home! |
TOKYO 10+01
2002年 70分 日本 カラー
監督:Higuchinsky 脚本:Higuchinsky
撮影:Higuchinsky 音楽:矢田部正
出演:EDDIE 加藤夏希 坂本勇太 契月 高柳勇太 ウォーターハウス美希 ウォーターハウス亜耶 本間憲一 KEE 松澤仁晶 安藤政信 篠井英介
大金だけでなく、過去の悪事をも清算してくれるというこのゲームに、ヤバいことばかりしてきた11人はもうノリノリ。マンガチックなキャラがずらりと並ぶこの11人、冒頭のアヴァンギャルドなアニメに乗った紹介は、どこか「PARTY7」風?ところでオフィシャルサイト見たらさあ、BBSが怖くって、何か舞台挨拶のことでトラブったらしいんだけど、最近映画のBBSまでもが某有名悪口雑言掲示板のノリに影響されているみたいなのが気になるなあ。んで、思わず公式サイトより充実しているという裏サイトに逃げたら、いやはやまさに!この11人はもとより、舞台となるネオTOKYOのそれこそ“裏”設定がやたらと緻密。不必要なまでに緻密(笑)。特にネオTOKYOの造形なんてさあ、象徴となる折れた東京タワーはじめ、裏サイトの画像の方が映画よりよっぽどキレイで見ごたえあるんだもん。何でかね、映画の方はチープに見えちゃうの?でもそのチープさがまたイイんだけど。
大食漢だが無銭飲食の際の逃げ足だけはフォレスト・ガンプ並みに速いビッグマック(というか……他のメンバーの走り方が妙にトコトコなんだけど)、中国雑疑団(裏サイトによると、“雑で疑わしい演芸団”なんだそうで。そ、それこそ芸が細かい……)からの密入国姉妹、ウーロンとジャスミンなど、キャラもんたちが大集合。天才少年、マイクロのランドセルはなぜ赤いのか?とか、天才贋作者、フェイクのピーヒョロ笛がシーンごとに違うのは、彼は懐に何本も用意しているのか?とか、ウーロン&ジャスミンはどこか由紀さおり&安田祥子をほうふつとさせるとか(っつーのは、私だけだあな)、仁侠映画信奉者のジンギの本名が高倉文太、って一体……とか(他のキャストも本名はいちいち笑えるんだけど、映画中でちゃんと本名が出てくるのは彼のみだったと思う)微妙なツッコミどころ、脱力どころが用意されているのが楽しい。
そして。やっぱり私としてはこのジンギに着目せずにはいられないんだなあ。何だかやたらと早く死んじゃったのが残念なんだけど……。要するに仁侠映画オタク、日本刀かと思いきやただの木刀で(「座頭市」の仕込み杖の逆いっているわけね。でも、逆ってイミネー……)、細かいことにちゃんと軒下仁義までセオリーどおりにきり、その格好と角刈りからどこかイヤな予感?はしていたのだけど、こ、これは「昭和残侠伝」における、高倉健、つまりは秀さんではないか!あ、あのヘタクソな背中の唐獅子刺青にズリ落ちた姿勢を正す間もなく、健さん自身も決して上手くはなかった主題歌、「唐獅子牡丹」を超絶ハズしまくって歌うジンギに、本気で椅子から落ちそうになってしまう!おぉーい、会場のみんな、ここはもっと笑うところだろう!私一人で爆笑するわけにもいかないので、必死にこらえるのが大変だったんだよう。
あ、ところで。多分その台詞から、これは「昭和残侠伝」屈指の名作、「死んで貰います」からとっているのだとは思うのだけど(違うかな?)、件の劇中での台詞はタイトルの「死んで貰います」ではなくて、「死んで貰うぜ」なんだよねー。あ、それこそ私ってば細かすぎ?(汗)
それにしても、ヒロインであるココに扮する加藤夏希の美少女ぶりときたら!あ、ここでは美女と言った方がいいか。シャネルに身を包んだセクシースナイパーなんだから。でも今までこの美少女愛好者の私が、顔は整っているけどどうにも関心が湧かなかった彼女だったんだけど、本作では見事私のハートを射止めちゃったんだなあ!(私にホレられたってどうしようもないけど)もともと映画に、それもわき道系の映画に(失礼)意欲的だった彼女に対する好感は持ってたんだけど、本作でようやく彼女の魅力が花開いた感じ。黒光りしたミニスカめくって、あらわになった太ももにはめられたピンクのレースバンドに、ぐりんぐりんに目が釘付けになっちまうナイスバディ。銃をぶっ放すさまが今まで観たどの美少女よりもサマになるではないか。スネークのバイクの後ろにまたがって後ろにのけぞりながら敵をバンバン撃ちまくるところには(カメラ引いてたからスタントだとは思ったけど)ホレたぁねー、いや実際。
あ、そうそうスネークってのはいわゆるこの作品の主人公ね。一人だけ最初から行動がアヤしい青年で、そうとは思いながらココはこのスネークにホレてしまうわけ。そんで鼻血を滝のように流した(笑)フェイクから彼をかばって彼女は死んでしまう……。ちなみにこのシーンでスネークに返り討ちにされたフェイクが、「北の国から」の純君調の手紙のナレーションで死にゆくのにも爆笑!(北海道の人間にとって「北の国から」はあらゆる意味でツボなのだッ)だ、だって大体、いつあんな手紙を書くっつうんだよ。フェイクにやられて倒れるまでの一瞬に書いたっていうのお??もう、可笑しすぎ!しかも末尾、“おわ”で切れちゃって、終わってないし!
話がズレてしまいました。スネークのことだっけ。で、彼が11人目だと思いきや、まあそうではあったんだけど、実はそう思い込ませて彼を操って全員殺戮を試みた本当の黒幕は、この戦闘を指示したミスターKだったわけ。彼が仕えていた男爵の、散逸していた子供たちを集めてのこのゲームだったんだけど、男爵には殺させる意図はなかった。ミスターKも、男爵は気づいていなかったけどやはり彼の子供で、この大金を独り占めするために画策した、とこういうわけなのだ。でさあ、このミスターKっつうのが(しかしミスターK……杉真理の曲かいな(判らなすぎー))篠井英介が演ってるんだけど、そんでもって彼が映画に出ているのも初めて見たんだけど、わ、悪ノリしすぎ……。っつうか、彼のノリに負けて★を献上してしまった??何かもう、凄いんだもん。あまりに楽しそうで。しかもあんなんでも?やっぱり妖艶なんだから凄いよね。女はべらせてても、彼の方が色っぽいんだもん。うおお。
スネークは、自分の両親を殺した男爵に対する復讐のために、ミスターKに雇われた。しかし白髪交じりの頭を後ろに向けているその男爵は……って、んん?この図、なあんか見たことあるんだけど……おーい、「サイコ」じゃないかあ、まんま!ここでもパロディかよ!(とミムラさん風ツッコミ)という訳で当然振り向いた男爵はすでにこの世の人ならず、ミスターKの陰謀が明らかになるわけだ。ミスターKの銃弾に倒れるスネーク。しかし死んだはずの彼はココからの形見に救われる。あの銃弾が埋もれた形見(シャネルの……あれ、何だっけ?)をミスターKからの視線の角度であおって見せるスネークのポーズってば……この、ひ、非常にキザにキメてくるラストにうわあ、キッザー!と思いつつ、結構喜んでいたりして??うん。キザな男は好きです。ただし映画の中ならね。現実なら串刺しだけど(笑)。
このスネーク役のお人は私、知らんのだけど、某バンドのヴォーカルの青年なのだそうで。「うずまき」ん時のFHIFAN君といい、メイン男子のキャスティングの持ってき方が絶妙ね。あ、女子も勿論好きです。なんつったって今回のナッキーは最高!★★★★☆
ことに、本作品は今までの作品と比べてもかなり観念的な印象が強いため、余計にそう思う。今までも決してメジャーなエンタテインメントではなかったけれども、映画監督としての地位を固めた北野監督は、自分の好きな世界に思いっきり溺れて撮る楽しみをようやく得た、という印象を持つ。文楽の人形から発展する純愛の世界……3つのラブ・ストーリーの中には「春琴抄」を思わせるエピソードもあり、そして文楽、というのも、やはり谷崎潤一郎を思い出させる。北野監督とは江戸っ子つながりか?
3つのエピソードのうちで、最も年齢の高い三橋達也と松原智恵子のお話。ちょっとこれは正直、あまり共感できるものではなかったけれども……。またヤクザかあ、と思ったし(どうしてもヤクザの物語を出さずにはいられないのかなあ)、初老の年になるまで、若い時の格好のままで弁当を作って男を待ち続ける女、というのは正直コワいし……。メインのカップルの女の子が男の裏切りで自殺しちゃう、というのもそうだけど、北野監督って女性に対して過分にロマンチストだよね?というより、ステロタイプというか……。こうあってほしい、と思っているのかなあ、正直、ありえないけど。自殺しちゃう女の子はともかく、このオバさんの造形はいくらなんでもヒドいと思う。
3つの中で最も好きだったのはメインの方ではなく、深田恭子演じるアイドルと彼女のおっかけをしている、もういい年の青年の話。……もしかして、私の方こそ、男性に対して過分にロマンチックな期待を持ち過ぎなのかな。事故で顔に残る傷を作ってしまって引退したアイドル、春奈。そんな彼女の顔を見なくてすむように、美しかった時の彼女の顔をその脳裏に焼き付けて自ら目を突いてしまう温井。こんな顔、ファンの人には見せられない、と一人こもる春奈に白い杖をついて温井は会いに行く。昔からのおっかけである温井のことは春奈も知っていて、驚く。「温井さん、ですよね。どうしたんですか、目……」「顔、見ない方がいいと思って……」
これはまさしく、顔を硫酸で焼かれた春琴を、彼女の気持ちを考えてもう見まいと決心し、目をついた佐助、それそのものだ。と、思わず「春琴抄」を久しぶりに繰ってみたら、この佐助は温井佐助、ああやはり、春琴抄からとったエピソードだったのだ。「春琴抄」自体元ネタがあるというのだから、これもやはり文楽につながっているのだろうな。思えば春奈だって、春琴の春の字を取っているのだ。春琴は小さな頃から両目の明を失っているわけだが、春奈はこの事故によって片目の明を失っているし。
こうして温井にだけは心を開いた春奈が、彼の手を取って薔薇が咲き乱れる一帯に連れて行く。「いい匂いですね」「薔薇が満開なのよ」この温井の行動は確かに女冥利に尽きるものなのだが、ふと考えてしまうところもある。美しい春奈だから好きだったのであり、醜い春奈はもう見たくないと思っている、そんな風にも取れてしまうから。彼の手を取っているのは、彼の中では美しかった頃の春奈であり、今の春奈ではないのかもしれないのだ。それでも、そっちの方がまだいいと、今の春奈は思っているのかもしれない。それもまた、何だか哀しい。彼女も今の自分を否定しているのだ。過去にしか、彼女はもう存在しないのだ。
しかし、温井は絶命してしまう。なぜ、彼が死んでしまったのか、ちょっとピンと来なかったのだが、とにかく死んでしまう。春奈は海岸で彼を待ち続ける。ちょうど同時進行していた三橋達也と松原智恵子のエピソードの方でも、三橋達也が撃たれて死んでしまう。またしても、松原智恵子は待ち続ける。女は、待ち続けているその姿が美しいと北野監督は思っているのかな……待ち続ける女、なんていうと、ああそう言えば「幸せの黄色いハンカチ」なんて基本中の基本の映画もあったし、これは一種の映画文化の一つなのかもしれない。でもね、私は決して待ち続ける女が美しいなんて、思わないけれど。追いかける女、の方がまだいい。
そしてメインのお話は、この映画の耽美的映像を一心に担っている。演じる二人、西島秀俊と菅野美穂も、言葉なき静謐な演技が出来る、男女双方唯一の俳優である。高ぶる感情の表現がバツグンに上手い菅野美穂が、それも抑えた北野流の演技に染まる。西島秀俊は今まで北野組に入っていなかったのが不思議なほど、もともと北野流の演技をする人。今までもこういうタイプの重い役柄が多くて、彼の笑顔などめったに見たことがなかったのだけれど、本作ではそれを見せてくれて、ああ、こんなに優しい笑い顔を見せる人なんだ、とちょっと感動する。
彼に裏切られた彼女は、自殺を図り、精神のバランスを崩してしまう。一人では何も出来ない幼女のような状態。親に押し切られて彼女を裏切ってしまった彼はそれを知り、彼女を連れ出す。何をするでもなく、何をしていいのかも判らず、自分のことも判らないらしい彼女と共に呆然と車の中で時を過ごす。やがて、車が真っ白にホコリをかぶり、落ち葉が積もり、彼の髪も随分と伸びてから(彼女の髪はそう伸びたように見えないのは……彼が切ってやっていたのかな)彼は彼女と赤い縄で腰のところを縛りつけ、あてどもなく歩き始める。
あてどもなく、ではなかったのだ、多分。彼は彼女との想い出をたどっていた。差し挟まれる、想い出の映像。そこには、今や言葉も表情も失った彼らではなく、あの頃の、気恥ずかしいほどの笑顔を何の疑問もなく振りまいていた彼らがいた。お金はなかったけれど、幸せになれるとまっすぐに信じていた、ちょっと憎らしいようなあの頃の彼らが。でも、何の確証もないのに愛を信じていたあの頃より、それが揺らいでいる今の方が、愛のありかを強く感じる。お互いに罪を犯してしまった今の方が。自分殺しと、裏切り、その罪をかぶった罪人である二人。腰にまわしたお互いをつなぐ縄は、罪人を引き回す腰縄のように思えもし、その鮮やかな赤は赤い糸のようにも思える。あるいは、もっと生々しく、へその緒のようにも……彼女の心が見えなくなってしまって、体そのものでつながろうとしているような彼の切実な思い。体がつながれば心もつながるんではないかという、無意識下の切実な思い。その縄で、どこかに行こうとする恋人を手繰り寄せる。体ではなく、心を手繰り寄せる。
満開の桜の中をそぞろ歩くところから始まって、真白い砂浜では春奈と温井の横をすり抜け、秋の紅葉の中を、色紙のような落葉をその縄で引きずりながら歩く。その落葉が真白い雪原にその縄で引きずり込まれる。二人の結婚を仲間に報告した雪山のロッジ。そこに文楽の人形そのままの衣裳がかけられている。そういえば、この歩き続ける二人、なぜだかその季節に応じて衣裳を次々に変えていたなあ、とこんなことを突っ込んではいけないんだろうな、と思いながらも、ついつい思ってしまう。これはほとんどヨージ・ヤマモトのファッション・ショーだよな、と思いながら。そしてそのラストが、この文楽の衣裳。ドテラみたいにしてそれを羽織り、自分たちではない、でもあの頃の自分たちのようににぎにぎしく盛り上がっている室内の若者たちを見やる。と、彼女が、あの時彼にプレゼントされたペンダントを示して、目に涙をいっぱいためてニッコリと笑う。この時に彼女が正気を取り戻したと解するべきなのか、いや、もしかしたら彼女は最初から、あるいは旅の途中から、ずっと正気だったのかもしれないと思う。彼の懺悔にも似た思い出をたどる愛情の行為をじっと見つめ続けて、今ここでようやく彼を許したのかもしれない、と思う。
結末は、もう決まっていたのだ。そこから逃げることは出来ない。それから逃れたくてぐずぐずするかのように、小さな火をおこして暖を取ったりするものの、ロッジの管理人?にすげなく追い払われる。もう行く先はない、行く当てはない。結末があるだけだと判っていながら、二人は雪深い山の中を歩き続ける。そして……二人をつなぐ赤い縄が崖の木に引っ掛かってぶらりとぶら下がるあのラストは、絶望?それとも希望……なのだろうか。
その冴え冴えとした肌の白さが文楽の人形の美しさそのものの菅野美穂。表情を失いながらも呆然と彼について歩く、そのたどたどしい歩み。これは彼女でなければ成立しなかった。そして西島秀俊。一見普通っぽい中に狂気がほの見える、つくりこまない演技。これは彼の真骨頂で、これもまた、彼でなければ成立しなかった。例えばここに美青年系の人気俳優など持ってきたら、絶対に、成立しなかった。これは形を変えた「春琴抄」。容貌ではなく、心が傷ついた女のために、自らも傷つく男の話。だから、女はただただ美しくなければいけないけど、男は美しかったらダメなのだ。
相変わらず久石譲の音楽がうるさいのが気になる。確かに甘美なメロディなのだけど、うるさい。静かに、ただただ見つめていたかった。愛の物語なのだから。……でも、ラブストーリーって、本当に心締めつけられるラブストーリーを描くのって、やっぱり難しい。画としての美しさには感じ入りながらも、そこまでの思いを感じることは、正直できなかったな。★★★☆☆
このオールナイト上映のそれぞれの作品の前に、監督のトークショーが催されたのだけれど、印象的だったのは60、70年代の黄金期に活躍したベテラン監督さんたちが方法論や映画のあり方、その頃の仲間達のことをとても饒舌に喋っていて、非常に確立された自信があるという感じだったのに対し、80年代、90年代にデビューし、現在のピンク市場を量、質ともに担っている監督たちが、そうしたことをあまり喋りたがらず、むしろ受け手に委ねているようなところがあったことだった。それは作品との時間的距離の違いもあるだろうけれど、現在の時間の中で映画を観ている観客としては、聞いていて面白いのはベテラン監督さんの話の方でも、嬉しく感じるのはどっちかといったらこの日登場したサトウトシキ監督や今岡信治監督のような、今まさに作り上げ、受け手と共に育て上げているという姿勢の作り手の方だと感じたのだ。映画は変革している。多くの巨匠、名匠達が作り上げてきた方法論が確立されているのはもちろんだけれど、その中から自分の方法を選び出すようでは作家としての未来はないのだということ。どこかテレからくるような寡黙さを保ちながらも、そうした熱をサトウ、今岡両監督から感じて、何だか嬉しくなってしまったのだ。
トシキ監督はもはや“新鋭”やら“俊英”どころか押しも押さもせぬ優れた映画作家なわけで、トシキ監督作品を数少ない機会ながらも観る中から感じるのは、作家的領域がコアとしてありながらも、エンタメから大きく踏み外して作家主義に走らないことかな、と思う。実は多分にそれは、瀬々監督やこの日ようやく二作品目を観ることが出来た今岡監督と比して思うことなのだけれど。独特の世界観を持つ、という点で共通するものを感じるこの三人なのだけど、その中でトシキ監督は一番エンタメ、ウェルメイドという部分に踏みとどまっている印象を受ける。逆にだからこそ、それを残した中で展開されるトシキワールドが際立つ。脚本を他人にあずけることが一番性に合っている監督なのかもしれない。そこで踏みとどまる部分を作って、あとは静謐でしっとりとした、時にはかなりじっとりともする青い世界だ。
そうそう、トシキ監督には青い世界を感じることが多い。あのキタノブルー(でもこれも、言われなくなったね)の冷たさとは違って、あたたかな青。湿り気のある青。しっとりとした青。本作はことに投稿ビデオの画面がいつでも青みがかっている感じで、それが実際の撮影場面に切り替わると、乾いた現実が待っている。主人公のAVクリエイターは投稿ビデオの中にかつての恋人(愛人、と言った方がいいか)の姿を見つけ、更に電話を通して自分がクビにした社員が、妻を犯しているのをビデオに撮影していることを知らされる。彼は一応はその事実に驚愕するものの、ビデオの中の恋人(そして電話で悲鳴を上げる妻も)は作品の中の虚像であり、そこで暴力を受けているのも、ビデオ画面になるととたんにエンタテインメントなフィクションになってしまうのだ。彼はだからそれを作品として、商売の目でじっと見つめ、編集し、業者に引き渡す。業者はヤラセなんでしょ、どうやって撮ったんですか、だなどと、知ってか知らずかイジワルなことを言う。まさしくそこでは現実のはずが完全にフィクションになってしまっている。
彼は現実が現実として受け止められないこの業界で10年生き続け、横暴になり、社員をクビにしたと思ったら妻を犯されてしまう。妻を犯されたのは痛恨の現実なのに、それをビデオというフィクションのフィルターを通されてしまう。恋人だってそうだ。彼に現実を伝えたかったのに、彼女はそれがフィクションとなってしまうことに気づかず、自ら終幕を降ろすようなことをしてしまった。ラスト、彼は二人の女を追って車を飛ばす。ガソリンスタンドに寄って、奥さんと恋人を連れ戻しに行くんだ、などと灰皿を替えてくれた女の子に嬉しそうに言ったりする。夜の高速道路は湿った青に照明が涙でにじんだように黄色く輝いていて、まるでビデオ画面の湿り気の青そのものだ。だから、彼が現実を追いかけているようには思えないのだ。というより……彼にとっての現実があまりに乾きすぎていた、というのが問題だったのだろうか。
投稿ビデオを撮影する素人のカップルたちはカメラの存在に、誰かに見られているみたいで興奮する、などとキャッキャッとはしゃぎながらプレイする。そこにはもう既にフィクションが巧みに忍び込んでいる。いつもの普通のセックスが出来る筈はない。フィクションになることを承知の上でのセックスなのだ。そのことによって盛り上がっているように感じる気持ちも、自分が用意したフィクションの舞台であって、相手への普遍の愛情や、欲情でさえ、ないのだ。人は既に、そんな普遍の愛情や欲情だけでは満足できなくなっているのか。いや、逆かも。ウソにしてしまいたいのだ。本気は、コケた時のダメージが強すぎる。気持ちを賭けてしまうのが怖いのだ。フィクションにしてしまえば、逃げ場が出来るから。どこにも出さない、何にも使わないと言いながら、そう言っている本人も言われている側も、本気でそうだなどとは絶対に思っていないはず。でも、だからこそ承諾するのだ。本気よりウソの方が使い道があるから。
でも、自分の手でかつての恋人にビデオを送りつけようとした彼女は、彼女だけは本気をそこに込めようとしていたに違いない。彼女の回すカメラの目線は他人ではなく、彼そのものだから、フィクションではないのだ。思いっきり現実。でもそれが彼に届く時、それが現実ではなくなってしまうこと、彼女は彼にとってのビデオがそんな風に裏返ってしまうことを、知らない。彼と共にエロ場面を切ったり貼ったりしていた社員の石井も、ビデオが切り貼りできるウソだという刷り込みがあるから、平気で上司の奥さんを犯したり出来てしまったのかもしれない。それが当の彼にはビデオ画面よりももっと遠い、電話の声で届けられる。この現実感のなさ。もともと気持ちがすれ違っていた妻が、他の男に陵辱されているというのが、まるで電波にまぎれた遠い出来事であるかのように、彼の手から受話器は滑り落ちるけれども、その目はうつろに見える。
彼がおよそ空虚なドライブに出かけるラスト前、芸術としての映像作品と商品としてのそれ、しかもAVという業界でそのことに悩むもどかしさを、彼はビデオカメラの前で告白する。これはまさしくトシキ監督を初めとして、全ての作家たちの叫びだろう。しかし皮肉なことにこの彼の告白が収められた“ビデオ作品”はやはり、フィクションとして世に流通していくのだ。
たった10年前なのに、ファッションやメイクがかなり古く感じて結構びっくり。10年位前って、かえって時間的距離が一番古く感じるのかも。★★★☆☆
これまで原田作品に出演した役者総出演といった趣のゴウカさである、そうそう、高橋和也は「KAMIKAZE TAXI」で役者としての非凡さを最初に見せつけてくれたんだっけ。彼はたった一人、民間人で死亡してしまった人物の役で、人質身代わりを申し出て撃たれてしまう男。彼などはまだいい方で、短い出演場面でも強烈な印象を残したけれども、「金融腐蝕列島[呪縛]」でメチャクチャ良かったもたいまさこさんなど、自分の子供に説得を試みる犯人の一人の母親役だったんだけれど、充分見せ場になりうるキャストだというのに、とおりいっぺんに片付けられてしまい、あっさりお役御免になってしまったものだからアゼンとした。役としてはかなりトップの方に名前のくる遠藤憲一は軌道隊小隊長の役だが、暗さとコスチュームのせいで顔が判然としない上に台詞も聞こえにくい。やはり「金融……」組でメチャカッコよかった椎名桔平氏はクレーン車を提供する会社の若き社長、彼のボヤキは現場と全くリンクせず、これまたさらりと受け流されてしまう。ゾロゾロと膨大に出てくるキャストが出ては消えていくといった印象で、今ひとつ心に残ってくれない。
台詞の聞こえにくさというのは「金融……」にもあって、それは物語の臨場感を大切にするがゆえであり、多少聞こえにくくても見せきってしまうだけの力が前作にはあった。もう1回観て確認したいと思わせるだけの力が。本作ではそんな気分はすっかり萎えてしまって、すっかりアキラメムードである。しかも、扱う時代も題材も全く違うにもかかわらず、その見え方が「金融……」とソックリである。ヤクザ並みの複雑な組織関係、見栄や意地、くだらない足の引っ張り合い……本当に驚くほどにソックリ。同じ物語を見ているんじゃないかと思うぐらい。しかしそれは「金融……」だからこそ面白かったのだ。それこそ単純に。悪役にまで人間性を持たせようとしないことが成功するような、動いている事態そのものは専門的で複雑なんだけど、その悪の人間性は単純であるという舞台があったからだ。
しかし本作はそういうわけにはいかない。悪役が単純に悪役に徹するには、私たちは事件に内面的な複雑さを抱えていることを知ってしまっている。それこそ“事実を元にしたフィクション”が許されるまでに30年もかかっているのだ。その間、タブー視されているかのような空気すらあったのは、この事件が私自身の生まれた年に起こり、それまでの経過をリアルタイムで知らない私のような人間にも判るほどに。本作は、犯人側の描写は切り捨てている。恐らく原作自体がそうなのだろうが、“悪逆非道な犯人”を捕まえる側の攻防こそがこの映画の使命である。それは確かに潔いほどの選択ではある。そうするしか出来なかったのならば……それこそこれを映画化する意義自体があったのだろうかという思いに駆られてしまう。だって、犯人=連合赤軍という公式、記号が使われているだけで、それが機能する部分が全くもって皆無だから。それこそ記号的な“犯人”、時も名前も設定しない“人質監禁事件”でしかない扱い方だから。勿論、それだけではこれほど大規模な機動隊などは起こり得なかったわけで、だからこそ大作映画のテーマとなり得たのだけれど、理由がそれだけでは、扱うテーマが内省的な危険を含みすぎているのだ。
連合赤軍側の描写を切り捨てていることで、その経緯を知っている日本人だけが、そうした違和感や苦味を感じるということも、危険だと思う。元々原田監督というのはハリウッド式大作映画体質の人。ある意味、これは世界的に通用する娯楽作品に仕上がってしまっており、これを外国の観客が観た時に与える影響を考えると、連合赤軍は単純悪にとらえられてしまうのだろうなという危惧がある。その意味でどうしても、比較してしまうのが、ついこの間公開された「光の雨」との対比。本作とは全く逆の視点、連合赤軍グループの内部に材をとり、彼らがリンチ殺人に至るまでを描いた作品である。本作ではチラリとしか顔が映らず(しかしそのチラリ出演に武田真治と鈴木一真を使っているというのが!)どんな人間たちなのか、どういう思想を信じて、信じすぎたゆえにこのような事態に及んでしまったのかが一切判らなかったのを補うかのように、公開時期の近さもあわせて考えると、まるでこの二つの作品はセットになっているんじゃないかと思われるほどなのが面白い。
言ってみれば真摯なまでの理想的な思想を掲げて、突き進んでいた連合赤軍。その頃原田監督はすでにアメリカで映画活動を行っており、完全なるノンポリであったという。逆に高橋伴明監督はその渦中におり、声をかけられた足立正生監督が捕らえられるのを目の当たりにし、自分はそこまでいけなかったことに対してどこか後ろめたさを感じていたという。この両者の違いがテーマの選択と演出の仕方に明確に出ていて本当に面白い。「光の雨」はまだその頃のことを整理しきれていない思いが、どこかおよび腰の描写と演出になってしまい、役者の熱意に応え切れなかった感がある。逆に本作は役者が熱意を込められるような思想的な部分がきれいさっぱり取り去られ、ピースを埋め、重ねていくように、迷いもなくエンタテインメント映画を作ってしまい、観客の側に戸惑いが生まれてしまう。どちらに軍配をあげるというのも言えない、中に共通のものを含んでいながらまるで違う二つの作品なのだが、消化し切れていないところは共通していて、30年経っているのに、まだ決着もついていないし、終わったことなどではないのだという思いを強くさせる。実際、当時の思想はまだ生き続けている。合致する時代がくれば、復活しないという確信はないと思うほど、現在の日本は暗く沈うつしている。こんな風に30年経った今注目される意味は、選ぶ行動がこんな風に狂い、間違わなければ、通ってしまう理想主義だからなのかもしれない。
そう思うと、本作において警察官の正義感や尊き犠牲よりも、くだらない見栄や官僚主義をあぶり出していることにこそ深い意味を感じる。緊迫しているはずの現場が、毎朝の生卵の食べ方や、猿股姿で抱き合って眠っている男二人や、うるう年の2月29日に犯人が死んでしまったら、のギャグに象徴されるように、どこかノンビリとしているのも、こうしたテーマの映画に不謹慎を承知で入れてくる面白さとともに、痛烈な皮肉をより強く感じてしまう。昨今の警察官(のみならずお上全体の)不祥事の続出に、今に始まったことじゃないだろう、という皮肉。
人質の夫役の松尾スズキはかなり面白いキャスティング。彼の顔やたたずまいは被害者というよりも犯人向きのブキミさで、異常な精神状態であるというアンバランスさが、面白いやり方で描出されている。突入直前、役所広司扮する佐々が彼にそれを告げにいくシーン、柴犬と思しき可愛いワンコロをつれて一面真っ白な雪の中でそれを受け止めるシーンがいい。その妻、人質役の篠原涼子は作品全体に存在感を及ぼしながらも、登場シーンは救出されるほんの短い場面だけという難しさを、その痛ましい弱り方の中に可憐ささえ感じさせて良かった。彼女は本当にいい女優だと思うのよ、私……。
BBSを読んでいると、普段洋画中心に観ている人が足を運んだという印象が強かった。「やはり洋画の方が面白い」などと、そんな比較するほど日本映画を観ていないだろうと思われる人が発言していたりするのを見ると、ああ、いまだに映画がそういう分けられ方をし、そしていまだに日本映画は面白くないと思われているのかと思うと暗澹たる思いがした。確かに突入後からのアクションエンタテインメントの描き方はさすが上手く、面白いと思わせるのだが、やはりそれだけではアクション好きの観客でさえもすくい取れないのだ。そんなさまざまな意味で残念さばかりがつのってしまう作品だった。★★☆☆☆
今回の監督は中原俊。この間の「コンセント」は市川美和子のなまめかしさもあってなかなかに楽しめたのだが、しかしここ最近の中原監督作品にはどうもピリッとしたものが感じられない気がする。そして本作では監督自ら「テーマはロリータとレズビアン」と語っているのだが、そんな断言する割にはどうにも中途半端。実際、私は宮崎あおいちゃんと安藤希ツーショットのポスターの美しさと“禁断の果実”というサブタイトルに、そんなテーマを知らずともそういうことを充分に期待して鼻の下をのばしてのぞんだために、かなりガックリする気分を否めなかった。それこそ第一作の「富江」の菅野美穂と中村麻美の方がよっぽどそんな気分を感じさせた。当時は怖さばかりをホラー映画に求めていて今ひとつ点が辛くなってしまったのだけれど、こうして富江シリーズを観ていくにつけ、そうした少女性を発揮していた第一作にもっと点をあげても良かったなあ、と思うほどで。
本作で、中村麻美に相当する役どころなのが、近年成長著しい宮崎あおい。少女女優トップバッターである彼女に“顔が地味で性格がクラい”つまりは富江と対照的に位置づくブスキャラを与えてしまうというのも凄いけど、彼女には確かにそれを演じるだけの内面性があり、美しく官能的な富江に父親ともども(というか、父親の血を引いているから?)溺れていく登美恵を的確に演じている。うーん、的確どまり、と言ったらいいのか。だって、富江と登美恵のカラミってかなりありきたりで、全然レズビアンなんていう危険な領域にまで行かないんだもん。いや、そこまでやれというんじゃなくて、そう感じさせるだけで良かったんだけど……結局登美恵の中のそうしたレズビアンに対する嗜好性を彼女の書く小説に代弁させているだけで、富江はそんな登美恵を虜にする……んだけど、虜にするほどの説得力のある描写がないんだもん。
いや、説得力がないのは、富江に扮する安藤希、なのかもしれない。彼女、確かに写真の段階ではフォトジェニックな美少女なんだけど、フィルムで動く状態では、なぜだか今ひとつフォトジェニックじゃない。笑顔とか、何か不自然で。批評家サイドでなぜだかやたらと盛り上がっていた「さくや/妖怪伝」も、私にはよく判らない上に、美少女好きのはずが、安藤希には心をちらとも動かされなかった。こうして映画二作目の彼女を観ていると、とりあえず美しさだけは持っている、と思っていた気持ちも、いやそれほど美少女でもないのかも、と思えてきちゃう。あおいちゃんほどの芸達者をサブにおいてメインを張ろうっていうのに、あー、もったいない。
25年前、親友、田島(藤間宇宙。えー、何かおじさんくさくなったぞ?)とともに同じ少女、富江を好きになった和彦(國村隼)。田島に彼女をとられたものの、なぜか田島は自殺、そして彼が富江を殺したと思しき凶器が発見されただけで、彼女の行方は途絶えてしまった。それから25年、彼女を忘れられないまま、娘に登美恵と名づけ、10年前に妻にも先立たれ、思春期の娘ともてあまし気味に暮す和彦。その娘、登美恵は同級生の女の子たちにパシリにされ、金を脅し取られているいじめられっ子。そんな登美恵の前に、富江が現われる。自分にはない美しさに虜になっていく登美恵。しかし富江はあの25年前の少女、富江その人であり、和彦と初恋を成就させるため、彼らの前に現われたのだ。私とやり直したいのなら、と登美恵殺害を促す富江をバケモノ!と叫んで包丁を振り下ろし、自らの働く氷製造工場でバラバラにして川に投げ捨てる和彦。それを聞いた登美恵は川岸に流れ着いた富江の生首を見つけ、それが言葉を喋るのに驚きつつも、誰にも見つからない場所で、ひっそりと富江を“育てる”。次第に、富江の首から生えてくる、胎児のような物体……。
今から思えば、お人形遊びのように富江を囲ってエサを与える登美恵、という図式には、少女特有の残酷な独占欲があり、それが母性の裏返しにも思える部分が嗜虐的にさえ感じられるのだけれど、富江の首から生々しく生えてくる胎児様のモノに気を取られて、そうした嗜虐的な魅力がグロテスクな映像表現にあっさり負けてしまうのだ。このあたりから、何度でもよみがえる富江、という精神世界での恐怖が、クリーチャーものの恐怖にとって変わってしまって、さらに興味が薄れてしまう。
あのぷよぷよの半透明のキモチワルイものをつんつんして「カワイイ」と微笑むあおいちゃんはなかなかに強力だが、やけに判りやすいワガママを言ってくる富江はあまりに単純で、仕えるだけの価値のある美少女にはどうにも思われなくなってくる。フカヒレだ、キャビアだって、何か殆どギャグなんだもん。キャビアのニセモノを「ランプフィッシュの玉子じゃない」と言い放つところには、おお、良くできました、と水産関係者は思わずニンマリなわけだが、しかしニセモノではなく、代用品と言ってほしいですけどね、関係者としては。
何度もよみがえる富江に次第に慣れて、真正面から矢を放ち、「まだ生き返るわよ」と、及び腰の父親をヨソにすっかり強くなっちゃった登美恵。富江の死体を氷の中に閉じ込めることにし、親娘してそれを眺める。「お父さんが氷屋で良かった」「俺も初めてそう思ったよ」「お父さん、富江さん、好き?」「……ああ」「私も。時々二人でこうやって見に来ようね」この場面のこの台詞とこの二人の感じは、良かったな。安藤希がジャマしなけりゃ、この二人はまさしく上手い役者同士なんだもの。しかし性懲りもなく富江は蘇り、和彦は「富江が好きなんだ」と言って娘を冷凍室に閉じ込める!えええ?そんなのって、アリ!?と思っていたら、それは父親としてできる精一杯の思いやりだったのだ。設定温度を高くすることで翌朝登美恵は無事救出され、後日かかってきた無言の電話に「お父さんでしょ。富江さんから引き離すためにやったんだよね。大丈夫、私怒ってないから」と語りかける。素晴らしい娘!しかし登美恵、引き出しの中に引きちぎられた耳を“飼って”いる。「今度こそちゃんと育ててみせる」とうようようごめくその耳をいとおしそうに眺める。ああ、やっぱりクリーチャーものになっちゃった……。
こうなると、あおいちゃんの演る、本格的な禁断の少女モノを期待したくなっちゃう。というわけで、あおいちゃんの次作は「ラヴァーズ・キス」だそうだから、「富江」映画の産みの親、及川中監督、頼んまっせ!★★☆☆☆
交通法規を異常なまでにマジメに守る、いや、交通法規だけじゃなく、とにかく何に関してもマジメで杓子定規なもんだから、始終ストレスによる頭痛に悩まされている朝倉(堤真一)が主人公。戦利金を独り占めして逃げ出した仲間を追うために彼の車に飛び込んできたどこかマヌケな強盗三人組、児玉(安藤政信)、新井(寺島進)、西(大杉漣)。そして、その裏切り者の強盗犯、ミッキー(筧利夫)。彼らのその運命的な一夜を次々と描写していく。そう、まさに一夜限り。運命の夜なのだ。
それにしても、堤真一である。このマジメさ、あまりのマジメさが、最初から可笑しくてたまらない。マジメだという自覚がないために、頭痛の原因が思い当たらないかと医者に問われても、さあ……と首をひねるばかり。では、頭痛体操を教えましょう。こうやってゆっくり首を回して……と教えられたその体操を、強盗に襲われている最中にもやっちゃうあたり、そのマジメさはちょっと問題アリ?そんな彼も、恋している女性がいるんである。彼と同じようにきっちり時間に正確、午後1時ちょうどに交差点を横切る美しい女性。彼女を見るために、1時きっかりにその交差点に車を止めている朝倉。あ、そういえば、その交差点で頭痛体操していたら、隣に停車していたコワそうなお兄さんと目があって、それ、ホリベじゃん!
その時に車に乗り込んでくるのが、くだんの三人組なのである。オイ!あの車を追え!と包丁を突きつけて脅しつけるも、朝倉は信号が青になるまで進まず、青になっても、規定の時速40キロを決して超えずに運転、その目的の車どころか、他の車に罵声を浴びせられながらどんどん追い越されていくありさま。当然、追っている車は見失ってしまう。この間、イラついた西から太ももを包丁で切りつけられる、なんてことまで起きるのだけれど、マジメな朝倉は冷静に車を止め、自分の仕事道具で(薬品会社の営業マン?)治療し、使った分はきっちりメモにとっている。うーむ、ここまで来ると、マジメというより、肝がすわっているって言った方がいいかも……。
ここからは、何も朝倉が彼らと一緒にいる理由はないはずなのに、何だか引き止められちゃってる。これからどうしようか、と悄然としてメシを食っているレストランでのシーンが最高なんだよね。ここで登場するは、SABU作品初登板の松尾スズキだが、初登板とは思えないぐらいに、ハマっている。思えば、SABU作品に出てくる男たちって、なんというか、どこかひん曲がっているような感じがあって(安藤君はその点、例外ね)日本人俳優、あるいはアジア人俳優って、欧米の人から見たらおんなじような顔に見えるのかなと思うのだけど、SABU監督の映画だったら、絶対にそれはないだろう!って言い切れる自信がある。あるいはSABU監督の映画が諸外国でも人気なのは、この基本部分をクリアしているせいもあるんじゃないのかなあ。
で、松尾スズキである。ひん曲がり度はこれまでのSABUチーム俳優たちの中でもバツグン。強盗三人組の知り合いであるらしい彼は、半分目を伏せたような独特の表情で、ワケ前くれなきゃバラしちゃうもんねー♪とやけに嬉しそうにらんらんステップ踏んで戸口へと歩いてく。そこで頭痛に悩まされてうめいている朝倉がワインのグラスを倒してしまい、それをよけようと新井が後ろに飛びすさり、……という動きがどんどん隣の人、隣の人に移っていって、これが実に、本当に絶妙なんだけど、スローモーションでじっくり見せていくわけよ。そんで、最終的にウェイターがすっ飛ばしてしまったワゴンがちょうど来ていたお客の背後に膝カックンの形で入り込み、彼の手にしていたボールペンが、らんら♪と入り口に向かって歩いていた松尾スズキの頚動脈にグサリ!ひッ!!
このシーンは、本当に素晴らしいです。ハッキリ言って、そりゃ、ねーだろ!?と思うけど、そんなこと言ったら、SABU監督の作品自体がそりゃねーだろなんだから??と、とにかく、この場面をすたこらさっと逃げ出す四人。そしてここから強盗三人組は一人一人さまざまな理由でこのチームから抜けていくわけだが……。
イチ抜けしたのは、新井。彼が実は寺の息子だというのは、先のレストランのシーンで明かされるのだが、背後霊まで見えちゃうらしい本格派(ホントかよ……)。で、破格のお布施を取ろうとするあたりはちょいとインチキっぽいけど。この逃走中、彼はふとパンクロックのライブ会場に迷い込んでしまう。それも、ステージに(おいおい!)。盛り上がりまくる会場に最初は戸惑いながらも、そのドトウの演奏に合わせて、いつもの絶叫の説教しちゃう。こ、これがハマっちゃうんだなー。びっくり。これは、あのー、「叫ぶ詩人の会」ですかい?いや、それよりも、カッコいいよね。うん、カッコいい。寺島さんてば、何だかやたらとカッコいいのだ。「与えられた生を大切にしろ、コノヤロー!」だなんて絶叫する彼にオオーとこぶし突き上げ、グルーブで返す観客たち。その様子を最後尾で呆然と眺めているその他三人組。こうして布教活動の場を得た新井は、このバンドに参加することに決め、去って行く。
このシーンで新井のことを常にけだるげに見つめてて、そしてステージで叫ぶ彼に途中からコラボする美女がなかなかいいのよねー。おっと、そういえばさ、私松雪泰子がどの役だったか判らなかったんだけど、この女性なんでしょ?相変わらず人物認識できなくって、ごめんなさい。で、チームから彼が抜けて、なんか、どうしようか、しょうがないなー、って感じで、朝倉の家に行くことになる。え、僕の家はちょっと……と彼が躊躇していたのは、同居している超強烈なおばのせいだったのだ。朝倉は幼い頃に両親が相次いで自殺し、このおばが身寄りのない彼を引き取ってくれたわけで、まあ恩人、のハズなんだけど……とにかく彼女が、自分の人生がメチャクチャになったのは、この子のせいだと。ひきこもりっぱなしのクラい性格で、サイコパスなんじゃないかと思ったとか、とにかくもう、もんのすごいキンキンのマシンガントークで言いたい放題で、しかもチーちくかなんかほおばりながら缶ビール飲みながらで。
こんなヒドいこと言われながら、朝倉はご飯食べながらだまーってそれを聞いてるんだけど、意外にも最若手、児玉がキレちゃう。両親が自殺して落ち込んだ子供に向かってサイコパスとは何事かと。うーん、優しい子だったのね。何か、感動しちゃう。こっちが感動してんのに、この叔母は猛然と反駁して、だから、サイコパスじゃなかったって、言ってるでしょ!って……そりゃまあ、そうなんだけど、ビミョウに観点が違うのよね……。しかも最高なことに、この子がサイコパスなら、私はキャリーよー!と叫び、お前は超能力者かっつーの!このキャリー、というのは次の場面での会話に継承されてて、キャリーって、外国の女なの?日本人なのになんでキャリーなのよ、と児玉の彼女に問い詰められた西が「……ちょっとだけ、キャリーなんだよ」と答えるのには、笑ったわ。
この、強烈おばを演じるのが根岸季衣様。もう、本当に季衣さん、最高なんだからあ。で、このシーン、あのマジメな朝倉がちょっとだけキレちゃって、この叔母を日本刀で斬りつける妄想シーンが出てくる。でも当然実際になんか出来るわけなくて、彼は飛び出してって車に乗り、メチャクチャに走らせるんだけど、マジメな彼にはやはり交通法規を破ることが出来なくて、道路じゃなくって、ちょっと空き地みたいになったところでグルグルギュギュンと走らせるのが、なあんか、切なくってね。それを追っかけてきた児玉と西の二人が腰を下ろしてちょっと呆然としながら見ているのも。ヘンな言い方かもしれないけど、何か男の子の友情みたいなものを感じるんだよなあ。特に、児玉が朝倉をかばったシーンあたりから。
そうそう、ここで朝倉の妄想シーンが出てきたわけだけど、SABU監督は妄想シーンを描く天才だね。このチームから一人離れている裏切り者のミッキーが妄想のカタマリなんだけど、……妄想というよりは、彼の夢?あるいはちょっととり憑かれちゃったみたいなところもあるんだけど。というのも、彼は逃走しようと別の車を用意していた場所で、その車のキーを変な穴に落としちゃって、それを取ろうとしたら、なんと差し込んだ腕が抜けなくなってしまった!それは物理的に抜けないんじゃなくて、どうやらそこにはさまざまな亡霊が渦巻いていたらしいんだけど……。ていう、このシーンで使われた場所は、実際の心霊スポットであるという!おぞぞぞぞ、それって、かなりコワすぎるぞ!だ、だって、この場面で戦国時代の合戦やら、日本兵のほふく前進やら(もうッ、トモロヲさん、似合いすぎッ!)出てくるんだもんー。
しかし、そうした心霊妄想よりも最高なのは、彼の夢見る美女との酒池肉林(笑)。美女にキャーキャー言われながらさっそうと王座に向かう彼。王座の両脇には膝カクカク体クネクネの謎の踊りをした無表情の金髪美女。……一体、これはどういう世界なのだらう……。面白いんだよねー、SABU監督の女の造形ってさ。結構こんな風に一見男の理想像のセクシー女が出てくることは多いんだけど、先述のパンクな歌姫にしたって、この奇妙なクネクネブロンドにしたって、何か、どっかがハズれてる。それこそ季衣さんが演じたキャリーなおばは完全にハズれて独走状態。何というか、この女性が一筋縄ではいかないところが、三池監督なんかと違って?結構嬉しかったりする。いくらイカれてる女でもね。イカれてる女、大好きよ。
新井が抜けて、そのあとにバッティングセンターでプロ野球のスカウトマンに引き抜かれて児玉が抜け(ここでは児玉の妄想、というか回想が描かれる。彼は自分の努力を親に無にされたことでキレたらしい)、ついには西と朝倉の二人っきり。あまりにも融通のきかない朝倉に業を煮やして横からハンドルに手を出したら、く、車が止まんない。ずっと制限速度40キロで暴走?していたのが、ようやく本当の暴走映画に?で、行きついた先は、まるで偶然のように(偶然……、なのかなあ)西の奥さんが入院する病院。西が執拗に「カネさえあれば幸せに出来るんだよ!」と言っていたのは、奥さんを助けたい一心だったのだ。ホロリ。
……ねえ、何かね、こうやってそれぞれの事情を見ていくとさ、まあ、アホなミッキーは置いといて(笑)みんないろんなこと抱えてて。そう、ケチなコンビニ強盗が横行する現代で、ホントちょっとのカネのために人も殺しちゃうような世知辛いというか情けない現代で、こんな銀行強盗だったら、って思うのもおかしいかもしれないんだけど、本当のこと見つけたいし、可能性に賭けてみたいし、大好きな人を救いたいし、ってそういう基本的なこと、忘れていたような、あえて忘れようとしていたような基本的なことを突きつけられるっていうかさ、うん、この強盗さんたちに、教えられちゃうのよね。
そして奥さんと共に病院から家に戻った西と別れる朝倉。別れ際、西から連絡先を手渡されるんだけど、朝倉はそれを握りつぶしてしまう……ねえ、もう、会わないの?ちょっと哀しいけど……一夜の友情だから、大切な友情だったってことなのかなあ……などと感慨にふけっていたら、たった一人、朝倉が会ってなかったミッキーから助けの電話が、児玉が残していった携帯に入った。もはやクライマックスは過ぎたような気がしてたんだけど(というか全編クライマックスだったから)実はここからが大、大クライマックス。朝倉ってば、ミッキーの元で、なぜだか自分のご先祖様と対決しちゃう。戦いと死との意味を見いだせなくて、心残りのままこの世を去ってしまったご先祖様が朝倉にとり憑いていたのだ。いやー、ビックリ。新井ってばインチキボーズじゃなかったんじゃん。全身武士道のご先祖様と、バッターのポーズで刀を構える朝倉、この静と動を見事に演じ分ける堤真一、ここは彼の見せ場で本当に独壇場。同じ人物がやっているって判っているのに、ドキドキしちゃう。当たり前だけど表情も全然違ってて、それまで歩んできた人生の違いをたたずまいからクッキリ描き出してるんだもん。やっぱ役者だよなあ。
この二人の堤真一、に象徴されるように、物語の展開から、役者の描写、静かな時は静か過ぎるほど、暴走する時は爆弾のように炸裂する、その緩急のリズムはホント凄いのね。ただただ突っ走るような内外のニューカマーたちとはその辺が一味も二味も違うんだなあ。んで、ラスト。ここで朝倉の手に戻ってきた強奪されたお金を、彼は銀行に返しに行く。ちゃんと経費をさっぴくあたりが朝倉らしい。呆然と彼を見守る銀行員たちの中に、彼の交差点のマドンナもいる。それにしても、よく信じてアッサリ帰してもらえたよねえ?とにもかくにも、このマドンナ、スミレもまた、きっちり時間通りの交差点の彼を気にかけていたらしく、めでたくハッピーエンド。赤い傘がポンと開いてハンドバッグをすっ飛ばしちゃうようなドジなところもあるのが、端正な顔とのギャップで可愛らしい柴咲コウ。大人っぽい顔立ちだから、堤真一ともいいカップルに見えるね。
そろそろ堀部がメインキャラに使われる作品が観たいなあ。いつも必ずチョイでも使ってるんだから、そろそろ、ね、ね、ね、SABU監督!★★★★☆
まあ、それもまた、後半の仲直りで取り返す展開の対比だと思えば、実に好対照で、素直にほろりときたのも事実。だからこれはやっぱり正解なのかな?でもやたらと自分の仕事のプライドについてばかり吠えまくり、相手の行動を全て悪意にとってしまう前半までのヒロインにはかなり、かなーりキツイものがあった。確かに彼女の、そのちょっと異常なまでの我の張り方は確かにそれだけの誇りと、その誇りを守るための痛々しいまでの強がりを感じさせるものがあると、後半に至って思わせるのは上手い作りなのだけど、でも、と思い返すと、この物言いって、それこそウーマン・リヴと言われたその昔から、キャリアウーマンという言葉も過ぎ去って、何とか対等になったかとあがいている現在まで、ぜっんぜん変わんないんだよな、と思うと、女が頑張っても、頑張り続けていても、大して進歩がなかったんじゃないのかなあ?なんて思えてきちゃって。
つまり、家事の分担が、生活をともにする人間同士の対等な役割分担という形で表され、仕事を持っている女性は決して“主婦”などではなく(つまりそう言われるのは侮蔑以外の何ものでもなく)相手が仕事を持っている自分を尊重してくれないのに常に苛立っている、という……。時間があって、やれる方がやる、という理想的な分担など、結局はこうした相手への過剰な期待でいとも簡単に“相手がやるべきだ”に摩り替わり、自分の方が大変で、苦労していると思っているという、人間のイヤーな部分をやたらと見せつけられるような口喧嘩なんだもん。これは女の方が険のある言い方をするので、彼女の方が自分勝手だと見えがちだけど(……まあ、この夫婦の場合、確かにそうだとも言えるけど)、意外とダンナの方もそれがそのまんま当てはまるんだよね。ただ、男性というのはマイナスからプラスの方向に(つまり、相手に非協力的→協力的になってきた)時代とともに進んできたから、男性の方に可哀想度がつい行っちゃうんだけど、ずっと女の権利権利と叫び続けてきた女性も、ちょっと落ち着いて振り返る時が来たんじゃないかな、なんて、こんな居丈高な女を見ると、超フェミニストの私ですら、思ってしまう。というより、そう思わなければ、それこそ女の権利など本当に獲得されては来なかったんじゃないかと、前述の思いをあらたにしてしまいそうになるから。
でも、そういう意味では、瀬戸朝香はかなり上手いと思う。このホノボノ系の登場人物の中では不自然なぐらいのモデル体型だが、その抑揚のつきまくったド迫力の“口撃”ときたら、かなりポイント高い。反面、泣かせの場面では、その逆が良かっただけにフツーの印象だったが、そこはやはり我らが塚本晋也のサポートがイイので、あの抱擁シーン、素直にイイなと思えた。
女流棋士という世界を描く本作。将棋の世界すら私には縁遠いのに、それが女の世界で描かれるとあって、新鮮な興味をそそられる。まだまだ歴史は浅く、それだけに、男性棋士と比べて実力もかなり落ちるので、相当トップクラスでないと、プロといえど食べていくのには苦労するのだという。しかしまあ、女性だから、ダンナがいればとか、実家にいればとか……という、そういう考えはやはり世間にはあるらしく(そういう足かせがあるから、なかなかその制度が伸びていかないというのもあるだろうと思う)、それに対してヒロインの麻美は激しく拒否反応を示す。ダンナに食べさせてもらって趣味で将棋やってるおばさんにだけはなりたくない、と。彼女が、この映画の最後にはやはり一番ホッとする大事な相手だとやっと自覚する、ダンナである一哉との結婚を渋ったのだって、彼がエリートサラリーマンであることがこの部分に触れたのだろう。ダンナの理解があるから、ダンナの支えがあるから将棋をやっていられるだなんて、そんなの絶対にイヤッ!って。
あ……。こうして改めてヒロインのこうした根本の思いを考え直すと、実に共感できるんだよなあ。彼女があれほどまでに吠える理由だって、充分理解できる。でもそれでも、それが発露する口喧嘩シーンにどうも拒否反応を示してしまうのは、……ううッ、そうか。私にもその思いにあまりにもあまりにも思い当たる節があるからこその同属嫌悪かあーッ!ああ、ナサケナイ……。しかも、彼女がそんなにプライド、プライドと言う割にはここんとこ、とことんヨワくて、負け続けで、その強気のプライドが空虚なものに見えてしまうあたりの哀しさも、そう考えてみると……何だかやたらと共感しちゃうよね。
それもあって、Bリーグ優勝を決めちゃうぐらい絶好調に強くて、まだ若くて、恋人をとっかえひっかえしているような奔放な妹の里奈ちゃんに対する嫉妬に近い感情も、すごくよく判るよね。まあ、里奈ちゃんも、その若さ特有の悩みを抱えていて、そしてその悩みの根本は姉である麻美とソックリで、結局彼女たちが仲悪そうに見えるのも、やっぱりこれも同属嫌悪というもので、お互いが好きなものに対してガンコで、譲らなくて、負けず嫌いで、好きな人の前では決して涙を見せない、と本当にソックリなわけで……。麻美のC級落ち、里奈のA級昇格がかかった一番で、二人、その大好きな将棋に最高に本気を出してアツくなっちゃうことで、お互いがソックリだと自覚して……で、これからはもう仲良くなっちゃうんじゃないかな、というのが、ラスト、里奈にからかわれても今までみたいにブンむくれたりせずに穏やかな笑みを見せる麻美にそんな予感を感じさせる。
夫婦である麻美と一哉、そして恋人同士である里奈と弘樹。麻美と里奈はお互いの相手をうらやましがって、ついにはちょっとした誤解まで生じて大喧嘩(この場面で、二人を止めようとして再三突き飛ばされ、ふっとんで画面に見切れる塚本晋也がすっごく、可笑しい!)。でもそれってさ……その喧嘩が激しければ激しいほど、自分の相手をとられちゃうかもしれない、っていう、その相手に対しての大好き度を示しているみたいで、カワイイよね。そうだな……このあたりから、プライドばっかり高くてどうもイヤだった麻美に対する受け入れ態勢が出来てくるんだもんね。仕事だとウソをついて競馬場に行っちゃったりするのも、不毛な口喧嘩をしているのより、ずっとカワイイと思える。
で、その、泣かせの抱擁シーン。インドネシアに転勤になった一哉の出発の日が、姉妹対決の日。自分の優勝はもう決まったからと、見送りに行かせるために早めに決着をつける八百長を提案する里奈に、麻美はキッパリとそれを拒否する。これは、自分のための戦いなのだと。自分に負けるわけにはいかないのだと。実際、この対決の前、家を飛び出して実家に帰り、この同じ趣旨のことを母親に訴える麻美の姿を見たあたりから、彼女に対して素直に応援する気持ちが湧いてきて、姉妹が本気でぶつかり合う対局では、将棋は全く判らないまでも、その張り詰めた空気にドキドキ。麻美が勝ち、誰もいない家に戻っていつものようにソファに疲れた体を投げ出している麻美の耳に、ドアの開く音が聞こえる。一哉が、彼女のことがどうしても気になって出発を一日遅らせたのだ。自分の非を素直に恥じ、一哉に対して心からわびる麻美。初めての夫婦で指す将棋……。で、こんな風に楽しく将棋を指したことなどなかった、と麻美は涙し、いいんだよ、と一哉はそれだけを繰り返し、二人は自然であたたかな抱擁を交わすのだ。これが泣かせのシーン。
んで。このシーンでちゃんと目頭がツーンと熱くなったにもかかわらず、あっさり自分の非(だけ)を認めちゃう麻美に拍子抜けする気分もあったりして……。ま、確かに一哉も自分もふがいなかった、とはいうものの、彼が言う反省の言葉ってそういう、いわばちょっと漠然とした表現だけで、それってただ単に麻美に合わせているだけのような気もしたというか……。こんな風に言うのって、それこそウーマン・リヴ風であまり好きではないんだけど、あれ?結局、そういう我を張る女が謝って終わり……ということは、それってやっぱり否定されちゃうものなの?なんて思ったりして。あー、あー……これ、本当にそれこそウーマン・リヴの一番良くない方向の考え方だよね、とは思うんだけど……。
里奈ちゃんが恋人の弘樹に自分が“かなりの料理人”だというのを隠していたというくだりにも似たようなものを感じるんだ、実は。料理が出来ないと嘘をついてた里奈ちゃんに弘樹は非難するんだけど、確かにそれはおかしいことなんだけど、何だか私は里奈ちゃんの気持ちが判るような気がして……それは、女が男に食事を作ってあげる、というのが恋人の風景として美しい、みたいなものに対する反発というか……。それもまた“ウーマン・リヴ風”ではあるんだけどね。ただ、この場面では弘樹が「僕は大根のかつらむき、出来ないんだよね……」とそのことに対して落ち込んでるみたいな風だったのが、可愛くって、可笑しかったけど。
ああ、何かヘンに堅苦しく考えすぎかなあ。確かに終った時の印象では確実に★★★★☆以上なんだけど……?男と女、そしてそれぞれの考え方って、難しいね、ホント……。
作品的にはどうしても相容れなかった「タイムレス メロディ」の市川実日子嬢は今回はそのフテくされぶりが実に弾けていて、あの瀬戸朝香にしっかり対抗する強烈なフテくされぶりが実に良かった。もともとは、好みのタイプの女の子なんだもん。彼女に完全に圧倒されている、ボーッとした弘樹を演じる村上淳は、これぞ彼の最も愛らしい部分の出るハマりキャラ。主人公夫婦より、こっちのカップルの方が好感度は高い?★★★☆☆