、それともあるいは、替わりに起こった災難がこのことだったのか?
その前に、ジローは自分の方を向かない彼女に業を煮やして、一人で勝手に怒って、もう帰れ!と言っちゃってた。
奇しくも一年前、人間の彼女から言われた台詞を言って。食べるし、パンチは強いし、もう歩く姿を見るのもイヤだと、言い放ったのだ。
そんなこと、ウソだったのに。いくら自分が惹かれても、彼女はサイボーグ、そして自分のことはご主人様。その壁がくずれないことへの苛立ちだったのに。
彼女がいなくなって、ぽっかりと穴のあいたような時間を送って。でもその間に、子供の頃に飼っていた猫が彼の前に突然現われたりして(あ、はしょっちゃったけど、やはり地震でなくなっちゃった彼の故郷に、彼女が時空を越えて連れて行ってくれるのね)、彼女の気配を感じてはいたんだけど、突然、大地震が起こる。

で、ここはもう本当に、パニックムービーさながら。崩れ行くビル群、落ちてくる瓦礫、彼女の助けで何とか逃げてきたジローだけど、でもついに、大きな亀裂に落ちてしまいそうになる。彼女の方も瓦礫に埋まって動けない。
しかし彼女は、その埋まってしまった下半身がちぎれるのもいとわず、上半身だけの姿で彼の元にはいずって、助けにいくのだ。
その姿を見てギョッとするジローだけど、でも彼女への思いは変わらない。君だけを置いていけない、とその上半身を抱き締めた。

でも、彼女は言う。こんな姿を見られたくない。行って、と。そして、ジローが今まで彼女に言ってほしかった言葉を“学習”していた。「あなたの心を感じる。感じることができる」と。
彼は泣く泣くその場を離れ……後に、瓦礫の中から動かなくなった彼女の上半身を掘り出し、号泣する。
そしてその彼女を未来に向かって再生するという訳なのだが……。
そう、何気に彼、理数系の授業受けてたし、子供の頃の夢は科学者だし、そういう才覚があったらしいのだよね。劇中の彼のキャラクターじゃそんなの、全然判んないけど。

で、ここからネタ証しがどんどんされていって、実は一年前の彼女はこのサイボーグよりずっと後の時代の生身の人間だったこと、といった先述の事実が提示されていく。
それが判った上でもう一度、一年前の場面が再現され、彼女がどういう気持ちでジローに会っていたかがつぶさに判るからそれはなかなか感動的なんだけど、最後の最後に、更にサプライズが待ってるんだよね。
自分の時代には死んでしまっているジローを、しかし彼女は愛してしまった。一度は未来に帰ったけれど、もう一度戻ってくるのだ。どの時点にって?彼がサイボーグの彼女を瓦礫の中から掘り出した場面にである!
もう動かないサイボーグの彼女ソックリの、全身無傷でニッコリ笑いながら近づいてくる彼女に、目を白黒させる彼。そして彼女は「彼と一緒に生きていくことを決めた」とモノローグ。
……もう、タイムパラドックスを言ってもしょうがないから、やめておこう。

こいでんは素直な感じがその顔立ちに出ている魅力があるんだけど、どーもそのニキビっぽい肌の感じが気になってしまってしょーがない。
今時珍しいよな。昔はこういうワカモンは結構いたと思うが……まあそう考えると、クラシックな男の子なのだろうか。
監督の中には「猟奇的な……」の、チョン・ジヒョンとチャ・テヒョンのイメージがあったという。そう考えると特にこいでんの方はナルホドな感じもする。

ふと、思い出した。サイボーグの彼女が現われた時、ジローがまず当然気になった口にした「アレだよ、アレ。セックス」という台詞。
一年前の彼女が生身の女の子だったことを考えると、結構そのフレーズは全編に渡って意味深に響いているんだよな。しかも最後の最後、その生身の彼女が現われるんだもんなー。★★★☆☆


僕らのミライへ逆回転/BE KIND REWIND
2008年 101分 アメリカ カラー
監督:ミシェル・ゴンドリー 脚本:ミシェル・ゴンドリー
撮影:エレン・クラス 音楽:ジャン・ミシェル=ベルナール
出演:ジャック・ブラック/モス・デフ/ダニー・グローヴァー/ミア・ファロー/シガーニー・ウィーヴァー/メロニー・ディアス/アージェイ・スミス/マーカス・カール・フランクリン

2008/10/24/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
これってやっぱり、「ニュー・シネマ・パラダイス」を思ってやってるよね?と思いながら観ていたのが、ラストシーンで確信に変わった。取り壊される映画館ならぬビデオショップの窓に張られた、スクリーン代わりの白い布に映し出された“映画”が、外の観客たちにそのまま供される。そのことに、ドアを開けて外に出た登場人物たちが気付いたところで、ああ、これは「ニュー・シネマ・パラダイス」だ、ズルい!と思いながら、溢れる涙を止められなかったもんだ。
いやその前から、“映画”を観に、続々と住民たちが集まってきて、ひしめき合いながら、もうたまらなく最高の笑顔でスクリーンを見上げているそのシーンも、今やなくなってしまった映画館につめかけていた観客の溢れる笑顔そのものなのだもの。
このシーンに至るまではお気楽にケラケラ笑って観ていたのに、うっとこみ上げる熱いものを抑えることが出来ず、そしてラストシーンで一気に噴き出した。

でも、これが「ニュー・シネマ・パラダイス」を下敷きにしているんだとしたら、下敷きにしているからこそ、内の観客と外の観客両方に映画が供される幸福なシーンが、「ニュー・シネマ……」では中盤であるのが、本作ではラストであることに、大きな意味があったと思う。
「ニュー・シネマ……」と同じく、本作でもこの、地元の皆に愛された古びたビデオショップは取り壊される。大きな資本のレンタルショップに押されてというのも、実に「ニュー・シネマ……」的なものを感じさせる。
でも「ニュー・シネマ……」でかつての映画館が取り壊されることに涙を流したのは、かつての観客であった年老いた者たち(とスクリーンを見つめるこちら側の観客)だけであったのに比して、このシーンこそがラストに持ってこられる本作は、映画の未来を信じているんだと確信できる。

でもその“映画”は、「ニュー・シネマ……」で憧れていた、スターの出る、大きなスクリーンで憧れを込めて見上げていたそれではないというのがミソである。それこそ映画産業を大きく変え、時には貶めたとさえ揶揄されるビデオであり、そのビデオでさえ、今はDVDという永久型のディスクに駆逐されようとしているのだ。
VHSのビデオには、まだそれがテープであるという部分がどこか、フィルム型の映画に通じるような感覚もあったし、劇中の登場人物たちがそのビデオに映画を収めるというのも、同じ感覚の延長線上にある。それこそ、8ミリフィルムよりももっと手軽に“映画”が撮れると言われたのが、このビデオの登場であったのだから。
そのビデオでさえ、時代の遺物として廃棄されようとしていることには隔世の感を感じるし、かつてはフィルムの映画に比して悪しきものぐらいに揶揄されていたものが、こんな風に愛しい自分たちの青春だと描かれるのが、なんか色々と、感慨深いものだったんだよね。

世界中、その国の“ニューシネマ・パラダイス”とも言うべき作品があると思うけど、なるほどミシェル・ゴンドリーが撮るとこうなるんだと思わせる、シャレたアイディアである。
舞台は古びたレンタルビデオショップ。地元のスターであるジャズミュージシャン、ファッツ・ウォーラーの生誕地(というのも、後にホラだということが判るんだけど)として誇り高き店である「Be Kind Rewind」の店主が、ウォーラーの聖誕祭を祝って列車で一晩中彼のレコードを聞くというイベントに行きたいからと、従業員のマイクに後を任せた。

店主は重要事項をじゅうじゅう彼に言い聞かせたんだけど、たったひとつ、一番大事なことを言い忘れた。それは、「ジェリーを店に入れるな!」ということ。
ジェリーというのはマイクのマブダチだけど、とにかくキテレツなトラブルメイカー。だからこその忠告だったんだけど、店主が想像した以上にジェリーはトラブルを巻き起こす。
自分の働いている工場への不満を、こともあろうにテロ行為で抗議しようとして失敗、全身に帯びた磁気で、ビデオショップ中のテープをダメにしてしまうのだ。

このジェリーを演じているのが、とにかくヤッちゃってくれてるジャック・ブラックで、期待に違わぬキレ具合を発揮してくれる。
このテロにも最初はマイクを巻き込もうとしたんだけど、彼は店主への忠義心から途中で脱退。しっかしこのシーン、夜回りしていた警察の目を欺く為に、ハシゴの上でストップモーションしたら、作業服の背中に書かれた“Keep Out”の文字が、柵の張り紙とピタリと一致する芸の細かさには笑った。
で、マイクに去られて一人残されたジェリーが、じゃあ一人でやったる!と柵を越えたら、マンガみたいにビリビリビリ!(笑)
で、その後すっかり磁気人間になった彼が、磁石のごとく、ことごとく鉄を吸い寄せちゃうのには爆笑!
逆に鉄のフェンスに吸い寄せられて、スクリーンから見切れたりするんだもん。しかも、歩いていった先の、スクリーンのとおーい先で、ふっと消えたりするスラップスティックのような描写が可笑しくてね!

店中のビデオがノイズだけになって、頭を抱えるマイク。で、客の注文に、じゃあ自分たちで作ればいいんだ!と苦し紛れにしてはムチャなことを思い立つんである。
というのも、その最初の客は、店を心配した店主から差し向けられた、別に映画には詳しくなさそうな中年女性だったから、まあ当座はごまかせるだろうということだったんだよね。
しかし次の客にもウッカリ注文を取り付け、しかもその中年女性の子供たちや二番目の客もウッカリ面白がっちゃったことから、次々とお手製の“映画”を作り出すことになる。
しかもその評判は次第に広がって、遠くニューヨークからでさえ客が行列を作るようになるんである!

往年の名作を“リメイク”した、手作りの、たった20分の映画。
これってさ、まさに、映画ファンなら誰もがやりたいと思うことであり、実際に映画の作り手になる人なら、学生時代とかにきっと皆やっていたんではなかろうかと思うんだよね。なんかもう、大学生が、学祭に向けてやっているようなノリ。
それを地元の住民どころか、ニューヨークからも客が押し寄せるというのがね。この小さな街はニューヨークの近隣とはいえ、そこへ出ていけなくて鬱屈しているこのハーレムから仰ぎ見ているような大都市からも客が押し寄せるというのは、情報化社会が最たるものに達した、今の社会を象徴している。
ジェリーはこの状況に、俺たちはここから出て行ける!と凄く興奮してるけど、一方でマイクは、否定的である。
なんでこんな田舎町に縛られているんだよ!とジェリーに言われても、この街の、人が好きだから、と口ごもる。ジェリーは、ここに残っているヤツらは、皆出て行けないからだよ!と憤然とするんである。

ジェリーの言うことも、マイクの気持ちも、判る。
ジェリーは確かに、子供たちからサインをせがまれるほどのスターになったけれども、それはこの街だからなのだ。
でも一方で、確かに手作りビデオの評判は、ニューヨークにまでとどろいている。それはどの街にいても、もっと言えば、世界中どこにいたって、成功するチャンスをつかめる時代になっているということなのだ。
それでも、いつの時代も、いくつになっても、どこにいても、大都会に出て、成功をつかむことを、人は夢見る。 今の成功が、そのまますんなりと、未来へつながることを、信じてやまないのだ。

しかし彼らのやっていることは、やはり所詮、手作りの、しかもパクリである。まあ、だからこそホンモノとのギャップで面白がられているんであって、それがそのまま上手く行き続ける訳もない。
とはいえ、この物語の大きな部分を占める、名作の手作りリメイクは、もう、ホンットに、映画ファンの心をくすぐりまくるんだけれどね。
基本的には廃材仕様、ダンボールが基本。あとはアイディア勝負。
一発目が「ゴーストバスターズ」で、この時代あたりから映画道に迷い込んだ世代であるこっちとしては、なんかもう、涙が出る思いがするんである。ジェリーが口ずさむテーマソングがメチャクチャなのを、マイクが突っ込むあたりも気が効いてるよなあ。
掃除機を背負い、図書館でのゲリラ撮影を決行するあたり、ホンット、大学生のノリっぽいよな、と思う。しかもそれをやってるのは、いい大人の二人だってのがね!

「ラッシュアワー2」で、上下の距離感を出すために小さな手描き地図を地面に敷き、低ーい位置からぶら下がる“アクション”には爆笑した。
しかも「ラッシュアワー2」って!これを注文した客に、「さすが、通だね」って、そ、そうなのか??「ラッシュアワー」って時点で脱力なのに、2って……。
まあ、そういう意味では、“往年の名作”がほぼ全てアメリカ映画なのは、やっぱりそうか……とも思ったけど。
「シェルブールの雨傘」ぐらいかな、オッと思ったのは。ねえ、クロサワぐらい、入れてほしいよねえ。やはりそれがアメリカの現実という、逆に皮肉を示しているのかも?

最初は二人でこなしていたのが、次第に、コトは大きくなってくる。
きっかけは、ヒロインとのキスシーンで、オジサンとのそれにジェリーが拒否反応を示したことから始まった。そのオジサンが黒人だったことから、マイクとの間に一触即発のムードも漂うのだが、で、焦ったジェリーは、いや、彼は雇い主だし、セクハラで訴えられたら困るし……とか言い訳するんだけど、フツーに考えてそりゃまあ、ジェリーが嫌がるのも判るよなあ(笑)。
そうなの、白人のジェリーに対しマイクは黒人だから、というか、そうした人種はもとより、性格も何もかもが対照的な二人がなんで仲良しなのかがまずフシギなんだけど(爆)、マイクはブラックである自分に、ちょっと異常なまでのコダワリを見せるんだよね。

いや、異常なまでの、なんて思っちゃうのは、結局はウチらがお気楽な人生を送っているからなのかもしれない。
マイクは「ドライビング・MISS・デイジー」だけは、リメイクしたくない、っていうんだよね。読み書きの出来ない黒人の運転手が、白人の老婦人にその手ほどきをしてもらったりして、心の交流を図る物語。
本作がただ、「ニュー・シネマ・パラダイス」的なノスタルジーだけを追及する映画なら、マイクという存在も、彼がこだわるそうしたことも、いらないのかもしれない。
でも映画が、ことにアメリカ映画が、黒人排斥、黒人蔑視な歴史を紡いできたことを考えると、この要素を、もしかしたら映画のバランスを損うかもしれない要素を入れてきたことに、ゴンドリーの意地を感じるのだ。

「ドライビング・MISS・デイジー」なんか、映画の歴史から見たら新しい作品である。
それなのに、まだまだ、そうした視線が確かにある、しかもそれが、感動的な名作としてまかり通っていることに対する彼らの歯がゆさを、きちんと入れ込んでいることに、なんか凄い、打たれたのだ。
ま、それでも、ジェリーの演じる老婦人とマイクの演じる運転手というキャストで撮って、案の定、二人は大衝突しちゃうんだけどさ。
ジェリーが老婦人をやると、もうこんなイヤミなオバーチャンはいないってことになるんだもん(笑)。

「ラッシュアワー2」のヒロイン役として、クリーニング屋の娘を迎え入れたことが大きな転機となる。
彼女はこのビジネスの展開に大乗り気で、押し寄せる客をさばき、客の選別に身分証明書から通知表まで要求するタフさなんである。
でもそれが逆に客の飢餓感や作品のプレミア感を呼び、大繁盛。そうした客たちを作品制作に投入することで、数多くのタイトルを作り出し、“参加してる感”を生み出すことで、更に人気は高まるんである。
この感覚が後に、彼らが本当の意味での“自分たちの映画”を作り出すことにつながってゆく。それは、フィルムコミッションの意味が重要になっている今の日本映画界なども思わせる。

更に、撮影所だけで閉じこもって映画を作っていられた幸福な時代への、アンチテーゼでもあるように思う。ここで彼らが“リメイク”している名作たちの多くは、そうした“幸福な時代”に作られたものたちだけれど、時代が現代に近づくにつれ、映画はどんどん外へと出て行く。元々ツクリモノではあるけれど、ツクリモノとしてだけでは、通用しなくなってくるんである。
それはきっと、あらゆる芸術がそうだと思う。外と、現実とつながらなければ、人の心を動かせなくなってくる。それは一方で、全くの創造だけが力を持たなくなった哀しさもあるけれど、それだけ人間の文明、文化、感覚、といったものが成熟した証しなのかもしれないと思う。でもその“成熟”が、また別の問題を生み出すんだけど。

それは、そう、この訴訟社会であるアメリカでは、これってすんごいリアリティあるなと思う。
こんな大学生のノリみたいな“リメイク”映画に、著作権からのケチがつくんである。懲役何百年とか、何億ドルの賠償とか、非現実的な言葉が踊る。
こんなちっぽけな町の、ちっぽけな店で小さな幸福を享受しているだけなのに。でもそれこそ、これが“情報化社会”の一方の怖さであり、冷たさなのだ。
彼らの作る暖かい手づくりの“映画”たちが無残にトレーラーに押しつぶされていくのを、悲痛な面持ちで見守る住民たちに、FBIは、「私たちは、悪者ね」とつぶやいた。
しかもそのFBIがシガニー・ウィーバーだなんて、なんというシャレ。だって「ゴーストバスターズ」の彼女が、ゴーストならぬ映画を踏み潰すだなんて……。でも映画なんて形のないもの、ゴーストのようなものかもしれない。

ところで店主は、イベントに出かけるなんて実はウソだったんだよね。土地開発で老朽化したビルの立ち退きを迫られていて、何とかそれを避けようと、ライバルの巨大レンタルショップを視察していたのだ。
品揃えはアクションとコメディだけ。古い名作は入れていない。店員は映画に関する知識はなくてもいい……ものっすごく、痛烈である。
確かに昔、レンタルビデオ店が出始めた頃、それこそ私が映画道に迷い込んだ頃よ。田舎には映画館なんてそうはないし、映画ファンになると往年の名作や、ファンになった人の旧作も観たくなる。
そんな欲求に応えてくれるのがレンタルビデオ店で、まさに夢の場所だった。そういう店を構えているのは、大抵は映画好きな人たちで、そういう店の店員になるのだって、絶対映画に詳しくなければいけないんだろうなんて、レンタルビデオ店の店員のバイトをすることが、憧れだったりしたもんなあ。

今はシネコンとかも出来てきて、名画座がなくなる一方で不思議と映画館の数も増えているみたいなんだけど、でも、でもやっぱり、常に古く、需要のないものは切り捨てられていく感じは否めない。
それこそ、スクリーン数は増えても、今現在の番組を映し出しているテレビと一緒なんだよね。そして店主が視察する現代のレンタルショップも、そうなのだ。
日本のレンタルショップはそんなこともないと思うけど……でも、判る、判るんだよなあ。

彼らは自分たちの映画を作ろう、それならば誰にも文句は言われない!と立ち上がるんだよね。それで自主上映して寄付を募り、ビルを存続させようと。
店主はもうこの時点で、そこまでの金額は集められないと思っていたんだろうけど、彼らの熱意に首肯するんである。
このね、リメイクではなく、自分たちの映画を作ろうっていうのも、学生のノリから真のクリエイターへと踏み出す感じを思わせるよね。ゴンドリー監督もそうだったのかな?なんて勝手に思っちゃったりして。

自分たちの映画、誰にもジャマされない、自分たちだけの映画。
思えばそれがなかったから、「ニュー・シネマ・パラダイス」は、ただただ思い出を粉塵に撒き散らして、壊されるしかなかったのかもしれない。
そこを訪れたトト=サルヴァトーレは映画監督になっていたけれど、遠く故郷を離れた彼は、そこで錦を飾ること……自分の映画を上映することは出来なかったんだもの。
なあんか、そういう思いも込められているのかなあ、なんて。
失ってはじめて気付く、故郷の大切さ。
故郷なんて大げさに言わずとも、ここではたった一つの、小さな古びたレンタルビデオショップが、その思いを引き寄せるのだ。

それは、彼らのスターであったファッツ・ウォーラーが介在していることも、大きく意味を持つ。
自分たちで作った映画は、彼の生い立ちを追うドキュドラマだった。そもそもこのレンタルショップは、彼の生誕の地であることがウリだったんだけど、それは実はウソだったのだ。伝説として流していただけの話に乗っかっただけで。そのことに誇りを持っていたマイクに、店主は言えなかった。
でも、いいのだ。そんなこと、言っちゃったもん勝ちなのだ!みたいなノリで、ええ!?と思ったけど、店主も戸惑ってたけど、でも、それこそ、映画なのかもしれない。
ウソをホントにしちゃうこと。ホントの感情で観客の心を波立たせちゃうこと。

この映画の冒頭から、実際のフィルムのように流されているファッツ・ウォーラーの姿が、彼らの作った“ツクリモノ”であることが、ここに至って判明する。
昔のフィルムっぽくするために、換気扇越しに撮影する工夫は、店主のアイディア。やはり、映画好きだけある!
そして、それまでの“リメイク”のノウハウを全投入、夜のシーンではフィルムの反転、拡大コピー印刷で昔の車を二次元で表現したり、観光の蒸気機関車を勝手に走らせたりして。
そんな手作りの工夫が、実にポップな“ドキュメンタリー”を作り出した。まさに、映画、を生み出したことに、ただただ感動してしまうのだ!

だから、ノスタルジックの要素もあり、このビルが取り壊されるであろうという感慨を残しながらのラストでありながらも、決して、ノスタルジーや喪失の美学だけの映画ではないと、強く思う。
もしかしたら、彼らの作った映画に感動した取り壊し業者が、政府側に訴えかけて中止になるかもしれないし(そういう余韻は充分にある)、そんな甘い展開にはならなくても、きっとこの経験が、この店のみならず、店主やジェリーやマイク、そして住民たちに、この街にいる意味を見直させることになるだろう。

映画がその土地、その街への誇りを取り戻す。それは、大林監督が最初から提言していたことだったと思う。なかなかそれが根付かずにいたけれど、でも、フィルムコミッションが定着しつつある今、それこそこんな映画が日本のどこかの街で生まれてもいいんじゃないかと思うのだ。★★★★☆


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