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「な」


2008年鑑賞作品

奈緒子
2007年 120分 日本 カラー
監督:古厩智之 脚本:林民夫 古厩智之 長尾洋平
撮影:猪本雅三 音楽:上田禎
出演:上野樹里 三浦春馬 笑福亭鶴瓶 宮崎親 佐津川愛美 柄本時生 綾野剛 宮川一人


2008/2/26/火 劇場(渋谷アミューズCQN)
8年もの長きに渡って連載されたというコミックスだから、映画では描き切れるはずもなく、これが短縮版なのか、あるいはこの後に二人の葛藤が長く続くのか、未読だから判らない。正直、原作モノでは映画ファンは立場が弱く、毎回言い辛い部分も多々あるんだけれど。

ただ、やっぱり古厩監督だからなあ!いつの間にやら青春映画の名手などと呼ばれるようになった彼、確かにいつでも、時には中学生をも含めたワカモンたちの側にいた。まるで彼らの横で伴走し、彼らと供に傷ついて、笑って、涙を流すように映画を撮ってきた、そんな印象。
コミックス原作を手がけるのは二回目だけど、全部を映画に出来るほどの中篇を手がけた以前と違い、そしてひとつの競技を描くということもあって、大きなチャレンジだったと思う。

その競技、陸上。そして駅伝。その過酷な肉体の限界に若い役者たちを追い込み、スクリーンに焼き付けたことが、原作の長さ云々などというヤボを寄せ付けない、成功になったんじゃないか。
限界まで追い込まれるキツイメニューをこなす合宿生活が中盤、メインとして描かれる。その中で若い役者たちが走りに走りに走り込まされて、本当に身体がギリギリに追い込まれ、そして同時にランナーとしての強靭な身体が出来上がっていくのが手にとるように判る。それは驚くべきことにヒロインも、そうなのだ。

原作はきっと違うんだろうけれど……タイトルロールであるヒロイン、奈緒子は、映画に関しては決してヒロインとしての役目は担っていない。ここでの主役はまず駅伝で、それを走る少年たちで、そのメインとなる雄介ですらない。
それはこの尺だからというんではなく、恐らく監督のプランの上にあったものだろうと思う。でも、だからこそそれをメンタルの部分から大きく揺さぶるヒロインが、彼らと共に、いや彼と共に走るのが大きいのだ。

上野樹里。まあったくこの子ったら一体どんな女の子なんだろう!私は彼女の魅力に気づくのが遅すぎた。「スウィングガールズ」は監督が苦手なタイプということもあり、「亀は意外と速く泳ぐ」も同じ理由でスクリーンに足を運ぶことさえしなかった。「笑う大天使」もそんな風に続いた彼女のイメージの延長線上で作られたような感じがして、観ないまま終わってしまったことが悔やまれる。このあたりでイイカゲン気づいても良かったのに!

なかなかドラマを観ないもんだから、あの「のだめカンタービレ」も今更、BSフジのアンコール放送でハマっている始末。偏見タップリの先入観で、コメディを大げさにやる女優などと思い込んでいたのが……いやまあ、それはある意味当たってはいるんだけど、そこまで思い切った作りこみをやった上で、更に一段高いことが出来る女優だということを、今更ながらのだめにハマリつつ思い知らされるのだ。
「虹の女神」で女優、上野樹里にようやく気づいたということもあるけど、まったく私はなんてボンクラなのだ。こんな女の子を見逃してしまうだなんて!

奈緒子は、彼らと共に走る。いや、というより雄介と共に走る。本当に汗を流して、息を切らせて走る。その樹里嬢が、心が身体全体に行き渡るようなヒロインが、何よりもドラマを盛り上がらせてくれる。
正直、雄介以外に彼女の影響が波及することはなく、陸上部合宿において彼女はどこか浮いている感じも受けるのだけれど、ユウスケ自体がスター選手として浮いているので、それはもちろん、物語設定上としての、確信的な浮きであって、二人は二人でただただ走ることで、その先にある何かを見つけなければいけないのだ。

二人の出会いは、雄介の父親の死から始まった。喘息の治療のために島に来ていた奈緒子が、誤まって船から海に落ちた。それを助けた雄介の父親が、彼女の替わりのように死んでしまった。二人の間に出来た、埋めようのない深い溝。
その時、奈緒子は船の上から走り続ける少年の雄介を見ていたのだ。一目で吸い寄せられたから。まぶしすぎて、ずっと見つめ続けることが出来なかった。それなのに、その直後に待っていた過酷な運命。
それ以来、奈緒子は陸上に没頭するようになった。選手としてではなく、補助や手伝いとしてではあったけど、きっと陸上のそばに、あの少年の影に寄り添いたいと思ったに違いない。

ある競技会で、二人は再会する。雄介は駅伝のスターだった父親の血を受け継いで、陸上短距離界のホープとして嘱望されていた。
奈緒子があの時の女の子だと知ると、雄介は顔をこわばらせながらも「恨んじゃいない」とひと言つぶやいた。
でも、雄介が駅伝に初挑戦した時、ひょんなことから給水の補助を頼まれた奈緒子、その彼女の差し出す水を……彼は充分に取れるタイミングにあったのに、ただ目を大きく見開いて……そのまま行ってしまった。
そして、トップ選手とのデッドヒートに破れて、倒れてしまった。

この時の、奈緒子が、いや樹里ちゃんが水を差し出すスローモーション、風に吹き上がる髪、きらきらと揺れる水の軌道、そして必死な顔で、いやまるで……ちょっと泣きそうな顔で雄介に水を差し出す彼女が、スローモーションというマジックがあるとはいえど、ずっと頭にこびりついて離れないのだ。
ここに、奈緒子の思いの全てがつまっているように感じた。だからそれが拒絶された時……遠く離れていく雄介の後ろ姿を呆然と眺めて立ち尽くし、手にしたペットボトルから水が虚しく零れ落ちる場面が、彼女のそれまでが一気に崩れ落ちた感じがして、本当に痛ましかった。
そしてこの時、上野樹里の本当の凄さを思い知ったのだ。そういえばコメディ演技の時だって、彼女は全身くまなく爆発させていたけれど、全身の毛穴から感情を搾り出す、こんな女優だったのかと、表情の繊細さとかそんなんじゃなくて、細やかささえダイナミックに表現できる、それが大味にならない女優なのかと、今さながらに感じ入るのだ。

まさに、このシーンがキモだった。ここが観客の胸にこびりつかなければ、成立しない。
雄介の監督は、この経緯を知って奈緒子を合宿のマネージャーに迎え入れた。雄介の父親と同じ陸上部員で、彼亡き後雄介の父親代わりを自認し、事故の時には捜索にも加わった。そして、その後の雄介を見守り続けていたから。
幼い奈緒子が必死に海上保安官に答えている痛ましい姿も、よく覚えていた。
「あの時から、二人の時間は止まっている。私はその時間を動かしてやりたいのです」

この監督を演じる鶴瓶師匠の、素晴らしいことときたら!正直、この映画は彼がさらってしまった。
まあ確かに、イイ役ではある。そしてその死によってベタに涙を誘う存在ではあるけれど、それこれを差し引いたって、ほんっとうに、この監督が胸を揺さぶるのだ。
ええー!師匠、こんなイイ演技をする人だなんて知らなかったってば!ああ、でもそういやあ、彼も相米監督に使われるぐらいの人だった訳だしなあ。優しさと親しみやすさ、それを押し隠して鬼のように生徒たちを鍛え上げるこの監督!

監督から直々に手紙をもらって、奈緒子から事情を聞いた両親は、難色を示す。あの時から娘が深く傷ついたままなのを見守り続けていたんだから、そりゃ当然だ。娘が陸上にのめりこんでいくのも、複雑な気持ちで見ていたに違いないし。
「世の中には、どうしようもないことがあるんだよ」ためらいながら、父親がそう娘を諭した。雄介が奈緒子に対して持つわだかまりは消しようがない。そのことで娘がこれ以上傷つくのを親として心配する、当然の反応だった。光石研の情感あふれる父親にヤラれる。
その言葉に奈緒子はこうべを垂れたけれども、それでも彼女は自分の意思で決めて、合宿にやってきた。

もちろん、合宿に参加したからといって、雄介のそばにいるからといって、何が解決する訳でもないし、二人が深い話を出来る訳でもない。二人の問題が、この作品中で解決されてはいないのかもしれない。
でも……師匠演じる監督が「最後の仕事」として二人を引き合わせ、なんとか時間を動かそうとしたその気持ちが、さびついていた二人の時計を動かすことに成功したように、見えた。
特別な夏なのだと、監督は手紙に記していた。その理由を雄介と奈緒子だけが聞いてしまう。倒れた監督を診療所に連れ込んだ時、彼がもう抗がん剤も効かないほどに進んだすい臓がんに侵されていることを。

ドベの吉崎も走れるんだと、監督は信じていた。吉崎本人や仲間たちでさえコイツはもうだめだ、続けさせるのは酷だと言っても、監督は信じていた。そして何よりも、エースである雄介がそれを信じなければダメだと、がむしゃらに彼らを走らせた。先に走って行く雄介の背中をもっと大きくしてみろと。
この吉崎君が、クライマックスの駅伝大会、第一区を任されて途中メゲそうになりながらも、素晴らしい走りを見せる場面では、涙がこぼれずにはいられない。
走りながら心情を口にするのは、ちょっとマンガそのままって気はしたけれど……まあそれぐらいのことは気にしない。
ドベだった吉崎君が親友である雄介にくらいついていくことで、バラバラになりかけたメンバーたちがつながっていく感もあるのよね。

そうなの、雄介はトップ選手なんだけど一年生なもんだから、先輩たちとの軋轢がどうしても出てくるのよね。
いや、合宿に入るまではそれも表面化してはいなかった。確かに先輩たちは雑誌にもとりあげられるほどの存在の雄介を、複雑な思いで眺めていたけれど、雄介自身がムジャキに先輩たちとじゃれあっていたから、それを見ないフリが出来たのだ。
でもそれは勿論、雄介自身が気を使っていることであり、どんなに仲良くじゃれ合っているように見えても、その時点で彼らとの間には溝が出来ている。
奈緒子との間のように判りやすい溝ではない分、むしろそれを取っ払うのはもっと難しかったことのように思う。
監督はそれが判ってたから、あえてその溝を彼らに見せつけて、本当の結束をさせたかったんだろうな、きっと……。

もちろん、雄介と同じになれる訳じゃない。残酷な言い方をすれば、雄介の足を引っ張らないような位置まで引き上げるということだ。
練習の時も、そして本番の時も、ただ雄介に、雄介につなぐんだと彼らが口にするのは、本当は凄く凄く辛いことではある。
先輩たちが「俺たちは雄介のための駒か」と憤る場面があるのも当然。それに対して雄介も、そしてもしその場に監督がいたとしても誰も、それに対して否定が出来ない。残酷なまでの、真実。

駅伝本番になってもある一人の先輩は、お前はムジャキでイイ奴だけど、嫌いだ、とハッキリ口にし、更に、そんな風にねたむ自分自身がもっと嫌いだ、俺は自分が大嫌いだ、と言う。
でもそれに向き合うことが出来た彼は、ここ一番の素晴らしい走りを見せるのだ。
皆ずっと一緒になんて、いられない。仲良くなんていられない。それでも……。
たすきは、確実に雄介につながれる。

治療のために一時合宿を離れていた監督が、練習メニューのゴール地点である海岸に、浮き輪でプカプカ波間に漂って現われる場面がいい。
監督が病気だと知っているのは、最後まで雄介と奈緒子だけ。バーベキューを用意して一日だけ生徒たちを思いっきり遊ばせる監督は、それを崖から見下ろしている。手にはビール。
それに気づいた雄介が顔色を変えて近寄ってくると、監督はカタイこと言うなや、と笑い「キレイな海、大好きなお前たち、それよりも大好きなビール。こんなん揃うの、きっとこれが最後や」と。雄介は何も言うことが出来ない。
「お前、俺のために勝とうとか思ってるんやろ」と監督は雄介を牽制する。だけど雄介は「なんと言おうと、俺は監督のために勝ちます」と言い放つ。「アホやなあ」と笑う監督。

監督はね、レースを見ないんだよね。奈緒子と二人、人気のない道路にぽつんと車を止めて、ラジオを聴いているだけ。そして雄介の出番が近づくと、行ってやってくれ、と言うのだ。四之宮が雄介に何をやってやれるのか判らない。でも雄介とずっと長く走り続けてきたのはお前だから、と。
奈緒子は走り出す。
その頃、雄介はトップ選手とのデッドヒートから一時後退し、フラフラになりながら一人走っていた。
「雄介君!」気づいていないのか、振り返りもしない雄介。やや、いやだいぶ間があったような気がする……もう一度、叫ぶような奈緒子の声が聞こえて、雄介は驚いて振り向く。

合宿中、一度だけこんなことがあった。自分たちについてこれない仲間たちとの溝が出来、一人反対方向に向かって走って行った雄介を、追いかけて行った奈緒子。島に戻るフェリーの汽笛が聞きたくて、走って行く雄介は「お前の走りじゃ間に合わなねえよ」と言いつつ、必死に追いかけてくる奈緒子を気にしていた。そして思いがけず奈緒子が彼を追い抜いた、一瞬のスローモーション。
「ありがとう。私の走りを、信じてくれた」
あの時みたいに。
いや、あの時よりもっともっと必死な顔で、奈緒子は雄介に追いついてきて、必死に伴走して、ずっと一緒に走っていたのかと驚く雄介に、何を言える訳じゃないんだけど、ただ、ただ……「雄介!勝て!」と声を嗄らして、彼の背中に叫ぶだけなんだけれど。
でもこのシーン、樹里ちゃんは勿論、どこか吹っ切れたような春馬君の表情も素晴らしく、心に残るんだよなあ……。

ゴール手前の、マンガチックに過ぎるようなデッドヒートはちょっとどうかなとも思ったけど、でもゴール手前で顔をくしゃくしゃにして、「怖くて見れんかった」と彼らを出迎える監督に「勝った!勝ったよ!」と雄介が抱きつき、抱き締める監督が皆を引き寄せるように手を伸ばし、それに対してこれもまた涙でぐっしゃぐしゃの奈緒子がドーン!と抱きついて、もうその後は皆が団子状態になってひしめきあって泣き笑いするのが、もー、もー、王道なんだけど、すっごい、号泣。
色々、本当に色々、彼らの間で葛藤があったから……。

大会から二ヵ月後、奈緒子のモノローグだけで監督の死が告げられる。そして彼らはまた再び走っていて、奈緒子もその輪の中にいる。
表面上は、何も変わらなかったようにさえ見える。きっとこれからも同じ葛藤が彼らを引き裂くこともあるだろう。
奈緒子と雄介にしてもしかり。
でもそれが青春であり、人生なのだよね。

白い化繊の学生シャツに、短すぎない程度に膝上で揺れる紺サージのプリーツ、紺のハイソ。
驚くほど手足が長く、少女マンガみたいに大きな目をした樹里嬢の、この泣けるほどのスタンダードな女子高生スタイル。ああ、私が好きなのはこーゆー感じなのよね!
そう考えると、樹里ちゃんは非常にクラシカルな雰囲気も持っているんだよなあ。★★★★☆


七夜待
2008年 90分 日本 カラー
監督:河瀬直美 脚本:狗飼恭子 河瀬直美
撮影:キャロリーヌ・シャンプティエ 音楽:
出演:長谷川京子 グレゴワール・コラン キャティポット・マンカン ネーッサイ・轟 ヨーヘイ・轟 村上淳

2008/11/11/火 劇場(渋谷シネマライズ)
前作「殯の森」ですっかり心酔したもんで、それまでの苦手意識もどこへやら、かなりウキウキと劇場に足を運んだのだが……うっ、惨敗(この場合の惨敗の意味は、私の意識がついていくことが出来なかったという惨敗ね)。私が苦手だった河瀬監督に戻ってしまった。
戻ってしまった、などというのは不遜かもしれない。彼女自身は別に変わらず、自分の感性を信じて作っているのだろう。信じて、などという言い方も不遜?
でも本当に、彼女の作品には常に感じる、自分の感性への揺るぎない自信は、多分ほんのちょっとした振れの違いで、「殯の森」のようにピタッとこちらに合ってくることもあれば、そこからふいとそれてしまうこともあるのだろうと思う。きっとこの作品がドンピシャだという人もいるのだろうし。

しかしそれにしたって、劇場がガラガラなのには少なからず危機感も感じてしまったけれど、って私が感じてもどうしようもないけど(爆)。
まあそりゃあ、新妻の第一声を聞ける舞台挨拶の時には当然超満員だっただろうに、公開から数日たっただけでこの閑古鳥は、なんとなく、私のように思った人が多かった……ようにも思う。
このヒロインには、共感出来ないんだよね。共感出来そうな造形だけど、出来ない。それは、ある意味本作よりも普遍的という点では少し遠くにおかれている「殯の森」のヒロインが、心にビンビン響いてきたことを考えると、ついつい比較もしたくなる。

現代の女性事情について考えれば、「殯の森」のヒロインよりも本作の、恋愛を含めた人生に疲れてフラリとタイにやってきた女性、の方が、気持ちが判る、という人は多いのかもしれない。んでもって、そういう点で私がちっと理解を示せないことが不毛なだけかもしれない(爆)。
でも彼女が、いわば勝手に他の国に癒しを求めることによって(これは別に海外ではなくても、国内の地方とか、でも成立するかもしれない)、それが“都会人の贅沢な悩み”としての要素の方が目立ってしまうのを目の当たりにすると、彼女の心痛を思いやるよりも、あーあ……という気分の方が大きくなってしまうのだ。
女の私がそうなんだから、恐らく男性観客はもっと痛烈に、勝手にやってろとか思うんじゃないだろうかという危惧もある……別に、男性観客におもねるのもヤだけどさ、でもいまだに“女性映画”みたいなくくりってあるじゃない。あれって実は差別だと思ってるから。

それでもハセキョーこと長谷川京子に関しては、実は、ちょっと面白いなと思ったんだよね。
え?なんでも彼女は竹内結子や松嶋菜々子、篠原涼子らの同年代女優たちに完全に抜かれてしまって焦ってるって?
相変わらずマスコミはくだらないことを書き立てるけど、たとえそれが真実だとしても、良きにつけ悪きにつけ完成されてしまった彼女たちよりも、ハセキョー嬢は化けそうな面白さがあると思う。
なんたって河瀬直美なんていう、国際的に認められた個性派作家の映画にヒロインとして出られるなんて、それこそスター女優だって得ることの出来ないチャンスである。

彼女はね、「愛の流刑地」で、ちょっとオッと思ったんだよね。モデルとかドラマとかいう世界にはとんと疎い私だから、彼女の存在も殆んど知らなかったんだけど、ハセキョーには、それこそ竹内、松嶋、篠原氏らには感じない、肉の、生々しさがあった。
しかもそれを、自分で持て余しているような生々しさ。それこそが、真のエロだと思った。お顔はあんなに整っているのに、そのギャップが意外で、その存在を知らなかっただけに、へえーっと思ったものだ。
しかしそれ以降、映画ばかり見ている私の目の前に、彼女は現われてくれず、そうしたら、今回河瀬作品のヒロインに抜擢されたもんだから、驚きつつも、期待も大きかったんである。

でも、ハセキョーのその、肉を持て余している感じの生々しさは、充分に出ていたと思う。
殆んど私服を持ち込んで挑んだという本作で、彼女は生々しいタンクトップやキャミから白い肌を無防備に露出し、汗のかいた身体に漆黒のサラ髪が張り付いたりして、エロなシーンなどないのにやたらエロティックなんである。
彼女が監督から暴露されてノーブラだったことを認めたりしたもんだから、ついついそんな俗な興味でスクリーンを凝視したりしちゃうけど(そうなような、そうじゃないような……)確かに彼女はここに女優としての自分を賭けた、そう思った。

しかしその無防備さはいきなり、お約束に喝破される。ホテルへ向かうタクシーに乗り込んだハセキョー演じる彩子が、その一枚きりのタンクトップの下の汗をぬぐう様は、明らかに危険である。
彩子はタクシー運転手のバックミラーに映る視線に気づき、サングラスをかけた。でもその様こそが、豊かな国から来たキレイな女の傲慢さを既に示していたよね(後に、地元の女性から叩きつけられる台詞)。
突然、森の中にタクシーが止められて、襲われる!と思った彩子は必死に逃げる。ハラハラしながらも、あんな無防備さを見せたら、そりゃそうだ、襲ってくれと言っているようなもんだよな、などと思う。
しかしそれは彩子の方の誤解で、このタクシー運転手はそんなつもりはなく、この癒される場所へと彼女を連れてきてくれた、なんていうんだから、既に前半のこの展開だけで、少々ついていけないものを感じてしまう。

ていうか、なぜこのタクシー運転手=マーヴィンが彩子をここに連れてきたのかがまず判らないし(彼女の言った「ナラコートホテル」というのが通じなかったのか?)、ここがどういう場所かもイマイチ判然としない。まるで心キズついた人々が集うために作られた場所のような、非現実的な匂いがする。

怯えて逃げてきた彩子をまず助けたのは、フランス人男性のグレッグ。後に彼はゲイであることを告げるけれど、当然フランス語など判らない彩子にはその事実は最後まで判らず、「大切な人からもらったもの?ラブリー?」などと、会話は噛み合わないばかりなんである。
その他も、マーヴィンと、母子とおばあちゃん、当然、彩子はタイ語も判らないから、最後まで彼らと会話はかみ合わないまま。
それがクライマックスに通じるんだけど、それを「会話が通じなくても心が通じる」などというベタな価値観に昇華させようとしているのならば、それが成功しているとは……正直思えなくて。
いや、河瀬監督ほどの人が、そんなベタなテーマを据えているとも思えず、彼女は多分、もっと心の、世界の、大きな部分を描いているのだろうとは感じるのだけれど。

でもね、そんな風に会話が噛み合わない場面が続くことは、そんなに苦じゃなかったんだよね。むしろ、なんだかそれが心地良かったし、美しかった。グレッグからの告白をカン違いして受け取るシーンだって、なんだかそれが逆に、救いになるような気がしたのだ。
結局言葉が通じることが、心が通じることになることではない。彼らにとってお互いがそばにいることことだけが、大事なのだもの。

まだ幼いトイは、日本語は勿論、フランス語も英語だって判る訳はない、恐らく彩子と最も近いところにいる存在。
この子が真っ先に彩子になついて、目覚めた時にはいつもしがみつくように一緒に寝ているのが、言葉には出さないけれど、言葉では表現しきれないこの子の思いを感じてしまうのだ。
そういう意味では、言葉が通じないことに一番苦労するのは彩子だけど、言葉が通じないという正味の意味と価値を、最も判っていたのはこの子だったように思う。

父親はまだ見ぬ日本人。ひょっとしたらこの母親は娼婦だったのかもしれない。豊かさが残酷な身勝手を生み出す、日本人の罪がここにひっそりと息づいている。
母親、アマリはその相手が忘れられず、決して悪し様に言うことはない。カタコトの日本語さえ喋り、我が子を日本に行かせて、父親に会わせたいとも思う。
それでもやはり“豊かな日本”に対する不満は、あるきっかけを得ると、噴出してしまうのだ。
アマリが今までそれを言わなかったのは、愛した男を否定することになるから。でもそうやって、きっと今までずっとずっと自分を押さえ込んでいた。それがある事件で爆発するんである。

それは、トイが突然姿を消してしまったこと。生活苦からだろうか、出家してくれれば食いっぱぐれはないと、幼い子供を説得し続けていたアマリは、しかしそんなことなど忘れたかのように、誰かが我が子を隠したのだと激昂し、誰かれなしにヒステリックに当たり散らす。
それこそ彩子には、豊かな国から来た贅沢モンぞと、ここぞとばかりに八つ当たりするのだ。
このシーンは、このシーンだけは、恐らく、“演技合戦”というものが判りやすく示されてて、なんだか舞台の大仰な芝居を見ているような感覚に陥る。
それまでが、まるでドキュドラマのように、カメラもドキュタッチに確信犯的にブレたりして、彼らの噛み合わなささえ優しく(というか……淡々と)見つめ続けていただけに、突然現われた大芝居に無粋さを感じて、なんだか冷めてしまうのだ。
言葉ゆえの無粋さを感じるなんて、そんなの、哀しすぎるんだけど。

それまではね、タイアップであろうタイ式マッサージが執拗に出てくることさえ(アマリはプロのマッサージ師らしいのだ)、まあこれが、癒されるってことなのかもネ、と思い、彩子がそのことで恋人の優しい愛撫を思い出すのも、後から思えば相当ベタな気がするんだけど、結構すんなり納得出来ちゃっていたのだ。
でもここでホント、一気に、冷めちゃった気がしたなあ……。
あ、でも、彩子が恋人との過去を回想するのは、トイを探し回って疲れ果てて居眠っちゃった場面だったっけ?ということは、私はかなり早い時点で、もうついていけなくなってるってことよね……。

なんていうかね、言葉が通じないことは、最後まで美しいままで貫いてほしかった気がする、というのは、それこそ勝手な希望だけど。
通じないことでぶつかり合うことよりも、通じないことを判った上で、それでも何か、深いところで通じているんだと思えた前半のうちは、まだ心がゆだねられた。
恐らく、幼いトイにこそ心を預けられたのは、そういう理由だと思う。
結局彼は、アマリの希望通り出家する。眉までキレイにカミソリでそり落とした姿は痛々しく、今まではなんか女の子のようにさえ見えていたのに、と思う。
この、トイの剃髪になっての出家シーンは冒頭でまず示され、まるで彩子の夢のように途中にも何度か提示される。のは、もうこれが逃げようのない現実だってことなんだろうか……。

そして同時に、マーヴィンもまた、剃髪して出家する。
彼の物語もそれなりに描かれる。反抗する娘が娼婦に身を落としたこと、彼氏を自分のタクシーの中に連れ込んでエッチしていたこと。でもそれは、あまりにサラリと描かれるので、なんかワイドショーの一場面をチラ見したような気分になってしまう。
戦争での経験も語られ、足を引きずっている彼は恐らく傷痍軍人なのだろけれど、それもやはり言葉が通じないために彩子には少しも伝わっていない。
……このシーンに関しては、言葉が通じないのはキツかったと思う。多分、ここでのスレ違いが、ニコニコ聞いて「なんとなく」も判っていない日本人が、アマリの心をささくれさせたような気がしてしまう。けれど……その関連性を感じさせるには、構成が弱すぎる気がして。

トイを出家させて送り出し、街の踊りに参加する彩子、そしてゆるやかに河をゆく船からのカメラ……それは確かに、現代に疲れた女性にとっての癒しの映画、なのかもしれない。タイ、マッサージ、なんて、ベタなぐらいに今の流行りだし。
でもだからこそ、なんか諸刃の剣というか、危険な気がした。その危険さは確かに冒頭で示されてはいるけど、最終的に昇華されてはいない、そんな気がしてならなかった。

関係ないけどさ、あれだけ人生に疲れ果ててるって雰囲気の七日間の旅でさ、ノースリであんなキレイにワキ剃られてるとさー(苦笑)。★★☆☆☆


泪壺
2007年 110分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:佐藤有記
撮影:鍋島淳裕 音楽:清水真理
出演:小島可奈子 いしだ壱成 佐藤藍子 菅田俊 西村みずほ 染谷将太 高山紗希 柄本佑 蒼井そら 佐々木ユメカ 七世一樹 三浦誠己 及川以造

2008/3/17/月 劇場(新宿K’s cinema)
ここのところ立て続けの渡辺淳一原作モノは、なんか最近はすっかりシネパトス御用達になっている感。それだけに、この泪壺というタイトルがてっきりエロなことを意味しているのだとばかり思っていた。
ごめんなさい。全然違った。凄く哀しく、センシティブな意味を含んでた。亡くなった妻の骨をすりつぶして焼き上げた真っ白な壺。ひと筋赤いしずくのように見える傷痕を、残された夫は彼女の泪だと思った。
でもそれよりも冒頭、タイトルクレジットで、一度割ってしまったボーンチャイナの壺を継ぎ合わせた、その継ぎ目から、満たした水がしたたる様が示される。それはきっと、今生きているヒロインの涙だろうと思った。

正直、このヒロインが別の女優さんであれば、なんかもっと違ったような気はしなくもなかったのだが……。てなことを同じ瀬々監督の「刺青 堕ちた女郎蜘蛛」でも思っていたような。
うーん、なんとなく厳しかったかなあ。渡辺作品ということで身体を張る、というイメージはあるものの、本作はエロ場面はさほどでもなく、思ったよりも内面演技を要求される内容だったから。
少女の時代からを描いているから、その頃のピュアさを時間経過として、体の内面に感じさせつつ演じなければいけない。しかも、彼女は厳格な父親の世話をしている関係上か恋人が出来る機会もなく、20代もかなり過ぎてからの初体験、という場面も出てくる。うーむ、この熟れきった身体でそれをやりますか、しかもやっぱりちょっとキビしいかな……という感は残るし。

しかもしかも、このヒロインは泣くシーンが多い。泪が込み上げると、その涙を悟られまいと、突然走り出す。泣きながら。そして立ち止まって泣きじゃくる、というシーンが、少女時代から切れ目なく現われているのだが……そしてそれは、思い続けた彼への思いが成就した時、「もうガマンしないで泣いていいんだよ」と抱きしめられてようやく昇華するのだが……なんか、どーも全編聖子泣きのように思えてならないんだもんなあ。

とはいえ、一般映画に移ってからはどうにも首を傾げざるを得なかった瀬々作品だったんだけど(と言いつつ、評判の良かったらしい「ユダ」とか観てないんだから言う資格ないか……)、ようやく彼の演出が隅々まで行き渡っているのを、感じることが出来る作品に出会えたのは嬉しい。
向井さんが宇宙飛行士に選ばれ、ハレー彗星が近づいた1986年、皆がテレビの中の宇宙空間に釘づけになった年……というヒロイン、朋代のモノローグで始まるこの物語は、本筋こそ大人になった彼女の実らぬ恋の苦悩の数年間を描いているものの、彼らが最初に出会った、中学生という感性ときめく年代が、きらめく魅力で映し出されている。
そしてこの少年少女時代は、原作にはない映画でのオリジナル。まさに瀬々監督と脚本家さんの面目躍如なのだ!

ハレー彗星を観測に都会からやってきた男の子が、この星降る郊外の姉妹二人と出会う。姉妹の家は父子家庭で、厳格な父が医院を開いていた。彼はそこに腹を下して駆け込むんである。
実はなぜ彼が腹を下したかという理由が最後の最後、ラストシーンにて示される。本作は、少年少女時代や、このメガネ君と呼ばれる雄介が妹の愁子と付き合いだした頃、そして二人が結婚した頃、そして愁子が死んだ前後、という時間軸をモザイク状に行き来し、観始めのあたりは少々混乱する部分もあるんだけど、それが効いてラストシーンは実にステキなのね。

いきなりそのラストを書いちゃうのもアレだけど、えーい、書いちゃう!男の子三人でハレー彗星観測にやってきた彼ら、ロケット花火を打ち上げて、その残骸を拾いに藪を抜けて沼にやってきたメガネ君、沼の中に入って拾い上げようとすると、そこに水音が聞こえる。
慌てて水中に身を隠す彼。そこにはボートの両端から白い足を投げ出し、頭をくっつけあって横たわる二人の美少女が、笑いさざめいていた。目を閉じて、ただ漂うその女の子二人に、彼は釘づけになっていた。その時に、その沼の水を飲んでしまったことが、下痢の原因だったのだ。
大人になってからのシーンでそんなことは知らない朋代が、私たちと会った時のことを覚えている?と聞いた時、雄介は、「忘れる訳ない。女の子の前で下痢だもん」と言ったけれども、本当に忘れられない理由は別にあったのだ。
きっとあの時、彼は二人の女の子に同時に恋をしていた。その後、再会した時には、まず妹を愛するようになったとはいえ。

大人のシーンとモザイク状に、少しずつ示されるこの少年少女の場面は、そのどれもが驚くべき奇跡的なきらめきに満ちている。
あの時雄介は、どちらかといえば朋代の方に恋していたのかもしれない。ピアノのレコードが流れる部屋で目を閉じていた朋代と彼の邂逅、彼女が「触ってみる?」と手渡した艶やかなボーンチャイナ、触れ合った二人の手。
粉々に割れてしまった壺を見つかって怒られた朋代が、泣くのをこらえて飛び出したのをまず追いかけたのも雄介だった。
廃校舎で泣いている彼女を見つけた。まるでキツネの嫁入りのように不思議に明るい中降り続ける雨、不規則に聞こえてくるピアノの単音。
遅れて追いかけてきた愁子は、「オバケじゃない?」と一度は逃げ出したのに、「やっぱり見に行ってみよう!」ときびすを返して走り出す。目に染みる柔らかな緑が雨に濡れて、その中を三人の男の子と女の子が躍動感たっぷりに走っていくシーンは、どんな宝石よりも美しく思える。

そして、ピアノの音のナゾは、雨漏りがグランドピアノを叩く不思議な調べだった。ピアノ線の中にこっそり隠されていた手紙は、このピアノを弾いたかつての女子中学生のものだった。
私はもうピアノを弾くことはないでしょう。だから次にこのピアノを弾く誰か、私の替わりにピアノの先生になってください。それが私の夢でした、と。
このシーンも大分あとの方になってから示されるし、朋代が中学校の音楽教師からピアノバーの演奏者など、紆余曲折あってピアノの先生に落ち着いた理由がここで判るのだ。その間、ヤケになってかつての教え子とセックスする場面まで出てきて……柄本佑よ!

朋代はずっと、雄介のことが好きだった。そう明言するのは彼からの思いも手にした時だけど、それは観客にもハッキリと判った。
観客に判るのだから、父親にだって判っていた。愁子が死んで葬式を出した後、父親は朋代に、妙な考えは起こすなよ、と言う。どういう意味、と噛み付く彼女に、ヘンな妄想はするなと言っているんだ、と父親は厳しく言う。
そして朋代はまた走り出す。 まあでも、この父親は確かにヒドいんだよね。大体、こんな言い様自体がヒドイし、それに朋代をずっとこの地に、自分のそばに縛り続けた。朋代が父親のことを……愁子に続いて亡くしてからも、決して好きではなかっただろうことは、もの凄く感じるのね。

一方で妹の愁子の方はといえば、恐らく早いうちから家を出て、自分の好きなようにやっていたと思われる。それも徐々に判ってくること。
最初彼女は、瀕死の状態で登場する。夫である雄介に身体を拭かれながら、「このまま、女の部分を全部切り取ったら、私、性別は何になるのかな」なんて言って。何と言うことも出来ない夫の手にすがって泣いていた姿はあまりに痛々しく、弱々しかった。
でも徐々に、父子家庭の長女として実家に父親に縛られ続けた姉と違い、妹の愁子は自由に生きてきたことが見えてくるのだ。

冒頭、朋代は仕事先から帰ってきて、家でボンヤリしている父親のために食事を急いで作り、慌ただしく妹の見舞いのために長距離バスに乗った。こんな事態を判っているのかいないのか、金魚を入れる鉢がどうとかいうような、どうでもいいことをのんびり聞いてくる父親との関係は見るからに悪そうだった。
そして、愁子は死んだ。夫に、自分の骨で壺を作ってあなたのそばに置いてくれと言い残して。
夫は、その願いを聞き入れた。あまりの悲しみに狂いそうになりながらも、取材で知り合った陶芸家に頼み込んで、自ら薪も割って、窯に付きっ切りになって焼いてもらった。
そのくびれた、美しい女性のようなフォルムの繊細な壺に、赤いしずくのような傷がついていたのだ。

残りの遺骨を墓に納めた後、父親からああ言われて朋代は走り出した。走って走って、つんのめって田んぼの中に倒れこんだ。そこに通りかかったのが、かねてから彼女に思いを寄せていた同僚教師だった。
彼は本当に朋代のことを良く見ていた。自分は汚いと言う朋代に、でも、先生のピアノはきれいですよ、と言った。朝礼に遅れて音楽室でピアノを弾いていたことも知っている、そしてなぜだか判らないけれど、突然走り出すことも、と。
そして好きです、と思いつめたように言って、ふいに彼女を後ろから抱きしめた。

思えば、朋代が急に走り出す理由を、この同僚教師は知らなかったけれど、雄介は知っていたのだ。知っていたのに、彼らが心を通わせるようになるには、まだまだ時間がかかる。障害がありすぎて。
借りたスウェットの上下、ファスナーを下ろした中からするりと現われるたわわな肉体にドキリとする。そうして朋代は初体験をした。
彼からの「いずれは教師を辞めて農業をやりたいと思っている。農業に興味はありませんか」というプロポーズにも似た言葉ももらったのに、ただ初めての男というだけで、終わった。

それ以降、雄介とは何度か会うんだけど、その時にはいつも彼の仕事仲間の麻子がついていて、朋代の心を波立たせる。この麻子を演じているのが佐々木ユメカ。キャリアウーマンバリバリで、いつもカメラを手にしている役柄は、秀作「痙攣」を思い出させる。ピンクの大ベテランとも言うべき彼女が、いわゆる一般男優を相手に濡れ場を演じるのが、なんとはなしにドキドキとしたりして。
麻子は非常に積極的で、「人の男を盗るのって最高」と言って、雄介に襲いかかる。でも彼は彼女の手管では勃たない。「ダメなんだ、ゴメン……」という雄介に麻子は憤然として「もう二度と来ないから」と出て行ってしまう。

この時雄介は、一体どちらを思い浮かべていたのか。
朋代から、「愁子のことは忘れてしまったの?」と言われた直後だったから……やはり愁子? それとも最後の最愛の人で、恐らく愁子よりも先に好きになった人、恐らく初恋の人であった朋代?
この時、麻子から挑発されてイラだち、ついに爆発した朋代から、「なんであの人なの?」とつめよられた雄介は、彼女の気持ちを思い知った。でもその時にはただ驚くばかりで、朋代の気持ちには応えられなかった。
それから数年がたつ……。

一度はコンタクトにしてシャレた都会青年になっていたけれど、この時にはまたもとのメガネ君に戻っている。ある日彼は、町のピアノ教室で朋代の姿を見かける。
その時は、ただガラスから覗き見ることしか出来なかった。妻の骨から作った壺に「今日、朋ちゃんを見かけたよ」と報告するぐらいしか出来なかった。
そしてそれから雄介は、朋代を見つめ続けた。クリスマスになって、「朋ちゃんに会ってみようと思う」と彼は妻の壺に言い、ようやく朋代の前に現われる。
たまらない思いで、二人は見つめあった。
しばらくは、プラトニックな関係だった。朋代は雄介に、頭の中に浮かんできた曲をプレゼントした。三人が出会った時のことを思い出したのだと。
雄介もまた、その時のことを思い出していた。一度は途絶えていた小説執筆を、彼は再び始める。
あ、いしだ氏、左利きだ……。左利きの役者さんって多いなあ。

朋代の演奏を聞きながら、雄介が書き進める。そんなコラボレーションを続けて、小説が完成した時、バスの時間があるからと辞しようとする彼女を彼は引きとめた。そばにいてほしい、と。
ようやく、二人の時間が氷解する。
本当に、夢のような、幸せな、甘やかな、思いが通じるセックス。
でも朋代は雄介の部屋に愁子の骨で作った壺を見つけ、あの赤い涙が自分を責めていると感じて取り乱す。
そんな朋代を後ろから抱き締める雄介。

翌朝、朋代は雄介の寝ている間に姿を消した。今は誰もいない実家に向かっていた。留守電には心配した雄介のメッセージが何件も入っていた。呆然と座り込む朋代。その彼女に幻想のようにあの頃の自分たちが見えてくる。
割れた壺を継ぎ合わせている自分、叱責する父親、飛び出す自分。
あの時の自分と重ね合わせるように、朋代は自転車に乗って飛び出した。
朋代の元に車で急ぎ向かう雄介は途中、自転車に乗った中学生時代の朋代を幻のように見る。
ハッとした彼が車を降りて改めて土手の下を見ると、緑に足をとられそうになりながら、今の朋代が自転車を走らせている。
急いで駆け下りていく雄介。
「早く会いたかったの」という朋代は彼の腕の中で身じろぎをし、ちょっと走ってくる、と言う。
そんな彼女を雄介は抱き締め直し、もう泣くのを我慢することはないんだよ、と言った。

でも、もう幸せ一杯でいいでしょうという感じなのに、なんでこんな幕切れなの。
寝入る雄介を助手席に、朋代が幸せそうにハンドルを握っている。
彼が隣にいるだけで、今までとは違って見える東京の夜景。
しかしその前から迫ってくるヘッドライト。
あまりにスローなので、まだ気づかないのかよ!と少々イラッときてしまう。
そして、朋代は死んでしまった。
衝撃で、彼女はフロントガラスから飛び出し、宇宙空間に飛び出た。
スペースシャトルの窓から、雄介が気づいて、笑って手を振ってくれた。
そんな具合に、まるで絵本みたいに、クレヨン画ののどかな絵が挿入されるのがまた深くてさ……。

雄介は、今度こそおかしくなっちゃって、朋ちゃん、朋ちゃんとつぶやき、足を引きずりながら、あの妻の壺をもって、往来を歩いていく。
途中、麻子に行き会って声をかけられるけど、呆然とした彼は応対できる訳もない。
誰かにぶつかって、壺を落として粉々に割ってしまう。
絶望的な表情になった彼の視線の先に、朋代がピアノを教えていた無愛想な女の子が、床に紙の鍵盤を広げて弾いていた。
顔をくしゃくしゃにして号泣する雄介。

そして、あの、中学生の彼らに戻っていくのだもの。
彼が、ボートの中の二人の美少女に釘づけになった場面に。

凝った構成と、少年少女たちのセンシティヴが素晴らしいだけに、小島可奈子の演技の弱さと、逆にちょっと独特感のありすぎるあるいしだ氏というのが惜しい気もしたのだが……。
それに、小島氏のピアノシーンも厳しいんだもん。吹き替えでもっと上手く見せられた気がするんだけど、指使いがぎこちなさ過ぎて……。あれじゃバーの演奏者はおろか、ピアノの先生にだってなれないと思う……。

沢田知可子のテーマソングは凄くとってつけた感じで、興をそがれるのも残念だった。あー、でも良かったの、ホントに。★★★★☆


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